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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

796鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/24(日) 00:01:07 ID:1d4drIFg0

 黙想とは意識的に源に融合することであると、マハリシは説いたのじゃ。
 それは誰の心の中にもあるものじゃ。
 むしろそれこそが全ての存在の本体なのじゃ。
 全てはそこから起こったものなのじゃ。
 それに身を委ねることが全ての瞑想の目的なのじゃ。

797避難民のマジレスさん:2022/04/24(日) 07:42:21 ID:qd1MKDrg0
ラマナ・マハルシとの対話 307

1936年12月27日

マイソールから来たシャマンナ氏がシュリ・バガヴァンに尋ねた。

質問者
 どうかアハム・スプラナ(「私-私」の光)について説明してください。

マハルシ
 「私」は眠っている時には知られません。
 目が覚めると、通常、「私」は肉体や世界、そして非真我と結び付いて知覚されます。
 そのように結び付けられた「私」がアハム・ヴリッティです。
 アハムが真我だけを表すとき、それはアハム・スプラナです。
 これはジュナーニにとって自然なもので、これそのものがジュナーニによってジュナーナと呼ばれ、バクタによってバクティと呼ばれているのです。
 それは睡眠中も含めて常に存在するにもかかわらず、知覚されません。
 それは睡眠中に一度に知ることはできません。
 それは、まず起きている状態で認識されなければなりません。
 なぜならそれは、3つの状態すべての根底にある私たちの真の本性だからです。
 努力はジャーグラト(目覚め)の状態でのみ行われ、真我は今ここで実現されなければなりません。
 それはその後、ジャーグラト、スワプナ、スシュプティに中断されない、連続した真我であると理解され、実現されるでしょう。
 このように、それはアハンダーカーラ・ヴリッティ(途切れることのない経験)です。
 ヴリッティは、より良い表現がないために使われています。
 文字通りのヴリッティであると理解してはなりません。
 その場合、ヴリッティは「海のような川」と同様ですが、それは不合理です。
 ヴリッティは持続時間が短いものです。
 それは限定された、方向づけられた意識です。
 あるいは、想念や感覚などの認識によって分断された絶対的な意識です。
 ヴリッティは心の機能であるのに対し、継続的な意識は心を超越します。
 これが、ジュニャーニや解脱した存在の自然で原初の状態です。
 それは途切れることのない経験です。
 それは、相対的な意識が収まったときに、自分自身を顕わにします。
 アハム・ヴリッティ(「私」-想念)は途切れますが、アハム・スプラナ(「私-私」の光)は途切れることなく、継続します。
 想念が収まった後、その光は輝きを放つのです。

798鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/24(日) 22:34:39 ID:1d4drIFg0

 アハム・ヴリッティは五体や知覚に投射された自己観念といえるじゃろう。
 その働きがないものがアハム・スプラナなのじゃ。
 無我の状態といえるのじゃ。
 それもまた言葉通りのものではないがのう。
 言葉を超えたものは、自ら体験して確かめるしかないのじゃ。

799避難民のマジレスさん:2022/04/25(月) 07:08:24 ID:slvVrXSM0
ラマナ・マハルシとの対話 308

1936年12月31日

不可触性に関する質問があった。

マハルシ
 非自己は触れることができません。
 社会的な不可触性は人間が作り出したものですが、他の不可触性は自然で神聖なものです。

質問者
 不可触民は、私たちの寺院に入ることを許されるべきでしょうか?

マハルシ
 それを決めるのは、他の人たちです。

ヴィシュヌのアヴァターに関する質問があった。

マハルシ
 私たち自身のアヴァターを知りましょう。
 他のアヴァターの知識は後からついてきます。

再び、イーシュヴァラについての質問があった。

マハルシ
 イーシュヴァラの存在は、私たちのイーシュヴァラに対する観念に従います。

 まず、イーシュヴァラが誰の観念であるかを知りましょう。
 その観念は、それを思い描いた人に従っているだけでしょう。
 あなたが自分が誰であるかを見いだせば、他の問題は自ずと解決されるでしょう。

800鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/25(月) 22:28:36 ID:1d4drIFg0

 どのような質問にも、マハリシは自分自身の内側に目を向けるようにと誘導するのじゃ。
 それこそが言葉で伝えられる唯一の教えなのじゃ。
 他の知識はいらないのじゃ。
 全て観念遊戯であるからのう。
 観念を優先させて自己の探求を忘れないようにと、マハリシは常に注意するよう説くのじゃ。

801避難民のマジレスさん:2022/04/26(火) 07:25:37 ID:tna/dDuc0
ラマナ・マハルシとの対話 309

1937年1月1日

質問者
 アハム・ブラフマースミ(私はブラフマンである)とブラフマイヴァーハム(ただブラフマンだけが私である)の違いは何でしょうか。

マハルシ
 前者はプラティヤクシャ・ヴリッティ(直接体験)であり、後者はパロークシャ・ジニャーナ(間接的知識)です。
 前者はアハム(「私」)の実現から始まりますが、後者は、同じものが実現されるとしても、真我と不可分である伝聞のブラフマンから始まります。

802鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/26(火) 22:32:28 ID:1d4drIFg0

 自らがブラフマンに没入する体験はありえるのじゃ。
 本当に没入したらもはや私はないのじゃ。
 ブラフマンだけが私であるというのは観念に過ぎないのじゃ。
 ブラフマンは全てであるから、あるものだけがブラフマンであり私であるという限定は出来ないからなのじゃ。

803避難民のマジレスさん:2022/04/27(水) 07:08:37 ID:OSx.b5H.0
ラマナ・マハルシとの対話 310

グリーンリース氏
 10月にこのアーシュラマムを去った後、私は10日間ほどバガヴァンの平安に包まれていることに気づきました。
 仕事に追われている間じゅう、その一体感の平安が奥底を流れていたのです。
 それは、退屈な講義で半分眠っているときの二重意識のようなものでした。
 そして、それは完全に消え去り、代わりに以前の愚かさが戻ってきたのです。

 仕事が、瞑想する時間を残してくれません。
 常に「私は在る(I Am)」を思い出し、実際に仕事をしながらそれを感じようとすることで、十分なのでしょうか。

マハルシ
 それは、心が強くなったときに、常にできるようになります。
 繰り返し修練することで心が強くなり、そのような心は流れにつかまることができるようになります。
 その場合、仕事に従事していようがいまいが、流れは影響を受けず、途切れることはありません。

質問者
 別の瞑想はまったく必要ないのですか?

マハルシ
 瞑想は、今のあなたの真の本性です。
 あなたがそれを瞑想と呼ぶのは、他の想念があなたの気を散らしているからです。
 これらの想念が払い除けられたとき、あなたは一人、つまり想念から解放された瞑想の状態にとどまるのです。
 そして、それこそが、あなたが今、他の想念を遠ざけることによって得ようとしている、あなたの真の本性なのです。
 このように他の想念を遠ざけることが今、瞑想と呼ばれています。
 修練がしっかりしたものになると、真の本性がそれ自身を真の瞑想として顕わします。

 あなたが瞑想しようとすると、他の想念がより力強く生じるのです。

すぐに他の数名が質問を一斉に唱えた。

シュリ・マハルシは続けた。

マハルシ
 そうです、瞑想中にはあらゆる種類の想念が生じます。
 それはまったく正しいことです。
 あなたの中に隠れているものが引き出されるのです。
 それらが浮かび上がってこない限り、どうして破壊されうるのでしょうか?
 それゆえ、それらは、やがて消滅させられるために自然に浮かび上がり、このようにして心を強くするのです。

訪問者
 すべてはブラフマンであると言われています。

マハルシ
 そうです、すべてはブラフマンです。
 しかし、あなたがそれらが分離していると考える限り、それらは避けられなければなりません。
 一方、それらが真我であることが分かれば、「すべて」と言う必要はありません。
 なぜなら、存在するものはすべてブラフマンだけだからです。
 ブラフマンの他には何もありません。

質問者
 リブ・ギーターは、非常に多くの対象を非現実であると語り、最後に、それらはすべてブラフマンであり、したがって現実であると付け加えています。

マハルシ
 そうです。
 あなたがそれらを非常に多くのものとして見るとき、それらはアサット、すなわち非現実です。
 しかし、あなたがそれらをブラフマンとして見るとき、それらは現実であり、それらの基質であるブラフマンから現実性を引き出しているのです。

質問者
 なぜウパデーシャ・サーラムは、身体などをジャダ、すなわち非生命だと語っているのですか?

マハルシ
 あなたが、それらは真我から離れた身体などであると言う限りにおいてです。
 しかし、真我が見いだされれば、この身体なども真我の中にあることがわかります。
 その後、誰もその質問をしなくなり、誰もそれらが非生命であるとは言わなくなります。

質問者
 ヴィヴェーカは、真我と非真我を識別することだと言われています。
 非真我とは何ですか?

マハルシ
 実は、非真我というものはありません。
 非真我は真我の中にも存在します。
 真我が非真我のことを語るのは、自分自身を忘れてしまったからです。
 それは自分自身を見失ってしまったので、結局のところ自分自身以外の何ものでもないものを非真我と思い込んでいるのです。

こうして、諸説の主唱者たちの議論は白熱した。

804鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/28(木) 00:03:47 ID:1d4drIFg0

 瞑想とは真の本性以外の想念を遠ざけることだというのじゃ。
 最初は想念がいろいろと浮かんでくるが、瞑想を続けていれば全て滅して行くのじゃ。
 そして思考に隠されていた真の本性も観えてくるのじゃ。
 それが全てであるブラフマンなのじゃ。
 全てのものごとは全く同じ本性をもっているからなのじゃ。
 自分自身にあるその本性を追求することで、全ての本性も見出せるのじゃ。

805避難民のマジレスさん:2022/04/28(木) 07:37:13 ID:egdLjUPU0
ラマナ・マハルシとの対話 311

1937年1月2日

マハルシ
 立ち昇る「私」はまた、沈みます。
 それは個の「私」あるいは「私」という観念です。
 立ち昇らないものは、沈むことはありません。
 それは在り、永遠に在り続けます。
 それが普遍的な「私」、完全な「私」、すなわち真我の実現です。

午後5時30分、スイス人の女性がシュリ・バガヴァンに、瞑想をしばらく続けると頭が痛くなると訴えた。

マハルシ
 もし、瞑想者と瞑想が同じものだと理解されれば、頭痛や同様の訴えはなくなるでしょう。

質問者
 しかし、それらは異なっています。
 どうして同じものだと考えられるでしょうか?

マハルシ
 それは、あなたの視点のためです。
 ただ一つしかなく、違いはないのです。
 瞑想すれば、相対的な意識は消え去ります。
 それが全滅ではないのは、絶対的な意識が生じるからです。
 聖書には、「天の国はあなたの内にある」と書かれています。
 もし、あなたが自分自身を身体だとみなしているなら、この言葉を理解するのは難しいでしょう。
 一方、あなたが本当の自分を知っているなら、天の国もすべても、あなたの真我に含まれています。
 それらは、自我が発生した後に生じた概念です。
 ドリシュティン・ジニャーナマイーン・クリトヴァ・パシュエード・ブラフママヤン・ジャガト(あなたの目を内に向け、それを絶対化しなさい)。
 その絶対的な自覚を実現した上で、外を見れば、宇宙は実現された絶対なるものと不可分であることに気づくでしょう。

 あなたの視点は外に向けられているので、あなたは「外」のことを話します。
 その状態であるために、あなたは「内」を見ることを勧められているのです。
 この「内」は、あなたが求めている「外」に対して相対的なものです。
 実際は、真我は外でも内でもありません。

 天について語るとき、人は天を上か下か、内か外かのように考えますが、それは人が相対的な知識に慣れているからです。
 人は客観的な知識だけを求めているので、このような考えになってしまうのです。

 現実的に言えば、上も下もなく、内も外もないのです。
 もしそれらが実在するならば、夢のない眠りの中にも存在するはずです。
 なぜなら、実在するものは、連続的で永久的でなければならないからです。
 睡眠中に「内」や「外」を感じたでしょうか?
 もちろん違います。

質問者
 私は覚えていません。

マハルシ
 もしそこに何かがあれば、それは思い出されるでしょう。
 しかし、あなたはそのときの自分の存在を認めています。
 同じ真我が今話しているのです。
 眠っているときには未分化だった真我が、現在の状態では分化しており、多様性を見ているのです。
 真の実在とは、客観的な知識を欠いた唯一のものです。
 それが絶対意識です。
 それこそが、私たち全員が認める幸福の状態です。
 その状態は、この起きている状態においてさえももたらされなければなりません。
 それはジャーグラト・スシュプティと呼ばれます。
 それがムクティです。

806避難民のマジレスさん:2022/04/28(木) 07:38:09 ID:egdLjUPU0
質問者
 自我が、輪廻転生するものです。

マハルシ
 そうです。
 しかし、輪廻転生とは何でしょうか?
 自我は同じままです。
 新しい身体が現れて、それを保持します。
 自我は変わりません。
 それが一つの身体を離れ、別の身体を探して見つけることはありません。
 あなたの粗大な身体にさえも何が起こるのか見てみましょう。
 あなたがロンドンに行くとします。
 どうやって行きますか?
 乗物を使って波止場に行き、汽船に乗り込み、数日でロンドンに到着します。
 何が起こったのでしょうか?
 乗物は動きましたが、あなたの身体は動きませんでした。
 それでもあなたは、地球のある部分から別の部分へと旅したと言います。
 乗物の動きがあなたの身体に重ねられているのです。
 あなたの自我についても同様です。
 輪廻転生は、重ね合わせです。
 例えば、夢の中で何が起こるのでしょうか?
 あなたは夢の世界へ行くのでしょうか、それともそれはあなたの中で起こるのでしょうか?
 間違いなく後者でしょう。
 ちょうど転生と同じです。
 自我はずっと変化しないままです。

 繰り返しになりますが、あなたの眠りの中には時間も空間もありません。
 それらは「私」という想念が生じた後に生じる観念です。
 「私」という想念が立ち昇る前には、観念は存在しません。
 ですから、あなたは時間も空間も超えているのです。
 「私」という想念は限定された「私」に過ぎません。
 真の「私」は無限で、普遍的で、時間も空間も超えています。
 観念は眠っているときは存在しません。
 ちょうど眠りから覚め、外の世界を見る前に、あなたの純粋な真我である自覚の状態が存在します。
 それが知られなければなりません。

質問者
 しかし、私はそれがわかりません。

マハルシ
 それは、理解の対象ではありません。
 あなたがそれです。
 いったい誰が、そして何を理解するというのでしょうか?

807鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/28(木) 23:05:27 ID:1d4drIFg0

 瞑想をして思考や雑念が消えたならば、それでも消えない意識が在るとわかるじゃろう。
 意識は常にあり、滅することはないのじゃ。
 それは肉体に縛られたものでもないのじゃ。
 常にあり続け変ることはないのじゃ。

808避難民のマジレスさん:2022/04/29(金) 07:13:21 ID:/kN5DyGE0
ラマナ・マハルシとの対話 312

プーナのV・K・チョールカル氏
 「汝自身を知れ」、あるいは、あなたの中の「私」が誰であるかを知りなさい言われています。
 それを行う方法は何でしょうか?
 ただ機械的にずっとマントラを繰り返すだけでいいのでしょうか、それとも、なぜマントラを繰り返しているのか、その都度思い出しながらやらなければならないのでしょうか。

マハルシ
 あなたは、いつも自動的にマントラを繰り返しています。
 もし、永遠に続いているそのアジャパ(無言の詠唱)に気づいていないのなら、ジャパに取り組むべきです。
 ジャパは努力を伴って行われます。
 その努力とは、他の想念を追い払うことを意味しています。
 そうして、ジャパは精神的、内面的なものになります。
 最後に、そのアジャパと永遠の本性が実現されるでしょう。
 なぜなら、それはあなたの努力なしでも続いていることがわかるからです。

 努力のない状態が、実現の状態なのです。

チョールカル氏は、再び実践的な観点からの、つまり彼自身に適した教えを求めた。

マハルシ
 それは、外的なものではないので、他に求める必要はないのです。
 それは内的なものであり、また永遠でもあります。
 それは常に実現されています。
 しかし、あなたは気づいていないと言います。
 それはそれ自身への絶え間ない注意を必要とします。
 それ以外の努力は必要ありません。
 あなたの努力は、他の想念に気を取られないようにすることだけを意味しています。

その人物は満足した。

809鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/29(金) 23:00:54 ID:1d4drIFg0

 マントラも極め尽くせば悟りへの道になるものじゃ。
 途中で諦めてしまうのではいかんのじゃ。
 長く続けられる方法が自分にあった法なのじゃ。
 合っていなければ長くは続けられないのじゃ。
 そうであるから実現されているとマハリシは言うのじゃ。
 一つの法を極めつくすまで実践し続けることだけが大事なのじゃ。

810避難民のマジレスさん:2022/04/30(土) 12:28:28 ID:R4vJvKO60
ラマナ・マハルシとの対話 313

グリーンリース氏
 バガヴァンは昨日、人が「内なる神」の探求に従事している間は、外側の仕事は自動的に進むだろうとおっしゃいました。
 シュリ・チャイタニヤの生涯には、彼は生徒たちへの講義をしながらクリシュナ(真我)を探し求めているうちに、自分の体がどこにあるのか忘れてしまい、クリシュナのことを話し続けたと説明されています。
 このように考えると、仕事は放っておいても大丈夫なのか、という疑問が湧いてきます。
 身体的な仕事に一部でも注意を向けるべきでしょうか?

