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いまさらながら「天皇論」を読んでみた
55
:
キラーカーン
:2010/09/23(木) 01:43:33
2 後継者が成長するまでの中継ぎ(斉明天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇:第二期中継ぎ期)
斉明天皇の場合には、後継者は中大兄皇子(後の天智天皇)で確定はしていたが、何らかの事情で中大兄皇子が即位できなかったため、皇極天皇が再度即位したもの。(天智天皇は、斉明天皇崩御後も即位せずに、数年間、皇太子のままで皇権を行使していました。これを「称制」といいます。日本史上では、公式に「称制」とされているのは、この例と、天武天皇崩御後、持統天皇即位までの間の2例だけです。)
持統天皇の場合は、まず、天武天皇崩御後、草壁皇子に皇位を継承させるため、「称制」という形で皇権を行使していましたが(皇極→孝徳という前例があるとは言え、生前譲位のハードルが高かったのか)、「称制」の間に草壁皇子が薨去したため、草壁皇子の息子である文武天皇に皇位を引き継ぐため、その間皇位を預かるために自ら即位したものです。そして、文武天皇の成長を見届けてから(それでも当時としては極めて若年での即位といわれている)、文武天皇に譲位したものです
元明天皇と元正天皇の場合には、持統天皇の場合と同様、文武天皇の子である聖武天皇に行為を引き継ぐため、聖武天皇が成長するまでの間皇位を預かるために即位したものです。この場合は、元明天皇と元正天皇と二代もの「中継ぎ」女帝を必要としました。
孝謙天皇(称徳天皇)の場合
孝謙天皇は、これまでただ1人の女性皇太子です。このことについても、当時、聖武天皇の皇后である光明皇后が男子を出産する可能性を残していることから、その男子が成人し、即位するまでの「中継ぎ」としての地位を確定するために立太子したとの説もあります。この説によれば、孝謙天皇の立太子→即位も持統天皇から元正天皇までの「後継者が成長するまでの中継ぎ」の系譜に属します。
ただし、その後継者が「将来生まれてくる男子」というこの世に存在していない人物であったということが異なる点です。そして、歴史の事実としては、聖武天皇と光明皇后との間には皇太子となるべき皇子は存在しませんでした。つまり、壬申の乱以後の「正統(嫡流)」とされた草壁系の男系による皇位継承が途切れるという事態に直面することとなります(「中継ぎ」が「中継ぎ」でなくなった)。そのことによって、俄然脚光を浴びるのが、孝謙天皇以外の聖武天皇の皇女(孝謙天皇の異母妹)とその婿そしてその男子だったのです。(詳しくは後述することになると思います。
そして、それが、前述のように「天平の三姉妹」の悲劇の始まりだったのです。そして、そのおよそ1200〜1300年前の三姉妹の歩んだ「悲劇の」人生を現代によみがえらせて愛子内親王の物語にさせるというのが小林氏の所論でもあるわけです)
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