したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

1避難民のマジレスさん:2020/06/23(火) 08:14:59 ID:wCRrWiVM0
前スレ
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5- なんでも避難所 -
URL: https://jbbs.shitaraba.net/study/8276/

858鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/18(水) 22:58:56 ID:1d4drIFg0

 真我は認識てきない認識主体であるから、何をしようと見ているのじゃ。
 それがなくなることはないのじゃ。
 全ての根本にあるものじゃ。
 人の持つ世界はそれを基底にして作られているのじゃ。
 自我のまやかしに気づいたならば、それに達することもできるのじゃ。

859避難民のマジレスさん:2022/05/19(木) 20:00:32 ID:TYl1LFRk0
ラマナ・マハルシとの対話 332

質問者
 タミル語で3つの空白(Muppazh)(முப்பாழ்)とは何ですか?

マハルシ
 (1) タット(それ) = イーシュヴァラ・トゥリーヤ(神の第四の状態)
 (2) トヴァム(汝) = ジーヴァ・トゥリーヤ(個我の第四の状態)
 (3) アシ(在る) = アシ・トゥリーヤ(存在の第四の状態)

トゥリーヤ(第四の状態)は、起きている状態、夢を見ている状態、眠っている状態の基盤です。

質問者
 最初の2つは承知しています。
 3つ目は何ですか?

マハルシ
 すべてに遍満しているのが、覚醒だと言われています。
 すべてが輝いているのが、夢であると言われています。
 完全性(アナンタ)が、眠りであると言われています。
 これらの根底にあるものがアシ・トゥリーヤす。

質問者
 実に奇妙です!

マハルシ
 それだけですか?
 議論に限度はありません。
 聞いてください。
 マハヴァーキャ(偉大なる確言)のタットヴァマシ(汝それなり)は一般的に知られています。
 もう一つの、5つの言葉、タット・トヴァム・アシ・アティ・ニジャム(「汝はそれで在る」が至高の真理である)を含んだものは、沈黙の中でダクシナームールティによって教えられた最も秘密のもので、5つの言葉に対応して、5つの状態を明確に述べています。

 再びヴィチャーラ・サーガラを見てください。
 著者はアーダーラ(土台)とアディシュターナ(基盤)を区別しています。
 彼によると、縄は蛇のように見えるときも、そうでないときも、常にアーダーラです。
 縄は、実際とは違って見えるので、アディシュターナです。
 それは一般的な基盤(サーマーニャ・アディシュターナ)です。
 また、蛇そのもののように見えるのは、特殊な基盤(ヴィセーシャ・アディシュターナ)です。
 ここで質問が提起されます。
 ジヴァのアディシュターナとイーシュヴァラのアディシュターナは別のものなのに、どうしてこれら二つのアディシュターナが一つになるというのか?
 彼は、両方のアディシュターナには同じアーダーラがあると答えます。

 さらに、彼はいくつかのキャーティ(理論)に言及しています。

 (1) アサット・キャーティ:ロープが存在しながら、そこには存在しない蛇が現れる。
 (2) サット・キャーティ:縄自体が蛇のように見える。
 (3) アートマ・キャーティ:縄が正体不明のまま、以前別の場所で見た蛇を思い出して、錯覚を起こす。
 (4) アキャーティ:全くの非実在。
 (5) アナーヤタ・キャーティ:蛇の心象が投影され、それが目の前にあるかのように見られる。
 (6) アニルヴァチャニーヤ・キャーティ:説明不可能。

 ここで彼は疑問を投げかけます。
 幻想であれ非実在であれ、世界はこれらのいずれかであるべきであろうか?
 それは以前の体験の結果であるに違いない。
 それは、その時には実在であったに違いない。
 一度実在であれば、常に実在でなければならない。

 彼は答えます。
 その体験は必ずしも実在である必要はない。
 本物の蛇を見たことがなくても、蛇の絵を見て印象を受けただけで、縄を蛇と勘違いしうる。
 このように、世界は実在である必要はないのだ。

860避難民のマジレスさん:2022/05/19(木) 20:01:14 ID:TYl1LFRk0
 なぜこのような議論に時間を費やすのでしょうか?
 ただ、心を内側に向け、時間を有効に使いなさい。

 個人と至高なるものの融合においては、至高なるものは伝聞であり、個人は直接体験です。
 あなたは直接体験だけを利用することができます。
 ですから、自分が誰であるかを確かめてください。

 では、なぜイーシュヴァラが言及されるのでしょうか?

 それは、あなたが世界を見て、それがどのように生まれたかを知りたがっているからです。
 この世界は神によって創造されたと言われています。
 もし、神があなたや他のすべてのものを創造したと知れば、あなたの心は少し満たされ、そうでない場合よりも落ち着きのなさが減じられます。
 しかし、それは実現ではありません。
 それは、あなたが自分自身を実現する場合にのみ可能なのです。
 これが完全性や実現などです。

 議論を要約するために、ヴリッティ・プラバーカラの著者は、この本を書く前に35万冊の本を勉強したと言っています。
 それが何の役に立つというのでしょうか?

 それらが真我の実現をもたらすことができるのでしょうか?
 ヴィチャーラ・サーガラは、論理と専門用語でいっぱいです。
 このような膨大な巻が、本当の目的にかなうでしょうか?
 しかし、これらを読んで、自分の質問に答えてくれるかどうかだけを確かめるために、聖者を求める人もいます。
 それらを読み、新たな疑問を発見し、それを解決することが、彼らの喜びの源です。
 聖人たちは、それがまったくの無駄であることを知っているので、そのような人たちを奨励しないのです。
 一度奨励すれば、終わりはありません。

 真我への探究だけが役に立つのです。

 論理や、ヴリッティ・プラバーカラ、ヴィチャーラ・サーガラ、スートラ・バーシャ、あるいは同様の大作に親しんでいる人たちは、ヴァーサナが蓄積されているので、真我だけを、それも明白に扱った「明かされた真理」のような小作品を享受することができません。
 心の濁りの少ない人、あるいは純粋な人たちだけが、小さな、目的のある作品を享受することができるのです。

861鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/19(木) 23:14:51 ID:1d4drIFg0

 この世には悟りや真理に関するさまざまな理論があるものじゃ。
 世界はひとつだとか、原理が二つだとか、三つの基盤があるとかいうのじゃ。
 それらは全て実践のための方便に過ぎないのじゃ。
 未だ真我に達していない者に、法を信仰させて日々実践させるためなのじゃ。
 そのために創作された理論なのじゃ。
 全ての観念はどこかに矛盾や欠陥があるものじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

862避難民のマジレスさん:2022/05/19(木) 23:35:13 ID:cLgILO2A0
最近、久しぶりに瞑想を再開したのであります。
3〜40分、腹式呼吸に意識を置いて座っております。
3〜40分呼吸から意識が離れずに座ってられる時もあるのでありますが、その際は、無理矢理肉体を意識し続けているようで、瞑想の深まりを感じません。
むしろ、意識が散漫になり、集中から離れ、妄想にとらわれ、そしてそれに気づく瞬間に、自我を離れた意識みたいなものを捉えられそうな気がしたくまであります。
(´・(ェ)・`)つ

863避難民のマジレスさん:2022/05/20(金) 19:52:28 ID:1GL17l.w0
ラマナ・マハルシとの対話 333

プラティヤビジニャー = プラティ + アビジニャー

アビジニャーは直接的な知覚、プラティは既知のものを思い出すことです。

「これは象だ」というのが直接的な知覚

「これはあの象だ」というのがプラティヤビジニャー(再認識)

専門的な著作では、プラティヤビジニャーは、常に存在する実在を悟り、それを再認識するという意味で用いられます。

シューニャ(虚空、空白)、アティ・シューニャ(シューニャを超えた)、マハ・シューニャ(巨大な虚空)はすべて同じ意味、つまり、真の実在のみを意味します。


*プラティヤビジニャーの説明の参考リンク(英語)
https://religion.fandom.com/wiki/Pratyabhijna

864鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/20(金) 20:53:49 ID:1d4drIFg0
>>862 善いことじゃ。
 どんどん実践するとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

865鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/20(金) 20:55:09 ID:1d4drIFg0

 シューニャは仏教の空なのじゃ。
 空が真の実在゛というのじゃ。
 そこには観念がないからなのじゃ。
 観念があれば空ではないのじゃ。

866避難民のマジレスさん:2022/05/21(土) 19:39:57 ID:1wbqsJME0
1937年1月20日

ラマナ・マハルシとの対話 334

シュリ・バガヴァンは、脚をマッサージされているにもかかわらず感覚がないと言った。
「もし足が歩く目的に適っているなら、感覚がなくなることの何が問題なのでしょうか?」と尋ねた。
そして、会話の中で、次のように述べた。

マハルシ
 光線は、映写されるとき、オペレーターを映し出しませんが、オペレーターにそのシーンを目撃させることを可能にすることがわかります。
 シッダたちも同じです。 
 彼らは純粋な光であり、他者を見ることはできますが、他者によって見られることはできません。
 例えば、プラブリンガは北部を旅していたとき、ゴーラクナートに出くわしました。
 ゴーラクナートは、剣で腕を切られても傷を負うことなく、剣をなまくらにするなど、ヨーガの力を発揮しました。
 これは、身体を怪我に耐えるようにすること(カーヤシッディ)です。
 プラブリンガは、切られるために自身を差し出しました。
 剣が突き刺されると、剣はまるで空気のように彼の体を完全に通り抜け、身体には何の傷もありませんでした。
 ゴーラクは驚き、プラブリンガの弟子となることを自ら申し出たのです。

さらに、カイラースでのシヴァとパールヴァティーの対話があった。

マハルシ
 シヴァは、アッラマは彼女の誘惑に影響されない者であると言いました。
 パールヴァティーはそれを試してみたかったので、アッラマを誘惑するために、彼女のターマシックな質を送って、地上の王の娘として転生しました。
 彼女は非常に洗練された少女に成長しました。
 彼女はよく寺院で歌いました。
 アッラマはよくそこに行き、ドラムを演奏しました。
 彼女はドラムの演奏に我を忘れました。
 彼女は彼と恋に落ちました。
 彼らは彼女の寝室で会いました。
 彼女が彼を抱擁したとき、彼は無形になりました。
 彼女は恋煩いになりました。
 しかし、天女が彼女に地上での目的を思い出させるために送られました。
 彼女はアッラマを撹乱することを決意しましたが、成功しませんでした。
 ついに彼女はカイラースへと昇っていきました。
 そしてパールバティーは、サートヴィックな質を送り、ブラーフマナのサンニャーシーニーとして生まれました。
 彼女は自身をアッラマに明け渡したとき、彼の本当の偉大さを悟ったのです。

シュリ・バガヴァンは、サンガ・プラヴァール(詩人)であるナッキラールが、タミル語で書かれたシヴァ神の賛歌について質問した際に、シヴァ神の怒りに直面し、どのように彼が精霊によって捕らえられ、その後釈放されたかを述べた。

マハルシ
 ナッキラールはティールタのほとりでタパスをしていました。
 一枚の葉が木から落ち、その半分が水に触れ、残りの半分が地面にありました。
 突然、水面の半分は魚になり、地面の半分は鳥になりました。
 それぞれが葉っぱで結ばれ、自身の本領を発揮しようともがきました。
 ナッキラールがそれを不思議に思って見ていると、突然上から精霊が降りてきて、彼を洞窟へ攫って行きました。
 そこにはすでに九百九十九人の囚人がいて、皆タポー・ブラシュター(禁欲から脱落した者)たちでした。

質問者
 ナッキラールはタポー・ブラシュターだったのですか?

マハルシ
 そうです。
 黙想に従事しているというのに、なぜ彼は黙想から脱落し、目の前で起こっている不思議な出来事に目を奪われたのでしょうか?

シュリ・バガヴァンは、ナッキラールがどのようにティルムルカルッパタイを作詞し、千人の囚人全員の釈放を得たかを話し続けた。

867鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/21(土) 23:02:28 ID:1d4drIFg0

 仏教にも菩薩や如来が化身を世間に派遣すると言う話が在るのじゃ。
 観世音菩薩がいろいろな化身を派遣して人を助けるとかのう。
 人が救いを求める音を観じて、救いに現われるから観世音菩薩というのじゃ。
 師匠が必要な時に現われるのも、そのためなのじゃ。

868避難民のマジレスさん:2022/05/22(日) 19:18:40 ID:DpWU.qG.0
1937年1月21日

ラマナ・マハルシとの対話 335

質問者
 性的衝動はどうしたら止むのでしょうか?

マハルシ
 識別が止めばです。

質問者
 それはどのようにして達成されるのですか?

マハルシ
 反対の性とその関係は、精神的な概念に過ぎません。
 ウパニシャドは、すべてが愛おしいのは、真我がすべてに愛されているからだと言っています。
 人の幸せは内にあます。
 その愛は真我のものに他なりません。
 それは内にのみ在ります。
 外に在ると考えてはいけません。
 そうすれば、識別は働きを止めます。

869鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/22(日) 21:01:00 ID:1d4drIFg0

 男女の区別さえも、ただ観念によるものだというのじゃ。
 美醜も性愛もまた観念によるものなのじゃ。
 全ての愛の源は心の奥にあるのじゃ。
 他にもとめる必要はないのじゃ。

870避難民のマジレスさん:2022/05/23(月) 20:14:08 ID:EkTCtsfA0
1937年1月22日

ラマナ・マハルシとの対話 336

ウパニシャドとシュリーマッド・バガヴァッド・ギーターを学んだと思われるあるヴァイシャ(商人)が、いくつかの質問をした。

質問者
 どのようにして真我を悟るのですか?

マハルシ
 真我は常に直接的に認識されています。
 そうでない瞬間はありません。
 では、それはどうしたら確かめられるのでしょうか?
 真我を見いだしなさい。
 あなたがそれなのです。

質問者
 しかし、至高者が見つかると、ハートの結び目は切り離され、すべての疑念は終わると言われています。
 ドリシュティ(見ること)という言葉が使われています。

マハルシ
 真我で在るということは、真我を見るということと同じです。
 一方が他方を見るといったような、二つの自己があるわけではありません。
 
その後、彼は真我への探求について同じ質問を続けた。

質問者
 どのように真我を実現するのですか?

マハルシ
 それはすでに実現されています。
 人はこの単純な事実を知るべきなのです。
 それがすべてです。

質問者
 しかし、私はそれを知っていません。
 どうしたら知ることができるのでしょうか?

マハルシ
 あなたは自分の存在を否定するのですか?

質問者
 いいえ、どうしてそのようなことができるでしょうか?

マハルシ
 では、真理は認められています。

質問者
 しかし、私にはわかりません。
 どうすれば、真我を実現することができるのでしょうか?

マハルシ
 誰が「私」といっているのかを見いだしてください。

質問者
 はい。
 私が「私」と言っています。

マハルシ
 その「私」とは誰でしょうか?
 身体ですか、それとも身体以外の誰かですか?

質問者
 身体ではなく、身体以外の誰かです。

マハルシ
 見いだすのです。

質問者
 私にはそうすることができません。
 どうやって探せばよいのでしょうか?

マハルシ
 あなたは今、身体に気づいています。
 深い眠りの中で、あなたは身体に気づいていませんでした。
 それでもあなたは眠りの中に残っていました。
 目覚めた後、あなたは身体を注視し、「私は真我を実現することができない」と言います。
 あなたは眠っているときにそう言ったのでしょうか?
 そのとき、あなたは分裂していなかった(アカンダ)ので、そう言いませんでした。
 今、あなたは身体という範囲内に収縮されているので、「私は実現していない」と言うのです。
 なぜ、あなたの真我を制限しておいて、惨めな気持ちになるのですか?
 あなたの真の本性として在り、幸せで在りなさい。
 あなたは眠っている間、「私」とは言いませんでした。
 今、あなたはそう言っているのです。
 なぜでしょうか?
 なぜなら、あなたが身体にしがみついているからです。
 この「私」がどこから来るのかを見いだしなさい。
 そうすれば、真我は実現されます。

 生命意識を持たない身体は、「私」と言うことはできません。
 無限である真我も「私」と言うことはできません。
 では、誰が「私」と言うのでしょうか?