マハルシ
 真我がすべてです。
 今、私はあなたに尋ねます。
 あなたは真我から離れているのでしょうか?
 真我から離れて仕事は続けられるでしょうか?
 あるいは、身体は真我から離れているのでしょうか?
 どれも真我から切り離すことはできません。
 真我は普遍的なものです。
 ですから、あなたが自発的に従事するかどうかにかかわらず、すべての行為は続いていきます。
 仕事は自動的に進んでいきます。
 真我に注意を向けることは、仕事に注意を向けることを含んでいます。

質問者
 もし私が仕事に注意を向けなかったら、仕事はうまくいかないかもしれません。

マハルシ
 あなたは自分自身を身体と同一視しているので、仕事は自分によってなされるものだと考えています。
 しかし、身体と、仕事を含む活動は、真我から離れたものではありません。

 あなたが仕事に注意を向けるかどうかが、どうしたというのでしょうか?
 例えば、あなたがある場所から別の場所へ歩いたとします。
 あなたは一歩一歩に注意を払っているわけではありません。
 しかし、しばらくすると、あなたは気づくと目的地に到着しています。
 仕事、つまり歩くという行為は、あなたがそれに注意することなく続いていたことに気づきます。
 他の種の仕事についても同じです。

質問者
 では、それは寝ながら歩いているようなものですね。

マハルシ
 全くその通りです。
 子供がぐっすり眠っているとき、母親は子供に食事を与えます。
 子どもは、起きているときと同じように、その食べ物をよく食べます。
 しかし、翌朝、その子は母親に「お母さん!昨日の夜はご飯を食べなかったよ」と言います。
 それでも、母親や周りの人たちは、その子が食べたことを知っています。
 しかし、本人は「食べていない」と言います。
 本人は気づいていませんが、行為は続いていたのです。
 夢遊病は、まさにこの種の仕事の良いアナロジーです。

 別の例を見てみましょう。
 荷車に乗った乗客が眠ってしまいました。
 その旅の途中で、牛は動いたり、立ち止まったり、頚木を解かれたりします。
 彼はこれらの出来事を知りませんが、目を覚ますと違う場所にいることに気づきます。
 彼は途中の出来事について至って無知でしたが、彼の旅は終わったのです。

 人の真我ついても同じです。
 彼は身体の中で眠っています。
 彼の覚醒状態は牛の動きであり、彼の三昧は牛の静止状態です(なぜなら三昧=ジャーグラト・スシュプティであるため)。
 つまり、彼は行為に気づいていますが執着していないのです。
 だから、牛は引き具につながれていますが、動かないのです。
 彼の眠りは牛の頚木を解くことです。
 なぜなら、活動の完全な停止は、牛が頚木から解放されることに相応するからです。

 さらに別の例もあります。
 映画館では、シーンがスクリーンに映し出されます。
 しかし、動画はスクリーンに影響を与えたり、変化させたりはしません。
 見る者は画像に注意を払い、スクリーンを無視します。
 画像はスクリーンから分離することはできません。
 それでもスクリーンの存在は無視されます。
 このように、真我もまた、その上に画像、すなわち行為が進行しているスクリーンなのです。
 人は、前者を無視して、後者を意識しています。
 それでも、彼は真我から離れていません。
 意識していようがいまいが、行為は続いていくのです。

質問者
 映画館にはオペレーターがいますね。

マハルシ
 映画館は非生命の材料でできています。
 スクリーン、画像、照明などは非生命であり、オペレーター、つまり生命意識を持つ行為者を必要とします。
 真我の場合、それは意識そのものですから、必要なものは全て揃っています。
 オペレーターが別に存在することはありえません。

質問者は、上記の回答が示唆するように、自分が身体とオペレーターを混同していないと抗議した。

811避難民のマジレスさん:2022/04/30(土) 12:29:14 ID:R4vJvKO60
マハルシ
 身体の機能は、オペレーターの要求を伴っていることを覚えておかなければなりません。
 なぜなら身体という非生命体には、オペレーター、生命意識を持った代理人が必要だからです。

 人々は自分がジーヴァだと思っているので、シュリ・クリシュナは、神がジーヴァのオペレーターとしてハートに宿っていると言ったのです。
 実際には、ジーヴァもオペレーターもいません。
 真我がすべてを構成しています。
 それはスクリーンであり、画像であり、観客であり、演者であり、オペレーターであり、照明であり、その他すべてなのです。
 あなたが真我を身体と混同し、自分自身を演者として想像することは、観客を映画の画像の中の演者だと述べているのと同じことです。
 画像の中の演者が、スクリーンなしでシーンを演じることができるかどうか尋ねるのを想像してください。
 真我と離れて行為をしていると考えている人はこのようなものです。

質問者
 観客に映画の画像の中で演技をしてくれと頼んでいるようなものです。
 夢遊病が望ましいようですね。

マハルシ
 カラスは、どんなものを見るにも、どちらかの目に虹彩を1つだけ入れるという説があります。
 虹彩はただ1つですが、眼窩はふたつあります。
 その視覚は望むままに操られます。

 また、象は1本の鼻で呼吸をし、水を飲むなどの行為をします。

 また、蛇は見るにも聞くにも同じ器官を使うといわれています。

 同様に、行為や状態も、その人の視点によります。
 眠りながらの覚醒も、覚醒しながらの眠りも、夢を見ながらの眠りも、夢を見ながらの覚醒もほぼ同じです。

質問者
 私たちは、物理的な覚醒の世界で、物理的な身体を扱わなければなりません。
 もし仕事の最中に眠ったり、眠りが襲ってきたときに仕事をすると、仕事がうまくいかなくなります。

マハルシ
 睡眠は無知ではありません。
 それはあなたの純粋な状態です。
 覚醒状態は知識ではなく、無知です。
 睡眠には完全な自覚があり、覚醒には完全な無知があります。
 あなたの真の本性は、その両方をカバーし、それを超えて広がっています。
 真我は、知識も無知も超えています。

 睡眠、夢、覚醒は、真我の前を通過する様態にすぎません。
 あなたが気づいているかどうかに関わらず、それらは進行します。
 それが、覚醒、三昧、深い眠り、夢の状態が通過するジニャーニの状態であり、それは前述したように、乗客が眠っているときに牛が動いたり立ったり頚木を外されたりするようなものです。
 これらの質問は、アジニャーニの観点からのものであり、そうでなければこれらの質問は生じません。

質問者
 もちろん、真我にとってそれらが生じることはありえません。
 そこに尋ねることができる誰がいるというのでしょうか?
 しかし、残念ながら私はまだ真我を実現していないのです。

マハルシ
 それこそが、あなたの道を阻んでいるものです。
 あなたは、自分がまだ真我を実現していないアジニャーニであるという考えを捨てなければなりません。
 あなたは真我なのです。
 一時でも、あなたが真我から離れていたことがあったでしょうか?

質問者
 つまり、それは夢遊病、あるいは白昼夢の実験なのです。

バガヴァンは笑った。

812鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/30(土) 22:52:57 ID:1d4drIFg0

 マハリシは仕事をしている時でも真我に注意を向けるようというのじゃ。
 全ては真我であるからというのじゃ。
 自分が仕事をしているという思いがあれば、自我の強化になってしまうのじゃ。
 肉体が自動的に仕事を処理していく過程を見守るのじゃ。
 そうすれば仕事によって修行も進んでいくのじゃ。

813避難民のマジレスさん:2022/05/01(日) 15:13:36 ID:hWvCue/c0
ラマナ・マハルシとの対話 314

1937年1月3日

甘露の滴

昨日の答えの中で、シュリ・バガヴァンは、真我は深い眠りの中の純粋な意識であると言い、また、実現の理想として、眠りから目覚めた状態へ移行する真我を示した。

このことを説明するようにと請われた。

シュリ・バガヴァンは快く答えた。

マハルシ
 真我は眠りの中の純粋な意識です。
 それは、移行期にはイダム(「これ」)を含まないアハム(「私」)として展開し、目覚めた状態では、アハム(私)とイダム(これ)として現れます。
 個人の体験は、アハム(「私」)のみを用いて行われます。
 ですので、示された方法で(つまり、移行期の「私」を用いて)実現を目指さなければなりません。
 そうでなければ、睡眠体験は彼にとって重要ではありません。
 もし移行期の「私」が認識されれば、基体が発見され、それが目標につながるのです。

 また、睡眠はアジニャーナ(無知)であると言われています。
 それは、起きている状態で蔓延している間違ったジニャーナ(知識)との関係においてのみです。
 起きている状態が本当はアジニャーナ(無知)であり、眠っている状態はプラジニャーナ(完全な知識)なのです。
 プラジニャーナとはブラフマンのことである、とシュルティ(聖典)は言っています。
 ブラフマンは永遠です。
 睡眠を体験する者はプラージニャと呼ばれます。
 彼は3つの状態すべてでプラジニャーナムです。
 睡眠状態の特別な重要性は、彼が知識に満ちている(プラジニャーナガナ)ことです。
 ガナとは何でしょうか?
 ジニャーナとヴィジニャーナがあります。
 両方ともに、すべての知覚の中で作用します。
 ジャーグラトにおけるヴィジニャーナは、ヴィパリータ・ジニャーナ(間違った知識)、すなわちアジニャーナ(無知)です。
 それは常に個人と共存しています。
 これがヴィスパシュタ・ジニャーナ(明確な知識)になると、それがブラフマンです。
 睡眠中のように、間違った知識が完全に存在しないとき、彼はただ純粋なプラジニャーナのままです。
 それがプラジニャーナガナです。
 アイタレーヤ・ウパニシャッドはプラジニャーナ、ヴィジニャーナ、アジニャーナ、サンジニャーナはすべてブラフマンの名前であると言っています。
 知識だけで構成されているなら、彼はどのように体験されるのでしょうか?
 体験は常にヴィジニャーナを伴います。
 したがって、プラジニャーナガナの体験のためには、移行期の純粋な「私」を保持しなければならないのです。
 覚醒状態の「私」は不純であり、そのような体験には役立ちません。
 それゆえ、移行期の「私」、あるいは純粋な「私」を使うのです。
 この純粋な「私」はどのようにして認識されるのでしょう?
 ヴィヴェーカ・チューダーマニは、「ヴィジュニャーナ・コーシェー・ヴィラサティヤジャスラム(彼は常に知的な鞘、ヴィジュニャーナ・コーシャの中で輝いている)」と言っています。
 トリプラ・ラハスャや他の著作は、連続する2つのサンカルパ(観念や思考)の合間が、純粋なアハム(「私」)を表していると指摘しています。
 したがって、純粋な「私」をとらえながら、プラジニャーナガナを有することを目的とすべきであり、そしてその試みの中にヴリッティが存在するのです。
 これらはすべて、しかるべき各々の場と役割があると同時に、実現につながるのです。

814避難民のマジレスさん:2022/05/01(日) 15:14:33 ID:hWvCue/c0
 ヴィヴェーカ・チューダーマニでは、純粋な真我はアサットを超えている、つまりアサットとは異なると説明されています。
 ここでいうアサットとは、汚染された目覚めの「私」のことです。
 アサッドヴィラクシャナは、サット、すなわち眠りの真我を意味します。
 彼はまた、サットとアサットとは異なると説明されています。
 どちらも同じ意味です。
 彼はまた、アシェーシャ・サークシー(すべてを見る観照者)でもあります。

 もし純粋なら、不純な「私」を用いて、どのように彼を体験することができるでしょうか?
 ある人が「私は幸福に眠った」と言います。
 幸せは彼の体験でした。
 もしそうでなければ、どうして体験しなかったことについて話すことができるでしょうか?
 もし真我が純粋であるなら、彼はどうやって睡眠中の幸福を体験したのでしょうか?
 今、その体験を語るのは誰でしょうか?
 その話し手はヴィジニャーナートマン(無知な自己)であり、プラジニャーナートマン(純粋な自己)について話しています。
 どうしてそのようなことができるのでしょう?
 このヴィジニャーナートマンは眠りの中に存在していたのでしょうか?
 睡眠中に幸福を体験したという彼の言葉は、彼が睡眠中に存在したことを推測させます。
 では、どのように彼はとどまっていたのでしょうか?
 確実に、目覚めているときの状態と同じではありません。
 彼はそこでは非常に微妙な存在だったのです。
 非常に微妙なヴィジニャーナートマンは、マーヤーの様態を用いて、幸せなプラジニャーナートマンを体験します。
 それは、木の枝や小枝や葉の下で見られる月の光のようなものです。

 微妙なヴィジニャーナートマンは、今この瞬間の明白なヴィジニャーナートマンとは明らかに無縁の存在に見えます。
 なぜ、私たちは睡眠中に彼の存在を推測しなければならないのでしょうか?
 その幸福の体験を否定して、この推論を終わらせるべきではないのでしょうか?
 いいえ。
 誰もが睡眠を求め、熟睡を楽しむために良いベッドを用意するのですから、幸福の体験の事実を否定することはできません。

 このことから、認識するもの、認識、認識されるものは、各々微妙な差異こそあれ、3つの状態のすべてに存在するという結論に達します。
 移行期では、イダム(「これ」)が抑制されているため、アハム(「私」)はスッダ(純粋)です。
 アハム(「私」)が優位を占めます。

 なぜ、その純粋な「私」が今、認識されないのでしょうか、あるいは、記憶にすら残らないのでしょうか?
 それは、面識(パリチャイ)が欠けているためです。
 それは意識的に成し遂げられた場合にのみ認識することができます。
 したがって、努力して意識的に獲得してください。

815鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/01(日) 22:50:14 ID:1d4drIFg0

 マハリシは悟りを得てない者は起きている時が無知であり、むしろ寝ている時が完全な智恵があるというのじゃ。
 起きている時には自我があり、観念があるから夢幻の中にいるようなものなのじゃ。
 寝ていれば忘我になるから、少しは真我に近いといえるのじゃ。
 眠りの中で意識的にそれが見られれば、起きている時にも覚えていられるのじゃ。

816避難民のマジレスさん:2022/05/02(月) 07:39:58 ID:hWvCue/c0
ラマナ・マハルシとの対話 315

侍者の一人が尋ねた。
 シュリ・バガヴァンは、「現実と虚構はどちらも同じものだ」と仰いました。
 どうしてそうなのでしょうか?

マハルシ
 タントラ派やその種の人々は、シュリ・シャンカラの哲学を、彼のことを正しく理解せずに、マーヤー・ヴァーダと非難しています。
 彼は何を言っているのでしょうか?
 彼はこう言っています。
 1.ブラフマンは現実である。 2.宇宙は虚構である。 3.ブラフマンは宇宙である。
 彼は、2番目の発言に止まらず、3番目の発言で補足を続けています。
 それは何を意味するのでしょうか?
 宇宙はブラフマンから離れたところにあると認識されており、その認識は間違っているということです。
 反論者たちは、彼の「ラッジュ・サルパ(縄ー蛇)」の解説を指摘します。
 これは無条件の重ね合わせです。
 縄の真理が知られた後には、蛇の幻想は完全に取り除かれます。

 しかし、彼らは、例えばマルマリーチカーやムリガトリシュナー(蜃気楼の水)のような、条件付きの重ね合わせも考慮に入れるべきです。
 蜃気楼は、それが蜃気楼であることを知った後でも消えません。
 幻はそこにありますが、人は水を求めてそこに駆け寄りはしません。
 シュリ・シャンカラは、この両方の解説に照らして理解されなければなりません。
 世界は虚構です。
 それを知った後でも、それは現れ続けるのです。
 それはブラフマンであり、分離していないことが知られなければなりません。

 もし世界が現れるなら、しかしそれは誰に対して現れるのか、と彼は問います。
 あなたの答えは何ですか?
 真我、とあなたは言わなければなりません。
 もしそうでなければ、認識する真我がいないのに世界が現れるでしょうか?
 ですから、真我が現実なのです。
 それが彼の結論です。
 現象は真我として現実ですが、真我から離れてたものとして虚構なのです。

 さて、タントラ派などは何と言っているでしょうか?
 彼らは、「現象は現実である。なぜなら、現象は、それが出現する実在の一部だからである」と言います。
 これら二つの声明は同じではないでしょうか?
 それが、私が言った「現実と虚偽は同じものである」という意味です。

 反論者たちは続けます。
 「無条件の幻想だけでなく条件付きの幻想も考慮すると、蜃気楼中の水という現象は、その水がいかなる目的にも使用できないので、純粋に幻想である。
 しかし、世界という現象は違う、それは目的を持っているからだ。
 では、どうして後者が前者と同等であるというのだろうか?」

 現象は、それが目的や用途にかなうというだけでは、現実とはなり得ません。
 たとえば、夢を例にとってみましょう。
 夢の創造物には目的があり、それらは夢の目的にかなうものです。
 夢の水は夢の渇きを癒します。
 しかし、夢の創造は、目覚めている状態では矛盾しています。
 覚醒状態の創造は、他の2つの状態において矛盾しています。
 連続的でないものは現実ではありえません。
 もし実在するなら、それは常に実在していなければならず、短期間は実在し、他の時は非実在ということはありえません。

 魔法の創造物もそうです。
 それらは現実に見えても幻なのです。

 同様に、宇宙はそれ自体として、つまり根底にある実在を離れて実在することはできません。

817鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/02(月) 22:19:30 ID:1d4drIFg0

 今ここにある現実から離れて、どこか遠いところにブラフマンがあるのではないとマハリシは説いているのじゃ。
 天国とか極楽にいくと、ブラフマンも実現されるのではないかという幻想を打破するためなのじゃ。
 この幻想の娑婆世界でさえ、ブラフマンを基底として存在するのじゃ。
 それは全てが心から作られたものであるからなのじゃ。
 全てはブラフマンである意識の表れなのじゃ。
 そこに観念による幻想を投射しているから迷いの世界もあるのじゃ。
 それがなくなれば、全てはもとからブラフマンだけであったと知れるのじゃ。

818避難民のマジレスさん:2022/05/03(火) 07:05:31 ID:zk.NgNfs0
マハルシ
 映画館の上映でスクリーンに炎が映し出されています。
 それはスクリーンを燃やしますか?
 滝が流れています。
 それはスクリーンを濡らしますか?
 工具があります。
 それらはスクリーンを傷つけますか?

