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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

102避難民のマジレスさん:2019/07/27(土) 19:51:01 ID:LC3de7YgO
>>101
うむ。
聖書の中にこんな言葉があるのでありますね。
これはブッタの言葉でありますね。
 ∧,,∧
∩・(ェ)・)

103鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/27(土) 23:53:36 ID:1d4drIFg0
そうじゃ、神に全てを委ねた者が書いたのじゃろう。
真の信仰があればそれもありえることじゃ。
悟りに国境は無いのじゃ。
真摯に神や悟りを求める者がそれを得ることが出来るのじゃ。

104避難民のマジレスさん:2019/07/28(日) 11:31:27 ID:og89HtMo0
ラマナ・マハルシとの対話78

マスラから来た男性が師に尋ねた。

「どうすれば真我を実現できるでしょうか?」

マハルシ
 誰もが人生のあらゆる瞬間に真我を体験しているのです。

質問者
 しかし誰もが望むような形では実現されていません。

マハルシ
 そうです。
 現在の体験は反対のもの(ヴィパリータ)、つまり実在とは異なったものです。
 存在しないものが存在するものと混同されてしまったのです。

質問者
 どうすればアートマンを見いだせるでしょうか?

マハルシ
 アートマンの探究ということはありえません。
 真我ではないものだけが探究の対象となり、それを排除することだけが可能なのです。
 真我は常に自ら明らかであり、それ自体で輝いています。

 真我は異なった名前で呼ばれています。
 アートマン、神、クンダリニー、マントラなどです。
 どれであれ、そのうちの一つをつかみとりなさい。
 そうすれば、真我は現れるでしょう。
 神とは真我以外の何ものでもありません。
 現在、クンダリニーは心として現れています。
 心がその源にたどり着いたとき、それがクンダリニーです。
 マントラ・ジャパは他の想念を消し去って、マントラの集中へと導きます。
 そのマントラは最終的に真我の中に融け入り、真我として輝き出すのです。

質問者
 真我実現のためには、いつまでグルが必要となるのでしょうか?

マハルシ
 グルはラグ(グル=重さ、ラグ=軽さ)があるかぎり必要です。
 ラグは真我に押し付けた誤った限定ゆえに存在するのです。

 帰依者から礼拝を受けた神は、彼に揺るぎない帰依心を授け、明け渡しへと導いてゆきます。
 自己を明け渡した帰依者に神は慈愛を注ぎ、自らグルの姿を取って彼の前に現れます。
 神であるグルは帰依者を導き、「神はあなたの内に在る。その神こそが真我である」と伝えます。
 これが心を内面に向け、最終的には実現へと導くのです。

 実現するまで努力は必要です。
 実現においてさえ、真我は自然に明らかになるべきものです。
 さもなければ、幸福は完全ではないでしょう。
 自然にそれが起こるまでは、どの方法であれ努力をしなければなりません。

質問者
 仕事にたずさわる私たちの生活は、そのような努力と両立できないものなのです。

マハルシ
 なぜあなたは自分が行動していると考えるのですか?
 あなたがこの地に到着したときのことを想い出してみなさい。
 あなたは馬車で家を出て、汽車に乗って駅につきました。
 それから、また馬車に乗り、このアーシュラマムにたどり着いたのではないでしょうか?
 人から尋ねられたなら、あなたは自分の町からここまでの道のりをずっと旅してきたと答えるでしょう。
 しかしそれは本当でしょうか?

 実際には、その道のりの間、乗り物の動きがあっただけで、あなた自身はあなたのまま在り続けたのではないでしょうか?
 乗り物の動きをあなた自身の動きと誤って同一視したように、あなたの行為もあなた自身のものではなく、神の行為なのです。

質問者
 そのような考えは心を空白状態にしてしまい、仕事が進まなくなってしまうでしょう。

マハルシ
 まずその空白状態に達しなさい。
 その後で、私にそう言えるかどうか見てみなさい。

質問者
 賢者を訪れることは真我実現の助けとなる、と言われています。

マハルシ
 そのとおりです。

質問者
 今回あなたのもとを訪れたことが、私に実現をもたらすでしょうか?

マハルシ
 (しばらく黙ってから)
 何がもたらされると言うのでしょうか?
 一体誰に?
 考えてみなさい。
 調べてみなさい。
 この疑いは誰にとってのものなのですか?
 もしも源までたどれば、疑いは消え去るでしょう。

105鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/28(日) 22:10:00 ID:1d4drIFg0
マハリシは迷った者に常に自分を観るように勧めるのじゃ。
それが真のグルの仕事なのじゃ。
嵐に迷う船に進路を示す灯台のように、自分こそ悟りの道と示すのがグルの役割なのじゃ。
そのようにしてグルは道標になるのじゃ。

106避難民のマジレスさん:2019/07/29(月) 12:17:52 ID:og89HtMo0
ラマナ・マハルシとの対話79

あるエンジニアが尋ねた。

「動物はたとえ環境が変化しても、彼ら自身の自然の法則にしたがっているように見えます。
 一方、人間は社会の法則に逆らい、特定のシステムには縛られません。
 動物が安定しているのに対して、人間は退化しているかのようです。
 そうではないでしょうか?」

マハルシ
 (しばしの沈黙の後で)
 『ウパニシャド』や聖典は、「人間は実現していないかぎり動物と変わらない」と述べています。
 おそらくそれよりも悪い状態でしょう。

107鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/29(月) 22:53:02 ID:1d4drIFg0
動物や虫は完全な法則の中で生きているものじゃ。
そこから抜け出すことは出来ないのじゃ。
人は自ら考えてそれを抜け出すことも出来るのじゃ。
そのために不幸になったりするが、悟りに向かうことも出来るのじゃ。

108避難民のマジレスさん:2019/07/30(火) 12:35:46 ID:og89HtMo0
ラマナ・マハルシとの対話80

1935年10月3日

非常に帰依心の深い純朴な心の弟子が、たった三歳の一人息子を失った。
翌日、彼は家族とともにアーシュラマムに到着した。
師は彼らに語った。

マハルシ
 悲しみに耐え、勇気を持って死別に直面するには、心の訓練が助けとなります。
 それでも我が子を失うことは、あらゆる嘆きの中でも最も辛いことだと言われています。
 自分を限定された姿形あるものと見なすかぎり、深い悲しみは避けられません。
 もしその姿形が超越されれば、本来の自己が永遠なるものであることがわかるでしょう。
 死も誕生も存在しないのです。
 生まれたものは身体にすぎません。
 身体は自我の産物です。
 しかし自我は身体なしには知覚されません。
 それはいつも身体と同一視されるのです。
 
 問題なのは想念です。
 分別ある人に、深い眠りの中で身体に気づいていたかどうかを考えさせなさい。
 なぜ彼は目覚めの状態のときに身体を感じるのでしょうか?
 たとえ眠りの中で身体が感じられなかったとしても、真我は存在していたのではないでしょうか?
 彼は深い眠りの中でどのような状態だったのでしょう?
 目覚めたときはどうでしょうか?
 その違いは何でしょうか?

 自我が立ち現れ、それが目覚めと呼ばれます。
 そして同時に想念が現れます。
 その想念が誰のものなのか、考えてみなさい。
 それはどこから現れたのでしょうか?
 それは意識である真我からに違いありません。
 それについて漠然と理解するだけでも、自我の消滅を助けるのです。
 そうすれば、無限の存在を実現することも可能になります。
 その境地の中に個人は存在せず、ただ永遠の存在だけがあります。
 それゆえ、そこには死についての想いも嘆きもないのです。

 自分は生まれたと考える人に、死の恐怖を避けることはできません。
 自分が生まれたのかどうか、真我に誕生というものがあるのかどうか考えてみなさい。
 そうすれば、真我が常に存在すること、身体は想念の中に還元されること、そして想念の出現がすべての不幸の根源なのだということを発見するでしょう。
 想念がどこから現れ出るのか見いだしなさい。
 そうすれば、あなたは永遠の存在である真我の内奥に確立され、誕生という概念や死の恐怖から自由になるでしょう。

109避難民のマジレスさん:2019/07/30(火) 12:36:21 ID:og89HtMo0
ある弟子が「それはどうすればよいのでしょうか?」と尋ねた。

マハルシ
 想念とは無数の過去世において蓄積されたヴァーサナー(心の潜在的傾向、性癖)でしかありません。
 それを絶滅させることが目標です。
 ヴァーサナーから自由になった状態が原初の状態、純枠で永遠なる状態なのです。

質問者
 まだはっきりわかったとは言えません。

マハルシ
 誰もが永遠なる真我に気づいています。
 私たちは多くの人が死んでいくのを見ます。
 しかしそれでも自分自身は永遠に生きると信じています。
 なぜなら、それが真実だからです。
 意図せずに、本来の真理はそれ自体を主張するのです。
 意識である真我と生命意識のない身体を混同するため、人は惑わされてしまいます。
 この(自己同一化という)誤った観念が消滅しなければならないのです。

質問者
 どうすればそれは消滅するのでしょう?

マハルシ
 生まれたものは死ななければなりません。
 誤った観念は自我に付随したものです。
 それは立ち現れ、そして消え去ります。
 しかし真理は立ち現れることも消え去ることもありません。
 それは「永遠なるもの」としてとどまるのです。
 実現した師はこの真理を弟子に伝えます。
 弟子はそれを聞き、その言葉について熟考し、そして真我を実現するのです。
 それには二つの道があります。

 常に存在する真我を実現するのに努力は必要ありません。
 真我はすでに実現されているからです。
 取り除かれるべきものは幻影だけです。
 ある人は、「師の語る言葉が幻影を一瞬にして取り除く」と言います。
 他の人は、「実現するためには瞑想などが必要となる」と言います。
 どちらも真理です。
 ただ観点が異なるだけです。

質問者
 瞑想(ディヤーナ)は必要でしょうか?

マハルシ
 『ウパニシャド』は「この地球さえ永遠の瞑想の内に在る」と述べています。

質問者
 カルマ(行為)はそれをどのように助けるのでしょうか?
 取り除かれるべき重荷がすでにあるのに、さらにその上に加えるだけではありませんか?

マハルシ
 非利己的に為された行為は心を純粋にし、それを瞑想状態にとどめます。

質問者
 カルマ(行為)なしに途切れることなく瞑想し続けたとしたらどうなるでしょうか?

マハルシ
 試してみなさい。
 ヴァーサナーがあなたにそうするのを許さないでしょう。
 ディヤーナは、師の恩寵によって徐々にヴァーサナーが弱められながら、段階的に深まっていくものなのです。

110鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/30(火) 23:24:33 ID:1d4drIFg0
瞑想をしたことが無い者は今まで条件付けされた心があるからずうっと何もしないで瞑想することは出来ないのじゃ。
不安や恐れが心と体を動かすのじゃ。
日々実践して少しずつ長く瞑想することが出来るようになるのじゃ。
そのようにして観察に向いた静かな心を養うのじゃ。

111避難民のマジレスさん:2019/07/31(水) 14:11:59 ID:GgfeNo3g0
ラマナ・マハルシとの対話81

1935年10月15日

過去二十年間ヴェーダーンタ哲学に興味を抱いてきたアメリカの化学者、バーナード・べイ氏がインドに来て師を訪れた。彼は尋ねた。

「アビャーサ(修練)はどのようにするのでしょうか?
 私は光を探そうと試みています」

(彼の説明では、アビャーサは精神集中を意味する)

マハルシ
 今までのあなたにとってのアビャーサとはどのようなものですか?

質問者
 私は鼻の底に集中するのですが、心はさ迷うばかりなのです。

マハルシ
 心は存在するでしょうか?

帰依者の一人が静かに言葉を挟んだ。

「心とは想念の集まりです」

マハルシ
 誰にとっての想念でしょうか?
 もし心の位置を見いだそうとすれば、心は消え去り、真我だけが残るでしょう。
 ただそれだけが存在し、集中も何もできなくなるでしょう。

質問者
 これを理解するのは本当に困難です。
 もし何か具体的なことなら理解も容易なのですが。
 ジャパやディヤーナならもっと具体的です。

マハルシ
 「私は誰か?」が最高のジャパです。
 
 真我よりも具体的なものがあるでしょうか?
 誰もがあらゆる瞬間にそれを体験しているのです。
 なぜ真我を離れて外側にある何かをとらえようとするのでしょう?
 知られざる何か彼方のものを探し出そうとするよりも、知られている真我を見いだしなさい。

質問者
 真我に瞑想するとき、どこにするのでしょうか?
 つまり、身体のどの部分に瞑想すればよいのでしょう?

マハルシ
 真我が自ら顕わになるべきです。
 ただそれだけが望まれるのです。

一人の帰依者が静かに言った。

「胸の右側にアートマンの座と呼ばれるハートがあります」

別の帰依者が言った。

「真我が実現されたとき、光はそのセンターにあるのです」

マハルシ
 まさにそのとおりです。

質問者
 どのようにして世界から心をそむけるのでしょうか?

