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「のと」本編

5shin:2006/11/21(火) 17:46:14
一月後、海軍軍務局長堀悌吉少将は、執務室で来客を待ち受けていた。
軍務局長に就任した途端に、厄介なことだ・・・
堀は、机に置かれた書類を再び目を通しながら大きくため息を吐く。
「失礼します。」
 扉を開けて入ってきたのは、井上成美大佐だった。先月駐在武官としての勤務を終えて、帰国し、現在は待命中の身の上である。
 冷静そうな細面の顔にも、突然の呼び出しに好奇心が伺えないことも無い。
「井上成美、参りました。」
堀は、身振りで前のソファを進めると、手に書類を持ち、向かいに腰を下ろす。
「どうだった、ヨーロッパは・・・」
「はっ、それについては、ただいま報告書をまとめております。来週中にはこちらにも上がってくるものと思われますが。」
井上は堀を探るような表情で、そう答える。
私を呼んだのはそんな事じゃないのでしょうと暗に言っていた。
堀は大きくため息を吐くと、机の上に手にした書類を放り出す。
「これは?」
井上は、大きく丸秘と書かれた書類の閲覧許可が出たものと判断し、それを手にしながら尋ねる。
「先月、浅間丸が遭難したのは知っているな。」
「ええ、東洋一の豪華客船が行方不明ですから、それぐらいは。」
長崎から、横浜に向かって航海中の客船が、何の連絡も無しに行方不明となっていた。
日本近海での遭難に、海軍は多くの艦艇を動員し、捜査を行ったが、結局生存者や遺留品一つも見つからず、謎の海難事故として新聞は大きく取り上げていた。
船そのものの構造的欠陥ではないかと言う、政党筋のコメントまで飛び出し、三菱造船所はそれを打ち消すのに必死になっていた。
「浅間丸は本当に消えてしまった・・・」
井上は怪訝そうな顔で堀を見つめる。
「しかし、別の船が現れた。そうとしか考えられん。」
井上の瞳が少し大きく開く。
流石にこれにはこの男も驚いているようである。
「そこに書いてあるが、状況は別の船が入れ替わったとしか表現しようが無い。」
書類に目を通すように促され、井上は手早く目を通して行く。
どうやら第一発見者が元海兵だったようで、不審船の発見はいち早く、佐世保鎮守府に連絡が入った。
彼は先年除隊したばかりで、知り合いも多い。
すぐさま海防艦が、現地まで急行すると、確かに大型艦艇が漂流していた。
老人は、浅間丸が目の前でこの船に変わったと言っていたが、最初は誰もそれを信じようとしなかった。
しかし、海防艦から不審船に乗り込むと、それは信じられる話に変わっていた。
乗り込んだ海兵達が見たものは、それだけで十分に信じられないものだったから。

6shin:2006/11/21(火) 17:48:02
「艦の名前は「のと」、どうやら西暦2015年の帝国の輸送艦らしい。」
ある程度目を通したと判断し、堀は話し始める。
「搭載物は、未来の兵器、軍需物資満載、しかし不思議なことに誰もおらん。」
「上は狂喜乱舞だよ。なにせほぼ一世紀は未来の兵器があるのだから。戦力化すれば帝国に叶う国は無い。」
「戦力化ですか。」
「そうだ、はっきり言って、何が何だか全く判らん。艦そのものは怖くて動かす事すらできん。どうやら自衛用の火砲らしきものもあるのだが、照準の仕方一つ判らん。」
2015年と言うと、昭和4年、1929年から見ると、86年先の未来である。
逆に今から86年過去に戻ると、1843年、黒船さえ来ていない江戸時代だ。
その頃の人から見れば、確かに電信技術等使い方が判る筈も無い。
「それだけではない。輸送船には小さな図書室もあった。そしてその中に歴史関係の書籍もあったのだよ。」
堀はここで、じっと井上を見つめる。
「帝国は、これから滅びる・・・」
井上の瞳が更に大きく開く。
「1945年8月15日、大日本帝国は、米、英を中心とした連合国に無条件降伏する。」
それは、今から16年後だった。
米国、英国、どうしてそんな・・・
さすがに井上も言葉を失った。
帝国を取り巻く環境は確かにぬるま湯ではないのは理解している。
だが、どうして帝国が米国と戦争になるのか。
一体何が起こると言うのか、理解できなかった。
「今年、10月24日に、ニューヨーク株式市場が空前の大暴落を起こす。そして、世界は益々不況に陥ってゆく。帝国は既に紛争が拡大している中華に更にコミットする事でこの不況を乗り切ろうとする。しかし、中華への介入は更に帝国の状況を悪くするだけで、益々戦費は嵩む一方となる。そして、不況からの脱出を求める欧州では各国の利害から第二次世界大戦が始まる。米国もこれに参画する事により、経済回復を求め、わが国と戦争を始める。ちなみに、その時の連合艦隊司令長官は誰だと思う?山本五十六だよ。」
「初戦は、英国の東洋艦隊、ハワイに移動していた米艦隊供に撃破するが、その後が続かない。諸島が順に攻略され、本土も焼け野原になる。そして、昭和20年8月15日、帝国は降伏する。」
「そ、それは・・・本当の事・・・なんですよね。」
信じられないが、少なくともこんな事で堀少将が嘘を言うわけは無かった。
「陛下は・・・」
「陛下はその後も日本国の象徴、大日本帝国と言う国名もそこで変わるが、として昭和64年まで存命される。」
「そうですか・・・」
「ここまでが、一ヶ月で判った事だ。図書館には様々書籍が置いてあった。それらの情報を出来る範囲で分析した結果がこれだ。ちなみに、書籍の中には面白い本が一冊あった。」
堀が面白そうに、井上を見つめる。
さすがに何が面白いのか、井上に判る筈も無い。
「「最後の海軍大将井上成美」と言う本だよ。」
堀は、この男が唖然とする顔を見れただけでも、少しは気分が晴れるような気がした。
「ここまで判れば、最早海軍だけで済む問題ではない。それに、陸さんも何か大変なモノが海軍の手に入ったのは気がついていたしな。」
堀は気を取り直して、話を進めた。
「それよりも、この内容を陛下がご存知だと言う事だ。後は、濱口首相、海、陸の三役、井上大蔵大臣、幣原外相、侍従長まで話が入っている。しかし、これ以上に広める訳には行かない。こんな事が外に出れば大変な事になる。第一誰が信じられるか。」
「無理でしょうね。私もまだ実物を見ていませんし。」
「まだ佐世保にあるから、君も直ぐに見られるよ。」
「と言うと?」
「6日に極秘の御前会議が開催された。」
「そこで、「のと」の調査研究と、今後の国策への反映を目的とした秘匿機関の設立が決定された。」
堀はそこで一旦言葉を止める。
井上は怪訝そうな顔で見つめるだけだった。
「秘匿機関の名称は、帝国総力研究所。海軍代表として井上大佐、陸軍は軍務局軍事課長の梅津美治郎大佐だ。」
「代表?」
「そうだ、代表だ。極端な言い方だが、海軍の利益代表と考えてもらって良い。研究所所長からの献策は、内閣に対しては、参考意見、と言っても拒否は出来ないだろうが、にしかすぎないが、海軍、陸軍に対しては命令となる。」
「そ、それは統帥の問題が生じるのでは?」
「そのような事は起こらない。君は所長の直属の部下として配置される。そして、研究所の所長は、陛下自ら勤められる。そういう事だ。」

7shin:2006/11/21(火) 17:51:15
 6月に、田中首相を譴責され、総辞職に追い込んだ事で、陛下は天皇制のあり方に対して迷いが生じていた。英国型の立憲君主を目指すべきであるとの考えから、自らの影響力に恐怖したと言っても良い。
そこにもたらせられたのが、「のと」の発見だった。
「のと」の第一発見者の老人は、元海兵で、しかも鈴木侍従長の兵卒を務めた男だった。
彼は、海軍が佐世保鎮守府に曳航する前に、一人「のと」に乗り込み、内部を探索したのだった。
そして、内部で見つけた一冊の本を、ひそかに持ち出していた。
それは、昭和天皇のカラーグラビアだった。
表紙にある年配の陛下の肖像と菊の御紋に興味を引かれたせいだが、彼には恐ろしくて中を見る事は出来なかった。
その代わり、彼はその本を鈴木大将に送ったのだった。
鈴木侍従長は、送られてきたその本に目を通し、驚愕を覚えた。
白黒写真やカラー写真が中心の本は、陛下の若い頃から3年前の即位式、そしてまだ見ぬ先の陛下のご真影まで記載されていた。
鈴木侍従長は、直ちにこの本を陛下にお見せした。
あまりにも多数の写真と克明な記録に、これが悪い冗談だとは彼も思えなかったのだ。
この本と、老人が寄越した「のと」の顛末は、陛下を動かすには十分だった。
直ちに、「のと」の図書室で見つかったと言う、歴史関連の書籍を届けさせ、自ら目を通したのだった。
自らが目指す立憲君主制が、君臣の奸を育ててしまう。
それが、16年後の帝国の崩壊を招く事がそこには記載されていた。
結果、御前会議は陛下自ら招集し、対応策を検討させた。
そして、陸海軍、内閣による調査機関を設けるとの話になった時、初めて自ら口を挟んだのだった。
「君と梅津大佐は、陛下自ら御指名だ。」
「資料によれば、梅津大佐は、敗戦時の陸軍参謀総長、そして君は最後の海軍大将となっている。総力研究所は、時限機関として設立される。そう、研究所の解散予定日時が設定されているのだよ。昭和20年8月15日、我々がこのまま進めば終戦を迎える事になっていた日時だよ。」
井上は何も言えず、唖然として堀少将を見つめるだけだった。

8shin:2006/11/21(火) 20:19:28
翌日、井上は陸軍の梅津大佐と同行で、参内した。
陛下の行動は素早かった。
鈴木貫太郎侍従長自らの案内で、二人が通されたのは、宮城でも知られていない一角に用意された会議室であった。
侍従長が部屋を出て行くと暫くして、反対側の扉が開き、二人とも慌てて立ち上がり直立不動の体制を取る。
何しろそこから、なんの案内もなく、陛下一人が現れたのだから。
さすがに井上も畏敬を覚えるだけだった。
梅津大佐の方は、身体が震えているのではないか、その気配が感じられる。
丸いテーブルの正面に陛下が腰を下ろされ、二人に座るように言われても、とてもじゃないがこの場で座る事など出来ない。
しかしながら、命令と言われれば拒否する事も出来ない。
二人とも身を硬くしたまま、陛下の話を聞く。
 陛下との会談は、二人にとって一生忘れられないものとなる。
今後の帝国の行く末を真摯に懸念されるお姿、その中では陛下自身のお立場等まるで気になされない姿に、二人は感動すら覚えていた。
陛下とはこのようなお人なのだ。
それを、全く持って新鮮な感動として二人は受け止めた。
そして、会談が終わった時、二人はそれぞれの軍隊での敬礼を心からの忠節を込めて行っていた。

9shin:2006/11/21(火) 20:20:18
「これが「のと」か、大きな船だな。」
「大きさは巡洋艦クラスだ。戦艦よりは小さい。」
「そんなもんなのか。まあ私には判らんが。」
佐世保鎮守府の特設ドックだった。
井上大佐と梅津大佐の二人は、厳重に警護された秘匿艦に始めて足を運んだのだった。
この一週間二人は殆ど一緒に動いていた。
本来陸軍と海軍の軋轢は大きい。梅津にしても井上にしても互いを監視すると言う側面がなかった訳では無い。
しかし、既に陸軍省、海軍省から宮城の一角に設けられた新設の総力研究所に集められた資料に目を通している内に、そのような意識も吹き飛んでいた。
それどころではないのである。
数冊の歴史関連の書籍に目を通すだけでも、帝国がこの先大変な事になるのは理解できた。
元々「のと」自体、軍艦であり、図書室に置かれていた一連の「戦史研究年報」からは貴重な情報が入手出来た。勿論、その中にはあまりにも先の話過ぎて、使われている単語そのものの意味すら判らないものもある。しかしながら、昭和初期の分析は、理解すればするほど頭を抱えたくなる内容だった。
一日それぞれが理解した知識を基に、夜遅くまで討論する。
そして、翌日には再び他の資料に手を染め、また議論が続く。
これの繰り返しだった。
なにせ、時間が足りない。
10月24日にはニューヨーク株式市場の暴落から大恐慌が起こるのは判っている。その前に、金解禁が想定されており、それが大きな影響を与える事は十分に想定できた。
既に判っている歴史的事実だけでも、ロンドン軍縮会議、満州事変等目白押しである。
これらに対して的確な政策を立案しなければならないと言うプレッシャーは相当なものだった。
そんな二人に、それぞれの立場を慮っている余裕は無かった。
そして、時折、訪れ黙って様子を見ておられる、あるいは報告書に目を通しておられる、陛下の姿もあった。
最初は二人とも飛び起き、直立不動になってしまうが、その度にそれを譴責される事が繰り返される。
二人とも緊張しながらも、そこに陛下がいないように振舞うのはかなり努力が必要だった。
資料室に缶詰になりながら、二人は再びあの会議室で陛下と向き合った。
報告を行い、今後の行動方針が了承されると、その足で東京駅に向かう。
下関行きの特急富士に飛び乗ると、二人は死んだように眠ったのだった。

10shin:2006/11/21(火) 20:22:19
「場所を変えねばいかんな。」
梅津が辺りを見渡しながらそう言う。
特設ドッグは高い布切れで覆われ、陸軍の憲兵隊と海軍の陸戦隊が警備していた。
彼らは既に、総力研究所が設立されている為、それぞれの所属を離れ所員扱いとなっていた。
この一ヶ月調査の為に集められた科学者、技術者もその所属が総力研究所に移されている。
「ああ、そうだな。」
確かに、海軍の自分でも、この体制はやはりまずい。
機密保護の問題もあるし、調査の為に陸式兵器の移動はここでは目立ちすぎる。
「大村かな。」
「問題は予算か?」
「ああ、そうなるね。」
二人が話しているのは、資料の中にあった新しい海軍工廠である。二年後には航空工廠として設立される大村工廠を摂取し、「のと」を中心とした研究施設としてしまおうと言う計画だった。
佐世保鎮守府からも近く、大村湾に面した地域であり、航空基地も設けられる予定になっていた。
その意味からも十分な広さを兼ねている。
しかし問題となるのは、その為の費用だった。
総力研究所は、陛下直属の組織として設立されたばかりである。
今のところ、活動費は皇室の歳費で賄われている。
厳密には政府の組織ですらない。
「やはり、その道の専門家が必要だな。」
「そうだな、俺は戦争しかしらん。」
梅津はいかにも武人らしく答える。
その間に、二人は「のと」のタラップを登り終え、平坦な甲板に出ていた。
辺りを見回し、二人は暫く何も言えない。
資料を目にしており、その中には各種兵器の天然色の写真すらあった。
その意味では理屈では理解したつもりであったが、やはり実物を見るのは全く違う。
甲板上には、何台もの車両が係留されており、本当に詰めるだけ物を詰んでいると言う感じだった。
無言のまま、車両群の周りを抜けながら、後部甲板に向かう。
前部とは違い、そこは比較的広い空間が広がっており、その中央部には、いかにも未来的な航空機が係留されていた。
「これが、戦闘機か。」
確かに、この船そのものが、未来から来たと納得させられる眺めだった。
後方に傾斜した一枚の翼、プロペラも無く、ジェットで推進するらしい機関。
「確かに、戦力化できれば、凄いものだろうな。」
「ああ、理解できればな。」
一応、説明書らしきものも見つかっているのは知っていた。
しかしながら、その説明書に書いてある言葉は読めても、理解が出来ない。
やたら、外来語が飛び出し、機関の始動すら、まだ恐ろしくて出来ない。
何よりも、電子装備と言うものの理屈が誰にも判らないため、その解読から始めなければならない為だった。
「80年先と言うのは、恐ろしい未来らしいな。」
「本当に、そう思うよ。」

11shin:2006/11/21(火) 20:25:59
一ヶ月の間、かき集められた技術者達は既にかなりの調査を行っていた。
まず、真っ先に取り掛かったのが、資料の収集・分析だった。
艦内の隅々まで探査し、その場所で見つけた冊子は全て発見場所を記載され、収集されている。
その分析結果として、総力研究所が設立された訳だが、どうしても資料に偏りがあるのは否定出来ない。
要は、理論科学系の情報が極端に少ないのだ。
各種天然色の冊子から、未来がどのような世界かを伺う事は出来る。
図書室があったので、歴史の推移もある程度理解は出来た。
だが、それらの冊子に書かれているコンピューターと言うのが、どのような仕組みで動いているのかは、全く理解出来ないのだった。
電信は実用化されており、電球も普及している。
しかしながら、少なくともどこにも真空管らしきものは見当たらず、それに代わるものが使われているとしか言えない状況だった。
理論が理解できず、壊れてしまえば再生出来ない兵器。
どんなに素晴らしい航空機、戦車があっても、それでは役に立たないのは二人には自明の事だった。

12shin:2006/11/21(火) 20:28:55
東京に戻った二人はすぐさま活動を開始する。
スタッフを揃えなければ、何も出来ない。
彼らが目を付けたのは鈴木商店だった。
先年倒産した鈴木商店の高畑は、資本金100万円にて、株式会社日商を立ち上げていた。
その神戸の事務所に、突然憲兵が訪れ、まるで拉致同様に、高畑は皇居に連れてこられた。

通された部屋は、いつもの会議室である。
既に、呆れ返っている高畑は、陸海軍の将校が二人並んで座っているのに、更に驚きを強くする。
最初に憲兵に同行を求められた時は、恐怖を覚えた。何を聞いても答えてくれない。
そのまま、東京行きの特急に乗せられ、依然何も判らないとなると、最早覚悟を決めるしかなかった。
更に東京駅から、差し回しの車に乗せられた時は、好奇心が先に立っていた。
しかも、それが宮城に向かうのだから、最早何を言わんかである。

二人の将校が立ち上がり、頭を下げる。
「総力研究所の梅津です。所属は陸軍大佐」
「同じく井上です。勿論海軍です。」
「おやおや、何事ですか一体。」
高畑が、そのまま向かいの席に座るのを見て、二人は顔を見合わせる。
これだけ度胸の座った男なら大丈夫であろう。
「突然、拉致同然にお呼び立てして申し訳ない。事情が事情だけに、時間が無いのだ。これから、ここで見せるもの、話す内容は一切他言無用である。」
「まあ、梅津大佐、そう固くならなくても。高畑さんを怖がらせても意味は無いですよ。まず、これを見て貰いたい。」
手渡されたのは、数枚の資料だった。
エッ・・・
「これは?」
一通り目を通すと、高畑は怪訝そうに問いかける。
「全て事実らしい。このまま行けばこうなる。」
そう、それは昭和20年までの歴史の概略だった。
「バカな、未来が判るわけ無い。」
「そう、それが普通の反応だよ。しかし我々はこれを信じる根拠があり、ここがどこだか考えれば、誰がこれを信じているかも判るであろう。」
「そ、そんな予言みたいな事・・・」
高畑は最後まで言うことは出来なかった。
二人は冗談を言っているのではないのは顔を見れば判る。
「先月、浅間丸が遭難したのは知っておろう・・・」
梅津が事情を説明すると、高畑も顔色を変える。
「すると、この先、こんな事になるのですか。後16年で・・・」
「私らも最初に聞いたときは同様に思った。そしてそれは主上も御同様である。」
「この総力研究所は陛下の私的機関として今月6日に設立された。勿論この未来を回避するための研究機関です。」
交互に会話を進める二人を見つめながら、高畑の頭は急速に回り始める。
「そうですか・・・で、私は何をすれば良いのですか。」
梅津が、ほおっと驚いたような表情を浮かべる。
「君には、資金面の管理、政府に対する経済政策の取りまとめをお願いする。」
「判りました。全力を尽くします。」
ここまで連れて来られて、断れる筈も無いことは高畑も計算できる。
それよりも積極的に動けば、かなり面白い事が出来よう。
与えられた情報は少ないが、これだけではない筈だった。
それに、あと一月後にニューヨーク株式市場が大暴落すると最初に書いてある。
この情報だけでも、その価値は高い。
最初から暴落する事が判っていればかなりの事が出来る。
「それで、運用出来る資金は。」
その時、正面の扉が開き、高原の身体が硬直する。
勿論、二人の将校はすぐさま直立不動の体制である。
「皇室の運用可能資産全てだ。」
全く動く事が出来ず、唖然とする高畑だったが、それでも陛下の目元に笑いが浮かんでいるのは見逃さなかった。

13shin:2006/11/21(火) 20:30:53
「それじゃ、宜しく頼む。」
そう言って、陛下が席を外されると、高畑は大きくため息を吐き出した。
「ここでは、こんな感じなのですか。」
「ああ、そうらしい。私は少し慣れたが、梅津さんはさすがに堪えるみたいだな。」
井上はまだ緊張感が抜けない梅津大佐を見る。
「そうは言うが、こんなの慣れる訳はないぞ。」
そりゃ、そうだろう。
いくらなんでも、陛下が直接指揮を下すなんて、中々信じられない話だった。
「しかし、運用資産というのは、どの位の額になるのですか。」
高畑が自分の役割に話を戻す。
「とりあえずは、5億だそうだ。」
「ご、5億円!国家予算の1/3じゃないですか。」
「当たり前だろう、その位の規模があるに決まっている。」
「とは言っても、総研の活動費としてこれが使える訳じゃないぞ。あくまでも運営益から、捻出しなきゃならんのだから。」
高畑は、少し驚いたように眉を上げる。
海軍の将校ならば、このような会話が出来る事も不可能ではないのは判る。
しかし、陸軍の梅津大佐からそのような話が口に出るとは。
「わしが言うのが、不思議か。まあそうだろうな。しかしな、ここで資料に目を通すと、そんな会話が出来ても不思議はないぞ。来たまえ、資料を見てもらおう。」
三人は、会議室を出て、再び資料と格闘するのだった。

14shin:2006/11/21(火) 20:36:06
一週間後、神戸の日商事務所に戻った高畑は、社員を集めて、新しい株主が見つかったと報告し、そこから猛烈な勢いで動き始めた。
旧鈴木商店系列の企業、神鋼、帝人、日商、豊年製油、日輪ゴム等の会社に、高畑が出向き、密談が行われた。
暫くすると、台湾銀行側から一切の説明が無いまま、台湾銀行系の役員の引き上げが通告される。
同時に、株式会社日商より、役員がそれぞれの会社に送り込まれる。
勿論日商内部でも、社員40人程の会社に、大量の資金が流れ込み、高畑の指示で運用に回されて行く。
早い話が、鈴木商店の再生ではなく、鈴木商店ロンドン支店による、新たな鈴木商店の立ち上げが一ヶ月程の間に行われてしまったのだった。

高畑が呼ばれたのも、やはり「のと」の図書室にあった一冊の本からである。
それは、「昭和恐慌」と言う題名であり、そこには昭和初期の不況の様子が克明に記載されていた。
不況の中で、鈴木商店の倒産から、日商岩井と言う商社を立ち上げ、大企業に育て上げた人物として自分が描かれているのを読むのは、何とも言いがたい衝撃だった。
「おれはこの本だよ。」
井上大佐が笑いながら、「最後の海軍大将、井上成美」を見せる。
「貴兄らはまだ良いよ、わしなんか、最後の参謀総長と言うだけだぞ!」
梅津大佐がそう言ってぼやく事で、高畑は少し気が楽になるように思えた。

彼らも、悩んだのだろう。
だけど、今、このような立場に置かれた以上、出来ることは全てやるしかない。
そして、今ある資料を検討した結果が鈴木商店の再生だった。
残された期間は16年、戦争が始まるまでは10年しかない。
高畑からすれば、戦争の原因が不況にあるのは、自明の事だった。
勿論、内閣を通じての不況回避は行われるし、実際に金解禁の見直しも検討されている。
しかしながら、余りにも財閥中心の産業基盤は、急激な変化に対応できるとは言いがたい。
経済全体を引き上げる核となる企業群の早急な立ち上げと、その波及効果が是非とも必要だった。
勿論、高畑も、鈴木商店の大番頭である金子の事も考えた。
しかし、やはり鈴木商店そのものの再生はリスクが高すぎる。
鈴木は、内部に会計原則すらない旧弊な体勢で拡大してきた財閥だけに、そして金子親吉その人がその体制の擁護者だけに、彼も含めた組織体制の構築は困難だった。
結論は、日商を核とする新生鈴木商店である。

三井・三菱等の財閥も、それには驚きと共に、その裏を探ろうとした。
しかしながら、政府関係者もそれについては、誰も何も言わない。
それはそうであろう。
まさか、皇室運用資産が一新興財閥の再建の為に注ぎ込まれているなどと言うのは、口が裂けても言ってはならない事であると同時に、信じられる話でもなかった。
高畑は、資金の確保と民間体制の構築に向けて、倒産した鈴木商店の組織を使う事を陛下に提案し、了承されていたのだった。

15shin:2006/11/21(火) 20:39:48
高畑がメンバーに加わって二週間過ぎた9月末、「のと」の調査班より、緊急の連絡が総研に上がってきた。
早速梅津、井上の二人は佐世保に向かう。

調査班の八木主任教授自ら出迎え、会議室に案内された。
八木秀次東北帝国大学工学部電気工学科教授、彼も陛下自らリクルートされた総研の主要メンバーである。そう、八木アンテナとして世界に名を残す人物である。陛下の意思は明らかだった。総研の主要メンバーは、40代で固める。そのために、陛下は自ら資料に目を通し、最低限の人選を行った。そこから先は選任されたメンバーの仕事である。既に、八木は、テレビジョンの発明者として名前が記載されていた静岡高等工業学校の高柳健次郎も招聘し、班に加えていた。

「これが今回の発見です。」
会議室のテーブルには幾つかの黒や銀色の箱状のモノが置かれていた。
何かの機械である事は、想像は付くが、二人の大佐にはその使い方は全く検討がつかない。
「のと艦内に、全部で825台ありました。どうやら、未来では一人に一台ずつ支給されているようです。」
「なんですか、これは」
梅津が手に持ちながら、質問する。
精々2キログラム以下の小さな金属製のケースのようなものだった。
「パソコンと言うらしいです。」
「ぱそこん?」
「パーソナルコンピューターの略ですね。艦内の補給品の中に、まだ未開封のこれが何台かありまして、それにはマニュアル、取り扱い説明書ですか、もありました。おかげで、使い方が判ったのです。」
「素晴らしい機械です。電子計算機いや、人工知能とでも言うべきでしょう。これ一台で複雑な計算から、各種シミュレーション、仮説演習とでも言いましょうか、それらの事が全て出来るのです。」
「それが、我々二人を呼ばれた理由ですか。」
井上が怪訝そうに尋ねる。
未来の機器である以上、それが素晴らしいのは理解できる。
その論理、再製品化が出来るかどうかは調査班の役割であり、政策全般に関与する二人の目的とは異なる。
「いや、機械の素晴らしさだけではありません。その中に入っていた内容が問題なのです。まあ、詳しい説明は省きますが、各人がそれぞれに所有しているパソコンの中には膨大な資料が記憶されていたのですよ。中には、パスワード、ええっと、暗号で見られないようにしてあるのもありましたが、それでもかなりのパソコンは簡単に閲覧出来るようです。今、調査班はこのパソコンの内容の調査を優先しております。」
「資料と言うと。」
「とにかく見ていただきましょう。これがその中のものを印刷したものです。」
手渡されたのは、上質の紙に綺麗に印刷された資料だった。
「これは・・・」
「ああ、パソコンのマニュアルには印刷機との接続方法も記載されていまして、今では艦内にあった大量のA4版の紙に印刷することが出来ます。」
どうやら、調査班は21世紀の技術を使い始めているようだった。
「大丈夫ですか。再生はまだ難しいのですよ。」
「それは留意しております。サンプル用にある程度の補給物資はちゃんと分けてあります。それに、印刷機に掛けるのは、厳密に許可制にしております。まあ、中にはちょっとアレな内容のモノもあり、ほうっておくと、そちらばかり見る班員も出てきて困りますけどね。」
八木教授が苦笑いを浮かべるのを怪訝そうに見つめながら、二人は資料に目を通す。
「こ、これは・・・」
「とりあえず、一台のパソコンから見つかった昭和史の抜粋です。しかもかなり克明な歴史の箇条書きです。今見つかっているだけでも、このような歴史関連の資料、画像、設計図等も含まれています。」
それには、今月の内容が記されていた。例えば9月30日には、「福岡県の三池炭鉱が、女子の坑内労働を全廃する。」と記載されていた。
「資料の中には、想像のものもあり、他の資料との突合せが必要ですが、これらのパソコンに蓄えられている情報は、図書室で見つかった書籍とは桁違いの量である事は間違いありません。ただ、歴史関係の資料、調査班は早速今年の事象とつき合わせてみましたが、は既に変化が生じています。」
「変化と言うと。」
「浅間丸の遭難がありませんでした。」

16shin:2006/11/21(火) 20:46:42
 パソコンと言われる機械の中に含まれる資料は膨大なもので、その分析にどれだけ時間が掛かるか判らない程だった。歴史関連の詳細な資料も、ファイル名そのものが、「昭和史」と言う名前だった為に、比較的早く発見できたと言えよう。
 どう言う訳か800人以上の要員が、それぞれの興味のある分野に関連するデータをパソコンに入れていたようである。
「のと」が訓練終了次第、中東への派兵が予定されており、その結果、乗組員、隊員が、個人のパソコンに、インターネット等を通じて可能な限りのデータを記録していたなどとは彼らには想像もつかなかった。
その結果、玉石混合のデータがそれぞれのパソコンに記録されていた。当初、調査班は一台一台の記録目録的なものを作ろうと試みたが、それではあまりにも手間が掛かりすぎ、また余分なデータが多すぎた。操作を覚えた班員が、一日中パソコンのファイルを開き、その内容を確認する。それがエロ・グロな内容ばかりだと、流石に頭がおかしくなる。
調査班は、個別のパソコンの詳細調査を諦め、ファイル名検索に的を絞り込んだ。そして、最重要テーマに関連するファイル名が見つかったパソコンのみの詳細調査を先行させた。
それだけでも、800台以上のパソコンである。それぞれが、最低でも数百テラバイトの容量のハードディスクを内蔵しており、その情報は膨大だった。21世紀の未来人にとって、興味のある情報はとりあえず保存しておくと言う考え方が一般的になっていたようであり、調査班は次々ともたらされる情報の中に溺れてしまわんばかりだった。

17shin:2006/11/21(火) 20:49:22
10月に入り、一週間が過ぎようとしていた。
もうじき一ヶ月か・・・
高柳は、目の前のパソコンにコマンドを打ち込みながら、ため息を吐いた。
9月初頭に、急遽、東京に呼び出され、理由も判らない内に、静岡高等工業助教授から、帝国総力研究所調査班副主任に任命されていた。派遣先は、佐世保鎮守府、長期出張になると言われ、とりあえず家に帰り、荷物をまとめ、特急に飛び乗っていた。
 佐世保鎮守府に着くと、そのまま大きな覆いで仕切られた、特別船渠に連れて来られ、八木主任教授に紹介された。高柳は、説明も無いまま、「のと」に連れて行かれ、言葉を失ったのだった。
 一月たっても、信じられない。しかしながら、今自分の目の前にある奇妙な機械を見れば、それは疑う余地も無い。ディスプレイと言う名前の画像表示装置は、総天然色で様々な情報を表示している。液晶画面、それがこの表示装置の名前だった。自分が何故呼ばれたのかは、自分の経歴をまとめられた一枚の紙で、納得は出来た。テレビジョンの発明者としてそこに記載されている内容は、自分の研究が間違ってなかった事のなによりの証明だった。
 しかし、21世紀の世界では、高柳が推進したブラウン管式のテレビジョンは既にどこにも無かった。その代わりに使われているのが、この液晶ディスプレイだった。
 液晶に関しては、ラジオのシャープが21世紀でもリードしているらしい。それは、一台のパソコンの中から見つかった、シャープのホームページに記載されていた。「液晶ディスプレイの原理と技術」と言うページを読む事により、その理屈は高柳にも理解出来た。時間さえ掛ければ、このような技術を内製化する事も不可能ではないであろう。
 しかし、時間が問題なのである。パソコンの使い方を学習出来た為、ここニ週間でかなりの調査が進んだ。実際、「のと」に置かれている各種機器の用途、原理等はある程度理解出来る知識は手に入ったのであろう。だが、これをどうやって、国力に結び付けてゆくのか・・・
それが、問題だった。そう時間が無いのである。後10年で戦争が始まり、16年後には敗北する。
勿論、様々な資料からその後の日本が再生する事も知っているし、高柳自身もその中で、かなりの地位を占めている事も知らされている。
 とは言え、例え自分が生き残って、その後廃墟から日本が再生するにしても、やはり負けは負けであり、その被害は並大抵のものではない。何とかしたいと言うのが、本音であり、その為に頭を悩ましていた。
 今出来る事は、情報の収集であり、その分析。そしてそれを如何に現実に組み込んで行くかを考える事。頭では理解できても、高柳はめまいにも似た焦燥感を覚えざるを得なかった。

