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六巻抄について
29
:
独歩
:2002/03/01(金) 08:02
tokumeiさん:
引用される『寛記雑々』の教主説は、寛師のまったく己義でしょう。聖人の説とは違います。真蹟遺文を追って見ればすぐにわかりますが、聖人は「教主」の語彙を釈尊に使うのであって、その他、阿弥陀、大日にも断りを入れて使われますが、いずれにしても教主を仏以外に使用されていません。
なお、引かれる雑々にいう「夫れ儒者は乃ち三皇五帝を以て“教主”と為す」は、たぶん、開目抄の文を引用しているのでしょうが、この原文は
儒家には三皇・五帝・三王、此等を“天尊”と号す
です。つまり、寛師は故意に天尊を教主と言い換えて、日蓮教主説の論拠しています。このようなことは寛師には見られるのであって、この点、十分に注意を払う必要があります。
30
:
問答迷人
:2002/03/01(金) 23:05
独歩さん
>一つは日蓮と釈尊を同一者とすること、もう一つは日蓮を釈尊の師とし、別者とすることです。
了解です。そうすると、日寛上人は、この二つの、日蓮本仏論をどのように統合したのでしょうか、或いはしていないのでしょうか。
もう一つ、お伺いします。次ぎの、【第八に事理の一念三千を示さば】に踏み込みますが、本尊抄の、
「一念三千殆ど竹膜を隔つ」
の文を引いて、日寛上人は、独一本門の存在証明にしています。日寛上人の説(理の一念三千と事の一念三千の差は、大変な隔たりがあるのだけれども、文底独一本門から見るとき、その差は、竹膜ほどの僅かな相違になってしまう)に拠らず、本来の聖人の祖意に戻って考えるとき、この『竹膜を隔つ』とは、如何なる意味でしょうか。
31
:
独歩
:2002/03/05(火) 09:28
問答名人さん:
少しご無沙汰しました。
> 一念三千殆ど竹膜を隔つ
ご指摘を受けて、改めて「竹膜」が寛師教学でここまで強調されて、使われていることに改めて驚きを禁じえないところがありました。
かなり前にも記したことですが、「一念三千」というのは釈迦牟尼仏、法華経を説いただけでは闡明にならなかったのであり、結局、天台の出現を見て、世に現れた法門であるというのが“法華宗”としての聖人のお考えなのであろうと思います。つまり、その対比は釈迦の法華経、天台の一念、日蓮の題目という関係です。
ですから、法華経に寿量品が説かれても、その経文だけで読めば、一念三千が沈んでいることはわからないけれど、国土世間まで説かれるのであれば、もう、まさに竹の節目の間にある膜一枚ほどまでぐらいまで、経の文の上からは読めないけれど、迫っている、それほどのことを表すばかりの意味ではないのでしょうか。
32
:
tokumei
:2002/03/05(火) 16:40
>>31
つまり、その対比は釈迦の法華経、天台の一念、日蓮の題目という関係です。
なるほど、ひとによって一念三千が違うのですね。
すると・・・一念三千とは宇宙に存在する真理なのでしょうか?それとも誰かが説いた仮説(教義)なのでしょうか?
本因の教主が存在すると考えなくては理解できないほど現在の科学者は混乱しています。
というのは、科学者は大体がキリスト教徒なのですね。この辺が科学の限界です。理解できないことは神の意志として片づけてしまうのです。もっとも、比喩的に神の意志というわけで、実際に神が居るのか、偶然の産物なのかは判断不能です。
たとえば、宇宙はホットビックバン理論で膨張を続けることがわかっていますが、宇宙が生まれる初期状態を生み出す確率は(100×10000の1)×100分の1(記述しにくい(笑) と言う確率です。つまり、宇宙爆発が起こっても、その宇宙が成長を続けて宇宙になる確率はそれだけすくない、極めて偶然性の高い産物で、ほとんどあり得ない確率です。
本因の教主が法であるか人であるかは存じませんが、私は生まれることが出来て有り難いと思います。
それはそれとして、この膨張の先には、膨張を続けるか縮小に戻るかまだ意見が分かれています。かりに縮小が起こるとして、縮小に反転すると、宇宙から時間概念が無くなってしまいます。これはどう言うことかというと、可逆性と非可逆性という問題で、ビデオテープの逆再生が可能である状態では、起きた事象が過去であるか未来であるかが判別できないのです。
何も知らないでビデオを見た人はどちら向きに回っているかわかりません。これは鶏が先か、卵が先かという問題です。
さて、そうすると本因の教主は過去の人なのか、未来の人なのか、わからないのですよね。これは今現在が久遠であるか末法であるか判別不能であることとよく似ていると思います。
33
:
独歩
:2002/03/05(火) 18:10
tokumeiさん:
> 32
お書きになられるような現代科学と仏教を同列に論じることは、わたしは無意味であると思っています。また、久遠仏は天地創造、全知全能といった類の超越的な存在ではないでしょう。
> …一念三千とは宇宙に存在する真理なのでしょうか?それとも誰かが説いた仮説
このような疑問を立てられる人は、たぶん一念三千の出所であるとされる『摩訶止観』を読んだうえでの一念三千理解ではないのでしょう。
その正体は止観(禅定)における観法なのであって、いわゆる真理であるとかなんとかということとは無縁でしょう。つまり、我が心、就中、仏の己心を三千の法と観るということでしょう。すなわち「説己心中所行法門」です。
また、『摩訶止観』とは関口真大師の言を籍りれば、
摩訶止観10巻は、仏教史上にあらわれた最大かつ最も懇切な座禅の指導書であり、すなわちまた禅の指南書である(岩波文庫9頁)
というのです。
「一念三千は真理」であるとか、宇宙の法則などというのは、そもそも原文を読まずに徒に神秘化した結果であろうと、私は思います。もちろん、tokumeiさんは、疑問形で書かれているので、そう思われていないのだろうと拝察します。
34
:
独歩
:2002/03/05(火) 18:10
tokumeiさん:
書き忘れました。「本因の教主」とはなんでしょうか。
35
:
tokumei
:2002/03/05(火) 18:59
つぶやきに書き込めば良かったのでしょうか。どうやらスレッド違いのようで申し訳ないですが、
>「本因の教主」とはなんでしょうか。
この板と御書に出てくる用語として使いました。独歩さんはきっともっと根元的なことを言われているのだと思いますが
>>31
つまり、その対比は釈迦の法華経、天台の一念、日蓮の題目という関係です。
>>33
その正体は止観(禅定)における観法なのであって、いわゆる真理であるとかなんとかということとは無縁でしょう。つまり、我が心、就中、仏の己心を三千の法と観るということでしょう。すなわち「説己心中所行法門」です。
少し異同があるようにおもうのですが、結論として独歩さんは天台説を採るという事ですか?
36
:
問答迷人
:2002/03/06(水) 07:55
独歩さん
なるほど。竹膜というと、理の一念三千と、事の一念三千との隔たりの事だと刷り込み済みなので、文上の法華経と文底の一念三千との隔たりとは考えも出来ませんでした。確かに、本尊抄の文は、その様に読めば、何の抵抗もなく、ストンと心に落ちてきます。了解です。しかし、日寛上人も、随分と御苦労されて、ひねくり回されたものですね(笑)。
37
:
独歩
:2002/03/06(水) 11:50
tokumeiさん:
> 結論として独歩さんは天台説を採るという事ですか?
まず、このご質問に答える前に、私の書き込みの基本姿勢をもう一度、記します。
私は750年間の間に聖人の教えがいろいろと解釈され、偽書が捏造されて、その祖意がわからなくなっている、だから、まず「聖人の祖意は何であるのか」、この点を闡明にしよう、個々がスタート時点であると書きつづけてきたのです。
その結論から申し上げて、少なくとも聖人と興師の教えに「本因(妙)の教主」という考えはないはずです。それと聖人の説は天台とは何ら矛盾しないと私は考えています。
しかし、聖人は「止観(禅定)ではなく唱題行ではないか」という疑問は生じるかもしれません。この点を本尊抄に
一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み、末代幼稚の頚(くび)に懸(か)けさしめたまふ。
というのは、止観の否定ではなく、さらに簡便な修行法の提示であったと拝しています。つまり、法華経において五種法師、四安楽等の修行、止観に一念三千の観法(実際は不可思議境まで考慮すべきですが)、聖人において唱題といい、つまり外適時宜ということで、それぞれを否定する関係ではないと考えるのです。
ですから、tokumeiさんが「異同」とする点は、私は異同とは感じません。唱題行自体、止観行であり、五種法師その他の修行の意義を含むと思うからです。
ただ、私が記したのは一念三千は真理であるなどということではなく、止観行において、己心に十法界を観、さらに十如、三世間と観る禅定における観(十)法(界)であると記したのです。
38
:
独歩
:2002/03/06(水) 11:51
問答名人さん:
> 日寛上人も、随分と御苦労されて、ひねくり回されたもの…
まったく仰るとおりであると(笑)
39
:
tokumei
:2002/03/07(木) 00:04
>>33
また、『摩訶止観』とは関口真大師の言を籍りれば、
摩訶止観10巻は、仏教史上にあらわれた最大かつ最も懇切な座禅の指導書であり、すなわちまた禅の指南書である(岩波文庫9頁)
と、かようにおっしゃるので独歩さんは禅宗の人かと思いました。
40
:
独歩
:2002/03/07(木) 01:25
tokumeiさん:
> 関口真大師…独歩さんは禅宗の人
そうですか。では、一念三千を引く日蓮聖人は天台宗の人ですか(笑)
41
:
tokumei
:2002/03/07(木) 02:25
>>40
そうですか。では、一念三千を引く日蓮聖人は天台宗の人ですか(笑)
違うでしょう。独歩さんの理論では禅宗でしょう(笑)
43
:
問答迷人
:2002/03/08(金) 22:46
tokumeiさん
独歩さん
禅宗とか、天台宗とか、何か、難しすぎて良く分かりません。まぁ、この辺で、次ぎに進めさせていただきたいと存じます。よろしくお願い致します。
【第八に事理の一念三千を示さば】
問う、文底独一本門を事の一念三千と名づくる意如何。答えて云わく、是れ唯密の義なりと雖も今一言を以って之れを示さん、所謂人法体一の故なり。
人法体一、というのは、普通は無いですよね。法を師として仏に成る事が出来るわけですから、当然、法が勝れ、人が劣る。ところが、ここでは、人法体一であると。それが、事の一念三千であり、文底独一本門であると。寛師が、このように断定すると、何か、それが本当の様に聞こえるから不思議です。
そもそも、釈尊の教えに、人法体一とか、人法一箇なんて教えがあるのでしょうか。
44
:
独歩
:2002/03/09(土) 00:21
問答名人さん:
> 43
まさに、そうですね。人法ではなく、仏法であるはずです。
ただ、人法ということは他宗でも言い、日本仏教に共通した成句ではあるようです。それを使い恒一、体一、一箇とやるところが寛師ですね。
私が、いちばん指摘したいのは、そもそも寛師がいう法とは法ではないという点です。
人法一箇というとき、人とは日蓮、法とは戒壇之本尊(曼荼羅)というのが寛師です。
しかし、文字として板、あるいは紙幅に書き記されたものが法そのものでしょうか。文字即実相と言えばそれまでですが、しかし、文字を直ちに法というのは空・縁起という大乗仏教の指標と真っ向から対立する実在論(有論)でしょう。
天台は破法偏に
因縁生の法は即空即中にして心行の処滅し言語の道断ず(心行処滅・言語道断)
というのであって、そもそも言葉・文字で表わせないのが法です。それなのに、寛師においては法が板曼荼羅という実在化されているとする点で、もはや仏法の法から逸脱しているわけです。もちろん、人を日蓮に配当する、天台勝釈尊劣を焼き直した日蓮勝釈尊劣という日蓮本仏(示同凡夫=人、凡夫本仏論)の過ちは既に指摘してきました。
45
:
問答迷人
:2002/03/09(土) 09:18
独歩さん
ところで、法華経では、妙法蓮華経とは、本門の教主釈尊を指しているのではなかったでしょうか。もし、そうなら、法華経においては、人=本門教主釈尊、法=妙法蓮華経で、人と法は実は一つだ、という事ではないのでしょうか。
46
:
独歩
:2002/03/11(月) 07:20
問答名人さん:
> 人=本門教主釈尊、法=妙法蓮華経で、人と法は実は一つだ、という事…
私は、このように拝さないのです。拝するとすれば、仏=本門教主釈尊、法=妙法蓮華経で、つまり、仏・法であろうかと思うのです。
聖人の真蹟を追えば
寧(なん)ぞ人法を謗じて殃(わざわい)を招かんや(秀句十勝抄)
