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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
22
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/26(水) 13:20:13 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話49
1935年4月24日
数人が師に質問した。
それらの質問は最終的に「いかに努力しても『私』は認識不可能だ」という一点に帰着した。
師はいつものように答えた。
マハルシ
「私」は認識不可能だと言うのは誰でしょうか?
そこには無知な「私」ととらえがたい「私」が存在するのでしょうか?
同じ人の中に二人の「私」が存在していると言うのですか?
自分自身に尋ねてみなさい。
「私」は認識不可能だと言うのは心なのです。
その心はどこから現れるのでしょうか?
心を知りなさい。
そうすれば、あなたはそれが作り話であることを知るでしょう。
ジャナカ王は
「ついに私を台なしにし続けてきた泥棒を捕まえた。
即刻死刑に処してくれよう!
これで私は幸せになるだろう」と言いました。
同じことが他の人にも言えるのです。
質問者
どうやって「私」を知るのでしょうか?
マハルシ
「私ー私」は常に存在しています。
それを知るということはありません。
それは新たに獲得されるような知識ではないのです。
新しく、今ここにないものは、はかないものでしかありません。
「私」はいつも存在しています。
その知識を妨げているのは無知です。
無知を取り除けば、知識は輝き出すでしょう。
実際のところ、無知も、知識でさえも真我にとっては役に立たないものです。
それは刈り取られるべき雑草でしかありません。
それゆえ、真我は知識と無知を超えていると言われるのです。
それは「あるがままに在る」。
ただそれだけです。
質問者
どんなに頑張ってみても、進歩しているようには見えません。
マハルシ
進歩とは新たに獲得されるものについて語られることです。
一方、ここで大切なのは無知を取り払うことであって、知識を得ることではありません。
真我探究にどんな進歩を期待できると言うのでしょう?
質問者
どうすれば無知が取り払えるでしょうか?
マハルシ
ティルヴァンナーマライでベッドに横になりながら、他の街にいる夢を見ていると想像してごらんなさい。
その街の光景は、あなたにとっては現実ですが、実際のあなたの身体は部屋の中のベッドの上にあります。
その街があなたの部屋の中に入って来たのでしょうか?
それとも、身体をここに残したまま、他の場所に行くことができたのでしょうか?
どちらも不可能です。
ですから、あなたがここにいることも、他の街を見ることも、ともに現実ではありません。
それらは心にとって現実に見えるだけなのです。
夢の「私」はやがて消え去り、それから目を覚ました別の「私」が夢について語ります。
この「私」は夢の中には存在していませんでした。
どちらの「私」も現実ではありません。
心の根底には絶えず存在している何かがあり、数知れない光景を生み出しています。
「私」は想念とともに生じ、想念が消えると「私」も消滅します。
多くの「私」があらゆる瞬間に生まれては死んでいくのです。
真の問題は存続する心です。
それがジャナカ王の言う泥棒のことです。
彼を見つけ出しなさい。
そうすれば、あなたは幸せになるでしょう。
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