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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

61避難民のマジレスさん:2019/07/13(土) 14:40:26 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話63

政府の高官が尋ねた。

「もし下級職員が自分よりも高い地位に昇進した場合、心は狼狽するでしょう。
 『私は誰か?』という探究は、そのような状況でも心を静める助けとなるでしょうか?」

マハルシ
 そのとおりです。
 「私は誰か?」という探究は心を内側に向けて静かにさせるのです。

質問者
 私はムールティ・ディヤーナ(神の姿に瞑想すること)に信仰を抱いています。
 それは真我の知識(ジニャーナ)を得る助けとなるでしょうか?

マハルシ
 もちろんなります。
 瞑想は心の集中を助けます。
 瞑想をすれば心は他の想念から自由になり、瞑想の対象である神の姿で満たされるでしょう。
 心はそれになり、それゆえ非常に純粋になるのです。
 そのとき、誰が神の姿を礼拝しているのか、と問いなさい。
 その答えは「私」つまり真我です。
 こうして、最終的には真我が得られるのです。
 
 現状における困難は、人が自分を行為者だと考えていることにあります。
 しかしそれは誤りです。
 すべてを為すのは高次の力であり、人は単なる道具にすぎません。
 もしこの見解を受け入れれば、彼は災いから解放されます。
 さもなければ自ら災いを招くことになるでしょう。
 例えば、寺院の塔(ゴープラム)の土台に彫刻された像は、あたかも塔の重みをその肩に乗せているかのように見えます。 その姿はたいへんな努力で塔の重みに耐えているような印象を与えています。
 しかし考えてもみなさい。
 塔は地面の上に建てられ、その土台の上に立っています。
 地球を背負うアトラスのようなその彫像は塔の一部分にすぎず、ただ塔を抱えているかのように造られているだけなのです。
 おかしくはありませんか?
 自分が行為をしていると感じる人もまた同じことなのです。


帰依者の一人がマラヤラム語版の『実在についての四十頌』をその訪問者のために朗読した。

それを聞いた後で、訪問者は尋ねた。

「修練における二元性と最終的な合一にはどのような関係があるのでしょうか?」

マハルシ
 ある人々は「二元的概念に基づいて修練を始めなければならない」と考えています。
 修練における二元性と最終的な合一の関係を問題として取り上げるのはこのような人たちです。
 彼らは「神が存在する。人は神を崇拝し、神に瞑想しなければならない。そして究極的にジーヴァは神の中に融け入る」と言います。
 別の人たちは「至高の存在とジーヴァは永遠に分離したままけっして互いに融け合うことはない」と言います。
 たとえどうであろうとも、それらはみな最終段階についてのことで、今それについて頭を悩ませる必要はないのです。

 誰もがジーヴァが「存在している」ことに同意するはずです。
 ジーヴァ、つまり自我が見いだされるべきなのです。
 その後で、もし自我が「至高なるもの」の中に融け去るべきかどうか、それともそれの一部なのか、あるいはそれとは異なるのかを知る時間もあるでしょう。
 結論へと先走るべきではありません。
 心を開いて内面に飛び込み、真我を発見しなさい。
 そうすれば、真理そのものがあなたに開かれるでしょう。

 なぜ最終結果が合一された絶対なるものか、あるいは限定されたものか、あるいは二元的なものかを前もって決定しなければならないのでしょう?
 それは無意味です。
 その判断は理論と知性によって下されます。
 知性はより高次な力、すなわち真我から光を得ているのです。
 どうして反映された部分的な光にすぎない知性が、全体である本来の光について考察できると言うのでしょう?
 知性が真我に達することはできないのです。
 どうして知性に真我の本性を突き止めることができると言うのでしょう?

 これが二元性と最終的な合一の関係です。


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