と見られるのですが、この「人」は仏を意味するもののように思えません。
仏法=人法とみていくのは、やはり、凡夫本仏論などの本覚的な発想なのではないのかと、私は疑っています。
47
:
問答迷人
:2002/03/11(月) 08:36
独歩さん
>仏法=人法とみていくのは、やはり、凡夫本仏論などの本覚的な発想なのではないのか
あっ、気がつきませんでした。仰る意味、判ります。知らず知らずに、「人法」という用語に引きずられて、本覚思想的発想をしてしまっている、というのは実に恐ろしい事だと思いました。やはり、何事も、聞いてみないと判らないものです。Sさんが、カルチャーショックと言われてましたが、いまさらの様に、話し合う事が大切だと思いました。ありがとう御座いました。
48
:
問答迷人
:2002/03/14(木) 08:06
【第九に正像未弘の所以を示さば】
日寛上人は、次ぎの本尊抄の文を引いて、迹門、本門、観心が、それぞれ、三重秘伝の第一権実相対、第二本迹相対、第三種脱相対に該当すると述べています。
『問うて曰く、竜樹・天親等は如何。答へて曰く、此等の聖人は知って之を言はざる仁なり。或は迹門の一分之(これ)を宣べて本門と観心とを云はず』
この本尊抄に聖人が、迹門、本門、観心、とりわけ、『観心』と述べられた事は、何を意図されているとお考えですか、お伺い致します。
49
:
独歩
:2002/03/15(金) 12:20
問答名人さん:
「観心」、難しい問題ですね。本尊抄の題号の読みとも関わりますね。
まあ、「観心の本尊」で「“の”の字が大事」、「観心とは信心」「受持即観心とは、受持即信心」などというのですが、実際は、どう読むべきなのでしょうか。また、本覚思想との関わりからは、どう考えるべきなのか、問題は山積みですね。
本尊抄であれば、
観心とは我が己心を観じて十法界を見る、是を観心と云ふなり
とあるばかりです。となると、この己心に観ずる十法界中、仏界を五百塵点成道・釈尊を観、本門教主と立てるというのが、趣旨ということになるのでしょうか。
いずれにしても寛師が観信を信心と読み替えるのは、なかなかにくいアイディアではあるけれど、聖人が仰るのは、やはり、本尊抄の文面の範囲で考えるべきであると、私は思うのです。
50
:
独歩
:2002/03/15(金) 14:05
49の訂正
誤)寛師が観信を信心と読み替えるのは
正)寛師が観心を信心と読み替えるのは
51
:
問答迷人
:2002/03/16(土) 07:51
独歩さん
聖人が観心について述べられている真蹟御書を三箇所、挙げて見ます。
法華題目抄(文永三年一月六日 平成版御書357頁)
法華経の時迹門の月輪(がつりん)始めて出で給ひし時、菩薩の両眼先にさとり、二乗の眇目次にさとり、凡夫の盲目次に開き、生盲の一闡提も未来に眼の開くべき縁を結ぶ事、是偏に妙の一字の徳なり。迹門十四品の一妙、本門十四品の一妙、合せて二妙。迹門の十妙、本門の十妙、合せて二十妙。迹門の三十妙、本門の三十妙、合せて六十妙。迹門の四十妙、本門の四十妙、観心の四十妙、合せて百二十重の妙なり。
報恩抄(建治二年七月二一日 平成版御書1034頁)
陳(ちん)・隋(ずい)の代に天台大師出世す。此の人の云はく、如来の聖教に大あり小あり顕あり密あり権あり実あり。迦葉・阿難等は一向に小を弘め、馬鳴・竜樹・無著・天親等は権大乗を弘めて実大乗の法華経をば、或は但指をさして義をかくし、或は経の面をのべて始中終をのべず、或は迹門をのべて本門をあらはさず、或は本迹あって観心なしといゐしかば、南三北七の十流が末(すえ)、数千万人時をつくりどっとわらふ。
白米一俵御書(弘安三年 平成版御書1545頁)
たゞし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり。志ざしと申すはなに事ぞと、委細(いさい)にかんがへて候へば、観心(かんじん)の法門なり。観心の法門と申すはなに(何)事ぞとたづ(尋)ね候へば、たゞ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわ(皮)をはぐにて候ぞ。う(飢)へたるよ(世)に、これはな(離)しては、けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候ごれう(御料)を仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。これは薬王のひぢ(臂)をやき、雪山童子の身を鬼にたびて候にもあいをと(劣)らぬ功徳にて候へば、聖人の御ためには事供(じく)やう(養)、凡夫のためには理くやう(供養)、止観の第七の観心の檀はら(婆羅)蜜と申す法門なり。
52
:
問答迷人
:2002/03/16(土) 08:23
つづきです。
法華題目抄の文では、「迹門の四十妙、本門の四十妙、観心の四十妙、合せて百二十重の妙なり。」と述べられ、報恩抄の文では、「天台大師出世す。此の人の云はく、…或は本迹あって観心なしといゐしかば」とそれぞれ述べられ、『迹門』『本門』『観心』を三本柱とされています。さらに、白米一俵御書の文では「観心の法門と申すはなに(何)事ぞとたづ(尋)ね候へば、たゞ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわ(皮)をはぐにて候ぞ。う(飢)へたるよ(世)に、これはな(離)しては、けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候ごれう(御料)を仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。」と述べられています。
これらを綜合的に考えてみると、『観心=聖人の独自法門』という解釈は出来ず、本尊抄の文は、独歩さん仰るように、そのままの意味で「この己心に観ずる十法界中、仏界を五百塵点成道・釈尊を観、本門教主と立てる」と捉えるのが正解であろうと、私もそのように思います。
そうすると、結局、教相は、権迹相対し、本迹相対して、法華経本門を選び出す事によって尽きており、観心とは、その後の、法華経本門の教えを如何に実践するか、という時点で、観心というあり方が問題にされる、という事なのでしょうか。
53
:
顕正居士
:2002/03/16(土) 12:47
日蓮五大部の『觀心』用例
一「本尊抄」
1-問曰。出處既聞之。觀心之心如何。答曰。觀心者觀我己心。
見十法界。是云觀心也。
2-問曰。龍樹天親等如何。答曰。此等聖人知而不言之仁也。
或迹門一分宣之不云本門與觀心。
二「開目抄」
1-止七云。(略)一種禪師。唯有觀心一意。
2-弘七云。(略)一師唯有觀心一意等者。
三「安國論」-無し。
四「報恩抄」-或ハ本迹アツテ觀心ナシトイヒシカハ。
五「撰時抄」-一字一句ニ因縁約教本迹觀心ノ四ノ釋ヲナラヘテ。
これだけです。日蓮聖人の「觀心」は端的に「一念三千」(凡身
に三因仏性を具す)の意義とみえます。但し、流通語として禅観
の意義に用いることがある。
所で奇怪な遺文があって、「立正觀抄」、「立正觀抄送状」です。
54
:
いちりん
:2002/03/16(土) 13:07
「観心」という言い方そのものは、天台あたりからでしょうかね。
「観」という感じでは、「観念」「観法」という言い方もありますが。
「摩迦止観」も「観」ですね。「止」と「観」。
天台の観心の行法は「四種三昧」ということになりましょうか。
55
:
問答迷人
:2002/03/16(土) 13:53
顕正居士さん
なるほど。端的に、法華経迹門、法華経本門、一念三千法門(法華経本門文底)、という意味ですか。私は、やっぱり寛師教学の発想で考えてしまうので、回りくどくなってしまいます。反省。どうもありがとう御座いました。
56
:
独歩
:2002/03/16(土) 15:35
観心の、聖人の受容というのは実にいろいろと考えられると思うのです。
観心というのは、いちりんさんがおっしゃるように観法と置換することも痛痒はないと思います。
原則でいえば、教相と観心でしょうし、また、問答名人さんが引かれた法華経題目抄の百二十重妙(天台と聖人では法数の取りが違う)、本尊抄では四種三段の観心三段…、それにしても白米書は独自の世界を展開されていると感じます。また顕正居士さんが「奇怪」と仰せになられる立正観抄では一心三観論として展開されています(この書を奇怪と仰せになられるのはどのような意味であるのか文面からは計れませんけれども、しかし、私も同様に「?」を付す書です)
注視すべきであると思うのは、寛師が独自の五重相対義の説明のなかで登場する観心はいみじくも五重相対と違う配立を示している点です。問答名人さんが
> 教相は、権迹相対し、本迹相対して、法華経本門を選び出す事によって尽きており、観心とは、その後の、法華経本門の教えを如何に実践するか、という時点で、観心というあり方が問題にされる
と問われるのは至極当然のことで、本迹に次ぎ観心を言うのは四釈であって、つまり、因縁釈・約教釈・本迹迹・観心釈でしょう。ですから、本迹相対の次に相対を立てるのであれば、むしろ本(門)観(心)相対とでもしたほうが、むしろ自然な気が、私はしてきました。まあ、この点は煩雑になりますのでのちに譲ります。
いずれにしても聖人において、観心を代表して述べるのは本尊抄ということになると思うのです。ここで、この題号『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』の“観心本尊”とは、どのような意味となるのかが問題になると思います。同抄に説くところは四種三段なので、その結論をもって文底・観心とするのも至極で、また、観心を十法界を観ること、すなわち一念三千を観ることとするのも至極であろうかと思います。ただ、私は寛師が言う「観心(信心)の本尊)というのは、どうも納得できません。
本尊を論及されるのに己心観心(法)の末、本門教主釈尊をして本尊とする結論に至られるわけですが、ここでいう本尊と観心と関係は、観心の本尊というより、「心で観る本尊」という意味合いが強いように思われます。つまり、観心の本尊というような観心=本尊の関係ではなく、心で観るのは一念三千(法)と本尊(仏)という二立であると思えるわけです。もちろん、詰まる所、法と仏を一体と見なすことは誤りとはいえませんが、はじめから束ねてしまって論ずるべきではないように感じます。文底・観心は通常、四種三段の
又於本門有序正流通…十方三世諸仏微塵経々皆寿量序文也
というのであって、ここに三世間が成就し、事一念三千(法)がなり、その教主(仏)、すなわち本尊も明らかになる、この点を心で観ることを観心本尊というのであろうと思うわけです。また、付言すれば、これはまた、釈迦牟尼の在世(正法)でもなく、天台の時(像法)でもなく、聖人の時、すなわち、末法に始まることを言うのが「如来滅後五五百歳始」であって、末法の機とすることを
末法之始為正機
と述べられるのでしょう。ただし、これは機の辺で論ずる故に、末法が優れているとか、釈迦・天台より日蓮が優れているなどという論点とは違っているはずです。
つまり、聖人における観心法門とは記上の文底・事一念三千であり、その教主を五百塵点成道・本門釈尊とするわけです。
ところが寛師は、ここを本門・一念三千ともに理であるなどといい、事一念三千は南無妙法蓮華経、それも戒壇之本尊、さらに教主・仏を日蓮(自受用身)として人法一箇として、仏と法を取り替えてしまうわけです。まさに聖人の本意は、恰も誉め殺しにされ、天台の説は色を失い、釈尊はおシャカとされてしまうわけです。途方もない牽強付会であると言わざるを得ません。
57
:
無徳
:2002/03/16(土) 23:01
独歩さん今晩は、
>ところが寛師は、ここを本門・一念三千ともに理であるなどといい、事一念三千は
>南無妙法蓮華経、それも戒壇之本尊、さらに教主・仏を日蓮(自受用身)として人
>法一箇として、仏と法を取り替えてしまうわけです。まさに聖人の本意は、恰も誉
>め殺しにされ、天台の説は色を失い、釈尊はおシャカとされてしまうわけです。途
>方もない牽強付会であると言わざるを得ません。
あいや!
何とも強烈な言説に驚くと共に、拠って立つ位置が違うと斯くも受け止め方が違う
ものかと、あらためて人間の認識の位相からくる言語理解の根底にアンビギュイティ
を感じざるをえません。
私は日寛教学に通暁しているわけではありませんが、日蓮本仏や戒壇本尊ならびに
人法一箇(人即法)と言った、いわゆる興門教学に信仰の立脚点を置く身からすると
日寛教学はほとんどストンと胸に落ちるタームに満ちているように思われます。
それはまあ!興門教学なるものが日寛上人によって体系化されたものとすれば当然
と言えば当然なんですが、
>さらに教主・仏を日蓮(自受用身)として人法一箇として、仏と法を取り替えて
>しまうわけです。
とは、如何なる意味なのでしょうか?