 そのため、アッチェーディヨーン、アダーヒョーヨン、アクレーディヨーヤム(魂は、断たれず、焼かれず、濡らされず、乾かされない)などと言われるのです。
 火や水などは、ブラフマン(つまり、真我)というスクリーン上の現象であり、ブラフマンに影響を与えることはありません。

819鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/03(火) 22:39:23 ID:1d4drIFg0

 現世が幻影であるとは仏教でもよく言われることじゃ。
 この世で何が起ころうと、不死の境地は影響されないのじゃ。
 夢の中で傷つけられても、起きれば何の傷もないようにのう。
 夢幻である金や名声や権力は得ても失っても何の意味もないのじゃ。
 幻を捨てて永遠の実在に到達することが、この世の唯一の存在理由なのじゃ。

820避難民のマジレスさん:2022/05/04(水) 10:11:01 ID:T7iCrEFQ0
ラマナ・マハルシとの対話 317

パルキ氏
 ここに来る多くの人が、あなたからビジョンや思念伝達を受けたと言っています。
 私はここ1ヶ月半ほどここにいますが、まだほんの少しもそのような体験はありません。
 それは私があなたの恩寵を受けるに値しないからでしょうか?
 もしそうなら、私はヴァシシュタクロートパンナ(ヴァシシュタの系譜)でありながら、あなたの恩寵を受けられず、遠く離れた外国人たちが受けているのは恥ずべきことだと感じています。
 この不名誉を取り除くために、何かプラーヤシュチッタ(贖罪の方法)を伝授していただけないでしょうか?

マハルシ
 ビジョンと思念伝達は、心の状態によってもたらされます。
 それは個人に依存し、普遍的な存在に依存するものではありません。
 さらに、それらは取るに足らないものです。
 重要なのは、心の平安です。

質問者
 心の平安はトランス状態の結果です。
 トランス状態はどのようにして得られるのでしょうか?

マハルシ
 トランス状態とは、ただ想念がないだけの状態です。
 その状態は眠りの中に存在しています。
 それによって、あなたは永続的な心の平安を得るのでしょうか?

質問者
 アーシュラマムの刊行物に、トランス状態が必要だと書かれていますね。

マハルシ
 トランス状態は、新しく手に入れるべき別のものではありません。
 あなたの自然な状態が、トランス状態です。

質問者
 しかし、私はそれを感じないのです。

マハルシ
 あなたが正反対の信念を持っているということが妨げなのです。

質問者
 私は真我を実現していないので、自分の永続的なトランス状態を理解していないのです。

マハルシ
 これは繰り返しに過ぎません。
 それが障害となっているのです。
 これは、あなたが非真我を自分だと思うから生じるのです。
 それが間違いです。
 非真我を真我とみなしてはいけません。
 そうすれば、真我はあなたに明らかになります。

質問者
 私は理論的には理解していますが、現実的には理解できません。

マハルシ
  自己の非実現を語る自己という、2つの自己は存在しません。

質問者
 私にとっては、それはまだ理論的です。
 どうしたらトランス状態になれるのでしょうか。

マハルシ
 トランス状態は、その効果が一時的なものにすぎません。
 それが続く限り、幸福があります。
 それから覚めると、古いヴァーサナが戻ってきます。
 サハジャ・サマーディ(努力のない三昧)でヴァーサナが破壊されない限り、トランス状態になんの益もありません。

質問者
 しかし、トランス状態はサハジャ・サマーディに先行しなければならないのではありませんか?

マハルシ
 トランス状態は、自然な状態です。
 行為や現象はありますが、それらはトランス状態に影響を与えません。
 もし、それらが真我から離れたものではないと気づけば、真我が実現されます。
 トランス状態が永続的な心の平安をもたらすのでなければ、トランス状態に何の用があるでしょうか?
 今でさえ、何が起ころうとも、あなたはトランス状態にあることを知りなさい。
 それがすべてです。

質問者
 しかし、私はどのようにすればよいのでしょうか?

821避難民のマジレスさん:2022/05/04(水) 10:12:41 ID:T7iCrEFQ0
ある学者が述べた。
 ヤトー・ヴァーチョー・ニヴァルタンテー・アプラーピャ・マサナー・サハ(心とともに、言葉も届かないところ)。

質問者は反論した。
 マナサイヴァ・アープタッヴャン(ただ心をもってして実現される)とも言われています。

マハルシ
 そうです。
 純粋な心、すなわち、想念から解放された心こそが、真我なのです。
 純粋な心は、不純な心を超えています。

質問者
 精妙な見る者の、最も精妙な知性で見られるのです。

マハルシ
 心について述べられたことは、これにも当てはまります。

質問者
 もしトランス状態が私の生得の状態だとしたら、なぜトランス状態は実現の前に得られる必要があると言われるのでしょうか?

マハルシ
 それは、人は自分の永遠のトランス状態に気づくべきだということです。
 それに対する不注意が無知です。
 プラマードー・ヴァーイ・ムリティユ(不注意は死そのものである)。

質問者
 事前にトランス状態を得ずに、どうして注意深くあることができるでしょうか?

マハルシ
 よく分かりました。
 もしあなたがそんなにトランス状態を得たいと強く願うなら、どんな麻薬でも役に立つでしょう。
 薬物中毒がその結果であり、解脱ではありません。
 トランス状態にさえ、潜在状態のヴァーサナがあります。
 そのヴァーサナが破壊されなければなりません。

別の信奉者
 ヴァーサナが完全に破壊される前に、真我実現はありうるのでしょうか?

マハルシ
 ヴァーサナには2種類あります。
 1. 無知な者に束縛をもたらすバンダ・ヘートゥと、2. 賢明な者に楽しみを与えるボーガ・ヘートゥです。
 後者は、実現を妨げることはありません。

質問者
 例えば、ヴァーマデーヴァ、ジャダ・バラタなどの、真我を実現した人は生まれ変わるのですか?
 
マハルシ
 実現した人が生まれ変わることはありえません。
 再誕は、縛り付けるヴァーサナによるものです。
 しかし、これらは真我実現の状態において破壊されます。

質問者
 彼らはケーヴァラ・ニルヴィカルパの段階には達しましたが、サハジャ・ニルヴィカルパではなかったということでしょうか?

マハルシ
 そうです。

質問者
 もし享受のためのヴァーサナだけが実現の状態を妨げず、そしてもし至福の状態を妨げられずに世界の出来事を見ることができるのなら、執着だけが束縛であるということになります。
 合っていますか?

マハルシ
 はい、その通りです。
 執着が束縛なのです。
 執着は、自我を滅すれば消えます。

質問者
 実現は、グルの恩寵によって助けられると言われています。

マハルシ
 グルは、真我にほかなりません。

質問者
 クリシュナはサーンディーピニを師に持ち、ラーマはヴァシシュタを持ちました。

マハルシ
 グルは、求道者にとって外的なものだと言われています。
 心の内向はグルによってもたらされます。
 求道者は外向性を有しているため、グルから学ぶようにと勧められるのです。
 やがて彼は、グルが真我であることを見出すことになります。

822避難民のマジレスさん:2022/05/04(水) 10:13:24 ID:T7iCrEFQ0
質問者
 私にグルの恩寵をいただけますか?

マハルシ
 恩寵はいつもそこにあります。

質問者
 しかし、私はそれを感じません。

マハルシ
 明け渡しが、人に恩寵を理解させるのです。

質問者
 私は、心と魂を明け渡しました。
 自分の心の一番の審判は私です。
 それでも、私は恩寵を感じないのです。

マハルシ
 もしあなたが明け渡していたら、疑問は生じなかったでしょう。

質問者
 私は明け渡しました。
 それでも疑問が湧いてきます。

マハルシ
 恩寵は不変です。
 あなたの判断は変わります。
 それ以外に、どこに落ち度があるというのでしょうか?

質問者
 私は、自分自身を明け渡せるようにならなければなりません。

マハルシ
 ターユマーナヴァルは言いました。
 「私にこれほどまでに議論させ、これほどまでにあなたの言葉に従うことを可能にしたあなたに栄光あれ!」。

823鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/04(水) 23:10:09 ID:1d4drIFg0

 恩寵とかトランスとかの変異を欲しがっているならば、それは世間の金や権力や名声を欲しがっているのと変わりないのじゃ。
 自分の欲を出しているのであるからのう。
 自分の欲があるならば明け渡しても居ないのじゃ。
 全ては今ここにいる自分に最初から備わっているものじゃ。
 さらに何かをほしがる必要は無いのじゃ。

824避難民のマジレスさん:2022/05/05(木) 08:23:57 ID:QA3dYefs0
ラマナ・マハルシとの対話 318

1937年1月7日

ヒンドゥ―教徒の紳士が、死の恐怖はどうすれば克服できるのかと質問した。

マハルシ
 死について考える前に、あなたがそもそも生まれてきたかどうかを調べてください。
 生まれた者だけが死ぬことができます。
 あなたは眠っているときでさえ、死んでいるのと同じなのです。
 そこに、死へのどんな恐怖がありますか?

質問者
 眠っている時、私たちはどうなっているのでしょうか?

マハルシ
 睡眠中に質問してください。
 あなたが眠りの体験を思い出すのは、起きている時にだけです。
 あなたはその状態を「幸せに眠った」と言って思い出すのです。

質問者
 その状態を体験するための手段は何ですか?

マハルシ
 それは、私たちが他の状態で慣れ親しんでいるアンタハカラナとは違い、マーヤーカラナと呼ばれています。
 睡眠状態のアーナンダートマンが覚醒状態のヴィジュニャーナートマンと呼ばれるように、同じ手段でも、状態によって呼び方が違うのです。
 
質問者
 マーヤーカラナがアーナンダを体験している様子をご説明ください。

マハルシ
 どうしてあなたは「私は幸せに眠った」と言えるのでしょうか?
 その体験はそこに、あなたの幸福を証明するために存在しているのです。
 眠っている状態での体験がなければ、起きている状態での想起はありえません。

質問者
 そのとおりです。
 しかし、どうか説明をお願いします。

マハルシ
 どうして描写されうるというのでしょうか?
 もし、あなたが物を取り戻すために水に飛び込んだら、水から上がった後で初めて、その回収について話すでしょう。
 あなたが水に沈んでいる最中は、何も言いません。

質問者
 私は眠っている間、恐怖がありませんでしたが、今はあります。

マハルシ
 なぜなら、ドヴィティーヤードヴァイ・バヤン・バヴァティ(2であることにより、恐怖は生ずる)……恐怖は常に他のものだからです。
 何に、あなたは恐れているのですか?

質問者
 身体、感覚、世界、イーシュヴァラ、行為者性、快楽などの知覚のためにです。

マハルシ
 それらが恐怖を引き起こすのであれば、なぜあなたはそれらを見るのですか?

質問者
 それらは避けられないものだからです。

マハルシ
 しかし、それらを見ているのはあなたです。
 恐怖は誰にとってあるのでしょうか?
 それらにとってでしょうか?

質問者
 いいえ、私にとってです。

マハルシ
 あなたがそれらを見るから、あなたはそれらを恐れるのです。
 それらを見なければ、恐れはなくなるでしょう。

質問者
 では、起きている状態ではどうすればよいのでしょうか?

マハルシ
 真我でありなさい。
 そうすれば、恐怖に惹き起こす別のものは存在しないでしょう。

質問者
 はい。
 今、私は理解しました。
 もし私が真我を見るなら、その見ることが非真我を追い払い、そして幸福が存在するということです。
 しかし、死の恐怖があるのです。

マハルシ
 生まれた者だけが死ぬはずです。
 死があなたを脅かせるために、本当にあなたが生まれてきたかどうかを確かめてください。

825鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/05(木) 22:50:02 ID:1d4drIFg0

 眠りの時の意識は死の意識と同じなのじゃ。
 そうであるからマハリシは死を恐れる者に、眠りの中では恐れがないことを説いているのじゃ。
 眠ることを恐れない者が死を恐れる必要は無いのじゃ。
 毎日眠って起きるということは、毎日死ぬことを体験しているのであるからのう。
 眠りの中で幸福があるならば、死にもまた幸福は在るのじゃ。

826避難民のマジレスさん:2022/05/06(金) 07:59:41 ID:eTa3nqhY0
ラマナ・マハルシとの対話 319

ゴアから来たヒンドゥー教徒、シュリーダー氏が尋ねた。
 
 ヨーガハ・カルマス・カウシャラム(ヨーガは行為における技である)のカウシャラム(技)とは何でしょうか?
 それはどのようにして得られるのでしょうか?

マハルシ
 結果を気にすることなく、行為をしなさい。
 自分が実行者だと考えてはいけません。
 仕事を神に捧げなさい。
 それが技であり、またそれを得る方法です。

質問者
 サマットヴァン・ヨーガ・ウッチャテー(平静がヨーガである)。
 平静とは何ですか?

マハルシ
 それは多様性の中の単一性です。
 宇宙は今、多様であると見られています。
 すべての物に共通する要素(サーマー)を見なさい。
 それがなされれば、対極(ドゥヴァンドワーニ)中の平等は自然に訪れます。
 しかし、通常、平静として語られるのは後者です。

質問者
 多様性の中にある共通の要素はどのように認識されるのですか?

マハルシ
 見る者はただ一人です。
 それらは見る者なしには現れません。
 他のものがいかに変化しようとも、見る者に変化はありません。

ヨーガハ・カルマス・カウシャラム = 仕事における技がヨーガである

サマットヴァン・ヨーガ・ウッチャテー = 平静がヨーガである

マーメーカン・シャラナン・ヴラジャ = 私にのみ明け渡しなさい

エーカーメーヴァードヴィティーヤム = 二のない一なるもの

これらはカルマ、ヨーガ、バクティ、ジニャーナを表しており、同じ意味を伝えています。

それらは、ただ一つの真理を、異なる側面で表現したものなのです。

827避難民のマジレスさん:2022/05/06(金) 08:00:16 ID:eTa3nqhY0
エーカナート・ラーオ氏

 そのためには恩寵が必要なのでしょうか?

マハルシ
 そうです。

質問者
 神の恩寵を得るにはどうしたらよいのでしょうか?

マハルシ
 明け渡しによって。

質問者
 それでも私は恩寵を感じません。

マハルシ
 誠意が欠けているのです。
 明け渡しは口先だけのものであっても、条件付きであってもいけません。

これらの言葉を説明するために、聖者ジャスティニアンの一節が読み上げられた。

 「祈りは言葉から成るものではない。
  それはハートからのものである。
  ハートに融合することが祈りである。
  それはまた恩寵でもある。」

 アルヴァールは言います。

 「私はずっとあなたを求めていました。
  しかし、真我を実現すると同時に、あなたが真我であることがわかりました。
  真我は私のすべてであり、だからあなたは私のすべてなのです」。

質問者
 限定、無知、欲望(アナヴァ、マーイカ、カーミャ)という不純物は、瞑想の道を阻みます。
 どうやって克服するのですか?

マハルシ
 それらに惑わされないことによって。

質問者
 恩寵が必要です。

マハルシ
 そうです、恩寵は始まりでもあり終わりでもあります。
 内向は恩寵によるものです。
 忍耐は恩寵であり、実現は恩寵です。
 それが、マーメーカン・シャラナン・ヴラジャ(私にのみ明け渡しなさい)という言葉の理由です。
 もし、人が完全に自分自身を明け渡したら、恩寵を求める部位が残っているでしょうか?
 彼はその時、恩寵に飲み込まれてしまうのです。

質問者
 障害は強力で、瞑想を妨害します。

マハルシ
 もし高次の力が認識され、それに明け渡したならば、どんな障害がどうやってあなたを妨害し得るというのでしょうか?
 もしあなたが「それらは強力だ」と言うなら、それらがあなたを妨害しないように、それらの力の源がとらえられなければなりません。

828鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/06(金) 23:01:14 ID:1d4drIFg0

 自分を明け渡したという者がよくいるが、実は何も明け渡して居ないのじゃ。
 自分を明け渡すのは実際には難しいものじゃ。
 極端に言えばいきなりグルに害されても防御せずに死んで本望とさえ思う境地であるからのう。

 呼吸法とか集中で忘我に至る方がまだ容易なのじゃ。
 熟達すれば自然にサマーディにまで至れるからのう。
 自分を明け渡したと偽っていれば、永遠に恩寵は来ないのじゃ。

829避難民のマジレスさん:2022/05/07(土) 08:11:38 ID:MkueXGeY0
ラマナ・マハルシとの対話 320

ある日常会話の中で、シュリ・バガヴァンはこう指摘した。

マハルシ
 真我実現は適者にのみ可能です。
 ヴァーサナは、ジニャーナが明らかになる前に滅されなければなりません。
 ジニャーナが明らかになるには、人はジャナカ王のようになり、真理のためにすべてを犠牲にする覚悟がなければなりません。
 完全なる放棄が、適性の指標となります。

830鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/07(土) 22:56:44 ID:1d4drIFg0

 ヴァーサナは心の奥に植え付けられた行いの観念記憶なのじゃ。
 ジニャーナは智恵なのじゃ。
 つまりは自分がこのように行ったとかいう自我からの観念を滅するべきというのじゃ。
 自我を完全に放棄して自らの行いを観念から解放しなければならないのじゃ。
 それができる者は稀なのじゃ。

831避難民のマジレスさん:2022/05/08(日) 07:28:11 ID:IdPnLSsQ0
ラマナ・マハルシとの対話 321

質問者
 ジャーグラト(覚醒状態)には不幸が現れます
 なぜ現れるのでしょうか。

マハルシ
 もしあなたが、あなたの真我を見るなら、それらは現れないでしょう。

質問者
 私が誰であるかということに目を向けても、私は何も見つけられません。

マハルシ
 あなたは睡眠中、どのように在りましたか?
 そこには「私」という想念はなく、あなたは幸せでした。
 一方、ジャーグラトでは、「私」という根源的な想念をきっかけに種々の想念が開花し、これらがあなたに生得な幸せを隠してしまうのです。
 幸せの障害となるこれらの想念を取り除くのです。
 あなたの自然な状態は、眠っている間に明らかなように、幸せなのです。

質問者
 私は自分の睡眠体験について何も知りません。

マハルシ
 しかし、あなたはそれが幸せであったことを知っています。
 そうでなければ、「私は幸せに眠った」とは言わないでしょう。
 想念がなく、「私」もなく、あなた自身以外の何もないとき、あなたは幸せです。
 それが真理の全てです。

 これこそまさに、マハーヴァーキャ・タットヴァマシ(あなたはそれである)が伝えていることです。
 あなたの真我を見つけなさい。
 そうすれば「それ」が知られます。

質問者
 ブラフマンはどのような存在なのですか?

