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神の存在/不在と科学の範囲
72
:
地下に眠るM
:2007/01/11(木) 10:43:59 ID:DdTIfl7A
>今後は本気で応えることにします。
そりゃタノチミにゃんね。
まず>1)
(43)ミケの記述より引用
**************************
ちなみに確率現象を介しての神の干渉については、統計学を以ってしても検証不可能です。
神がどの程度の頻度で、あるいはどのような条件で確率現象に干渉するかのデータが入手不能だからです。
まあ、宝くじ一等を同じ人に連続で当てさせるタイプの神はいないでしょうが、
それだって、いるとしたらそういうタイプではないよね、というだけに過ぎません。
たとえば、
那須与一が矢を射る際に風が止んだこと、あるいは元寇の際に神風が吹いたこと、
誰かさんが落雷の直撃を受けても死ななかったこと、どっかのおばあさんが11階から落下して生還したこと、
これらは確率的に低い事象ですが、もし事実だったとして、
どれが神による介入で、どれがホンモノの偶然かは判別不能です。
********************
この部分に対するmacskaの反論はされてにゃー。他の参加者からの反論もなし。
つまり、確率的事象を介する神の干渉に関しては検証不可能であるというのが、この場における合意事項のひとつのはずだにゃ。この前提にのって「奇跡がニンゲンの認識・解釈の問題であると捉えた場合、自然科学の対象ではない」と述べたんだけどにゃ。言い換えると、「現実世界に対する神の干渉そのものがニンゲンの側の認識・解釈の問題」なわけよ。確率的事象を介しての干渉であれば、相当大規模な干渉があったとしてもカガクには手がでにゃーことになると思われますにゃ。
このあたりがおさえられていれば、
>ニンゲンの認識・解釈によって、ある言説が自然科学の検証対象になったりならなかったりするわけがないのでしょう。奇跡については、「現実世界への干渉」としてよく言われることの例として上げただけであり、わたしは奇跡という言葉の定義に関わらず、神という存在による「現実世界への干渉」は科学の対象であると述べています。
こんな発言がでてくるわけにゃーはずなんだけどにゃー。
ちゅうわけで
・神の干渉に関してはカガクは手がでない
・お馬鹿教義=誤ったカガク的事実に依存する教義、疑似科学的教義に対してはカガクは検証できる
というあたりで「だいたい議論は終わったと思っていたのですが、違ったのでしょうかね。」
2)については了解
ま、「現実をひたすら後追いしながら差別的言辞を固定させていく教義」、なんてのもカガクには検証不可能にゃんね。
>3)
別に、「死後、天国に行けること」に限ったわけじゃにゃーよ。引用部分にユダヤ教の選民思想が述べられていたはずだにゃ。この予定説と、(66)でdiamonds8888xのいう「全ての時空を俯瞰できる存在」の構造が似たようなものであることを考えてみればいいのだにゃ。
出かけるので、続きはまたあとで
73
:
macska
:2007/01/11(木) 12:24:44 ID:VdHL1C4M
>>72
1)について。
> この部分に対するmacskaの反論はされてにゃー。他の参加者からの反論もなし。
> つまり、確率的事象を介する神の干渉に関しては検証不可能であるというのが、
> この場における合意事項のひとつのはずだにゃ。
いや、何度も言っている話で回答済みですが。
もう一度言いましょうか。
「証拠不十分で解明不可能であることは事実。けれど、現象そのものは原理的に検証可能というか、少なくとも科学的検証の対象となり得る範囲の出来事です。その点は、原理的にもまったく検証不可能である『死後の世界』や『人生の意味』といった、完全に科学の範囲の外側の領域にある問題とは区別されるべき。」
おしまい。
これだけの単純なことを、わたしがこれまで何度説明したと思っていますか?
とっくに済んだ話だと思っていたのに、まだそんな事言っていたとは驚いたよ。
2)について。
> ま、「現実をひたすら後追いしながら差別的言辞を固定させていく教義」、
> なんてのもカガクには検証不可能にゃんね。
検証不可能なのではなく、仮に無根拠であったとしても false-negative が出るだけです。
科学的検証の対象であるわけですから、検証自体は可能でしょう。
このあたりは、もう言葉遣いの違いになってしまうのかも知れませんが。
3)について。
> 別に、「死後、天国に行けること」に限ったわけじゃにゃーよ。
> 引用部分にユダヤ教の選民思想が述べられていたはずだにゃ。
うーん、キリスト教の予定論にもいろいろあるし、ユダヤ教の選民思想はそれとはまた別だし(ユダヤ教に予定論はあり得ず、ユダヤ教の一部をキリスト教が勝手に予定論の根拠として流用しているだけです)、具体的に見ていくと面倒なので挙げられた定義だけに沿って答えたんですけど、それでは駄目でしたか?
でしたら、議論の対象とすべき言説をもう少し絞ってもらえないと議論のしようがありません。
ありとあらゆる予定論の解釈を対象に全部一緒に斬って捨てるわけにいかないし。
あの定義では、予定論は「神の救いは、人間の側の行為や努力にかかわりなく、すでに定められている」という話として紹介されており、キリスト教における「神の救い」が死後の救済であることを考慮すると、わたしが書いた通りの回答で正しいはずです。別の予定論について答えよというなら、その別の予定論をきちんと説明してください。
って、続きはまたあとでということだから、説明してくれるつもりだったのかな。
だったら先走りしてしまったけど、最後の一行いままで気付かなかった…
74
:
Seagul-X
:2007/01/11(木) 13:44:47 ID:???
すみません、macska さんの主張がよくわからないんで確認したいんですが、たとえば
どっかのおばあさんが11階から落下して{たまたま|神の介入によって}生還した現象
を、どうやって(どのような手段・手順で)検証できるとおっしゃってるんでしょうか?
75
:
macska
:2007/01/11(木) 15:25:52 ID:VdHL1C4M
>>74
基本的に、一度だけ起きた現象を検証するのは難しいです。
「どっかのおばあさんが〜」の例なら、おばあさん本人の報告に加えて、落下地点を調べる、目撃者の証言を突き合わせる、医者の意見を聞く、たまたま映っている監視カメラみたいなのがないか調べる、みたいなところでは。
わたしの主張は、神様という言葉を持ち出されたからといって「神様は科学の範囲外だから、それについては科学は何も言えない」というのがおかしい、ということですよ。神様が起こした奇跡であるとされる現象だって、それが現実世界に干渉するものである限り、その他一般の現象と全く同じ手法で科学は扱うことができるのです。
もちろん、世の中には科学的に説明のつかない現象が存在します。それは、今の科学で分かっていないだけであったり、あるいは証拠不十分(一回性のできごとはほとんどこれでしょう)なので十分な検証ができなかったりします。しかしこれらは、原理的には科学の範囲です。
それに対し、死後の世界だとか人生の意味だとかいう問題については、原理的に科学の範囲外です。なぜならそれらはどんなに科学が進んでも全く解明できる見込みがありませんし、そもそも証拠らしきものが科学のツールで扱えるとは思えないからです。
と、ここでやめておけばいいのですが一言付け加えておくと、実は科学には見当がつかないこうした問題は、宗教にだって全く何も分かっていません。科学が主に対象とする領域については科学はある程度確からしいことを明らかにすることができますが、その科学が扱えない領域において宗教が何か確からしいことを言えるのかというと、科学に分からないことはやっぱり宗教にも分からない。分からないことについては何も言えない科学と違い、宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。
76
:
fukken
:2007/01/11(木) 16:47:23 ID:M5vfENrY
macskaさん、はじめまして
いつもはトンデモさんに野次を飛ばすだけの不埒モノの私ですが、今回に限って真面目に意見してみます。
>>75
>宗教にだって全く何も分かっていません。
わかっていないこと、どう足掻いてもわかりそうにないことを、固有の言葉で補填しながら定義したのが宗教なのじゃないでしょうか。
私は、ヒトの わからない→不安感 の解消のために宗教は成り立ってきたように思います。(もちろん、それだけではないでしょうけど大きな要因にはなっていると思います。)
つまり、絶対にわからないことを「すべてわかった」と信ずることこそがそもそもの宗教の意義なのでしょうから、「宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっている」などと言うのは、「それを言っちゃあ、お仕舞いよ」って奴じゃないんでしょうか。
宗教者はラッキーなのではなく、宗教者はハッピーでなければいけないのです。
77
:
地下に眠るM
:2007/01/11(木) 17:20:54 ID:DdTIfl7A
macskaはカガク主義者にゃんねえ(しみじみ
結局、チミのいっていることは(38)でRYU_TI_SYUのいっていたことで片づけることができそうにゃんな。
***************************
『将来的には解明できるかもしれません』
とは、いえるかもしれんがそれは
『将来的に創造論が正しくなるでしょう』
といってるのとあまり変わらんようなきがするな。
******************************
いっとくけど、蒙古襲来のカミカゼとか11Fから落下して助かったおばあさんとか、ひとつひとつの実例に対して解析ができにゃーなどと僕は(多分ミケも)いっているわけじゃにゃーんだぜ。
カオス理論とかいうものがあるだろ?
蒙古襲来のカミカゼの原因が、その半年前に地球の裏側で蝶がはばたいたことにあるのが直接の原因だとするにゃ。
そして、その蝶のはばたきは蝶の神経系における量子力学的な確率事象に関する神の干渉であったとしたらどないよ?
いや、蝶のはばたきの原因が150億年前のビッグバンにおける何らかの介入に端をはっするものだとしたら?
こんなことは頭のワリイ僕だって思いつくわけで、全知全能の神であったのなら、はるかにスマートで足跡を遺さにゃー介入だっていくらでもあるはず。
こういう事象まで「カガクの守備範囲」だとおっしゃるのならそれで結構だにゃ。クチでは何といおうと、カガクの全能を信仰しているだけのことにゃんからな。
>実は科学には見当がつかないこうした問題は、宗教にだって全く何も分かっていません。科学が主に対象とする領域については科学はある程度確からしいことを明らかにすることができますが、その科学が扱えない領域において宗教が何か確からしいことを言えるのかというと、科学に分からないことはやっぱり宗教にも分からない。分からないことについては何も言えない科学と違い、宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。
うむ、カガク主義の典型にゃんね。
宗教にわかってないと、なぜチミはいえるの?
うようよしている進化論否定馬鹿に対して、常連連中はよく「カガクの基礎を勉強しなさい」というにゃ。カガクを否定するのならカガクを勉強するのは当然にゃんね。当然、同じ論理は宗教での知見に関してもいえるのではにゃーのかね?
78
:
macska
:2007/01/11(木) 22:16:50 ID:UfRlMoOA
>>76
わたしは、一部の宗教が「本当のところは分からないけれど、信じていること」と「知っていること」の境界をなし崩しにするのは非常に問題が多いと思っていますが、その区別がちゃんとつけたうえで信仰することは可能だし、その区別をつけたうえで信仰する宗教であれば全く問題だとは思っていません。
もし「科学に分からないことは、宗教にだって本当のところは分かっていない」という言明が宗教にとってダメージになるとしたら、それは「本当のところは分からないけれど、信じていること」によほど自信を持てない宗教なのでしょう。
>>77
> こういう事象まで「カガクの守備範囲」だとおっしゃるのならそれで結構だにゃ。
科学の守備範囲に決まっているでしょう。カオス理論と言いますが、ある現象が科学によって現実的に解明不可能なことも、科学の内側において示されるわけです。「神の干渉」であれなんであれ、現実世界に起きていることが「科学の守備範囲」の外側であるはずがありません。
で、何度説明させるつもり?
てゆーか、カオス理論は科学じゃないの?
> クチでは何といおうと、カガクの全能を信仰しているだけのことにゃんからな。
そういうレッテル貼りに終始されても困ります。「クチで何といおうと」お前はこうだ、と決めつけられては、反論のしようがないし。「カガク主義者」という呼び方も、わたしは違うと思うので定義をきっちり示してください。
> 宗教にわかってないと、なぜチミはいえるの?
わかっていないでしょ?
「わかっている」という言葉の定義まで違うのかな、この人は。
> 当然、同じ論理は宗教での知見に関してもいえるのではにゃーのかね?
わたしは、宗教を一切否定していませんよ。宗教だけが、科学には持ち得ない何らかの「真実」に至る秘密の道筋を持っている、という宗教主義を否定しているだけで。そうした道筋を持っていると主張している宗教のすべては、実際には「持っていると信じている」だけです。
「死後の世界があるかないか」「人生の意味はなにか」なんて問いは、人間の知覚が及ぶ範囲に答えが見つかるような問題ではありません。だから宗教者にも、哲学者にも、あるいは芸術家でも料理人でも誰でもあれこれ人の考えを聞いたり自分なりに考えたりして自分なりの答えを出すことができます。そうした模索の対象を、宗教だけに限ってしまうのはもったいないと思うのですが。
79
:
えめ
:2007/01/11(木) 22:55:21 ID:dvIENlzA
>わたしは、宗教を一切否定していませんよ。宗教だけが、科学には持ち得ない何らかの「真実」に至る秘密の道筋を持っている、という宗教主義を否定しているだけで。そうした道筋を持っていると主張している宗教のすべては、実際には「持っていると信じている」だけです。
待ってくださいな。真実とは何でしょうか。
この場合の真実とは、あらゆる見地から鑑みても完全に誤謬のない事象解釈、としてそんなものが人間という限定的で不完全な存在に提示出来ますか。
科学とはどれだけ近接できても決して真実には到達できない(反証可能性を持つ、誤りで有りうる)を運命付けられているが故に成り立っている事象解釈の手法だと思うんですけどね。
科学だけが、宗教には持ち得ない何らかの「真実」に至る道筋を持っている。
って言うのが科学主義ですよ。
>そうした道筋を持っていると主張している宗教のすべては、実際には「持っていると信じている」だけです。
そうした道筋を持っていると主張している思考のすべては、実際には「持っていると信じている」だけです。
と言い換えると科学主義が理解できるかもしれません。
自分は人が信じる、と言う行為をもう少し深刻に、且つ自由に捉えていますから科学と言うルールは突き詰めるとルールに過ぎない、と言う気がしてならないのです。
言って置きますが、自分はクリスチャンではありませんよ。
80
:
macska
:2007/01/11(木) 23:28:57 ID:UfRlMoOA
>>79
> 待ってくださいな。真実とは何でしょうか。
> この場合の真実とは、あらゆる見地から鑑みても完全に誤謬のない事象解釈、
> としてそんなものが人間という限定的で不完全な存在に提示出来ますか。
提示できるわけがないじゃないですか。
宗教にだって提示できないのに、できるかのように主張するのはおかしいんだと言っているでしょ?
> 科学とはどれだけ近接できても決して真実には到達できない(反証可能性を
> 持つ、誤りで有りうる)を運命付けられているが故に成り立っている事象解
> 釈の手法だと思うんですけどね。
その通り。
> 科学だけが、宗教には持ち得ない何らかの「真実」に至る道筋を持っている。
> って言うのが科学主義ですよ。
良かった、じゃあわたしは科学主義者ではありません。
このような、わたしにとって当たり前のようなことをわたしに向けて書いて来るということは、あなたはわたしの主張を何か大きく誤解しているのではありませんか?
81
:
fukken
:2007/01/12(金) 01:49:19 ID:M5vfENrY
>>78
>わたしは、一部の宗教が「本当のところは分からないけれど、信じていること」と「知っていること」の境界をなし崩しにするのは非常に問題が多いと思っていますが、その区別がちゃんとつけたうえで信仰することは可能だし、その区別をつけたうえで信仰する宗教であれば全く問題だとは思っていません。
科学の進歩が宗教に矛盾を生ませていることも問題なのでしょう。
例えば、聖書が書かれた当時と今とでは、ヒトが確認できていることととそうでないことの境界は明らかに違います。
「その境界をはっきりさせた上で信仰しろ」と言うのは、下手をすると「聖書の記述が間違っていることを認めろ」と言っていることになりませんか?
>もし「科学に分からないことは、宗教にだって本当のところは分かっていない」という言明が宗教にとってダメージになるとしたら、それは「本当のところは分からないけれど、信じていること」によほど自信を持てない宗教なのでしょう。
日々進歩する科学によって経典や教義の矛盾を逐一突かれ始めたら宗教はダメージを受けるものだと私も思いますよ。
だから「それを言っちゃあ、お仕舞い」だと言うのです。
と、ここまでは宗教をまるで信じていない私の見解。
ですが、地下猫さんが「宗教にわかってないとどうして言えるのか」と言う意味も良くわかっているつもりです。
「どう考えったって神など人が造り上げたもの、宗教もすべて人が造り上げたもの」とは、地球の経た時間の僅か数億分の1しか生きていない私の推測に過ぎません。
本当に神がいないかどうか、科学で確認出来ていないことが宗教でわかっていないかどうかの事実は私にはわかりません。
>わたしは、宗教を一切否定していませんよ。宗教だけが、科学には持ち得ない何らかの「真実」に至る秘密の道筋を持っている、という宗教主義を否定しているだけで。そうした道筋を持っていると主張している宗教のすべては、実際には「持っていると信じている」だけです。
「死後の世界があるかないか」「人生の意味はなにか」なんて問いは、人間の知覚が及ぶ範囲に答えが見つかるような問題ではありません。
このようにはっきりと言える根拠はどこにあるのでしょうか。
人間の知覚で確認出来なくても、それこそ人知を超える神の存在があったなら、それを通じてヒトが「死後の世界」や「人生の意味」を知ることは容易いことなのかも知れませんよ。
もしそうであったなら、macskaさんの主張は明らかに宗教の否定になってしまいますね。
macskaさんは神の存在を理詰めで否定できますか。
と、地下猫さんは仰りたいのではないかと思います。
私は、仲間内でこうして言い合っている分には良くても、宗教と科学は個々の理屈をもって互いの領域に口を出すべきではないと思います。(科学の進歩と共にこの領域の重なりが大きくなっていると言うのが冒頭の話)
科学の側が積極的にそのようなナンセンスをしたことは滅多にありませんが、時折(ちょうど今第一掲示板に見られるように)科学で宗教を否定しようとする人が現れたりするので、管理人さんはQ&Aにあのように書いただけのことなのでしょう。
82
:
ミケ
:2007/01/12(金) 03:09:24 ID:???
「確率現象を介して現実に介入する」
の解釈にすれ違いが見られます。
今日は眠いので以上。
83
:
macska
:2007/01/12(金) 03:22:47 ID:UfRlMoOA
>>81
> 「その境界をはっきりさせた上で信仰しろ」と言うのは、下手をすると
> 「聖書の記述が間違っていることを認めろ」と言っていることになりま
> せんか?
聖書の記述は(「聖書には絶対に間違いがない」というイデオロギーを通して見ない限り)誰がどう見ても間違っているので、「認めろ」とわたしが押しつけるまでもないでしょうが、そもそもわたしはそんなことは言っていません。
そうでなくて、「知っている」と「信じている」を区別しろというだけ。イエスが神の子であるかどうか、聖書が正しい教えを伝える本かどうか、わたしたちが「知っている」はずがない。信じるか、信じないかでしかないはずです。そうでしょ?
> 本当に神がいないかどうか、科学で確認出来ていないことが宗教でわ
> かっていないかどうかの事実は私にはわかりません。
だから、もしある人が「イエスは神の子」と信じていたとして、仮にそれが事実であったと後から分かったとしても、その人が事実をあらかじめ「知っていた」ことにはなりません。信じていたことが、たまたま事実だっただけです。
> 人間の知覚で確認出来なくても、それこそ人知を超える神の存在があった
> なら、それを通じてヒトが「死後の世界」や「人生の意味」を知ることは
> 容易いことなのかも知れませんよ。
それが人知を越えた神からのメッセージであるというのは、やはりそう信じているだけでしょ? まったく確認のしようがない。
> macskaさんは神の存在を理詰めで否定できますか。
肯定論者に立証義務があります。
空飛ぶスパゲッティモンスターの存在すら、否定なんてできないわけですし。
ま、サービスして一つだけ言うと、創造神的な神の反証には argument from design が有効だと思います。
神のような複雑で素晴らしいものが、進化したわけでもなく独りでに生まれたとは考えにくい。
84
:
diamonds8888x
:2007/01/12(金) 06:06:41 ID:h2fLyT9w
>人間の知覚で確認出来なくても、それこそ人知を超える神の存在があったなら、それを通じてヒトが「死後の世界」や「人生の意味」を知ることは容易いことなのかも知れませんよ。
あくまでも「かもしれない」だけですよね。今のところは「人知を超える神の存在」を知覚していない私には無理ですね。
それを通じてといってもですね、人知を超える神の存在と言えども、ヒトは知覚(五感以外の脳に直接働くような知覚も含めて)でしか知り得ないと思いますよ。まあ常人にはない知覚を持ってるヒトが知覚しただけの場合は、他の常人がそのことを確認するのは極めて困難で、知覚したのだと称するヒトの言葉を信じるかどうかという話だけになりがちですがね。
頭の中にばっとひらめいたアイディアとか悟りは神から来たのかも知れません。神経インパルスの偶然の組み合わせから生じたのかも知れません。宇宙船が脳内の何かの分子に衝突したせいかも知れません。あくまでも「かもしれない」だけです。
> 宗教にわかってないと、なぜチミはいえるの?
