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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
48
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/08(月) 19:36:44 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話58
1935年7月4日
『シュリーマッド・バガヴァッド・ギーター』
ランガナータン氏
『シュリーマッド・バガヴァッド・ギーター』の中に、「自分自身のダルマ(義務)が最善であり、他者のダルマには危険がある」という一節があります。自分自身のダルマとはどういう意味でしょうか?
シュレーヤーン・スワーダルモー・ヴィグナハ・パラーダルマート・スーアヌシュティタート。
スワーダルメー・ニダナム・シュレーヤハ・パラーダルモー・バヤーヴァハハ。
たとえ不完全でも自分の義務を遂行するほうが、他者の義務を完全に成し遂げるより優れている。
危険に満ちた他者の道にしたがうよりも、我が道を進んで死ぬほうが優れている。
『バガヴァッド・ギーター』第3章35節
マハルシ
それは通常、さまざまな慣習や異なった階級の義務を意味すると解釈されています。
身体的な環境も考慮に入れなければなりません。
質問者
もしヴァルナーシュラマ・ダルマのことを意味するなら、そのようなダルマはインド以外では一般に存在しません。
一方、『バガヴァッド・ギーター』は宇宙全体に適用できるものであるはずです。
マハルシ
ヴァルナーシュラマは異なった形式を取りながらも、どの国にも存在しています。
この詩節の真の意義は、アートマンだけをとらえ、そこから道を踏み外さないことです。
それがその全要旨なのです。
(サンスクリット語原典に見られるスワーダルマとパラーダルマという言葉の)
「スワ」(自己の)は「自分自身の、つまり真我の、アートマンの」を意味し、
「パラ」(他者の)は「他の、つまり非真我の、アナートマン(非真我)の」を意味しています。
アートマ・ダルマは真我に内在しています。
そこにはいかなる恐れも混乱もありません。
間題が起こるのは、自分自身以外のものが存在するときです。
「アートマンは唯一存在する一者である」ということを真に理解すれば、他者もなく恐れの原因もなくなるでしょう。
人はアナートマ・ダルマとアートマ・ダルマを混同するため苦しむのです。
まず真我を知り、その中にとどまることです。
そうすれば、恐れも疑いもなくなるでしょう。
たとえそれをヴァルナーシュラマ・ダルマとして解釈しても、その意味は次のようなものです。
そのようなダルマは、非利己的に為されたときにだけ実を結びます。
つまり人は行為者ではなく、高次の力の道具でしかないということです。
避けられないことを高次の力が為し、私はその指示にしたがって行為するだけです。
行為は私のものではありません。
それゆえ、行為の結果も私のものではないのです。
もしこのように考えて行為すれば、どこに問題があるでしょう?
ヴァルナーシュラマ・ダルマだろうとロウキカ(世俗の)・ダルマだろうと、それは重要ではありません。
それゆえ結果的には、
「スワ」(自己の)は「アートマナハ(真我の)」を意味し、
「パラ」(他者の)は「アナートマナハ(非真我の)」を意味しているのです。
あなたの疑問はもっともなものです。
伝統的な解釈は、昔とは異なる関係性の中で生計を立てていかなければならない現代人の生活と一致しないものだからです。
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