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刑事弁護の危機と医療の危機

20キラーカーン:2008/09/27(土) 00:43:31

 ということで、「当事者(必ずしも裁判の当事者を指すものではない)」の意向は最大限に尊重されるべきというのは一般論として正しい。それは医療の分野においても同じです。いわゆる「インフォームド・コンセプト」もそのような側面があります。すなわち、

医者が十分な情報を提供して患者の同意を得る

ということであり、これは、患者の(自由)意思によって治療法を選択したという形式を整える側面があるからです(といっても、現実的に選択氏が限られており、治療法の選択ではなく、治療法の説明に過ぎないという場合も多々あるでしょう)。ということで、個人の心情、信条により、輸血を拒否するとか臓器移植を拒否するとかという一次的決定権は原則として(一般論)として患者側が持つべきという議論は一定の妥当性があります。法律学的に言えば

 日本では宗教的信条に基づく行為自体(それがいわゆる「新興宗教」に類するものであれば特に)が何がしかの「いかがわしさ」を持つとみなされているがために、「輸血拒否」問題について患者側に理解を示す人は少なかったと思われますが、治療方法について患者の意思をどこまで優先させるかという本来の問題意識に戻れば違う風景が見えます。
 まず、臓器移植の例です。河野洋平衆議院議長に息子の河野太郎衆議院議員が生体肝移植をしたことがありましたが、河野洋平氏は当初移植に難色を示していたようです。その難色を示していた河野洋平氏に対して厳しい論調はありませんでしたし、私の周囲にも、多数派ではありませんが、無視出来ない程度の割合で「臓器移植までして生き延びたくない」という人はいます。
 もう少し射程を広げれば、積極的な治療を行わず死を迎えたい人に対する治療や安楽死の是非も含めることができます。ここまでくれば、患者の論理を優先させえるか医者の論理を優先させるかは賛否がかなり入り混じるでしょう。死に至らない病気であれば、ステロイド剤の使用を巡る医者側とアトピー性皮膚炎の患者との根深い対立があります。
というわけで、個人の意思と医者としての意思とが食い違った場合、どちらの意思を優先すべきかは単純に答えが出ません。個人的にはできるだけ個人(患者)医師は優先させるべきだと思いますが、それによって「遺族」によって殺人罪で起訴される等々のリスクを医者側が負うのは不当だと思いますので、そのリスクをどのように軽減するかという問題になるかと思います(その目的にも「インフォームド・コンセプト」を流用することは可能です)。


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