18shin:2006/11/21(火) 20:53:29
10月30日、帝国総力研究所会議室
「それでは、汝らはこの方策が一番だと言うのだな。」
梅津、井上、高畑、八木、そして高柳の五人はお互い顔を見合わせる。
誰も口火を切りたがらず、仕方なく、梅津が威儀を正して、話し始める。
「はっ、最良とは言えませんが、今は本方策が次善の策と心得ます。」
「何か最良の策があるのか?」
「親政です。」
井上が、ぼそりと答える。
「既にご説明させて頂いたように、問題は軍部の統括です。経済問題はある程度制御可能でしょうが、陸軍、海軍共に問題を抱えています。本方策では、直接的な政策、軍事行動への関与は行わない事がその基本ですが、現実問題としてそれは非常に不確実な方法とならざるを得ません。現状でしたら、憲法の停止、陛下自らの直接統治による帝国の進路変更が可能でしょう。」
「朕はそれを望まん。第一、その後が続かんではないか。もし朕に間違いがあれば、誰がそれを制止できる。」
「はっ、確かに仰る事は我々も承知しております。しかしながら、回避可能かどうかの可能性を考慮しますと、本方策はやはり次善としか言いようがありません。」
梅津は顔を真っ赤にしながら、そこまで話をする。陛下に対して否定的な見解を述べる事など、総研に来なければ一生経験する事は無かったであろう。
「朕はこの方策を了承する。汝らはその実現に向けて全力を傾けてくれるであろう。宜しく頼む。」
五人は一斉に威厳を正した。
これまで手に入れた資料を基に、五人が検討した方策がここに了承された訳である。
まだ、方針レベルであるが、それは余りにも帝国の行く末を大きく変えて行くものだった。

「英国側での第二次世界大戦への参戦」これが、当面の目標だった。
中華大陸への軍の投入は、着実に帝国の国力をそぎ落として行く事は、資料からも明らかである。また、その結果としての英米との対立は、なんとしても避けねばならない。
大陸での無用の消耗を行わずに、欧州大陸で、大戦が始まれば、帝国の国力が更に増すのは先の大戦からも明らかである。
ヨーロッパの列強が国力を疲弊させ、また製品の供給基地となれば、帝国の産業発展は更に加速される。当然、手に入った各種未来技術を内製化して行けば、他の先進国よりも更に差を広げられる。
しかしながら、五人の検討結果はそのような単純な分析では終らなかった。いや、「のと」から発見された多量の論文、文献、私見を検討すればするほど、それだけでは終わらせられなかった。
 第二次世界大戦後は、ソ連と米国の二大超大国同士のにらみ合いが始まり、それは50年近く続く事になっていた。そこに、帝国が連合国側として残った場合、何が起きるか。それが問題だった。
 ソ連、米国との外交上の軋轢が発生するであろう。朝鮮半島は、分裂する事は無いであろうが、中華大陸はどうなるか判らない。帝国が進出する事により、外敵と戦う事で一体化した国体が成立したが、それがどのような国家になるのか。ソビエト、米国、そして帝国もそれぞれが支援する政府に対して援助を行う事となろう。
そこに軋轢が発生しないと考えられるのは、よほどのお人よしと言えよう。
 第二次大戦を乗り越えたとしても、その後には何らかの形で太平洋戦争が発生する可能性は高い。今のままで、帝国だけが変わるのでは、強大になった米国とソ連の間に位置する以上、どちらかと戦陣を交えざるを得ない状況に追い込まれて行く可能性は否定できない。
  更に、アジアの問題があった。欧米諸国による植民地が戦後独立し、米国はベトナム戦争と言う名の独立戦争に手を焼くことになっていた。結果として帝国の参戦により、独立を勝ち得た国々を国益の為に無視する事は容易い。しかしながら、植民地支配が何らかの形で終わりを告げる事を考慮すれば、未来技術をベースに超大国化した帝国がそれらの対応を行う必要はどうしても発生する。しかも、その時には、ベトナム戦争におけるソ連と米国の対立と言う二極化に日本が入った三極構造の中での紛争が発生するであろう。
 要はバラ色の未来など構築しようが無いのである。
 しかしながら、資料通りの歴史を歩む訳には行かない。いかに経済的に繁栄しようとも、国家としての尊厳を踏みにじられ、隷属的な国として帝国が、いや日本国となって反映している将来は、決して五人の好む未来ではないし、陛下も望まれていない。
 そう、「英国側としての参戦」は必要最低条件であり、帝国が民主国家として存続して行く為には、考慮すべき事項が他にも様々に存在していたのである。

19shin:2006/11/21(火) 20:57:06
「も一度、方針の確認をお願いする。」
陛下が退席され、梅津が最初に発言した。
「我々の目的は、帝国の存続。それも今後最低100年は独立国家として存続できる環境の構築である。これは、問題は無いな。」
四人が頷く。
「経済は?」
「好景気の維持。まあ、無理だが、それでも少なくとも不況による極端な疲弊は回避する。だな。」
高畑が答える。
「当面は、大きな問題は無い。何しろ先に起こることを知っているのだから。まあ、悪く言えば帝国が繁栄する為に、他国にその分を押し付ける事になるのは仕方ないが。」
「しかし、分析結果を基に、有利に立ち回れるのはそんなに長く無いだろう。いずれずれが生じる。その時が正念場だな。」
「ああ、精々五年程度だな。その先は出来る限りの事をして行くしかないだろう。」
「外交、これが難しいな」
梅津が自分に言い聞かす。
「当面は、親英を基本に置かざるを得ないだろう。要は一強を作らない事、これに尽きる。資料の米国はあまりにも強大な国家すぎる。」
「うむ、しかしそれが難しい。」
「科学技術は?」
「まだ分析が始まったばかりですが、少なくとも理論は追えそうです。簡単なモノなら3年が目処でしょう。集積回路、これを作れれば、展開はかなり速くなるでしょう。判っているだけでも、現状の真空管が、トランジスタ、集積回路、ICと変遷している事は理解できました。我々もこの順番で進んで行くしかありません。」
高柳が答えた。
彼自身にすれば、液晶ディスプレイは何としてでも作ってみたいものだった。
「しかし、生産の問題がある。」
八木がため息をつく。
「未来技術はその製品精度が桁違いだ。資料にあったのだが、欧米の製品は精度管理が徹底しており、同じ部品ならば、互換性がある。しかし帝国のものにはそれが無い。一品ずつの手作りに近い。そして、その欧米製の製品ですら、「のと」の製品精度とは一桁、否、三桁精度が違う。」
八木は本当に残念そうに首を振る。
「そのための、高畑君の日商グループじゃないか。既に米国の大暴落でかなり利益を叩き出したのだろ。」
井上が珍しく笑みを浮かべて話を向けた。
それはそうである。この一ヶ月の間に、日商は運用を任されている皇室運用資産を何と3倍に増やしていた。米国証券市場での株の空売り、各国の為替レートによる運用、金交換等、考えられるあらゆる手段と、新たに資料から得た知識を駆使して、高畑は資金を運用していた。
「そりゃ、経済を知っているものなら、誰でもこれくらいは出来ますよ。ですが、皆さん、これは本当に1回限りの荒業ですよ。こんな形でのぼろ儲けが何回も出来ると思わないで下さい。」
高畑は謙遜するが、それでも実際にここまで出来る男はいない。
「それよりも、この運用資金益を使い、産業の形成に向けて準備は進めています。」
「大村での用地買収か?」
梅津が問いかける。
「それだけではありません。これは皆さんに相談しなければいけない事ですが、米国の企業を買収しようと思います。」
「米国の企業」
「そうです。米国の恐慌はこれから本格化します。この結果、多くの企業が吸収合併されて行きます。その前に、買収するのです。」
「しかし、買収しても戦争になったら海外資産は凍結されてしまうだろう。」
「いえ、そうではなく、買収した企業はその場で解体して行くのです。そして工場等の資産を廃材扱いとして、帝国に輸入するのです。」
「そうか、工場ごと帝国に持ってくるのか。」
高畑は井上の返事に嬉しそうに答える。
「ええ、そうです。生産設備は建設に時間が掛かりますが、この方法ならば短期間で移設が可能です。それに、スクラップですから・・・」
「米国も文句も言えない。」
五人はお互い顔を見合わせて、笑う。

20shin:2006/11/21(火) 21:00:27
「それと、調査班にお願いしたいのですが、「のと」艦内には様々な日用品が山とあるでしょう。」
「ええ、それはもう。何せ800名以上の要員を運ぶ輸送艦ですから、様々なものがありましたよ。」
「その中で、非常に単純なモノで、我々が使っていないようなもの、そんなものがありませんかね。」
「さあ、色々あるからなあ・・・高野君は何か、気が付いたか?」
「そうですね、あっ、塵紙の箱、テッシュボックスなんかどうです。」
「ああ、あれか、単に紙の箱にちり紙を並べて入れてあるだけなのだが、一枚一枚取れるように工夫されている。まあ、紙の質も我々が使うものよりも遥かに高級だが、あれは感心するな。」
「やっぱり、それ、それですよ。」
高畑が一人嬉しそうに言うのを、四人が怪訝そうに顔を見合わせる。
「特許、特許ですよ。パテントが取れます。生産して販売が短期間で出来るのですよ!」
「あっ、そうか、そりゃそうだな。」
梅津だけが、まだ判らない顔で、少し悔しそうである。
「我々が調査している「のと」は、21世紀の船であり、その先端技術の応用ばかり考えていました。しかし、あそこにあるのは、それだけじゃなく、各種の発明品が山ほどある筈です。しかも、それらの多くはこれから90年の間に発明されるものばかりですから、まだ世界中のどこにも特許が無いのですよ。技術的に高度なモノはこれからでしょうが、ひらめきから出来たものなら我々でも特許がとれるし、作れるのですよ。」
「あっ、なるほど。テッシュの箱ならば、作り方さえ説明すれば、今すぐでも作れるな。」
「早速、調査班で手分けして、日用品をあたりましょう。」
「ええっ、ぜひお願いします。」

21shin:2006/11/21(火) 21:04:11
それぞれが、問題点を確認しあう会議は終った。
八木、高柳は、再び佐世保に、高畑は神戸へと向かう。
残った二人の軍人は、再び会議室に戻る。
「次は、ロンドン軍縮会議か。」
梅津が水を向ける。
「ああ、後2ヶ月を切っている。基本的にはそのまま、英米六割での締結で問題は無い。しかし、その結果発生するしこりがね・・・」
既に海軍内部では、条約派と艦隊派の確執が存在する。
先のワシントン会議以来の流れが、本会議後、先鋭化するのである。
条約は締結されるが、堀軍務局長も含め数名の条約派が予備役に編入される。
また、政治的には統帥権の干犯問題、軍は陛下のものでありそれに陛下の代理の政府が口を出す、当たり前の事なのだが、それすら反対の材料にするやからがいるのも事実だった。
問題なのは、その情報を基に、首謀者を一概に無能と決め付ける訳には行かない点だった。
陸軍を見ても、先年の張作霖爆破事件、この先、31年に発生する満州事変の首謀者が無能と言う訳ではない。
しかし結果から見れば、彼らは帝国を戦争に導いた大悪人と言えよう。
陛下は、いち早く、この事に気付かれ、それ故二人のような、言わばある程度は有能で、かつ、政治的側面で問題を抱えていない人材を選ばれている。
このことを二人は理解していた。
それで無ければ、将官を飛び越して、大佐風情に特命が下る訳は無い。
もっとも、今後10年、15年先を考えるならば、自分たちのような大佐、中佐クラスから変えて行かなければならないという側面もある。
とにかく、そう言う事だった。
艦隊派を、有無を言わさず、予備役編入と言う荒業も出来ない事は無い。
だが、そのような荒業を使えば、当然反感は強くなる。
陛下の宸襟を惑わす君賊の奸として、二人は叩かれるであろう。
別に二人が、自らの汚名を被る事、別に好んで被る気はないが、を嫌がっている訳ではない。
元々、陛下の御意思で総研そのものが、45年解散となっている。
それ故、最低でも今後16年間はこの組織を維持して行かなければならないのに、最初から問題を抱えるわけには行かない点が問題なのだった。

「やはり、未来情報と陛下の御意思での説得しかないか。」
井上が、ため息と共にポツリと呟く。
それでなくても、自分は口が達者な方ではない。
そりゃ、30を過ぎれば、早々けんか腰での会話はするわけも無いが。
くそっ、なんで俺が・・・
梅津が同情するようにこちらを見ていた。
しかしまあ、梅津大佐よりましか・・・
陸さんはうちと違い、一筋縄で行かないやつがゴロゴロしている。

22shin:2006/11/21(火) 21:07:17
11月5日、海軍省某大会議室
小さめの窓には、分厚いカーテンで覆われている。
壁も厚く、外には声が漏れないように留意された、幹部用の特設会議室だった。
凄いな、こう言う部屋もあるのだ・・・
井上は、落ち着かなかった。
一応、本日の会議は山梨海軍次官主催の、対ロンドン軍縮会議意見交換会と言う形式を取っている。
しかし、主要参加者には、「のと」に関する報告会との連絡が行っており、それ故総研から井上が参加しているのである。
海軍大臣 財部 彪、海軍次官 山梨勝之進 中将、海軍軍務局長堀悌吉少将、軍務局第一課長沢本頼雄大佐、軍務局第二課長 星埜守一中佐、教育局長大湊直太郎少将、人事局長 松下元少将、艦政本部長 塩沢幸一中将、航空本部長 安東昌喬中将、海軍軍令部総長 加藤寛治中将 海軍軍令部次長 末次信正少将、軍令部第一部長 百武源吾少将、軍令部第三部長 河野董吾少将、連合艦隊司令長官山本英輔少将・・・
名前と顔を確認するだけでも、ぞっとするほどの綺羅星の集まりだった。
しかも殆どの参加者が自分より階級が上と来れば、緊張しない訳は無い。
今ここで、爆弾でも破裂すれば、海軍は崩壊かな・・・
一瞬不謹慎な事まで考えてしまう。しかも、ひょっとしたら、その方が楽かも知れないと思ってしまい、井上は慌ててそんな考えを打ち消す。

「それじゃ、始めようか。」
財部海軍大臣が、促す。
「軍務局長堀です。本日の会議は、来年初頭開かれるロンドン軍縮会議に対する意見交換会がその議題ですが、その前に、先日の「のと」事件についての報告会も兼ねております。」
何名かの海軍を代表する将官は、頷くものもいる。しかし、その他のものは、興味を示し話に聞き入る。どうやら、「のと」のうわさは広がっているらしい。何らかの情報を流す必要があろう。無闇にうわさだけ広がるのは好ましく無い。
井上は、頭の中のメモ帖に記入する。ふと、あのパソコンをこう言うメモ代わりに使えないのかなとの考えも浮かぶ。
「それでは、まず、「のと」事件の経緯を報告いたします。尚、ここで話される内容は一切他言無用です。この話を漏らされた方は、直ちに解任するとの、陛下からの通達です。」
流石に、一同にどよめきが走る。
確かに、直任官である以上、陛下にその権限は属している。しかし、実際にそれが行われる事はありえなかった。それはそうであろう、指揮系統も何もあったものではない。
だが、それが「陛下の通達」と言う堀の言い方に、皆は陛下のご意思を感じざるを得なかった。通常は「お上のご意思」、「溯上の意向」等と婉曲な言い方が用いられるもので、それは陛下に責任問題を発生させないための独特の言い回しである。しかし、堀の言い方は逆に、責任の所在を明らかにしていた。

23shin:2006/11/21(火) 21:11:20
一通り、全員が意味する事を咀嚼したのを確認すると、堀は話し続ける。
「8月6日、客船浅間丸が行方不明となり、同日大型輸送船「のと」が発見されました。発見場所は長崎県野母岬東南10キロ沖合です。発見者は、同地在住の元海兵、山田太一、兵曹長にて退役です。その通報で、直ちに佐世保鎮守府所属駆逐艦「帆風」が急行、「のと」の存在を確認。不審船としての臨検を行うが、艦内には一名も乗組員がおらず、また艦内の異様な様子も含め、警戒態勢にて待機。佐世保鎮守府に曳航を決定。同8日、佐世保鎮守府係留、6号ドッグに係留。連絡を受けた、田中鎮守府長官は、自ら調査の為乗船、直ちに、「のと」の警備体制を整え、軍令部へ連絡、軍令部末次次長は、軍令部加藤総長の了承の下、海軍省及び海軍大臣に通達。この時点で、「のと」の出現は海軍内での機密事項に指定されました。大田少佐率いる佐世保特設陸戦隊及び、木村少佐以下帆風は、特命があるまで、現状待機を命じられました。」
堀は、ここで一息入れる。
「勿論、発見された「のと」があまりにも常識から逸脱したものであり、その秘匿が最重要と考えられたためです。
8月12日、海軍大臣、軍務局、軍令部は、直ちに極秘会議を開催し、私こと堀軍務局長管轄による、調査部門の設立を指示、要員の選任を開始致しました。しかしながら、この時点で、鈴木侍従長より、陛下のご意向が伝えられ、問題は海軍内部だけではなく、国家機密としての扱いに変更されました。改めて、海軍、陸軍、濱口首相、井上大蔵大臣、幣原外相、侍従長を含めた、調査委員会が設立され、発見された各種書籍等の調査資料の宮城への移設が決定。「のと」そのものの調査に関しては、移設資料の分析が済むまで凍結されました。」
「8月25日、調査委員会が御前会議にて開催され、「のと」は、皇室預かりとの決定がなされました。このため、「のと」の調査分析及びその結果の関係各位への通達機関として、新たに「帝国総力研究所」が設立されました。帝国総力研究所は陛下を所長とする皇室の私設諮問機関であり、その運営費は皇室財産より拠出されます。研究所所長自ら、陸、海軍の代表として、陸軍は梅津美治郎大佐、海軍は井上成美大佐を指名、「のと」調査班としては、主任教授に八木東北大学工学部教授が指名されました。」
まくし立てるような、堀の口調に、参加者は唖然と聞き入る。
堀は再び、全員がこの情報を咀嚼するまで、間を空けた。
「これほど、早期にこのような体勢が構築された理由は、当然ながら陛下が入手された「のと」そのものの情報のためでした。既にご存知の方も多いでしょうが、「のと」は、西暦2015年、今から86年未来の国軍の輸送艦であったからです。」
「ま、まさか・・・」
初めてこの事実を知らされた一部出席者から驚愕の声が漏れる。
ここで、堀が井上を促す。

24shin:2006/11/21(火) 21:19:50
「理解するのは困難だと思われます。しかし、これは事実なのです。今のところどういう理由でこのような荒唐無稽の現象が発生したのかは、判っておりません。しかしながら、今佐世保にある「のと」の存在は、帝国の未来を大きく変えようとしております。」
井上が話し始める。
「帝国総力研究所、海軍代表井上成美です。僭越ですが、ここからは総研代表として小管がお話させていただきます。」
井上は立ち上がり、堀少将に頷く。
「帝国は、「のと」を手に入れた事で、列強に対して非常に優位に立つ事が可能となります。我々が使いこなせればですが、21世紀までの最新の科学技術を手に入れる事が出来る訳です。
「のと」は、未来の海軍の輸送艦であり、その当時の武装もある程度施してあります。また、先の欧州大戦で登場した航空機、戦車、それらの更に発展したものも同時に入手できました。」
「しかしながら、同時に帝国が手に入れたのは、帝国がこの先滅亡すると言う予言書でした。」
「な、なんだ、それは!」
思わず、山本連合艦隊司令長官が叫ぶ。
この一連の動きから全く蚊帳の外に置かれていた、山本英輔少将は、今までの話を、驚きを持って聞いていた。
眉唾の話であるのは事実だが、それでも海軍首脳陣ほぼ全員を集めて法螺を吹く事も考えられない。
まあ、何か知らないが、最新鋭の兵装が手に入るのは間違いなさそうだと、単純に興味本位で聞いていたに過ぎない。
しかしながら、帝国が滅亡する、予言書等と言うものはその埒外だった。
「どうして、帝国が滅亡しなければならないのだ。」
掛かった・・・
井上は、心の中でニヤリと笑う。
誰かが、怒らなければ話は盛り上がらない。
そりゃそうである。
これから、更に悪い話をして、反感を持った人間を叩き潰さなければならないのだから。
「「のと」が現れなければ、それは歴史書でした。」
訳がわからず、山本少将の口が止まる。
「1939年、欧州にて二度目の世界大戦が開始されます。英国を中心とする連合軍、独逸を中心とする、枢軸国の戦いです。帝国は、既に軍縮条約での軋轢、陸軍による中華への進出から、英米との関係を悪化させており、途中から、枢軸国として参戦します。そして、連合軍には米国が加わります。」
「1941年12月8日、帝国軍はフィリピン侵攻、ハワイ真珠湾奇襲攻撃により、戦争を開始致します。42年5月、連合艦隊は、ミッドウェー攻略作戦を発動し、迎撃に現れた米国機動艦隊により、空母4隻を喪失します。航空機の発展により、戦艦の撃沈が可能となり、残念ながら、艦隊決戦は行われません。42年後半から帝国は既に守勢に回ります。
45年5月、独逸が連合軍に降伏、帝国は同年8月16日に降伏し、それから5年間、連合軍に占領されます。その後、独立は回復しますが、最早帝国ではなく、日本国として、です。しかも米国の属国に近い状態が21世紀まで継続します。」
辺りがしんと静まる。
ただ、堀少将だけは、必死に真面目な顔を維持しようと努力していた。
井上のやつ、俺が貴様にやった事を海軍首脳陣相手にやってやがる・・・
「これは、あくまでも我々が「のと」を知らず、今までの延長で国家を運営した場合に起こりうる未来です。」
「しかし、今は「のと」がある。」
流石に、軍令部総長は違う。
上手く、話を繋いでくれる。
井上は、微かに頭を下げ、話を続ける。
「そうです。我々は「のと」を手に入れました。そして、その内容をいち早く理解された陛下は、恐れ多くも自ら動かれる事を宣言されたのです。」
「「のと」より得られる技術情報、今後の国内外の動向に関する情報は、あまりにも影響が大きすぎます。各自がその情報をバラバラに活用し始めたら、何が起こるでしょうか。経済は大混乱に陥り、軍は暴走するでしょう。
 既に、先月米国ニューヨーク株式市場で発生した株価暴落が、この先世界的な大恐慌に繋がる事を、「のと」の未来情報は教えてくれました。そして、来年締結されるロンドン軍縮会議の結果すら、我々は知っているのです。」
「な、なに・・・それは本当なのか?」
驚愕の声を上げたのは、末次軍令部次長だった。
勿論、他の参加者たちの間にもどよめきが走る。
誰もが、話の内容を理解していても、そこから導き出される結論を推論出来るとは限らない。
やはり具体的な例えがあるのと無いのでは、理解は大きく違う。
「そうです。我々は1月に開催される軍縮会議での英米の手の内を知っているのです。」
どうしても軍人は兵器ばかりに目が行く。しかし、それはあくまでも付随的な情報である事を認識させねばならない。
さあ、これからが正念場だ。
井上は気を引き締める。

25shin:2006/11/21(火) 21:23:13
「しかし、それをどう生かして行けると言うのですか。本当に我が海軍はそれを生かせると皆さんはお考えですか?」
「井上大佐! 貴官は何様のつもりだ!」
末次軍令部次長が怒声を荒げる。
ほぼ全員が、こいつ何様のつもりだと言うように、井上を睨み付けていた。
おいおい、ここまでやっちゃったら、こいつどう納めるつもりなのだ・・・
ある程度、井上から話を聞かされている堀にしても、心配にならざるを得ない。
「1月から開催されるロンドン軍縮会議は、5月に、対英米六割と言う比率で、締結されます。」
「なに?」、「うーむ・・・」、「なんと・・・」
殆どのものが、その数字に悲鳴を上げる。
「今、このまま何もせずに推移すれば、ロンドン軍縮会議が対英米六割で締結されると言う情報が手に入りました。それでは、海軍はどのような行動を取られますか?」
知ったからと言って、直ぐに答えられる筈も無い。
「それは、これからこのメンバーで検討すべき課題であって、直ぐにどうこう言えるものではない。」
末次次長が吐き捨てるようにつぶやく。
「おっしゃる通りです。事実我々が知りえた情報でも、ロンドンからこの比率を連絡されると、海軍内部では二つの派閥が発生します。即ち、条約締結を推進すべきと言う「条約派」と、英米7割を固守すべきと言う「艦隊派」です。
条約そのものは、条約派により、締結されますが、この結果に不満を持つ艦隊派が、その後勢力を強めて行きます。
そして、最終的には条約派と言われる将官の方々は、予備役に編入されてしまいます。
同時に、この条約締結そのものが、統帥権の干犯であるとの意見が出され、野党はその意見を盾に、現政府を解散に追い込み、それが悪い前例となってしまいます。」
「仮に、海軍が知りえた情報を有意義に活用し、この派閥抗争を未然に防ぎえたとしても、残念ながら帝国にはもう一つの軍が存在しております。
 海軍独自で「のと」情報を管理し、海軍内部の無益な抗争を阻止し、海軍の近代化、否未来化に邁進したとしても、帝国陸軍が暴走するのを我々が止める事は出来ません。情報が海軍から流れてくる限り、陸軍は反発するでしょう。勿論、我が海軍も情報を陸軍に握られるのは看過しうる問題ではない筈です。」
井上は会議室を見回す。大抵の者が理解を示しているのが判り、心の中で安堵する。
「更に政府の問題もあります。海軍が「のと」情報を握っている限り、政府そして陸軍は、我々の提示する情報を疑い続けるでしょう。まだ、海軍は何か隠しているのではないかと・・・」
誰もが黙り込む。
「主上は、ここまでの判断を短期間でなされ、そのため「のと」を皇室管理とされました。
そして、情報提示の窓口として、政府へは陛下自ら、海軍へは、不肖井上、陸軍へは梅津大佐とされたのです。
これが、小管の申しました「海軍では「のと」から得られる未来情報を生かせない」と言う理由であります。ご理解頂けたでしょうか。」
必ずしも全員が納得している訳ではなさそうなのは、雰囲気を見れば判る。
それでも、表立った反論が無いだけ、よしとすべきであろう。
ただ、堀少将だけが、笑いそうになるのを堪えているのが判るだけに、気に障る。
どうもあの人はやりにくい・・・
そりゃそうであろう。
建前は大佐の自分は、情報を提供するだけである。
情報を握るものは全てを制する・・・
それが、梅津大佐と二人で見つけた、未来情報の最も重要な部分だった。
井上はチラッと時計に目をやった。
よし、予定通りの時間で話をここまで持ってこられた。
そろそろだな・・・

26shin:2006/11/21(火) 21:26:29
井上が黙り込むと、全員が怪訝そうに彼を見つめる。
扉かノックされた。
まるで図ったように、ピッタリのタイミングに少し井上も驚いたが、黙って立ち上がる。
扉が開かれ、鈴木侍従長が現れた。
侍従長が素早く脇によると、平服姿の陛下が入室される。
全員が素早く立ち上がり、直立不動の体勢を取る。
これが陸式ならば、敬礼の嵐になるのだろうな。
こっちはまだ楽だったが、彼は大変だろう。
とりあえず、一番難しい部分を終えた井上は、気を楽にして陛下の言葉を待つ。
一番上座と思われる席に陛下が向かわれると、慌てて席が空けられた。
徐に正面を向き、軽く頭を下げ、腰を下ろされる。
「皆、座れ。」
と言われて、そのまま腰を下ろしたのは井上だけだった。
し、しまった・・・
ほんの二ヶ月程の間とは言え、既に常識から離れてしまっていた事に気づき、冷や汗が出る。
「座らねば、朕は話せないではないか。」
「は、」
海軍大臣が慌てて腰を下ろしたのを見て、他の将官も腰を下ろす。
「話は、井上が済ませたものと思う。これは全て朕の意思である。
諸君らにも、協力をお願いする。」
「へ、陛下!」
陛下が頭を下げるなどと言う事は、あってはならない事だと思っている軍人は多い。
しかし、目の前でそれを行われると、それ以上の言葉を発するものはいなかった。
否、全員唖然としていると言って良かった。
「朕は、資料に目を通した。その結果として、帝国が滅びる事も理解したのだ。いや、帝国が滅びるのもそれが運命ならば、甘受しよう。しかしその為に、400万以上の臣民が無くなるのは、看過できる事ではない。その為には、朕、いや私は何でもする。
 井上、説明を。」
「は、」
「それでは、改めて帝国総力研究所からの提案を申し上げます。」
井上が説明を終えるまで、一時間の間、陛下は微動すらしなかった。

27shin:2006/11/21(火) 21:29:16
「しかし、あんなのありか?」
「良いじゃないですか、全員納得されたのですから。」
会議終了後、井上は、堀軍務局長の執務室に足を運んだ。
ソファに腰を下ろすやいなや、それが堀少将の言葉だった。
「まあ、お前が脚本を書いたのだろうが、陛下も良く引き受けられたものだ。」
陛下が御来席になる事を、井上は堀にだけは知らせていた。
それで無ければ、海軍省の中を誰にも告げずに、会議室まで来られる道理も無い。
「しかし、井上、判っているだろうが、これから大変だぞ。」
「ええ、理解しているつもりです。幸い小管は、腹を切れば責任が取れる等と言う甘い考えは抱いておりませんから。」
井上も堀が言いたい事は、判っていた。
陛下のご意思を伝える立場と言いながら、実際は梅津大佐と二人が国策を決定して行く事になるのを堀は理解している。
それで無ければ、会議の席で堀少将が笑いを堪えていた訳が無い。
そして、言外にその責任が全て二人に掛かってくるし、また権力を握れば腐敗すると言う原則もあるゆえに、堀が自分に対して疑いの目を向けているのも理解していた。
流石に、三号生徒一の切れ者だけはあるな。
井上は自分の事など棚に上げて、堀少将を改めて評価し直した。
「まあ、身辺には留意しろよ、殺されたって可笑しくないのだからな。」
「ええ、それは十分に、明日以降は常に警備が付く予定です。小管には、陸軍から、梅津大佐には陸戦隊からですが。」
流石に堀が目を向く。
一本取った!井上は心の中で叫んだ。

「で、何をするのだ。先ほどのは、あくまでも対ロンドン軍縮会議対応と、行動方針の説明だけだろ。」
「ええ、その通りです。具体的な方法はこれからですが、と言うより陸軍次第ですが、国防総省が設立されます。」
「海、陸の一本化か。」
「ええ、そうです。方針でもありましたように、今後20年間は、帝国の外交方針は親英路線となりました。とは言っても、帝国の仮想的国が、ソ連と米国である点は変わるものでもないでしょう。それを今の形で続けて行くのはどう考えても無理ですし、入手した資料からも明らかです。第一、予算が無い。海、陸別々に兵器生産を続けるだけでも、そこで発生するロスは計り知れません。」
「言う事は判る。しかし、現実には軋轢が凄いぞ。」
「ええ、そうでしょうね。まあそれでも組織として統合して頂かないと、第二次大戦には間に合いませんから、そのつもりで覚悟を決めて下さい。」
「軍令部と参謀本部は?」
「ああ、こちらのほうが簡単です。総研も含め、独立組織とします。名称は統合作戦部です。」
「陸さんと海軍の対立と言う軸から、国防総省と、統合作戦部との対立へと軸を切り替えます。」
堀が感心したように、井上を見つめる。
「しかし、そんな事出来るのか。」
「出来るのかではなく、やるのです。明日、陸軍では陛下の手による粛軍が行われます。」
堀は、井上がいとも簡単に語る言葉に、言葉を失ってしまうのだった。