「宗教にわかってない」ということがmacskaさんにはわからない、などとなぜMさんは言えるの?
「『宗教にわかってない』ということがmacskaさんにはわからないはず」とMさんが言えるはずがない」などと、なぜdiamonds8888xは言えるの?
うーむ。
いやmacskaさんの主張は、「わかっている」と断言する宗教への問いだと思いますが。
85
:
diamonds8888x
:2007/01/12(金) 06:07:55 ID:h2fLyT9w
> 「確率現象を介して現実に介入する」
> の解釈にすれ違いが見られます。
かも。私はあの例は、一回限りの歴史的事象については法則を認知できない、という話が絡んでると思っているのですが。
> 基本的に、一度だけ起きた現象を検証するのは難しいです。
難しいどころか原理的に不可能です。再現不可能では検証できません。そも確率現象としては、全く同一条件で何度も再現しないと現象として認知することさえできません。
86
:
diamonds8888x
:2007/01/12(金) 06:30:42 ID:h2fLyT9w
どっかのおばあさんが11階から落下して生還した例のことですが、この一例が神の介入によるかどうかは確かに検証できません。百歩譲ってもほとんど不可能なくらい困難です。でも現実的な問題は、それが検証できるかどうかではないのです。このおばあさんが「神のおかげだ」と信じて、「次に同じことが起きても神の介入があって助かるにちがいない」と思いこむ場合が問題なのです。それで次も助かると思って11階から飛び降りるようなまねをするとなると、かなり問題です。まあ教えによっては、「そんなことをして神を試してはいけません。」として戒めるでしょうけど。
11階から落下の例だと杞憂に見えますが、元寇の際に神風が吹いたという例だと、「日本は神国だ」という思いこみが生じて、それを見込んだ戦略を立てちゃったりしましたよね。まあうまく使えば志気を高めるという正の側面があるんですけどね。
87
:
fukken
:2007/01/12(金) 12:26:24 ID:M5vfENrY
>>83
>聖書の記述は(「聖書には絶対に間違いがない」というイデオロギーを通して見ない限り)誰がどう見ても間違っているので、「認めろ」とわたしが押しつけるまでもないでしょうが、そもそもわたしはそんなことは言っていません。
>そうでなくて、「知っている」と「信じている」を区別しろというだけ。イエスが神の子であるかどうか、聖書が正しい教えを伝える本かどうか、わたしたちが「知っている」はずがない。信じるか、信じないかでしかないはずです。そうでしょ?
宗教は信じれば良いもの。必ずしも知る必要はない。その通りだと思います。
だからこそ、宗教者はたとえ事実と違うことが生じてもそれをただ信じ続けるんじゃないでしょうか。
ところが、macskaさんは飽くまで「区別しろ」と言うんですね。宗教の曖昧な部分に線を引こうとすること、結局はそれは事実(知)を受け入れろ、違い(間違い)を認めろと主張することになってしまっているように思うのですよね。
だから私は何度も「そんなこと言ってはかわいそうじゃん」と言っているのです。
地球が6000年前に出来たなどと言うのは、今にしてみれば大間違いと言えますが、聖書の書かれた時点では納得出来るのかも知れません。現時点で黒だったとしても聖書に白と書かれていれば、クリスチャンにとってそれは絶対に白でしかないんじゃないでしょうか。宗教とはそのようなものなのでは?
>>本当に神がいないかどうか、科学で確認出来ていないことが宗教でわかっていないかどうかの事実は私にはわかりません。
>だから、もしある人が「イエスは神の子」と信じていたとして、仮にそれが事実であったと後から分かったとしても、その人が事実をあらかじめ「知っていた」ことにはなりません。信じていたことが、たまたま事実だっただけです。
信じることこそが宗教なのでしょうから、宗教にとっては事実であるか、知っているかなんて重要じゃありませんよね。
そのような性質のモノに「わかっているはずがない」と言うことに意味があると思いますか?
神や死後の世界の存在を明確に否定出来るなら話は別ですが、そうでないなら自由に語らせてあげたら良いじゃないですか。
>>人間の知覚で確認出来なくても、それこそ人知を超える神の存在があったなら、それを通じてヒトが「死後の世界」や「人生の意味」を知ることは容易いことなのかも知れませんよ。
>それが人知を越えた神からのメッセージであるというのは、やはりそう信じているだけでしょ? まったく確認のしようがない。
そう。確認しようがないから否定も出来ない。
宗教者が「死後の世界」「人生の意味」をわかった気になっているだけなのか、本当に知っているかを我々が判断することは出来ない。
「実際にはわかっていると信じているだけ」などとは言い過ぎなのではなかろうかと。
>> macskaさんは神の存在を理詰めで否定できますか。
>肯定論者に立証義務があります。
少なくとも私はそのような必要は全くないと思います。
神や死後の世界の存在を証明しろなどと言い出したら宗教は成立しなくなるでしょうね。(わからないことがあるからこその宗教
>>76
だと私は思います)
そもそも「宗教は信じるか否かでしかない」とmacskaさんも仰っていたはずなのに。
このような主張をなさると、macskaさんはやはり宗教を否定したいんじゃないの?って思えてきますね。
繰り返しになりますが、私が「神の存在を否定できるか」と尋ねた意味は、それが出来ない以上「神が存在するはずがない」とか「死後の世界がわかるはずがない」と言い切ることは出来ないのでは?と言うことです。
逆に、宗教に対して「神の存在を立証しろ」と言うのは、宗教の否定行為にほかならないと思います。
88
:
fukken
:2007/01/12(金) 12:29:51 ID:M5vfENrY
>>84
>>人間の知覚で確認出来なくても、それこそ人知を超える神の存在があったなら、それを通じてヒトが「死後の世界」や「人生の意味」を知ることは容易いことなのかも知れませんよ。
>あくまでも「かもしれない」だけですよね。今のところは「人知を超える神の存在」を知覚していない私には無理ですね。
そうです。でも「かもしれない」で十分だと思います。
この僅かな可能性をdiamonds8888xさんは恐らく否定出来ませんよね。
誰にも出来ないはずです。
だから人間の知覚で確認出来ないはずの「死後の世界」を宗教者が知ることは不可能とは言えません。
私は、macskaさんの「わかった気になっているだけ」と言うのは言い過ぎだろうと思っただけですから、「かもしれない」を認めてもらえれば私の理屈には十分です。
>いやmacskaさんの主張は、「わかっている」と断言する宗教への問いだと思いますが。
少なくとも私も地下猫さんも「わかっている」などと断定していませんし、それを肯定しているわけでもありませんよね。
不確かなことを「わかっていない」と断言したmacskaさんに「そんなこと言っていいの?」って言っているだけなんですよ。わかっていますか?
一方、
>>76
で言いましたように、
「わかっている」と断言しなければ宗教は始まらないんじゃないでしょうかね。
89
:
Seagul-X
:2007/01/12(金) 12:53:06 ID:???
うーんと、なんか説明が足りなくて誤解を与えちゃったみたいですみません。
といっても、macska 以外のかたには大筋ではわかっていただけると思うんですが。
いろいろ調べた結果、たとえば落ちたところが花壇でやわらかい土がクッションになった、地面に当たった時の姿勢がたまたま致命的な箇所の損傷を避けられる状態だった、などという結果は出ると思います。
でも、そこに神の介入があったかどうかをどうやったら知ることができるんでしょうか?
一回限りの現象では調べにくいというなら、倫理的にアレな点は無視した仮想実験になりますが、そっくりなおばあさん 1000 人を連れてきて、11 階からおなじ軌道で落下するように次々に突き落としたとします。
で、1000 人のうちほとんどは死んでしまったけれど何人かは助かったとして、助かった確率としては統計的に有意な偏差がみられなくても「このおばあさんが助かったのは神の御心によるものだ」という主張はできるだろうし、それを否定する根拠は科学には求められないと思うんですが。
そりゃ、そう云われたところで本当に神の介入があったかどうかなんて(たぶん云ってる本人にも)わかりゃしないでしょう。でも否定もできない。とすると、結局信じるかどうかということになってしまう。
みなさん、こういうことをいろんな言葉で言ってるだけなんだと思うんですが、macska さんの解釈では違うんでしょうか?それとも、上のような実験でも科学で神の介入を{肯定|否定}することができる手段がある、という主張なんでしょうか?
ということがお尋ねしたかったことなんです。
90
:
Seagul-X
:2007/01/12(金) 12:55:25 ID:???
失礼、「さん」を付け忘れてしまいました。
>といっても、macska 以外のかたには大筋ではわかっていただけると思うんですが。
↑「さん」
91
:
AH1
:2007/01/12(金) 16:24:51 ID:MM7DYpv2
流れ速っ!
多数の方が参加しておられるので申し訳ないんですが、意見だけ。代わり映えしない意見ですけど。
カガク君とキョウソ君の漫才だとして、
キ「私が祈ると1分後に必ず風が吹くんですよ。風よ吹け!」
カ「ほほう・・(ストップウオッチと風速計を取り出す)・・・吹きませんな」
キ「いやいや、夕べの雨は私が降らせたんですよ」
カ「ほほう・・(気象データにアクセス)・・統計的に言って、ふつーに雨が降る気圧配置ですが?」
前者の場合は「ウソじゃん」と言えますが、後者だと
「いや、気圧配置を動かしたのは・・」「温度分布を変えたのは・・」「日射量の分布は・・」「地球上の地形は・・」と、どこまでもキョウソ君は逃げられますね。その場合、カガク君にできる突っ込みは「結局、現時点で検証可能なキョウソ君の介入なんて示せないじゃん!」であり、「みんなー、コイツは科学的に自分の力を示すことはできないんだぜ!」です。
カガク君のように検証を試みることはできるし、キョウソ君がついうっかり「私の力は科学的に証明されているんです」などと言ったならそれを否定できますが、
「科学はまだ解明していないようですな」とか「人間の理解を越えていることでしてね」と言われたら追い詰めることはできないと思います。
その上でギャラリーがキョウソ君を「うさんくせー」と思うか、「すばらしい!」と入信するか、それはわかりませんし、またギャラリーの自由であるとも思います。
例えばキョウソ君が「私を信じれば病気は治るのだあ」とか言い出した時に「こら待て、臨床データは?治癒の実績は?!」と問いつめるのは、治療法を選ぶ上で絶対必要だと思いますけどね。
macskaさんの仰る「現実との関わり」は多分こういう部分かと想像はしているんですが。
92
:
macska
:2007/01/12(金) 17:26:18 ID:VdHL1C4M
>>87
> 宗教は信じれば良いもの。必ずしも知る必要はない。その通りだと思います。
> だからこそ、宗教者はたとえ事実と違うことが生じてもそれをただ信じ続けるんじゃないでしょうか。
> ところが、macskaさんは飽くまで「区別しろ」と言うんですね。
区別すべきです。米国大統領がジョージ・ブッシュであると「知る」ことはできますが、神様の名前がヤーウェであるかアッラーであるか「知る」ことはできません。
「いや、米国大統領の名前だって、そう信じているだけではないか」と思うかもしれませんが、米国大統領が誰であるかは、具体的な証拠を元に議論ができるわけです。100%完全の証明はできなくても、「かなり確からしい」ことを「知る」ことができます。そしてその「かなり確からしい」ことは、全世界共通なのです。
# たまに南北朝みたいになって、どちらが正統かで判断が分かれたりするかもしれませんが。
# そうなったらそうなったで、また具体的な根拠を元にそういう状態であると記述可能。
> 宗教の曖昧な部分に線を引こうとすること、結局はそれは事実(知)を受け入れろ、
> 違い(間違い)を認めろと主張することになってしまっているように思うのですよね。
逆です。かれらが曖昧な部分をまるで確定したことのように語るから、例えば科学の進歩によって教義の一部が反証されて傷ついたりするわけです。知らないことを「知っている」と言うな、というそれだけのこと。「信じている」という分には、どんなに非合理的な信仰であっても構わないです。
> 地球が6000年前に出来たなどと言うのは、今にしてみれば大間違いと言えますが、
> 聖書の書かれた時点では納得出来るのかも知れません。現時点で黒だったとして
> も聖書に白と書かれていれば、クリスチャンにとってそれは絶対に白でしかない
> んじゃないでしょうか。宗教とはそのようなものなのでは?
地球の年齢が6000年だと信じているクリスチャンはそれほど多くないはずです。要するに、大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教義を読み替えるくらい平気でやってのけます。
> そのような性質のモノに「わかっているはずがない」と言うことに意味があると
> 思いますか?
ありますね。だって、わかっていないのであれば、たとえば「人生の意味は何か? どう生きるのが正しいのか?」といった「科学が分からない問い」についての権威を宗教が独占する理由がありません。
> 宗教者が「死後の世界」「人生の意味」をわかった気になっているだけなのか、
> 本当に知っているかを我々が判断することは出来ない。
ここでわたしが「いや、わたしに判断できる、そいつは何も知ってはいない!」と言えば、「macskaが判断できる気になっているだけなのか、本当に判断できるのか、他人には判断できない」とでも言いますか?(笑)
いいですか、「知る」ということが何を意味するのか考えてみてください。単純な話からはじめると、わたしたちが何かを「知る」ということは、他のさまざまな根拠を元に、あることが「かなり確からしい」という認識を得ることだと考えられます。そういった根拠の数々は、それぞれ信憑性を疑うことができます。わたしたちの知覚だって、認識だって、計量器具だってなんだって疑えます。
しかしそのそれぞれについて、個別に「かなり確からしい」「そこそこ信頼できるっぽい」という感覚を得たうえで、一旦疑いを停止することにより、それらの上に新たなことを「知る」ことができるわけです。そのうちに矛盾がでてきたりしたら、自分が「知っている」と思っていることのどこかがおかしいんじゃないかと、また疑いだすわけですね。
宗教における「知る」というのはこれと違い、何の根拠もないところにいきなり「確かな知識」やその根源が登場してしまいます。何の進化もないところにいきなり複雑な「創造神」が登場してしまうのと似ていますね。デネットの言う「空から吊るされたフック」です。しかし、人間の知識も、何かを創造するほどの知性を持った存在も、「空から吊るされたフック」によってもたらされることはあり得ず、必ず下からクレーンによって築き上げられているはずです。
> そもそも「宗教は信じるか否かでしかない」とmacskaさんも仰っていたはずなのに。
> このような主張をなさると、macskaさんはやはり宗教を否定したいんじゃないの?って思えてきますね。
「神の存在を反証できるのか?」という相手に対して、「立証義務は肯定側にありますよ」という、論証上のルールを示しただけです。一般論として宗教は教義を証明する義務があるとは思っていません。
93
:
macska
:2007/01/12(金) 17:27:35 ID:VdHL1C4M
>>89
> でも、そこに神の介入があったかどうかをどうやったら知ることができるんでしょうか?
だから、それが必ず分かるという主張はしていませんって。
それが単なる偶然であったにせよ、神の介入による奇跡だったにせよ、
現実世界で起きたことは、科学的検証の対象となり得ますよ、と。ただそれだけ。
何度言えば理解してもらえるのか。
科学の範疇には、情報不足で解決不可能な問題はいくらでもありますよ。
このケースにおいて「神の介入があったか」というのもその一つというだけの話。
なぜそんなことを言うかというと、「神の介入や奇跡は科学の範疇の外」という人がいるからです。
それは明らかに間違いなのではないかというのがわたしの指摘の趣旨。
94
:
ミケ
:2007/01/12(金) 18:35:58 ID:???
>「神の介入や奇跡は科学の範疇の外」という人がいる
誤解。正確には、
科学で扱うことができない部分、たとえば、現象の『意味づけ』など
(サイコロを振って、1が出る確率は1/6だが、それが「今」起きたことの説明付け、みたいな)
を、神による介入や奇跡と呼ぶことには、科学的に問題も矛盾もない
というもの。
macska さんが誤解されてるとイヤなので、あえて言いますが、
ここでは誰も、「カミサマと謳えば科学は手出しできない」とは主張していないです。
宗教・科学についての現状把握については
議論参加者の(ほぼ)全員が、macska さんとほぼ変わらないとさえ思います。
この部分については結局のところ、日本語の問題。
A.神がいるかどうかという問題は、科学の範囲外
B.神と名がつけばどんなものであろうと科学の範囲外
A≠B。それだけのこと。これがすれ違いの大本です。
その後の部分、宗教と科学のそれぞれのとるべき態度・立場については
いくらか議論の余地はあるでしょう。
その辺はもう『価値観』の話題ですけど。
95
:
macska
:2007/01/12(金) 18:53:47 ID:VdHL1C4M
>>94
順序が違うって。
わたしはもともと、Q&A の記述がまさに「神の存在は科学の範囲外」だったから、そうとは一概に言えないのではないかと言い出したのです。そして、その点についてしばらく議論があって、Q&A も書き直してもらえたし、議論参加者全員「ほぼ変わらない」考え方を共有できたと思ったから、いったん議論を終わらせたわけです。
しかし「それは違う、共有していない」という人がでてきたので議論を再開したところ、相手はわたしの指摘を理解せずに勝手に別の意味に読み替えて「科学主義」だと決めつけている。だからこうして、何度も何度も「わたしが言っているのはこういうことですよ」と説明せざるを得ないのです。もしその説明に他の議論参加者の全員が同意しているなら、もうとっくに議論は終了しています。
96
:
ミケ
:2007/01/12(金) 19:09:38 ID:???
>>95
A≠B
97
:
ミケ
:2007/01/12(金) 19:27:03 ID:???
>>96
じゃ、あんまりに短すぎるか。
というわけで補足説明。
まず、
>>94
のA,Bをちょっと加工。
A.(ホンモノの)神がいるかどうかという問題は、科学の範囲外
B.神と名がつけばどんなもの(疑似科学的神)であろうと科学の範囲外
A ノットイコール B
AとBは異なります。
ここで、地下猫さんの
>>72
を見てみましょう。
>・神の干渉に関してはカガクは手がでない
>・お馬鹿教義=誤ったカガク的事実に依存する教義、疑似科学的教義に対してはカガクは検証できる
これを変換しますと、
・(ホンモノの)神の干渉に関してはカガクは手がでない
・神と名のついた誤ったカガク的事実に依存するモノ、疑似科学的神に対してはカガクは検証できる
まだ補足必要?
98
:
macska
:2007/01/12(金) 19:46:32 ID:VdHL1C4M
>>97
ホンモノであれ何であれ、神が実在して現実社会に何らかの物理的影響を与えているなら、その影響は科学の範囲内に決まっているでしょ? もちろん神様は、自分の能力によってそうした影響を極限まで検出不可能に操作することはできるかもしれませんが、それでもそうしたさまざまな事象が「科学の範囲外」であるという記述のは到底受け入れられません。現実世界で起きていることは、潜在的に全部科学的検証の範囲内です。
> ・(ホンモノの)神の干渉に関してはカガクは手がでない
その「手が出ない」というのは、単に「解明が不可能」というだけであって、科学の範囲の外にあるという意味ではないはずです。少なくともその神が現実世界に関与するタイプの神である限り。
それに対し、「死後の世界」や「人生の意味」はただ単に科学に解明ができないだけでなく、原理的に科学的検証を全く受け付けません。「検証できるけれど分からない」のではなく、そもそも検証できる対象ではないのです。
この違いをきっちり区別するべきです。
> まだ補足必要?
それはこっちが言いたい。
99
:
ミケ
:2007/01/12(金) 20:23:52 ID:???
