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Web誌友会 板/2

3423神の子さん:2013/12/10(火) 09:31:39 ID:AB6RqYXc

>>3422 :神の子さん様

同意をいただいて、ありがとうございました。

3424rei:2013/12/10(火) 10:41:04 ID:ZIftZ1jM
合掌
ありがとうございます

私も復興Gさまの3421の書き込みに深く同意します。

曵馬野さまの言葉は生長の家の信徒とは思えない発言です。

3425神の子さん:2013/12/10(火) 11:43:53 ID:AB6RqYXc

rei さま

お久しぶりです。

同意の書き込み、ありがとうございます。

3426復興G:2013/12/10(火) 11:45:39 ID:AB6RqYXc

3425 :神の子さん は、復興Gです。

3427トキ:2013/12/10(火) 12:06:30 ID:1uDWx5.c
 個人的な感想ですが、日蓮宗の人でも、キリスト教の人でも、広く受け入れるのが生長の家だと思います。
仏教やキリスト教をやめて生長の家に入りなさいとは言わない。日蓮よし、キリストよし、神道よしですが、
その信仰をどんどん奥まで極めなさい、という指導だと思います。奥まで極めると、自然に生長の家になる
というのが信仰かと感じます。

 余談ですが、宇治の練成などを受けると、僧侶の方や神職の方もお会いします。職員の中ですら、僧侶等
の経歴のある人は何人もおられます。

 私個人は、復興G様のご発言に共感します。

3428復興G:2013/12/10(火) 12:14:48 ID:AB6RqYXc

トキ様、ありがとうございます。

3429志恩:2013/12/10(火) 12:18:48 ID:.QY5jUA6
曵馬野様は、どうして、そのような生長の家じゃない考え方で、凝り固まってしまわれたのかしら...
お気の毒に思います。

3430rei:2013/12/10(火) 12:32:44 ID:ZIftZ1jM
トキさま

日蓮宗の人でもキリスト教の人でも、日蓮正宗の人でも受け入れるのは
生長の家の素晴らしい所ですね。

でも曵馬野さまは夫婦ともに熱心な生長の家の信徒であると、
確か以前に書き込まれてありましたよね‥‥?
私の記憶違いだったかな。

3431神の子さん:2013/12/10(火) 14:42:09 ID:TUEhTkAQ
>>3421 より

 あらゆる教えの神髄を讃え拝むことによって、おのずから 「万教帰一」 が成就するのが生長の家の素晴らしいところであると私は信じていますが・・・・・・。


 自然は、外界ではなく、自己そのものです。
 自然と人間が対立して争いあっているなどと見るのは、迷いであると私は思います。自然と自己は一体で、すでに大調和している、
 という実相を説くのが生長の家の教えなのではありませんか。


 一つ一つ答えたものを書きましたが投稿は止めました。

【あらゆる教えの神髄を讃え拝むことによって】と云われてますが、それは生長の家から他宗を見た真髄なるものであり、禅の云う見性をしていない復興Gさんが

どうして禅宗の神髄を讃え拝むことが出来ますか。出来るのであればこんな風な質問はしないと思います。

【曳馬野さんにお尋ねします。あなたは、禅の世界での悟りが正しく、生長の家での悟りは正しくないとおっしゃるのですか? 】

学会では御本尊と云われる曼荼羅は、日蓮上人(聖人)の魂を書き記したものであり、日蓮上人(聖人)は久遠元初の本佛である、と云われています。

天照大神は久遠元初の本佛である日蓮上人(聖人)の用と捉えられています。

志恩さんは法華経解釈から雅春先生も学会を批判されていた、だからおかしな雅宣先生を批判する本流派は正しいとの論を展開しています。

あらゆる教えの神髄と云っても生長の家の見方からのもので、それを学会は決して受け入れることはないと思います。



【自然と人間が対立して争いあっているなどと見るのは、迷いであると私は思います。】

トキさんは和解念仏和尚さんと云われるようですが、そもそも和解などと云う観念を持つことが可笑しいということになりますね。

【自然と人間が対立して争いあっているなどと見るのは、迷いであると私は思います】、と云われるのですから。

迷っている人はいないと云いながら、雅宣先生の主張は迷いの産物であると云われる。

復興Gさんの中に「迷い」と云う観念は有りませんか。私にはあなたのは観念上の実相論であり、実相に生きているとは思えないのです。

自己満足の実相論では決して調和は出てこない、ここ20年の生長の家の現実だと思いますが。


頭注版第一巻4ページの

【われわれがこの世界に「生命」を享けてきた事実から出発するのでありまして事実ほど力強いものはないのであります。】

と云われてることは、現象実相と云う観念の入らない、今の事実ではないですか。

実相は完全、であるが現象は、と云っている限り、現象無しなんて空文句だと思います。

この事実の世界が悲鳴を上げている、その原因を取り除こうとすることが迷いですか。

3432曳馬野:2013/12/10(火) 14:45:06 ID:TUEhTkAQ
3431は曳馬野です

3433曳馬野:2013/12/10(火) 17:23:29 ID:TUEhTkAQ

** 日蓮宗の人でもキリスト教の人でも、日蓮正宗の人でも受け入れるのは生長の家の素晴らしい所ですね。

** 日蓮宗の人でも、キリスト教の人でも、広く受け入れるのが生長の家だと思います。


reiさん、トキさん、八ヶ岳教団を受け入れてくださいな


** 曵馬野様は、どうして、そのような生長の家じゃない考え方で、凝り固まってしまわれたのかしら...お気の毒に思います。


志恩さんのように批判三昧になるぐらいなら、生長の家の考え方なんかまっぴらですね

3435トキ:2013/12/10(火) 19:54:10 ID:1uDWx5.c
>>3433

曳馬野様

 いやー、そうきましたか(笑)。うーん、素晴らしい! 本流復活派の皆様、ぜひ、この曳馬野様の声を
お聞き下さい。

 ところで、教団と本流復活派の両者の関係について、もっと冷静な議論は必要だとは思います。

 教団、というよりも、総裁の言動ですが、総裁ご自身は、生長の家を彼なりに考えていたとは思います。
戦前の生長の家は、もっと自由で家族的でした。平塚らいてふさんが文章を寄稿したり、陸軍主計総監の
辻村楠造閣下が教団幹部としてご活躍されたり、幅も広かったです。個人的な想像としては、彼はもっと市民
的感覚に近い組織や運動にしたかったのでしょう。

 結果として彼の試みは失敗する可能性が高くなりましたが、その動機の部分は理解できるのです。

 対して、本流復活派は、人生を生長の家に捧げて来た人達です。例えば、学ぶ会の前原先生などは、九州大学
を出て、父親から政治家になって欲しいと言われたのを断って生長の家の職員になっています。それほどの
覚悟で運動に身を投じたのに、教団の扱いは結構冷たいものがあったみたいです。某教区の本部駐在員から
本流復活派の幹部になったU先生など、自分が青年会時代に指導をした会員を上司に持つという酷い扱い
も受けています。

 彼らにも批判されるべき点がないとは思いませんが、それはそれで心情は理解できるのです。

 今思うと、現在の総裁が副総裁になった頃から、時代の変化が激しくなり、従来の運動では確かに難しい
部分もありました。だから、変革自体は必要だったのでしょう。しかし、その「変革」の内容が時代にそ
ぐわない内容であり、また、信徒からも歓迎されないものだったのも事実です。

 これ以上の事は、web誌友会の趣旨から外れるので止めますが、どちらかが正義で他方が悪という関係
ではなくて、どこかにボタンの掛け違いがあったという理解をしています。少し冷静になれば分かる事だ
と思います。みんな、難しい事を考え過ぎるので、かえってややこしくなっているような気がします。

 脱線をして、失礼をしました。

3436復興G:2013/12/10(火) 21:14:06 ID:AB6RqYXc

曳馬野さん

 お答え、ありがとうございました。
 おつかれさまでした。

 さて、これ以上レスしても水掛け論で、噛み合わないでしょうから、やめておこうかとも思いましたが、やはり書いておくことにいたします。

>> 【あらゆる教えの神髄を讃え拝むことによって】と云われてますが、それは生長の家から他宗を見た真髄なるものであり、禅の云う見性をしていない復興Gさんが、どうして禅宗の神髄を讃え拝むことが出来ますか。出来るのであればこんな風な質問はしないと思います。<<

 ――生長の家には 「他宗」 はないと思います。なぜなら、「生長の家」 というのは一宗一派ではなく、あらゆる宗教宗派の生じた根元のところから出発していて、万教を包容するものであるからです。(お解り頂けるかどうか知りませんが)

 だから、谷口雅春先生は 『無門関解釈』 も書かれるし、清超先生は 『正法眼蔵を読む』 を書いておられるわけです。

 生長の家には、「立場」 というものはありません。強いて 「ある」 というなら、それは 「久遠の今」 でしょう。宇宙に遍満する、というか時空間を超えた 「家」 です。

 「久遠天上理想国実現の神示」 に、

<< 『生長の家』 の因縁を書き置く。『生長の家』 とは人間が付けた名ではない。神がつけさせたのである。『生長の家』 とはタカアマハラのことである。|(タテ)に無限に生(の)びることを 『生』 と言い、―(ヨコ)に無限に長(の)びることを 『長』 と言い、|と―とが十字に交叉した中心を息叉(イヘ=家)と言う、|の生命と―の生命とが交叉した中心が 『家』 である。>>

 とあります。|(タテ)は時間をあらわし、―(ヨコ)は空間をあらわし、「生長の家」 は時空間の発する元のところ、大宇宙の根柢にあり、一切を包容するものであるわけです。

 時空間に投影された世界 すなわち現象世界には、いろいろな宗教宗派があらわれています。それについて、『神 真理を告げ給う』 には次のように書かれています。
 (“わたし” は神)

<< 世の中には偉大なる宗教家もあり、碩学(せきがく)もあり、哲人もあり、既にそれらの偉大なる人たちの思想や信仰に共鳴し、同調し、心酔し、讃仰(さんぎょう)して、彼を聖者の如くあがめて集って来た人たちが集団をつくって運動している団体もある。それらはそれぞれの悟りの段階に於いて、それでよろしい。それらの宗教教祖や碩学や大哲の中に “わたし” は宿って、人々を導くために “わたし” は書いたり、説いたりして来たのである。真理は人間の肉体から生まれて来るものでも、人間の脳細胞から生産されて来るものでもなく、実にそれらの人々に宿っている “わたし” がそれを説いているのである。>>

 ――あらゆる宗教は人間の脳細胞から生産されて来るものでなく、教祖たちに宿っている神(宇宙根源の大生命)が教祖を通して語られていて、宇宙の真理をあらわしている。だから、

 「吾らは凡ゆる宗教が大生命より発せる救いの放射光線なる事を信じ、他宗をそしらず、他人の尊崇の対象たるものに敬礼せんことを期す」

 ということになるわけです。
 もっとも、そのあとに続いて、『神 真理を告げ給う』 には、>>1420でも引用しましたお言葉があります。

<< 人間には在来からもっていた先入観念や薫習(くんじゅう)というものがあって、人間を通して真理を説く場合、どうしても、それによって“わたし”の説く真理が歪められ、賦彩(いろづけ)されて、“純粋なる真理“ そのままであることはむつかしい。併し、それはそれでよいのである。>>

 と。

 で、曳馬野さんが、
>> 【あらゆる教えの神髄を讃え拝むことによって】と云われてますが、それは生長の家から他宗を見た真髄なるものであり、禅の云う見性をしていない復興Gさんが、どうして禅宗の神髄を讃え拝むことが出来ますか。出来るのであればこんな風な質問はしないと思います。<<

 とおっしゃる、「こんな風な質問」 というのが
【曳馬野さんにお尋ねします。あなたは、禅の世界での悟りが正しく、生長の家での悟りは正しくないとおっしゃるのですか? 】

 という質問のことでしょうか。
>> 禅の云う見性をしていない復興Gさんが、どうして禅宗の神髄を讃え拝むことが出来ますか。<<

 とおっしゃる、「禅の云う見性をしていない」 というのは、禅寺で修行をして、そちらの権威ある高僧から 「お前は見性したと認める」 という允可を受けていない、という意味なのでしょうね。
<つづきます>

3437復興G:2013/12/10(火) 21:16:43 ID:AB6RqYXc

>>3436のつづきです。

 私は、禅寺で修行をして、そちらの権威ある高僧から 「お前は見性したと認める」 という允可を受けなければ、禅宗の神髄を讃え拝むことが出来ない とは思いません。

>>3436で書いたように、禅の教えも、「神(宇宙根源の大生命)が教祖を通して語られていて、宇宙の真理をあらわしている」 として、尊敬し拝むことができると思います。

>> 【自然と人間が対立して争いあっているなどと見るのは、迷いであると私は思います】、と云われるのですから。
迷っている人はいないと云いながら、雅宣先生の主張は迷いの産物であると云われる。
復興Gさんの中に 「迷い」 と云う観念は有りませんか。私にはあなたのは観念上の実相論であり、実相に生きているとは思えないのです。<<

 「迷い」 とは何か。
 また 『神 真理を告げ給う』 から引用させていただきますが――

<< あなたは仏教の 「煩悩即菩提」 という語をたびたび聴いたこともあるし、読んだこともあるであろう。“迷い” がそのまま “菩提” の道程であるということである。“迷い” という 「菩提とは別なもの」 があるのではないのである。“迷い” と見えているものが、実は “悟り” が動き出し、現象化しつつある道程であるから、“迷い” 本来無しといい得るのである。

 あなた達が “迷い” だと思っているものは、実は “わたし” が “神の国” を地上に顕現するための土台又は地盤になるための精神的基礎工事を行うために授けたところのものなのである。>>

 とお教え頂いておりますから、「迷い」 という 「悟り」 とは別なものがあるのではない。“悟り” が動き出し、現象化しつつある道程であるのだ。「実相独在」 が真理である、と思いながら、書かせて頂いています。

 とりあえず、以上が曳馬野さんの>>3432に対するレスポンスです。

3438復興G:2013/12/11(水) 07:00:10 ID:AB6RqYXc

訂正

>>以上が曳馬野さんの>>3432に対するレスポンスです<<

>>以上が曳馬野さんの>>3431に対するレスポンスです<<

まだまだ書きたいことが一杯あります(際限なく出てくる感じです)が、

今日は出かけなければならない予定がありますので、あとは明日以後に。

よろしくお願いします。

3439復興G:2013/12/11(水) 07:47:59 ID:AB6RqYXc

 榎本恵吾先生は素晴らしい!

 web誌友会参考文献板 >190

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1372208204/190

3440復興G:2013/12/11(水) 08:15:04 ID:AB6RqYXc

 聖経 『甘露の法雨』 に

  創造の神は
  五感を超越している、
  六感も超越している、
  聖
  至上
  無限……
   (中略)
  神は人間の光源(ひかりのみなもと)にして
  人間は神より出でたる光なり。
  光の無き光源はなく、
  光源の無き光はなし。
  光と光源とは一体なるが如く
  人間と神とは一体なり。