マハルシ
 世界は存在するでしょうか?
 つまり真我から離れて?
 世界が「自分は存在する」と言うでしょうか?
 「世界が存在する」と言うのはあなたなのです。
 そう語る自己を見いだしなさい。

112鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/31(水) 23:07:51 ID:1d4drIFg0
アートマンは心臓の中にあって万物を認識するというのじゃ。
世界も観念によって創られたものに過ぎないのじゃ。
それを認識するものを追求するのじゃ。
認識できない認識主体がアートマンなのじゃ。

113避難民のマジレスさん:2019/08/01(木) 16:42:57 ID:GgfeNo3g0
ラマナ・マハルシとの対話82

1935年10月16日

異なった種類のサマーディについての質問があった。

マハルシ
 感覚が暗闇の中に融け入ったときが深い眠りで、光に融け入ったときがサマーディです。
 馬車の中で眠っている乗客が、馬車の動きや停止にも馬具の取り外しにも気づかないように、サハジャ・サマーディの中にいるジニャーニ(真我実現した人)も、出来事や、目覚め、夢見、眠りに気づいていません。
 ここで言う眠りは、馬具を取りはずすことに相当し、サマーディは停止に相当しています。
 なぜなら停止した後も、馬は動く用意ができているように、感覚も活動する用意ができているからです。

 サマーディにおいては首はうなだれません。
 なぜなら、感覚は活動を停止していても、そこに存在しているからです。
 一方、眠りにおいては首はうなだれます。
 なぜなら、感覚が暗闇の中に融け入ったからです。

 ケーヴァラ・サマーディでは、生気と精神の活動、そして目覚め、夢見、眠りの状態は沈み入っているだけで、サマーディから出るとともに再び現れます。
 サハジャ・サマーディでは、生気と精神の活動、そして三つの状態は破壊され、再び現れることはありません。
 しかし他者はジニャーニが食べ、話し、動くといった活動をしているのを見ています。
 ジニャーニ自身はそれらの活動に気づいていません。
 一方、他者は彼の活動に気づいています。
 彼らはジニャーニの身体に関わるだけで、彼の真我(スワルーパ)を見ないのです。
 ジニャーニ自身は、眠っている乗客のように、あるいは乳を飲みながらぐっすり眠っている幼児のように、自分の行為に気づいていません。
 翌日、幼児は乳を飲まずに眠ってしまったと言います。
 昨日のことを伝えても、幼児には信じられません。
 サハジャ・サマーディにおいてもそれは同じなのです。

  スシュムナー・パレー・リーナ。

 このスシュムナーとはタポー・マールガを意味し、パラー・ナディーはジニャーナ・マールガを意味しています。


*スシュムナー・パレー・リーナ

「スシュムナー・パレー・リーナ」は「スシュムナーを超えて融合する」を意味し、「タポー・マールガ」は「努力の道」 を意味する。
スシュムナー・ナディーは脊柱の底辺と頭頂点を結ぶ霊的な経路。
パラー・ナディーは頭頂点からハートへと降りていく経路である。
マハルシは 「最終的な実現のためにクンダリニーはスシュムナーを通ってサハスラーラ(頭頂点)に達し、サハスラーラからパラー・ナディーを通って胸の右側にあるハート・センターに入らなければならない」と語っている。
それゆえ、スシュムナーを通っている間は実現前の「タポー・マールガ」 (努力の道)にあるが、スシュムナーを超えてパラー・ナディーを降下し、ハートに達する道は「ジニャーナ・マールガ」(真我の知識の道)である。

114鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/01(木) 23:23:34 ID:1d4drIFg0
通常は気は頭頂に入ってサマーディに至るのじゃ。
マハリシは更に心臓に入ることを説くのじゃ。
そこにアートマンがあるからなのじゃ。
アートマンのヨーガなのじゃ。

115避難民のマジレスさん:2019/08/02(金) 21:36:31 ID:GgfeNo3g0
ラマナ・マハルシとの対話83

師は数人のバクタ(帰依者)の物語について語った。
シュリー・クリシュナがエークナートに十二年間仕えたこと。
家庭に閉じ込められていたサックバーイをパーンドランガーが解放し、彼女がパンダルプルを訪れるのを可能にしたことなどだった。

それから一八九六年に、(十六歳だった)師がマドゥライからティルヴァンナーマライに向かう途中で出会った不思議なモウルヴィー(イスラム教徒の学者)が、どのように現れ、話をし、突如として消え去ったかについて語った。


*エークナート(1533-1599)
マハーラーシュトラ州の偉大な詩聖。
10歳にしてジャナルダナ・スワミに出会い、グルに自己を明け渡した。
エークナートは『バーガヴァタ・プラーナ』や『ギャネーシュヴァリ』を公の場で朗読した。
クリシュナ神はエークナートの朗読を聞くために、12年間彼の召使に姿を変えて彼に仕えたと言われている。

*サックバーイ
マハーラーシュトラ州のクリシュナを祀る聖地パンダルプルに生まれる。
幼い頃からクリシュナ神に深い帰依心を抱いていた純真無垢な彼女は、12歳のとき悪意に満ちた一家に嫁ぐ運命となる。
日々悪口雑言を浴びせられ、家事に酷使されながらも、彼女は唯一の救いであるパーンドランガー(クリシュナ神の別名)に祈り、パーンドランガーだけを想い続ける。
ある日、罰として柱にくくりつけられていた彼女は、クリシュナ神の奇跡的な助けによって家を抜け出し、パーンドランガー(ヴィッタラ)を祀る聖地パンダルプルを訪れ、神と直に謁見する。
帰依心を通してクリシュナ神に明け渡したサックバーイは神との融合を遂げた。

*不思議なモウルヴィー
16歳の夏にマドゥライの家を出て、聖山アルナーチャラへと向かう汽車の中でマハルシが出会ったイスラム教徒の学者。
『ラマナ・マハルシの伝記』(ナチュラルスピリット刊)第4章を参照されたい。

116避難民のマジレスさん:2019/08/04(日) 14:03:39 ID:GgfeNo3g0
ラマナ・マハルシとの対話84

グラント・ダフ氏が、「マングースは師と何か関わりがあるのですか?」と尋ねた。

マハルシ
 そうです。
 それはアールドラーとジャヤンティのときのことでした。
 私は丘の上のスカンダアシュラマムに暮らしていました。
 巡礼者が行列をなして町から丘に登って来ていました。
 (普通は灰色なのですが)金色の毛並みをし、野生ならあるはずの尻尾の黒い点々がなく、普通よりもやや大きい一匹のマングースが、恐れも知らず行列の合間を通り抜けながらやって来ました。
 人々は行列の中の誰かのペットだろうと思っていたのです。

 マングースはヴィルーパークシャ洞窟の泉で行水をしていたパラニ・スワミのところへ真っすぐ向かって行きました。
 彼はその動物を軽くたたき、撫でてやりました。
 マングースは彼について洞窟に入り、隅々まで念入りに視察した後、そこを立ち去り、人ごみに混じってスカンダアシュラマムまで登って来ました。
 私はそれに気づいていました。
 誰もがその魅力的な姿と恐れを知らない動きに目を奪われていました。
 それは私のところにやって来ると、膝の上でしばらく安らいでいましたが、それから身を起こし、あたりを見回すと降りて、そこら中を歩き回りました。
 不注意な訪問客や孔雀から危害を加えられないようにと、私はその後をついて行きました。
 二羽の孔雀は好奇心に満ちた目つきで見つめていましたが、マングースは落ち着いた様子であたりをうろついた後、ついにアーシュラマムの南西側の岩間に姿を消したのです。


*アールドラーとジャヤンティ

アールドラーはシヴァ神が宇宙の創造と破壊の壮大な舞を舞うナタラージャとなって帰依者の前に姿を現した出来事を祝う祝祭日。
ジャヤンティはマハルシの生誕記念日。

117鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/04(日) 22:31:32 ID:1d4drIFg0
不殺生を長くしていると攻撃欲が無くなり動物も寄ってくるというのじゃ。
悟りを得て攻撃欲が無くなれば動物にもわかるのじゃ。
自分と同じと感じるのじゃ。
本質が同じであるから恐れることもないのじゃ。

118避難民のマジレスさん:2019/08/05(月) 12:42:29 ID:GgfeNo3g0
ラマナ・マハルシとの対話85

同じ紳士が記憶と意思、そしてそれらと心との関係性について師に尋ねた。

マハルシ
 それらは心の機能です。
 心は自我の産物であり、自我は真我から生じるのです。

119鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/05(月) 22:07:30 ID:1d4drIFg0
認識することから自我も起こるのじゃ。
自我は認識されたものなのじゃ。
それから更に心とその機能も起こるのじゃ。
十二因縁と同じなのじゃ。

120避難民のマジレスさん:2019/08/06(火) 12:46:57 ID:GgfeNo3g0
ラマナ・マハルシとの対話86

1935年11月6日

師は以下のように、キリスト教の信仰に真の意義を与えた。

キリストは自我。

十字架は身体。

十字架にかけられた自我が消滅したときに生き残るもの、それが絶対なる存在(神)です。

そしてこの栄光ある存続が復活と呼ばれるものです。

(記録者ノート:「私と私の父は一つである」と比較されたい)

121鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/06(火) 22:51:34 ID:1d4drIFg0
神話の解釈なのじゃ。
実際にそうという訳ではないが西洋人には受け容れやすくなるのじゃ。
神を自らの心の中に追求させるためなのじゃ。
そこに以外に神と読んでいいものはないのじゃ。

122避難民のマジレスさん:2019/08/07(水) 12:46:55 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話87

英国の熱心な帰依者、チャドウィック少佐が尋ねた。

「なぜイエスは磔のときに『神よ!神よ!』と叫んだのでしょうか?」

マハルシ
 それは彼とともに磔にされていた二人の泥棒のための神へ祈りだったのかもしれません。
 ジニャーニは生きている間に、今ここで解脱に達したのです。
 重要なのは、いつ、どこで、どのように彼が身体を離れるかということではありません。
 あるジニャーニは苦しむように見えるかもしれません。
 別のジニャーニはサマーディに入っているかもしれません。
 死の寸前に姿を消し去ってしまうジニャーニもいます。

 しかしそれは彼らのジニャーナ(真我の知識)に何の違いももたらさないのです。
 そのような苦しみは彼の死を見る者にのみ現れ、ジニャーニにではありません。
 なぜなら、彼は真我と身体の誤った自己同一化を超越したからです。

123鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/07(水) 22:57:50 ID:1d4drIFg0
これもキリスト教徒向けの話なのじゃ。
キリストの死と復活は自我の死とアートマンの実現に結び付けやすいのじゃ。
肉体の自我は死んでもアーマンは不滅という象徴になるのじゃ。
復活ではなく不死のアートマンが変らずにあると言うのじゃ。

124避難民のマジレスさん:2019/08/08(木) 13:53:09 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話88

同じ紳士が尋ねた。

「聖パウロの啓示におけるキリストの重要性とは何でしょうか?」

マハルシ
 啓示は絶対のもので、身体と関わったものではありません。
 聖パウロは「真我ー意識」を実現した後で、その啓示が「キリストー意識」と同じものであることを悟ったのです。

質間者
 しかし聖パウロはキリストを愛する者ではなかったのではありませんか?

マハルシ
 愛か憎悪かは重要ではないのです。
 キリストへの想いはそこにありました。
 それはラーヴァナの場合と似ています。
 「キリストー意識」と真我実現は同じものなのです。


*聖パウロの啓示

熱心なユダヤ教徒の立場から、初めはキリスト教徒を迫害する側についていたが、ダマスカスへの途上で、復活したイエス・キリストから「なぜ私を迫害するのか?」と呼びかけられ、その後、目が見えなくなる。
あるキリスト教徒が神のお告げによって彼のために祈ると、目から鱗のようなものが落ちて目が見えるようになり、回心してキリスト教徒となった。

*ラーヴァナの場合…

『ラーマーヤナ』において、10の頭を持つ魔王ラーヴァナは絶えずラーマ神を憎み続け、彼の破滅のみを考えていた。
こうしてラーヴァナは否定的なアプローチで神を想い続けたのである。
マハルシが「愛か憎悪かは重要ではない」と言われるように、たとえ憎しみであってもすべての想いを絶えず神のみに注ぎ続けた魔王ラーヴァナは、ラーマ神の恩寵によって死の瞬間に解脱に達する。

125鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/08(木) 23:00:21 ID:1d4drIFg0
初期の弟子の中にはキリストに会ったという者が多いのじゃ。
キリストは復活して天国に居るのであるから、時々降りてきて会っても不思議はないというのじゃ。
神託を下したり、罰を与えたり、試したりするのじゃ。
神降ろしの類なのじゃ。

126避難民のマジレスさん:2019/08/09(金) 10:50:23 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話89

カルプーラ・アーラティー(樟脳に火を灯し、神像を照らしながら場を浄める儀式)は啓示の光によって心を焼き尽くすことを象徴しています。
ヴィブーティ(聖灰)はシヴァ(絶対なるもの)であり、クンクマー(朱色の粉)はシャクティ(意識)なのです。

ヴィブーティには二種類あります。
パラー(高次)・ヴィブーティとアパラー(低次)・ヴィブーティです。
聖灰はアパラー・ヴィブーティであり、パラーとは実現の炎によって不純なものが焼き尽くされた後に残ったものを意味しています。
それが絶対なる存在です。

127鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/09(金) 22:45:09 ID:1d4drIFg0
>>126 これも神話の解釈なのじゃ。
 高次の聖灰とは自我が焼き尽くされてなくった後の意識というのじゃ。
 自我がなくなれば聖なるものになるというのじゃ。
 物理的な聖灰は低次元なものというのじゃ。

128避難民のマジレスさん:2019/08/10(土) 14:53:27 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話90

再び三位一体についての説明が為された。

父なる神はイーシュヴァラを表す。

聖霊なる神はアートマンを表す。

息子なる神はグルを表す。

 イーシュヴァロー・グルラートメーティ・ムールティ・ベーダ・ヴィバーギネー・ヴョーマヴド・ヴャープタ・デーハーヤ・ダクシナームールタエー・ナマハ。

 すべてを包み込む空を身体として持ちながら、イーシュヴァラ神、グル、個人として姿を現したダクシナームールティに礼拝します。

 『ダクシナームールティ・ストートラム』(祈祷文最終節)

神はグル(神の息子)の姿で帰依者の前に現れ、聖霊の内在性を指し示します。
つまり神は霊性(スピリット)であり、この霊性はすべてに内在しているということ、そして神の実現と等しい真我実現が達成されなければならないことを示すのです。

129鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/10(土) 22:16:41 ID:1d4drIFg0
本来三位一体とは父と子と精霊を意味するのじゃ。
一神教であるキリスト教で父なる神の他にキリストや聖母を信仰するために創られた観念なのじゃ。
キリストも聖母も父なる神と一体であるから信仰してよいというのじゃ。
それにアートマンによる解釈を施したのじゃ。
アートマンによって父なる神に到達するのじゃ。
そのアートマンには人に教えを説く神の子であるグルが必要というのじゃ。

130避難民のマジレスさん:2019/08/11(日) 16:10:30 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話91

ベンガル人の訪問者が尋ねた。

「制御された心とはどのようなものでしょうか?」

マハルシ
 あなたが「心」と呼ぶもの、それは何でしょうか?