871避難民のマジレスさん:2022/05/23(月) 20:15:36 ID:EkTCtsfA0
質問者
 まだ理解できません。
 どうやって「私」を見つけるのですか?

マハルシ
 この「私」がどこから生じるのかを見いだしなさい。
 そうすれば、この「私」は消えて、無限の真我が残るでしょう。
 この「私」は、生命意識を持つものと持たないものとの結び目に過ぎません。
 身体は「私」ではなく、真我は「私」ではありません。
 では、その「私」とは誰なのでしょうか?
 どこから生じるのでしょうか?

質問者
 どこから生じるのですか?

マハルシ
 見いだしなさい。

質問者
 わかりません。
 どうか教えてください。

マハルシ
 それは外側からではありません。
 内側からです。
 どこから来るのでしょうか?
 どこか他の場所からであれば、あなたはそこに導かれることもありうるでしょう。
 内なるものである以上、あなたは自分で見いださなければならないのです。

質問者
 頭からでしょうか?

マハルシ
 「頭」という観念は、「私」の後に生じるのですか、それとも「私」は頭から生じるのでしょうか?
 もし「私」が頭の中にあるのなら、あなたが眠気に襲われたとき、なぜ頭を傾けるのでしょうか。
 「私」は常に不変です。
 そのため、その座も不変でなければなりません。
 もし、頭がある時は傾き、ある時は直立しているとしたら、どうしてそれが「私」の座になるというのでしょうか?
 あなたの頭は、眠っているときは水平に横たわっています。
 目が覚めると、それは持ちあげられます。
 それが「私」であるというのでしょうか?

質問者
 では、どちらなのですか?

マハルシ
 「私」は内側からやってきます。
 眠っているときは「私」はありません。
 目が覚める直前に「私」という想念があるのです。

質問者
 ハートの結び目は眉間にあると言われています。

マハルシ
 「眉間」と言う人もいれば、「尾骶骨」と言う人もいれば、様々です。
 これらはすべて、身体の立場から見たものです。
 身体は「私」という想念の後に来るのです。

質問者
 しかし、私は身体を切り離すことはできません。

マハルシ
 つまり、あなたは自分が身体でないことを認めているのです。

質問者
 この身体に痛みがあれば、それを感じますが、他の身体が傷ついても感じません。
 私はこの身体を克服することができません。

マハルシ
 この自己同一性が、そのような感覚の原因なのです。
 それが、ハートの結び目(フリダヤ・グランティ)です。

質問者
 この結び目はどのようにすれば消えるのですか?

マハルシ
 その結び目は誰のためのものなのですか?
 なぜ、あなたはそれを消したいのでしょうか?
 結び目が尋ねているのでしょうか、それともあなたが尋ねているのでしょうか?

質問者
 それは尋ねることができません。
 私が尋ねています。

マハルシ
 その「私」とは誰でしょうか?
 もしそれが見つかれば、結び目は残りません。

質問者
 結び目は身体に付随しています。
 身体は誕生によるものです。
 どうしたら生まれ変わりを止めることができるのでしょうか?

マハルシ
 誰が生まれるのですか?
 真我が生まれるのですか?
 それとも身体ですか?

質問者
 身体です。

872避難民のマジレスさん:2022/05/23(月) 20:17:05 ID:EkTCtsfA0
マハルシ
 では、身体に、どうすれば生まれ変わりが止むのかを尋ねさせましょう。

質問者
 身体は尋ねません。
 だから、私が尋ねているのです。

マハルシ
 身体は誰のものですか?
 あなたは深い眠りの中で、身体を持っていませんでした。
 「私」という想念が生じてから、身体が生じたのです。
 最初の誕生は「私」という想念の誕生です。
 身体は「私」という想念に続いて誕生します。
 それゆえ、その誕生は副次的なものなのです。
 第一の原因を取り除けば、第二の原因も自ずと消滅します。

質問者
 その「私」という想念が生じるのをどうやって阻止するのですか?

マハルシ
 真我探求によってです。

質問者
 私は理解しようとしていますが、うまくいきません。
 ジャパで真我を見つけることができますか?
 もしそうなら、その方法を教えてください。

マハルシ
 ジャパとは何ですか?
 なぜあなたは人工的なジャパを作らなければならないのですか?
 あなたは、あなたの中で常に行われている永遠の自然なジャパを見いだすことができるのです。

質問者
 ウパデーシャ(指導)があれば、きっと役に立ちます。

マハルシ
 あなたのように書物で苦労していない人に「ラーマ、ラーマと繰り返しなさい」と言えば、彼はそれを実行し、やり遂げるでしょう。
 あなたのようにたくさん読み、いろいろ調べている人にそう言っても、長くは実行しないでしょう。
 なぜなら、あなたはこう考えるからです。
 「どうして私はそれをすべきなのか?
  なによりも、マントラを繰り返すべき私とは誰なのだろう?
  先に進む前に、私が誰なのかを見つけよう」。
 そして、あなたはジャパをやめて、探求を始めるでしょう。

質問者
 「感覚は外に向かうもの(パラーンチ・カーニ)であり、内に向かうもの(アーヴリッタ・チャクシュフ)が視覚である」と言われています。
 アーヴリッタ・チャクシュフ(内向きの視覚)とは何ですか?

マハルシ
 眼球が反対方向に入れ替わるということではありません。
 チャクシュフとは何ですか?

質問者
 目のことです。

マハルシ
 その目が見るのでしょうか、それとも目の後ろにいる誰かが見るのでしょうか?
 もし目が見ることができるとしたら、死体も見るのでしょうか?
 目の後ろにいる者が、目を通して見るのです。
 彼はチャクシュフという言葉で示唆されています。

質問者
 神の栄光を見るためには、ディヴィヤ・チャクシュフ(神聖な目)が必要です。
 この肉眼は普通のチャクシュフです。

マハルシ
 ああ!なるほど。
 あなたは、百万の太陽の輝きと、それ以外のものを見たいのですね!

質問者
 私たちは、百万の太陽の輝きとして、その栄光を見ることはできないのでしょうか?

マハルシ
 あなたはたった一つの太陽が見えないのですか?
 なぜ何百万もの太陽を求めるのですか?

質問者
 神聖な視覚によってそうすることが可能に違いありません。
 「太陽の輝かないところ…それが私の至高の住処である」(バガヴァッド・ギーター)とあります。
 つまり、この太陽が無力な境地があるのです。
 それが神の境地です。

873避難民のマジレスさん:2022/05/23(月) 20:18:04 ID:EkTCtsfA0
マハルシ
 わかりました。
 クリシュナを見つけなさい。
 そうすれば問題は解決されます。

質問者
 クリシュナは生きていません。

マハルシ
 それが、あなたがギーターから学んだことですか?
 彼は、自分は永遠であると言っていませんか?
 あなたは何について考えているのですか?
 彼の体についてですか?

質問者
 彼は存命中に他の人たちに教えました。
 彼の周りの人たちは実現したに違いありません。
 私は同様の生きているグルを探しているのです。

マハルシ
 それでは、彼が自分の身体から退いた後には、ギーターは役に立たないのでしょうか?
 彼は自分の身体をクリシュナとして語りましたか?

 ナ・トヴェーヴァーハン・ジャートゥ・ナーサン……(私が存在しなかったことは一度もない……)。

質問者
 しかし、私は真理を直に明言することができる、生きているグルが欲しいです。

マハルシ
 グルの運命はクリシュナの運命と同様です。

質問者は引き下がった。

その後、シュリ・バガヴァンは言った。

マハルシ
 神聖な視覚とは真我の輝きを意味します。
 ディヴィヤという言葉がそれを示しています。
 ディヴィヤ・チャクシュフという言葉は真我を意味します。
 誰が神聖な目を授けるのでしょうか?
 そして、誰が見るのでしょうか?
 また、人々は書物の中で「傾聴、熟考、一点集中が必要である」と読みます。
 彼らは、実現に到達する前に、サヴィカルパ・サマーディとニルヴィカルパ・サマーディを通過しなければならないと考えてます。
 だから、こんなにたくさんの質問が出るのです。
 なぜ、彼らはその迷路の中をさまよわなければならないのでしょうか?
 彼らは最後に何を得るのでしょうか?
 それは、求める苦しみが止むというだけなのです。
 彼らは真我が永遠であり、自明であることを見つけます。
 なぜ、彼らはまさに今この瞬間にもその安らぎを得ないのでしょうか?

 無学の、単純な人は、ジャパや礼拝で満足します。
 ジュニャーニはもちろん満たされています。
 すべての苦悩は読書家にとってのものです。
 まあ、まあ、彼らもまた、うまくいくでしょう。

874鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/23(月) 22:44:00 ID:1d4drIFg0

 知識や記憶では真我は実現できないのじゃ。
 今ここで自分の心を観るしかないのじゃ。
 しかし、知識や記憶に囚われていればそれができないのじゃ。
 目の前に真のグルがいてもわからないのじゃ。

875避難民のマジレスさん:2022/05/24(火) 19:31:46 ID:3D76IsQk0
ラマナ・マハルシとの対話 337

K.R.V.アイヤール氏
 心はどのように浄化されるべきですか?

マハルシ
 シャーストラ(聖典)は、「カルマ、バクティなどによって」と言います。
 私の従者が前に一度、同じ質問をしました。
 彼は「神に捧げられたカルマ(行為)によって」と告げられました。
 カルマをしている間に神について考えるだけでは十分ではなく、絶えず神について考えなければならないのです。
 そうして初めて、心は清らかになります。

その従者はそれを自分自身に当てはめて言い聞かせた。
「私はシュリ・バガヴァンに身体的に仕えるだけでは十分ではない。
 そうではなく、私は絶えず彼を覚えていなければならない」。

同じ質問をした別の人に、バガヴァンは次のように答えた。

マハルシ
 真我の探求とは、「私は身体である」という考えが消えなければならないということを意味します。
 (アートマ・ヴィチャーラ = デーハートマ・ブッディの消滅)。

876鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/24(火) 22:00:30 ID:1d4drIFg0

 カルマとはカルマ・ヨーガなのじゃ。
 結果を期待しない行いによって、心も浄化されるというのじゃ。
 バクティは献身なのじゃ。
 心身を神にささげて、行いをもささげつくすのじゃ。
 そうすれば無我にも近づいていくのじゃ。

877避難民のマジレスさん:2022/05/25(水) 19:56:56 ID:UXxPZjRw0
1937年1月23日

ラマナ・マハルシとの対話 338

アメリカ人女性、ジェニングス婦人が以下の質問をした。

質問者
 神を肯定することは、「私は誰か?」という探求よりも効果的ではありませんか?
 肯定はポジティブであるのに対し、他方はネガティブです。
 しかも、それは分離を指し示しています。

マハルシ
 あなたが実現の方法を知ろうとする限り、この助言があなたの真我を見つけるために与えられるのです。
 あなたがその方法を求めていることが、あなたの分離を示しているのです。

質問者
 「私は誰か?」と尋ねるより、「私は至高の存在です」と言う方が良いのではないでしょうか?

マハルシ
 誰が断言するのですか?
 それをする人がいるはずです。
 その人を見つけてください。

質問者
 瞑想は探求より優れているのではないでしょうか?

マハルシ
 瞑想は心的イメージを暗示しますが、探求は実在に対するものです。
 前者は客観的であり、後者は主観的です。

質問者
 このテーマには、科学的なアプローチがあるに違いありません。

マハルシ
 非実在を排除し、実在を追求することが科学的なのです。

質問者
 私が言いたいのは、最初に心の、次に知性の、そして最後に自我の段階的な排除があるに違いないということです。

マハルシ
 真我だけが実在です。
 他のすべては非実在です。
 心や知性はあなた離れたところにあるわけではありません。

 聖書には「静かにして、私が神であると知りなさい」とあります。
 静寂は、神としての真我を実現するための唯一の必要条件です。

質問者
 西洋はいつかこの教えを理解するでしょうか?

マハルシ
 時間と空間の問題はありません。
 理解できるかどうかは、心の成熟度によります。
 東洋に住んでいるか西洋に住んでいるかがどれほど重要だというのでしょうか?

シュリ・バガヴァンは、その女性に 『明かされた真理』のいくつかの連とターユマーナヴァルを紹介した。
彼女は退いた。

その後、シュリ・バガヴァンは、ヴェーダーンタ全体は、聖書の二つの声明に包含されると言った。
「私は私で在るものである」と「静かにして、私が神であると知りなさい」である。

鉄道員であるK.S.N.アイヤール氏は、シュリ・バガヴァンに対して、 『宇宙意識』の編纂者は、個人の一生における一定の年齢制限の範囲内でのみ実現は可能であると考えている、と述べた。

マハルシ
 「私はある年齢の前後に生まれなければならないのだろうか?」と言う人がいるでしょうか?
 彼は今ここにいるのです。
 このような声明は誤解を招きます。
 なぜなら、人々は、今回の転生では真我を実現できないので、別の転生でチャンスをつかまなければならないと信じるようになるからです。
 それはまったく馬鹿げています。

878鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/25(水) 23:47:48 ID:1d4drIFg0

 自分が神であるとか、年が合わなければ実現はないとか、それらは逃避に過ぎないのじゃ。
 自我の喪失を恐れるから逃避している観念遊戯なのじゃ。
 今すぐにでも自分を観ることができるならば、実現は可能なのじゃ。
 迂遠な観念遊戯を繰り返す意味はないのじゃ。

879避難民のマジレスさん:2022/05/26(木) 16:47:48 ID:k8mjt.6A0
ラマナ・マハルシとの対話 339

シヴァ・ヴィシシュタアドヴァイタ(すなわち、シャイヴァ・シッダーンタ)に関して、シュリ・バガヴァンは言った。

マハルシ
 「ガルドーハム・バーヴァナー(私はガルダである)という観念が人をガルダ(インド神話の神鳥)にすることはない。
  同じく、蛇に噛まれたときの毒の作用は治る。
  シヴォーハム・バーヴァナー(私はシヴァである) という観念もまた然り。
  人はシヴァに変身するのではなく、自我の破滅的な作用が終止符を打たれるのだ。
  すなわち、その人物は己の個人性を保ちつつ、純粋なまま、つまりシヴァの身体の一部を構成するのに適した状態になる。
  このようにして、彼は至高の至福を享受することができる。
  それが解脱である」。
 と、シャイヴァ・シッダーンタの人たちは言います。
 これは単に彼らの個人性への愛を曝け出すもので、決して真の解脱の体験ではありません。

880鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/26(木) 23:07:09 ID:1d4drIFg0

 神降ろしの類の話しなのじゃ。
 神や精霊が憑いたという観念によって治療や占いをできるのじゃ。
 それは実際は本人の力なのじゃ。
 その対象とか力に囚われてしまうからそれ以上にはいけないのじゃ。

881避難民のマジレスさん:2022/05/27(金) 08:58:58 ID:k8mjt.6A0
ラマナ・マハルシとの対話 340

ボース氏は、「身体意識が戻った後で……」と話し始めた。

マハルシ
 身体意識とは何ですか?
 まずそれを教えてください。
 意識から分離しているあなたとは誰なのですか?
 身体が見出されるのは身体意識があるからです。
 そして、その身体意識は自己意識から生じます。
 その自己意識は今度は、意識から生じるのです。

 意識 → 自己意識 → 身体意識 → 身体

 常に意識は存在し、それ以外のものは存在しません。
 あなたが今身体意識だとみなしているものは、重ね合わせによるものです。
 意識だけがあり、それ以外には何もないのであれば、アートマナストゥ・カーマーヤ・サルヴァン・プリヤン・バヴァティ(すべてが愛しいのは真我の愛ゆえである)という聖典の意味が明らかになります。

 その場合、なぜ自殺が存在するのかという疑問が生じます。
 なぜ人は自殺をするのでしょうか?
 なぜなら、自分が不幸で、その不幸に終止符を打ちたいと願っているからです。
 彼はすべての不幸を象徴する身体との関わりを絶つことによって、実際にそれを行うのです。
 身体を殺すには、殺す者が存在しているはずです。
 彼が自殺後の生存者なのです。
 それが真我です。

882鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/27(金) 23:33:06 ID:1d4drIFg0

 身体や身体意識もまた自分という観念から起こるとマハリシは説いているのじゃ。
 自分という観念から身体意識や身体という観念も次々に起きていくのじゃ。
 自分があり、自分の身体があるという縁起なのじゃ。
 実際には存在するものは意識だけなの社。
 全ては意識の現われなのじゃ。

883避難民のマジレスさん:2022/05/28(土) 20:00:57 ID:FJGUaaFc0
ラマナ・マハルシとの対話 341

ジェニングス婦人
 シュリ・バガヴァンは、実現の状態とは想念の圧制からの解放だと仰います。
 想念は、より低い次元においてかもしれませんが、物事の仕組の中で役割をもっていないのでしょうか?