 とあり、真の人間は至上なるものである、というのが生長の家の説く根本真理であると思います。

 「人間至上主義は間違い」 というのは、生長の家の教えではないと私は思います。

 「人即ち神であると言う真理を知らぬ者が多いのは気の毒である。『生長の家』 が此世に出現したのはすべての人々に此の至上の真理を知らさんが為である。」

 という 「至上者の自覚の神示」 もあります。

 出かけますが、ちょっとだけ書かせて頂きました。

3442復興G:2013/12/11(水) 21:50:55 ID:AB6RqYXc

曳馬野さん

復興G、ただいま帰ってまいりました。

>>3440までの私の投稿に対して、ご高評を戴ければ幸せに存じます。よろしくお願いいたします。

3443曳馬野:2013/12/12(木) 05:27:14 ID:TUEhTkAQ
  
復興Gさんへ

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/823257

これは禅門法語集続のなかの、正眼國師によるとされている『心経抄』です。

般若心経の説いていることの解釈です。 「煩悩即菩提」についての意味も説かれています。

雅春先生のものとは大分違います。また引用された『神真理を告げ給う』の神の言葉とも大分違います。


私は掲示板に出てきたとき、うのはなさんとの話で一日の生活の時間割を書いています。本当に時間の無い生活をしています。
ここへの書き込みは睡眠を減らし食事しながらの時もあります。

ですので、時間の取れる時で結構ですので、よく読まれての感想を頂いてからの話にしたいと思います。

3444復興G:2013/12/12(木) 11:30:12 ID:AB6RqYXc

>>3443 :曳馬野さん

 「体よく逃げましたね」 という感じがします。

>>3409の質問を、もう一度提出したいです。

>> 曳馬野さんにお尋ねします。
あなたは、禅の世界での悟りが正しく、生長の家での悟りは正しくないとおっしゃるのですか? <<

 ということです。

 私は、「人類最後の究極の教えである」 と谷口雅春先生がおっしゃっている生長の家の教えこそ、最高であると信じていますから、もっと、谷口雅春先生のご著書を読むことの方を優先します。

 教えて頂いたウェブページは開いてみましたが、古い本をスキャナーで読み取っただけの、よごれの多い画像ですから、判読するのも容易ではありません。
教えて頂いた、「禅門法語集続のなかの、正眼國師によるとされている 『心経抄』」 というのも、時間ができたら読んでみたいとは思いますが、私も今生での残り時間は限られていますから、今 『心経抄』 を読むことを最優先にしなければならぬとは思いません。

 私は、禅の高僧の書かれたものとしては、日置黙仙著 『錬膽術』 というのを読んだことがあり、今も持っています。大正4年(1915年)発行の古い本です。父の蔵書の中にあったもので、高校生時代に、何となく惹かれてちょっと読み、大学に入ってからまた読んで、膽(きも)に銘じたものです。その 「緒言」 に、こんなことが書かれています。

    〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

   梅花一枝薫を説く

 花の薫(かをり)とは何ういふものぢやと聞かるれば、綻びかけた梅の花を一枝折つて、サアこれを嗅いで見よと、鼻の先に突き付けてやる外はない。突き付けられた梅の花を嗅いで見れば、成る程斯ういふものかと直ぐに合點が行く。さうせぬことには、薫とは斯ういふものぢや、あゝいふものぢやと幾ら口先で説いて聴かせても、迚(とて)も呑み込めない。如何なる名画家も、百花の爛漫たる色合を描くことは出來ようが、其の薫を寫すことは出來ぬ。

   盲人の象騨

 膽力といふものも、言葉や筆先で説き明すことは全く不可能ぢや。それぢやというて、花の薫を説くやうに、實物を突き付けることは尚ほ更不可能。止むを得ず言葉や筆で説く外はないが、其の説く所却つて皮相の歎に流れて世人を過まらすことになりはせぬか。

 昔、数多の盲人が集まつて大象を捕へた。其の或る者は象の足を攫(つか)み、或る者は尾を攫み、或る渚は鼻を攫んだ。是等盲人打寄つて象を評するに、足を攫んだ者は曰く、象は大足なり。尾を攫んだ者は曰く、象は大尾なり。鼻を攫んだ者は曰く、象は大鼻なりと。其の領解せるものは各々違つて居つたといふ喩話(たとへばなし)がある。

 膽力とは何(ど)ういふものか、其の要素、其の作用は説くことが出來ても、其の眞髄を説き明すことが出來ぬ。故に其の要素、其の作用の一端を攫んで、我れは膽力を得たりと得々たるに至つては、是れ草を折つて天を量(はか)るの類、畢竟盲人の象を評すると撰ぶ所はない。衲(わし)は、世人が衲の説く所を讀んで、斯ういふ間違ひをせねばよいがと心配ぢや。

 (復興G の感想――この「膽力」 というのは、「悟り」 と置き換えてもほぼ間違いないのではないかと思います)

<つづく>

3445復興G:2013/12/12(木) 11:30:53 ID:AB6RqYXc

<つづき>

   とんぼ返りの諷示

 普化(ふけ)和尚といふ支那の高徳の和尚が、大勢の弟子を集めて法話をして居ると、弟子の人々が、佛の御姿は何(ど)ういふもので御座りませうと尋ね出した。普化和尚は即座に大衆の面前で、とんぼ返りをして見せて、佛の姿は斯ういふものぢや、解つたかといふと、大衆は唖然として一言も發するものはなかつた。又、龍牙(りゅうげ)和尚といふ高僧も、是れと同じく、大衆より佛の御姿を見せて下さいと迫(せが)まれて、両膚を脱いで半身をむき出して、佛の姿は斯ういふものぢやと示したことがある。衲(わし)が此処に説く所、畢竟普化和尚のとんぼ返りぢや、龍牙和尚の両膚脱ぎぢや。何うぢや、分るかナ。

   拈華微笑の徹底

 昔、釋尊が霊鷲山(りゃうじゅせん)で説法をせられた時に、八萬四千の聴衆が詰めかけて居る。如何なる有り難い御説法があるかと固唾を呑んで耳を傾けて居ると、釈尊は傍(かたはら)に咲いて居る金波羅華を採つて、一拈りされた。是れで大法は説き終られたので、八萬四千の聴衆は唯唖然として居る。

 此の時、神通第一と呼ばれたる摩訶迦葉が、唯独り豁然と徹底して破顔微笑したといふのぢやから、ニッコと笑つた。これを見て取られた釋尊は、我れに正法眼藏涅槃妙心、實相無相の法門あり、摩訶迦葉に附嘱すといはれて、吉祥草座を下られた。

 之は禅家の拈華微笑といふ有名な話ぢやが、此の消息が分るかナ。此の消息が呑み込めねば錬膽の眞髄に徹底することは出來ないぞ。有限の言葉や文字でいくら説いても、深遠微妙な錬膽の眞髄を説き盡すことは出來ぬから、言葉や文字の奥に徹底する破顔微笑の用意がなくてはならぬ。若い男と女の恋仲でも、目と目との間に無限の深い消息が通じ合ふぢやないか。口先で語合うただけの恋仲には限りがあるが、同と目の物語は甚深微妙、其の味ひは限りがない。須らく言葉や文字に超脱する覚悟を以て衲(わし)の話を讀んで貰ひたい。

   叩門の瓦、指月の指

 「門を叩くの瓦子、月を指すの指」といふ言葉がある。夜更けて人の家を訪ふ。門前に行つて押しても突いても戸は開かぬ。握り拳で叩いた位でも寝込んで仕舞うて居るから中々目を醒して開けて呉れぬ。とうとう瓦を取つてドンドンと叩いて見たら、直ぐに起きて門を開けて呉れた。門を開けて中に入れば、最う瓦には用事はない。それを何時までも持つて居るには及ばぬから、疾くに棄てて仕舞ふが宜い。是れが門を叩くの瓦子といふのぢや。

 また、アア彼方(あちら)に好い月が出ましたといふと、何(ど)れ、何処へというて探す。アレ彼方にというただけでは埒があかぬ。そこで、ソレ其方へと指で指して教ゆれば、直ぐにあれ綺麗だと分る。既に月の有処が分つて見れば、もう指には用事はない。サッサと指を取つて仕舞ふといふのが指月の指ぢや。

 そこで此の書物は恰度門を叩くの瓦子、指月の指ぢや。錬膽の眞髄が分ったら、最う此の書物には用事はないぞ。

   鶏唱ふ家林の曉

 『五更(ごこう)鶏(とり)唱ふ家林(かりん)の曉』で、五更の夜半でも、鶏が歌うた以上は最(も)う朝ぢゃ。暗い、寂しいと悔むに及ばぬ。最う昼の内ぢや。錬膽の眞髄に徹底するは容易ぢやないが、併し、膽力とはハテさういふものかといふ呑込み出来れば、最う家林の曉ぢや、何もいふことはない。

    〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 さて、復興Gの感想ですが、禅の神髄、「悟り」 は以上の日置黙仙師の緒言にあるように、不立文字、以心伝心と言われます。曳馬野さんが読めとおっしゃる 『心経抄』 にしても、やはり 「門を叩くの瓦子、指月の指、家林の曉」 であろうと思います。現象の言葉で、「これが悟りじゃ」 「これでなければならぬ」 と決めつけたら、もうそれは悟りでもなんでもない、執着にすぎないのではないかと私は思っています。

 いかがでしょうか。

3446復興G:2013/12/12(木) 12:30:10 ID:AB6RqYXc

>>3444 で私は
>> 「人類最後の究極の教えである」 と谷口雅春先生がおっしゃっている生長の家の教え<<

 と書きましたが、正確には次の通りでした。
 (『神ひとに語り給ふ』 p.162〜p.163より)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 生長の家は、これは人類最後の最高の教へをするところでありますから、ここに集つていらつしやる人達は、霊魂の高い素晴しい人ばかりなのであります。ですから聖使命菩薩として本尊の前に、その誠魂をお祀りしてゐるわけであります。即ち皆さんは、既にその魂が菩薩たる階級の人で、人を救ふ使命をもつてゐられる方が集つて來てをられるわけであります。

 救ふといつても色々あつて、病気が治るのも救ひでありますし、貧乏で困つてゐるのを金が儲かるやうにしてあげるのも救ひだし、社会の下積みになつてゐる人が世に出られるやうに導いてあげるのも救ひですけれども、そんな事は一時的救ひであります。

 病気が治つたにしてもとどのつまりは人間はやがては死ぬでしょう。貧乏が治って財産を積んでをつても冥途へ行く時にはその財産を棄てて往かんならんでせう。だから、そんな救ひは永久の救ひではない。

 本當の救ひといふものは、「人間は神の子である。老朽せざるを人間といふ。病まざるを人間といふ。死せざるを人間といふ。眞清浄眞無垢なるところの神のいのちそのものが人間だ」 といふことを自覚させて永遠に朽ちざる生命の自覚を與へる宗教が一番素晴しい宗教であり、この最も高い救ひを與へるのが生長の家であるのであります。

 さういふ眞理がこの神示(「本來生、不滅の神示」)には示されてゐるのであります。すなはち、

 「本來生、不滅、本來清浄眞無垢なる人間の實相を知つたとき汝らは歓びに満されて手の舞ひ足の踏む所を知らないであらう」 と示されてゐる所以であります。

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 以上であります。

3447神の子さん:2013/12/12(木) 13:57:08 ID:gpBcRldI

復興G様,

お見事!です。 沢山の拍手を送らせていただきます。
総裁先生がここを読んでくださる事を祈ります。生長の家万歳!

3448復興G:2013/12/12(木) 16:00:59 ID:AB6RqYXc

>>3447 :神の子さん様

沢山の拍手を、ありがとうございます。

>>3446で引用させていただきました

<< 病気が治つたにしてもとどのつまりは人間はやがては死ぬでせう。貧乏が治つて財産を積んでをつても冥途へ行く時にはその財産を棄てて往かんならんでせう。だから、そんな救ひは永久の救ひではない。>>

 ということは、地球環境問題についても同じことであると思います。

 「自然環境がよくなったにしてもとどのつまりは地球も寿命が来たら死滅するでしょう。だから、そんな救ひは永久の救ひではない。」

 ということではないでしょうか。

<< 本當の救ひといふものは、「人間は神の子である。老朽せざるを人間といふ。病まざるを人間といふ。死せざるを人間といふ。眞清浄眞無垢なるところの神のいのちそのものが人間だ」 といふことを自覚させて永遠に朽ちざる生命の自覚を與へる宗教が一番素晴しい宗教であり、この最も高い救ひを與へるのが生長の家であるのであります。>>

 ――これは、自然環境について言えば、

 「本当の救いというものは、≪人間は神の子である。常に自然と一体であり、万物と大調和の関係にあるのものを人間という。争わないものを人間という。真清浄真無垢なるところの神のいのちそのものが人間だ≫ ということを自覚させて、永遠に環境の主人公で大調和している生命の自覚を与える宗教が一番素晴しい宗教であり、この最も高い救いを与えるのが生長の家である」

 ということでしょう。

 それで、真の人間は至上なるものである、というのが生長の家の説く根本真理であると思います。

 だから、再度言いますが、「人間至上主義は間違い」 というのは、生長の家の教えではないと私は思います。

 「人即ち神であると言う真理を知らぬ者が多いのは気の毒である。『生長の家』 が此世に出現したのはすべての人々に此の至上の真理を知らさんが為である。」

 という 「至上者の自覚の神示」 もあります。

 「人即ち神であり至上なるものであるから、その自覚をひろめて、本来の ≪自然とも大調和≫ のすがたを現して行こう」

 ということでなければ、真理からはずれているから、神の子の魂が共鳴せず、したがって、運動方針に

 「“新しい文明” の構築は、神・自然・人間の大調和から」

 というようなスローガンを掲げても、そのようなエネルギーなど湧いて来ず、教勢は下降の一途を辿るのみ、ということになっていると思います。

 今こそ、生長の家の原点といいますか、根源源泉に立ち還らねばならぬ。その時であると思います。

 私は、「人間は神の子である、至上者である」 という根本真理を、全心全霊をもって伝えて行くつもりです。

3449復興G:2013/12/12(木) 16:37:21 ID:AB6RqYXc

曳馬野さん

上記は、間違ってますでしょうか。

3450トキ:2013/12/12(木) 18:39:43 ID:2d5zi/No
 曳馬野様がご多忙の中、ご投稿下さった事には深く感謝申し上げます。

 その上で個人的な感想を申しあげます。

 個人的な体験ですが、生長の家の行事には僧侶の方や仏教の熱心な信仰者の方がよく参加されます。

 生長の家の掲示板だからこんな事を書くのではないのですが、そういう方々が、異口同音に言われるのが、

 「今まで、仏教系の大学でお経の勉強をしたが、全く分からなかった。谷口雅春先生の解釈を拝読して、
初めてその真意が分かった!」

と断言されていました。これは誇張でも何でもないです。古い仏教の解釈も大事ですが、現代の人が読んで
分からないものは、高嶺の花に終わってしまうと思います。その意味で、私は、谷口雅春先生の説かれた
教えを学びたいと思います。復興G様の言われる通りかと感じます。

3451復興G:2013/12/12(木) 21:32:08 ID:AB6RqYXc

>>3450 :トキさま

貴重な体験のご投稿、ありがとうございました。

3453神の子さん:2013/12/12(木) 22:10:23 ID:TUEhTkAQ

復興Gさん他拍手喝采の方へ

●「体よく逃げましたね」 という感じがします。

○やっと地が出て人間らしくていいです

● 曳馬野さんにお尋ねします。

あなたは、禅の世界での悟りが正しく、生長の家での悟りは正しくないとおっしゃるのですか?