28shin:2006/11/21(火) 21:33:50
堀軍務局長との話が終ると、井上は次の目的地に向かう。
行き先は加藤寛治軍令部総長の執務室である。
さて、こっちはどう出るか。
加藤軍令部総長、末次次長の両名は資料によれば、「艦隊派」の両巨頭である。
艦隊派はこのままにしておけば、統帥権の問題を引き起こし、その後の宮様を中心とする、艦隊巨砲主義と言う戦艦中心の派閥として太平洋戦争まで派閥抗争を引きずる事となる。
まあ、陛下自ら乗り出してきたと言う新たな展開の下では、宮様が総長になることがあっても、派閥としての軋轢はそれ程大きいものとなる事は無いであろう。
しかし、井上にすれば、それでも不十分だった。
なんと言っても、残された時間はたったの10年しかない。
米国との太平洋戦争は、避けられるものなら避けたいが、どうしても戦争になるならば、負けない海軍を作る必要がある。
内部抗争など行っている余裕は帝国には無いのだ。

「失礼します。」
井上は加藤寛治総長の執務室の扉を開けた。
執務室には、加藤総長のみならず、末次次長も待ち受けていた。
これは、都合が良い。
一回の説得で両名ともに納得させればそれにこした事は無い。
井上が、末次次長の向かいのソファに腰を下ろすと、加藤総長も次長の横に腰を下ろす。
加藤総長が、ゆっくりと、煙草に火を付け、一息入れるまで、誰も何も言わない。
ふうっと紫煙を吐きながら、総長は末次に目線で合図を送る。
「今回の件、どう言う事か説明してもらおう。」
話し始めた末次次長の語気は鋭い。
うへっ、かなり怒っているな・・・
頭の中で、首を竦める。勿論、表情には出さない。
「今回の件といいますと?」
「とぼけるんじゃない!どうして陛下を担ぎ出した!」
加藤総長が、怒鳴る。
流石に黙っている事は出来なかったみたいだった。
「お言葉ですが、小職が陛下を担ぎ出した訳ではありません。主上自ら、ご指示されたのです。」
「それは、建前だ!主上が一人であそこまでおやりになる筈が無かろう。」
「主上が目を通された最初の資料が、何であったかご存知ですか?」
「いや、知っている筈も無かろう。」
二人とも、話を逸らされた事には気が付かず、黙り込む。
「「昭和天皇」と言う総天然色の写真集です。山田元兵曹長が送ったんです。「のと」の第一発見者は、海軍に通報する前に、一人で艦内に入り、これを見つけたのですね。表紙に菊のご紋があり、今とは違う陛下のお写真を見て、彼は大変なものを見つけたと思ったのでしょう。これを密かに持ち出し、鈴木侍従長に送った事で、陛下は「のと」の事をお知りになられました。」
初めて明かされた内容に、二人は合点が言ったように頷く。これまで、軍内部でも陛下の迅速な行動に疑問の声が上がっていたのだ。つまりどこからこの話が漏れたのかと。
「資料の一部と言う事で、小職も拝見致しましたが、その内容は考えようによっては凄まじいものでした。昭和20年の敗戦、全国の行脚、海外訪問。見れば判ります。この先起こりうる、敗戦によって、陛下がその罪を償う為に、どれほどの事を成されたのか。半生は、帝国を列強とするべくその人生を捧げられ、そして残りの人生は敗戦と言う、陛下お一人の責任ではない事態に対する償いの為に捧げられているのです。」
二人とも何も言えない。
「それを、自らご覧になり、御思慮された陛下の行動がこれです。重ねて申し上げます。帝国海軍大佐井上成美、帝国陸軍大佐梅津美治郎、我々二人はあくまでも陛下のご指示の下に動いております。決して、君賊の奸ではありません。」
「そうなのか、本当に主上のご意思なのか・・・」
井上が黙って頷くと、加藤総長は頭を抱えてしまう。

29shin:2006/11/21(火) 21:38:25
「そうすると、お主が説明した、親英第一主義とロンドン軍縮条約対英米6割締結は、本当に陛下のご意思なのだな。」
末次次長が改めて問いかけて来る。
「はい、仰せの通り、主上のご意思です。」
「理屈は判る。対米比率6割の海軍力にて国防を全うしようとするならば、第三次日英同盟締結を目指すのも一つの方法ではある。もしそれが可能ならば、だ。」
「陸軍、ですね。」
「そうだ、英国に再び同盟を結ばせるには、それ相応の見返りが必要となる。帝国が提供できる見返りとして考えられうるのは唯一中国における各種権益であろう。しかしそれを手放すのを果たして、陸軍が飲むとは・・・考えられん。」
末次次長はそこまで話すと、腕を組んで黙り込んでしまう。
それはそうであろう。日清、日露、第一次世界大戦、シベリア出兵と連綿と続いてきた戦略そのものが、帝国の権益拡大の流れであり、それは中国進出の歴史でもあった。
「陸軍は納得しないでしょう。」
「しかし、それでは主上の望むような形での国策遂行は出来ないではないか!」
思わず、末次次長の声が荒げられる。
堀軍務局長のように、事前にある程度井上経由で情報を得ていた訳でもない加藤総長や末次次長にすれば、この話は余りにも突然過ぎた。
「陸軍に対しては、粛軍が行われます。」
驚愕が二人を包む。
「海軍に関しては、今回の会議にて大命が下されました。元々我が海軍は政治に容喙する事は少ないですし、それは「のと」資料でも示されています。しかしながら、陸軍はこの先、政治に対する介入を更に増やして行きます。また、反乱も発生します。あっ、これは海軍軍人も関連しておりますが、あくまでも同調者のレベルに留まります。
 要は、海軍は道理を説けば、理解出来るであろうという陛下の判断です。」
「そ、そうか・・・」
加藤総長が、留めていた息を吐き出すように、言葉を濁す。
そりゃそうだろう、お前たちは朕に逆らうまいと言われているようなものだから。
「しかしながら、我が海軍にも問題が無い訳ではありません。現に悲しむべき事ですが、総長、次長のお立場から、軍縮条約反対の立場を取られるお二人を旗印に、海軍内部でも「艦隊派」と「条約派」と言う二つの派閥が発生し始めています。」
二人がムッとする。
「いえ、決して小職は「艦隊派」が悪いと言っている訳ではございません。ただ、それを利用しようとする勢力があると言う事を留意頂きたいのです。」
「しかし、そうは言っても、現実に対英米六割では帝国の防衛は成り立たんぞ。」
「本当に総長は、そうお考えですか。少なくとも「のと」で発見された資料からでは、総長ご自身は、それでも防衛は可能であろうとお考えであった事が伺えます。我が海軍が、別に米国との戦争を望んでいる訳では無い事は、言うまでもありません。要は、戦争を仕掛ければ、それ相応の被害が生じる。結果、戦争をするのが割に合わないと思わせるだけの戦力を確保すれば良いとお考えであったように見受けられます。そしてこれは、次長も同様のお考えであった事が確認できております。」
二人は我が意を得たり、と頷く。
うそである。
井上はそこまでの資料を見つけた訳では無かった。しかし、こう言えば二人が追い詰められる事は無い。
そして、将来そう考えていると言われれば、実際にそう考えるようになるのも想像出来る。

30shin:2006/11/21(火) 21:40:03
「しかしながら、問題は12年後の海軍軍令部です。内線防御、否、最悪でも攻勢防御が主体で構成された帝国海軍を使い、全面攻勢に出てしまいます。これでは敗戦も当然の失態といえましょう。軍令部は、この当事の連合艦隊より提案された各種攻勢案を承認してしまうのです。考えられますか、作戦実行部隊である連合艦隊が作戦を提案し、作戦作成部門である軍令部が承認を与えるのですから。」
「そこまで・・・そこまで酷くなるのか?」
「ハイ、その通りです。最もこれは海軍だけの問題ではありません。政府そのものの失策、陸軍の圧力、国民の声、これら全てが戦争を望んでしまったときに、海軍のみ反対は非常に困難であるだろう事は想像できます。しかし、しかしそれでは、帝国の滅亡でしかありません。」
「我々海軍は、あくまでも御国の敵を打ち破る事が望まれております。その為には海軍内部で派閥が生じるのは阻止する必要があります。詳しくは申しませんが、今回のロンドン軍縮会議以降、海軍内部での派閥の亀裂が大きくなり、その結果として軍令部、軍務局、そして実戦部隊である連合艦隊との間での軋轢を拡大して行く事となります。」
「陛下は、陸軍にて考えている粛軍を海軍にも行う事をお考えでした。しかしながら幸いにも小職の意見を取り入れて頂き、自浄努力にて海軍内部の体制の再構築を御許可頂いたのです。僭越ですが、小職からもお願い申し上げます。何卒帝国陸海軍の総力体制の再構築にご協力頂きたい。」
井上は、そこまで言うと、頭をふかぶかと下げた。
まあ、これだけ言って理解して貰えなければ、後は陛下の強権に縋るしかなくなる。
さて、どうでるか。

暫く、誰も何も言わない。
「判った・・・貴様に協力しよう。」
加藤総長が、ため息を吐きながら、つぶやく。
「口ばかり達者な貴様に、俺が説得されたのではないぞ。他に道が無いからだ。それが陛下のご意思であるならば、従うしかない。」
「ありがとうございます。」
「ええい、礼なぞは良い。それより、軍令部は何をすれば良いのだ。」
井上は今後の段取りを説明し始めた。

31shin:2006/11/21(火) 21:42:08
「それで、海軍は上手く行ったのだな。」
梅津大佐が質問する。
既に夜も遅い時間だが、皇居内に置かれた、総力研究所ではまだ明かりがついている。
明るいのはそこだけではないのだが、いつもの会議室には陛下も含めて三名が集まっていた。
「はい、一応海軍軍令部加藤総長、末次次長、軍務局、堀軍務局長には納得して頂きました。」
陛下は黙って頷く。
「後は、陸軍改革です。予定通りで宜しいですか。」
再び陛下は頷くだけだった。しかし、明らかに何ものかを示す堅い決意が顔面には浮かびあがっていた。

32shin:2006/11/21(火) 21:46:08
翌日、第一連隊の連隊長と、第三連隊の連隊長は、侍従武官の阿南中佐より、突然の呼び出しを受けた。
 陛下からの召還であるため、両連隊長は当日の予定を全て取りやめ、即日宮城に向かう。
阿南中佐の案内で、二人は普段入ったことの無い一角へと連れて行かれ、小さな会議室に案内された。
「何か聞いているか?」
第一連隊長の東条中佐は、慌てて首を振る。
「そうか・・・」
一体、何があったのだ・・・
第三連隊長の永田大佐は、黙り込む。
突然、陛下に呼ばれる訳が判らない。だいたい何かあるなら、師団長に話があってしかるべきであり、自分らのような大佐、中佐風情に直接陛下が個別にお会いになる等、あまり考えられない。
左手の扉が開かれ、二人は直立不動の体制をとるが、入ってきたのは梅津大佐だった。
お互いに敬礼を交わして、席に座る。
そうか、この件か。
二ヶ月前から、梅津が特命で動いているのは、永田も承知していた。
何かとんでもないものが、長崎で見つかったとのうわさは陸軍省内部でも流れていた。
それに関しての話であろう事は、永田にも想像がついた。
しかし、それにしても何故二人なのかが訳が判らない。

「8月6日に、客船の浅間丸が行方不明になり、代わりに輸送艦「のと」が発見された。理由は聞くな、私も判らない。しかし、この二つの船が入れ替わったのは、調査の結果、ほぼ間違いない。しかも、この「のと」と言う船は、2015年の未来からやってきた船だった。」
二人、いや阿南中佐も含めれば、三人は、あっけに取られて梅津大佐の顔を見る。
「まあ、信じられんだろうが、事実だ。これを見ろ。」
梅津が指し示したのは、彼が持って来た黒い箱のようなものだった。
「未来の世界では、パソコンと呼ばれている。」
梅津はパソコンを開きながら、説明する。
「万能計算機、情報処理装置とでも言うべきもので、このような画面に様々な情報を表示出来る。」
梅津はパソコンを回し、開いた画面を三人に示す。
「な、何だ!こ、これは!」
画面上には宮城の写真が映っていた。
綺麗な総天然色の二重橋の映像である。
三人があっけに取られているとその映像が、代わり、一面の焼け野原が現れる。
「1945年8月、場所は東京日本橋近辺。B29戦略爆撃機、硫黄島、米国の新型爆弾で廃墟とかした広島・・・」
次々に絵が切り替わり、その度に梅津が小さくコメントして行く。
それは、正視できないような大戦による被害映像だった。
「8月15日、ポツダム宣言受諾、戦艦ミズーリーでの降伏文書署名、連合軍進駐軍司令官ダクラス・マッカーサー、戦後発の国会開催、新日本国憲法発布、戦後復員船、経済発展、東京・大阪間を三時間で結ぶ弾丸列車、東京の新しいシンボル東京タワー、レインボーブリッジ」
途中から、綺麗な総天然映像に代わったそれは、明らかに空想の世界のようだった。
「これが、我々の未来だそうだ。最もこの資料ではここにいる四人が四人とも、この未来は見れんがな・・・」
梅津はパソコンを閉じる。
「永田、お前は今から6年後の昭和10年に暗殺されているらしい。阿南、お主は昭和20年8月15日、敗戦の日に自殺、東条、貴様は昭和23年12月23日に絞首刑、私は、翌24年1月8日に獄中で死去だそうだ。」
誰も衝撃で、口を開かない。
「昭和16年12月8日、帝国は米英等の連合軍に宣戦布告、この時の内閣総理大臣が、東条、お前だ。そして、戦争は400万以上の死者を出し、昭和20年8月15日に敗戦を迎える。この時の海軍大臣が阿南、お主で、参謀総長は私だ。
 そして、二人とも戦争責任を問われ、連合国の裁判で死刑判決、私は無期懲役だそうだが、獄中死とあいなる。何とも楽しい未来だと思わんか。」
「へ、陛下は・・・」
東条が問うた。
「主上は、その後も長生きされる。昭和の御世は63年まで続く。しかし、昭和20年以降は、敗戦の責任を取るだけに、生きられたように思われる。」
梅津は封筒を取り出すと、三人に用意した書類を配る。
先の山東出兵から、満州事変、中華事変、三国同盟、第二次世界大戦まで、敗戦に至るまでを簡単にまとめたものだった。

33shin:2006/11/21(火) 21:52:57
「こ、こんな・・・信じられん。」
「俺もそう思いたい。だが、こんな黒い箱や、未来の兵器みたいなものが、ごっそり詰まれた船が見つかったんだぞ。信じない訳にはいかん。否、信じろ、そうでないと先に進めん。」
「とにかく、いち早くこれを知られた主上は、陸軍では俺、海軍では井上成美大佐を召喚され、「のと」調査班を主上直轄の組織として編成、名称は、帝国総力研究所。組織としては、軍事担当が、俺と井上、調査そのものは、東北大学八木教授が班長、警備は佐世保鎮守府から引っこ抜いた大田海軍少佐、木村海軍少佐率いる陸戦隊が担当している。」
「それでは、殆ど海軍だけで管理しているのと変わらないではないですか?」
阿南中佐が、初めて知らされたこの組織の構成を聞き、思わず叫ぶ。
「それは仕方ない。何せ船そのものは海軍さんが見つけたのだからな。それに、後16年で帝国が滅ぶかも知れないのに、陸軍、海軍と言っても始まらん。まあ、実際は組織そのものが、海軍からは独立しており、陛下直轄組織となっているし、それも含めてお主らにここに来て貰っている。」
「それで、我々は何をするのだ。」
醒めた目で、永田は資料を見つめながら、返す。
自分が後、6年で暗殺されると言われ、気分の良い人間がいる訳も無い。
「「のと」発見から三ヶ月で、総研が得た一番の収穫は、この黒い箱、パソコンだ。はっきり言って、これは化け物だよ。この箱一つで、国会図書館並みに資料が蓄えられる。仕組みは聞くな、俺にも判らん。しかも、こんなものが、全部で800台以上見つかっており、それぞれのパソコンには、元の持ち主が興味を持った事に関する情報が無造作に蓄えられていた。未来の兵器は、それはそれで凄いが、我々がそれを使えるようになるまでには、まだまだ時間が掛かる。
しかし、手に入った情報は、直ぐに使える。正に情報を制するものは世界を制するだ。」
「凄いのは判った。で、何をさせたい?」
昔からこんなに饒舌な奴だったかな・・・
永田は、ふと奇妙に思った。しかし、これこそ本人が言っている情報とやらの力なのかもしれない。
「ああ、要は戦争回避、この為の方策の作成と実行だ。永田、貴様が選ばれたのは、未来資料によれば、お主が「統制派」と呼ばれる陸軍内部の派閥の長だと目されているからだ。バーデンバーデンで、貴様が東条や岡村らと語った内容が、資料から見つかっている。」
永田の眉がピクリと上がる。
これは益々本当らしい・・・
あの内容を、東条が話したとも考えられない。
永田は更に真剣に梅津の話に耳を傾けた。

 この三ヶ月の調査で、少なくとも帝国の滅亡の原因は、中国進出がその大きな要因を占めている事が明らかになっていた。しかし、かと言って、他にどのような選択肢があるのかと言えば、大した方策が無いのも判って来ていた。この先続く世界的な不況と保護貿易の中で、かろうじて列強の一員に入り込めた帝国にしても、その実力は限りなく小さい。
要は、英国、独逸、ソ連、米国等の主要列強のどの一国を相手にしても、経済で勝てる道理が無いのである。
だから、必然的に弱い所に進出して行き、力を蓄える方策が選択された。
広大な中国と言う幻影に国力の増強を夢見て、帝国は力の限り闘った。
しかし、その中国は痩せても枯れてもやはり巨大だった。
人的、物的資源は大量に存在し、それ故、他の列強を味方に付ける事も日本より遥かに容易である。
実際、「のと」の資料分析からは、笑うしか無い現実が見えてくる。
蒋介石率いる中華民国は、最初は独逸、そして独逸の旗印が悪くなると、米国と言う風に、その支援先を乗り替えながら、帝国と泥沼の戦いを続ける。
第二次世界大戦は、先の大戦での戦後処理の不手際が引き起こしたと言っても間違いなかった。
その流れの中で、帝国は英米に付くか、独逸に付くかの選択を自ら行う。
外交にて英米離れ、独逸との同盟が選択され、その流れが加速されて行く。
中華大陸に進出した陸軍は、泥沼の戦闘の中、全てを解決するために、対米戦を選ぶ。
独逸がソビエトとの戦闘に勝利すると言う前提で、参画した戦争に、勝てる訳も無かった。
大陸では勝ち続けながら、太平洋を越えて押し寄せてくる米国に瞬く間に蹂躙されてしまう。
しかも、米国が進出しようとした中国に関しては、国民政府が毛沢東率いる共産国家、中華人民共和国に国を奪われてしまうと言う何ともあっけない幕切れを迎える。
それは、何ともやりきれない、展開であり、頭を抱えたくなるような未来図だった。

34shin:2006/11/21(火) 21:56:26
「総研の行動指針は、以上のような分析に基づいて、構築されている訳だ。少なくとも帝国だけでの大陸進出は、するべきではないと言うことは貴官らも判るだろう。」
「しかし、そこまで判っておられるのなら、まだやりようはあるのでは。勿論、更に詳しい情報の分析は必要ですが、例えば蒋介石と組むとか。」
東条が疑問を呈する。
「確かに、貴様の判断は妥当だと言えよう。しかし、残念ながら我が国に支那を見下す風潮があり、支那に、中華思想がある限り、上手く行く筈もない。それに、他の列強の問題が付きまとうのは変わらない。最初は独逸、それから米国が手を出してくるのをどうやって止めるのだ。」
「それは、そのどちらかと、あっ、判りました。」
全員が、帝国単独での行動が不利である事を理解した。
「そう、自ら、同盟を組む相手は見えてこよう。米国との同盟は、戦後の屈辱的な衛星国という立場しかもたらさない。独逸はその米国と覇権争いを行い、敗退する国だ。ソ連、共産中国は論外。仏蘭西は今更列強には戻れない。第一、次の大戦では真っ先に独逸にやられてしまう。そういう事だ。」
「残るは、大英帝国・・・ですか・・・」
「そう、帝国に対して覇権争いを行おうとしない、いやする必要が無い国で、米国へ覇権を委譲して行く国家が、同盟相手となる。事実、陛下が内閣、海軍に下命される、方針では、今後20年は親英国家を国策となされる。」
「その為には、日英同盟の再締結が最重要課題となる。これはこれから3〜5年は続く世界的な不況の中での、市場確保と言う側面もある。」
「梅津、お前に経済が判るのか?」
「言うな、永田、総研に入れば否でもその事を気が付かされるのだ。我々が総力戦をどれほどなめていたかを記載してある資料は山ほど見つかる。」
梅津は気を取り直して続ける。
「この、日英同盟締結に向けて、海軍のロンドン軍縮会議を使う。ただ、問題になるのは同盟が英国にとって、メリットがあるかどうかだ。当然ながら、英国も慈善事業で国家を運営している訳ではない。」
「大陸での利権を使うのか?」
「その通り、支那における我が国の権益は、全て英国に差し出す覚悟が必要となる。」
全員が黙り込む。確かに理屈は理解出来た。
しかし、陸軍がそれを納得するかと言えば、また別の話であろう。
資料に記載されていた、陸軍の大陸進出の次の手段である満州事変を阻止する事は、自分でも出来よう・・・
実際にそれに係わっているのは、板垣、石原らであり、彼らの行動を掣肘するのは不可能ではない。
しかし、支那からの撤退まで行おうとすれば、何が起こるかは想像がつかない。
「無理・・・だな。」
永田は、ぼそりと答える。
「そう、それは陛下も判っておられる。だから、粛軍を行う!」
三人は、顔を硬直させた。

35shin:2006/11/21(火) 22:00:35
そこまで話すと、梅津は一旦立ち上がり、部屋から出る。
永田は、目を閉じて何も言わない。
東条と阿南はお互い顔を見合わせるが、やはり言葉は発しない。
直ぐに、扉が開き、梅津が戻ってきた。
「陸軍省、参謀本部、海軍省、海軍軍令部の解体と、陸軍の皇道派と言われる将官、佐官の予備役編入を行う。実施は明日だ。貴官らにはその実働をお願いする。」
「そ、そんな事出来るわけない!」
阿南が立ち上がり叫んだ。

「私の命令でも、出来ないか?」
扉が開き、陛下が入ってこられた。
四人が直立不動で行う敬礼に、返礼されると、そのまま正面に腰を下ろす。
「みな、座れ。」
永田と梅津は、そのまま席を下ろすが、東条と阿南は立ったままだった。
「おい、陛下のご命令に逆らうのか。」
慌てて、二人も腰を下ろした。

「とにかく、今のままでは、政策の実行も出来ない。汝らには「釈迦に説法」であろうが、戦争の形態そのものが、変わってきている。予算にしても陸軍、海軍がその枠を巡りにらみ合っていては、効率的な軍の編成すら難しい。
 朕は、国防総省の設立を望んでいる。
梅津」
「ハッ、それでは説明します。
現在の陸軍省、海軍省は廃止し、新たに国防総省を設ける。また同時に統合作戦本部を設立。
国防省は、陸海空の戦備の育成、将兵の鍛錬に責任を持つ。これに伴い、現在の陸軍教育総監は、廃止する。
統合作戦本部は、これまでの陸軍参謀本部、海軍軍令部の機能を集約したものとする。
作戦本部の中には、情報部、作戦部、輸送部を置く。
情報部は、当面は帝国総力研究所が代行、作戦部は、方面制をひく。
方面は、帝国本土防衛、アジア地域を上下にニ分割、中央ユーラシア大陸、ヨーロッパ、中東、アフリカ、インド、大西洋、北米アメリカ、南米アメリカ、中央アメリカ、太平洋は四つの方面に分割。
輸送部は、戦力の維持確保及び、船団護衛、陸上輸送の責任を負う。
国防省は長官、作戦本部は本部長がこれを管理する。
尚、長官の任期は3年にて退任、再任は認めない。任期期間中は、特例として元帥に準ずる待遇、退任後任官に復帰とする。
尚、直任官であり、陛下が罷免なされる事は可能であるが、この場合は内閣の承諾を得るものとする。
作戦本部長は内閣総理大臣がこれを勤める。尚、作戦部部長がこれを補佐するものとする。
まあ、後は細かいところだな、この資料に目を通してくれ。
以上です。」
「朕は、冗談でこのようなものを考えている訳ではないのは汝らも判ろう。
このままでは、帝国は朕の代で滅びる。
私は、国家元首としてそれを見過ごす訳には行かない。
朕に力を貸してくれ、宜しく頼む。」
「へ、陛下!」
流石に、陛下に頭を下げられて、断れる訳も無い。
逆に東条中佐は感激に、肩を震わしていた。
「永田大佐、汝はどうだ?
貴様が、陸軍の体制が今のままで良い筈が無いと考えているのは、「のと」の資料でも明らかだ。しかし、陸海軍の統合までは予期していなかったと思うが。どうだ?」
「はっ、確かに陛下のおっしゃる通りです。ここまでは考えておりませんでした。
陛下に対して、失礼を承知でお伺い致します。本当に、統合が必要なのでしょうか。」
「必要である。その説明は、梅津、井上も呼べ。」

36shin:2006/11/21(火) 22:04:11
隣で控えていたのか、すぐさま井上が入って来る。
「海軍大佐井上成美です。」
軽く挨拶をすると、梅津の隣に腰を下ろす。
「統合が必要な理由を説明しなさい。」
「ハイ、それでは説明致します。
一番の問題は、我々軍人も官僚であると言う点です・・・」

 航空機の登場で、戦場の規模は格段に拡大していながら、陸軍、海軍の組織は官僚組織そのものでありすぎた。前例を踏襲し、お互いの権益の確保を第一義と考えてしまう。
流石に、帝国も戦争後半にはこの弊害に気がつくが、その時には既に遅すぎたのである。
陸軍に借りを作るのを嫌がる海軍、海軍の勢力範囲拡大を望まない陸軍。これでは、ただでさえ国力の乏しい帝国の資源は有効に活用される処の問題ではなかった。
実際、陸海軍それぞれが、お互いに持つ兵装に関しての情報すら共有されない状況が、同一のエンジン購入に関して、陸軍、海軍それぞれが特許料を海外企業に支払うと言う笑えない状況すら作り出していた。当初、井上や梅津らも、緩やかな統合と言う形、もしくは共通の部門の設立等を考慮していたが、分析が進むにつれ、時間的な余裕のなさも明らかになってきた。
今回のロンドン軍縮会議が多分最後の日英同盟に向けてのチャンスであり、更に2年後の満州事変を許せば、大陸進出の流れを止めるのは難しい。
これらを加味して、陛下に奏上した内容であった。
帝国を変えるには、小手先の業では対応できない所まで既に進んでいたのである。

と言うことです。お判りいただけたでしょうか。」
井上が話し終える。
永田は暫く考え込んでいたが、徐に顔を上げる。
「了解しました。微力ながら全力を尽くさせて頂きます。」
「東条、阿南、二人はどうか。」
「ハッ、仰せのままに。」
二人が同時に答える。
「それでは、明日、10時に陸軍省に、首脳陣を集めてある。その場で朕は、大命を下す。両連隊長は、10時10分に、近衛大隊をそれぞれ引き連れて、陸軍省を囲んで欲しい。東条中佐は、外部からの入庁を阻止、永田大佐は、省内での移動を封鎖願いたい。宜しく頼む。」
それだけ告げると、陛下は席を立たれる。
全員が、深く頭を下げ見送る。

扉が閉まり、暫くは誰も何も言わない。
「本当に、やるのだな?」
永田大佐が、ためていた息を吐きながら言った。
「ああ、冗談じゃない。」
「早速で悪いんだが、戻る前に後一つ、仕事が残っている。
これを見てくれ。」
永田は手渡された紙を見て、眉をひそめる。
「これは・・・」
隣の東条に手渡しながらも、永田の声は震えていた。
「ああ、粛清リストだ。予備役編入者だ。陛下が決められた。」
「そして、こっちが、どうすべきか判らん連中のリスト。この中で、予備役に回すものがいるかどうか確認して欲しい。」
「しかし、貴様これは、俺らは大佐だぞ。」
「ああ、大丈夫、心配はいらん。ここで推挙しても陛下が許可しなければ、予備役編入はない。あのな、信じられんかもしれんが、陛下は本当に本気なのだ。このリスト作りにしても、陛下も参加されて作られているのだよ。」
「それでも、梅津さんと小職は、間違いなく「君臣の奸」と叩かれるでしょうね。」
「そうだな、俺はそれでも獄死よりはましだが、井上の場合は、英語の先生になれないかもしれないのは辛いかな。」
「そうでもないですよ。少なくともこの先の戦争で、大勢が無駄死にするのを見ないで済むかもしれませんからね。」
永田以下三人は、二人の会話にあきれたように見つめるしかなかった。

37shin:2006/11/21(火) 22:08:08
11月9日、政府は、来年度予算案の閣議決定が二週間遅れると発表したが、新聞はそれを小さく扱っただけだった。
 それよりも、7日に何があったのか、それに対する発表を、固唾を呑んで見守っていた。
7日の午前中、赤坂と六本木に置かれた近衛連隊の部隊が出動し、陸軍省を取り囲んだ。交通規制が引かれ、それはその日夜まで続いたのだった。
翌日の朝には何事もなかったように解除されたが、何かあったのは、誰の目にも明らかだった。
首相公邸、宮城、国会議事堂から大臣や議員が頻繁に出入りし、新聞記者が知り合いの役人に声を掛けても、誰も何も言わない。
 報道関係者は漠然とした不安に包まれながら、政府発表を待つしかなかった。
11月15日、開催中の国会にて、首相の特別会見の時間が組まれた。
代議士、報道関係の見守る中、浜口首相は、先の10大政治要綱の撤回を発表する。
 10月24日のニューヨーク株式市場の暴落から、三週間経った今も、ニューヨーク株が低迷している状況を危険サインと見なし、金解禁、緊縮財政の実施を当面見送ると言う内容だった。
同時に、国内での需要喚起の為の特別予算の編成、各種産業育成基金の設立、そして、軍事費の更なる削減だった。
 当然ながら、国会は大荒れに荒れるものと思っていた報道関係者だが、実際には万丈の拍手でその方策が承認された事が余計に不信を増幅する。
更に、幣原喜重郎外務大臣のロンドン軍縮会議への突然の参加まで事後報告されるに及び、報道関係者はあっけに取られるしかなかった。
 裏がある。報道関係者は全員がそれを感じた。
しかし、議員、政府関係者をどのようにつついても、誰からもコメントを得る事は出来なかった。

11月21日、来年度予算案が発表されると、報道陣関係者は更に、驚く事となった。何と予算は対前年比140%、21億円と膨れ上がり、増加分の4億が外積で賄われると言うものだった。
これに対して、国会は予算案の審議で大きく揉めた。
会期が延長され、一ヶ月以上に渡り、審議が継続されたが、12月10日、外積の全額引き受けを英国政府が保証した事で、決着を見る。
幣原外務大臣が渡英したのはこの為だったのかと、報道関係者は納得するのだった。
しかし、大臣の渡英には更に裏があった。
4億の外積は、日商高畑が運用している皇室運用資産から購入されているのである。
それを表に出さない為、旧鈴木商店の人脈から、ロイド、そして英国政府と言うルートにて、保証が行われたのだった。
 全ては、日英同盟復活の為の布石の一つであった。