マハルシ
 想念は「私」という想念から生じますが、その「私」という想念は次に真我から生じます。
 したがって、真我は「私」という想念や他の想念として現れます。
 想念があるのかないのか、それがどうしたのでしょうか?

質問者
 良い想念は実現に役立つのでしょうか?
 それは本物の中道ではない、つまり実現への低い階梯ではないのでしょうか?

マハルシ
 はい……このように。
 良い想念は悪い想念を遠ざけるのです。
 それは、実現の状態の前に自ら消えなければなりません。

質問者
 しかし、創造的な想念は、実現の一面であり、それゆえ役に立つのではないでしょうか?

マハルシ
 役に立つのは、先ほど述べた点においてのみです。
 それらはすべて真我の中で消えなければなりません。
 想念は、良いものであれ悪いものであれ、あなたを遠くに連れて行き、近くには連れて行かないのです。
 なぜなら、真我は想念よりも親しいからです。
 あなたは真我ですが、想念は真我にとって馴染みのないものなのです。
 
質問者
 では、真我は最終的に、その実現を助けてきた、自らの創造物を吸収するわけですね。
 一方、文明はその前進を助けてきた自らの創造物を誤って崇拝し、分離し、ショートさせるのです。

マハルシ
 あなたは想念と異なっていないのですか?
 想念がなければ、あなたは存在しないのでしょうか?
 そうではなく、想念はあなたなしで存在することができるでしょうか?

質問者
 文明は一般的に、ゆっくりと、しかし確実に、この真我実現に向かって正しい方向に進んでいるのでしょうか?

マハルシ
 文明は物事の条理の中にあります。
 それは最終的に、他のすべてと同じように、真我の実現の中に自らを帰すでしょう。

質問者
 模範的な原始人は、知性と思考に支配された文明人よりも、実現に近いのでしょうか?

マハルシ
 実現した人は、未開人に見えるかもしれませんが、未開人は実現した人ではありません。

質問者
 私たちに起こることは、すべて神の定めであり、したがって善のみであると考えるのは正しいのでしょうか?

マハルシ
 もちろんそうです。
 しかし、他のすべてや神は真我から離れているわけではありません。
 あなたが真我のままでいるときに、どうしてそれらに対する思いが生じるというのでしょうか?

質問者
 「明け渡す」とは、蟻、蚊、蛇などのあらゆる物理的な煩わしさを受け入れ、そして、受け入れることで、それらによって実際に傷つくことを厭わない、あるいは傷つかなくなるということでしょうか?

マハルシ
 それが何であれ、それは見る者や考える者であるあなたから離れているのでしょうか?

聴衆のパールシー教徒の女性が口を挟んだ。

質問者
 もし、離れていないのなら、私たちは蟻に刺される痛みを感じないのでしょうか?

マハルシ
 誰を蟻は刺すのでしょうか?
 それは身体です。
 あなたは身体ではありません。
 あなたが自分自身を身体と同一視している限り、あなたは蟻や植物などを見ます。
 もしあなたが真我のままであれば、真我を離れたどんな他者も存在しません。

質問者
 身体は刺された痛みを感じます。

マハルシ
 身体がそれを感じるのであれば、身体に尋ねさせましょう。
 身体に任せておけばいいのです。
 あなたにどんな関係があるというのですか?

884避難民のマジレスさん:2022/05/28(土) 20:01:45 ID:FJGUaaFc0
再び、アメリカ人女性。

質問者
 完全な明け渡しとは、瞑想中であっても、周囲のあらゆる騒音や妨害が受け入れられなければならないということでしょうか?
 それとも、孤独を求めて山の中の洞窟へ行くべきでしょうか?
 バガヴァンはこのようになさらなかったのでしょうか?

マハルシ
 行くことも帰ることもありません。
 真我は元素に影響されず、無限であり、永遠であると言われています。
 それは動くことができません。
 真我にとって移動する場所など存在しないのです。

質問者
 しかし、真我を見つける過程で、このように外部の助けを求めることは、霊的に妥当なのでしょうか?

マハルシ
 その誤りは、真我を身体と同一視することにあります。
 もしバガヴァンが身体であるなら、あなたはその身体に尋ねることができるでしょう。
 しかし、あなたがバガヴァンと呼ぶ人物を理解しなさい。
 彼は身体ではありません。
 彼は真我なのです。

それから、彼女はハリジャンについての記事を紹介し、そこには、すべては神であり、何も個人に属するものはない、などと述べられていた。

マハルシ
 万物、個人、神、そしてすべてが真我に他なりません。

それから彼女はシェリーの詩行をいくつか読み、シェリーは実現した魂ではないのかどうか尋ねた。

 「人の未踏の霊の洞窟の中に
  玉座に就いた極めて美しい像
  その近くをさまよう冒険的な思考は
  崇拝し、ひざまずき、震え、恐れる
  その存在の輝きと光は
  それらの夢のような枠組に浸透する
  燃えるような力で満たされるまで」

マハルシ
 はい。
 その詩行は秀逸です。
 彼は自分が書いたものを実現していたのでしょう。

その女性はシュリ・バガヴァンに礼を言い、退いた。

885鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/29(日) 00:02:38 ID:1d4drIFg0

 どのような観念も自己追及の役に立つならば、使ってもよいのじゃ。
 真我の実現とか、涅槃とかもまた実践のための観念に過ぎないのであるからのう。
 神も詩人も役立つならば、用いてよいじゃ。
 どこまでも実践していけば、全ては幻影であったと気づくのじゃ。

886避難民のマジレスさん:2022/05/29(日) 19:11:57 ID:sPXS42Mo0
ラマナ・マハルシとの対話 342

夜11時、アーンドラ・プラデーシュ州のグントゥールから、悲しげだがしっかりした表情の中年の女性、その母親、そして2人の男性からなる一行がやって来た。
彼らはシュリバガヴァンに謁見を求めた。

その女性はシュリ・バガヴァンに言った。

質問者
 息子が胎内にいるとき、夫が亡くなりました。
 息子は父の死後生まれたのです。
 5年間は何の問題もなく育ちました。
 その後、小児麻痺に襲われました。
 9歳で寝たきりになりました。
 それでも、明るく元気でした。
 2年間その状態だったのですが、今は死んだと言われています。
 私は、眠っているだけで、すぐに目を覚ますことを知っています。
 息子が倒れたと聞いたとき、私はショックを受けました。
 私はビジョンで、一人のサードゥを見ました。
 彼がその子の身体に手をやると、その子はすっきりと目を覚ましました。
 私はそのサードゥはあなただと信じています。
 その子が起き上がるように、どうか来て触ってあげてください。

シュリ・バガヴァンは、医者は何と言ったのかと尋ねた。

彼女は答えた。

質問者
 彼らは、息子は死んだと言っています。
 しかし、彼らに何がわかるというのでしょう?
 私はグントゥールからこの場所まではるばるその子を連れてきました。

ある人が尋ねた。「何だって!遺体がここに運ばれてきたのですか?」

質問者
 1マイルにつき1/2ルピーの特別料金を払えば、遺体は運ばれると言われました。
 私たちはそのために150ルピーを支払って、荷物として連れてきたのです。

マハルシ
 もしあなたのビジョンが正しければ、その少年は明日目覚めるでしょう。

質問者
 どうぞお触りください。
 息子を屋敷の中に入れてもよろしいでしょうか?

他の者たちが彼らに抗議し、退去するよう説得した。
彼らは去り、翌朝、その遺体は火葬されたとの報告があった。

質問されると、シュリ・バガヴァンはこう言った。

マハルシ
 死者を蘇生させた聖者もいることが伝えられています。
 彼らもまた、すべての死者を蘇らせたわけではありません。
 もしそんなことがなされれば、世界も死も墓地もなくなってしまうでしょう。

一人の男が尋ねた。

質問者
 その母親の信仰は非常に注目に値するものでした。
 彼女はこれほど希望に満ちたビジョンを持っていたのに、どうして失望してしまったのでしょうか?
 それは彼女の子供への愛に伴う重ね合わせなのでしょうか?

マハルシ
 彼女もその子供も実在しないのに、どうしてビジョンだけが重ね合わせだというのでしょうか?

質問者
 では、それはどのように説明されるのでしょうか?

答えはなかった。

887鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/29(日) 23:32:13 ID:1d4drIFg0

 お釈迦様のところにも子供を亡くした母親がきて、生き返らせてくれるように頼んだじゃ・。
 お釈迦様は一度も死人がでたことがない家から水をもらってくれば、生き返らせる薬が作れるといったのじゃ。
 しかし、そんな家はなかったのじゃ。
 どの家でも死人は出ていたじゃ。
 母親は死が自分の子供にだけきたのではないと気づいて囚われから解放されたのじゃ。

888避難民のマジレスさん:2022/05/30(月) 17:07:03 ID:VeAhvEaw0
ラマナ・マハルシとの対話 343

質問者
 手が切断されようとも、人はそれに無自覚でなければなりません。
 なぜならバガヴァッド・ギーターでは、真我は肉体とは異なると宣言しているからです。

マハルシ
 怪我の痛みに気づかないことが、ジュニャーナなのでしょうか?

質問者
 痛みに無自覚であるべきではないのですか?

マハルシ
 大手術は、患者を痛みに気づかない状態にさせるため、麻酔をかけて行われます。
 患者は同時にジュニャーナも得るでしょうか?
 痛みに無感覚であることがジュニャーナであるはずがありません。

質問者
 ジュニャーニ(賢者)は痛みに無自覚であるべきではないのですか?

マハルシ
 身体的な痛みは、身体意識に従っているだけです。
 それは、身体意識がない場合には存在することはできません。
 心は、身体に気づいていないとき、その苦痛や快楽に気づくことはできません。
 ヨーガ・ヴァーシシュタの、インドラとアハリャーの物語を読んでみなさい。
 そこでは、死そのものが心の働きであると言われています。

 痛みは自我に依存しています。
 痛みは「私」なしでは存在することはできませんが、「私」は痛みなしであり続けることができます。

889鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/30(月) 23:02:06 ID:1d4drIFg0

 痛みは肉体に危険があることを知らせる信号に過ぎないのじゃ。
 それを無自覚でなければなない、と思うのも観念への囚われなのじゃ。
 肉体が自然に対処するさまたげになるものじゃ。
 観念がなければ痛みは苦にならないだけなのじゃ。

890避難民のマジレスさん:2022/05/31(火) 20:18:29 ID:cILxtfkc0
ラマナ・マハルシとの対話 344

質問者
 ヴィチャーラ・サーガラは、真我実現への4つの障害について述べています。

マハルシ
 なぜ4つだけなのですか?
 9つあるという人もいます。
 眠りはそのうちの1つです。
 眠りとは何でしょう?
 それは目覚めの裏返しでしかありません。
 それは目覚めから独立することはできません。
 眠りは純粋な真我です。
 自分が目覚めていると考えてはいけません。
 眠りはあり得ませんし、3つの状態もあり得ません。
 ただ真我を忘れているために、あなたは夢を見たというのです。
 真我が不在の状態で、何かが存在できるでしょうか?
 なぜ、あなたは真我を捨てて、非真我を保持するのでしょうか?

 心が外に出ようとするとき、その場で直ちに心を内側に向けなさい。
 心は、自身の外側に幸福を求める習慣があるために、外に出てしまいますが、外側のものが幸福の原因ではないという知識が、それを抑制してくれます。
 これがヴァイラーギャ、あるいは無執着です。
 完璧なヴァイラーギャの後でのみ、心は安定します。

 心は、知識と無知、あるいは睡眠と覚醒の混合物に過ぎません。
 それは5つの状態で機能します。

 クシプタ(活発な)
 ムーダ(鈍い)
 ヴィクシプタ(混乱した)
 カシャーヤ(潜在的な)、そして
 エーカーグリャ(一点集中した)です

 このうちカシャーヤは、傾向の潜在的なものでしかなく、執着や反感などの傾向そのものではありません。

 あなた自身がアーナンダ(至福)であるのに、どうしてあなたは「ああ!なんという至福だ!」と言ってそれを楽しむのでしょうか?
 これがラサースワーダ(至福の味)です。

 結婚式の間、処女は、男性に抱擁された経験がないのに花嫁として幸せを感じます。
 これがラサースワーダです。

質問者
 ジーヴァン・ムクティ(存命中の解脱)そのものがアーナンダである……

シュリ・バガヴァンが口を挟んだ。

マハルシ
 シャーストラ(聖典)を当てにしてはいけません。
 ジーヴァン・ムクティとは何でしょうか?
 アーナンダとは何でしょうか?
 解脱そのものが疑わしいのです。
 これらすべての言葉は何なのでしょうか?
 それらは真我から独立していることができるのでしょうか?

質問者
 私たちはこれらすべてを経験したことがないのです。

マハルシ
 ないものは常に失われ、あるものは、今ここに常に存在しています。
 これが万物の永遠の理法なのです。

(例:首の周りのネックレス)

891鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/31(火) 22:24:34 ID:1d4drIFg0

 聖典の言葉は全て実践のための手引きに過ぎないのじゃ。
 それを覚える打では、何の意味もないのじゃ。
 実践の妨げになるならば、有害にさえなるものじゃ。
 実践して聖典の意味を知ったならば、初めて役に立ったと言えるのじゃ。

892避難民のマジレスさん:2022/06/01(水) 17:06:38 ID:LjM.6Lro0
ラマナ・マハルシとの対話 345

シュリ・バガヴァンは、中断の後、こう続けた。

マハルシ
 心を探求することによって、心の力を破壊しなさい。
 心が調べられると、その活動は自動的に停止します。

 心の源を探すことが、もう一つの方法です。
 その源は、神、真我、あるいは意識と言われます。

 一つの想念に集中すると、他のすべての想念は消え、最後にはその想念もまた消えます。
 想念を制御している間は気づいている必要があり、そうでなければそれは眠りをもたらすでしょう。

質問者
 どうやって心を探求するのですか?

