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刑事弁護の危機と医療の危機

1キラーカーン:2008/08/26(火) 23:12:25
コメントの流れをぶった切ります。

 犯罪であれ、医療の現場であれ、最愛の人を失った悲しみは遺族にとって変わりません。
 そして、その遺族の悲しみは何らかの手段によって癒される必要があります。そのための第一歩が「事実を知る」と言うことであるということも一定のコンセンサスが得られていると思います。ここでいう「事実を知る」とは、

ある時点時点における事実という「点」を理解(納得)できる形で「線(歴史)」として叙述した「物語」

であると私は認識しています。その意味において、この問題は「歴史認識問題」と共通する部分があると私は思います。


ということで、今回も、光市の事件と大野病院との比較が「枕」です。実は

・光市の(差戻審)被告人弁護団と本村氏
・大野病院事件の医者と亡くなった患者の父親

は法律上「同じ」関係にあります。(厳密に言えば、被告人と弁護人との違いはありますが、裁判の当事者としては同一視できます)。また、本村氏となくなった患者の父親は刑事裁判上「犯罪被害者」という同じ存在であるのです。
 蛇足的にいえば、大野病院の事件においては、無罪判決が出たため、結果的に「犯罪被害者」ではなくなりました。また、「推定無罪」の原則との関係から、『刑事裁判において「犯罪被害者」は存在しない』との説も存在します

で、双方の裁判とも起訴された罪名については否認していたわけです。しかも、双方とも、弁護人の行為や医師の行為について
・刑事弁護の崩壊(by弁護士:光市の事件)
・医療崩壊(by医師:大野病院事件)
と同様の懸念が同業者である弁護士及び医師の多数からから発せられていました。

 しかし、光市の弁護団は強烈な「バッシング」を受け、大野病院事件の医師はそこまでの「バッシング」は受けていません。
 それはなぜでしょうか。大野病院事件においては、

「被害者(患者)のため」

という立論を崩してはいませんが、光市の事件においては

「弁護人(弁護士)、被告人のため」

の立論に終始し、「被害者の存在を無視」してからです。
 もちろん、「このままでは医療崩壊を招く」という医者側の立論は

「医者の脅迫」

として、批判されることもありますが、その場合でも

「医者のため」

という「被害者不在の立論」であるという「光市の事件に関する多くの弁護士が陥った落とし穴にはまった」からと言うことができます。

 では、なぜ、医者はそのような議論が提起できるのでしょうか。私が考えるに、医療崩壊の問題については、「加害者(医者)」と「被害者(患者)」の双方を包含する『医療』という社会的枠組が存在するのに対して、光市の事件においてはそのような枠組みがないからだということができます。
 医療の場において、医者(「加害者」)と患者(「被害者」)の接触は必須です。その意味において、医者と患者との対話、意思の疎通は円滑な医療の実施のための必要条件であるということができます。

 一方、刑事司法の場において、加害者と被害者が会して、双方の意思の疎通を行う発想そのものが伝統的な刑事司法の場では『存在しません』。そういう発想は「修復的司法」という考え方によって刑事司法に導入されたものであって、現在における日本の刑事司法では存在しないものです。
 と言うことで、本来争うべき場所が機能しないために(刑事裁判で争うべきものでないものが)刑事裁判の場に持ち込まれたと言うのが、光市の事件と大野病院事件という2つの事件に接して感じたことです。

 と言うことで、、「ミスはある一定の確率で絶対に起きる世界」なので、そのことについて「過失犯」に問うことはやめて欲しいという医者側の問題提起は理解できます。
 しかし、その一方で、最愛の人を失った遺族(あるいは一命を取り留めた患者)の蒙った精神的損害は何らかの形で埋め合わせなければなりません。そのためには、何らかの形で『医者の側の無過失責任』を表象する『お詫び』を医者側(医療提供側)から患者側に対して、示す必要があるのではと思っています。
 それと併せて、起きた事実を患者側が納得できる形(専門的ではなく、一般的な論理構成と用語使用)で医療側が提示する必要があると思います。そして、それが患者側にとっての「事実を知る」と言うことになると思います。
 
 これは、医療問題に対するエントリなので、光市の事件に関しての「加害者と被害者との対話(和解)」についての方策は割愛しますが、弁護士の方々には、光市の事件に関する弁護団に対する「バッシング」に対して

被害者という視点を組み入れない(被害者を無視した)形での

「刑事弁護の崩壊」という立論をしても、一般国民の理解を得られないとだろうと言うことを申し添えておきます

2キラーカーン:2008/08/27(水) 23:52:21
>別のところでやってくれませんか、というのが率直な感想です。
>そもそも刑事裁判は埋め合わせのためにあるのではない、
>というのが私の高校レベルの理解です。

 確かにそれまでは、このことを前提として刑事司法とりわけ刑事裁判の制度設計がなされていました。したがって、このままの刑事裁判の制度設計では、医療、犯罪を問わず被害者について適切な対応ができないという結論が導かれます。
 ここまでは異存がないと思われます。

と言うことで、大野病院事件に代表される「医療事件」については「刑事事件ではなく医療の場でやってくれ(やるべき)」という議論の流れだと私は理解しています。

しかしながら、いわゆる犯罪被害者についてはその「別のところがない」というのが現状です。これまでは、(地縁・血縁)共同体が担うべきところでありますが、現在の日本においてそのような共同体は絶滅の危機に瀕しています。つまり

「別の場」が存在しないのを知りながら「別の場でやってくれ」

と言うことは、建設的な議論にならず、不毛ではないか。挑発的にいえば、

役所で「たらいまわし」にされたうえ、すべての部署で「うちの管轄ではありません」と言われるようなもの

で、犯罪被害者にとってあまりにも酷なのではないかということです。そのことを本能的に察知したからこその「弁護団バッシング」だと思います。
別の場がないのであれば、
1 別の場を作る
2 既存の場を改修して追加任務として付与する
かどちらかの選択を迫られます。

 この犯罪被害者に関する「別の場」をどのように制度設計するかという視点を欠いて、現状の刑事裁判の現状維持に議論を局限している時点で、多くの弁護士が唱えている「刑事弁護崩壊」の議論は「被害者不在」となってしまうということです(現在の刑事司法の制度に依拠する限り、被害者不在の議論になるのは当然なので、その枠を超えた議論が求められているともいえます)。
 そして、「修復的司法」という考え方はその「別の場」の制度設計に対する一つの答えでもあるのです。
(修復的司法は原住民社会の(共同体)の機能を刑事司法、特に和解と矯正に活用しようと言うのが出発点の一つでもあります。そして、そのような共同体が日本では「絶滅危惧種」になっているため、「被害者の刑事手続への参加」が叫ばれる用になったと言うことも、ある意味、理の当然なのです)。
(ちなみに別の解法として、文春新書の「この国が忘れた正義」という本があります)

 一方、幸運なことに、医療については、医療という刑事裁判とは「別の場」が存在しているために、患者(被害者)不在の議論を避けることが可能であり、現に避けられていると思っています。

 しかし、その「別の場」が機能しなければ、大野病院事件のように医療、犯罪とを問わず「事実を知りたい」と言う名の下に、(本来刑事裁判の場になじまないのにも関わらず)刑事裁判に持ち込まれてしまったのではないでしょうか。

という問題意識から、医療に関しても「別の場」の確立が急がれていると思います。でなければ、第2第3の大野病院事件が起こる可能性があります。ということで

その1
>裁判外で事実究明がなされ、それに被害者がアクセスできる制度を
>医療過誤、刑事手続にかんして、創設する必要があります。

その2
>本来争うべき場所が機能しないために
>(刑事裁判で争うべきものでないものが)
>刑事裁判の場に持ち込まれた

その3
>「加害者(医者)」と「被害者(患者)」の双方を包含する
>『医療』という社会的枠組が存在するのに対して、
>光市の事件においてはそのような枠組みがない

というコメントをしております。

追伸
motoken01 様
>かなり違うと思いますけどね。
についてそう判断された理由を後学のために教えていただけないでしょうか(できれば、平易な文章で)
レスされるのは義務ではありませんので気の向いたときで結構です。

3キラーカーン:2008/08/28(木) 23:34:38
>直前の私のコメントを読んだ上での投稿ですか?

一応目は通しました。その上での投稿です。当該投稿は

>被害者や遺族への慰藉は、(中略)他の方策を模索した方が効果的だと思います。

という結論を否定したものではありません。あり得る解だと思います。それが先の投稿の
>他の場を作る
と言うことに該当します。

 ただし、そういう解決策を提示せずに、現行の刑事裁判の制度論に終始して、被害者視点を無視した「弁護士視点の物語」だけを正しいものとして主張することが批判されているのだと思います。

 ちなみに、修復的司法の「修復」という意味には、その「慰藉」という意味もこめられています。そして、殺人事件というような「被害を完全に回復する方法がない」事件に対する修復的司法の限界も学問上は問題となっています。

>至極まっとうな対応をすれば
現在にもまして、今後はそうは行かない可能性もあります。

「検察審査会」という制度があります。これは、有権者名簿から無作為に抽出された「一般人」により、不起訴になった事案について不起訴処分が相当か否か判断されると言うものです。検察審査会での決定は検察庁を拘束するものではありませんが、司法制度改革でも検察審査会の決定に拘束力を持たせようとする動きがあります。

 そうなれば、検察がいくら不起訴決定をしても、検察審査会で不起訴相当と言う決定が下れば問答無用に刑事裁判の場に持ち込まれることになります。

これまでの私の投稿は
1 人事を尽くしても避けられない医療事故というものがある
2 そういうものについては、(現在の刑事裁判の制度趣旨から考えて)刑事裁判の場で処理するのは不適当
3 また、そのような刑事裁判の場で被害者感情が慰藉される可能性は少ない
4 医療事故については、刑事事件以外で処理の受け皿になりそうな場がある

という点については、
DoukiHousou さんやnervenarztと殆ど差はないと思います。
しかし、nervenarztは私の投稿に対して明らかに不快感を抱いています。それはなぜでしょうか、私が考えられる理由としては、

同様の結論を「被害者視点の物語」で組み立てていることでしょう。

nervenarztさんがそのハンドルのとおり医者であるのであれば、同じ結論を
「医者視点の物語」
として組み立てるでしょう。

 つまり、視点が異なれば、同じ結論であっても理解を得るハードルは高くなります。「被害者視点の物語」が「被害者以外(例:医者)視点の物語」を組み立てた人には理解されないこともあるでしょうし、その逆も然りでしょう。

 ということで、「医者視点の物語」だけでは医者以外の理解を得られるとは限りません。そうなれば、上述のように検察審査会で「起訴相当」という判断が出されると言うこととなります。

 おそらく、 亡くなられた妊婦の親族は「被害者視点の物語」を構築できなかったのでしょう。そのことをもって「事実を知りたい」という言葉が出たのではないかと推測します。その「物語」が構築できなかった理由として
1 構築する能力がなかった
2 構築するための材料を医者側から提供されなかった
3 頭の中に、すでに「物語」ができていたが、それに合致する材料が得られなかった
の3つが考えられます。

 「物語」を攻勢する材料は患者側より医者側の方が圧倒的に多く持っています。「医者視点の物語」はそれとして、「被害者視点の物語」を構築できるような材料を、医者と患者との無用な対立を惹起しない形で、提供できる「説明能力」が求められていると言うことだと思います。

佐伯啓志氏の著書に、先の大戦で死んだ日本兵士を偲ぶ、生き残った兵士が、その兵隊の死に対して
「何か意味がないと思わなければやってられない」
というないようの述懐をしているという部分がありました。

亡くなった妊婦の親族が求めているのはその「意味(「物語」)」だと思います。種々の理由でその「意味」が見出せなかったのでしょう。

4キラーカーン:2008/09/11(木) 22:52:16
「刑事弁護活動は,本質的に反権力的活動であって,国家権力と対峙すべき弁護士の活動」と,国費によって運営され,法務省の監督を受ける法テラスという組織とは,本質的になじまないのではないかという疑念である。
『日本司法支援センターの健全な発展を期する決議』「関東弁護士連合会決議(2006年(平成18年)9月22日)」の提案理由より
(「」は引用者付加)http://www.kanto-ba.org/decla/h18k2.htmより。

これは、弁護士会即ち弁護士自身の意見表明(正確には、関東弁護士連合会に参加している弁護士会(=弁護士)の見解ですが、関東弁護士連合会も事実上追認しています)であることから、弁護士の行う刑事弁護活動あるいは人権擁護活動において「反権力イデオロギー」が大きな比重を占めていることは間違いないでしょう(この点において顕著な地域差があるとは思えません)。ほかならぬ当事者の発言ですから、弁護士の刑事弁護観については、これを出発点とせざるを得ません。
 もちろん、このような「不都合な真実」から目を背け「イデオロギー」を理由として反論を放棄されることは自由です。
 という訳で、上述のように、弁護士の大部分が正しいとしている

反権力活動であって国家権力と対峙すべき

という「公理」から、刑事裁判は
>検察(法務省=国家権力)vs被告人のガチンコ勝負
>(いわゆる2当事者対立主義)
であるべきという結論が導き出されます。このような考え方からすれば、本年制度化された「被害者参加制度」に代表される「犯罪被害者」の刑事裁判への参加は
>いかなる形であれ、決して認めることは出来ない
ということ(国家権力とのガチンコ勝負において、犯罪被害者は「邪魔者」(あるいは「敵の味方」)以外の何者でもない)になり、これまで(改正前)の「犯罪被害者」の存在が設定されず、刑事裁判においては、犯罪被害者(の感情)などは無視すべきという法体系こそが正しい刑事手続法制であ
るという結論になります。
 だからこそ、犯罪被害者団体である「あすの会」の代表幹事を務める弁護士が
>「(弁護士業界の)裏切り者」(「反射角」『読売新聞(6月6日付西部本社版)』より)
と罵倒されたのも弁護士業界から見れば当然のことなのです。そして、このことは、今般制定された犯罪被害者参加制度に弁護士の圧倒的大多数が反対したということからも裏付けられます。
 したがって、刑事裁判の基本的構造については本来何の問題もなく、「犯罪被害者保護基本法」や「犯罪被害者参加制度」に代表される昨今の犯罪被害者寄りの法律改正は

弁護士として、そして、刑事弁護の観点からは「決して容認出来ない」改悪であり、それに賛同する弁護士は弁護士業界の「裏切り者」

以外の何者でもないという結論になります。このことから、大多数の弁護士にとって、議論すべき「法律(法制度)の問題点」など存在しないという結論になるので、弁護士の方々は法律(法制度)の議論については一貫して拒否していたのです。
 しかし、そのことを表立って表明すれば、一般国民の理解を得られないことは明らかです(というよりも、そのことを感じ取っているからこその一般国民による弁護団批判です)から、
>あなたとは議論しない(あなたの立てたスレでは議論しない)
という理由にならない理由で議論を拒否していたのです。

5キラーカーン:2008/09/11(木) 22:53:06
 別の観点からすれば、法制度の議論に踏み込むことは

1 あるべき法制度からすれば「不適法」である行為を「現行法の不備」を理由として「無罪放免」にすることは弁護士の職業倫理上許されるのか(言い換えれば、法律のプロである弁護士が法律の抜け穴を利用して脱法行為を行うことは推奨される行為とされるのか)