マハルシ
 なぜあなたは自分とは別のブラフマンを知りたがるのですか?
 聖典は「あなたはそれである」と言います。
 真我はあなたと懇意であり、あなたは真我なしには存在し得ません。
 真我を実現しなさい。
 それがブラフマンの実現でもあるのです。

質問者
 しかし、私にはそれをすることができません。
 私は真我を実現するには弱すぎるのです。

マハルシ
 その場合は、無条件にあなた自身を明け渡しなさい。
 そうすれば、高次の力がそれ自体を明らかにするでしょう。

質問者
 無条件の明け渡しとは何ですか?

マハルシ
 もし人が自分自身を明け渡せば、質問する者も考えるものもなくなります。
 「私」という根源的な想念をしっかりとらえることによって全ての想念が排除されるか、自分自身を高次の力に無条件に明け渡すか、そのどちらかです。
 実現には、これら2つの方法しかありません。

832鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/08(日) 23:41:32 ID:1d4drIFg0

 不幸があるならばそれは自我によってもたらされるのじゃ。
 まだ真我に達していないのじゃ。
 求め続ければそれも実現するのじゃ。
 求めることが出来ないならば、明け渡しをするがよいのじゃ。
 誰もが自分にあった法を実践するべきなのじゃ。

833避難民のマジレスさん:2022/05/09(月) 07:29:50 ID:H1xqWR1I0
ラマナ・マハルシとの対話 322

マドラスの有名な事務弁護士の娘である、教養ある婦人が尋ねた。

あなたがアドバイスされたように、想念から自由でいるためには、人はどうすればよいのでしょうか?
「私は誰なのか?」という探求しかないのでしょうか?

マハルシ
 ただ静かにしていることです。
 それをやって見てください。

質問者
 不可能です。

マハルシ
 その通りです。
 同じ理由から、「私は誰か?」という探求が勧められるのです。

質問者
 その問いを投げかけても、内側からは何の返答もありません。

マハルシ
 どんな返答を期待しているのですか?
 あなたはそこにいないのですか?
 これ以上何を?

質問者
 想念がますます湧き上がってきます。

マハルシ
 その場で直ちに、「私は誰か?」と、同じ問いかけをするのです。

質問者
 1つ1つの想念が湧き上がるたびにそうすればいいのでしょうか?
 世界は私たちの想念でしかないのでしょうか?

マハルシ
 この質問は世界に任せてください。
 世界に、「私はどうやって誕生したのか?」と尋ねさせましょう。

質問者
 それは私に関係ないということですか?

マハルシ
 深い眠りの中では何も知覚されません。
 これらはすべて、起きた後にのみ見られるものです。
 想念が生じた後にのみ、世界は生まれます。
 それが、想念以外の何であり得るというのでしょうか?

別の訪問者が尋ねた。

心を静めるにはどうしたらよいのでしょうか?

マハルシ
 まず、心をとらえさせ、ここに連れてこさせましょう。
 それから、それを静める方法と手段を考えましょう。

質問者
 ジャパをしていときでさえも、心は常に変化していると言いたかったのです。

マハルシ
 ジャパは心を静めるためだけにあるのです。

質問者
 どのようなジャパが良いのでしょうか?

マハルシ
 ガーヤトリーのような、適切なものなら何でも。

質問者
 ガーヤトリーでよいのでしょうか?

マハルシ
 それに優るものがあるというのでしょうか?
 それができない人たちだけが、他のものを探すのです。
 それは、その中に真実の全領域を包含しています。
 詠唱(ジャパ)はディヤーナ(瞑想)につながり、それは真我を実現するための手段なのです。

質問者
 1日30分で十分でしょうか?

マハルシ
 それは常に、あるいはできる限り長く行われなければなりません。

834鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/09(月) 23:02:25 ID:1d4drIFg0

 ガーヤトリーとは神への賛歌と助力を願うマントラなのじゃ。
 インドの人で信仰がある者ならば、唱え続けて集中力が養えるのじゃ。
 ただの言葉ならば無意味なものとしてやめてしまが、マンドラは信仰があるから続けられるのじゃ。
 毎日続ければディヤーナからサマーディにまで到達できるのじゃ。

835避難民のマジレスさん:2022/05/10(火) 15:58:33 ID:AuK7e.NA0
ラマナ・マハルシとの対話 323

アルナーチャラ・アシュタカムの第6連を説明しながら、シュリ・バガヴァンは次のように述べた。

マハルシ
 前の連の最後の言葉は、「一者は在るのか?」と問いかけています。
 今回の連の最初の言葉は、「そうだ、一者は在る……」と答えています。
 そしてこう続きます。
 「それは唯一なる一者であるにもかかわらず、その素晴らしい力によって、無知、あるいは潜在的傾向の集合体としても知られる小さな点である『私』(自我)の上に投影されるのである。
 この投影された光が相対的知識である。
 これは、人のプラーラブダ(今結実している過去のカルマ)に従って、内部の潜在的傾向を外部の粗雑な世界として現し、粗雑な外部の世界を微細な内部の世界として引き入れる。
 外界の粗雑な傾向を内界の微細な傾向として顕在化させ、外界の総体的な傾向を内界の微細な傾向として退出させる。
 そのような力は精妙な次元では心と呼ばれ、物理的な次元では脳と呼ばれている。
 この心や脳は、その永遠の一なる存在に対する拡大鏡として機能し、それを拡大された宇宙として外へ示す。
 目覚めと夢見の状態では心は外向性であり、眠っているときは内向性である。
 心を媒体として、一つの至高なる存在が、目覚めと夢見の状態では多様に見られ、睡眠状態や卒倒などでは引き入れられたままである。
 ゆえに、あなたはただそれであり、それ以外にはありえない。
 どのような変化があっても、同じ一つの存在があなた自身として残り、あなた自身以外に何もないのである。」

 前の連にはこうあります。

 一度太陽光を浴びると、もはや感光板は画像を映すことができない。
 同じように、心(感光板)も、あなたの光にさらされた後は、もはや世界を映すことができなくなる。
 さらに、太陽はあなたに他ならない。
 その光線が像の形成を妨げるほど強力であるなら、あなたの光はさらにどれほどであろうか?
 このように、唯一なる存在であるあなた自身から離れた何ものも存在しないと言われるのだ。

 今回の連では、小さな点=自我、暗闇でできた小さな点=潜在的傾向からなる自我です。
 見る者、主体または自我が立ち現れると、それは自身を、見られるもの、客体またはアンタハカラナ(内的器官)として拡大します。
 自我が立ち現れるためには、光は薄暗くなければなりません。
 白昼では、縄は蛇のように見えません。
 真っ暗闇では縄そのものが見えないので、それを蛇と間違えることはありません。
 薄明かりの中、夕闇の中、影で暗くなった光の中、薄明かりに照らされた闇の中においてのみ、縄が蛇に見えるという間違いが起こるのです。
 同様に、純粋な光を放つ存在が自我として立ち現れるのも、それは、闇を通って拡散するその光の中でこそ可能なのです。
 この闇は、原初の無知(原罪)としても知られています。
 それを通過する光は、投影された光と呼ばれます。
 投影された光は、その真価に基づいて、純粋な心、イーシュヴァラ、あるいは神として一般に知られています。
 イーシュヴァラがマーヤーと一体化されていることはよく知られています。
 つまり、投影された光はイーシュヴァラです。

 もう一つの名前である純粋な心は、不純な心をも暗示します。
 これは、ラージャシックまたは活動的な心、あるいは自我のことです。
 これもまた、別の投影を通してのみ、元のサートヴィックな心から映し出されることができるのです。
 したがって、自我は第二の闇(アヴィディヤー)の産物です。
 次に来るのは、アンタハカラナ(内的器官)の形をとったターマシックまたは不活発な心です。
 これが世界として現れるのです。

 粗雑な身体の立場からすれば、脳を介して、世界として外部に輝いていると言えるかもしれません。

 しかし、粗雑な身体は、心に他なりません。
 心は、四つの内なる器官、あるいは想念からなる原理、あるいは第六感からなるとも言えます。
 あるいは、知性を自我に、チッタを心に(すなわち記憶機能を思考機能に)組み合わせて、二つの部分(自我と心)からなるとすることもできます。
 後者の場合、ヴィジュニャーナートマン(知的自己)、自我、あるいは見る者が主体を形成し、心の鞘あるいは見られる者が客体を形成します。

 覚醒、夢、睡眠の状態は、原初の闇(ムーラ・アヴィディヤー)にその起源があります。
 目覚めているときと夢の中では、心は外に出てその様態から体験を引き出し、眠りの中では、マーヤーの様態を用いて体験しながら内に引き込まれます。
 独自の力が個人と宇宙のすべての活動を制御しているのです。
 これらはすべて、自ら光りを放つ存在の基底に投影された光を通過する現象に過ぎません。

836避難民のマジレスさん:2022/05/10(火) 15:59:38 ID:AuK7e.NA0
 白昼に蛇が縄に見られないように、また濃い闇の中では縄そのものが見られないように、自ら光り輝く純粋な存在の三昧状態にも、深い眠りや卒倒などにも、世界は現れないのです。
 投影された光(闇と混ざった光、無知によって汚された知識)の中でだけ、その源から独立していない世界は、現れ、栄え、滅びるように見えるのです。
 その多様性もまた、本来の源である実在から排除されることはありえません。
 ここでは、一つの単一の存在が多様化し、客体化され、そして撤退する、という芝居が繰り広げられているのです。
 それを行うシャクティ(力)がなければならず、また、見事なものです!
 彼女は、自分の起源から独立していることはできません。
 自ら光り輝く純粋な存在の中では、このシャクティは見られません。
 それにもかかわらず、彼女の行動はこのうえなく有名なのです。
 なんと卓越しているのでしょう!

 彼女の卓越した本来の活動(すなわち振動する力)からサットヴァに満ちた投影が生じます。
 そこからラージャシックな自我、次に一般に知識として知られているタマスの想念形態、あるいは拡大レンズに相応する光が生じます。
 人工の光がレンズを通してスクリーンに映し出されるように、投影された光も想念(拡大鏡)を通過してから、その先にある世界へと広がっていきます。
 さらに、想念は ── それ自体が種子の形態をとった世界であり ── 、広大な外界であるかのように見えます。
 それは並はずれた力です!
 このように、イーシュヴァラも個人も世界も、自ら光り輝く単一の存在を基底に投影された光でしかないのです。

 さて、この「私」という想念(自我)とは何でしょうか?
 成り立ちから見れば、主体なのでしょうか、客体なのでしょうか?

 覚醒状態や夢の状態で他のすべての客体を目撃している以上、あるいは、少なくとも私たちがそう思っている以上、それは主体であると考えられなければなりません。
 しかし、純粋な真我を実現すれば、それは単なる客体でしかありません。

 この「私」という想念(自我)は誰のものなのでしょうか?
 この究明がヴィチャーラを形成します。

 「私」という想念と「これ」という想念は、どちらも同じ光からの放射です。
 それらは、それぞれラジョーグナとタモーグナに関係します。
 ラジャスやタマスから解放された、投影された光(純粋なサットヴァ)を得るためには、それは、「これ」という想念によって断たれることなく、「私-私」として輝きを放たなければなりません。
 この純粋な状態は、一時的に睡眠と覚醒の間に介在します。
 それが長引けば、宇宙意識、あるいはイーシュヴァラにさえなります。
 これが、自ら光り輝く至高の存在の実現に至る唯一の道なのです。

 また、「私は幸せに眠った、何にも気づくことなく」と、目覚めた後に回想される深い眠りには、二種類の体験があります。
 幸福と無知がその体験です。
 このように、私たちはその力が、1. アーヴァラナ(闇)と 2. ヴィクシェーパ(多様性)に改変されるのを見ます。
 心はヴィクシェーパの結果なのです。

837鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/10(火) 23:04:03 ID:1d4drIFg0

 自我はただの観念であり、名前とイメージの連結したものに過ぎないのじゃ。
 それを主体で在ると認識してしまうことが、無明なのじゃ。
 そこからさまざまな苦が起こるのじゃ。
 それはただの謬見なのじゃ。
 観察ができればそれが消え去るのじゃ。
 縄が蛇ではないと気付くように、名前とイメージが自分ではなく、自分のものでもないと気づけば無我になるのじゃ。

838避難民のマジレスさん:2022/05/11(水) 12:54:52 ID:AuK7e.NA0
ラマナ・マハルシとの対話 324

1937年1月10日

回想録

(1) スカンダアシュラマムにいた時、シュリ・バガヴァンは、10フィートほど離れたところに小さくて長い白色のヒキガエルを見かけた。
シュリ・バガヴァンはそれを見つめ、それはシュリ・バガヴァンを見つめた。
突然、それは大ジャンプをし、正確にシュリ・バガヴァンの片方の目の上に止まった。
シュリ・バガヴァンはすぐに目を閉じたので、怪我はなかった。

(2) かつて、羽をきらびやかな扇のように広げて気取って歩く2羽の孔雀がいた。
一匹のコブラもその遊びに参加し、その頸部を掲げ、それらの中を動き回っていたものだった。

(3) シュリ・バガヴァン曰く、孔雀は緑のトカゲを見つけるとすぐに、まっすぐそのトカゲのところに行き、おとなしくトカゲの前に首を下ろすと、トカゲはそれを噛み切り孔雀を殺してしまう。

(4) ある時、ランガスワミ・アイエンガール氏が丘に出かけた。
近くに一頭の豹がいた。彼は石を投げた。
豹は彼の方を向いた。
彼は命からがら逃げ出した。
シュリ・バガヴァンは途中で彼に会い、どうしたのかと尋ねた。
アイエンガール氏は走りながら「ヒョウ」とだけ言った。
シュリ・バガヴァンがその獣がいるところへ行くと、獣はすぐに立ち去った。
以上のことが起こったのは、ペストが蔓延していた頃だった。
豹はよく寺院の脇を自由に歩き回っており、時には2頭、3頭でいることもあったものだった。

(5)
シュリ・バガヴァンは言った。
「蛙はよくヨーギに例えられます。
 長い間静かにしていて、首の下の皮がリズミカルに動くのが唯一の生命の兆しなのです」。

「また、カエルは、生気が停止した状態で並外れて長い間とどまることができます。
 それらは舌を飲み込むと言われています。
 舌を飲み込むのはヨーギの修行でもあります。
 生気が停止されるのです。
 ヨーギは死にませんが、生命活動を再開する前に、他の人に舌を引き抜かれなければなりません。
 蛙が飲み込まれた舌を出して活動を再開するのは驚くべきことです」。

1937年1月11日

(6) ラグーヴィーラン ── マラヤーラム語のやさしい散文で書かれた『ラーマーヤナ』 ── を読んでいると、ハヌマーンが身体的にランカに渡る前に、精神的にどのようにその島に到達したかに関する一節があった。
シュリ・バガヴァンは、精神的なアプローチは身体的な行為よりも早く目的を達成する、という点を強調した。

(7) シュリ・バガヴァンは次のような面白い逸話を話した。
マラヤーリの偉大な聖者であり著述家であるエルータチャンが、寺院に入るとき、身に魚を数匹隠し持っていた。
ある敵対者がそれを寺院の参拝者たちに報告した。
その男は調べられ、王のもとに連れて行かれた。
王は彼に「なぜ、魚を寺院に持ち込んだのか?」と尋ねた。
彼は答えた。
「それは私の罪ではありません。
 私は服の中に隠しておいたのです。
 他の者たちが神殿の中で魚を曝したのです。
 過失は曝した者にあります。
 体内の排泄物は不潔とされませんが、排泄されると不潔とされます。
 これも同じです」。

839鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/11(水) 23:32:29 ID:1d4drIFg0

 身に入るものより、身からでるものが自分を傷つけるというのじゃ。
 人は食べ物に毒がはいっていないかとか、腐っていないかとか気をつけるじゃろう。
 それと同じように口から出る言葉や、行いに気をつけるのじゃ。
 暴言や暴力によって遂には自分を傷つけないよにうするためなのじゃ。

840避難民のマジレスさん:2022/05/12(木) 12:01:47 ID:fkqLohAs0
ラマナ・マハルシとの対話 325

1937年1月12日

グントゥール地区のラーマ・シャーストリ氏はシュリ・バガヴァンに関する8つのシュローカを作り、心を込めて読み上げた。
それからシャーストリ氏は導きを請うた。

「私はジニャーナ・マールガにふさわしくないサンサーリーです。
 世俗の物事が私を惑わします。
 どうか、私が何をすればよいのか教えてください」。

マハルシ
 バガヴァンのことを考えなさい。
 世俗の物事がどうして彼を惑わすというのでしょう?
 あなたもそれらもバガヴァンの中にあるのです。

質問者
 私はナーマ・スマラナ(神名の想起)をしてもよろしいのでしょうか?
 どのようなナーマを選べばいいのでしょうか?

