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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

485避難民のマジレスさん:2020/01/14(火) 00:41:17 ID:1ia4T2h.0
ラマナ・マハルシとの対話245

1936年9月8日

パールシー教徒の二人の女性、グルバーイ・ビラムジーとシリンバーイ・ビラムジーが一つの主題を中心とした質問をした。

「真我が自我を超えたものであることは理解できますが、私の知識は理論上のものであって体験ではありません。
 どうすれば実際に真我を実現できるのでしょうか?」

マハルシ
 実現は新たに獲得されるようなものではありません。
 それはすでにそこに在るのです。
 為されるべきは、「私は実現していない」という想念を払い去ることだけです。

質問者
 それでは、実現しようと試みる必要もないのですか?

マハルシ
 その必要はありません。
 心の静寂あるいは平和が実現です。
 真我が存在しない瞬間などないのです。

 そこに疑い、あるいは実現していないという感覚があるかぎり、そのような考えを取り除くよう試みなければなりません。

 想念は真我を非真我と同一視することによって起こります。
 非真我が消え去れば、後に残るのは真我だけです。
 空間をつくり出すには、そこにあったものを取り除くだけで十分です。
 新たに空間を運んでくる必要はありません。
 それどころか、物でいっぱいだったところにさえ空間は存在していたのです。

 想念の不在が空白状態を意味するわけではありません。
 そこには空白状態を知る者がいるはずです。
 知識も無知も心に属します。
 それらは二元性から生まれ出たものです。
 しかし真我は知識と無知を超えています。
 それは光そのものなのです。
 真我を見るために、他の真我を必要とすることはありません。
 二つの真我がそこに存在しているのではありません。
 真我ではないもの、それが非真我です。
 非真我に真我を見ることはできないのです。
 真我にとっては見ることも聞くこともありません。
 真我はそれらすべてを超えたところに、純粋意識として「唯一」存在するのです。

 ある女性が首にかけていたネックレスを失ったと思い込み、探し回っていました。
 そして友人から自分の首にかかっていることを教えられたのです。
 ネックレスを失ったという感覚、探している間の不安、発見したときの喜びは、すべて彼女が自分でつくり出したものです。
 同様に、真我はあなたが探究しようとしまいと、常にそこに在ります。
 その女性が失ったネックレスを取り戻したと感じたように、無知を取り除き、偽りの自己同一化を止めることが、常に今ここに存在する真我を明らかにするのです。
 これが実現と呼ばれるものです。
 何も新しいことではありません。
 それは結局、無知を取り除くことに他ならないのです。

 空白状態は心を探究する上で起こる悪い結果です。
 心はその根と枝を断ち切らなければなりません。
 考えているのは誰か、探究しているのは誰かを見いだしなさい。
 考える者、探究する者としてとどまりなさい。
 そうすれば、すべての想念は消え去るでしょう。

質問者
 そのとき、そこには自我─考える者がいるでしょう。

マハルシ
 その自我は、想念を取り払った純粋な自我なのです。
 それは真我と同じものです。
 偽りの自己同一化が続くかぎり、疑いや質問は起こり続けるでしょう。
 それに終わりはありません。
 疑いは真我ではないものが消え去ったときに止むでしょう。
 それが真我実現をもたらすのです。
 そのとき、そこには疑問を抱いたり問いかけたりする他者もいなくなります。
 すべての疑いは自分自身の内で解かなければなりません。
 いかに言葉を費やそうとも満足は得られません。
 考える者をとらえなさい。
 考える者がとらえられていないときにのみ、事物は外側に現れ、そして心に疑いが起こるのです。


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