58
:
独歩
:2002/03/16(土) 23:45
無徳さん:
こんばんわ。
> 57
驚かれるのは意外です。
まさに記したまま、そのままですよ(笑)
59
:
無徳
:2002/03/17(日) 01:20
独歩さん:
私の知り合いに松本修明と言う方がおられます。おそらく独歩さんもご存じかと思
われますが、(現在御僧侶をされておられますので実名を述べさせていただきました)
この松本修明さんは一仏二名論との立場を採られております。
つまり、一名を五百塵点成道における仏とし、もう一名を南無妙法蓮華経であると
して、日蓮御坊を人本尊として立てずあくまで上行再誕として位置づけているみたい
です
松本修明さんも日寛教学に強烈な批判(ほとんど否定論者といえそうです)を加え
ておられますので、私と会うと何時も激論になります。もっとも、とても私の教学力
では太刀打ちできませんのであくまで信仰論で逆襲します(笑い)。
独歩さんも一仏二名という松本さんの論に近いと考えてよろしいでしょうか?
60
:
独歩
:2002/03/17(日) 09:07
無徳さん:
松本修明という方を、私は存じ上げません。
> 一仏二名論…一名を五百塵点成道における仏とし、もう一名を南無妙法蓮華経…日蓮御坊を人本尊として立てずあくまで上行再誕…
ほお。しかし、私の考えとは違います。私は五百塵点成道の本門釈尊を、聖人は本尊(仏)と立て、南無妙法蓮華経を題目の行として立てたという字句どおりの考えです。
本尊抄の祖意に基づけば、釈尊と無始古仏の二仏論と一仏二名は言えなくもありませんが、この点についても、やや違うであろうというのが、私の見解です。
南無妙法蓮華経を仏、つまり「南無妙法蓮華経如来」という成句をもって言ったのは、たしか霑師でしたか。
私は、南無妙法蓮華経を仏とするのは、法の擬人化ならぬ、擬“仏”化であって、賛同しかねます。法に仏的、あるいは人的ファクターをもたせることには反対です。(その意味で、実は天台も援用する三身説の扱いには極めて慎重です)
ただ、松本師が全体的にどんなお考えなのかわかりませんので、「松本さんの論に近い」かどうかは推し量りかねます。
61
:
顕正居士
:2002/03/19(火) 12:23
立正観抄(法華止観同異決)、同送状
立正観抄と及び同送状は止観勝法華、禅勝止観を批判した書で
最蓮房に宛てたものである。奇怪であるのは、
立正観抄-「一言妙法」(石塔血脈)の説が出る。
同送状-「止観別教分斉」の説が出る。
本ノ大教興レバ観心ノ大教廃ル。日本天台は開祖最澄以来、東寺真言
に対抗するために密教の摂取に努めた。本門思想の時代といえる。
(参考-浅井円道「上古天台本門思想史」・平楽寺書店)
観心ノ大教興レバ本ノ大教廃ル。次に祖師禅最勝の思想が興った。
観心思想の時代といえる。しかし四重興廃の後、室町時代には再び
法華超勝の思想が蘇り、本迹を捨てない観心を唱える。尊舜「法華文句
略大綱私見聞」や偽日興「御義口伝」であり、立正観抄、同送状の教判
は「略大綱私見聞」、「御義口伝」に同じである。すなわち、立正観抄と
同送状に現れた思想は、爾前、迹門、本門を剋実して寿量文底の
一念三千(三法妙)をもとめ、これを題目の実体とする日蓮聖人の思想
と筋道を異にするのみでなく、室町時代に発達した高度の教判である。
また「本迹を捨てない観心」は「本迹を捨てる観心」、止観勝法華や
禅勝止観を換骨奪胎した「本因妙抄」等の思想とは異なるものである。
立正観抄(法華止観同異決)
http://www4.justnet.ne.jp/~bekkann/goso0527.html
立正観抄送状
http://www4.justnet.ne.jp/~bekkann/goso0534.html
62
:
顕正居士
:2002/03/19(火) 12:35
訂正
本ノ大教興レバ観心ノ大教廃ル→本ノ大教興レバ迹ノ大教廃ル
迹門-中国天台
本門-日本天台(台密)
観心-口伝法門
の三時期を経過し、過去を整理したのが四重興廃であるとおもう。
63
:
いちりん
:2002/03/19(火) 14:37
……
「天台己証の法」とは是なり。
当世の学者は、血脈相承を習い失う故に、之を知らざるなり。
故に相構え相構えて、秘す可く秘す可き法門なり。然りと雖も、汝が志神妙なれば其の名を出すなり。
「一言の法」是なり。
伝教大師の「一心三観一言に伝う」と書き給う是なり。
問う、未だ其の「法体」を聞かず如何。
答う、所詮一言とは「妙法」是なり。
(中略)
「天台大師の血脈相承の最要の法」は「妙法の一言」なり。
天台伝教の解釈の如くんば「己心中の秘法」は但「妙法の一言」に限るなり。
然而当世の天台宗の学者は天台の「石塔の血脈」を秘し失う
……
読みやすいように、句読点と「」をつけてみましたが、なるほど、きっかいな書ですね。
「一言の法」それは「妙法」という一言。
天台の「己心中の秘法」はただ「妙法の一言」である。
そして、それは天台が「石塔の血脈」に記されていたのである、と。
しかし、最蓮房宛の書は、ほとんど偽書っぽいですね。
もしや、もともと最蓮房など存在していなくて、本覚法門を日蓮に仮託して語る際に、最蓮房という天台教義に蘊蓄のある人間を仮構すれば、表現しやすかったのでしょうかね。
64
:
顕正居士
:2002/03/24(日) 01:22
最蓮房
が実在したという説をみなさん何かご存知でしょうか。最蓮房宛の遺文
の多数には日蓮聖人の教学とは全然異なる思想が表現されています。
これらに真翰は存在しませんが、最蓮房宛諸書が引用されている上古
の文献は真偽を別にして何かありますでしょうか?
65
:
いちりん
:2002/03/24(日) 01:28
最蓮房って、不思議ですよね。
最蓮房宛の御遺文は、どうなっていますでしょうか。
たとえば、ほとんどが真偽未決か偽書とされているのか。
あるいは、なかでも、真跡があるのでしょうか。
66
:
問答迷人
:2002/03/24(日) 09:22
顕正居士さん
富士宗学要集を検索してみました。キーワードは、最蓮、祈祷、諸法実相抄、十八円満、草木成仏、生死一大事、血脈、当体、立正観、です。問題のある文献も含まれていますが、そのまま列挙します。日精上人以降は省きました。
1350年頃日順上人本因妙口決 御書に云はく本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なりと書す是れなり(二巻80頁)
1380年日眼上人五人所破抄見聞 立正観抄に御判釈ある止観法花の勝劣、(四巻13頁)
1480年日叶上人百五十箇条 最蓮御房御返事に云く、当世の天台宗何より相承して止観は法華に勝ると云うや、(二巻174頁)
1487年日教上人四信五品抄見聞 祈祷抄に云く正像既に過ぎぬれば持戒は市の中の虎の如く(四巻64頁)
1660年日精上人日蓮聖人年譜 祈祷経送状に云く別紙に一巻註して進らせ候、毎日一返闕如無く読誦せらる可く候(五巻131頁)
67
:
いちりん
:2002/03/24(日) 10:55
問答迷人さん
なるほど、室町時代以降の文献から出てきますか。
しかし、「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」あたりは、出てきませんですね。
68
:
問答迷人
:2002/03/24(日) 15:58
変ですねぇ
あれだけ有名な諸法実相抄なのに、様々なキーワードを追加して検索しましたが、日寛上人の文段以降しか、引用例がありません。検索キーワードは【行学、なみだ、大事の法門、日蓮一人、日蓮が一門、妙法蓮華経の当体、日淨、日浄、諸法実相、体の三身、用の三身】を追加しました。
日寛上人の引用を一例、挙げておきます。富士宗学要集第四巻257頁の観心本尊抄文段下に『諸法実相抄に云く「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く『如来秘密神通之力』是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし」等云云。』と引用されています。
69
:
顕正居士
:2002/03/24(日) 15:59
問答迷人さん。検索ありがとうございます。
「本因妙口決」の「御書に云はく」は、当体蓮華の説が出る当体義抄で
ありますね。しかし「本因妙口決」は三位日順の著述ではないでしょう。
問題になるのは「五人所破抄見聞」であって、この著者が妙蓮寺日眼
なら1380年には「立正観抄」が成立していたことになるが、1世紀後の
西山日眼と取り違えて伝承した可能性がある。もし日教(日叶)の引用
が最初なら最蓮房宛諸書の成立は15世紀半ばに想定されるでしょう。
70
:
問答迷人
:2002/03/24(日) 16:36
さらに、生死一大事血脈抄は、何処にも引用されていませんね。キーワードは【臨終只今、自他彼此、水魚、異体同心、臨終正念】を追加して検索してみました。宗学要集には引用箇所なし、です。
71
:
問答迷人
:2002/03/24(日) 16:52
顕正居士さん
>しかし「本因妙口決」は三位日順の著述ではないでしょう。
私も、内容からして、その様に考えています。この文書には、本因妙抄が引用されている事から、日順上人の著述とは考えられない、とされています。
>問題になるのは「五人所破抄見聞」であって
仰る通りだと思います。もし、そうだとしたら、又しても左京阿日教師の御登場ですね。大石寺戒壇大御本尊に付いての記述の初出もこの人でした。二箇相承の写本を大石寺にもたらしたのもこの人です。
72
:
独歩
:2002/03/24(日) 20:44
問答名人さん:
> 66〜
この検索結果はすばらしい成果であると感服します。
なるほど。
73
:
いちりん
:2002/03/24(日) 20:55
ちなみに「三大秘法抄」を検索したら、どのあたりから出現しますでしょうか。
74
:
独歩
:2002/03/24(日) 21:28
問答名人さん:
『五人所破抄見聞』は妙蓮寺眼師ではありませんでしたか。これを教師と言われるのは、なにか特別な意味があるのでしょうか。
75
:
問答迷人
:2002/03/25(月) 08:04
独歩さん
宗学要集の記載によれば、年代が混乱しているのです。
Ⅰ 五人所破抄重須本奥に云く 嘉暦三戊辰年七月草案 日順。(1328年)
Ⅱ 応永廿二●正月廿九日。日代聖人御筆大事の書也可有る重宝也。太夫阿闍梨日円に授与す之を 日任華押(1415年)
Ⅲ 日眼見聞蓮山本の奥に云く。伝写本云 康暦二庚申年六月四日書畢本化末弟日眼在御判(1380年)
Ⅱの記載は西山の第四代日任師によるものであり、その後に妙蓮寺日眼師が注釈すると言うのは不自然である事。さらに日任師の署名が1415年なのに、その後に妙蓮寺日眼師が1380年に注釈すると言うのは、不可能でしょう。この日眼師は西山第八代の日眼師(在位1458年-1486年)と見るのが妥当ではないかと存じます。顕正居士さんのご指摘は、このような内容であるかと考えました。もし、西山第八代の日眼師とすれば、日教(日叶)師の百五十箇条(1480年)が先である可能性があると思ったわけです。
76
:
問答迷人
:2002/03/25(月) 08:47
いちりんさん
ざっと検索してみましたら、やはり、左京阿日教師の「四信五品抄見聞」(1487年)が初出のようです。(それ以前のものとして、日順師の著作と伝えられる、例の本因妙口決にも出ますが、これは、前述の通り、採用できません。)
『太田抄に云く報花経を諸仏出世の大事と説かれて候は此の三大秘法を舎みたる経にて渡らせ玉へば可し秘す々々』(富士宗学要集第四巻65頁)
詳しくは、時間があるときに検索してみます。少し御時間をください。(どなたか、検索して、結果を御報告戴けると有り難いのですが…。)
77
:
いちりん
:2002/03/25(月) 09:16
ふと思ったのですが、そもそも「富士宗学要集」というものは、富士門流の宗学を集めたものでしょうが、それは大石寺関係のものだけですよね。
それで、そもそも「日蓮は菩薩か本仏か」とか「法華の本門と迹門は勝劣があるのか」という論議は、室町時代に京都で盛んになっていたのではないでしょうか。
なにしろ京都は、町衆がほとんど日蓮宗だったようですし、二十一本山があって、たいへんな勢いでした。いわば、最先端の仏教ニュー思想みたいな。(北陸では、真宗がニュー思想で勢いを伸ばす)
だから、日蓮本仏論、種脱相対論、凡夫本仏論みたいな論議は、富士のふもとの田舎で行われるよりも、京都で行われたのではないでしょうか。
だから、大石寺の法主たちの書いたものよりも、要法寺あたりの坊さんのほうが、先進的な理屈を展開していたかもしれなないなあと思うのですが。
最蓮房関連の偽書とか、御義口伝とか、そういうものは、室町時代の京都あたりで盛んに作られたりしませんでしょうか。
78
:
いちりん
:2002/03/25(月) 09:22
板曼荼羅とか、二箇相承書がどうじゃこうじゃというのは、大石寺のお宝ですから、「富士宗学要集」を調べると、いろいろと改竄、偽作のプロセスが見えてくると思いますが、日蓮本覚思想とか日蓮本仏論の発生過程となると、「富士宗学要集」だけでは難しいかなあと感じました。