マハルシ
 呼吸の制御は助けにはなるでしょうが、目的地(ゴール)そのものに至ることは決してありえません。
 それを機械的に行っている間、心に油断なく注意を払い、「私」という想念を忘れずに、その源を探求しなさい。
 そうすれば、呼吸が沈むところが、「私」という想念が生じるところだとわかるでしょう。
 それらは共に沈み、上がります。
 「私」という想念もまた、呼吸とともに沈んでいきます。
 同時に、もう一つの輝く無限の「私-私」が現れますが、それは連続的で途切れることのないものです。
 それが目的地(ゴール)です。
 それは、神、真我、クンダリニー・シャクティ、意識などなど、さまざまな名前で呼ばれています。

 試みがなされれば、それが自ずとあなたを目的地に連れて行ってくれるでしょう。

893鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/01(水) 22:30:36 ID:1d4drIFg0

 マハリシが説いているのも止観なのじゃ。
 最初は呼吸などに集中して心を止めるのじゃ。
 しかしそれだけでは悟りは訪れないのじゃ。
 自分を観察して、自我の想念に気づくのじゃ。
 そうすれば無我になるのじゃ。
 さらに認識をも滅すれば、永遠の意識に至るのじゃ。
 それが大悟徹底の境地なのじゃ。

894避難民のマジレスさん:2022/06/02(木) 14:41:43 ID:fRv.y3Ww0
ラマナ・マハルシとの対話 346

自由意志と運命は、身体が続く限り続きます。
しかし、叡智はその両方を超越します。
なぜなら、真我は知識と無知を超越しているからです。

895避難民のマジレスさん:2022/06/03(金) 18:42:01 ID:1knILmX.0
ラマナ・マハルシとの対話 347

マハルシ
 心は想念の束です。
 想念が生じるのは、考える者がいるからです。
 考える者が自我です。
 自我は、探求されれば、自動的に消えます。
 自我と心は同じものです。
 自我は、そこから他のすべての想念が生まれる根源の想念です。

896鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/03(金) 22:44:03 ID:1d4drIFg0

 知識もまた観念に過ぎないものであるから、超越されるべきものなのじゃ。
 それは自我が作り出すものじゃ。
 自我がなければそれはなくなるのじゃ。
 ただ見るものがあるのじゃ。
 それさえもなくなれば悟りを得たことになるのじゃ。

897避難民のマジレスさん:2022/06/04(土) 20:28:15 ID:FUMr73XA0
ラマナ・マハルシとの対話 348

質問者
 人や物が、夢の中のように、ぼんやりとした、ほとんど透明な形をとるときがあります。
 人はそれらを外側から観察することをやめ、その存在を受動的に意識しますが、いかなる種類の利己心も積極的に意識しません。
 心の中には深い静寂があります。
 そのようなとき、真我に飛び込む準備ができているのでしょうか?
 それとも、この状態は不健全で、自己催眠の結果なのでしょうか?
 それは、一時的な安らぎを得る手段として奨励されるべきものなのでしょうか?

マハルシ
 心の中には静寂とともに意識があり、これがまさに目指されるべき状態なのです。
 それが真我であることに気づかずに、この点について質問が組み立てられるということが、その状態が確固たるものではなく、不定であることを示しています。

 「飛び込む」という言葉は、心が、外界の事物の水面下に潜るために、方向転換され内側に向けられる際の、外向的な傾向の状態にふさわしいものです。
 しかし、意識を妨げることなく、深い静寂が広がっているとき、潜る必要がどこにあるのでしょうか?
 もし、その状態が真我として認識されていないのであれば、そうするための努力は「飛び込む」と呼ばれます。
 その状態は、その点において、実現あるいは「飛び込む」に適していると言われるのです。
 したがって、最後の2つの質問は不要です。

質問者
 心は子供たちに対して偏愛を持ち続けています。
 ひょっとすると、理想を擬人化するために度々用いられる外観のせいかもしれません。
 どうしたらこの嗜好は失われるのでしょうか?

マハルシ
 真我を保持しなさい。
 なぜ子供たちや、彼らに対する反応について考えるのですか?

質問者
 今回のティルヴァンナーマライへの3度目の訪問は、私の中の自己本位の感覚を強め、瞑想をより容易でないものにしてしまったようです。
 これは重要でない一時的な状態なのでしょうか、それとも今後そのような場所を避けるべきというしるしなのでしょうか?

マハルシ
 それは想像上のものです。
 この場所や別の場所は、あなたの中にあるのです。
 そのような想像は、その場所が心の活動とは何の関係もないよう、終わらなければなりません。
 あなたの周りの環境さえ、あなた自身の意志ではなく、当たり前のようにそこにあるのです。
 あなたはそれらを超え、自分自身を巻き込まないようにしなければなりません。

898鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/04(土) 21:45:55 ID:1d4drIFg0

 ここではマハリシは内側に向けられた静寂な心を真我と言っているのじゃ。
 悟りとは違うものじゃ。
 悟りと等しい意味で使うこともあるのじゃ。
 つまり悟りから、悟りに導かれる心も含む、広範囲の意識を真我と呼んでいるのじゃ。
 真我は全てを含むものであるから、それでよいのじゃ。

899避難民のマジレスさん:2022/06/05(日) 20:14:58 ID:932BnNBU0
ラマナ・マハルシとの対話 349

シュリ・シャンカラの識別による救済への道

シュリ・ラマナ・マハルシによる注釈

(『ビジョン』の最新号には、シュリ・ラマナ・マハリシによるシュリ・シャンカラーチャーリャの『ヴィヴェーカ・チューダマニ』または『識別の宝冠』の翻訳に対して彼が書いた序文をS・クリシュナ氏、M.A.が翻訳した、以下の注釈が発表されている。)

この世に存在するすべての者は、悲しみの痕から解放されて常に幸せでありたいと願い、自分の真の本性ではない身体の病を取り除くことを望んでいます。
さらに、誰もが自分自身に対して最大の愛を抱いており、この愛は幸福がない場合には不可能です。
深い眠りの中では、すべてのものがないにもかかわらず、人は幸せであるという体験をします。
しかし、人は幸福そのものである自分自身の真の本性に無知であるために、幸福に至る正しい道を捨てて物質的存在の大海原で彷徨い、この世とあの世の快楽を得ることが幸福になる道であるという誤った信念の下に行動するのです。

安全な道しるべ

しかし、ああ!悲しみの痕のない幸福は実現されていません。
シヴァ神がシャンカラーチャーリャに姿を変えて、この至福の素晴らしさを讃える、ヴェーダーンタの三大聖典(プラスターナ・トラヤ)の解説書を書き、自らの人生の例によってそれを示したのは、まさに幸福へのまっすぐな道を指し示すためなのです。
しかし、これらの解説書は、赦免の至福を実現しようとするけれども、それらを研究する学識のない、熱心な求道者たちにはほとんど役に立ちません。

シュリ・シャンカラが、赦免を求める人々が把握しなければならない点を詳細に説明し、それによって彼らを真正でまっすぐな道へと導くよう、『識別の宝冠』というこの短い論説の中で、解説書の本質を明らかにしたのは、これらのためなのです。

学問は役に立たない

シュリ・シャンカラはこのテーマの冒頭で、人間の誕生を達成することは本当に難しいことであり、人は(それを達成したならば)真に自分の存在の本性である解脱の至福を実現するために努力しなければならない、と述べています。
この至福は、ジュニャーナあるいは知識によってのみ実現され、ジュニャーナは、ヴィチャーラあるいは着実な探究によってのみ達成されます。
この探究の方法を知るために、シュリ・シャンカラは、人はグルの恩恵を求めるべきだと言います。
それから彼は続けて、グルとそのシシュヤ(弟子)の資質、そして後者がどのように師に近づき、仕えるべきかを説明します。
彼はさらに、解脱の至福を実現するためには、自分自身の個人的な努力が不可欠な要素であることを強調します。
単なる書物の学習では、この至福は決して生じません。
それは、探究あるいはヴィチャーラを通してのみ実現され、シュラヴァナあるいはグルの戒律への献身的な注意、マナナあるいは深い黙想、ニディディアーサナあるいは真我への安定した姿勢の養成からなります。

3つの道

粗雑、微細、原因(コーザル)の3つの身体は、非真我であり、非実在です。
真我、または「私」は、それらとは全く異なるものです。
真我ではないものに、真我や「私」という見解を押し付けるのは無知のせいであり、これがまさに束縛です。
無知から束縛が生じるので、知識から解脱が生じます。
グルからこれを知ることが、シュラヴァナです。

5つの鞘(肉体、生気、精神、知性、歓喜)からなる3つの身体を「私」ではないとして拒絶し、その3つの身体すべてとは異なり、そしてアハムまたは「私」としてハートの中で唯一かつ普遍的に存在し、トヴァム(聖典の格言「タット・トヴァム・アシ」─汝それなり)という言葉で示されるもの、── ちょうど草の葉の葉柄が繊細に引き抜かれるように ── それを「私は誰か?」という微妙な問いかけを通して抽出すること、この微妙な探究の過程が、マナナあるいは深い黙想です。

900避難民のマジレスさん:2022/06/05(日) 20:37:12 ID:932BnNBU0
至福

名前と形の世界は、サットまたはブラフマンの付属物に過ぎず、それと異なるものではないことから、そのようなものとして否定され、そしてブラフマン以外の何ものでもないと肯定されます。
真我と至高者の同一性を宣言する、マハヴァーキャである、タット・トヴァム・アシという、グルによる弟子に対する指導がウパデーシャです。
それから、弟子は、絶対者である「私」、アハム・ブラフマンの至福の中に留まるようにと命じられます。
それにもかかわらず、心の古い傾向が厚く強く芽生え、(その至福の状態への)障害となります。
これらの傾向は三重であり、その根源である自我性は、ヴィクシェーパあるいは散逸(ラジャスによる)と、アーヴァラナあるいは包摂(タマスによる)の力によって引き起こされた外在化し分化した意識の中で繁茂するのです。

心を攪拌する

これらの力が破壊されるまでハートの中に心をしっかりと据えること、そして、 ── アハム・ブラフマスミ(私はブラフマンである)とブラフマ・イヴァーハム(ブラフマンだけが私である)という格言で表される ── アートマンの特徴である真の同質の傾向を、揺るぎない、絶え間ない警戒で呼び起こすことは、ニディディアーサナあるいはアートマーヌサンダーナ、すなわち真我への安住と呼ばれています。
これは、他ではバクティ、ヨーガ、ディヤーナと呼ばれています。

アートマーヌサンダーナは、バターを作るために凝乳を撹拌することに例えられ、心は撹拌棒に、ハートは凝乳に、真我への安住の実践は撹拌のプロセスに例えられます。
ちょうど凝乳を撹拌することによってバターが抽出され、摩擦によって火がつき、 ── 絶え間ない、油の途切れることのない糸状の流れのように ── 真我への揺るぎない油断のない安住によって、自然なあるいは不変のトランス、あるいはニルヴィカルパ・サマーディが生まれ、そしてそれが、知識であり体験であり、時間と空間を超えた、直接の、即時の、妨げられない、そして普遍的なブラフマンの知覚を容易に、自然にもたらすのです。

無限の至福

これが真我実現であり、それによって、フリダヤ・グランティまたはハートの結び目が切り離されます。
この結び目を構成している、無知の誤った妄想や、悪性の長年の心の傾向は、破壊されます。
すべての疑念は払拭され、カルマの束縛は断ち切られます。

このように、シュリ・シャンカラは、この『識別の宝冠』の中で、疑いと二元性を超えた解脱の無限の至福であるサマーディや超越したトランスを説明し、同時に、その達成のための方法を示しています。
この二元性から自由の状態を実現することが、人生の至高善です。
そして、それを勝ち取った者だけが、ジーヴァン・ムクタ(生きている間に解脱した者)であり、プルシャールタあるいは人間の努力の望ましい究極の目的を構成するものについて単に理論的に理解している者ではありません。

最終的な解脱

このように、ジーヴァン・ムクタは三重のカルマ(サンチタ、アーガーミ、プラーラブダ)の束縛から解放されていると宣言されます。
この段階に到達した弟子は、自分の個人的な体験を話します。
解脱した者は本当に好きなように自由に行動し、死すべき体を離れるときに赦免を遂げ、この「死である生」に戻ることはありません。

シュリ・シャンカラはこのように、解脱を含意する実現を、上記のように二重のものとして、すなわちジーヴァン・ムクティ(生きている間の解脱)とヴィデーハ・ムクティ(身体を離れた後の解脱)として説明しています。
さらに、グルとその弟子との対話形式で書かれたこの短い論説の中で、彼は多くの関連する主題を考察しています。

901 さと:2022/06/05(日) 23:33:54 ID:1d4drIFg0

 これはシャンカラの本の序文だというのじゃ。
 ほぼ悟りへの道の概要を示しているのじゃ。
 苦から逃れるための動機から、観念を捨てて悟りに至る道なのじゃ。
 仏教とも通じる道なのじゃ。

902鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/05(日) 23:34:41 ID:1d4drIFg0
上もわしなのじゃ。

903避難民のマジレスさん:2022/06/06(月) 14:23:13 ID:Uyqn4ylU0
上のシャンカラの話に、5つの鞘(肉体、生気、精神、知性、歓喜)からなる3つの身体を「私」ではないとして拒絶し
とありますが、

http://samten.seesaa.net/article/455727606.html
歓喜鞘の内の、我執球が末那識、心素球が阿頼耶識に対応していると考えてもいいのでしょうか?

904避難民のマジレスさん:2022/06/06(月) 14:29:03 ID:Uyqn4ylU0
1心を攪拌するこれらの力が破壊されるまでハートの中に心をしっかりと据えること
2アートマンの特徴である真の同質の傾向を、揺るぎない、絶え間ない警戒で呼び起こすこと

1.2についてもう少し解説をお願いします!

905避難民のマジレスさん:2022/06/06(月) 16:53:28 ID:IMSfZzUs0
日本語訳がわかりにくいかもしれないので
該当箇所の英語版も置いておきますねm(__)m

*To reject the three bodies consisting of the five sheaths (physical, vital,
mental, gnostic and blissful) as not ‘I’

*THE BEATITUDE: The world of name and form is but an adjunct of
Sat or Brahman, and being not different from it is rejected as such
and is affirmed as nothing else but Brahman. The instruction by the
Guru to the disciple of the Mahavakya, Tat-tvam-asi, which declares
the identity of the Self and the Supreme, is upadesa. The disciple is
then enjoined to remain in the beatitude of Aham-Brahman - ‘I’ the
Absolute. Nevertheless the old tendencies of the mind sprout up thick
and strong and form an obstruction (to that state of beatitude). These
tendencies are threefold and egoism, which is their root, flourishes in
the externalised and differentiating consciousness caused by the forces
of vikshepa or dissipation (due to rajas) and avarana or envelopment
(due to tamas).

*CHURNING THE MIND: To install the mind firmly in the heart until
these forces are destroyed and to awaken with unswerving, ceaseless
vigilance the true and cognate tendency which is characteristic of
the Atman and is expressed by the dicta, Aham Brahmasmi (I am
Brahman), and Brahmaivaham (Brahman alone am I) is termed
nididhyasana or atmanusandhana, i.e., constancy in the Self. This is
otherwise called Bhakti, Yoga and Dhyana.