○疑問は有ります。禅では師なり古人の示しを弟子がそうであったと証明して法の継承がされています。それについて生長の家では【大日本神国観】で

説かれている実在について証明した弟子はいないと私は思っています。これが証明されなければ、その人にとっては単に信じていると云うだけで、

真実存在しているとは主張できない、つまり天皇信仰の正しさを主張出ないことになり、カルト的主張とみなされ生長の家存在に?マークが付きは

しませんか。

●私は、「人類最後の究極の教えである」 と谷口雅春先生がおっしゃっている生長の家の教えこそ、最高であると信じています

○ここなんですね、信じていると、説くところに至る、との違いがあるのです。

教えは神なるものが説いたものか否か、私は知らない。「絶対無」を説いている点では究極でありますが、その絶対無に至る方法に於いてはっきりしない、

あなたが60年にわたり神想観をしても、絶対無に至っていないことからも、簡単なことではないでしょう。

盤珪禅師は或る侍が「剣の達人があなたに切りかかれば避けることは出来ないでしょう」と云ったのに対して、打ってみなさいと云い、侍が一瞬躊躇

したとき、我既に打ったと云いました。坊さんが侍の剣には負けないと云ったのです。

それについて雅春先生は、昭和18年の生長の家誌5月号で、平法無敵流の極意について、「それは理論として面白いし、武道以外の日常生活では

自他一体が常勝の道であることが体得せられますが、剣を以て立会う武道では、どういう姿で現れてくるか想像が付かなかったのでありますが…」

と書かれ、その時点では武道での自他一体の行動はとれていないことを表明されています。これは「私もこの教えで修行中です。」と云われていたことを

裏付けていると思います。ですから「実相の大地に降り立ったのである」と云われた心境が如何ほどのものであるかは判りません。

青年会全国大会で神想観の実習の際に、先生の座られた時にマイクの高さの調節を青年局員がしたところ、「僕がするからいい」と声を荒げた時が

ありました。黙って自分の好みで再調整するのが普通でしょう、然るに相手の行動に声を荒げられたのです。

また雅宣先生が皆さんの云うような人であるとするならば、そのような人しか育てられなかった清超先生は師と呼ぶに値しないと云わなくてはなりません、

そしてそのような清超先生と云う弟子しか育てられなかった雅春先生は師と呼ぶに値しないと云わざるを得ません。つづく

3454神の子さん:2013/12/12(木) 22:19:32 ID:TUEhTkAQ
 つづき

● 教えて頂いたウェブページは開いてみましたが、古い本をスキャナーで読み取っただけの、よごれの多い画像ですから、
判読するのも容易ではありません。

○これはJPEG表示と云うところをクリックすれば綺麗に観られます

● 梅花一枝薫を説く

 花の薫(かをり)とは何ういふものぢやと聞かるれば、綻びかけた梅の花を一枝折つて、サアこれを嗅いで見よと、鼻の先に突き付けてやる

外はない。突き付けられた梅の花を嗅いで見れば、成る程斯ういふものかと直ぐに合點が行く。さうせぬことには、薫とは斯ういふものぢや、

あゝいふものぢやと幾ら口先で説いて聴かせても、迚(とて)も呑み込めない。

○その通りですね

生長の家とは何と問われれば、今の教団、本流派を見よ、斯ういふものぢや、あゝいふものぢやと幾ら口先で説いて聴かせても、
迚(とて)も呑み込めない。

復興Gさんはどんな人と問われれば、『「体よく逃げましたね」 という感じがします。』を読めばよい

● 盲人の象騨
昔、数多の盲人が集まつて大象を捕へた。其の或る者は象の足を攫(つか)み、或る者は尾を攫み、或る渚は鼻を攫んだ。是等盲人打寄つて象を

評するに、足を攫んだ者は曰く、象は大足なり。尾を攫んだ者は曰く、象は大尾なり。鼻を攫んだ者は曰く、象は大鼻なりと。

其の領解せるものは各々違つて居つたといふ喩話(たとへばなし)がある。

 膽力とは何(ど)ういふものか、其の要素、其の作用は説くことが出來ても、其の眞髄を説き明すことが出來ぬ。故に其の要素、其の作用の

一端を攫んで、我れは膽力を得たりと得々たるに至つては、是れ草を折つて天を量(はか)るの類、畢竟盲人の象を評すると撰ぶ所はない。

衲(わし)は、世人が衲の説く所を讀んで、斯ういふ間違ひをせねばよいがと心配ぢや。

○一切のつかみを放ってもなお久遠の昔からの存在を教える禅に有って、一分のつかみを心配する、老婆親切過ぎかな、

生長の家の著書を読むもまたこの轍を踏まぬこと祈るは切なりですね。

何度も言いますが大日本神国観の世界を見たと云う人以外は盲人象を撫ぜるでありますから。つづく

3455神の子さん:2013/12/12(木) 22:25:33 ID:TUEhTkAQ
つづき

● とんぼ返りの諷示

 普化(ふけ)和尚といふ支那の高徳の和尚が、大勢の弟子を集めて法話をして居ると、弟子の人々が、佛の御姿は何(ど)ういふもので御座りませうと

尋ね出した。普化和尚は即座に大衆の面前で、とんぼ返りをして見せて、佛の姿は斯ういふものぢや、解つたかといふと、大衆は唖然として一言も

發するものはなかつた。又、龍牙(りゅうげ)和尚といふ高僧も、是れと同じく、大衆より佛の御姿を見せて下さいと迫(せが)まれて、両膚を脱いで

半身をむき出して、佛の姿は斯ういふものぢやと示したことがある。衲(わし)が此処に説く所、畢竟普化和尚のとんぼ返りぢや、

龍牙和尚の両膚脱ぎぢや。何うぢや、分るかナ。

○雲門は糞掻き箆と言い、趙州和尚は庭前の柏樹と言いましたね

●拈華微笑の徹底

○雅春先生の無門関解釈では日本国体天皇の実相を説くものと云われている。
対して井上義衍老師の無門関では全く違う提唱がなされています。


● 叩門の瓦、指月の指
 そこで此の書物は恰度門を叩くの瓦子、指月の指ぢや。錬膽の眞髄が分ったら、最う此の書物には用事はないぞ。

○『生命の実相』40巻その他真理の著書もまた叩門の瓦、指月の指、それを立脚点として本流派は立つ

● 鶏唱ふ家林の曉

○ 見性のまじかには何らかの気付きがある、そして悟後の修行これが大変、徹底した人は古人と云えど僅かです。

神想観して眼路の限り光明遍照となっても目を開けば、悪口雑言の人ばかり、何処に救われがあるのでしょうか。

   
●「心経抄」にしても、やはり 「門を叩くの瓦子、指月の指、家林の曉」 であろうと思います。現象の言葉で、

「これが悟りじゃ」 「これでなければならぬ」 と決めつけたら、もうそれは悟りでもなんでもない、執着にすぎないのではないかと私は思っています。

○その通りてすね、でその指し示す先にあるものに辿り着いた人が、禅にはいるが生長の家にいますか、とあなたを含めお聞きしているだけです。

  つづく

3456曳馬野:2013/12/12(木) 22:42:31 ID:TUEhTkAQ
上の三つは曳馬野です

でトキさん、

「古い仏教の解釈も大事ですが、現代の人が読んで分からないものは、高嶺の花に終わってしまうと思います。

その意味で、私は、谷口雅春先生の説かれた教えを学びたいと思います。」


それはごずいにですが

盤珪禅師は耳で聞いてわかるように説き、弟子にも筆記はすべからずと戒めました。記憶の膨らむことを配慮しての事です。

無学文盲の者から、町人、侍、藩主、天台の座主、禅のトップクラスまで五万余の弟子の礼をとった者がいたということです。

書き物を散々読んで妄想たくましくする、そして救いは無い、救われたと勘違いする。どちらてもいいです

3457曳馬野:2013/12/13(金) 00:02:15 ID:TUEhTkAQ

つづき

●「自然環境がよくなったにしてもとどのつまりは地球も寿命が来たら死滅するでしょう。だから、そんな救ひは永久の救ひではない。」

ということではないでしょうか。

○そりゃそうだ、と云いたいところなんですがね、じゃあ地上天国実現なんて看板下げてくれないかな、地球も単に縁起の産物ですからね

● それで、真の人間は至上なるものである、というのが生長の家の説く根本真理であると思います。

だから、再度言いますが、「人間至上主義は間違い」 というのは、生長の家の教えではないと私は思います。

「人即ち神であると言う真理を知らぬ者が多いのは気の毒である。『生長の家』 が此世に出現したのはすべての人々に此の至上の真理を

知らさんが為である。」という 「至上者の自覚の神示」 もあります。

○人間に教えを説くから真の人間は至上なるものである、との書きかたになりますが、その真の人間とは天地一切のものと別のもののように

聞こえますね

●「人即ち神であり至上なるものであるから、その自覚をひろめて、本来の ≪自然とも大調和≫ のすがたを現して行こう」

ということでなければ、真理からはずれているから、神の子の魂が共鳴せず、

○生長の家を何十年もしながら人間同士でさえ自他一体なことが分かららず、真理から外れている魂であるから、自然を破壊し己の欲望の

道具にする、現象は縁起の産物であると知り、今の一瞬一度の出会いであるから今を最も大事に生きる、欲望があってはねー

有情非常同時成道の捉え方に生長の家と禅では全く捉え方が違うようではあります。

3458ユタカ:2013/12/13(金) 05:04:32 ID:R1D4Jmeg
>>じゃあ地上天国実現なんて看板下げてくれないかな

お前、何者?

生長の家の信徒じゃないだろ!! 何しに生長の家で総裁に近づいたんだ??

たんまり貰った? 

気持ち悪くてこれ以上読みたくない。 曳馬野の書く事。

おえ〜〜〜〜〜!!ゲロゲロ〜〜〜〜!!

3459ユタカ:2013/12/13(金) 05:09:22 ID:R1D4Jmeg
>○人間に教えを説くから真の人間は至上なるものである、との書きかたになりますが、その真の人間とは天地一切のものと別のもののように

>聞こえますね


お前と総裁だけだ!そんな風に聞いているのは! ボケ!
いい加減にしろ!

3460ユタカ:2013/12/13(金) 05:26:05 ID:R1D4Jmeg
光明大掲示板より引用

>>神癒への原理NEW (3579)
日時:2013年12月13日 (金) 05時05分
名前:伝統

このスレッドでは、「神の癒し」に関する情報を紹介してまいります。


以下は、神癒を続出させた藤原敏之先生の著「すべてを癒やす道」の
はしがきからの要点の紹介です。


(1)生長の家の御教えが唯心実相論に徹した生命の実相哲学であり、
   一切を完成する最後のみ教えであることに、常に驚異と感動を覚えるものであります。

(2)尊師谷口雅春先生のお説き下さる真理は
   ”現象なし、肉体なし、実相のみ実在”の教えであります。

   このことを信じて人様にお伝えしますと、真理が絶対であり、み教えが真実(ほんもの)で
   ありますから、いかなる難病奇病の方々も、たちどころに神癒をお受けなり、
   盲人も唖(おし)もいざりでさえも起ち上がり、ことごとく解決するのであります。

(3)真の救いは

  ①宗教の救いは、自分の力や財力で処理できない事件や難問題を、
   神様の協力(助け)をいただいて解決し、処理するというようなものでありません。

  ②神のお造りになったままの実相世界(ほんとうのせかい)に悪や不完全なものは
   何一つ存在しないという、真理に目覚めることによって、

   もともとありもしない現象の悪や不完全を否定し去り、
   打ち消すことによって解決するのであります。

   それ以外に本当に人間が救われる道はないのであります。

  ③悪しきもの好ましからざるものはことごとく否定し、
   神のお造りになったままの完全さのみを肯定する。

   この肯定は現象の否定によって生まれるのであります。
   現象否定の極致が”信”であり、”救い”であります。

   現象の悪も認めながら、神を信じているというのは、相対の信であって、
   信じたつもりでも”信”でないから本当の救いとはならないのであります。

   ここのところが最も肝腎であり、真実の救いと、
   現象を処理するための方便的救いとは別れ道となるのであります。

  ④暗はもともと存在しないから、光をもってくればたちどころに消える如く、
   現象の悪、すなわち嘘のものを無くする方法は、
   本物(実相)を持ってくる以外にないのであります。

(4)私達は幸いにも谷口雅春先生によって、
   廻り道しないでも、真理に到達出来る最高の近道をお示しいただいております。

   ”我れ神の子”の自覚に徹し、ただ感謝し、ただ喜ぶだけで救いを成就できる
   という天国、極楽への最短距離の教えをいただいたのでありますから、
   素直に受けるだけでよろしいのであります。


現象世界以外理解できない曳馬野さんへ

実相世界が全く判らない独自の世界からの意見が気持ち悪いけど面白い。
藤原先生も熱心な仏教徒から生長の家になって大勢の人に奇跡を表した

総裁の話で奇跡は出ないし、災害ばかりに合いますよ! 波長がそこに合っているのでしょうね。。。

3461復興G:2013/12/13(金) 05:42:02 ID:AB6RqYXc

いやー、曳馬野さん

 ありがとうございました。
 「切磋琢磨」 っていうのは、こういうことだったんですね。ありがたいことです。

 あわてないで、じっくり行きましょう。

 まず、>>3453
>>● 曳馬野さんにお尋ねします。
あなたは、禅の世界での悟りが正しく、生長の家での悟りは正しくないとおっしゃるのですか?
 ○疑問は有ります。禅では師なり古人の示しを弟子がそうであったと証明して法の継承がされています。それについて生長の家では【大日本神国観】で説かれている実在について証明した弟子はいないと私は思っています。<<

 ――禅の世界で、「証明」 というのは具体的にどういうことですか? 教えて下さい。
 数学における 「証明」 とは全然違うものであろうとは想像できます。字義から言えば 「あかし して あきらかにする」 ですね。

 生長の家では、体験談というのが証(あかし)でしょうか。

>>生長の家では【大日本神国観】で説かれている実在について証明した弟子はいないと私は思っています。<<

 ――については、私は、ある友人が、病いで危篤状態になった時、中心帰一の実相世界のありさまをはっきりと見た、というのを聞いたことはあります。しかし、そんなものは幻想だろう、と言われてしまえばそれまでです。やはり、なるほどと人を納得させる証しにはなっていないでしょう。

>>禅では師なり古人の示しを弟子がそうであったと証明して法の継承がされています<<

>>その指し示す先にあるものに辿り着いた人が、禅にはいるが生長の家にいますか<< (<<3455)

と言われる禅の世界での 「証明」 について、具体的に教えて下さい。

3462復興G:2013/12/13(金) 07:40:36 ID:AB6RqYXc

いやー、曳馬野さん

まあ、
>> 禅の世界での 「証明」 について、具体的に教えて下さい。<<

というのは、いつでもいいです。

すでに大調和している、完全円満な世界しかない。

みんな神の子の兄弟姉妹だ。

雅宣総裁も、“本流派” の人たちも、みんな本当は大調和して素晴らしく仲の良い神の子兄弟姉妹だった!