2 現在の法制度に不備があることが明らかであるのであれば、可能な限りその不備を埋めるような解釈・運用をすべきではないか。刑事裁判における被害者への配慮を弁護士側が頑なに拒否する理由は何か。(日弁連は、死刑制度に関しては死刑廃止の前段階として、「死刑の執行停止」という「運用上の死刑廃止」を唱えているので、被害者保護についても同様の立場を採ることは可能)

という論点を惹起することになります。
「法律に反しなければ何をしてもかまわない(=懲戒事由に当たらない)」というのが弁護士法に言う「社会正義の実現」、あるいはこの掲示板で安田弁護士他の擁護派が主張している「法の遵守」と定義すれば(実際に安田弁護士他の擁護派はそのように主張していましたが)安田弁護士他を弁護する論理的な筋は通りますが、そんな論理は現実的妥当性がありません。まさに、脳内法制度、俺様法制度の極致です。
それこそ橋下弁護士が「煽った」
>一般常識と弁護士業界の常識との乖離
を実証しただけになるのです。そして、それこそが、これだけの弁護団批判が巻き起こった大きな理由の一つでもあるのです。
ということで、「法律に反しなければ何をしてもかまわない」、「法律の抜け穴を利用しないほうが悪い」というメッセージを弁護士業界は日本社会に向けて発信してしまったのです(後者については「究極の弁護」と評した橋下弁護士もその責を負ってもらいます)。極論すれば、「道義的責任」や「倫理的責任」というものは制裁を科す理由にはなりえない。「法的責任」のみが制裁を科されるに値する責任である(=完全に違法でなければ懲戒理由にならない)ということを意味し、言い換えれば
>法律は最低の道徳
という法格言を弁護士業界及び安田弁護士他の擁護派は完全に捨て去ったことを意味するのです。
で、このような批判を避けるためにも、安田弁護士他の擁護派は「法制度の議論を拒否」することが「ディベート」の戦術として有利になるので、法制度の議論を一貫して拒否していたという結論になるのです。
 というわけで、余談的に言えばそのような「厳罰化」(道義的、倫理的責任(社会的制裁)の意味が減少・消滅したのであれば、その分を刑罰という法的責任に加算する)の流れが加速しているのです。

6キラーカーン:2008/09/11(木) 22:53:27
 何か、唯一絶対的な法解釈があると思い込んでいる方がいるかもしれませんが、敢えて極論すれば、法解釈においてそのような者は存在しません。法律(学)の教科書を読めば分かることですが、(学)説の対立している条文は枚挙に暇がありません。法律の解釈という者は、解釈を行う人が、「こうあるべき」という理想を条文という「フィルター」を通して見ているものなのです。そして、「こうあるべき」というものは人によって異なります。それを「思想」、「イデオロギー」と表現すれば、法解釈論争を掘り下げれば、詰まるところ、各論者の思想、イデオロギーを問題とせざるを得ないということなのです。
 他ならぬ、すちゅわーです さんも自衛隊が違法ではないという自身の「解釈」を思想・イデオロギー的観点と絡めて語っていました。
例えば、刑事裁判において
1 真実追求
2 被告人の利益(一般的には刑の軽減)
のどちらを弁護人は優先すべきかという解釈問題がありますが、その対立は、多くの場合、各論者が「こうあるべき」ものの優先順位(この場合は「真実追求」と「被告人の利益」のどちらを優先すべきか)という「思想」を巡る対立に還元されるものです。そうでない場合として、「思想」の方向性は一致しているが、用語の解釈の幅で対立する(別の例で言えば「車」に自転車は含まれるのか否など)ことがあげられます。

 したがって、解釈の違いについて「曲解」や「民主主義の敵」という言葉によって非難することは異例中の異例です。そうであれば、法律学の論文は悪口雑言罵詈雑言の応酬に堕してしまいます。そのような悪罵を投げつける人がいるとすれば、狂信的憲法9条至上主義者が論敵に対して投げつけるくらいでしょうか。というわけで、そのような言葉を投げつけられても、その実際の意味は

あなたと私とでは拠って立つ法思想が異なる

ということでしかないのです。副産物として、その法思想に狂信的に帰依しているということは理解できました。それゆえ、「信仰の対象」を汚されたことに耐えられなくなって「曲解、「民主主義の敵」などという言葉を投げつけたのでしょう。挙句の果てに同業者に対して「裏切り者」呼ばわりをして恬として恥じないのです。
 法解釈というものは、論者の物事の優先順位、理想を反映したものであるので、それが変われば当然代わってきます。つまり、社会情勢が変われば法律の条文解釈も変わります。憲法で言えば在日外国人の参政権が有名な例です。かつては国民主権という「当然の法理」から在日外国人の参政権を認めないという説が通説でしたが、最近では地方参政権であれば、立法措置で付与は可能であるという説が通説の地位を占めています。この間、憲法は改正されていません。社会情勢、即ち憲法を支える国民意識の変化に応じて憲法の条文解釈が変わったのです。刑事手続関連諸法も例外ではありません。国民の刑事裁判に関する意識、求めるものが変われば、該当する法律の条文解釈は変更されるでしょう。

その意味で法律は「生もの」であり、時とともに法律解釈は変化していくものなのです。そのことを知らずして「法律の遵守」を唱えてもそれは空中楼閣でしかないのです。

7キラーカーン:2008/09/14(日) 02:32:00
 先の投稿は総花的になりましたので、少し、論点を絞って再構成します。
 なぜ、弁護団擁護派は法制度の問題点に関する議論を拒否した(議論ができない)かということですが、

1 弁護団の行為は犯罪被害者の権利を何ら侵害していない(そもそも懲戒対象になりえない)、
 言い換えれば、被告人と犯罪被害者との間では、擁護される犯罪被害者の権利はない
(被告人と犯罪被害者との関係では、被告人の権利が常に優先する)
 すちゅわーです さんによれば、「犯罪被害者の権利は被告人の権利に対して比較できないほど小さい」
 言い換えれば(被告人の権利の前では、犯罪被害者の権利はないも同然)

ということを前提とすれば、弁護団の行為をきっかけとして、犯罪被害者保護法制を議論する理由がないという結論になります。
言い換えれば、「弁護団の行為が犯罪被害者の権利との関係で問題となることはない」ということになるから、法制度の議論については「理由がない」として拒否することとなります。
 しかし、弁護団の行為をきっかけとして、犯罪被害者保護法制について議論する必要性を認めるということは

2 弁護団の行為については、何らかの形で犯罪被害者の「権利を侵害した」が、その犯罪被害者の権利を保護する明文の規定がない
 (弁護団は「法の抜け穴」を突いた)という認識をしていることとなります。これに対する態度として

2−1 明文の規定がないので懲戒対象にならない
   (法律・規則の条文に反しなければ何をしても許される)
2−2 犯罪被害者保護基本法などの犯罪被害者保護法制に違反している(懲戒相当)
2−3 (法律に違反するか否かではなく)刑事弁護に対する信頼を失墜させた(懲戒相当)

という対応に細分できます。弁護団擁護派はこのうち「2−1」の立場をとらざるを得ないのですが、この立場の場合
2−1−1 以後同様の行為があっても、明文の規定がなければ懲戒対象としない
2−1−2 以後は、不適切な行為として懲戒対象とする
という2つの行為に更に細分できるのですが、「2−2−2」の行為は弁護団擁護派は採ることができません。なぜなら、以後は、同様の行為を懲戒対象とするのであるのであれば、弁護団を擁護する意味がないからです。
 弁護団の行為という「過去」だけではなく、将来における同様な行為も懲戒対象では「ない」という立論をしなければ事実上の敗北です。ということは、「2−1−1」しか採る解はないということです。
この場合、法制度の議論をすれば、「2−1−2」から「2−3」までの議論を惹起することから、法制度の議論に踏み込むことは不利に働きます。
 以上のことから、「2−1(−1)」の立論をすることを避けるのが「ディベート」の戦術上得策ということになります。したがって、弁護団擁護派の採る最適戦略は上記「1」の立論を行うことになります。
 すちゅわーです さんはそのことに最初から気がついてました。だからこそ、

法制度の説明だけではなく、弁護士業界としての被害者保護の取り組みについて語るべきだ。それなくして、一般国民の理解は得られない

という最初の投稿に対して、「ゼロ回答」をしたのです。(すちゅわーです さんとの仲がこじれたのは、その後です)

8キラーカーン:2008/09/14(日) 02:51:23
>国家権力と対峙すべき弁護士の活動

ということで、すちゅわーです さんをはじめ、弁護士(と思われる)を初めとする方々は、刑事弁護、ひいては弁護士の役割について

「国家権力からの独立」

という観点からしか説明できませんでした。刑事裁判を含めた「裁判沙汰」というものが一般国民から縁遠かった時代では、歴史的経緯から、それなりの意味がありましたが、国民に対して「拡大する法律的ニーズ」に対応するためにはそれだけでは不十分です。国家権力との関係だけではなく

一般国民からも信頼されるに足る「団体」

であることを、一般国民に対して説明する必要があります。「司法制度改革」もその一環として理解できます。

刑事裁判は「異常な世界」だから、専門家に任せるべき

という時代ではなくなったのです。これまでよりも刑事裁判は一般国民に身近になります。だからこそ、「より民意に即した」刑事司法というものが求められているのです。この問題を見るかぎり、弁護士業界はそのような意識変革はされていません。
 数年前の『月間刑事司法』のある号の記事で、弁護士会は国家権力との関係だけではなく、一般国民から弁護士「自治」を担うにたる職業集団であるということを一般国民に積極的に説明しなければ、弁護士自治による懲戒は

身内のかばいあい

と見られてしまう。という内容の文章を弁護士が寄せていました。更に、(その記事か別の記事か失念しましたが)弁護士の懲戒請求は「誰でも」できるので、濫訴の弊害が見込まれるが、それは、申し立ての範囲を狭めるのではなく

弁護士会内の処理手続きによって解決すべき

という見解を述べていました(もちろん、今回の騒動は「想定外」でしょうが、それでも、その原則は妥当すると思います)。ということで、今回の弁護団擁護派の方々は、

司法制度改革とは何か
現在の日本社会における国民のための司法とは何か
そのために弁護士業界がなすべきことは何か

という観点が決定的に欠けているとしか思えません。

9キラーカーン:2008/09/14(日) 03:21:29
刑罰権を国家が一元的に保持したことにより、刑罰から応報的側面は消滅した

ということは、よく言われることで、法制史的にはそれが正統的な理解だと思いますが、では、それまでの「刑罰」に含まれていた「応報感情」はどこへ行ったのか。国家が刑罰件を一手に握ったことで、どこかに消滅したのでしょうか。そんなことはありえません。
応報的側面が「なくなった」とされても、一部は「悪をなしたものはそれに応じた罰を受ける」という刑事司法への信頼として、「公益の一部」として刑罰に残存し、残り(=被害者の心理的損害の回復)は、(地縁・血縁)共同体が引き受けました。更に付け加えるなら、加害者の社会復帰支援機能もその「共同体」が負っていました。社会学的にいえば、共同体が有していたこれらの機能を刑事司法に包摂したのが「修復的司法」ということがいえます。
 このことに関する格好の補助線が「異端の一代の硯学」(この意味で、師匠である小室直樹の政党後継者)である宮台真司氏の

『社会的包摂の崩壊が「孤独な勘違い」を生む!!』「アキバ通り魔事件をどう読むか!?」 (洋泉社MOOK) pp.81-86

があります。その文は、私の解釈では、共同体は、さまざまな理由で「心身のバランスを欠いた人」を収容し鋭気を回復させ社会に復帰させる機能を有していた。その機能がなくなったからこそ、加藤は秋葉原での凶行に及ぶまでに心身のバランスを欠くようになった。その機能は国家の手に余る。国家は、その社会的包摂機能を社会が回復するような施策を採らなければならない、という大意です。つまり、社会的包摂(機能)が崩壊しているので
1 社会的包摂(機能)を回復させるべき(宮台)
2 その現実を踏まえ、適切な被害者参加制度を整備し、刑事裁判や刑事司法にその機能をもたせるべき(右大臣)
3 (応報的側面など)ないものはない。何のことだかさっぱり理解できない(弁護団擁護派)
ということになります。

10キラーカーン:2008/09/16(火) 22:30:18
とりあえず、キーワードを掲げておきます
検察は「公益」を以って被告人(弁護人)と対峙し
被害者は「私益」を以って被告人(弁護人)と対峙する
刑事裁判は「公益」のみを対象とし、(「応報感情」を含む)「私益」を切り捨てることが「近代法治国家」の成立条件の1つであった。
20世紀後半から21世紀になって、「私益」と「公益」を峻別を生かしたまま「私益」を(「公益」とは独立した形で)再び刑事手続(刑事裁判の場には限られない)に取り込む必要が生じた。

被害者が検察側にいるという横槍氏の前提が正しいものであれば、今般改正で創設された「犯罪被害者参加制度」は刑事裁判の理想に近づいたものであり、弁護士業界としても反対する理由はないはずである。しかしながら、この制度には大多数の弁護士が反対したというのが事実です。したがって、

被害者が検察の角(側)にいる

という前提条件は背理法により否定されました。
 といいますか、横槍氏はこの掲示板で、すちゅわーです さんをはじめとする安田弁護士擁護派の立論から何を勉強してきたというのでしょうか。すちゅわーです さんも「刑事弁護、刑事裁判について何を説明してきたのか」と嘆いていることでしょう。私は、事実に基づいて理論を組み立てています(最低限の論拠は出典を示しています)が、横槍氏は自身の「思い込み」でのみ理論を組み立てているので、このような奇矯な刑事裁判観になるのです。「個人の説」として主張されることは言論の自由で保障されておりますが・・・。少なくとも、横槍氏よりはすちゅわーです さんの立論を理解しているということは自信を持って断言できます(理論、主張を理解することと、それに同意することは異なります)。おそらくその逆も然りだと思います。

 ということで、刑罰権を国家が独占したことと、刑事裁判との関係の概説です。
 近代国家における刑事司法制度では、「自力救済の禁止」といって、被害者自らが「あだ討ち」をすることは認められておりません。刑罰権を国家が独占したことにより、刑事裁判は検察vs被告人(弁護人)という図式が確定しました。即ち、犯罪行為における「公益」と「私益」を分離し、「公益」のみを刑事裁判の対象とし、「応報感情」に代表される「私益」は刑事裁判の対象外とすることとなりました。

現在の刑事裁判、特に判決(刑の宣告)において応報的側面を否定する見解が法曹側に強い

ことはこれによるのです。そして、犯罪被害者は刑事裁判の枠組からすっぽりと抜け落ちてしまったのです。すちゅわーです さんが声を大にして訴えた、「報復感情に流されない理性的な刑事裁判」ということは、検察と犯罪被害者との峻別、つまり、「公益」と「私益」の峻別によって成立しているのです。横槍氏「検察が犯罪被害者の代弁を行うべき」との立論はそのすちゅわーです さんの立論に賛成すると見せかけて、実はその立論をを破壊するものなのです。
 諸般の事情により、20世紀後半になって、欧米各国はその抜け落ちた犯罪被害者を(「公益」と「使役」との区別を残した上で)刑事裁判に取り込まざるを得なくなりました。刑事裁判における「被害者の発見」といわれる事象は、このことを指すのです。
 しかし、日本の弁護士会は未だに犯罪被害者を「発見できていません」。しかし、裁判所、検察、被告人(弁護人)の法的関係をどのようにするのかについて、大別して、「職権主義」(独仏など、いわゆる大陸法系の国々)と「当事者主義」(英米など、英米法系の国々)の2つに分かれます。これらを図示すれば