やはり「確率現象を介した現実への干渉」の部分にすれ違いがあるというわけですね。
昨夜きっちり説明しとくべきだったかも。
1.ミケの言う「確率現象を介した現実への干渉」
神がある瞬間に
「ただしく作られたサイコロにおいて1の目が出る確率が1/6である」
という法則を変化させる。
◎要するに、法則・普遍性・斉一性を前提とする『科学』は、
その「前提」を覆す存在のことを、
データが足りないとかじゃなくて、原理的に検証できない。
証拠というのは、法則・斉一性に基づいて判断されるものだから。
2.地下猫さんの「確率現象を介した現実への干渉」(文脈から予想byミケ)
ただしく作られたサイコロを振って1の目が出た。
1が出るのは確率の問題。
これは神の導きによって1が出たのだ(これは運命だ)、と現実を“解釈”した。
◎科学が扱えるのは、1/6の確率で1が出る、というところまで。
※サイコロの運動がどうとか言いたい場合には「電子の位置(確率でしか記述できない)」に置き換えてください。
100
:
macska
:2007/01/12(金) 21:45:53 ID:VdHL1C4M
>>99
あのね、全部分かってこっちはモノ言ってるの。
問題は、「原理的に検証できない」というときの「原理的」というのをどういう意味で使っているかということで、ミケさんはわたしよりはるかに軽い意味で使っているのです。
たしかに、量子論において「確率でしか記述できない」ことを「原理的に」確定できない、という言い方はします。しかし、わたしが今使っている文脈における「原理的に検証できない」というのは、それとは違った意味なのです。
その意味とは、宗教との関係において、問い自体が科学の範疇を越えていることです。たとえば「死後の世界はあるか?」とか「正しい生き方とは何か?」という問いは、問い自体が既に科学の範疇ではありません。それを、わたしは「原理的に科学の範疇ではない」として、科学において問うことができる現象と区別しているのです。
それに対し「電子はどこにあるか?」という問いに原理的に答えが確定できないとしても、その問い自体は科学の範疇に含まれるものであり、現に量子論という科学理論によって論じられています。
だから、「原理的」という言葉の意味が違うと気付いたときには、これまでも何度か「それは『原理的』という言葉の意味が違いますね」と答えてきたのですが、なぜそれが分からないのでしょうか。
101
:
AH1
:2007/01/12(金) 22:06:17 ID:MM7DYpv2
横ですが
死後の世界は(もしそれがあり、観察する手段が開発されたなら)観測可能なんじゃないの?
102
:
地下に眠るM
:2007/01/12(金) 22:08:11 ID:Y7kDipRw
読めば読むほどカガク主義だにゃ。
その論法でいけば、「死後の世界はあるか」も「正しい生き方は何か」もカガクの範囲になっちまうんだけどにゃー(げらげら
自然科学が脳のことを調べることにより、意識というものがどういうことかわかり、ひいては魂というものを理解するかもしれにゃーので、死後の世界の有無はカガクの対象となる。
ニンゲンの意識の有り様を解析していけば、一定の条件のもとでの「正しい生き方」は自然科学で答えが出せるかもしれにゃー。
その論法なら、森羅万象すべてが自然科学の対象になるんだよ。
ただのカガク万能信仰だにゃ。
死後の世界だの正しい生き方だのは、macskaが宗教の領分(インディアン居留地)に適当だと思うものを恣意的にあげているにすぎにゃー。程度の低い詭弁だにゃ。
103
:
ミケ
:2007/01/12(金) 22:32:41 ID:???
macska さんへ。
えーっと、先のミケの言動を見たら、ちょっと挑発的に見える。
そのことが神経を逆なでしたのなら、そのことだけについては謝罪おきます。
すみませんでしたm(__)m。
(ちなみに地下猫さんの、挑発的態度はいわばキャラ作りみたいなものですので、
気にしすぎると疲れますよ、と忠告しておきます)
ただし、自分の理解力が足りなかったとして、それを詫びるつもりはありませんので
バカの面倒を見るつもりで気長に相手してくださいな。
これ以上バカの相手してられないと思ったら無視でも構いません。
以上礼儀の上での話、以下本題。
>「電子はどこにあるか?」という問いに原理的に答えが確定できないとしても、その問い自体は科学の範疇に含まれるものであり、現に量子論という科学理論によって論じられています。
問いは、「電子がどこにあるのか?」「サイコロの目はいくつが出るのか?」
ではありません。
「なぜ電子がそこに現れたのか?」
「なぜサイコロを振ったら六面あるうちの一つ、1の目が出たか?」
です。
あるところまで突き詰めると、科学は『たまたま』以上の答えを持ちません。
たまたま偶然に、というのは、何も言っていないに等しいので、
そこに神が介入したという“解釈”の入り込む余地が生まれる、というわけです。
インテリジェントデザインがこの最たる例。
インテリジェントデザインのことを、原理的に検証可能というヒトはまず、いません。
もちろん、もしかしたら『たまたま』以上の答えが見つかる可能性もあるでしょう。
そこは、
>>77
の
>結局、チミのいっていることは(38)でRYU_TI_SYUのいっていたことで片づけることができそうにゃんな。
>***************************
>『将来的には解明できるかもしれません』
>とは、いえるかもしれんがそれは
>『将来的に創造論が正しくなるでしょう』
>といってるのとあまり変わらんようなきがするな。
>******************************
104
:
地下に眠るM
:2007/01/12(金) 23:03:51 ID:Y7kDipRw
第一掲示板によく出没する馬鹿に「進化論が正しいなら俺にその証明をしてみせろ」「肯定論者に立証義務があります」というのがいますにゃ。ここの常連はよく知っているよね。で、この類いの馬鹿に対して、いろいろと説明していっても大抵は「わからん、俺にわかるように説明しろ。俺にはわからんからシンカロンは間違いだ」とかなんとかいいだすのがおきまりのパターンだにゃ。
この手の馬鹿は譲ることをしらなくてにゃ。
「専門家集団のなかではそれが認められているんだよ」といっても、陰謀説だのを持ちだしてくるしね。そもそもシンカロンが嫌いで理解したくにゃーんだよな。
その手の馬鹿に対しては、酒のつまみにしつつ「いいからカガクをよく勉強しなさい」くらいしかいいようがにゃーわけだ。
また、知には階層性があるちゅうのは僕もここでよくいっていることなんだけどにゃ。
例えば、イチゴヤドクガエルについての生態というお題については、生態学を中心とする知の体系がその問いと答えを独占するわけで、量子力学も相対性理論もイチゴヤドクガエルの生態を明らかにすることはできにゃー。量子力学と生態学では方法論はカガクという共通項はあるにしても、方法論は大きくちがうにゃ。もちろん、生態学の中でもほ乳類と両生類、両生類の中でもサンショウウオとカエルではそれぞれ方法論は異なるはず。
ある問いに対して特化した体系が、その問いに対する答え(=知)を独占するのはアタリマエのことにゃんね。
だから、その独占された知の正しさに疑問があるというのなら、その体系を丁寧に学んでみなければならにゃー。それもせずに、学ぶ気もにゃーくせに「肯定論者に立証義務があります」とかのたまってふんぞりかえるのは傲岸で無礼でかつ頭のワリイことですにゃ。
僕はもちろん、macskaクンのことをいっているにゃ。
宗教における知の体系というと、神秘主義がまず思い浮かぶにゃんね。スーフィーとかヨガとか禅とかいう体系には、修行者がいまどのくらいのレベルにあるかについては、先達がちゃんと判定できるということですにゃ。客観的な基準はあるらしい。客観的な基準はあっても体験者でなければわからにゃー。権威ある科学誌の査読はそれなりの科学者でなければつとまらにゃーのと同じことにゃんが、なにせ実際の体験の比重がカガクなどよりはるかにおおきい体系であるちゅうことは肝に銘じておかなければならにゃー。
こういう体系に対して、ソトから気楽に、どーせわかってない、とか、信じてるだけ、とか放言して、否定する対象についての無知と傲岸さを宣伝するという行為。
恥ずかしくにゃーのだろうか?
掲示板によくやってくるシンカロン否定にこりかたまったウスラ馬鹿と何が違うんだろうか?
105
:
tema
:2007/01/12(金) 23:11:19 ID:???
>>93
>なぜそんなことを言うかというと、「神の介入や奇跡は科学の範疇の外」という人がいるからです。
>それは明らかに間違いなのではないかというのがわたしの指摘の趣旨。
「現実世界で起きたことは、科学的検証の対象と出来る」これならば、temaは同意します。
しかし、「神の介入や奇跡は科学の範疇の外」こちらについても同意します。
宗教にとって「神の御技」「奇跡」とされた事象は色々あります。
当該事象に対して科学的検証を行った結果、「起こりうる」「不可能」「判断不能」などと判断したとします。
しかし、宗教にとっては科学的検証結果など「それがどうした」なのです、多分。
宗教に於いて、ある事象を「神の御技」「奇跡」とするのは、人の心でしょう。
その事象を科学的に検証しても、宗教にとっては科学が勝手にやってるだけで関係無いのです、多分。
このため、神の介入や奇跡とされる「事象」については科学的検証も可能ですが、その事象が「神の介入」や「奇跡」なのか否かを判断することは、科学の範疇外と考えます。
なお、神の介入や奇跡とされる事象を科学的に検証した結果、そんな事象は発生してなかったと判断しても、宗教にとっては「それがどうした」であり「その事象は発生した」なのです、きっと。
106
:
fukken
:2007/01/12(金) 23:16:01 ID:M5vfENrY
>>92
>かれらが曖昧な部分をまるで確定したことのように語るから、例えば科学の進歩によって教義の一部が反証されて傷ついたりするわけです。知らないことを「知っている」と言うな、というそれだけのこと。「信じている」という分には、どんなに非合理的な信仰であっても構わないです。
”かれら”とは具体的にどのような人たちを指すのでしょうか。
実は私も反省しなければならないのですが、私は真っ当な宗教を想定してここで議論をしていたつもりだったのですが、実際には無意識に似非宗教も含めて話してしまっていました。
「科学の進歩によって宗教がダメージを受けると思う
>>81
」と言うのがそれです。
「そんなこと言ってはかわいそうじゃん
>>87
」と言うのもそうした人たちに対する言葉で、本物の宗教者に対して無礼な発言でした。
さて、macskaさんは色々懸念なさっているみたいですが、果たして真の宗教者は「信じる」こと以外何をするのでしょうか。macskaさんが心配するようなことは何も起こらないのではないでしょうか。
本物の宗教者は、科学による”知”がどうあろうと自分の”信”は揺るがないはずです。
一方似非宗教者はたじろぎ、創造科学などで武装しようとするわけですよね。
恐らくmacskaさんが憤慨するのはそうした現象に対するものなのではないですか。
>要するに、大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教義を読み替えるくらい平気でやってのけます。
これは暴言だと思いますよ。
こんなのを聞いてしまうと「結局macskaさんは単に宗教が嫌いなだけなんじゃないのか」って思えますね。宗教に対してとても攻撃的な印象を受けます。
>宗教における「知る」というのはこれと違い、何の根拠もないところにいきなり「確かな知識」やその根源が登場してしまいます。何の進化もないところにいきなり複雑な「創造神」が登場してしまうのと似ていますね。デネットの言う「空から吊るされたフック」です。しかし、人間の知識も、何かを創造するほどの知性を持った存在も、「空から吊るされたフック」によってもたらされることはあり得ず、必ず下からクレーンによって築き上げられているはずです。
例えがちょっと漠然として良くわからないのですが、この場合「知る」を「信じる」に置き換えて不都合はないんじゃありませんか?
そして、”「信じている」という分には、どんなに非合理的な信仰であっても構わない”のであれば、それで丸く収まるじゃないですか。
「彼らが彼らが」と言いながら、どうもmacskaさんの側が宗教に対して喧嘩を吹っ掛けているように見えてなりません。
過剰反応し過ぎではありませんか。というより被害妄想なんじゃないかって気すらします。
107
:
地下に眠るM
:2007/01/12(金) 23:54:02 ID:Y7kDipRw
>>99
ミケの解釈で正しいにゃ。まあ(99)のミケ解釈と地下猫解釈は矛盾しにゃーしね。
ただ、もうちょい補足しておくにゃ。
日本大百科より「偶然性」の項を全文引用
***************************
contingency 英語
Zuflligkeit ドイツ語
contingence フランス語
常識的には、どうしてそれが生じたかについて十分な理解が得られていない事柄について、「偶然」という概念を使う。「今日、町で、偶然、昔の友人に会った」というふうに。しかし、よく調べてみれば、その日、同じ町角に、当人と友人とがそれぞれ出かけて行ったのには、それぞれ、それなりの理由があったことがわかるかもしれない。この考え方を推し進めていき、「世の中の事柄はすべて、それぞれが成立するための根拠があって成立したものであり、本質的に偶然生じたものは一つもない。偶然な事柄は、人間の無知のために存在するかにみえているにすぎない」とする人もある。また反対に、事柄を、必然的に生じたものと、偶然生じたものとの二つに分ける人もいる。この考え方は、様相論理学、あるいは物事の性質を本質的なものと偶有的なものとに分ける本質主義に通ずる。しかし、様相論理学や本質主義の当否をめぐってはいろいろな議論がある。
[吉田夏彦]
****************************
macskaは偶然性ということについて「人間の無知のために存在するかにみえているにすぎない」という立場なのは明らかだと思われますにゃ。しかしそれは、自分では気づいていにゃーのだろうけど、偏った立場なんだよね。
で、この「偶然はない」という立場と「偶然はある」という立場のどちらが正しいかは、そうそう決着のつく問題ではにゃーだろう。ほぼ神学論争といっていいんでにゃーかな。
仮に「偶然はない」という立場にたったとしても、カガクという知の体系は常に不完全なのだから(常に不完全であることがカガクという知の体系を最も強力なものとしているのだけれど)、相手が全能の存在だとしたらその「不完全」を突かれることになるにゃ。
この場合においても、「神の干渉はカガクの不完全をつくものである」と定義されてしまった時点でオシマイにゃんね(これをいっちゃオシマイと思って、いままでいわなかったけど)。
もちろん、「偶然がある」ということであれば、そこには魑魅魍魎が跋扈し放題にゃんなあ。
カガクとは因果関係を説明する線的な体系なのだから、本質的な偶有性には手も足もでにゃー。
「自然を対象とするのは自然科学だ」という言い方もここでは弱くて、例えば呪術だって自然を対象とするわけだにゃ。線的論理でにゃーものはカガクとはいえにゃー。
ところが、ニンゲンの意識は、その偶然性をいとも簡単に必然性に転化してしまうわけだにゃ。にゃんとなれば、意識には志向性があるからにゃんね。ドストエフスキー風にいえば、「意識は病気だ」。
ユングは、シンクロニシティを「意味ある偶然の一致」と定義しているにゃ。
「偶然」と「意味」の組みあわせは、自然科学の取扱い範囲外だにゃ。
そして、奇跡とか恩寵とか罰とかいった宗教的なものは、この「偶然と意味」にかかわるものごとなわけにゃんね。
108
:
地下に眠るM
:2007/01/13(土) 00:52:44 ID:Y7kDipRw
もう少し必要と思われるところを乱暴に書いておくにゃ。
この議論をきっちりとやりたかったら、本当は「呪術」という概念をもってくる必要があるように思われますにゃ。宗教と呪術は違うシロモノにゃんから。宗教と科学は呪術の領域において重なりあうのではにゃーかとも愚考するにゃ。なににしろ、宗教・科学・呪術はともに社会的実践にゃんからね。宗教と呪術は連続的ではあるが別の概念。そして、呪術と科学も連続的なところがあるといえるのですにゃ。どう連続的かはここではとても書ききれにゃーのだが。
疑似科学と疑似科学的宗教については、自然科学からだけではなく、文化人類学とか社会学、宗教学、民俗学の立場から総合的に分析することが必要ではにゃーかと思う。
宗教が「真理」を独占している時代というのは確かにあったわけだにゃ(まあ、西洋思想史だけどね)。「我々は真理を握っている」というところから現世否定をしていればよかったわけ(我ながらものすごく乱暴にゃんが、乱暴に書かにゃーと書ききれん)。ところが、科学技術の発展とか啓蒙思想によって、宗教が真理を独占することがかなわなくなってきたというのはいえるでしょうにゃ。
で、近代宗教は「慣習の保全」「道徳的言説」「近代批判」「社会的実践」によって生き残りをはかったわけ。このあたりが「超越性=真理」というエデンを追放された宗教の「インディアン居留地」なわけだにゃ。ひとことでいえば「世俗化」にゃんな。
失礼を承知でいえば、多くの宗教者の意識には、被害者意識のようなものがあってもおかしくはにゃーのだろうと思う。ここで方向性は基本的には2択。合理性をすすめるか(馴化)、聖地奪回をするかだにゃ。
フロイトによれば呪術とは自我防衛に使われるものであるということで(僕はすんごく納得できるんだけど。あと、「自我は呪術的」というのもある。自我の確立には呪術は必須といえる)、被害者意識と呪術は結びつきやすいといえるにゃ。小規模カルトはたいてい呪術的思考をするもんだし。
で、被害者意識を持ついろいろな集団が呪術的思考をして(疑似)科学をひっぱってくるのではにゃーかと思ったりするわけですにゃ。被害者意識に凝り固まってしまうと、科学と呪術の区別がつかなくなるともいえるかもしれにゃー。
で、呪術が宗教を名乗ったり科学を名乗ったりしているのではにゃーかと。
呪術そのものは別にワリイものではにゃーし、ニンゲンが呪術思考をしなくなることはありえにゃーとも思うけど、呪術は宗教でも科学でもにゃーんだな(宗教とも科学とも連続的なところはある)。
本来はこのあたりを仮想敵とみるべきなのではにゃーだろうか?
カガク的検知とかいうよく切れる刃物をふりかざして、宗教をぶったぎっても百害あって一利もにゃーのではにゃーかと僕は思う。さらに被害者意識をつのらせるだけに終わることでしょうにゃ。
109
:
地下に眠るM
:2007/01/13(土) 02:54:52 ID:Y7kDipRw
理系ニンゲンが多いこの場所で、いきなり「呪術」とかいってしまったので、呪術についての簡潔な説明を付け足すのがよいと思っていろいろ探しているんだけど、どうも今の議論においてピンとくるものがにゃーです。猫招きを店におくとかいうのも確かに呪術なんだけどね。
で、以下は呪術のある一面に着目したにゃんこ定義なので、眉に唾付けて聞いてくださいにゃ。
宗教→偶然性・固有性と意味解釈の体系
呪術→意味操作の体系
宗教には基本的に「操作」をしにゃー。
もちろん、まったく「操作」をしにゃーわけではにゃー。
例えば、ある男女が夫婦であると「宣言」することは立派な呪術のひとつだにゃ。宣言というものには呪術的性質がある。言語を使う以上、どうしても呪術性が発現してしまうわけで、禅宗で「不立文字」などというのはそのあたりを警戒してのことかもしれにゃー。信仰者にとって、意味は与えられるものであって操作するものじゃにゃーんだ。(とはいえ、概念操作ということはしなくちゃならにゃーんだが)
で、対象の「意味」を直接的に操作するのが呪術だというのは、例えばティーンエイジャーに「おまえ、臭いよ。みんなに嫌われてる」といえばどうなるか、を考えてもらえばわかると思いますにゃ。意味を直接攻撃して、対象を破壊しようとしているわけにゃんね。
当然ながら、心理療法は呪術の1種であるともいえますにゃ。意味を解釈して社会的に適応できるような方向に操作するのがその目的。占いもこの1種かにゃ。
ニンゲンに限らず社会的な動物は情動が感染するという面があるのだから、情動の表出ですら呪術的な一面を持つわけですにゃ。情動による対象のコントロールね。もちろん、ニセの感情(怒ったふり、泣いたふり)による対象の操作は意図的な呪術。
また、呪術においても、意味を操作するために前段階として意味解釈はなされるというあたりも、呪術と宗教の連続性を構成するでしょうにゃ。
このスレで言及されていた、雨乞いとか風をふかせる、とかは操作的なものなので文句なく呪術の範疇だにゃ。
呪術が悪い、とか、呪術は前近代的なもの、などとは簡単にいえにゃーこと。および宗教と連続的なところはあるけれども違うことは理解していただけたでしょうかにゃ?
そして、操作体系であることにおいて、カガクと連続性があるということもいっていいと思う。
110
:
macska
:2007/01/13(土) 08:27:13 ID:UfRlMoOA
>>101
もし死後の世界が、わたしたちと同じ現実世界のどこかにあるという主張であれば、確かに科学の範疇ですね。しかし、普通「死後の世界」というときにそれは現実世界にあるとは想定されていないはずです。(大昔であれば、雲の上に物理的にあると信じていた人もいたかもしれませんが。)
神様であれ、天国であれ、「現実世界の内側」に存在したり力を及ぼしていると規定される限り、科学の対象となり得ます。わたしたちの現実世界とは違った場所にあり干渉しないのであれば、科学は手が出せません。それだけのことです。
>>102
ヤケクソになるのはやめましょう(笑)
> 自然科学が脳のことを調べることにより、意識というものがどういうことかわかり、
> ひいては魂というものを理解するかもしれにゃーので、死後の世界の有無はカガクの対象となる。
例えば、進化論が広まった結果神の存在を疑問に思う人が増えたように、人間の意識の科学的解明が進んだ結果人々が死後の世界を疑問に思うようになるという程度の関連はあるでしょうが、進化論によって神の存在が科学の対象となったとは言えないのと同じように、死後の世界の存在そのものが科学の対象になるわけではありません。
> ニンゲンの意識の有り様を解析していけば、一定の条件のもとでの「正しい生き方」
> は自然科学で答えが出せるかもしれにゃー。
それは、宗教が教えるような、いわゆる「正しい生き方」とは違った意味になりますね。
> その論法なら、森羅万象すべてが自然科学の対象になるんだよ。
現実世界に起きていることなら、全て自然科学の対象に決まっています。
>>103
あのー、力説ご苦労ですが、だからそれがどう関係するわけですか?