うれしい! 私は、ただ歌って踊っているだけでよいのだった!

バンザーイ!


すべては自心の展開である。

教団派と本流派が争っていると見える状態が出現していたのは、私の心の展開であった。

それを、総裁が悪い、本流派が口汚く教団と総裁をののしるのは間違っている、嫌だと、他に責任を負わして、自分一人悟りすましていたのは、たいへんな間違いだった。みんな私の心の展開であった。

それは、頭では分かっていたのだけれど、今一歩、紙一重のところで、まだ他の責任にしていたところがあった。だから、曳馬野さんがそこを突いてこられたのだ。それで、私は目覚めさせていただいたのだ。ありがとうございます!

私は今、真理そのものの本当の自覚から自分を蔽っていた紙一重の、迷いの雲が晴れた感じがしました。

>> 「人間は神の子である、至上者である」 という根本真理を、全心全霊をもって伝えて行くつもりです <<

と、>>3488で言っていましたが、「全心全霊」 になっていませんでした。今、その覆いがとれて 「全心全霊」 に、さらに一歩近づくことができました。これからますます本物が顕れてきます。なんとありがたいことでしょう! バンザーイ!

曳馬野さんのおかげです。ありがとうございます。

バンザーイ!

3463神の子さん:2013/12/13(金) 08:06:50 ID:???
フレー フレー

3464rei:2013/12/13(金) 08:30:19 ID:ZIftZ1jM
合掌おはようございます。

復興Gさまってなんと素晴らしい方なのでしょうか。

素直で謙虚で
生長の家実相哲学に精通しておられて
誠実です。

こんな言葉をかけてもいいのかしらと思われる程の
立派な方ですね。
 
本当にありがとうございます。
いつもとても感謝しております。

3465神の子さん:2013/12/13(金) 09:15:03 ID:S24xM2hI
>>3459

>お前と総裁だけだ!
>そんな風に聞いているのは! ボケ!
>いい加減にしろ!
-----------------------
こういう言い方こそ生長の家人として恥ずかしくないですか?
み教えより人間の最低限の基本を学んで下さい。

3466トキ:2013/12/13(金) 09:43:08 ID:8hY2dlTw
ユタカ様、いつもご投稿ありがとうございます。
曳馬野様へ異論がある場合は、罵倒ではなくて、
冷静な反論をお願いします。

 他の方々にも感謝と敬意を込めてコメントをのちほどさせていただきます。
いつも素晴らしいご投稿、ありがとうございます。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

3467ユタカ:2013/12/13(金) 22:28:12 ID:/B6zFSOc
>>こういう言い方こそ生長の家人として恥ずかしくないですか?
み教えより人間の最低限の基本を学んで下さい。

この言葉をそっくり総裁に持って行け〜〜〜〜〜〜。

トキさん、罵倒しか出来ません!!!!

3469トキ:2013/12/13(金) 23:07:11 ID:fXLZteoA
いやいや、復興G様の言われる通り、切磋琢磨の丁度よい機会です。本当に、曳馬野様には
感謝、感謝ですよ。最近は、総裁援護をするのは難しくてネットでも援護論はすっかりと
少数派になってしまっていますが、その中で堂々と援護論を書かれるのは偉いです。

 しかし、なかなか曳馬野様の言う通りに生活するのは難しいでしょう。

 少し話しはずれますが、数年前に愛犬家の資産運用のプロの人が殺害されました。報道によれば、
加害者の依頼先だった被害者が、大事な客である加害者との約束よりも愛犬の用事に出かける事に腹を立てて
「オレと犬とどちらが大事なんだ」と詰め寄ったら、被害者が「犬です」と返答したのが事件の経過
だとありました。勿論、だからと言って殺人などとんでもないのですが、普通の人間にとって、やはり
優先順位は人間なのです。

 それを無理に人間以外のものを優先すると、おかしな具合になると思います。

 昔、徳川綱吉という将軍様は、動物を可愛がれという僧侶の進言に従い、生類憐れみの令
なるものを出しました。この動機は宗教的に純粋でしたが、天下の国民は全て難儀しました。

 理念や理想は大事ですが、現実に生きて居る人間は、やはり生活があります。谷口雅春先生
は「真理は生活の中にあり」と言われました。私も生活と乖離した信仰は息苦しくなるので
嫌いです。

 特定の宗教家にしかできない生活ではなく、ごく普通の市民でもできる信仰のあり方が
大事だと思います。人間至上主義は間違いかもしれませんが、人間否定主義のほうがどうも
恐ろしいかと感じてしまいます。生きている人間にとって、優先順位はやはり人間なのです。

 それが信仰が進化すると、自然と人間以外のものも同じ存在に感じられます。それは素晴らしい
事です。でも、無理に強制すると、おかしな事になると思っています。

 自然を大事にするのを否定するのではないです。が、優先順位は考えるべきだと思います。

 うちも軒先に蜂が巣を作っています。でも、刺しませんし、こちらもいじめません。朝起きて
蜂の巣の前を通る時には、挨拶をします。先日、アクビをした時に、手を伸ばしたら、何かと
ぶつかりました。見ると蜂でしたが、別に刺しませんでした。

 小さな事ですが、人間から始める事が大事かと思っています。

 ということで、私の与太話はこのあたりで終わります。

3470復興G:2013/12/14(土) 09:44:46 ID:AB6RqYXc

トキ様

面白い “与太話” 、ありがとうございました。

「肉体人間至上主義」 はいけない。

「神の子人間至上主義」 に立ち還ろう、ということで精進したいと思います。

ありがとうございます。

3471ユタカ:2013/12/14(土) 09:50:26 ID:R1D4Jmeg
罵倒してどうもすみません。

誤解しないよう言いますが、総裁や曳馬野に死んで欲しいと思っていません。
怒りの感情を感謝に変えたいと 修行中のユタカですが、教団破壊の現況に一人一人が立っていかなければいけない状況に、

曳馬野が出てきて、生長の家と似て異なる持論を展開して人を惑わせる危険人物でこの人が総裁と組んで教団を破壊した

人物だと心のどこかで思っているのです。 こういう人が出てきても復興Gさまのようにさらに、天へと上って行く生き方、捕らえ方こそ
菩薩の道を行く人とまた勉強させて頂きました!!!


トキさん、これでどう!???気分よく書いた。

いい湯だな・・ハハン!

3472復興G:2013/12/14(土) 10:03:46 ID:AB6RqYXc

遅くなりましたが、

>>3463 :神の子さん様

ご声援 ありがとうございます。


>>3464:rei さま

過分のおほめ、ありがとうございます。

でも、私は まだまだこれから の未熟者ですよ。

だから、希望があります。

悟りきった人間は、もうこの世に必要なくなるんじゃないかしら。

「まだまだこれから」 だからこそ、楽しみがあります。うれしいですね。

ありがとうございます!

3474復興G:2013/12/14(土) 10:14:22 ID:AB6RqYXc


>>3471 :ユタカさん

>> 怒りの感情を感謝に変えたいと 修行中のユタカです <<

――あなたも、一所懸命修行中なのですね。

希望がもてます。すばらしいです、ありがとうございます!

3476復興G:2013/12/14(土) 12:43:08 ID:AB6RqYXc

 童謡 「ぞうさん」 の作詞者で104歳になった まど・みちお さんが、白寿(99歳)のときの作品に、次のような詩(うた)があります。ちょっと出てきたので、ご紹介します。

     〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<まど・みちお作品集(白寿記念)> より

   とうさん (「ぞうさん」 のかえうた)

とうさん
とうさん
おはなが ぺちゃんこね
そうよ
かあさんも
ぺちゃんこよ

とうさん
とうさん
だれが すきなの
あのね
かあさんが
すきなのよ


   ふたあつ

ふたあつ ふたあつ
なんでしょね
おめめが 一 二
ふたつでしょ
おみみも ほら ね
ふたつでしょ

ふたあつ ふたあつ
まだ あって
おててが 一 二
ふたつでしょ
あんよも ほら ね
ふたつでしょ

まだ まだ いいもの
なんでしょ ね
まあるい あれよ
かあさんの
おっぱい ほら ね
ふたつでしょ


   一ねんせいに なったら

一ねんせいに なったら
一ねんせいに なったら
ともだち ひゃくにん できるかな
ひゃくにんで たべたいな
ふじさんの うえで おにぎりを
ぱっくん ぱっくん ぱっくんと

一ねんせいに なったら
一ねんせいに なったら
ともだち ひゃくにん できるかな
ひゃくにんで わらいたい
せかいじゅうを ふるわせて
わっはは わっはは わっはっは

     〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ――百歳になっても、幼児の心を持ちつづけている まどさんはすばらしい。

 私も、そうありたいです。

<つづく>

3477復興G:2013/12/14(土) 12:44:16 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 『生長の家』 創刊号に、次のような詩が載っています。

     〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

  生長のお家は
  日当りが好い、
  お庭がひろくて
  藤の棚があります。

  生長のお家に
  ブランコが出来ました
  多勢の子供が来て
  さわいでよろこびます。

  大人も子供も
  生長のお家に来る人たちは
  みんな一しよに
  伸び伸びと生長します。

  生長のお家で
  私たちは生長の火をとぼします
  人類の魂を燃やす火です。

  私は自分の火が
  大きいか小さいか知りません。
  だけど小さな火でも
  大きな蝋燭(ローソク)に火を点(つ)けることが出来ます。

  私の生長の火よりも
  大きな蝋燭も集つて下さい
  何百何千の大廈高楼(たいかこうろう)が
  小さな燐寸(マッチ)の火でやけるかも知れません。
  私はそれを期待してゐるのです

  火がつかなければ
  何度でも燐寸を擦(す)ります。
  燐寸がなくなるまで私は
  人間の魂に火をつけて見たいと
  思つてゐるのです。

     〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ――こういう 「生長のお家」 を、復興しましょう。

3478ユタカ:2013/12/14(土) 20:44:49 ID:R1D4Jmeg
 >――こういう 「生長のお家」 を、復興しましょう。

復興Gさま

そういう「生長のお家」を復興しましょう。 

素敵ですねーーー。大賛成!!です。 これから明るい希望がもてますね。

復興Gさまにどこかチャーミングな所を感じていたのは上記の童謡の心を大切にしているからなのですね。
うん。。。納得、納得。。。。

復興Gさま、ありがとうございます!

3479ユタカ:2013/12/14(土) 21:40:11 ID:R1D4Jmeg
a hopeさま

「神の世嗣を完うする祈り」 を有難うございました。おお!素晴らしい!!
タイミング的にピッタリ! 繰り返し噛み締めて読みたいと思います。
何か嬉しくて有難いです。

3480ユタカ:2013/12/14(土) 21:42:18 ID:R1D4Jmeg
a hopeさま

私のお礼の言葉がタイミング遅くてすみません。今読んできました。

3481トキ:2013/12/14(土) 22:26:26 ID:RV0mIozw
>>3477

復興G様

 すばらしい詩を紹介して下さり、ありがとうございます。

復興G様の前でこんな事を言うのは釈迦に説法ですが、古い先達の方々から
聞いた生長の家は、この詩の通りだったと記憶しています。いつのまにか、
「あれもしてください」「これもしましょう」というものが増えて、最初
の理想が見えなくなったような気がします。

 一人一人が、この詩の精神を大事にすることが、必要だと感じます。

 実に素晴らしい詩です。感激しました。

3482復興G:2013/12/16(月) 10:32:27 ID:AB6RqYXc

>>3481 :トキ様

共感して頂いて、ありがとうございます。

昨日は朝から夜まで行事があって、失礼しました。


>>3479 でユタカさまがa hopeさまにお礼を言ってられるのは、
>>3381の「神の世嗣を完うする祈り」ですね。

私も、この祈りはタイミング的にもぴったりで、うれしく、プリントアウトして、何度も繰り返し念じています。

これは、
>>3128でユタカさまが言われた 『光のある内に』 の
<< 人間は本来神の子であって、神の世継として、神の全財産をゆずられている。 神の全財産とは全宇宙のことです。
 全宇宙のすべての宝が自分の中にあるんですから、これ以上、何も外に求めることはない。みんな自分のうちのある。
 ですから人間はただ喜ぶことしかないんです。
 ただ与えることしかないんです。
 だから私たちは本来喜びの歌をうたうしかないんですね。
 そして喜びの歌を歌えば、どんどん喜ぶべき世界が展開してくるんです。>>

ということとも繋がりますね。

ありがとうございます!