マハルシ
 あなたはラーマ・シャーストリです。
 その名前を重要視しなさい。
 ラーマと一つになるのです。

841鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/12(木) 21:12:55 ID:1d4drIFg0

 ラーマとはヴィシュヌの化身であるとされる神なのじゃ。
 質問した者の名前と同じなのじゃ。
 親が神にあやかるようにとつけた名前じゃろう。
 自分と縁のある神に帰依するようにというのじゃ。
 そのようであれば帰依もしやすいからなのじゃ。
 帰依が完全になれば神と一つで在ると感じるのじゃ。

842避難民のマジレスさん:2022/05/13(金) 18:01:20 ID:99qwrTUY0
ラマナ・マハルシとの対話 326

1937年1月13日

長く住んでいる従者の質問に答える形で、シュリ・バガヴァンは言った。

マハルシ
 誰もが、心の落ち着きのなさを訴えています。
 心を見つけさせなさい、そうすれば彼らは知るでしょう。
 確かに、人が座って瞑想するとき、想念はいくらでも急に噴き出してきます。
 心は想念の束に過ぎません。
 想念の弾幕の中を押し進もうとする試みは、うまくいきません。
 もし、何らかの方法で真我に留まることができれば、それが良いのです。
 それができない人たちには、詠唱や瞑想(ジャパやディヤーナ)が処方されます。
 それは、象に鎖を与えて、その鼻を制御するようなものです。
 象の鼻は通常、落ち着きがありません。
 象は町の通りに連れ出されると、四方八方に鼻を伸ばします。
 もし、運ぶ鎖が与えられれば、落ち着きのなさは抑えられます。
 落ち着きのない心も同様です。
 ジャパやディヤーナに従事させられれば、他の想念は追い払われ、心は単一の想念に集中します。
 こうして心は平和になるのです。
 しかし、それは長期間の奮闘なしに平和が得られるというわけではありません。
 他の想念すべてが決着をつけられなければならないのです。

 別の例を挙げましょう。
 牛が悪戯をして、近所の人の畑に入り込んで草を食んでいるとします。
 彼女の盗み癖は簡単には断たれません。
 どうすれば彼女を牛房に閉じ込めさせておけるか考えてみてください。
 無理やり牛房に繋がれれば、彼女は悪戯をする機会を待つだけです。
 もし、牛房の中で良質の草の誘惑を受けたら、初日は一口だけ食べて、また逃げる機会を待ちます。
 翌日には2口と、そのように日を追うごとに口数が増えていき、最終的に邪な性質が断たれます。
 悪癖から完全に解放されれば、安心して放し飼いにされ、近所の牧草地に入り込むこともありません。
 牛房で叩かれたとしても、その場を離れることはありません。
 心も同様です。
 心は、想念として現れる潜在的なヴァーサナの力によって、外に向かってさ迷い出ることに慣れているのです。
 内に秘められたヴァーサナがある限り、それらは外に出てきて自らを使い果たさなければなりません。
 想念が心を構成しています。
 心とは何かを探れば、想念は引き下がり、求道者はそれらが真我から生じることを知ります。
 私たちが心と呼んでいるのは、これらの想念の集合体です。
 もし、想念が真我から生じることを悟り、それらの源に留まれば、心は消えてなくなります。
 心が消滅し、平和の至福が実現した後、今、すべての想念を排除することが困難であると感じているのと同様に、1つの想念を引き出すことが困難であると感じるでしょう。
 ここでは、心は悪戯をする牛で、想念は隣の牧草地、想念から解放された自分自身の原始の存在は牛房です。

 平和の至福は、邪魔されるにはあまりに惜しいものです。
 ぐっすり眠っている人は、起こされて自分の仕事をするよう命じられるのを嫌がります。
 眠りの至福は、想念から生まれる仕事のために犠牲にされるには、あまりにも魅惑的です。
 想念のない状態は、本源の状態であり、至福に満ちています。
 想念にまみれた不幸な状態のためにそのような状態を捨てるのは憐れではないでしょうか?

 もし、想念のない状態に留まりたいのであれば、奮闘は避けられません。
 自身の原初の状態を取り戻す前に、人は戦い抜かなければなりません。
 戦いに勝利し、ゴールに到達すれば、敵、すなわち想念はすべて真我の中に収まり、完全に消滅します。
 想念が敵です。
 それらは宇宙の創造に相当します。
 想念がなければ、世界も創造主である神も存在しません。
 真我の至福とは単一の存在に他なりません。

843避難民のマジレスさん:2022/05/13(金) 18:02:07 ID:99qwrTUY0
 プラハラーダが三昧に入ってたとき、ヴィシュヌは心の中で想いました。

 「このアスラ(悪魔)が三昧に入っていることで、すべてのアスラたちは平和のうちにある。
 戦いも、力試しも、力の探求も、力を得るための手段もない。
 そのような力のための手段(ヤーガ"供物"、ヤグニャ"儀式"など)がない場合、すなわち神々は栄えなければ、新しい創造がないばかりか、いかなる存在も正当化すらされない。
 ゆえに、私は彼を起こさせる。
 そうすれば、アスラたちは立ち上がり、彼らの本来の性質が現れ、神々が彼らに挑戦する。
 そうなれば、アスラや他の者たちは力を求め、その獲得のための手段を取る。
 ヤグニャなどが盛んになり、神々が栄え、よりいっそうの創造が、いっそうの戦いが起こり、私は十分な仕事をすることができるだろう」。

 そこでヴィシュヌはプラハラーダを起こし、彼に永遠の生命とジーヴァン・ムクティを祝福しました。
 宇宙がその永遠の本性の中で続いていくように、デーヴァ(神)とアスラの戦いは再開され、旧秩序が回復されたのです。

質問者
 どうして神ご自身がアスラの要素を目覚めさせ、絶え間ない戦争状態をもたらすというのでしょう?
 純粋な善性が神の本性ではないのでしょうか?

マハルシ
 善性は相対的なものでしかありません。
 善は常に悪を暗示し、それらは常に共存しています。
 一方は他方の裏面なのです。

844鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/13(金) 22:56:07 ID:1d4drIFg0

全ての瞑想や法は心を静めるめのものなのじゃ。
 心を静めて観察がし易くするために実践するものじゃ。
 最初から心が静まっていれば瞑想もいらないのじゃ。
 阿修羅がいなければ、神々も必要はないというがそれを表す比喩なのじゃ。

845避難民のマジレスさん:2022/05/14(土) 14:38:03 ID:ZvNr5i4o0
ラマナ・マハルシとの対話 327

ホールの聴衆は、とても熱心に聞いていた。
その中の一人、シュリ・バガヴァンの誠実な帰依者は、それにとても感銘を受け、すぐに我を忘れてしまった。
彼は後に、その体験を次のように語った。

帰依者
 私は長い間、「流れ」はどこから始まるのか、体の中なのか、それとも別の場所なのかと考えていました。
 突然、私の体は希薄になり、やがて消えてしまいました。
 「私は誰なのか?」という探求が、非常にはっきりと、強制的に続けられました。
 「私-私-私」という音だけが持続していました。
 そこには一つの広大な広がりがあり、それ以外何もありませんでした。
 ホールで起こった出来事について、ぼんやりとした認識がありました。
 ヴェーダの詠唱が終わると、人々が立ち上がって敬礼したことに気づいていました。
 私も立とうと思いましたが、すぐにその思いは消えました。
 私はまた、一つの広がりの中に陥ってしまいました。
 その体験は、シュリ・バガヴァンの声を聞くまで続きました。
 それが自分を取り戻させました。
 そして、立ち上がって敬礼しました。
 不思議な感覚は30分以上続きました。
 私はそれを忘れることができません。
 今も私の頭から離れないのです。

シュリ・バガヴァンは彼の言葉に耳を傾け、何分間か沈黙していた。
彼の唇から、いくつかの見解がこぼれ落ちた。

マハルシ
 人は身体の外に出るように思えるかもしれませんが、身体そのものは私たちの想念以上のものではありません。
 想念のないところに身体はありえず、身体のないところに出たり入ったりすることはありえません。
 しかし、習慣によって、外に出るという感覚が生まれます。

 海面に落ちた雹の一粒が溶けて、海の中の水、波、泡などになります。
 同様に、微細な知性は、ハートから小さな点(自我)として立ち現れ、膨らんで、最後にはハートの中に入り、ハートと一体となります。

 たとえ牛乳が海のように広がっていても、あなたは海のように広い口でそれを飲むことができるでしょうか?
 あなたは、乳頭の小さな毛細管を通してのみ、それを吸うことができます。

 ヴィシュヌ派の聖者であるナンマルヴァールはこう言っています。
 「私の真我のみがあなたである」。
 これはどういう意味でしょうか?
 「私が真我を実現する前は、あなたを探してさまよっていた。
  今、真我を実現したことで、あなたが真我であることがわかった」。
 このことは、限定不二一元論にどう適合するのでしょうか?
 このように説明されるに違いありません。
 「真我に浸透しながら、あなたはアンタルヤーミー(内在する存在)として残存している。
  したがって、私はあなたの身体の一部であり、あなたはその身体の所有者(シャリーリー)である」。

 自分自身ではないとして身体を放棄したのに、なぜ別(神)の身体になるというのでしょうか?
 もし自分の身体が真我でないなら、他の身体もまた非真我なのです。

 限定不二一元論の反論者は、至福を経験するためには個人性が必要だと考えています。
 個人性、つまり「私」という性質が失われてはいけないと。
 嗚呼!真我は身体ではないのに、真我が神の身体となる!
 それは不条理ではありませんか?

 あるいは、もしあなたが神にプラパッティー(自分自身を明け渡すこと)をすれば、あなたは自分自身を彼に委ねたことになり、あなたは彼のものであって、もはやあなたのものではありません。
 もし、神が身体を必要とするのであれば、神に自分で探してもらいましょう。
 あなたが、彼が身体の所有者であると言う必要はありません。

846鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/15(日) 01:38:07 ID:1d4drIFg0

 人の肉体も想念であるとマハリシはいうのじゃ。
 全ては意識であるから、肉体という物理的な存在もまたその一部なのじゃ。
 全てつながり、同じ本質を持つものなのじゃ。
 肉体だけが自分であるという囚われがあれば、肉体の外に出たという観念も起こるのじゃ。
 意識が全てであると理解できれば、肉体への束縛がなくなっただけであると気づくのじゃ。

847避難民のマジレスさん:2022/05/15(日) 15:43:22 ID:asj6Mn/.0
ラマナ・マハルシとの対話 328

あるヨーロッパの紳士が、落ち着いた調子で始め、はっきりと、ゆっくり話した。

「なぜ、個人は世俗の物事に巻き込まれた状態にあり、その結果、悩みを刈り取らねばならないのでしょうか?
 彼らは自由であってはならないのでしょうか?
 もし彼らが霊界にいれば、より大きな自由があるはずです」。

マハルシ
 この世はあくまで霊的なものです。
 あなたは自分を物理的な身体と同一視しているので、この世は物理的であり、あの世は霊的であると語っているのです。
 ところが、在るのは、霊的なものでしかないのです。

質問者
 肉体分離した魂、すなわち霊たちは、より深い洞察力を持ち、より大きな自由を享受しているのでしょうか?

マハルシ
 あなたは自分をこの肉体と同一視しているので、肉体分離した魂たちを霊として語るのです。
 これらの限界から、あなたは彼らの限界について話し、彼らの能力を知ろうとします。
 肉体分離した魂にも、微細な身体があります。
 そうでなければ、あなたは「肉体分離した魂」とは言わないでしょう。
 肉体分離とは、「この粗雑な身体を脱いだ」という意味です。
 あなたが彼らに個人性を与える限り、彼らは微細な身体に属されます。
 彼らの限界は、彼ら自身の状態によって決まります。
 あなたが自身の限界の重荷を感じているように、彼らもまた自身の限界の重荷を感じているのです。
 私が霊や霊界と言ったのは、絶対的な霊のことであり、相対的なものではありません。
 もしあなたが自分自身が霊であると悟ったなら、この世界は霊的なものでしかなく、物理的なものではないことがわかるでしょう。

質問者
 彼らの身体は、私たちの身体と同じように一時的なものなのでしょうか。
 彼らは転生するのでしょうか?

マハルシ
 これらの質問は、あなたが自分自身を身体だと考えているから生じるのです。
 この身体には誕生と死があり、この身体が倒れると別の身体が生まれてきますが、これが転生と呼ばれています。
 しかし、あなたはその身体なのでしょうか?
 もし、あなたがこの身体ではなく、霊であることがわかれば、あなたは粗雑や微細な身体から解放され、何の限界もなくなるでしょう。
 何も限界のないところに、物理的や霊的な世界があるでしょうか?
 転生という問題がどうして生じるというのでしょうか?

 もう一度、別の視点から考えてみましょう。
 あなたは夢の中で自ら夢の身体を作り出し、その夢の身体で行動します。
 覚醒状態でも同じように改竄されます。
 現在、あなたは自分がこの身体であり、夢の身体ではないと思っています。
 夢の中では、この身体は夢の身体によって改竄されます。
 つまり、これらの身体はどちらも実在しないのです。
 なぜなら、それぞれがある時だけは本物であり、他の時は偽物だからです。
 実在であるものは、永遠に実在でなければなりません。
 しかし、あなたは「私」と言います。
 この「私」という意識は、三つの状態を通じてずっと存在しています。
 それには何の変化もありません。
 それだけが実在なのです。
 三態は偽りです。
 それらはただ心のためだけのものです。
 あなた自身の視覚を妨げているのは心です。
 あなたの真の本性は、無限の霊です。
 それがあなたの眠りの状態だったのです。
 あなたは他の二つの状態における限界を認めます。
 どうしてその違いは生じるのでしょう?
 眠っているときには心はありませんでしたが、夢や目覚めている状態には心が存在します。
 限界を感じるのは、心の働きによるものです。
 心とは何でしょう?
 それを見つけてください。
 もしあなたがそれを探せば、それはひとりでに消えていくでしょう。
 なぜなら、心には真の実在がないからです。
 それは想念から構成されていて、想念が停止すれば消滅するのです。

質問者
 そのとき、私は残っているのでしょうか?

マハルシ
 眠りの中でのあなたの体験はどうでしょうか?
 想念も心もなかったのに、そのときあなたは残っていたのです。

848避難民のマジレスさん:2022/05/15(日) 15:45:38 ID:asj6Mn/.0
質問者
 瞑想しようとすると、心がさまよってしまいできません。
 どうしたらいいのでしょうか?

マハルシ
 あなたの質問が答えを与えてくれます。
 まず、質問の最初の部分についてですが、あなたは集中してもうまくかないと言います。
 「あなた」は「真我」を意味します。
 何にあなたは集中するのですか?
 どこで失敗するのですか?
 一つの自己がもう一つの自己に集中するといった、二つの自己があるのでしょうか?
 今、失敗を訴えている自己はどちらなのでしょうか?
 二つの自己があるはずがありません。
 あるのはたった一つの真我だけであり、それは集中する必要がありません。

 「しかし、それなら、なぜ幸福が存在しないのでしょうか?」とあなたは尋ねます。
 あなたが眠っているときの霊のままでいることを妨げるものは何なのでしょうか?
 あなた自身が、それはさまよう心であると認めています。
 その心を探し出してください。
 そのさまよいが止めば、それは真我、つまり永遠の霊である「私」という意識であることが見いだされるでしょう。
 それは、知識も無知も超えているのです。

質問者
 私は仕事で忙しく、集中の練習をする時間がほとんどありません。
 何か集中を助けるものはありますか?
 呼吸の制御は良い助けでしょうか?

マハルシ
 プラーナと心は同じ源から生じます。
 その源には、息を止めるか、心をたどることで到達されます。
 もし後者ができないなら、前者が助けになるのは間違いありません。
 呼吸の統制は、呼吸の動きを観察することによって得られるのです。

 心が観察されれば、想念は止みます。
 平和がもたらされ、それがあなたの真の本性なのです。
 ジャナカ王は言いました。
 「私は今、 私から『私』を奪ってきた泥棒(すなわち心)を見つけた。
  この泥棒を即座に殺してやろう」。
 想念による動揺は、真我から平安を奪っているように見えます。
 この動揺が心です。
 それが止むと、心は飛び立つと言われています。
 真我は乱されることのない基底として残るのです。

別の人が口を挟んだ。
「心が心を殺さなければならないのです」。

マハルシ
 そうです、もし心があるのなら。
 それを探してみれば、存在しないことがわかります。
 存在しないものがどうして殺されるというのでしょうか?

質問者
 精神的なジャパは口頭のジャパより優れていないのですか?

マハルシ
 口頭のジャパは音で構成されています。
 音は想念から生じるものです。
 想念を言葉で表現する前に、考えなければならないからです。
 想念が心を形成するのです。
 したがって、精神的なジャパは口頭のジャパよりも優れています。

質問者
 ジャパに黙想しつつ、口頭で繰り返してはいけないのでしょうか?

マハルシ
 ジャパが精神的になったら、音の必要性はどこにあるというのでしょうか?

 ジャパは精神的になることで、黙想になります。
 ディヤーナ、黙想、精神的なジャパは同じものです。
 想念が乱雑であることを止め、一つの想念が他のすべての想念の排除に固執するならば、それが黙想であると言われています。
 ジャパやディヤーナの目的は、個々の想念を排除し、単一の想念に自身を止めることです。
 そして、その想念もその源である絶対意識、すなわち真我の中に消えていきます。
 心はジャパに取り組み、そして自らの源に沈んでいくのです。

質問者
 心は脳から生じると言われています。

マハルシ
 脳はどこにあるのですか?
 それは身体の中にあります。
 私は、身体そのものが心の投影だと言っています。
 あなたは、身体のことを考えるとき、脳について話します。
 身体とその中の脳を作り出し、そしてまた脳がその座であることを確かめるのは心なのです。

質問者
 シュリ・バガヴァンは、ある著作の中で、ジャパはその源まで辿り着かれなければならないと述べています。
 それは心を意味されているのではないのでしょうか?