質問者
 私が坐って神を想うとき、想念は他の物事へとさ迷い始めます。
 私はこの想念をコントロールしたいのです。

マハルシ
 『バガヴァッド・ギーター』の中に、さ迷うことが心の本性であると述べられています。
 人は自分の想いを神に注がなければなりません。
 長い修練によって心は制御され、揺るぎないものになります。
 心の揺らぎは想念という形のエネルギーの散逸から起こる弱点です。
 一つの想念を保持すればエネルギーは保たれ、心も力を得るでしょう。

質問者
 心の力とはどういう意味でしょうか?

マハルシ
 それは注意散漫にならず、一つの想念に集中する能力のことです。

質問者
 どうすればそれを達成できるでしょうか?

マハルシ
 修練によってです。
 帰依者は神に集中します。
 知識の道(ジニャーナ・マールガ)にしたがう探究者は真我を探究します。
 修練はどちらも同じように困難なものです。

質問者
 たとえ真我探究に心が注がれるようになったとしても、長い葛藤の末、心は帰依者の目をかいくぐっていつの間にか災いを与えます。
 そしてしばらく経つまで彼はそのことに気づかないのです。

マハルシ
 そうです。
 初期段階では、心が探究に戻るまで長い時間がかかるでしょう。
 継続的な修練によって短い時間で戻るようになり、最終的にはまったくさ迷うこともなくなります。
 そうなったとき、潜在していたシャクティ(力)が現れます。
 サートヴィック(純粋)な心は想念から自由ですが、ラージャシック(激質)な心は想念でいっぱいです。
 サートヴィックな心は自ら生命の流れの中に融け去るのです。
 
質問者
 生命の流れを体験する前に、心が想念の層に入らぬよう保つことはできるでしょうか?
 
マハルシ
 できます。
 生命の流れは想念よりも前に存在しているからです。


*さ迷うことが心の本性である…『バガヴァッド・ギーター』6-36

クリシュナは言った。
「心が制御されていない人にとって、真我との合一は至難の業である。
 それゆえ、心の制御に努めることこそ実現への適切な方法だと私は言うのである」

131鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/11(日) 22:03:48 ID:1d4drIFg0
心を制御することは集中の行によって達成されるのじゃ。
止観の止の行なのじゃ。
心を集中によってコントロールできるようになってアートマンの追求も出来るのじゃ。
それがヨーガの真の意味なのじゃ。

132避難民のマジレスさん:2019/08/12(月) 14:03:30 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話92

1935年11月7日

訪問者が尋ねた。

「ある人は粗大な対象にのみ瞑想するべきだと言います。
 もし絶え間なく心を殺そうと探し回るなら、悲惨な結果になるでしょう」

マハルシ
 誰にとっての悲惨な結果なのでしょう?
 真我を離れて悲惨があるでしょうか?

 完全な「私ー私」は無限の大海です。
 自我、「私」という想念は、その上にたゆたう泡にすぎません。
 それがジーヴァと呼ばれる個我です。
 泡でさえ、はじけてしまえば海と溶け合う水でしかありません。
 泡としてとどまっている間も、それはやはり海の一部分なのです。

 この単純な真理に無知なため、ヨーガ、バクティ、カルマなどのさまざまな教派のもとにたいそうなテクニックや難解複雑な数知れない修練方法が教えられてきました。
 それもみな、ただ探究者の注目を誘って彼らの心を混乱させるだけのために。
 さまざまな宗教も、宗派も、教義もまた同様です。
 それらは一体何のためにあるのでしょうか?
 ただ真我を知るためだけです。
 それらは真我を知るために必要な修練とその補助にすぎないのです。

 感覚器官によって知覚された対象物は、直接の知識(プラティヤクシャ)と呼ばれています。
 しかし感覚器官の助けなしに常に体験される真我ほど直接的なものが他にあるでしょうか?
 感覚的知覚は間接的知識でしかなく、直接的知識ではありえません。
 自己の気づきのみが直接的知識であって、それはすべての人に共通した体験です。
 自分自身の真我を知るため、すなわち真我に気づくためには、いかなる助けも必要としないからです。

 単一の「無限で完全な全体性」(充満)は、「私」としてのそれ自身に気づくようになります。
 「私」とはその原初の名前です。
 他のすべての名前、例えば「オーム」でさえその後に展開したものです。

 解放とは、真我に気づき続けることでしかありません。
 偉大な確言(マハーヴァーキャ)の「私はブラフマンである」はその証言です。
 「私」は常に体験されているのですが、それでも、それに注意を向けなければなりません。
 そうすることで、初めて知識は明らかになるからです。
 『ウパニシャド』の教えと賢者の必要性はそのためのものなのです。

133鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/12(月) 22:58:42 ID:1d4drIFg0
感覚さえも自我があれば自我の観念となるのじゃ。
自分の眼とか自分が見たものとか自分が聞いたものに囚われるのじゃ。
知覚よりも確かに近くある主体がアートマンなのじゃ。
肉体や知覚や心の働きさえその装飾物でしかないのじゃ。

134避難民のマジレスさん:2019/08/13(火) 00:15:47 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話93

1935年11月9日

 誰もが自分の真我だけに気づいています。
 何という驚きでしょう!
 人々は存在しないものを存在すると見なしたり、あるいは現象を真我から分離したものとして見たりします。
 知る者が存在するかぎり、(直接的、推論的、知的などの)あらゆる類の知識も存在するでしょう。
 知る者が消え去れば、知る者とともにあらゆる知識もすべて消え去ります。
 それらの正当性は知る者と同程度なのです。

135鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/13(火) 21:08:44 ID:1d4drIFg0
知識すらも認識の対象としてあるものじゃ。
あらゆる観念の記憶が知識と呼ばれるものじゃ。
石なら石の知識があれば、知識をもつものもいるとされるのじゃ。
知識の主体すらも対象に依存してあるものなのじゃ。

136避難民のマジレスさん:2019/08/14(水) 00:11:57 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話94

ある男性が自分の罪を許してもらうべく師に祈りを捧げた。

マハルシ
 もし心があなたを悩ませてはいないということを見るようにするなら、それで十分です。

137鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/14(水) 22:02:36 ID:1d4drIFg0
全ての問題は心から起こるものじゃ。
心に問題が無ければそれでよいのじゃ。
過度な罪悪感も正しいものではなく心の問題なのじゃ。
なにものにも囚われない心で居ると善いのじゃ。

138避難民のマジレスさん:2019/08/15(木) 00:32:46 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話95

1935年11月13日

チャドウィック少佐
 神秘家のエドワード・カーペンター氏は著書の中で、「ある機会に真我を実現したが、その体験はしばらくしか続かず徐々に消えていった」と書いています。
 一方、『シュリー・ラマナ・ギーター』には、「グランティ(結び目=束縛)はひとたび断ち切られれば永遠にもどらない」と述べられています。
 この神秘家の場合、真我実現の後でさえ束縛は消えずに残ったようです。
 そのょうなことがありうるのでしょうか?

バガヴァーンは『カイヴァリャ・ナヴァニータム』から以下の物語を読み上げた。

すべてに輝きわたる、統一された、完全な「存在(サット)ー知識(チット)ー至福(アーナンダ)」の境地を実現した弟子が、師に自己を明け渡した後で「どうすれば師の御恩に報いることができるでしょうか?」と謙虚に尋ねた。

師は言った。
「あなたが不変なる完全な至福にとどまるなら、それが私への報いとなる。
 その境地から滑り落ちてはならない」

弟子
 至高の至福を一度体験しながら、どうしてそこから落ちることができると言うのでしょう?


 おお、もちろんそれは起こる。
 はるか昔からあなたに付着し続けてきた心の潜在的傾向(ヴァーサナー)が、あなたをその境地から引きずり降ろし、そして無知が取り付くのだ。

弟子
 完全な至福に確実にとどまることを何が妨げるのでしょうか?


 障害は、

 1 自己の純粋な存在を忘れるという無知。

 2 その体験が真実だったのかどうかと疑い始めること。

 3 「私は身体だ」、「世界は実在だ」という誤った概念。

 などにある。
 それらは真理を聞き、それについて熱考し、集中することで克服されるのだ。

マハルシ
 体験には一時的なものと永久的なものがあると言われています。
 最初の体験は一時的なものですが、それは集中を通して永久的なものとなります。
 前者においては、束縛が完全に破壊されてはいなかったのです。
 それは微妙な形で残り、やがて再主張するようになります。
 しかし後者の場合、体験が束縛の根と枝を破壊しつくしたため、再び現れることはありません。
 『シュリーマッド・バガヴァッド・ギーター』に見られるヨーガブラシュタ(ヨーガから堕ちた者)という表現は前者のレベルについて述べたものです。

質問者
 真理を聞くこと(シュラヴァナ)は限られた数人だけのものなのでしょうか?

マハルシ
 それには二種類あります。
 通常は、真理を明言し、それについて解き明かす師の言葉を聞くことです。
 しかしながら、自身に問いを発し、探究し、そして完全なる「私ー私」として自身の内にその答えを見いだすことこそ正しい方法です。

 この体験を熟考することが第二段階(マナナ)、その一点に集中し続けることが第三段階(ニディディアーサナ)です。

質問者
 一時的な体験はサマーディと呼べるでしょうか?

マハルシ
 いいえ。
 サマーディは第三段階のものです。

質問者
 それでは真理を聞くことさえ非常にわずかな人に限られているように見えます。

マハルシ
 探究者は二つのクラスに分かれます。
 クリトーパーサカ(熟達した探究者)とアクリトーパーサカ(熟達していない探究者)です。
 前者は揺るぎない帰依によって精神的傾向を克服した人で、彼の心はすでに清らかであるためにある種の体験をしていますが、それを理解してはいません。
 ある適格な師の教えを受けるやいなや、永久的な体験を得るのです。

 他のクラスの探究者がこの目標に達するためには多大な努力が必要とされます。
 真理を聞くこと、熟考、集中はどのように彼を助けるのでしょうか?

 それらは瞑想(ウパーサナ)を含み、最終的に真我実現をもたらします。

 第四段階は解脱という最終目標です。
 それにさえ、程度によってある区別が存在します。

 1 ブラフマヴィド(ブラフマンを知る者)

 2 ブラフマヴィッド─ヴァラ

 3 ブラフマヴィッド─ヴァリャ

 4 ブラフマヴィッド─ヴァリシュタ

しかし実際のところ、この人たちはみな、生きている間も解脱しているのです。


*ヨーガブラシュタ…『バガヴァッド・ギーター』6-41,42

ヨーガの道から脱落した人は、功徳の業果を受ける天上界に生まれ、無限のときをそこで過ごした後、この世で信心深く裕福な家に生を受ける。(41節)

あるいは彼は叡知あるヨーギーの家族に生まれる。
しかしながら、このような誕生はこの世でも実に稀なことである。(42節)

139鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/15(木) 22:55:32 ID:1d4drIFg0
サマーディを体験したり、無我になっただけでは真の悟りではないのじゃ。
一時的に真実を垣間見たに過ぎないのじゃ。
それでも多くの利益があるがのう。
直ぐに戻ってしまうのじゃ。
もはやなにものも認識しない境地に至って永遠に悟りから後退しないようになるのじゃ。
それが大悟徹底なのじゃ。

140避難民のマジレスさん:2019/08/16(金) 00:17:26 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話96

A・W・チャドウィック少佐が尋ねた。

「宇宙意識の一瞥を得たと語っている西洋人の実現の本質は、どのようなものなのでしょうか?」

マハルシ
 それは閃光のように現れ、閃光のように消え去りました。
 始まりのあるものには、終わりがなければなりません。
 常在の意識が実現されたときにだけ、それは永遠のものとなるのです。
 実際、意識は常に私たちとともに在ります。
 誰もが「私は在る」ことを知っています。
 自分自身の存在を否定すことは誰にもできません。
 深い眠りの中にいる人は気づいていません。
 目覚めているときは気づいているように見えます。
 しかしそれは同じ人なのです。
 眠りについた人と、今目覚めている人の間には何の変異もありません。
 深い眠りの中にいるとき、彼は身体に気づいていません。
 身体意識がそこにないからです。
 目覚めの状態では、彼は身体に気づいており、そこには身体意識があります。
 それゆえ、違いは身体意識の出現にあり、真の意識の中にはいかなる変化もないのです。

 身体と身体意識はともに立ち現れ、ともに沈みゆきます。
 これはつまり深い眠りの中には限定がないのに対して、目覚めの状態には限定があるということです。
 この限定が束縛であり、「私は身体である」という感覚が誤りなのです。
 この偽りの「私」が消え去らなければなりません。
 真の「私」は常に存在しています。
 それは今、ここに在ります。
 新たに現れることもなければ、再び消え去ることもありません。
 在るものである「それ」は、常にそこに在り続けるはずです。
 新たに現れたものは、再び失われるでしょう。
 深い眠りと目覚めを比較してみない。
 身体は一つの状態の中に現れますが、もう一つの状態の中には現れません。
 それゆえ、身体は失われるものなのです。
 意識は身体よりも前に存在し、身体が失われても在り続けます。
 事実、「私は在る」と言わない人はいません。
 「身体が私だ」という偽りの知識がすべての不幸の原因です。
 この誤った知識が消え去らなければなりません。
 これが実現です。
 実現は何か新しいものを獲得することでも、新しい能力を手に入れることでもありません。
 それはただすべての覆いを払い去ることなのです。

チャドウィック少佐
 私は身体をふるい落とそうと試みています。

マハルシ
 人は服を脱ぎ去って裸になり、自由になります。
 真我は無限であり、身体に閉じ込められているわけではありません。
 どうやって身体をふるい落とせると言うのです?
 どこに捨てるのですか?
 どこにあろうと、それはいまだに彼のものなのです。

チャドウィック少佐
 (笑い)。

マハルシ
 究極の真理はとてもシンプルです。
 それは純真無垢な状態の中に在ることです。
 これが語られるべきすべてなのです。

 それにもかかわらず、この単純な真理を教えるために多くの宗教、教義、修練方法、そしてそれらの間での論争など……。
 ああ、何と哀れなことでしょう!

