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六巻抄について
102
:
独歩
:2002/03/29(金) 20:39
Libraさん:
引用くださったジャンプには「密教の本尊観」としてさらに、そのジャンプがつながれており、こちらもなかなか興味深いのですが、こちらは追って読ませていただきます。
ここのところ、ずっと考えてきたは「法」ということ、この捉え方は重要なのだという点です。
私は無徳さんのレスで「法身」には懐疑的で、かつ三身説には慎重であると申し上げたのですが、これもこの捉え方と大きく関連します。
少し前、十二因縁ということが問題になったわけですが、まあ、これが釈尊の真説ではない点はそれとして、四諦、八正道などといわれる点と、たとえば、Libraさんが100に参照する池田さんや、戸田さんがいう法に対する理解は根底的な相違があると思うわけです。つまり、シャキャムニが法というとき、それは修行者が「いかに考えるべきか、いかに行ずるべきか」という範囲に留まっていると私は拝察します。
反面、ブラフミニズム化、あるいはタントリズム化から言われる法は「宇宙真理」であるとか、「生命の実相」であるなどという法則性のような色合いを濃くし、さらにその法則の所有者が想定され、ついには一体感を言われることになっている点が窺われます。
これはたとえば曼荼羅、本尊、一念三千などというときも同様で、私は常に前者の視点で捉えるべき点を強調してきたわけですが、およそ石山周辺では大なり小なり池田さん・戸田さんのごとき発想を帯びていると思うわけです。
池田さん的な言い方を奪って言えば、たとえば「万有引力とニュートン、相対性理論とアインシュタインは人法一箇なのか」と仮定は立てられるわけですが、そもそもこんなことを言うのはナンセンスでしょう。ところが宇宙根本法則(生命)と覚った人は一体であるというのは違和感を懐けない点に問題があります。
この点は、Libraさんが「一尊四士の「一尊」は「無始古仏」で、曼荼羅の「妙法蓮華経」は「教主釈尊」である」ということと、私はどうしてもダブるわけですよ。ただ、Libraさんのこの試案は概ね伝統解釈からすれば、そうなるであろうとも思います。けれど、私は曼荼羅は戒定慧から捌くとしたことは既に申し上げたとおりです。
本覚論などで展開する仏・法はニュートン、アインシュタインと同列に論じられないのは当然ですが、そんな過ちを、どうも仏教解釈で冒していることはないのか、富士門周辺を概観して私は思うわけです。
ところがこの点は、真言教説の勃興をはたで睨むなかで法身説は応・報に匹敵する、さらには中心的な重要性を帯びるようになる、この点を率直に指摘するのが田村師のような気がします。ですから、円道師と報身説と、田村師の法身説は、そもそも視点が違っていると私は思い、両論ともいうことはわかるわけです。
ただ、天台の土壌で考えるとき、法は法であって、それを何ゆえ、身(カーヤ)としてしまう必要が、どこにあるのかという点に以前、疑問が残ります。いつも私がいう擬人化ならぬ、擬“仏”化という逆行であると思えるわけです。
ですから、充道師についてLibraさんは説明を加えてくださいましたが、法を覚る側も「絶対」などという点は頷けません。ただ、三身説がそのような結論を支持していることは了解しているつもりです。なにか法は限りなく擬仏化され、反面、仏は限りなく擬法化され、ついには相即と論じられることになる、そんな推移を感じるわけです。
実は、寛師の考証を終え、聖人の祖意を案じたあと、天台学におけるこられの点も考えようという企ては懐いているのですが、なにせ、まずは六巻抄(笑)をやり終えた気持ちがあります。しかし、皆さんのレスがあまりに魅惑的なので、つい私も脱線してしまいます。しかし、ここのところは三身については、すこしの論じ合うことは有効であろうと思った次第です。
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