3483復興G:2013/12/16(月) 10:41:09 ID:AB6RqYXc

<再掲>

   「神の世嗣(よつぎ)を完(まっと)うする祈り」

わたしは今 〝神の子〝 であることを悟ったのである。
神はわが父であり給い、私たち人間を神の世嗣として地上に顕現せしめ給い、
神の御心を地上に実現するための 〝神の子〝 として地上天国建設の使命を授け給うたのである。
この大使命を自覚するまでの私たちは、いわば 〝漂浪(さすらい)の子〝 〝放蕩息子〝 とも譬(たと)うべきものであったのである。
しかし今はもう私は 〝漂浪(さすらい)の子〝 でも 〝放蕩息子〝でもないのである。
わたしは今、父の御許に立還(たちかえ)ったのである。
父はわたしが郷里に還ったことを悦びたまうて、父のもち給える一切の善きもの、
美しきもの、悦ばしきもの、楽しきものを与え給い、私を神の世嗣とし給うのである。
神の大いなる清く健やかなる生命の流れが滔々として、今わが内に流れつつあるのである。
それゆえに、私は今、無限に健やかであり、溢るるばかりの生命の豊かな躍動を内に感じ、
地上天国建設のために、
私に割当てられたる仕事にいそしむことができるのである。

私は今、ゆるされて神の世嗣となったのであるから、神の明らかなる智慧は常に神の御蔵あ(みくら)より私に流れ入って、
何時(いつ)、如何(いか)になすことが、繁栄の道に叶い、健康の道に叶い、人類の福祉の道となり、
地上天国建設に役立つ道であるかを明らかに知ることができるのである。
わたしの努力することは必ず実を結び、わたしの計画することは必ず善き協力者を得て、成就することは明らかなのである。

わたしは今、神の世嗣として、わが内部に神の大生命が還流し、素晴らしい生命の輝きを発揮していることを自覚するのである。
それゆえに私は常に心明るく楽しく愉快で、光明の雰囲気を身辺に放散しているのである。
したがって、私の身辺にきたる人々は、ことごとく明るくなり、楽しくなり、愉快となり、幸福となるのである。
したがって、私は多くの良き協力者を得、共鳴者を得、いよいよ益々繁栄せざるを得ないのである。

わたしは今、自分がまことにも神の世嗣であることを自覚したのである。
今、ここに、私の体に神が満ちていますのである。
永遠の生命、永遠に疲れず、老いず、病まず、働きてやまざる生命、
――これが神の生命であり、私の生命であるのである。
その生命の貴(とうと)さを自覚するとき、わが生命はその高貴さを現実に発揮するのである。
その生命の貴さを自覚して行動するとき、神が現実に、この 〝私〝 を通して顕れ給い、
奇蹟と見ゆるごとき大業をもやすやすと成就することができるのである。
人間が神の世嗣であるということは、人間は自己を通して神の一切の善徳がこの世に実現する機関であるということである。
自覚せよ、自覚せよ。
〝私は 〝神の子〝 であり、神の世嗣であり、神の最高の自己実現であることを。
ありがとうございます。

3484a hope:2013/12/16(月) 22:34:33 ID:/9IAdiFk
>>3479 >>3480 ユタカさま >>3482 3483 復興Gさま

わたしが、今月のweb誌友会の開会の祈りとして謹写させていただいた「神の世嗣を完うする祈り」を、
褒めていただきありがとうございます。

わたしは、「生命の實相」から「生長の家の教え」に入りました。
そして、すぐに「生長の家」の信徒になりましたが1年程で退会したので、
ここに書き込みを始めた当初は、信徒必携と言われている「聖光録」や「真理の吟唱」の存在を知りませんでした。

掲示板でお話をさせていただいているうちに、「聖光録」はももんがさまから教えていただき、
「真理の吟唱」はユタカさまに教えていただいたのでした。

掲示板の世界って現実と夢が混然としているような不思議な世界ですが、
そんな世界の中で 「生長の家」の新入生 a hopeはみなさまからたくさん学ばせていただき、
たくさん生長させていただきました。

わたしは今、この掲示板でお知り合いになれた一人一人の方々に心から感謝しています。合掌。



ところで、せっかくの機会ですので、今まで聞いてみたかったことをみなさまに質問させていただきます。
教団信徒であった期間が短いわたしは、実は、生長の家の「愛行」についてよく知らないのです。

「愛行」とは、愛を行ずると書きますから、現在のわたしの生活では「和顔愛語」を心がけ、
常に相手の実相を観るようにしています。

ですが、信徒だったころは「生長の家」の「愛行」というと、普及誌を配ったり講演会へお誘いしたりすることのように思っていたのです。
だから、正直に言えば、「愛行」という言葉にあまりいいイメージをもっていませんでした。

「生長の家」の「愛行」とは本当にはどういうことをすることなのでしょうか?

復興Gさま、トキさま、ユタカさま、曳馬野さま、あさひさま、reiさま、
(最近このweb誌友会板に書き込みされている方々の名前をあげさせていただきました)
そして、その他のみなさまにもぜひ、うかがいたいです。

みなさまは、どのような「愛行」をされていますか?

「生長の家」の「愛行」について教えていただけるとうれしいです。

3485rei:2013/12/17(火) 08:19:46 ID:ZIftZ1jM
おはようございます

a hopeさま
小さな私の名前も載せていただいたのでお答えします

愛行とは私も最初はあなたのように考えていた時期もありましたが
だんだんと発展して来て
自分以外の他(本当は自分自身なんだろうけれども)に対して
どんな小さなことでもいいから深切を与えることだと思って行動する様に努めています
具体的には
自分の利益を度外視して相手の為に尽くすことだと思っています
それが時には
祈りであり、電話であり、悩みを聞いてあげることであり、一緒の時間を過ごすことであり
本をあげたり、誌友会にお誘いしたり、真理はこうだよとそれとなくお伝えしたり
時には
人知れず見えない所で動いたり、自分の体験を語ってあげたり、写経をあげたり
そして時には
あなたは一人で歩けるよと云って黙って去るとか‥‥

どうすることが「愛」なのか必死で考えています
一人一人の顔が違う様に愛行も相手にあわせて千差万別

匿名で真理をお伝えくださる復興G様などは本当に素晴らしい愛行をなさっておられ
と尊敬させて頂いております。
またこの掲示板を開設して皆様に「場」を提供されおられるトキ様も
御自分の利益など考えておられないと思います。
素晴らしい愛行だと思います。
それは、お二人共、目に見えない大勢の生長の家の信徒へ向けてのの「愛」を発信されているのだと
私は思っています。

愛行に関しては、私は「信仰の活人剣」をバイブルにしています。

3486復興G:2013/12/17(火) 15:09:19 ID:AB6RqYXc

>>3484 :a hope さま。

生長の家で 「愛行」 と言えば、「神誌」 と言われた『生長の家』 の月刊誌をたくさんとって人々に配ること、とほとんど同義語に使われていた時代もありました。それは、振り返って見ますと――

『生長の家』 創刊号の目次ページの裏に、

「吾れを伸ばすものは、
絶えず與へてゐると云ふ感じ、
紹えず人から喜ばれてゐると云ふ感じ、
與へる歓びは自己擴大の感じ、
自己の愛が次第に擴がる感じ、
この感じのうちに生命は伸びて行く。」

とあり、その前、表紙の裏面には


<< 『生長の家』 は讀み捨てにするやうな雑誌ではありません。どんなに此れが好い雑誌であるかは讀んで御覧になれば判ります。

讀みガラを捨てないで常に座右に置いて下さい。そして心に暗い影がさして來たら本誌のどの一頁でも宜しいから、開いてお讀み下さい。あなたの心がそれはそれは輕くなります。暗い人生観が明るい人生観にかはります。

これを病人に贈れば實に好い慰めともなり見舞ひともなります。私の書いたものは唯讀むだけでも元氣が出て病氣が輕減することが度々あるさうです。
愛息や愛弟妹に讀ませて頂けば、在來の消極的教育とはちがつた溌刺たる積極的精神が培はれます。

『生長の家』 は一つの家庭に是非一冊はなくてならない雑誌です。日本國中の家庭が此の雑誌をとつて呉れれば日本國中の家庭が榮えます。争ひの絶えなかつた家庭が平和の家となり、悲しみの家が喜びの家となり、病人の絶えなかつた家庭が健康の家となり、何事も不如意であつた家が 『生長の家』 となります。

私は日本國中の家庭を樂しい 『生長の家』 とするために全精力と全資金とを此の事業に献げます。

日本を愛する人々よ、知人に此の雑誌を紹介して下さい。屹度その知人がお喜びになります。此の人なら讀んで喜んで呉れさうなと思はれる知人があつたら其の人の住所氏名を發行所まで御知らせ下さい。幾部でも見本誌をお送りします。(生長の家發送部より)>>


 とあります。そして、「『生長の家』出現の精神とその事業」 と題する冒頭の言には、

<<自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ。起たざるを得なくなつたのである。友よ助けよ。同志よ吾れに投ぜよ。…(中略)…自分の火は小さくとも人類の行くべき道を照さずにはおかないだらう。此の火は天上から天降つた生長の火である。火だ! 自分に触れよ。自分は必ず触れる者に火を點ずる。生長の火を彼に移す。自分は今覚悟して起ち上つた。見よ! 自分の身體が燃え盡すまで、蝋燭のやうにみづからを焼きつつ人類の行くべき道を照射する。>>

 と、述べられています。

 そうして、谷口雅春先生ご自身が会社勤めをしながら身銭を切って 『生長の家』 誌一千部をつくり、最初は知人などに無料贈呈送付することから、生長の家の運動は始まった。そこで、この先生のお言葉に呼応して起ち上がった生長の家信徒たちは、「愛行」 と言えばこの 「神誌」 の購読者をふやすこと、さらにはこれを自分がお金を出してたくさんとって人々に配ること、とほとんど同義語に使われて、誌友拡大にひたすら邁進していた時代があったわけです。

 「誌友拡大」 こそが日本を救い人類を救うことになるんだ、この運動は神が始められた神様の運動なのだ、私たちは神に選ばれた霊の選士なのだ――そう固く信じてこの運動に熱中するあまり、ややもすれば行き過ぎや無理が生じたこともあったと、いま振り返ってみれば、思われます。

それで、a hope さまが
>>正直に言えば、「愛行」という言葉にあまりいいイメージをもっていませんでした<<
とおっしゃっているのは、「愛行」 は本来、自発的に行うものであり、よろこびの行であったはずだのに、強制される苦行のような状況もあらわれていたのかなあと思います。

<つづきます>

3487復興G:2013/12/17(火) 15:40:59 ID:AB6RqYXc

<つづきです>

 谷口雅春先生特別御講話 「菩薩、何を為すべきか」 と題されたカセットテープ(世界聖典普及協会製作頒布)があります。「實相研鑽会」(地方講師・光明実践委員の相互研鑽会) での御結語を収録したものです。

その第1話は 「伝道とは愛の実践」、
第2話は 「上求菩提と下化衆生」

 という題で、実に素晴らしい御講話だと思います。その要点を、これから録音を聴き直して筆記し、お伝えしたいと思います。時間がかかりますので、しばらくお待ち下さい。

3488ユタカ:2013/12/17(火) 17:58:18 ID:R1D4Jmeg
「生長の家」の「愛行」とは本当にはどういうことをすることなのでしょうか?

a hopeさま

今から復興Gさまがお答えくださいますが、ユタカは?と聞かれたので。。。
ここのみんなは笑うでしょうが・・ユタカの思う「生長の家の愛行」は

今おかれた場で、生命の実相でこれいいなと学んだ事を「実践」することかな。
実践しようと心がけながら、「七転び八起き」でも前進することかな〜。

職場で学校で、いつも「神様に護られているから大丈夫。」って四六時中言っています。
そして「神様っているの?」などと話が進んだら、谷口雅春先生の御本を差し上げています。

先日は、倒産した会社の社長に「光のある内に」のここで勉強した「あなたの中にすべてがある」と言うところの文章のコピーとともに沢山励まして、雅春先生の御本を差し上げました。
次は、クリスマスに「青年の書」をあの人とこの人にプレゼントする予定です。

以上がユタカさんなりの愛行です。みんなは具体的にどんな愛行をしているんだろうな?








3489復興G:2013/12/17(火) 20:50:00 ID:AB6RqYXc

>>3486のつづきです。

 谷口雅春先生特別御講話 「菩薩、何を為すべきか」 と題されたカセットテープ(「實相研鑽会」 での御結語を収録したもの。世界聖典普及協会製作)の第1話 「伝道とは愛の実践」 を再生筆写させていただきます。「愛行」 とは何かについて、たいへん深いお話がありますので、ここに、連続して謹掲させていただきます。

(この實相研鑽会は、昭和54年頃に行われたものと思われ、『實相研鑽』 の本には収録されていません)

 最初に、先生はテキスト 『信仰の活人剣』 68ページから 「仏の使命」 というところを朗読されます。以下のご文章です。(≪ ≫ の中はテキストのご文章)

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

≪ 仏の使命 (『生命の實相』 第39巻より)

 仏のなすべきことは何であるかというと、説法ということであります。

 そう言うとおかしく聞こえますけれども、「すべてのもの言によってつくらる、言葉は神なり」 というキリスト教的立場からしましてもそうなのであります。≫

 つまり、神様がコトバを出されるということは、一切の天地のものをお創造(つく)りになるということになるんですね。

≪仏教でも釈迦は 『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』 の説法を終わると、「如来(にょらい)の応(まさ)に作(な)すべき所の者は皆已(すで)に之(これ)を作(な)せり」 と言われました。≫

 仏の使命というものは、説法をするということである。

 成仏(じょうぶつ)するというのも、「成仏」 の 「成(じょう)」 は 「なる」 (成る=鳴る) である。

 仏の実相が鳴りひびくときに、本当に 「成仏した」 ということになるわけですね。

 あるいは 『法華経』 の中に、
 「大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)は十劫(こう)の間道場に坐っておられたけれども成仏しなかった」
と書いてあるけれども、それは説法をしなかったからですね。成り(鳴り)ひびかなかったからです。鳴りひびくということが大切であるわけです。

 華厳経には、毘盧遮那(ビルシャナ)如来が衆海(しゅうかい=もろもろの世界海)の中で、「正法(しょうぼう)を演説し給う」 と書いてある。

 「正法」 とは正しい真理の法(コトバ)です。真理のコトバを説法するのが、如来の、盧舎那(ルシャナ)仏の愛行であったわけです。

 僕も、毎日神想観をして――神想観というのは、これ、説法でありますよ。心の中で説法をする。

 「われ今、五官の世界を去って実相の世界に入る。
 ああ、美(うる)わしきかな、此の世界よ。
 神の無限の智慧に満たされてあるかな。
 神の無限の愛に満たされてあるかな。
 神の無限の生命に満たされてあるかな。
 神の無限の供給に満たされてあるかな。
 神の無限の調和に満たされてあるかな。
 神の無限の喜びに満たされてあるかな。
 ………」

 ――これはですね、まことに正法を説法している。

 実際に実在しているところの真理を、コトバに表現して、それを伝えるんですね。

 その説法が、アフリカのガーナ国まで行くわけですよ。本当ですよ。(拍手)
<つづく>

3490復興G:2013/12/17(火) 22:52:02 ID:AB6RqYXc

< >>3489のつづき>

 この真理の説法――本当の愛行というものは、雑誌をね、配るだけじゃないんですね。

 雑誌を配るのでもね、幹部の人からこうして割り当てられたから、めんどうくさいけれども、なんとかして配らんならんなと思って、つぶやきながら、つらい、つらいと思いながら郵便箱へ放り込んだりしておったらですね、それは伝道にはならんですね。