八品派の日隆さんとか、要法寺あたりの坊さんたちの書いたものとかを、調べなくてはいけなくなりそうな。。
79
:
いちりん
:2002/03/25(月) 09:26
ちょっと室町時代のことを、調べてみますと。
まず、鎌倉末期に、日像によって妙顕寺の「四条門流」がひらかれ、南北朝時代には、本国寺の「六条門流」がひらかれる。
室町時代には、新宗教として、「法華宗」と「真宗」が活発にひろまりまった。
真宗は、蓮如の活躍によって、北陸の農民に広がり、法華宗は日像の力による。日蓮は幼少の日像さんを見抜いて、伝法を託したとも伝えられる。
日像は、後醍醐天皇から布教の勅許を得たり、足利直義から将軍家の祈祷を託されたりして、法華宗が一気にメジャーに踊り出た。
そもそも法華宗は、現世利益っぽいから、京都の町衆にどんどんと広まった。
応仁の乱の前夜には、京都の町衆の大半が法華信仰に帰したともいわれている。
(ちなみに、1536年の「天文法華の乱」では、武装した比叡山の僧兵によって、法華宗の21本山は、すべて灰燼に帰してしまい、以後十年間は、法華宗の布教は許されなかった)
法華宗は、日本の中心地・京都において、もっとも活発でダイナミックな新宗教として広まっていったのだと思います。そのなかで、教義論争が沸騰していった。なにしろ日蓮主義は、教義論争が大好きだから。
80
:
独歩
:2002/03/25(月) 13:16
問答名人さん:
> 75
有り難うございます。顕正居士さんのご説明の妥当性もともに確認できたところであろうと思います。
通常、所破見聞は眼師、聖滅99年の作、それも日蓮本仏論、初出資料といわれるところですが、やはり、この点には疑問が呈されてきました。ご紹介のもう一人の眼師についても、執行師も指摘しておりましたね。
教師となれば、以下に続くいちりんさんの京都の思想勃興との整合性もあり、私も多いに賛同するところです。
81
:
Libra
:2002/03/25(月) 13:29
『五人所破抄見聞』の成立問題については、宮崎英修氏の以下の説も参考になると思い
ます。
「五人所破抄見聞」は妙蓮寺日眼の著作ではない(宮崎英修)
http://www.be.wakwak.com/~libra/102.html
82
:
いちりん
:2002/03/25(月) 13:44
Libraさんのよく整理された資料には、感心します。
なにより、読みやすいし。啓発されて、ありがたいです。
宮崎英修さんの次の文、おもしろかった。
「……大そう丁寧な誡励をいただいたが更に「よく調べ直すがよかろう、もし判らなければ教えてもよい(30)」との御慈教を蒙っている。この某師の論調は全体がこのような責任のない無根拠の小児的主張にのみ始終しているが或は別の記録類をご存知の方でもあるのであろうか。どのような記録か知らないが、これで大石寺の門末を満足させることができると考えられているならばまことに天下泰平、感嘆すると同時に憫笑にたえない。」
あの温厚で好々爺風のような晩年の宮崎先生を思い出しました。
83
:
Libra
:2002/03/25(月) 15:12
いちりんさん:
> Libraさんのよく整理された資料には、感心します。
ありがとうございます。しかし、素晴らしいのは「学説の主張者」であって私ではあり
ません。
──────────────────────────────────────
ある先行する学説に対して、その後に述べられる学説がもつ関係は四つしかない。つ
まり、肯定と批判と無知と無視である。しかし単なる〝肯定〟ならば、同じ学説を繰
返すことに意味はない。せいぜい先行する学説の主張者の業績をうばわない様注意す
べきだ。〝無知〟というのは、先行する学説の存在を知らないことだが、これは致し
方がない。後でそれを知ったとき、自説を修正しなければならない。しかし言うまで
もなく〝無視〟ということが最悪であり、日本の学界に横行している。これを平和的
共存というべきか。
(松本史朗『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、p. 17)
──────────────────────────────────────
私自身は「単なる無知者」です。いや、それも言い過ぎで、<「単なる無知者」である
ことすら難しい>というべきかもしれません。
──────────────────────────────────────
少しでも考えれば、自分の過失を全く知らないために結果的に思い上って見えるだけ
の人はあくまでも単なる無知者であって、決して度し難い「増上慢」の人ではありえ
ないことはすぐ分ると思うからである。単なる無知なら知れば直ちに改めうるが、知
っていても改めようとしない「増上慢」は、知れば知るほど開き直るだけに過ぎない。
従って、「増上慢」とは、今日風に言うなら、いくら言葉や論理によって、その非を
批判されその誤りを知るに至ろうとも、言葉や論理ばかりが全てではないとばかりに
居直りを決め込んで従来の考え方を少しも改めようとしない人のことなのである。
(袴谷憲昭「『法華経』と本覚思想」、『駒沢大学仏教学部論集』第21号、1990年、
pp. 113-114)
──────────────────────────────────────
「無知」をはっきり知ることは難しい(袴谷憲昭)
http://www.be.wakwak.com/~libra/003.html
84
:
独歩
:2002/03/25(月) 17:47
Libraさん:
秀逸な先行業績のご提示、有り難うございました。
襟を正す思いです。
それにしても、所破見聞のことで、四半世紀も前に英修師が、顕師と、それも月刊ペンで争っていたとは知りませんでした。
また、松本師の
その後に述べられる学説がもつ関係は四つ…肯定と批判と無知と無視
とは、まさにそのとおりでしょうし、しかも、これが学説という高尚なレベルばかりではなく、ある特定のグループ、あるいはリーダーの教えを絶対するメンバーの固執・偏執した態度にも当てはまるものであると思ったものです。
さらに袴谷師の「無知」と「増上慢」の説明も実に参考になるものでした。
このような点を押さえながら、なせれる冷静な議論であれば、多いに意義のあるところでしょう。もっとも先行学績を隈なく認知することは困難で、その一端を披露いただくことに、Libraさんへの期待するところが大となります。
85
:
顕正居士
:2002/03/26(火) 08:12
無始古佛
「台宗二百題」の『法華教主』に
「問う。法華の教主は、三身の中には、いづれぞや。答う。報身なり。
もし、報身なりといわば、相多身大、これを報身と名づく。法華の教主は
、四八の相好なり。まさにこれ応身なるべし。〜」
法華教主は顕本しても丈六劣応の姿は変えず、久成の三身は多宝、
分身で表現されます。「生身尊特」の論と云います。ゆえに
「我等己心釋尊五百塵點乃至所顯三身無始古佛也」の意義は
「己心釋尊」=「釋尊五百塵點乃至所顯三身」=「無始古佛」です。
三語は同一の対象を指し、本尊抄で繰り返し出る「教主釈尊」に対応
します。法華教主自身は顕本しても丈六劣応の身のままであるから、
久成三身は観心の対境であります。しかし、
「教主釋尊五百塵點已前佛也。因位又如是」であり、教主釋尊と異なる
古佛がいるのでないが、それは法華教主の姿で直接に表現されないから
「迹に即した本」は観心の対境になる。「本門本尊抄」でなくて「観心
本尊抄」が題である理由とおもう。
参考
台宗二百題(隆文館その他)
金光明經文句記卷第三(下)-大正蔵
http://ccbs.ntu.edu.tw/cgi-bin/webgetfile_.exe?pid=9259&offset=5
86
:
独歩
:2002/03/26(火) 18:38
顕正居士さん:
貴重な資料のアップ、いつも感謝申し上げております。
> …法華の教主は、四八の相好なり。まさにこれ応身なるべし
この「台宗二百題」について、委しく知るところでないのでお尋ねしたいのですが、これはつまり、印度応誕お法華経説法の教主、すなわち、曼荼羅には並座の釈迦牟尼仏と表わされるほうの教主ということでよろしいのでしょうか。
反面、五百塵点成道の釈尊は報身正在で分かつという意味でありましょうか。
不勉強のところ、解説いただければ有り難く存じます。
87
:
顕正居士
:2002/03/26(火) 20:17
「天台宗論議二百題」
はいわゆる中古の邪義を一掃した上で、天台学の難問200題をめぐる
議論を編纂した書で、享保2(1717)年の東叡山版が最初の出版です。
純正日本天台の学習に必携の書で、簡単に入手できるかと思います。
200題の各の名称はKanden師のサイトに在ります。
http://www.biwa.ne.jp/~kanden/data/200dai.html
『法華教主』の議論は質問、解答があり、反論が始まった冒頭です。
法華教主は丈六の生身、華厳教主のごとき尊特身に非ず、応身である
という反論に法智大師の生身尊特、尊特は生身にわたるの論で会通を
して行きます。ですから。
「五百塵点成道の釈尊は報身正在で分かつ」のでなく、わかたない、
丈六の生身ただちに法身と達し、報身と判ずるので、本尊抄においても
釈尊を分けたりしないが、丈六の生身を無始古佛と感見することは
脱益円機の衆生には教相でも、種益円機の衆生には観心である、
ゆえに三大秘法の名目では本門本尊であるのに、この抄を観心本尊抄
と題するのであろうということであります。
88
:
独歩
:2002/03/27(水) 01:54
顕正居士さん:
> 「天台宗論議二百題」
のことでしたか。これは、たしか手許にありました。山から探して再読してみます。
ここに無始古仏に係る内容がございましたか。
有り難うございます。
89
:
いちりん
:2002/03/28(木) 16:18
「三身論」ってよくわからないなあ。。
とくに天台のいう「報身」って、本来の伝統的な「報身」と随分と違いますよね。
三諦論と連動させるために、無理にこじつけたのでしょうか。
しかし、天台においては、この「報身」がポイントなんですよね。
90
:
顕正居士
:2002/03/29(金) 04:58
「法報應三身」
『丁福保佛學辭典』によりますと
http://www.jhoo.com/cgi-bin//dic.cgi?i=2314&kw=
法報應三身&bk=ding
「台家所立の三身也。法報應の名は法華論より之を取る、
是れ開真合應の三身也。開真とは法と自受用・報に及ぶとの二なり。
合應とは應中に他受用と報の勝應とを合する也。
一、法身、中道の理體也、本有の三千也。
二、報身、報とは因行の功紱にして顯佛の實智也。
之を二分すとは、自受内證法樂の身を名づけて自受用報身と為す。
初地已上の菩薩に對して應現する報身を名づけて他受用報身と為す。
此と應中の勝應身とは同體の異名なり。
三、應身、又應化身と曰ふ。
理智不二の妙體自り、衆生を化度せんが為に種種の身を應現する也。
亦之を二に分つ。 初地菩薩に對して應現する者を名づけて勝應身と
為す。即ち上の他受用報身也。
地前凡夫と及び二乘とに應現する者を名づけて劣應身と為す。
釋迦如來の丈六の身是れ也。(以下訓読省略)」
91
:
顕正居士
:2002/03/29(金) 09:04
法報應三身説は法華論に由来し台家所立だが独創説ではなく
嘉祥大師「法華義疏」卷10
http://www.buddhist-canon.com/SUTRA/DCX/DFaHua/T340603b.htm
にあります。両つの三身説はややこしくはなく、開合の異であります。
「然し、また、自受用智は他とは関係なく、全く自内證の法楽を受けるの
智であるから、他受用智とは別であると考へられ得るし、然らざれば、
智の範囲が広過ぎることになる點で、真の報身は自受用智を指し、
他受用智は之を應身となすほうが整斉した説になる。同時に此應身は
地上の菩薩に対するものであるから、特に勝應身とし、一般の應身を、
之に対して劣應身となすべきである。(中略)故に、法應化の三身説を
合真開應、又は合本開迹の三身説と呼び、法報應の三身説を
開真合應、又は開本合迹の三身説と称して区別する。此中では、
前者の方が歴史的に古く現れ、後者は後に発達したもので、此後者で
まさしく、一應、発達の頂点に達したと認められるのである。」
(宇井伯壽「仏教汎論」p.46)
92
:
独歩
:2002/03/29(金) 12:37
顕正居士さん:
非常に明解且つ原意に基づくご説明有り難うございます。
皆さん:
やや蛇足ながら、法華三大部に限り、『天台電子辞典』により「三身」語で検索してみました。単に検索結果を挙げるばかりです。なお、前後行を列する方式のために文を充分に表わしておりませんが、意を汲む便には叶おうかと思います。
********************************************************
法華玄義.TXK(5707):5釋名三法妙,T33'No1716,744a,23
條餘者可領。三道三識三佛性三般若三菩
提三大乘三身三涅槃三寶三徳。諸三法無
量止用十者。擧其大要明始終耳。三道輪