チャドウィック少佐
 しかし人々は単純なことに満足しません。
 彼らは複雑なことを求めているのです。

マハルシ
 まったくそのとおりです。
 なぜなら、彼らは何か精巧に作り上げられた、魅惑的で難解なものを求めているからです。
 だからこそ、これほど多くの宗教が現れ、それぞれが非常に複雑で、それぞれの宗教の教義信条に信奉者と反対者がいるのです。

 例えば、普通のキリスト教徒は、「神はどこか遥か遠くの天上界にいて、助け導かれないかぎり到達することはできない。キリストだけが『彼』を知り、キリストだけが私たちを導いてくれるのだ。キリストを礼拝しなさい。そうすれば救われるだろう」と言われないと満足できません。
 「神の王国はあなたの内に在る」という単純な真理が語られても彼らは満足できず、そのような言葉に複雑でもってまわった意味合いを読み取ろうとするでしょう。
 成熟した心だけが、単純な真理をあるがままに理解するのです。

チャドウィック少佐は、後に瞑想中に知らぬうちに起こる恐怖について語った。
霊性(スピリット)が粗大な身体から分離するように感じられ、その感覚が彼に恐怖をもたらすということだった。

マハルシ
 誰にとっての恐怖でしょう?
 それは真我と身体を誤って同一視する習慣によるものです。
 その分離の体験が何度も起これば、それに慣れるようになり、恐怖もなくなるでしょう。

141鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/16(金) 22:59:31 ID:1d4drIFg0
恐れは無知からやってくるものじゃ。
自分が元から意識だけの存在であったと確信すれば゜おそれも消えるのじゃ。
信頼するグルの言葉とか、学んだ知識であっても善いのじゃ。
そのようにして未知の領域に進んでいくのじゃ。

142避難民のマジレスさん:2019/08/17(土) 00:19:45 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話97

1935年11月19日

アンバラから来た紳士、ラーマチャンダール氏が尋ねた。

「ハートはどこにあるのでしょうか?
 実現とは何なのでしょうか?」

マハルシ
 ハートとは身体的なものではありません。
 それは霊的なものです。
 フリダヤムとはフリト(ハート)とアヤム(私)を足したもの──「これが中心(センター)」です。
 それはそこから想念が立ち現れ、その中にとどまり、その中へと消え去る場所です。
 想念とは心の内容であり、それが宇宙を形作っています。
 ハートはすべての中心なのです。

 ヤトーヴァー・イマーニ・ブーターニ・ジャーヤンテー「それらの存在が生まれ出るところである『それ』」、それがブラフマンであると『タイッティリーヤ・ウパニシャド』の中に述べられています。
 ブラフマンがハートなのです。

質問者
 どのようにハートを実現するのでしょうか?

マハルシ
 一瞬でさえ真我を体験しない人はいません。
 なぜなら、自分が真我から離れて存在することを認める人など一人もいないからです。
 彼は真我であり、真我はハートなのです。

質問者
 はっきりわかったとは言えません。

マハルシ
 深い眠りの中にあなたは存在しています。
 目覚めにおいてもあなたはそこにいます。
 同じ自己がその両方の状態の中に在るのです。
 違いは、世界に気づいているかいないかだけです。
 世界は心とともに立ち現れ、心とともに沈みゆきます。
 立ち現れては沈みゆくもの、それは真我ではありません。
 真我は心を生じさせ、維持し、融かし去ります。
 それゆえ、真我はすべての根底に在る原理なのです。

 「あなたは誰ですか」と尋ねられると、あなたは胸の右側に手を当てて「私」と言います。
 このように、あなたは気づかぬうちに真我を指し示しているのです。
 真我はこうして知られます。
 個人が不幸なのは、身体と心を真我と混同するからです。
 この混乱は誤った知識のためです。
 誤った知識を消し去ることだけが必要であり、そのような消去が実現をもたらすのです。

質問者
 どうやって心を制御するのでしょうか?

マハルシ
 心とは何でしょうか?
 誰の心でしょうか? 

質問者
 心はいつもさ迷い出します。
 私にはとてもコントロールできません。

マハルシ
 さ迷い出すのが心の本性です。
 あなたは心ではありません。
 心は湧き起こり、沈みゆきます。
 心は一時的で移ろいやすいものですが、あなたは「永遠なるもの」なのです。
 真我以外に存在するものは何もありません。
 真我の内に在ること、これが要点です。
 心については気にせずにいなさい。
 もしその源を探究すれば、心は消え去り、不変の真我が残るでしょう。

質問者
 心を制御する必要はないと言われるのですか?

マハルシ
 真我を実現すれば、制御しなければならないような心はなくなるのです。
 心が消え去るとともに、真我は輝き出します。
 真我を実現した人の心が活動的であろうとなかろうと、彼にとっては真我だけが残ります。
 なぜなら、心と身体と世界は真我から離れたものではないからです。
 それらは真我から立ち現れ、真我の中に沈みゆき、真我から離れることはありません。
 それらが真我とは別に存在できるでしょうか?
 ただ真我だけに気づいていなさい。
 なぜその影について心配するのですか?
 どうしてそれらが真我に影響を与えると言うのでしょう?

143鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/17(土) 21:31:11 ID:1d4drIFg0
心を制御するのは、心の源を追及するためなのじゃ。
それが出来るならば無理に心を制御する必要は無いのじゃ。
無理に心を制御してしまうとクリシュナムルティの言うとおり、鈍く愚かな心になってしまうのじゃ。
全ての注意を心の源に向けて追求していくのじゃ。
どこまでも進んでいけば悟りも見出されるのじゃ。

144避難民のマジレスさん:2019/08/18(日) 00:08:26 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話98

バガヴァーンはさらに説明を続けた。

マハルシ
 真我はハートです。
 ハートは自ら光を放っています。
 光はハートから現れ、心の座である脳に達します。
 世界は真我の光を反映して輝く心によって見られます。
 つまり世界は心の助けを借りて知覚されるのです。
 心が真我の光に照らされているとき、それは世界に気づき、照らされていないときは世界に気づいていません。
 もし心が光の源へと振り返れば、外界の知識は消え去り、真我だけがハートとして輝き出すでしょう。
 月は太陽の光の反映によって輝いています。
 太陽が沈めば、月は物事を見るのに有用ですが、太陽が昇れば、空におほろげな姿は見えても月を必要とする人はいません。

 心とハートについても同じことです。
 心は反映された光ゆえに有用です。
 それは物事を見るために用いられます。
 それが内面に向かえば、光の源はそれ自体で輝いているため、心はおぼろげになり、真昼の月のように無用となるのです。

145鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/18(日) 22:22:39 ID:1d4drIFg0
光とは認識の喩えなのじゃ。
実際にピカピカ光るものがあるわけではないのじゃ。
アートマンからの知覚力が脳に作用して世界も知覚されるというのじゃ。
世界から離れて知覚力を内側に向けるとアートマンが実現するというのじゃ。

146避難民のマジレスさん:2019/08/19(月) 00:32:04 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話99

あるサンニャーシーが尋ねた。

「真我は心を超えているが、実現は心によって為される」。
 マノー・ナ・マヌテー、マナサー・ナ・マタム。
 そして
「心はそれについて考えることができない。
 それは心によっては考えられない。
 ただ心だけが真我を実現できる」。
 マナサイヴェーダマプターヴャムと言われています。
 どうすればこの矛盾を解くことができるでしょうか?

マハルシ
 アートマンは死んだ心(ムリタ・マナス)、つまり内面に向かい想念がなくなった心によって実現されます。
 そのとき、心はそれ自身の源を見て「それ」となるのです。
 それは主体が対象を知覚することとは異なります。

 部屋が暗いとき、照らすためには照明が、そして認識するためには目が必要となります。
 しかし太陽が昇れば、照明の必要なしに対象物は見られます。
 太陽を見るのに照明の必要はありません。
 ただあなたが自ら輝く太陽に目を向けるだけでいいのです。

 心においても同様です。
 対象物を見るには、反映された光である心が必要となります。
 しかしハートを見るには、心をそれに向けるだけで十分です。
 そのとき、心はおのずと失われ、ハートが輝き出すのです。

*マノー・ナ・マステー、マナサー・ナ・マタム:『ケーナ・ウパニシャド』1-5

それは心によって考えることができない。
心はそれによって考える。
それがブラフマンだと知りなさい。
世界が崇拝するものはブラフマンではない。

*マナサイヴェーダマプターヴャム:『カタ・ウパニシャド』4-11

ただ心だけがそれを実現できる。

147鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/19(月) 22:36:40 ID:1d4drIFg0
ブラフマンはアートマンと同じなのじゃ。
自らの心に全ての知覚と注意力を向けたならばそれは見出されるのじゃ。
全ての認識の源泉であるそれはすべてを認識するが認識はされないのじゃ。
それがアートマンであり、ブラフマンなのじゃ。

148避難民のマジレスさん:2019/08/20(火) 01:22:49 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話100

シュリー・バガヴァーンは『カイヴァリャ・ナヴァニータム』から数節引用して説明した。

訳注:この対話においてマハルシは、いかに純粋意識である真我(ブラフマン)から世界と個人という幻影(マーヤー)が現れたかを、AからHまでの七つの異なったモデルを用いて繰り返し説明している。

マハルシは説明を会話で行っており、以下の表やチャートは記録者の便宜による。



       【至高なるもの】
 絶対知識、観照者、自ら輝く核、ハート、真我
          ↓
         【個人】
 潜在的なヴリッティ(心の様態)と反映された光で構成された
      「知る者」であるジーヴァ
          ↓
      【内的知性と外向的な心】
 ヴリッティ(心の様態)と反映された光で構成された
   芽としてのブッディ(知性)とマナス(心)。
    これがアンタカラナ(内的器官)である
    ↓             ↓
  【対象物として形作られた  【一般的知識】
   心の状態】
    ↓             ↓
  【その両方が私たちの知覚する世界を構成する】


*心の様態:ヴリッティ。変化変容する心の状態。想念の波動。


B         【真我】
         (純粋知識)
           ↓
         【ジーヴァ】
       (プラマートリ=知る者)
           ↓
         【知性と心】
     プラマーナ(知る方法)=知覚
     ↓           ↓
 【対象物として見られる   【知識】
   心の様態】     (パラ・チャイタニャ)
           
さまざまな心の様態は外的な対象物としての形をとり、その様態の上に反映された光が対象物を照らし出します。
心の様態を無視して、対象物を照らし出している光の源を探し出せば、心は静まり、光はおのずと輝き出すでしょう。
心は一般に、ラジャス(活動性、激質)とタマス(不活発性、闇質)を含んだ揺れ動く心として知られています。
ラジャスとタマスが不在になれば心は純粋になり、自ら輝き出します。
これが真我実現です。
それゆえ、心は実現のための手段だと言われるのです。


C        【純粋意識】
      (永遠かつ常在の観照者)
           ↓
        【アンタカラナ】
   内的器官+反映された光(ジーヴァ:プラマートリ)
           ↓
  心の様態と光が一緒になったものがプラメーヤ(知られるもの)
 対象物は粗大なものであり、光はパラ・チャイタニャ(知識)と呼ばれる


D   個我(ジーヴァ)の中の内的器官(アンタカラナ)は
       以下の要素で構成されている

  【サットヴァ】【ラジャス】【タマス】
    知識    心の様態  粗大な対象物
    光     知性、心  世界

       同様に、宇宙における
  宇宙的心(永遠の存在)は以下の要素で構成されている

  【サットヴァ】【ラジャス】【タマス】
  イーシュヴァラ 個人    宇宙
  宇宙の主    ジーヴァ


E 【ブラフマン=サット】【チット】【アーナンダ】
         存在   意識   至福
     基盤(アーダーラ)  |____|
                 |
              ヴィシェーシャ
             =マーヤーによる区別            
               __|__
               |     |
       自然、宇宙、世界 心が紡ぎ出した多様な対象物

幻影(マーヤー)は存在(サット)を覆い隠すことはできませんが、意識(チット)と至福(アーナンダ)を個人のものであるかのように見せることで覆い隠してしまいます。


F 【ロープ】【おぼろげな光の中で】【蛇として現れる】
    ↓      ↓        ↓
    存在    マーヤー     Eに見られる
    基盤     幻影      心が紡ぎ出した
                   特定の対象物

149避難民のマジレスさん:2019/08/20(火) 01:24:14 ID:okdDpu6.0
G 

サットとは存在、つまり基盤(アーダーラ)のことです。
サットから個としてのジーヴァが現れます。
ジーヴァは自分自身を粗大な身体と同一視するという無知に覆われています。
ここでいう無知は、真我を探究しないことを意味しています。
実際には、ジーヴァは知識以外の何ものでもないのですが、無知ゆえに粗大な身体との自己同一化が起こるのです。



