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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
2
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/19(水) 12:33:36 ID:jfWCoXjM0
>>1
スレ立てありがとうございます!
それでは引き続き、ラマナ・マハルシとの対話を掲載していきたいと思います。
鬼和尚、いつもありがとうございます(-人ー)
3
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/19(水) 12:42:48 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話42
1935年3月24日
マダナパリのダンカン・グリーンリース氏が次のような質問を紙に書いて渡した。
「人はときおり、中心がいわゆる自分の外側にあり、しかもそれがいっさいを含む生き生きとした意識の閃光を見ます。
哲学的な概念にとらわれることなく、この稀有な閃光を獲得し、維持し、拡大していくにはどうすればいいのでしょうか、バガヴァーン、どうか助言をお与えください。
このような体験を得るには、隠遁して霊的修練(アビャーサ)に打ち込むことが必要なのでしょうか?」
マハルシ
あなたは「外側」と言いますが、誰にとって外側と内側があるのでしょうか?
主体と客体があるかぎり、外側と内側は存在します。
もう一度言いますが、それらは誰にとって存在するのでしょうか?
調べてみれば、それらはただ主体の中に融け去ることがわかるでしょう。
その主体とは誰なのでしょうか、それを見極めなさい。
この探究が、主体を超えた純粋な意識へとあなたを導くでしょう。
あなたは「いわゆる自分」と言います。
いわゆる自分とは心のことです。
その心は限定されています。
しかし純枠な意識は限定の彼方にあり、それは「私」の源へと探究することによって到達されるのです。
あなたは「獲得する」と言います。
真我は常に存在しています。
あなたはただ真我を覆い隠すヴェールを剥ぎ取るだけなのです。
あなたは「維持する」と言います。
ひとたび真我を実現すれば、それはいつでも「今ここ」に在るとわかり、二度と失われることは
ありません。
あなたは「拡大する」と言います。
真我が拡大することはありません。
それは縮小することも拡大することなく、常に在るのです。
あなたは「隠遁する」と言います。
真我の内にとどまることは独り在ることです。
なぜなら、真我にとって異郷的なものは何もないからです。
隠遁とは一つの場所や状態から別の場所や状態へと退くことに違いありません。
一つの場所であれ別の場所であれ、真我の中にしか存在しないのです。
すべてが真我なのですから、ある場所から退くことなどできませんし、ありえないのです。
霊的修練(アビャーサ)とは真我を探究することです。
4
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/19(水) 23:14:02 ID:1d4drIFg0
>>1
ごくろうさんなのじゃ。
瞑想とか信仰で特別な体験をすると、人はそれに囚われてしまうことがあるのじゃ。
そしてそれに執着してしまうのじゃ。
それは仏教では魔と呼ぶのじゃ。
その囚われは金や権力に囚われるのと全く同じなのじゃ。
全ての体験を捨てて真摯に心の中を追求することが修行なのじゃ。
5
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/20(木) 13:28:31 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話43
1935年3月28日
ヴェロールの地方自治体の長官であるS・ランガナータン氏とS・V・ラーマムールティ氏、プドゥコッタ州のラーガヴィア氏らがアーシュラマムを訪問した。
ランガナータン氏が質問した。
「どうすれば心を制御できるでしょうか。どうぞお教えください」
マハルシ
二つの方法があります。
一つは「心とは何か」を観ることです。
そうすれば心は静まります。
もう一つは注意を何かに集中させることです。
こうしても心は静まります。
質間者はさらに説明を求めて質問を繰り返した。
与えられた答えは前より少し言葉が加えられた程度だった。
だが質間者は満足できなかった。
ラーガヴィア氏が尋ねた。
質問者
世俗の人間である私たちはさまざまな嘆きや悲しみを持ち、どうやってそれを克服すればいいのかわかりません。
神にも祈るのですが、いまだに満たされません。
どうすればよいのでしょうか?
マハルシ
神を信頼しなさい。
質問者
私たちは明け渡すのですが、それでも救われません。
マハルシ
もし明け渡したのなら、神の御心にしたがい、あなたの気に入らないことが起こったとしても不平不満なく受け入れなければなりません。
今、一見そう起こっているように見えることも、後にまったく違った結果となるかもしれないのです。
不幸はしばしば人々を神への信仰へと導くものです。
質問者
そうは言われても、私たちは世俗の人間です。
妻や子があり、子供や友人や親戚がいます。
彼らの存在を無視して、自らの内に何がしかの人格を保つこともなく、自分自身を神の意志にゆだねることはできまません。
マハルシ
つまり、あなたは神に明け渡してはいなかったということです。
あなたは神だけを信じなければならないのです。
ラーマムールティ氏が尋ねた。
質問者
私はポール・ブラントン氏の『秘められたインド』を読み、最後の章に深い感銘を受けました。
その中で彼は「考えることなしに意識的であることは可能である」と述べています。
私は身体を忘れた状態でも考えることができるのは知っています。
しかし心なしに考えることができるのでしょうか?
想念を超えた意識を得ることは可能なのでしょうか?
マハルシ
可能です。
目覚め、夢見、眠りの状態に共通する一つの意識が存在しています。
眠りの中に「私」は存在しません。
「私」という想念は目覚めとともに立ち現れ、それから世界が姿を現すのです。
ではこの「私」は眠りの間どこにあったのでしょうか?
それはそこにあったのでしょうか、なかったのでしょうか?
そこにあったに違いありません。
しかしあなたが今、感じているようにではありませんでした。
今はただの「私」という想念ですが、眠りの中の「私」は、真の「私」なのです。
それは(目覚め、夢見、眠りの状態を通して)常に存在しています。
それが意識です。
もしそれを知れば、あなたはそれが想念を超えたものであることを知るでしょう。
6
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/20(木) 13:30:32 ID:jfWCoXjM0
質問者
心なしに考えることは可能でしょうか?
マハルシ
想念は他の活動のように、至高の意識を妨げることはないのです。
質問者
他の人の心を読み取ることは可能でしょうか?
師はいつものように、「他の人のことを気にかけるよりも自分の真我を見いだしなさい」と言った。
マハルシ
あなたの真我以外のどこに他者が存在すると言うのですか?
ラーガヴィア氏が尋ねた。
質問者
どうすれば高次の(霊的)経験と低次の(世俗的)経験を結びつけることができるでしょう?
マハルシ
ただ一つの経験だけがあるのです。
世俗の経験とは、偽りの「私」の上に構築されたものに他なりません。
世界で最も成功した人に、「あなたは自分の真我を知っていますか?」と尋ねてごらんなさい。
彼は「知らない」と言うでしょう。
真我を知らずして、何を知ることができると言うのでしょう?
あらゆる世俗的な知識は、そのような薄っぺらな土台の上に築かれているのです。
ラーマムールティ氏が尋ねた。
質問者
どうすれば真の「私」と偽りの「私」を区別できるでしょう?
マハルシ
自分自身に気づいていない人がいるでしょうか?
誰もが知っていながら、誰も知らないのが真我なのです。
奇妙な矛盾です。
しばらくして、師は言葉を加えた。
マハルシ
心が存在するかどうかと探究すれば、心は存在しないということがわかるでしょう。
それが心を制御する方法です。
しかし心が存在すると見なしたうえで、それを制御しようとすれば、心が心を制御することになってしまいます。
それはちょうど泥棒が警官を装って泥棒を捕まえようとするようなものです。
心はそのような方法にばかり固執しておいて、巧みに逃れるのです。
7
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/20(木) 18:58:09 ID:LC3de7YgO
>>6
> 心なしに考えることは可能でしょうか?
マハルシ
想念は他の活動のように、至高の意識を妨げることはないのです。
←この心とは、記憶あるいは観念に置き換えて理解すれば良いのでしょうか?
で、至高の意識が、記憶や観念抜きで、考えることができると言う意味でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
8
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/20(木) 21:14:22 ID:LC3de7YgO
>>7
考えるということ自体が記憶、観念を組み立てることでありましょうから、それは変でありますね。
ここでの心の意味は何でありましょうか? もしかして、主体の意味でありましょうか?
心=主体が記憶、観念にもとづき想念を持つ=考えることは、至高の意識=アートマンが、主体なくありのままをとらえることを妨げないと言うことでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
9
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/20(木) 22:43:00 ID:1d4drIFg0
↑ 質問した者は意訳すれば「マインドなしで正しい判断をしたりすることは可能か」ということを聞いたのじゃな。
マハリシは「マインドがあろうとなかろうと至高の意識は正しく作用する」と答えたのじゃな。
本当は心の働きには思考も含まれているから矛盾しているのじゃ。
質問した者は思考や感情などのマインドの働きが無くても大丈夫なのかと、自我を無くす恐れを表したのじゃ。
マハリシは至高の意識こそ観念にも妨げられず正しくあるものであると表明したのじゃ。
10
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/21(金) 01:16:46 ID:LC3de7YgO
>>9
鬼和尚、ありがとうであります。
なるへそ。
修行者である質問者の聞きたいことを想像してみれば、読み取れるのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ
11
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/21(金) 12:38:22 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話44
1935年4月3日
エンジニアのエーカナー夕・ラーオ氏がシュリー・バガヴァーンに尋ねた。
「探究(ヴィチャーラ)には『独り在ること』が必要でしょうか?」
マハルシ
独り在ることは、どこにいてもあります。
人は常に独り在るのです。
大切なのはそれを内面に見いだすことであって、外側に探し求めることではありません。
質問者
世俗の生活が心を乱すのです。
マハルシ
乱されるのを許してはいけません。
誰にとって心の乱れが起こるのか、それを見いだしなさい。
少し修練すれば、心は乱されなくなるでしょう。
質問者
試みることさえ不可能です。
マハルシ
試してみることです。
そうすれば難しくはないことがわかるでしょう。
質問者
内面を探究しても答えは得られません。
マハルシ
探究者自身が答えであり、それ以外の答えなどないのです。
新しく現れるものは真実ではありません。
常に存在するもの、それが真実なのです。
12
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/21(金) 22:46:03 ID:1d4drIFg0
>>10
そうじゃ、正しい質問を見極めれば既に正しい答えは出ているのじゃ。
探求者こそ探求されるものであり、探求すべきものなのじゃ。
自らを探求する以外に道は無いのじゃ。
自我を観察する事が即ち道になるのじゃ。
自分を通り過ぎて悟りにいたるのじゃ。
13
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/22(土) 13:02:35 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話45
1935年4月6日
質問者
真我実現の道は困難です。
世間のことなら容易にわかりますが、この道はそうはいきません。
マハルシ
そうです。
心は常に自己の内面の知識を後回しにして、外側の知識を求めるのです。
質問者
シュリー・バガヴァーンとともに一日を過ごすのは素晴らしいことです。
二日ならさらによく、三日、それ以上ならもっとよいでしょう。
もしずっとここにとどまるなら、 世俗の仕事をどうすればいいでしょう?
マハルシ
ここにいることも他の場所にいることも同じであり、同じ効果をもたらすことが理解されなければなりません。
14
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/22(土) 23:22:56 ID:1d4drIFg0
他の場所よりもよい場所があると思うならば、それは囚われているのじゃ。
目覚めた者のいる場所を一つの遊戯としているだけなのじゃ。
どこにいようと自らの心を観ることはできるのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
15
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/23(日) 13:11:43 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話46
1935年4月12日
マラヤラム語版の『ウパデーシャ・サーラム』(教えの精髄)の詠唱を聞いた後で、ナゲールコイルのラー
マチャンドラ・アイヤール氏が、極めて朴訥な調子で心の集中と制御について尋ねた。
マハルシ
心とは真我と身体の同一化にすぎません。
それによって偽りの自我が生み出され、それがまた偽りの現象を生み出し、あたかもその中で活動するかのように見えるのです。
しかし、これらはすべて偽りです。
真我だけが唯一の実在なのです。
偽りの同一化が消え去れば、常在の実在は明らかになるでしょう。
実在が今ここに存在しないということではないのです。
それは常に存在し、永遠に変わりません。
それはまた誰もが体験していることです。
なぜなら、誰もが「自分は存在している」ということを知っているからです。
「自分は誰か?」とは、主観的には「私は誰か?」です。
偽りの自我は対象と関わっています。
この自我自身もその対象なのです。
対象であるなら、それは偽りだということです。
主体だけが実在だからです。
対象、つまり身体とあなた自身を混同してはいけません。
これが偽りの自我を生み出し、その結果、世界とその中で活動するあなたに不幸が現れ出すのです。
あなた自身をあれこれ、誰それなどと考えてはいけません。
ただ偽りを払い去りなさい。
そうすれば、実在はおのずと明らかになるでしょう。
聖典は「真我はニティヤ・シッダ、すなわち永遠の存在である」と述べながら、無知を取り除くことに
ついて語っています。
もし真我が永遠の存在なら、どうしてそこに無知がありえるでしょう?
誰にとっての無知だと言うのでしょうか?