38shin:2006/11/21(火) 22:13:25
12月も中旬を過ぎると、次々と内需拡大策が発表されて行く。
弾丸鉄道建設計画の実施。産業特別振興区の設立、自由貿易港の建設に向けた新たな港湾整備等、それはこれまで聞いた事のないような言葉の羅列による経済振興策だった。
人々は、実際に予算もついている事から、そこに明るい響きを感じ、失業率の増加に歯止めが掛かる。
 事実、政府の打ち出す施策は適切でもあった。例えば大阪で、日本GM工場がレイオフを発表する前日には、その近隣エリアでの産業特区整備工事が急遽発表される等、少ない予算を出来うる限り効率的につぎ込むべく、「のと」から得られた歴史情報が、政府に流されていたのだった。
 1月6日、ロンドン銀相場が暴落する。いよいよ、米国で始まった恐慌が、世界不況へと突進しはじめていた。しかしながら、その中で、帝国臣民だけが、明るい先行きに希望を浮かべ、経済状況が上昇へと転じようとしていた。

39shin:2006/11/21(火) 22:14:31
「それで、君はこの案で英国政府が乗ってくると思うのかね。」
重厚な内装が、少し暗いくらいのイメージが付きまとう、歴史を感じさせるホテルの部屋の中で、初老の男が問いかけた。どちらかと言えば、和服の方がさまになりそうだが、その眼差しは厳しい。
 幣原喜重郎外務大臣である。この時代、帝国が彼のような外交官は、自分なりの信念を持って、外交を実施していた。しかし残念な事に、彼らの基準は帝国と言うよりも、外務省の省益が中心だった。しかし、「のと」の登場が、この状況を変えた。
 ワシントン会議で見せた彼の、交渉術、粘り強さ、そして培われた人脈が再び、必要とされているのである。
「ええ、間違いないと思います。少なくとも、今日の銀相場の暴落によって、彼らも真剣に考えざるを得ませんから。まあ、私の方からもロイド社等を通じて、話は伝えました。彼らも非常に興味を示しています。」
「フリー・トレード・ゾーンと言うのか、これもやはりあれからの情報だろうな。」
「ええ、まあ、そうです。 ただ、原案にかなり手は加えてあります。なんと言っても、目的が目的ですから。」
「しかし、臣民が納得するかが問題となるだろうな。また内閣が吹っ飛ぶぞ。」
「いや、それは大丈夫でしょう。その為の内需拡大ですから。予算もありますしね。」
「私には経済は判らん。そりゃ、普通以上の知識は持っているつもりだ。しかし、君らのやっている事はとてもついていけないな。」
「そんな、人を化け物みたいに言わないでください。私もこの前まではこんな事が出来るなんて、思っても見なかったのですから。とにかく、明日の会議は宜しくお願い致します。なんと言っても総研は、建策は行いますが、決断は行いません。それはあなた方政府の役割ですから。」
「それも、上の方針かな。」
「ええ、それも確かにありますが、内部での同意でもあります。官僚が力を持ったら、何時の時代でもろくなことはないでしょう。歴史が証明していますよ。」
「そうだな、その通りだよ、全く・・・」
二人とも、盗聴されている可能性も考慮して具体的な事は何も話さないように注意をしていた。
幣原外相と話をしているのは、日商の高畑だった。
既に、主要閣僚には陛下自ら、総研にて行われている内容についての話がなされていた。
最初は幣原も含め、殆どの閣僚が疑いの目で見ていたが、ニューヨークの株式市場の暴落を目の辺りにして信じないわけにはいかなった。
政策の変更に関しては、井上蔵相が、一番の反対論者だったが、厳しい現実と、その対応策を高畑と何時間も話し合った後、彼はその方向を180度変えていた。
それはそうだろう、陛下が拠出するとおっしゃった資金は、全て彼がたった二ヶ月で捻出したと知らされては、よほどの頑固者でなければ間違いに気がつく。
 ただ、井上蔵相は、頑固者で通っていただけに、幣原自身も、高畑とはゆっくり話をしてみたいと思っていた。
 いくら、未来情報を知っているとは言え、一旦崩壊した鈴木商店をたった三ヶ月で以前よりも巨大な商社として蘇らせた男、同時に、皇室運用資金を今も増やし続けている男に興味を持たない訳は無い。
 会ってみると、そこにいるのはまだ30代の若造としか思えなかった。しかし、実際に話をすれば、幣原もこの男の凄さが、良く分かってきた。
20年程にしか過ぎない社会生活の中で、本当に修羅場を生き延びてきたのだ。
その経験に、誰も得ることも出来ない知識が加われば、このように大化けするものなのか。
幣原は、高畑が羨ましくも思いながら、外交ではまだまだ自分も負けないと新たな闘志をもやすのだった。
 一方の高畑は、幣原がそんな事を考えているなんて想像すらしていない。
彼はただただ、現役の政治家は化け物だと驚嘆しているだけだった。
一流といわれる政治家は、凄いな・・・
視点か違う。
それが彼の感想だった。
井上蔵相も凄いとは思ったが、この人は更に凄い、いや恐ろしいもんだ・・・

40shin:2006/11/21(火) 22:19:43
 帝国側の提案は、大陸市場の取り扱いだった。これまで眠りっぱなしの大国として列強に食い散らかされていた中国も、清朝が倒れてから大きく変わろうとしていた。
 まだ、内部での勢力争いは続いていたが、それも蒋介石の下で一本化されつつあり、国家としての反撃を開始しだしていた。
これに対して、既得利権の確保とその拡大を狙い、帝国が武力による勢力拡大に踏み込んだのは、先の田中首相の時である。

第一次大戦後、長期化する不況の打開の窓口として新市場の確保が求められていた事も事実であった。しかし、「のと」資料から、その結果が帝国経済の崩壊と、それによる第二次大戦への参戦に繋がって行くことを帝国は知ってしまった。
 大陸進出は自殺行為である。だから、それを止めれば良い。
口で言うのは簡単だが、現実問題としては、問題が多すぎた。
確かに、実働部隊としての軍に対する対応は、陛下の大権により、一時的には沈静が可能であろう。
しかし、それもあくまでも一時しのぎの手法でしか過ぎない。
臣民の間に広がった、「勢い」と言う問題もある。
閉塞する社会環境が、外部へのはけ口を求めるのを押さえ込む事は出来ない。
今は良い。
分析資料から、大きな歴史の流れが判っている間は、良い。
だが、資料を基に修正を加えて行けば、五年もすれば、歴史は全く新しい方向に、変化して行く。
その先は、歴史資料は最早参考程度の役割しか果たさなくなる。
そして、逆に技術情報が実用化されてくるであろう。
このまま、「のと」情報を活用しながら、帝国を伸張させて行けば、強大な列強としての帝国が成立する可能性は高い。
「パックスジャパニカ」
それは、大日本帝国が世界帝国として君臨する世界かも知れない。
ところが、困ったことに「陛下」自身がそれを望まれていない。
勿論、総研に参画を強要された、梅津大佐、井上大佐、日商高畑、八木教授、高野助教授ら、全員もそれを望んでいないと言う事実があった。
それはそうであろう。
これまでの日本と言う国の歴史そのものが、それを望まない風土であると言う事実がある。
天智天皇の昔から、豊臣秀吉の朝鮮出兵まで、海外雄飛を望む人物は幾人か歴史に登場するが、残念ながらその個人レベルの夢は、常に潰されてしまう。
そもそも、狭い島国といいながら、その中で何とか大多数の人間が餓えることなく暮らせる世界がそこにあったのである。
世界中を見ても、これほど恵まれた環境に位置する国は無い。
周りと喧嘩せず、そこそこ豊かに暮らせる環境があり、その結果、二千年近い期間の間、まともな軍隊を持った時間は非常に短い。
江戸時代の300年の鎖国が示すように、「明日も今日と同じ一日」と言うのが、自国内で実際に可能な稀有な地域だったのである。
そんな民族の中で、世界帝国と言う考え方が根付く道理も無かった。
「のと」資料を分析しても、そこから出てくる世界は、精々「大東亜」でしかなく、「世界に冠たる独逸帝国」と言う発想は存在しない。
結局、明治維新以降、帝国が行ってきたことは、その国家を守ると言う一言に尽きた。
臣民を餓えさせない。
列強に侵略されない。
ただ、それだけを考え、ひたすら頑張ってきた国が、突然突きつけられた現実がそこにあった。
今のやり方だと、20年も経たないうちに、国が滅びる。
滅びたくないため、必死に画策はする。
その事が、誰も望んでいない世界帝国を作ることになるなら、どうすれば良いのか。
今でさえ、帝国に編入された台湾、朝鮮半島の問題で頭を抱えているのに、世界全体の問題を解決しろと言われれば、どうすれば良いのか。
それが、総研の悩みだった。
世界の列強として誰からも踏み潰されない国家、一目置かれる国家にはなりたい。
だが、そこにある富を求めて、喧嘩を吹っかけられるような国にはなりたくないのである。

41shin:2006/11/21(火) 22:24:22
帝国が安定した国家として生き残る為に、検討された結論が大英帝国との強固な同盟であった。
「のと」資料が示すように、大英帝国は、第二次世界大戦後、権力の座からすべり落ち、そしてその座はアメリカ合衆国が占めるようになる。
ところが、ヨーロッパ選手権を苦労しながら戦い続けた英国と違い、米国は単に力が強いだけの国家であり、経験不足は歪めない。
そのため、余計な苦労を背負い込み、それがそのまま世界中に迷惑を撒き散らす。
19世紀の大英帝国が決して良い国家とは言える訳ではないが、少なくともその植民地からストレートに激しい恨みを買うような国家ではなかった。
となれば、大英帝国の覇権をなるべく長く続かせる事が、帝国にとって最も望ましい世界であろう。
少なくとも英国ならば、海の向こうから攻め寄せてこよう等と言うことは、起こりようもなかった。
英国の覇権を第二次大戦後、最低でも50年代後半辺りまで継続させれば、30年程度の時間が稼げる。
その間に、帝国の国力そのものを対米比率6割程度、そう、「のと」資料の示す、90年代前後のレベルまで引き上げれば、海の向こうの国家も紛争を起こそうという考えは持たないであろう。
現状のように、国力に大きな開きがある限り、単に戦争と言うレベルで相手を打ち負かしても、リターンマッチの可能性は存在する。
軍事面だけ、立派な防衛艦隊や陸戦兵器を作り上げても、パートナーとしては扱って貰えない。
そう言う事だった。

そして、奇妙に聞こえるかもしれないが、帝国の安寧を得る為に、英国の覇権を維持させると言う戦略が採用される事となり、その戦術の第一弾が、フリー・トレード・ゾーンだった。

幣原外相が、渡英して最初に行ったのは、対中国問題の解決に向けての英国への仲介の依頼だった。
英国による帝国債権の引き受け保証は、実はこの見返りの意味が込められていた。
債務保証の実際は、密かに皇室財産の内、5億円相当が、英国王室にその運用を委託される。
運用期間は、20年が設定されており、しかも運用委託費として予め、20%先払いである。即ち、英国政府の債務保証は、皇室信託財産にて帝国国債を購入すると言うものだった。これを行うだけで、1億円相当の資金が手に入る構造である。
これに対して、断る理由はどこにも無い。
こんな有利な条件を提供してくる以上、裏がある筈と言うのは、英国政府も理解しており、そしてその裏の理由として、中国問題の解決に向けての協力要請であれば、非常に納得出来る内容だった。
建前上は、ロンドン軍縮会議の事前打ち合わせと言う事で、英国に滞在しながら、英国政府に対して、中国問題の仲介を依頼しに来ている訳である。

42shin:2006/11/21(火) 22:28:12
幣原外相は、英国の外交の専門家に相談すると言う形態を取りながら、徐々に帝国の新方針をリークして行く。
帝国が中国に対する対応で困りこんでおり、対中国進出政策の放棄も視野に入れている。
しかしながら、市場の確保と米国の進出と言う問題もあり、その対応に頭を抱えている姿は英国政府にも伝わっていった。
同時に、経済の専門家も訪問しながら、幣原は高畑を紹介して行く。
帝国の来年度予算は、海外進出よりも当面の内需拡大政策に変更されている。
それは、経済学者であるジョン・メイナード・ケインズが考えている理論にほぼ一致している内容であった。
「のと」資料から高畑達は、需要拡大策についての理論を既に入手しており、それに基づいての内需拡大政策の実施である。
そして、古典経済学に則る英国銀行の方策が、不況を拡大して行く事も知識として理解していた。
その為、高畑達は、機会があるごとに、ケインズを応援するような言動を繰り返した。
勿論、高畑も鈴木商店時代からの知人も大勢おり、そこで同様の問題提起を行っていた。
そして、様々な専門家との話し合いの中で、二人は、あたかもその専門家のアドバイスで出てきたように誘導し、「フリー・トレード・ゾーン」と言う考えを取りまとめて言った。
勿論、これらの話の内容が、英国政府に筒抜けである事は折込ずみである。
否、同時に検討して貰わねば困る訳である。

 最終的に纏まった案は、関東州の扱いだった。

帝国が有する中国最大の租借地の中国政府への返還を行う。
但し、それには条件がある。
現在の中国全土の紛争状況を鑑み、帝国はこの地域を非戦闘地域として維持する為に必要な軍事力は駐留させる。
租税公課も含む行政権及び警察権は中国政府に返還し、治外法権等も撤廃する。
また、旅順、大連等の軍事施設に関しては、今後も継続して帝国陸海軍が使用する。勿論それに関しては、中国政府に対して、改めて設定する租借料を年度ベースで支払う。
そして、関東省内の特定商業集積地域に関しては、輸出入において徴税は行わない事を中国政府、帝国政府が同意し、フリー・トレード・ゾーンとして、各国に開放する。そして、フリー・トレード・ゾーン内での各国交易の決済は、時価評価の為替レートによるものとする。
 尚、これらの条件、特に帝国軍による違法な軍事行動や中国政府の軍事行動の監視の為、第三国である英国政府が、必要と見なす監視委員会を設立し、これを監督するものとする。尚、監視委員会は、時価交換レートも維持管理するものとする。そして、英国監視団の費用に関しては、帝国及び中国政府がこれを支払うものとする。

43shin:2006/11/21(火) 22:30:31
英国にとっても、これは決して悪い話ではない。
なぜなら、これはモデルケースとして活用出来るからである。
英国が中国本土に抱えている租借地、租界は日本より遥かに大きい。
これら地域の返還も始まっており、その扱いに苦慮しているのは英国政府も同様だった。
しかも、幣原外相は、更に英国に対して、満州地域の権益の開放すら内々に打診していた。
即ち、英国の協力が得られるならば、満州地域のフリー・トレード・ゾーン化も考慮すると言うものだった。
まあ、これは関東州でのモデルケースが上手く行った場合のオプションであるが、少なくとも英国にとって、悪い話ではない筈だった。

1月22日、ロンドン軍縮会議が開始される。
その時点で幣原は、既に帰国の途についていた。
そう、ロンドン軍縮会議の事前交渉と言う形を取りながら幣原は、英国との交渉を纏め上げたのだった。

44shin:2006/11/21(火) 22:35:03
昭和5年2月20日、第17回衆議院選挙が実施され、方針の大変換にも係わらず、浜口首相率いる民政党は、300議席以上の議席を確保し、大勝利を納めた。
これは、金本位体勢復帰を延期させた浜口内閣の大英断を褒め称える報道関係者に対する情報操作、そして政友会関連の各種醜聞の暴露等が合わさった結果であったが、ここにも「のと」情報が多く活用されていた。
 そして、開催された国会で、浜口首相は新たな活動方針として、省庁改革をぶち上げ、その第一弾としての陸軍省、海軍省の統合による国防総省の設立を発表した。
しかも、同時に帝国憲法の一部改正が上程され、陛下の承諾の下、参謀本部、軍令部の廃止と、統合作戦本部の設置が決定された。
 軍に対する統帥は、陛下が統合作戦本部を通じて行う事が改めて確認され、しかも統合作戦本部長は総理大臣がその任につく事が明記されたのである。
 ここに、ロンドン軍縮条約締結後に発生する可能性のあった、統帥権干犯の問題は完全に打ち消されたのである。
 事情を知らされていない政治家、報道関係者、財界人、一部の軍人等は、その急激な変化に戸惑いの色を隠せなかった。
 しかしながら、政府関係者は、強気の答弁を行うだけであり、不満を抱いている、であろう軍部は陸海軍とも、一切口を挟まなかった。
 既に、陸軍内部での粛軍は終了しており、所謂皇道派と呼ばれる将官以下の将校は軍から叩き出されていた。血気に逸る青年将校らも、あまりにも急激な変革に、様子を見るしか出来ないというのが、現実だった。
 財界関連では、瞬く間に復活し、以前よりも活発な活動を開始した、旧鈴木商店、いわゆる日商グループの動きにパニックが広がっており、疑心暗鬼の中で、政治的な活動が出来る状況ではなかった。
 日商グループの動きに、政府が絡んでいる事は間違いないのはどの財閥も掴んでいた。しかしその資金が、皇室運用資産であるため、どの政府ルートを当っても、実態は把握しようがなかった。その上、高畑が、ニューヨーク株式市場の暴落を利用し、昨年中に、元本を通常運用に戻してしまっている為、資金流用の流れは把握できなくなっていた。
 ちなみに、高畑は残りの資金を更に増やし続けていた。年初のロンドン行きは、親英政策と言う総研の目的もあったが、「のと」情報から得たロンドン銀相場の暴落を活用するために、彼自身がロンドンに行く必要もあったのである。

45shin:2006/11/21(火) 22:39:53
「英国の方は何とかなりそうですか。」
帝国総力研究所の、増設された大会議室に所長の声が響く。
「はい、幣原外相の協力のおかげで、何とか交渉はまとまりそうです。中華民国の方も何とか話を聞いてくれる所まで交渉が進められていますので、軍縮会議締結後の発表は問題ないと思われます。」
高畑が答える。一応、陛下の前という事で、丁寧な口調だった。
「そりゃ、良かった。これで少しは前進しそうだな。」
こちらは逆に砕けた言い方で、井上が答えた。
「しかし、蒋介石もまだまだ磐石の態勢を整えている訳ではないからな。果たして上手く行くか。」
「梅津さん、今から悲観しても始まらないでしょう。とにかく、蒋介石が内戦に突入する前に話を纏め上げないと、佐分利貞夫駐華大使の交渉が上手く行く事を期待しましょう。」
昨年11月以来、佐分利大使には護衛がついている。
それはそうだろう、「のと」資料で、昨年の11月29日に箱根の富士屋ホテルで自殺すると記載されている以上、当然の措置だった。一応、陛下より直々に声を掛け、詳細を説明してあるので、本当に自殺ならばそれは避けられると思われるが、謀殺ならば護衛は必要だった。
「相手が支那だから、交渉は中々難しい。」
「まあ、支那がどう言おうと、4月には発表してしまいますからね。後は帝国が勝手に動き出すしかないでしょう。」
高畑が気楽そうに言う。彼は中国相手にまともな交渉が可能とは考えてはいなかった。
「帝国が対支政策を大きく変換させた事は、伝わると思うから、蒋介石は反対しないだろう。問題は張学良だな。なんと言っても、父親が謀殺されているのだから。」
梅津は尚も心配そうに答える。
あくまでも総研は献策機関であり、実務は政府・官僚が行う訳である。それだけに、自らではないので、不安が付きまとう。
「今回の粛軍の一環で、河本大作大佐を罷免していますから、後はどれだけ張学良が支えられるかですね。」
 支那に対する租借地の返還と言っても、その警備の為の軍事行動の禁止、言わば「のと」資料で出てくる国連停戦監視団的な役割を帝国は果たそうとしている。これを独善と見られないように、英国の協力を仰いでいる訳である。
 しかしながら、現在の支那情勢を見るならば、停戦監視団は、蒋介石の北伐を阻止する事に繋がる可能性もあった。
 張学良がその可能性に気が付けばそれはそれでかまわない。どの道、帝国にとって、正念場となるのは、満州の扱いだった。要は、支那の一部地域である満州を認め、「のと」資料で言うところの満州事変を如何に防ぐかが重要なのであった。
「のと」資料では、今年の五月前後から、中国では、蒋介石とそれに対抗する一派の内戦が勃発する事になっていた。
「帝国の国防方針の変更が、支那での内戦にどのような影響を及ぼすかが、今後の動向の鍵となるな。」
井上は改めて、会議室に集まった全員を見回した。

46shin:2006/11/21(火) 22:42:21
「今後、「のと」情報は、歴史に関してはあくまでも参考意見となるから、外れる事もある。いや、外れて貰わないと、何をしているのか判らない。」
井上は、ちらりと陛下を見る。
陛下も同意しているようなので、話を続ける。
「それに伴い、我々の活動もこれまでのような独断的な動きは出来なくなる。まあ、いつまでも君臣の奸として活動するよりは良いだろうが。」
「別に間違った事をしている訳じゃないぞ。」
「そりゃ、そうですよ。間違っていたらえらい事です。だが、これからは間違う事もある。」
「基本としては、親英政策ですが、それにつなげて行く過程で読み間違いが生じると言う事ですか。」
高畑が、考えながら答えた。
他のメンバーも納得するように頷いた。
「そうだ、それだけに、政策面への反映は非常に慎重にならざるを得ない。またその為に、情報収集に更に力を入れる必要がある。」
「その為の統合作戦本部情報部だろう。」
「ああ、しかしこれはあくまでも軍事関連情報の収集に限定される。問題となるのは外務省だ。」
「吉田茂・・・だな・・・」
「その通り、後、高畑君への支援として岸信介、この2名を引っこ抜く時期だろう。」
勿論、全員が「のと」資料には目を通しており、この2名が何ものか良く知っていた。
吉田茂は戦後の道筋をつけた外相であり、総理大臣、岸伸介は若手官僚として五カ年計画等の推進を図り、戦後は首相を務めた人物である。
陛下が再び口を開く。
「判った、両名の総研への取り込みは許可する。しかし、岸の情報閲覧には少し問題が無いか。」
それはそうである。岸伸介は戦後の首相としての名声よりも、満州国での内務官僚としての影の部分が有名だった。
「それは、東条と同様に、今後の話でしょう。今の時点ではまだ気鋭の官僚と考えます。それに、情報閲覧に関してはBランクで対応します。」
「そうか、それなら良い。」
井上は再度、陛下に頭を下げ、話を続ける。
「それじゃ、八木さん調査状況はどうですか・・・」

47shin:2006/11/21(火) 22:45:03
 「のと」情報、特に800台以上のノートパソコンの蓄積情報は、調査すればする程様々な分野での知識の宝庫であった。確かにこの知識を独占すれば、権力の掌握も不可能ではない。
 しかしながら、彼らは誰一人それを望んでいなかった。陛下は元々そのような野望を抱く必要すら感じない立場であり、八木、高野ら技術者は自分達が歴史に名を残しているのを既に知ってしまっていた。鈴木商店の崩壊を現実に経験していた高畑にすれば、権力の掌握が決して楽しいものとは思ってもいないし、将来日商が大商社に発展すると言う事で既に十分だった。
 梅津にしても、参謀総長まで上り詰めた上で、獄中死と言う結末を知らされてしまえば、興味も失せる。井上自身も、戦後教師になると言う事実を突きつけられて、いかにも自分らしいと思ってしまう所で、そのような資格を持たないと納得してしまっていた。
 かと言って、この知識を他人が管理すると言うのは誰もが望んでいない。第一、誰に任せれば莫迦な事を考えずに、上手く活用出来るのか。
 既に、彼らは核兵器の存在を発見していた。しかも、理論上ながらその設計方法すら、情報の中にはありそうだった。そんな危険な情報を誰に任せれば良いのか。
 結論として考え出されたのが、閲覧ランクだった。総研内外での地位に関係なく、情報閲覧者のランクを付ける。陛下以下、井上、梅津、高畑、八木、高柳までは制限の無い特A、Aランクはその中での関連分野情報のみの閲覧、Bランクは、特A ランクが非公開と決めた情報の閲覧は不可、逆にCランクは、指定情報のみの閲覧可と言うランク付けだった。
 従って、パソコンを直接検索して情報を取得出来るのは、Aランクまでであり、それ以下のランクでは、情報はあくまでも紙ベースで渡される形となっている。
 これを守る限りにおいては、それぞれの地位に関係なく情報の制限が掛けられる事となり、権力の乱用を防ぐ事に繋がる。最も、陛下を後ろ盾にしている以上、体制の崩壊無くして、それがありえるとは誰も考えてはいなかったが。とにかく、そういう事だった。

48shin:2006/11/21(火) 22:58:42
 「のと」が発見されてから、半年が過ぎていた。政治・経済に関しては、得られた分析資料を基に大規模な活用が開始されていた。これに対して、科学技術関連に関しては、そうもいかないのが現状だった。
 第一、基礎インフラが違いすぎる。いや、そもそも帝国の産業構造そのものが、重工業に対応出来る体制にはなっていなかった。
 その中で、比較的解析が進んでいるのは、電子技術関連であった。当然の事ながら、調査班の班長、副班長両名がその分野の専門家である点が大きかったが、殆ど新規分野が中心である事も解析が進む理由でもあった。
 特にトランジスタに関する基礎知識が記載されているホームページがそのまま見つかった事が大きかった。どうやら、21世紀の基盤企業のホームページがそのまま取り込まれていたようだが、そこではトランジスタの理論的説明から各種基盤図まで掲載されていた。
 今年に入って総研では、高畑が得た運用資金を使い、大村湾に面した一帯の用地買収を開始していた。「のと」そのものを何時までも佐世保鎮守府内に置いておく訳にも行かず、かと言って呉や横須賀に運んでくるのも防諜上好ましくなかった。また、大量の陸戦兵器等も含まれている為、それらを極秘にて調査する場所的な広がりも要求されていた。
このため表向きは、長崎県に新たな産業集積地域を作ると言う政府の発表の下、総研がその指定地域から適度に離れた土地を買収しているのである。
そう、表向きは政府の新経済政策の一環としての立場で、そしてその影で、秘匿研究施設の設立が行われていたのである。
 選ばれたのは、長崎県の東彼杵郡川棚村から、早岐村周辺地域であり、この中で、既にトランジスタの実験施設としての研究所の建設が川棚村にて、開始されていた。

49shin:2006/11/21(火) 23:00:34
 他の分野に関しては、はかばかしい成果は上がっていなかった。金属加工、石油化学工業、飛躍的な性能を与えるエンジンや機器の設計図面や論理説明資料的なものは見つかるのだが、基礎インフラが無いため、追試が行える状況ではなかった。特に、問題となるのが電装系であり、そのため、理屈は理解できても、電子制御によるエンジン着火の最適化などと言うと、夢のまたゆめであった。
 このため、総研では今回の世界恐慌を利用して、欧米の最新設備を格安で手に入れ、そこに「のと」知識を生かした実験設備を組み込んで行く事を計画していた。
 既に、資金繰りの行き詰まりで倒産に追い込まれた米国企業の買収は開始されており、早い工場では解体まで始められていた。今年度中にも、幾つかの工場を国内に建設する目処が立っていた。
 また、総研は日商グループの事業の一環と言う名目で、米国の中古自動車、中古建設機器の大量買付けを実施していた。これは内需喚起型の財政計画を見込んだ動きと説明されていたが、実際には将来的な国内での専門工の養成に繋がる方策だった。

50名無しさん:2006/11/21(火) 23:01:36
 最後に、総研の運用資金に関して改めて、高畑から現状が報告されると、メンバー全員からうめき声が漏れた。既に総研の総資産は、皇室運用資金を全て返却し、勿論過分の利息を付けて、国債発行分として5億拠出しても、既に帝国の国家予算の2年分、約40億円相当にまで膨れ上がっていたのだった。
 この豊富な資金を利用して、長崎県大村湾一帯の買収や、米国工場の国内移植等の方策が実施される訳であるが、政府関係者を唖然とさせるものであるのは間違いなかった。
 しかしながら、これに関しては、「ひかえめ」な数字でしかすぎなかった。純粋な皇室運用資金以外では、日商グループとしての運用資産や、親英活動の為に、密かに英国ロイド社に預けられた資金があり、それらはまた別途膨らみ続けていた。

51名無しさん:2006/11/21(火) 23:03:12
「兵器関係の分析が問題だな。」
一通り報告が終わると、梅津が尋ねる。
「ええ、一応「のと」に積み込まれていた戦闘車両、航空機に関しては基礎資料の作成は終了しています。操縦と整備のマニュアルは見つかっていますので、最低限の運用は可能です。しかしながら、実際に運用実験を行う為には、それ相応の広さが必要ですので、後2ヶ月程度は準備に必要です。」
高柳が答える。
「電波誘導利用の砲塔は、やはり電装関係の技術革新が行われない限り、利用は困難か。」
井上がため息を吐いた。
「タービンエンジンのコンセプトは理解できたが、複製には鋳金技術の革新が必要。唯一利用可能な、軽機の類は、既に図面を起こしているが、生産設備の問題が解決しない限り、実際には戦力化は不可能。」
「結局は技術水準の問題か。」
梅津も頭を抱える。
目の前に、豪華な食べ物があるのに、一切食べさせてもらえないようなものだった。

52名無しさん:2006/11/21(火) 23:04:41
「ええ、その問題もありますが、機銃等の生産では、それよりも工廠の問題が大きいですね。」
皆が怪訝そうな顔を八木に向けた。
「結局、日露戦以降、誰も近代化を推進していないんですよ。」
八木が腹をくくったように答えた。
陸軍工廠、海軍工廠伴、製造設備の近代化が追いついてないと言う問題があった。
陸軍では、予算上の制約から、工作機器の購入は、安い機器の購入のみに、官僚の目が行き、生産量や、精度の問題は二の次の扱いを受けていた。海軍では予算的には陸軍よりも潤沢であったが、ここでは逆に、精度は高いが生産性が低すぎると言う問題が生じていた。
「今回の省庁再編により、陸軍工廠、海軍工廠の一本化が図られますが、それに併せて生産機器の近代化、いわば設備投資が必要となります。要は、未来兵器を生産するに足る工廠を作り上げないと、兵器の量産は不可能です。」
みんなが一斉に、高畑の顔を見る。
高畑が、あせったように助けを求めるが、誰も味方はいない。
「判った、判った、その資金と設備を用意しろと言うんだろ。全く、日商は打ち出の小槌じゃないんだから。」
「おや、違うのか。朕はそう認識しているが。」
陛下にそう言われ、高畑は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる。
総研会議室に久しぶりに笑いが広がった。

53名無しさん:2006/11/21(火) 23:06:35
3月3日、「のと」資料では、生糸相場が暴落する筈であったが、現実には暴落まで行かず、下げ止まった。
 これは、政府が国内需要喚起の政策への変更により、金解禁を放棄した事、これにより円安が進行しており、その結果として、国際的な生糸価格の低下に対して逆ザヤに働いた事等の理由による。
総研メンバーにとって、それは一つの衝撃だった。理屈で理解していても、現実に大きく歴史が変わりだしている事を示す指針であり、「のと」資料の内、歴史関連の資料が最早参考資料にしかならない事を示しているのだから。
 総研メンバー、特に井上、梅津ら軍人のメンバーは、これ以降、情報収集の組織作りに本格的にのめり込んで行く。僅かな未来情報ですら、これほど価値がある。その情報があてにならないとなれば、現実の情報を丹念に集めて回るしかない。軍人であるから、情報の重要性は、知識としては把握していた。しかし、たった半年程の体験ではあるが、実際に、他の知らない情報を用いての活動経験は二人の中で何かを大きく変えていた。

54名無しさん:2006/11/21(火) 23:09:23
「人材が問題なんだよなあ。参本はどうだった。」
井上がため息をつきながら、梅津に水を向ける。
「酷いもんだ、これほど視野が狭いとは思っても見なかったよ。」
梅津もため息を付く。
彼らは、新たな情報収集の仕組みとして、統合作戦本部内に情報部の設置を目論んだ。
陛下の内諾も取り付け、堀少将の部長就任も決まった。
 国防総省の加藤寛治長官や、統合作戦本部の作戦部部長永田鉄山、末次運用部部長等の人事は、陛下が指名されたが、情報部部長だけは、梅津や井上の強い要望が通った形であった。
 陸軍の高官が、陛下の粛軍によって、予備役に編入された事に伴い、国防総省の人事は総じて海軍主導で行われており、統合作戦本部は、作戦部は陸軍主導、兵量配備を受け持つ運用部は海軍と言う区分で、人事が進められていた。これに対して情報部だけは、ほぼ新設の部門なので、陸海に係わらず、必要な人員を指名する必要があった。
 情報部は、全世界を7つのエリアに区分し、それぞれに専任の課を設ける事を予定しているのだが、問題は課の課長の人選だった。
 適当な人材がいないのである。勿論陸海軍には、駐在武官や留学等の制度を利用して、それぞれの地域に詳しい人間はいる。ところが、情報管理の部門と考えた場合の適材が余りにも払底していた。
 外務省との連携も考えられており、吉田茂イタリア大使の招聘が認められ帰国の途についているが、彼は部門の長と言うより、情報部の外務省担当と見なされていた。

