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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

3避難民のマジレスさん:2019/06/19(水) 12:42:48 ID:jfWCoXjM0
ラマナ・マハルシとの対話42

1935年3月24日

マダナパリのダンカン・グリーンリース氏が次のような質問を紙に書いて渡した。

「人はときおり、中心がいわゆる自分の外側にあり、しかもそれがいっさいを含む生き生きとした意識の閃光を見ます。
 哲学的な概念にとらわれることなく、この稀有な閃光を獲得し、維持し、拡大していくにはどうすればいいのでしょうか、バガヴァーン、どうか助言をお与えください。
 このような体験を得るには、隠遁して霊的修練(アビャーサ)に打ち込むことが必要なのでしょうか?」

マハルシ
 あなたは「外側」と言いますが、誰にとって外側と内側があるのでしょうか?
 主体と客体があるかぎり、外側と内側は存在します。
 もう一度言いますが、それらは誰にとって存在するのでしょうか?
 調べてみれば、それらはただ主体の中に融け去ることがわかるでしょう。
 その主体とは誰なのでしょうか、それを見極めなさい。
 この探究が、主体を超えた純粋な意識へとあなたを導くでしょう。

 あなたは「いわゆる自分」と言います。
 いわゆる自分とは心のことです。
 その心は限定されています。
 しかし純枠な意識は限定の彼方にあり、それは「私」の源へと探究することによって到達されるのです。

 あなたは「獲得する」と言います。

 真我は常に存在しています。
 あなたはただ真我を覆い隠すヴェールを剥ぎ取るだけなのです。

 あなたは「維持する」と言います。

 ひとたび真我を実現すれば、それはいつでも「今ここ」に在るとわかり、二度と失われることは
ありません。

 あなたは「拡大する」と言います。

 真我が拡大することはありません。
 それは縮小することも拡大することなく、常に在るのです。

 あなたは「隠遁する」と言います。

 真我の内にとどまることは独り在ることです。
 なぜなら、真我にとって異郷的なものは何もないからです。
 隠遁とは一つの場所や状態から別の場所や状態へと退くことに違いありません。
 一つの場所であれ別の場所であれ、真我の中にしか存在しないのです。
 すべてが真我なのですから、ある場所から退くことなどできませんし、ありえないのです。
 霊的修練(アビャーサ)とは真我を探究することです。


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