職権主義

裁 ⇔ 被告人(弁護人)
判  (被告人と検察が、裁判官に対して、各々が意見陳述し、それを裁判官が主体的に判断する)
官 ⇔ 検察


当事者主義

裁   被告人(弁護人)
判 ⇔ ↓↑(双方が「ディベート」を行い、裁判官は双方の主張の範囲内で判断する)
官   検 察

となります。
 つまり、職権主義では、裁判官は裁判の進行中、疑問に思えば検察、被告人(弁護人)に直接質問して疑問点をただすことができますが、当事者主義ではそれができません。相手方から反論がなければ、その主張は「事実」として扱われるということになります。わかりやすい例で言えば、職権主義は「遠山の金さん」モデルであり、当事者主義は「ディベート」モデルということができます。余談ですが、犯罪被害者を上記の刑事裁判構造に組み込むには、「職権主義」の方が組み込みやすいのではないかということは直感的に理解できるかと思います。

11キラーカーン:2008/09/16(火) 22:33:03
 戦後日本において、刑事裁判手続は原則として英米法系の当事者主義を取ることとなったので、この時点で「刑事弁護は本質的に反権力的活動」という大枠も確定しました。
 しかし、先の投稿に見られるように(歴史的経緯とイデオロギー的理由からか)、本来、手段であるはずの「反権力」という「配役」を「守るべき目的」と逆転させた(「手段」と「目的」の逆転させた)のが現在の弁護士業界の現状といえるでしょう。ここでは、これ以上は述べません。
 この図式では犯罪被害者は「証人」としてしか刑事裁判に関与できません。これが「被害者は証人に過ぎない」という言葉の意味です。
 上述のように、この図式において検察と被告人(弁護人)が対峙する軸は

公益

となることから、当然(応報感情を含む)私益は刑事裁判の対象とはなりません。検察は「公益」をもって、被告人を弾劾しますから、それに対する被告人(弁護人)の反論も当然

「公益」に限定される(はずであり、そうでなければならない)

ということになります。(「公益」という軸で争っている限り)被告人の権利という「私益」を侵害することがありえないし、刑事裁判は応報感情を初めとする犯罪被害者の「私益」を保護する場でもない(すちゅわーです さんが、引用した平成2年の最高裁判決もこの論理の延長線上にあります)。したがって、

被害者の権利を侵害したという安田弁護士をはじめとする弁護人批判はそもそも筋違いであり、彼ら弁護人の行為をきっかけとして犯罪被害者被害者保護法制について議論することも筋違いである

というのが、すちゅわーです さんをはじめとする法曹関係者(と思われる人々)の反論の骨子です(雑誌『世界』2008年9月号(死刑制度特集)における安田弁護士へのインタビュー記事は、「従来の刑事裁判観ではありえない」自身への批判に対する戸惑いが見て取れます。)。それが、「法制度」への議論へ進まなかった理論的理由です。
そして、その反論の骨子からすれば、「検察が被害者の代弁をすべき」という横槍氏の議論は

(「公益」と「私益」の混合という)刑事裁判制度の前近代への「先祖がえり(退行)」以外の何者でもなく、弁護士業界としては受け入れることは出来ない「公益」と「私益」は、あくまでも、峻別されなければならない。したがって、検察が被害者の代弁を行うことは不可能である。

というものになります。
 これが、刑事裁判において犯罪被害者が検察に従属した地位で参加するという「犯罪被害者参加制度」(=検察が犯罪被害者の代弁をすること)に大多数の弁護士は反対した大きな理由の一つでもあります。
 しかし、犯罪被害者という「刑事裁判の当事者」を認めることも、「当事者主義」(厳密に言えば「(検察・被告人)二当事者対立構造」)からも問題があります。その二律背反の中で、「当事者主義」を優先させ、犯罪被害者の「私益」を検察の「公益」に吸収させて(「私益」を「私益」のままで主張させない。「私益」を主張するには「私益」を「公益」に変換させ、犯罪被害者ではなく検察の手により主張させることにより)、その二律背反を解消したのが、今般の犯罪被害者参加制度の理論的説明になるかと思います。

 というのが、刑事裁判を巡る法制(史)的側面です。被告人(弁護人)を弾劾する側は、検察(「公益」)と犯罪被害者(「私益」)に分割できました。そして、前者(公益、検察)のみを刑事裁判の対象に限定しました。しかし、被告人側はそうではなく、「公益」と「私益」が混同したままです。被告人が「私益」(犯罪被害者)に対して反論し、弁護人が「公益」(検察)に対して反論するという役割分担はされていません。「公益」か「私益」かのグレーゾーンの領域に関しては、グレーゾーンであっても、とにかく被告人(弁護人)として主張、反論できるとことには反論するというスタンスで裁判に臨むでしょう。

12キラーカーン:2008/09/16(火) 22:34:57
 したがって、被告人(弁護人)の反論が「私益」である場合もあれば、「公益」と「私益」双方にわたることもありえます。論理的に言えば、上述のように「公益」に対する反論は「公益」の範疇にあるはずなのですが、(グレーゾーンの問題がある限り)物事はそう論理的にいくとは限りません。

 「公益」であれば、検察が(再)反論できますが、「私益」であれば、検察は反論しません(できません)し、被害者はそもそも反論できる地位ではありません。即ち、「私益」に関する被告人(弁護人)の発言は刑事裁判の場で反論されることはないのです。後述の事項とも関連しますが、「公益」であっても検察が反論しないことはありえます。しかし、それは検察の責になります。そして、結果として「私益」について被告人(弁護人)の発言は反論されることない。だからこそ、かつての投稿で、犯罪被害者の権利を侵害したか否かについての判断基準を「反論可能性」があるか否かとすべしと主張したのです。
 犯罪被害者は、反論の機会が与えられないまま、刑事裁判における「私益」の範疇に属する被告人(弁護人)の主張が(反論を受けないことにより)あたかも事実として流通し、被告人自身がそのように信じ手要るという認識を訂正する機会を与えられないのは理不尽である。刑事裁判の場において「私益」の範疇に属する発言がなされたのであれば、同じ刑事裁判の場で反論する機会を与えて欲しいというのが「刑事裁判」における被害者参加制度を要求した大きな理由の一つです。

しかし、今般成立した「犯罪被害者参加制度」でも問題があると私は考えています。犯罪被害者の地位が検察に完全に従属することにより、この制度においても「公益」に変換できない「私益」については、刑事裁判の場で主張できないことになります(そのことは「あすの会」の代表幹事も認めています)。その意味において、犯罪被害者は検察とは独立した利害関係を有する「事件の当事者」(≠裁判の当事者)として参加しなければ(あるいは、別の場で、被告人と対峙できる場が与えられなければ)問題の解決にならないのです。
ともかく「犯罪被害者参加制度」が施行されれば、

被害者の訴えを検察が聞き入れない(被害者が聞きたい事項を裁判で質問してくれない)

という形での「検察批判」が生ずる可能性はあるでしょう。そして、被害者を傷つけるような被告人(弁護人)の発言があって、それに対する反論がなされなかった場合、被告人(弁護人)は事実上免責されます(反論する機会があったのに反論しなかったのは反論する側(この場合は検察)の責任)ので、一概に被告人(弁護人)に不利というわけではないと思います。少なくとも、光市の事件における差戻審における弁護活動は、この被害者参加制度であれば、反論を受けなかった部分について正当化(反論しなかった検察・犯罪被害者のミスであると)されるでしょう。しかし、「公益」に変換することが出来ない「私益」の範疇に属する主張への反論は今般の「犯罪被害者参加制度」によっても許されないという問題点は残ります。

13キラーカーン:2008/09/16(火) 22:35:46
 少なくとも、光市の事件においては、
検察は「永山基準」の見直しを問うために上告しましたし、
裁判所は遺影の持込を許可するなど
現行法令でできる範囲で被害者の権利を守るという姿勢を見せました。
しかし、弁護士業界はそうではありませんでした。

刑事裁判(バーの中)においては犯罪被害者の権利を認めるべきではない

という立場から一歩も出ることはありませんでした。そして、「犯罪被害者参加制度」への反対に見るように被害者は検察の側にいるという横槍氏の説も否定したのです。
ということで、そもそも、独自の利害関係を持つ犯罪被害者は独立の当事者として刑事裁判に参加させるべきであり、当事者主義(二当事者対立構造)に拘るがために、汎愛被害者を無理やり検察の側に組み込むことが誤りなのです。
(犯罪)事件の解決には

1 検察vs被告人(弁護人)
2 犯罪被害者vs被告人(弁護人)

という2つの対立関係を処理しなければならないのです。刑罰権を国家独占した近代国家では「1」のみが刑事裁判の役目とされて、「2」は先の投稿で言う「社会的包摂」へと役割分担されたのです。しかし、社会的包摂の機能は弱まっています。宮台氏はその機能を回復させるべきだと言う見解ですが、その見解に私は懐疑的です(長期的にはあり得るとしても短期的には不可能でしょう)。現代日本において「社会的包摂」の機能が弱まっているという現状認識は私と宮台氏との間で同一であっても、それに対する処方箋は両者で異なるということについて、論理的問題はなんらありません。
 私は「2」の機能は「社会的包摂」機能ではなく、刑事司法に包含させるべきという考えです。第1の選択肢は「2」も刑事裁判の中に包摂するというものですが、「2」を刑事裁判とは「別の場」を設定して処理することもあり得る解でしょう。「修復的司法」は刑事裁判もまとめて「別の場」で処理をしようとすることも含まれています。
個人的には

 犯罪被害者は、検察、被告人(弁護人)とは別の立場(できれば同格の当事者)で裁判に参加し、検察ではなく、直接裁判官の指揮に服する

という制度が良いと思います。犯罪被害者に対する裁判官の指揮の度合いをどの程度にするかという文脈によって「職権主義」的な運用も考慮すべしという私の先の投稿が生きてくるのです。

14キラーカーン:2008/09/16(火) 22:36:10
(追伸)
大阪府教育委員会における「盗聴」騒ぎで、教育委員会は「厳正に処分する」という声明を出しましたが、盗聴した内容を他人に漏らさない限り、盗聴行為そのものは犯罪の対象にはなりません。
盗聴器の「販売・購入・設置」「盗聴波の傍受」だけでは罪に問うことはできません。
1 盗聴器を設置するために家に侵入すると「住居不法侵入」
2 盗聴した内容を第3者に漏らすと「電波法違反」
3 知り得た情報で脅す・ゆすれば「恐喝罪」
4 つきまとえば「ストーカー規制法」等
盗聴に関する法律に違反し、罪になりえますが、この中で、今回の事件において違法行為として罪に問えそうな行為は「3」だけでしょう。
しかし、教育委員会は、「3」に該当してもしなくても「盗聴行為」を以って懲戒処分を行うでしょう(=違法でなくても懲戒行為は可能)。橋下弁護士から「クソ教委」といわれた組織でもそれくらいの自浄能力と分別はあるのです。極論すれば、橋下弁護士が裁判で負けても、懲戒相当か否かという論点は依然として存在します(一般論として、違法でないということは懲戒を受けないための十分条件ではない。違法でなくても「人として許せない」行為であれば懲戒を受ける可能性がある。弁護士会がこの立場に立つとも思えませんが。)。

ということで、「法に反しなければ何をしても良い」という弁護士会の決定は社会常識からかなり逸脱したものを言わざるを得ないでしょう。安田弁護士をはじめとする弁護人を弁護するために、倫理や道徳を捨て去るのは自由ですが、それを「一般常識」だといわんばかりの主張をするのはあまりにも厚顔無恥が過ぎるのではないでしょうか。弁護士業界が「ビジネスチャンスの拡大」のためにそういう主張をするというのであれば、あるいは、最近では「人権派弁護士」という語の一般的意味である

「イデオロギーのために人権を利用する」

という皮肉をこめて使われるようなことであれば、それはそれであり得る主張ですが。現実社会で受け入れられるかどうかは懐疑的です。
(だからこそ、安田弁護士をはじめとする弁護人は死刑廃止というイデオロギーのために裁判(被告人の人権)を利用したという「俗説」が一定の信憑性を持って流布してしまったのです)

15キラーカーン:2008/09/22(月) 23:09:08
「法治行政」、「罪刑法定主義」、「適正手続の保証」、これらは、憲法、行政法、刑事法などのい
わゆる「公法」といわれる分野における原則とされているものです。
最近では「憲法は(主権者の)国家に対する命令」、という言葉も有名になってきましたが、これら
の原則を通じて基層にあるのは

法律による国家権力の規制

というものです。つまり、公法を一生懸命勉強すればするほど、公法に没頭すればするほど

国家と対峙し、国家権力を掣肘しなければならない

という「反権力イデオロギー」の磁場に囚われて脱出できなくなるのです。(民法や商法などの「民
事法」については、私人間の「ゲームのルール」という捉え方も可能なので、民事に没頭している場
合には、「反権力イデオロギー」の磁場に捉えられる確率は低くなります。)
勿論、国家権力が(現在から見れば)様々な人権侵害を行ってきたという歴史的経験・教訓によるも
のも大きいので、法律による国家権力の規制が人権保護という観点にとって必要不可欠なものではあ
るのですが、決してそれだけではありません。「国家権力によって守られる」人権というものも存在
します。例えば警察に代表されるような「法執行機関」というものは国家権力の行使の典型例ですが
、それによって、平穏な生活という「人権」が守られているわけです。もっと(国家権力行使の)レ
ベルが低いもので言えば、建築基準法などの各種規制(とそれに違反した場合の制裁措置)が挙げら
れます。
 つまり、弁護士法においても弁護士の目的として掲げられている人権擁護のためには、

国家権力との対峙ではなく「何を国家は行い、何を行わないのか」を明確にすること。その国家の行
うべきこと(あるいは行うべきでないこと)を適正に担保するために法律を制定・運用する

という観点が必要不可欠になるのです。ということで

国家と対峙し、国家権力を掣肘するという「反権力イデオロギー」の相対化

が求められるということになるのです。
典型的な例で言えば、法学部で法律を学んだ人が(国や地方公共団体の)役所、裁判所という公の機
関に勤めることになるでしょうか。というわけで「純粋培養」された(他の職歴を持たない)弁護士
と法学者(特に公法系分野を専攻した人)はそのような相対化をする機会もなく、公法の研究、解釈
に没頭することとなるのです。その過程で、「反権力イデオロギー」に捉えられてしまう傾向が高く
なるのでしょう。