 本当に、雑誌を配るんだったら、「愛」 行と言われている、「愛」 を持たないといかん。つらいなあ、なんて思ったらいかんので、自分の、この雑誌一冊が、これを受けとる人が、本当に真理をさとって救われますように、実相が顕われますように。自分は天の使いとして、こうして真理のコトバを配らしていただいているんだ。ああ、ありがたい。「どうぞ、この真理の言葉を受けとってください」 という愛念があって配らなければですね、ただ単につらい行である、責任だけ果たさんならん、なんていうのでは、本当に真理の説法にならないというわけなんですね。

 この 『信仰の活人剣』 の中に、さっきちょっと開いたら、
 「願なき行は魔である」
 という言葉が書いてありましたがね。

 「願」 というのは、如来の本願、四十八願というのがありますがね、あれは何かというと、愛の念願です。それには、「こうしたい」 という一つの理想が含まれている。愛の理想が。

 「すべての人類が救われるまでは、私は仏にならん」

 という法蔵菩薩のすばらしい理想と愛というものが、あの四十八願の中にあってですね、それではじめて阿弥陀如来として法蔵菩薩が成仏せられた。

 われわれが伝道するのは、やっぱり、それでなければならにですね。理想がなければならない。愛がなければならない。………

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

――まだまだ続きますが、テープ起こし謹写は一応ここまでにさせて頂きます。

>>3489で、神想観も説法である、すなわち愛行である、というのは、本当にうれしくなりますね。

 バンザーイ! です。

 愛行は、たとえ何も持っていなくても、あらゆるところで愛行は出来る。電車に乗って、乗り合わせているすべての乗客がみな神に生かされている神の子でいらっしゃると観じ、招神歌を心に念じて、第一首の

  「生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ) 元津霊(もとつみたま)ゆ幸(さきは)え給え」 

 というとき、その意味は

≪ 「元津霊(もとつみたま)ゆ」 は 「元のみたまより」 「大生命より」 という意味。「幸え」 は、われらの幸福は自分の力で得られるものではなく、大生命から、「割(さ)きはえ」 されることによって得られる。「割き」 は 「分ち与える」 の意、「はえ」 は 「延(は)える」 すなわち 「根から末へ出て来る」 ことを言うので 「神」 という大根底から神の子なるわれらに霊を与えられることをいう。霊を与えられればわれらの霊は殖える。これを 「恩頼(みたまのふゆ)」 とも 「霊のたまもの」 とも言い、「霊のたまもの」 が殖えればわれわれはズンズン生長し幸福になれる≫(『生命の實相』第8巻「観行篇」)

 ということでありますが、その 「幸え」 が、「自分に」 ではなく、「電車の乗客すべてに」 と念じます。

  「吾が生くるは吾が力ならず、天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)。
  吾が業(わざ)は吾が為すにあらず、天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の権能(ちから)。」

 というときも、「吾が」 というのは 「自分」 ではなく、乗客すべてが自分の力で生きていらっしゃるのではない、神の力で生かされていらっしゃる神の子にまします、と拝む気持で念じさせていただきます。

  「天地(あめつち)の祖神(みおや)の道を伝えんと顕(あ)れましし 生長の家の大神まもりませ」

 も、「乗客すべてを 生長の家の大神 守り給え」 「乗客すべてが生長の家大神に守られて、今すばらしく幸福でいらっしゃるのである」 と念じます。

 こういうことも、すばらしい愛行ではないかと思っています。

 まだまだ書きたいことがありますが、あとはまた明日にさせていただきます。

3491a hope:2013/12/18(水) 00:30:32 ID:/9IAdiFk

>>3485 rei さま

お返事くださり、ありがとうございます。
<<(愛行)とは自分の利益を度外視して相手の為に尽くすことだと思っています>>
というお返事、わたしはとても納得がいきました。
それはきっと、「無償の愛」または「アガペー」といって「神の愛」と同意義なのではないかと思います。

そう考えると、招神歌に、
『わが業(わざ)はわが為すにあらず天地(あめつち)を 貫きて生くる祖神(みおや)の権能(ちから)。』
という節がありますが、まさに「生長の家」の「愛行」は神の業によって行われるものだと言えないでしょうか?

また、具体的にも色々と教えてくださりありがとうございます。

<<どうすることが「愛」なのか必死で考えています
一人一人の顔が違う様に愛行も相手にあわせて千差万別>>

reiさまは常に相手にとって最善のことをしてさしあげようと努力されているのですね。
きっと、reiさまの心のこもった「愛行」にたくさんの方々が救われているのだと思います。

そして、ご紹介の「信仰の活人剣」に関しては、楠本加美野先生の「伝道物語」のまえがきに、
「本書は『信仰の活人剣』の実証篇とも言える。『信仰の活人剣』と併用され、日本国の実相顕現のために役立てることができますよう希(ねが)ってやまない。」
とあったので、以前購入してあって、現在手元にあります。
復興Gさまのお話のなかにも出てきていますから、どうやら、「生長の家」の愛行を理解するにはぴったりのテキストのようですね。
さっそく拝読してみます。

また、復興Gさまやトキさまの「愛行」に関しては、完全同意させていただきます。
わたしも、お二人のことは心から尊敬させていただいています。

rei さま、素晴らしいお返事をありがとうございました。合掌。

3492a hope:2013/12/18(水) 00:34:49 ID:/9IAdiFk

>>3488ユタカさま

<<今おかれた場で、生命の実相でこれいいなと学んだ事を「実践」することかな。
実践しようと心がけながら、「七転び八起き」でも前進することかな〜。>>

とありますが、ユタカさまもrei さま同様、[試行錯誤をされながら、具体的な形で実践されているのですね。
素晴らしいですね!

また、
<<職場で学校で、いつも「神様に護られているから大丈夫。」って四六時中言っています。>>
とありますが、実は、この「神様に護られているから大丈夫。」という言葉には、わたしも以前救われたことがあるのです。

4年くらい前ですが信徒だった時に、娘の一人のことでちょっと心配事があったときに、
年配の講師の先生が「娘さんは『神さまが護って下さっているんだ』、と思っていれば大丈夫ですよ」と、
本当にさりげなく、それが当たり前のことのように声をかけてくださったのです。
それまで、「自分の祈りの力で何とかしよう」と力んでいた自分の肩の荷がふっと下りて、
「あーそうなんだ、大丈夫なんだ」って、とても楽な気持ちになったのです。

そのお言葉は今でもわたしの心にしっかり残っていて、子どもたちのことで、
心配なことが起こるたびに(頻発してますが・・・)思い出し、心を落ち着けています。

今気づきましたが、その講師の先生のお言葉こそ、わたしにとって「神の言葉」であったのですね。
だって、その講師の先生の何気ない「愛行」による一言で、わたしは今でも救われ続けているのですから・・・。
だから、ユタカさまもきっと周りの方々をたくさん救われているのではないでしょうか?
わたしも、「神様に護られているから大丈夫。」このおまじないのコトバ、これから使ってみようと思います。
だって、自分が救われたのですから、お返ししないとね!

ユタカさまのお返事で、とても大切なことに気づかせていただきました。
ありがとうございます。合掌。

3493a hope:2013/12/18(水) 00:47:00 ID:/9IAdiFk

>>3486 〜復興Gさま

<<生長の家で 「愛行」 と言えば、「神誌」 と言われた『生長の家』 の月刊誌をたくさんとって人々に配ること、とほとんど同義語に使われていた時代もありました。>>

やはり、そういう時代が実際にあったのですね。

その名残のような形で、今でも「愛行」という言葉がそのような意味でつかわれていることがあるのではないでしょうか?

ですが、みなさまのお返事を拝見していると、どうやら「生長の家」の「愛行」はそういう意味ではないということがわかってきました。

また、貴重な谷口雅春先生の御講話のテープを再生謹写してくださり、心から感謝いたします。
本当に素晴らしい内容ですね。
「信仰の活人剣」の内容も拝見しながら、これからじっくりお勉強させていただきます。

感謝 合掌。

3494rei:2013/12/18(水) 08:34:20 ID:ZIftZ1jM
おはようございます

a hopeさま
素直な表現をされるあなたも素晴らしいなと思い、いつも読ませて頂いています。

復興Gさま
いつも本当に有り難うございます。
勉強させて頂いております。

ユタカさま
この前は曵馬野さまに対して熱くなっておられてちょっとビックリしましたが、
似た思いは感じていました。

みなさまいつも本当にありがとうございます。

3495ユタカ:2013/12/18(水) 22:05:46 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま

大変な作業をそのようにお急ぎになってなさらないで下さいね。

テープを訊けさんに送ってみんなで聞くっていう方法なども考えられますよ。

復興Gさまが疲れたら悲しいです、ゆっくり作業してください。

reiさま、
ありがとうございます。愛行の事、完璧!と思ってしまいました。 本部の先生のようですねカッコイイ!
曳馬野さんのいう事は総裁の思想とそっくりですが、生長の家の御教えとは程遠いように思いました。
難解なことさえ言えば周りが黙ると思っているのでは無いのかと思うと熱くなります。

3496ユタカ:2013/12/18(水) 22:11:47 ID:R1D4Jmeg
難しい事を優しく分かり易く伝える方が難しい。

新しい事をやることは自由で派手で楽しい、それより、伝統を受け継いで行く方が、地味で苦しい。

3497復興G:2013/12/18(水) 22:34:03 ID:AB6RqYXc

ユタカさま

ありがとうございます。

ゆっくりやります。

谷口雅春先生の特別御講話を聴き直して、深く感に打たれています。

これで行かなくてはと、肝に銘じつつテープ起こし・PC打ち込みも、ゆっくりさせてもらいます。

そして、思うところもたくさんあります。

年内に、まとめの仕上げをしたいと思います。

合掌

3498rei:2013/12/19(木) 08:13:15 ID:ZIftZ1jM
おはようございます

ユタカさま
ちょっと私を褒めすぎ?のような気もします。
できてない部分は言ってないだけです‥‥。

でも、曵馬野さまに対しては昨日のような優しい言葉を使ってもらうと
私はありがたいです。

合掌

3499ユタカ:2013/12/19(木) 08:19:15 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま

そうですか!分かりました、室内を暖かくして湿度も保って、ゆっくりなさって下さいね。

いつも有難うございます。 ユタカは今日も元気に仕事にいってきま〜す!^^

みなさん、有難うございます、今日も元気一杯、無限力で生き生きやりましょう! イェーイ!生長のイェーイ!(バカ?


3500ユタカ:2013/12/19(木) 08:20:40 ID:R1D4Jmeg
>3498

絶対 嫌だ! 大嫌い!

3501ユタカ:2013/12/19(木) 08:22:03 ID:R1D4Jmeg
あ、間違えた、感謝できたら

優しくなれると思います。

では、もう遅刻しそう!

3502ユタカ:2013/12/20(金) 00:23:54 ID:R1D4Jmeg
>また雅宣先生が皆さんの云うような人であるとするならば、そのような人しか育てられなかった清超先生は師と呼ぶに値しないと云わなくてはなりません、

そしてそのような清超先生と云う弟子しか育てられなかった雅春先生は師と呼ぶに値しないと云わざるを得ません。つづく

reiさま
曳馬野さんのこの言葉を読みましたか?
私は、60歳のお爺さん(総裁の事)の所業を今更、親や祖さまの責任にしていますよね?

40歳すぎた男の顔は自分の責任だよね。。。。と私は思います。(20歳過ぎたら自分の責任ですね。) 引く馬ノさんの人生の失敗は全て先祖の責任ですか?って聞いたら親が私をこのように生んだからです。と言うのかな??

とにかく大嫌い!!

3503rei:2013/12/20(金) 08:32:10 ID:ZIftZ1jM
ユタカさま
おはようございます

曵馬野さまは生長の家をよく研究していて、
妻と共に熱心に信仰しているなんていうのは嘘だなと思いました。

その指摘だけで良かったのではないですか。

復興Gさまが論破してくださり、逆に私は嬉しかったですね。
曵馬野さまは答える事も出来なかったではありませんか。

生長の家の素晴らしさが、より解った瞬間でした。

ユタカさまのお覚りもとても素晴らしいなあとおもいました。
現生長の家も本流派もみんな雅春先生の生長の家だ!って言われたところ。
分派争いしているんじゃなくて、拡大してるんだよね?
すごいじゃないですか。
枝分かれして伸びていってるんだ。
争っている様に見えるのは間違いで、それぞれが信仰を深めているんだと観るんだって
いうのは「実相を観る」という生長の家の素晴らしさを如実に顕す機会を頂いていて
本当にありがたいことですね。
あなたのお蔭です。
気づかせて頂いて本当に感謝しています。

合掌

3504復興G:2013/12/20(金) 10:55:08 ID:AB6RqYXc

ユタカさま
rei さま

>> ユタカさまのお覚りもとても素晴らしいなあとおもいました。現生長の家も本流派もみんな雅春先生の生長の家だ! って言われたところ。

「分派争いしているんじゃなくて、拡大してるんだよね?」

すごいじゃないですか。

枝分かれして伸びていってるんだ。争っている様に見えるのは間違いで、それぞれが信仰を深めているんだ と観るんだっていうのは。<<

 ――ほんとに、そうですね。

 すばらしい!

 実相世界にすでにある、中心帰一大調和の無限に完全な素晴らしい神の国が、いよいよもっともっと完全に地上に顕れようとしている課程なのだ! すばらしい! ありがたい! と思います。

3505ユタカ:2013/12/20(金) 21:09:27 ID:R1D4Jmeg
>実相世界にすでにある、中心帰一大調和の無限に完全な素晴らしい神の国が、いよいよもっともっと完全に地上に顕れようとしている課程なのだ! すばらしい! ありがたい! と思います。


あ、分かった!

そういう事だったのですね。 良かった! 悪く見えるのは夢で、本当は神の国建設拡大中か!
良かったなぁ、 本当に良かったな〜〜〜。
復興Gさま、reiさま、おじさん、本当に有難うございます。

3506seo thing:2013/12/21(土) 05:16:56 ID:1frP8/Xo
SnQoIN I really liked your article post.Much thanks again. Really Great.

3507神の子さん:2013/12/22(日) 18:01:14 ID:NYUcBHWQ

  >>3503  reiさん

 【復興Gさまが論破してくださり、逆に私は嬉しかったですね。曵馬野さまは答える事も出来なかったではありませんか。】

私は論破されてぐうの音も出ないと云われるのですね。では皆さんにお聞きしましょう。

生長の家では大生命の存在と共に個生命の永遠を信じるものであります、とありますよね(七つの光明宣言の解説の二)。 としますと

神が実在の世界に於いて、個生命として実在の完全なる人間を創造したと云うことになります。

そこで疑問

 現象界、これは霊界も含めた全宇宙という意味ですが、に存在する個生命は有限でありましょうか?