********************************************************
法華玄義.TXK(5711):5釋名三法妙,T33'No1716,744a,27
三識。知三佛性。起三智慧。發三菩提心。行
三大乘。證三身。成三涅槃。是三寶利益一
切。化縁盡入於三徳。住祕密藏云云。一類通
********************************************************
法華玄義.TXK(5810):5釋名三法妙,T33'No1716,745b,6
相似乘。四十一位分眞乘。妙覺究竟乘云云。七
類通三身者。眞性軌即法身。觀照即報身。資
成即應身。若新金光明云。依於法身得有
********************************************************
法華玄義.TXK(5825):5釋名三法妙,T33'No1716,745b,21
報身。微妙淨法身。即法身。具相三十二。即應
身。三軌名異義。即三身。故普賢觀云。佛三種
身從方等生。法界性論云。水銀和眞金能
********************************************************
法華玄義.TXK(5828):5釋名三法妙,T33'No1716,745b,24
塗諸色像。功徳和法身處處應現往。若此
三身不縱不横。妙決了三身入法身妙。歴
七位妙云云。八類通三涅槃者。地人言。但有
********************************************************
法華文句.TXK(1854):2序品1,T34'No1718,21b,28
生。此之分文極有眉眼。覈論宗體殊無趣
向。若歎通教。通教無三身。又非入佛慧。名
不普聞種種義不成。若歎別教。別教初地已
********************************************************
法華文句.TXK(10122):8寶塔品11,T34'No1718,113c,2
如分身皆集。由多寶出故則三佛得顯。由
持經故即具三身。普賢觀云。佛三種身從
方等生即此義也。有人分此品下十一品。是
********************************************************
法華文句.TXK(11503):9壽量品16,T34'No1718,129a,1
P:129a
用耶。可以意得不俟説也。一身即是三
身不一不異。當知一佛身。即具諸身壽命
********************************************************
法華文句.TXK(11521):9壽量品16,T34'No1718,129a,19
也。三阿耨達池出四大河。此譬應身壽命從
法報出同他長短也。此品詮量通明三身。
若從別意正在報身。何以故義便文會。義
********************************************************
法華文句.TXK(11523):9壽量品16,T34'No1718,129a,21
若從別意正在報身。何以故義便文會。義
便者。報身智慧上冥下契。三身宛足故言義
便。文會者。我成佛已來甚大久遠。故能三世
********************************************************
法華文句.TXK(11527):9壽量品16,T34'No1718,129a,25
故能益物故言文會。以此推之正意是論
報身佛功徳也。復次如是三身種種功徳。悉
是本時道場樹下先久成就。名之爲本。中間
********************************************************
法華文句.TXK(11533):9壽量品16,T34'No1718,129b,1
P:129b
場及中間所成三身。皆名爲迹。取本昔道場
所得三身。名之爲本。故與諸經爲異也。
********************************************************
93
:
独歩
:2002/03/29(金) 12:38
―92からつづく―
法華文句.TXK(11534):9壽量品16,T34'No1718,129b,2
場及中間所成三身。皆名爲迹。取本昔道場
所得三身。名之爲本。故與諸經爲異也。
非本無以垂迹。非迹無以顯本。本迹雖
********************************************************
法華文句.TXK(11576):9壽量品16,T34'No1718,129c,14
下。破近顯遠。初又三。一出所迷法。二出能
迷衆。三出迷遠之謂。祕密者。一身即三身
名爲祕。三身即一身名爲密。又昔所不説
********************************************************
法華文句.TXK(11577):9壽量品16,T34'No1718,129c,15
迷衆。三出迷遠之謂。祕密者。一身即三身
名爲祕。三身即一身名爲密。又昔所不説
名爲祕。唯佛自知名爲密。神通之力者。三身
********************************************************
法華文句.TXK(11578):9壽量品16,T34'No1718,129c,16
名爲祕。三身即一身名爲密。又昔所不説
名爲祕。唯佛自知名爲密。神通之力者。三身
之用也。神是天然不動之理。即法性身也。通
********************************************************
法華文句.TXK(11581):9壽量品16,T34'No1718,129c,19
是無壅不思議慧。即報身也。力是幹用自在。
即應身也。佛於三世等有三身。於諸教中
祕之不傳。故一切世間天人修羅。謂今佛始
********************************************************
法華文句.TXK(11583):9壽量品16,T34'No1718,129c,21
祕之不傳。故一切世間天人修羅。謂今佛始
於道樹得此三身。故執近以疑遠。此本説
中不復言及二乘但對菩薩。菩薩攝在天
********************************************************
法華文句.TXK(11663):9壽量品16,T34'No1718,130c,11
今之望分身。亦如華嚴十號中所列釋迦異
名若干不同。又諸經所辯。佛有三身名字
不同。所召法體皆異。或説毘那或舍那或
********************************************************
法華文句.TXK(11672):9壽量品16,T34'No1718,130c,20
知。就法報應佛壽命大小。如玄義云云。或
三身相望辯大小。或三身各別皆爲小。合説
名爲大。例三點云云。此皆隨所應度。爲其
********************************************************
法華文句.TXK(11881):9壽量品16,T34'No1718,133a,19
明文在茲何須迴捩疑誤後生耶。然今非
實下。第二迹中唱滅。三身並有非滅唱滅
義。如淨名云。法本不生今則無滅。即是法
********************************************************
法華文句.TXK(11944):9壽量品16,T34'No1718,133c,22
釋難値。三佛並難値。衆生樂著小法見
思障重。聞三身不滅則不修道。難得契
會也。所以下釋也。諸薄徳人過百千劫。或
********************************************************
法華文句.TXK(11948):9壽量品16,T34'No1718,133c,26
惡。不爲其人唱滅。是人見佛常在靈山
也。或不見佛。其人障重善輕。爲説三身難
會。衆生聞之便作是念。三佛雖復非生非
********************************************************
法華文句.TXK(13055):10觀音品25,T34'No1718,146a,25
例如此。結名不煩文。別答爲三。一口機應
二意機應三身機應。口又二。初明七難次
結。火難爲四。一持名是善。二遭火是惡。三
********************************************************
法華文句.TXK(13075):10觀音品25,T34'No1718,146b,15
勸供養。應以者。答方便力也。現身答其問
遊也。説法答其問口也。凡有三十三身十
九説法云云。從成就下。結別開總。別文廣
********************************************************
94
:
独歩
:2002/03/29(金) 12:38
―93からつづく―
********************************************************
摩訶止觀.TXK(1800):2歸大處5,T46'No1911,20c,19
若。實相之身非色像身非法門身。是故非
身非非身。所作辧已歸於法身。達此三身
無一異相是名爲歸。説此三身無一異相。
********************************************************
摩訶止觀.TXK(1801):2歸大處5,T46'No1911,20c,20
身非非身。所作辧已歸於法身。達此三身
無一異相是名爲歸。説此三身無一異相。
是名爲旨。倶入祕藏故名旨歸。若謂般若
********************************************************
摩訶止觀.TXK(3705):4方便章6,T46'No1911,42a,5
也。蔽三諦上醜遮三諦上見愛寒熱。却三
覺蚊虻莊嚴三身。故以三觀爲衣。即是伏
忍柔順忍無生寂滅忍也。又起見名寒起愛
********************************************************
摩訶止觀.TXK(3711):4方便章6,T46'No1911,42a,11
例可解。百一長衣者。即是一切行行助道之
法。助成三觀。共蔽諸惑嚴於三身。此是歴
諸法修忍爲衣也。食者三處論食。可以資
********************************************************
摩訶止觀.TXK(10288):8業相境4,T46'No1911,114c,21
圓極。故名無上。即是報身。垂形九道普門
示現。故名自在。即是應身。如是三身即是
大乘高廣直至道場。餘如上説云云。
********************************************************
以上です。
95
:
独歩
:2002/03/29(金) 13:17
―94につづく―
なお、私は“三身”の説明としては岩本裕師が『正しい教えの白蓮』に書くところが、もっとも納得のいく説明であると考えています。その意味で、天台学で展開されるところが直ちに是であるというものではありません。
「余は最近にさとりに到達した」と説くのも、すぺて仏の方便であるという。また、「如来が入滅した」と説くのも、「如来がこの世に現われるのは希有である」ことを知らせるための方便であるという。したがって、ブッダは入滅したのではなく、永遠に教えを説きつづける存在であり、ブッダの寿命は無量であると説かれる。
そののち、数百年が経つあいだに、このように永遠に教えを説く仏の姿が信仰的に次第に固定化し、この仏は特定の言葉で表現されるようになる。すなわち、仏は永遠に教えを説く存在として、仏教徒の心の中に生きている神的な存在、言い換えるならば人間的な存在を超越した存在となったのであって、このような仏を応身仏というのである。応身とは梵語ニルマーナ=力−ヤ nirmanakaya の訳で、「不可思議な創造(ニルマーナ)により出現した身(カーヤ)」の意であるが、永遠に教えを説く存在として特定の姿をしているわけではなく、教えを受ける者の信仰に関する先天的能力に応じて現われると考えられ、応身と訳された。各経典の冒頭に出てくる「如是我聞、一時仏在」といったときの「仏」は、表面的には歴史上のブッダが類推されているが、実は応身仏としての仏である。
ところが、この応身仏に象徴化されている歴史上のブッダの肉身が滅び去り、この世に存在しないことは、まぎれもない事実である。仏教徒は応身仏に歴史上のブッダの経歴なり生活環境なり、あるいはその人格などを反映させて、応身仏を修飾し、その具体化をはかったが、なおそのブッダの姿を彷彿たらしめることはできなかった。そこで、ヒンドウ教のアヴァターラ(権化)思想にならって、応身仏の化身を出現させた。これが報身仏である。報身は梵語サンボーガ=力−ヤ sambhogakaya の訳で、元来は「果報を享受する身」の意で、求法者として長いあいだ修行に精進して、その果報として仏国土を主宰し、その楽しみを享受する仏であることを意味する。阿弥陀如来・薬師如来はもともと報身仏であり、大目如来もその成立においては実は報身仏であったが、後期の成立であるだけに、その原初的性格は不明瞭であることも杏めない。