ある科学的な問いにおいて、科学が「たまたま」以上の答えを出せない。
それは、科学がその問いには全く手も出せないという意味ではないでしょう?
「たまたま」と回答するのが、科学的に誠実な答えであるというだけの話で。
サイコロを振ったら1の目が出た理由を、科学は完全に解明できないかもしれません。
しかし、その現象自体は科学的調査の範疇でないはずがないんです。
>>104
> 第一掲示板によく出没する馬鹿に「進化論が正しいなら俺にその証明をしてみせろ」
> 「肯定論者に立証義務があります」というのがいますにゃ。
(略)
> だから、その独占された知の正しさに疑問があるというのなら、その体系を丁寧に
> 学んでみなければならにゃー。それもせずに、学ぶ気もにゃーくせに「肯定論者に
> 立証義務があります」とかのたまってふんぞりかえるのは傲岸で無礼でかつ頭のワ
> リイことですにゃ。
>
> 僕はもちろん、macskaクンのことをいっているにゃ。
「神の存在を否定できるものなら否定してみろ」という言いがかりが、その「第一掲示板によく出没する馬鹿」が述べる頭のワリイ論法の1つであることが、あなたには分かりませんか?
わたしはその言いがかりに対し、立証責任は「神が存在する」と主張する側にあるという、スタンダードな回答をしているだけですよ。なぜ存在側に立証責任があるかというと、不在を証明するには世界の全てを調べなければいけないので原理的に不可能であることや、宇宙軌道にあるティーポットや空飛ぶスパゲッティモンスターのようなばかげたモノですらその不在証明はできないことから、当たり前です。
わたしは神一般の存在を否定したことはないし、否定する論理も持ち合わせていませんが、それはスパゲッティモンスターを否定できないのと同じだけであり、「神の存在を否定できないこと」は神の存在可能性を少しも高めることにはなりません。神の存在可能性を高めることができるのは、神が存在するのではないかという肯定的な証拠だけです。
こうした思考法が「第一掲示板によく出没する馬鹿」と区別できないとすると、本当に頭のワリイのはあなたでしょうね。てゆーか、思い切り傲岸で無礼だし。
111
:
macska
:2007/01/13(土) 08:27:38 ID:UfRlMoOA
>>105
> しかし、宗教にとっては科学的検証結果など「それがどうした」なのです、多分。
そうあって欲しいものです。
しかし、既に例をあげましたが、仮に紅海の海底を調査したところ、ちょうどモーセの時代頃に海が突如ふたつに割れ、またすぐ元通りになったような跡が残っていたとします。モーセの神話を信じる人たちは、「科学的検証なんて関係ないね、こんな情報知りたくもない」と無関心でいられるでしょうか? おそらく逆に、「これこそモーセの話が事実であり、聖書が歴史を正確に伝えていた新たな科学的証拠である!」と宣伝するでしょう。
また、進化論を支持する論者のあいだで解釈をめぐる紛糾があったり、進化論者が「この部分では完全な証拠がない」と認めたりすれば、「進化論は科学的に証明されていない」と騒ぎ出す宗教者が大勢いるのはみなさんご存知の通り。
つまり、宗教が科学的検証に背を向けることが多いのは、科学が自分たちに有利な結論を出してくれないからです。もし少しでも有利な結論が出てくれば、遠慮なく科学的証拠を利用するでしょう。宗教は科学に無関心なのではなく、無関心を装わざるを得ないだけです。わたしは別にそれを責めようとは思いませんが、かれらの「自称無関心」をそのまま信じるほどナイーブではありません。
>>106
> さて、macskaさんは色々懸念なさっているみたいですが、果たして真の宗教者は
> 「信じる」こと以外何をするのでしょうか。
あのですね、別に何か社会的問題を起こすからダメだと言っているのではなくて、というかそもそも宗教はダメだとかそういう話はしていなくて、わたしは一貫して「科学的手法や理性を支持する側が、宗教に過剰に『遠慮』したり宗教の不当な要求に屈している」ことを批判しています。
>> 要するに、大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教義を読み替える
>> くらい平気でやってのけます。
>
> これは暴言だと思いますよ。
どうして? 事実として間違いだから? それとも、事実だけれどそれは指摘してはいけないの?
> 例えがちょっと漠然として良くわからないのですが、この場合「知る」を「信じる」
> に置き換えて不都合はないんじゃありませんか?
不都合です。「知る」とはどういうことなのかという部分を読み直してください。
>>107
> macskaは偶然性ということについて「人間の無知のために存在するかにみえている
> にすぎない」という立場なのは明らかだと思われますにゃ。
わたしの立場は、そういう認識に依存しません。いい加減その誤解やめてください。
何十回も説明させるつもりですか?
112
:
tema
:2007/01/13(土) 09:27:57 ID:???
>>108-109
の「宗教と呪術と科学」についてのtema的解釈は以下の通り。
#科学は、原理(公理)から矛盾を許さない論理を使って、事象を解釈する
#呪術は、原理から矛盾を許す論理を使って、事象を解釈する、または作り出す
#宗教は、原理を作り出す
ここで、科学が使う原理と宗教が作り出す原理は別物ですが、なんせ原理なので批判無用です。
問題は、宗教家が宗教の原理を基に呪術で事象を解釈する時です。
この際、事象を接点として科学と宗教が繋がってしまいます。
繋がりはしますが、原理も論理も違います。少なくとも宗教が作った原理は科学とは無関係ですし、「呪術による事象の解釈」と「科学による解釈」が違ったとしても、それは違ってるだけであり「呪術による事象の解釈」が間違ってるとは言えないのでしょう。
113
:
fukken
:2007/01/13(土) 10:36:31 ID:M5vfENrY
>>111
>>> 要するに、大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教義を読み替えるくらい平気でやってのけます。
>> これは暴言だと思いますよ。
>どうして? 事実として間違いだから? それとも、事実だけれどそれは指摘してはいけないの?
この指摘をする前段で私が真の宗教者を対象として議論をしたい旨をお伝えしたのは了解してもらえていますよね。(創造科学論者やアンチ進化論者、その他似非宗教家を相手にしたり話題にするのは無意味なだけでなく時間の無駄です。)
この条件であれば大間違いだと思います。
「宗教者のほとんどが自分の都合で教義を読み替える」とは宗教者を冒涜する発言であると思います。
そう言い切れるmacskaさんの根拠を教えてください。
私自身は無信心ですが、外国人との付き合いが多くムスリムやクリスチャンの友人が多数おり、寺の住職も親しい友人ですが、macskaさんの仰るようなことはありませんよ。
少なくとも、私の知っている範囲では「宗教者のほとんどが自分の都合で教義を読み替える」は全く成立しません。
114
:
Seagul-X
:2007/01/13(土) 10:56:36 ID:???
んー、別に何十回も説明する必要はないと思いますけどねー
macska さんが「何度も説明した」と主張しているにもかかわらず、納得しないひとがおおいってことは、
1) この掲示板に書いてるひとが(私を含めて)みんな macska さんの書いていることが理解できないほど知的レベルが低い
2) macska さんの説明の仕方がよくないので他のひとが理解(納得)できない
のどちらかだと思うんですが(他にも可能性はあるだろうけど、今回はたぶん無視していいかと)
どちらにしても、今後おなじように説明を続けてもおなじような結果しか得られないと思います。
で、どちらにしても、少なくとも私よりは macska さん頭良さそうなので、この堂々巡りから抜け出すにはどうすればいいか、私が考えつくようなことは説明しなくてもわかりますよね。
115
:
tema
:2007/01/13(土) 10:58:05 ID:???
>>111
>(前略)仮に紅海の海底を調査したところ、ちょうどモーセの時代頃に海が突如ふたつに割れ、またすぐ元通りになったような跡が残っていたとします。
>(中略)
>おそらく逆に、「これこそモーセの話が事実であり、聖書が歴史を正確に伝えていた新たな科学的証拠である!」と宣伝するでしょう。
その跡に対して科学的に解釈し、宣伝に対して科学的に反論(または同意)することは科学の範疇です。
この件については、地下に眠るMさんやミケさんも同意してくれるはずです。10対1で賭けても良いです。
>宗教は科学に無関心なのではなく、無関心を装わざるを得ないだけです。わたしは別にそれを責めようとは思いませんが、かれらの「自称無関心」をそのまま信じるほどナイーブではありません。
無関心を装っているのは宗教ではありません。宗教者です。
そしてtemaは「無関心を装ってる宗教者は一部である」と信じるほどにはナイーブなのです。
116
:
いらはい
:2007/01/13(土) 11:01:27 ID:DHj5XiXA
「知っている」「信じている」をmasckaさんが要求するくらい厳密に使えば、
その意味するところは「これは科学的な知見である」「これは宗教的な知見である」というのと同じになりませんか。
ある人が自分が宗教的な立場から発言していることをもって、その人の神に関する発言は全て「信じている」ことにするという立場が、
「科学と宗教の住み分けは可能」ということだと思うのですが、そのような態度は間違っているのでしょうか。
117
:
いらはい
:2007/01/13(土) 11:03:48 ID:DHj5XiXA
×ある人が自分が宗教的な立場から発言していることをもって
○ある人が宗教的な立場から発言していることをもって
118
:
macska
:2007/01/13(土) 12:33:06 ID:UfRlMoOA
>>113
> この指摘をする前段で私が真の宗教者を対象として議論をしたい旨をお伝えしたのは
> 了解してもらえていますよね。
意図は分かりましたが、「真の宗教者」という括りが恣意的だと思います。対外的な行動原理として「信仰を押しつけるか/押しつけないか」「科学の装いを取るか/取らないか」という違いはあるでしょうが、どちらか一方が「真の宗教者」だというような問題ではないと思います。「世間からみて、はた迷惑ではない宗教者」という区分はできるかもしれませんが。
わたしが「大部分の宗教者」というとき、それには「真の宗教者」もそうでないものも、どちらも含めています。というより、どう区別するのか本当のところいまだに理解していません。
> 「宗教者のほとんどが自分の都合で教義を読み替える」とは宗教者を冒涜する発言であると思います。
> そう言い切れるmacskaさんの根拠を教えてください。
ええとですね、冒涜するつもりは全然ないんですが、言葉が適切ではありませんでした。
「教義を読み替える」というのは書き間違いです。というのも、読み替えられた結果が教義になるわけであり、もともと確固とした教義があってそれが読み替えられるというのは順序が違うので。
わたしがいわんとしたのは、「教典を読み替える」です。元の文脈では「現時点では黒だったとしても聖書に白と書かれていれば、クリスチャンにとってそれは絶対に白でしかないんじゃないでしょうか」という発言に対して、「いや、クリスチャンは自由自在に聖書を読み替えますよ」という意味で答えたので、そこは「教義」ではなく「教典」にするのが正しいです。
というわけで、以下に言い直します。
「大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えるくらい平気でやってのけます。」
これでも冒涜だと思いますか?
>>114
ええと、議論の途中で、既に本来の論点は済んだものと勘違いして、より先の議論に進んでしまったのが間違いだったと思います。
神の干渉は、それが現実世界に対するものである限り「常に科学が対象とする範囲内」であるというのがわたしのもともとの主張ですが、それを「常に科学によって解明できる」もしくは「必ず潜在的には科学によって解明できる」という風に誤解を受けました。また、わたしもそのような誤解を受けるようなことを言ってしまったのは事実です(それはわたしの主張とは関係ないと撥ね除けるべき議論に、話題本意で乗ってしまった)。
そこで、議論再開以降はわたしの主張するのは前者の「常に科学が対象とする範囲内」だけに絞り、その他はわたしの主張ではないと説明しているのですが、その誤解がなかなか解けないで困っているところです。
>>115
はい、だから、科学が肯定的な結論を示したときだけ「科学の範疇」で、そうでなければ「科学に手が出せない」というのはおかしいのではないかと思うのです。どのような結論であろうと(あるいは結論が出せなくても)、それが「科学の範疇」であることに違いはないはず。
>>116
なりません。「信じている」は、宗教だけが独占するものではないからです。
また、宗教にも「知っている」ことはあり得ます。宗教学や宗教史という形で「知」を形成できます。
まぁ、神の存在や性質についての発言は、確かにほとんどが「信じている」になってしまいますね。
誰も何も知らないんだもの。
「科学と宗教の住み分け」については、何をもって「住み分け」ができているかによるでしょう。ある教義を科学や現実がいくら否定しても、宗教者はその否定された教義を延々と信仰し続けることはできます。それをもって住み分けと言えるなら、住み分けは可能でしょう。
しかし一般に言う「住み分け」というのはそれとは違って、科学には科学の領域があってその内部において宗教は科学を否定できないし、宗教には宗教の領域があってその内部において科学は宗教を否定できない、というものです。しかし、いかに宗教の教義であっても現実世界についての言及である限り科学によって否定される可能性が常にあるわけで、そうした意味での「住み分け」は成り立ちません。
119
:
ミケ
:2007/01/13(土) 12:56:50 ID:???
>>110
>ある科学的な問いにおいて、科学が「たまたま」以上の答えを出せない。
>それは、科学がその問いには全く手も出せないという意味ではないでしょう?
macska さんの専門外の話になってしまうかもしれませんが、
「不確定性原理」というものがあります。
以下、Wikipediaより引用(引用者が適宜改行)
>例として、量子力学で記述される粒子の位置と運動量について考える。
>この粒子の位置を正確に測ろうとするほど対象の運動量が正確に測れなくなり、
>運動量を正確に測ろうとすれば逆に位置があいまいになってしまい、
>両者を完全に正確に測る事は絶対に出来ない。
>なぜなら、位置をより正確に観測する為にはより正確に「見る」必要があるが、
>極微の世界でより正確に見る為には、波長の短い光が必要であり、
>波長の短い光はエネルギーが大きいので観測対象へ与える影響が大きくなる為、
>観測対象の運動量へ影響を与えてしまうからである。
どれだけ科学が進もうと、科学は人間の営みであり、
人間が人間である限り、観測できない(言い切れない)範囲は出てきます。
そこには、科学が人間の営みである限り手が出せません。
仮に決定論が正しいとしても、
ラプラスの悪魔しか知り得ないようなことまで科学の対象としてしまうのは
ガチガチの科学主義とはいかないまでも、やや科学主義よりかと思われます。
疑似科学の台頭を懸念する立場ならなおのこと、
ヒトがヒトであるがゆえの(神でないがゆえの)科学の限界について
注意深く認識しておくべきだと思います。
・
・
・
ところで、macska さんは
スパゲッティモンスターを科学の対象だと思いますか?
思わない場合はもう少し続けたいですが、
スパゲッティモンスターを科学の対象だと言う場合、
そもそもミケの指す「科学」とあなたの指す「科学」は違うってことなので
ここらが潮時かな〜と思うのです。
120
:
macska
:2007/01/13(土) 14:10:40 ID:UfRlMoOA
>>119
> どれだけ科学が進もうと、科学は人間の営みであり、
> 人間が人間である限り、観測できない(言い切れない)範囲は出てきます。
> そこには、科学が人間の営みである限り手が出せません。
「観測できない」ことと、「観測の対象にすらなり得ない」こととのあいだには大きな断絶があります。粒子の正確な位置は「観測できない」。けれどもそれは科学的な議論や理論化の対象となり得るわけですよ。量子論も科学理論ですから、そこで扱われる対象が科学の範囲外だとは決して言えません。
少なくともそれは、「死後の世界」「生きる意味」のように「またく科学の範囲外にあり、科学的な議論が全く及ばない」対象とは区別されるべきです。それを区別しないことは、科学の領域を不当に狭めることになるからです。
もし粒子の正確な位置が観測できないことを「死後の世界」と同じ意味で「科学に手が出せないこと」の例として挙げるのであれば、それは量子力学を似非科学と呼んでいるようなものです。もし量子力学が科学ならば、そこで扱われている事象は科学的探求の対象でなければならないはずです。
> 疑似科学の台頭を懸念する立場ならなおのこと、
> ヒトがヒトであるがゆえの(神でないがゆえの)科学の限界について
> 注意深く認識しておくべきだと思います。
科学の限界は注意深く認識すべきですが、間違ったところに限界を設定しても意味がありません。
> ところで、macska さんは
> スパゲッティモンスターを科学の対象だと思いますか?
もしスパゲッティモンスターが現実世界に物理的に存在しているとすれば、それは科学の対象になり得ます(解明できるとは言っていません)。しかしもし現実世界の外側に存在するのだとすれば(あるいは物理的な存在ではないとすれば)、それは科学の対象にはならないでしょう。
スパゲッティモンスターに限らず、「神様」を持ち出した途端に、そう呼ばれたものが科学の対象外になるというのは明らかにおかしい。それがなんであれ、現実世界に存在するものや現実世界で起きる現象はみな科学の対象となり得るに決まっています。解明が可能かどうかはモノによりますけどね。
121
:
fukken
:2007/01/13(土) 14:38:35 ID:M5vfENrY
>>118
>「大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えるくらい平気でやってのけます。」
これでも冒涜だと思いますか?
macskaさんに宗教者を冒涜する気持ちがないことは理解しましたが、この一文の持つ意味はあまりあまり変わらないと思います。
macskaさんはコーランがアラビア語で書かれていて、それを他の国の言葉に翻訳してはいけない決まりがあるのはご存知でしょうか。
翻訳の過程で神の意思が誤って解釈されることを防止するためなのだそうです。
ですから、聖書とは違い、アラビア語を母語としない各国のムスリムもコーランをアラビア語で学びます。
ところが実際には、母国語の意訳書のようなものがあって、それでコーランに書かれている意味を理解するわけであって、アラビア語のみでコーランを理解するわけではありません。
それでもムスリムがこのような実態に合わない決まりを厳守するのは、神の言葉を間違って理解したくない(してはいけない)と言う気持ちの現れです。
まず、ムスリムには自分勝手な解釈で経典を読もうとする人はいないと思いますよ。
macskaさんの言われる「いや、クリスチャンは自由自在に聖書を読み替えますよ」と言うのも、すべてのクリスチャンがそうではないでしょうし、元来宗教者というのは神の言葉や意思を出来るだけ正しく理解しようと努力する人たちなのだと思いますけど、私は。
どうもmacskaさんは宗教を誤解していて、宗教者の宗教に対する思いを軽んじているように思えてなりません。
まあ、私も宗教に詳しいわけではありませんが、先の友人たちにmacskaさんの書き込みを読ませたら、憤慨するか悲しむだろうなあと思います。
そのような気持ちもあってここまで食い下がっているわけです。
122
:
ミケ
:2007/01/13(土) 15:40:22 ID:???
>>120
大事なところから順番に。
・どこまで言っても、科学は
ある特定の確率で起こる事象のうちの「一つが起こった」ことに対して、
ある特定の確率で起こる事象だから起こった、以上の答えは持たないので
そこに神が関与したという解釈を与える(地下猫式神の関与)ことに対して
科学は何の権限も持ちません。
このあたりが最後まで通じなかったようで残念でした。
上記のことは、偶然に起こったこと(過程・メカニズム)は科学の対象になる、
というのとはまったく別の話です。WhyとHowくらい違う。
もちろん科学が進んで「ある特定の確率」がいずれ100%になったなら、
その解釈の余地も消えてしまうでしょう。
しかし、
>>119
、そのうえ
>>38
・量子力学に関してですが、これが科学であることは間違いありませんが、
その背景、というか突き詰めた部分に、科学で扱えない部分も含まれています。
有名な光子が二つのスリットを通り抜ける実験から得られた説、
多世界説と波動関数の収束説、どちらが正しいかは科学では扱えません。
量子力学の分野は、科学の扱える範囲と扱えない範囲の境界付近(の科学側)に位置します。
そのあたり、科学の範疇を過大評価なさらないように注意願います。
・議題とは外れますが(これはほとんど揚げ足取り的感想なんだけど)、
>>110
>進化論によって神の存在が科学の対象となったとは言えないのと同じように、死後の世界の存在そのものが科学の対象になるわけではありません。
macska さんがこういった表現を無意識に使うのならば、
> Q. 進化が正しいとすると、神さまはいないのでしょうか?
