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190復興G:2013/12/11(水) 07:19:47 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十八

 今朝の、神癒の社入龍宮幽斎殿における神想観実修の時に湧いたよろこびであったが、「無の門関」 とは一切を去るということである。「無し」 と宣言することである。「無い」 と言えるすべてのすべてを 「無い」 とすることである。天照大御神も無く、住吉大御神もなく、塩椎大御神も無し。高天原も龍宮海も龍宮城も無し、如意宝珠もなし、欲するものも、好ましからざるものも無し。生長の家もなし、光明化運動も無し。現象も實相も無し。そして、その 「無し」 も無し。

  「ただだた光明遍照」

  「ただただ、そのまま」

  「ただただ生み出すもの」

  「ただただ創造(つく)り出すもの」

  「ただただ龍宮」

  「ただただ高天原」

  「ただただ中(みなか)」

  「ただただ大神」

 ただただ澄み切り、晴れ切りにましまして、渾ての渾てなるもの。ただただ 「吾が国は此の世の国に非ず」 とのキリストなるものの久遠のコトバ。「吾が国なるもの」 の、ただただよろこびの鳴りひびきである。ここに、最終的に、初元的に、完成的に、「ただただ生長の家人類光明化運動」 ということである。

 久しぶりに、十六歳の時に聖経 『甘露の法雨』 の中の

  キリストは又云い給えり、
  『吾が国は此の世の国にあらず』 と。

 のコトバにふれた時の、限りもない崇(たか)く崇く晴れて晴れて澄み渡った、未だに超えることの出来ない、あの荘厳なるものが内に甦るのを憶えたのである。

  『汝らの内』 にのみ神の国はあるなり。

 と示されている。「内」 にあるとは、まことの吾れの吾れなるものの 「生んだ」 ものとしてあるということであり、自分の自分なるものが創造したものとしてあるということである。

 神と神の国が 「汝らの内にのみあり」 とは、自分の自分なるものが生んだところの、神と神の国ということなのである。

 創造の本源世界すなわち龍宮は 「汝らの内にのみあり」 とは、自分の自分なるものが生んだところの龍宮ということなのである。

 天照大御神も住吉大御神も塩椎大御神も、自分の自分なるものの生んだところのこ存在にましますということであったのである。

  或る日天使(てんのつかい)生長の家に来りて歌い給う――

 というこの實相の世界の相(すがた)において、天使(てんのつかい)は自分の自分なるものの生んだところの、自分の自分なるものより生まれ出でたもうたところのこ存在にましますのである。

 斯くの如き想いが湧いた時、

  「さすが、吾が世嗣ぎよ!」

 との更に更に晴れ渡った、澄み切った、幽の幽なる祝福に包まれて、やっと自己の自己をとりもどした安堵感に満たされるのを憶えたのであり、それは懐かしい限りのものであった。

  「すべてを超えて、今此処に」

 というのが 「“無” の門関」 の意味するものであることを、心新たに想うのである。

 今朝は、雲一つない日本晴れである。幽斎殿で仰ぐ青空の崇さよ。限りもなく底深い崇さというものである。

 生長の家人類光明化運動なるものの裸のすがたの崇さというものをかい間見る想いである。(1998.11.15)


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