こうして、応身仏が成立し、報身仏が展開したが、ここにそれらの仏をして仏たらしめる絶対者が当然存在しなければならない。この原理としての「仏」を法身仏という。
応身・報身・法身の三身説を含めて仏身に関しての仏典の記載は錯雑を極める。上述したところは応身・報身・法身の三身説に関して最も簡明に整理して説明した発生的な見方である。ところが、この三身説についても、『妙法華』を所依の経典とする天台宗では、別の解釈をする。すなわち、『妙法華』の所説により、伽耶城で成道し、拘戸那掲羅城で八十歳で入滅した釈尊を応身とし、報身の釈尊をその実体とし、報身は久遠の往古に成仏し、未来永劫にわたって常に霊山の浄土に住すると説き、これを久遠実成の釈尊とする。しかも、この久遠実成の釈尊は法身・報身・応身の三身相即で、「菩薩」としての修行によって仏となったのではなく本来自然に元から仏であるとする。日蓮はさらにその意義を強調しているのであって、彼のいう「釈迦仏」とは実にこの久遠実成の釈尊である。この久遠に対する日蓮の渇仰は熱烈であり切実であるが、この信仰形態を前述の三身説に照らして分析してみると、これらの三身のその成立の根源である歴史上のブッダとが完全に一体化されて、法身仏としてのブッダということになっていることが知られる。発生的に考察するならば、歴史上のブッダの象徴が応身仏であり、その権化が報身仏であることから、歴史上のブッダが応身仏・報身仏をして仏たらしめる最高原理としての法身仏と同一視され、逐に一体化されたと考えられる。しかも、このような仏教者の心象は、歴史上のブッダをさえ「仏」たらしめる元初仏をを生み出すに至った。その端的な例がわが国の真言宗の本尊である大日如来に見られる。すなわち、大日如来はその成立においては明らかに報身仏であるが、教学においては本地法身仏とされ、原初仏の性格を持つに至った」(上368頁)
ただし、岩本師の、ここでいう聖人に対する分析については、果たして真偽分析、また、滅後の派祖教学展開とを明瞭に分析した結果から述べるところであるかは、やや疑問が残るところです。
96
:
Libra
:2002/03/29(金) 15:48
三身説については、以下の資料も参考になると思います。
智ギ(〔豈+頁〕)の三身論と『起信論』の本覚思想(花野充道)
http://www.be.wakwak.com/~libra/096.html
日蓮聖人は報身仏を中心に据えている(浅井円道)
http://www.be.wakwak.com/~libra/106.html
97
:
独歩
:2002/03/29(金) 16:09
Libraさん:
待っていました(笑)
いま『法華論疏』を読み直していて、宝塔並座と三身の部分で、Libraさんの曼荼羅観を擦り合わせていました。Libraさんの言うところは伝統的な解釈と矛盾しないと思えました。
上述のことは、ちょっと置いて、引用される充道師は起信論の真偽について論じられない野は憾みを感じますが、それも置いて「法(法身)が絶対(常住・遍満)であるが故に、その法を証得した仏(報身)もまた絶対である」という点は、やや難を感じます。そもそも「絶対」ということを天台が言っているとする点は頷けません。
なお円道師の田村師の法身に対して、『法華文句』寿量品釈の「報身正在」を説くのは尤もなのでしょう。私はこの点を本尊の選定面から読むのですが、これは違うのでしょうか。
元来、三身は「祕密者。一身即三身名爲祕。三身即一身名爲密」と釈されるのであって、すると、「法身か、報身」という問いは人の「身(カーヤ)」の優性を論ずるような誤解を招くと思います。聖人の真蹟中に三即一を見出せない理由は、この辺りにあると言えば、やや言い過ぎかもしれませんが。
98
:
顕正居士
:2002/03/29(金) 17:49
独歩さん。お調べの三大部「三身」出現数と比較すると
「註法華経」の「三身」出現数はたいへん多く、六大部の「三身」が出る
重要箇所をほとんど記入してあるのかも知れません。日蓮聖人の主要
な関心が「本地三身」と「迹中三身」にあったと断定できるでしょう。
ゆえに岩本裕氏の三身概説はもっともですが、「本来自然に元から仏」
はどうでしょう。「我本行菩薩道」、本因妙の存在も天台家の説であり、
「総勘文抄」みたいの純理佛は日蓮が否定するところとおもいます。
「註法華経」はEISAI師のサイトに電子版があります。
http://www.kosaiji.org/download/hokke/index.htm
99
:
Libra
:2002/03/29(金) 18:45
独歩さん:
> いま『法華論疏』を読み直していて、宝塔並座と三身の部分で、Libraさんの曼荼羅観を
> 擦り合わせていました。Libraさんの言うところは伝統的な解釈と矛盾しないと思えまし
> た。
またいろいろ教えて頂ければ幸いです。しかし、その前に、
犀角独歩さんとの対話
http://www.be.wakwak.com/~libra/z021.html
の続きを早くアップした方がいいかもしれませんね。
> 引用される充道師は起信論の真偽について論じられない野は憾みを感じますが、それも
> 置いて「法(法身)が絶対(常住・遍満)であるが故に、その法を証得した仏(報身も
> また絶対である」という点は、やや難を感じます。そもそも「絶対」ということを天台
> が言っているとする点は頷けません。
<実相にまで到達しえた智慧であるが故に、その智慧はそれだけの「常住性と普遍性」
を持つ>ということを天台は言っているのだろうと思います。しかし、逆に、「実相の理」
を「法身」たらしめるのは「修得の智」であるとも思います。
──────────────────────────────────────
「真理」には口がありませんから、いくら「無始」であっても、そのままでは衆生
を救済する力を持ちません。
私は、
〝真理は「無始無終」であるが、ただ真理があるだけでは「仏」はまだ存在しな
い。「真理」を「智慧」としてさとって、衆生を導く存在が出現した時に「仏」
はこの世に誕生するのである〟
と考えています。つまり、「真理」が「法身如来」になったのは、それを「智慧」と
してさとって、衆生を導く存在である「仏」が出現した時点であると。
(229 名前: Libra 投稿日: 2002/02/14(木) 19:02、
旧・富士門流信徒の掲示板、スレッド「六巻抄について」、
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/rokkansyo.htm
)
──────────────────────────────────────
浅井前掲論文で「釈迦の成道によつて始めて存在の常住性・無限性が成立するところに、
天台教学の本来がある」と言われているのも、そういうことではないかと私は思っていま
す。
100
:
Libra
:2002/03/29(金) 18:46
―99からつづく―
> なお円道師の田村師の法身に対して、『法華文句』寿量品釈の「報身正在」を説くのは
> 尤もなのでしょう。私はこの点を本尊の選定面から読むのですが、これは違うのでしょ
> うか。
ここは、<「教主釈尊」と「無始古仏」の差異>の問題とも関係するところかもしれま
せんね。
──────────────────────────────────────
独歩さんが仰るように、宗祖は言葉を厳密に使われる傾向が強いと思いますので、
「無始古仏」と「教主釈尊」は意識的に区別して用いられているのかもしれません。
その場合、問題は、それらの間の「差異」ということになりますが、法身(〝無始〟
無終)までも視野に入れた三身全体を「無始古仏」と呼ばれ、特に智慧の側面である
報身(〝有始〟無終)に着目する時に「教主釈尊」と呼ばれている、という考えは成
り立たないでしょうか。つまり、一尊四士の「一尊」は「無始古仏」で、曼荼羅の
「妙法蓮華経」は「教主釈尊」である、というふうには考えられないでしょうか。
拙文「本尊論メモ」、〔01.12.10付記〕
http://www.be.wakwak.com/~libra/z013.htm
#fuki011210
(「犀角独歩さんとの対話」、
http://www.be.wakwak.com/~libra/z021.html
)
──────────────────────────────────────
「本尊の選定」についてですが、浅井円道氏は、創価学会で説かれている「宇宙生命論」
について、
──────────────────────────────────────
また宇宙の大生命とは「宇宙自体がすでに生命そのものであって」太陽も地球も星く
ずもアミーバも大生命体の部分的発現に他ならぬという。非常に荘大華麗な構想であ
り、人を天文学的夢幻境に誘うに充分であるが、これは法界を身体となす毘盧遮那法
身仏思想の通俗化である。
(浅井円道「創価学会の出現と問題点」、望月歓厚編『近代日本の法華仏教』〔法華
経研究Ⅱ〕、平楽寺書店、1968年、p. 173)
──────────────────────────────────────
と言われています。確かに、このような「密教的法身を中心とする」仏身論によって、現
在の創価学会のような密教的本尊観が成立しているのだろうと思います。
勤行─大宇宙と自身の生命交流の儀式(「やさしい教学」『聖教新聞』)
http://www.be.wakwak.com/~libra/063.htm
大宇宙即御本尊(戸田城聖・池田大作)
http://www.be.wakwak.com/~libra/064.htm
101
:
独歩
:2002/03/29(金) 20:14
顕正居士さん:
註法華経との関連でのご指摘、まことに有り難うございます。
また、参考になるサイトのご紹介をいただきました点も、深く御礼申し上げます。
拝読し、比較対照しながら、考えてみます。
> ゆえに岩本裕氏の三身概説はもっともですが、「本来自然に元から仏」
はどうでしょう。「我本行菩薩道」、本因妙の存在も天台家の説であり、
「総勘文抄」みたいの純理佛は日蓮が否定するところとおもいます。
なるほど。参考に資させていただき、顕正居士さんの思索の跡追いをさせていただきます。 蹲踞
102
:
独歩
:2002/03/29(金) 20:39
Libraさん:
引用くださったジャンプには「密教の本尊観」としてさらに、そのジャンプがつながれており、こちらもなかなか興味深いのですが、こちらは追って読ませていただきます。
ここのところ、ずっと考えてきたは「法」ということ、この捉え方は重要なのだという点です。
私は無徳さんのレスで「法身」には懐疑的で、かつ三身説には慎重であると申し上げたのですが、これもこの捉え方と大きく関連します。
少し前、十二因縁ということが問題になったわけですが、まあ、これが釈尊の真説ではない点はそれとして、四諦、八正道などといわれる点と、たとえば、Libraさんが100に参照する池田さんや、戸田さんがいう法に対する理解は根底的な相違があると思うわけです。つまり、シャキャムニが法というとき、それは修行者が「いかに考えるべきか、いかに行ずるべきか」という範囲に留まっていると私は拝察します。
反面、ブラフミニズム化、あるいはタントリズム化から言われる法は「宇宙真理」であるとか、「生命の実相」であるなどという法則性のような色合いを濃くし、さらにその法則の所有者が想定され、ついには一体感を言われることになっている点が窺われます。
これはたとえば曼荼羅、本尊、一念三千などというときも同様で、私は常に前者の視点で捉えるべき点を強調してきたわけですが、およそ石山周辺では大なり小なり池田さん・戸田さんのごとき発想を帯びていると思うわけです。
池田さん的な言い方を奪って言えば、たとえば「万有引力とニュートン、相対性理論とアインシュタインは人法一箇なのか」と仮定は立てられるわけですが、そもそもこんなことを言うのはナンセンスでしょう。ところが宇宙根本法則(生命)と覚った人は一体であるというのは違和感を懐けない点に問題があります。
この点は、Libraさんが「一尊四士の「一尊」は「無始古仏」で、曼荼羅の「妙法蓮華経」は「教主釈尊」である」ということと、私はどうしてもダブるわけですよ。ただ、Libraさんのこの試案は概ね伝統解釈からすれば、そうなるであろうとも思います。けれど、私は曼荼羅は戒定慧から捌くとしたことは既に申し上げたとおりです。
本覚論などで展開する仏・法はニュートン、アインシュタインと同列に論じられないのは当然ですが、そんな過ちを、どうも仏教解釈で冒していることはないのか、富士門周辺を概観して私は思うわけです。
ところがこの点は、真言教説の勃興をはたで睨むなかで法身説は応・報に匹敵する、さらには中心的な重要性を帯びるようになる、この点を率直に指摘するのが田村師のような気がします。ですから、円道師と報身説と、田村師の法身説は、そもそも視点が違っていると私は思い、両論ともいうことはわかるわけです。
