[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
45
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/07(日) 15:57:39 ID:73lwfNNQ0
1935年6月24日
『シュリー・ラマナ・ギーター』に関する疑問
第十四章十節には、
「さらなる進歩とともに、不可視の身体も得られるようになる。
そのような人は純粋意識であり、シッダ(超自然能力者)としての栄光を得る」
第十八章最後の節には、
「シッダの栄光は想像を絶する。
彼らはシヴァと等しい。
そう、彼らは願い事をかなえるシヴァ神目身である」と述べられている。
その意味は、真我実現とともに真の絶えざる苦行が起こり、そのような苦行が成就すると、ある賢者(ジニャーニ)は身体を人に触れられることも見られることもできなくする能力を持つという。
彼らはシッダと呼ばれている。
「シッダの偉大さは想像も及びません。
彼らはシヴァと等しく、願い事をかなえることもできるのです」と、後にバガヴァーンは言った。
『ウパニシャド』のマントラには、
「アートマニャン・ヒ・アルチャエート・ブーティカーマハ」
(解脱あるいは富を望む者は、真我を実現した賢者に仕えなければならない。「ムンダカ・ウパニシャド」第三巻一章十節)と述べられている。
ここにはシッダが願い事をかなえることについては述べられてはおらず、賢者は願い事をかなえることができると述べている。
別のマントラ
「スヴェー・マヒムニ・プラティシュティータハ」
(自己の光輝の内に確立される。『チャーンドーギャ・ウパニシャド』第七巻二四章一節)、
「アナンタン・ブラフマ」
(ブラフマンは無限である。『タイッティリーヤ・ウパニシャド」第二章一節)は、上記の『シュリー・ラマナ・ギーター』の二行連句(シュローカ)に反するように見える。
「サルヴァン・カルヴィダン・ブラフマ」
(これはすべてブラフマンである。『チャーンドーギャ・ウパニシャド』第三巻十四章一節)、
「ブラフマヴィッド・ブラフマイヴァ・バヴァティ」
(ブラフマンを知る者はブラフマンそのものになる。『ムンダカ・ウパニシャド』第二巻二章九節)というマントラは、賢者が全知(サルヴァジニャ)であることを示している。
それでは、賢者(ジニャーニ)と超自然能力者(シッダ)の違いとは何だろうか?
シッダは願い事をかなえるが、ジニャーニにはそれができないということだろうか?
これが疑問だった。
師は説明した。
マハルシ
『シュリーラマナ・ギーター』の中の質問は、ある特定な精神から問われたものです。
それゆえ、その答えもそれに応じています。
人々はただ身体のことばかりに目を向けるため、超自然能力(シッディ)を望むのです。
真我実現では身体能力が増すことさえありません。
ならば、どうしてさらに身体を超えた能力をもたらせると言うのでしょう?
超自然能力を望む人々は叡知(ジニャーナ)という考えに満足できないため、叡知に超自然能力を結びつけようとします。
彼らは至高の幸福である叡知を無視して、超自然能力を熱望します。
そのため王道を行く代わりに横道にそれ、道に迷うのです。
彼らを正しい道に導き、王道のみを行くようにさせるために、超自然能力は叡知にともなうと伝えられたのです。
実際のところ、叡知はすべてを包含します。
しかも叡知は超自然能力について考えようとさえしません。
何よりもまず人々に叡知を達成させ、その後で、もし彼らが超自然能力を望むなら、それを求めさせればよいのです。
私は「超自然能力は身体に関わるものだ(シャリーラ・サンシュラヤハ・シッダヤハ)」と言いました。
なぜなら、人々は身体に関心があるからです。
真我を実現した人(ジニャーニ)と超自然能力者(シッダ)に違いはありません。
願い事をかなえることには、真我実現の成就も含まれているからです。
シッディは劣っているどころか最高位のものなのです。
聖典はさまざまな条件を備えた人々に合うように意図されていますが、それらの精髄は同じものです。
『ハーラーシャ・マヒマー』の中に八段階の超自然能力(シッディ)についての章があります。
そこではシヴァ神がこう述べています。
「シヴァの帰依者は超自然能力について考えるような無駄なことはしない。
シヴァはけっして願い事をかなえたりしない」と。
帰依者の願望は彼らのプラーラブダ(運命)によってのみ満たされるのです。
イーシュヴァラ神であるシヴァ自身が、彼の帰依者についてそう言っているのですから、帰依者でない者についてさらに何が言えるでしょう?
超自然能力を披露するには、それを評価する他者を必要とします。
つまりそれを披露する人たちに叡知はないということです。
それゆえ、超自然能力には何の価値もありません。
ただ叡知だけが目標とされ、達成されなければならないのです。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板