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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

62避難民のマジレスさん:2019/07/13(土) 14:41:01 ID:73lwfNNQ0
質問者
 『実在についての四十頌』の中の一節に、「初期段階では綿密に学ばれた聖典も、最終的には役に立たない」と言われています。
 一体どの段階で無用になるのでしょうか?
 
マハルシ
 聖典の本質が理解されたときです。
 聖典は高次の力(真我)の存在とそれを獲得する道を示すためにあります。
 聖典の本質はただそれだけで、それさえ理解されれば残りは無用となるのです。
 しかし探究者の発展段階に相応して書かれてきたため、聖典は膨大な数になってしまいました。

 発展段階が向上するにしたがって、探究者は通り過ぎた領域がもう一段上の段階へ登るためのものでしかなかったことを理解します。
 それはそのように続いていき、今まで登ってきた段階は、目的に達するまで次々と克服されていくためのものとなるのです。
 ひとたび目標に達すれば、ただそれだけが残り、他はすべて無用となります。
 聖典はこうして無用となるのです。

 私たちはあまりにも多く読みすぎです。
 今まで読んだすべてを覚えていますか?
 それでも、書かれていたことの本質は憶えていますね?
 本質だけが心に浸み込み、その他は忘れられてしまうものです。
 聖典も同じことなのです。

 問題は「自分は限定されている」と考えるために起こります。
 その考えは誤りです。
 そしてその誤りを自覚することはできるのです。
 眠りの中では、世界も、自我も、限定された自己も、問題もありませんでした。
 何かがその幸福な状態から目を覚まして「私」と言い、世界はその「自我」に対して現れます。
 世界の中のほんの小さな存在でしかない自我はより多くを欲し、そうして困難に巻き込まれていくのです。

 自我が現れる前はどんなに幸せだったことでしょう!
 現在の不幸の原因はただ自我の出現にのみあります。
 自我をたどってその源まで戻れば、「眠りのない眠り」という、区別も分離もない「あの幸福な状態」に達するでしょう。
 真我は常に変わらず、今ここに在ります。
 それ以上得るものなど何もありません。
 誤って限定が受け入れられたため、それを超越する必要が生じただけなのです。

 これと似た話があります。
 ある十人の愚かな男たちが川の流れを渡り、向こう岸について人数を数えたところ、九人しかいませんでした。
 誰だかはわからないまま、彼らは十番目の男を失ったことを嘆き悲しんでいました。
 それを見た旅人が、彼らの嘆きの原因を突き止めようとして人数を数えたところ、十人いることがわかりました。
 ただ彼らの一人ひとりが自分自身を抜かして数えていただけのことだったのです。
 旅人は一人ずつ頭を叩きながら、声に出して数を数えさせました。
 十まで数えたとき、彼らはやっと安心したのです。
 この物語の教訓は、つまり十番目の男は新たに加えられたわけではないということです。
 彼は最初からずっとそこにいました。
 ただ無知が彼らに嘆きをもたらしただけなのです。

 このような話もあります。
 ある女性が首にネックレスをかけながら、そのことを忘れていました。
 彼女はそれを探そうと尋ねて回りました。
 探しているものに気づいた友人が、探していた当人の首もとのネックレスを指差しました。
 彼女はそれを指で確かめて、とても喜んだのでした。
 ネックレスは新たに得られたのでしょうか?
 ここでも無知が不幸をもたらし、知識が幸福をもたらしました。

 人と真我についても同じです。
 何も新たに得るものなどありません。
 真我について無知であることが現在の不幸の原因であり、真我の知識が幸福をもたらすのです。
 
 さらに、もし何か新しいものを得たのなら、それは以前には存在していなかったことを意味します。
 かつて存在していなかったものは、再び消え去るに違いありません。
 それゆえ、永久的な救済などないのです。
 救済が永久的であるのは、真我が今ここに、永遠に存在するからです。

 それゆえ、私たちの努力は無知を取り除くことだけに向けられています。
 叡知は自然で常に存在しているにもかかわらず、突然悟られるように見えるだけなのです。

その訪問者は立ち去ろうとして師に礼拝すると言った。

「トラの口にとらわれた獲物はけっして逃げられません」

それは『私は誰か?』という本からの引用で、「トラにとらわれた獲物が逃げられないように、ひとたびグルの慈悲深い眼差しにとらえられた弟子は、二度と世俗に戻ることはできない」という意味の言葉だった。

*ある人々は…
この会話においてマハルシは、ドヴァイタ(ニ元論)、ヴィシシュタアドヴァイタ(限定不二一元論)、アドヴァイタ(不二ー元論)の各学派の解脱に関する見解の違いを示している。


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