906避難民のマジレスさん:2022/06/06(月) 17:07:10 ID:IMSfZzUs0
1937年2月6日

ラマナ・マハルシとの対話 350

非常に誠実な弁護士の帰依者であるG.シャンムガム氏と話しているとき、バガヴァンは述べた。

マハルシ
 シャーストラによると、人は真我実現を得るために12年間グルに仕えなければならないそうです。
 グルは何をするのでしょうか?
 弟子にそれを渡すのでしょうか?
 真我は常に実現されているのではないのでしょうか?
 では、その通説は何を意味するのでしょうか?
 人は常に真我でありながら、それを知りません。
 彼はそれを非真我、すなわち身体などと混同しています。
 そのような混乱は、無知によるものです。
 もし無知が一掃されれば、混乱はなくなり、真の知識が開かれるでしょう。
 実現した聖者と交際し続けることで、人は徐々に自分の無知を失い、やがてその除去は完了します。
 永遠の真我は、こうして明らかにされるのです。

 これがアシュターヴァクラとジャナカの物語が伝えている意味です。
 その逸話は書物によって異なります。
 私たちは名称と装飾には関心がありません。
 タットヴァ、すなわち寓意が見失われてはいけないのです。
 弟子は師に自分自身を明け渡します。
 それは、弟子によって維持される個人性の痕跡がまったく存在しないという意味です。
 もし明け渡しが完全であれば、すべての個人性の感覚は失われ、したがって、不幸の原因もなくなります。
 永遠の存在とは、幸福に他なりません。
 それが明らかにされるのです。

 それを正しく理解せずに、人々は、グルは弟子に「タット・トヴァム・アシ」のようなものを教え、弟子は「私はブラフマンである」を実現すると考えています。
 無知なので、彼らはブラフマンを他の何よりも巨大で強力なものとして想像しています。
 限定された「私」で、人はこれほど高慢で狂暴なのです。
 同じ「私」が巨大に成長したらどうなるでしょうか?
 彼はとてつもなく無知で愚かになるでしょう!
 この偽りの「私」が滅びなければならないのです。
 その絶滅がグル・セーヴァー(グルへの無私の奉仕)の成果です。
 実現は永遠であり、それはグルによって新たにもたらされるものではありません。
 彼は無知を取り除く助けをします ── ただそれだけなのです。

907避難民のマジレスさん:2022/06/06(月) 21:54:24 ID:Uyqn4ylU0
>>905ありがとうございます!
「この心臓には5つの神孔あり。その東方の孔は生気なり」
(チャーンドギァ・ウパニシャッドIII-13-1)
歓喜鞘上部にある五つのプラーナが流出している門は常知覚できているので
ハートセンターの場所はおそらく掴めています。
今は集中してひたすらここに私の実感を探求しています。

これが、心を攪拌するこれらの力が破壊されるまでハートの中に心をしっかりと据えること
で大丈夫でしょうか?

908鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/06(月) 22:45:15 ID:1d4drIFg0
>>903 違うのじゃ。
 末那識や阿頼耶識は肉体に存在しているものではないのじゃ。
 謬見により、起こっているものの名称なのじゃ。
 心の働きであり、悟りとともに滅するものであるから、霊眼であろうが見ることはできないのじゃ。

>>904 つまりは集中して雑念が起こらないようなるまで実践することなのじゃ。

 そして瞑想の静寂な心の静まった状態に常に留意するこどというのじゃ。
 分別の無い意識の状態を、常に保つようにするのじゃ。
 そうすれば観察に適した心の環境が整うのじゃ。
 実践して確かめるのじゃ。

909鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/06(月) 22:48:13 ID:1d4drIFg0
>>907 それでよいのじゃ。
 雑念が自ら静まっていくまで、集中し続けることなのじゃ。
 そうすれば次の状態にも近づいていくのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

910避難民のマジレスさん:2022/06/07(火) 09:23:38 ID:Uyqn4ylU0
おそらく原因体(歓喜鞘)のどこかに同一化しているのでひたすら観察していきます。
ありがとうございます。

911避難民のマジレスさん:2022/06/07(火) 10:59:29 ID:Uyqn4ylU0
1あと最近脳が静まっていても首に意識が行くことが増えてきたんですがこれは何なのでしょうか?
2心臓にサンヤマをほどこすならばチッタ(心)を知ることができる。(ヨーガスートラ)
2の詳細も解説をお願いしたいです。

912避難民のマジレスさん:2022/06/07(火) 11:12:37 ID:Uyqn4ylU0
すいませんこれ以降別のスレッドで質問します。
鬼和尚、906見逃しています。

913避難民のマジレスさん:2022/06/07(火) 12:34:06 ID:Uyqn4ylU0
911ですが、首に意識が行ったときにただ気付いている意識という感じで
そこが清浄であるのでそれを本心としてしまっている。という感じです。
ただこれも超えられそうという感じがしています。

914鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/07(火) 22:10:34 ID:1d4drIFg0
>>911 意識が脳から神経に移ってきたのじゃ。
 脳が止まったからなのじゃ。
 更に続ければ肉体の外にも意識が感じられるようになるじゃろう。
 恐れずに実践し続けるのじゃ。

 つまり心臓に集中すれば、自他の心の働きがわかるということなのじゃ。
 心の働きはそこで行われているからなのじゃ。
 
 そうであるから集中の法では、それもまた奨励されるのじゃ。
 実践して確かめてみるのじゃ。

915避難民のマジレスさん:2022/06/08(水) 15:59:29 ID:bljtR/Ek0
ラマナ・マハルシとの対話 351

セーラムの元保健衛生官、スブラマニア・アイヤール博士が、「この世は束の間のものであり、世俗の快楽は無益であることを知るべきである。それゆえ、それらから嫌悪して離れ、感覚を抑え、真我に瞑想して実現すべきである」という教えが含まれた一節を読み上げた。

シュリ・バガヴァンは述べた。

マハルシ
 人は、この世が束の間のものであるということをどのように知るのでしょうか?
 永続的なものをがとらえられないかぎり、この世の束の間の性質を理解することはできません。
 人はすでに真我であり、真我は永遠の実在であるため、彼の注意はそれに引き寄せられます。
 そのため彼は、永遠の実在である真我に自身の注意を留めるよう教示されるのです。

916鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/08(水) 21:46:28 ID:1d4drIFg0

 人が世間を束の間のものとわかるのは、真我に触れているからとマハリシは言うのじゃ。
 深い眠りの中や、生まれる前に人はそれを経験しているのじゃ。
 苦のない永遠の意識はそれによって感じることができるのじゃ。
 そこに帰ろうとする想念が悟りに導く意志となるのじゃ。

917避難民のマジレスさん:2022/06/09(木) 20:04:56 ID:lyR1iwAw0
ラマナ・マハルシとの対話 352

さまざまな信条

 想念は主体と客体として立ち上がる。
 「私」だけが保持されると、他のすべては消滅する。
 それで十分だが、資格ある少数の者にとってのみである。

 他の者たちが主張した。

 「全くそうだ。
  私が眠っている間に存在している世界は、私が生まれる前から存在したし、私が死んだ後も存在するだろう。
  他の者たちはそれを見ないのだろうか?
  私の自我が現れなければ、世界は消滅するというのだろうか?」
  
 世界の成り立ちや様々な学派は、そのような人々を満足させるためのものである。

質問者
 しかし、知性の産物でしかないので、それらが心を内側に向けることはできません。

マハルシ
 まさにこのために、聖典は「内を見ること」「一点集中して見ること」などについて語っているのです。

 真我は常に真我であるのに、なぜディーラだけに光が当てられるのでしょうか?
 それは勇気ある人という意味でしょうか?
 いいえ、ディー=知性、ラハ=注視、保護です。
 それゆえ、ディーラとは、心を弛めさせることなく、常に内側に向けたままにしておく人のことなのです。

918鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/09(木) 21:39:12 ID:1d4drIFg0

 世界が一つであるとか、三つであるとかいうのはただ好奇心を満足させるためだけにあるものじゃ。
 それらが真の悟りに導くことはないのじゃ。
 そうであるから聖典には自分の心を集中して観ることが勧められているのじゃ。
 それこそが人を悟りに導く実践であるからなのじゃ。

919避難民のマジレスさん:2022/06/10(金) 20:40:51 ID:uTVwmeWc0
1937年2月8日

ラマナ・マハルシとの対話 353

質問者
 トゥリーヤとは何ですか?

マハルシ
 覚醒、夢、眠りという3つの状態しか存在しません。
 トゥリーヤは4つ目の状態ではなく、これら3つの根底にあるものです。
 しかし、人々は容易にそれを理解しません。
 それゆえ、これが4つ目の状態であり、唯一の実在であると言われているのです。
 実際には、それは何からも離れていません。
 なぜならそれは、すべての出来事の土台を形成しているからです。
 それは唯一の真理であり、あなたの存在そのものなのです。
 3つの状態は、その上で儚い現象として現れ、その後、その中にただ沈んでいきます。
 したがって、それらは非実在です。

 映画館の映像は、スクリーンの上を通り過ぎる影にすぎません。
 それらは登場し、前進したり後退したり、次から次へと変化します。
 したがってそれらは非実在ですが、スクリーンはずっと変化していません。
 絵画も同様です。
 画像は非実在であり、キャンバスは実在です。
 私たちも同様です。
 世界の現象は、内であれ外であれ、私たちの真我から独立していない一過性の現象に過ぎないのです。
 ただ、それらを自分の外にある実在とみなす習慣が、私たちの真の存在を隠し、他を現出させる原因となっているのです。
 常に存在する唯一の実在である真我が見つかれば、他のすべての非実在のものは、それらが真我以外の何ものでもないという知識を残して消え去るでしょう。

 トゥリーヤは、真我の別名にすぎません。
 覚醒、夢、眠りの状態に気づいていながら、私たちは自分自身の真我に気づいていません。
 しかし、真我は今ここにあり、それが唯一の実在なのです。
 それ以外には何もありません。
 身体との同一化が続く限り、世界は私たちの外側にあるように見えます。
 ただ真我に気づきなさい。
 そうすれば、それらは存在しません。

920鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/10(金) 21:33:42 ID:1d4drIFg0

 通常のインドの教義では起きている状態、寝て夢を見ている状態、熟睡状態とは違うものとしてトゥリーヤがあるというのじゃ。
 しかし、マハリシは実際にはそれこそが唯一の実在と説くのじゃ。
 それは真我でもあり、全てであるというのじゃ。
 それが大乗の言う真如であり、永遠の意識なのじゃ。
 それ以外のものは幻影の観念に過ぎないのじゃ。

921避難民のマジレスさん:2022/06/11(土) 20:19:04 ID:8gqKogHk0
ラマナ・マハルシとの対話 354

神智学者であるアメリカ人の女性が尋ねた。

質問者
 私の師へのアプローチをより近づけさせることができる手段は何でしょうか?

マハルシ
 あなたは今、彼からどれくらい離れていますか?

質問者
 私は彼から離れています。
 しかし、私はもっと近づきたいのです。

マハルシ
 あなたがまず最初に自分の真我を知れば、次に他者がどれだけ離れているかを見いだすでしょう。
 あなたは今誰ですか?
 あなたは人格ですか?

質問者
 はい、私は人格です。

マハルシ
 人格は真我から独立していますか?

質問者
 時々です。

マハルシ
 いつですか?

質問者
 私は実在の閃光を得る時がありますが、他の時にはないという意味です。

マハルシ
 誰がその閃光に気づいていますか?

質問者
 私、つまり人格を意味しています。

マハルシ
 この人格は、自己から離れていることに気づいていますか?

質問者
 どの自己ですか?

マハルシ
 人格はどちらだと思いますか?

質問者
 低次の自己です。

マハルシ
 それでは尋ねましょう。
 低次の自己は高次の自己から独立して気づいているのですか?

質問者
 はい、時々。

マハルシ
 ちょうど今、師から離れているということを、誰が感じているのでしょうか?

質問者
 高次の自己です。

マハルシ
 高次の自己には身体があり、その身体が「師は離れている」と言うのですか?
 それはあなたの口を通して話すのですか?
 あなたはそれから離れているのですか?

質問者
 睡眠中のように、身体がなくても自分の行為に気づくよう、自分自身を訓練できる方法を教えていただけますか?

マハルシ
 気づきはあなたの本性です。
 深い眠りの中でも目覚めていても、それは同じです。
 どうしてそれが新たに手に入れられるというのでしょう?

質問者
 しかし私は、睡眠中に何をしたかを覚えていません。

マハルシ
 誰が「私は覚えていません」と言っているのですか?

質問者
 私が今言っています。

マハルシ
 あなたはその時も同じでした。
 なぜ睡眠中にそう言わないのですか?

質問者
 私は睡眠中に何を言ったのか覚えていません。

マハルシ
 あなたは、目覚めた状態で、「私は知っている、私は覚えている」と言います。
 この同じ人格が、「睡眠中に私は知りませんでした、私は覚えていませんでした」と言うのです。
 なぜこの質問は睡眠中に起こらないのですか?

922避難民のマジレスさん:2022/06/11(土) 20:36:11 ID:8gqKogHk0
質問者
 私には睡眠中に何が起きるのか知りません。
 それが、私が今尋ねている理由です。

マハルシ
 その疑問は睡眠状態に関わっているので、そこで提起される必要があります。
 それは覚醒状態に関わっていないので、それに明白な理由はありません。

 実際は、睡眠中は制限がなく、疑問も生じません。
 ところが今、あなたは制限を課し、自分自身を身体と同一視するため、この種の疑問が生じるのです。

質問者
 私はそれを理解していますが、実現していません(つまり、多様性の中の単一性)。

マハルシ
 あなたは多様性の中にいるので、単一性を理解している、閃光を得た、物事を覚えているなどと言うのです。
 あなたはこの多様性を実在だと思っています。
 それに反して、単一性は実在であり、多様性は偽りです。
 単一性がそれ自体を、その実在を明らかにする前に、多様性は去らなければなりません。
 それは常に実在です。
 それは、この偽りの多様性の中に自身の存在の閃光を放つことはありません。
 それどころか、この多様性が真理を妨げるのです。

それから他の者たちが会話を続けた。

マハルシ
 無知の除去が実践の目的であり、実現の獲得ではありません。
 実現は常に存在し、今ここにあります。
 それが新たに獲得されるものであれば、実現は、ある時点では存在せず、別の時点では存在すると理解されなければなりません。
 その場合、それは永続的ではないため、試みる価値はありません。
 しかし、実現は永続的で不滅であり、今ここにあります。

質問者
 無知を取り除くには恩寵が必要です。

マハルシ
 その通りです。
 しかし、恩寵はずっとそこにあります。
 恩寵が真我です。
 それは獲得されるものではありません。
 必要なのはその存在を知ることだけです。
 たとえば、太陽は輝きのみあり、闇を見ません。
 とろこが他の人たちは、太陽が近づくと消える闇について話します。
 同様に、無知もまた幻影であり、実在ではありません。
 非実在であるため、その非実在性が見つけられれば、取り除かれたと言われるのです。

 繰り返しますが、太陽はそこにあり、また輝いています。
 あなたは日の光に包まれています。
 それでも、あなたが太陽を知りたいなら、あなたはその方向に目を向けて、それを見なければなりません。
 ですから、恩寵も今ここにありますが、実践によってのみ見つけられるのです。

質問者
 絶えず明け渡したいという願望によって、より大きな恩寵が経験されることを願っています。

マハルシ
 きっぱりと明け渡し、願望を終わらせなさい。
 行為者の感覚が保たれている限り、願望があります。
 それもまた人格です。
 これが消えれば、真我は純粋に輝きを放っていることがわかります。

 行為者の感覚が束縛であり、行為そのものではありません。
 
 「静かにして、私が神であると知りなさい」
 ここでの静けさは、個人性の痕跡のない完全な明け渡しです。
 静けさが広がり、心の動揺はありません。
 心の動揺が、願望や行為者の感覚や人格の原因です。
 それが止められれば、静寂があります。
 そこでは「知ること」とは「存在する」という意味です。
 それは、知識、主体、客体という三位を伴う相対的な知識ではありません。

質問者
 「私は神です」または「私は至高の存在です」という考えは役に立ちますか?