55名無しさん:2006/11/21(火) 23:11:06
「部長、駄目ですね。やっぱり一から作り上げて行くしか方法はなさそうです。」
「うーむ、そうなるか・・・」
堀少将も頭を抱える。
「こうなったら、逆転の発想しかないでしょう。陸海のはみ出し者を集めちゃいましょう。」
「石原中佐、牟田口少佐、辻少尉、橋本欣五郎中佐・・・」
梅津が予想されるメンバーをつぶやく。
「これじゃ、危なくて仕方ないぞ、ここでクーデターの計画を策定されてしまう。」
「まあ、今は落ち着いているが、その可能性はあるな。」
陛下の粛軍と、統制派といわれる永田大佐が作戦部長に就任が決まっているため、国家改造を試みようとする連中の行動は一旦止まっている。
 また、桜会の主要メンバーやそのシンパと思われる軍人達は、次の異動で配置換えも予定されていた。板垣征四郎大佐や石原莞爾中佐は関東軍から戻ってくる予定だった。
「彼らも馬鹿じゃないですからね。ただ、思い込みも激しいでしょう。」
「一人ひとり君ら二人で面接して決めるしかないな。」
「あっ部長、逃げるのですか。」
「人聞きの悪いことを、権限の委譲と言うのだよ。」

56名無しさん:2006/11/21(火) 23:14:34
3月も中旬を過ぎ、ロンドン軍縮会議の詳細が国内に伝わりだすと、朝野は騒然となった。
「のと」資料分析から、政府の活動における広報の必要性が強調され、濱口内閣は、以前より国際情勢や政策の説明を丁寧に行うようになっていた。この結果、ロンドン軍縮会議でどのような議論が行われているかと言う内容は、交渉に差しさわりの無い範囲で、新聞に報道されていた。
 そんな所に、帝国からの提案として主力艦の更なる削減も視野に入れた交渉が行われているとの話が伝わってきたのである。
 当然ながら、国会は荒れにあれた。濱口首相は帝国を英米に売り渡すのかとの怒声が飛び交い、国会審議は止まり、閣僚クラスに対しての警備が強化された。
 しかしながら、国防総省、特に海軍関係者から一切反対の声が挙がらない事に、不振を覚える報道関係者もいたが、それがどのような意味を持つのか理解できたものはいなかった。

57名無しさん:2006/11/21(火) 23:16:16
 4月15日、ロンドン軍縮会議が調印される。そして、その内容が国会を通じて、国民に発表されると、国民は言葉を失った。
 すなわち、主力艦は、英米15艦に対して帝国はこれまでの9艦が6艦まで削減。その代わり、航空母艦が2艦追加されている。
 補助艦は、対英米では総トン数で6割、但し駆逐艦以下の補助艦に対しては、対米英8割となっていた。重巡洋艦の比率が抑えられ、小型の艦艇が増えているのである。
 具体的な数字を示されても、国民には理解出来がたかった。それはそうであろう、6割なら駄目で、7割なら大丈夫と言う理由がある訳では無いのだから。しかしそれよりも、国民が驚いたのは、軍縮の条件が、第三次日英同盟の締結が条件であるとの内容だった。
 正式には日英安全保障条約で、あくまでも防衛主体の同盟である。すなわち、お互いの国家が他国より侵略された場合、同盟国は全力を持ってこれに対処すると言うものである。
 要は、軍縮に同意する代わりに、それに対しての安全保障上の対価としての保証条約の締結だった。元々帝国は、日英米三国の安全保障条約の提案を行ったが、米国は国内の孤立主義の立場と、昨年の大恐慌の影響から締結に踏み切れなかった。

58名無しさん:2006/11/21(火) 23:18:00
結果として、英国がその保証を提供する代わりに、帝国が軍縮に同意すると言う内容だった。
そう、幣原外相の裏工作、若槻全権大使以下の交渉により、英国がこの案に乗った事により、軍縮会議は帝国側に有利に交渉が進められたのである。
勿論、「のと」情報分析の中で、軍縮会議の詳細な資料が発見され、幣原外相がそれを直接若槻らに提示できた事も大きかった。明確な指針を本国から与えられ、交渉の枠組みを提示されれば、帝国の外交関係者は非常に有能である事が、ここでも証明された訳である。
勿論、帝国内でも日英同盟の復活を喜ぶ勢力と、独自外交を行うべきとの勢力間での議論が巻き起こったが、海軍の重鎮東郷元帥による、「戦争が起こらんなら、それに越した事は無い。」と言うコメントや、陛下の大使団に対するねぎらいの言葉が広がるにつれ、それも沈静化して行った。
 これは、列強に対する帝国外交の勝利であるとの、情報操作も行われ、結局は景気が上向きに向かっているとの意識がある限り、国民は文句を言わないと言う事もあり、大きな騒動にならずに、収拾に向かうのだった。

59shin:2006/11/21(火) 23:19:39
4月27日、ロンドンにて軍縮条約が締結されると同時に、日英安全保障条約も締結される。そして、同時に安全保障条約の一環として、陸海軍軍人の交流計画も発表された。
陸海問わずに、大量の士官が英国に渡るのである。元々以前の日英同盟でも、軍令レベルでの作戦計画のすり合わせ等が行われた実績があるが、今回は将官未満の各佐官、尉官を各々20名前後、全体で100名以上の軍人を派遣するのである。そして、この交流にあたり、現地での宿泊施設の手当て、現地までの交通手段も含め、重巡洋艦の妙高、足利がこれに充てられると発表された。
同時に、この重巡「妙高」「足利」が英国海軍に譲渡されると発表され、各国は更に驚く事となる。勿論、たった半年程度の交渉で、英国がこれを承諾したのには裏がある。今回の軍縮交渉に当たり、幣原は、対象となる補助艦艇の英国への一括譲渡を申し出ていたのである。
重巡2艦と、駆逐艦12隻による戦隊クラスでの指揮権の委譲を含めた艦艇及び要員の英国海軍への提供、しかも要員はあくまでも帝国海軍の訓練の一環としての各艦艇への派遣と言う条件での譲渡に、英国が断る理由は無かった。当然である。これはあくまでも支那問題への英国の援助へのみかえりとしての提案だった。
英国としても、この提案により、アジア方面での艦隊のプレゼンスをある程度抑えられると言うメリットは大きく、一時的に米国の体面を損なうリスクを勘案しても、十分なものとの判断が下され、日英協調路線は再び軌道に乗り始めたのであった。

60shin:2006/11/21(火) 23:21:55
5月に入ると、帝国は支那政府に対して一方的な租借地の返還と、フリー・トレード・ゾーンの設立を通知した。結局、蒋介石政府や華北張学良政府等との折り合いは付かず、佐分利大使は帰国し、総研のメンバーとして吉田茂の下に入っていた。
 これに伴い、関東軍の廃止と、代わって停戦監視団の派遣が宣言され、その規模はこれまでの関東軍の1/4程度に縮小される。
 英国は、帝国の動きと呼応するように、米国との交渉を進め、停戦監視団への米国の参加を纏め上げ、フリー・トレード・ゾーンは他の列強の賛同も得て、稼動し始めた。帝国は北部支那地域の確保を諦め、大連や奉天等の拠点確保のみに限定した軍事活動へとシフトして行く。
 軍部の反発は、今の所新たな国防総省と統合作戦本部内の組織対応が主となり、殆ど表には出てこなかった。勿論、梅津、井上らを中心とした総研のメンバーが、永田、小畑、岡村ら陸軍出身者、豊田、小澤、山口ら海軍出身者も含めて現状分析を行い、彼らの意見を吸い上げている点も大きかった。

61shin:2006/11/21(火) 23:23:26
 現実問題として、これらのメンバーを集めた検討会議は、常に怒声が飛び交い、つかみ合いの喧嘩も起こるほどの勢いであったが、井上、梅津らにありえた未来を突きつけられると、改めて問題解決を考えざるを得ない点では全員が一致していた。
 少なくとも、陸軍軍人は、ソ連が如何に巨大なものかを改めて認識し、海軍軍人は米国との海戦の無意味さを突きつけられており、その為に何をしなければならないかを真剣に検討しなければいけないと言う状況は、全員が認識しており、そこに空疎な為にする理論が入る余地は無かった。

62shin:2006/11/21(火) 23:24:42
「米国で、スムート・ホーレー法に大統領が署名したそうだ。」
「やはり、来たか。」
「ああ、ブロック経済が始まる・・・」
井上が憂鬱そうに、梅津に答えた。
30年6月に、米国で成立したこの法案は、国内の農作物の価格低下を防ぐ為、海外からの輸入品に関して、平均50%近い関税を掛けると言うものだった。
これにより、対米向け貿易は縮小スパイラルに突入し、世界経済は確実に不況へ突入して行く事が判っていた。
総研の会議室だった。
「しかし、これでまた儲けられますよ。その為のフリー・トレード・ゾーンじゃないですか。」
高畑が怪訝そうに二人を見つめる。
「いや、国内は何とか不況に陥らずに済みそうだが、世界情勢を見ると、そうも、言っておられない。独逸はそろそろヒトラーの名前が響きだしたし、フーバー大統領の後にはルーズベルトが出てくるからなあ。」
梅津が呻くように言う。

63shin:2006/11/21(火) 23:26:03
「のと」情報を活用しながら、全体としては、舵取りを間違っていないと言う自信はある。しかしながら、判っていても世界の情勢は余りにも不安要因をかき立ててくる。間に合うのか、何とか破局を避けられるのか、そう思うと矢張り落ち着いてはいられない。
「そんな事で、どうするのですか。今更投げ出す訳にはいかんでしょう。」
「ああ、そうだな、もう走り続けるしかないからな。」
井上が自分に言い聞かすように答えた。
気が付けば彼らに押し付けられた役割は非常に重たいものとなっていた。
それでも、逃げる訳には行かない。
まだまだ、問題が山積みであるのは判っている。
一つ一つ対応策を検討して、進めて行くしかない、のであった。

64shin:2006/11/21(火) 23:27:58
「のと」が発見されてから2年が過ぎた。
昭和6年(1931年) 9月18日、帝国で最初のラジオの臨時ニュースとして、中国での一大事変の勃発を伝えられ、世界は驚きの声を上げた。
中華民国国民政府東北辺防軍司令の張学良自らが、中華民国政府からの離脱と列強諸国に対する停戦監視団派遣の要請を発表したのだった。同時に、張学良は東北三省、所謂満州全域のフリー・トレード・ゾーン化の実施を望んだのであった。
これに対して帝国政府はその日の内に、あくまでも英米諸国の同意が取り付けられれば必要とされる停戦監視団を直ちに派遣する旨の発表を行う。同時にそれまでの地域の邦人保護の目的で、たまたま朝鮮半島東北部にて演習中であった海兵団の派遣を決定した。
 翌19日には、英国政府がそして20日は議会の承諾を得られればと言う条件で米国政府が同意を示し、満州地域の中華民国からの離脱が承諾されたのであった。
蒋介石国民党主席は、非常に強い遺憾の意を示したが、現在の内紛が継続する中華民国の現状を考慮するとやむ終えないとのコメントを発表するに留まった。
世界中がこの出来レースに唖然としながらも、共産中国以外、誰一人文句を言わなかった。

65shin:2006/11/21(火) 23:30:04
 帝国の中国租界の返還と同時に提案されたフリー・トレード・ゾーンの実施は中華民国も含め各国に好感を持って受け入れられていた。どの道租界の返還要求は強くなっており、列強各国ともその返還は仕方ない事だとの認識に立っていた。そこに、日本帝国からの提案として出されたフリー・トレード・ゾーンは、実施してみると意外と使える事が判って来たからである。
 暫定的に、中華民国政府を支那の主権国家と見なしながらも、その地域での交戦権は認めない。それを強制するために、二カ国以上の監視の下での停戦監視団の設置。関税自主権の問題は、あくまで支那での内紛が終了するまでの間、無税として既に進出している各国の商社や工場等のインフラを保護する。このような内容は、中華民国以外の列強には妥当なものだと認められた移行措置だった。
 当初中華民国政府は、完全な返還ではないとの抗議を繰り返したが、半年もするとその声も消えてしまった。関税に代わり、3%の通関手数料が着実に中華民国政府に入りだした為である。勿論、関税としての税率で見れば微々たる収入でしか過ぎない筈が、輸出入が跳ね上がり始めた為、着実に増加し始めたのである。

66shin:2006/11/21(火) 23:32:01
 今までは日本の租界ならば帝国だけがその恩恵措置を受けていたのだが、フリー・トレード・ゾーンとすれば、それを認める国家は全て参入が可能であった。特に中華民国市場への進出を目論んでいた米国はいち早くこの取り決めに賛意を示し、実際の輸出入が開始された。
その直後に、米国では国内穀物市場保護の為、ホーリーハートレー法が成立し、40%の関税が掛けられる事と成った。これに対して各国は対抗関税を設定し、世界間の貿易は一挙に縮小し、これが大恐慌を更に深刻にして行く事に繋がっている。
ここで、フリー・トレード・ゾーンだけが、世界貿易の特異点として残る事となった。世界中のどこを見渡しても、中華民国の旧帝国租界のみが、この不当な関税に掛からない地域として残ってしまった訳である。

67shin:2006/11/21(火) 23:33:24
結果、旧帝国租界経由の貿易は増え続ける。英国や仏蘭西等も中華民国に租界を返還する時に、同様の措置を検討はしたが、停戦監視団をある程度まとまった戦力単位で送り込むには余りにも遠すぎた。また、米国は輸出入に関する税が余りにもすり抜けられる事態に賛意は示さなかった。
米国にとって、帝国が提供する窓口で十分であり、また帝国に対する貸しを作ると言う意識も働いていた。
 結局、帝国政府が提案したフリー・トレード・ゾーンとして成立したのは、上海、撫順、旅順等の数箇所であり、そこで処理できる荷揚げ量にも限度があり、それは瞬く間に一杯になってしまっていたのだった。
 帝国の中華民国でのプレゼンスの減少は蒋介石にも好意的に取られていた。そして張作霖爆破事件に対する改めての謝罪と賠償を行った事により、張学良もその態度を軟化させていた。
このような一連の流れの中で、帝国政府は蒋介石及び張学良に新たな提案を持ち掛けていた。そう、満州地域の扱いである。

68shin:2006/11/21(火) 23:35:14
 帝国の国防の問題として、ソ連に対する緩衝地帯としての満州の確保、満州地域での各種地下資源の調査結果も一部提供しながら、粘り強い交渉が続けられた。勿論実力による満州地域の制圧もそのオプションとしてありうる事も提示された。
 結局、帝国が領土的野心を放棄しており、ソ連による侵攻への防御、新たな産業基盤の育成の為の資源確保等の実利優先の態度と、秘密協定による中華民国政府に対する軍事援助等の条件で、蒋介石は満州地域の分離を認めたのである。
 最も、あくまでも現在の状況での分離であり、中華民国政府が統一政府として反政府勢力を駆逐したときには改めて返還すると言う条件はついている。
 張学良は、これまでの既得権益の確保と、その後の帝国側からの地位保証、そして何よりも、東北辺防軍と言う名の、軍閥の再編を帝国が責任を持って行う事を条件に、これを飲んだ。
 そして、これらの一連の交渉結果を持って、帝国は英国と米国を説得した。勿論、英国には予め、満州地域の扱いを説明してあり、これはあくまでも米国に対するポーズであった。
 そう、満州と言う新天地に米国資本を導入する事もその裏で画策されており、それは同時に大恐慌で傷ついた米国経済の建て直しが遅れると言う効果も期待出来る訳である。

69shin:2006/11/21(火) 23:36:46
満州事変に対して総研が検討した結果が、政府のこの動きであった。つまり、あのような事変が起こりうる可能性があるならば、先に起こしてしまえというのも一つの考え方であった。
昨年の五月以来、帝国は大陸に得ていた各種権益を順次返還し、代わりに停戦監視団とフリー・トレード・ゾーンへと置き換えていった。そして、その最大のものが中国東北部一帯の非武装地域化とフリー・トレード・ゾーンの設置であった。帝国は、英米と歩調を合わせて、そしてソ連をも巻き込んで、満州地区の中国からの切り離しに成功したのであった。

70shin:2006/11/21(火) 23:38:03
 一方、中華民国との関係修復に成功した帝国は、世界が不況の中に沈み込んでゆく中、「のと」情報を活用し、大恐慌の影響を最小限に押さえ込む事に成功しつつあった。そしてその過程で、大規模な公共投資による不況対策と、「のと」情報による大胆な資金運用により、豊富な資金を用いた、各種投資政策の結果、帝国はたった二年で新たな経済段階に入ろうとしていた。
米国で倒産した企業の買収によって、運び込まれた各種工場の多くは既に生産を開始しており、一部工場は、軍の要員削減の受け口としての機能すら果たし始めていた。
 生産される製品は、支那のフリー・トレード・ゾーンを経由して、支那本土のみならず、アジア列強植民地、ソ連、そして米国へさえも流れ始めている。
 日商グループは、工場の移転と同時に、中古車両の大量購入を米国で行い、それを帝国に送り込み続けていた。米国の不況が、更に深刻化する中、中古車両の価格も下がり続けており、帝国に送られる中古車は、月毎に増加している。既に、今後の輸送の効率化を図る為、播磨造船所では、専用輸送船の建造も開始されていた。

71shin:2006/11/21(火) 23:39:14
 大量に車両を輸入し、国内でのモータリゼーションの促進、同時に政府の補助や、日商グループによる復員軍人に対する車両運転技術の教育、整備士の養成も開始されていた。特にブルドーザー等の特殊機械は、優先的に復員軍人に貸与され、国内の各種土木事業へと振り向けられていた。まだまだ初期の特殊機械ではあったが、それでもその性能は業者の目を見張るものであり、日商系の販売店で運転要員付きで割安で借り受けられると知るや、既に予約の列すら発生していた。

72shin:2006/11/21(火) 23:41:34
「のと」資料の分析は、社会科学関連は殆ど終わり、現在は科学技術関連に移っていた。大村産業集積地区と名づけられた地域では、用地の買収も終了し、一大生産基地、そして秘匿実験施設としての用地の整備が進められていた。その一角に目立たないように作られた実験施設では、世界初のトランジスタ、いわゆる半導体の製造に成功していた。
 また、神鋼、帝人、日輪ゴム等の日商グループの企業では、研究開発部門に、大量の予算と、関連情報を提供し、それぞれの分野での新技術の開発が進められていた。例えば神戸製鋼では、均質圧延装甲に関しての資料から新たな装甲板の開発、帝人ではナイロンそのもの開発、日輪ゴムでは、帝人と協力して合成ゴムの開発と言う具合である。
 「のと」関連では、大量の石油化学製品が使われており、その為石油は、各種技術開発において必要不可欠なものである事は明らかであった。しかしながら、石油化学製品の技術資料は極端に少なく、また関連会社も無い為、神戸に本社を構えた丸善石油部との連携し、満州へ調査隊を派遣し、資料にあった大慶油田を発見していた。

73shin:2006/11/21(火) 23:43:04
これを受け、総研は直ちに高畑らが、ロイズ保険会社を通じて、アングロ・ペルシャン・オイル・カンパニーとの提携を持ちかけ、既に本格的な合弁会社、アングロ・丸善・チャイナ・オイル・カンパニーを合弁企業として立ち上げていた。日商の豊富な資金力を元に、強引とも言える手法にて、中東向け石油油井プラント一式を買収し、満州ハルピンに送りつける事すら行い、今回の「満州事変」の勃発を待ち受けていたのだった。
 1931年9月25日、ロンドンにてアングロ・ペルシャン・オイル・カンパニーが、満州大慶での油田の発見を大々的に発表する。そして、その油井開発の為、英国、中国、日本の合弁会社が設立され、油井開発を開始するとの発表に、世界は納得を示した。満州地域の武装中立化が必要とされる理由として、これ程のものがある筈も無かった。

74shin:2006/11/21(火) 23:45:17
「米国の次期大統領が決まったそうだな。」
統合作戦本部情報部は、陸海軍の士官学校の統合に伴い移転した陸軍士官学校の跡地を利用し、市ヶ谷に設けられている。「のと」資料では、昭和9年(1934年)に陸軍士官学校一号館として建設される筈だった所に、昭和6年から一年間掛けて建設されたまだ新しい建物の一角を占めていた。
 情報部3課、所謂北米担当部門からの書類に目を通しながら、梅津は井上の部屋に顔を出した。二人には統合作戦本部情報部統合課にそれぞれ部屋を与えられており、堀情報部部長の下で、「のと」情報と現実に各課より上がってくる情報を分析するのがその役割である。とは言え、二人とも総研の職員である点に変わりは無く、二人が揃って統合作戦本部にいる事は珍しい部類に入る。

75shin:2006/11/21(火) 23:46:43
「フランクリン・デラノ・ルーズベルト、帝国と戦争をしたがる大統領の登場だ。」
井上が書類を机の上に投げ出しながら、大きくため息をつく。
 梅津にも井上がため息を付く理由が判っているだけに何とも言えない。
来年昭和8年(1933年)3月より米国大統領となり、ニューディール政策を打ち出して、米国の景気回復を成し遂げ、第二次世界大戦で帝国と独逸を敗戦に追い込む大統領である。
 総研では当初「のと」資料の分析から、ルーズベルトが大統領にならなければ、帝国が追い詰められないのではないかとの意見も出たのだった。多数の資料がルーズベルト陰謀説を示しており、それも当然の事として受け取られがちだった。
 しかしながら、更に資料を詳細に調べれば調べるほど、それでは駄目だと言う事が明らかになって来た。いや、駄目と言うよりも判らないと言うのが正しいだろう。
 ルーズベルトの大統領選挙時に何らかのスキャンダルをでっち上げ、フーバー大統領を勝たせるか、他の大統領候補に替わったとしても、米国の現状が変わる訳ではない。陰謀説にしても、それを否定する資料も見つかっており、一概に陰謀と決め付けられない側面も明らかになって来た。

76shin:2006/11/21(火) 23:47:43
 結局、ルーズベルトが打ち出したニューディール政策によって、ある程度回復基調に乗った米国経済が、第二次世界大戦により、何とか持ち直し、戦後の他の列強の弱体化を徹底して利用したと言うのが判る範囲である。これではどうしようも無かった。それどころか、下手な動きは取れない事を意味しており、米国民が大統領に誰を選ぶか固唾を呑んで見守るしかなかった。
「少なくとも、白人中心主義者である事は間違いなさそうだな。今後の対米交渉は難しくなるか・・・」
梅津も憂鬱そうに答える。
「ああ、帝国が努力すればするだけな・・・」

77shin:2006/11/21(火) 23:48:46
 現在、帝国は恐慌回避に成功していた。結果として国民総生産は、年間3〜4割りの割合で増加しており、来年度の予算は60億円を超える事が見込まれている。そう、帝国は驚異的な高度成長に突入しており、「のと」資料により、それを継続させる為の方策が様々に展開されているのだった。世界中が不況に沈み込む中、唯一帝国だけが好況を維持しているならば、列強各国から恨みを買うのは目に見えている。その為、帝国は英国との資本提携や合弁会社の形態を取りながら、その圧力を分散させようという努力も怠っていない。
 お陰で、英国の不況もある程度緩和され、その結果として英国のブロック経済圏に、帝国が最恵国として組み込まれている。三年間の最大の成果が、英国との経済・政治・軍事に渡る同盟だった。

78shin:2006/11/21(火) 23:50:08
 英国系企業の資本提供と、帝国政府の財政投資を利用し米国にある各種資本財を購入する。そしてこれらの資本財を国内あるいは満州地区に移し、生産工場を確立する。これによって作られた消費財は、帝国国内のみならず、中国市場、大英帝国、更にはフリー・トレード・ゾーンを利用し、米国を含む列強各国に販売されて行く。表向きはこのような形で帝国は好況を維持していた。
 しかしその実態は、「のと」資料を利用した高畑ら日商グループによる莫大な運用益を利用し、米国の資本財を購入しているのである。そして、中華民国が消費する最大手の消費財は各種兵器だった。帝国の方針転換により、統一の求心力としての抗日闘争が利用できなくなった蒋介石国民党政府は、内紛が続いていた。この結果、帝国よりの援助物資として帝国製の兵器を多量に手に入れた国民党政府は、引き続きそれらの供給と弾薬等の補給を望んでいた。そして、これらの各種兵器の販売により、中華民国との貿易は帝国側の大幅な黒字が続いていたのである。

79shin:2006/11/21(火) 23:52:04
 軍閥同士の紛争及び新たに勢力を拡大しつつある中国共産党との戦いで、中国本土が疲弊する中、関東省以北の満州地区は、別天地の様相を示し始めていた。中華民国政府の支配する地域でありながら、軍事行動は、帝国軍を中心とする停戦監視団により最低限に抑えられている。
結果、中国本土から流れ込む豊富な労働力と、大慶油田を含む各種資源開発の為の列強の資本投下が、上手く重なり、経済は拡大し始めている。
張学良も完全に帝国に取り込まれており、満州地域の各種交易拡大に伴い流れ込む資金の中から自分の取り分を確保するのに全力を尽くしている。また、彼が抱える軍は、既に帝国停戦監視団の下に組み込まれ、彼らを訓練する事で、帝国は更に中華方面への派遣軍の縮小を目論んでいた。
 全体としては、高畑ら日商グループの活躍で、経済は拡大し、政治面では英米を始め、列強との軋轢も無く、ソ連すら不可侵条約を結ぼうとしていた。満州を中華及び列強のバッファーゾーンにする総研の計画は上手く行っているといって良かった。少なくとも帝国史上最大の安定を維持しており、お陰で、濱口内閣は完全に長期政権化を示し始めている。

80shin:2006/11/21(火) 23:53:45
 一見すると全てが順調なように思われた。しかしながら、井上や梅津の顔は厳しい。
「大英帝国の動向だな。」
「ああ、そうだ。どこまでこちらになびかせる事が出来るかどうかだ。」
 「のと」発見から3年経ち、総研もその組織を大きく変貌させていた。以前から宮城内に置かれた、「のと」資料分析班の施設はそれ程大きく変更されていないが、それ以外に資料研究班が、九州大村地区、情報分析班が霞ヶ関に置かれていた。特に霞ヶ関の情報分析班は、これまでの外務省、陸海軍の統合作戦本部情報部とは切り離した国内外の情報収集組織として秘密裏に設置された部門であり、日商グループを通じた情報収集と、密かに列強各国に独自の情報収集ルートの構築に向けて動いていた。そう帝国は、情報管理に対して以前とは比べ物にならないほど力を入れており、その為の第三の情報機関として総研が使われ始めている。これらの情報全てに目を通した上で、総研のオリジナルメンバーは新たな政策を打ち出しているのである。

81shin:2006/11/21(火) 23:55:35
 そして、これらの情報収集・分析の結果、判って来た事に、大英帝国の今後であった。
 現在生きている総研メンバーからすれば、大英帝国が後、10年も経たない内に崩壊してしまうと言う「のと」資料は衝撃的だった。それ故、英国の帝国としての衰退がプラス10年は引き伸ばせれば、帝国に取ってプラスに働くとの分析結果によって、親英政策を打ち出して来たのだった。
 しかし、資料を検討し、各種情報を入手すればする程、果たして更に10年持たせられるのかどうかが大きな問題として浮かび上がってきたのだった。
 既に第一次世界大戦の結果、英国はかなりの権益を米国に譲り渡している。それが、次期大戦では更に加速され、結果として戦争に勝った途端に大英帝国は崩壊するのである。その最たるものが、米国との武器貸与法だった。英国に対して、各種戦争に必要とされる物資を無条件で貸与すると言う趣旨だが、その裏で貸与する物資を英国が輸出するのを禁止していた。しかも、この法律は戦争が終了した2日後に停止され、その結果英国は払いきれない負債と経済破綻に喘ぐ事になる。

82shin:2006/11/21(火) 23:58:22
 のと資料によれば、38年に戦争が始まった時点での英国の対外負債は、7億6千万ポンドであったのに対して、45年の終戦時には33億ポンドに膨れ上がっている。しかも、米国は大英帝国から全て奪う為、これらの負債に対する新たな資金供給に対して、37億5千万ドルを2%の利息で貸し出し、対ポンドレートを39年度の高い水準に固定、そして帝国特恵関税の撤廃も含む、英米金融協定の締結まで一連の金融政策を実施してくるのである。これによって、スターリング圏と呼ばれる英国の経済圏は全て米国のドルに置き換えられる訳である。
 ちなみに、現在の為替レートでは、1ポンド4円前後であるので、33億ポンドの負債は、日本円で132億円、帝国の国家予算の2年分強の金額となっている。
英国経済が、のと資料よりも遥かに良好に推移しているとは言え、その事を思うと、二人とも頭が痛い。

83shin:2006/11/21(火) 23:59:30
「高畑は、気楽に考えているようだがな。」
梅津が何気なくそう言うと、井上は怪訝な顔を向ける。
「聞いてないのか?」
「いや、最近会ってないな。」
「彼に言わすと、その為の合弁会社や資本提携だそうだ。」
「うん?」
「今のうちに、英国系の企業を大量に作り、その企業を成長させる。そうして戦争に突入した時点で、その株式の何割かを売却する事で、対外負債を回収できると言うだよ。今は、日商グループや運用資金の貸し出しで短期的な利幅を稼いでおき、必要になれば株式購入を持ち掛け、企業そのものを買収する事が可能だとさ。」
「ふうん、そんなものなのか。」
「私も良く判らん。しかし、彼はかなり自身を持っているようだぞ。中国に設けたフリー・トレード・ゾーンと、「のと」の各種知識を使えば可能だと言っていたよ。」
「それじゃ、俺たちは精々、大英帝国が一刻も早く、第二次世界大戦で勝利出来るように頑張るしかないな。」
「ああ、所詮軍人には経済は良く判らないからな。」

84shin:2006/11/28(火) 12:50:45
茫漠たる大地、見渡す限りの地平線・・・
「さ、寒い・・・」
その頃高畑は、厚手のコートに身を包み、防寒用の耳充て付きの防止を被り、着膨れした格好で、震えていた。
「ど、どこが、悠久の大地なんだ、全く・・・」
見渡す限り凍てつくような堅い地面が続いている。
「まあ、あんた方、地方人は鍛錬が足らんのだよ。」
そんなガタガタ震えている高畑を横で見ていた男がニヤニヤ笑いを浮かべながら言った。
こちらは、軍服姿に、軍支給の厚手のコートと言う姿だが、少なくとも背筋を伸ばし、寒そうには見えない。
「そ、そんな事言ったって、さ、寒いもんはどうしようもないですよ、東条さん。」
「そんな事でどうする。ほんの五分もかからんのに、日本男児たるもの、これ位我慢できんで、どうする。」
東条は嬉しそうに、声を上げる。
普段は、高畑に言い負かされてしまう事が多いだけに、余計に喜びも一塩という感じがありありと見えて取れる。
そう、11月に既に寒さに震える地域、中国は満州地方大慶油田に二人はやってきていた。
昨年(1931年)の油田発見の発表から1年で、大慶油田は稼動を始めようとしていた。
元々、「のと」資料の中にあった地図を頼りに、場所を特定しており、原油が出るのは判っていた。
試作井を掘ると、一発で油田が見つかっていた。31年9月に発表されるや否や、直ちに本格油井プラント一式を設置し、油田開発に取り掛かったのだった。
お陰で、僅か一年程で、満州の原野のど真ん中に小型ながら精製設備まで備えた、本格的な石油開発施設が出来上がっていた。
32年の5月からは、米国から輸入した中古の工作機器を利用し、ハルビンからの鉄道及び道路建設、更には飛行場の建設まで行われたのだった。
全て豊富な資金力にものを言わせた日商グループがその裏で動いていたのだが、その中の仕組みは複雑怪奇であり、事実東条自身も、高畑本人から説明を受けても、理解するのに苦労する程だった。