  有限でありますと、生まれ変わりをさんざんして魂の磨きをし、実在そのものの影を映し出すまでの魂に、全個生命が
  成った暁には、何処で(現象的に)生活するのでしょうか?
  (これは逆に言うと実在界で個生命として完全に生きていながら、何故現象界に顕現しなければならないかと云うことでもあります。
  無限のままでは何も表現されないから、との意の説明が巷ではされている。それでは実相世界が美しいものであると云うことは云えない。)

  高級霊は地上を卒業して高級霊界に転生すると云われていますね。地上には霊魂、人間は一人も居なくなる訳でしょう?
  高級霊になると他に転生してしまい、他の天体から低級霊が地上に転生してくる(これは50年頃の理誌に書かれている)
  のであれば、地上天国は如何にして実現できるのですか?
  何故完全な個生命の人間が、低級霊の姿を現じなければならないのですか?
  完全な個生命の実相人間が、何故影とは申せ不完全な姿を現すのでしょうか?
  
  いつの日か実相人間さながらの影を映し出すことが出来ると云うのならば、本来完全であった人間の影が何故不完全に映るようになったのでしょうか?

  
  七つの光明宣言の解説の二には
  
  【吾々が『生命』として顕現れて来たと云う否定できない事実から出発するのでありまして理屈ではないのであります。吾々は事実上生まれてきて
   生長しつつあるのであります。この事実より考えるとき・・・・】 と書かれています

  生長の家の教えは現実の認識から出発しているのではありませんか?
  現実の生活の改善というものが先に有り、あとから実相論が説かれているように見えます。
  
  「人間はこの世界に生まれてきたことはない」と説かれ、念のフィルムを通してそのように観ているだけである、だから病人とみている自分の観念を
  この人は病人でないという思いに替えれば、即健康な人になる、その無病なりとの信念になるのには、それぞれの人に応じて時間は変わるけれども、
  時間は本来関係がない、「吾らが真に実相の中に超入し得る底の神想観の境地に達して病気は無いと念ずれば瞬時の想念がよく完全にあらゆる病気を
  消滅せしめ得べきであるのである」
  と云われているのに何故「雅宣先生が病人である」と云うのならば、悟りを得たと云うような言い方の本流派、また復興Gさんは雅宣先生の病気を
  消滅させることが出来ないのですか?

  「全人類は同一の共通的心をもっていると認めなければならないのであります。その人間共有の一つの心を称して吾々は神とよぶのであります。」
  
  神癒への道p107〜「省略・・時間がありません・・・どなたか書いて下さい」には『それを不完全であり不健康であると観た間違いを懺悔し切り、
  無条件に実相の完全さの前に降伏することなのである」と説かれています。

  復興Gさん、また本流派の指導者の過っての本部講師さん、あなた方が何か現象に対してもの云えば云うほど、神癒への道に説かれている真理に
  私たちは反していますと表明することになるとは思いませんか?
  『それを不完全であり不健康であると観た間違いを懺悔し切り、無条件に実相の完全さの前に降伏することなのである』を実践していると云われますか?
  生長の家を復興するなんて烏滸がましいことだと思いませんか?
  生長の家の真理を真に理解している、また体得しているというのであれば、『神癒への道』を何十辺何百辺と読まれ真理の実践者となること、
  それでこそ復興を名乗り本流を名乗る価値があると思うものであります。

3508曳馬野:2013/12/22(日) 18:02:25 ID:NYUcBHWQ
上は曳馬野です

3509復興G:2013/12/24(火) 21:06:28 ID:AB6RqYXc

曳馬野さん

>>3461で私が質問しました
>>禅では師なり古人の示しを弟子がそうであったと証明して法の継承がされています<<
>>その指し示す先にあるものに辿り着いた人が、禅にはいるが生長の家にいますか<< (<<3455)
と言われる禅の世界での 「証明」 について、具体的に教えて下さい。 <<

の質問に、お答えはいただけないんですか?


さて、皆さま
>>3489>>3490のつづき
<< 谷口雅春先生特別御講話 「菩薩、何を為すべきか」 と題されたカセットテープ(「實相研鑽会」<地方講師・光明実践委員の相互研鑽会> での御結語を収録したもの>>
の続きを拝聴し、本当に素晴らしい御講話だと、深く感に打たれています。
これで行かなくてはと、肝に銘じつつテープ起こし(録音筆写)してお伝えします。

          ○

 谷口雅春先生特別御講話

  「伝道とは愛の実践」 つづき

 ――それにはやっぱり、正法(しょうぼう)すなわち真理を知らなければいけない。

 人に深切をすると言っても、真理でない深切をしたら、かえって気の毒なことを起こすかも知れない。物質で深切をする、あの人に何かあげたいと思って、カメラならカメラを、この頃流行の、シャッターをチャッと切れば自動できれいに写るという素晴らしいカメラが出てきたから、あの人にあげたい、と思ってそれをあげたら、それは相手によって、いい具合に使われるかも知れないけれども、あるいはその相手の人が、カメラマニアになっちゃって、仕事も何もほっといて写真ばかりに没頭して――というようなことにならんとも限らんわけでですね。これは相手にふさわしいものを与えなければならない。

 そのためには、やっぱりわれわれが常に神想観をして、宇宙の最高の智慧と一つになって、自分の行うことが神様の智慧によって導かれているということにならなければ、間違いを生ずるおそれがあるですね。

 そこで吾々は、神の智慧と、愛とをいただいて、更に神の生命を、無限の生命を、無量寿の生命を、そのいのちを相手に与えるアンテナになることですね。

 神想観は、宇宙の神様が人類に対して真理を放送し給うところの、自分がアンテナになることですね。自分が真理を伝えるんじゃないんです。だから招神歌には 「わが業はわが為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能」 と示されているのであります。

 自分が神想観をして人を救うんだというのは傲慢な心であって、そうじゃないんです。自分は神様のアンテナになって、神様の真理を増幅する、増幅アンテナになり、さらに神様の無量寿のいのちを全人類に伝えるための放送アンテナであるという素晴らしい自覚をもって、神想観をする。その時に、その神想観が力を発揮して、ブラジルへもアフリカへも、その伝道が通ずるということになる訳なんであります。

 ともかく吾々は、愛と智慧とが伝道にも働かなければならない。利己主義では本当の伝道にはならんのでありまして、<自分よかれ> ではいかんので、<相手よかれ> という心が根本になければ、本当の伝道にならんわけです。
<つづきます>

3510復興G:2013/12/24(火) 21:07:21 ID:AB6RqYXc

<つづきです>

 宗教は愛である。愛なしに伝道したんではいかん。責任感で伝道しているのではだめです。本当に、これをしなければ国家を救うことはできない、人類を救うことは出来ない、隣人を救うことは出来ない――という愛の権化になって動き出したときにはじめて、伝道が力あるものになるわけです。

 愛は神である。愛なしに伝道したら、神なしに伝道しているのと同じことですね。だから吾々は、まず愛をもって――愛をもって何を与えるか。それは、真理を与える。真理とは何であるか。真理とは、

 「この世界は神の創造り給うた世界である。悪はないのである」 という根本実相、

 「悪はない。病気もない、罪もない、業(ごう)もない。」 この実相を伝える。

 この実相を伝えることによって、迷っている結果あらわれているところの病気も、貧乏も、家庭の不調和も、子供の不良も、何もかも消えてしまって、実相が顕れる。これが根本です。

 その真理を伝えるための愛行。――雑誌を配るのも、神想観をするのも、あるいは街頭で説教をするのも、すべてこの実相円満完全、一切皆善の、神のつくり給うたところの実相世界の素晴らしさをほめたたえ、そしてその素晴らしさを心の眼で見つめて行く。見ればあらわれる。それが神想観の行事でもあるわけです。

 また家庭を訪問して行っても、そのお宅の実相を拝む。既に繁栄しているすがたを、すでに調和しているすがたを、すでに病気がないすがたを、すでに調和しているすがたを、すでに病気がない姿を、拝まして頂いて、そうして 「ごめんください」 と入って行く。そのときにですね、もう一切の悪は消え、抵抗は消え、そしてそこに現れていらっしゃるのはみんな吾々神の子の兄弟であってですね、もう一切の苦悩がない神の子たちが現れてきてくださる。そして神の子が藭の子と対面して、神の子の実相が現れる。これが本当の伝道だと思います。

 その時にはじめて、「仏と仏とのみ能(よ)く真理を究尽(ぐうじん)し給えり」 (唯仏与仏乃能究尽) という境地が現れてきて、もうそこには一切の悪は無い。訪問して行ったお宅が、今まで病人があったとしたら、病気が消える。悩みがあったとしたら、悩みが消える。憂いがあったとしたら、憂いが消える。そしてもうそこに、その人の家庭に、天国浄土が出てくる、ということになるのが、本当の伝道であると、私は思うんです。それで、

「ああ、素晴らしきかな、この実相世界よ。
 神の無限の智慧に満たされている。
 神の無限の愛に満たされている。
 神の無限の生命に満たされている。
 神の無限の供給に満たされている。
 神の無限の喜びに満たされている。
 神の無限の調和に満たされている。
 ………」

――と、その実相を心の眼で見て、ほめたたえ、それを語る。そして目の前にいらっしゃるすべての人を、神の子の如来様であるとして、拝める。ここにはじめて、伝道の最後の成就があるということになると思うのであります。
 今日はこれで終わります。ありがとうございます。

<第一話 「伝道とは愛の実践」 御講話終わり>

3513復興G:2013/12/24(火) 23:07:37 ID:AB6RqYXc

皆さま、ありがとうございます。

 本流対策室の方では、「これにて退場させていただきます、さようなら」 とご挨拶しましたが、こちらweb誌友会板では今月(今年)一杯まで、最後の締めくくりをし、これまで多大なお世話になりました皆さまにきちんとご挨拶をしてから、お別れさせていただくようにいたします。

3514復興G:2013/12/24(火) 23:10:34 ID:AB6RqYXc

>>3484で a hope さまが

>>生長の家の愛行について<<

という課題を出してくださって、とてもいい勉強が出来たとと思います。

 私は、「伝道とは愛の実践」 の谷口雅春先生御講話を拝聴しなおし、「神想観は説法であり、愛行である」 とのお教えを確認し、「これだ!」 と方向付けがはっきりしました。この道で精進して行きます。

 今朝、起きようとする時に、ふと

 「顔を洗って出直して来い」 という言葉が浮かんできました。「人間は皆、神聖受胎した神の子である」 というお教えで、『愛と光との生活』 (谷口雅春法話集8) の中に出てくるお言葉です。

 フランスに、「ルルドの聖泉」 というのがあり、毎年1回巡礼期間というのがあって、その時には何十万人もの人が巡礼して行き、多くの奇跡的な治病などが起きているということですが、それについては、「黄金の薔薇(ばら)」 という谷口雅春先生の詩があります(『生命の讃歌』・『ひかりの語録』 に掲載されている)。

 謹写させていただきましょう。

<つづく>

3515復興G:2013/12/24(火) 23:11:17 ID:AB6RqYXc

       ○

   黄金の薔薇

      (谷口雅春先生著 『生命の讃歌』 より)

黄金の薔薇三輪空中に咲き出でぬ、
黄金は久遠金剛不壊を象徴す。
三輪は知恵と愛と生命なり
それを踏まえて立ち給えるは処女マリヤ!

処女マリヤは純潔を象徴す。
処女こそ全てのものの真(まこと)の母なり。
処女懐妊こそ
肉欲の子にあらず
不染者の受胎なり
久遠人間の受胎なり
聖霊の受胎なり
吾等すべて処女より生る!

「悔改めよ、天国は近づけり」
少女ベルナルドネは眼をあげぬ。
彼女の瞳を強く射るものは
女神マリヤの二の腕の
桃色の膚(はだ)に輝ける処女マリヤの
黄金の十字架!

桃色の美しき腕(ただむき)は
肉体を象徴す。
黄金の十字架のそれに懸(かか)れるは
肉体の久遠抹殺(エターナル・クロス)を象徴す。
「悔改めよ、天国は近づけり」
ふたたび聖声(みこえ)きこえきぬ!

「悔改めよ、天国は近づけり」
みたび聖声(みこえ)のきこえしとき
ベルナルドネは土を掘り
湧き出ずる泥水にて
浅猿(あさま)しき相(すがた)にまで顔漱(すす)ぎぬ。

少女ベルナルドネの顔は
泥にて覆われ、
群衆は叫ぶ
ベルナルドネは狂せりと。

されど、
ペルナルドネは狂せるに非ず
何人も自己の顔には泥を塗るべきなり。
他(ひと)の顔には泥を塗るべからず。

自己の顔に泥を塗るは
旧(ふる)き自己の抹殺なり
旧き自己を抹殺してのみ
我れこそは浄められたる者と言い得ん。

みずから泥を塗りたる顔は
やがて女神、聖少女ベルナルドネとして輝き、
泥水を噴出せしその跡より
滾々(こんこん)として湧き出ずる清水は
是れ万人の罪を浄むる聖泉!

今もなおこの聖泉に浴する者は
すべての難病悉く癒え
跛者(あしなえ)は立ち
盲人(めしい)は眼を開き
聾者は聞え
唖者は物言う。――

これ仏蘭西(フランス)ルールドの奇蹟なり。
現代に今もなおある奇蹟なり。

この奇蹟の根源は
みずからの顔に泥を塗ること!
吾れらすべからく
自分の顔に泥を塗らざるべからず
敢て他(ひと)の顔に泥を塗るべからず!