これは矛盾しています。
しかしそのような言葉は誠実な探究者を正しい道に導くためのものなのです。
「私が存在しなかったことは一度もない。あなたも、ここにいる王たちも……」。
このような平易な言葉で述べたなら、探究者は唯一の真理を理解できないでしょう。
シュリー・クリシュナは真理を説きましたが、アルジュナは理解できませんでした。
後にクリシュナは、「人々は私を身体と同一視するが、真理においては、私は生まれもせず、死にもしない」とわかりやすく語っています。
それでもアルジュナにとって真理が明らかになるには『バガヴァッド・ギーター』のすべてを必要としたのです。
真我とはただ「在る」ことであり、あれやこれとして在ることではありません。
それはシンプルな存在なのです。
在りなさい──そうすれば無知は終焉するでしょう。
誰にとっての無知なのか、それを探究しなさい。
眠りから目覚めるとき、自我が立ち現れます。
深い眠りの中で、あなたは「私は眠っている。今目覚めようとしている。私はずっと眠っていた」などとは言いません。
しかし、それでもあなたはそこに存在しています。
目を覚まして初めて、あなたは「私は眠っていた」と言います。
つまり、あなたの目覚めはその中に眠りを含んでいるのです。
あなたの純粋な「存在」を認識しなさい。
身体との混同を取り除きなさい。
身体は想念の産物なのです。
想念はその戯れを続けるでしょう。
しかしあなたは影響されないままに在るでしょう。
眠りの中で、あなたは身体に関わらずにいました。
ですから、いつもそのように在ることはできるのです。
エーカナータ・ラーオ氏
仕事で収入を得なければならない世俗の人々に、どうして身体の活動に影響されないまま在ることができると言うのでしょう?
マハルシ
行為が束縛となることはありません。
束縛とは偽りの概念にすぎないからです。
「私は行為者だ」という想念を棄て去って、あなたの干渉なしに、身体と感覚にその役割を果たさせなさい。
*「私が存在しなかったことは一度もない…『バガヴァッド・ギーター』2-12
私が存在しなかったことは一度もない。
あなたも、ここにいる王たちも。
われわれが未来に存在しなくなることもない。
*「人々は私を身体と同一視するが…『バガヴァッド・ギーター』4-6
私は不生、不滅、不変の身体を持つすべての生きとし生けるものの主であるが、潜在的な力によって、この世に原初の姿を現す。
16
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/23(日) 23:08:06 ID:1d4drIFg0
世間の仕事によって人々は縛り付けられているという。
しかし、それも偽りの観念遊戯に過ぎないものじゃ。
誰も死を逃れられない世の中で、死を超えるより大事な仕事などはないのじゃ。
余裕のあるうちに実践あるのみなのじゃ。
17
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/24(月) 13:16:39 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話47
1935年4月20日
ケーララ州からの訪問者が、世界の悲惨な状況に対する懸念を伝え、「真我探究」はそのような苦しみに満ちた環境の中では利己的に見えると訴えた。
彼の解決法は非利己的な仕事にあるようだ。
マハルシ
海は波に気づいていません。
同様に、真我はその自我に気づいていないのです。
(記録者ノート:この言葉は「自我の源の探究」こそが解決法であることを明らかにしている)
18
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/24(月) 23:37:47 ID:1d4drIFg0
自我による行いや苦悩全ては幻想に過ぎないものじゃ。
世界が悲惨に見えるならばそれは見る者の心が悲惨であるからなのじゃ。
自らの心が作り出した世界しか人は見えないのじゃ。
本来世界も無いから、アートマンは世界を知らないのじゃ。
19
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/25(火) 00:31:08 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話48
質問者
あなたはバガヴァーンです。
ですから、私がいつ真我の知識(ジニャーナ)を違成するのか知っているはずです。
教えてください。
私はいつ真我実現した人(ジニャーニ) になるのでしょうか?
マハルシ
もし私がバガヴァーンならば、真我の他には何も存在せず、それゆえ、ジニャーニもアジニャーニ
もいません。
もしそうでなければ、私はあなたと変わらず、あなたが知ることを知っているだけです。
どちらにしても、私はあなたの質問に答えられません。
20
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/25(火) 00:34:20 ID:jfWCoXjM0
>>19
×違成
〇達成
21
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/25(火) 22:37:35 ID:1d4drIFg0
既に誰もがアートマンを実現しているのじゃ。
それを忘れているだけなのじゃ。
時間の無いアートマンにとって全ては今なのじゃ。
今ここにアートマンは実現しているのじゃ。
22
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/26(水) 13:20:13 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話49
1935年4月24日
数人が師に質問した。
それらの質問は最終的に「いかに努力しても『私』は認識不可能だ」という一点に帰着した。
師はいつものように答えた。
マハルシ
「私」は認識不可能だと言うのは誰でしょうか?
そこには無知な「私」ととらえがたい「私」が存在するのでしょうか?
同じ人の中に二人の「私」が存在していると言うのですか?
自分自身に尋ねてみなさい。
「私」は認識不可能だと言うのは心なのです。
その心はどこから現れるのでしょうか?
心を知りなさい。
そうすれば、あなたはそれが作り話であることを知るでしょう。
ジャナカ王は
「ついに私を台なしにし続けてきた泥棒を捕まえた。
即刻死刑に処してくれよう!
これで私は幸せになるだろう」と言いました。
同じことが他の人にも言えるのです。
質問者
どうやって「私」を知るのでしょうか?
マハルシ
「私ー私」は常に存在しています。
それを知るということはありません。
それは新たに獲得されるような知識ではないのです。
新しく、今ここにないものは、はかないものでしかありません。
「私」はいつも存在しています。
その知識を妨げているのは無知です。
無知を取り除けば、知識は輝き出すでしょう。
実際のところ、無知も、知識でさえも真我にとっては役に立たないものです。
それは刈り取られるべき雑草でしかありません。
それゆえ、真我は知識と無知を超えていると言われるのです。
それは「あるがままに在る」。
ただそれだけです。
質問者
どんなに頑張ってみても、進歩しているようには見えません。
マハルシ
進歩とは新たに獲得されるものについて語られることです。
一方、ここで大切なのは無知を取り払うことであって、知識を得ることではありません。
真我探究にどんな進歩を期待できると言うのでしょう?
質問者
どうすれば無知が取り払えるでしょうか?
マハルシ
ティルヴァンナーマライでベッドに横になりながら、他の街にいる夢を見ていると想像してごらんなさい。
その街の光景は、あなたにとっては現実ですが、実際のあなたの身体は部屋の中のベッドの上にあります。
その街があなたの部屋の中に入って来たのでしょうか?
それとも、身体をここに残したまま、他の場所に行くことができたのでしょうか?
どちらも不可能です。
ですから、あなたがここにいることも、他の街を見ることも、ともに現実ではありません。
それらは心にとって現実に見えるだけなのです。
夢の「私」はやがて消え去り、それから目を覚ました別の「私」が夢について語ります。
この「私」は夢の中には存在していませんでした。
どちらの「私」も現実ではありません。
心の根底には絶えず存在している何かがあり、数知れない光景を生み出しています。
「私」は想念とともに生じ、想念が消えると「私」も消滅します。
多くの「私」があらゆる瞬間に生まれては死んでいくのです。
真の問題は存続する心です。
それがジャナカ王の言う泥棒のことです。
彼を見つけ出しなさい。
そうすれば、あなたは幸せになるでしょう。
23
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/26(水) 22:44:30 ID:1d4drIFg0
私という観念も他の観念と同じく起こっては消えていくものじゃ。
朝の自分と昼の自分、夜の自分は違う想念なのじゃ。
そうであるから朝にダイエットしようと思っても夜には大食いしてしまうということもおこるのじゃ。
自分も刹那に生じては消える観念に過ぎないのじゃ。
それを観るのじゃ。
24
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/26(水) 23:32:20 ID:LC3de7YgO
>>22
の対話録と
>>23
の鬼和尚の解説は、何度も読み返してみるであります。
ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ
25
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/27(木) 12:41:24 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話50
シュリー・バガヴァーンは『プラブッダ・バーラタ』からカビールの言葉を読みあげた。
「水滴が海に溶け入ることは誰もが知っている。
だが、海が水滴に溶け入ることは誰も知らない」
これが至高の帰依(パラー・バクティ) です。
26
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/27(木) 21:39:20 ID:1d4drIFg0
>>24
そうじゃ、実践してみるとよいのじゃ。
人が神に自分を明け渡したならば、神も人に全てを明け渡すのじゃ。
全て一つであるから人が神にのみ明け渡すと言う事は無いのじゃ。
それでは未だ人と神の区別があることになるからのう。
全てが一つであるから人も神もすべて明け渡されるのじゃ。
27
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/28(金) 13:28:09 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話51
1935年6月5日
二十五歳の若いブラーフマナがマハルシを訪れた。
彼を見るなり若者は狂乱して呼んだ。
「シヴォーハム(私はシヴァである)、アハン・ブラフマースミ(私はブラフマンである)」、
「あなたは神です」、
「あなたはパラ・ブラフマンです」、
「あなたは私の父です」、
「父よ、私をお救いください」
ヒステリーは次第に高まり、胸を両手で交互に乱打しながら、彼は「私はシヴァだ」、「私はシヴァだ」と叫んだ。
そして再び歯ぎしりをしながら、「物質主義を叩き壊してやる」と叫んだ。
あたかも歯と歯の間で物質主義を噛み砕くかのように。
それから若者は懇願して「私に力をください、私に力をください、さもなくば私は──」。
まるで自分で自分の喉を締め付けるかのようだった。
他の人たちに静かに連れて行かれようとしたとき、彼はバガヴァーンの前にひれ伏して言った。
「私は私の父の御足元にひれ伏します。
父よ!あなたはパールタサーラテイ(クリシュナ)で、私はアルジュナです。
私たちは物質主義を消し去るでしょう」。
ついに若者はマハルシの前から連れ出された。
彼は身体を洗い清め、軽い飲み物を取り、静かにホールの中で数時間座っていた。
昼食は差し控えた。
午後になると、若者は再び発作を起こして、
「私はクリシュナの頭を切り落としてやる。
もし今彼がここに来ないのなら。
彼は私に仕事をやめるようにと忠告したが、母を守ってはくれないのだ。
では彼が私の首を切り落とせばいい」などと叫ぶのだった。
数時間の静寂の後、シュリー・バガヴァーンはK・L・シャルマ氏に彼の『実在についての四十頌補遣』
(ウラドゥ・ナールパドゥ・アヌバンダン)の評論を読み上げるよう求めた。
その要旨は、「人々は自分で自分を救うこともできないのに、人類の幸福のために神の力を願い求める」というものだった。
これは足が不自由な男が「もし足を支えてくれるなら敵を圧倒してくれよう」とわめいた話に似ていた。
意図は正しいのだが調和の感覚が欠如しているのだ。
若者はそれを聞くと突然飛び上がり、シュリー・バガヴァーンに敬意を表して言った。
「父よ!父よ!私が間違っていました。
どうぞお許しください。
私にお教えください。
あなたの言われるとおりにいたします」。
そしてタ方になると、彼は再びひれ伏して言った。
「私は明け渡します」
28
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/28(金) 23:01:08 ID:1d4drIFg0
インド人は時に宗教に狂ったようになるのじゃ。
オショーも熱狂的な信者が何人もいたのじゃ。
そうであるから悟った者も多いのじゃろう。
神や聖者に全てを捧げる事の出来る者が多いのじゃ。
29
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/29(土) 16:19:55 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話52
1935年6月9日
コカナダから来た男性が尋ねた。
「私の心は二、三日の間は明瞭なのですが、 次の二、三日は鈍くなり、それが交互に現れるのです。
どうしてそうなるのでしょうか?」
マハルシ
それは極めて自然なことです。
それはただ、かわるがわる純粋性(サットヴァ)、活動性(ラジャス)、不活発性 (タマス)が戯れているのです。
タマスが現れたからといって悔やんではなりません。
しかしサットヴァが現れたときはそれをしっかりとつかまえ、最善を尽くしなさい。
質問者
ハートとは何でしょうか?
マハルシ
それは真我の座です(もしそのような言い方が可能であれば)。
質問者
それは身体的なハートなのでしょうか?
マハルシ
いいえ。
それは「私ー私」が立ち現れる源です。
質問者
死後、ジーヴァは何になるのでしょうか?
マハルシ
その質問は、今生きているジーヴァにふさわしいものではありません。
死んだジーヴァがもし望むなら、私に尋ねてもいいでしょう。
今は、この身体をまとった個人(ジーヴァ)に現在の間題を解決させて、自分が誰なのかを見いださせなさい。
そうすれば、このような疑問はなくなるでしょう。
質問者
ディヤーナ (瞑想)とは何でしょうか?
マハルシ
ディヤーナという言葉は、通常ある対象に瞑想することを意味しています。
一方、ニディディアーサナは真我探究を意味します。
真我が実現されるまで、三位(知る者、知識、知られるもの)は消えずに残るでしょう。
探究者に関するかぎり、ディヤーナとニディディアーサナは同等のものです。
なぜならどちらも三位一体を含み、バクティと同義だからです。
質問者
どのようにディヤーナを修練すればよいでしょうか?