85shin:2006/11/28(火) 12:51:29
 満州地域の非武装地域化に伴い、ソ連が所有していた東清鉄道は、帝国の満州鉄道と同様に、それまでの、治外法権的な権益から、純粋な企業体としての取り扱いに変更されていた。そして両者を併合した、新満州鉄道株式会社が設立され、鉄道関連施設がその所有となり、付属地等の租税権は、中華民国政府に返却されている。勿論、帝国政府もそうであるが、ソビエト政府がそのような権益を見返り無く中華民国に返却する訳も無い。
そのため、両鉄道は、満州鉄道が1億2000万円、東清鉄道は、1億4000万円で、一旦皇室が買い取っている。そして改めて、皇室100%出資の新満州鉄道株式会社が設立され、中華政府に対しては、皇室から内々の賠償の意味を含め、その株式の20%と5%が、蒋介石、張学良それぞれに無償で譲渡されていた。
 更に、皇室は日露戦争時に、多大な迷惑を掛けた事へのお詫びとして、米国政府を通じて、ハリマンの所属するクーン・ローブ・グループに10%を無償譲渡し、英国王室と、米国政府に対してそれぞれ20%ずつの購入を勧めた。勿論英国王室は即座に購入、米国はモルガングループが購入した。これにより、中国に於ける排日運動は一挙に声を潜め、帝国の輸出は好調な伸びを示していた。
 そして、満鉄は新規事業として台湾銀行からの融資を受け、ハルビン・大慶間の新たな鉄道敷設、道路建設を行っている。勿論台湾銀行には、日商グループがバックファイナンスを行っているのは言うまでもない。
 石油関連の施設は、アングロ・丸善・チャイナ・オイル・カンパニーがその施設の建造を行っていた。油井は、既に5箇所で建設されており、大慶にある精製施設以外に、大連及びウラジオストックに大型の精製施設が建設されていた。石油に関しては米国資本と英国資本の競合が続いている関係で、精製施設の発注のみ米国に対して行われただけである。そして、表向きは英国資本が投入され中国北部に大規模石油施設が建設されているようにしか見えないが、実質は日商グループの資金による建設であるのは疑いない。
 東条にとって、この辺りの資本関係についてだけは、何度高畑に聞いても良く判らない部分であった。

86shin:2006/11/28(火) 12:52:17
「いよいよ積み出しだな。」
施設の左手に、タンク車が何台も連なり二列に並んでいた。その端には本土で見かけるよりも大型の蒸気機関車がそれぞれ繋がれている。
既に、敷設された鉄道により、初めて原油及び一部精製石油が、大連及びウラジオストックに向かって出荷されようとしていた。
「しかし、これを守らないかんのか。」
東条は、目の前に広がる最先端施設を見ながら呻く。
統合作戦本部運用部次長として、満州における戦時のロジスティックの確保が彼の今の仕事である。ほんの1年半前までは何もない、原野であったこの地に、帝国の生命線と言ってよい石油資源が現れた訳である。
東条も総研メンバーとして、起こりえた歴史に目を通している。現在は懐柔政策を取られているが、それでもソ連が主敵であるとの認識は変わっていない。しかも、ここから更に西に向かえば、38年に発生するであろう日ソ紛争の地、ノモンハンに行き着く。
 3個師団、5万人以上の死傷者を発生する一大決戦に、帝国は敗れる。変な言い方だが、この結果北進論はその勢いを失ったと言っても良いだろう。勿論原因は、兵装の不備に尽きた。東条自身が書いた戦陣訓がどうのこうのとも書かれていたが、精神論で勝てるなら誰も苦労しない。帝国に金が無いため、十分な戦備の用意が出来なかった点が全ての敗因である。
確かに、天からの贈り物か、悪魔の囁きかどうかは知らないが、「のと」により、帝国はその進路を大きく変えた。
5年あれば、十分な軍備の用意が可能であろう。勿論、戦本としては、少なくとも独逸を叩き潰すまではソ連と戦う気も無い。また、そのために、様々な懐柔策を取っている。
だが、それらの懐柔策が弱気と見られたら、ソ連が小競り合いのつもりで中華国境を越える事は十分に考えられる。
東条は改めて辺りを見回した。
現在帝国軍として中国に派遣されているのは1個師団にも満たない。それ以外は、武装中立地域の監視団として国軍の指揮系統から外れた部隊が各地に駐留している。監視団は英米から派遣された監視団将校の下に、組み込まれており、現地雇用の将兵の鍛錬が中心となっている。
そう満州地域では、停戦監視団の主な兵力は、元中華民国国民政府東北辺防軍そのものであった。彼らは3ヶ月間の訓練と、6ヶ月間の停戦監視業務に付いた後、その半数が除隊して行く。そして除隊した中国人はそのまま国民政府軍に再雇用される。
実態は、中国人将兵を帝国軍が日英米の武装を供給し戦闘訓練を施しているのだった。
蒋介石にすれば、4年前の政変で、帝国の国家方針そのものが変更したと言う事実を認識出来たのは、これが実際に稼動し始めてからだった。
張学良は、自らの権益が帝国軍によって保証されている現状に満足しており、蒋介石は、何よりも正規の軍事訓練を受けた兵隊を受け取る事が出来、帝国製あるいは英米製の武装が安定的に供給されると言う現状は十分に満足行く状況だった。
しかしながら、これを帝国軍から見れば、かなりどころか、途轍もなく勇気のいる行動だった。「のと」資料に目を通している一部将校ならば、どの道中華大陸から叩き出されるならば、感謝されて出て行くと言う方針は理解できないことは無い。
ところが、事情を知るわけも無い下級将校、下士官にすれば全く持って晴天の霹靂であった。最も、陸海軍の統合から始まる一連の改革に、一般将兵は最早諦めの境地に近いものがあり、それでも訳の判らないまま、彼らは日本人らしく与えられた職務を忠実にこなしてゆくのだった。
このようにして成立した停戦監視団が、満州各地に駐屯しており、大慶油田はその辺境に位置している。
そのため、流石に帝国も、蒋介石政権の了承の下、最低限の防衛部隊として正規の帝国軍が一個連隊ここに駐屯しているのである。

87shin:2006/11/28(火) 12:53:00
持つかな・・・
東条自身、いくら帝国風に鍛えた将兵と言っても中国人の軍隊をそのまま信用する程お人よしではない。映像で見たような強力なソ連軍が、国境を越えて攻め寄せてきた場合、辺境警備についている部隊は一瞬で壊滅するだろう。
その後は、帝国軍の出番となる。しかし、ここにいるのはたった一個連隊にしか過ぎない。
まあ、逃げる事は出来るが、許される事じゃないな。
少なくとも派遣部隊の数が減った分、機動性は十分過ぎる程確保されている。
6千人程の部隊に対して、移動用の車両は、1千両近く用意されている。
まだ、装甲車両や戦車は殆ど見られないが、必要な時期には手配出来る筈である。
機動防御だな、最前線からここまでに幾つもの防御拠点を構築し、次々と移動しながら、敵の進撃速度を限りなく落とし続ける。
その為には、大量の火砲と武器弾薬の準備が必要となる。
しかも、本土に控える緊急展開軍を直ちに移動させ敵後方の兵站を攻撃、その後に編成の済んだ機動兵力を本土から展開させ、敵陣の一点突破、イヤ、補給路が伸びたときに叩くべきか・・・
東条は辺りが大慶であることも忘れて、頭の中に来るべき兵器を思い浮かべ、シミュレートを続ける。
「東条さん、東条さん、そろそろ戻りましょうよ。」
高畑に言われ、東条ははっと我に返る。
そういや、今頭の中に展開した兵装は何一つ存在していない事を思い出し、苦笑する。
「ああ、戻ろう。やる事が一杯ある。」
「そうですね。私も無理行って連れて来て貰ったんですから、早く帰らないと。」
「しかし、君も忙しいのに何で、わざわざ大慶油田まで見に来たのかね。」
「はあ、一度は見ときたかったんですよ。普段は書類上のものばかりですからね。」
高畑はそう言って、再びあたりを見渡す。
「ここにあるもの全てが、私たちの意志で作られているんですよ。「のと」が無ければこんなものまだまだ先にならなければ出来なかった。そう、自分がやっている事をちゃんと見ときたかったのですね。」
東条が驚いたように繭を吊り上げる。
「日商の高畑ともあろうものが、そんなにロマンチストだとは思わなかったな。」
「イヤイヤ、ロマンチストなんかじゃないですよ。私はあくまでもリアリストです。それだけに、紙の上のものじゃないものを、確認したかったんですよ。」
そう言って、高畑は車に戻ろうとする。
リアリストか、そうは言っても、やっぱりロマンチストに思えるが・・・
東条も同乗すると、車は舗装された二車線の道を快適に走り始める。
東条は、これから飛行場まで戻り、飛行機の乗り継ぎで本土に戻る。
高畑は、上海に向かい、新たな資金運用の指示管理に戻る。
帝国本土では、梅津が、井上が、永田、小沢、山口、阿南ら軍人が、濱口首相以下の政府要人が、そして八木、高柳らを中心とする技術者達が、新たな仕事に取り掛かろうとしていた。
彼らの目指す方向は唯一つ、帝国を生き残らせる為だった。
そう、それこそが、明治が望み、日露戦争までがむしゃらに取り組んできた帝国の国策だった。

88shin:2006/11/28(火) 12:53:48
「流石に内地と比べると、暖かいな。」
「長官、暖かいは無いでしょう、明らかに熱いですよ。」
副官の神重徳少将(役務)は、苦笑いを浮かべ、小太りの長官を見つめる。
合流予定の艦隊を迎えるため、中央指揮所から、対空監視所に上がってきたのだが、エアコンの利いた艦内と違い、露天に近い監視所は流石に熱帯の熱気が直接肌に触れてくる。
「ほおっ、さすがロイヤルネービー、見事だな。」
大英帝国派遣艦隊司令長官山口多門大将(役務)は、双眼鏡に写し出された、戦隊が一斉に回頭するのを楽しそうに見つめた。それぞれの艦の間隔は400メートル前後であろう。それだけ距離を詰めながら、戦隊の旗艦とおぼしい軽巡につらなる四隻の駆逐艦が綺麗に回頭して行く。
勿論帝国海軍でも、あの程度の事は出来る自信はある。
しかしながら、英国艦隊の躁艦レベルが高いのは否定しようもないし、それはそれで楽しみでもある。
「今回は、船団護衛の合同訓練も兼ねていますから、軽巡まで持ち出してきた以上、英国も真剣ですね。」
「当たり前だ、海上護衛こそ海軍の基幹だからな。」
昭和維新と呼ばれる陛下自らの軍政改革から既に6年になろうとしていた。その間の帝国総軍に対する意識改革は徹底しており、それは旧海軍においても手抜きはされていなかった。総軍設立に伴い、佐官級以上の将官は、陸海問わず、三ヶ月に一度の研究会への参加が義務付けられている。そこでは、総研にて作成された今後登場すると予想される各種兵器を使った新たな戦術の検討が行われていた。当初は、旧陸軍軍人と、旧海軍軍人の考え方の違いのすり合わせがその目的の主要な部分を占めており、時には掴み合いの喧嘩にまで発展する事も珍しくなかった。しかしながら、それも二年三年と続く内に、真剣な戦術・戦略の検討会へと変化していた。
そこで提供される資料は「のと」情報に基づいた具体的なものであり、時には一部「のと」の兵器ですら、極秘試作品として提示される。これらの現実を突きつけられ、精神主義や艦隊決戦等と言う机上の空論を振り回している事は出来るものではなかった。また、検討会は総研主導で実施されていたが、参加者には必ず統合作戦本部からの要員も参加しており、検討された内容が、実際の戦技・戦術に反映され始めると、更に真剣さが増すこととなった。
そして、その中で、陸戦においては、火力、機動力の徹底した重視、海戦においては、艦隊決戦の否定と、輸送路の確保が軍の主要命題として確立されて来たのである。
「それに、今回は各種新兵器の顔見せだからな。」
二人の後ろから声が掛かり、神少将が振り向きながら目礼する。
いつの間にか上がってきたのか、そこには統合作戦本部情報部の梅津少将が立っていた。
「しかし良いのですか、我が軍の最新兵器を同盟国とは言え、このようにさらけ出してしまって。」
このことにかなり不満を抱いていた神は、ここぞとばかり梅津に問いかける。
「ああ、仕方ない。戦争が近づいているからな。今から習熟して貰わないと、間に合わん。」
「やはり、始まるのですか。」
「総研では、2年以内と予想している。情報部もほぼ同じ結論に達している以上、時期は判らんが、も1回起こるのは避けられそうに無いな。それに、今回は、高みの見物は出来ん。」
そう言われると、神も不承不承頷くしかない。
「それにな、最新兵器と言っても、既に量産が可能となったものばかりだからな。なーに、本命は大事にしまっとかなきゃ。」
ニヤリと微笑む梅津に、神はあっけに取られる。
山口はそんな二人を見つめながら、何とも言えなかった。
「のと」情報にアクセス可能な山口と違い、神は戦略の裏の意味を知る由も無い。

89shin:2006/11/28(火) 12:54:43
全ては半導体だった。
当初は歩留まりがあまりにも悪すぎ、最高機密に位置づけられていたが、昨年辺りから漸く生産の目処がたってきた。
それどころか、今年になると完全な量産体制が確立出来るようになり、結果として帝国総軍の電子儀装は、格段の進歩が見込まれている。真空管と違い、小型軽量小電力消費の半導体の導入で、電波探知機、所謂レーダーは、戦闘機ですら搭載の目処がたっていた。
通信機器は三年後にはデジタル化(とは言っても山口もどういう意味かは理解していないが)され、通信の確実性、暗号としての強度は格段に飛躍すると言われている。
列強各国では漸くメートル波による電探が実用化されようと言うのに、帝国は既にミリ波、マイクロ波まで実用化しようとしていた。
ここで問題となったのが、機密漏えいとそのコストだった。
兵器として使われる以上、戦場で鹵獲されるのは避けられない。
一時は電子兵装に自爆装置をつけることすら真剣に検討されたが、確実性と危険性から(使っている最中に爆発したら最悪である。) それは見送られた。
そして、生産コストの問題があった。
軍人ならば、コストはあまり考えないが、総研はそうではなかった。政府も勿論、投資分の回収どころか、莫大な収入が見込める以上、民生品に転用したいと言う意見は根強い。
勿論民生用への転用は、世界情勢が落ち着いてからと言う方針が出されているため、表立っては言われないが、英国への兵器として販売する事に対しての圧力は大きくなる一方だった。
何しろ、半導体そのものに対する研究費用、そして量産の為の工場を一から作り上げたのだから、その費用たるもの生半可なものではなかった。戦争でも起こらない限り、帝国総軍での使用分だけではその費用の回収は覚束ない。そして戦争が起これば、今のままでは帝国の国富がむやみに消費されるだけとなってしまう。
そこにきて、運用の問題が持ち上がってきた。
既に「のと」資料から、電探と電信の効果的運用による情報の一元管理、戦力の局所的優位の確立等のコンセプトは理解されていたのだが、実際に試してみても中々上手く行かない。
それはそうである。第一、航空機の性能がまだまだ不十分であった。それに数も揃わない為、要はシステムが無くても、迎撃できてしまうのだった。つまり、帝国軍だけでは、十分な戦訓の積み上げが出来ないと言う問題だった。
また、海上護衛に関しても、敵潜水艦に対する効果的な機動の研究、新たに開発されたソノブイによる潜水艦の発見と迎撃体制の確立も急務であった。
それやこれやの意見を検討し、統合作戦本部と総研は、当初の予定より前倒しでの半導体利用兵器の大英帝国への公開を決定したのだった。

90shin:2006/11/28(火) 12:55:40
 欧州では、独逸においてヒトラーが台頭してきており、大英帝国はその対応に苦慮し始めていた。独逸の拡大政策は、明らかにフランスとの衝突を予想させており、その場合にフランス側に立って英国が参戦する可能性は高い。「のと」情報では、二年後の1938年には欧州大戦が勃発するとなっているが、総研の分析では、それが早まる可能性も出てきた。
 それも全て「のと」情報の影響だった。帝国政府による満州地区の自由貿易圏の確立と、日商グループを中心とした米国資産の買収が上手く行き過ぎたのだった。
 満州地区の治安が確保され、帝国資本、大英帝国資本、そして米国資本が大量に流れ込み始めていた。当初は日商グループによるダミーであった大英帝国の資本流入も、直ぐに他の投資家が追随して本格的なものとなっていた。米国はモルガングループに対する満鉄株式の譲渡が呼び水となり、グループの本格参入から、多くの資本家が資本投下を本格化させた。
それはそうである。29年の大恐慌以降、世界中で唯一経済成長が対前年比2倍以上の伸びを示している地域である。投資は確実に回収でき、それが更に新たな投資を呼び込む好景気が満州を支配しており、勿論帝国経済もその結果、爆発的な勢いで成長を続けていた。
 それに加えて、米国の各種生産施設の買収が大きな効果を発揮していた。米国の大恐慌のおかげで、たった三年で帝国内に各種重工業、化学工業のインフラが確立されたのである。32年に発見され開発が開始された中国大慶油田からのエネルギー供給も安定して増加しており、また「のと」資料の活用による、世界に先駆けて開発された絹に代わる人造繊維、「ナイロン」の登場もあり、帝国はそれまでの軽工業中心から、重化学工業中心の国家へと大きく変貌を遂げようとしていた。
結果、割を食ったのが米国だった。日米貿易は、32年までは綿花、くず鉄、石油が米国からの主要輸入品であったが、綿花は既にその比重を落とし始めていた。石油、くず鉄は現在も輸入量は増加しているが、それは帝国経済の拡大に伴い、国内生産に対する不足分の輸入へとその価値を減じていた。そして最も大きく変化したのは帝国からの主要輸出品目であった生糸だった。33年に工業化に成功したナイロンの登場で、生糸の輸出は減少傾向にある。代わりに、化学繊維の輸出は爆発的に伸びだしていた。デュポン社が、化学繊維の開発を打ち切り、東洋レーヨンに提携の申し込みをしてきた事もあり、化繊市場は帝国の寡占状態へと向かいつつあった。
他の工業生産品に関しても、満州地域を通じて、米国への輸出が増加していた。米国の主要産業に躍り出ようとしていた自動車産業においても、帝国からの輸出すら始まっていた。但し、日本フォード社やGM Japanの製品ではあったが。米国からの中古車輸入の為の大量の自動車専用輸送船の建造が、米国と比べ安価な人件費にて製造される日本製米国車の逆輸出すら採算の合うものとしていたのである。
大恐慌は、「のと」資料の状態よりも20%以上悪化し、33年から大統領に就任したルーズベルトが打ち出したニューディール政策も低迷していた。それはそうである。政府が大規模公共投資を打ち出しても、企業がそれに乗ってこないのである。国内に投資されるべき民間資本は、その半分が独逸に、そして残りが満州に投資されており、再編が進む筈の企業は、買収すべき企業そのものが無くなっていた。
このまま推移すれば、本年10月に行われる大統領選挙での敗北も噂されているルーズベルトは、経済浮揚の方策として軍備拡張政策を推進しようとすらし始めていた。流石に露骨な事は出来ないが、独逸に対する政府指導融資の拡大や、軍需生産に必要とされる重金属の優先的な販売に対する指導等が行われていた。おかげでヒトラー政権下の独逸は、驚異的な回復を見せており、それにつれ、周辺諸国に対する要求は過激なものとなっていた。
昨年12月から開催されている第二次ロンドン軍縮会議は、どちらかと言えば、協調軍備拡大会議になりつつあった。これに対して、既に戦艦の価値を認めていない帝国は、軍備増強策に対して必死に抵抗しようとしていた。大幅な予算を必要とし、結果的に国家の財政を傾ける戦艦の建造は帝国のような発展途上の列強にとり、割に合わない。要するにそういう事だった。昭和維新以来6年で、帝国内の意識改革はそこまで進展していた。

91shin:2006/11/28(火) 12:56:15
昭和維新で、大量に将官が予備役に編入された結果、帝国総軍内部の風通しはかなり良くなっていた。佐官クラス以下にとって、これは出世のチャンスであり、その意味での不満は少ない。また、神のような大佐であっても、任務に応じては将官待遇が与えられる、役務制度の導入によって、無能な人間の排除はかなり進んでいた。文句があるならばやってみろと言われる訳である。そして何よりも、「のと」情報による国力の増大の結果、急速に兵装が近代化される現状が、反対意見を抑えていた。確かに戦艦は欲しい、だけど今は先に装備しなければいけないものがあると言う認識が尉官クラスまで徹底して浸透していたのである。
しかしながら、帝国がその生存の為に必要と見なした大英帝国では違う。彼らには「のと」は無く、そしてそれ故、先の第一次大戦の結果に恐怖していたといって良いであろう。大英帝国は欧州で再び覇権を争う存在に成長しつつある独逸、そして大戦以降発言力を増した、覇権国家米国を恐れた。これに対する大英帝国の選択は、米国との協調と独逸に対する懐柔策だった。これにより時間を稼ぎ、その間に十分な体制を構築するというものである。
総研の苦悩もそこにあった。様々な手段を弄したが、大英帝国の方針を変えるだけの力は帝国にはなかった。しかしながら、その結果、大英帝国が崩壊し、帝国がソ連と米国と言う二つの覇権国家に挟まれる事を総研は知っていた。それ故、帝国は大英帝国を助けねばならない。欧州大戦に参戦し、大英帝国の早期勝利に寄与する。これにより、いずれは起こるであろうが、大英帝国の崩壊をなるべく先延ばしする。今のところその先は判らない。米国が早期に参戦する可能性もあり、その場合はやはり大英帝国の崩壊に繋がるかもしれない。しかしながら、帝国に他の選択肢は無かった。そう、それほど米国は超大国であった。

92shin:2006/11/28(火) 12:56:50
既に、帝国は大英帝国との同盟国化を強力に推進していた。33年に、英国のスターリングブロックの一員として組み入れられた見返りとして、アジア地域での大英帝国植民地に対する警備艦隊の提供から始まり、中華民国における大英帝国の租界の警備部隊の派遣から、アジア・オーストラリア、一部インド洋まで含む航路警備艦隊の派遣まで行っていた。勿論これらの派遣は殆どのものが有償であったが、その費用は最低限の費用請求に抑えられており、また各種艦隊の指揮権は基本的に英国海軍が執ることすら帝国は認めていた。大英帝国側にすれば、英国植民地からの資源の安定供給の見返りであり、何ら異論を挟む理由は無かった。中にはここまで帝国が行うことに、その真意を疑う層もあったが、費用対効果が全ての声を抑えた。
帝国側では、当然のことながら帝国の矜持に関わると反論が起こったが、当初は国策としての親英路線の為と言う陛下の声明がそれを抑え、やがて国力の増大に伴い、実利が全てを抑えた。経済圏の維持としての費用は止む終えないとの意見と、最低限とは言え艦隊の維持費が収入として計上される点が反論を封じていた。勿論、帝国総軍内部では、佐官級以上にはその戦略が開示されており、それより下のものには命令として伝えられれば十分であった。ちなみに、派遣艦隊では全ての命令が英語で伝達される。これには当初水兵レベルまでの徹底が大変であったが、現在ではジャパングリッシュと言う日本語と英語が混ざった水兵達の言葉が成立していた。海兵に入団すると、最初にこの言葉が叩き込まれるようになってから、言語での大きな問題は生じなくなっていた。
そして、この派遣艦隊に昨年10月、新兵装として電探が搭載された事が大英帝国を大いに驚かすこととなった。
電探そのものは、「のと」資料から早期に開発が開始されており、試作段階の半導体を使った各種実験が行われていた。既に近衛兵団所属艦隊では駆逐艦レベルまで搭載していたが、漸く半導体量産の見通しが立った昨年10月の時点で初めて派遣艦隊に装備されたのだった。それも旗艦(軽巡阿武隈)だけの装備ではなく、新たな一個戦隊8隻の駆逐艦全てにである。

93shin:2006/11/28(火) 12:58:13
ペナンからスマトラ島間の海域の警備を担当するインド洋方面派遣艦隊第一水雷戦隊は、シンガポールで英国指揮官の乗船を迎えた。シンガポールまで第一水雷戦隊司令官を務めた大森少将(役務)は、ここで英国からの派遣将官にその指揮権を引き渡す。
乗艦してきたのは、二人の参謀を引き連れたサマービル少将だった。
「本艦隊の指揮を引き渡します。」
大森は型通りの敬礼を交わし、その指揮権を英国人少将に引渡し艦を降りた。新たに装備された電探に対して、サマービル少将がどのような顔をするのか見てみたかったが、それは彼の仕事ではなかった。

司令部要員との顔合わせが済むと、サマービルは司令官室に入った。
今回の派遣は、突然だった事もあり、サマービル自身も十分な準備が出来た訳でも無く、色々と聞きたい事はあったが、英国士官として自制する。まあ、おいおい判ってくるだろう。
 これまでは、この方面の日本海軍の艦艇派遣は精々駆逐艦4隻の支隊程度であった。今の所、大きな問題も起こってなく、4隻の駆逐艦を使えば基本的な警備は十分過ぎる程であった。
 ところが、突然日本側から、艦隊の増援の連絡が入ったのである。新兵装の配備に伴い、その運用習熟の為、戦隊を派遣したいとの事だった。勿論、日本側の事情での増援であるので、派遣費用に関してはこれまで通りで、発生した補給物資に関しても請求はしないとの事で、英国海軍側にも断る理由も無かった。それに、日本海軍の新装備と言うのに興味が惹かれない訳でも無く、その申し出は了承された。
 しかしながら、事務方の問題はそれから発生した。支隊レベルであれば、英国海軍側の派遣指揮官も大佐で良かったが、戦隊となれば将官クラスの派遣が必要となる。
英国海軍にも遊んでいる将官がいる訳でも無く、誰を派遣するかは頭痛の種となった。偶々日本側の新兵装が、電波に関する事と判り、その方面で詳しい将官と言う事で、地中海艦隊に配属が決まっていたサマービル少将に決定され、急遽スエズを越えて派遣されてきたのである。
日本海軍との関係は、英国海軍を範に作り上げられているだけに、元々悪いものではなかった。第一次大戦後、オーストラリアや米国からの圧力で日英同盟は解消していたが、それも31年から復活している。サマービル自身も、先の大戦にて日本海軍の艦艇が船団輸送の護衛や航路警備に真剣に取り組んでいた実績は評価しており、新兵装の件も含め、今回の派遣は興味あるものだった。
一時は、列強と張り合う姿勢をとり始めた日本帝国だが、よほど中国での紛争に懲りたらしく、徹底して英国追従政策を打ち出している。事情通に聞いたところ、何でも軍部が中国への侵略を行おうと考えるほど暴走し始めたらしく、それを今のエンペラーが強権にて叩き潰したとの事である。
乗艦時は流石に緊張したが、全体としての英国海軍に対するイメージは悪く無いように思えた。最も、あの何を考えているのか判らないような微笑は少し引いてしまったが・・・
とにかくこの後、新兵装について技官から説明を受けられる事となっているので、それが楽しみだった。

94shin:2006/11/28(火) 12:58:59
「これが、帝国の新兵装として配備が始まった、2号一型電探装備の集中管制室です。」
松田と紹介された技官が、自慢そうにその部屋を指し示した。
副官に配属された日本人将校に呼ばれ、サマービルは連れてきた二人の参謀を伴い、阿武隈艦内の艦尾にやってきたのだった。
「元々は、水偵を積んでいたのですが、そのスペースを撤去してこの管制室を作りました。」
テニスコート半分程度の広さの室内は、奥から1/3程の所を一面の透明のアクリルボードのようなもので仕切られていた。その向こうでは、幾つもの無線機のような機械に取り付いている数名の要員がいる。そして、アクリルボードの中央には船形の紙が貼り付けられており、その下に少し小さめの紙型が、4つずつ、平行に並んでいた。
「これは?阿武隈と、他の艦を示しているのかな。」
サマービルは一体何が行われているのか想像もつかない。それでもどうやらアクリルボードには艦の位置がプロットされているのは想像がついた。
松田と呼ばれた技官はそれでも、その質問に少し驚いたようだった。
「流石に、英国海軍ですね。これが何を示しているのか一目で見抜くとは。」
別にお世辞を言ってもらっても嬉しくない。
少しムッとしかけるが、どうやら松田は本当に驚いているようだった。
サマービルは案内されるまま、ボードの反対側に向かう。
「中央にあるのが、2号一型電探の受像部です。両側それぞれ2台ずつ置かれているのは無線機で、今はそれぞれ駆逐艦2艦ずつと繋がっています。」
「その2号何とかと言うのは何かな?」
少なくとも無線機は理解出来る。唯一判らないのはこれだけだった。
「これが一番重要な新兵装です。電波を発信し、そのエコーから相手の位置を割り出す装置です。この2号一型は艦載型で、通常ならば50〜70kmまでの距離にある水上艦艇の位置の把握と、半径70キロ範囲の航空機の把握が可能です。と言っても、これは水上用の電探と航空用の電探二つをまとめているだけですが。」
「ほお、電波で相手の位置が判るのか?」
「ハイ、電波は直進しますから、前方に何かモノがあれば、それに反射して帰ってきます。その時の時間と、発信する電波をぐるっと回してやれば、そこに何かあればその形状まで把握出来る訳です。電波ですから発見は夜昼関係なく可能ですし、雨天時は若干抵抗が大きくなり距離は落ちますが、それでも目視よりは正確です。」
「それは・・・凄いな・・・」
サマービルはあっけに取られた。
電波で敵を発見できる可能性はサマービルも承知していた。それに関する論文も見た事はある。
しかしながら驚いたのは、日本軍は既にそれを実用化したと言う事だった。
しかも、同盟国とは言え、他国の軍人にその機械を見せている事に衝撃を覚える。
平時である以上、ある程度技術的な優位を確立している自信が無ければそう簡単に出来る事ではない。
「これがあれば、艦隊に対する奇襲は事実上不可能だ。しかし、どうしてこれを我々に見せるのかな。今の所このような装置はわが国にもない。黙っていればその優位は動かないのではないか?」
サマービルは気を取り直して、直接疑問に切り込んだ。
松田は困惑したような顔を向けるだけで、救いを求めるように周りを見渡す。
彼は技官であるから、そのような戦略的な質問に答えられる筈も無かった。

95shin:2006/11/28(火) 12:59:39
「それには、小職がお答えいたします。」
「君は・・・」
確か、統合作戦本部から派遣されている連絡副官と言う説明だった筈だが、名前が思い出せない。
「統合作戦本部作戦部の富岡です。今回の新兵装の説明の為に派遣されております。」
サマービルは頷く。それはそうであろう。同盟国とは言え他国に機密兵装を開示する以上、そのような人物がいない訳は無い。
「仰るとおり、電波探知機は画期的な装置です。しかしながら、このような電子兵装はここ2、3年の間に、列強各国で実用化されるものと思われます。基本的な理論は提督もご存知でしたように、既に既知の情報でしかありません。わが国はこれをいち早く実用化したに過ぎません。」
「それはそうだが、ここでのアドバンテージは大きい。悪いが、私が貴国の将官ならば、絶対に同盟国と言えども開示するような情報ではないがな。」
「そうとも言えるでしょうが、そうでないとも言えます。確かに、電探は画期的な技術ですが、全く新しい索敵手段であるだけに、その運用方法について問題があるのです。」
「それは?」
中々面白い展開になって来たと思いながら、サマービルは先を促す。
「今は帝国が技術的な優位を確保していますが、直に列強各国が実用化するでしょう。問題はその時の使い方です。ご存知のように電波は直進しますから、その電波を感知する装置を作れば、電探を使用している艦隊は、電探を使用していない艦隊よりもいち早く発見が可能となります。」
「しかしそれなら、電波警戒艦でも作り、艦隊から切り離して運用すれば対応できるだろう。」
斥候が、本隊の安全を確保するのは常識に近い。
「ええ、実際、現在航空機への搭載が可能な電探を製作中です。更に、大型の航空機を利用した、艦隊及び航空機の全体管制も検討中です。」
なるほど。ここの設備はそのプロトタイプでもある訳だ。
サマービルは改めて室内を見回す。
確かに、個艦の探索用の電子装備とは思えない程の機材が用意されている。
それに、あの中央のプロットボードとでも言うのか、あれがあれば便利そうだな。