16キラーカーン:2008/09/22(月) 23:09:27
 例えば、犯罪被害者保護に熱心な弁護士はいわゆる「ヤメ検」(検事を辞めて弁護士に転進した人
。この掲示板の参加者に身近な例で言えば、今枝弁護士がそうです)が多いといわれていますし、「
この国が忘れた正義」(文春新書)の著者である中嶋博行氏も

弁護士と作家と二足のわらじを履く

純粋培養の弁護士では「ない」ひとです。「ヤメ検」の弁護士はかつて検察庁(法務省)という国家
権力の一翼を担っていた人ですから、「反権力イデオロギー」を相対化できるのは当然でしょうし、
また「なぜ被害者より加害者を助けるのか」の著者でもある後藤啓二は国家公務員から弁護士に転身
した人なので、国家権力の側にいたという意味で氏も「ヤメ検」弁護士と同列に扱っても良いでしょ
う。
 というわけで、余談ですが「人権派」弁護士の方々は北朝鮮の拉致被害者や毎日新聞の猥褻記事問
題についても対応が冷淡なのです。なぜなら、拉致被害者の人権を回復するためには、交渉にせよ、
実力行使にせよ、「国家権力の行使」が必要不可欠であるため、その時点で「人権派」弁護士は拉致
被害者への協力が不可能となるのです(人権派の人(弁護士ではありません)が拉致被害者支援を訴
えたところ、仲間から「利敵行為」と批判を受けたのが典型例)。
また、毎日新聞の猥褻記事問題についても、「慰安婦問題」では国に意見書を、「ババァ」発言では
石原都知事に警告書を出した日弁連が、日本人女性は品性下劣で淫乱といわんばかりの記事を全世界
に配信していた(その意味では石原都知事より悪質な)「サヨク仲間」の毎日新聞には、講義する雰
囲気は全くなく、音なしの構えですから、弁護士にとって、被告人の人権も女性の人権も「反権力イ
デオロギー」のための道具ではないかと疑われても仕方がないでしょう。といいますか、光市の事件
の弁護団は、既に

「死刑反対というイデオロギー」にこの裁判を利用した

と疑われた「実績」があります。それも「(人権派)弁護士」という「身から出たさび」でしょう。
 ということで閑話休題。本題に戻します。法律学における多くの(解釈)論争はつまるところ、

論者の価値体系を条文という「レンズ」を通してどのように実現させるか

という「思想論争」(例:憲法第9条論争)に還元されてしまうため、「イデオロギー」が前面に出や
すいこともあり、法学部から一生懸命に法律を勉強して、司法試験を突破した「純粋培養」の弁護士
が上述のような「反権力イデオロギー」の磁場にいともたやすく捉えられるのも仕方がないのかもし
れません。
結局、弁護士も(「反権力イデオロギー」の磁場に捉えられた)「法律の専門家」という自己の立場
に依拠した狭い枠ではなく、もっと広い視野を持たなければだめだということです。それでなくては
、弁護士の言葉は一般国民には届きません(逆も然り)。そして、それに対する一つの回答が「司法
制度改革」だったわけです。

17キラーカーン:2008/09/27(土) 00:39:24
近代国家は個人から復讐や自力救済の権利を奪い、刑事裁判は「公益」のみを対象とし、(「応報感情」を含む)「私益」を切り捨てることで成立した。

これを「公理」としましょうか。そして、本村氏や氏の属する「あすの会」などの訴えによって、この「公理」は本当に正しいのかという疑問が多くの人に共有されるようになりました。(「あすの会」の代表幹事の言によると、厳密に言えば、この「公理」の前半は肯定して後半を否定しています→「国家が個人から権利を奪ったのであれば、(国家はその権利を切り捨てるのではなく)国家が個人に代わってその権利を行使すべき」という大意)
誤解を恐れず単純化すれば、この「疑問」に対して、光市の事件における弁護団の擁護派は

この「公理」は無条件で正しいと信じなければならない
(この「公理」を疑うことは許されない)

とだけしか主張しておらず、「なぜ正しいか」ということについては『まったく触れていない』のです。なぜなら、その答えは後述するように「法律学の枠外」にあるからなのですが、そのことに気づいておらず、法律学の「枠内」でかたが着くと思い込んでいるからです。
現実に、この「公理」に対する疑問について、すちゅわーです さん他が色々説明していましたが、その説明は法律学の枠内にとどまっており、この「公理」が「なぜ正しいか」ということを説明するものではなく、既に、その「公理は」正しいものであるということを前提としていたものでした。
唯一つ、法律学の枠外に該当する理由として該当するとすれば「みんなが決めた憲法に従うべき」という「みんなが決めた」という部分だけです(「憲法に従うべき」というのは法律学の「枠内」の理由であって、「公理」の正統性を説明する理由にはならない)。
したがって、すちゅわーです さんをはじめとする弁護団擁護派のこれまでの議論は「なぜ、その公理が正しいのか」という問いに対する疑問の答えにはなりえないのです。それは、「公理」が正しいということを前提としている橋下弁護士を訴えた裁判も同じです(現在の裁判制度はこの「公理」が正しいという前提があって成立する)。したがって、橋下弁護士が裁判で負けても、そのことは「公理」が正しいか否かという疑問の回答にはなりえないのです。有名な「不完全性定理」を敷衍して言えば

ある公理系(法律学)の中の論理(すちゅわーです さんをはじめとする弁護団擁護派の投稿や橋下弁護士を訴えた裁判)ではその(上述の)公理系(法律学)の「公理」(冒頭に掲げた「公理」)の正しいことは証明できない(byゲーデルor長門有希)

という罠の中に落ち込んでしまったのです。ある有名なマンガのせりふをもじって言えば

私の狂気は(私の神以外の神である)君たちの神が保証してくれるが、君たちの正気は(君たちの神以外の)どの神が保証してくれるのか

ということです。
この「公理」に対する根本的疑問を放置することは「刑事弁護」ひいては「刑事裁判」や近代司法制度に対する破壊行為であるという多くの弁護士の見解は正しい。正確な事実認識といえましょう。しかし、弁護士をはじめとする弁護団擁護派の方々は、

その「公理」が「なぜ正しいか」という問いに対する答えは全く持っていなかった

のです。特に、弁護士の方々は法律学の専門家であるがゆえに、そして、司法試験に合格することの困難さによりそのような問いに対する回答を考える機会を奪われてしまったのです。(検察官や裁判官は行政権や司法権という「国家権力」という「政治」の内部(=法律学の「枠外」)にいることにより、その機会が与えられます)
だからこそ、議論は噛み合わず、すちゅわーです さんも苛立っていたのです。勿論、すちゅわーです さんを含む司法試験の合格者をはじめとした大学の法学部などで法律学をある程度学んだ人が、この「公理」を正しいと信じることが出来ない人の発言を「法律を知らないものの戯言」と切り捨てることは、彼(彼女)らの専門分野である「法律学」という「タコツボ」に限定する範囲で正しい。言い換えれば、この「公理」を正しいと信じることができなければその「タコツボ」に入ることは不可能なのですから。

18キラーカーン:2008/09/27(土) 00:41:29
 というわけで、この「公理」が『なぜ正しい』かということの回答は法律学の中にはありません。その答えは、後述のように政治学、政治思想、社会学といった法律学の「外」から与えられるものです。
この点からも、法律学の「枠内」でしか議論を組み立てられない すちゅわーです さんが

「公理」を正しいと信じることが出来ない人(右大臣)とは議論できない
(誇張すれば「異教徒とは話が出来ない」)

と法制度に関する議論を拒否したということが説明できます。
 確かに、異教徒に対して、○○教の教義の正しさを○○教の教義に則って縷々説明しても、

それは○○教の論理であって、異教徒には関係ない論理である
(したがって、異教徒にとっては「論理的ではない」)

と一蹴されて終わりになります。「公理系」(宗教、イデオロギーなど)が異なれば、論理的であるということが指し占めす具体的内容も異なります。(参考「ミリンダ王の問い」)
 というわけで、現代法律学の基本公理の一つである上記の「公理」がなぜ正しいのかという回答は、上述した不確定性原理のように、法律学の論理で説明することは不可能です。恐らく、「社会契約説」や「万人の万人に対する闘争状態」をどのように処理するかというような政治学、国家学、政治思想あるいは「社会的包摂」の指し示す意味は何かといった「社会学」といった法律学以外の領域に回答を求めるということになるでしょう。
故に、法律学を一生懸命勉強した「法律のプロ」である弁護士が答えられなくても仕方がないといえば仕方がない(といっても、たいていの大学において、政治学の専門科目は法学部にあるのですから、この程度の政治学の素養があっても不思議ではない(政治学の基礎理論あたりは法律学専攻学生にとっても必修科目であるということは十分にありえます)という反論も一般論としては成立する)のですが、今後はそれでは許されなくなります。この「公理」を正しいものとして、今後も護持したいのであれば

なぜ、この「公理」が正しいかという理由を(法律学の論理によらずして)積極的に発信する

必要に迫られたことになります。被害者保護に関する限り、弁護士が一番この荒波にさらされているということは直感的に理解できるかと思います。

19キラーカーン:2008/09/27(土) 00:43:00
 余談になりますが、自衛隊合憲論、違憲論のような法律の解釈論争というものがありますが、法律学の作法、文法に従う限り、どの解釈が正しいかは「法律学の範囲内では『判断できない』」のです。(解が複数存在する方程式において、複数の解のうちどれが一番適切かという「解の優劣」はその方程式自身では判断できません。別の方程式等々「枠外」の基準によって判断されるのと同じです)。
解釈の正しさは、国民の支持、道徳に則っているか、場合によっては「思想」、「イデオロギー」というものも含んだ法律学の「枠外」の基準によってもたらされます。法律学では「社会通念」という言葉が良く使用されます。自衛隊の合憲違憲論争も、結局法律学の枠内の論理ではなく、国際政治の「現実」というような法律学の「枠外」の事情によって事実上の決着がついています。別な例で言えば、死刑判決後「6ヶ月以内」に死刑を執行しなければならないという刑事訴訟法の規定もそうです(6ヶ月規定は事実上空文と化しています)。というわけで、私との議論は法律学の範囲を超えるのは確実であり、「思想」、「イデオロギー」論争の領域に足を踏み込む可能性があるということです。

ちなみに言えば、法律学の枠内にとどまるという前提を置けば、すちゅわーです さんの投稿程度の弁護団「擁護論」は私にも書けます。逆に言えば、「その程度」の擁護論しか書けなかった すちゅわーです さんに(そして、私が、弁護団擁護論者に向かって、なぜ、すちゅわーです さんの投稿の解説をしなければならないのかということについて)ある種の失望感を抱いたのも、また、一つの事実です。

 閑話休題。欧米などの主要先進諸国もその「公理」は果たして正当なのかという疑問という荒波を受け、犯罪被害者の刑事司法手続きへの参加という形でこの「定理」の修正を余儀なくされたのです。更に言えば、「修復的司法」はその「定理」を小手先ではない大修正を目論んだものということもできます。
 日本においては最近までこの「定理」はほぼ原型を保ったままで推移してきました。しかし、社会構造の変化により、この「定理」の正当性を支えてきた条件が崩れてしまったのです。それを私は

「共同体」の崩壊、あるいは、「社会的包摂」の崩壊

と表現してきました。この状況に目を向けないまま、この「定理」の護持を訴えても

浮世離れした空論

となってしまいます。
この点からも「法律学」という「タコツボ」に篭ったままでは、有効な対策が打てないということになります。勿論、周囲の情勢の変化を考慮せず「タコツボ」に篭ったままで理論を組み立てても、「法律学」としては「正しい」のですがそんなものは「空理空論」の典型であって、犯罪被害者問題、そして、懲戒請求という「祭り」という「現実」に対して何ら影響力を持ち得ないものなのです。
この状況を踏まえれば

1 「公理」を護持するために、共同体あるいは社会的包摂の機能を回復させるべく行動を起こす
2 現状を踏まえ、何らかの形で刑事司法手続に犯罪被害者を参加させるという形で「公理」の修正を行う

という二者択一を迫られているということになります。
 この「2」についても、犯罪被害者を(刑事)裁判に参加させることについては問題がないということで事実上決着がついています。このことについては、以前述べたかと思うのですが、たってのご希望なので書きます。
なぜなら、犯罪被害者は「損害」を取り戻すためあるいは償ってもらうために民事訴訟を提起する必要があり、現実にそうなっています。刑事裁判に犯罪被害者を参加させるのは犯罪被害者のためにはならないという立論は

反対のための反対

でしか過ぎません。民事裁判では加害者と「ガチンコ勝負」をして問題ないが、刑事裁判においても犯罪被害者が参加するのは問題というのは詭弁以外の何者でもありません。もし、犯罪被害者を裁判で「加害者」と直接対峙させるのが犯罪被害者のためにならないのであれば、犯罪に伴う損害も刑事裁判における判決に完全吸収させ、犯罪被害者を完全に「蚊帳の外」に置いた「損害賠償命令」制度まで行き着かなければ論理的整合性が取れません。しかし、その前段階でもある刑事裁判で民事上の損害賠償もできるという「付帯私訴」に弁護士業界が反対しているということから見ても、詭弁以外の何者でもないということが明らかだと思います。
勿論、民事訴訟の提起、あるいは、刑事裁判への参加に躊躇している犯罪被害者を強制的に裁判に放り込むということは可能な限り避けなければなりませんが、参加したいという人に対して、あるいは、本人は参加したくないが、代理人を参加させたいという場合には門戸を開放する必要はあります。

20キラーカーン:2008/09/27(土) 00:43:31

 ということで、「当事者(必ずしも裁判の当事者を指すものではない)」の意向は最大限に尊重されるべきというのは一般論として正しい。それは医療の分野においても同じです。いわゆる「インフォームド・コンセプト」もそのような側面があります。すなわち、

医者が十分な情報を提供して患者の同意を得る

ということであり、これは、患者の(自由)意思によって治療法を選択したという形式を整える側面があるからです(といっても、現実的に選択氏が限られており、治療法の選択ではなく、治療法の説明に過ぎないという場合も多々あるでしょう)。ということで、個人の心情、信条により、輸血を拒否するとか臓器移植を拒否するとかという一次的決定権は原則として(一般論)として患者側が持つべきという議論は一定の妥当性があります。法律学的に言えば

 日本では宗教的信条に基づく行為自体(それがいわゆる「新興宗教」に類するものであれば特に)が何がしかの「いかがわしさ」を持つとみなされているがために、「輸血拒否」問題について患者側に理解を示す人は少なかったと思われますが、治療方法について患者の意思をどこまで優先させるかという本来の問題意識に戻れば違う風景が見えます。
 まず、臓器移植の例です。河野洋平衆議院議長に息子の河野太郎衆議院議員が生体肝移植をしたことがありましたが、河野洋平氏は当初移植に難色を示していたようです。その難色を示していた河野洋平氏に対して厳しい論調はありませんでしたし、私の周囲にも、多数派ではありませんが、無視出来ない程度の割合で「臓器移植までして生き延びたくない」という人はいます。
 もう少し射程を広げれば、積極的な治療を行わず死を迎えたい人に対する治療や安楽死の是非も含めることができます。ここまでくれば、患者の論理を優先させえるか医者の論理を優先させるかは賛否がかなり入り混じるでしょう。死に至らない病気であれば、ステロイド剤の使用を巡る医者側とアトピー性皮膚炎の患者との根深い対立があります。
というわけで、個人の意思と医者としての意思とが食い違った場合、どちらの意思を優先すべきかは単純に答えが出ません。個人的にはできるだけ個人(患者)医師は優先させるべきだと思いますが、それによって「遺族」によって殺人罪で起訴される等々のリスクを医者側が負うのは不当だと思いますので、そのリスクをどのように軽減するかという問題になるかと思います(その目的にも「インフォームド・コンセプト」を流用することは可能です)。