再び、師は赤い熱鉄球(タプタ・アヤハ・ピンダヴァト)の比喩を用いてそれを解説した。

鉄の玉に火を加えることが赤い熱鉄球を形作るように、世界に純枠な意識(チット)を加えることが個我(ジーヴァ)を形作るのです。


*『カイヴァリャ・ナヴァニータム』1-26

15世紀のアドヴァイタの聖典『カイヴァリャ・ナヴァニータム』は、「束縛と解放、世界という幻影とその幻影の消去」について説明している。
この対話においてマハルシは、いかに純粋意識である真我(ブラフマン)から世界と個人という幻影(マーヤー)が現れたかを、AからHまでの7つの異なったモデルを用いて繰り返し説明している。

しかし彼自身は、「世界創造はまったく一度も起こらなかった」とする「非起源論」が究極の真理であると説いているため、この世界創造の過程の説明は、「非起源論」を受け入れることができず、創造の過程に関心を持つ探究者の知的好奇心を満足させたうえで、彼らの関心を創造の源である真我に向けさせるためのものでしかない。

また、この対話の中の図や表は、マハルシが自分で描いたわけではなく、記録者が自分の理解に従って描いたものである。


*赤い熱鉄球 (タプタ・アヤハ・ピンダヴァト)

鉄の球は硬く冷たいが、火に熱せられると柔らかく熱くなり、火の赤みを帯びる。
火から離せば鉄の球は元のとおりになる。
鉄の球は身体を表し、火は意識を表す。
身体自体に生命意識はない。
しかし意識が身体に入ると、身体は意識の質と付属性を得たかのように見え、意識は身体に限定されたかのように見える。

150鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/20(火) 22:05:49 ID:1d4drIFg0
無知とは肉体とか心が個体であり、自分と思うことなのじゃ。
それは仏教の無明と同じなのじゃ。
はっきりした叡智が無ければ身体や心が個我と思うのじゃ。
それらをはっきりと観察して気付くことで智慧も現われるのじゃ。

151避難民のマジレスさん:2019/08/21(水) 00:13:01 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話101

アンバラから来た紳士が尋ねた。

「ドラウパディーのサリーが無限の長さになったことを、どうすれば合理的に説明できるでしょうか?」

マハルシ
 霊的問題は合理主義に適しません。
 霊性は超越的なものです。
 奇跡はドラウパディーが自分自身を明け渡した後に起こりました。
 それゆえ、秘密は明け渡しにあるのです。

質問者
 どうすればハートに達することができるでしょうか?

マハルシ
 ハートに達したいと望んでいるあなたは、今どこにいるのですか?
 あなたは真我から離れて存在しているのですか?

質問者
 私は身体の中にいます。

マハルシ
 特定の場所ですか、それとも全身ですか?

質問者
 全身です。
 私は全身に広がっています。

マハルシ
 どこから広がっていると言うのですか?

質問者
 わかりません。

マハルシ
 そうです。
 あなたはいつもハートの中にいるのです。
 けっしてそれから離れたことなどなかったため、それに到達すべきだということもないのです。
 深い眠りと目覚めのあなたの状態を考えてみなさい。
 これらの状態もまたあなたのものではありません。
 それらは自我のものです。
 意識は不変で常に区別されないままとどまるのです。

質問者
 理解はできても、それを感じられないのです。

マハルシ
 その無知は誰のものですか?
 見いだしなさい。

質問者
 あまりにも難しすぎます。

マハルシ
 難しいという考え自体が誤りなのです。
 そのような考えはあなたの求めているものを得る助けにはならないでしょう。
 もう一度尋ねます。
 難しいと思っているのは誰でしょうか?

質問者
 回りまわって「私」に戻ってくることはわかります。

マハルシ
 なぜなら、あなたは常に「それ」であり、けっして「それ」から離れたことなどなかったからです。

 真我として在ることほどシンプルなことはありません。
 それは努力も助けも必要としません。
 人は誤った自己同一化を棄て去って、永遠の、自然な、本来の状態にとどまらねばならないのです。


*ドラウパディーのサリーが無限の長さに…

大叙事詩『マハーバーラタ』において、ドラウパディーはパーンダヴァ5人兄弟の共有の妻となる。
長男であるユディシュティラは、カウラヴァ兄弟の長男ドゥルヨーダナの陰謀により、賭博の達人シャクニにサイコロ賭博ですべてを賭けて負け、王国を失ったうえ、最後に妻までも賭けるようにさしむけられ、やはり負けてしまう。
ドゥルヨーダナの弟ドゥフシャーサナに髪の毛をつかまれて賭博の会場に連れてこられ、公の前でサリーをはがされそうになったドラウパディーは、クリシュナ神に救いを求める。
サリーはクリシュナ神の加護により無限の長さを保って彼女を救い、敵は神の力の前に降伏する。

152鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/21(水) 22:38:37 ID:1d4drIFg0
全身に自分があると言う事は無いのじゃ。
腕を切られても自分はあるじゃろう。
足とか胴体とかどんどん切られても自分はあるじゃろう。
実際に自分がどこからなくなるのか観てみなければならんのじゃ。
実践する者だけが進んでいくのじゃ。

153避難民のマジレスさん:2019/08/21(水) 23:45:53 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話102

翌日、アンバラから来た紳士が再び訪れて尋ねた。

「人はグルから教えを受けるべきだと言われています。
 単に本を読むだけでは助けになりません。
 私は多くの本を読んできましたが、実際的な助けは読書からでは得られません。
 どうか私が何を、いつ、どこで、どのようにすべきかということについて教えてください」

師は沈黙を保った。
彼の沈黙は「今ここで、平和に、静かでありなさい。ただそれだけです」と言っているようだった。
しかし質問者はそのようにとらえることはできなかった。
彼は何か具体的なことを求めていたのだ。

154鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/22(木) 23:18:19 ID:1d4drIFg0
マハリシは沈黙していたのじゃ。
正にそのようにすべきだということなのじゃ。
それが沈黙の教えなのじゃ。
その教えを理解できる者は少ないのじゃ。
誰もが言葉になった教えを求めるのじゃ。
しかし、沈黙の教えこそが最も偉大な教えなのじゃ。
そのまま悟りの境地を示すことであるからのう。

155避難民のマジレスさん:2019/08/22(木) 23:52:39 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話103

翌日になって、シュリー・バガヴァーンは語った。

マハルシ
 このような人々は、ジャパやディヤーナやヨーガなどを求めます。
 今まで何をしてきたのか伝えもせず。
 それではいったい何を彼らに言えると言うのでしょう?
 なぜジャパやパラ・シュルティをするのでしょうか?
 ジャパをするのはいったい誰でしょうか?
 誰がその報い(業果)を得るのでしょう?
 彼らには真我を見ることができないのでしょうか?
 たとえ他の人からジャパやディヤーナを教えられたとしても、彼らはしばらくの間続けますが、いつもヴィジョンや夢や魔力のような結果を求め、もしそれが手に入らなければ、「進歩しない、タパス(修行)に効果がない」などと言うのです。
 ヴィジョンのようなものは進歩のしるしではありません。
 単にタパスに従事しているという事実もまた進歩なのです。
 求められているのは着実であることです。
 何よりもマントラや神に自らをゆだねてその恩寵を待たねばならないのに、彼らはそうしません。
 ジャパはひとたび口に出すだけでも良い効果があるのです。
 たとえその人がそれに気づいていようといなかろうと。


*パラ・シュルティ

儀式をすることで神から受ける報い。

156鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/23(金) 22:28:15 ID:1d4drIFg0
ただひたすらに知識を求めることに意味は無いのじゃ。
必要な知識を得たら実践を続けるとよいのじゃ。
実践しないのに知識だけを求めるのは無意味なのじゃ。
実践のために知識はあるのであるからのう。

157避難民のマジレスさん:2019/08/23(金) 23:58:49 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話104

1935年11月28日

デリー出身のインド政府鉄道の役員であるキショーリーラール氏は、飾らない静かな物腰で、威風堂々としている。
胃潰瘍を患っているため、町に宿泊している。
五年前、彼は帰依信仰(バクティ)の文学を研究し始めた。
シュリー・クリシュナの帰依者でもある。
彼はすべてにクリシュナを見、クリシュナはたびたび彼の目の前に現れて至福を与えた。
仕事は彼の努力なしに進んだ。
あたかもすべてはクリシュナ自身によって彼のために為されるかのようだった。

後に、彼はあるマハートマー(偉大な聖者)との接触を得、ヴェーダーンタ哲学を学ぶこととニラーカーラ・ウパーサナ、つまり無形の存在に帰依することを勧められた。
彼はすでに『ウパニシャド』、『アシュターヴァクラ・ギーター』、『アヴァドゥータ・ギーター』、『シュリーマッド・バガヴァッド・ギーター』などを含む七百冊の哲学書とヴェーダーンタの本を読んでいた。
彼はまたシュリー・バガヴァーンの英訳本も読んでおり、非常に深い印象を受けていた。

以前、彼が死の瀬戸際にあったとき、人生においてまだシュリー・バガヴァーンを訪れていないという思いだけが唯一彼をとらえた。
こうして彼は短い滞在だがアーシュラマムを訪れたのだった。
彼はただシュリー・バガヴァーンに触れていただき、恩寵を授かることだけを懇願した。

師は『バガヴァッド・ギーター』から引用して言った。

マハルシ
 「私はアートマンである」。
 アートマイヴァーハム・グダーケーシャ。

 真我(アートマン)はグルであり、恩寵でもあります。
 アートマンなしに生きる人はいません。
 人は常に接触しています。
 外的な接触は必要ないのです。

質問者
 理解しています。
 外的な接触を意味しているのではありません。

マハルシ
 真我よりも親しいものはないのです。

質問者
 三ヶ月前にシュリー・クリシュナが私の前に現れ、こう言ったのです。
 「なぜあなたは私にニラーカーラ・ウパーサナ(無形の真理への瞑想)を求めるのか?
  それはただサルヴァ・ブーテーシュ・チャ・アートマナーン・サルヴァ・ブーターニ・チャ・アートマニ(真我はすべてに存在し、すべては真我の中に存在する)ということなのだ」と。

マハルシ
 それは全真理を包括しています。
 しかし、これできえ間接的(アウパチャーリカ)です。

 事実は、「真我以外の何ものも存在しない」ということです。
 世界は心の投影でしかありません。
 心はアートマンから現れます。
 それゆえ、アートマンだけが「唯一の存在」なのです。

質問者
 それでも、それを実現するのは困難なことです。

マハルシ
 実現するようなことなど何もありません。
 それはニティヤ・シュッダ・ブッダ・ムクタ(永遠、純粋、覚醒、解放)です。
 それは自然で永遠のものです。
 新たに得るものなど何もありません。
 その反対に無知を棄て去らなければならない、ただそれだけです。

 この無知の源まで遡らなければなりません。
 誰にとっての無知なのでしょうか?
 何に無知なのでしょうか?
 主体と対象があります。
 そのような二元性は心の特性です。
 そして心はアートマンから生まれるのです。

質問者
 そうです。
 無知はそれ自体では存在できません。

(彼はついに降参するとこう言った。
 「医師が患者のどこが悪いかを見つけ出し、それにしたがって治療をするように、シュリー・バガヴァーンもまた私に同じようにしてください」。
 彼はまた「本の研究やそれから学ぼうとする傾向を完全に失いました」と語った)。



*サルヴァ・ブーテーシュ・チャ・アートマナーン…:『バガヴァッド・ギーター』6-29

ヨーガによって真我を実現した人は、自己を万物の中に見、万物を自己の中に見る。
それゆえ、彼は一切を平等に見ている。

158鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/24(土) 21:34:20 ID:1d4drIFg0
アートマンを実現するというが実際には実現すべきものはないのじゃ。
悟りを得るとか悟りを開くとか言っても実際に得たり開いたりするものはないようにのう。
それらは言葉の性質から仮に説いているだけなのじゃ。
自我も認識も滅した本来の心の状態がアートマンの実現であり、悟りなのじゃ。

159避難民のマジレスさん:2019/08/24(土) 23:50:16 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話105

 イェーナ・アシュルタン・シュルタン・バヴァティ。

 それを知れば、すべての未知なるものは既知となる。
 
  『チャーンドーギヤ・ウパニシャド』第6巻1章3節

バガヴァーンの従者であるマーダヴァ・スワミが尋ねた。

『チャーンドーギヤ・ウパニシャド』の中にある偉大な確言「タット・トヴァム・アシ」(汝それなり)の教えには九つの方法があるのでしょうか?

マハルシ
 いいえ、そうではありません。
 方法は一つだけです。
 ウッダーラカはサット・エーヴァ・ソーミャ「ただ存在だけが在る」をシュヴェータケートゥの断食とともに説明しました。
 
 個人の中のサット(存在)は、断食によって明らかになります。
 このサットは異なった花から集められた蜜のように、すべての生きとし生けるものの中に同じように存在しています。

 深い眠りの状態の説明にあったように、各個人の中にあるサットに区別はありません。
 もしそうなら、なぜ一人ひとりが眠りの中でそのことを知らないのでしょうか?

 なぜなら、眠りの中では個としての存在が失われ、ただサットだけが残ったからです。
 川は海の中に失われます。
 もし失われたのなら、そこにサットは在るでしょうか?

 もちろんです。
 木は刈り込まれても再び生長します。
 これが疑いようのない生命のしるしです。
 しかしそれは潜在的な状態でも存在しているのでしょうか?

 そうです。
 塩と水の例をとってみなさい。
 水の中の塩の存在は微量です。
 しかし目には見えなくとも他の感覚でなら認識できます。
 どうやって知るのでしょうか?
 他の方法とは何でしょうか?