96shin:2006/11/28(火) 13:00:18
「ええ、お気づきのように、ここの装備はその実験施設でもあります。そして、それが問題なのです。」
ここまでは、理解できたが、何が問題なのかはさっぱり判らない。
よくもまあ、東洋の小国がここまでのものを作り上げたものだと、改めて感心してしまう。
「恥ずかしながら、運用方法が確立できないのです。」
富岡は明らかに悔しそうに、その言葉を吐く。
「既に、我が軍は、この設備を近衛兵団に所属する艦船に装備し、各種演習を実施しました。」
「多数の航空機の同時攻撃や、仮想敵艦隊との遭遇戦、戦略的な奇襲攻撃での運用等も試しております。」
富岡の声は更に暗くなってくる。
「相手がある程度、予想通りの動きをしている間は問題ありません。何とか対応できます。しかし、その予想が外れだすと、まず電探と通信の操作員が壊れだします。そして、このプロットボード上に大量の情報があふれ出し、満足な指揮が不可能となります。どこかに、否やり方に何か間違いがあるのです。基本的なコンセプトは正しいと考えています。情報を一元管理し、必要な所に必要な敵情報を伝え、局所的な数の優位を確立する。これが上手く行くならば、彼我の戦力差が倍でも対応可能な筈です。考えても見てください。敵戦艦が迫ってくる時に、ベストのタイミングで一個戦隊の水雷戦隊を敵艦の両弦に移動できたならば、どれ程の事が出来るか。」
吉岡はそこまでまくし立てると、肩で息を吐く。
流石に、サマービルも呆れて何も言えない。
「し、失礼。興奮してしまいました。要は、攻勢勢力の情報収集の手段と分析方法は確立できたのですが、それに対する対応手法で行き詰ってしまったのです。」
サマービルは考え込む。
要は、左舷と右舷からの同時攻撃に対して、どちらを優先するかの判断をどのようにして付けるかと言う事か。
確かに、このようなシステムを構築すれば、攻勢勢力の情報は膨大なものとなるのは仕方ない。情報量が増えればそれだけ精度は上がるが、それ故対応が困難になると言うことかな。
まだ、はっきりとはしないが、サマービルにも問題点がおぼろげながら理解できたようだった。

97shin:2006/11/28(火) 13:01:00
「それで、どうしてこれを我々に見せる。」
このシステムの問題点も理解できた点は非常に有益な情報であり、むしろ、今後英国海軍が同様なシステムを構築するときに大いに参考になる。
「端的に言うならば、「助けてください」と言うことになるのでしょう。」
サマービルは目を剥いた。
「既に、2年以上にわたり、我々はこのコンセプトを検討してき、そしてこの半年は各種演習を繰り返しました。実際の艦隊を用いた演習すら実施しております。それでも効果的な手法が確立できないのです。ここに来て完全な手詰まりに陥っていると言えるでしょう。」
吉岡は改めて、室内を見回す。
「これだけのシステムを構築しましたが、このままでは時期尚早と言う事で、これよりも簡素なシステムが全艦隊に導入される事になります。まあ、廃棄されるならば同盟国の英国海軍に協力をお願いするのも悪くはないとの意見がまとまりました。」
おいおい、そこまで実情を話してよいのか。
サマービルは逆に心配になるほど吉岡の口調はあけすけだった。
「言い方を変えますと、わが国では本管制システムは当面の間採用されません。しかしながら、列強各国が同様のシステムを完成させる可能性はあります。その時に備えて、同盟国にこれまでのノウハウを提供し、共同で完成させたいとのお願いであります。」
それならば、納得出来る。
「小閑の一存で決定できる事ではないが、出来る限りの協力はさせて頂く。」
「ハッ、ありがとうございます。」
艦内であるにも係わらず、吉岡は綺麗な敬礼を決めていた。

この後、サマービル少将の尽力もあり、多くの英国士官、技官がインド洋まで派遣されることとなった。そして彼らは帝国の電子技術のレベルの高さに一応に驚愕する。
しかし、その後は転んでも英国人である。第一水雷戦隊を基幹とする部隊に対して、インド近辺に展開する航空部隊、艦隊を動員して、管制システムの有用性と問題点を自分のものとして行くのだった。
そして三ヵ月後、総研が待ち望んでいた要求が英国政府から届いた。
電探を含む電子兵装の有償供給の依頼と、その他兵装開発に関する共同研究の提案だった。

98shin:2006/11/28(火) 13:01:51
1936年2月、山口多門大将(役務)が大英帝国派遣艦隊司令長官としてインド洋にて英国派遣戦隊と合流したのは、この提案の結果だった。
大英帝国との数度の交渉を経て、帝国は英国向けの大規模な輸送船団を組織した。大型輸送艦4隻に油槽船2隻、航空機運送艦1隻、特別工作艦1隻、そして護衛と称して一個駆逐艦隊まで含めた船団である。欧州にて行われた先の大戦時の輸送船団と比べれば、それ程大きなものではないが、全艦が1万トン以上の大型艦であり、15ノット以上の巡航が可能な艦隊随伴可能な艦艇であることが、特異な船団だった。そして、これらの艦艇そのものも、帝国の所持する新兵装の一つだった。
 輸送船団は、日商グループに属する日商輸送の艦艇がその殆どを占めていた。総研高畑は、新生鈴木商店として旧鈴木商店系列の多くの企業を再び日商グループに取り込んだが、船舶輸送に従事する多くの商船を買い戻すことは行わなかった。帝国の造船産業の底上げと景気浮揚対策の一環としての大量の新規船舶の建造、他の財閥に対するこれ以上の脅威を与えない等様々な理由があったが、それが結果的に新たな高速輸送船団の建造へと結びついていた。高畑ら総研のメンバーが「のと」情報を分析し得た知識は、たった5年で、それを可能とするだけの資金力と技術力を帝国にもたらしていた。

99shin:2006/11/28(火) 13:02:31
「Japan Imperial Forceとの合同が完了しました。」
「ご苦労、日本帝国総軍派遣司令官宛に連絡、乗艦の許可を願うと」
軽巡ドーセット艦橋で船団の後方に位置する軽巡最上を双眼鏡で見つめていた英国派遣艦隊司令官であるサマービル少将は、逸る気持ちを隠しながら、命令を下した。
昨年の日本帝国の突然の情報開示以来、どういう訳か日本担当にされてしまったサマービルは、期待を込めて帝国の新鋭軽巡洋艦に再び視線を向けた。
日本側からは、今回の船団には現在開発中の各種新兵装の内、開示できるものは全て積み込まれていると連絡を受けていた。二週間ほどであったが、インド洋派遣戦隊旗艦阿武隈の管制室での体験が、サマービルの帝国海軍(日本ではこうは言わなくなっているそうであるが、彼にとり海軍は海軍だった。) に対する認識を、大きく変えていた。
どうやら彼らは真剣に、国土の防衛を戦艦と言う武装に頼らないで行おうとしており、そのため、新たな兵器体系の構築に邁進していたようである。彼らなりの理論体系を構築し、それに応じた兵装を開発、そしてその運用方法の研究を重ねてき、そのプロトタイプとでも言うべきものが、自分の目の前にある訳である。
しかしまあ、大胆な事を考えるものだ・・・
何度思い返してみても、彼らの戦略の大胆さには驚嘆する。否、あきれ返るとしか言いようがない。彼らは自らが列強諸国との艦建建造競争に勝てないと悟ると、それをあっさりと放棄した。最も、彼らに言わすと、「昭和維新」と言う革命に等しい政変を経た結論だそうだが、それでも一発の銃弾も飛んでいない。そして、彼らが選択したのは英国追従政策だった。それも生半可なものではない。自らが保持する軍事力の提供まで含む徹底したものである。しかも、一旦放棄された英日同盟に代わるものとして、完全な防御協定である英日安全保障条約を締結した上である。この英日安保には、日本が他国に対して戦闘を開始したとしても、英国に対しては何ら義務が発生するものではない。中立さえ守る必要のない協定だった。日英両国に対して他国が攻勢を開始して初めてその防衛に協力すると言う内容は、日本が英国の援助を望むならば、決して他国に戦争を仕掛ける事が出来ない。いわば外交上の権限である、ある程度の軍事恫喝すら出来ないように規制するものでもあった。

100shin:2006/11/28(火) 13:03:52
第一次世界大戦前後から、アジアにおける軍事プレゼンスを拡大させていた大日本帝国が、自ら英米の傘下に入ると表明するに近い条約の提案に、両国は驚いた。ちなみに、日英安保の当初の提案は、米国も含む三カ国での安全保障条約の提案だった。米国は国内のモンロー主義の影響で、条約締結までは至らなかったが、英日の条約締結には好意的に評価していた。
 そして、締結から五年、昨年の条約延長に伴い、日本は次の一手を打ってきたのだった。五年の間に日本が開発した、新たな軍事ドクトリンによる一部兵装の開示がそれだった。
英国内でも、締結当初は疑心暗鬼と、ある程度の軍事大国に対する遠慮も働いていたが、五年もすると、軍内部でも日本軍の存在をさも当然とする雰囲気が形成され始めていた。確かに、アジア地域での英国艦船の数はめっきりと減ってしまっている。しかしながらそれを埋めるように日本海軍の駆逐艦や軽巡がその任務を忠実にこなすようになっていた。しかもこれらの艦船の指揮権は英国海軍にあり、それはあたかも陸軍のグルカ兵と同様の扱いになるのも当然だった。それに更に輪を掛けるのが、日本の経済好況だった。英国植民地との交易により、日本は未曾有の経済成長に突入していた。それ故、日本帝国軍の奉仕はその見返りと受け取られても仕方のない状況だった。
それを変えたのが、昨年の電探配備の艦船の開示だった。それは単に、英国や他の列強諸国よりいち早く新兵器を開発したと言う事ではなかった。そこには電探の開発に至る日本の新しい軍事ドクトリンが存在した。そう、電探が出来たから配備したのではなく、彼らは電探のような兵装が必要だからそれを開発したのだった。
サマービル少将はそれを理解したからこそ、軍内部のみならず、政府にも働きかけ、電探兵装の供給だけではなく、共同研究の提案まで持って言ったのである。

101shin:2006/11/28(火) 13:04:41
サマービルが双眼鏡を通して眺めている軽巡は、昨年7月に竣工したばかりの新鋭艦「最上」だった。昨年乗艦した阿賀野と違い、最上は日本軍の新たな軍事ドクトリンに則り建造された艦である筈である。その証拠に、阿賀野で感じた後部の管制室の張り出しのような違和感は、感じない。それでも、艦橋基部の膨らみが少し大きいように思える。三連装4基12門の主砲が前後に二基ずつ配置されたレイアウトはオーソドックスとも思えるが、その代わりハリネズミのように装備された20ミリ程度の機銃の多さは少し異様とも言える。
 艦橋と後部第三砲塔の間には、航空機の格納庫だろうか、四角い箱型の設備で覆われていた。主砲の俯角も大きく取られており、それが対空火器も兼ねている事をうかがわせる。そして何よりも、艦橋の上部の左右に張り出す測量儀の辺りに取り付けられた長方形の二枚の羽のように見えるアンテナがこれまでの艦船とのイメージを大きく変えている。
「発JIN、宛本艦サマービル少将、師匠との会合は我が艦隊の誉れである。謹んで本艦へご招待申し上げます。JIA山口大将(役務)」
「よし、行こう。」
サマービルは引率して艦橋を後にした。


登舷礼に迎えられ、サマービルは大英帝国派遣艦隊司令長官山口多門大将(役務)と向かい合う。お互いの幕僚の紹介が済むと、案内されるまま艦内に入る。
「後で、艦内の案内をさせて下さい。」
山口大将はニコニコしながらサマービルを先導する。
いくら他国の将官と言え、自分より階級が上であるだけに、やり難い。
しかし、山口本人はそんな事気にもしておらず、むしろこちらの方が上官であるような対応してくる。
まあ、役務と言う事か・・・
年齢的には、自分の方が10歳年上であり、山口も英国海軍の基準で言えば、良くて少将だろう。それが日本軍の役務制度と言う方式の導入により、派遣艦隊司令となると中将か大将の役付きが必要とすれば、一時的に階級が上がる。結果、山口少将は、英国派遣艦隊司令長官である間は、大将扱いされる事となる。
やりにくいのは、山口の方も一緒かな・・・
そんな事を考えながら、艦内の中央部に位置する会議室らしい部屋に案内された。
サマービル以下英国仕官三名が腰を下ろすと、向かい合う形で、山口と他の二名の日本人仕官も席に付く。
口火を切ったのは山口の右側に腰を下ろした将官だった。
「統合作戦本部より派遣されました、派遣艦隊付き補佐官梅津です。今回の艦隊の概要に関して説明させていただきます。」

102shin:2006/11/28(火) 13:06:27
その名前を聞いて、サマービルの眉が僅かに動く。
英国側も派遣艦隊の内訳が送付されて来た時点で、それぞれの派遣将官、仕官の経歴は調べていた。そして、その中でこの補佐官(Advisory Officer)に関しては俄然注目が集まった人物である。日本で昭和維新と称する政変に深く関わっている陸軍将校であり、かなりのキーパーソンと目されていた。日本がそのような人物を派遣艦隊に組み入れている事が、更にこの艦隊の重要性を保証しているようなものだった。
「本派遣船団は、こちらの山口大将を司令官とする大英帝国派遣艦隊として、組織されております。含まれる艦船は、戦闘艦12隻、大型輸送艦4隻、油槽船2隻、航空機運送艦1隻、特別工作艦1隻となっています。」
「失礼、戦闘艦の内訳は?」
隣の参謀がすかさず質問する。
目の前には一個駆逐艦隊の9隻しか到着していない。ここに現れていない艦艇があるとは聞いていなかった。
「失礼しました。戦闘艦の内、駆逐艦隊以外は、3隻の潜水艦からなる小隊です。但しこの小隊は、この先喜望峰までは同行しますが、英国には向かいません。本船団は秘匿性の為、スエズ運河は通りませんから、アフリカ南端までの前方警戒と途中の船団護衛訓練の為に同行しております。現在は艦隊から50海里離れた海域で周辺哨戒を実施しております。」
日本側のもう一人の出席者、神重徳少将(役務)がすかさず答える。
「艦艇の配置は後で、集中管制室にてご確認下さい。今は、とりあえず梅津からの概要をお聞き下さい。」
まだ何か質問したげだった参謀も、山口大将にこう言われては黙り込むしかない。
梅津は、山口に目礼すると続ける。
「これが、今回大英帝国との運用戦術の共同研究を実施する部隊のプロトタイプです。実戦時には、航空輸送艦は、正規空母もしくは、航空輸送艦を改装し着艦機能を付加した護衛型空母2隻に代わります。また、大型輸送船は、1部隊8隻を想定しており、一隻辺り2000名の兵員とその必要装備を搭載しますので、これでほぼ師団規模の部隊の運用が可能となります。」
梅津はその言葉が理解されるのを待つように、一拍置く。
「既に、サマービル少将には、昨年富岡から説明をさせて頂きましたが、本浸透部隊の戦術は、先の大戦にて生じた前線、所謂戦線の膠着により発生する塹壕戦への対応方法として我が国の旧陸軍にて編み出された、浸透突破戦術を基本としております。敵の強固な塹壕に対する正面攻勢を行うのではなく、彼我の機動力の差を生かし、迂回戦術の実施、このことが基本戦術となっております。」
流石に、陸軍出身の将官だけに、はっきりとそのコンセプトを説明してくる。
昨年富岡と話した時は、あくまでも海軍の戦術と言う意識がまだ垣間見えていたものだった。
「帝国総軍としては、このような浸透部隊を最低3個、出来れば5個部隊の編成を目指しております。基本的な戦術は、他国との戦争状態が発生した場合、敵地に対する三箇所の同時侵攻を実施し、敵の攻勢勢力を拘束、この間に残り2個部隊が、敵策源地を攻略、まあ可能ならば、敵の首都となりますが。速やかに敵首脳陣を拘束し、停戦を迫り、終戦に持ち込みます。とにかく作戦地域までの部隊の秘匿と、急速展開時の機動力が全ての鍵となります。」
「そんなに上手く運ぶかな。」
なるほど、短期決戦にてけりをつけようとすれば戦術的には正しい。敵の弱い所を突く戦術は今に始まった事ではない。ただ、本当に敵の弱い所を攻撃出来るのか、首都攻撃は可能なのか等疑問が山積みである。
「ええ、我々もそれは危惧しております。ただこれはあくまでも基本コンセプトですので、実際にはそこまでの短期決戦が可能な戦争はまず起こりえないでしょう。実際にはこのような機動部隊、我々は機動旅団と名づけておりますが、これを用いて、敵の兵力を逐次削減して行く事となるものと思われます。」

103shin:2006/11/28(火) 13:07:16
それならば、非常に納得の出来る話である。艦船と陸戦部隊の組み合わせにより、兵力の展開についての自由度は飛躍的に増大すると言う事は、海軍軍人であるサマービルにも納得できた。
「一応、その為に必要と思われる電探利用の敵地での探索機能の開発、機動力向上の為の各種戦闘車両の整備開発、制空権確保の為の航空機、対空兵装の開発などを鋭意進めておりますが、この面でも研究課題が山積みしているのが現実です。」
「なるほど、それで共同開発かな。」
「ええ、確かに各種兵器そのものの研究も課題としてありますが、やはり補給とその運用の問題が一番の課題です。」
「補給?」
サマービルは怪訝そうな顔で聞きかえす。
「ええ、我々は補給に関する輸送全般の運用を、ロジスティクと呼んでいます。要は、兵は師団単位でも運用可能なのですが、それに対応する補給物資の増加が問題となっています。ご存知のように先の大戦以降、軍の消費する物資は増加の一途です。特に機動用兵を考慮した場合、兵を輸送するトラックに始まり、大型化する各種砲兵器から戦車までの輸送、そしてそれらを維持するための段列から燃料等の輸送、これらの物流の増加は並大抵のものではありません。そして、これらの物流は今後新たな兵装の開発に伴い、更に増加するものと思われます。」
確かに、一人の兵隊が消費する物資は増加の一途をたどっている。
サマービルも、この話が何処に向かっているのかが、段々理解出来てきた。
「なるほど・・・」
「そうです。問題は常に運用です。連隊規模ならば、物資輸送、いわゆるロジスティックは何とか維持出来ます。しかしながら、我々が考えている浸透部隊は最低でも旅団単位での運用が出来なければ意味はありません。連隊ではすり潰されてしまいます。少なくとも旅団、出来れば師団単位での浸透突破が必要なのです。」
やっぱり。
サマービルは妙に納得してしまう。
しかし、日本人と言うのは途方も無いことを考えつくものだ。
部隊に機動力を持たせて、敵陣の後方に展開させる。その為の大型輸送艦の建造と、各種機動兵器の開発、ある程度の補給物資も一括して機動力を持たせてしまおうと言う事だった。
流石に海洋国家らしい陸軍の使い方ではあるが、発想は、非常に大胆であり、また恐ろしいものであった。
昨年の電子兵装の時も、日本人は精緻なシステムを作り上げていた。しかしながら、それを動かしてみると、上手くいかず、英国に助けを求めてきた。
結局あれも、途中の階層での取りまとめを行う仕組みを確立する事で対応できたのだが、どうも彼らはそのような応用技に対しては弱いようだった。
とことん突き詰める事は凄いのだが、そこでの結果に対して思考が硬直してしまう傾向があるらしい。
「なるほどね、昨年のレーダー管制と同様の問題があるのだな。」
梅津が、いかにも我が意を得たりと言う顔を向けてくる。
「昨年お会い頂いた富岡からも、提督が素晴らしい洞察力をお持ちだと伺っておりました。確かに、陸戦は陸軍の担当でしょうが、何卒ご助力お願いいたします。」
 それで、私か・・・
 そう言えば、ラムゼイ提督が、日本側が喜んでいたと言っていたが、そういう訳か。
しかし、俺は海軍軍人だぞ・・・
陸軍の連中に、このコンセプトを理解させなければならないのは、俺なのか・・・
サマービルは一人ため息を吐くしかなかった。

104shin:2006/11/28(火) 13:07:48
合流を果たした日英合同艦隊は、進路をチャゴス諸島に向けた。
「のと」資料では第二次大戦後、チャゴス諸島の最南端のディエゴガルシアが、米国のインド洋の最重要拠点として利用される事となっていたが、現在はまだ何も無い数千人の住民が暮らしている南洋の島々である。
ただ、英国政府もインド情勢の不安定化に伴い、非常時の一時寄港地としての役割と、インド洋全域を哨戒域とすることが出来る戦略的な位置を理解しており、徐々に整備を進めようとしていた。

「ええか、帝国軍の精強さをエゲレスの軍人さんにたっぷりと見せるんやでぇ!」
松田大佐は、作戦室に集合した小隊長以上の士官、下士官達の前で大声を張り上げる。
「了解しましたア!」
負けじと集まった士官・下士官達から大声が帰る。
「帝国軍は誰にも負けん!」
「帝国軍は、誰にも負けん!」
「我々は必ず勝つ!」
「我々は必ず勝つ!」
「邪魔するやつはなぎ倒せ!」
「邪魔するやつは、なぎ倒せ!」
「帝国軍は、世界一!」
「帝国軍は、世界一―おぉっ!」
全員の雄たけびに、似た歓声が、作戦室内に響き渡る。
「それでは、かかれ!」
号令一下、全員が駆け足で、会議室を飛び出して行く。

「今のが、新しい号令の掛け方なのか?」
目の前を駈け抜けて行く将兵を呆れたように、見つめながら梅津は松田に聞いた。
「ええ、なれるまで大変でしたが、なかなか面白いですよ。まあ、若いやつには結構受けは良いですね。」
梅津は、疲れたように、首を振る。
「私には到底ついて行けんな、いやはや・・・」
陸海軍の統合が行われたからといって、両者が突然仲良くなる訳でもない。このため、総研主導で、用語の統一から始まり、教育・訓練制度の統一等様々な試みがなされた。号令の掛け方にしてもそうである。たまたま、「のと」資料から、DVDとか言う映像資料を見つけた輩がいて、その中に、米軍を題材にした映画があった。新兵の教育から気合の入れ方に至るまで懇切丁寧に実施されているのを見て、気に入ってしまった誰かが、これをそのまま総軍の教育に取り入れようと画策したのだった。
全く、井上のやつ、年甲斐もなく、楽しみやがって・・・
絶対に、陸軍の発想じゃない、いいや、断じて違う・・・
梅津は首を振りながら、作戦室を後にした。

105shin:2006/11/28(火) 13:08:29
梅津を含む日英将官は、予定海域に達するや、旗艦最上からこの輸送艦稲取に移ってきていた。
帝国は、英国との共同研究の実施に当って、単に単体としての兵装の研究開発だけではなく、その運用についての研究を希望していた。そのため、今回の英国派遣艦隊には、英国政府に開示する各種兵装を搭載しているだけではなく、それを使いこなす兵員も乗船していた。
 そう、現在編成中の近衛第一機動兵団、第一旅団がそのまま運ばれて来ていた。と言うより英国に対する新兵装のデモンストレーションに第一旅団が借り出されたと言う方が正しかった。
彼らはこれから、英領チャゴス諸島に対する敵前上陸及び橋頭堡の構築を実施する訳である。

 
「ほう、これが新しい上陸用の艦艇かね。」
後部デッキを望む通路の一角に立ち、英国少将サマービルは梅津に尋ねた。
今回の演習を観戦するならば、上陸作戦指揮艦である稲取の方が良いと言う梅津のアドバイスに従い、早朝から彼らもこちらに移ってきていた。
目の前では、完全武装の兵員たちが、四角い箱のような小型船舶に順番に乗船していく。
「ええ、大発と呼んでいますが、上陸作戦に特化した舟艇です。舟艇は一艦に全部で36隻が搭載されており、一度に一個大隊まで揚陸可能です。4隻の輸送艦で、一挙に一個連隊の揚陸を想定しております。」
「それは・・・凄いな・・・」
なるほど、一個連隊を一度に揚陸されられるのなら、そのインパクトは大きい。しかも上陸場所が地形等の障害を勘案しても、相手が予期していない場所ならばかなりの成果が期待できる事も判る。

106shin:2006/11/28(火) 13:09:09
「始まります。」
輸送艦の船尾部分が上下に開いて行く。扉が十分に開ききらないうちから、最初の大発が、傾斜した船底を擦るようにしながら、艦尾から海面に落ちて行く。
 すぐさまエンジンが掛けられ、大発は、くぐもった音と煤煙を撒き散らしながら、輸送艦から離れて行く。
一台が海面に放たれると、後は流れ作業だった。手際良く、艦尾に移動させられた大発が次々に海面に浮かび上がらせられる。
 相当訓練を積んでいるのだろう、全部で36隻の大発が海上に集結するまで、2時間程だった。
サマービルは、船内から見晴らしの良いデッキに向かう。
「ほおっ、中々の眺めだね。」
四隻の輸送艦が一斉に艦尾から大発を吐き出しながら、展開しているのである。
目の前には四列に並んだ多数の上陸用舟艇が水平線のかなたまで続いていた。
「今回が、初めての連隊規模での上陸演習です。ここまでは特に大きな問題も無く展開出来たようです。時間は?」
「2時間8分です。」
梅津の横にいる士官が素早く答える。
「黎明の内に、上陸想定地点近海まで接近し、二時間で上陸部隊を展開します。そして、夜明けと共に、一斉に上陸となります。ここまでは、個艦単位での演習で、大きな問題は発生していません。上陸部隊の規模が大きくなりますと、問題となるのは、この先の混乱です。」
梅津はサマービルにそう説明し、士官に指図する。
「上陸開始!」
海岸に近い方に並んでいる一列が一斉に陸に向かって動き始める。
その速度は4ノットぐらいであろうか、それ程速いものではない。
「大発そのものの速度はまだ上げられるのですが、統制が出来なくなるので、現状ではこれが精一杯のスピードです。」
サマービルが速度の遅さに気づいた時点で、すかさず梅津が説明する。
「それだと、陸側からの反撃がある場合は、大変な事にならないかね。」
「ええ、仰る通りです。反撃の規模にもよりますが、過去の演習では、海岸までたどり着けたのが半分にも満たなかったケースもあります。」
それでは、役にたたないのでは・・・
「いや、勿論その対応の為に、軽巡、駆逐艦はこのようにギリギリまで海岸に近づき、大発が着上陸するまでの間、海岸線の防御陣地に対して砲撃を継続します。また、空母からは艦上攻撃機を展開させ、射点に対する爆撃を実施し、敵からの反撃を最低限に押さえ込みます。」
「それでは、我々も行きましょうか。」
サマービルが頷くと、全員が用意された舟艇に乗り移り、海岸を目指した。

107shin:2006/11/28(火) 13:09:51
多くの大発を追い抜き、海岸にたどり着くと、既に先頭の大発は兵員を下ろし、後退に入っていた。
「ここからが、一番難しい点です。」
梅津が後退して行く大発を指差しながら、続ける。
「第一陣となる大発は、素早く後退し、後塵に対して場所を空ける必要があります。後続の大発を避けながら、後退し二次補給品を積み込みに戻ります。」
「そこで渋滞が発生する訳だな。」
「ハイ、そうなります。」
実際、狭い地域への上陸を指定された部隊(渋滞を作り出す為に、わざわざそうされていた訳だが)では、既に混乱が始まっていた。
上陸予定地点に向かっていた大発が前の大発を避ける為に、左右に展開し始めている。そして、
本来ならば、大回りして輸送艦に戻るべき大発の進路まで塞ぐようになっていた。
「実戦では、更にこれに、大破した大発等も加わり、混乱は更に拡大します。」
一行の目の前で、一隻の大発が海岸に突っ込んで来る。大発の正面が開き、兵士達が手にした機銃を乱射しながら駆け抜けてゆく。演習なので、そこここに、統制官が配置されており、彼らは一定のルールで兵士たちに駆け寄り、判定を下してゆく。
 見る見る海岸には、その場で座り込む兵隊が増えて行く。勿論、全て空砲である為、死傷者は出ていないが、実戦ならば、彼らはその死傷者の一人となるのである。
「ここでは敵の機銃座が二基残っていたと言う設定です。それだけで上陸時の死傷者はこのように増大します。基本的に、上陸第一陣はどれだけ火力を集中しようとも、ある程度の被害が発生するのは防げません。」
「うーむ・・・」
サマービルは説明を聞きながら黙り込むしかなかった。
確かに、先の大戦での上陸作戦時の死傷者の数の多さは彼も知っていたが、その当時よりも更に進化した武装による正面攻勢での死傷者を考えると、言葉を失う。
更に新たな大発が岸に乗り上げ、今度は戦車を吐き出す。
戦車が、空砲ではあるが、二度、三度と発砲すると、機銃座が沈黙し、兵士は戦車と一緒に内陸部へと展開して行く。
「我々が想定しているのは、あくまでも敵が上陸を想定していない海岸への展開です。ですから、被害はある程度抑えられる事を期待していますが、現実には強襲上陸も起こりうるでしょう。」
「その場合は悲惨でしょうね。しかし、このやり方で行うならば、部隊規模を拡大すれば対応できないことは無いですね。」
上陸地点で待ち受けていた、英国陸軍の将校が始めて口を挟んだ。
彼らは、サマービルらと違い、陸側から観戦する為、予めチャゴス諸島で待ち受けていたのだった。
「ええ確かに、しかし、最初に投入される部隊はひどい事になるので、出来れば避けたい。」
「一時的な制海権、制空権を維持して、一挙に大軍を流し込むしかないか。時間との競争になるな。」
その将官は、演習を眺めながら、問題点を的確に指摘する。

108shin:2006/11/28(火) 13:10:43
「ええ、おっしゃる通りです。少将?」
梅津が突然口を挟んできた将校に、怪訝そうに問う。
「これは失礼、英国陸軍のカニンガムです。」
慌てて、その将官は敬礼する。
そこで待ち受けていた将官も含め、お互い同士の挨拶が済むと、再び全員が上陸演習に目を向ける。
「しかし、これは非常に面白い。わが国もこのような部隊が必要だな。」
英国将官が、目の前で展開される演習に感心したように言う。
「ええ、まだまだ解決すべき問題は色々ありますが、是非とも英国にも同様の部隊を配備して頂きたいものです。」
梅津が探るように答えた。
将官は怪訝そうに彼の顔を見る。
「しかし、ここまでさらけ出す理由は何なんだ。いや、こんな事は我々軍人が言うことではないであろうが、大日本帝国は何を考えているのか。」
「一言で言えば、予算の問題です。」
全員が怪訝そうな顔を向ける。
「お判りになりませんか、戦車、航空機、輸送艦、大発、そして個々の兵士の兵装、全て金が掛かります。」
梅津は海岸を指差す。
「これらの配備にはそれ相応の予算が組める国力が必要となるのはお判りでしょう。帝国は残念ながら貧乏です。ここまで兵装を整えるだけでも師団や戦艦の保有を削減してようやく可能になったと言うところですか。」
梅津は流石に表情を変えないが、他の帝国将校は一様に、悔しそうな表情を隠せない。
「輸送艦にしても、通常は輸送船として使えるように仕様を決めて初めて数を揃えるのがやっとです。」
確かに、最新式の兵装に換装するとなると、予算がいくらあっても足りるものではないのは英国将校団にも理解できた。
「帝国が英国との各種兵装を共有化できれば、この状況は大いに改善されるでしょう。」
「なるほど、数を揃えれば、単価は下がるな。」
「ええ、それに開発期間や、製造期間も短縮出来ます。米国の自動車生産と同じ方法です。」
「量産効果と言うのかな。確かにそれはわが国にもメリットはあるな。」
カニンガム少将は、理解したように頷く。
「しかし、それでも最初の疑問の半分も答えていないのではないかな。」
カニンガムは探るように梅津を見る。
流石に英国の支配階級出身の将官だけあって、それ位ではだまされんぞと目が言っていた。
「確かに、これは理由の半分ですね。」
梅津も苦笑いしながら返す。
どうも、総研として動くようになってから、自分も人が悪くなる一方のような気がする。
「一番の理由は、話さなくてもご存知でしょう。」