21キラーカーン:2008/09/27(土) 00:44:14
 話を刑事裁判に戻します。
「刑事弁護は本質的に反権力的活動」であるとの命題は間違いです。正確には

真実の発見・確定と被告人の利益(≒被告人の刑の軽減)の両立

が(少なくとも日本における)刑事弁護の本質です(参考:刑事訴訟法)。どのようにしてこの両者を両立するのかという問題はとりあえず脇においておきます。
それでも、強引に「反権力」ということを前面に出すとして、「刑事弁護」の性質を言うなら

「検察対被告人」という二当事者対立構造の刑事裁判の刑事弁護活動において「のみ」弁護人に反権力的活動という役割が与えられる

ということになるでしょうか。同じ当事者主義であっても、検察、被告人、犯罪被害者の三当事者対立構造であれば、刑事弁護活動の本質が「反権力」ということにはなりません(被告人vs犯罪被害者は「反権力」という構図になりえない)。更に言えば、刑事裁判のもうひとつの型である職権主義では、基本的に(理論上)、被告人vs犯罪被害者は「反権力」という構図になりえません。
 つまり、刑事弁護という領域内であっても、二当事者対立構造というごく限られた領域でしか成立しない(それでも、別の立論は可能。参考:「反権力モデルから口頭試問モデルへ」という過去の私の投稿)

刑事弁護は本質的に反権力的活動

というドグマを刑事弁護全体に拡大させ、あまつさえ「在野法曹」という名目で弁護士活動全般に拡大させる(法テラスへの協力問題)という所業はまさに

手段(「反権力的」であること)と目的(被告人の弁護)の転倒(逆転)

としか表現できないものです。言い換えれば「反権力イデオロギー」の自己目的化です。
 エッジ氏が、法テラスに弁護士が参加出来ない理由を色々述べていましたが、それは瑣末なものです。根本的な問題は「反権力イデオロギー」と法テラスへの協力が両立するのかということです。関東弁護士連合会の決議では、わざわざ

管内弁護士会においては,法テラスの理念そのものに対する疑念(中略)という2つの問 題点を解決する必要があった。
 第1の点については,法テラスが法務省の管轄下にある司法サービスの提供組織である限り,国民の立場に立った真の基本的人権の守り手たる組織とはなり得えないのではないかとの危惧が持たれたことである。
 例えば,刑事弁護活動は,本質的に反権力的活動であって,国家権力と対峙すべき弁護士の活動と,国費によって運営され,法務省の監督を受ける法テラスという組織とは,本質的になじまないのではないかという疑念である。

という「根本的な」疑問が関東弁護士連合会傘下の単位弁護士会から出されたこと。そして、それに対する関東弁護士連合会としての回答を決議の「提案理由」としていの一番に明記し、エッジ氏の主張する「理由」について、第二の問題点として包括的にしか触れられていません。理論的に考えても、第一の問題点が解決しない限り、第二の問題点の議論を行う実益はないのは明らかであるのですから。

 そして、反権力的な活動は、二当事者対立主義における現行法の「刑事弁護」に限られるのですから、裁判所外において反権力的で「ない」活動を行うことは何ら問題がないはずです。かつて、私の投稿に対して「国策弁護」云々という反論をしてきた人がいましたが、その人の反論は結局

(究極の場合において)被告人の弁護よりも「反権力イデオロギー」を優先させる

ということを意味するのです。というか、という反論必然的に惹起してしまうのです。(という私の反論に対して予想される再反論は想定できますが、その再反論に対する対案は一応用意してありました)

22キラーカーン:2008/10/03(金) 23:59:43
これまでの議論を眺めて思うことは、一般民衆が刑事裁判に期待している機能・目的と実際の刑事裁判の機能・目的の「ずれ」が看過できないところまで大きくなっている(といいますか、社会による「ずれ」の肩代わりが不可能になりつつあるという実態が明らかになった)というのが問題の本質でしょう。(一般民衆の期待と実際の刑事裁判の機能・目的のどちらを基準とすべきかということについては、問題の立て方によって変わります。社会構造・機能の観点から言えば前者、法律学の観点で言えば後者)

 したがって、そもそも「刑事裁判、刑事弁護とはこういうものである」という説明を行うことは、問題解決のための必要条件であっても、十分条件ではありません。現状における刑事裁判の機能・目的を説明することは、一般国民に上述の「ずれ」を正確に認識させるにとどまり、問題解決の処方箋にはなりえません。問題の解決を目指すのであれば、刑事裁判とは何かを一般民衆に説明し、その「ずれ」を一般民衆に正確に認識させた上で、その「ずれ」を「どのようにして埋めるのか」という方策を示さなければならないからです。

 ここにおいて、懲戒請求を受けた弁護士擁護論と被害者保護について弁護士が何らかの見解を語らなければならない(=「ずれ」を「どのようにして埋めるのか」)ということは、この一件に関して、密接不可分のものとなったのです。後述のように、「弁護士が答えなければならないいわれはない」や「この件については、どう足掻いても、法律と人情の差を埋めることは不可能」という抗弁も可能でしょうが、この点から逃げている限り、「現状逃避」という批判は弁護士に向けられることになるでしょうし、何かのきっかけで、第2、第3の「懲戒請求祭り」が生起するでしょう。その場合は、弁護士個人ではなく、弁護士全体に対する不満のうねりとなるかもしれません。現状では、そうなっても弁護士の自業自得としか言い様がないと思います

 弁護士は、刑事裁判とは何かを説明すれば「ずれ」は埋まると思っているのかもしれませんが(法律学の枠内であればそのとおりですが)、一般民衆はそうではありません(人は法律学のみで生きるにあらず)。現実を「正しく」認識することによって、真の問題点(=被害者保護機能の欠落)を把握し、それを(意識的にせよ無意識的にせよ)解決すべき問題点として把握してしまったのです。
 この「ずれ」を埋めることができなければ(あるいは「真の問題点」の解決ができなければ)、一般民衆の刑事裁判に対する信頼は地に墜ち、「刑事弁護の崩壊」どころではなく、「刑事裁判の崩壊」あるいは「刑事司法の崩壊」というところまで行き着く可能性があります。
 何が、「ずれ」(解決すべき「真の問題点」)かといえば

・ 一般民衆は刑事裁判は「事実の解明」がまず最初の目的としてあり、
 それは犯罪被害者のためでもあると思っている。
(それによって、刑罰が課され、犯罪被害者にも何が起こったか理解できる)
・ 専門家は刑事裁判では「犯罪被害者は存在しない」としている
(刑事裁判は刑罰を課すにたる事実があるか否かを判断するだけで、
 犯罪被害者のことは全く考えていない。「犯罪被害者は証人に過ぎない」)

という見解の差異を可能な限り失くした上で、それに応じた刑事司法、就中、被害者保護の体制をどう構築するのかということに尽きると思います(刑事裁判も現代日本社会も犯罪被害者保護機能が欠落しており、その受け皿がなく、その受け皿の構築が焦眉の急であること)。

23キラーカーン:2008/10/04(土) 00:00:23
 幸運なことに、これまで、その意識の「ずれ」は表面化しませんでした。それは、端的に言えば、一般民衆が刑事裁判に期待している機能・目的を刑事裁判がきちんと果たしているという一般民衆の「誤解」であり、そのずれは、社会(地域共同体)が埋めていた(刑事裁判が果たしていたと「誤解」されていた機能を社会(地域共同体)が肩代わりしていた)のが現実だったため、その「誤解」が表面化しなかっただけのことだったのです。しかし、光市の事件を契機としてこの「ずれ」をめぐる「真の姿」(刑事裁判は被害者保護には何の役にも立たないということ)が明らかになりつつあります。

 しかし、現在の日本社会(地域共同体)はその「ずれを埋める」だけの機能・能力の大部分を失い、依然として、その機能・能力を失いつつある傾向にあります。そのことは、犯罪被害者保護機能を果たす受け皿が存在せず、犯罪被害者の怒り、悲しみ、苦しみなどが「行き場を失くしている」ということを意味し、また、その状況を一般市民が理解してしまったことを意味します。その「行き場のない感情」(とそれを支援する一般民衆の理解・同情)が結果として、弁護士バッシングという形で噴出したのです。

確かに、そういうものを処理していたのは「刑事裁判」であると一般民衆は思い込んでいたのですから、そういうものの「行き場を失くした」のは刑事裁判の(機能不全の)せいだという結論(「誤解」)になるのはある意味当然の成り行きです。刑事裁判の現実の機能・目的を正確に認識できれば、その「誤解」は解消しますが、犯罪被害者保護機能を果たす受け皿を作らなければならないという問題点がはっきりと映し出され、それが、解決すべき真の問題だという認識に到達するわけです。そして、その問題点を解決せずに放置しておくという選択肢は事実上存在しないため、何らかの解決が迫られているというのが現状です。

 わき道にそれますが、例えば「津山三十人殺し」(映画「八つ墓村」のモデルとなった事件)の舞台に代表されるような「ムラ社会」(地域共同体)というのはかつての日本にはかなりありました。そのような「ムラ社会」で起きた事件においては、犯罪被害者保護という機能(特に「事実は何か」を解明する機能)は刑事裁判には求められません。そんなものは、生き残った人、特に村の顔役に聞けば、事件の全容のみならず犯人の生い立ち等々、必要とするすべての情報は入手できますし、事件発生後もその「ムラ社会」で生きていく以上、ムラ社会には(精神的ケアや相互扶助、更には、帰ってきた「加害者」に対する生活上の不利益のような一種の「復讐代行機能」も含めた)「被害者保護機能」や「ムラ社会」に再び受け入れるための「矯正機能」が当然あったはずです(それを、現代刑事司法に応用したのが「修復的司法」といえるでしょう)。このような「ムラ社会」が機能しているところでは、刑事裁判は、発生した事実に対応する刑罰を下すという役割で十分でした。

 しかし、現代社会ではそのようなわけには行きません。秋葉原の通り魔殺人事件のように、(加害者の情報を含めた)事件に関する事実を知ろうとすれば、刑事裁判が第1の選択肢にならざるを得ないという現状がここにあります。そのような中で、犯罪被害者を刑事裁判(バーの中)から排除するという旧来の刑事裁判の機能・目的で現代社会に対応できるのか、社会の変化に応じて、その機能・目的を修正し、何らかの形で被害者を刑事裁判、ひいては刑事司法の中に何らかの形で取り込まなければならないのではないのかという問題提起については、法曹三者(特に弁護士)が真剣に考えるときではないでしょうか。そして、「プロ」として解決案を提示して欲しいと一般民衆は弁護士に期待しているのではないでしょうか。

24キラーカーン:2008/10/04(土) 00:00:55
ということで、「真の問題点」を解決するための処方箋は

1 刑事裁判の機能・目的を修正して、「欠落機能を埋める」
2 刑事裁判の機能・目的はそのままにして、「社会・共同体の機能」を回復させて
「欠落機能を埋める」
3 刑事裁判の機能・目的はそのままにして、(修復的司法のように)刑事司法に
「欠落機能を埋める」別の場を設ける
という3つがとりあえず考えられます。

しかしながら、(総体)としての「弁護士」の態度は(現実問題として許されない)
・ 刑事裁判の機能・目的はそのままにして「ずれを放置する」(犯罪被害者を捨て置く)
というものに見えてしまっている(後述のように「犯罪被害者参加制度への反対」方針を明らかにしたこともそれを後押ししている)というのが、弁護士バッシングが現在まで継続している理由です。この「ずれを放置する」(ように見えている)ことが、被害者保護に対して冷淡であるという意味になるのは容易に理解できるでしょう。(「ずれ」=被害者保護機能の欠落)

 勿論、刑事裁判において、犯罪被害者のために何ができるかということを求めるのは「ないものでだり」である。(被害者保護も含めた総体的な)「犯罪事件」の解決(≠刑事裁判)において弁護士は加害者(被告人)の権利保護「だけ」に専念しなければならない。犯罪被害者のために働くことは弁護士の任務ではない。それは、国家の仕事である。社会の構造が変わったとしても、それは社会の問題であって刑事裁判の機能・目的を換える理由にはならない。社会の「つけを」刑事裁判にまわされては迷惑千万という立場(つまり、上述の「2」もしくは「3」の立場)は、理論的にはありえます。逆に一般民衆は無意識的に上述の「1」の立場を取っていると考えられます。

 そして、現実は上述の「1」の方向で刑事訴訟法や少年法の改正という方策になりました。この状況の中で、検察は「政府機関の一員」としてこの改正は容認しますし、裁判所も表立っては異議を唱えない。このことにより、法曹三者の中で、裁判官と検察官は曲がりなりにも法律の改正案という形で「解答」を出した、しかし、弁護士だけが反対を唱えて、更に、そもそも解答するいわれ・義務はないとして「解答(対案)の提出自体を拒否」しているという状況になりました。そのことにより、弁護士は

・反対を唱えるなら対案を出せ
(上記「2」の立場であれば、社会の機能を回復される方策、
「3」の立場であれば「別の場」とは何かを示さなければならない)

という圧力を受けることになります。しかし、弁護士は有効な対案を示せ得ない。何ら有効な対案を示せ得ず、頑迷に「反対」の立場を取るという、どこかの野党と同じになってしまったのです。このような状況の中で、弁護士に対して理解を示せといっても、一般民衆は聞く耳を持たなくなっているということではないでしょうか。

25キラーカーン:2008/10/04(土) 00:01:30
 これまで、多くの弁護士の方々が無条件に『正しい』ものとして縷々説明した「刑事裁判の機能・目的」が現在及び予想される将来において「無条件」に正しいという保証は法律学の中にはありません。その答えは、哲学、法哲学、政治学、政治思想、社会学あるいは、この社会のおかれている「現実」といった法律学の「外」から与えられるものです。それなのに、法律学の理論の説明で片がつくという間違った認識に弁護士の方々が囚われているとしか思えません。その意味で、弁護士はゲーデルの不確定性定理の罠に雁字搦めに捕らえられてしまったのです。別エントリのコメント欄では
 
>、このあたりは刑法の目的役割に関する法的信念、世界観の問題になってくるので、
>議論がどうしても空中戦になってしまい、歩み寄りは困難な気がします。

というところから、過失犯をどうするかという議論まで発展していますが、この一件についても、法律学の枠内で収まるような問題ではなく、その「空中戦」が避けられない情勢であり、弁護士の方々も空中戦に踏み込むべき時期にきたと思います。橋下弁護士は踏み込み方を間違えて(あるいはそこまでの自覚がなく軽々に踏み込んで)自爆したといったところでしょうか。
 主舞台が裁判という典型的な「法律の世界」ということから、「見かけ上正しいように思える」法律学の枠内という土俵に一般民衆は引きずり込まれましたが、その土俵が、議論すべき土俵の設定として正しいか否かについて、一般民衆は本能的に「否」という回答(もしくは何らかの違和感)を表明しているのだと思います。