 調べることです。
 ガンダーラの森の中をさ迷った人が家路にたどり着いたように。

 進化と退化の中、顕現と崩壊の中に唯一存在するもの、それがサットです。
 テージャハ・パラスヤーン、デーヴァターヤーン「至高なるものの中に融け入る光」

 不誠実な人は炎のテストで火に触れると火傷をします。
 炎によって彼の不誠実さが露わにされるのです。
 誠実さはおのずと明らかなものです。
 真実の人、真我実現した人は、世界、誕生と死などといった偽りの現れの影響を受けずに幸福に生きますが、不誠実で無知な人は不幸なままなのです。


*イェーナ・アシュルタン・シュルタン…:『チャーンドーギヤ・ウパニシャド』6-1-3

それによって聞かれたことのない教えは聞かれ、熟考されたことのない教えは熟考され、知られたことのない教えは知られる。

*サット・エーヴァ・ソーミャ:『チャーンドーギヤ・ウパニシャド』6

ただ存在だけが在る。
『チャーンドーギヤ・ウパニシャド』第6章の中で、聖者ウッダーラカは息子のシュヴェータケートゥに「ただ存在だけが在る」と説く。

*テージャハ・パラスヤーン、デーヴァターヤーン:『チャーンドーギヤ・ウパニシャド』6-8-4,6、6-2-1

死の瞬間、話す力は心の中に融け入り、心はプラーナ(生気)の中に融け入る。
プラーナはテージャス(光輝)の中に融け入り、テージャスはパラマートマンの中に融け入る。

160鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/25(日) 22:15:59 ID:1d4drIFg0
方法は常に一つなのじゃ。
自らを追求することなのじゃ。
心の中にある自分という観念を追及して明らかになる時全ても明らかになるのじゃ。
全ての法の違いはそれを別のやり方で行うだけなのじゃ。

161避難民のマジレスさん:2019/08/26(月) 00:09:37 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話106

1935年11月29日

スワミ・ヨーガーナンダ(パラマハンサ・ヨガナンダ)と数人の同行者が八時四十五分に到着した。
彼は大柄ながら落ち着きがあり、清楚な身なりをしていた。
彼の長い黒髪は肩まで被っていた。
一行はアーシュラマムで昼食を取った。

秘書のC・R・ライト氏が尋ねた。

「どうすれば神を実現できるでしょうか?」

マハルシ
 神は未知なる実体です。
 さらに彼はあなたの外側に存在しています。
 一方、真我は常にあなたとともに在り、それはあなたなのです。
 なぜ自分に親しいものから立ち去って、外側へと向かうのでしょうか?

質問者
 この真我とは何でしょうか?

マハルシ
 誰もが真我を知っています。
 しかし明確には知られていません。
 あなたは常に存在しています。
 その「在ること」が真我なのです。
 「私は在る」(I AM)が神の名前です。
 神を定義した言葉の中で、『旧約聖書』の出エジプト記第三章第十四節にある「私は私で在るものである」(I AM THAT I AM)ほどふさわしい言葉はありません。
 他にも「ブラフマイヴァーハム」(ブラフマンは私である)、「アハン・ブラフマースミ」(私はブラフマンである)、「ソーハム」(私は彼である)という確言があります。
 しかし「私は在る」(I AM)を意味するエホヴァという名前ほど直接的に表現したものはないでしょう。
 絶対的存在とは、「在るもの」です。
 それが真我であり、神なのです。
 真我を知れば神を知ります。
 実際、神は真我以外の何ものでもないのです。

質問者
 なぜ善と悪が存在するのでしょうか?

マハルシ
 それらは相対的な言葉です。
 そこには善と悪を見分ける主体が存在しているはずです。
 その主体が自我です。
 自我の源を探究しなさい。
 そうすれば、それは真我の中で消滅します。
 自我の源は神です。
 この神の定義のほうが具体的で、あなたにとってより理解しやすいでしょう。

質問者
 おっしゃるとおりです。
 ではどうすれば至福を得ることができるのでしょう?

マハルシ
 至福とは獲得するようなものではありません。
 その反対に、あなたは常に至福なのです。
 欲望は、不完全であるという感覚から起こるものです。
 この不完全という感覚は誰にとって起こるのでしょうか?
 調べなさい。
 深い眠りの中で、あなたは至福に満ちていました。
 今のあなたはそうではありません。
 深い眠りの至福と目覚めにおける至福のない状態の間を、いったい何が遮っているのでしょうか?
 それは自我です。
 その源を探し出し、あなたが至福であることを見いだしなさい。

 新しく得るものなど何もありません。
 その反対に、「自分は至福ではない」とあなたに考えさせる無知を取り除かなければならないのです。
 誰にとってこの無知はあるのでしょうか?
 それは自我にとってです。
 自我の源をたどりなさい。
 そうすれば自我は消え去り、ただ至福だけが残るでしょう。
 それは永遠なるものです。
 今ここで、あなたは「それ」なのです。
 それがすべての疑いを解く鍵です。
 疑いは心の中に起こります。
 心は自我から生まれ、自我は真我から立ち現れます。
 自我の源を探し出しなさい。
 そうすれば真我は顕わになり、ただ「それ」だけが残るのです。
 宇宙とは自我が拡張したものにすぎず、それは真我と異なったものではありません。

162避難民のマジレスさん:2019/08/26(月) 00:14:52 ID:et2usUsg0
質問者
 最善の生き方とは何でしょうか?

マハルシ
 それはその人がジニャーニであるかアジニャーニであるかによって異なります。
 ジニャーニは何一つ真我と異なったもの、あるいは分離したものと見ません。
 すべてが真我の中に在るのです。

 世界が存在し、その中に身体があり、その身体の中にあなたが存在していると想像するのは間違いです。
 もしも真理が知られたなら、宇宙もその彼方に在るものも、ただ真我の中に存在するだけだということがわかるでしょう。
 視野はその人の見解にしたがって異なるものです。
 視野は目を通して得られます。
 目はどこかに位置しているはずです。
 もしあなたが粗大な目で見るなら、他の物事は粗大に見えるでしょう。
 もし精妙な目(心の目)で見るなら、他の物事も精妙に見えるでしょう。
 もしも目が真我となるなら、真我は無限であるため、その目も無限なものとなります。
 そうすれば、真我と異なるものを見ることなどなくなるのです。

彼はマハルシに感謝の意を表した。

マハルシは「感謝を表す最善の方法は、常に真我としてとどまることです」と答えた。


*「私は私で在るものである」…:I AM THAT I AM

神がモーゼに告げた名前 I AM THAT I AM は、これまで日本の神学者や旧約聖書研究者によって、「私は『私は在る』という者だ」「私は在るものである」「わたしは有って有る者」「私は私で在るものである」などの表現で解釈されてきた。
エヘイェ・アシェル・エヘイェ(I AM THAT I AM)というへブライ語を文字通り訳せば、「私は私として在る」 I am as I am または 「私は私で在る」Iam what I am となるだろう。

神の名前、Jehovah(エホヴァ)つまり「私は在る」I AM は、同じ語根から派生した2つの言葉の組み合わせであり、1つは「存在」、もう1つは 「現在」を意味している。
別の言葉で言えば「私は今存在している」となり、これが英語で I AM と表されたのである。
聖書の別の箇所で、神はこのような表現もしている。
「私は在った。私は在る。私は在るだろう。ただ私だけが存在する」

これらの言葉は神が名称も形態も超越した、言葉では表現できない「存在」であることを示している。
それゆえ、ユダヤ教徒はけっして神の名を口にせず、神を偶像(イメージ)として表現することを禁じてきた。

163鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/26(月) 20:39:40 ID:1d4drIFg0
神とは全てを創造した主体であり、在るものすべてだとしたらアートマン以外に無いのじゃ。
宇宙の全ても今ここでアートマンによって創造され、在るものとして在るのじゃ。
世界があって人があり、アートマンがあるのではないのじゃ。
すべてはアートマンとして在るのみなのじや。

164避難民のマジレスさん:2019/08/26(月) 23:46:03 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話107

後にスワミ・ヨーガーナンダが尋ねた。

「どうすれば人々の精神性を向上させられるでしょうか?
 どのような指導を与えるべきでしょうか?」

マハルシ
 それらは個人の気質と彼らの心の霊的成熟度にしたがって異なります。
 全般的な教えというものはありえないのです。

質問者
 なぜ神はこの世に苦しみをあらしめているのでしょうか?
 神は全能の力でたちどころに苦しみを取り除き、宇宙全体に神の実現を命ずるべきではないでしょうか?

マハルシ
 苦しみは神を実現するための手段なのです。

質問者
 別の方法を定めるべきではありませんか?

マハルシ
 それが神のやり方なのです。

質問者
 ヨーガや宗教は苦しみに対する解毒剤なのでしょうか?

マハルシ
 それらは苦しみを克服する助けとなります。

質問者
 なぜ苦しみがあるのでしょう?

マハルシ
 誰が苦しむのですか?
 苦しみとは何でしょうか?

答えはなかった。
ヨーギーはついに立ち上がると、「私の仕事のために祝福をお与えください」とシュリー・バガヴァーンに祈り、「性急に去ることを遺憾に思います」と告げた。
彼はとても誠実で、献身的であり、感情に訴える人だった。


*Ramana Maharshi Rare video - Ramana Maharshi, Swami Yogananda & Paul Brunton

https://www.youtube.com/watch?v=DBRzHQzpdyk

165鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/27(火) 21:16:52 ID:1d4drIFg0
苦があれば人は苦を克服しようとして悟りもめざすのじゃ。
苦がなければ悟りを目指すものも少ないじゃろう。
老病死の苦を克服できるのは悟りを得るしかないのじゃ。
苦の主体が観られれば厭離が起きて苦もなくなるのじゃ。

166避難民のマジレスさん:2019/08/28(水) 00:00:16 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話108(対話105の統き)

質問者
 ウッダーラカは、(深い眠りの説明のように)すべてがサット(存在)から現れ出すと説明しました。

 身体は食物を取り、食物は水を必要とします。
 食物を消化するために、水は火を必要とします。

 『チャーンドーギヤ・ウパニシャド』によると、「光の輝きの源を探ること」(テージョー・ムーラマンヴィッチャ)、それが「存在の中に融け入ること」(サット・パラスヤーン・デーヴァターヤーン)です。
 もし私たちが「存在の中に融け入った」(サット・サンパンナハ)のなら、なぜ私たちはそれを悟らないのでしょう?

マハルシ
 異なった花々から集められた蜜がハチの巣の中で塊となるように、そしてその一滴一滴がどこから集められたのかわからないように、深い眠りや死におけるサット・サンパンナハでも、人々は自分の個としての存在を認識しません。
 彼らは気づかぬうちにその状態に陥り、目を覚ましたときに以前の彼らの個人的特性を取り戻すのです。

質問者
 たとえ異なった花々から集められた蜜でも、一塊となれば一滴一滴の特質を失ってしまいますが、蜜にはもともと個的な部分は存在しませんし、その源に戻ることはありません。
 一方、深い眠りに入った後で目覚めた個人は、以前と同じ個人として目覚めます。
 どうしてでしょう?

マハルシ
 ちょうど海に流れ入った川がその個としての存在を失い、蒸発して雨水となって丘に降り注ぎ、やがて川となって海へと流れ着くように、眠りに就いた個人もその個としての存在を失いますが、過去の心の潜在的傾向(ヴァーサナー)によって、目覚めの世界にまた個人として戻ってきます。
 このように死においてさえ存在(サット)は失われないのです。

質問者
 どうしてそのようなことがありえるでしょう?

マハルシ
 見てごらんなさい。
 木は枝を切られても再び生えてきます。
 生命の源が影響を受けないかぎり、それは生長し続けます。
 同様に、死においてハートの中に沈み込んだ過去世の潜在的印象(サンスカーラ)も死に絶えることはありません。
 それは機が熟せばハートから芽生え始めます。
 ジーヴァはこうして生まれ変わるのです。

質問者
 ハートの中に沈み込んだ微細なサンスカーラから、どうしてこの広大な宇宙が芽生えると言うのでしょうか?

マハルシ
 バンヤンの大木が小さな種子から芽生えたように、名称と形態をともなうこの広大な宇宙もハートから芽生えるのです。

質問者
 もしその起源がサットであるなら、どうしてそれを感じられないのでしょう?

マハルシ
 塩の山は目に見えても、水に溶けてしまえば見えなくなります。
 それでもその存在は味によって知られるのです。
 同様にサットは知性によって認識されなくとも、異なった方法、つまり超越的な方法で実現されるのです。

質問者
 どのようにでしょうか?

マハルシ
 密林で強盗に目隠しをされて置き去りにされた人が、道を尋ねて家に帰り着くように、無知で盲目になった人も、目の開いた人に尋ね、自己の源にたどり着くのです。

 グルーパデーシャ(師の教え)──

 ヴァーング・マナシ・サンパディヤテー、マナハ・プラーネー、
 プラーナステージャシ、テージャハ・パラスヤーン・デーヴァターヤーン・イティ。

 死の瞬間、話す力は心の中に融け入り、心はプラーナ(生気)の中に融け入る。
 プラーナはテージャス(光輝)の中に融け入り、テージャスはパラマートマン(至高の真我)の中に融け入る。

  『チャーンドーギヤ・ウパニシャド』第6巻8章6節

質問者
 もしそうなら、ジニャーニもアジニャーニも同じように死ぬはずです。
 なぜアジニャーニは転生し、ジニャーニはそうならないのでしょうか?

マハルシ
 サッティヤービサンダ、つまり無罪の人は罪人とは違い、熱せられた鉄球に触れても焼かれないように、サッドブラフマ・サッティヤービサンダ、つまりジニャーニはサット(存在、真理)の中に意識的に融け入りますが、他の人は気づかぬうちにサットの中に入り、気づかぬうちに放り出されるのです。

167鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/28(水) 22:01:39 ID:1d4drIFg0
人が眠っても起きて自分と認識するのは記憶が在るからなのじゃ。
記憶に拠って自己同一化しているのじゃ。
それが阿頼耶識の働きなのじゃ。
それが無くなれば自我もなくなるのじゃ。

168避難民のマジレスさん:2019/08/28(水) 23:44:07 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話109

1935年12月13日

パンジャブ州のアンバラから来た二人の紳士が、数週間ここに滞在していた。
シュリー・バガヴァーンにいとまごいをする直前に、そのうちの一人が尋ねた。

「どうすれば私の友人や一般の人々の精神的な怠情を取り除くことができるでしょうか?」

マハルシ
 あなたは自分自身の怠惰を取り除いたのですか?
 あなたの中であなたの怠惰を取り除こうと働きかけているその力が、他者にも働きかけるでしょう。
 あなたが他者に働きかけることのできる意思の力というものは存在しています。
 しかしそれは低い次元であり、望ましいものではありません。
 まずあなた自身の面倒を見なさい。

質問者
 どうすれば私自身の怠惰を取り除けるでしょうか?