>
> A. いるともいないとも言えません。神がいるかどうかとい
> う問題は、科学の範囲外です。進化が正しいかどうかという
> 問題と、神がいるかどうかという問題は別問題です。進化論
> と信仰を両立させている科学者はたくさんいます。
macska さんは上記の『神がいるかどうかという問題は、科学の範囲外です。』という表現を
『(ホンモノの)神の存在が科学の対象となったとは言えない』と受け取る下地を持ちながら、
恣意的に、『神と名がつけばどんなものであろうと科学の範囲外』と解釈して
それは間違いだ、と言ってしまった(
>>48
)わけで、その辺はちょっと気に入らないな、と思いました。
・現実世界に影響しているので、スパモンもmacska さんの中では科学の範疇っぽいですね。
123
:
ミケ
:2007/01/13(土) 15:42:54 ID:???
ごめんなさい、アンカーミス
>>38
ではなくて
>>36
>『将来的には解明できるかもしれません』
>とは、いえるかもしれんがそれは
>『将来的に創造論が正しくなるでしょう』
>といってるのとあまり変わらんようなきがするな。
124
:
AH1
:2007/01/13(土) 16:00:28 ID:b4lKR3h.
>もし死後の世界が、わたしたちと同じ現実世界のどこかにあるという主張であれば、確かに科学の範疇ですね。しかし、普通「死後の世界」というときにそれは現実世界にあるとは想定されていないはずです。(大昔であれば、雲の上に物理的にあると信じていた人もいたかもしれませんが。)
いや、私は死後の世界がどのようなものであり、存在するとしたらどこに存在するのかを全く知らないのです。
従って、現在、死後の世界に関しては既存の科学体系から推論することもできず、仮になにか思い付いても検証できないことは勿論、同意します。
しかしながら、将来にわたって不可能である、とは言いません。macskaさんのいう「現実世界」も今現在の我々の経験や理論から導き出された範囲を指すからです。従って「死後の世界」は将来拡張された「現実世界」に存在するかもしれず、科学の対象になり得るのではないか、という、それだけのことです。
125
:
macska
:2007/01/13(土) 16:21:36 ID:UfRlMoOA
>>121
> まず、ムスリムには自分勝手な解釈で経典を読もうとする人はいないと思いますよ。
あのですね、あらかじめ「自分に有利なように曲解してやろう」と読む人は(ほとんど)いないでしょう。わたしが言っているのはそういうことではありません。
そうじゃなくて、例えば教義にA、B、Cと書いてあって、Aが自分に都合がいい場合、BとCはコロッと忘れてAだけ信じてしまったり、Aそのものの意味とは違うけれどもそれに似た解釈A’の方が都合が良ければ、いかに文言上不自然でもA’の方が正しいと信じたりするわけです。
例えば、聖書の話が正しいのであれば、すべての生物は神様が一つ一つデザインして作り出したんですよ。人間も神様の形に似せて神様自身の手で作り出したのであって、「他の動物から進化した」と読み取ることはまず不可能です。しかし現在のキリスト教徒の多くは、創世記の話はおとぎ話のようなものであり、事実をそのまま描写したわけではないと解釈しています。あるいは、進化を通して人間を作り出すことが神の意志だったのだということを言う人もいます。しかし、そうした解釈が聖書のどこから自然に導き出せるのか。明らかに、進化論や地球科学の影響を受け、より現実的な解釈に沿う形に教典を読み替えているのです。
こんなの、いくらでも例が挙げられますよ。
> 元来宗教者というのは神の言葉や意思を出来るだけ正しく理解しようと努力する人
> たちなのだと思いますけど、私は。
大部分の宗教者たちは、神の言葉や意志を出来るだけ正しく理解しようとする人たちでしょう。それはその通り。しかし同時にかれらの多くは、神の言葉や意志は正しく、素晴らしいものでなければならないというイデオロギーも持っています。そして問題になるのは、現実に「神の言葉や意志はこれですよ」と指し示す教典やその他の文書の内容が、その時代の常識や科学的知識と矛盾したときに、かれらがどういう態度を取るかです。
「常識や科学的知識なんて関係ない、神が人類を創造したと聖書に書いてある以上、創造論は正しいのだ」と言い切って教典を防衛する人も一部にはいるでしょう。しかし多くの宗教者たちは、その時代の常識や科学的知識と矛盾しないように柔軟に教典解釈を変更することで「神の言葉や意志は正しく、素晴らしい」というイデオロギーの方を防衛するのです。
これは宗教的倫理を見れば明らかです。(旧約)聖書によれば、安息日に仕事をした人は死刑にしなければならない。しかし、「安息日に仕事をした人を死刑にするのは正しいですか」と聞けば、ほとんどのキリスト教・イスラム教・ユダヤ教の信者は「その規則は現代にはふさわしくない」と答えます。キリスト教についてはイエスの登場により「この規則は現代にはふさわしくない」という合理的な理由がありますが、その他にとっていつこの規則が失効したのでしょうか? 世間が「それはいくらなんでも乱暴すぎる」と思うようになったから、それに合わせて解釈を訂正したのではないですか?
もっと深刻な話では、聖書の描写では奴隷制度や人身売買が当たり前に行なわれており、親が子どもを殺したり女の子を集団レイプされる運命に差し出したりということが「信仰深い、正しい人」の行為として何度もでてきます。一般論として奴隷制度や人身売買や集団レイプや児童虐待は善か悪か、事情によっては許されるのか許されないのかと問うと、大半の宗教者は「許されない」と言うでしょう。結局、宗教者は「神の決めた規則や道徳のうち、どれが守るべきでどれは忘れてもいいのか」世間の空気と自分の直感でテキトーに解釈を決めているわけです。
宗教者がそのように現実的な解釈を取ってくれることは、実は世間の側としても非常に助かるわけで、全然悪いことではありません。だからわたしは、「自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替える」ことは素晴らしいと思っているくらいで、全然冒涜するつもりはないんですね。
>>122
> このあたりが最後まで通じなかったようで残念でした。
そんなの、最初っから分かっているの。
分かったうえで、わたしの主張と矛盾しませんよと言っているのに。
>>124
なるほど、「死後の世界」が今後何らかの形で科学的に発見される可能性まで考えているわけですね。わたしは「死後の世界」とはそういう次元の話ではないと思っていましたが、もしそういう次元で「死後の世界」が発見されるのであれば、もちろんそれは科学の対象ですね。
しかしその「将来にはもしかすると」というのは、それこそ何人かの人が言っていた「将来的に創造論が正しくなるでしょう」というのと同じだと思います。
126
:
ミケ
:2007/01/13(土) 16:41:24 ID:???
>>125
>> このあたりが最後まで通じなかったようで残念でした。
>そんなの、最初っから分かっているの。
>分かったうえで、わたしの主張と矛盾しませんよと言っているのに。
ごめん、分からないので略さないでください。
何を分かった上で、
どれがあなたの主張と矛盾しないと
どこで言ったのか、
教えてください。
上記文面からあなたは
>ある特定の確率で起こる事象のうちの「一つが起こった」ことに対して、
>ある特定の確率で起こる事象だから起こった、以上の答えは持たないので
>そこに神が関与したという解釈を与える(地下猫式神の関与)ことに対して
>科学は何の権限も持ちません。
という主張、すなわち
『地下猫式神の関与が科学の範囲外である』という主張と、
あなたの主張は矛盾しない、
と言ってるんですか?
127
:
AH1
:2007/01/13(土) 17:28:52 ID:b4lKR3h.
>しかしその「将来にはもしかすると」というのは、それこそ何人かの人が言っていた「将来的に創造論が正しくなるでしょう」というのと同じだと思います。
ええ、その通りです。「現在の知見からして」という一文を加えるならば、死後の世界は科学の対象にならない・・というか、「科学の対象にしようとしても切り口がまったく見つからない」ものだと思います。
本論に関してですが、前にカガク君とキョウソ君という例を出しましたが、
「科学は神を否定することができず、せいぜい『現在の科学では神や奇跡の存在を積極的に支持する証拠も理論もない』と言明できるにすぎない」
のが私の基本的な考えです。これは現在の科学において未知の領域があるからであり、また将来の科学においても何が判明し、何が否定され、何が未解明であるか何とも言えないからです(未解明や不可知の領域は常に残ると思いますが)。
「現在の科学でも神は(主は、奇跡は、etc)支持されているのだあ!」とか「既存の科学の方が間違いであることが科学的にわかったのだあ!」と叫ぶ奴がいれば、「そんなことはない」と言えばいいし、それはこの掲示板でしょっちゅう行われています。
紅海の例で言えば「・・だけど出エジプト記とは矛盾する部分がある」とか「これ一個だけじゃ全体を検証できたとは言えない」とか「いや、これをモデルに出エジプト記を書いたんだと思うよ」とか、そういう事は言えますし言えばいいでしょうね。
同時に、私は人が神をどのような形で信じようと自由であると思っていますので、「まあ、天地創造は一字一句字義通りじゃないんだろうけど、でも神の御業は何らかの形で働いたのだろうよ」と思っている人に対し、「いいか、科学はそんな事実を支持しやしないんだ!」と叫んで回るつもりはないです。
128
:
いらはい
:2007/01/13(土) 17:52:35 ID:DHj5XiXA
>>118
>なりません。「信じている」は、宗教だけが独占するものではないからです。
たしかにそうですね。宗教ではなく信条というべきでしょうか。
>また、宗教にも「知っている」ことはあり得ます。宗教学や宗教史という形で「知」を形成できます。
宗教学や宗教史は宗教内部のものなのでしょうか。
神学等を含めればそうなのかもしれませんが、神学の知見はmasckaさんのいう「知っていること」の基準を満たしますか?
宗教者が同時に宗教の歴史を研究する場合でも、
本人の明言や文脈をもって信条や教義と実証的な知見を区別すればmasckaさんおっしゃる混同は避けられると思います。
>まぁ、神の存在や性質についての発言は、確かにほとんどが「信じている」になってしまいますね。
誰も何も知らないんだもの。
「知っている」という言葉を裁断するように厳しく使うのは気にかかります。
「知る」は本来専門用語ではない柔軟性のある言葉では?
たとえばクリスチャンは神に愛されてるという直感を得ることを
「神の愛を知る」なんて呼ぶ場合がありますが、
それに対して「そこで知るという言葉を使うのはおかしい、信じてるの間違いでしょ?」
と問いつめるのは暴挙のように思えるのですね。
「科学的検証のできる証拠はありますか?」と尋ねれば、
「そういうレベルの話ではない」で済むのに。
>「科学と宗教の住み分け」については、何をもって「住み分け」ができているかによるでしょう。
教義と科学の間に矛盾があってもそれはナンセンスだ、という立場なら住み分けはできると思います。
そのために、ある発言が科学的なものなのか教義や信条なのかは明確にする必要があるとも思います。
>いかに宗教の教義であっても現実世界についての言及である限り科学によって否定される可能性が常にあるわけで、そうした意味での「住み分け」は成り立ちません。
「信じていること」が科学から合理的でないと指摘された場合、それは教義が科学によって「否定」されたことになるのですか?
それと質問なのですが、科学が宗教を否定するのは科学的知見と教義に矛盾がでてきた場合のみなのでしょうか。たとえば地質学と創造の矛盾のような。
それともある教義が科学的仮説として説得力を持っていなければ否定できるのでしょうか。たとえば神は未発見のエネルギーを使って現実世界に干渉しているとか。
129
:
diamonds8888x
:2007/01/13(土) 18:31:19 ID:h2fLyT9w
ミケさん
>122.
> 多世界説と波動関数の収束説、どちらが正しいかは科学では扱えません。
それは、「多世界説と波動関数の収束説では、観測的に異なる現象は導けない」という意味ですか? 私はそれほど理解が深くないので否定も肯定もできませんが、もしそうだとしても「科学では扱えません」という言い方は変じゃありませんか? それは科学の言葉で言えば、「多世界説も波動関数の収束説も理論として正しい」というだけの話です。おばあさんが偶然助かったのは神の介入による、という話とは関連が少ないように思います。
で、偶然への介入問題ですが、以下のように設問をしてみるとはっきりしてきませんかね。
1.おばあさんが助かったのは○神を信心していて、○神が助けてくれたからだ。
2.○神を信心すれば、このおばあさんと同様な状況で助かる確率が信じない人より高くなる。
3.2の根拠として1の例を挙げる
ミケさんやSeagul-Xさんが「科学の範疇ではない」としているのは1の主張ですよね? 私もそれには同意します。でも、2は科学の範疇ですよね。しや「本当に信心していた」ということの検証がとてつもなく難しそうではありますが(^_^)。そして3は、帰納法の適用なんですが、科学的根拠としては不十分な根拠です。
以上にはmacskaさんも同意じゃないかな?
130
:
いらはい
:2007/01/13(土) 18:34:33 ID:DHj5XiXA
masckaさんは宗教が科学に影響を受けることを好ましいことだと考えているようですが、
もし宗教の側がmasckaさんの求めるレベルで知ると信じるの区別を完璧につけだしたら
教義を信じるの側に入れなければ守れない、入れれば守られるのだから、そういった変化が起こりにくくなるのでは?
131
:
AH1
:2007/01/13(土) 18:53:45 ID:b4lKR3h.
すみません、補足です。
macskさんが苛立っておられる「教義の再解釈」についての私の個人的な意見です。
私はそもそもあるコトバに関して後から過度に解釈をこねくり回す事や、教条主義的な態度はあまり性に合いません。したがって、例えば「聖書は一字一句正しい!光速が変化したとすれば聖書の記述は科学的に正しい!」というような解釈に対しては「アドホックも大概にせえよ」と思います。
まあ、仮に神が存在したとしても聖典は恐らく人間によって、人間の解釈を通して書かれており、解釈の問題は常についてまわるとも思いますが。
時代背景が変化する中で、宗教が聖典の再解釈を繰り返して生き延びるのであれば一種の「ずるさ」を感じますが、一方で信仰を必要としてきた多くの人間がいることも事実であるから、ある人がよりその時代に受け入れられやすい解釈をもって神を信じようとも、一概に否定するのは控えよう、というのが私の意見です。カガクなんぞに迎合するな!とも思いますけどね(笑)。
そんなこんなで、「宗教は科学とは違う方法でこの世を解釈するものであり、時々こそっとカガク的現実との整合性をとろうとしたりしても、それは宗教のもつ権威主義・教条主義的な部分か、神ならぬ身には不可欠な解釈の見直しか、坊主も食わなきゃいかんのだと思って放っておこう(皮肉るくらいはするかも)」「もし科学の土俵で、明らかに科学的に間違っていることを言い出せば批判すべきであろう」といったところですね。
macskaさんは「皮肉るくらい」で済ませるべきではなく、きちんと批判せよという御意見だと理解しています。
132
:
ミケ
:2007/01/13(土) 18:59:11 ID:???
>>129
多世界解釈と波動関数収束解釈について。
ミケの科学観として、検証不可能な理論は科学の範疇ではない、
少なくともそれは科学理論ではなく解釈である、という感じでしょうか。
参考: ttp://www5b.biglobe.ne.jp/~hilihili/science/what-sci02.html
介入問題なんですが、
2.○神を信心すれば、このおばあさんと同様な状況で助かる確率が信じない人より高くなる。
と主張するならば、もちろん科学の範疇でしょうけど、
主旨としては、たしか、
現実に干渉する神ならば、いかなるものでも科学の範疇に引っかかる、
に対する反論だったはずなので、
科学の範疇に引っかかるように条件設定されたものをもってこられても困って、、、
ん?もしかしてここがすれ違いの原因とおっしゃる?
※ミケが想定してるのは、
信者が自分を信じようが信じまいが好き勝手に振舞う気まぐれな運命のカミサマでして。
勝利の女神的な。
133
:
macska
:2007/01/13(土) 19:04:56 ID:VdHL1C4M
>>126
だからですね。
わたしが一貫して言っているのは、
「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象は、科学的探索の範疇ですよ」
と、それだけです。
現在の科学に解明可能であるかどうか、あるいは科学がどんなに進んでも解明不可能な問題も中にはあるかもしれないけれど、そんなこと関係ありません。たとえば「確率としてしか記述できない」なんてのも、それはそれでひとつの科学的結論であるわけで、科学の枠内にあるわけですよ。
少なくとも、そうした「科学の領域の中にある、科学には答えの出せない問題」は、そもそも科学の領域の外側にある問題、例えば「死後の世界はあるかないか?」とは区別されるべきです。
> という主張、すなわち
> 『地下猫式神の関与が科学の範囲外である』という主張と、
> あなたの主張は矛盾しない、
> と言ってるんですか?
科学は何の回答もできない、という主張には同意します。そうずっと言っています。
しかし、科学に回答ができないからといって、その現象そのものが科学の範囲外であるという議論には反対します。もし現実世界においてそういう神の関与があったとしたら、それは確実に科学の範囲内です。ただわたしたちはそれを探求する術を持たない(かもしれない)だけで。
>>127
「科学は神を否定することができない」というのは、どんな神を想定するかによるわけですよ。エルビス・プレスリーが神だという人にとっては、神は既に死んでいます。生きているという説もありますが(笑) ですから、「神の存在は科学によって否定されているのか?」という問いに誠実に答えるには、あなたの言う神とはどういうものなのか、と問い返さなければいけないはずです。
もし神様が、わたしたちとは全く違う次元や世界に住んでいてわたしたちの現実世界に何ら関与していないなら、そうした神の存在は永遠に科学の範疇の外側です。それを否定も肯定もできるはずがありません。しかし、もし神様がわたしたちの現実世界に住んでいたり、わたしたちの現実世界に影響を与えているのだとすると、その存在は(証明や反証はできなかったとしても)科学的探求の対象でないはずがないです。
>>128
> たとえばクリスチャンは神に愛されてるという直感を得ることを
> 「神の愛を知る」なんて呼ぶ場合がありますが、
> それに対して「そこで知るという言葉を使うのはおかしい、信じてるの間違いでしょ?」
> と問いつめるのは暴挙のように思えるのですね。
それが個人の信仰以上の影響を持たないのであれば、確かにいちいち問い詰めるのは野暮でしょう。わたしだっていちいち問い詰めたりはしません。しかし現実に、「信じている」だけのことを「知っている」と思い込んだ人たちは、それを「信じていない」人にまでまるでそれが「事実」であるかのように押しつけて来るのです。かれらの大半には、「自分はこれを信じているのであって、確かに知っているわけではないのだ」という自覚が決定的に欠けています。自覚した上でそういう言葉遣いを使うならまだしも、自覚がない盲信を広めるような言葉は有害です。
暴挙というなら、信者たちに知りもしないことを「知っている」と語らせる一部宗教の指導者たちの方がはるかに暴挙です。布教は自由であるべきだけれど、そういった悪質な心理操作テクニックを使った布教は倫理的に間違っています。(繰り返し何かを口に出して言わせることで認知不協和を通して内面をコントロールするという手法はよくありますね。)
> 「信じていること」が科学から合理的でないと指摘された場合、それは教義
> が科学によって「否定」されたことになるのですか?
違いますよ。よく読んでね。
「現実世界についての言及」は、否定される可能性があると言っているんです。
当たり前のこと。
> それと質問なのですが、科学が宗教を否定するのは科学的知見と教義に矛盾が
> でてきた場合のみなのでしょうか。
科学は宗教を否定しません。あくまで、宗教に教義として含まれるかもしれない個別の命題(イエスは処女の母に生まれた、水をワインに変えた、等)が、科学的検証によって否定される可能性があると言っているのです。
>>130
> masckaさんは宗教が科学に影響を受けることを好ましいことだと考えているようですが、
あれ、そんなこと言ったかな。世俗化することが好ましい(宗教にとって好ましいかどうかはともかく、社会の側にとっては)とは思っているけど。
134
:
macska
:2007/01/13(土) 19:07:57 ID:VdHL1C4M
>>131
> macskaさんは「皮肉るくらい」で済ませるべきではなく、きちんと批判
> せよという御意見だと理解しています。
いや、わたしは軽く皮肉ったつもりだったんですが (
>>92
)、そしたら「冒涜だ」「暴挙だ」といろいろ言われてしまって…
135
:
ミケ
:2007/01/13(土) 19:09:01 ID:???
むむむ、、、(考え中)
つまりdiamonds8888x さんは
>>129
において、
「macska さんは1が科学の範疇外であることには同意するはずだ」
と言いたいわけですね、、、たぶん?
