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Web誌友会 板/2
3444
:
復興G
:2013/12/12(木) 11:30:12 ID:AB6RqYXc
>>3443
:曳馬野さん
「体よく逃げましたね」 という感じがします。
>>3409
の質問を、もう一度提出したいです。
>> 曳馬野さんにお尋ねします。
あなたは、禅の世界での悟りが正しく、生長の家での悟りは正しくないとおっしゃるのですか? <<
ということです。
私は、「人類最後の究極の教えである」 と谷口雅春先生がおっしゃっている生長の家の教えこそ、最高であると信じていますから、もっと、谷口雅春先生のご著書を読むことの方を優先します。
教えて頂いたウェブページは開いてみましたが、古い本をスキャナーで読み取っただけの、よごれの多い画像ですから、判読するのも容易ではありません。
教えて頂いた、「禅門法語集続のなかの、正眼國師によるとされている 『心経抄』」 というのも、時間ができたら読んでみたいとは思いますが、私も今生での残り時間は限られていますから、今 『心経抄』 を読むことを最優先にしなければならぬとは思いません。
私は、禅の高僧の書かれたものとしては、日置黙仙著 『錬膽術』 というのを読んだことがあり、今も持っています。大正4年(1915年)発行の古い本です。父の蔵書の中にあったもので、高校生時代に、何となく惹かれてちょっと読み、大学に入ってからまた読んで、膽(きも)に銘じたものです。その 「緒言」 に、こんなことが書かれています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
梅花一枝薫を説く
花の薫(かをり)とは何ういふものぢやと聞かるれば、綻びかけた梅の花を一枝折つて、サアこれを嗅いで見よと、鼻の先に突き付けてやる外はない。突き付けられた梅の花を嗅いで見れば、成る程斯ういふものかと直ぐに合點が行く。さうせぬことには、薫とは斯ういふものぢや、あゝいふものぢやと幾ら口先で説いて聴かせても、迚(とて)も呑み込めない。如何なる名画家も、百花の爛漫たる色合を描くことは出來ようが、其の薫を寫すことは出來ぬ。
盲人の象騨
膽力といふものも、言葉や筆先で説き明すことは全く不可能ぢや。それぢやというて、花の薫を説くやうに、實物を突き付けることは尚ほ更不可能。止むを得ず言葉や筆で説く外はないが、其の説く所却つて皮相の歎に流れて世人を過まらすことになりはせぬか。
昔、数多の盲人が集まつて大象を捕へた。其の或る者は象の足を攫(つか)み、或る者は尾を攫み、或る渚は鼻を攫んだ。是等盲人打寄つて象を評するに、足を攫んだ者は曰く、象は大足なり。尾を攫んだ者は曰く、象は大尾なり。鼻を攫んだ者は曰く、象は大鼻なりと。其の領解せるものは各々違つて居つたといふ喩話(たとへばなし)がある。
膽力とは何(ど)ういふものか、其の要素、其の作用は説くことが出來ても、其の眞髄を説き明すことが出來ぬ。故に其の要素、其の作用の一端を攫んで、我れは膽力を得たりと得々たるに至つては、是れ草を折つて天を量(はか)るの類、畢竟盲人の象を評すると撰ぶ所はない。衲(わし)は、世人が衲の説く所を讀んで、斯ういふ間違ひをせねばよいがと心配ぢや。
(復興G の感想――この「膽力」 というのは、「悟り」 と置き換えてもほぼ間違いないのではないかと思います)
<つづく>
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