マハルシ
 誰の「怠惰」なのですか?
 調べなさい。
 内側に向かいなさい。
 あなたのすべての探究を真我に向けなさい。
 あなたの内に働く力が他者にも働きかけるでしょう。

169鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/29(木) 22:25:23 ID:1d4drIFg0
マハリシの説くことは常に自らの心を探求することなのじゃ。
どのような質問にもそれが現われるのじゃ。
他人のことではなく自分の心に常に引き戻すのじゃ。
全ての問題と苦はそこにしかないからなのじゃ。

170避難民のマジレスさん:2019/08/30(金) 01:03:32 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話110

1935年12月14日

アメリカ人女性がバガヴァーンに、彼のサマーディの体験はどのようなものかと尋ねた。
バガヴァーンは彼女に、まず彼女自身の体験を語り、それが正しいものかどうか尋ねるべきだと提案した。
彼女はバガヴァーンの体験こそが正しいもので、知られる価値があり、彼女自身の体験は重要ではないと答えた。
そして彼女はシュリー・バガヴァーンの身体がサマーディの中で熱く感じたか冷たく感じたか、彼がティルヴァンナーマライに到着してから最初の三年半の間に、神への祈りを捧げたかどうかといったことを知りたがった。

マハルシ
 サマーディは心や言葉を超越しているため、描写することはできません。
 深い眠りが描写不可能なように、サマーディの状態はそれ以上に説明できないものなのです。

質問者
 しかし私は深い眠りの中で無意識だったことを知っています。

マハルシ
 意識や無意識は心の様態でしかありません。
 サマーディは心を超越しているのです。

質問者
 それでも、どのようなものかは言えるはずです。

マハルシ
 あなたがサマーディの中にいるときだけ、それを知るでしょう。

171鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/30(金) 22:56:34 ID:1d4drIFg0
既に言葉を超えたサマーディを言葉で描写することはできないのじゃ。
言葉にすれば嘘になるからのう。
そこに光があったとかいえば、他の者も自己暗示で光を感じてサマーディになったとか思うのじゃ。
否定でしか表せないものには自ら到達するしかないのじゃ。

172避難民のマジレスさん:2019/08/30(金) 23:53:31 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話111

1935年12月16日

アーンドラ・プラデーシュ州から来た紳士がブラフマ・バーヴァナについて尋ねた。

マハルシ
 「私はブラフマンである」や「すべてはブラフマンである」などと考えないこと自体がジーヴァン・ムクティ(解脱)です。

彼は啓示を受けた行為について尋ねた。

マハルシ
 行為が起こるにまかせなさい。
 それは純粋な真我に影響を及ぼさないのです。


*ブラフマ・バーヴァナ

ブラフマンを理解し、感じ取ること。

173鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/31(土) 23:00:52 ID:1d4drIFg0
もはやブラフマンに達したならば、ブラフマンに関する思考は無いのじゃ。
それもまた修行者を導くための法と知るからなのじゃ。
ブラフマンに達したならば全ての行為もなくなるのじゃ。
行為をする者も行為も行為の対象もないからなのじゃ。
それが無為なのじゃ。

174避難民のマジレスさん:2019/08/31(土) 23:53:28 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話112

1935年12月17日

ポール・ブラントン氏は『ウパデーシャ・マンジャリー』(霊的な教え)を読んでいて、自我、世界、神はすべて非実在であるという表現に出くわした。
彼は「神」に違った言葉を使うか、少なくとも限定形容詞、例えば「創造力」、あるいは「人格神」を使うことを望んでいた。

シュリー・バガヴァーンは、神はサマシュティ、つまり全体性に「存在」(Be-ing)を加えたもの、同じように、「私」は個人プラス「存在」、世界とは多様性プラス「存在」なのだと説明した。

マハルシ
 「存在」はどの場合においても実在です。
 万象、多様性、個人は非実在です。
 それゆえ、実在と非実在の統合、混同、偽りの同一化もまた誤りなのです。
 それはサッド・アサッドヴィラクシャナ、つまり実在と非実在(サットとアサット)を超越することです。
 実在は神を含めたすべての概念を超越するものです。
 「神」という名称が使われているかぎり、それは真実ではありえません。
 ヘブライ語のエホヴァ=「私は在る」(I AM)という表現は神を的確に表しています。
 絶対なる存在は描写を超えているのです。


「神」という言葉を置き換えることはできないし、またそうする必要もないのだ。
ブラントン氏は何気なく、
「先史時代には霊性はありましたが、高い知性はありませんでした。
 しかし現代では知性が発達しています」と言った。

シュリー・バガヴァーンはその知性が「誰の知性なのか?」という質問を起こしたのだと指摘した。

マハルシ
 その答えは「真我」です。
 それゆえ、知性は真我の道具なのです。
 真我はさまざまなものを比較評価すために知性を使います。
 知性は真我ではありませんが、真我から離れてもいません。
 真我だけが永遠であり、知性は現象にすぎないのです。
 人々は多様性の発達を知性の発達として語ります。
 知性は常に存在していました。

 ダーター・ヤター・プールヴァン・アカルパヤト。
 
 創造者は以前と同じように創造した。

  『リグ・ヴェーダ』第10巻190章3節

 あなた自身の状態について日々考えなさい。
 夢のない深い眠りの中に知性はありません。
 しかし今はそれがあります。
 子供の中に知性はありません。
 それは年齢とともに発達するのです。
 眠りの状態や子供の中に知性が種子として存在していなかったのなら、どうして現れることができたのでしょうか?
 この基本的事実を理解するために歴史を振り返る必要はありません。
 歴史における真理は個人における真理と同レベルのものなのです。


*『ウパデーシャ・マンジャリー』(霊的な教え)

最も初期の帰依者の一人、ナターナーナンダが書きとめたバガヴァーンと帰依者との対話の記録。

175鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/01(日) 21:31:59 ID:1d4drIFg0
全てを含んだものとして神もありえるのじゃ。
人格があったり特定の観念や宗教に結びついた神はありえないのじゃ。
それは観念であるからのう。
観念を超えた存在としての神をマハリシは説くのじゃ。

176避難民のマジレスさん:2019/09/01(日) 23:47:59 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話113

アーンドラ・プラデーシュ州から来た紳士がカルマ・ヨーガについて尋ねた。

マハルシ
 人は舞台の上の役者のように演じるべきです。
 すべての活動の中にはサット(真理)が基本原理として存在しています。
 それを心にとどめながら行為しなさい。


紳士は心の純粋性(チッタ・シュッディ)について尋ねた。

マハルシ
 チッタ・シュッディとは他のすべての想念を除いてただ一つの想念だけに集中することです。
 別の言葉では、「一意専心」(一点に集中された心)と呼ばれます。
 瞑想は心を清らかにするのです。

177鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/02(月) 21:56:55 ID:1d4drIFg0
集中によって雑念が退き、観察も強くなるのじゃ。
集中が無ければ観察も弱いのじゃ。
どこまでも自分を追求して行くには集中力も必要なのじゃ。
雑念の無い心が清らかな心なのじゃ。

178避難民のマジレスさん:2019/09/02(月) 23:48:21 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話114

1935年12月23日

東ドイツのフォン・ヴェルトハイム男爵が尋ねた。

「真我の知識と世間の知識との間には調和があるべきです。
 それらはともに発達すべきです。
 そうではありませんか?
 マハルシは同意されますか?」

マハルシ
 同意します。

質問者
 知性を超えた後、そして叡知が現れる前、そこには意識の前に世界の画像が現れます。
 そうではありませんか?


シュリー・バガヴァーンは、『ダクシナームールティ・ストートラム』の中にあるそれに相応する句を示して、
「画像は鏡の中の反映のようなものだ」と語った。

そして『ウパニシャド』からも引用した。

「鏡の中がそうであるように、祖先の霊(メイニーズ)の世界の中もそうである。
 水の中がそうであるように、ガンダルヴァの世界の中もそうである。
 あたかもブラフマ・ローカの中の光と影のように」

質問者
 霊的な目覚めが一九三〇年以来世界中で起こっています。
 マハルシはこれに同意されますか?

マハルシ
 その発展はあなたの見解によるものです。

質問者
 マハルシは私に霊的超越状態をもたらし、語ることはできなくとも理解することのできるメッセージを与えてくださいますか?


答えはなかった。


*『ダクシナームールティ・ストートラム』の中にあるそれに相応する句…

夢のごときマーヤーによって、外側にある街が鏡の中に映し出されるように、霊的目覚めとともに、自分自身の内側にある宇宙を自己の真我として見る彼。
原初のグル、ダクシナームールティに讃えあれ。

179鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/03(火) 23:24:10 ID:1d4drIFg0
世界は心によって創られているのであるから心が無ければ何も現われないのじゃ。
全ての者が同時に目覚めることもありえないのじゃ。
自らの努力が無ければならないからのう。
自己という迷信が無ければすべては正しく在るのじゃ。

180避難民のマジレスさん:2019/09/03(火) 23:57:46 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話115

1935年12月25日

M・フリードマン氏
 以前から望んでいたわけでもないのに、奇妙な体験をすることがあります。
 それはどこから現れるのでしょうか?

マハルシ
 その願望は今のものではないかもしれません。
 もし以前にあったのであれば、それで十分です。
 現在のあなたには忘れられているものであっても、やがて機が熟せば実を結びます。
 それがジニャーニにはプラーラブダが残っていると言われる所以なのです。
 もちろん、これは他者(アジニャーニ)の視点にしたがったものでしかありません。

181鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/04(水) 23:02:31 ID:1d4drIFg0
プラーラブダとはカルマの一つで前世からの報いをこの世で受けさせる作用が在るのじゃ。
それは悟った後にも起こるというのじゃ。
悟った者にも寿命や智慧の違いがあるのはそのせいだというのじゃ。
自分が望んだわけでもないのにいろいろな体験をするのもそのせいだとマハリシはいうのじゃ。

182避難民のマジレスさん:2019/09/05(木) 00:00:34 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話116

質問者
 ジーヴァはカルマによって束縛されていると言われています。
 そうなのでしょうか?

マハルシ
 カルマにその結実を楽しませなさい。
 あなたが行為者であるかぎり、あなたはまた楽しむ者でもあるのです。

質問者
 カルマから解放されるにはどうすればいいのでしょうか?

マハルシ
 そのカルマが誰のものなのかを見いだしなさい。
 あなたは自分が行為者ではないことを見いだすでしょう。
 そのとき、あなたは自由になるのです。
 それには神の恩寵が必要です。
 そのためには、神に祈りを捧げ、礼拝し、瞑想しなければなりません。

 努力なしに、つまり意図せずに起こる行為は束縛とはならないのです。

 ジニャーニでさえ彼の身体の動きから、行為をしていると見られています。
 努力や意図(サンカルパ)なしにカルマはありえません。
 それゆえ、すべての人にとってサンカルパが存在します。
 それらには二種類あります。
 束縛するもの(バンダ・へートゥ)と束縛しないもの(ムクティ・ヘートゥ)です。
 前者は放棄されるべきものであり、後者は培われるべきものです。
 以前のカルマなしに結実(業果)はありえず、以前のサンカルパなしにはカルマもありえません。
 行為者という感覚が続いているかぎり、解脱(ムクティ)でさえ努力の結果なのです。

183鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/05(木) 21:43:39 ID:1d4drIFg0
悟ったものでさえ学びに努めることで知識も増えるのじゃ。
学ぶという行為によって知識が増えるという結果が生まれるのじゃ。
行為無しに結果だけが生まれることは無いのじゃ。
実践にょって人は進歩して行くのじゃ。

184避難民のマジレスさん:2019/09/06(金) 00:34:14 ID:et2usUsg0
ラマナ・マハルシとの対話117

スリランカから来た人が尋ねた。

「真我実現のための第一段階とは何でしょうか?
 その第一歩を踏み出せるように、どうか私をお助けください。
 本を読むことは助けにならないのです」

別の人
 この方一人の願いはみなの願いです。

マハルシ
 まったくそのとおりです。
 もし真我が本の中に見いだせるなら、すでに実現されていたはずです。
 本の中に真我を見いだそうとすることほど奇妙なことはないでしょう。
 そこにそれを見つけられるでしょうか?