マハルシ
ディヤーナは心の集中を助けます。
主要な観念が他のすべての考えを遠ざけてくれるのです。
ディヤーナは個人によって異なります。
それは神の姿あるいはマントラへの集中、あるいは真我への集中でもいいでしょう。
30
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/29(土) 22:56:22 ID:1d4drIFg0
何かの対象に集中することがディヤーナなのじゃ。
神仏に心身を捧げる事も一つの観念に集中することであるからディヤーナと同義なのじゃ。
心身が対象と一つになった感覚はサマーディとも同じなのじゃ。
心身をささげる献身は信仰のある者にはサマーディへの近道なのじゃ。
31
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/30(日) 11:17:56 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話53
1935年6月15日
ポール・ブラントンの本を二冊手にしたノウレスという若い男性がダルシャン(聖者に会うこと)に訪れた。
彼は尋ねた。
質問者
仏教徒は「私」は実在ではないと言い、ポール・ブラントンは『秘められたインド』の中で「私」という想念を克服して、「私」の境地に到達することを語っています。
どちらが真実でしょうか?
マハルシ
二人の「私」が存在すると考えられています。
一つは低次のもので、非実作です。
これは私たち誰もが気づいています。
もう一つは高次のもので、実在です。
それが実現されるべきものです。
あなたは眠りの中で自分自身に気づいていませんが、目覚めでは気づいています。
目覚めて初めて、「私は眠っていた」と言うのです。
深い眠りの状態では、あなたは眠っていたことさえ知りませんでした。
それゆえ、多様性の観念は身体意識とともに立ち現れるのです。
この身体意識はある特定の瞬間に生じます。
それには始まりと終わりがあります。
始まりのあるものは「何か」に違いありません。
それは何でしょうか?
それが「私」という意識です。
「私とは誰か?」
「私はどこから生じたのか?」
と問い、源を見いだすことで、あなたは絶対意識の境地を実現するのです。
質問者
この「私」とは一体誰でしょうか?
それは単なる感覚的印象の連鎖のように見えます。
仏教徒の概念もまたそのようです。
マハルシ
世界は外側にあるのではありません。
印象が外的な事象に由来することはありえないのです。
なぜなら、世界は意識によってのみ認識されるからです。
世界が「世界は存在する」とは言いません。
それはあなたの印象なのです。
しかしこの印象には一貫性も連続性もありません。
深い眠りの中では世界は知覚されません。
つまり、眠っている人にとって、世界は存在していないということです。
したがって、世界は自我の産物なのです。
自我を探し出しなさい。
自我の源を見いだすことが最終目的です。
質問者
私は他の生命に苦しみを与えるべきではないと信じています。
それでは、私たちは蚊に刺されることもじっと耐えて我慢するべきでしょうか?
マハルシ
あなた自身苦しむことを好まないはずです。
どうして他の生命に苦しみを与えられるでしょう?
蚊に刺されて苦しむならば、払いのければいいのです。
質問者
蚊や虫を殺すことは正しいのでしょうか?
マハルシ
誰もが自殺を犯しています。
永遠の至福に満ちた自然な状態は、この無知なる人生によって窒息させられています。
このように現在の人生は、永遠の純粋無垢な存在を殺すことによって成り立っているのです。
それは自殺行為ではないでしょうか?
なぜ殺人や殺生を心配するのでしょう?
質問者
世界が私に印象を送り、私は目を覚まします。
マハルシ
知覚する者なしに世界が存在できるでしょうか?
どちらが先に存在するのでしょう?
存在としての意識でしょうか、それとも生起する意識でしょうか?
存在意識は常にそこにあり、永遠で純粋です。
生起する意識は現れては消え去ります。
それは一時的なものです。
質問者
私が眠っている間も、世界は他の人にとって存在するのではないでしょうか?
マハルシ
そのような世界は、自分自身を知らないのに世界のことを知ろうとしているあなたをあざ笑っているのです。
世界とは心の産物です。
あなたの心を知りなさい。
それから世界を見なさい。
そうすれば、あなたは世界が真我と異ならないことを悟るでしょう。
質問者
私と同じように、マハルシも自分自身とその周囲に気づいているのではありませんか?
マハルシ
この疑いは誰にとってのものでしょうか?
疑いは実現した人ではなく、無知な人にとってのみあるのです。
32
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/30(日) 22:48:02 ID:1d4drIFg0
誰もが自分の創った世界にいるのじゃ。
その中で世界が自分を創ったと思っているだけなのじゃ。
自分が無ければ世界も無いのじゃ。
ただありのままの意識が在るだけなのじゃ。
33
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/01(月) 15:36:55 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話54
1935年6月16日
アーンドラ・プラデーシュ州から来た年配の学者は、カーヴィヤカンタ・ガナパティ・ムニのアドヴァイタ(不二一元論)に関する解説に疑問を抱いていた。
彼はその本の中で、「ブラフマンはサジャーティーヤ(同種)、ヴィジャーティーヤ(異種)、スワガタ・ベーダ(それ自体の中の一部分)から自由である」という記述を見つけた。
そのような条件はパリナーマ・ヴァーダ(ブラフマンが世界に変容するというサーンキャ哲学の理論)ではなく、ヴィヴァルタ・ヴァーダ(ブラフマンから宇宙は展開し、現象世界は幻影であるというヴェーダーンタ哲学の理論)において満たされるものであり、後者においては「スワガタ・ベーダであるはずです」と彼は主張した。
マハルシ
ダクシナームールティは、そのようなことは教えませんでした。
彼はブラフマンがシャクティと関連していたともいなかったとも言いませんでした。
ただ沈黙のみがあったのです。
そして弟子たちの疑いは晴らされました。
この意義は、学ぶべきこと、討論すべきこと、結論を導き出すべきことなど何もないということです。
誰もが「私は在る」ことを知っています。
「私」は身体だと見なすことが混乱なのです。
「絶対なるもの」から「私」が立ち現れ、知性(ブッディ)を生じさせます。
「私」はその知性を通して身体の大きさと形を見ます。
それゆえ「ナ・メーダヤー」は、ブラフマンは知性では理解できないということを意味しているのです。
ブラフマン→アハム(「私ー私」)→ブッディ(知性)
そのような知性(ブッディ)が、どうして「私」(アハム)を超えてブラフマンを見いだせると言うのでしょうか?
それは不可能です。
ただ「私」が身体であるという偽りの観念を克服しなさい。
誰にとって想念が現れるのかを見いだしなさい。
もし今ある「私」性が消え去れば、発見は完結するでしょう。
「私」性が消えた後に残るもの、それが純粋な真我です。
深い眠りと目覚めを比較してみなさい。
多様性と身体は目覚めの中にだけ見られます。
深い眠りの中では、真我は世界と身体の知覚のないまま存在しています。
そこにはただ幸福だけが在るのです。
聖典の確言である「アハン・ブラフマースミ」(私はブラフマンである)は、心の様態ではなく境地を表しています。
マントラを繰り返し唱えても、ブラフマンになることはできません。
それは、ブラフマンがどこか他のところに存在するのではないという意味です。
それはあなたの真我なのです。
真我を見いだしなさい。
そうすればブラフマンは見つかります。
ブラフマンがどこか遠いところにあり、そこに達しなければならないと考えて努力してはなりません。
その学者は言った。
「想念は執拗に起こるため、『私は在る』(アハム)に達せないのです」
マハルシ
ブラフマーカーラ・ヴリッティは、心が他の想念に向かわないようにするのを助けます。
そのような修練、または覚者(サードゥ)との交際が必要となります。
覚者は既に心を克服し、平安の内にとどまっているため、彼の臨在の内に在ることが助けとなるのです。
そうでなければ、覚者の仲間になることに意味はありません。
デーホー・アハム(私は身体である)は限定であり、あらゆる利己的な行為や欲望の根本です。
ブラフマ・アハム(私はブラフマンである)は限定を超え、慈悲、慈善、愛などの神聖な徳を意味します。
質問者
グリハスタ(家庭を持つ者)が解脱を求めながら生きていくにはどうすればいいのでしょうか?
マハルシ
なぜ自分をグリハスタと思いなすのですか?
たとえあなたがサンニャーシーとなっても、今度は自分がサンニャーシーであるという想念にとらわれてしまうでしょう。
家庭での生活を続けようと、それを棄てて森へ行こうと、心はあなたにつきまとうでしょう。
自我が想念の源です。
自我は身体と世界をつくり出し、「自分はグリハスタである」と考えさせるのです。
あなたが家を棄てても、それはグリハスタという想いがサンニャーシーという想いに変わり、家庭の環境が森という環境に変わるだけのことでしょう。
しかし心理的な障害は常にそこにあります。
新しい環境の中では、障害が勢いを増すことすらあるのです。
それゆえ、環境を変えても何の助けにもなりません。
唯一の障害は心です。
家にいようと森にいようと、心こそが克服されるべきものなのです。
それが森の中でできるのなら、どうして家の中でできないことがあるでしょう?
環境を変える必要はありません。
環境がどうあれ、あなたは今、努力することができるはずです。
34
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/01(月) 15:45:09 ID:73lwfNNQ0
あなたの望みにしたがって、環境があなたを手放すことなどけっしてないのです。
私をごらんなさい。
私は家を去りました。
あなた自身を見てごらんなさい。
あなたは家庭環境を後にしてここに来ました。
ここに何を見ますか?
あなたが後にしたものとこれと何か違うでしょうか?
たとえニルヴィカルパ・サマーディに何年も入っていたとしても、そこから出て来たとき、やはりそこにあなたを束縛していた同じ環境を見ます。
だからこそ、シャンカラーチャーリャは彼の卓越した作品『ヴィヴェーカ・チューダーマニ』の中で、ニルヴィカルパ・サマーディよりもサハジャ・サマーディを強調したのです。
人はあらゆる環境の只中にあっても、自然なサマーディの中にいるべきです。
それは純粋無垢な状態なのです。
しばらくの沈黙の後、シュリー・バガヴァーンは言った。
マハルシ
呼吸の制御は内的なものでも外的なものでもあるでしょう。
アンタハ・プラーナーヤーマ(内的調息)は以下のとおりです。
ナーハム・チンター(私は身体ではない)はレーチャカ(呼気)。
コーハム(私は誰か?)はプーラカ(吸気)。
ソーハム(私は「彼」だ)はクンバカ(呼吸保持)。
こうすることで、呼吸は自動的に制御されます。
バヒル・プラーナーヤーマ(外的調息)は心を制御する力のない者のための方法です。
しかし覚者との交際(サットサンガ)ほど確実なものはありません。
覚者との交際を持てない者にとっては、外的な修練が欠かせないでしょう。
もし覚者との交際において、他の人の目には見えなくとも、覚者が必要な力をあなたに与えたなら、ハタ・ヨーガが指示するとおりのプラーナーヤーマをしなくてもかまいません。
ジャパ、ディヤーナ、バクティなどを修練したなら、わずかな呼吸制御だけで心の制御はできるでしょう。
心は御者で、呼吸は馬です。
プラーナーヤーマは馬を制する手綱です。
その同じ手綱で御者も制されるのです。
プラーナーヤーマは少しだけすればよいでしょう。
呼吸を見つめることも一つの方法です。
他の活動に注意をそらされていた心は、呼吸を見つめることに専心します。
それが呼吸を制し、それから心が制御されるのです。
それができないなら、レーチャカとプーラカを修練する必要はありません。
呼吸はジャパやディヤーナにおいてしばらくの間保持されることもあるでしょう。
それもまた良い結果をもたらすでしょう。
*ナ・メーダヤー(『カタ・ウバニシャド』1-2-23)
学問によっても、知性を通しても、秘教によっても、アートマンに達することはできない。
それはそれに選ばれた者によって達せられる。
なぜなら彼がそれを選んだからである。
選ばれた者に、アートマンは彼の栄光を顕わにするのである。
*ブラフマーカーラ・ヴリッティ
ブラフマンへの瞑想。
それ以外のすべての想念を排除して、絶え間なく、ただブラフマンのみに黙想する修練のこと。
35
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/01(月) 23:04:30 ID:1d4drIFg0
ニルヴィカルパ・サマーディは思考や分別を捨てたサマーディなのじゃ。
それはまだ意識的な実践にょって達成されるものじゃ。
止めれば日常の意識に戻るのじゃ。
サハジャ・サマーディは意識しないでも出来る自然なサマーディなのじゃ。
それに至ればアートマンは達成したといえるのじゃ。
マハリシは呼吸法によってもそれに到達できるというのじゃ。
36
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/02(火) 15:55:54 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話55
1935年6月18日
質問者
ラーマ神やクリシュナ神の聖なる名前のジャパ(称名)によってもアドヴァイタの真理は実現できるでしょうか?
マハルシ
できます。
質問者
それは劣った修練方法ではありませんか?