26キラーカーン:2009/02/09(月) 22:23:26
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 パラダイムが転換すると、外の者(一般国民)からは彼ら(弁護団擁護派)の論理は非論理に、彼らの常識は非常識に見えてきます。マルクス主義(反権力イデオロギー)の歴史論(刑事弁護論)がさいごにご都合主義の政治パンフレットに見えてきたのにやや似て、このいわゆる「東京裁判史観」(刑事裁判観)あるいはそれに基づく「昭和史」(戦後刑事弁護史)は、破産に瀕しています。彼らの書いていることは彼らの世界では自己完結していますが、外から見ると不安定で、とてもそうはいえない。百の反論があるのに彼らはまったく気がついていない。
==========
西尾幹二『米国覇権と「東京裁判史観」が崩れるとき』(「諸君!」2009年3月号所収:「( )」内の語句は引用者挿入)

 という文章の一説を枕に、一応、最後に、このスレ(過去スレを含みます)において、私から見た「まとめ」を欠いておきましょう。(「演説」とでも何とでも解釈するのは読み手の自由です)

 弁護士は「在野法曹」であり、「反権力」でなければならない(「反権力」であることは目的であって人権擁護のための手段ではない)という「パラダイム」(下記「1」参照)がこの事件で動揺しているのにもかかわらず、これまでのパラダイムに依拠した「法律学」という内向きの論理に閉じこもり、外の世界からの疑問・反論から完全に目を背けているという光市の弁護団擁護派(横槍氏を除く)の態度に通ずるものがあるからです。
 横槍氏は 犯 罪 被 害 者 の 権 利 も 考 慮 し た 上 で、 刑事裁判(刑事司法)における最適な人権保障の枠組を考えなければならないと明言している点で、他の弁護団擁護派と「エベレストより高く、マリアナ海溝より深い」懸隔があります。この一点において、私と横槍氏との議論は成立します(但し、両者が思い描いている像が極端に違うので、妥協点も一致点もないのが現実ですが、それでも一応議論にはなる)

 しかし、すちゅわーです さんをはじめとする弁護団擁護派(横槍氏を除く)の立論は犯罪被害者という観点を完全に欠落しており、その欠落を指摘されても 「逆 切 れ」 して 「開 き 直 っ て い る」 という状況にあります。それを 「挑 発 的 に」 単純化すれば以下のようになります。

1 「在野法曹」という名の下、弁護士は反権力的存在に専念しなければならない。反権力を全てに優先させてこそ国民の人権擁護が可能となる。
(このため、法テラスへの傘下についても、「国家権力である法務省の出先に反権力的存在である弁護士が協力できるのか」という疑念が弁護士の中でも強かった。
 まぁ、実務において、個人事業主で個人の裁量が大きい弁護士(事務所)業務に慣れてしまうと、「お役所仕事」的な細々とした規則・制約に対しての拒否反応・戸惑いが生じてしまうのは仕方がないことですが、実務はさておき、理念の部分で拒否されるとどうにもならない)

 参考文献
 『日本司法支援センターの健全な発展を期する決議』(平成18年度関弁連決議)
 『平成18年度道弁連大会記念シンポジウム(午前の部)』
 『マンガ「人権」弁護士』
 『なぜ被害者より加害者を助けるのか』(後藤啓二著)
 『「人権派弁護士」の常識の非常識』(八木秀次著)
 『サルでもできる弁護士業』(西田研志著)
(特に『サルでもできる弁護士業』は弁護士会が共産党の支配下にあるということを明言している点で画期的な本です)

27キラーカーン:2009/02/09(月) 22:24:26
2 反権力のために戦う弁護士という観点から、刑事弁護=反権力闘争(ごっこ)という図式を維持しなければならない
(民事裁判は、私人対私人なので、基本的に反権力闘争になりえない。しかし、国(家権力)を相手取った民事訴訟(国家賠償請求訴訟など)では、完全な「ガチンコ」の反権力闘争となる。)
 (弁護団内で意見が対立した際に、ある弁護士が今枝弁護士に対して 「安 保 闘 争 も 知 ら な い く せ に」 と罵倒した)

3 弁護士=反権力的存在という自己規定を守るためには、刑事弁護=反権力闘争という等式を維持できる現行の検察VS被告人(弁護人)というに二当事者対立構造の維持が絶対条件。したがって、現行の二当事者対立構造以外の刑事裁判の形態(被害者参加制度など)は 「絶 対 に」 認められない。

4 「3」が維持される限り、刑事弁護=反権力闘争という等式が維持され、「反権力闘争」という「真意」を隠して「人権擁護」という「甘言」で刑事弁護の意義を説明することが可能(本当は反権力が目的であっても、刑事裁判が二当事者対立構造である限り、弁護人の活動は人権擁護という名の下に正当化できる)

5 したがって、「4」の等式を崩す「犯罪被害者の刑事裁判への参加」や「職権主義」に関する議論については、 「議 論 自 体 を 封 殺」 させなければならない。そうしなければ、弁護士が(最早、公然の秘密だが)「人権」を反権力イデオロギー維持の道具としている「サヨク団体」というレッテルを自他共に認めるということになる。
(日弁連をはじめとする各弁護士会のHPの意見書を見ると、弁護士会がサヨク・左翼であることは自明ですが)

5−2 これらのことから、弁護士の「在 野 法 曹 性」、 あるいは 「反 権 力 性」 を 瓦 解 さ せ る 可能性がある犯罪被害者に関する議論については、議論する意義を認めないし、現実に議論する能力もない。なぜなら、これまで、彼(彼女)らが勉強してきた刑事訴訟法の教科書及び刑事裁判には 「犯 罪 被 害 者 は 存 在 し て い な い」ので、刑事裁判(刑事司法)において、犯罪被害者を含めて議論するという発想がそもそもないので、犯罪被害者を含めて刑事裁判(刑事司法)について議論する能力が身につかない。(逆に、裁判官、検察官については、議論する意義を認めることは可能)
 犯罪被害者が存在しないことについて、 「被 告 人 の 検 察 に 対 す る 反 権 力 闘 争」 という観点からしか説明できず、犯罪被害者を視野に入れての説明が全く 出 来 な い。
 ほんの1,2年前まで(犯罪被害者参加制度ができるまで)刑事訴訟法には犯罪被害者に関する規定が殆どないから、それもある意味仕方がないのではあるが。
参考『被害者参加制度が始まった』(2008年12月19日 読売新聞)

28キラーカーン:2009/02/09(月) 22:24:56
6 犯罪被害者に関する議論する意義を認めず議論する能力もないことを隠蔽するために、刑事裁判に被害者が存在しないのはなぜかと聞かれた場合には、「法律に関する無知」と「上から目線で冷笑的」にあしらう。若しくは、「俺様六法」、「法の曲解」という罵詈雑言を投げつける。
(欧米諸国の議論や犯罪被害者保護基本法が制定されていることは無視。また、法解釈学における学説は、個人の解釈であるために基本的に「俺様六法」であることを無視。なお、その「俺様六法」への賛同者が多ければ通説・多数説となる)

7 「職権主義」に対しても「憲法改正が必要」という「俺様解釈」や「ファシズム容認」と罵詈雑言を投げつけ「6」と同様の立場を堅持

8 このことから、今回の懲戒請求「祭り」によって「人権」がイデオロギー維持のための「道具」にしているという「人権派弁護士」という言葉が、実は、弁護士の大部分に該当するということを逆説的に弁護士自身が追認

ということです。
 このことから、被害者参加制度が開始された刑事裁判で、被害者の代理人である弁護士が「検察側」に立って、被告人(弁護人)と対峙することに耐えられるのかという疑問があります。このスレの議論(や弁護士のブログ)から判断する限り、被害者の代理人となる弁護人は理由をつけて(「法律上出来ない」と 「俺 様 解 釈」 により)被害者のために動くことを 「拒 否」 し、犯罪被害者の代理人でありながら 「被 告 人 の 利 益」 になるように振舞うのではないでしょうか。そして、そのような弁護士は弁護士の本分である 「反 権 力 イ デ オ ロ ギ ー」 に 忠 実 な た め 懲戒処分には決してならないと思われます。

(例、(反権力活動として)グリーンピースの鯨肉「窃盗」事件でグリーンピースを支持した弁護士よりも、犯罪被害者のことを配慮する弁護士の方が「(反権力ではなく、権力の手先となっているため)弁護士の資質として問題がある」(=弁護士界に対する 「裏 切 り 者」) というのが弁護士業会の  「常 識」  らしい)

参考:『老弁護士の悲願実る』6月6日読売新聞(西部本社版)掲載の「反射角」

 更に言えば、最高裁が差戻した理由は「事実認定はできるが、情状面での検討が不足しているので死刑か無期かの判断が出来ない」というものだったと理解しているのですが、弁護団は

「国 家 権 力」 に 殺 人 犯 と 「で っ ち 上 げ」 ら れ た 被 告 人

という図式にし、実は「傷害致死」であり「殺人罪」には該当せず、殺人罪は国家権力によって捏造された冤罪であり、したがって死刑ではありえないという論理構成をとったのですが、それも、国家権力によって殺されようとしている無辜の市民を国家権力から救出する正義の弁護人という 「反 権 力 イ デ オ ロ ギ ー」 に毒された 「サ ヨ ク 的 弁 護」 ということになります。これが、かつて私が言った

サヨクの心を持たなければ刑事弁護は出来ない

という現実的な意味です。だからこそ、被告人の情状面に配慮した最高裁の差戻理由をもっと正面から見据えるべきだという今枝弁護士の見解は

「安 保 闘 争 を 知 ら な い く せ に」

という罵声によって否定されたのです。

29キラーカーン:2009/02/09(月) 22:25:27
 但し、弁護人についても同情すべき事情はあって、起訴便宜主義の下、検察は「確実に」有罪となる事件しか刑事裁判に起訴しないという運用になっている「精密司法」という状況の下では、

起訴された時点で刑事弁護によって無罪になる可能性は 「な い」

という状況になります。これでは、刑事弁護の重要性をいくら説いても有罪率99.99%という現実の前では説得力がありません。したがって、刑事弁護の重要性を分からせるには

起訴便宜主義から起訴法廷主義

に転換して、検察が「勝てるかどうか分からない」と思う事件も刑事裁判に起訴させるようにして、弁護人の立証がうまくいけば、ちゃんと無罪が取れるという精度設計・運用という環境整備をする必要があると思います。そうすれば、刑事弁護の重要性というものが一般国民にも理解されるのではないでしょうか。その意味では、「精密司法」にこだわる検察も刑事弁護に対する誤解を増幅しているといえるでしょう。
(被告人を有罪にするのが検察官の仕事ですから「無罪判決」というものが「仕事上のミス、失敗」になってしまうという思考回路は理解できますが、司法制度改革とともに、その発想を変える時期に来ているかもしれません)

 補足的に言えば、弁護団の記者会見は、あの内容であればしないほうが良かったといえますが、それは「後知恵」でしょう。しかし、記者会見は刑事裁判とは「場の設定」がおおきく異なります。それは、

1 相手は、検事、裁判官ではなく市井の人であることにもかかわらず、裁判における「ディベート」と一般民衆が誤解するような言葉を以って、一般社会(民衆)に語りかけた
2 記者会見の場は被害者が排除された「バーの中」ではなく「バーの外」

の2点です。裁判員裁判で裁判員に対してアピールするためにどのような刑事弁護が適切かということを研究している弁護士(確か最高裁ドタキャンの理由も「裁判員裁判」絡み)が、潜在的裁判員候補者である一般市民相手の記者会見であんな会見をすれば・・・というのが正直な感想でした。
 で、記者会見はバーの外ですから、「社会の一員」という意味で弁護団も犯罪被害者も同じ立場です。犯罪被害者側は反論することもできれば、場合によっては名誉毀損で訴えることもできます。勿論「そっとして置いてください」と耳をふさぐこともできます。逆に言えば「バーの中」であれば、検察官(あるいは裁判官質問)からの反論しかないわけですが、バーの外では、誰からも異論・反論を受ける可能性があります。刑事裁判は、ほかならぬ すちゅわーです さんも最高裁の判例を引いて主張したように社会秩序の維持という機能もあるわけですから、重大事件の刑事裁判の経過ということが社会的関心事項になっても不思議ではありません。しかも、この事件では、弁護団の言動が社会秩序の維持に悪影響を及ぼしたという逆説的な意味を持ってしまいました。刑事裁判の機能からすれば、そのような弁護団に対して何らかの制裁が下っても、最高裁の判例には違反しないということも可能です。
 記者会見の場でも民事裁判の場でも刑事裁判の場でも、同じ内容の言葉であれば、犯罪被害者側の受ける衝撃度は変わりません。このことも理由の一つとして、犯罪被害者側が「刑事裁判だけ」排除されているのは不当だとして刑事裁判への参加を要求していたのです

30キラーカーン:2009/02/10(火) 22:33:28
ついでに、参考文献としてこれも追加しておきましょう
法教育研究会第2回会議における嶋津 格(千葉大学教授)氏の発言です

【パネラー:嶋津】
 私自身は八年間、日本弁護士会で弁護士をやっていたが、弁護士会そのものが、田中氏によると「対抗軸」でしかありえなかった経緯があるように思われる。弁護士全体を代表している組織であるのに、それが反体制的な色彩をもってしか組織されていなかった。法曹であるなら、少数者・反体制派の利益であろうと、それを恰も「偏っていない意見である」かのようにして弁論する義務がある。いかにも或る派閥・一部の利益をしか代表していないと他者をして思わせるなら、これは法曹として失敗。「左翼的」にしか見えない形でしか弁護士会が組織されて来なかったことは問題だろう。日本の秩序全体に対する責任をとっていないのではないか?だからこそ法曹が社会の中で重視されないのではないか。このような理由で法曹は現在にいたっても社会の中で力を持ち得ないのではないだろうか。非常に簡単に云うと、明らかな「左翼性」のようなものがこれまでの日本の法曹の欠陥だったのではないかということだ。

31キラーカーン:2009/02/16(月) 21:37:06
>俺の家族が殺されてんだぜ? なのに何もできないのか?という「疎外感」です。
>報復感情というよりも,圧倒的な疎外感が,今日の動きを作っている。

 色々な文献を読む限り、出発点はそこであろうと私も思います。そして、現在は、その「疎外感」について何とかすべきというのが「世間」あるいは「世論」の圧倒的な流れとして存在しています。したがって、刑事政策上、何らかの形で掬い上げるべきという方向性になって被害者保護基本法制定に始まる被害者参加制度など最近の刑事政策の改正の方向性となっています。後述の言葉で言えば、その疎外感が「世間・社会」に共有され、立派な「公益」となったということです。
 刑事司法の疎外感を緩和するには疎外されているものに(主体的に)参加させるというということが解決法(の一つ)であることは理の当然です。とすれば、犯罪被害者に対して(「証人」ではない)刑事裁判における何らかの主体的地位を認めるということが解決策を検討する場合の第一選択肢となります。