そこらへんが折り合いをつけるポイントだと。。。?
とりあえずmacska さんの意見を聞きたいところですね。
136
:
ミケ
:2007/01/13(土) 19:14:33 ID:???
>>136
あー、科学で答えの出せないことを一まとめにして、
「科学の外」と言うことが気に入らないというだけなんですね?
結局、ミケの「日本語の問題だ」ってのは合ってたな。
日本語的には、科学で答えの出せないことを
科学の外って言ってもいいと思うんだけど。
死後の世界と多世界解釈における平行世界とどう違うんだって感じ。
いや、でもまあ納得はしないけど理解はしました。
137
:
ミケ
:2007/01/13(土) 19:26:56 ID:???
アンカーミス
136→133
ついでに補足
科学で答えの出せないことを一まとめにして、「科学の外」と言うことが気に入らない
というのは分かりました。
しかし、
>ある特定の確率で起こる事象のうちの「一つが起こった」ことに対して、
>ある特定の確率で起こる事象だから起こった、以上の答えは持たないので
>そこに神が関与したという解釈を与える(地下猫式神の関与)ことに対して
>科学は何の権限も持ちません。
(中略)
>上記のことは、偶然に起こったこと(過程・メカニズム)は科学の対象になる、
>というのとはまったく別の話です。WhyとHowくらい違う。
といったところはスルーされてる気がしますね。
Whyは科学で扱ってはいけない。
138
:
ミケ
:2007/01/13(土) 19:44:14 ID:???
ごめ、
>>137
は撤回。
議論が発散する気がするし、
突っ込まれても詳しく説明できなそうなので可能ならスルーお願いします。>ALL
もうミケは自分の落としどころを見つけた。
macska さんは
現実に干渉可能な神でも検証不能となる場合があることについては
同意していただけるんですよね。
これでまあミケはリタイア。
139
:
AH1
:2007/01/13(土) 20:01:26 ID:b4lKR3h.
>「神の存在は科学によって否定されているのか?」という問いに誠実に答えるには、あなたの言う神とはどういうものなのか、と問い返さなければいけないはずです。
その通りだと思います。私が挙げたのは「神はここまで逃げられる」という、いわば自由度を最大にした場合でしたね。私の理解では、このスレで議論しておられる方は概ね「変幻自在にいくらでも逃げまわれる神」までも想定していたように思います(様々な神があることを承知の上で神、と一言で括る場合は妥当だとも思う・正確には神のタイプに関して但し書きがあってもいいだろうけど)。最初の頃に「神のスペックを明示されないと議論は無理」と発言したのも、そういう意味合いでした。
で、私が述べていたのは「科学的な検証を『試みることはできるが』、検証が可能ではない場合が多いだろうし、神は科学の未解明領域に逃げ込めるから『実効性は疑問』」ということです(繰り返しになりますが)。
ミケさんの投稿にもありますが、macskaさんが「科学の範疇」として重視しておられるのは恐らく『試みる』の部分、私が考えていたのは『実効性は疑問』の部分、ということでしょう。
140
:
diamonds8888x
:2007/01/13(土) 20:13:11 ID:h2fLyT9w
一応71で質問したつもりだったのですが、地下に眠るMさんの「宗教はもともと人生訓や格言ではにゃー。現実的な救いの問題だにゃ。」という発言での「現実的な救い」の範囲がよくわからなくて戸惑っています。
宗教的な神による救いというものを分類してみます。実は別に神の教えではなくても、科学的知見からの処方箋でも、小池監督の言葉でも区別はありませんが、それに従うことで得られる「救い」にどんなものがあるのかということです。
1.客観的な物質的な良い結果をもたらす。−−受験合格、無病息災、金メダルが取れるなど。
2.心の中に良い結果をもたらす。−−困難な時にも平安が得られる、など。
3.死後に良い結果をもたらす。−−極楽往生できる、など。
3が科学の範疇外ということではmacskaさんも含めて全員同意してるでしょう。1については「確率への介入」を除けば科学の範疇ということで、これまた全員同意してると思います。2については話題にあまりなっていませんが、少なくとも自分自身のことなら検証可能です。客観的にも「あなたは幸福ですか?」とかアンケートしてみれば一応検証可能と考えられます。ただ「主観的問題だから科学の範疇外」という見解もありそうです。
で、地下に眠るMさんの「現実的な救い」というのは1を意味しているのでしょうか? そしてそれが「人生訓や格言ではない」というのもよくわかりません。人生訓もそれに従うことで1〜3の救いが得られることを主張するものですし、格言はそれをコンパクトに表現したものです。そして宗教での「教え」の多くは、このような人生訓を神を根拠として述べたものでしょう。確かに「極楽往生できるから○○せよ」というのはあまり人生訓とは呼ばないかも知れませんが、「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」というのはひとつの人生訓と呼んでもおかしくはありません。
さて、多くの人が救いを求めて特定の神を信じるに至るのは、教えに従うことと結果との因果関係を自分なりに検証して正しいと思ったからというのが多いのではないでしょうか? 特に1〜2の場合はそうです。教えを知らない間は良い結果がでなかったが、教えに従ってみたら良い結果が出た、という体験をした人は、まさに検証の結果がOKだったのでさらに深く従うようになるわけです。その検証の手法は科学からみれば不完全ではありますが、教えに従うことと結果との因果関係自体は、検証可能だし、人々は検証を試みていると思うのですが、いかがでしょうか?
地下に眠るMさんが「科学の範疇外」と主張するのは「教えに従うこと(または従わないこと)と結果との因果関係」とは違うもののようにも思えるのですが、はっきりはしないもので。
141
:
diamonds8888x
:2007/01/13(土) 20:43:40 ID:h2fLyT9w
>>132
>多世界解釈と波動関数収束解釈について。
>ミケの科学観として、検証不可能な理論は科学の範疇ではない、
検証はされてるでしょう? どちらも観測をちゃんと説明できているはずです。両理論が観測的に区別不可能というならわかりますが。
142
:
いらはい
:2007/01/13(土) 20:48:34 ID:DHj5XiXA
>>133
>しかし現実に、「信じている」だけのことを「知っている」と思い込んだ人たちは、それを「信じていない」人にまでまるでそれが「事実」であるかのように押しつけて来るのです。かれらの大半には、「自分はこれを信じているのであって、確かに知っているわけではないのだ」という自覚が決定的に欠けています。自覚した上でそういう言葉遣いを使うならまだしも、自覚がない盲信を広めるような言葉は有害です。
masckaさんのおっしゃる「信じている」「知っている」の問題が他者にたいしてどうふるまうかの倫理的問題ということならわかります。
ただ、自覚という内心の問題に対してどうこうするというのは無理なように思えます。
たとえば神秘体験をした人が神経科学的説明と宗教の教義を照らし合わせた結果、
ある宗教の教義がかなり確からしいという認識を持った場合、
これは「信じている」「知っている」のどっちに入るのでしょうか。
>「現実世界についての言及」は、否定される可能性があると言っているんです。
「否定される」というのが具体的にどういうことなのかイメージできないので、否定される可能性というのが掴みにくいです。
たとえば現状で創造説(創造科学ではない)は地質学・生物学上の発見に否定されたといえるのでしょうか?
そこまでせずに積極的にその命題を受け入れる証拠が何もないということを指摘しただけでも否定したことになりますか?
>世俗化することが好ましい(宗教にとって好ましいかどうかはともかく、社会の側にとっては)とは思っているけど。
宗教が世俗化するのは、世俗のレベルにおいて、実証的根拠があることと宗教的根拠しか無いことが同列に扱われる(確からしさを比べられる)からではないですか?
知ると信じるの区別を自覚したら世俗化は進まなくなるのでは?
143
:
みずすまし
:2007/01/14(日) 02:45:46 ID:TgyKdXjk
はじめて書き込みます(たぶん)。
よろしくお願いします。
なお,macskaさんの日記のリンクから来ました。
>>1
> > Q. 進化が正しいとすると、神さまはいないのでしょうか?
> >
> > A. いるともいないとも言えません。神がいるかどうかとい
> > う問題は、科学の範囲外です。進化が正しいかどうかという
> > 問題と、神がいるかどうかという問題は別問題です。進化論
> > と信仰を両立させている科学者はたくさんいます。
>
> この記述ですが、「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」という言明が常に正
> しいとは思いません。
>
> 神といっても宗教によっていろいろあるわけですが、その存在が科学が対象とする範疇
> 内であるかどうかは、その神がどういった性質を持つものとされているかによるのでは
> ないでしょうか。
私は,このmacskaさんの主張は正しいと思います。
例えば(あくまで,例え),「神は,世界をお創りになったとき光速を10mm/sと定め,それ以降,変更されていない」という教義を持つ宗教があれば,そのような神の存在は科学で否定されいますよね。
極端な反実在論あるいは認識論的相対主義に立てば,「宗教的事実としては,光速は10mm/sである」が,「科学的事実としては,光速は約30万km/s」ということも言えるかも知れませんが,そこまで極端な反実在論あるいは認識論的相対主義に立つことには強い躊躇を覚えます。
だから,「『神がいるかどうかという問題は科学の範囲外』という言明が常に正しい」とは思えない。
極端に非現実的な仮想例は置いておくとしても,現実の宗教においてはどうなのかと考えれば,(a)科学で否定されている教義,(b)科学で否定されえ,その実験もかなり具体的に想定可能な教義,(c)科学では否定されえないとまではいえないが,具体的な実験方法は今のところ特にない教義,(d)およそ,科学で否定されそうには考えられない教義,という(a)〜(d)まではグラデーションをつくっているとは思います。
でも,そこにグラデーションがあって明確な線引きが困難だからといって,(a)(b)のような教義が実際にあり,またそれがその宗教における「神」の語に強く結び付けられいるような宗教があることを否定することはできないのではないでしょうか。
問題は,(c)(d)があるかどうかではなく,(a)(b)があるかどうかなのではないでしょうか。
-----
(補足1)
もし,「およそ宗教的言明は,科学とは異なる文法や語彙を用いているのだから,科学の文法や語彙で理解することは誤りだ」というのならば,先の「神は,世界をお創りになったとき光速を10mm/sと定め,それ以降,変更されていない」という教義でさえ否定できなくなりますが,それはあまりにも強すぎる相対主義(意味論的な?相対主義)に立っているように思います。
また,仮にそのような立場に立つとしても,冒頭に孫引きしたQ&Aの文章(すでに修正されていますが)にはそのような立場に立てば,という留保があって良いように思います。その文章を読む人が,そのような強い相対主義に立っているかどうか不明だからです。
-----
(補足2)
もし,「『真の宗教』は(a)(b)を含まず,(a)(b)を含むようなものは本来の意味では『宗教』と呼べない何かである」とするならば,冒頭に孫引きしたQ&Aの文章は問題がないものになるでしょう。
しかし,実際に世の中にある多くの宗教がそのような意味で「真の宗教」であるようには思えませんから,そのような立場は,それほど一般的な立場ではないように思います(先進国のインテリにとっては,一般的なのかもしれませんが …もしかしたら)。
144
:
みずすまし
:2007/01/14(日) 02:46:20 ID:TgyKdXjk
(補足3)
>>1
> 逆に言うと、「神がいるかどうかは科学の範囲外」という言明は、少なくともわたした
> ちが生きる今の現実社会にいかなる形でも関与しないタイプの神か、あるいは「自然法
> 則」や「全宇宙」をただ「神」と呼び変えている場合に限ってのみ言えるはずだと思い
> ます。
この部分が,「現実社会に関与するタイプの神」は全て科学の対象になりえるということならば,厳密には間違っているだろうと思います。
「自由自在に事象を操れ,かつ神の実在を確かめようとする者には,常に神が存在しないかのように思わせるように事象をあやつる全知全能の神」というものが存在するのなら,その存在は科学で否定することも,肯定することもできないものと思います。
しかし,やはりある種のタイプの神の存在(という教義)は科学で検証しえ,それは「現実社会に関与する(関与した)タイプの神」の一種であると思います。その例は,極端な仮想例ですが,すでに挙げました。
-----
(補足4)
科学が,「私がビルから転落しても助かったのは,神のご意思だ」といった *解釈* を否定も肯定もできないというのは,あるいはそうなのかもしれません。
しかし,繰り返しになりますが,問題は(c)(d)があるかどうかではなく,(a)(b)があるかどうかなのではないでしょうか。
-----
(補足5)
では,多くの宗教が(a)(b)を含み(少なくとも(b)を含み),それが科学で否定されえるとして,そのように主張することに現実的な意味があるのか,といわれればそれはケース・バイ・ケースだと思います。
145
:
diamonds8888x
:2007/01/14(日) 10:15:36 ID:h2fLyT9w
>>140
訂正。「小池監督の言葉でも」===>「小出監督の言葉でも」
じゃないと通じにくいですね。選手から信頼されているコーチなり監督であれば、名前はどうでもいいことではありますが。
しまった。書き込むスレッドを間違えましたよ。
146
:
diamonds8888x
:2007/01/14(日) 10:22:08 ID:h2fLyT9w
>>132
「信者が自分を信じようが信じまいが好き勝手に振舞う気まぐれな運命のカミサマ」の想定はわかります。ミケさんやSeagul-Xさんの想定状況ではそれが一番ぴったりします。哲学論というか認識論というか、「偶然への科学では認識できない何者かの介入」というテーマにはぴったりです。
またみずすましさんが144で想定した全能の神も検証不可能ですし、有名なへそ理論の「1分前に世界を創造した神」も検証不可能です。
でもね。単にそういうカミサマを奉じているだけの宗教が実際にどれくらいありますか? 多くの宗教の教えは、「信仰または信仰を示す行為と救いとの因果関係」を述べているのではありませんか? そして因果関係というものは、原因と結果が観測可能であれば検証可能なものですよ。その検証がたとえ科学的には不完全なものだとしても。また観測がただ一人の個人にしか可能でないものだったとしても。
147
:
diamonds8888x
:2007/01/14(日) 10:29:43 ID:h2fLyT9w
macskaさんが一貫して主張しているのは「科学を使う側の心得」、もっと強く言えば「科学者としての職業倫理」みたいなものだと思います。こういうとまるで職業科学者が仕事としての学問を行う場合だけの問題に聞こえますが、そうじゃなくて、そもそもこの世の中の物事を検証しようと試みる全ての行為に対して、ですかね。
例えばキリスト教を信仰する科学者がいたとします。宗教上の真実として「キリストは水をワインに変える奇蹟を起こした」と信じることは信仰者としては当然かも知れません。でも歴史上の事実としての「紀元0年前後のある時、イエスと称する人物が水をワインに変えるのを目撃した人達がいる」という言明は科学的検証の対象であると考えるのが、科学者としては誠実な態度でしょう。それは、「聖書はイエス死後の人達が記載したもので、いくつも異なる版がある。」とか「イエスという歴史上の人物の行動は実はこれこれである。」とかいう言明も科学的検証の対象であると考えるのも同じ事です。
macskaさんは一貫して素朴実在論に立っていると思えますし、これは普通に人間が世界を認識する立場としては至極まっとうな立場です。ただまっとうな主義も極端に徹底して押し進められる人は意外に少なくて、極端に徹底して押し進めた立場は意外にも過激派に見えたりします。普通の人間による直接の観測だけを信じろ。偉い坊さんが言ってるだけで鵜呑みにするな。何事も自分で検証しろ。実に過激で、ある人々にとっては不都合な主義です。まあ今の先進諸国の社会では、この過激主義も一定の認知を得てますけど、過激なだけに煙たがられる嫌いもあるのは事実です。
上記の過激主義は私も支持している主義です。常に貫徹できているかというとそうでもありませんが。人生は世界を正しく認識するだけが全てではないので(^_^)。
148
:
fukken
:2007/01/14(日) 12:13:23 ID:M5vfENrY
>>125
>宗教者がそのように現実的な解釈を取ってくれることは、実は世間の側としても非常に助かるわけで、全然悪いことではありません。だからわたしは、「自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替える」ことは素晴らしいと思っているくらいで、全然冒涜するつもりはないんですね。
macskaさんに宗教者を冒涜する気持ちのないことは、既に前回の回答でも了承済みです。また、「macskaさんが宗教に対して攻撃的に思える」と言ったことについても私の誤解であったことを認め、お詫びします。
ですが、前回も言いましたようにmacskaさんが宗教者の宗教に対する思いを軽視していると言う印象は否めません。
キリスト教や聖書についてはお詳しそうですが、その他の宗教はどこまでご存知なのでしょう。
macskaさんご指摘のキリスト教に見られるような曖昧さを排除するために、偶像崇拝や教典の外国語訳を規制するなどしての教義の一意性を保とうとするイスラムのような宗教だってあるのではありませんか。
>「常識や科学的知識なん て関係ない、神が人類を創造したと聖書に書いてある以上、創造論は正しいのだ」と言い切って教典を防衛する人も一部にはいるでしょう。しかし多くの宗教者 たちは、その時代の常識や科学的知識と矛盾しないように柔軟に教典解釈を変更することで「神の言葉や意志は正しく、素晴らしい」というイデオロギーの方を 防衛するのです。
キリスト教については上記のことが言えたとして(”一部”や”多くの”と言うのが全体の何割程度なのかもさておくとして)、その他の宗教にもこれが当て嵌まるのでしょうか。
このように一絡げにして「宗教者は、〜だ」と断定的にモノを言うことに躊躇はないのですか。
聖書を誤解している宗教者がいるなら、まずは「あなたは教義を間違って解釈しているよ」と教えてあげれば良いし、それが作為的なものだと言うのでれば「おまえ、聖書にはそんなことは書かれていないだろうがあ。この似非宗教者め。」と、飽くまで宗教の土俵に上って、こき下ろしてあげれば良い。
そうした人たちとまともな宗教者、他の宗教までもを一まとめにして、しかも宗教 対 科学みたいな構図で「彼らは」と批判するからおかしなことになるんじゃないでしょうか。
それともう一つ。
私とmacskaさんのやり取りは、macskaさんの「宗教だって全く何もわかっていない
>>75
」という言葉から始まっているのですが、それは単にmacskaさんの思い込みに過ぎない可能性だってなくはないわけですよ。まあ、その可能性は極めて低く、本当は私だってmacskaさんと同じ様に思っています。しかし、その真偽に関わらず、宗教の絶対性に救いを求めそれを信じて疑わない宗教者だっているわけです。だから、そのように断言することは”心情的に”してはならないと言う意味での私の
>>96
だったのですね。
それに、
>宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。
こんな言い方をしては、宗教者を愚弄していると言われても仕方ないと思いますね。
自分の思い込みを事実とすりかえる人がいたとしても、それが本人の勝手な行為でなく宗教が認める行為であるとどうして断定できるのでしょうか。
これは明らかに宗教そのものを批判していますし、宗教者を蔑視した発言と受け取れなくもありません。何しろ「宗教はいい加減だから、宗教者はラッキー」と言ってしまったわけですから。
この言葉に限らず、このスレッドでmacskaさんの仰っていることは言葉の端々にどうにも宗教蔑視の雰囲気が醸し出されているんですよね。
互いの主張に特に齟齬もないのに、それがここまで紛糾しているのはそんなところにも問題があるのじゃないでしょうか。
宗教が科学の範疇であろうとなかろうとそんなことには関わらず宗教に対する発言にはもう少し気を配りましょう。もう少し宗教者の気持ちに対する配慮をいたしましょう。ってことで一つ。
149
:
fukken
:2007/01/14(日) 12:18:28 ID:M5vfENrY
失礼しました。
私の
>>96
だったのですね。→
>>76
150
:
macska
:2007/01/14(日) 14:25:15 ID:VdHL1C4M
ようやくわたしが何を言っているのか理解されかけてきた様子。
そんなに大それたことを言っているつもりはなかったのですが、議論の途中で脇道に逸れてしまったために、いろいろ誤解を浴びてしまいました。
>>142
> たとえば神秘体験をした人が神経科学的説明と宗教の教義を照らし合わせた結果、
> ある宗教の教義がかなり確からしいという認識を持った場合、
> これは「信じている」「知っている」のどっちに入るのでしょうか。
うーん、これだけの情報じゃなんとも言えないな。
何らかの体験をした、というのは事実でしょう。でも、だからといってある特定の宗教の教義によるその体験の解釈が正しいと確信するのは、ちょっと飛躍があります。だから、その飛躍を埋めるような客観的な根拠がどれくらいあるのかを聞かなければ判断がつきません。
まあ、もしその人が「十分な客観的な根拠がある」と言うなら、仮に他人の目から見ると「それって信じているだけじゃん」というレベルだったとしても、その人が「知っている」と言うのは理解できます。というのも、わたしは「知っている」と言うに足るかどうかを示す絶対的な基準があると言っているわけじゃなくて、少なくとも「知っている」と「信じている」はその人の中でちゃんと使い分けて欲しいと言っているのです。
> たとえば現状で創造説(創造科学ではない)は地質学・生物学上の発見に否定され
> たといえるのでしょうか?