マハルシ
あなたは今、ジャパをするように言われたのではありませんか?
それとも修練の優劣を議論するよう言われたのですか?
質問者は沈黙したままだった。
37
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/02(火) 22:01:11 ID:LC3de7YgO
>>35
ニルヴィカルパ・サマーディ とは、涅槃とか、神仏とかと一つになり、その極みで自我が消え去るようかサマディで、
サハジャ・サマーディとは、単なる集中の極みであるサマディでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
38
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/03(水) 22:45:14 ID:1d4drIFg0
↑そのような理解で善いのじゃ。
ニルヴィカルバ・サマーディでは区別が消えるから自他もなくなるのじゃ。
自我がなくなれば、そこからサハジャ・サマーディに入るのじゃ。
意識だけがあるのじゃ。
39
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/04(木) 10:17:35 ID:jDggCKfs0
483カムイ2019/07/03(水) 10:48:53.95ID:pDXx0zFa
>>485
>>480
そう、他者に隙を見せない。
40
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/04(木) 21:58:24 ID:73lwfNNQ0
鬼和尚、
>>36
の対話55にコメントをお願い致します(ー人ー)
41
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/05(金) 22:44:28 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、世の中に劣った修練などはないものじゃ。
シュリハンドクは掃除をして悟りを得たのじゃ。
修行者の性質によって向いている修練と向いていない修練があるだけなのじゃ。
自ら試して自分に向いている修練を選んだら、どこまでも実践し続けるが善いのじゃ。
42
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/06(土) 16:53:36 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話56
1935年6月22日
二十歳の若い男性が「どのように真我を実現するのでしょうか?」という質問をした。
彼は沈黙の内に座り、一時間以上待った。
それから今にも立ち去ろうとしたとき、再び尋ねた。
質問者
どのように真我を実現したらよいのでしょうか?
マハルシ
誰の真我ですか?
見いだしなさい。
質問者
私は誰ですか?
マハルシ
あなた自身で見いだしなさい。
質問者
私にはわかりません。
マハルシ
考えなさい。
「私にはわかりません」と言っているのは誰ですか?
何が知られないのでしょうか?
「私にはわかりません」の中の「私」とは誰でしょうか?
質問者
私の中の誰かです。
マハルシ
誰かとは誰ですか?
誰の中にいるのですか?
質問者
何かの力なのかもしれません。
マハルシ
見いだしなさい。
質問者
どのようにブラフマンを実現したらよいのでしょうか?
マハルシ
真我を知らずして、どうしてブラフマンを知ろうとするのですか?
質問者
聖典は「ブラフマンはすべてに遍在し、私の中にも存在する」と述べています。
マハルシ
私の中の「私」を見いだしなさい。
その後で、ブラフマンについて考える時間もあるでしょう。
質問者
なぜ私は生まれたのでしょうか?
マハルシ
誰が生まれたのですか?
あなたの質問に対する答えはすべて同じです。
質問者
では私とは誰なのでしょうか?
マハルシ
(笑いながら)あなたは私を試しに来たのですか?
あなたがあなたは誰かを言わなければならないのです。
質問者
深い眠りの中で魂は身体を去ってどこか他のところにとどまり、目覚めとともに再び身体に入るというのは本当でしょうか?
マハルシ
身体を去るもの、それは何ですか?
質問者
力です。
おそらく。
マハルシ
その力を探し出しなさい。
質問者
身体は五大元素で構成されています。
その元素とは何でしょうか?
マハルシ
真我を知らずして、なぜ五大元素を知ろうとするのですか?
若者はしばらく座ったままいたが、やがて去る許しを請うた。
後に師は言った。
「大丈夫、うまくいくでしょう」
43
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/06(土) 22:49:08 ID:1d4drIFg0
私とは何なのか、修行者は一人一人が自ら追及しなければならないのじゃ。
それは師に聞くものではないのじゃ。
むしろ師に答えるものなのじゃ。
それ以外の観念は何も観なくて善いのじゃ。
私が観られたならば観照が始まるのじゃ。
44
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/07(日) 14:17:17 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話57
1935年6月23日
シュリー・バガヴァーンはこう語った。
「スシュムナー(脊柱の底辺から頭頂点を結ぶ霊的な経路)は聖典で通常用いられている言葉です。
パラー、アートマン、 アムリタなどの言葉も用いられています。
そのスシュムナーはパラーの中に融け去る(リーナ)とも聖典に述べられています。
それゆえ、パラーはジニャーナの専門用語であり、スシュムナーはヨーガの専門用語だと言えるでしょう」
*パラー、アートマン、アムリタ:至高なるもの、真我、不死性。
45
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/07(日) 15:57:39 ID:73lwfNNQ0
1935年6月24日
『シュリー・ラマナ・ギーター』に関する疑問
第十四章十節には、
「さらなる進歩とともに、不可視の身体も得られるようになる。
そのような人は純粋意識であり、シッダ(超自然能力者)としての栄光を得る」
第十八章最後の節には、
「シッダの栄光は想像を絶する。
彼らはシヴァと等しい。
そう、彼らは願い事をかなえるシヴァ神目身である」と述べられている。
その意味は、真我実現とともに真の絶えざる苦行が起こり、そのような苦行が成就すると、ある賢者(ジニャーニ)は身体を人に触れられることも見られることもできなくする能力を持つという。
彼らはシッダと呼ばれている。
「シッダの偉大さは想像も及びません。
彼らはシヴァと等しく、願い事をかなえることもできるのです」と、後にバガヴァーンは言った。
『ウパニシャド』のマントラには、
「アートマニャン・ヒ・アルチャエート・ブーティカーマハ」
(解脱あるいは富を望む者は、真我を実現した賢者に仕えなければならない。「ムンダカ・ウパニシャド」第三巻一章十節)と述べられている。
ここにはシッダが願い事をかなえることについては述べられてはおらず、賢者は願い事をかなえることができると述べている。
別のマントラ
「スヴェー・マヒムニ・プラティシュティータハ」
(自己の光輝の内に確立される。『チャーンドーギャ・ウパニシャド』第七巻二四章一節)、
「アナンタン・ブラフマ」
(ブラフマンは無限である。『タイッティリーヤ・ウパニシャド」第二章一節)は、上記の『シュリー・ラマナ・ギーター』の二行連句(シュローカ)に反するように見える。
「サルヴァン・カルヴィダン・ブラフマ」
(これはすべてブラフマンである。『チャーンドーギャ・ウパニシャド』第三巻十四章一節)、
「ブラフマヴィッド・ブラフマイヴァ・バヴァティ」
(ブラフマンを知る者はブラフマンそのものになる。『ムンダカ・ウパニシャド』第二巻二章九節)というマントラは、賢者が全知(サルヴァジニャ)であることを示している。
それでは、賢者(ジニャーニ)と超自然能力者(シッダ)の違いとは何だろうか?
シッダは願い事をかなえるが、ジニャーニにはそれができないということだろうか?
これが疑問だった。
師は説明した。
マハルシ
『シュリーラマナ・ギーター』の中の質問は、ある特定な精神から問われたものです。
それゆえ、その答えもそれに応じています。
人々はただ身体のことばかりに目を向けるため、超自然能力(シッディ)を望むのです。
真我実現では身体能力が増すことさえありません。
ならば、どうしてさらに身体を超えた能力をもたらせると言うのでしょう?
超自然能力を望む人々は叡知(ジニャーナ)という考えに満足できないため、叡知に超自然能力を結びつけようとします。
彼らは至高の幸福である叡知を無視して、超自然能力を熱望します。
そのため王道を行く代わりに横道にそれ、道に迷うのです。
彼らを正しい道に導き、王道のみを行くようにさせるために、超自然能力は叡知にともなうと伝えられたのです。
実際のところ、叡知はすべてを包含します。
しかも叡知は超自然能力について考えようとさえしません。
何よりもまず人々に叡知を達成させ、その後で、もし彼らが超自然能力を望むなら、それを求めさせればよいのです。
私は「超自然能力は身体に関わるものだ(シャリーラ・サンシュラヤハ・シッダヤハ)」と言いました。
なぜなら、人々は身体に関心があるからです。
真我を実現した人(ジニャーニ)と超自然能力者(シッダ)に違いはありません。
願い事をかなえることには、真我実現の成就も含まれているからです。
シッディは劣っているどころか最高位のものなのです。
聖典はさまざまな条件を備えた人々に合うように意図されていますが、それらの精髄は同じものです。
『ハーラーシャ・マヒマー』の中に八段階の超自然能力(シッディ)についての章があります。
そこではシヴァ神がこう述べています。
「シヴァの帰依者は超自然能力について考えるような無駄なことはしない。
シヴァはけっして願い事をかなえたりしない」と。
帰依者の願望は彼らのプラーラブダ(運命)によってのみ満たされるのです。
イーシュヴァラ神であるシヴァ自身が、彼の帰依者についてそう言っているのですから、帰依者でない者についてさらに何が言えるでしょう?
超自然能力を披露するには、それを評価する他者を必要とします。
つまりそれを披露する人たちに叡知はないということです。
それゆえ、超自然能力には何の価値もありません。
ただ叡知だけが目標とされ、達成されなければならないのです。
46
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/07(日) 16:07:24 ID:73lwfNNQ0
『シュリー・ラマナ・ギーター』第十七章四節のサンスクリット語からタミル語への翻訳に誤りがあった。
シュリー・バガヴァーンは誤訳を指摘して訂正した。
ヴァイダルバが質問した。
「修練において、想念が交互に現れては消え去ることがわかりました。
これは真我の知識(ジニャーナ)でしょうか?」
マハルシ
ある人たちは真我の知識に異なった段階があると信じています。
真我はあなたが知っていようがいまいが、常に実現されているのです。
彼らは、真理を聞くこと(シュラヴァナ)は直接的知識であり、間接的知識ではないと議論します。
真我の知識は不幸を消し去りますが、真理を聞くことだけではそれは起こりません。
ですから、たとえ直接的であっても、その知識は不動のものではないということです。
知識が確立されない原因は、心の潜在的傾向(ヴァーサナー)が現れることにあります。
ヴァーサナーが取り除かれたとき、真我の知識(ジニャーナ)は揺るぎないものとなって実を結ぶのです。
別の人たちは、真理を聞くこと(シュラヴァナ)は間接的知識だと言います。
真理についての沈思黙考(マナナ)によって、真我の知識は断続的ながらも直接的なものになります。
それを断続的にさせるのはヴァーサナーなのです。
ヴァーサナーはマナナの修練の後も、さらに強烈な勢いで湧き上がってきます。
そのため、それは抑制されなければなりません。
「私は身体ではない」ことを油断なく覚えていることと、マナナにおいて得られた直接的体験を固守することによってヴァーサナーは抑制されます。
そのような修練はニディディアーサナ(真理の一点に心を集中させること)と呼ばれ、それがヴァーサナーを消し去ります。
そうして初めてサハジャの境地が開かれるのです。
それが確実な真我の知識(ジニャーナ)です。
マナナによる直接的体験では、不幸の破壊も束縛からの解放(モークシャ)も得られません。
なぜなら、ヴァーサナーが周期的に現れ、真我の知識を制圧するからです。
それゆえ、それはまだ弱いものですが、ニディディアーサナによってヴァーサナーが根絶されたとき、初めて真我の知識は確立されるのです。
『シュリー・ラマナ・ギーター』について再び
帰依者の一人、T・K・S・アイヤール氏がチャクラについて語った。
マハルシ
アートマンこそが実現されるべきものです。
真我実現はそれ以外のすべてをその領域に含んでいるからです。
シャクティ、ガナパティ、シッディなどもすべてその中に含まれています。
ですから、それらについて語る人たちは真我を実現していないのです。
アートマンはハートの中にあり、ハートそのものです。
(世界の)顕現は脳の中にあります。
ハートから脳への経路はスシュムナー、あるいは他の名前の神経経路と考えられています。
『ウパニシャド』は「パレー・リーナ」について述べています。
それはスシュムナーのようなナディー(霊的な神経経路)は、すべてパラー(高次の)、つまりアートマ・ナディーに含まれているという意味です。
ヨーギーは「脳にあるサハスラーラ・チャクラまで流れは昇りつめ、そこで終わる」と言いますが、その体験は完全なものではありません。
それはハートまで降りて来なければならないからです。
ハート(フリダヤ)はアルファでありオメガでもあるのです。
47
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/07(日) 22:26:44 ID:1d4drIFg0
神秘的な力や能力を求める者は観念の中に止まるものじゃ。
観念を超えた境地にはどのような力も能力も無いのじゃ。
それらは世間の競争に有利になるだけのものであるからのう。
それで世間により強く執着するならば悟りには障害でしかないのじゃ。
それらも死によって無くなるだけの力なのじゃ。
不死の境地には辿りつけないのじゃ。
48
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/08(月) 19:36:44 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話58
1935年7月4日
『シュリーマッド・バガヴァッド・ギーター』
ランガナータン氏
『シュリーマッド・バガヴァッド・ギーター』の中に、「自分自身のダルマ(義務)が最善であり、他者のダルマには危険がある」という一節があります。自分自身のダルマとはどういう意味でしょうか?