32キラーカーン:2009/02/16(月) 21:37:21
 その一方で「刑事裁判の機能は社会秩序の維持であり、被害者感情の慰藉については反射的効果に過ぎない」というような最高裁判所の裁判例もあり、その観点からすれば、刑事裁判において犯罪被害者の意見は聞くべきではなく、これまでのように被害者を「疎外」しておくべきという結論になります。しかしながら、上述のように、この方針は現実問題として採り得ず、犯罪被害者保護基本法の制定など、現実の刑事政策の方向性を踏まえれば「反射的効果に過ぎない」の部分については、この裁判例は、現時点においては判例法として機能しなくなったといっても良いでしょう。現実には、「刑事裁判は被害者感情にも配慮しなければ社会秩序の維持という機能を果たせられない」ということになっていると思います。
 したがって、この裁判例の趣旨に忠実であった(と思われる)光市の事件の弁護団とその支持者は、刑事裁判は被害者にも相応の配慮を払うべしという現在の刑事司法の流れ、あるいは、社会の刑事裁判(あるいは刑事司法)に対するニーズに反しているという意味で社会的に大きな反発を受けることはこれまた理の当然だったわけです。

 では、どうすればよいのか。個人的には、これまでの役割分担を変えない方が混乱が少ないと思われますから、検察官と被告人(弁護人)の役割分担を変えずに、被害者固有の事情について被害者が刑事裁判において主体的な地位を占めるということになるでしょう。また、被害者固有の事情は被害者自身(あるいはその代理人)に代弁させたほうが良いと思いますので、その観点からも、検察官はこれまでどおり「公益」の名を以って被告人を糾弾するということになるかと思います。
 つまり、検察官が主張すべき「処罰感情」というのは「世間」または「社会」の処罰感情の相場であって、被害者が主張するそれであってはいけないと個人的には考えています。そのような情勢においても、「自分が被害者になったら」や「被害者への感情移入」等々により、被害者感情が被害者固有のものから世間・社会に共有されます。その「共有された被害者感情」を無視して判決を下すのであれば、社会秩序の維持という刑事裁判の最も重要な目的も果たせなくなってしまいます。
 したがって、被害者固有の感情から世間・社会として共有される「被害者感情」として昇華させる作業を経てから検察官が「処罰感情」や「被害者感情」を「公益」として主張できるものと考えます。したがって、被害者が懲役20年を望んでも、世間の相場が懲役10年から15年であれば、その範囲でしか判決は下されないでしょうし、そのような差異が生ずることは受任せざるを得ないでしょう。
 それであっても、被害者を蚊帳の外において下した判決と被害者を被害者としてバーの中に入れて被害者の話を聴いた上で下した判決とでは、被害者にとっての意味が違ってくるでしょう。それだけでも「疎外感」は格段に緩和されるはずです。更に、上述の「ずれ」を被害者がどのようにして埋めるのかといえば、それこそ「修復的司法」の出番ではないかと思う訳です。

 だからといって、その疎外感を刑事裁判外で埋める適当な方法があれば、そのような方策も考えられるのではないかとは思います。例えば、被告人の弁論に対して被害者として反論したいというのであれば、刑事裁判の場ではなく、裁判官が被害者への質問という形で、別途被害者の言い分をくみ上げるという方法もあるでしょうし、あくまで、被告人と被害者との間の「個人的事情」として、刑事裁判の場にこだわることなく、別途対峙する場が設定しても良いのかもしれません。
 よく言われているのは修復的司法的手法で用いられている各種手法ですが、そのほかに、例えば、刑事裁判には参加させないが、犯人の釈放又は執行猶予期間の満了の判断について、被害者の承諾を得なければならないというような形で、被害者に事実上量刑と執行猶予期間の微修正権を与えるという方法もあるかもしれません。あるいは、懲役の仕事を大きく変えて、現在派遣労働者が行っている業務をやらせて、その賃金(派遣労働者の給与相当額)を被害者への賠償に充てるという方法もあるかもしれません。

 法律というものは情と理の微妙なバランスに立っています。情に傾いても、理に傾いてもその法律は空文と化します。また、「法律は最低の道徳」という言葉からも、法律には人として守らなければならない最低限の「善」あるいは「情」というものが含まれていると信じています。だからこそ「大岡裁き」というものが光を放つものだと思っています。

33キラーカーン:2009/03/05(木) 21:19:39
この件は、証人として出廷した被害者に対して被告人が暴言を浴びせたという事案(http://motoken.net/2009/02/11-162958.html)ですから、被害者参加制度が認められる前の「被害者は証拠(証人)に過ぎない」といわれた時代においてもあり得る事件です。しかも、被告人の暴言自体が証人等威迫といった刑事罰に触れる行為を行ったことが根本問題であるわけで、被害者参加制度とは関係なく「許されざる行為」だったわけです。

だからこそ、証人保護の規定(衝立を入れる、ビデオリンク方式)というものが整備されてきているのであって、この事件を以って被害者参加制度に反対するのは「犯罪者を免責してより犯罪被害者にその罪をかぶせる」という状況になってしまいます。強いて言えば、「法廷の秩序維持に失敗した裁判所による被害者への2次被害」という言い方も不可能ではないですが、それは裁判所にとってあまりにも酷だと思います。

もし、被告人の(被害者にとって)聞くに堪えない弁明を聞くのがいやだというのであれば、「だったら参加するな(という選択肢もある)」という反論も相応の意味はありますが、この事件は位相を異にします。(国籍法改正後につかまった中国人ブローカーの事件も改正前の国籍法に触れる話なので、国籍法改正問題と位相が異なるのと同じ)

34キラーカーン:2009/03/05(木) 21:22:36
>「被告人という『一個人の権利』が『国家によって不当に蹂躙される』
>ことを「国民の感情次第で認める」結果となり、ひいては
>「未来にまで同様の不当な蹂躙が認められる」という『公益を損ねる事態を招く』
>可能性があった

そのような主張をするなといった覚えはありません。つまり、この問題の発端であった弁護団の言動によって、私のような

被害者がないがしろにされている(刑事裁判において被害者の権利を認めろ)

という主張に対し、そのような主張を認めると上述のように被告人の権利に対する不利益が出るという反論は十分に理解できます。真っ当な議論の流れといえましょう。
 そして、刑事裁判において被害者参加を認めないほうが結局、被害者と被告人との間で WIN−WIN の関係になり、被害者参加を認めた場合、一見、被害者の権利にも配慮しているように見えるが、実は双方とも損害を蒙る LOSE―LOSEの関係になるという横槍氏の立論は、このスレでは唯一といってもいい「真 っ 当 な 反 論」だったわけです(勿論、私はこの見解には、かつて議論したように現時点で反対ですが、そういう立論があるいるということについては否定しませんし、そういう見解を投稿するという権利は全力で擁護します。それが「言論の自由」です。一部の弁護団擁護派のように自分の意見に反対だからといって「曲解」や「ファシスト」や「民主主義の敵」呼ばわりはしません。それぐらいの分別はあります。)。

 ということは、この議論の行方、あるいは、弁護団に対して批判的であった人々への説得の技法としては

被害者の権利保護と被告人(弁護人)の権利保護の均衡点(妥協点)はどこか
(数学的に言えば、X+Y=8のときにX*Yが最大となるX(被害者の権利),Y(加害者の権利)の値は何かという議論)

ということになるはずです。被害者保護基本法の制定などもあり、「被害者の権利」も「被告人の権利」と同様に法的保護に値する権利であるというのは「ドタキャン」時点でも明らかであった(その意味において、平成2年の最高裁判決だけを引いて、最近の被害者保護法制の動向についてダンマリを決め込んだ すちゅわーです さんの議論は「プロ」として素人に対峙する場合には極めて不適切、不遜極まりないでしょう)のですから、その意味においても、

被告人の権利と被害者の権利との比較考量の上で、つまり、刑事裁判(あるいは刑事司法)におけるあるべき被害者保護も語った上で

「だ か ら、 弁 護 団 の 言 動 は 許 容 さ れ る」と主張しなければならないし、それこそが「真 っ 当 な 議 論」だったはずです。(井上薫弁護士も、弁護団の行為が適法かどうかは「社 会 通 念」にも照らして考える必要がある。弁護団の行為は「弁 護 権 の 濫 用 の 疑 い」があるとの見解を表明しています(『裁判官が見た光市母子殺害事件―天網恢恢 疎にして逃さず』)
 そして、裁判所への遺影の持ち込みの問題などから見ても、被告人の権利と被害者との権利を比較考量した上で決定するというような趨勢になっています(例えば、「遺影の持込は認めるが、被告人の『死角』になる場所に置くように」との指導が有る場合もあると聞いています。これも、被害者と被告人の権利相互間の比較考量の上での「妥協点」ということも言えるでしょう)。

 これが、私は最初の投稿以来主張している「弁護団擁護派」は「被害者保護について語るべきだ(それなくして弁護団擁護派の議論は理解されることはない)」ということの意味です。そのことの意味を理解せずに、被告人(弁護人)の権利だけを主張し、被害者の権利については無視、拒絶を決め込む(被害者の権利について語る意思がない)という態度は、

建前として被害者にも権利があると認めること
本音として被害者の権利など存在しない

という弁護団擁護派の本音と建前の乖離を如実に物語るものだったのであり、真っ当な議論の流れではない。(上記の数式の例を引けば、Yについてのみ語って、Xの存在を無視するという、奇妙奇天烈な答案になっているわけです。そんな答案が「0点」であることは論を俟ちません)
だからこそ、私は すちゅわーです さんの「不十分かもしれないが弁護士も色々被害者保護の活動をしている」(大意)に反応して

そこがもっと聞きたい。そこを語ってくれ(大意)

といったのです。今回の祭りの発端は「弁護人(弁護士)が被害者をないがしろにしている」という「怒り」だったのですから、そこ(=弁護士は必ずしも被害者をないがしろにしていない)をうまく説明すれば、弁護士に対するあらぬ誤解が避けられるはずだと思ったからです。そして、それを引き出せればとも思ったのです。しかし、結果はゼロ回答どころか、感情的な反発だったのです。

35キラーカーン:2009/03/05(木) 21:22:50
 例えば、安田弁護氏はこの事件の「弁護人」としては死刑廃止論を主張したことはなかったが、「弁護士」という法律専門家としては死刑廃止論に立っている。というように、弁護人としての立場と弁護士としての立場で主張を制御するということがあります。この場合においても、(潜在的)弁護人として弁護人の職責を説明するが、弁護士として被害者と被告人との権利保護についてどのように考えるのかということについて「法律のプロ」としての見解を述べるということはあってしかるべきだったはずです。それが、刑事弁護について理解を得る王道であったというのは上述のとおりです。
 しかし、被害者の権利と関連つけて立論することをせず、被告人の権利は検察(国家権力)という巨大な力からか弱い一般国民を守るために必要であるという(一種の「反権力イデオロギー」的な)観点でしか説明できなかったために、結局理解を得られることなく、「刑事弁護はつらいもの」と捨て台詞を吐いて説明を放棄せざるを得ないところまで追い込まれたのです。

 そして、このスレ(過去スレを含む)の議論結果は周知のとおりです。で、横 槍 氏 を 除 く 弁護団擁護派は被害者保護との比較考量で被告人の権利を正当化する能力もなければ、そのような比較考量すること自体を拒否したのです。私は、そこまでして、検察と被告人との二当事者対立構造という刑事裁判制度を絶対視し、それに疑問を呈しただけで「ファシスト容認」、「民主主義の敵」という罵詈雑言を浴びせ、被害者保護という法律でも認められた人権に優先させ、被害者保護に関する議論を避ける理由が理解出来ない。で、議論を進めていくうちに、弁護士のブログや弁護士会のHPを閲覧していくうちに

反権力イデオロギーに毒されている
二当事者対立構造は反権力イデオロギーにとって非常に都合が良いのでなんとしても守らなければならない

という仮説にいたったわけです。
 被害者保護について語ることを一貫して拒否し、被 害 者 の 人 権 を 無 視 し、二当事者対立構造における被告人・弁護人の権利については一歩も譲ることなく擁護しなければならないという弁護団擁護派の立論は、(反権力イデオロギーに極めて役に立つ)刑事裁判の構造(二当事者対立構造)を維持することが 唯 一 至 上 の 目 的であったということが明らかになったのです。

結局「人権派弁護士」という言葉が

イデオロギー擁護の道具として人権を利用する

という揶揄と軽蔑を込められているという一般常識が必ずしも間違っていなかったということだったのです。(「右翼雑誌」のSAPIOの最新号でもそのような記事がありました。)

在野法曹意識(反権力イデオロギーは用法・要領を守って正しく使用しましょう。
弁護士の社会的信頼を損ねる恐れがありますので在野法曹意識(反権力イデオロギー)の使い過ぎに注意しましょう。

36キラーカーン:2009/11/20(金) 23:14:06
身もふたもないが
178の
>要はこの法律自体が未完成で、みんなを振り回してるってことか
がこの件についての実態を端的に言い表しているのではないだろうか

203の
>刑が嫌なら犯罪を犯さなければ良い。
これがいわゆる刑法の「一般予防効果」といわれるもので、刑法の犯罪予防効果の2本柱のうちのひとつ。予断ながら、この効果がどれほどかということも死刑の存廃論争においても主要な論点の1つ。
ということで、どういう行為であれば犯罪を犯さないということになるのか、裏を返せば

「どのような行為が犯罪行為になるのか」

ということが国民の代表が決めた法律で明確に分からなければならないと一般国民として困るというのも「罪刑法定主義」の実際的な意味の1つ。
この観点からも、法律時の条文をもっと明確(分かりやすく)すべきというのはというのはひとつの方向性だと思う。その場合、

179の「アルコール又は薬物の影響で運転」

だけの構成要件にするべきというのはひとつのたたき台と思う。レスにもあったが、「薬物」だけでは風邪薬も含まれるというのであれば、覚せい剤などの「禁止薬物」に限定するのも一法だと思う。
今回の場合、飲酒運転によって引き起こされた重大事故を「故意」犯に準じて処罰するという立法趣旨については一応のコンセンサスが得られているのだから、当座(法律が改正されるまで)は「判例法」という「不文法」で凌ぐしかない。その意味でも、178のいう「未完成」という言葉が妥当する。

余談的にいえば、日本の刑法で殺人罪に関する条文は1つだけ(過去には尊属殺規定もあったが、意見判決後の長い空文期間を経て条文は削除された)で、事件の態様に応じて裁判官が判決を下すというシステムになっているが、これは、世界的にも異例で、外国から日本の司法を研修に来ていた人から「罪刑法定主義」との関係で問題にならないのかという質問もあった。
 つまり、

裁判官の裁量が広すぎる。殺人の類型に応じて類型化して、各類型ごとに刑罰を定めるのが罪刑法定主義の趣旨からいって適切ではないか

という趣旨の質問だった

例えば、米国では、殺人罪は謀殺(murder)と故殺(Manslaughter)とに分かれ、前者は一級と二級に分かれるので、実質的には三段階の殺人罪がある。後者には今回の危険運転致死罪のような「重過失致死」罪も含まれる。であれば、
199の
>今回は殺人じゃないよ。一緒にすれば、殺人の悪質性が見えにくくなる
という観点から、少なくとも
殺人罪
重過失致死罪(危険運転致死罪のようなもの)
その他致死罪
という位の類型は必要かもしれない。

