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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
66
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/15(月) 15:30:50 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話65
1935年7月13日
訪問者
世界は真我が実現された後でさえ知覚されるのでしょうか?
マハルシ
この質問は誰のものですか?
それは真我を実現した人(ジニャーニ)からですか、それとも真我を実現していない人(アジニャーニ) からですか?
訪問者
アジニャーニからです。
マハルシ
誰にその疑問が起こったのかを理解しなさい。
疑う者を知った後でもまだ疑問が起こるなら、それに答えることもできるでしょう。
世界や身体が「自分は存在する」と言えるでしょうか?
あるいは、見る者が「世界や身体は存在する」と言うでしょうか?
対象を見るにはそこに見る者がいなければなりません。
その見る者をまず見いだしなさい。
なぜ先のことについて今心配するのですか?
世界が知覚されるかどうかなど何だと言うのです?
今世界を見ているからといって何かを失いますか?
あるいは、深い眠りの中で世界を見ないからといって何かを得るでしょうか?
世界が知覚されるかされないかなど重要ではないのです。
アジニャーニはジニャーニが活動しているのを見て困惑します。
そのどちらも世界を見ています。
ただ彼らの見方が異なるのです。
映画を例にとってみなさい。
スクリーンの上には画像が動いています。
行ってそれをつかまえてごらんなさい。
何をとらえますか?
ただのスクリーンです。
画像を消してみなさい。
何が残りますか?
やはりスクリーンです。
それはこの場合でも同じことです。
たとえ世界が現れたとしても、誰にとってそれが現れたのか見てみなさい。
「私」の基盤をとらえなさい。
基盤をとらえたなら、世界が現れようと消え去ろうと何の問題もないのです。
アジニャーニは世界を実在と見なします。
一方、ジニャーニはそれを真我の顕現としてのみ見ています。
真我がそれ自体を世界として現そうと現すまいと重要ではないのです。
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