マハルシ
 「私は私で在るものである(I AM that I AM)」。
 「私は在る(I AM)」が神です。
 「私は神である」と考えるのではありません。
 「私は在る」を認識しなさい。
 「私は在る」と考えてはいけません。
 「私が神であると知りなさい」と言われているのです。
 「私が神であると考えなさい」ではありません。

923避難民のマジレスさん:2022/06/11(土) 20:43:09 ID:8gqKogHk0
その後、シュリ・バガヴァンは続けた。

マハルシ
 「私は私で在るものである」と言われています。
 それは、人は「私」としてとどまらなければならないということです。
 彼はいつも「私」だけなのです。
 彼は他の何ものでもありません。
 それでも彼は「私は誰ですか?」と尋ねます。
 幻想の犠牲者は「私は誰ですか?」と尋ねるでしょうが、自分自身を完全に気づいている人はそうではありません。
 真我と非真我の誤った同一視が、あなたに「私は誰ですか?」と尋ねさせるのです。

さらに後…

マハルシ
 ティルヴァンナーマライへのさまざまなルートがありますが、ティルヴァンナーマライはどのルートを取っても同じです。
 同様に、主体へのアプローチは人格によって異なります。
 しかし、真我は同じです。
 しかしそれでも、ティルヴァンナーマライにいながら、ルートを尋ねるなら、それは滑稽です。
 ですからまた、真我でありながら、真我を実現する方法を尋ねるなら、それはばかばかしいように見えます。
 あなたは真我です。
 真我としてありなさい。
 以上です。
 疑問は、真我と身体との現在の誤った同一視のために生じます。
 それは無知です。
 これが消えなければなりません。
 それが除去されれば、真我だけがあります。

924鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/11(土) 22:53:44 ID:1d4drIFg0

 グルの恩寵をえるための願望とか、アプローチを近づけさせる手段とかは自我の抵抗に過ぎないのじゃ。
 自分を放棄しないために、そのような遠回りの方法を考え出すのじゃ。
 それもまた幻想の自我に依存しているからなのじゃ。
 考えるのではなく、自分を観ることで気づくだけで真我も実現するのじゃ。

925避難民のマジレスさん:2022/06/12(日) 16:35:10 ID:KL8/a/wE0
ラマナ・マハルシとの対話 355

質問者
 教養は聖者を、無教養よりも世の中により役立たせるのではないでしょうか?

マハルシ
 学問のある人でも、無学な賢者の前では頭を下げなければなりません。

 無教養は無知であり、教養は学識のある無知です。
 それらは共に真の目的に対して無知なのです。
 一方、聖者は無知ではありません。
 なぜなら彼には目的がないからです。

926鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/12(日) 22:28:29 ID:1d4drIFg0

 教養や道徳も本来は悟りを得るためのものだったのじゃ。
 しかし今では世間の欲のための手段となってしまったのじゃ。
 金や権力や名声という目的のために、教養や道徳が学ばれるようになったのじゃ。
 それは悟りという本来の目的には無知なのじゃ。
 目的を果たした聖者は、そのような教養や道徳の真の目的を知っているから無知ではないのじゃ。

927避難民のマジレスさん:2022/06/13(月) 20:22:31 ID:vp.zmIcw0
ラマナ・マハルシとの対話 356

質問者
 なぜ、この世に眠りがあるのでしょうか?

マハルシ
 ただ罪のためだけに。

質問者
 それは破壊されうるのでしょうか?

マハルシ
 はい。

質問者
 眠りは、それ自体を悟らせた後にのみ終わるのだそうです。

マハルシ
 では、なぜ神に帰依するのでしょうか?

質問者
 眠りはどうしたら破壊されるのですか?

マハルシ
 その活動や結果を意識せずにいなさい。

質問者
 それはどのようになされるのですか?

マハルシ
 真我を探究することによってのみです。

928鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/13(月) 22:02:15 ID:1d4drIFg0

 悟りを得ていなければ眠りは常にあるじゃろう。
 肉体と精神の疲れを癒すためなのじゃ。
 悟ればもはや眠りはないのじゃ。
 肉体は休める時があっても、精神は常にあり続けるからなのじゃ。

929避難民のマジレスさん:2022/06/14(火) 20:13:21 ID:.UpKQqtA0
ラマナ・マハルシとの対話 357

回顧録

シュリ・バガヴァンは、ティルヴァンナーマライに滞在していた時の出来事をいくつか語った。

1. ある日、彼は、葉の上に小さな粒のようなものを舐め取るようにと与えられた。それは消化をよく助けると言われていた。彼はそれを舐めた。その後、食事をした。しばらくすると、集まった人々が光に包まれているように見えた(テージョーマヤ)。その体験はしばらくしてなくなった。

2. パヴァラクンルに住んでいたとき。彼は丘の中腹にある細流の一つで水浴びをするつもりだった。パラニ・スワミはそのことを知らされた。その噂は広まり、丘に住んでいたジャダ・パドマナーバ・スワミがパラニ・スワミと手配して、シュリ・バガヴァンを彼の小屋近くの丘に連れて行った。パラニ・スワミはシュリ・バガヴァンに知らせることなく、どうにか彼をそこに連れて行くことに成功した。すばらしい歓迎が彼を待ち受けていた。席が彼のために整えられ、牛乳や果物が供され、ジャダ・パドマナーバ・スワミは心を尽くして彼をもてなした。

3. ジャダ・パドマナーバ・スワミは、『真我実現』という本の中では、シュリ・バガヴァンを傷つけようとしたように表現されているが、彼には本当に親切で、彼の悪戯が悪意ある行為だと誤解されたのだ。彼の唯一の弱みは、資金調達のためにシュリ・バガヴァンを利用にしようとしたことだった。もちろんそれをマハルシは好まない。ジャダ・パドマナーバ・スワミには何の問題もなかったのだ。

4. 従者のマーダヴァ・スワミが、シュリ・バガヴァンは寺院の地下室に何ヶ月も食べ物なしでいたのかと尋ねた。

マハルシ
 うむ!うむ!ミルクや果物など、食べ物は手近に得られましたが、いったい誰が食べ物のことを考えるというのでしょう。

5. マンゴー樹の洞窟に滞在している間、シュリ・バガヴァンは寺院の像に、蓮や黄色い花(サラコンナイ)や緑の葉で花輪をよくつくっていた。

6. カリャナ・マンタパムが完成した後、シュリ・バガヴァンは変装して一晩そこに滞在した。

7. 寺院の敷地内の木の下に座っていたとき、バガヴァンは埃にまみれていた。なぜなら、以前は彼は決して水浴びをしなかったからだ。12月の寒い夜、バガヴァンは脚をたたみ、頭を脚の間に置き、動かずにそこに留まっていた。早朝になると、彼の体についた埃の層が露と霧に濡れて白く見えた。太陽の下で乾燥させると、黒く見えた。

8. 丘に住んでいた時、シュリ・バガヴァンはジャダ・パドマナーバ・スワミのプージャー(儀式)を手伝い、鐘を鳴らし、器を洗うなどしていたが、ずっと黙っていた。彼はまた、マラヤーラム語の 『アシュタンガ・フリダヤム』 などの医学書を読み、他のサードゥの助けを求める患者のために、その本に書かれている治療法を指南することもあった。そのサードゥ自身は、これらの書物の読み方を知らなかった。

930鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/14(火) 21:59:50 ID:1d4drIFg0

 悟りを得れば肉体を気にかけなくなるから食べなかったり、洗わなかったりするのじゃ。
 しかし、衆生のために法を説くならば、肉体が必要になるから食べたり、洗ったりするのじゃ。
 生きるのもただ衆生のためなのじゃ。
 肉体が滅びていくのも惜しくはないのじゃ。

931避難民のマジレスさん:2022/06/15(水) 17:57:36 ID:7UPy86HY0
1937年2月12日

ラマナ・マハルシとの対話 358

ホールでの一場面

午後8時20分。
シュリ・バガヴァンは夕食を終えて戻り、ソファーの上で体を伸ばしていた。
明かりは薄暗く、床に3人の男が座っている。
一人は雑誌から何かを写すのに忙しく、もう一人は瞑想に没頭し、三人目は手持ち無沙汰に周囲を見回している。
シュリ・バガヴァンが時折喉を鳴らす以外、ホールは静まり返っている。

侍従の帰依者マーダヴァ・スワミが、キンマの葉の束を手に音もなく静かに入ってくる。
彼はテーブルへ移動する。
ソファに横になっていたシュリ・バガヴァンは、彼を見て、優しく声をかける。

マハルシ
 しー、しー、何をしているのですか?

侍従はそっと「何も…」とつぶやき、キンマをそこに置き、口ごもる。

マハルシ
 私には必要ありません。

 (侍従はそっと床の上に腰を下ろす)

 カストゥーリーの錠剤 ── 毎日、次から次へと…瓶が空になります ── そのうえ、さらに注文されるのです。
 私には必要ありません。

ある帰依者が、シュリ・バガヴァンの健康が思わしくないことを、巧みに昼食のオジャ・ポドリーダのせいにする。

マハルシ
 いえ、いえ、よくできていましたよ。
 それは良いものでした。

沈黙…痰とげっぷを除いて。

数分後、侍従が静かに抜け出して瓶を手に戻ってくると、シュリ・バガヴァンの近くに行き、「クミンの種の錠剤です」と言って一錠差し出す。

シュリ・バガヴァンはそっとつぶやく。

マハルシ
 それにはライムの果汁が入ってます。
 ライムの果汁はこれには良くないのです。

帰依者の一人、ランガスワミー・アイエンガールは、その間に瞑想からすっかり覚め、その様子を見ている。
侍従はまだ錠剤を持った手を差し出している。

シュリ・バガヴァンは続ける。

マハルシ
 誰がそれを噛むのですか?

ランガスワミー・アイエンガール
 噛む必要はありません。
 口の中に入れて、舐めればよいのです。

侍従は慌てて同意する。

侍従
 そうです、そうです。
 舐めるだけです。

マハルシ
 彼に渡してください。

 (ランガスワミー・アイエンガールを指差す)

 彼が噛むか、舐めればよいのです。
 私には必要ありません。

 (侍従はがっかりて戻り、床にしゃがみ、再び立ち上がる)

マハルシ
 えー!えー!何をするのですか?
 いりませんよ。

侍従は「カストゥーリーの錠剤…効きます」とつぶやきながら、薬棚の前まで移動する。

シュリ・バガヴァン
 それがなくても、私は直によくなるでしょう。
 取り出さないでください。
 えー!えー!そこに置いておきなさい。
 私は飲みませんから…好きにしなさい。

 (侍従は再び腰を下ろし、皆は床に就くまで黙っている)

932避難民のマジレスさん:2022/06/16(木) 16:18:42 ID:64.El.9Q0
1937年2月13日

ラマナ・マハルシとの対話 359

午前7時30分頃、シュリ・バガヴァンは朝食を終えて丘に登っていた。
パダーナンダは行ってひれ伏し、立ち上がって、「確かに、私はダルシャンを受けました…私は戻ります」と言った。

シュリ・バガヴァンは微笑みながら…「誰のダルシャンですか?なぜ、あなたが私にダルシャンを与えたと言わないのですか?」

午前9時頃、プーナの帰依者(パルキ氏)がシュリ・バガヴァンに敬礼し、シュリ・バガヴァンの恩寵を祈願するアシュタカム(詩)を読み上げた。
その作品は、迅速な解脱(ジャティティ・ムクティ)の祈りで終わっており、その帰依者はそれを強調した。

マハルシ
 ムクティ、すなわち解脱は、今後得られるものではありません。
 それは今ここに、永遠にあるのです。

質問者
 同意しますが、私はそれを体験していないのです。

マハルシ
 その体験は、今ここにあるのです。
 人は、自分自身の自己を否定することはできません。

質問者
 それは存在であって、幸福ではないということですね。

マハルシ
 存在=幸福=在ること。
 ムクティ(解脱)という言葉は、とても刺激的です。
 なぜ人はそれを求めるのでしょうか?
 彼は束縛があると信じているので、解脱を求めるのです。
 しかし、実際には、束縛はなく、解脱だけがあります。
 なぜそれを名前で呼び、それを求めるのでしょうか?

質問者
 その通りです…しかし、私たちは無知なのです。

マハルシ
 ただ無知を取り除きなさい。
 なされるべきことはそれだけです。

933鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/16(木) 23:32:37 ID:1d4drIFg0

 悟りとはつまるところ気づくこと、知ることに尽きるのじゃ。
 今自分と認識しているものが、自分ではないと気づくことが悟りの始まりなのじゃ。
 さらに自分という観念さえもないと気づくのじゃ。
 観念そのものも幻想と気づいて捨てられれば、大悟徹底なのじゃ。

934避難民のマジレスさん:2022/06/17(金) 19:30:37 ID:N8xCb/AQ0
1937年2月14日

ラマナ・マハルシとの対話 360

ラクナウの上流階級の紳士はポール・ブラントン氏に、彼の妻がシュリ・バガヴァンへの訪問によって得ていた心の平和を失ってしまったので、彼はシュリ・バガヴァンが同じ平和を回復してくれることを望んでいる、と手紙を書いた。

その願いに対し、シュリ・バガヴァンは「一度得た平和が後に失われてしまうのは、心の弱さのためです」と言った。

935鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/17(金) 22:39:31 ID:1d4drIFg0

 実践を続けてサマーディに達したとしてもも実践をやめれば入れなくなるのじゃ。
 実践を続けられないのが、心の弱さなのじゃ。
 悟りを得られれば、もはや実践も要らなくなるのじゃ。
 悟りを得るまで油断せずに実践し続けるのが大事なのじゃ。

936避難民のマジレスさん:2022/06/18(土) 20:19:48 ID:3JHk7lKI0
ラマナ・マハルシとの対話 361

シュリ・バガヴァンに毎日ビクシャー(施しもの)を持ってくる女性の息子であるムダリアール・スワミは、次のような興味深い出来事を語った。

シュリ・バガヴァンがヴィルーパークシャ洞窟に滞在していた時、彼とムダリアール・スワミはスカンダアシュラマムの裏を一緒に歩いていた。

そこには高さ15フィートほどの大きな岩があり、それは裂け目になっていて、少女(羊飼いの娘)がそこに立って泣いていた。
シュリ・バガヴァンは彼女の悲しみの理由を尋ねた。

彼女は「私の羊がこの裂け目に滑り込んだので、私は泣いているのです」と言った。

シュリ・バガヴァンはその裂け目に降りて、羊を肩に乗せ、表面に登って、彼女に羊を届けた。

ムダリアール・スワミは、「それは誰にとっても、非常に素晴らしい偉業だった」と言う。

937鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/18(土) 22:25:31 ID:1d4drIFg0

 さすがじゃ。
 恐れがないからそのようなこともできるのじゃ。
 命を捨ててもよいと思っているわけではないがのう。
 自我がないから恐れなく行動できるのじゃ。

938避難民のマジレスさん:2022/06/19(日) 20:12:15 ID:Aw7bFW0A0
ラマナ・マハルシとの対話 362

ネロールの大学教授であるスッバラーミアー氏が、ムクティ(解脱)について尋ねた。

マハルシ
 ムクティに関する質問はすべて認められません。
 なぜなら、ムクティとは束縛からの解放を意味し、それは束縛が現在存在していることを暗示するからです。
 束縛は存在せず、したがってムクティも存在しないのです。

質問者
 シャーストラ(聖典)は、ムクティとその等級について述べています。

マハルシ
 シャーストラは賢者のためのものではありません。
 なぜなら彼らはそれらが不要だからです。
 無知な人たちはそれらを欲しません。
 シャーストラを尊ぶのは、ムムクシュ(解脱を志す者)だけです。
 つまり、シャーストラは、知恵のためのものでも、無知のためのものでもないのです。

質問者
 ヴァシシュタはジーヴァン・ムクタ(生きている間に解脱した者)と言われていますが、ジャナカはヴィデーハ・ムクタ(身体を離れた後に解脱した者)でした。

マハルシ
 なぜヴァシシュタやジャナカについて話すのでしょうか?
 自分自身のことはどうなのですか?

939鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/19(日) 23:29:13 ID:1d4drIFg0

 解脱も本来は言葉では語られないものじゃ。
 まだ悟りを得ていない者のために、仮に言葉にしているだけなのじゃ。
 それについて聞いたり論じたりするのは、無意味なのじゃ。
 自分がわからないことを無理に観念にしようとしているのであるからのう。
 それによって新たな観念が心に植えつけられ、結局は真の悟りを見逃すことにもなるのじゃ。
 自らの実践が全てなのじゃ。

940避難民のマジレスさん:2022/06/20(月) 18:34:35 ID:eRW6ATeE0
この日は、多くの新しい訪問者が来ていた。
そのうちの二人はシュリ・バガヴァンの前でガナパティ・ムニについて話していた。
シュリ・バガヴァンは彼らの話にいくつかの言葉を付け加えた。

(1)ジニャーナ(叡知)とウパーサナ(瞑想)がムクティ(解脱)へ飛ぶための2つの翼だと言う人もいます。
  ジニャーナとは何でしょうか?
  ウパーサナとは何でしょうか?
  ジニャーナは常に存在するものです。
  それが究極の目標でもあります。
  努力がなされたとき、その努力はウパーサナと呼ばれます。
  それが無努力であるとき、それはジニャーナであり、ムクティと同じものです。

(2)自分たちの間で議論した後、ある訪問者が言った。
  「何らかの優れた力が、私たちが外形を振り払うのを助けてくれるに違いありません。」
  シュリ・バガヴァンは言った。

  誰が外形を見ているのでしょうか?
  あるいは、それらが自らが存在すると言っているのでしょうか?
  もしそうなら、世界に自らが存在すると言わせておけばいいのです。
  繰り返しますが、もし世界が内面からの投影であるならば、それは「私」という想念と同時に投影されていることが認められなければなりません。
  いずれにせよ、「私」は根本的な基盤であり、それを知れば他のすべては知られるのです。

(3)別の者は、ガナパティ・ムニが、自分はインドラ・ローカに行ってインドラがやっていることを言うことはできても、自分の内側に入って「私」を見つけることはできないと言っていた、と言った。

  シュリ・バガヴァンは、「ガナパティ・ムニは、前進するのは簡単だが、後退するのは不可能だ」とよく言っていたと付け加えた。
  そしてシュリ・バガヴァンは述べた。

  どんなに遠くに行っても、そこには自分がいます。
  どこに後退するというのでしょうか?
  同じ真理が、 『 イーシャ・ウパニシャッド』のマントラに含まれているのです。

(4)ガナパティ・ムニがどのようにしてアーシュ・カヴィ(霊感のある詩人)になったかという質問に対して、シュリ・バガヴァンは言った。

  彼がタパスヤ(苦行)を行っている時にシヴァが現れ、彼にミルクや蜂蜜を飲ませ、その後彼はアーシュ・カヴィになったと言われています。

941鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/20(月) 22:22:31 ID:1d4drIFg0

 叡知は常にあるものじゃ。
 しかし、無明によって迷わされているのじゃ。
 瞑想によって忘我になれば、叡知も少し解放されるのじゃ。
 それによって自我が観られれば解脱も起こるのじゃ。
 そして叡知も永遠に解放されるのじゃ。

942避難民のマジレスさん:2022/06/21(火) 18:55:49 ID:lrOwutps0
少し休止します!
また再開すると思いますのでその時はよろしくお願いします!
鬼和尚、いつもコメントありがとうございましたm(__)m

943鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/21(火) 21:50:00 ID:1d4drIFg0
↑ ご苦労さんだったのじゃ。
 ゆっくり休むとよいのじゃ。
 
 どういたしまして、またおいでなさい。

944避難民のマジレスさん:2022/06/21(火) 23:22:23 ID:6Vl66ftc0
ありがとうでありました。
再開を楽しみにしてるであります。

ところで、
ジャンカラの解説本『バーマティー』をネットで見つけましました。
この本を鬼和尚は、読むべき価値があると思われますでしょうか?

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3186361/99?tocOpened=1

(´・(ェ)・`)つ

945鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/22(水) 22:17:46 ID:1d4drIFg0
↑ あるじゃろう。
 不二一元論じゃな。
 囚われなければ参考になるのじゃ。

946避難民のマジレスさん:2022/06/22(水) 22:58:50 ID:dsxzq4TQ0
ありがとうであります。
↓のスレで始めるであります。

https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/l30
(´・(ェ)・`)b

947避難民のマジレスさん:2023/03/30(木) 11:50:47 ID:zHMDf6U60
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/
↑からのつづきであります。
荘子70.
大宗師第六(10)
子祀、子輿、子犁、子來四人相與語曰。孰能
以無爲首。以生爲脊。以死爲尻。孰知死生存
亡之一體者。吾與之友矣。四人相視而笑。莫
逆於心。遂相與爲友。俄而子輿有病。子祀往
問之。曰。偉哉。夫造物者將以予爲此拘拘
也。曲僂發背。上有五管。頤隱於齊。肩高於
頂。句贅指天。陰陽之氣有沴。其心間而無
事。跰◯(𧾷+鮮)而鑑於井曰。嗟乎夫造物
者。又將以予爲此拘拘也。子祀曰。女惡之
乎。曰亡。予何惡。浸假而化予之左臂以爲
鶏。予因之以求時夜。浸假而化予之右臂以爲
彈。予因之以求鸮炙。浸假而化予之尻以爲
輪。以神爲馬。予因乘之。豈更駕哉。且夫得
者時也。失者順也。安時而處順。哀樂不能入
也。此古之所謂縣解也。而不能自解者。物有
結之。且夫物不勝天久矣。吾又何惡焉。

子祀(しし)、子輿(しよ)、子犁(しり)、子來
(しらい)四人相與(あいとも)に語りて曰く。
孰(たれ)か能く無を以て首と爲し。生を以て
脊(せき)と爲し。死を以て尻と爲す。孰(た
れ)か死生存亡の一體たるを知る者ぞ。吾れ之
と友たらんと。四人相視て笑ふ。心に逆らふ
こと莫し。遂に相與に友爲り。俄にして子輿
病有り。子祀往いて之を問ふ。曰く。偉な
る哉。夫(か)の造物者將に予を以て此の拘拘
(こうこう)たらしめんとす。曲僂(きょくろ)
背に發す、と。上に五管有り。頤(おとがひ)
齊(へそ)を隱し。肩項(うなじ)より高く。句
贅(くがう)天を指す。陰陽の氣沴(みだ)るゝ
こと有り。其の心間にして無事。跰◯(𧾷
+鮮)(へんせん)として井に鑑みて曰く。嗟
乎(あゝ)夫(か)の造物なる者。又將に予を以
て此の拘拘(こうこう)爲(た)らしめんとする
やと。子祀曰く。女(なんぢ)之を惡むかと。
曰く亡(な)し。予何ぞ惡まん。浸假(しんか)
して予の左臂(さひ)を化して以て鶏と爲さ
ば。予は因って以て時夜(じや)を求めん。浸
假して化予の右臂を化して以て彈(たま)と爲
さば、予因って以て鸮炙(げうしゃ)を求め
ん。浸假して予の尻を以て輪(りん)と爲し。
神を以て馬と爲さば。予は因って之に乘ら
ん。豈に更に駕せんや。且つ夫れ得るは時
也。失ふは順也。時に安んじて順に處(を)れ
ば。哀樂入ること能はざる也。此れ古の所謂
縣解也。而して自ら解くこと能はざる者は。
物之を結ぶこと有れば也。且つ夫れ物天に勝
たざること久し。吾又何ぞ惡まんやと。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

948避難民のマジレスさん:2023/03/30(木) 11:52:52 ID:zHMDf6U60
注:

子祀、子輿、子犁、子來;仮設的人物なり。
首、脊、尻;首尾始終の意なり。
莫逆於心;意気相投じて心中逆らふ所なきな
 り、親友のことを莫逆(ばくげき)などと云
 ふは此の意なり。
偉;大なり
拘拘;物事にとらわれて融通のきかない様。
 拘繋(こうけい)伸びざるなり。
曲僂;曲身の貌なり。セムシなり。
發背;瘡(きず)背に発するなり。
五官;五臓の穴にて、肛門なり。
頤;あごなり。
齊;臍なり。
句贅;髻(もとどり);髪の毛を頭の上に束ね
 た所。
沴(レイ、よどむ、とどこお);亂なり。陰陽
 の気和せずして、病を爲す。別字、濔;(み
 ちる)数が多い様。
跰◯(𧾷+鮮);蹒跚(ハンサン?);よろよろ
 と歩くさま.ふらつくさま。と同じ。病を
 勉めてよろげ行く状なり。
浸假而化予之左臂以爲鶏。予因之以求時夜;
 浸;漸なり。假;使なり。今もし陰陽二気
 が漸々(ぜんぜん)自分の左臂(ひじ)を化し
 て鶏とするならば、自分は幸ひ時を告げる
 であらう。
浸假而化予之右臂以爲彈。予因之以求鸮炙;
 又、右臂を化して弾とするならば、自分は
 幸ひ焼鳥を求めよう。
浸假而化予之尻以爲輪。以神爲馬。予因乘
 之。;又、尻を化して車輪と為し、魂を化
 して馬としたら、自分は幸ひ之に乗って四
 方に遊びに行かう。
豈更駕哉;さうすれば別に駕(馬に乗る)を求
 めるまでもなからう。
且夫得者時也;(思ふに人となり、僂となり、
 鶏となり、弾となり、其の形を得るのは、)
 時の自然てわあり、
失者順也;(其の身死して、)造化に復帰する
 のは物の順理である。
安時而處順;されば、生の時に安んずれば、
 生を厭はす、死の順に処すれば、死を惡ま
 ず、(千変万化、一として自適の境に非ざる
 はない。)
哀樂不能入也;故に哀楽の情も決して此心を
 侵すことは出来ぬ。
縣解;懸りしものを解きおろせし如く、心に
 係累なきをいふたり。
而不能自解者。物有結之;(若し哀楽の為に束
 縛せられて、)自ら解脱することの出来ない
 者は、外境の事物が愈々(いよいよ)むすぼ
 り著いて、累(わずら)ひを為すのである。
且夫物勝天久矣。吾又何惡焉;且つ夫れ凡て
 の物は、皆天の命ずる所であって、到底天
 に勝つことは出来ない。そは今に始まった
 ことではない。何うして疾など惡むやうな
 ことがあらう。
(´・(ェ)・`)つ

鬼和尚、いつもありがとうであります。
前スレの末尾に質問を載せました。
宜しくお願いいまします。

949鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/03/31(金) 00:11:06 ID:p8IlWA5E0
子祀、子輿、子犁、子來の四人がともに語っていたのじゃ。
 無を首として、生を背中だとしたら死は尻だというのじゃ。
 みんな笑って認めたのじゃ。

 生も死も一体だというのじゃな。


 子輿が病になり子祀が見舞にいったらこう言ったのじゃ。
 自分をこのような病にした造物主は偉大だと。

 子祀はそれを憎むのかと聞いたのじゃ。

 
 子輿は憎まないといったのじゃ。
 病になった体でいろいろやればよいというのじゃ。
 肉体を得れば失うのは天の順序であるというのじゃ。
 それに安じていれば悲しんだり楽しんだりすることもないのじゃ。
 肉体が天に勝てるものではないと知るゆえに憎まないのじゃ。
 


 死は生があれば必然的についていくるものであるから、生死一体なのじゃ。
 病も肉体を得た時からあるべきものであるから、天を憎むこともないというのじゃ。

950避難民のマジレスさん:2023/03/31(金) 15:40:56 ID:wdU94hBM0
荘子71.
大宗師第六(11)
俄而子來有病。喘喘然將死。其妻子環而泣
之。子犁往問之曰。叱。避。無怛化。倚其戶
與之語曰。偉哉。造化又將奚以汝為。將奚以
汝適。以汝為鼠肝乎。以汝為蟲臂乎。子來
曰。子於父母東西南北唯命之從。陰陽於人不
翅於父母。彼近我死而我不聽。我則悍矣。彼
何罪焉。夫大塊載我以形。勞我以生。佚我以
老。息我以死。故善吾生焉。乃所以善吾死
也。今大冶鑄金。金踴躍曰。我且必為鏌鋣。
大冶必以為不祥之金。今一犯人之形。而曰。
人耳人耳。夫造化者必以為不祥之人。今一以
天地為大爐。以造化為大冶。惡乎往而不可
哉。成然寐。蘧然覺。

俄にして子來病有り。喘喘(ぜんぜん)然とし
て將に死せんとす。其の妻子環(めぐ)りて之
を泣く。子犁往きて之を問うて曰く。叱(し
つ)。避けよ。化を怛(おどろ)かすこと無かれ
と。其の戶に倚りて之と語って曰く。偉なる
哉造化。又將に奚(いかん)ぞ汝を以て爲さん
とする。將に奚(いづく)にか汝を以て適(ゆ)
かしめんとする。汝を以て鼠肝(そかん)と爲
すか。汝を以て蟲臂(ちひ)と爲すかと。子來
曰く。父母の子に於ける。東西南北唯命に之
れ從ふ。陰陽の人に於ける。翅(ただ)父母に
於けるのみならず。彼吾を死に近くして。我
聽かずんば。我則ち悍(かん)なり。彼れ何の
罪ぞ。夫れ大塊(たいくわい)。我を載するに
形を以てし。我を勞するに生を以てし、我を
佚(いつ)するに老を以てし、我を息(いこ)は
するに死を以てす。故に吾が生を善しとする
は乃ち吾が死を善とする所以也。今大冶(たい
や)金を鑄(い)んに。金踴躍(ようやく)し
て。我れ且(まさ)に必ず為鏌鋣(はくや)爲ら
んとすると曰はば。大冶必ず以て不祥の金と
爲さん。今一たび人の形を犯して。而して人
のみ人のみと曰はば夫(が)の造化者必ず以て
不祥の人と爲さん。今一たび天地を以て大爐
(たいろ)と爲し。造化を以て大冶と爲さば。
惡(いづく)にか往いて可ならざらんや。成然
として寐(い)ね。蘧然(きょぜん)として覺め
ん。

注;
叱。避。無怛化;静かに、あまり近づかない
 方が良い。臨終の人を驚かせてはいかぬ。
虫臂鼠肝;「虫臂」は虫の肘。「鼠肝」は鼠
 の肝。取るに足ない、くだらないこと。ま
 たは、物事の変化は人間には予想すること
 が難しいということのたとえ。
彼近我死而我不聽。我則悍矣;今、造化は自
 分を死に近づかせたから、若し之に従わな
 かったならば、自分は陰陽に逆らふことに
 なる。悍;迕逆(ごぎゃく。逆らうこと)
彼何罪焉;造化其のものには固より罪もなに
 もない。
佚;閑逸ならしむる
鏌鋣;古の名刀
今一犯人之形。而曰。人耳人耳。夫造化者必
 以為不祥之人;一たび人間に生まれ出て、
 人間に限る、他の物になるのは嫌だ、など
 といふならば、造化は、それこそ不詳の人
 として、もう二度と人間にしないかもしれ
 ぬ。
惡乎往而不可哉。成然寐。蘧然覺;何処に住
 くとして自適しないことがあらう。胸中酒
 酒安んじて死に就き、楽しんで生を受ける
 のみである。
(´・(ェ)・`)つ

951鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/03/31(金) 23:58:58 ID:HgjaGfF.0
今度は子來が病になったというのじゃ。
妻子は歩き回って泣いていたのじゃ。
子犁が来て嫁たちに騒いではいかんと叱ったのじゃ。
そして子來に言ったのじゃ。
造化は偉大でおぬしを変化させたのじゃ。

子來は答えたのじゃ。
父母よりも従うべき造化のすることに従うのみなのじゃ。
造化が与えた生を善とするならば死も善だというのじゃ。
自然なままに死に、安楽に覚めるのみなのじゃ。



