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六巻抄について

109いちりん:2002/03/30(土) 17:43

「応身」と「報身」というのを考えてみました。

「応身」というのは「応化身」ですよね。
「人々の求めに応じて出現する仏」という意味でしょうか。

「報身」というのは「果報身」ですね。
「しっかり修行して達成した仏」という感じでしょうか。

これは違う仏ではなくて、違う角度から観た場合の仏の分類のように思います。

お釈迦さまが、インドらあらわれたのは、人々に求めに応じてあらわれたのである。それは、「応身」ですよね。

そして、お釈迦さまの過去世の修行をみていくと、さまざまな修行を積んでその成果として仏になることができた。それが、「報身」という見方。

よく阿弥陀如来を「報身」と位置づけますが、それは法蔵菩薩が修行をして達成した仏というところからみたことですね。ところが、阿弥陀如来は衆生の求めに応じてあらわれたという見方をすれば、それは「応身」と。

卑近な例で言うと、小泉総理がいますよね。
この方は、まあ大衆の求めに応じてあらわれた総理という見方もできる。
これは、「応身」という見方でしょうか。

インターネットにしても、大衆の求めに応じてあらわれたツールという見方がありますよね。大衆が求めなければ、ものごとはあらわれないというとらえ方があると思います。
そして、あらわれる時には、大衆の求めに即したカタチであらわれる。まあ、自分の都合というよりも、大衆の都合が主体ともいえましょうか。

政治家になって、頑張って総理になったという見方があります。それは、小泉さんの努力とか才能とかそういうことで、総理になった。それは、果報としての総理ですよね。それが、「報身」的な見方。

……などと、考えてみました。


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