<つづく>

3516復興G:2013/12/24(火) 23:19:32 ID:AB6RqYXc

<つづき>

<< つづいて、新選谷口雅春法話集8 『愛と光との生活』 第一章より 謹写

 重大なのは、本当のキリストの発見であります。物質に依りて生れないところのキリスト、聖霊の神聖受胎であるところのキリスト、それが自分の中にも宿っている。

 自分の中に光がある。自分の中に罪を贖うところの原理がある。物質に依って生れず肉に依って生れず、永遠に汚れないところの永久の真理なるキリスト――それが自分の生命の生命――本当の自分であって、それが自分の内にある。と言って別にあるのでないのであってそれこそ本当の自分である、我こそは久遠のキリストである、こういう自覚を皆さん自身が有つことが、即ちキリストと一体になることが、これこそ本当のキリストに救われる道であり、本当のキリスト教だと信ずるのであります。

 キリストに救われるということは、他所からキリストが手を出して空中にでも引揚げて呉れるのではないのであります。自分の真に自分なるもの――その本当の存在キリストなるものと一つだということを自覚することが救われであります。

≪ルルドの聖泉について≫

 事の起りを簡単に申しますと、千八百何年かのこと、ベルナデットと称する十七八歳の乙女がルールドの町の郊外を歩いていると、白衣をつけ青い帯を結んで、黄金のばらの花三輪をその素足で空中にふんで立っている神々(こうごう)しいまだうら若い十五六歳にも見えるところの女神に出遇ったのであります。(>>3514 「黄金の薔薇」 ご参照ください)

 その女神は空中からその乙女だけに聴える声でいろいろのことを教えて呉れたそうですが、或る日 『お前は悔い改めよ、悔い改めたら肉体は救われるかどうか知らぬが魂は救われる』 と被仰(おっしゃ)るのです。『その悔い改めのしるしに顔を洗え、ここの土を掘って顔を洗え』 と被仰るのです。

 それから乙女は、そこの土を掘って顔を洗ったのです。土を掘るとそこから噴水が泉となって噴出した。土を掘り立ての時に出た噴水のことですからどろどろの土を噴(ふ)き出して、それで顔を洗ったら顔中泥だらけになった。

 そんな泥だらけの水で顔を洗うものですから、『あれは気が狂った、ベルナデットも可哀想なものだ』と町の人は言って居ったそうですが、やがてその神様が、乙女に 『此処に教会を建てよ。祠(ほこら)を建てよ』 と被仰ったのであります。

 そこで近所の教会に行って牧師さんに、こういう神さまが祠を建てよと言われるから祠を建てたいと言いますと、『一体なんという神様か、神様の名前が分らないでは献堂金の集めようもないから、その神様の名前を聞いて来い』 と言われますので、その神様のところへ往って聴きますと、『我こそは無原罪の受胎である』 こういう長たらしい神名を被仰ったのであります。

 (中略) 聖霊の汚れない妊娠、これは聖母マリアであるというので、ルールドの聖地にはマリアの像を岩壁に彫刻してあるのです。

<つづく>

3517復興G:2013/12/24(火) 23:20:18 ID:AB6RqYXc

<『愛と光との生活』 第一章より 謹写つづき>

 (中略) 人間は始めから罪なきものであります。それなのに、心の迷で塗りつぶして、あの人は病人であって肺臓が空洞になっていると思う。その思いの波動が物質化して医学的に検診して見ても肺臓が空洞になっているように顕れている。実相の肺臓は壊れていはしないけれども、そういう風に現れるのであります。そういう風に吾々の心で塗ったところの、心で色づけしたところの仮りの姿が肉眼に見えている姿であります。

 ですから吾々は肉眼で見える病気の姿を、本当にある、あると思って其の通りに始終心に描いておりましたら、先に描いた絵具が剥げる時分には又新しい絵具で病気の姿を塗っている事になりますから、何時(いつ)まで経ってもその絵具が消えないでいるのであります。

 心で賦彩(ふさい)せるものが現象の姿でありますから、上から塗った病気色の白粉が剥げたら実相の健康な生地が現れるのでありますけれども、夜昼なしに心の思いで 『ああ私は病気だ、病気だ』 と考えまして、『病気、病気』 という絵具を塗って、五官の鏡に映して見ておりますと、常に心の絵具で塗る通りに現れますから病気は決して消えないのであります。華厳経の唯心偈に 『心は工(たくみ)なる画師(えし)の如く種々の五蘊(ごうん)を描く』 と説いてあるのは誠にその通りであります。

 その迷の白粉(おしろい)を塗った顔を洗い浄めるのが空中に現れた 『無原罪』 の神様が 『顔洗え』 と被仰ることだろうと存じます。

 が、だから此の 『顔洗えよ』 『悔い改めよ』 というのはこれこれの日常の行為の一つ一つについてこれを改めるというようなそんな小さい個々別々の問題ではなく、もっと大きな悔い改め、『人間は肉体である』 と考えて居ったその考えをスッカリ悔い改めて、『人間は物質にあらず、肉体に非ず、久遠不滅のいのちである。神聖なる神のいのちがその儘ここに受胎しているのだ、神聖受胎だ』 という、その神聖受胎の悟りにまでクラリと変るのが、本当の悔い改めで、これが顔を洗うことであります。

 『顔を洗って出直して来い』 と俗に申しますが、心の顔を洗い清めて、神聖受胎そのままの顔になって出て来れば、今まで狭いと思っていた世界が広くなり、今まで暗いと思っていた世界が明るくなり、病がなくなり、家庭が調和し、本当に楽しい世界が其処にあらわれて来るのであります。

<以上で 『愛と光との生活』 第一章より 謹写おわり>

3518復興G:2013/12/24(火) 23:26:38 ID:AB6RqYXc

 今夜はこれまでにいたしまして、つづきはまた明日に。

 おやすみなさい。

3519復興G:2013/12/25(水) 11:12:23 ID:AB6RqYXc

 ありがとうございます。

 昨夜謹写掲示させて頂きました 『愛と光との生活』 第一章より 「ルールドの聖泉」 についてのご文章、
>>3516と<<3517の間のご文章を <中略> としていましたが、その部分も大切なところであると思いますので、追加謹写させて頂きます。

 (注。ルールド=ルルド、ベルナルドネ(<<3515)=ベルナデット)

          ○

<< ルールドの聖地にはマリアの像を岩壁に彫刻してあるのですが、『我こそは無原罪の受胎である』 とこう仰しやったところの、その無原罪の受胎が顕現するための、罪を洗うところの象徴としてそこに聖泉が噴き出しているのでありまして、その中に 『罪あると思っている人』 が浸ると、『無原罪の受胎』――『神聖受胎』――人間本来の浄らかなるもの――病なきもの――が現れて病気が忽然と消えてしまうことになるのであろうと思われます。

 これはフランス・ルールドに於ける奇蹟の私の解釈でありますが、その病の治る原理は 『本来罪なきものの受胎』 でありますから、その神聖受胎はなるほど或る程度までこちらの波長が合わなかったら形に現れて来ないのであります。だから昨年ルールドへ行ったけれども治らなかったが今年行ったら ぽかっと一度に治った というようなことも起るのであります。

 ラジオの波長でもそんなものであります。波長を合わすと徐々に聴えて来るというよりも寧ろ同波長の圏内へぴたりと合ったとき聴えて来るのでありましょう。神様の救いも矢張りそういう式に、神様の救いはラジオの波と同じように宇宙一ぱい充満しておりますけれども 『おかげは我が心に在り』 で、こちらの心の波長が合って来たらパッと聴えて来るのであります。波長が合わなかったら徐々にも聴えて来はしないのであります。

 此の波長が合うのは 此方(こちら)にも神様と同じ波長があるからであります。神様の無原罪の原理が、此方へ感じて来て、こちらが 『罪なき者』 になる、『浄められた者』 になる。それは本来 『浄められた者』 がみんなに宿って居るからであります。それを自覚しまして旧(ふる)い 『汚れたる我』 はないと悟る、本当の自分は既に 『久遠劫以前から悟りを開いていたものだ』 と悟る、これが 『我の置換』 であり、生れかわりであります。

 自分は肉体にあらず、ヒトであると悟る、自分はヒトなんだということはヒトとは霊止(ヒト)である。つまり神聖受胎であります。イエス・キリストが 『汝らの中に罪なき者が一人いる』 と言ったと聖書にありますが、罪なき者が皆さんの中に、ひとりひとりの中に 『罪なき者』 が一人いるのであります。既に悪い癖もなければ、いろいろの因縁も業もない、始めから聖浄なる者が、貴方の中にいらっしゃるのであります。罪なきものが一人ずつ宿っている、それが皆さんである。

 罪なき者であったらどうして病気が起るか。そんな病気などというものは本当は無いのです。罪なき者に悪い性癖がどうして現れて来るか。そんなものはあるように見えてもないのであります。それだのに或る人は人間には病気がある、悪癖があると思っているのであります。ですから思うとおりに現れる。

 心に描くものは形に現れる。時間空間の世界に出ているものは皆自分の心の影であります。実相の完全な相(すがた)の上に一枚賦彩(ふさい=いろづけ)した――心で色づけたものであります。その奥には真物(ほんもの)の聖(とうと)い完全な相(すがた)があるのですけれども、心で色づけして、それを別の相のように見ている、――見えているのであります。

 芝居を観に行きますと、六十の老人が十七八歳に化けてしまったり、二十(はたち)位の役者が七十位のおじいさんに化けてしまったりするのですが、そういう風に表面を自分の心の波に依って色づけして、病気を表したり、悪癖を表したりして化けているのであります。病人も、悪癖も、みんなお化けであって、それは本物の上をどうらんで塗りつぶしてお化粧しているだけのことであります。>>

<つづきます>

3520復興G:2013/12/25(水) 11:13:13 ID:AB6RqYXc

<つづきです>

>>3516で、≪ルルドの聖泉について≫ と区切りをつけたところの前に、次のようなご文章がありましたが、割愛していました。それも、追加させていただきます。

          ○

<< 『我(われ)』 とは本来罪なきものだと知らなければならない。これが生長の家の高調しているところの真理でありまして、『本来罪なき神のいのち』 が自分自身でありますから、その真理が悟られますと、苦悩の解放が行われ苦悩の表現である病気なども消えることがあり、業(ごう)とか因縁とか今まで犯していた過去のいろいろの罪悪感から解放されることになるのであります。

 『本来罪なきもの』 『神聖受胎』 が自分なのであります。『贖罪(しょくざい)の原理』 は外にあるのではなく、内部の 『本来罪なき神性、仏性』 それ自身が贖罪の原理なのであります。吾々のいのちは既に 『神聖』 であり、『仏性』 でありますから、もう既に贖(あがな)われて了(しま)っているのであります。自分自身が 『罪を消すところの原理』 そのもの――光が闇を消すように――すべての罪を破砕する原理なのであります、だから生長の家では 『本来罪はない』 というのであります。

 『罪はない』 と申しますと時々間違って、罪がないからどんな悪いことでもしたとて好(よ)いか――などと考える人があるのでありますけれどもこれは法律上の問題ではなく、宗教上の自覚の問題であります。『罪がない』 ということは、『罪を犯しても好い』 ということではないのであります。

 本当に 『罪がない』 ということが判れば、『無い』 ものはマイナスの値打しかないから、吾々の嗜欲(しよく)を誘惑する魅力を失ってしまうのであります。

 罪に惹(ひ)き付けられると云う人はまだ 『罪がある』 と思っている観念がどこかに残っているからであります。本当に罪がないということが分ったときには罪の行為などというものは心に思い浮ばない、思い浮ばなかったら自然とそれが形に現れない、現れなかったら、したいと思わないのであります。

 生長の家に来られまして 『本来罪なし』 の自覚を得られますと、自然に 『酒』 や 『煙草』 が嫌いになるというのは、罪の非存在を悟ることによって、罪がその誘惑力を失ってしまうからであります。
<つづきます>

3521復興G:2013/12/25(水) 12:05:59 ID:AB6RqYXc

<つづきです>

 人間は物質にあらず肉体にあらず仏性、神性そのものである、神のいのちの神聖受胎である。日本的に言えば日子(ヒコ)であり、日女(ヒメ)であり、ミコトでありヒトである。ヒト(人)というのは霊止(ヒト)即ち霊のいのちが止(とどま)っている、宿っている、これが人間であるということであります。

 それが本当に分りますと、もう罪というものは消える――消えるというよりも、罪以上の世界へ脱(ぬ)け出るのであります。

 ××教などにまいりますと 『あなたは因縁が中々切れぬから因縁を切る為にお運びなさい』 などと申します。何を運ぶかというと布教師の中には家財道具までも売って本山へ運びなさいというようなことも言われることもあるそうですが、本当に 『罪』 や 『因縁』 があるものならば、そんな家財道具を一つずつ運んで見たところが、数千億年前からずっと生れ更(かわ)り死に更りして出て来た間に犯したところの、無限ともいうべき罪とか罪障とか因縁とかいうものを有限の財産の持ち運びで贖(あがな)いをするということはとても此の世で出来ることではないのであります。

 本当の贖いというものは、そういう物質に依って贖うことは出来ないのであります。どうしても 『我(われ)』 を置替えなければならないのであります。『罪ある自分』 をポンと捨てて了って、『罪なき自分』 を持ち出して来なければならないのであります。つまり内在の仏性を、『爾(なんじ)に宿るキリスト』 を、自分の中に招(よ)び出して来なければならないのであります。

 自分の中に内在の仏性を招出(よびだ)すのが生長の家式仏教であり、自分の中に内在のイエス・キリストを招出すのが生長の家式キリスト教であります。>>

          ○

 以上で、聖典の謹写を終わらせて頂きます。

 我々は、「顔を洗って出直す」 (>>3517をご参照ください) 必要があると思います。

 「人間至上主義は間違っている」 といわれるときの 「人間」 は、「神聖受胎」 した 「本物の人間」 ではなく、まだ 「罪がある」 と思っている、「物質によって生まれた人間」 すなわち 虚妄(うそ) の人間であると思います。

<<吾れらすべからく
  自分の顔に泥を塗らざるべからず
  敢て他(ひと)の顔に泥を塗るべからず!

  自己の顔に泥を塗るは
  旧(ふる)き自己の抹殺なり
  旧き自己を抹殺してのみ
  我れこそは浄められたる者と言い得ん。
   (「黄金の薔薇」 より) >>

 そして、

<< 『顔を洗って出直して来い』 と俗に申しますが、心の顔を洗い清めて、神聖受胎そのままの顔になって出て来れば、今まで狭いと思っていた世界が広くなり、今まで暗いと思っていた世界が明るくなり、病がなくなり、家庭が調和し、本当に楽しい世界が其処にあらわれて来るのであります。(『愛と光との生活』 第一章より) >>

 このお言葉通り、日々、自分の顔に泥を塗って旧我を否定し、毎朝 「顔を洗って出直し」――神想観をして心の顔を洗い清め、「神聖受胎」 そのままの顔になって愛行、伝道に精進いたしたいと思います。
<つづきます>

3522復興G:2013/12/25(水) 12:08:45 ID:AB6RqYXc

<つづきです>

>>3507で曳馬野さんが

>> 生長の家を復興するなんて烏滸がましいことだと思いませんか?<<

 とおっしゃる通り、「自分が生長の家を復興する」 なんて思ったら、烏滸がましいことです。

 谷口雅春先生がご教示くださっていますように、

<< 吾々は、神の智慧と、愛とをいただいて、更に神の生命を、無限の生命を、無量寿の生命を、そのいのちを相手に与えるアンテナになることですね。

 神想観は、宇宙の神様が人類に対して真理を放送し給うところの、自分がアンテナになることですね。自分が真理を伝えるんじゃないんです。だから招神歌には 「わが業はわが為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能」 と示されているのであります。

 自分が神想観をして人を救うんだというのは傲慢な心であって、そうじゃないんです。自分は神様のアンテナになって、神様の真理を増幅する、増幅アンテナになり、さらに神様の無量寿のいのちを全人類に伝えるための放送アンテナであるという素晴らしい自覚をもって、神想観をする。その時に、その神想観が力を発揮して、ブラジルへもアフリカへも、その伝道が通ずるということになる訳なんであります。>>

 これを実行したいと思います。

 <つづきます>


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