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刑事弁護の危機と医療の危機
23
:
キラーカーン
:2008/10/04(土) 00:00:23
幸運なことに、これまで、その意識の「ずれ」は表面化しませんでした。それは、端的に言えば、一般民衆が刑事裁判に期待している機能・目的を刑事裁判がきちんと果たしているという一般民衆の「誤解」であり、そのずれは、社会(地域共同体)が埋めていた(刑事裁判が果たしていたと「誤解」されていた機能を社会(地域共同体)が肩代わりしていた)のが現実だったため、その「誤解」が表面化しなかっただけのことだったのです。しかし、光市の事件を契機としてこの「ずれ」をめぐる「真の姿」(刑事裁判は被害者保護には何の役にも立たないということ)が明らかになりつつあります。
しかし、現在の日本社会(地域共同体)はその「ずれを埋める」だけの機能・能力の大部分を失い、依然として、その機能・能力を失いつつある傾向にあります。そのことは、犯罪被害者保護機能を果たす受け皿が存在せず、犯罪被害者の怒り、悲しみ、苦しみなどが「行き場を失くしている」ということを意味し、また、その状況を一般市民が理解してしまったことを意味します。その「行き場のない感情」(とそれを支援する一般民衆の理解・同情)が結果として、弁護士バッシングという形で噴出したのです。
確かに、そういうものを処理していたのは「刑事裁判」であると一般民衆は思い込んでいたのですから、そういうものの「行き場を失くした」のは刑事裁判の(機能不全の)せいだという結論(「誤解」)になるのはある意味当然の成り行きです。刑事裁判の現実の機能・目的を正確に認識できれば、その「誤解」は解消しますが、犯罪被害者保護機能を果たす受け皿を作らなければならないという問題点がはっきりと映し出され、それが、解決すべき真の問題だという認識に到達するわけです。そして、その問題点を解決せずに放置しておくという選択肢は事実上存在しないため、何らかの解決が迫られているというのが現状です。
わき道にそれますが、例えば「津山三十人殺し」(映画「八つ墓村」のモデルとなった事件)の舞台に代表されるような「ムラ社会」(地域共同体)というのはかつての日本にはかなりありました。そのような「ムラ社会」で起きた事件においては、犯罪被害者保護という機能(特に「事実は何か」を解明する機能)は刑事裁判には求められません。そんなものは、生き残った人、特に村の顔役に聞けば、事件の全容のみならず犯人の生い立ち等々、必要とするすべての情報は入手できますし、事件発生後もその「ムラ社会」で生きていく以上、ムラ社会には(精神的ケアや相互扶助、更には、帰ってきた「加害者」に対する生活上の不利益のような一種の「復讐代行機能」も含めた)「被害者保護機能」や「ムラ社会」に再び受け入れるための「矯正機能」が当然あったはずです(それを、現代刑事司法に応用したのが「修復的司法」といえるでしょう)。このような「ムラ社会」が機能しているところでは、刑事裁判は、発生した事実に対応する刑罰を下すという役割で十分でした。
しかし、現代社会ではそのようなわけには行きません。秋葉原の通り魔殺人事件のように、(加害者の情報を含めた)事件に関する事実を知ろうとすれば、刑事裁判が第1の選択肢にならざるを得ないという現状がここにあります。そのような中で、犯罪被害者を刑事裁判(バーの中)から排除するという旧来の刑事裁判の機能・目的で現代社会に対応できるのか、社会の変化に応じて、その機能・目的を修正し、何らかの形で被害者を刑事裁判、ひいては刑事司法の中に何らかの形で取り込まなければならないのではないのかという問題提起については、法曹三者(特に弁護士)が真剣に考えるときではないでしょうか。そして、「プロ」として解決案を提示して欲しいと一般民衆は弁護士に期待しているのではないでしょうか。
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