 もちろん、本は読者にこの質問を尋ねさせ、真我を探究させたのですが。

質問者
 本はまったく役に立ちません。
 すべて焼かれたほうがいいのです。
 語られた言葉と恩寵だけが役に立つのです。

他の者たちはそれぞれの理解の光にしたがって語り、最終的に初めの質問に戻った。
しかしシュリー・バガヴァーンは沈黙を保っていた。

185鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/06(金) 22:54:11 ID:1d4drIFg0
本の中にアートマンを求めることは出来ない。
それならばどこに、どのようにしてアートマンを求めるべきじゃろうか?
それは話し合うことではなく、自らの心の中に沈黙して求めるべきなのじゃ。
余計な観念が無くなればアートマンも自ずから実現するのじゃ。

186避難民のマジレスさん:2019/09/07(土) 00:10:40 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話118

アーンドラ・プラデーシュ州のヴールヒース大学の学者であるランガチャーリー氏がニシュカーマ・カルマについて尋ねた。
しかし何の答えも得られなかった。
しばらくして、シュリー・バガヴァーンはランガチャーリー氏を含めた数人の同行者とともに丘を登った。
道の上に棘だらけの枝が落ちていて、バガヴァーンはそれを拾いあげた。
その場に座ると、彼はゆったりとした気分でそれに手を加え始めた。
棘は切り取られ、こぶは滑らかにされ、枝全体が粗い葉で磨かれた。
その全工程はおよそ六時間かかった。
元は棘だらけの素材だったその枝から、思いもかけないような美しい仕上がりの杖が生まれたことに誰もが驚嘆した。

一行が歩き始めてまもなく、一人の羊飼いの少年が姿を現した。
彼は杖をなくして途方に暮れていたのだ。
シュリー・バガヴァーンは即座に手に持っていた新しい杖を少年に渡すと、また歩き続けた。

ランガチャーリー氏は、「これが私の質問への実地の答えなのです」と語った。


*ニシュカーマ・カルマ

意図、動機、私心のない行為。

187鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/07(土) 22:40:41 ID:1d4drIFg0
無我であれば結果を期待せずに行為も出来るのじゃ。
結果にも執着しないのじゃ。
マハリシはそれを実践によって示したのじゃ。
無為によって為したのじゃ。

188避難民のマジレスさん:2019/09/08(日) 00:30:36 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話119

同じとき、アーシュラマムには四匹の犬がいた。

シュリー・バガヴァーンは、
「これらの犬は私が食べないかぎり、どんな食べ物も受け入れません」と語った。

ランガチャーリー氏は実際にそれを試みようと食べ物を犬の前にまき散らしてみたが、犬たちは触れようともしなかった。
しばらくして、シュリー・バガヴァーンはその一切れを自分の口の中に入れた。
すると、とたんに犬たちは食べ物に飛びついたのだった。

189鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/08(日) 21:51:14 ID:1d4drIFg0
犬にも信頼すべき者がわかるのじゃ。
害意を捨て去った者を信頼することで安心が在るのじゃ。
決して裏切られないと知る故に命も預けられるのじゃ。
それが自らの利益になると知っているからなのじゃ。

190避難民のマジレスさん:2019/09/09(月) 00:05:47 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話120

ある人が目隠しをした二羽の孔雀を連れて来た。
マハルシの前で目隠しをはずしたとたん、遠くへ飛び去ってしまった。
それらは連れ戻されたが、また飛び去ってしまった。
シュリー・バガヴァーンは言った。

「ここにとどめようとするのは無駄なことです。
 それらはこの四匹の犬のように心が成熟していないからです」。

いかに彼らが孔雀をそこにとどめようとしても、一分ももたなかった。

191鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/09(月) 22:28:34 ID:1d4drIFg0
信頼が無ければ動物も逃げるのじゃ。
恐れがあるばかりであるから逃げようとするのじゃ。
鳥などは人を信頼するほど心が成熟していなかったのじゃ。
それもまた生まれつきの報いによるものなのじゃ。

192避難民のマジレスさん:2019/09/09(月) 23:46:44 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話121

これは以前に師と二人のイスラム教徒との間で交わされた対話である。

質問者
 神には形がありますか?

マハルシ
 そう問うのは誰でしょうか?

質問者
 もし神に形がないなら、偶像崇拝は正しいのでしょうか?

マハルシ
 神のことは放っておきなさい。
 なぜなら、それは未知の存在だからです。
 あなたはどうなのですか?
 あなたには形がありますか?

質問者
 はい。
 私にはこの身体があります。

マハルシ
 それでは、あなたには手足があり、身長は百七十センチほどで、髭をはやしているなどということですね?

質問者
 そのとおりです。

マハルシ
 では深い眠りの中でも、あなたはそのような姿をしていますか?

質問者
 目が覚めた後、私は自分が眠っていたことに気づくのです。
 これから推測すれば、私は深い眠りの中でもそのような身体だったということになります。

マハルシ
 もしあなたが身体なら、なぜ死後、死体は埋められるのでしょうか?
 身体は埋葬されるのを拒むはずです。

質問者
 いいえ。
 私は粗大な身体の中に宿る精妙なジーヴァです。

マハルシ
 それゆえ、あなたは本当は無形なのです。
 しかし今のあなたは自分を身体と同一視しています。
 あなたに形があるかぎり、なぜ無形の神を形あるものとして礼拝してはいけないのですか?

質問者はまごつき、困惑した。

193鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/10(火) 22:54:48 ID:1d4drIFg0
イスラム教徒は神であるアッラーを形ある者として崇拝してはいかんのじゃ。
偶像崇拝を禁止しているのじゃ。
しかし人は自らを形ある者として認識しているのじゃ。
マハリシは自らを形ある者として認識していながら、形の無い者として神を礼拝するのはおかしいというのじゃ。

194避難民のマジレスさん:2019/09/10(火) 23:56:49 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話122

1936年1月1日

クリスマスに大勢の人がここに集まった。

質問者
 どうすれば統一意識に達することができるでしょうか?

マハルシ
 統一意識として在りながら、どうやってそれに達すると言うのでしょう?
 あなたの質問自体がその答えなのです。

質問者
 アートマン(真我)、アナートマン(無我)、パラマートマン(至高の真我)とは何なのでしょうか?

マハルシ
 アートマンとはジーヴァートマン(個的真我)であり、その他は明白です。

 真我は永遠に存在しています。
 誰もが真我を知りたいと望んでいます。
 自分自身を知るために、いったいどんな助けが必要だと言うのでしょう?
 人々は何か新しいものとして真我を見たいと願っています。
 しかし真我は永遠不変に存在し続けるのです。
 彼らは真我を輝く光か何かのようなものとして見ることを望んでいます。
 どうしてそうありえるでしょう?
 真我は光ではなく、暗闇でもありません。
 それはただあるがままに在るのです。
 それを定義することはできません。
 最もふさわしい定義は、「私は私で在るものである」(I AM THAT I AM)です。
 聖典は真我を親指大のもの、髪の毛の先、電気の閃光、広大なもの、最微小より微小なものなどと記しています。
 それらには何の事実的根拠もありません。
 それはただ「存在」なのです。
 しかし実在や非実在とは異なります。
 それは「知識」です。
 しかし知識や無知とは異なります。
 いったいどうやってそれを定義できると言うのでしょよう?
 それはただ「存在」なのです。

シュリー・バガヴァーンはターユマーナヴァルの全文学作品から次の節を取り上げた。

「自我は消え去り、別の『私ー私』が自ら光輝に満ちた姿を現す」

次に彼は『スカンダール・アヌブーティ』から引用した。

「実在でも非実在でもなく、闇でも光でもない。それは在る」

ある人が言った。

「クンバコーナムのシッダ(超自然能力者)が、超越主義だけで日常生活を扱わないシャンカラの欠点だらけの哲学体系を論破したと宣言しました。
 人は普段の生活において超人的能力を訓練するべきだ、つまり完全な存在となるためにはシッダとならなければならない、と彼は言うのです」

シュリー・バガヴァーンはターユマーナヴァルの作品で、シッディ(超自然能力)を完全に批判している詩節を引用した。

彼はさらに、
「ターユマーナヴァルは数えきれないほどマウナ(沈黙)について述べていますが、それを定義しているのはたった一つの詩だけです。
 マウナとは自我が消滅した後に自然と顕わになる状態です。
 その境地は光と闇を超えながら、それでもそれは光と呼ばれています。
 それ以外にふさわしい言葉が見つからないからです」と語った。


*ターユマーナヴァルは数えきれないほどマウナについて…『パヤップリ』14

自分自身を独立した実体とみなしていた「私」が恥じ入って頭をたれたとき、完全なる唯一無二の源は、私のハートを満たし、比類なき至福、全意識を包み込む慌惚境を与え、沈黙(マウナ)によって私を抱きしめた。
これ以上いったい何が言えよう?

195鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/11(水) 23:11:47 ID:1d4drIFg0
当初から意識である者が更に意識になることはできないのじゃ。
ただそれであるだけなのじゃ。
観念である自我が自分であると認識しているからそれがわからないのじゃ。
観念の自我が自分ではないと気付けばそれは厭離されてアートマンも実現するのじゃ。

196避難民のマジレスさん:2019/09/11(水) 23:51:24 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話123

1936年1月3日

イスラム教徒でアラハバード大学のウルドゥ語とペルシャ語の教授であるモハンマド・ハフィズ・セイェド博士が尋ねた。

「外的な顕現(世界の現れ)の目的とは何なのでしょうか?」

マハルシ
 この顕現があなたの質問を引き起こしたのです。

質問者
 おっしゃるとおりです。
 私はマーヤーに覆われています。
 どうすればそれから自由になれるでしょうか?

マハルシ
 誰がマーヤーに覆われ、誰が自由になりたいのでしょうか?

質問者
 師よ、「誰か?」と問われれば、それが感覚、心、身体から成る無知な「私」であるということは私も知っています。
 ポール・ブラントンの本を読んだ後、私は「私は誰か?」を試みてみました。
 三度ほど私の心は高揚し、その高揚はしばらく続いた後で消え去ってしまいました。
 どうすれば「私」の中に確立されるのでしょうか?
 どうぞ何か手がかりを与えて助けてください。

マハルシ
 新たに現れたものも、時が来れば消え去ってゆくのです。

質問者
 永遠の真理に達する方法を教えてください。

マハルシ
 あなたは「それ」なのです。
 真我から離れて在ることができるでしょうか?
 自分自身で在ることに努力は必要ありません。
 なぜなら、あなたは常に「それ」だからです。

197鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/12(木) 22:43:32 ID:1d4drIFg0
誰も永遠の意識であることから、更に何かになることは出来ないのじゃ。
自我を滅却してそれに気付く事が出来るだけなのじゃ。
私は誰かであるという幻想から目覚めればアートマンも実現するのじゃ。
努力よりも無努力によって到達するのじゃ。

198避難民のマジレスさん:2019/09/12(木) 23:29:55 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話124

もう一人の気短かな質問者が念入りな長い前置きの後で、子供の死はなぜ起こるのかと尋ねた。
彼は大人たちではなく、犠牲者である幼児が納得できる答えを望んでいた。

マハルシ
 犠牲者に尋ねさせなさい。
 なぜあなたが子供の立場に立った答えを求めるのですか?

199鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/13(金) 22:36:19 ID:1d4drIFg0
他人の立場に立って質問するのは無意味なのじゃ。
自分の役には立たないからのう。
自分のアートマンを求めることだけがこの世から自由になる門なのじゃ。
自分のしたこととしなかったことだけを見るのじゃ。

200避難民のマジレスさん:2019/09/13(金) 23:57:03 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話125

イスラム教徒の教授が尋ねた。

「ここにいる間は、私の心は純粋(サートヴィック)ですが、ここを去ったとたん多くの物事を渇望するのです」

マハルシ
 それらの物事はあなたと異なるものでしょうか?
 主体なくして対象はありえないのです。

質問者
 どうすればそれを知ることができるのでしょう?

マハルシ
 「それ」として在りながら、何を知りたいと言うのでしょう?
 知る者と知られる者という二人の自己があるのですか?

質問者
 もう一度お尋ねします。
 これらすべてについての真理を知り、体験するにはどうすればいいのでしょうか?

マハルシ
 新しく得るものなど何もないのです。
 必要とされるのは、真我を無知から解き放つことだけです。
 ここで言う無知とは、真我と真我ではないものを同一視することです。

質問者
 はい。
 それでも私には理解できません。
 あなたの助けが必要なのです。
 ここにいる誰もがあなたの恩寵を待っています。
 あなた自身も初めはグルや神の恩寵を探し求めたに違いありません。
 その恩寵を今、他の者にも差しのべて、どうか私をお救いください。

 ここに来る前、私はあなたにお会いしたいと強く願っていました。
 しかしどうしてもその機会を見いだすことができずにいました。
 バンガロールで、私はもう故郷に帰ろうと決心していたのです。

 フリードマンたちに出会わなければ、ここに来ることはなかったでしょう。
 あなたが私をここに引き寄せたのです。
 私の場合は、ポール・ブラントンがボンベイにいたときの状況と似ています。
 彼も帰国を取りやめて、ここに引きつけられたのです。

 ここに着いたばかりの頃、私はためらっていました。
 あなたにお会いして言葉を交わす許可を得られるとは思ってもいなかったのです。
 私の疑いはすぐに消え去りました。
 ここでは誰もが平等であることがわかったからです。
 みなの間に平等をもたらし定着させたのはあなたです。
 私はあなたと、そして他のみなとともに食事をしました。
 故郷の人たちにそれを伝えても、誰も信じないでしょう。
 ブラーフマナたちが私と一緒に水を飲み、パーンを噛むことなどありえないからです。
 しかしあなたは私や私のような人々を等しく受け入れています。
 マハートマー・ガーンディーは奮闘していますが、国内でこのような状況をもたらすことはできません。
 私はあなたの臨在のもとにいてとても幸せです。

 私はあなたを神と見なしています。
 私はシュリー・クリシュナを本当の神と思っています。
 なぜなら彼は、「誰を崇拝しようとも、その人は私だけを崇拝しているのだ。それゆえ、私は彼を救う」と言っているからです。
 他のどの神も「あなたは私を通してのみ救済される」と言います。
 クリシュナだけがそのような広い心を持ち、神のように語ります。
 あなたはそれと同じ平等を保っておられます。


*パーン

インドの「噛み嗜好品」。
キンマの葉の上に覚醒作用のあるカートの葉のペーストを塗り、そこにクローブ、カルダモン、アニス、ミントなどのスパイスを包んで三つ折りにしたもの。
これをロに入れて噛み続けると赤い汁が出る。

201鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/14(土) 22:34:35 ID:1d4drIFg0
何かを行うことは人をアートマンから遠ざけることになるのじゃ。
しかし、人は何かすることでしか神や悟りには到達できないと思うのじゃ。
何もしないことは出来ないのじゃ。
何もしないで自らの本心を観る事ができればいつでもアートマンは実現するのじゃ。


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