創造説の中身にもよりますが、「神が6000年前に全ての生物を今ある形に作ったという説」でしたら否定されていると言っていいでしょう。
もちろん、「実は本当に6000年前に創造されていて、でも神は人々の信仰を試すためにわざとそれに反するような証拠を捏造したのだ」という反論は可能ですし、その可能性がまったくゼロだとは言えません。
しかしそれを言うなら、全宇宙は5分前に創造された可能性だってあるし、創造主がスパゲッティモンスターである可能性だってあるし…とキリがないので、普通そういう無茶苦茶な可能性は「信じるのは勝手だけど、考慮に値しない」と切って捨てるわけです。可能性が完全に否定できないからといって、何か考慮するに足るだけの可能性があるということにはなりませんからね。
>>148
> キリスト教については上記のことが言えたとして(”一部”や”多くの”と言う
> のが全体の何割程度なのかもさておくとして)、その他の宗教にもこれが当て嵌
> まるのでしょうか。
どの宗教でも、世俗化したものはだいたい似たり寄ったりではないですか?
> そうした人たちとまともな宗教者、他の宗教までもを一まとめにして、しかも宗教
> 対 科学みたいな構図で「彼らは」と批判するからおかしなことになるんじゃない
> でしょうか。
わたしは、宗教を批判してはいないです。多少の皮肉くらいは言いましたが。
> しかし、その真偽に関わらず、宗教の絶対性に救いを求めそれを信じて疑わない
> 宗教者だっているわけです。だから、そのように断言することは”心情的に”し
> てはならないと言う意味での私の
>>96
だったのですね。
「してはならない」とあなたが断言したことで、科学の絶対性に救いを求めそれを信じて疑わないわたしの心が傷ついたらどうしてくれるんですか!(笑)
もちろんそれは冗談ですが、「〜だから、心情的に〜してはならない」というときに、政治的な信念だとかその他一般一般の考えに比べて、宗教的信念にだけ何か特別の保護を与えるよう要求しているのではないかと気になります。他人の気持ちは思いやるべきですが、それが宗教的信念だからというだけの理由で他の信念や信条よりも手厚く保護されるべきだとは思いません。
151
:
ミケ
:2007/01/14(日) 14:43:12 ID:???
>>141
まずは、前投稿の表現が曖昧だったかもなので、
もとの文章(
>>122
)から。
>多世界説と波動関数の収束説、どちらが正しいかは科学では扱えません。
要するに、どちらの仮説も矛盾がなく(観測事実を説明でき)、
かつどちらが正かった場合の予測も同じで区別できなかった場合、
それは科学では選べません。
「論理的に矛盾がない、だけでは仮説は選べない。(
>>132
で紹介したHPより)」
というヤツです。
今西の「すみ分け」も、観測事実を矛盾なく説明できますが、
すみ分けが間違っていた場合の予測と正しかった場合の予測が区別できないため、
科学では採択できなかったのと同じかと思います。
>>146
「勝利の女神的なもの(気まぐれver.)」は
日本では広く信仰(?)されているように個人的には思います。
また、いささかミケの知識は偏向しておりますが、
神話に出てくる運命のカミサマ(や精霊)は
敬おうが敬うまいが戦いの勝利を左右したりする印象があります。
ヴァルキューレとか?(それが現在信仰されてるかどうかは知らんけど)
とはいえ、ミケは別に実際の宗教を想定してたわけではないんです。
macsaka さんの主張を
「現実に干渉するタイプの神であるならいかなるものでも検証可能である」
と解釈し(本人はそういうつもりではなかったとしても)、
その主張から、その前の地下猫さんやミケの主張
「運命のカミサマ的なものなら現実世界に干渉するものでも検証不可能である」
を理解していないのでは?という印象を受けたのでその例を挙げてみた、と。
多くの宗教とかそういうことはあんまり考慮する必要を感じませんでした。
ミケにとって大事な(とそのときミケが思った)ことは、
「検証不能である」という部分がmacska さんに通じていなかったのでは?
という点だったので。
それが誤解だったらしいことが分かったので、もう引き上げたわけです。
※一応ミケとしてはそもそも検証の対象にできようができまいが、
検証不能なものを科学の範疇である、という言明には賛成できない、
という立場です。今でも。まあわざわざ争う気はないけど。
(今西進化論や「宇宙は1分前に」は科学の範疇内なのか、という)
反論当時は、「検証不能なら科学の範囲外って言うのが当たり前」という意識があったので
「科学の範疇にある」を「検証可能」と脳内変換していました。
152
:
fukken
:2007/01/14(日) 17:23:53 ID:M5vfENrY
もう少し食い下がってみましょう。
>>150
>どの宗教でも、世俗化したものはだいたい似たり寄ったりではないですか?
その程度の認識であれだけ仰ったのですか?
高校生物の教科書程度の知識すら持たず「進化論なんて出鱈目じゃあ」と飛び込んでは自滅する人をここで大勢見ている私には、それはとても危険な行為のように思えます。
地下猫さんも仰っているけど、宗教を知らずにさもわかったようにそれに意見してしまうと言うのは、創造科学のお兄様方と大して変わらないように思います。
「宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。」
と仰ったのはmacskaさんですが、ここで同じことなさろうとしていませんか。
>わたしは、宗教を批判してはいないです。多少の皮肉くらいは言いましたが。
「宗教はいい加減だから、宗教者はラッキー」
は皮肉とは言わないでしょう。批判でもないとすれば嫌がらせなのでしょうか?
>もちろんそれは冗談ですが、「〜だから、心情的に〜してはならない」というときに、政治的な信念だとかその他一般一般の考えに比べて、宗教的信念にだけ何か特別の保護を与えるよう要求しているのではないかと気になります。他人の気持ちは思いやるべきですが、それが宗教的信念だからというだけの理由で他の信念や信条よりも手厚く保護されるべきだとは思いません。
macskaさんは宗教者は信と知の区切りを付けるべきだと仰った。
では今回のmacskaさんの発言の中で、明らかに彼らの”信”である領域に介入するものは一切なかったと言い切れますか?
最初の「宗教にだって全く何も分かっていません」で既に思い切り踏み込んじゃっているではありませんか。
「そのように断言することは”心情的に”してはならない」と言うのが気に入らないのであれば、「”macskaさん自身が設けようとしている決まり”を守るためにも、してはならない」のと違いますか。
それから、macskaさんは
信じているという分には、どんなに非合理的な信仰であっても構わないです。
>>92
とも仰っている。
宗教者が「常識や科学的知識なんて関係ない、神が人類を創造したと聖書に書いてある以上、創造論は正しいのだ」と言い切って教典を防衛する分にはそれは”信”の領域にあるわけですね。
>>125
そういう人たちから見れば、「聖書の記述は誰がどう見ても間違っている」
>>83
などは”信”の領域への介入どころか、宗教に対する侮辱そのものです。
ところが宗教的信念のない人(その時代の常識や科学的知識と矛盾しないように柔軟に教典解釈を変更することで「神の言葉や意志は正しく、素晴らしい」というイデオロギーの方を防衛する人)にはそれは当て嵌まらない。
macskaさんご自身が、宗教的信念に特別の保護を与えようとしているのではありませんか。
で、”信”と”知”の切り分けって本当に必要ですか?
153
:
地下に眠るM
:2007/01/14(日) 17:33:46 ID:Y7kDipRw
とりあえず今日の投稿はこの1件のみかな
>ヤケクソになるのはやめましょう(笑)
チミは頭がワリイなあ・・・・・・
いっておくと、僕が罵倒モードに入るのは、
・相手が特定の知的領域に関する礼儀を逸している。
・罵倒してもこちらにダメージがないと確信できる。
両者が該当する場合、つまり無礼で弱い馬鹿に対してこのモードに入ることにしているのだにゃ。
こうすれば、負け逃げの時も「そんな人格攻撃する相手とは議論なんてできません」ということができるわけだにゃ。僕ってやさしいだろ?
>> 自然科学が脳のことを調べることにより、意識というものがどういうことかわかり、
>> ひいては魂というものを理解するかもしれにゃーので、死後の世界の有無はカガクの対象となる。
>例えば、進化論が広まった結果神の存在を疑問に思う人が増えたように、人間の意識の科学的解明が進んだ結果人々が死後の世界を疑問に思うようになるという程度の関連はあるでしょうが、進化論によって神の存在が科学の対象となったとは言えないのと同じように、死後の世界の存在そのものが科学の対象になるわけではありません。
のらりくらりの逃げられにゃーように、もっと簡明にいってあげよう。
死後の世界とか魂とかが「存在する」のならば、それは(チミの定義では)自然科学の対象だろ?
現にこうゆうのがあるんだにゃ↓
ttp://www.h4.dion.ne.jp/~mf124/sub%205%20tajigenn.html
この香ばしいHPから引用するにゃ
***************************
多次元世界の存在の発見経過
A【神霊界】
心霊研究によって死後の世界、霊魂の存在が歴然と実在していることが、科学的に実証されました。
* 物理的心霊現象や霊界通信(チャネリング)を通して、死後の世界と霊魂の存在が、科学的に厳密なる検証の結果証明された。
***************************
探せばこの手のタワゴトにはことかかにゃーぜ。神智学の教義のパクリでね、日本ではオウムとか幸福の科学とかが採用している教義のパターンにゃんな。死後の世界は実在の世界の高次元にあるんだそうだにゃ。
154
:
地下に眠るM
:2007/01/14(日) 17:34:24 ID:Y7kDipRw
長すぎた、つづき
しかし、この手のタワゴトをいっている連中も、チミよりは論理的だ>macskaクン
チミのいっていることは、現実世界の森羅万象が自然科学の対象だといいながら、死後の世界の「存在」は対象外だとのたまわっているにゃ。現実に存在しにゃーものは存在するとはいわにゃーだろ?
ま、「それは彼の妄想の中だけに存在する」という逆説的な言い方はあるけどにゃ。もちろんこれは、「現実には存在しない」という意味だにゃ。これは単純な排中律の問題。死後の世界は存在するかしないかしかなく、存在するとは現実にあることをいうわけ。違う?(←ここは逃げずに答えようね)
※哲学用語における「存在」とは非存在も含むのだけどここでは関係なし
しかし、死後の世界はもちろんニンゲンの通常の認識では検知できにゃーわけだ。存在しているはずのものが検知できにゃーのは何故だろうということで、疑似科学的な「○○次元」とかいう説明が採用された例だにゃ。まあ電波ゆんゆんの言説にゃんが、それでも「カガクは現実世界の森羅万象を検証対象にする」といいながら「死後の世界の存在」を対象外だとする誰かの詭弁よりははるかに論理的かつ誠実にゃんね。
もちろん、あらゆるタイプの神の存在にの有無ついても、科学は検証対象とすることになるにゃんな。
>> ニンゲンの意識の有り様を解析していけば、一定の条件のもとでの「正しい生き方」
>> は自然科学で答えが出せるかもしれにゃー。
>それは、宗教が教えるような、いわゆる「正しい生き方」とは違った意味になりますね。
え?
どう違うの?
逃げにしか見えにゃーぜ。
つまりね、macskaの言明というのはハナッから矛盾しているわけだにゃ。カガクが現実世界の森羅万象をその対象にするのであれば、存在する全てはカガクの検証対象となり、よってあらゆるタイプの神も死後の世界も魂もカガクの検査対象にならなければならにゃー。
「森羅万象」ネタの問題はまだある。
例えば文学作品はもちろんこの現実世界での営みだにゃ。作家とか文学作品のよしあしの判定は自然科学の検証対象になることになるにゃ。ちゅうか、ニンゲンの脳というのは現実世界に存在して現実世界で活動しているわけで、macskaの白痴的カガク主義言明によると、ニンゲンの脳が産みだすありとあらゆる事象はカガクの検証対象となっちゃうわけにゃんね。人文科学・芸術などもすべてカガクの対象となるわけだにゃ。
極端なカガク主義にゃんな。
そして、カガク主義はカガクの敵なんだにゃ。
あと、予告しておきますにゃ。
・macskaは宗教に対する悪意をもって発言していること
・場当たりのウソをつくこと
・基本的な読解力がないこと
以上を今後の投稿で証明するにゃ。
ま、ゆっくりとやるけどね。
155
:
みずすまし
:2007/01/15(月) 02:03:50 ID:TgyKdXjk
横槍ですが。
>>152
> で、”信”と”知”の切り分けって本当に必要ですか?
哲学では,例えば次のように区別されています。
> 知識の古典的定義
> 現代英米の分析哲学では、知識の古典的定義として以下のものが用いられる。
>
> ある認知者Aが「Xである」という知識を持つのは以下の場合、その場合にかぎる。
>
> 1. Aは「Xである」と信じており、かつ、
> 2. Aの「Xである」という信念は正当化されており、かつ
> 3. 「Xである」は真である。
> これを一言で言えば、「知識とは正当化された真なる信念である」ということになる。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E8%AD%98
# 「知識」は「真なる信念+α」だというのはプラトンが議論しているので,「知識」は
# 「真なる信念+α」だという理解が古典的スタンダードだというのは「現代英米の分析
# 哲学」に限らず西洋哲学全体についていえると思う。
# たぶん,ポパーも概ねこれに近い考え方をしている。クーンは違うかも。
# なお,この古典的定義では「正当化」の内容は明らかにされていない。
# その為に,その古典的定義に概ね同意する哲学者の間でも,「正当化」の内容に関し
# て論争がある。
こういうこと書くのは僭越かもしれませんが,たぶん,macskaさんは概ねこの古典的定義に従った「信念」と「知識」の区別をしていて,「正当化」の明確な定義を棚上げにしても,一応の(少なくともその人が考える)「正当化」を伴った「真なる信念」についてのみ「知識」という言葉を用いるべきだ,と主張されているのだと思います。
例えば。
>>150
> まあ、もしその人が「十分な客観的な根拠がある」と言うなら、仮に他人の目から見る
> と「それって信じているだけじゃん」というレベルだったとしても、その人が「知って
> いる」と言うのは理解できます。というのも、わたしは「知っている」と言うに足るか
> どうかを示す絶対的な基準があると言っているわけじゃなくて、少なくとも「知ってい
> る」と「信じている」はその人の中でちゃんと使い分けて欲しいと言っているのです。
さらに僭越なことを書きますが,おそらく,この古典的定義が他の方とあまり共有されていないんじゃないでしょうか。
ただ,私の推測が正しいとして,macskaさんが「信じている」と「知っている」の区別として要求していることは,古典的スタンダードに従っているし,そのスタンダードに反対する強い理由も(私には)ないので,それなりにまっとうな主張だとは思います。しかし,その区別は,普通の日本語を母国語とする日本人において,日常の用語感覚として明確ではないので,他の方と共有されていないとしても無理はないと思います。
この「共有されていないとしても無理はない」というのは宗教家に対してもいえることで,この区別が共有されているという前提がないのに,宗教者に対して「それは,『信じている』だけで,『知っている』わけじゃないんでしょ?」といっても意味不明かもしれません。
# 西洋人,さらに限定して英語を母国語とするインテリにとっては,"believe" と
# "know" の違いとして明確なのかもしれませんが,私にはよく分からない。
156
:
fukken
:2007/01/15(月) 03:20:38 ID:M5vfENrY
>>155
ご教示ありがとうございます。
でも、
> で、”信”と”知”の切り分けって本当に必要ですか?
これはmacskaさんに対する皮肉なのです。
何しろ、他人には『知らないことを「知っている」と言うな』と言っておきながら、「どうやら宗教とはこんなものだろう」と信じただけで知った気になり、曖昧な部分をまるで確定したことのように語ってしまったわけですので。
「信じている」という分には、どんなに非合理な主張であっても、私もここまでねじ込んだりしないです。(参考文献
>>92
)
157
:
diamonds8888x
:2007/01/15(月) 06:15:22 ID:h2fLyT9w
>>153
,154
それは101でAH1さんが言った「死後の世界は(もしそれがあり、観察する手段が開発されたなら)観測可能」という話ですよ。macskaさんは110で「もし死後の世界が、わたしたちと同じ現実世界のどこかにあるという主張であれば、確かに科学の範疇ですね。」と明確に答えてます。
その香ばしいHPで主張されている科学的に実証されたとか言う「死後の世界」とやらなら、当然科学の範疇です。現在生きている人間が観測して実証したと主張しているのですから。macskaさんの言う「死後の世界」とは死んだ本人にしか観測できない世界のことだと思いますよ。そして死からよみがえった人がいない以上は、生きている人にとっては「死後の世界」は観測不可能ゆえに検証することができません。ごく普通の論理だと思いますが?
158
:
diamonds8888x
:2007/01/15(月) 06:17:12 ID:h2fLyT9w
>>151
見解のわずかな相違ということでよろしいかと思いますが、一応私の見解だけ述べておきます。
>>(今西進化論や「宇宙は1分前に」は科学の範疇内なのか、という)
どちらも科学の範疇であり科学理論とみなすことができます。しかしオッカムのかみそりにあわないとか、予測性がないとか諸々の不都合から取り上げられない、もしくは正しい科学理論としては排除されたということですね。なぜならミケさんの言う検証不能かどうかという判断をまずしないことにはいけないわけで、判断する前では(ミケさんも賛同するだろう意味での)科学理論かも知れないと見なして判断を試みるのですから。「宇宙は1分前に」は割とすぐに判断できるでしょうが、今西進化論は判断が難しいのではないでしょうか?
159
:
地下に眠るM
:2007/01/15(月) 10:36:54 ID:Y7kDipRw
>>157
だから、死んだ本人がどこにいるの?
現実世界には存在しないけど存在する、ってどういうことか教えてくれる?
「妄想や願望の中に存在する」ってのは存在しにゃーという意味だと元レスにも書いてるぜ。
macskaクンの主張がどんなに白痴的で無意味かチミにはわかんにゃーのかな?
観測とか実証の可能性がなく、理論化の契機がない事象についてすら、現実世界の森羅万象がカガクの検証対象だとあのオツムてんてんは抜かしているにゃんぜ。
言い換えると
カガク的な知を構成することのありえにゃー事象についてもカガクの対象だ、といっていることになるにゃ。
最初からこんな白痴的なことをいいたかったのか、「僕はわかってるんだじょー」というカッコをつけたかったが故にここまで追い込まれてしまったのかしらにゃーが、こんな主張はただのゴミ。
macskaクンがいかに宗教に悪意をもっているか、場当たりの適当なことをいっているかは、時間のあるときに検証するけどにゃ。
とにかく、宗教についてのmacskaクンの発言はほとんど信用に値しにゃーと考えていい。
160
:
Josef
:2007/01/15(月) 12:44:42 ID:uPoVYQoU
はじめまして。macskaさんのサイトから来ました。
>>159
>観測とか実証の可能性がなく、理論化の契機がない事象についてすら、現実世界の森羅万象がカガクの検証対象だとあのオツムてんてんは抜かしているにゃんぜ。
読み間違いですね。
「現実世界に起きている」と主張されることについては科学的検証の対象になる、ということでしょう。「現実世界に起きている」と主張される事象であるにもかかわらず、検証を試みた結果、「観測や実証の可能性がない」ことが判明すれば、「現実世界に起きている」という主張には根拠がないことになります。
161
:
macska
:2007/01/15(月) 13:19:37 ID:VdHL1C4M
>>152
> その程度の認識であれだけ仰ったのですか?