シュレーヤーン・スワーダルモー・ヴィグナハ・パラーダルマート・スーアヌシュティタート。
スワーダルメー・ニダナム・シュレーヤハ・パラーダルモー・バヤーヴァハハ。
たとえ不完全でも自分の義務を遂行するほうが、他者の義務を完全に成し遂げるより優れている。
危険に満ちた他者の道にしたがうよりも、我が道を進んで死ぬほうが優れている。
『バガヴァッド・ギーター』第3章35節
マハルシ
それは通常、さまざまな慣習や異なった階級の義務を意味すると解釈されています。
身体的な環境も考慮に入れなければなりません。
質問者
もしヴァルナーシュラマ・ダルマのことを意味するなら、そのようなダルマはインド以外では一般に存在しません。
一方、『バガヴァッド・ギーター』は宇宙全体に適用できるものであるはずです。
マハルシ
ヴァルナーシュラマは異なった形式を取りながらも、どの国にも存在しています。
この詩節の真の意義は、アートマンだけをとらえ、そこから道を踏み外さないことです。
それがその全要旨なのです。
(サンスクリット語原典に見られるスワーダルマとパラーダルマという言葉の)
「スワ」(自己の)は「自分自身の、つまり真我の、アートマンの」を意味し、
「パラ」(他者の)は「他の、つまり非真我の、アナートマン(非真我)の」を意味しています。
アートマ・ダルマは真我に内在しています。
そこにはいかなる恐れも混乱もありません。
間題が起こるのは、自分自身以外のものが存在するときです。
「アートマンは唯一存在する一者である」ということを真に理解すれば、他者もなく恐れの原因もなくなるでしょう。
人はアナートマ・ダルマとアートマ・ダルマを混同するため苦しむのです。
まず真我を知り、その中にとどまることです。
そうすれば、恐れも疑いもなくなるでしょう。
たとえそれをヴァルナーシュラマ・ダルマとして解釈しても、その意味は次のようなものです。
そのようなダルマは、非利己的に為されたときにだけ実を結びます。
つまり人は行為者ではなく、高次の力の道具でしかないということです。
避けられないことを高次の力が為し、私はその指示にしたがって行為するだけです。
行為は私のものではありません。
それゆえ、行為の結果も私のものではないのです。
もしこのように考えて行為すれば、どこに問題があるでしょう?
ヴァルナーシュラマ・ダルマだろうとロウキカ(世俗の)・ダルマだろうと、それは重要ではありません。
それゆえ結果的には、
「スワ」(自己の)は「アートマナハ(真我の)」を意味し、
「パラ」(他者の)は「アナートマナハ(非真我の)」を意味しているのです。
あなたの疑問はもっともなものです。
伝統的な解釈は、昔とは異なる関係性の中で生計を立てていかなければならない現代人の生活と一致しないものだからです。
49
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/08(月) 19:37:23 ID:73lwfNNQ0
ポンディから来た男性が言葉を挟んだ。
「すべての義務を棄て去って、ただ私『だけ』に明け渡しなさい」
サルヴァ・ダルマーン・パリティヤジャ・マーメーカン・シャラナン・ヴラジャ。
マハルシ
「すべて」(サルヴァ)とは「真我ではないもの」(アナートマナハ)のことだけを意味しています。
強調は「だけ」(エーカム)にあるのです。
「一なるもの」(エーカ)だけをしっかりつかんでいる人にとって、どこにダルマがあるでしょうか?
それはつまり、「真我の中に沈み込みなさい」という意味なのです。
質問者
『バガヴァッド・ギーター』は行為のために説かれました。
マハルシ
『ギーター』は何と述べていますか?
アルジュナは戦うことを拒んだのです。
クリシュナはこう語りました。
「戦いを拒否するかぎり、あなたは行為者という感覚を持っているのだ。
行為する者あるいは拒否する者とは誰なのか?
行為者という感覚を手放しなさい。
その感覚が消え去らないかぎり、あなたは行為に束縛されることになる。
あなたは高次の力に操られているのである。
その力にしたがうのを拒否することは、行為に束縛されているのを認めることになる。
それよりも、その力を認めて自分自身を道具として差し出しなさい。
別の言い方をすれば、もしも拒めばあなたは強制的にそれをさせられることになるだろう。
不本意に行為するよりも、進んで行為する人になりなさい。
真我に心をとどめ、行為者という感覚なしに、自然に行為しなさい。
そうすれば、行為の結果があなたに影響することはないだろう。
それが雄雄しさであり、英雄というものだ」と。
「真我の内に在る」ことが『ギーター』の教えの大要であり、精髄なのです。
真我の内に確立されれば、このような疑問は起こりません。
疑問が起こるのも、確立されるまでのことです。
質問者
それでは探究者にとってこのような答えが何の役に立つと言うのでしょう?
マハルシ
それでも言葉は力を持ち、やがて必ず実を結ぶのです。
*ヴァルナーシュラマ・ダルマ
カースト制の四階級(ヴァルナ)と四住期と呼ばれる人生の四つの修行段階(アーシュラマ)を組み合わせたヒンドゥー教の法と義務。
*すべての義務を棄て去って…『バガヴァッド・ギーター』18-66
すべての義務を棄て去って、ただ私だけに明け渡しなさい。
私はあなたをすべての罪から解放しよう。
悲しむなかれ。
50
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/08(月) 20:34:10 ID:LC3de7YgO
うむ。
マハラジやおショーを先に読んで良かったのである。
ラマナ マハルシは難しいのである。
頑張って、少しづつでもついて行くであります。
(´・(ェ)・`)つ
51
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/08(月) 23:09:54 ID:1d4drIFg0
昔のウパニシャッドなどは現代にはもはや合わないのじゃ。
それを根拠に聞いてくる者には自らの教えで解釈するしかないのじゃ。
なかなか難しいことじゃ。
アートマンだけを唯一無二の教えとして説くしかないのじゃ。
52
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/09(火) 13:52:09 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話59
イスラム教徒の学者が尋ねた。
「人はどのように眠りに入って行くのでしょうか?」
マハルシ
もし探究者が目覚めの状態で目覚めているのは誰なのかを知るなら、どのようにして眠りに入って行くかも知るでしょう。
探究は目覚めた人にのみ起こり、眠っている人にではありません。
目覚めているときの真我を知るほうが、眠っているときの真我を知るよりもやさしいのです。
質間者
私はどのように目覚めるか知っています。
しかしどのように眠りが起こるのかは知らないのです。
私は目覚めの状態に気づいています。
例えば、もし誰かが私の杖を取り去ろうとしても、私はそれを防ぐことができるでしょう。
しかし夢や眠りの中ではそれはできません。
目覚めていることの証拠は明らかですが、眠りの証拠とは何でしょうか?
マハルシ
あなたの無知が眠りの証拠であり、あなたの気づきが日覚めの証拠なのです。
質間者
目を開くことで目覚めたということはわかります。
しかし眠りはどのように私に取り付くのでしょう?
マハルシ
眠りがあなたに取り付くように、目覚めもあなたに取り付くのです。
質問者
しかしどう目覚めたかを知っているようには、どのように眠りが起こるのか気づかないのです。
マハルシ
気にする必要はありません。
質問者
どうか眠りとは何かを描写してください。
説明ではなく、眠りそのものが知りたいのです。
私は眠りの本当の描写を望んでいます。
マハルシ
そのような描写が眠りそのものなのです。
53
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/09(火) 13:52:45 ID:73lwfNNQ0
質問者
結婚するのと、隠遁するのと、どちらが解放にふさわしいでしょうか?
マハルシ
どちらでもあなたがよいと思うように。
質問者
ヴィシュヴァーミトラは結婚生活では堕落しなかったのに、隠者としての生活では堕落してしまいました。
これは他の者にとっても当てはまるのではありませんか?
マハルシ
ヴィシュヴァーミトラは結婚生活でも隠者の生活でも純粋だったのです。
そこに違いはありません。
彼は隠者の生活でもそうだったように、結婚生活でも堕落していたのです。
質問者
彼はリシ(聖者)だったのですか?
マハルシ
堕落していたとき、彼はリシではありませんでした。
質問者
堕落した後でも、彼はリシになることができるのでしょうか?
マハルシ
そうです。
正しいバクティ(帰依)によって、彼は良いリシになることができたのです。
悔い改めと祈りが人を正すのです。
質問者
長年の難行苦行によって、あなたは何を得たのでしょうか?
マハルシ
得るべきものを得、見るべきものを見たのです。
質間者
誰もが同じものを見ることができるのでしょうか?
マハルシ
私は誰もが見ているものを見ているだけです。
それはすべてに遍在しているのです。
質間者
これが「それ」を見る方法なのでしょうか?
マハルシ
方法はどれでもいいでしょう。
どの方角から巡礼者が集まろうとも、彼らは一つの入り口だけを通ってカーバに入らなければなりません。
なぜならカーバに入るだけのために、みな諸方から集まって来るからです。
質問者
解放へと導く、あなたが知っておられる二つの教えについて話してくださいますか。
マハルシ
私がどのような教えを知っていると言うのでしょう?
すべてが教えなのです。
神を崇めることだけが教えです。
*ヴィシュヴァーミトラ…
聖者ヴァシシュタとの闘いに敗れた後、ヴィシュヴァーミトラは森に隠遁して苦行に入ったが、美少女の精霊メーナカーの誘惑に負けて、苦行を断念してしまう。
*カーバ
イスラム教の聖地メッカの中心部にある最も重要な神殿。
54
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/09(火) 23:20:56 ID:1d4drIFg0
ヴィシュヴァーミトラは久米の仙人みたいな者じゃな。
隠者としても結婚しても同じように純粋で、同じように堕落していたというのじゃ。
悔い改めて帰依をすることで聖者になれたというのじゃ。
修行をやり直すのには何時でも遅くは無いのじゃ。
55
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/10(水) 12:33:23 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話60
1935年7月5日
マウナ(沈黙)について
マハルシ
孤独における沈黙は強いられたものです。
人前で会話を控えることは沈黙をもたらします。
なぜなら、人は言葉を制御するからです。
会話をする前に、人は話をしようとする意図を持たなければなりません。
しかし他のことに関わっていれば、会話は控えられます。
たとえ活動的であったとしても、ひとたび内向的になった心は会話をしたがらないものです。
修練としてのマウナ(沈黙) は、会話による精神活動を限定するためにあります。
しかし心が制御されたなら、マウナの必要はありません。
なぜなら、沈黙は自然なものになるからです。
ヴィディヤーランヤは「強制的な十二年間のマウナは絶対的なマウナをもたらす」と言いました。
それはつまり喋れなくなってしまうということです。
それでは口のきけない動物と同じで、マウナではありません。
マウナとは絶え間のない語りかけであり、無為とは絶え間のない活動なのです。
56
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/10(水) 22:06:49 ID:1d4drIFg0
インドにも沈黙の行があるのじゃ。
それは心の働きを制御するための行なのじゃ。
観念は言葉として働くものであるからのう。
観念がむやみに働かないようになれば止めて善いのじゃ。
真の沈黙はアートマンが実現されてから自然に起こるのじゃ。
57
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/11(木) 13:09:20 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話61
1935年7月6日
エーカナート・ラーオ氏
瞑想(ディヤーナ)の修練は目を閉じるべきでしょうか、 それとも開くべきでしょうか?
マハルシ
どちらの方法でもかまいません。
要点は心が内に向かい、瞑想を活動的に続けることにあります。
目を閉じると、ときおり潜在していた想念が強烈な勢いで湧き起こってきます。
目を開いたままだと、心を内向的にすることも難しくなるでしょう。
それには強靭な心が必要となります。
心は対象物を取り入れると不純になってしまいます。
そうでないとき、それは純粋です。
瞑想の修練の主要な目的は、外的な印象を取り込むことなく、他の事を考えることなく、心を活動的に瞑想に専念させることにあるのです。
58
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/11(木) 22:01:21 ID:1d4drIFg0
実践は常に自分にあった方法でよいのじゃ。
眼を閉じたほうがよい者は閉じればよいのじゃ。
開けたままがよい者は開けたままで善いのじゃ。
心を制御することが目的であるからやり方は自らやり易い方法を選んでやると善いのじゃ。
59
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/12(金) 15:02:24 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話62
エーカナート・ラーオ氏
スプラナ(ハート・センターで感じられる描写不可能な感覚)とは何でしょうか?