マハルシ
 これらはすべて、心の働きにすぎません。
 ジャパは心を単一の想念に固定するのに役立ちます。
 他のすべての想念は、それらが消えるまで従属させられます。
 それが精神的になったとき、ディヤーナと呼ばれます。
 ディヤーナはあなたの真の本性です。
 しかし、それがディヤーナと呼ばれるのは、それが努力によってなされるからです。
 努力は、想念が乱雑である限り必要です。
 あなたが他の想念と共にいるために、単一の想念の継続を瞑想またはディヤーナと呼ぶのです。
 ディヤーナが無努力になれば、それがあなたの真の本性であることが見いだされるでしょう。

849鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/16(月) 00:11:27 ID:1d4drIFg0

 最近は脳科学者というのがいて脳が全てという唯脳論がはやっているが、それもまた幻想だというのじゃ。
 脳は肉体の一部であり、肉体もまた幻想であるからなのじゃ。
 肉体に限定された幻想から生まれる更なる幻想なのじゃ。
 それも観察すれば矛盾に気付けるのじゃ。

850避難民のマジレスさん:2022/05/16(月) 12:38:31 ID:fosx545U0
0720 神も仏も名無しさん 2022/05/16 12:36:12
>>713
音楽は、
鹿子の怨霊の呪い〜
鹿子のテーマ曲
く〜る、鹿っ、くる〜、
鹿っ、く〜る♫
https://m.youtube.co.../watch?v=g7Y2eB6ZLZc
      | _____________  |
      | |:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| |
      | |:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| |  ザー
      | |:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| |
      | |::::::::::::::::::::::::::::::::::::;;;;;;;;;;;::::::::::::::| |
      | |:::::::::::/ ̄ ̄ ̄`´    `ヽ:::::::| |
      | |::::::::::|  :ill||||||||||ll: ,-‐‐、l::::::| |
      |  ̄ ̄|  ||||||||||||||||「しi .l ll ̄  .|
      | ̄「 ̄|  ||||||貞|||||||i ̄川リ ̄| ̄|
      |_| ノ   ||||||||||||||||||     |_|
        /    ||||||||||||||||||
        /    /||||||||||||||||||
       / ̄/ ̄ |||||||||||||||||
       /  /    |l|l|l|l|l|l|l|l
     / /    |l|l|l|l|l|l|ll
    / ヘJ      l|l|l|l|l|l|l
    ノ川        ||l||l||ll

851避難民のマジレスさん:2022/05/16(月) 13:34:24 ID:fosx545U0
すまん、誤爆許せ、
鬼和尚

852避難民のマジレスさん:2022/05/16(月) 16:16:58 ID:BvlxYP5M0
ラマナ・マハルシとの対話 329

朝、シュリ・バガヴァンはタミル語版のラーマクリシュナ・ヴィジャヤムの中の聖エステラから短い一節を読み上げた。

その趣旨は…

「あなたの敵は渇望や熱情などです。
 もし、あなたが害されたと感じたら、内に目を向け、その被害の原因を見つけなさい。
 それはあなたの外にあるのではありません。
 外的な原因は単なる重ね合わせに過ぎません。
 もしあなたが自分自身を害することができなければ、慈悲深い神がいかなる形であなたを害するというのでしょうか?」

シュリ・バガヴァンはさらに、聖エステラは優れた聖者であり、その教えは極めて妥当であると述べた。

853鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/17(火) 00:15:06 ID:1d4drIFg0
>>851 許すのじゃ。
 これからはよいAAを投稿するのじゃ。

854鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/17(火) 00:17:49 ID:1d4drIFg0

 全ては自らの心によって創られるのであるから、被害の苦もまた原因は自分の心にあるのじゃ。
 他のどこかにあるのではないのじゃ。
 自分の心にある障害が最も自分を苦しめるのじゃ。
 観察すればそれもまた滅していくのじゃ。

855避難民のマジレスさん:2022/05/17(火) 18:23:13 ID:XdaBfUio0
ラマナ・マハルシとの対話 330

シュリ・バガヴァンは喘息持ちで、喉が嗄れていた。
オレンジが捧げ物として持ってこられた。
いつものように分け前が配られた。
シュリ・バガヴァンは咳込み、口の中からオレンジを吐き出さざるを得なかった。
彼は「仕方なく吐き出してしまったのです」と言った。
ある紳士が言った。
「おそらく、それはシュリ・バガヴァンの健康状態には合わないのでしょう」。

マハルシ
 もし、他の人ではなく、あなたがその果物を持ってきていたなら、そのように言うでしょうか?

856鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/17(火) 23:06:09 ID:1d4drIFg0

 施されたものは何でもありがく頂くのが作法なのじゃ。
 施した者に慈悲を与えるためなのじゃ。
 お釈迦様も最後の布施で病になったが、最後の布施は多いに功徳があるものじゃと、庇ったのじゃ。
 施主に慈悲をかけたのじゃ。

857避難民のマジレスさん:2022/05/18(水) 18:49:37 ID:V5MLrLHI0
ラマナ・マハルシとの対話 331

国際平和連盟のアメリカ人女性、ルールナ・ジェニングス夫人は、世界に平和を広めることについてシュリ・バガヴァンに尋ねた。

シュリ・バガヴァンは答えた。

マハルシ
 もし人が真我の平和を得れば、それは個人の努力なしに自ずと広がっていくものです。
 自分自身が平和でないときに、どうして世界に平和を広めることができるというのでしょうか?

ジェニングス夫人は、東洋には真我の実現に科学的なアプローチがあるというのは本当かと尋ねた。

マハルシ
 あなたはすでに真我なのです。
 それを確立するために、精巧な科学は必要ありません。

質問者
 その一般的な真理は理解できます。
 しかし、私が「科学」と呼んでいるそれには、実践的な方法があるはずです。

マハルシ
 そのような考えの停止が、真我の実現です。

(例え話:失われたと思われたネックレス)

マハルシ
 人は、真我から離れて、世界や自分自身の身体を見ることはありません。
 常に真我でありながら、他のすべてを見るのです。
 神も世界も、すべてハートの中にあります。
 見る者を見なさい。
 そうすれば、すべてが真我であることがわかるでしょう。
 あなたの見方を変えなさい。
 内側を見なさい。
 真我を見つけなさい。
 主体と客体の基底は誰なのか?
 それを見つけなさい。
 そうすれば、すべての問題は解決されます!

その女性はそこで、「私は誰か?」という小冊子について教えられた。
彼女は、シュリ・バガヴァンにさらに質問をする前に、それを読むことに同意した。

858鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/18(水) 22:58:56 ID:1d4drIFg0

 真我は認識てきない認識主体であるから、何をしようと見ているのじゃ。
 それがなくなることはないのじゃ。
 全ての根本にあるものじゃ。
 人の持つ世界はそれを基底にして作られているのじゃ。
 自我のまやかしに気づいたならば、それに達することもできるのじゃ。

859避難民のマジレスさん:2022/05/19(木) 20:00:32 ID:TYl1LFRk0
ラマナ・マハルシとの対話 332

質問者
 タミル語で3つの空白(Muppazh)(முப்பாழ்)とは何ですか?

マハルシ
 (1) タット(それ) = イーシュヴァラ・トゥリーヤ(神の第四の状態)
 (2) トヴァム(汝) = ジーヴァ・トゥリーヤ(個我の第四の状態)
 (3) アシ(在る) = アシ・トゥリーヤ(存在の第四の状態)

トゥリーヤ(第四の状態)は、起きている状態、夢を見ている状態、眠っている状態の基盤です。

質問者
 最初の2つは承知しています。
 3つ目は何ですか?

マハルシ
 すべてに遍満しているのが、覚醒だと言われています。
 すべてが輝いているのが、夢であると言われています。
 完全性(アナンタ)が、眠りであると言われています。
 これらの根底にあるものがアシ・トゥリーヤす。

質問者
 実に奇妙です!

マハルシ
 それだけですか?
 議論に限度はありません。
 聞いてください。
 マハヴァーキャ(偉大なる確言)のタットヴァマシ(汝それなり)は一般的に知られています。
 もう一つの、5つの言葉、タット・トヴァム・アシ・アティ・ニジャム(「汝はそれで在る」が至高の真理である)を含んだものは、沈黙の中でダクシナームールティによって教えられた最も秘密のもので、5つの言葉に対応して、5つの状態を明確に述べています。

 再びヴィチャーラ・サーガラを見てください。
 著者はアーダーラ(土台)とアディシュターナ(基盤)を区別しています。
 彼によると、縄は蛇のように見えるときも、そうでないときも、常にアーダーラです。
 縄は、実際とは違って見えるので、アディシュターナです。
 それは一般的な基盤(サーマーニャ・アディシュターナ)です。
 また、蛇そのもののように見えるのは、特殊な基盤(ヴィセーシャ・アディシュターナ)です。
 ここで質問が提起されます。
 ジヴァのアディシュターナとイーシュヴァラのアディシュターナは別のものなのに、どうしてこれら二つのアディシュターナが一つになるというのか?
 彼は、両方のアディシュターナには同じアーダーラがあると答えます。

 さらに、彼はいくつかのキャーティ(理論)に言及しています。

 (1) アサット・キャーティ:ロープが存在しながら、そこには存在しない蛇が現れる。
 (2) サット・キャーティ:縄自体が蛇のように見える。
 (3) アートマ・キャーティ:縄が正体不明のまま、以前別の場所で見た蛇を思い出して、錯覚を起こす。
 (4) アキャーティ:全くの非実在。
 (5) アナーヤタ・キャーティ:蛇の心象が投影され、それが目の前にあるかのように見られる。
 (6) アニルヴァチャニーヤ・キャーティ:説明不可能。

 ここで彼は疑問を投げかけます。
 幻想であれ非実在であれ、世界はこれらのいずれかであるべきであろうか?
 それは以前の体験の結果であるに違いない。
 それは、その時には実在であったに違いない。
 一度実在であれば、常に実在でなければならない。

 彼は答えます。
 その体験は必ずしも実在である必要はない。
 本物の蛇を見たことがなくても、蛇の絵を見て印象を受けただけで、縄を蛇と勘違いしうる。
 このように、世界は実在である必要はないのだ。

860避難民のマジレスさん:2022/05/19(木) 20:01:14 ID:TYl1LFRk0
 なぜこのような議論に時間を費やすのでしょうか?
 ただ、心を内側に向け、時間を有効に使いなさい。

 個人と至高なるものの融合においては、至高なるものは伝聞であり、個人は直接体験です。
 あなたは直接体験だけを利用することができます。
 ですから、自分が誰であるかを確かめてください。

 では、なぜイーシュヴァラが言及されるのでしょうか?

 それは、あなたが世界を見て、それがどのように生まれたかを知りたがっているからです。
 この世界は神によって創造されたと言われています。
 もし、神があなたや他のすべてのものを創造したと知れば、あなたの心は少し満たされ、そうでない場合よりも落ち着きのなさが減じられます。
 しかし、それは実現ではありません。
 それは、あなたが自分自身を実現する場合にのみ可能なのです。
 これが完全性や実現などです。

 議論を要約するために、ヴリッティ・プラバーカラの著者は、この本を書く前に35万冊の本を勉強したと言っています。
 それが何の役に立つというのでしょうか?

 それらが真我の実現をもたらすことができるのでしょうか?
 ヴィチャーラ・サーガラは、論理と専門用語でいっぱいです。
 このような膨大な巻が、本当の目的にかなうでしょうか?
 しかし、これらを読んで、自分の質問に答えてくれるかどうかだけを確かめるために、聖者を求める人もいます。
 それらを読み、新たな疑問を発見し、それを解決することが、彼らの喜びの源です。
 聖人たちは、それがまったくの無駄であることを知っているので、そのような人たちを奨励しないのです。
 一度奨励すれば、終わりはありません。

 真我への探究だけが役に立つのです。

 論理や、ヴリッティ・プラバーカラ、ヴィチャーラ・サーガラ、スートラ・バーシャ、あるいは同様の大作に親しんでいる人たちは、ヴァーサナが蓄積されているので、真我だけを、それも明白に扱った「明かされた真理」のような小作品を享受することができません。
 心の濁りの少ない人、あるいは純粋な人たちだけが、小さな、目的のある作品を享受することができるのです。

861鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/19(木) 23:14:51 ID:1d4drIFg0

 この世には悟りや真理に関するさまざまな理論があるものじゃ。
 世界はひとつだとか、原理が二つだとか、三つの基盤があるとかいうのじゃ。
 それらは全て実践のための方便に過ぎないのじゃ。
 未だ真我に達していない者に、法を信仰させて日々実践させるためなのじゃ。
 そのために創作された理論なのじゃ。
 全ての観念はどこかに矛盾や欠陥があるものじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

862避難民のマジレスさん:2022/05/19(木) 23:35:13 ID:cLgILO2A0
最近、久しぶりに瞑想を再開したのであります。
3〜40分、腹式呼吸に意識を置いて座っております。
3〜40分呼吸から意識が離れずに座ってられる時もあるのでありますが、その際は、無理矢理肉体を意識し続けているようで、瞑想の深まりを感じません。
むしろ、意識が散漫になり、集中から離れ、妄想にとらわれ、そしてそれに気づく瞬間に、自我を離れた意識みたいなものを捉えられそうな気がしたくまであります。
(´・(ェ)・`)つ

863避難民のマジレスさん:2022/05/20(金) 19:52:28 ID:1GL17l.w0
ラマナ・マハルシとの対話 333

プラティヤビジニャー = プラティ + アビジニャー

アビジニャーは直接的な知覚、プラティは既知のものを思い出すことです。

「これは象だ」というのが直接的な知覚

「これはあの象だ」というのがプラティヤビジニャー(再認識)

専門的な著作では、プラティヤビジニャーは、常に存在する実在を悟り、それを再認識するという意味で用いられます。

シューニャ(虚空、空白)、アティ・シューニャ(シューニャを超えた)、マハ・シューニャ(巨大な虚空)はすべて同じ意味、つまり、真の実在のみを意味します。


*プラティヤビジニャーの説明の参考リンク(英語)
https://religion.fandom.com/wiki/Pratyabhijna

864鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/20(金) 20:53:49 ID:1d4drIFg0
>>862 善いことじゃ。
 どんどん実践するとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

865鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/20(金) 20:55:09 ID:1d4drIFg0

 シューニャは仏教の空なのじゃ。
 空が真の実在゛というのじゃ。
 そこには観念がないからなのじゃ。
 観念があれば空ではないのじゃ。

866避難民のマジレスさん:2022/05/21(土) 19:39:57 ID:1wbqsJME0
1937年1月20日

ラマナ・マハルシとの対話 334

シュリ・バガヴァンは、脚をマッサージされているにもかかわらず感覚がないと言った。
「もし足が歩く目的に適っているなら、感覚がなくなることの何が問題なのでしょうか?」と尋ねた。
そして、会話の中で、次のように述べた。

マハルシ
 光線は、映写されるとき、オペレーターを映し出しませんが、オペレーターにそのシーンを目撃させることを可能にすることがわかります。
 シッダたちも同じです。 
 彼らは純粋な光であり、他者を見ることはできますが、他者によって見られることはできません。
 例えば、プラブリンガは北部を旅していたとき、ゴーラクナートに出くわしました。
 ゴーラクナートは、剣で腕を切られても傷を負うことなく、剣をなまくらにするなど、ヨーガの力を発揮しました。
 これは、身体を怪我に耐えるようにすること(カーヤシッディ)です。
 プラブリンガは、切られるために自身を差し出しました。
 剣が突き刺されると、剣はまるで空気のように彼の体を完全に通り抜け、身体には何の傷もありませんでした。
 ゴーラクは驚き、プラブリンガの弟子となることを自ら申し出たのです。

さらに、カイラースでのシヴァとパールヴァティーの対話があった。

マハルシ
 シヴァは、アッラマは彼女の誘惑に影響されない者であると言いました。
 パールヴァティーはそれを試してみたかったので、アッラマを誘惑するために、彼女のターマシックな質を送って、地上の王の娘として転生しました。
 彼女は非常に洗練された少女に成長しました。
 彼女はよく寺院で歌いました。
 アッラマはよくそこに行き、ドラムを演奏しました。
 彼女はドラムの演奏に我を忘れました。
 彼女は彼と恋に落ちました。
 彼らは彼女の寝室で会いました。
 彼女が彼を抱擁したとき、彼は無形になりました。
 彼女は恋煩いになりました。
 しかし、天女が彼女に地上での目的を思い出させるために送られました。
 彼女はアッラマを撹乱することを決意しましたが、成功しませんでした。
 ついに彼女はカイラースへと昇っていきました。
 そしてパールバティーは、サートヴィックな質を送り、ブラーフマナのサンニャーシーニーとして生まれました。
 彼女は自身をアッラマに明け渡したとき、彼の本当の偉大さを悟ったのです。

シュリ・バガヴァンは、サンガ・プラヴァール(詩人)であるナッキラールが、タミル語で書かれたシヴァ神の賛歌について質問した際に、シヴァ神の怒りに直面し、どのように彼が精霊によって捕らえられ、その後釈放されたかを述べた。

マハルシ
 ナッキラールはティールタのほとりでタパスをしていました。
 一枚の葉が木から落ち、その半分が水に触れ、残りの半分が地面にありました。
 突然、水面の半分は魚になり、地面の半分は鳥になりました。
 それぞれが葉っぱで結ばれ、自身の本領を発揮しようともがきました。
 ナッキラールがそれを不思議に思って見ていると、突然上から精霊が降りてきて、彼を洞窟へ攫って行きました。
 そこにはすでに九百九十九人の囚人がいて、皆タポー・ブラシュター(禁欲から脱落した者)たちでした。

質問者
 ナッキラールはタポー・ブラシュターだったのですか?

マハルシ
 そうです。
 黙想に従事しているというのに、なぜ彼は黙想から脱落し、目の前で起こっている不思議な出来事に目を奪われたのでしょうか?

シュリ・バガヴァンは、ナッキラールがどのようにティルムルカルッパタイを作詞し、千人の囚人全員の釈放を得たかを話し続けた。

867鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/21(土) 23:02:28 ID:1d4drIFg0

 仏教にも菩薩や如来が化身を世間に派遣すると言う話が在るのじゃ。
 観世音菩薩がいろいろな化身を派遣して人を助けるとかのう。
 人が救いを求める音を観じて、救いに現われるから観世音菩薩というのじゃ。
 師匠が必要な時に現われるのも、そのためなのじゃ。

868避難民のマジレスさん:2022/05/22(日) 19:18:40 ID:DpWU.qG.0
1937年1月21日

ラマナ・マハルシとの対話 335

質問者
 性的衝動はどうしたら止むのでしょうか?

マハルシ
 識別が止めばです。

質問者
 それはどのようにして達成されるのですか?