これもまた生死が一つであるというのじゃ。
さらに生も死も善であり、楽しんだらよいというのじゃ。
それが造化の与えたものであるからなのじゃ。

952避難民のマジレスさん:2023/04/03(月) 19:12:28 ID:CNrs9E1s0
荘子72.
大宗師第六(12)
子桑戶、孟子反、子琴張三人相與友。曰。孰
能相與於無相與。相為於無相爲。孰能登天游
霧。撓挑無極。相忘以生。無所終窮。三人相
視而笑。莫逆於心。遂相與爲友莫然。有間而
子桑戶死。未葬。孔子聞之。使子貢往待事
焉。或編曲。或鼓琴。相和而歌曰。嗟來桑戶
乎。嗟來桑戶乎。而已反其真。而我猶為人
猗。子貢趨而進曰。敢問臨尸而歌。禮乎。二
人相視而笑曰。是惡知禮意。子貢反。以告孔
子曰。彼何人者邪。修行無有。而外其形骸。
臨尸而歌。顏色不變。無以命之。彼何人者
邪。孔子曰。彼游方之外者也。而丘游方之內
者也。外內不相及。而丘使女往吊之。丘則陋
矣。彼方與造物者爲人。而游乎天地之一氣。
彼以生爲附贅縣疣。以死爲決◯(疒+丸)潰
癰。夫若然者。又惡知死生先後之所在。假於
異物。托於同體。忘其肝膽。遺其耳目。反覆
終始。不知端倪。芒然彷徨乎塵埃之外。逍遙
乎無爲之業。彼又惡能憒憒然爲世俗之禮。以
觀衆人之耳目哉。

子桑戶(しさうこ)、孟子反(まうしはん)、子
琴張(しきんちゃう)三人は相與(あいとも)に
友たり。曰く。孰(たれ)か能く相與にするこ
と無きに相與にし。相爲すこと無きに相爲さ
ん。孰か能く天に登り。霧に游び。無極に撓
挑(ぜうてう)して相忘るゝに生を以てし。終
窮(しゆうきう)する所無からんと。三人相視
て笑ふ。心に逆らふこと莫し。遂に相與に友
として莫然爲り。間(しばらく)有りて子桑戶
死す。未だ葬らず。孔子之を聞き。子貢をし
て往いて事を待たしむ。或るものは曲を編
し。或るものは琴を鼓し。相和して歌って曰
く。嗟(あゝ)來たれ桑戶や。嗟來たれ桑戶
や。而(なんぢ)已に其の眞に反りて。我猶ほ
人爲り猗(あゝ)と。子貢趨(はし)って進んで
曰く。敢へて問ふ尸(し)に臨んで歌ふは禮か
と。二人相視て笑ふて曰く。是れ惡んぞ禮の
意を知らんと。子貢反つて以て孔子に告げて
曰く。彼は何人ぞや。修行(しうこう)有るこ
と無くして。其の形骸を外にす。尸に臨んで
歌ひ。顏色變せず。以て之に命ずる無し。彼
何人ぞやと。孔子曰け。彼は方の外に游ぶ者
也。而して丘は方の内に游ぶ者也。外內(ぐわ
いだい)相及ばず。而るに丘女(なんぢ)をして
往いて之を吊(てう)せしむ。丘は則ち陋(ろ
う)なり。彼方(まさ)に造物者と人爲り。而し
て天地の一氣に游ばんとす。彼は生を以て附
贅縣疣(ふぜいげんいふ)と爲し。死を以て決
◯(疒+丸)潰癰(けつくわんくわいよう)と爲
す。夫れ然るが若くば。又惡んぞ死生先後の
在る所を知らんや。異物に假り。同體に托
し。其の肝膽を忘れ。其の耳目を遺(わす)
れ。終始を反覆して。端倪(たんげい)を知ら
ず。芒然として塵埃の外に彷徨し。無爲の業
に逍遙す。彼又惡んぞ能く憒憒(くわいくわ
い)然として世俗の禮を爲し。以て衆人の耳目
に觀(しめ)さんや。

注;
無相與;無心に 無心を以て相与し
無相爲;無為なり 無為を以て相為す
無極;止まる所無き。極まりなし。
撓挑;踊躍(ようやく);喜んで、おどり上が
 る。別訳、宛転(えんてん):言葉、声など
 がよどみなく、なめらかに発せられる様
終窮;=困窮
是惡知禮意;お前などに礼の真意など解らぬ
游方之外者;世俗の外に超然たる者。(死生を
 一視し、区区たる礼法に依って拘繋せられ
 ない人
游方之內者;世俗の内に住して規範礼法に牽
 (ひ)かれる者
丘則陋矣;自分(孔子)の過ちであった。別
 訳、卑陋(ひろう);卑しい、下品なこと
彼方與造物者爲人;彼らはまさに形体を人に
 仮らるも心を造物者と同じうして
而游乎天地之一氣;天地混沌たる一気の初
 め、即ち不生不死の域に遊ばしむる者。
付贅懸疣;余計な厄介もののたとえ。ひっつ
 いているこぶや、引っかかっているいぼの
 意から。
決◯(疒+丸);腫物破れて膿出づるをいふ。
潰癰;同じく、潰れて膿出づるをいふ。
端倪;物事の在り方・成り行きを見通すこ
 と。 端倪すべからざる(=推し量れない
 ほどの)
(´・(ェ)・`)つ

953鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/04/04(火) 00:34:41 ID:zrDxbZtE0
子桑戸;、孟子反、子琴張の三人がかたりあったのじゃ。
 無心でことにあたり、無為でものごとをなすものがいるのかと。
 また天に昇り、霧に遊び、物質を超越して跡もとどめず、生死を超越して永遠の境地に入るものがいるじゃろうかと。
 
 三人は笑いあい心合わせて友になったのじゃ。

 子桑戸は死んだのじゃ。
 まだ葬らないうちに孔子が子貢を弔いにいかせたのじゃ。
 するとみんな歌ったり琴をひいていたりしのじゃ。

 子貢は人が死んだのに歌うのが礼であろうかと、問うたのじゃ。
 二人は笑ってこれが礼の本当の意味だといったのじゃ。

 子貢が帰ってそのことを孔子にいったのじゃ。
 すると孔子は彼らは世間の外に住むもの、我は世間の内に住むものといったのじゃ。
 内のものは外のものにかなわんのじゃ。
 わしがおぬしを弔いに゛したのは間違いじゃった。

 彼らは造物主と同じ心で、天地が一つの境地に遊んでいるのじゃ。
 生を余計なもの、死をも腫れ物のように見るのじゃ。
 そのようでなければ生れるまえと死後までしることができないのじゃ。
 世間の外にあるものであり、無為の業をなすものなのじゃ。
 そうであるから世間の礼をして、人に見せることもないのじゃ。


 今度は生死も余計なものであり、体にできるできもの程度のものというのじゃ。
 俗世間から離れて天地も一気と見るものには、俗世間の葬式もしないというのじゃ。

954避難民のマジレスさん:2023/04/06(木) 11:59:05 ID:rJ/r/6PM0
荘子73.
大宗師第六(13)
子貢曰。然則夫子何方之依。孔子曰。丘天之
戮民也。雖然,吾與汝共之。子貢曰。敢問其
方。孔子曰。魚相造乎水。人相造乎道。相造
乎水者。穿池而養給。相造乎道者。無事而生
定。故曰。魚相忘乎江湖。人相忘乎道術。子
貢曰。敢問畸人。曰。畸人者。畸於人而侔於
天。故曰。天之小人人之君子。人之君子天之
小人也。

子貢曰く。然らば則ち夫子は何(いづれ)の方
にか依れると。孔子曰く。丘は天の戮民(りく
みん)也。然りと雖も。吾汝と之を共にせん
と。子貢曰く。敢へて其の方を問ふと。孔子
曰く。魚は水に相造(いた)り。人は道に相造
る。水に相造る者は。池を穿(うが)てば養(や
しな)ひ給( つ)ぐ。道に相造る者は。事無け
れば生定まる。故に曰く。魚は江湖に相忘
れ。人は道術に相忘ると。子貢曰く。敢へて
畸人を問ふと。曰く。畸人なる者は。人に畸
にして天に侔(ひと)し。故に曰く。天の小人
は人の君子。人の君子は天の小人也。

注;
夫子何方之依;先生は、世俗の内か外か何れ
 に依って生活をなさいますか
戮民;天の刑を受ける者(俗塵の外に出ること
 の出来ぬもの)
吾與汝共之;汝と共に修養して世俗の中に在
 って而も世累を超越する境地に進もう。
魚相造乎水。人相造乎道;魚は水によって生
 育し、人は道によって生育する。
相造乎水者。穿池而養給;水中に生育するも
 のは、池を穿てば養をとれる。給(つ)ぐ ;
 物資が足りる。
相造乎道者。無事而生定;道に生育する物
 は、逍遙として天然を保つ
魚相忘乎江湖;魚は江湖に相忘れて従容自
 適(しょうようじてき)し、
人相忘乎道術;人は道術に相忘れて、不死不
 生に入、従容自適す。
畸人者。畸於人而侔於天;天に異にして、天
 に侔(ひと)しき者なり
故曰。天之小人人之君子。人之君子天之小人
也。

明日は、荘子74.を載せます。
(´・(ェ)・`)つ

955鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/04/07(金) 00:34:13 ID:L4aFwqMo0
子貢は孔子にではあなたは世俗のどちらに属するのかと。
孔子は自分は俗世間のうちにいきるしかない者だと言ったのじゃ。
しかしおぬしと共に道を学ぼうと言ったのじゃ。

子貢はその方法を聞いたのじゃ。
孔子は魚は水によって生き、人は道によって生きると言うのじゃ。
魚は池によって生きられる。
人は道によって生が養われるのじゃ。
魚は川海によって水に入っていることも忘れる。
人は道によって生きているのに道を忘れるのじゃ。

子貢はあえて道に達した畸人についてきいたのじゃ。
孔子は畸人は人とは違い、天と等しい者と言ったのじゃ。
それゆえに天では小人でもこの世では君子なのじゃ。
この世で君子であって、天では小人になれるのじゃ。



道とは人を生かしているものだというのじゃ。
しかしそれを人は忘れてしまうのじゃ。
魚が水によって生きているのにそれを忘れるようなものというのじゃ。
道とは全てであるのじゃ。ものな

956避難民のマジレスさん:2023/04/07(金) 12:22:54 ID:33SmhiDY0
荘子74.
大宗師第六(14)
顏回問仲尼曰。孟孫才其母死。哭泣無涕。中心不戚
。居喪不哀。無是三者。以善喪蓋魯國。固有無其實
而得其名者乎。回壹怪之。仲尼曰。夫孟孫氏盡之矣
。進於知矣。唯簡之而不得。夫已有所簡矣。孟孫氏
不知所以生。不知所以死。不知就先。不知就後。若
化爲物。以待其所不知之化已乎。且方將化。惡知不
化哉。方將不化。惡知已化哉。吾特與汝。其夢未始
覺者邪。且彼有駭形而無損心。有旦(且)宅而無情死
。孟孫氏特覺。人哭亦哭。是自其所以乃且也。相與
吾之耳矣。庸詎知吾所謂吾之乎。且汝夢爲鳥而厲乎
天。夢爲魚而沒於淵。不識今之言者。其覺者乎。其
夢者乎。造適不及笑。獻笑不及排。安排而去化。乃
入於寥天一。

顏回仲尼に問うて曰く。孟孫才(まうそんさい)其の
母死して。哭泣(こくきふ)するに涕無く。中心戚(い
た)まず。喪に居て哀しまず。是の三者無くして。善
喪(ぜんさう)を以て魯國を蓋(おほ)へり。固より其の
實無くして其の名得る者有るか。回壹(一)に之を怪
しむと。仲尼曰く。夫(か)の孟孫氏は之を盡(つく)せ
り。知よりも進めり。唯(々)之を簡にすることを得
ず。夫れ已に簡にする所有り。孟孫氏は生くる所以
を知らず。死する所以知らず。先に就くことを知ら
ず。後に就くことを知らず。化に若(したがう)て物と
爲し。以て其の知らざる所の化を待つのみか。且方
(まさにまさに)將(もつ)てに化するの。惡(いづく)ん
ぞ化せざるなるを知らんや。方(まさ)に將(もつ)て化
せざるを。惡んぞ已に化せるなるを知らんや。吾れ
特(ひと)り汝と。其の夢未だ始めより覺めざる者か
。且彼は駭形有れども損心無く。旦宅(たんたく→且
宅;しょたく?)有れども情死無し。孟孫氏は特り覺
めたり。人哭すれば亦哭す。是れ其の乃ち且とする
所以に自(よ)るなり。相與に之を吾とする耳(のみ)。
庸詎(いづくん)ぞ吾が所謂之を吾とする者なるを知
らん。且汝夢に鳥と爲つて天に厲(いた)り。夢に魚
と爲つて淵(ふち)に沒(い)る。識らず今の言ふ者は。
其れ覺めたる者か。其れ夢むる者か。適に造(いた)
れば笑ふに及ばず。笑(わらひ)を獻(けん)ずれば排す
るに及ばず。排に安んじて而して化を去れば。乃ち
寥天(れうてん)一に入ると。

注;
無是三者;涕無く、戚まず、哀しまず。
以善喪蓋;喪事を善せしとの評判が蓋った
進於知矣;死生を無視して知者の域に逹せり
唯簡之而不得;至情の開する所、之を簡易に
 せんとするも得ず。
夫已有所簡矣;しかるに彼は已に之を簡易に
 せり
若化爲物;造物者の化するがままに其の時々
 の物となりて
以待其所不知之化已乎;我々が知らざる所の
 化を待つのみならんか
且方將化。惡知不化哉;今将に死せんとする
 も実は不死かも知れぬ
方將不化。惡知已化哉;将に死せざらんとす
 るも、実は已に死んでいるのかも解らぬ
其夢未始覺者邪;(死を見て悲しいことと思っ
 て居るのは、)夢を見て未だ覚めざる者と謂
 ふべきであらう
有駭形而無損心;形に変化あるも、心を損す
 ることなく。駭形;死生の形に驚くべき変
 化あるをいふ
有旦(且)宅而無情死;生を以て且(しばら)く
 の仮住居と思って居るから、実の死と云ふ
 ものは認めない。旦宅(→且宅;しょたく)
孟孫氏特覺。人哭亦哭。是自其所以乃;孟孫
 氏は生死を一と悟って居るが、(強いて世俗
 に随ひ)人が哭すれば、己も哭するのは、是
れ自られ其暫くの仮住居とする所以なり。
相與吾之耳矣。庸詎知吾所謂吾之乎;(然るに
 人は)各自ら信ずる所のみを固執して是なり
 とし、何ぞ吾が是とする所を以て単に吾が
 徒丈のこととなさざるを知らんや。
不識今之言者。其覺者乎。其夢者乎;今汝は
 喪事を云々するも、其の言ふ所果して覚め
 たるか夢なるかを知るべからず。
造適不及笑;意に適するも笑ふに及ばず
獻笑不及排;人より笑ひを呈し来るも排し去
 るに及ばず
安排而去化。乃入於寥天一;人の排する所に
 安んじて去らば、天地と同化して彼の大宗
 師の道に達することを得ん。寥天一;寂寥
 天(せきりょうてん)と一致する。=大宗師
 の道
(´・(ェ)・`)つ

957鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/04/07(金) 23:35:54 ID:V0ftDjTE0
顏回が孔子に言ったのじゃ。
孟孫才という者は母が死んだのに儀礼的に泣き声をあげるだけで涙を長さなかった。
心に悼むこともなく、喪につくこともなかったのに、魯国ではよく母親を弔ったと評判だったが実のない名誉かと。

孔子は答えたのじゃ。
孟孫氏は母親を完全に弔ったのじゃ。
知者がするより良い弔いなのじゃ。
ただ世間にあわせて簡略にしなかっただけなのじゃ。
孟孫氏は生死を忘却し、取捨選択をもしないのじゃ。
造化に従って不知の知を持つのじゃ。
造化がなすところをありのままに受け入れるのじゃ。

わしとおぬしは夢の中にいるようなものじゃ。
孟孫氏は目覚めているのじゃ。
世間にあわせて儀礼的になくまねをしただけなのじゃ。
人が恐れる死をも嫌がらずに受け入れれば天と一致するのじゃ。


孟孫氏は生死を全く忘却したというのじゃ。
生きるも死ぬもただ夢の中の出来事と知っているのじゃ。
目覚めた者なのじゃ。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板