マハルシ
スプラナは恐れや興奮などの場合に感じられます。
実際、それは常に、いたるところに存在しているのですが、同時に、特定の場合に特定のセンターで感じられるのです。 スプラナはそれが起こる原因との関連から身体と混同されていますが、実際は、唯一それだけが存在しています。
それが純粋な真我です。
もしスプラナに心を集中させ、自然に途切れることなく感じられるようになれば、それが実現です。
スプラナは実現の一段階前でもあります。
それは純粋なもので、主体と対象はそれから現れます。
もし人が自分を主体と見なせば、対象は彼から分離して現れるでしょう。
それらは周期的に(目覚めとともに)現れ出たり、(眠りとともに)引き込まれたりしながら、対象世界とそれを楽しむ主体を創造するのです。
その代わりに、もし自分自身をスクリーンと見なし、その上に主体と対象が投影されると見るなら、惑わされることはなくなるでしょう。
真我に影響を与えることなく現れては消え去る主体や対象を、人はただ見守るだけなのです。
*スプラナ
輝き、振動を意味する。
真我探究において「私」という想念の湧き起こる源に注意が向けられ、そこに純枠な存在としてとどまるとき、「私」は消え去り「私一私」という無音のスプラナがおのずと輝きだす。
このスプラナさえも消え去ったとき、「私は身体だ」という形の自我は完全に破壊される。
(The Collected Works『真我探究』質問3の要約より)
60
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/12(金) 22:42:15 ID:1d4drIFg0
スプラナも気付きの意識といえるじゃろう。
それはアートマンとも言えるのじゃ。
それによって自我も見えるのじゃ。
それさえもなくなれば悟りなのじゃ。
61
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/13(土) 14:40:26 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話63
政府の高官が尋ねた。
「もし下級職員が自分よりも高い地位に昇進した場合、心は狼狽するでしょう。
『私は誰か?』という探究は、そのような状況でも心を静める助けとなるでしょうか?」
マハルシ
そのとおりです。
「私は誰か?」という探究は心を内側に向けて静かにさせるのです。
質問者
私はムールティ・ディヤーナ(神の姿に瞑想すること)に信仰を抱いています。
それは真我の知識(ジニャーナ)を得る助けとなるでしょうか?
マハルシ
もちろんなります。
瞑想は心の集中を助けます。
瞑想をすれば心は他の想念から自由になり、瞑想の対象である神の姿で満たされるでしょう。
心はそれになり、それゆえ非常に純粋になるのです。
そのとき、誰が神の姿を礼拝しているのか、と問いなさい。
その答えは「私」つまり真我です。
こうして、最終的には真我が得られるのです。
現状における困難は、人が自分を行為者だと考えていることにあります。
しかしそれは誤りです。
すべてを為すのは高次の力であり、人は単なる道具にすぎません。
もしこの見解を受け入れれば、彼は災いから解放されます。
さもなければ自ら災いを招くことになるでしょう。
例えば、寺院の塔(ゴープラム)の土台に彫刻された像は、あたかも塔の重みをその肩に乗せているかのように見えます。 その姿はたいへんな努力で塔の重みに耐えているような印象を与えています。
しかし考えてもみなさい。
塔は地面の上に建てられ、その土台の上に立っています。
地球を背負うアトラスのようなその彫像は塔の一部分にすぎず、ただ塔を抱えているかのように造られているだけなのです。
おかしくはありませんか?
自分が行為をしていると感じる人もまた同じことなのです。
帰依者の一人がマラヤラム語版の『実在についての四十頌』をその訪問者のために朗読した。
それを聞いた後で、訪問者は尋ねた。
「修練における二元性と最終的な合一にはどのような関係があるのでしょうか?」
マハルシ
ある人々は「二元的概念に基づいて修練を始めなければならない」と考えています。
修練における二元性と最終的な合一の関係を問題として取り上げるのはこのような人たちです。
彼らは「神が存在する。人は神を崇拝し、神に瞑想しなければならない。そして究極的にジーヴァは神の中に融け入る」と言います。
別の人たちは「至高の存在とジーヴァは永遠に分離したままけっして互いに融け合うことはない」と言います。
たとえどうであろうとも、それらはみな最終段階についてのことで、今それについて頭を悩ませる必要はないのです。
誰もがジーヴァが「存在している」ことに同意するはずです。
ジーヴァ、つまり自我が見いだされるべきなのです。
その後で、もし自我が「至高なるもの」の中に融け去るべきかどうか、それともそれの一部なのか、あるいはそれとは異なるのかを知る時間もあるでしょう。
結論へと先走るべきではありません。
心を開いて内面に飛び込み、真我を発見しなさい。
そうすれば、真理そのものがあなたに開かれるでしょう。
なぜ最終結果が合一された絶対なるものか、あるいは限定されたものか、あるいは二元的なものかを前もって決定しなければならないのでしょう?
それは無意味です。
その判断は理論と知性によって下されます。
知性はより高次な力、すなわち真我から光を得ているのです。
どうして反映された部分的な光にすぎない知性が、全体である本来の光について考察できると言うのでしょう?
知性が真我に達することはできないのです。
どうして知性に真我の本性を突き止めることができると言うのでしょう?
これが二元性と最終的な合一の関係です。
62
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/13(土) 14:41:01 ID:73lwfNNQ0
質問者
『実在についての四十頌』の中の一節に、「初期段階では綿密に学ばれた聖典も、最終的には役に立たない」と言われています。
一体どの段階で無用になるのでしょうか?
マハルシ
聖典の本質が理解されたときです。
聖典は高次の力(真我)の存在とそれを獲得する道を示すためにあります。
聖典の本質はただそれだけで、それさえ理解されれば残りは無用となるのです。
しかし探究者の発展段階に相応して書かれてきたため、聖典は膨大な数になってしまいました。
発展段階が向上するにしたがって、探究者は通り過ぎた領域がもう一段上の段階へ登るためのものでしかなかったことを理解します。
それはそのように続いていき、今まで登ってきた段階は、目的に達するまで次々と克服されていくためのものとなるのです。
ひとたび目標に達すれば、ただそれだけが残り、他はすべて無用となります。
聖典はこうして無用となるのです。
私たちはあまりにも多く読みすぎです。
今まで読んだすべてを覚えていますか?
それでも、書かれていたことの本質は憶えていますね?
本質だけが心に浸み込み、その他は忘れられてしまうものです。
聖典も同じことなのです。
問題は「自分は限定されている」と考えるために起こります。
その考えは誤りです。
そしてその誤りを自覚することはできるのです。
眠りの中では、世界も、自我も、限定された自己も、問題もありませんでした。
何かがその幸福な状態から目を覚まして「私」と言い、世界はその「自我」に対して現れます。
世界の中のほんの小さな存在でしかない自我はより多くを欲し、そうして困難に巻き込まれていくのです。
自我が現れる前はどんなに幸せだったことでしょう!
現在の不幸の原因はただ自我の出現にのみあります。
自我をたどってその源まで戻れば、「眠りのない眠り」という、区別も分離もない「あの幸福な状態」に達するでしょう。
真我は常に変わらず、今ここに在ります。
それ以上得るものなど何もありません。
誤って限定が受け入れられたため、それを超越する必要が生じただけなのです。
これと似た話があります。
ある十人の愚かな男たちが川の流れを渡り、向こう岸について人数を数えたところ、九人しかいませんでした。
誰だかはわからないまま、彼らは十番目の男を失ったことを嘆き悲しんでいました。
それを見た旅人が、彼らの嘆きの原因を突き止めようとして人数を数えたところ、十人いることがわかりました。
ただ彼らの一人ひとりが自分自身を抜かして数えていただけのことだったのです。
旅人は一人ずつ頭を叩きながら、声に出して数を数えさせました。
十まで数えたとき、彼らはやっと安心したのです。
この物語の教訓は、つまり十番目の男は新たに加えられたわけではないということです。
彼は最初からずっとそこにいました。
ただ無知が彼らに嘆きをもたらしただけなのです。
このような話もあります。
ある女性が首にネックレスをかけながら、そのことを忘れていました。
彼女はそれを探そうと尋ねて回りました。
探しているものに気づいた友人が、探していた当人の首もとのネックレスを指差しました。
彼女はそれを指で確かめて、とても喜んだのでした。
ネックレスは新たに得られたのでしょうか?
ここでも無知が不幸をもたらし、知識が幸福をもたらしました。
人と真我についても同じです。
何も新たに得るものなどありません。
真我について無知であることが現在の不幸の原因であり、真我の知識が幸福をもたらすのです。
さらに、もし何か新しいものを得たのなら、それは以前には存在していなかったことを意味します。
かつて存在していなかったものは、再び消え去るに違いありません。
それゆえ、永久的な救済などないのです。
救済が永久的であるのは、真我が今ここに、永遠に存在するからです。
それゆえ、私たちの努力は無知を取り除くことだけに向けられています。
叡知は自然で常に存在しているにもかかわらず、突然悟られるように見えるだけなのです。
その訪問者は立ち去ろうとして師に礼拝すると言った。
「トラの口にとらわれた獲物はけっして逃げられません」
それは『私は誰か?』という本からの引用で、「トラにとらわれた獲物が逃げられないように、ひとたびグルの慈悲深い眼差しにとらえられた弟子は、二度と世俗に戻ることはできない」という意味の言葉だった。
*ある人々は…
この会話においてマハルシは、ドヴァイタ(ニ元論)、ヴィシシュタアドヴァイタ(限定不二一元論)、アドヴァイタ(不二ー元論)の各学派の解脱に関する見解の違いを示している。
63
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/13(土) 22:22:10 ID:1d4drIFg0
二元論も、不二一元論も、限定不二一元論も全て悟りを得るための方便に過ぎないものじゃ。
それらによって実践するならばそれでよいのじゃ。
誰もが同じ論を持たなければならないということもないのじゃ。
自らの性質や好みによって好きな論をもって実践に励むがよいのじゃ。
64
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/14(日) 12:53:20 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話64
ある人の死がシュリー・バガヴァーンに伝えられた。
マハルシ
良いことです。
死者は実際幸せなのです。
彼らは大きくなりすぎた身体を厄介払いしたのです。
死者は嘆き悲しんだりしません。
死者のために嘆くのは残された人たちです。
人は眠りを恐れるでしょうか?
それどころか、誰もが良い眠りを求め、誰もが目覚めとともに「私は幸せに眠った」と言います。
ぐっすりと眠るために人はベッドを整えます。
眠りとは一時的な死であり、 死とは長い眠りなのです。
もし人が生きながらにして死ねば、他の人の死を嘆くこともなくなるでしょう。
目覚め、夢見、眠りにおいてもそうであるように、人の存在は身体があろうとなかろうと明白です。
だとすれば、なぜ身体という束縛が続くことを求めるのですか?
死ぬことのない真我を見いだして死になさい。
そして不死となって、幸せでありなさい。
65
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/14(日) 22:53:55 ID:1d4drIFg0
死とは消滅ではなく休みなのじゃ。
この世でまだすることがあると思うものはまたゃってくるじゃろう。
何も無ければ全てであるだけなのじゃ。
意識は永遠になくならないのじゃ。
66
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/15(月) 15:30:50 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話65
1935年7月13日
訪問者
世界は真我が実現された後でさえ知覚されるのでしょうか?
マハルシ
この質問は誰のものですか?
それは真我を実現した人(ジニャーニ)からですか、それとも真我を実現していない人(アジニャーニ) からですか?
訪問者
アジニャーニからです。
マハルシ
誰にその疑問が起こったのかを理解しなさい。
疑う者を知った後でもまだ疑問が起こるなら、それに答えることもできるでしょう。
世界や身体が「自分は存在する」と言えるでしょうか?
あるいは、見る者が「世界や身体は存在する」と言うでしょうか?
対象を見るにはそこに見る者がいなければなりません。
その見る者をまず見いだしなさい。
なぜ先のことについて今心配するのですか?
世界が知覚されるかどうかなど何だと言うのです?
今世界を見ているからといって何かを失いますか?
あるいは、深い眠りの中で世界を見ないからといって何かを得るでしょうか?
世界が知覚されるかされないかなど重要ではないのです。
アジニャーニはジニャーニが活動しているのを見て困惑します。
そのどちらも世界を見ています。
ただ彼らの見方が異なるのです。
映画を例にとってみなさい。
スクリーンの上には画像が動いています。
行ってそれをつかまえてごらんなさい。
何をとらえますか?
ただのスクリーンです。
画像を消してみなさい。
何が残りますか?