ただ、天台の土壌で考えるとき、法は法であって、それを何ゆえ、身(カーヤ)としてしまう必要が、どこにあるのかという点に以前、疑問が残ります。いつも私がいう擬人化ならぬ、擬“仏”化という逆行であると思えるわけです。
ですから、充道師についてLibraさんは説明を加えてくださいましたが、法を覚る側も「絶対」などという点は頷けません。ただ、三身説がそのような結論を支持していることは了解しているつもりです。なにか法は限りなく擬仏化され、反面、仏は限りなく擬法化され、ついには相即と論じられることになる、そんな推移を感じるわけです。
実は、寛師の考証を終え、聖人の祖意を案じたあと、天台学におけるこられの点も考えようという企ては懐いているのですが、なにせ、まずは六巻抄(笑)をやり終えた気持ちがあります。しかし、皆さんのレスがあまりに魅惑的なので、つい私も脱線してしまいます。しかし、ここのところは三身については、すこしの論じ合うことは有効であろうと思った次第です。
103
:
独歩
:2002/03/29(金) 20:41
いちりんさん:
ここのところ、長々と引用ばかりしてすみません。けれど、102に記したごとく、89にいちりんさんがおっしゃるように実は私もかんがえていると言うのが、現時の想いなのです(笑)
104
:
独歩
:2002/03/30(土) 13:58
顕正居士さん:
さっそく、註法華経の“三身”の該当箇所を拾って見ました。
仰るとおり、その引用の多さには驚かされます。また、真蹟遺文中に見出せない“三身即一身”も見出され、実に興味を引きました。
また、仰せのとおり、「日蓮聖人の主要な関心が「本地三身」と「迹中三身」にあった」というご指摘は頷けるところでした。有り難うございます。
以下、私は慮ったのは(多分、この点はLibraさんの主要興味の点でもあろうかと思いますが)釈迦と大日、あるいは釈迦と阿弥陀の三身に係る関係を、聖人はどのように決せられておいでであったのかという点です。もし、お考えをお聞かせいただければ有り難く存じます。
○山家顕戒論云。稽首十方寂光・常住内証三身仏
○輔之六云。弥陀・釈迦二仏既殊者。問。既云。十方諸如来。同共一法身。一身一智慧。力・無畏亦然。今何故云二仏異耶。答。拠彼々三身体遍。実不可分別。体等悉同。
○弘八云。問。但聞三身従法身起。不聞余三従化身起。及以法・報従応身起。答。従勝起劣即是施権。従劣起勝即是開権。跨節明義不可思議。無非法界。故得相起・相入無妨。其相云何。如化応自説吾今此身即是法身。況不是報。能起既然。相入例此。○論云是三一相。是故義同。雖一而三。故復別説。
○一者約身。言仏性者応具三身。不可独云有応身性。若具三身。法身許遍何隔無情。二者従体。三身相即無【斬/足】離時<三身相即無暫離時>。既許法身遍一切処。報・応未嘗離法身。況法身処二身常住。故知三身遍於諸法。何独法身。法身若遍尚具三身。何独法身。
○記九云。然諸教中豈無三身。但為兼帯及未明遠。是故此経永異諸教。若不爾者。請験諸経。何経明仏久遠之本同此経耶。
○文句九云。仏於三世等有三身。於諸教中之不伝。故一切世間天・人・修羅。謂今仏始於道場得此三身<謂今仏始於道樹得此三身>。
○記九云。初釈約三身法体。法爾相即。次釈約今昔相望。以今法体望昔故也。亦可前釈通諸味。後釈斥他経。
又云。広約諸教・諸味簡已<広約諸味簡已>。更約今昔簡之。方顕本地三身神通。[文]
記十云。故須雙述今昔二門。
輔云。疏一身即三身者。即一身即三身。法華之前未曾説。故名秘<故名為秘>。三身即一身。以本証得所不知<以本証得衆所不知>。故名為密具<故名為密也>。疏三身之用者。以本地三身為体。迹門三身是用也。
又云。疏於諸教中者。諸教通前四味也。更約今昔簡者。昔謂本地三身。今即迹中三身也<今則迹中三身也>。及以漸教<及以漸教者>。方等・般若也。今明本地三身<今正明本地三身>。故不得用此三釈漸教中三身也。
○不空羂索神変真言経第二十八云。一切如来三身一体。皆等毘盧遮那法身相好<皆等毘盧遮那仏身相好>。
○宝法師云。正法千五百才也<正法千五百歳也>。
記十云。経云五百歳者。…答。既云如説修行。即依経立行。具如分別功徳品中。直観此土四土具足。故此仏身即三身也。
○或人。空海法華大日経十異不同云<空海法華大日経十不同云>。一者。法華経是釈迦説。雖云三身即一。於応身上詮法報也。胎蔵界是法身説。雖云三部一体。若論其実唯是法身也。所説主上詮言<法身所説主上綸言>。応身所説臣下伝宣。二者法華経是同居土説。雖四土云不寂光土也<雖四土不二初後穢土也>。譬如紫辰龍尾雲泥懸也<譬如紫宸龍尾雲泥懸也>。三者。法華会中凡聖相伴。胎蔵席座唯是菩薩<胎蔵座席唯是菩薩>。凡夫相雑猶如閭巷。純有菩薩蓬莱仙宮。四者。法華経是二乗説。臣私書也<民官符>。牛車。法華経座中上慢退座。胎蔵界唯有真実。譬如民間柔屋応掃粮<譬如民間草屋応掃糠>。中殿上唯有錦繍<禁中殿上唯有錦繍>。六者。法華中二乗生疑。胎蔵界令衆印信<胎蔵界令衆信仰>。七者。多宝如来非是釈迦。胎蔵界中大日即釈迦。八者。法華<法華分身之外有化仏胎蔵界意者三部之外無有余仏>。
○真言義決云。南天竺有鉄塔。中有大経本。無畏三蔵。七日経塔念誦呪<七日遶塔念誦呪>。曰白芥子七粒打開塔門<以白芥子七粒打開塔門>。乃至還如故也。
{9-099}法華観心陀羅尼云。曩謨・三曼陀[普仏陀]〓〓[三身如来]
105
:
独歩
:2002/03/30(土) 14:03
104の訂正
誤)○真言義決云。南天竺有鉄塔。中有大経本。無畏三蔵。七日経塔念誦呪<七日遶塔念誦呪>。曰白芥子七粒打開塔門<以白芥子七粒打開塔門>。乃至還如故也。
{9-099}法華観心陀羅尼云。曩謨・三曼陀[普仏陀]〓〓[三身如来]
正)○真言義決云。南天竺有鉄塔。中有大経本。無畏三蔵。七日経塔念誦呪<七日遶塔念誦呪>。曰白芥子七粒打開塔門<以白芥子七粒打開塔門>。乃至還如故也。
法華観心陀羅尼云。曩謨・三曼陀[普仏陀]〓〓[三身如来]
106
:
独歩
:2002/03/30(土) 14:11
《注》
104の文中にある【斬/足】などは、ワープロ所蔵文字にないものを記号化したものです。この本則は顕正居士さんのサイトからもリンクされている以下のページにあります。実に便利な表記であると思います。
中華電子仏典協会・一般組字式基本規則
http://ccbs.ntu.edu.tw/cbeta/version/loseword-version.htm
107
:
いちりん
:2002/03/30(土) 16:46
独歩さん
岩本さんの引用ありがとうございました。
こちらはわかりやすいですね。
まあ、しかし、いろいろと仏教談義は、漢字熟語が多くて難しいことでありますね。
108
:
独歩
:2002/03/30(土) 17:35
いちりんさん:
> 仏教談義は、漢字熟語が多くて難しいことでありますね
まったく仰るとおりで、引用しながら、いつもいちりんさんのお顔ならぬ、お気持ちを気にしてしまいます。(お顔はこの次のオフ会で拝見すれば、その後は心に浮かぶところとなります(笑))
しかし、いつも感心するのは、こういった難しいことを引用しない人の話は、恐ろしく稚拙な解説書を超えることがないのに、いちりんさんの書き込みは文章こそ、平易であれ、十分にそれらの意を汲んでいるという事実です。敬服いたしております。
109
:
いちりん
:2002/03/30(土) 17:43
「応身」と「報身」というのを考えてみました。
「応身」というのは「応化身」ですよね。
「人々の求めに応じて出現する仏」という意味でしょうか。
「報身」というのは「果報身」ですね。
「しっかり修行して達成した仏」という感じでしょうか。
これは違う仏ではなくて、違う角度から観た場合の仏の分類のように思います。
お釈迦さまが、インドらあらわれたのは、人々に求めに応じてあらわれたのである。それは、「応身」ですよね。
そして、お釈迦さまの過去世の修行をみていくと、さまざまな修行を積んでその成果として仏になることができた。それが、「報身」という見方。
よく阿弥陀如来を「報身」と位置づけますが、それは法蔵菩薩が修行をして達成した仏というところからみたことですね。ところが、阿弥陀如来は衆生の求めに応じてあらわれたという見方をすれば、それは「応身」と。
卑近な例で言うと、小泉総理がいますよね。
この方は、まあ大衆の求めに応じてあらわれた総理という見方もできる。
これは、「応身」という見方でしょうか。
インターネットにしても、大衆の求めに応じてあらわれたツールという見方がありますよね。大衆が求めなければ、ものごとはあらわれないというとらえ方があると思います。
そして、あらわれる時には、大衆の求めに即したカタチであらわれる。まあ、自分の都合というよりも、大衆の都合が主体ともいえましょうか。
政治家になって、頑張って総理になったという見方があります。それは、小泉さんの努力とか才能とかそういうことで、総理になった。それは、果報としての総理ですよね。それが、「報身」的な見方。
……などと、考えてみました。
110
:
いちりん
:2002/03/30(土) 17:44
でまあ「自受用報身如来」などといいますよね。
それは、字義通りみていくと、「自分で修行して、自分で仏を達成した」と読めるかなあと思ったりします。
第一番成道の仏というのは、まず自分がいて、自分が自分を原因として修行して、自分が結果として仏を得る、と。それが、「自受用報身如来」と。
まあ、「自作自演仏」とでもいいましょうか。
演ずるのも自分、脚本も自分、観衆も自分、舞台も自分。なにからなにまで、すべてが自分であると。
それが、原初仏、アーディブッダ、第一番成道の仏、自受用報身如来。
111
:
独歩
:2002/03/31(日) 20:25
○「自受用」で検索すると
【天台】
摩訶止観 0
法華文句 0
法華玄義 0
【釈三大】
止観弘決 1
文句記_ 3
玄義釋籤 1
【その他】
五百問論 9
戒疏明曠 9
【日蓮】
真蹟__ 0
註法華経 0
真偽未決 43
という結果になります。妙楽釈上で、当然、見られる語彙ですが、聖人は真蹟中で、その使用が見られません。
興味深いのは伝統的な台学81資料中、「自受用報身如来」は一箇所も使用がなく、真蹟にもなく、真偽未決でも百六箇抄に1、本因妙抄に1、産湯相承に1の使用を見るばかりです。
112
:
問答迷人
:2002/04/02(火) 09:57
独歩さん
注法華経にも見られないということは、「自受用」語句が用いられている御書は、逆に偽書の疑いが濃厚、という事になりそうですね。以下、並べてみますと、やはり、偽書の疑いが濃厚とされてきた御書が殆どですね。
真言天台勝劣事(文永七年),四条金吾殿御返事(建治二年六月)、日女御前御返事(弘安二年八月)、十八円満抄、本因妙抄、百六箇抄、上行所伝三大秘法口決、産湯相承事、御義口伝、御講聞書
113
:
独歩
:2002/04/02(火) 11:51
問答名人さん:
>「自受用」語句が用いられている御書は、逆に偽書の疑いが濃厚、という事になりそうですね。
そうですね、やはり。妙楽の釈には出典が確認できるわけですから、聖人が知らなかったわけはないと思うのです。ところが註法華経にすら、書きこまれなかったのは、いったい何を意味するのでしょうか。
いずれにしても、「自受用報身如来」はまったく問題外ということになりますでしょうね。
しかし、偽書の疑い濃厚という御書を並べると日蓮本仏義では錚々たるものばかり、溜息を禁じ得ません。
114
:
独歩
:2002/04/06(土) 08:30
112までに、自受用について考えたのですが、富士門では…というより中古天台口伝では、この語は自受用報身如来として成句するわけです。
『一帖抄』(惠心流内證相承法門集)には
自受用報身如來。以顯本爲正意也。…山家大師釋云。一念三千即自受用身。自受用身者出尊形佛文以此道理以報身爲正意習也
とまったく富士義のように扱われる文章がそのまま現れています。
仙波における口伝では自受用報身如来とは天台を呼称することを秘密裏に伝えるといいます(早坂説)。これが富士においては日蓮を指すようになる故、中古天台本覚思想慧心流口伝の“焼き直し”であると見るより他、ないことになります。
なお、富士では日蓮の本地を“久遠元初自受用報身如来”と成句するわけですが、この久遠について、御義口伝には
久遠とははたらかさず、つくろはず、もとの儘と云ふ義なり。無作の三身なれば初めて成ぜず、是動(はたら)かさゞるなり。
と言います。御義口伝、つまり聖人の口伝であるという「久遠の事」の一節は、実は尊舜(1451-1514)『文句略大綱私見聞』巻五に
所詮 久遠ト云ヘバトテ、過去ノ久遠ノ義ニ非ズ…サレバ久遠ノ文点ヲ久遠(モトノマヽ)トモ 久遠(ツクロワズ)トモ読む也
と言います。ほぼ全同の中古天台義が、富士では聖人の言としてもっとも尊重される御義口伝に座を占めているわけです。
次の久遠元初は、富士では特に弘安2年10月の述作と周到な『三世諸仏総勘文教相廃立』の
釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき
の一節の釈迦如来を日蓮大聖人と読み直したうえで「当初」を強調するわけです。これは釈尊五百塵点成道已前をいうものですが、この原形は、『等海口伝抄』第十二の