マハルシ
 反対の性とその関係は、精神的な概念に過ぎません。
 ウパニシャドは、すべてが愛おしいのは、真我がすべてに愛されているからだと言っています。
 人の幸せは内にあます。
 その愛は真我のものに他なりません。
 それは内にのみ在ります。
 外に在ると考えてはいけません。
 そうすれば、識別は働きを止めます。

869鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/22(日) 21:01:00 ID:1d4drIFg0

 男女の区別さえも、ただ観念によるものだというのじゃ。
 美醜も性愛もまた観念によるものなのじゃ。
 全ての愛の源は心の奥にあるのじゃ。
 他にもとめる必要はないのじゃ。

870避難民のマジレスさん:2022/05/23(月) 20:14:08 ID:EkTCtsfA0
1937年1月22日

ラマナ・マハルシとの対話 336

ウパニシャドとシュリーマッド・バガヴァッド・ギーターを学んだと思われるあるヴァイシャ(商人)が、いくつかの質問をした。

質問者
 どのようにして真我を悟るのですか?

マハルシ
 真我は常に直接的に認識されています。
 そうでない瞬間はありません。
 では、それはどうしたら確かめられるのでしょうか?
 真我を見いだしなさい。
 あなたがそれなのです。

質問者
 しかし、至高者が見つかると、ハートの結び目は切り離され、すべての疑念は終わると言われています。
 ドリシュティ(見ること)という言葉が使われています。

マハルシ
 真我で在るということは、真我を見るということと同じです。
 一方が他方を見るといったような、二つの自己があるわけではありません。
 
その後、彼は真我への探求について同じ質問を続けた。

質問者
 どのように真我を実現するのですか?

マハルシ
 それはすでに実現されています。
 人はこの単純な事実を知るべきなのです。
 それがすべてです。

質問者
 しかし、私はそれを知っていません。
 どうしたら知ることができるのでしょうか?

マハルシ
 あなたは自分の存在を否定するのですか?

質問者
 いいえ、どうしてそのようなことができるでしょうか?

マハルシ
 では、真理は認められています。

質問者
 しかし、私にはわかりません。
 どうすれば、真我を実現することができるのでしょうか?

マハルシ
 誰が「私」といっているのかを見いだしてください。

質問者
 はい。
 私が「私」と言っています。

マハルシ
 その「私」とは誰でしょうか?
 身体ですか、それとも身体以外の誰かですか?

質問者
 身体ではなく、身体以外の誰かです。

マハルシ
 見いだすのです。

質問者
 私にはそうすることができません。
 どうやって探せばよいのでしょうか?

マハルシ
 あなたは今、身体に気づいています。
 深い眠りの中で、あなたは身体に気づいていませんでした。
 それでもあなたは眠りの中に残っていました。
 目覚めた後、あなたは身体を注視し、「私は真我を実現することができない」と言います。
 あなたは眠っているときにそう言ったのでしょうか?
 そのとき、あなたは分裂していなかった(アカンダ)ので、そう言いませんでした。
 今、あなたは身体という範囲内に収縮されているので、「私は実現していない」と言うのです。
 なぜ、あなたの真我を制限しておいて、惨めな気持ちになるのですか?
 あなたの真の本性として在り、幸せで在りなさい。
 あなたは眠っている間、「私」とは言いませんでした。
 今、あなたはそう言っているのです。
 なぜでしょうか?
 なぜなら、あなたが身体にしがみついているからです。
 この「私」がどこから来るのかを見いだしなさい。
 そうすれば、真我は実現されます。

 生命意識を持たない身体は、「私」と言うことはできません。
 無限である真我も「私」と言うことはできません。
 では、誰が「私」と言うのでしょうか?

871避難民のマジレスさん:2022/05/23(月) 20:15:36 ID:EkTCtsfA0
質問者
 まだ理解できません。
 どうやって「私」を見つけるのですか?

マハルシ
 この「私」がどこから生じるのかを見いだしなさい。
 そうすれば、この「私」は消えて、無限の真我が残るでしょう。
 この「私」は、生命意識を持つものと持たないものとの結び目に過ぎません。
 身体は「私」ではなく、真我は「私」ではありません。
 では、その「私」とは誰なのでしょうか?
 どこから生じるのでしょうか?

質問者
 どこから生じるのですか?

マハルシ
 見いだしなさい。

質問者
 わかりません。
 どうか教えてください。

マハルシ
 それは外側からではありません。
 内側からです。
 どこから来るのでしょうか?
 どこか他の場所からであれば、あなたはそこに導かれることもありうるでしょう。
 内なるものである以上、あなたは自分で見いださなければならないのです。

質問者
 頭からでしょうか?

マハルシ
 「頭」という観念は、「私」の後に生じるのですか、それとも「私」は頭から生じるのでしょうか?
 もし「私」が頭の中にあるのなら、あなたが眠気に襲われたとき、なぜ頭を傾けるのでしょうか。
 「私」は常に不変です。
 そのため、その座も不変でなければなりません。
 もし、頭がある時は傾き、ある時は直立しているとしたら、どうしてそれが「私」の座になるというのでしょうか?
 あなたの頭は、眠っているときは水平に横たわっています。
 目が覚めると、それは持ちあげられます。
 それが「私」であるというのでしょうか?

質問者
 では、どちらなのですか?

マハルシ
 「私」は内側からやってきます。
 眠っているときは「私」はありません。
 目が覚める直前に「私」という想念があるのです。

質問者
 ハートの結び目は眉間にあると言われています。

マハルシ
 「眉間」と言う人もいれば、「尾骶骨」と言う人もいれば、様々です。
 これらはすべて、身体の立場から見たものです。
 身体は「私」という想念の後に来るのです。

質問者
 しかし、私は身体を切り離すことはできません。

マハルシ
 つまり、あなたは自分が身体でないことを認めているのです。

質問者
 この身体に痛みがあれば、それを感じますが、他の身体が傷ついても感じません。
 私はこの身体を克服することができません。

マハルシ
 この自己同一性が、そのような感覚の原因なのです。
 それが、ハートの結び目(フリダヤ・グランティ)です。

質問者
 この結び目はどのようにすれば消えるのですか?

マハルシ
 その結び目は誰のためのものなのですか?
 なぜ、あなたはそれを消したいのでしょうか?
 結び目が尋ねているのでしょうか、それともあなたが尋ねているのでしょうか?

質問者
 それは尋ねることができません。
 私が尋ねています。

マハルシ
 その「私」とは誰でしょうか?
 もしそれが見つかれば、結び目は残りません。

質問者
 結び目は身体に付随しています。
 身体は誕生によるものです。
 どうしたら生まれ変わりを止めることができるのでしょうか?

マハルシ
 誰が生まれるのですか?
 真我が生まれるのですか?
 それとも身体ですか?

質問者
 身体です。

872避難民のマジレスさん:2022/05/23(月) 20:17:05 ID:EkTCtsfA0
マハルシ
 では、身体に、どうすれば生まれ変わりが止むのかを尋ねさせましょう。

質問者
 身体は尋ねません。
 だから、私が尋ねているのです。

マハルシ
 身体は誰のものですか?
 あなたは深い眠りの中で、身体を持っていませんでした。
 「私」という想念が生じてから、身体が生じたのです。
 最初の誕生は「私」という想念の誕生です。
 身体は「私」という想念に続いて誕生します。
 それゆえ、その誕生は副次的なものなのです。
 第一の原因を取り除けば、第二の原因も自ずと消滅します。

質問者
 その「私」という想念が生じるのをどうやって阻止するのですか?

マハルシ
 真我探求によってです。

質問者
 私は理解しようとしていますが、うまくいきません。
 ジャパで真我を見つけることができますか?
 もしそうなら、その方法を教えてください。

マハルシ
 ジャパとは何ですか?
 なぜあなたは人工的なジャパを作らなければならないのですか?
 あなたは、あなたの中で常に行われている永遠の自然なジャパを見いだすことができるのです。

質問者
 ウパデーシャ(指導)があれば、きっと役に立ちます。

マハルシ
 あなたのように書物で苦労していない人に「ラーマ、ラーマと繰り返しなさい」と言えば、彼はそれを実行し、やり遂げるでしょう。
 あなたのようにたくさん読み、いろいろ調べている人にそう言っても、長くは実行しないでしょう。
 なぜなら、あなたはこう考えるからです。
 「どうして私はそれをすべきなのか?
  なによりも、マントラを繰り返すべき私とは誰なのだろう?
  先に進む前に、私が誰なのかを見つけよう」。
 そして、あなたはジャパをやめて、探求を始めるでしょう。

質問者
 「感覚は外に向かうもの(パラーンチ・カーニ)であり、内に向かうもの(アーヴリッタ・チャクシュフ)が視覚である」と言われています。
 アーヴリッタ・チャクシュフ(内向きの視覚)とは何ですか?

マハルシ
 眼球が反対方向に入れ替わるということではありません。
 チャクシュフとは何ですか?

質問者
 目のことです。

マハルシ
 その目が見るのでしょうか、それとも目の後ろにいる誰かが見るのでしょうか?
 もし目が見ることができるとしたら、死体も見るのでしょうか?
 目の後ろにいる者が、目を通して見るのです。
 彼はチャクシュフという言葉で示唆されています。

質問者
 神の栄光を見るためには、ディヴィヤ・チャクシュフ(神聖な目)が必要です。
 この肉眼は普通のチャクシュフです。

マハルシ
 ああ!なるほど。
 あなたは、百万の太陽の輝きと、それ以外のものを見たいのですね!

質問者
 私たちは、百万の太陽の輝きとして、その栄光を見ることはできないのでしょうか?

マハルシ
 あなたはたった一つの太陽が見えないのですか?
 なぜ何百万もの太陽を求めるのですか?

質問者
 神聖な視覚によってそうすることが可能に違いありません。
 「太陽の輝かないところ…それが私の至高の住処である」(バガヴァッド・ギーター)とあります。
 つまり、この太陽が無力な境地があるのです。
 それが神の境地です。

873避難民のマジレスさん:2022/05/23(月) 20:18:04 ID:EkTCtsfA0
マハルシ
 わかりました。
 クリシュナを見つけなさい。
 そうすれば問題は解決されます。

質問者
 クリシュナは生きていません。

マハルシ
 それが、あなたがギーターから学んだことですか?
 彼は、自分は永遠であると言っていませんか?
 あなたは何について考えているのですか?
 彼の体についてですか?

質問者
 彼は存命中に他の人たちに教えました。
 彼の周りの人たちは実現したに違いありません。
 私は同様の生きているグルを探しているのです。

マハルシ
 それでは、彼が自分の身体から退いた後には、ギーターは役に立たないのでしょうか?
 彼は自分の身体をクリシュナとして語りましたか?

 ナ・トヴェーヴァーハン・ジャートゥ・ナーサン……(私が存在しなかったことは一度もない……)。

質問者
 しかし、私は真理を直に明言することができる、生きているグルが欲しいです。

マハルシ
 グルの運命はクリシュナの運命と同様です。

質問者は引き下がった。

その後、シュリ・バガヴァンは言った。

マハルシ
 神聖な視覚とは真我の輝きを意味します。
 ディヴィヤという言葉がそれを示しています。
 ディヴィヤ・チャクシュフという言葉は真我を意味します。
 誰が神聖な目を授けるのでしょうか?
 そして、誰が見るのでしょうか?
 また、人々は書物の中で「傾聴、熟考、一点集中が必要である」と読みます。
 彼らは、実現に到達する前に、サヴィカルパ・サマーディとニルヴィカルパ・サマーディを通過しなければならないと考えてます。
 だから、こんなにたくさんの質問が出るのです。
 なぜ、彼らはその迷路の中をさまよわなければならないのでしょうか?
 彼らは最後に何を得るのでしょうか?
 それは、求める苦しみが止むというだけなのです。
 彼らは真我が永遠であり、自明であることを見つけます。
 なぜ、彼らはまさに今この瞬間にもその安らぎを得ないのでしょうか?

 無学の、単純な人は、ジャパや礼拝で満足します。
 ジュニャーニはもちろん満たされています。
 すべての苦悩は読書家にとってのものです。
 まあ、まあ、彼らもまた、うまくいくでしょう。

874鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/23(月) 22:44:00 ID:1d4drIFg0

 知識や記憶では真我は実現できないのじゃ。
 今ここで自分の心を観るしかないのじゃ。
 しかし、知識や記憶に囚われていればそれができないのじゃ。
 目の前に真のグルがいてもわからないのじゃ。

875避難民のマジレスさん:2022/05/24(火) 19:31:46 ID:3D76IsQk0
ラマナ・マハルシとの対話 337

K.R.V.アイヤール氏
 心はどのように浄化されるべきですか?

マハルシ
 シャーストラ(聖典)は、「カルマ、バクティなどによって」と言います。
 私の従者が前に一度、同じ質問をしました。
 彼は「神に捧げられたカルマ(行為)によって」と告げられました。
 カルマをしている間に神について考えるだけでは十分ではなく、絶えず神について考えなければならないのです。
 そうして初めて、心は清らかになります。

その従者はそれを自分自身に当てはめて言い聞かせた。
「私はシュリ・バガヴァンに身体的に仕えるだけでは十分ではない。
 そうではなく、私は絶えず彼を覚えていなければならない」。

同じ質問をした別の人に、バガヴァンは次のように答えた。

マハルシ
 真我の探求とは、「私は身体である」という考えが消えなければならないということを意味します。
 (アートマ・ヴィチャーラ = デーハートマ・ブッディの消滅)。

876鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/24(火) 22:00:30 ID:1d4drIFg0

 カルマとはカルマ・ヨーガなのじゃ。
 結果を期待しない行いによって、心も浄化されるというのじゃ。
 バクティは献身なのじゃ。
 心身を神にささげて、行いをもささげつくすのじゃ。
 そうすれば無我にも近づいていくのじゃ。

877避難民のマジレスさん:2022/05/25(水) 19:56:56 ID:UXxPZjRw0
1937年1月23日

ラマナ・マハルシとの対話 338

アメリカ人女性、ジェニングス婦人が以下の質問をした。

質問者
 神を肯定することは、「私は誰か?」という探求よりも効果的ではありませんか?
 肯定はポジティブであるのに対し、他方はネガティブです。
 しかも、それは分離を指し示しています。

マハルシ
 あなたが実現の方法を知ろうとする限り、この助言があなたの真我を見つけるために与えられるのです。
 あなたがその方法を求めていることが、あなたの分離を示しているのです。

質問者
 「私は誰か?」と尋ねるより、「私は至高の存在です」と言う方が良いのではないでしょうか?

マハルシ
 誰が断言するのですか?
 それをする人がいるはずです。
 その人を見つけてください。

質問者
 瞑想は探求より優れているのではないでしょうか?

マハルシ
 瞑想は心的イメージを暗示しますが、探求は実在に対するものです。
 前者は客観的であり、後者は主観的です。

質問者
 このテーマには、科学的なアプローチがあるに違いありません。

マハルシ
 非実在を排除し、実在を追求することが科学的なのです。

質問者
 私が言いたいのは、最初に心の、次に知性の、そして最後に自我の段階的な排除があるに違いないということです。

マハルシ
 真我だけが実在です。
 他のすべては非実在です。
 心や知性はあなた離れたところにあるわけではありません。

 聖書には「静かにして、私が神であると知りなさい」とあります。
 静寂は、神としての真我を実現するための唯一の必要条件です。

質問者
 西洋はいつかこの教えを理解するでしょうか?

マハルシ
 時間と空間の問題はありません。
 理解できるかどうかは、心の成熟度によります。
 東洋に住んでいるか西洋に住んでいるかがどれほど重要だというのでしょうか?

シュリ・バガヴァンは、その女性に 『明かされた真理』のいくつかの連とターユマーナヴァルを紹介した。
彼女は退いた。

その後、シュリ・バガヴァンは、ヴェーダーンタ全体は、聖書の二つの声明に包含されると言った。
「私は私で在るものである」と「静かにして、私が神であると知りなさい」である。

鉄道員であるK.S.N.アイヤール氏は、シュリ・バガヴァンに対して、 『宇宙意識』の編纂者は、個人の一生における一定の年齢制限の範囲内でのみ実現は可能であると考えている、と述べた。

マハルシ
 「私はある年齢の前後に生まれなければならないのだろうか?」と言う人がいるでしょうか?
 彼は今ここにいるのです。
 このような声明は誤解を招きます。
 なぜなら、人々は、今回の転生では真我を実現できないので、別の転生でチャンスをつかまなければならないと信じるようになるからです。
 それはまったく馬鹿げています。

878鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/25(水) 23:47:48 ID:1d4drIFg0

 自分が神であるとか、年が合わなければ実現はないとか、それらは逃避に過ぎないのじゃ。
 自我の喪失を恐れるから逃避している観念遊戯なのじゃ。
 今すぐにでも自分を観ることができるならば、実現は可能なのじゃ。
 迂遠な観念遊戯を繰り返す意味はないのじゃ。

879避難民のマジレスさん:2022/05/26(木) 16:47:48 ID:k8mjt.6A0
ラマナ・マハルシとの対話 339

シヴァ・ヴィシシュタアドヴァイタ(すなわち、シャイヴァ・シッダーンタ)に関して、シュリ・バガヴァンは言った。

マハルシ
 「ガルドーハム・バーヴァナー(私はガルダである)という観念が人をガルダ(インド神話の神鳥)にすることはない。
  同じく、蛇に噛まれたときの毒の作用は治る。
  シヴォーハム・バーヴァナー(私はシヴァである) という観念もまた然り。
  人はシヴァに変身するのではなく、自我の破滅的な作用が終止符を打たれるのだ。
  すなわち、その人物は己の個人性を保ちつつ、純粋なまま、つまりシヴァの身体の一部を構成するのに適した状態になる。
  このようにして、彼は至高の至福を享受することができる。
  それが解脱である」。
 と、シャイヴァ・シッダーンタの人たちは言います。
 これは単に彼らの個人性への愛を曝け出すもので、決して真の解脱の体験ではありません。

880鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/26(木) 23:07:09 ID:1d4drIFg0

 神降ろしの類の話しなのじゃ。
 神や精霊が憑いたという観念によって治療や占いをできるのじゃ。
 それは実際は本人の力なのじゃ。
 その対象とか力に囚われてしまうからそれ以上にはいけないのじゃ。

881避難民のマジレスさん:2022/05/27(金) 08:58:58 ID:k8mjt.6A0
ラマナ・マハルシとの対話 340

ボース氏は、「身体意識が戻った後で……」と話し始めた。

マハルシ
 身体意識とは何ですか?
 まずそれを教えてください。
 意識から分離しているあなたとは誰なのですか?
 身体が見出されるのは身体意識があるからです。
 そして、その身体意識は自己意識から生じます。
 その自己意識は今度は、意識から生じるのです。

 意識 → 自己意識 → 身体意識 → 身体

 常に意識は存在し、それ以外のものは存在しません。
 あなたが今身体意識だとみなしているものは、重ね合わせによるものです。
 意識だけがあり、それ以外には何もないのであれば、アートマナストゥ・カーマーヤ・サルヴァン・プリヤン・バヴァティ(すべてが愛しいのは真我の愛ゆえである)という聖典の意味が明らかになります。

 その場合、なぜ自殺が存在するのかという疑問が生じます。
 なぜ人は自殺をするのでしょうか?
 なぜなら、自分が不幸で、その不幸に終止符を打ちたいと願っているからです。
 彼はすべての不幸を象徴する身体との関わりを絶つことによって、実際にそれを行うのです。
 身体を殺すには、殺す者が存在しているはずです。
 彼が自殺後の生存者なのです。
 それが真我です。

882鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/27(金) 23:33:06 ID:1d4drIFg0

 身体や身体意識もまた自分という観念から起こるとマハリシは説いているのじゃ。
 自分という観念から身体意識や身体という観念も次々に起きていくのじゃ。
 自分があり、自分の身体があるという縁起なのじゃ。
 実際には存在するものは意識だけなの社。
 全ては意識の現われなのじゃ。

883避難民のマジレスさん:2022/05/28(土) 20:00:57 ID:FJGUaaFc0
ラマナ・マハルシとの対話 341

ジェニングス婦人
 シュリ・バガヴァンは、実現の状態とは想念の圧制からの解放だと仰います。
 想念は、より低い次元においてかもしれませんが、物事の仕組の中で役割をもっていないのでしょうか?