やはりスクリーンです。
それはこの場合でも同じことです。
たとえ世界が現れたとしても、誰にとってそれが現れたのか見てみなさい。
「私」の基盤をとらえなさい。
基盤をとらえたなら、世界が現れようと消え去ろうと何の問題もないのです。
アジニャーニは世界を実在と見なします。
一方、ジニャーニはそれを真我の顕現としてのみ見ています。
真我がそれ自体を世界として現そうと現すまいと重要ではないのです。
67
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/15(月) 22:11:57 ID:1d4drIFg0
アートマンを実現した後にも世界は知覚されるかとは、眠りから目覚めた者も夢を見るかと聞くようなものじゃ。
世界も観念であり、全ての観念を捨てた者に世界という観念は無いのじゃ。
全て全てありのままにあるだけなのじゃ。
それこそが真の一切如実の現証なのじゃ。
68
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/16(火) 12:37:18 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話66
1935年7月15日
一通の手紙が届いた。
そこには記憶、眠り、死に関する学識ある質間が書かれていた。
それは一見説得力があるように見えながら、不可解な当惑させる内容だった。
しかし師の説明はその論題のからまったもつれを見事に解きほぐした。
マハルシ
このような混乱はすべて真の「私」と偽りの「私」を識別しないために起こるのです。
偽りの「私」には属性と様態がありますが、真の「私」にそれらはありません。
私たちの努力はただこの無知を取り除くためだけにあります。
後に努力が止んだとき、真我は常に存在しているということが明らかになります。
真我として在ることに努力は必要ないのです。
*属性 (ウパーディ)
付属性。
心と身体、名前と形など。
*様態(ヴリッティ)
変化変容する心の状態。
眠り、夢見、目覚め。
幸福と不幸、意識と無意識、外向性と内向性など。
69
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/16(火) 23:03:05 ID:1d4drIFg0
名前とイメージによる観念の自分があれば、さまざまな欲も迷いも起こるものじゃ。
そして苦も延々と生じていくのじゃ。
それがなければ苦もまたなくなるのじゃ。
ただあるだけのものとして永遠の安らぎがあるのじゃ。
70
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/17(水) 15:36:00 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話67
1935年7月21日
南インド鉄道で働くK・S・N・アイヤール氏が言った。
「瞑想をしていると、些細なことで立ち止まってしまうときがあります。
『私は誰か?』と尋ねると、私の論法はこのように展開します。
『私は手を見ている。
誰が見ているのか?
私の目だ。
どうやって目を見るのか?
鏡の中で。
私を見るときには鏡が必要なように』」。
私の質問は、「私の中のどこに鏡をおけばいいのでしょうか?」というものです。
マハルシ
それでは、なぜ「私は誰か?」と尋ねたのですか?
なぜ困難があるなどと言うのですか?
ただ静かにしていることもできたはずです。
どうして静寂から立ち去ったのですか?
質問者
このように問いただすことは集中の助けになるのです。
恩恵は集中だけなのでしょうか?
マハルシ
それ以上の何を望むのですか?
集中が要点なのです。
何があなたを静寂から連れ出したのでしょう?
質問者
知らぬうちに連れ出されたのです。
マハルシ
「私は誰か?」と尋ねることは「私」の源を見いだすことです。
それが見いだされたとき、あなたの探究は完結するのです。
*記録者ノート
シュリー・バガヴァーンの要点は、
「敗北主義者のような精神ですぐに挫折して諦めるのではなく、断固とした努力をするべきだ」
ということのようである
71
:
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72
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/17(水) 23:52:59 ID:1d4drIFg0
鏡が必要とか、それをどこに置けばよいとか思うのは観念によるものなのじゃ。
観念を観ている状態なのじゃ。
鏡もそれを置く場所もないのじゃ。
ただひたすらに私に集中するのじゃ。
73
:
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74
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75
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77
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/18(木) 01:12:57 ID:LABA5HjA0
女性が女性らしい魅力を見せたい時は
座るときなどはふわりと座るのが良い。
人間行動学も参考になったりします。
78
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79
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/18(木) 17:16:08 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話68
著名な教授であるDr・ラーダーカマール・ムケールジー氏は、物腰の温和な色白の中年男性で、ヨーガと瞑想を修練している。
ある神秘体験をし、師にその不思議を解いてもらうべく訪れた。
教授には著書があり、ロンドンのロングスマン・グリーン出版社から出版されている。
彼は真我実現に困難を感じて、師に助けを求めた。
質問者
『ウパニシャド』にある瞑想法は、今では消え去ってしまいました。
私はベンガル州にいる偉大な賢者からその教えを受け、長い年月の戒律と修練を経た末、ある神秘的な体験をしています。
ときどき私は「ブーマー(至高の意識)は無限であり、私は限定された意識だ」と感じます。
それは真実でしょうか?
マハルシ
ブーマー(完全性)だけが存在するのです。
それは無限です。
その無限のブーマーから、ウパーディ(限定された付属性)をともなう有限の意識が現れます。
これはアーバーサ(反映)です。
この個人意識を至高の一者に融け入らせること、それが為されるべきことです。
質問者
ブーマーは至高の意識の属性です。
マハルシ
ブーマーは「至高なるもの」なのです。
ヤトラ・ナーンヤット・パシュヤティ・ヤトラ。
ナーンヤット・シュルノーティ・サー・ブーマー。
何であれ自分と異なるものを見ることも聞くこともないところ、それが「完全なるもの」である。
『チャーンドーギャ・ウパニシャド』第7巻24章1節
それは定義することも描写することもできません。
それは「あるがまま」なのです。
質間者
私は広大な広がりを体験しました。
それはおそらくブーマーの一段階下、あるいはそれに近いものだと思われます。
正しいでしょうか?
マハルシ
ただブーマーだけが存在し、他には何も存在しません。
そのようなことを語っているのは心なのです。
質間者
心を超越して、私は広がりを感じるのです。
マハルシ
そう、そうです……。
教授は少し離れたところに座っていた女性にヒンドゥー語で説明した。
女性
瞑想と散漫の違いは何でしょうか?
マハルシ
違いはありません。
想念があるとき、それは散漫であり、想念がないとき,それが瞑想です。
しかしながら、瞑想とはただの修練でしかなく、真の平安の境地とは異なります。
女性
どのように瞑想を修練すればよいのでしょうか?
マハルシ
想念を払い去りなさい。
女性
どうすれば仕事と瞑想を調和させることができるでしょうか?
マハルシ
働く者とは誰でしょうか?
働くその人に質問させなさい。
あなたは常に真我なのです。
あなたは心ではありません。
このような質問を起こすのは心なのです。
仕事は常に真我の存在の中でのみ進んでいきます。
仕事が真我実現の障害となることはありません。
仕事をする者が自己の本性を見誤ったため問題が生じるのです。
偽りの同一化を棄て去りなさい。
教授
無意識状態は無限の意識に近いものではありませんか?
マハルシ
意識だけが存在し、それ以外は何もないのです。
80
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/18(木) 17:18:24 ID:73lwfNNQ0
質問者
シュリー・バガヴァーンの沈黙自体、強力な影響力を持っています。
それは私たちの心に平和をもたらします。
マハルシ
沈黙とは絶え間ない語りかけです。
言葉による語りかけは沈黙による語りかけを妨げます。
沈黙の中では、人は周囲との親密な接触の内に在ります。
ダクシナームールティの沈黙は四人の弟子たちの疑いを払い去りました。
「マウナ・ヴャーキャー・プラカティータ・タットヴァム」とは、「沈黙によって説かれた真理」を意味しています。
沈黙は真理の顕示なのです。
沈黙とは実に強力なものです。
声に出して表す言葉は口という器官を必要とし、それが言葉に先行します。
しかし沈黙の言葉は想念さえも超えています。
それはつまり、話された言葉も話されない言葉も超えているのです(パラー・ヴァーク)。
質問者
真我実現の中に知識はあるのでしょうか?
マハルシ
知識の不在は眠りですが、実現の中には知識があります。
しかしこの知識は主体と客体をともなう通常の知識とは異なったものです。
それは絶対知識なのです。
知識には二つの意味があります。
1ヴァーチャールタ=ヴリッティ=文字通りの意味
2ラクシャールタ=ジニャーナ=真我=スワルーパ=第二の意味(秘められた、暗示された意味)
質問者
人はヴリッティとともに知識を見るのです。
マハルシ
そのとおりです。
誰もがヴリッティと知識を混同してしまいます。
ヴリッティとは心の様態です。
あなたは心ではありません。
あなたはそれを超えているのです。
女性
ときおり、ブラフマ・アーカーラ・ヴリッティにとどまりたいという抑えがたい熱望を感じます。
マハルシ
それは良いことです。
それが自然(サハジャ)になるまで培われなければなりません。
そうしたとき、それはスワルーパ、真の自己となるのです。
後にシュリー・バガヴァーンは説明した。
マハルシ
ヴリッティ(心の様態)はしばしば意識と間違えられます。
しかしヴリッティは単なる現象でしかなく、反映された意識(アーバーサ)の領域で働くものです。
真の知識は相対的な知識と無知の両方を超えています。
それはヴリッテイの中にはありません。
真の知識の中には主体も対象も存在しないのです。
ヴリッティはラージャシックな(活動的)心に属しています。
サートヴィックな(静止した、不動の)心はヴリッティから自由です。
サートヴィックな心はラージャシックな心の観照者です。
それは疑いなく真の意識ではあるのですが、それでも、それはサートヴィックな心と呼ばれています。
なぜなら「観照者として在る」という知識は、反映された意識(アーバーサ)の機能にすぎないからです。
心は反映された意識であるため、「観照者として在る」という知識は心であることを示しているのです。
しかし心はそれ自体では作用しません。
それゆえ、それはサートヴィックな心と呼ばれるのです。
それがジーヴァン・ムクタ(生きながら解脱した人)の境地です。
彼の心は死んでいるとも言われています。
ジーヴァン・ムクタは心を持っていて、しかもそれは死んでいる、というのは矛盾していないでしょうか?
これに関しては、無知な人々と議論したうえで是認されなければなりません。
ブラフマンはジーヴァン・ムクタの心に他ならないとも言われています。
どうしてジーヴァン・ムクタをブラフマヴィド(ブラフマンを知る者)として語ることができるのでしょうか?