“五百塵点最初”実成時分 云本実成 云顕本也。
と見れるわけです。
以上のことから、祖師を自受用報身如来と見たてることは慧心流口伝の天台=自受用報身如来の転用であるとともに、久遠・当初もまた、その転用・転訛であることが知れるのであって、このような説を日蓮已来の口伝・相伝であるとする寛師教学は、まったく叙用に耐えないというほかありません。
115
:
問答迷人
:2002/04/06(土) 09:21
独歩さん
>サレバ久遠ノ文点ヲ久遠(モトノマヽ)トモ 久遠(ツクロワズ)トモ読む也
こういう文献を知らなければ、御義口伝を聖人の口伝であると信じて居れる訳ですが、今朝、この文を拝見して、興ざめしてしまいました。
ところで、一帖抄は何時頃の成立なのでしょうか。
116
:
独歩
:2002/04/06(土) 14:31
問答名人さん:
> 一帖抄は何時頃の成立
いちおう、口伝宗なのでしょうから、口伝として成立と、文献としての成立の二段階が考えられると思います。前者は知るべくもありませんが、後者については同抄の末尾に以下のようにあります。
延文三年八月十日。於土御門御房御本下給。
三日之中書寫畢。不思議之感得尤此事也。法
皇御玉筆。并御自筆之示書等有之。甚外見不
可有云云
楞嚴一流求法沙門心運
”
文明三年辛卯十月二十八日授泰藝
權少僧都榮源花押
P:48a
永正十四丁丑拾月十三日授日憲了
日意花押
”
”
底本。身延藏。文明三年泰藝書寫本。
對校本。
イ。身延藏。永正十四年日意授日憲本。
ロ。身延藏。書寫年時不明身延十四世日鏡藏本。
ハ。身延藏。永正八年大乘房日尭寫安樂房日授藏本。
對校者。岩田教圓。
「土御門…法皇御玉筆。并御自筆之示書等有之」が本当であれば、寛喜3年(1231)以前で、その書写の「延文三年」(正平13年)は1358年、石山行師の時代ですね。
寛喜3年は聖人が10歳、ご生涯のうちにご覧になられたかどうか、また土御門法皇その他の記述が実際のことか、学的考証を待つしかありませんが、「底本。身延藏。文明三年」辺りに日蓮門下に流通があったと見るのが至当ではないでしょうか。あの文明年間ですから。
117
:
顕正居士
:2002/04/06(土) 21:04
日本天台本覚思想
を学修する為の基本の書籍を挙げます。入手は比較的容易です。
○上杉文秀『日本天台史』 破塵閣書房 昭和10年
日本天台思想史。口伝法門の資料多数。
○硲慈弘『日本仏教の開展とその基調』 三省堂 昭和43年
天台本覚思想と鎌倉仏教。
○ 田村芳郎『鎌倉新仏教思想の研究』 平樂寺書店 昭51年
天台本覚思想と鎌倉仏教。
○浅井円道 『上古日本天台本門思想史』平楽寺書店 昭50年
日蓮学の立場からの天台密教研究。
○日本思想大系9『天台本覚論』岩波書店 昭和 48年
初期・中期の主要文書。および概説。
完成期の文書である『等海口伝』、『文句略大綱私見聞』、『天台名匠口訣鈔』は
学修に必須です。これ等は『大日本仏教全書』がある図書館で複写するのが
よいでしょう。
118
:
独歩
:2002/04/06(土) 22:43
顕正居士さん:
> 117
有効な資料のご提示、有り難うございます。
最近、ようやくと初期天台資料のデータベースを入手して、かなり楽をしている(笑)のですが、伝教大師、また本覚思想系は、データベース化されたものがあるのでしょうか。苦労しております。
殊にお示しの『等海口伝』『文句略大綱私見聞』『天台名匠口訣鈔』ほか、『二帖抄』『二帖抄見聞』『蔵田抄』などのデータベースはないものでしょうか。もし、ご存知のことがございましたら、ご教示いただければ有り難く存じます。
119
:
独歩
:2002/04/07(日) 11:30
○伝教大師に始まる『相承略系譜』をアップしました。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/honkakukeihu.html
120
:
顕正居士
:2002/04/07(日) 11:50
日本天台文献
の電子版があるのは世界中でKANDEN師のサイトのみです。
http://www.biwa.ne.jp/~kanden/lib.html
他には
天台宗典編纂所(野本覚成師)で日本天台初期文献のCD化の計画があります。
http://www.biwa.ne.jp/~namu007/
日本天台の有名な文献は『天台宗全書』か『大日本仏教全書』にあります。所で。
これ等の版にもとづいて電子版をWEBにあげても、刊行年代から考えて著作権の
問題はほぼ生じないとおもいます。但し。
返り点、送り仮名、割り註をどう表現するか難かしい。PDFでは不便ですから。
121
:
独歩
:2002/04/07(日) 13:59
顕正居士さん:
> 120
有り難うございました。両サイトとも利用させていただいております。
少し前に天台宗典編纂所からCD2を入手して非常に重宝しております。
また、KANDEN師のサイトから種々ダウンロードさせていただき、使用させていただいております。
私も『本理大綱集』『天台法華宗牛頭法門要纂』『修善寺決』などから、テキストデータ化しアップしようと考えております。ともかく、今は電子化こそ、蒙を啓く近道のように考えております。
顕正居士さんをはじめ、皆さんのご努力には深く御礼申し上げるものです。
122
:
独歩
:2002/04/08(月) 23:33
ここのテーマとは直接、関係ありませんが、『本理大綱集』をサイトにアップしました。ダウンロードしてお使いください。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/honritaikoshu.zip
『本理大綱集』は伝最澄とされる本覚初期の資料です。が、円道師は最澄へ仮託した後世の作であると分析しています。
ただ、資料として価値を有するのは池上本門寺に蔵される聖人真蹟であるという『本理大綱集等要文』に以下の点が抜書きされています。(ただし全同ではないとのことです)
十界互具之文
一 案十界始終、仏界心境中具在九界性、心遍万水、是故一々法
界具九界互、此天台所立十界互具宣是宗瑜伽意、是故天台所立十
界互具之文与秘密最大卅七尊住心城之文、大道雖異不思議一意也
麁食者疑云、案仏界心境者、有清浄功徳無有九界妄染、仍清浄
離於染故、羅什云経云、断諸法中悪、般若経窮源尽性妙智存云、
大乗起信論中如来蔵中唯有清浄功徳宣無量義云云、如此、況金剛
般若中有清浄善云云、迷悟其性得意異者、過恒沙等浄功徳、具妄
染虚妄相耶、故九界妄染不可具仏界心鏡中者耶
答曰、弾曰、未知汝法華之超八円与大毘盧舎那経一大円教雖顕
密異大道無乖耳、案宗瑜伽一大円融教者仏界心境中具足三千性相、
三千者非千如百界法門乎、尋千如百界法門者、従十界心起、案十
界者、従仏界心九界性相始流出、是故仏界心性具九界心性、九界
心性具仏界心境
三千世間之形収仏界心時、曰是法住法位世間相常住、是法等者
説普賢延命智、尋十界者、従普賢一心起、三千世間法、何時非普
賢心色耶、開時曰三千、合時曰一如無二如、是故曰世間相常住、
是宣天台円融心理也
但至汝語者誰不知此、上来語而断諸法中悪者、顕
於別教〔権〕説如此云也、未観心意、況諸説文宣〔権〕門意、未一大円融
意耶、大乗(起信)論意宣対治邪執門意也、未一実心観一心教意也
一心一念内取界如三千法門、是故華厳経云、三界唯一心心外無
別法等云云、九界即一心全不可云理外法耳、汝仏界心不可具九界
妄染云以非
また、本尊抄の「華厳経云 究竟離虚妄無染如虚空 仁王経云 窮源盡性妙智存 金剛般若経云 有清浄善 馬鳴菩薩起信論云 如来蔵中有清浄功徳…開拓経文 断諸法中悪等云云」の箇所は上述中、
麁食者疑云、案仏界心境者、有清浄功徳無有九界妄染、仍清浄
離於染故、羅什云経云、断諸法中悪、般若経窮源尽性妙智存云、
大乗起信論中如来蔵中唯有清浄功徳宣無量義云云、如此、況金剛
般若中有清浄善云云、迷悟其性得意異者、過恒沙等浄功徳、具妄
染虚妄相耶、故九界妄染不可具仏界心鏡中者耶
に取材したものである(円道説)と言います。
来週には『二帖抄』をアップする予定です。
123
:
独歩
:2002/04/08(月) 23:47
【122の訂正】
誤)価値を有するのは…以下の点が抜書きされています
正)価値を有するのは…以下の点が抜書きされているからです
124
:
いちりん
:2002/04/09(火) 15:17
独歩さん
『本理大綱集』のテキスト、ありがとうございます。
『天台法華宗牛頭法門要纂』『修善寺決』なども、楽しみにしています。
125
:
独歩
:2002/04/09(火) 18:20
いちりんさん:
> 124
お声をかけてくださるとやった甲斐を感じます(笑)
有り難うございます。
少しじっくりと本覚資料をデータベース化しようと思います。
今日、図書館に行って『大日本仏教全書』を眺めてきたのですが、61巻に圓信『破日蓮義』なる書があり、一挙に読んでしまいました。これは、めっぽう面白いものでした。
126
:
Libra
:2002/04/09(火) 18:48
「六巻抄の見直し」というテーマからは、完全にずれてしまうのですが、日本天台文献
のことが今話題になっていますので、それに便乗して、少し気になっていることを書かせ
て頂きます。
創価学会の「宇宙生命論」(に基づく生死観)は、道元によって「仏法にあらず」とし
て批判されたところの日本天台本覚思想の「心常相滅論」そのもののように私には思えま
す。『御義口伝』の
──────────────────────────────────────
自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり
(『御義口伝巻上』、全集、p. 724)
──────────────────────────────────────
という部分はまさに「心常相滅論」だと思うのですが、この部分に似た表現は日本天台文
献の中にあるのでしょうか。もしもご存知の方がおられましたら、ご教示頂ければ幸いで
す。
【参考文献】
硲慈弘「鎌倉時代に於ける心常相滅論に関する研究」、『大正大学学報』第三十四輯
(1942年10月)、pp. 36-54〔『日本仏教の開展とその基調』下巻、pp. 298-318に再録〕
127
:
顕正居士
:2002/04/10(水) 04:39
心常相滅論
「伏シテ以(おもんみ)レバ。生死ノ二法ハ一心ノ妙用。有無之二道ハ本覺ノ眞徳ナリ。
所以(ゆゑ)ハ心トハ無來無去ノ法。神(たましひ)トハ周遍法界ノ理也。故ニ生ルル
時モ來ルコト無ク。死ヌル時モ去ルコト無シ。無來無去ノ心ニ有ノ用ヲ施サバ。心即チ
六根ノ體ヲ現ズ。之ヲ以テ生ト名ヅク。周遍法界ノ神ニ空ノ徳ヲ施サバ。神即チ五陰
ノ身ヲ亡ス。之ヲ指シテ死ト曰フ。別(これ)無來ノ妙來。無生ノ眞生。無去ノ圓去。
無死ノ死也。生死ハ體一。有空ハ不二ナリ。是ノ如ク知見シ。是ノ如ク觀解スレバ。
心佛ノ體顯レ。生死ニ自在ナリ。」
天台法華宗牛頭法門
http://www.biwa.ne.jp/~kanden/lib.html
がいちばん有名です。日本天台四学(円密禅戒)中、禅を最勝とする傾向で、後に
止観勝法華、禅勝止観の教判に発達します。牛頭決の成立は鎌倉時代です。
「御義口伝に云く一門とは法華経の信心なり車とは法華経なり牛とは南無妙法蓮華経
なり宅とは煩悩なり自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり云云。」
室町時代の『御義口伝』は「色心常住論」ですから、上の文章も心も相ともに常住の意
に解するべきでしょう。
128
:
Libra
:2002/04/10(水) 05:51
顕正居士:
おはようございます。
ご丁寧なコメントありがとうございました。
『天台法華宗牛頭法門要纂』の「第五 三惑頓断」と「第九 生死涅槃」に心常相滅論
があることは、硲慈弘氏の前掲論文(p. 45)に書いてあったので知っていたのですが、
『御義口伝』の「自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり」が<心常相滅論ではなく
色心常住論である>とは思いませんでした。というよりも、<「色心」がそのままで常住
である>などということはありえないので、「色心常住」と言っても、<「色心」を永遠
に支え続ける「心の体」が常住である>という意味で「心常相滅」と同じことなのだろう
と、恥ずかしながら私はそのように思い込んでいました。「色心常住論」と「心常相滅論」
というのは具体的にはどのような違いがあるのでしょうか。ご教示頂ければ幸いです。
また、そのように区別された場合、創価学会で言われている「宇宙生命論(に基づく生
死観)」は「心常相滅論」と「色心常住論」のどちらに近いと言うべきなのでしょうか。
輪廻説は仏教ではない
http://www.be.wakwak.com/~libra/z006.html
タツノコさんとの対話2─戸田先生の宇宙生命論について─
http://www.be.wakwak.com/~libra/z016.htm
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