37キラーカーン:2009/11/20(金) 23:14:16
身もふたもないが
178の
>要はこの法律自体が未完成で、みんなを振り回してるってことか
がこの件についての実態を端的に言い表しているのではないだろうか

203の
>刑が嫌なら犯罪を犯さなければ良い。
これがいわゆる刑法の「一般予防効果」といわれるもので、刑法の犯罪予防効果の2本柱のうちのひとつ。予断ながら、この効果がどれほどかということも死刑の存廃論争においても主要な論点の1つ。
ということで、どういう行為であれば犯罪を犯さないということになるのか、裏を返せば

「どのような行為が犯罪行為になるのか」

ということが国民の代表が決めた法律で明確に分からなければならないと一般国民として困るというのも「罪刑法定主義」の実際的な意味の1つ。
この観点からも、法律時の条文をもっと明確(分かりやすく)すべきというのはというのはひとつの方向性だと思う。その場合、

179の「アルコール又は薬物の影響で運転」

だけの構成要件にするべきというのはひとつのたたき台と思う。レスにもあったが、「薬物」だけでは風邪薬も含まれるというのであれば、覚せい剤などの「禁止薬物」に限定するのも一法だと思う。
今回の場合、飲酒運転によって引き起こされた重大事故を「故意」犯に準じて処罰するという立法趣旨については一応のコンセンサスが得られているのだから、当座(法律が改正されるまで)は「判例法」という「不文法」で凌ぐしかない。その意味でも、178のいう「未完成」という言葉が妥当する。

余談的にいえば、日本の刑法で殺人罪に関する条文は1つだけ(過去には尊属殺規定もあったが、意見判決後の長い空文期間を経て条文は削除された)で、事件の態様に応じて裁判官が判決を下すというシステムになっているが、これは、世界的にも異例で、外国から日本の司法を研修に来ていた人から「罪刑法定主義」との関係で問題にならないのかという質問もあった。
 つまり、

裁判官の裁量が広すぎる。殺人の類型に応じて類型化して、各類型ごとに刑罰を定めるのが罪刑法定主義の趣旨からいって適切ではないか

という趣旨の質問だった

例えば、米国では、殺人罪は謀殺(murder)と故殺(Manslaughter)とに分かれ、前者は一級と二級に分かれるので、実質的には三段階の殺人罪がある。後者には今回の危険運転致死罪のような「重過失致死」罪も含まれる。であれば、
199の
>今回は殺人じゃないよ。一緒にすれば、殺人の悪質性が見えにくくなる
という観点から、少なくとも
殺人罪
重過失致死罪(危険運転致死罪のようなもの)
その他致死罪
という位の類型は必要かもしれない。

38キラーカーン:2009/11/20(金) 23:15:49
>故意か過失かは関係ない。
これを、今回の事件に即していえば、理由はどうであれ、人を死に至らしめたのだから殺人罪ということになるのだか、これがいわゆる

「結果無価値論」

という考え方。
その一方、人が、罪を犯そうという意思から発した行為こそが罰するに値するという考え方が

167の「行為無価値論」

ということになる。現状では、後者の行為無価値論が基礎となっており、それが広く受け入れられていることから、このスレでも飲酒運転での事故は「故意か過失か」ということが主要な論点の1つとなっている。故意がなければ、罪に問えないのだから学術上では、「過失犯」を刑法で罰するべきかという議論さえある。派生的な問題として「不真正不作為犯」(喧嘩の現場に通りかかったが、そのまま通り過ぎたため、けが人(死者)が出た行為を傷害罪や殺人罪に問えるか)という問題もある。
しかし、最近では、犯行動機が理解を絶するような犯罪が増えてきているので(例:秋葉原通り魔事件)、結果無価値論が盛り返してきている状況ではないか。

また、203のように
>24歳で過失を犯した彼は、この先家族を持つことも出来ず
>おそらく40半ばで出所した後も不幸な人生を送るでしょう。
ということが社会的コンセンサスとしてあり、実際そうなるのであれば、厳罰化の流れは止まる。しかし、現在の日本社会では、そうではなく、名前を変え、フリーターとして経歴を「白紙」にしておけば、「ワーキングプア」並みには生きていけるのだから、それは、「前科者」としての「不幸な人生」にならないというコンセンサスがなんとなく出来上がっているから、184の言うように
>罪=罰=社会的制裁+刑罰
の社会的制裁の部分が減少しているので、その穴埋めとして厳罰化の風潮があるということだと思う。

39キラーカーン:2009/11/20(金) 23:16:48
>152で再発防止に関する意見をコメントしたけど、だーれもコメントせず。

 言い訳がましく言わせてもらえれば、「あまりにも当然のことは、議論にもならず、記録にも残らない」ということだと思います。この議論も、「識者」のコメントが当たり前では「なかった」ことに起因しています。コメントがつくのは、ある意味、

そのコメントが、当たり前ではないと思っている人がいる

ということでしょう。
で、私自身はその再発防止策に基本的には賛成です(酒税の増税は少し留保)。
 余談的にいえば、名神高速道路では高速運転のために直線区間が多くしたため、居眠り運転が多くなったので、以後の高速道路は意識的にカーブなどを入れているようです。
 本来、事故を起こさなくても、飲酒運転自体が禁じられているので、

危険運転=飲酒運転+重大な結果(事故)
(被害者を救護しなければ、さらにドン! として、「逃げ得」をなくす。)
(もちろん、懸命に救護した人は情状酌量を与えるべき)

でよかったのではないかと思います。ただ、この理論を突き詰めると、無過失責任、結果責任、ひいては結果無価値論の肯定(つまり、故意又は過失の存在を問わない。せいぜい、飲酒を「故意」と同等に扱うというところ)まで突き進んでしまう可能性があるので、現行の刑法理論との間にかなり懸隔があるとは思います。
 なぜ、そんな条件が入ったかは分かりませんが、飲酒と交通事故の間に直接的な因果関係がなければならないとでも思ったのでしょうか、それとも、対象行為があまりにも拡大すること(極論すれば、「国民総犯罪者化」となる)を恐れたのでしょうか。

個人的には、この事件は最高裁の判断を必要とする事案だと思います。

240の
>批判すべきは立法府で、一審の判事ではないはず

はそのとおりで、コメント「240」の全体の流れも現時点では異論を唱える次元ではないです(細かいレベルまでいけば、異論が出る可能性はありますが、現段階では、そのレベルに達していませんし、達する必要もないと思います)
 とはいっても、立法府も完璧ではありません。そういったことを司法(裁判所)が穴埋めするというのも三権分立の実際的な運用ではないかと思う次第です。これも、細かく言えば、「裁判所による立法行為」であり、国会(立法府)の権限を侵しているのではないかという論題は十分成立するのですが、立法府が作ったできの悪い法律を裁判所が専門家の目から見て、「実際に使える」ように支援することがあってもよいと思います。
 米国では、国会議員だけしか法案提出権がないので、国会議員が関連法律との整合性を図らずに法案提出をして、可決成立することがよくあるとのことです。そして、裁判所はそういう法律の「交通整理」を行う役目も担っているとのことです。(日本では政府提出法案は、既存の法律と齟齬をきたさないように、主管省庁、内閣法制局で徹底的にチェックされます。

 今回の事例については、立法趣旨からいって危険運転致死罪を適用すべきだとは思いますが、条文があいまいに過ぎるという批判を回避するために、最高裁で何らかの基準を示すべきだと思います。
 レベルは違いますが、いわゆる「永山基準」というものも、死刑に値する「一級殺人」とそれ以外の「二級殺人」とに分ける「判例法」として機能していたわけです(221のコメントのように、日本の刑法上一級殺人、二級殺人という区別はありません)。その意味で、221の

>当座(法律が改正されるまで)は「判例法」という「不文法」で凌ぐしかない

となると思います。もちろん、その最高裁の判断を受けて、立法府が刑法を改正するというのが、わが国における、好ましい、「三権分立」の運用になるのではないかと思います。

40キラーカーン:2009/11/20(金) 23:17:43
法律学では自然科学のような厳密な法則というものはなく、271の言うように、法解釈や法理論には論者の「何を正義とするか」という「イズム」言い換えれば「主観」が入り込みます。刑法では

結果無価値と行為無価値
応報刑主義と教育刑主義

というように。この理論の対立は、自然科学のように「決着」することはありません。しいて言えば、どちらが「社会通念」に近いかという、「感情論」あるいは「多数決」の次元で決められるものであるため、社会構造が変化すれば、優劣が逆転することもあります。
 このようなことは自然科学ではありえません。自然科学では種々の仮説があっても正しいものは正しいし、間違っているものは間違っているという判定が「論者の主観」とは無関係に決定されます。

犯罪の成立には故意の存在を必要とすることを原則とする「行為無価値」を突き詰めると、その故意を処罰するのが主目的なので、犯罪の結果は量刑には影響を与えないということになります。
つまり、純粋な行為無価値理論では、

人を1人殺しても、3人殺してもそのこと自体では量刑に影響を与えない

ということになります。
日本の刑法では、犯罪の成立は故意の存在が前提であり過失犯は例外(刑法38条)で、未遂犯も既遂犯と同様に処罰できますが、刑法、善悪の弁別能力がない場合(心神喪失)あるいは劣っている場合(心神耗弱、未成年)の場合には刑罰が免除あるいは軽減される(刑法39条)というのがその例です。
光市の事件や名古屋の事件のように、被害者の数に関係なく、悪質なものは死刑という裁判例が出たことは、この行為無価値の原点に戻ったということがいえます。

しかし、現実にはそうなってはいません。永山基準にも見られるように、生じた結果によって刑罰が重くなるというのが一般的になっています。この限りにおいて、行為無価値を基準とするが結果無価値的な観点を取り入れているということになるでしょう(尤も、故意の悪質性と結果の重大さは比例する(正の相関関係にある)という論理構成も可能だとは思います)。いずれにしましても、量刑の決定については、事実上、横軸に「故意、過失のレベル」、縦軸に「結果」をとった二次元の座標上で決定されるということです。(例:故意過失レベル4、結果レベル4の事件と故意過失レベル6、結果レベル2の事件では前者のほうが罪が重くなる(=原点より遠くなる)

故意犯より過失犯の方が刑罰が「常に軽い」というようなことはなく、
316の
>3、故意より過失が重く処罰されるのは法律的にそもそもおかしい
についてはこの見解に賛成です。そもそも、殺人罪の最低が懲役5年で、危険運転致死罪の最高刑が懲役20〜30年ですから、極端な例を選択すれば306の言うように

危険運転致死罪>殺人罪

となる場合があるということは、刑法自身が許容しているということになります。少なくとも、危険運転致死罪に問われる程度の「重過失」であれば、「故意」との差は「逆転可能」というのが刑法の下している価値判断です。

41キラーカーン:2009/11/20(金) 23:19:15
同様に
>過失犯で結果の重大性から重罰を下すのはおかしい
についても現行刑法でも「結果的加重犯」という概念はあります。
端的な例は「傷害罪」と「傷害致死罪」(「○○致死罪」の類)です。一般的にいって、この二つの罪は「故意」のレベルでは同等です。しかし、不幸な偶然で被害者が亡くなったという結果によって罪のレベルが上がってしまうということです。
したがって、危険運転であっても事故を起こさなければ、単なる「飲酒運転」であり、人身事故の発生という結果によって罪が重くなるということも現行刑法上では奇異なものではありません。

とはいっても、最近の「体感治安」の悪化は、
・「通り魔殺人」に代表されるような犯罪動機が理解できない「結果が甚大」な犯罪が多くなっているために
・そういう動機が理解できない犯罪の方が「心神喪失(耗弱)」による無罪(減刑)を主張しやすく、結果として「いつ被害者になるか」という恐怖が増幅される(本件の「危険運転致死罪」もその延長)
が原因と思われるため
・「社会秩序の安定」という刑事裁判の目的からすれば、(動機よりも)結果の甚大さを以って処罰する「結果無価値」的主張の説得力が増大する
というような社会情勢となっていると考えられます。

専門家とは、その専門知識を持って、専門的知識が必ずしも十分でない市井の人々の思いを専門的な議論に「翻訳」し(吸い上げ)て、専門家同士の議論に耐える素材として「料理する」ことが求められています。
このスレでも、そのように、市井の人々の思いを「感情論」と【馬鹿にして】【切って捨てる】ではなく、その「感情論」を専門家の言葉に翻訳して議論に耐えるネタとして提供しようとしている人はいます。
市井の人々との議論においては、専門的知識は市井の人々と専門家とをつなぐ道具として使うべきであって

専門的知識の欠如を以って、議論する資格がないと
「排除する」あるいは「馬鹿にする」

ために機能しているわけではありません。
人権派弁護士をはじめとする法律の専門家といわれる、あるいは、法律学を「かじった」人の議論が

>>専門的知識を楯に、
>>市井の人々の思いを【無 視 し】【見 下 し】【馬 鹿 に し】
>>自らの専門領域に閉じこもって、
>>現実を全く反映していない偏ったイデオロギーを
>>さも「中立的な正義」のように
>>市井の人々に押し付け、

現実との齟齬を指摘されると

>>現実が間違っている、
>>専門的知識のないものの戯言は聞くに値しない

と嘯(うそぶい)いて、市井の人々の声を無視するような傲岸不遜な態度をとるから、光市の事件における弁護団に対する批判や「人権派弁護士」に対する批判のように

>>「法曹の常識は社会の非常識」
>>イデオロギーのために「人権」を利用している

という批判を浴びることになるのです。
そして、現在の状況においては、その批判は大筋において当たっていると断ぜざるを得ません。それは、冒頭で引用したこのスレッドにおける書き込みにも妥当します。

例えば、法哲学を専門にする、名古屋大学の大屋准教授は

>interconnectivity principle、
>(中略)法は社会を運営する仕組みのうちの一つで
>(中略)他のさまざまな仕組み(たとえば宗教や市場や伝統的秩序)
>と相互に関連して存在している
>(中略)「社会の法に対する優越性」を承認し、
>(中略)社会の中で所期の目的を果たす手段の一つとして
>法改革を位置付けなくてはならないと

とある学者の見解を自らのブログで好意的に引用しています。
最近の弁護士はこの

「相互に関連して存在」

というのを忘れているのではないでしょうか。
このため、弁護士(に代表される法律の専門家)には現代社会の現状に応じた「法律的な解決策」を生み出す能力が決定的に欠けていると断ぜざるを得ません。自らの専門敵領域に閉じこもって、社会のために法律学を役立てるというという法律家としての使命を忘れ去っているのです。それが

>>光市の事件における「弁護団バッシング」に対する拒絶反応
>>刑事裁判にかけて欲しいと起訴を求める一般国民の権利を
「権力の味方」と切って捨て
>>本件のように「殺人でもこんなに重くない」

という「非常識」なコメントになって、市井の人々から「法律家は社会のゴミ」といわんばかりの嘲りを受けるのです。


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