ブラフマンはけっして対象として知られるものではありません。
しかしこれはあくまでも一般的な言い回しにしたがったものなのです。
純粋(サートヴィック)な心は、ジーヴァン・ムクタとイーシュヴァラ神の心を推測したものです。
彼らは議論します。
「さもなければ、いったいどうやってジーヴァン・ムクタは生活し活動するのか?」と。
ですから、議論上譲歩してサートヴィックな心の存在を認めなければならないということになったのです。
実際、サートヴィックな心とは絶対意識のことです。
観照者と観照される対象は最終的には融け合い、絶対意識だけが支配します。
それは「空」(シューニャ)や無知の状態ではなく、真我(スワルーパ)なのです。
ある人々は、「心は意識から立ち現れ、意識の反映がそれに続く」と言います。
他の人々は、「意識の反映が先に現れ、心がそれに続く」と言います。
事実は、どちらも同時に現れるのです。
81
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/18(木) 17:19:22 ID:73lwfNNQ0
教授はシュリー・バガヴァーンに、
「もうすぐ一千マイル離れたところへ行ってしまいますが、どうぞ恩龍をお与えください」と懇願した。
シュリー・バガヴァーンは、
「時間と空間は心の中にある概念にすぎません。
しかし真我(スワルーパ)は心も時間も空間も超えています。
真我の中では距離は問題ではないのです」と語った。
彼とともに来た女性は、師のもとを去ることを最もためらっていた。
師は言われた。
「あなたはいつも私の臨在の内に在ると思いなさい。
そうすれば、安心できるでしょう」。
彼らは日が暮れてから去って行った。
*ウパーディ (限定された付属性)
ヴェーダーンタ哲学の用語。
水晶玉を赤い紙の上に置くと赤くなる。
水晶玉を赤い紙から離せば、 透明な状態に戻る。
両者が接触するとき、赤い色は水晶玉の中に存在するかのように見える。
水晶玉は身体を表し、赤い紙は意識を表す。
あるいは、鉄の球は硬く冷たいが、火に熱せられると柔らかく熱くなる。
火から引き離せば鉄の球は元どおりになる。
鉄の球は身体を表し、火は意識を表す。
身体自体に生命意識はないが、 意識が身体に入ったとき、 身体は意識の質と付属性を得たかのように見え、意識は身体に限定されたかのように見える。
しかし身体から意識が離れ去ったとき、「限定された付属性」も消え去る。
このような接触によって起こる「限定された付属性」をウパーディと呼ぶ。
*沈黙とは絶え間ない語りかけです
マハルシはしばしば、
「マウナ(沈黙)は絶え間ない語りかけであり、
静かにしていることは絶え間ない活動です」と語っている。
このことについて尋ねたアンナーマライ・スワミにマハルシはこう答えている。
「静かにしていることは常に働いているということです。
『働く』とは、別に鍬を手にして働くなどという意味ではありません。
『働く』とは、常に真我として輝いていることを意味しているのです。
ただ沈黙だけが常に語っています。
この2つはどちらも同じことを意味しています。
ちょうど偉大な賢者たちが、
『考えることなく考える』、
『語ることなく語る』、
『聞くことなく聞く』と語ったように、もしあなたが語らなければ、神がやって来て語るのです。
最も偉大な聖典は沈黙の教えです。
その聖典を読めば、すべての疑いは消え去るでしょう。
さもなければ、何万という本を読んでも疑いが消えることはけっしてないでしょう」
*知識には二つの意味があります…
真我の知識は言葉では表せない。
それでも聖典はそれを言葉で表し続けてきた。
聖典が言葉で表した知識はヴァーチャールタ、つまり文字通りのものだが、真我の知識はラクシャールタ、つまり月を示す指 (間接的な暗示による表現)でしか表せない。
*ブラフマ・アーカーラ・ヴリッティ
ブラフマン以外のすべての想念を排除して、ただ姿なきブラフマンのみに黙想し続けること。
82
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/18(木) 17:22:15 ID:73lwfNNQ0
>>81
誤…恩龍
正…恩寵
83
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/18(木) 22:49:59 ID:1d4drIFg0
静かな心と活動的な心とはただ言葉による観念として説かれたものに過ぎないのじゃ。
観念があれば心は活動的であり、無ければ心は無であり静かなのじゃ。
常に相対的な観念として対象を捉える悟っていない者に向けて説かれただけなのじゃ。
本来は観念が無ければ心も無いと言えるのじゃ。
心が働く対象が無いからのう。
84
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/19(金) 17:59:53 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話69
この教授の大学における講義のレポートが『ヒンドゥー新聞』に掲載された。
その講義は産児制限の必要性を強調し、自動的に産児制限をもたらすために男性に責任感を持たせるさまざまな可能性についての討論だった。
これを聞いた師は、何気なく「彼らに死ぬ方法を探させなさい」と言った。
(記録者ノート:ここで言う死とは、自我の死のことである)
85
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/19(金) 22:18:14 ID:1d4drIFg0
自我が無ければたくさんの子を産んで家族や一族を発展させようという欲もなくなるのじゃ。
一族や人類さえも最後には滅していくしかないという当然の真実に気付くからのう。
永遠への道は子孫ではなく自らの心の中にあるのじゃ。
それに気付くのじゃ。
86
:
偽和尚★
:2019/07/20(土) 00:08:23 ID:???0
削除のお知らせ。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1415399543/20-25
87
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/20(土) 13:29:20 ID:oOgxIQ5Y0
ラマナ・マハルシとの対話70
1935年7月24日
シュリー・ラージュ・シャーストリガル氏がナーダ(音)、ビンドゥ(点、印)、カラー(部分) について尋ねた。
マハルシ
ヴェーダーンタの専門用語では、それらはプラーナ(生気)、マナ(心)、ブッティ(知性)に相応します。
タントラではナーダは光をともなった霊妙な音であり、この光はシヴァの身体と言われています。
その光が現れ出し、音がその中に没すると、それはビンドゥになります。
光に満ち溢れること(テージョーマヤ)が目標です。
カラーはビンドゥの一部分です。
88
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/20(土) 23:38:15 ID:1d4drIFg0
>>86
ご苦労さんなのじゃ。
正に菩薩の業なのじゃ。
89
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/20(土) 23:44:01 ID:1d4drIFg0
ナーダはヨーガでは気道を空気が通る音というのじゃ。
それに集中する瞑想なのじゃ。
呼吸音への集中なのじゃ。
胸の中のアートマンに集中すると光が見えてくるのじゃ。
それをビンドゥというのじゃ。
強く集中して自我がその光の中に没するとサマーディに入れるのじゃ。
90
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/21(日) 13:38:28 ID:oOgxIQ5Y0
ラマナ・マハルシとの対話71
ティルヴァンナーマライでの師の滞在年代記
1896年 ティルヴァンナーマライに到着し、大寺院の敷地内、木の下、パーターラ・リンガムと呼ばれる地下の祠、ときにはゴープラム (寺院の塔)にて暮らす。
1897年(初旬) グルムールタムに移住。寺院の中と隣接するマンゴー樹園の中(十八ヶ月間)。
1898(九月) バヴァラクンル寺院。
1899年(二月) 丘の上の洞窟、マンゴー樹の洞窟、ヴィルーパークシャ洞窟。
1905年 ペストで町が封鎖され、パチャイアマン寺院に六ヶ月滞在。後に丘に戻る。
1908年(一、二、三月) パチャイアマン寺院。再び丘に戻る。
1916年 スカンダアシュラマム。
1922年 ラマナアシュラマム(丘の南麓)。
91
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/22(月) 13:07:53 ID:oOgxIQ5Y0
ラマナ・マハルシとの対話72
1935年9月25日
鉄道委員のK・S・N・アイヤール氏がジャパについて尋ねた。
マハルシ
ロで唱えること、それから記憶にとどめること、その後に瞑想。
これが段階を経た進展で、最後には無意識のうちに永遠に続いてゆくジャパに達します。
このようなジャパをする人(ジャパカルター)は真我なのです。
すべてのジャパの内でも、「私は誰か?」が最高のジャパです。
92
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/22(月) 22:16:20 ID:1d4drIFg0
ジャパとはマントラなのじゃ。
神の名とか一つの言葉を何万回も繰り返し唱えるのじゃ。
それによって深い瞑想に入り、サマーディにも至れるのじゃ。
最初は口で唱えるが、なれてきたら頭の中で唱えると善いのじゃ。
最後には無意識のうちにマントラが続いてくのじゃ。
私は誰?というのがマハリシのお勧めなのじゃ。
93
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/23(火) 19:22:39 ID:og89HtMo0
ラマナ・マハルシとの対話73
1935年9月27日
エンジニアのエーカナータ・ラーオ氏が尋ねた。
「私は師から恩寵どころか何の励ましも得ていないという失望感を抱えています。
どうすればよいのでしょう?」
マハルシ
それはただの無知でしかありません。
「失望しているのは誰なのか?」という探究が為されるべきです。
そのような考えに悩まされるのは、眠りから立ち現れた自我という亡霊です。
深い眠りの中には何の悩みもありませんでした。
目覚めの間に悩まされるのは誰でしょうか?
眠りの状態が正常な状態なのです。
それを探し出しなさい。
質問者
しかし私は励ましをいただきたいのに、それを感じられないのです。
マハルシ
瞑想の中に何らかの平安を感じないでしょうか?
それが進歩のしるしです。
その平安は継続的な修練によってさらに深く長く続いていくでしょう。
それもまた目標へと導くのです。
『バガヴァッド・ギーター』第十四章の最終節は、グナを超えた者(グナーティータ)について述べています。
それが最終段階です。
初期の段階は「不純な存在」 (アシュッダ・サットヴァ)、「混合した存在」(ミシュラ・サットヴァ)、「純粋な存在」(シュッダ・サットヴァ)という順になっています。
ラジャス(活動性)とタマス(不活発性)というグナ(質)が優勢なときが「不純な存在」です。
サットヴァ(純粋性)がときおり前面に現れ出る状態が「混合した存在」です。
「純粋な存在」はサットヴァがラジャスとタマスを征服した状態です。
このような段階を経た後で、グナを超越した境地(グナーティータ)に達するのです。
*グナ
すべての存在の根底には、サットヴァ(純粋性)、ラジャス (活動性)、タマス(不活発性)という三つの質があるというサーンキャ哲学の理論。
個人の精神性においても同様である。
94
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/23(火) 21:59:47 ID:1d4drIFg0
私は誰かという探求の道を与えられたことが真の恩寵なのじゃ。
それを教えられなければいつまでも迷っていたのであるからのう。
実践する道を示されれば後は自ら実践できるのじゃ。
グナもまた実践のための法なのじゃ。
日々精進することでサットヴァが優勢になることも感じられるのじゃ。
95
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/24(水) 14:16:42 ID:og89HtMo0
ラマナ・マハルシとの対話74
エンジニアのフリードマン氏からの手紙は、以下のように述べられていた。
「私がマハルシのことを考えるとき、彼はいつも私とともにいます。
しかし私が彼のことを考えていないときもそうなのです。
さもなければ、どうやって私に生きることができると言うのでしょう?」
96
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/24(水) 22:46:22 ID:1d4drIFg0
グルに帰依する行をグル・ヨーガというのじゃ。
それも修行の一つなのじゃ。
グルに帰依することでグルの境地まで速やかに到達できるのじゃ。
それができる者はまれであるがのう。
やはり人は少しはグルにも疑いを持つものであるからのう。
97
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/25(木) 17:19:09 ID:og89HtMo0
ラマナ・マハルシとの対話75
前英国公使官のグラント・ダフ氏の手紙には次のようにあった。
「私の崇敬をマハルシに……。
彼は私の想念の中に私の質問の答えとして現れるだけではなく、臨在としても……」
98
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/25(木) 22:23:09 ID:1d4drIFg0
一度、グルに接してその薫陶を受けたならば、イメージは心の中に残るのじゃ。
無意識から智慧の象徴として現われるのじゃ。
崇敬の念が本当ならば、智慧も働くのじゃ。
それは自らの智慧であるが、全てが一つであるから真のグルの智慧とも言えるのじゃ。
99
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/26(金) 18:51:16 ID:og89HtMo0
ラマナ・マハルシとの対話76
1935年9月29日
K・S・N・アイヤール氏は、「霊的生活と世俗の活動をどう調和させればよいのか、いまだに確信が得られません」と語った。
師はその答えとして、『ヨーガ・ヴァーシシュタ』(原典は数百万もの節から成り、そのうちサンスクリット語の詩句は三万二千句が発見された。『ラグ・ヴァーシシュタ』と呼ばれる六千句に要約されたものが存在し、そのタミル語版はさらに二千五十句に要約されている)からいくつかの詩節を引用した。
質問者
心を集中させなければ、満足のいく仕事はできません。
心を霊的な次元に向けながら仕事を続けていくにはどうしたらよいのでしょうか?
マハルシ
心とは真我から投影され、目覚めの状態に現れたものにすぎません。
深い眠りの中では、あなたは自分のことを「誰々の息子だ」などとは言いません
目覚めるとともに「私は誰それだ」と言い始め、「私は世界を認識する」などと言うのです。
世界はローカにすぎません。
ローカとはローキャテー・イティ・ローカハ(知覚されたものが世界である)です。
見られるものがローカ、つまり世界なのです。
それを見ている目とは何でしょうか?
それは(目覚めと眠りのたびに)周期的に立ち現れては消えてゆく自我です。
しかしあなたは常に存在しています。
それゆえ、自我の彼方に在る「それ」とは意識、つまり真我なのです。
深い眠りの中では、心は沈み込んでいても破壊されてはいません。
沈み込んだものは再び現れてきます。
それは瞑想の中でも起こりえることです。
しかしひとたび破壊された心が再び現れることはありません。
ヨーギーの目標は心を破壊することであって、ラヤ(心が一時的に停止した状態)の中に沈ませることではないのです。
ディヤーナの静寂の中でラヤは継続しますが、それは十分ではありません。
心を破壊するためには別の修練の補助を得なければならないのです。
ある人々は取るに足らない考えを抱きながらサマーディに入り、長い時を経た後に同じ想念の流れとともに目を覚ましました。
その間、世界では何世代もの時が経っていたのです。
そのようなヨーギーは心を破壊してはいません。
心の破壊は、心が真我と一つであることを認識することによって為されます。
たった今でさえ、心は真我から離れては存在しないのです。
認識しなさい。
日々の活動の中でこそ、それを認識するときです。
活動は自動的に続いて行きます。
心が活動を促していると考えるのは真理ではありません。
心は真我から現れた幻影でしかないということを知りなさい。
こうして心は破壊されるのです。
100
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/26(金) 23:39:47 ID:1d4drIFg0
アートマンを求めることと日常の仕事は矛盾しないのじゃ。
自らがしているとか、誰がしているとかの幻想を持たなければ日常でも実践になるのじゃ。
我が無い状態で心身は最高の効率を発揮できるのじゃ。
忘我のサマーディになるからなのじゃ。
自我のもつ苦悩から離れて行うことは喜びでさえ在るのじゃ。
そのようにして仕事も実践となるのじゃ。
101
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/27(土) 18:08:05 ID:og89HtMo0
ラマナ・マハルシとの対話77
師は聖書の『伝道の書』の詩篇四六の「静かに在りなさい。そして私は神だと知りなさい」、「そこには一者だけが存在し、他者は存在しない」、「賢者のハートは右に、愚か者のハートは左にある」について語った。
*静かに在りなさい。そして私は…:Be still and know that I am GOD
『旧約聖書』伝道の書の詩篇四六第十節に見られるこの言葉は、ダビデ王がヤコブの神を讃えた詩。
常に戦いに明け暮れる民に対し、主は自ら彼らの敵を破り、地の果てまでも戦いをやめさせ、弓を折り、槍を断ち、戦車を火で焼いた。
そしてこう宣言する。
「静かに在りなさい。そして私は神だと知りなさい」。
Harpu u'deu ki 'anokhi 'elohim :Be still に当たる Harpu の語根 Hereph は「やめなさい、手放しなさい」という意味を持つ。
つまり神は民に対してこう告げたのである。
「神である『私』がすべてをなしている。闘うことをやめて、私にすべてをゆだね、明け渡しなさい」。
英訳ではより霊的、精神的な意味合いで「静かになりなさい」と訳されている。
マハルシは「ただ静かに在ることで、『私は在る』が神であるということを知りなさい」。
すなわち「『私』は『存在』であるということを、沈黙の中で知りなさい」と説いている。
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