マハルシ
 想念は「私」という想念から生じますが、その「私」という想念は次に真我から生じます。
 したがって、真我は「私」という想念や他の想念として現れます。
 想念があるのかないのか、それがどうしたのでしょうか?

質問者
 良い想念は実現に役立つのでしょうか?
 それは本物の中道ではない、つまり実現への低い階梯ではないのでしょうか?

マハルシ
 はい……このように。
 良い想念は悪い想念を遠ざけるのです。
 それは、実現の状態の前に自ら消えなければなりません。

質問者
 しかし、創造的な想念は、実現の一面であり、それゆえ役に立つのではないでしょうか?

マハルシ
 役に立つのは、先ほど述べた点においてのみです。
 それらはすべて真我の中で消えなければなりません。
 想念は、良いものであれ悪いものであれ、あなたを遠くに連れて行き、近くには連れて行かないのです。
 なぜなら、真我は想念よりも親しいからです。
 あなたは真我ですが、想念は真我にとって馴染みのないものなのです。
 
質問者
 では、真我は最終的に、その実現を助けてきた、自らの創造物を吸収するわけですね。
 一方、文明はその前進を助けてきた自らの創造物を誤って崇拝し、分離し、ショートさせるのです。

マハルシ
 あなたは想念と異なっていないのですか?
 想念がなければ、あなたは存在しないのでしょうか?
 そうではなく、想念はあなたなしで存在することができるでしょうか?

質問者
 文明は一般的に、ゆっくりと、しかし確実に、この真我実現に向かって正しい方向に進んでいるのでしょうか?

マハルシ
 文明は物事の条理の中にあります。
 それは最終的に、他のすべてと同じように、真我の実現の中に自らを帰すでしょう。

質問者
 模範的な原始人は、知性と思考に支配された文明人よりも、実現に近いのでしょうか?

マハルシ
 実現した人は、未開人に見えるかもしれませんが、未開人は実現した人ではありません。

質問者
 私たちに起こることは、すべて神の定めであり、したがって善のみであると考えるのは正しいのでしょうか?

マハルシ
 もちろんそうです。
 しかし、他のすべてや神は真我から離れているわけではありません。
 あなたが真我のままでいるときに、どうしてそれらに対する思いが生じるというのでしょうか?

質問者
 「明け渡す」とは、蟻、蚊、蛇などのあらゆる物理的な煩わしさを受け入れ、そして、受け入れることで、それらによって実際に傷つくことを厭わない、あるいは傷つかなくなるということでしょうか?

マハルシ
 それが何であれ、それは見る者や考える者であるあなたから離れているのでしょうか?

聴衆のパールシー教徒の女性が口を挟んだ。

質問者
 もし、離れていないのなら、私たちは蟻に刺される痛みを感じないのでしょうか?

マハルシ
 誰を蟻は刺すのでしょうか?
 それは身体です。
 あなたは身体ではありません。
 あなたが自分自身を身体と同一視している限り、あなたは蟻や植物などを見ます。
 もしあなたが真我のままであれば、真我を離れたどんな他者も存在しません。

質問者
 身体は刺された痛みを感じます。

マハルシ
 身体がそれを感じるのであれば、身体に尋ねさせましょう。
 身体に任せておけばいいのです。
 あなたにどんな関係があるというのですか?

884避難民のマジレスさん:2022/05/28(土) 20:01:45 ID:FJGUaaFc0
再び、アメリカ人女性。

質問者
 完全な明け渡しとは、瞑想中であっても、周囲のあらゆる騒音や妨害が受け入れられなければならないということでしょうか?
 それとも、孤独を求めて山の中の洞窟へ行くべきでしょうか?
 バガヴァンはこのようになさらなかったのでしょうか?

マハルシ
 行くことも帰ることもありません。
 真我は元素に影響されず、無限であり、永遠であると言われています。
 それは動くことができません。
 真我にとって移動する場所など存在しないのです。

質問者
 しかし、真我を見つける過程で、このように外部の助けを求めることは、霊的に妥当なのでしょうか?

マハルシ
 その誤りは、真我を身体と同一視することにあります。
 もしバガヴァンが身体であるなら、あなたはその身体に尋ねることができるでしょう。
 しかし、あなたがバガヴァンと呼ぶ人物を理解しなさい。
 彼は身体ではありません。
 彼は真我なのです。

それから、彼女はハリジャンについての記事を紹介し、そこには、すべては神であり、何も個人に属するものはない、などと述べられていた。

マハルシ
 万物、個人、神、そしてすべてが真我に他なりません。

それから彼女はシェリーの詩行をいくつか読み、シェリーは実現した魂ではないのかどうか尋ねた。

 「人の未踏の霊の洞窟の中に
  玉座に就いた極めて美しい像
  その近くをさまよう冒険的な思考は
  崇拝し、ひざまずき、震え、恐れる
  その存在の輝きと光は
  それらの夢のような枠組に浸透する
  燃えるような力で満たされるまで」

マハルシ
 はい。
 その詩行は秀逸です。
 彼は自分が書いたものを実現していたのでしょう。

その女性はシュリ・バガヴァンに礼を言い、退いた。

885鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/29(日) 00:02:38 ID:1d4drIFg0

 どのような観念も自己追及の役に立つならば、使ってもよいのじゃ。
 真我の実現とか、涅槃とかもまた実践のための観念に過ぎないのであるからのう。
 神も詩人も役立つならば、用いてよいじゃ。
 どこまでも実践していけば、全ては幻影であったと気づくのじゃ。

886避難民のマジレスさん:2022/05/29(日) 19:11:57 ID:sPXS42Mo0
ラマナ・マハルシとの対話 342

夜11時、アーンドラ・プラデーシュ州のグントゥールから、悲しげだがしっかりした表情の中年の女性、その母親、そして2人の男性からなる一行がやって来た。
彼らはシュリバガヴァンに謁見を求めた。

その女性はシュリ・バガヴァンに言った。

質問者
 息子が胎内にいるとき、夫が亡くなりました。
 息子は父の死後生まれたのです。
 5年間は何の問題もなく育ちました。
 その後、小児麻痺に襲われました。
 9歳で寝たきりになりました。
 それでも、明るく元気でした。
 2年間その状態だったのですが、今は死んだと言われています。
 私は、眠っているだけで、すぐに目を覚ますことを知っています。
 息子が倒れたと聞いたとき、私はショックを受けました。
 私はビジョンで、一人のサードゥを見ました。
 彼がその子の身体に手をやると、その子はすっきりと目を覚ましました。
 私はそのサードゥはあなただと信じています。
 その子が起き上がるように、どうか来て触ってあげてください。

シュリ・バガヴァンは、医者は何と言ったのかと尋ねた。

彼女は答えた。

質問者
 彼らは、息子は死んだと言っています。
 しかし、彼らに何がわかるというのでしょう?
 私はグントゥールからこの場所まではるばるその子を連れてきました。

ある人が尋ねた。「何だって!遺体がここに運ばれてきたのですか?」

質問者
 1マイルにつき1/2ルピーの特別料金を払えば、遺体は運ばれると言われました。
 私たちはそのために150ルピーを支払って、荷物として連れてきたのです。

マハルシ
 もしあなたのビジョンが正しければ、その少年は明日目覚めるでしょう。

質問者
 どうぞお触りください。
 息子を屋敷の中に入れてもよろしいでしょうか?

他の者たちが彼らに抗議し、退去するよう説得した。
彼らは去り、翌朝、その遺体は火葬されたとの報告があった。

質問されると、シュリ・バガヴァンはこう言った。

マハルシ
 死者を蘇生させた聖者もいることが伝えられています。
 彼らもまた、すべての死者を蘇らせたわけではありません。
 もしそんなことがなされれば、世界も死も墓地もなくなってしまうでしょう。

一人の男が尋ねた。

質問者
 その母親の信仰は非常に注目に値するものでした。
 彼女はこれほど希望に満ちたビジョンを持っていたのに、どうして失望してしまったのでしょうか?
 それは彼女の子供への愛に伴う重ね合わせなのでしょうか?

マハルシ
 彼女もその子供も実在しないのに、どうしてビジョンだけが重ね合わせだというのでしょうか?

質問者
 では、それはどのように説明されるのでしょうか?

答えはなかった。

887鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/29(日) 23:32:13 ID:1d4drIFg0

 お釈迦様のところにも子供を亡くした母親がきて、生き返らせてくれるように頼んだじゃ・。
 お釈迦様は一度も死人がでたことがない家から水をもらってくれば、生き返らせる薬が作れるといったのじゃ。
 しかし、そんな家はなかったのじゃ。
 どの家でも死人は出ていたじゃ。
 母親は死が自分の子供にだけきたのではないと気づいて囚われから解放されたのじゃ。

888避難民のマジレスさん:2022/05/30(月) 17:07:03 ID:VeAhvEaw0
ラマナ・マハルシとの対話 343

質問者
 手が切断されようとも、人はそれに無自覚でなければなりません。
 なぜならバガヴァッド・ギーターでは、真我は肉体とは異なると宣言しているからです。

マハルシ
 怪我の痛みに気づかないことが、ジュニャーナなのでしょうか?

質問者
 痛みに無自覚であるべきではないのですか?

マハルシ
 大手術は、患者を痛みに気づかない状態にさせるため、麻酔をかけて行われます。
 患者は同時にジュニャーナも得るでしょうか?
 痛みに無感覚であることがジュニャーナであるはずがありません。

質問者
 ジュニャーニ(賢者)は痛みに無自覚であるべきではないのですか?

マハルシ
 身体的な痛みは、身体意識に従っているだけです。
 それは、身体意識がない場合には存在することはできません。
 心は、身体に気づいていないとき、その苦痛や快楽に気づくことはできません。
 ヨーガ・ヴァーシシュタの、インドラとアハリャーの物語を読んでみなさい。
 そこでは、死そのものが心の働きであると言われています。

 痛みは自我に依存しています。
 痛みは「私」なしでは存在することはできませんが、「私」は痛みなしであり続けることができます。

889鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/30(月) 23:02:06 ID:1d4drIFg0

 痛みは肉体に危険があることを知らせる信号に過ぎないのじゃ。
 それを無自覚でなければなない、と思うのも観念への囚われなのじゃ。
 肉体が自然に対処するさまたげになるものじゃ。
 観念がなければ痛みは苦にならないだけなのじゃ。

890避難民のマジレスさん:2022/05/31(火) 20:18:29 ID:cILxtfkc0
ラマナ・マハルシとの対話 344

質問者
 ヴィチャーラ・サーガラは、真我実現への4つの障害について述べています。

マハルシ
 なぜ4つだけなのですか?
 9つあるという人もいます。
 眠りはそのうちの1つです。
 眠りとは何でしょう?
 それは目覚めの裏返しでしかありません。
 それは目覚めから独立することはできません。
 眠りは純粋な真我です。
 自分が目覚めていると考えてはいけません。
 眠りはあり得ませんし、3つの状態もあり得ません。
 ただ真我を忘れているために、あなたは夢を見たというのです。
 真我が不在の状態で、何かが存在できるでしょうか?
 なぜ、あなたは真我を捨てて、非真我を保持するのでしょうか?

 心が外に出ようとするとき、その場で直ちに心を内側に向けなさい。
 心は、自身の外側に幸福を求める習慣があるために、外に出てしまいますが、外側のものが幸福の原因ではないという知識が、それを抑制してくれます。
 これがヴァイラーギャ、あるいは無執着です。
 完璧なヴァイラーギャの後でのみ、心は安定します。

 心は、知識と無知、あるいは睡眠と覚醒の混合物に過ぎません。
 それは5つの状態で機能します。

 クシプタ(活発な)
 ムーダ(鈍い)
 ヴィクシプタ(混乱した)
 カシャーヤ(潜在的な)、そして
 エーカーグリャ(一点集中した)です

 このうちカシャーヤは、傾向の潜在的なものでしかなく、執着や反感などの傾向そのものではありません。

 あなた自身がアーナンダ(至福)であるのに、どうしてあなたは「ああ!なんという至福だ!」と言ってそれを楽しむのでしょうか?
 これがラサースワーダ(至福の味)です。

 結婚式の間、処女は、男性に抱擁された経験がないのに花嫁として幸せを感じます。
 これがラサースワーダです。

質問者
 ジーヴァン・ムクティ(存命中の解脱)そのものがアーナンダである……

シュリ・バガヴァンが口を挟んだ。

マハルシ
 シャーストラ(聖典)を当てにしてはいけません。
 ジーヴァン・ムクティとは何でしょうか?
 アーナンダとは何でしょうか?
 解脱そのものが疑わしいのです。
 これらすべての言葉は何なのでしょうか?
 それらは真我から独立していることができるのでしょうか?

質問者
 私たちはこれらすべてを経験したことがないのです。

マハルシ
 ないものは常に失われ、あるものは、今ここに常に存在しています。
 これが万物の永遠の理法なのです。

(例:首の周りのネックレス)

891鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/31(火) 22:24:34 ID:1d4drIFg0

 聖典の言葉は全て実践のための手引きに過ぎないのじゃ。
 それを覚える打では、何の意味もないのじゃ。
 実践の妨げになるならば、有害にさえなるものじゃ。
 実践して聖典の意味を知ったならば、初めて役に立ったと言えるのじゃ。

892避難民のマジレスさん:2022/06/01(水) 17:06:38 ID:LjM.6Lro0
ラマナ・マハルシとの対話 345

シュリ・バガヴァンは、中断の後、こう続けた。

マハルシ
 心を探求することによって、心の力を破壊しなさい。
 心が調べられると、その活動は自動的に停止します。

 心の源を探すことが、もう一つの方法です。
 その源は、神、真我、あるいは意識と言われます。

 一つの想念に集中すると、他のすべての想念は消え、最後にはその想念もまた消えます。
 想念を制御している間は気づいている必要があり、そうでなければそれは眠りをもたらすでしょう。

質問者
 どうやって心を探求するのですか?

マハルシ
 呼吸の制御は助けにはなるでしょうが、目的地(ゴール)そのものに至ることは決してありえません。
 それを機械的に行っている間、心に油断なく注意を払い、「私」という想念を忘れずに、その源を探求しなさい。
 そうすれば、呼吸が沈むところが、「私」という想念が生じるところだとわかるでしょう。
 それらは共に沈み、上がります。
 「私」という想念もまた、呼吸とともに沈んでいきます。
 同時に、もう一つの輝く無限の「私-私」が現れますが、それは連続的で途切れることのないものです。
 それが目的地(ゴール)です。
 それは、神、真我、クンダリニー・シャクティ、意識などなど、さまざまな名前で呼ばれています。

 試みがなされれば、それが自ずとあなたを目的地に連れて行ってくれるでしょう。

893鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/01(水) 22:30:36 ID:1d4drIFg0

 マハリシが説いているのも止観なのじゃ。
 最初は呼吸などに集中して心を止めるのじゃ。
 しかしそれだけでは悟りは訪れないのじゃ。
 自分を観察して、自我の想念に気づくのじゃ。
 そうすれば無我になるのじゃ。
 さらに認識をも滅すれば、永遠の意識に至るのじゃ。
 それが大悟徹底の境地なのじゃ。

894避難民のマジレスさん:2022/06/02(木) 14:41:43 ID:fRv.y3Ww0
ラマナ・マハルシとの対話 346

自由意志と運命は、身体が続く限り続きます。
しかし、叡智はその両方を超越します。
なぜなら、真我は知識と無知を超越しているからです。

895避難民のマジレスさん:2022/06/03(金) 18:42:01 ID:1knILmX.0
ラマナ・マハルシとの対話 347

マハルシ
 心は想念の束です。
 想念が生じるのは、考える者がいるからです。
 考える者が自我です。
 自我は、探求されれば、自動的に消えます。
 自我と心は同じものです。
 自我は、そこから他のすべての想念が生まれる根源の想念です。


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