あれだけって、そんなに言ってませんって。
> 地下猫さんも仰っているけど、宗教を知らずにさもわかったように
> それに意見してしまうと言うのは、創造科学のお兄様方と大して変
> わらないように思います。
もしわたしが宗教について無知だというなら、「世俗化した宗教は、世間の常識や科学的知識に応じて柔軟に教典を読み替えることがよくある」ということのどこが間違いなのか、具体的に指摘してください。また、「宗教では『信じている』と『知っている』の境界が曖昧にされがちである」というのが間違いなら、どう間違いなのか指摘してください。
> 最初の「宗教にだって全く何も分かっていません」で既に思い切り
> 踏み込んじゃっているではありませんか。
それが事実として間違いであると論じているのか、それとも事実だけれどそういうことは口にすべきではないと論じているのか、どちらかはっきりしてください。
わたしはそれが事実であると思っている(事実でない可能性は、スパゲッティモンスターが存在する可能性程度ならあるけれど、ほぼ考慮する価値なし)し、「だれかの宗教的信念に反するから」という理由で事実を口にしてはいけない、とは思いません。
> 宗教者が「常識や科学的知識なんて関係ない、神が人類を創造したと
> 聖書に書いてある以上、創造論は正しいのだ」と言い切って教典を防
> 衛する分にはそれは”信”の領域にあるわけですね。
>>125
> そういう人たちから見れば、「聖書の記述は誰がどう見ても間違って
> いる」
>>83
などは”信”の領域への介入どころか、宗教に対する侮辱
> そのものです。
馬鹿げた信仰を持つのも自由なら、その馬鹿らしさを指摘するのも自由でしょ。イデオロギーを通さずに聖書を読めば、それが間違いだらけであるというのは明らかです。数えきれないくらい矛盾があるんだもの。人々の信仰は尊重するけれど、だからといって明らかに間違っているものを「間違いがない」と認めなくちゃいけないなんてことはないはずです。
>>153
> 死後の世界とか魂とかが「存在する」のならば、それは(チミの定義
> では)自然科学の対象だろ?
「存在する」というのが、現実世界に物理的に存在するという意味なら、その通りですね。それがなにか問題ですか? あなたは仮に「魂」が例えば物理的に存在していたとしても(粒子の一種として発見された、とかなんでも適当に想定してください)科学の範囲外であると言うのですか?
一般に「死後の世界」というとき、それは現実世界に物理的に存在するものとしては語られていないように思います。生きている人の住んでいる世界とはまったく別の次元にあるとされているはず。「魂」というのも、物理的存在として語られることもありますが基本的に物理世界とは別のものとして語られるはずです。そういうものは科学の範囲の外側ですよということ。
> 現実世界の森羅万象が自然科学の対象だといいながら、死後の世界の
> 「存在」は対象外だとのたまわっているにゃ。現実に存在しにゃーも
> のは存在するとはいわにゃーだろ?
死後の世界の「存在」というときに、わたしはそれを「現実世界において、物理的にあること」という意味では言っていません。物理世界の外側にあるとされているモノ、という意味で言っています。
わたしには、物理世界の外側に何かが「ある」というとき、それがどんな状態なのかまったく見当もつきません。しかし世の中には、物理世界の外側を信じている人たちがいて、そこに「死後の世界」だとか魂だとか神様が「ある」と言っているわけで、かれらのそういう信仰を科学は否定できませんよ、とわたしは言っているだけです。もちろん肯定もできませんが。
> 作家とか文学作品のよしあしの判定は自然科学の検証対象になることになるにゃ。
文学作品のよしあしは、価値観であって現象ではないでしょう。もちろん価値観が脳内の物理現象の反映であるならば(そうだとわたしは言っていませんが)、究極的には科学的な検証対象にならないとは言えないですが、いきなり脳の研究をするのは有効な研究だとは思えません。文化の研究にはそれに適したツールが別にあるはずです。
162
:
ミケ
:2007/01/15(月) 16:04:47 ID:???
>>158
それだと、IDもスパゲッティモンスター説も
(正しくないけど)科学理論ってことになってしまい、
ID論者やラエリアンを相手にするときにめんどくさいですよ?
いや、まあ、めんどくさいだけですけど。
検証不能ってことは正しい(確からしい)ともそうでないとも言えない、
ってことなので、
検証不能な理論を正しくない科学理論と言ってしまうと、
棄却された科学理論(天動説とか)との区別を説明するのがとても大変になってきます。
しかも区別を説明した後に、
なぜ確からしいともそうでないとも言えないことがいけないのかも説明しなければいけません。
最初から、「正しい正しくない以前に、それは科学ではない」と言えたほうがラクだし、
相手やギャラリーにとっても混乱が少ないということで、
ミケは『検証不能なものは科学の範囲外』という言い方の方を支持しますです。
まあ相手の理解度によって言い方を変えるのもアリだとは思いますが、
過去ログを通しで見返したときになんとなく見栄えが良くないというか(自意識過剰?)。
163
:
ミケ
:2007/01/15(月) 16:29:22 ID:???
すみません、横です。
>もしわたしが宗教について無知だというなら、「世俗化した宗教は、世間の常識や科学的知識に応じて柔軟に教典を読み替えることがよくある」ということのどこが間違いなのか、具体的に指摘してください。また、「宗教では『信じている』と『知っている』の境界が曖昧にされがちである」というのが間違いなら、どう間違いなのか指摘してください。
これはちょっと熱くなってはいませんか。
macska さんの、「世俗化した宗教は〜」
という主張に対して、
fukken さんは
「その根拠はキリスト教以外にあるの?」
「キリスト教(数ある宗教のうちの一つ)しか根拠として挙げられないなら、
一まとめに宗教はと言ってしまうのは問題があるんじゃないの?」
って疑問を提示したわけで。
これに対しては
「これこれこういう理由でキリスト教だけで十分である」とか、
「他も見たが(具体例)同じような感じだった」とか言う感じで、
宗教は〜と一まとめにする正当性を主張すべきところではないでしょうか。
具体例を挙げずに「どれも似たり寄ったりではないですか」という答え方は、
一まとめにする正当性の根拠としては、曖昧で弱い。
このような弱い根拠をもとに、宗教は〜と一まとめにした(ように見える)のが
宗教に関して無知という印象を与えたのだと思います。
(無知でないなら具体例や強い根拠を挙げて答えられるはず、という期待のもとに)
というわけで、無知の汚名をはねつけ、相手に謝罪を求めたいならば、
「これこれこういう理由でキリスト教だけで十分である」とか、
「他も見たが(具体例)同じような感じだった」とか言う感じで、
宗教は〜と一まとめにする正当性を改めて主張すべきかと思います。
164
:
いらはい
:2007/01/15(月) 18:09:06 ID:DHj5XiXA
>>150
>少なくとも「知っている」と「信じている」はその人の中でちゃんと使い分けて欲しいと言っているのです。
その人の中で使い分けるだけでは「知っている」と思い込んだ「信じている」ことを「知っている」かのように言ってしまうことになりませんか。
宗教者は自分が確からしさを感じているものごとについて、飛躍がないのかあるのかの検討作業を求められるのでしょうか?
科学が教義を否定するというのは別に全面的に無価値なこととして取り扱うというわけでなく、
合理性を認めないというくらいの意味ですか。
では「宗教と科学の住み分け」ではなく「信仰と科学の住み分け」なら可能だということでしょうか。
165
:
fukken
:2007/01/15(月) 19:51:35 ID:M5vfENrY
>>161
>もしわたしが宗教について無知だというなら、「世俗化した宗教は、世間の常識や科学的知識に応じて柔軟に教典を読み替えることがよくある」ということのどこが間違いなのか、具体的に指摘してください。
良く思い出してみてください。
貴方が「キリスト教信者とは、これこれこうなんです」と言うので、「その他の宗教にもそれが当て嵌まるのか。」と私が質問したのですよ。
「イスラムもヒンズーも仏教もすべて同じです。世界の宗教者のほとんどが教典を読み替えています。だからこそ、『宗教なんてご都合主義だ』なんてことを平気で断言できたんですよ。」ってあなたの方が答えないといけなかったのですよ。
ところが、
>どの宗教でも、世俗化したものはだいたい似たり寄ったりではないですか?
と、このように貴方は返したのですよ。(それまで歯切れの良かった人の回答とは思えませんねえ。)
つまり、貴方がすべての宗教、宗教者を良く知った上で意見を述べているわけではないことを自身で名言したわけです。
宗教のことを良く知りもしないのに、断定的な口調で「宗教(者)とは」とやって、それを批判したり(皮肉を言ったり、でも良いです)しているわけですから、「それは問題のある行動だ」と私は言ったまでです。それだけのことです。(ミケさん、解説ありがとうございました)
>また、「宗教では『信じている』と『知っている』の境界が曖昧にされがちである」というのが間違いなら、どう間違いなのか指摘してください。
宗教、信、知とそれぞれの単語自体の解釈が人それぞれ違うでしょうし、だいたい”されがち”なんて曖昧そのものな言葉をわざわざ加えて何言ってるんですか。こんなことに白黒つけようとすることが所詮間違いであって、そんなことに拘る必要はないんじゃないんですか。って言うのが私の意見ですってば。
でも、命題が「macska氏は『思い込んでいる』と『知っている』の境界が曖昧にされがちである」であれば割りと簡単に証明出来そうですけどね。
>>最初の「宗教にだって全く何も分かっていません」で既に思い切り踏み込んじゃっているではありませんか。
>それが事実として間違いであると論じているのか、それとも事実だけれどそういうことは口にすべきではないと論じているのか、どちらかはっきりしてください。
>わたしはそれが事実であると思っている(事実でない可能性は、スパゲッティモンスターが存在する可能性程度ならあるけれど、ほぼ考慮する価値なし)し、「だれかの宗教的信念に反するから」という理由で事実を口にしてはいけない、とは思いません。
「宗教には全く何もわかっていない」か否かの真偽ですって?
それをはっきりしろなんてナンセンスな質問を本気でしているのですか。
そもそも、私は最初から明確に「私にはわかりません」と”当たり前に”答えているじゃないですか。
一方貴方はと言うと、「わたしはそれが事実であると思っている」
やっぱり”思っている”だけなんでしょ。”知っている”わけではなく。
一方宗教者は”信じている”わけなんですね。
私の指摘が「貴方は宗教の”信”の領域に踏み込んでいますよ」だってことをお忘れなく。
>馬鹿げた信仰を持つのも自由なら、その馬鹿らしさを指摘するのも自由でしょ。イデオロギーを通さずに聖書を読めば、それが間違いだらけであるというのは明らかです。数えきれないくらい矛盾があるんだもの。人々の信仰は尊重するけれど、だからといって明らかに間違っているものを「間違いがない」と認めなくちゃいけないなんてことはないはずです。
本音ですね。
結局、貴方は宗教に文句付けたいだけなのでしょ。
貴方がそうしたいのならそうすれば良いですが、でもそれはきっと徒労に終わると思いますよ。
相手にとっても時間の無駄なだけで、はた迷惑な話です。
と言うことで面倒でしたが貴方にお付き合いして一応すべての質問に応えましたよ。
しかし貴方は私の質問や指摘をはぐらかしてばかりですねえ。
貴方はうまく誤魔化していたつもりなのかも知れませんが、私は内心でがっかりしていたのですよ。
私は直接話すまでは貴方は久々にここに来たまともな論者と思っていましたが、どうやら買い被りだったようです。
166
:
fukken
:2007/01/15(月) 19:59:30 ID:M5vfENrY
以下、macskaさんの宿題。
>>165
の冒頭に引用したの私の質問「その他の宗教にもそれが当て嵌まりますか」と合わせて
>このように一絡げにして「宗教者は、〜だ」と断定的にモノを言うことに躊躇はないのですか。
>>148
と尋ねていたのですが、これに返答はありませんでした。
更に、わたしと貴方の議論の切っ掛けとなった貴方の言葉、
「宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。」
>>75
について、
>こんな言い方をしては、宗教者を愚弄していると言われても仕方ないと思いますね。
>自分の思い込みを事実とすりかえる人がいたとしても、それが本人の勝手な行為でなく宗教が認める行為であるとどうして断定できるのでしょうか。
>これは明らかに宗教そのものを批判していますし、宗教者を蔑視した発言と受け取れなくもありません。何しろ「宗教はいい加減だから、宗教者はラッキー」と言ってしまったわけですから。
>>148
と、弁明を求めましたがこれにも一切返答なしです。
>>161
での回答も同じく。貴方のやったダブルスタンダードに対する指摘についての釈明も一切なしでした。
他にも全部引用したっていいですが、貴方は議論の初期の段階から答えにくい質問には一切応えていませんね。
167
:
NAN
:2007/01/15(月) 21:47:57 ID:payA0pqw
だ〜ら〜…
「水がワインに変わった」ということばを読むとき、
聖書のことばは一字一句文字通りに正しい、と解釈するひとのことを
私たちは逐語主義だとか原理主義といって批判するのだけれど、
「水がワインに変わるという現象をカガクで検証しよう」
なんていう問いかけだって、逐語主義以外のなにものでもないでしょ。
とイウワケ。
168
:
HAKASE
:2007/01/15(月) 22:26:56 ID:ZC/gbS1c
はじめまして.macskaさんのところから来ました.
宗教の深い話には私は突っ込めませんが,カオス理論の話がちょこっと出ていたので参考になればと思って書き込みしました.
私の知り合いにカオスに関連した研究をやっている人がいます.
カオス理論の実証的な研究では,世の中で起きた(偶然と思われるような,あるいは確率的に生じていると思われる,あるいはデタラメに起きていると思われる)事象が,本当に偶然かどうかをデータ解析などの手法を使いながら検証することもするそうです.
偶然起きたと思われる事象でも時系列的な発生過程にカオス性が認められる場合には,予測できる可能性があるそうで(私は詳細には詳しくないですが)太陽黒点の数の推移とかニューヨーク市のはしかの患者数の推移とかの予測(本質的には確率に頼らない予測)を試みる研究があるそうです.
現時点で確率的に起こると思われている様々な現象に対して,本当に確率的と言っていいのかを検証するという作業は(少なくともカオスを研究している人たちは)科学的な手法で扱う対象内とみなしていると思います.
もちろん,データ解析などの科学的な手続きによる検証の結果,ほぼ確率的だといって間違いないだろうと判断された事象に対して,次に具体的に何が起こるかを予測するという作業は,現状の科学では確率的に示す以外ないだろうと思います(トートロジーだけど).
カオス理論そのものは数学に近いかもしれませんけど,一応,ニューラルネット等とを組み合わせて工学的な応用とかも考えられています.
言葉の問題なのかもしれませんし現状では研究レベルの話かもしれませんが,*上記の意味では*偶然に起こると思われる物事も科学的手法で扱う対象のひとつだと思います.
以上,議論の参考になればと思って書き込みしました.
169
:
えめ
:2007/01/15(月) 22:38:57 ID:4.Y76JrM
>「大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えるくらい平気でやってのけます。」
>これでも冒涜だと思いますか?
まあ冒涜でしょうね。このまま読めば。
とりあえず経典は学説に関する論文のように解釈されなければ”ならない”と主張している点で本人アウトだと思うんだけどねー
何故”ならなけれ『ばならない』”のかは、科学ではなく、宗教との共通ルールを築いた上で納得させなければね。
例えばイエスにしても、ユダヤ教にある神の姿を新しい物に変えて見せたが、本人は神の本来の姿を見出したと主張しているに過ぎない。
いわば宗教的に”検証された”結果、以前のユダや教としての教義(仮説)が変更(ユダヤ教にとっては否定)されたとも取れるでしょう。
奇跡でそれを証明して見せた。これは宗教的にはまるで誤りではないでしょうよ。※
だいたい「大多数の科学者も、自分達のルールに合わせて都合よく自然を読み替えるくらい平気でやってのけます。」だって事実ですよね。
その自然を読み替えるというプロセスにどれだけの英知と創造、真摯な思いが関与しているか。
宗教だって同じですよ。その上での発言でしょうか?
そしてその前提で
「科学程いい加減なものがあろうか。昨日迄確か有ると言っていたいたものが今日にないと言う。そんなもの何の当てになろうか」
と主張する人間に対して科学は現在どんな答えを与えることが出来ますか。それは宗教といかほどの差がありますか?
科学は時に無力ですよ。科学とは個々や、全体ではないグループの運命に対しては確約を与えない知見ですから。
創造論者が特定の経典を科学敵事実として納得させようとしてやってる無茶と同様に、あらゆる事象に於ける評価については科学のルールが宗教に優先されるべきだと思うのはおこがましいと言えるんじゃないのかな。そのおこがましさこそが科学主義と捉えられる原因じゃないの。
※ところで福音書の記述内容について確認された客観的な事実であるとし、その科学的な側面についてのみ言及するアホらしさについては同意いただけてますよね?。
余話
特定の大型哺乳類が際限も無く増殖して環境に対する蚕食の度合いが危険なほどに大きくなったら科学はどんな答えを出すだろう。
170
:
e10go
:2007/01/15(月) 23:57:29 ID:5/V6R9W6
ROMに徹していたけど、突っ込み所が多くてとうとう参加しちゃった^^。
>>150
>まあ、もしその人が「十分な客観的な根拠がある」と言うなら、仮に他人の目から見ると「それって信じているだけじゃん」というレベルだったとしても、その人が「知っている」と言うのは理解できます。というのも、わたしは「知っている」と言うに足るかどうかを示す絶対的な基準があると言っているわけじゃなくて、少なくとも「知っている」と「信じている」はその人の中でちゃんと使い分けて欲しいと言っているのです。
その人が「知っている」と言った事を、どうしてその人が「信じている」と分かるの?。
「知っている」のではなく「信じている」とどうやって証明できるの?。
人の心の中がそんなに簡単に分かるものなの?。
「私はこうである事を”知っている”」と言うのを、「いや、それは貴方が”信じている”のを”知っている”と言っているのだ」と言い切るなら、それは単なる思い上がりでしょう。
まあ、この部分だけを突っ込むと科学でも宗教でもなく、哲学の領域になっちゃうけどね^^。
171
:
macska
:2007/01/16(火) 01:17:04 ID:VdHL1C4M
>>165
> つまり、貴方がすべての宗教、宗教者を良く知った上で意見を述べている
> わけではないことを自身で名言したわけです。
「知らないけれど、ほかの宗教もみんなそうなんじゃないの」という意味に受け取られたのかもしれませんが、そういうつもりじゃありませんでした。宗教が世俗化する過程において社会の安定を脅かすような教義や世間の常識に反する教義を再解釈したり封印したりして抑えるというのはごく一般的に見られることで、そんなの常識でしょ、くらいの軽いつもりで言ったのですが… それが宗教に対する中傷であるととらえる方がおかしいです。
>>164
> その人の中で使い分けるだけでは「知っている」と思い込んだ「信じている」
> ことを「知っている」かのように言ってしまうことになりませんか。
そういう問題はあるでしょうが、現状はそれ以前の段階でして。
> 宗教者は自分が確からしさを感じているものごとについて、飛躍がないのか
> あるのかの検討作業を求められるのでしょうか?
宗教者に限らず、わたしたちみなそうあるべきだと思います。
> 科学が教義を否定するというのは別に全面的に無価値なこととして取り扱う
> というわけでなく、合理性を認めないというくらいの意味ですか。
科学によって否定される(可能性がある)のは、現実世界に対する何らかの言明です。その言明が、たまたま教義の一部だったからといって、科学的検証から保護される理由はありません。
また、宗教や教義の価値というのは(芸術の価値と同じく)科学の領域ではないので、科学がある特定の宗教を「価値があるもの」として扱ったり扱わなかったりということはないでしょう。
> では「宗教と科学の住み分け」ではなく「信仰と科学の住み分け」なら可能
> だということでしょうか。
ええと、わたしが「宗教と科学の住み分けはできない」というのは、「住み分け」論を主張する人が想定しているような、お互いに何ら干渉し合わないで距離を置くという意味での「住み分け」ができない、ということです。なぜなら、宗教が扱う領域と科学が扱う領域は一部重なっているからです。衝突することもあるけれど完全にお互いを否定しきれないという意味であれば、住み分けは可能でしょう。それを普通は住み分けとは言わないと思いますが。
> 一方貴方はと言うと、「わたしはそれが事実であると思っている」
> やっぱり”思っている”だけなんでしょ。”知っている”わけではなく。
> 一方宗教者は”信じている”わけなんですね。
これは、ID論者が使うような「不当な対等論」ですね。
「死後の世界がある」という意見と、「死後の世界があるかどうかは誰にも分からない」という意見は対等ではありません。前者は、人間の知覚の及ばない(とされている)領域についての言明ですから、普通それは「あなたがそう信じているだけでしょう」、とみなされます。そうでないと言うなら、それなりの根拠を求められるわけです。
一方、「死後の世界があるかどうかは誰にも分からない」というのは、人間の知覚が及ばない領域について知覚している人間はいない、という意味ですから、当たり前のこと。これを主張するのに、ことさら何も証拠はいりません。
突飛なことを言うならそれなりの証拠が必要であり、それが示せないならば「知っている」とは言えない。しかし当たり前のことを言うのに、特に証拠は必要ではありません。
> 結局、貴方は宗教に文句付けたいだけなのでしょ。
> 貴方がそうしたいのならそうすれば良いですが、でもそれはきっと徒労に
> 終わると思いますよ。
いい加減にしてください。わたしは宗教に文句を一切付けていないです。
わたしが文句を言っている相手は科学の側(の一部に見られる科学的思考の不徹底)であることがどうして分からないのかな。
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