109shin:2006/11/28(火) 13:11:26
「どこと戦うのかね。」
居合わせた全員が息を呑んだ。
カニンガムは全員が、薄々気付いているが、それでも誰も口にしない疑問をあっさりと口にしたのだった。
先の大戦からの戦訓を取り入れて開発されつつある各種装備、それを日本が同盟国に内情をさらけ出してでも早急に実戦配備しようとしている。その理由を考えれば、それは戦争準備以外の何者でもなかった。
「多分欧州でしょうね。」
梅津もさらりと口にする。
カニンガムは驚いたように繭を吊り上げる。
「北の熊とお思いでしたか?」
それはそうであろう。
大日本帝国はアジアの強国であり、欧州各国との地域的な利害は少ない。むしろ、国境を接していると言えば、ソ連であり、太平洋を挟んだ米国、そして欧州列強の植民地であるアジア諸国と考えるのが普通である。
 日本が大英帝国と事を構える気が無いのは明らかである以上、欧州各国の植民地における戦闘は自殺行為に近い。となると残るはソ連か米国だが、米国との関係は満州地域での市場開放により良好に推移している。勿論英米対立と言う軸で見るならばまた違う見方が無いわけでもなかったが、今の時点で予想できる範囲では戦闘が発生する可能性は低い。
 これに対してソ連は潜在的な脅威としては日本にとって非常に危険な存在である事は間違いなかった。何しろ、両国の間には満州地域と言うたっぷりと蜜のかかったおいしそうなケーキが横たわっているのである。ソ連が手を伸ばしたくなる理由は十分すぎる程あった。
「かの国との紛争ならば、帝国と満州地区の武装監視団、まあこれは中国軍そのものですが、で何とかなります。いや、何とかします。少なくとも帝国がソ連に攻め込むつもりも無いですし、なんと言っても防御戦闘でしかありません。勿論戦闘は激しいものとなるでしょう。兵力が凄いですからね。」
「それに・・・」
梅津が再び辺りを見渡した。
既に部隊の上陸は、最初の敵前上陸から、後続の部隊の上陸へと移行しつつある。
「このような上陸作戦も可能な部隊が必要とされる戦場でもないでしょう。強固な陣地と、強力な砲火力、これが支配する戦場です。なんと言っても、攻勢に出たくても、補給が続きません。どこまで攻め込めば良いのか判らない戦場にこのような部隊は向きません。」
「勿論、将来帝国が、このような浸透部隊を師団規模で、10個師団も持てばその時は違うでしょうが、そのつもりもありませんし。」
「それで、欧州か。しかし、そうすると、日本帝国のメリットが更に判らなくなる。一体独逸と戦って、帝国にどんな利益があるのかね。」
カニンガムは更に危ない事を平気で口にする。
流石にこれには全員が驚き、ざわめきが広がる。
最も、この島には現在帝国総軍と英国軍しかいないので、防諜上の理由は無いのだが、それでも大胆すぎる発言と言えよう。

110shin:2006/11/28(火) 13:12:01
「確かに、一見すると欧州の戦闘に帝国が参戦する理由は無いように見えますが、果たしてそうでしょうか。」
ここからが、正念場だった。
わざわざインド洋の孤島を選び、帝国総軍の大規模演習までお膳立てを整えて、英国将校団を引っ張り出した理由がこの先の自分の話術にかかっているかと思えば、梅津も思わず脂汗が浮かんでくる。
やっぱり、井上に話さすべきじゃなかったかな・・・
勿論、陸軍将官に納得させる以上自分でなければならないのは梅津も理解はしていた。理解はしているが、なんで俺なんだと思わざるを得ない。
「先の大戦で、一番の利益を得た国がどこかを考えて頂きたい。」
「そう、米国です。そして米国の台頭により、相対的に地位の低下を引き起こしたのが、失礼ながら大英帝国と言えるのではないでしょうか。」
最早、会話の内容は政治に移っている。
「のと」が現れる以前ならば、梅津自身、このような発想は間違い無く出てこなかっただろう。
それを自分が話している事に、何とも言えない皮肉が湧き上がる。
梅津はそんな感情を押さえつけ、話を続ける。
「先の大戦が、不十分な形で終了した結果、現在の欧州情勢を見ていても、再び戦乱が巻き起こる可能性が高いことは、ご理解頂けると思います。」
全員が頷く。
流石に、政治家と違い、軍人は他国の軍の動向を中心に物事を判断する。
独逸がいつ再軍備を始める事になるのかは、全員が固唾を呑んで見守っている事だった。
「結果として再び戦乱が巻き起こったときに、それによって一番の利益を得る国はどこになるとお考えですか。」
「それは、やはり米国であろう。実際戦場から遠く離れており、暫くは欧州各国でお互いが疲弊するまで戦闘を続けさせる。そして最終局面で勝ちそうな国について参戦すれば、利益は莫大なものになろう。」
カニンガムが自分に言い聞かせるように答えた。
「その通りだと我々も考えております。実際に戦闘が始まってしまったら、どちらの陣営も結果が判っていても、その国力を頼りにする以外方法は無いでしょう。」
「確かに、敵に回すと厄介な国だからな・・・」
カニンガムは更に考え込む。

111shin:2006/11/28(火) 13:12:39
「一方帝国は、先の大戦でも英国側に立っていながら、決定的な戦闘に参加する事なく終戦を迎えてしまいました。」
「結果として、最低限の寄与で、アジア各地の権益を得ることは出来ましたが、それでも帝国の根幹とも言える英国の同盟を解消する羽目になっています。」
「しかし、今はこうして・・・」
「ええ、確かに。しかしそれは、非常に危ういところでした。」
梅津は真っ直ぐにカニンガムを見つめた。
一歩間違えば、数年後には目の前の英国将校達と戦う羽目に陥っていたのだ。
それが判っているだけに、梅津も余計真剣にならざるを得ない。
「わが国は、英国との同盟を解消し、全方位外交に移行しようとしました。世界中と仲良くする。それは、非常に聞こえの良い言葉です。だが、現実は違います。誰とも喧嘩しないと言う事は、逆に言えば、誰も助けてくれないと言う事です。」
「世界は、決して仲良しクラブではありません。否が応でも利害が対立する国が現れます。その時、どのように対応するのかが問題です。」
「全方位外交は、孤立政策に陥ると言うことだな。」
「ええ、そうです。大日本帝国は、アジアの列強ではありますが、世界の列強ではないのです。孤立政策が出来る程の国力もありません。一時はこのことを取り違え、後一歩で危険な方向へ向かう所でした。」
カニンガムの瞳が光る。数年前に、何らかの政変で、日本と言う国家が方針を大きく変えた事は彼も知っていた。そして、目の前の将官は、その時の政変の中心にいた人物である。それ故、彼もわざわざインド洋まで派遣されているのだった。
「要はわが国の国力をどのように判断するかの問題でした。列強として独自の政策を打ち出して行けるだけの国力がある国家なのか、そうでないかです。」
「多数意見は、十分な国力があるとみなしたのかな。」
梅津は思わず顔を歪める。
大英帝国も、偉い人物を派遣してきたものである。
流石に、「のと」資料では後の陸軍総長を務めるだけの人物である。
「ええ、残念ながら、おっしゃる通りです。対ロシアとの戦争での勝利、先の大戦での欧米列強の弱体化に、体勢はほぼそちらに傾きました。そしてその結果が、大陸への進出でした。」
これを話すとどうしても苦いものが感じられる。
「のと」資料を分析した後だから、これがどのように愚かな選択かは理解できるが、あれが無ければ、梅津自身も含め、誰も異議を挟むことの無い選択だったのだった。
「中華大陸への進出により、アジア地域での独立勢力の確立、それは十分な国力があるならば、素晴らしい発想だと、多かれ少なかれ、ほぼ全員が考えた事でした。」
「ふむ、非常に興味深い・・・しかし、どうしてそれを諦めたのかな。現実に大日本帝国は、ロシアとの戦争にも勝利しており、列強の一員として遇されていたのではないかな。」
「わが国の中心におられるお方が、唯一異議を唱えられたからです。」
カニンガム以下英国将校団にざわめきが起こる。
君主の一言で、国策が変更されるならば、それはそれで大きな問題を引き起こす事に繋がるのも事実である。

112shin:2006/11/28(火) 13:13:14
「勿論、わが国も立憲君主制を取っていますので、それだけでは国策が変わるものでもありません。」
梅津は慌てて懸念を打ち消す。
「国策の行方に懸念を示されたかの方は、政財界、軍、民間からなる諮問機関の設立を行われました。当時の中堅・若手から選抜された要員から成り立つ総力研究所がそれです。不肖小職も、その一員に任命されたものです。」
「我々に命ぜられたのは、非常に漠然としたものでした。」
梅津はここで言葉を切る。
さあて、どこまで本当らしく見えるか・・・
「将来を占えと言う事でした。」
英国将校団の全員が唖然とした顔を向ける。
「勿論、天星術などの占いではありません。いわば現状分析から将来を予測しろと言うものでした。」
「我々要員は、途方にくれました。将来を予測するなんて出来る筈もありません。結果として編み出したのが、なんと言いましょうか、ロールプレイと言う手法です。」
「それぞれの要員が、可能な限り集めた資料を基に、各国の役割を果たし、政策を実行して行くと言う手法です。勿論、完璧なものではないですから、その結論は毎回違ってきます。唯・・・一つだけ確かな事がありました。」
「現状の中華大陸への進出の結果が、どのような国策を取ろうとも、帝国の衰退を指し示していたのです。そう、誰が帝国を担当しようが、そのプレイヤーは、必ずどこかで他の列強との軋轢に直面します。それはロシアであり、米国であり、時には大英帝国、最悪の想定では全列強との軋轢すら発生しました。」
梅津は黙ったまま、全員を見渡す。
帝国側にも、総研の実際を知らない連中もいる。彼らも唖然として梅津の話に引き込まれていた。
「現状の国力が全ての原因です。要は、この世界で帝国が独自政策を打ち出すには、その規模が十分でないという事でした。」
「それで、英国同盟かな?」
「いえ、事はそう簡単に運びませんでした。」
カニンガムの顔に怪訝そうな顔が浮かぶ。
「一つには、国内の反対勢力の存在、そして、もう一つは米国の存在です。」
「国内の反対勢力に対しては、まあ、あれですが、米国の存在は非常に厄介なファクターとして浮かび上がってきました。」
「ふむ、それは理解できるな。」
「と言うと?」
「そりゃそうだろう、先の大戦でも明らかなように、戦場はユーラシアだ。アメリカは、戦場から遠く離れた後背地として十分な生産拠点の役割を果たせる。ユーラシアのどの国でもそこに攻め込もうと思っても、広大な大洋がそれを阻害する。」
「逆に米国から見れば、ユーラシア大陸での戦乱に乗じるのは容易い。欧州ならば、英国やどこかの国と同盟を結び、そこから攻めあがれる。アジアだと既に彼らはフィリピンを策源地として所有している。」
「おっしゃる通りです。我々の分析でも、米国の存在が全てをぶち壊しました。」
「日英同盟では対抗できないと言うのかな。」
「ええ、まあそれに近いですね。要は米国を同盟に組み込んだとしても、かの国が拡大政策を選択した場合、良くて保護国、最悪の場合、他の列強から攻められて国土は灰になります。勿論、米国が最終的には勝利するでしょうが、その時には、帝国はボロボロになっています。」

113shin:2006/11/28(火) 13:14:05
「地勢上の問題だな。」
「ええ、日本がアジアの端にあり、大洋の向こうには米国が控えていると言う地理上の状況が変わりませんから、どうしてもかの国が拡張政策を取れば真っ先にぶつかります。」
「しかし、それは英国も同様ではないかな。」
「確かにそうです。しかしながら、英国は日本より遙に大国です。それ故、英国がその国力を急激に減少させない限り、条件は違います。」
「あるいは、日本が大国になるかだな。」
「ハイ、しかしその方法としての大陸進出は、早期に潰されます。」
「ふむ、良くそこまで分析したものだな。たいしたものだ。」
「ありがとうございます。」
「で、その結論が欧州での戦乱への早期介入に繋がる訳だな。」
さすがに、切れる。そこまで話してもいないのに、もう結論を言い当てていた。
「そうです。日英同盟の堅持と、欧州での戦乱の早期解決。それも米国が介入する以前に全て終らせる必要があります。」
「ふむ、その先はどうするのかな。」
「それは・・・まだ・・・」
実際には、その先もある程度検討はしているが、まだまだ話せる段階ではない。
「まあ、政治の問題ではあるな。そこから先は・・・」
「で、軍略ではどう考えているのかね。」
「どのタイミングで戦争が勃発するかは判りませんが、その為の準備として、このような軍団の整備を日英主導で実施します。」
ここまで、黙っていた山口が始めて口を挟んだ。
「帝国では、4軍の整備を目指しておりますが、当面の緊急即応部隊としては、二個軍、勿論それ用の輸送艦も同時に整備する予定です。」
「満州地区での停戦監視団で更に一個、ここまでは帝国が独自に整備する軍団と考えております。後は、英国でどの程度の整備が可能かとなります。」
「どの程度を要求するつもりかな。」
「ええ、この先は英国本国に到着してからの相談となるでしょうが、出来れば英国国内で一個、インド方面で一個、そして更にオーストラリア・ニュージーランドでもう一つ、併せて三個軍団の整備が望ましいと考えております。」

114shin:2006/11/28(火) 13:14:38
「全部で六個軍団の整備か、それは凄いな。」
「ハイ、それだけの軍団が用意できれば、緊急対応軍として世界中どこでも2ヶ月以内の対応が可能となります。但し、同時に武器弾薬の集積、最低でも六個軍団が四か月分継続して戦闘できる備蓄も必要となります。」
「損耗率はどの程度、と見ているのかな。」
「人員は月一割、兵装は2割です。」
「妥当な線かな。」
「ええ、そう思いたいのですが、何せ20世紀に入ってからは、消耗率が著しく増加傾向にありますので、もう少し余裕は見ておきたいです。」
「で、本当に日本帝国は、欧州にその部隊を派遣できるのかな。」
「ハイ、動員命令がかかりましたら、そこから2週間で部隊の準備、スエズを通過できれば、40日以内に指定のエリアに部隊を展開する覚悟です。」
「ほお、それは凄いな。」
カニンガムの顔に鋭い笑みが浮かぶ。
「そこまで、英国を信頼できるのかね。」
「いえ、それは違います。」
梅津が再び答える。
「帝国は英国を信頼している訳ではありません。イヤ、勿論信頼はしていますが、どちらかと言えば、失礼ですが貴国にも他の選択肢は無いと考えております。」
カニンガムは怪訝な顔で先を促した。
「帝国が、米国の保護国に堕ちるのを阻止する事は、英国にとっても同様です。勿論英国は簡単には屈服しないでしょうが、長期的には状況は同様に推移するものと考えています。」
「大英帝国も、同様と言うことか。」
「ええ、英国や日本国と米国とでは、国内が戦場になる可能性が全く違いますから。」
「そうか、そうかもしれんな。」
カニンガムは感慨深げに内陸部に侵攻してゆく帝国軍の将兵を眺めながら、頷くのだった。

115shin:2006/11/28(火) 13:15:08
「あそこまで、英国将官に話をして良かったのでしょうか。」
長い上陸演習が終了し、最上に戻ると、神は山口に問いかけた。
「しかたあるまい、我々も含め、軍人は非常に保守的だからな。はっきりと見せてやらねば納得はしないだろう。」
「それは、理解できます。しかし、政治まで含めて話す必要はあるのでしょうか。」
「軍人は政治に口を出すべきではないか。」
「ええ、」
「それは違う。政治に口出しするのは良くないが、政治を知らないのは更に悪い。軍は戦闘に勝てば良いと言うのは、精々下級将校までだ。少なくとも我々将官は軍事と政治の連携を忘れてはいかん。」
「そう言うものでしょうか。」
「ああ、残念ながらね。実際、今回我々は軍として派遣されているが、更に突っ込んだ説明が、ロンドンにおいて、政府高官、経済人に対しても行われているのだよ。」
「エッ、そうなんですか。」
「ああ、井上さんは今、英国にいるはずだ。政財界の要人何人かとね。」
「了解しました。」
神が感銘を受けたように、返事をする。
「おいおい、貴様もいずれはこのような役割を果たす必要があるのだぞ。最早、戦争だけを考えていては、軍人は務まらん。戦闘結果がどのように政治につながるかまで検討できなくては、帝国は生き残れん。」
「は、申し訳ございません。」
神が益々萎縮したように身を固くする。
とは言え、山口自身も素直に納得している訳ではなかった。
ほんの数年前までは、このような世界が来るとは思いもしなかった訳であるが、「のと」資料に目を通して以来、考えは変わらざるを得なかった。
俺も、生意気なことは言えんか・・・
山口は、苦笑を浮かべ、熱帯の夜の闇を見つめるだけだった。

1936年5月、満州地区の大連で、日英共同出資による新しいトラクター工場の起工式が実施された。そして、同タイミングで、オーストラリア・インドでも新しいトラクター工場が設立された事は、殆ど話題に上らなかった。

116shin:2006/12/01(金) 12:24:07
「ルーズベルトが落選したよ。」
「本当か・・・」
高畑にそう言われ、井上は何とも言えない顔を浮かべた。
勿論井上も、その可能性が高い事を知ってはいたが、現実に歴史が大きく変わった事を象徴するような出来事に驚かざるを得なかった。
 米国は1929年の大恐慌以来立ち直れないまま、7年が経過していた。ルーズベルトが大統領となり実施した大規模公共事業は、何らカンフル剤とはならず、それどころか連邦財政を悪化させるだけであった。「のと」資料では本年1936年10月には完成し、選挙戦の目玉となる筈だった、フーバーダムはまだ6割程度の進捗率で、完成は来年以降にずれ込む有様だった。各地で発生する労働争議、所謂ストは益々大きな規模となり、ルーズベルトが打ち出した労働基準法の制定も、逆に労働者の権利を抑制するものと批判すらされるありさまだった。
 総研による米国生産設備の買収と、新たな投資地域として脚光を浴びている満州地区の存在が、連邦政府の景気浮揚策をすべからく無意味なものへと変化させていたのだった。民間の投資家は米国内での新規事業に対する投資よりもハイリターンが見込める満州地区への投資に積極的であり、既存の財閥は争うように新たな市場である中国の生産拠点としての満州で合弁事業を立ち上げていた。
高畑らが主導する総研の政策も巧妙であった。帝国内の既存の財閥を説得し、時にはお上の威光も使い、米国大企業との合弁事業を立ち上げる。そして米国向けの大型輸送船の建造と輸送費の引き下げも行い、米国製品を米国本土よりも遙に安価で生産できる地域として満州を米国財閥に売り込んだのである。
 その結果、例えば最初は日本国内で始められていた帝国フォードによる、部品を輸入し、組み立てるノックダウン方式での乗用車の生産は、あっという間に満州地域に新たに設立された満州フォードに移行していた。そして、その部品ですら米国生産品と同様の品質のものが、本土からの輸入よりも遙に安価で日本で手に入るとなると、部品の殆どの生産は日本に移っていた。それはそうである。米国の工場をそのまま日本に持ってきているのであるから、品質に狂いが生じる事は殆ど無かった。
 表向き、いやその実情も、部品の設計や研究開発機能は米国内にあり、日本の工場は言われるままに部品を製作するだけであり、日本と言う下請けを上手く使い、賢い米国企業が利益を独占していると言う構図が出来上がっていた。
 確かに、満州地区に生産施設を抱える米国企業は軒並み黒字であり、その税収も増加の一途を辿っており連邦政府も何がおかしいのか未だ把握出来ていなかった。
 しかしながら現実には米国内での産業の空洞化が猛烈な勢いで進展しているのだった。そう「のと」資料を縦横無尽に利用した、岸伸介等の若手経済官僚が主導する帝国の経済政策は着実にその成果を上げつつあった。

117shin:2006/12/01(金) 12:24:47
「では、米国大統領は共和党のアルフ・ランドンか。彼に関してはのとの資料でも殆ど触れていない人物だな。」
「ああ、少なくとも選挙方針は「小さな政府」、「古き良きアメリカ」だ。」
「モンロー主義か、これで大戦が起こっても益々アメリカの参戦は遅れるな。」
「いや、そうとも言えないだろう。政策が破綻すれば、それを糊塗する為に海外に目が向くのは誰が大統領になっても同じじゃないか。」
「少なくとも計画に変更は無いな。まあルーズベルトよりはやりやすいか。いや、そうとも言えないな。ランドンに関してのデータが少なすぎるな。」
「そうだな。まあ帝国の政策に変更は無い。この先もどこまでも足掻くしかない。この先の見えない世界でね。」
 既に様々な面で「のと」資料とは違う歴史が展開している事は理解していたが、メインプレイヤーそのものが変わるのはこれが最初の出来事だった。
 二人はその重みを受け止めるように、何時までも無言で佇むのだった。

118shin:2006/12/02(土) 14:17:09
「もうじき、大村第三飛行場です。」
「ああ、ありがとう。」
いつの間にか、狭い後部座席で寝てしまっていたようだ。
旅順で乗り込んだ、新型機の後部座席は狭く、まさか寝られるとは思っていなかったが、相当疲れていたようで、ぐっすりと熟睡してしまったようだった。
時計を見ると、まだ二時間程しか経っていない。
さすがに、新しい飛行機は早い。
たいしたもんだ・・・
緊急の呼び出しに、軍が用意した航空機は、二人乗りの見るからに新しい機体だった。
絞り込んだような胴体から伸びる両翼に付けられた双発のエンジンが如何にも速度の出そうな機体だった。
よほど急いでいたのか、副座の後部座席に高畑が身体を押し込めるや否や、機体は急加速で発進する。
その後も、機体は高速を保ちながら、一路日本を目指して飛行して行く。
「凄い飛行機だね。」
高畑は、大きな声で前の操縦者に話しかけた。
喉のところに付けられたマイクが声を拾うから大きな声を出す必要が無い等と言うのは素人の高畑には判りようも無い。
「ほんま、凄い飛行機でっせ、この新型機は。と言うても、まだ増加試作の段階ですけどね。」
「えっ、そんなに新しいのか。そんな機体に僕みたいな素人が乗って良いのかい?」
「素人と言いはっても、高畑さんと言えば、総研の方でっしゃろ。それもかなり上の。大丈夫なんじゃないですか。」
 大阪弁で話しかけられると、突然、日本に帰ってきたんだなと思ってしまう自分に、高畑は苦笑を浮かべる。
確かに、日商の本社は神戸にあるので、それも仕方ないかなとも思う。
外に出た関西出身者には二通りのタイプがある。
一つは、他の方言と同様に、標準語に切り換える者、そしてもう一つは、頑なに大阪弁で通す者。
この村田と言う大尉も後者の方らしかった。

119shin:2006/12/02(土) 14:18:28
「この先は、お迎えがありますので、驚かんといてください。」
村田大尉が徐々に高度を落としながら、そう話しかけてきた。
すると、それに合わしたかのように、前方上方から、小さな点が二つ迫ってくる。
点と思ったものは、飛行機だった。
先端が尖ったどちらかと言えばスマートな機体が見る見る迫ってくる。
あっという間に大きくなると思うと、そのまま真っ直ぐ突っ込んでくる。
えっ、ぶつかる!
高畑は思わず身を堅くする。
その瞬間、二機の戦闘機は、大きく左右に分かれて、旋回して行く。
「ほんま、あいつら、ここに来る飛行機にはみんなこれをやって、びびらすさかいなあ。」
「何をおっしゃいます、村田大尉、あなたが始めたんでしょう。お帰りなさい。」
突然、耳に着けたイアフォンから誰かの声が聞こえてきた。
「こらっ!坂井、私語は厳禁やぞ、なに言ってんねん。ただいま。」
「お疲れ様です。どうですか、その新型司偵は?」
いつの間にか、左右には二機の飛行機が、並んでいる。
「ああ、中々のもんやぞ。ほんまに早いわ。それに機体自体も素直やしな。」
「へえっ、楽しみですね。おっと、大尉、そろそろ着陸です。先導します。」
「へいへい、宜しゅう。」
並んで飛んでいた二機の戦闘機は、それぞれ前後に動き、高畑の乗る機も含め、一本の線上に並びながら、高度を落として行く。
後部座席なので、前方は見えないが、左右には広大な森が広がっている。
こんなところに飛行場があるのかと、高畑が思っていると、突然周囲からの音が変わった。
えっ、と思い、左右をよく見ると、森がいつの間にか絵になっている。
その絵が流れるように後方に抜けたと思うと、ガクンと言う強い衝撃で、高畑は機が着陸したことを知った。

120shin:2006/12/02(土) 14:19:58
機体は所定の位置まで、自力で走って行くと、すぐさま整備員が駆け寄ってきた。
風防が開けられ、高畑は引き上げられるようになりながらも、機体から地面に降り立った。
まだ地面が揺れているようで、思わず膝が笑いそうだった。
何時間も、こんな状態で、飛び回っているパイロットって一体なんて連中なんだ・・・
漸く、高畑も余裕が出来、辺りを見回す。
確かに、広い飛行場だと納得できる風景が広がっていた。
滑走路は普通の飛行場の何倍もありそうで、延々と続いているように思えた。
それぞれ飛行機をしまったり、整備をしたりしておく建物や、管制塔らしきものも見える。
ただ、それらがの建物が、全て緑を中心としたまだら模様に塗られているのが、異様だった。
迷彩塗装は念の入ったことに、コンクリート張りの地面にまで及んでいる。
高畑が、あきれ返った顔で、辺りを見回していると、迎えだろうか、建物のある辺りから、一台の車が近づいてくるのが見えた。
 何だか、車と言う割には、屋根が無く、トラックかと思ったが、それにしては小さい。確か、「のと」資料で見たジープとか言う車に似ていなくも無い。
屋根が無いので、乗っているのが、運転手一人だけだと言うのが判る。しかも、近づいてくるにつれ、それが誰だか判り、高畑はここでも驚かされる。
「東条さん、何であなたが、車の運転しているんですか?」
「おお、高畑君、久しぶり。元気にしていたかね。」
車が高畑の横に止まると、東条がニヤリと笑みを浮かべ、こちらを見る。
「はあ、何とかやっています。」
高畑は唖然としてそう答えるしかなかった。
確か、今は少将で、統合作戦本部運用部部長についていた筈である。
そんな偉い人が自分で嬉しそうに車を運転して、しかもどうやら高畑を迎えに来たらしい。
「どうして、私の迎えに、貴方が出てこられるんですか?」
ぶつぶつ言いながらも、高畑は助手席に乗り込む。
ガクンと車がノッキングしながら、走り出す。
思いっきりアクセルを踏み込むので、危なっかしい。
「いや、今誰も手が空いて無くてな。幸い、小職が一番余裕があったのでな。」
「はあ・・・」
この人に、こんな一面があったなんて・・・
確かに、前に大慶油田を見に行った時も、自分で率先して動いていたのを思い出す。
「しかし、いつ車の運転なんか覚えたんですか。」
吹きさらしの中、東条に聞かすため、高畑は声を大きくする。
飛行機の中では、高性能の無線機があり、普通に話しても十分聞き取れたのに、それよりも静かな地上の車の中のほうが、叫ばなければならないのが、奇妙に思えた。
「うーん、月の半分位は、こっちに来ているので、その合間にな。なにせここは秘匿基地だから、満足な従卒がおらん。それに、車の運転も覚えてみると、中々面白いぞ。高畑君、君はやらんのか?」
「いや、運転は出来ません。いつか暇になったら覚えましょう。」
「ハハハ、君が暇になることなんてあるのかい。」
どういうわけか、高畑はこの人に好かれているらしい。
良く分からないが、大慶油田の件で気に入られたのかも知れない。

121shin:2006/12/02(土) 14:21:55
そのまま、車は飛行場を抜け、森の中を走り抜けて行く。
暫く行くと、これもまた擬装された、二階建ての建物が忽然と姿を現した。
車は建物の地下へ降りるスロープを下り、入り口付近に止める。
二人が車を降りると、慌てて、兵隊が駆けてきた。
兵士は東条に略礼し、車に乗り込んで行ってしまう。
絶対に、誰もいない筈無いじゃないか・・・
ぶつぶつぼやきながら、東条に続いて中に入ると、エレベーターホールになっていた。
二人が乗り込むと、エレベーターはそのまま下に向かって降りてゆく。
「地下なんですね。」
「ああ、ここは非常時の指揮中枢だからな。」
エレベーターが開くと、長い廊下が続いていた。
「いったい、何があったんですか?」
二人は暫く無言で歩くが、我慢しきれなくなった高畑が問いかける。
「ここで、話す訳にもいかんだろう。なに、もう直ぐ着く。」

高畑も、このような施設を作ると言うのは以前から聞いていた。
しかし、実際にここに来たのは始めてである。
大村産業集積地帯に面した山を越えた一帯は、生物学者でもある陛下が、自然に配慮されて、それらの土地を買い上げ、御料地として保護すると言う事となった。地域の住民が退去させられ、立ち入り禁止の地域の指定がなされると、興味を持つものもおらず、豊かな森が広がるだけだった。
それは建前であり、現実には保護地の中に、「のと」資料の応用研究施設が作られている。否、「のと」に関連する各種兵器・機器類の研究施設を秘匿施設として建築して行くうちに、そうなってしまったと言う方が正しい。
電子機器の研究施設のように産業集積地帯の中に紛れ込ますように作られた研究所もあったが、大概の施設はある程度その施設そのものを秘匿するために、集積地帯から距離を置かれて建設された。
当初は、それらしい建物に、民間企業の施設の名称を挙げる程度の偽装がなされていたのだが、直ぐにそれでは隠蔽できない事が明らかになった。
何しろ、各施設は年々拡張しており、それぞれの施設に通じる道路の建設も必要となってくる。
特に、外部からの物資・人員の輸送等は、日毎に増え始めており、注意すれば直ぐに気がつかれてしまう。
この結果、各施設そのものを完全に隠蔽すると言う方針が採用され、施設への人員や物資の搬入は、少し離れた所に建設される軍の施設からに限定された。
昭和10年にもなると、施設は、現在の水準を上回る工作機器を据え付けた工作場、試験用に張り巡らされた各種電探電信施設、ある程度までは、兵器の試験が可能な試射場、「のと」の船体そのものが設置されている港湾施設、そして航空機の発着が可能な飛行場まで備えた一大秘匿施設へと発展することとなった。
 こうなると、この施設を統合作戦本部がほおっておく訳も無い。
施設の一画を改造し、そこに非常時の指揮中枢の建設が密かに開始されていた。
 ここまでは、高畑も総研メンバーである以上、良く知っていた。それどころか、またぞろその費用の捻出に走り回ったのは高畑自身である。
とは言え、実際にどのような施設になっているのかは、知る由も無く、今回緊急の呼び出しで始めて目にしたのだった。

122shin:2006/12/02(土) 14:22:51
まだ真新しいコンクリートの廊下を抜けると、少し広くなった踊り場に出る。
ここには警備の兵士が待機しており、東条に敬礼してくる。
それでも、彼らは東条の取り出す身分証を見て初めて、道を開けた。
そして、高畑に対しては、横の棚に置かれたファイルを取り出し、高畑と見比べる。
「失礼します。総研所長付きの高畑殿ですね。少し質問させて頂いて良いでしょうか。」
軍人にしては、口調が丁寧だと驚きながらも、軽く頷く。
「高畑殿が鈴木商店ロンドン支店長をお勤めだった当事に、現地で採用された二人目の秘書のお名前は何でしょうか?」
「えっ、あの頃の秘書・・・サマンサ、否、二人目ならばマリアの事かな。」
「ハイ、ありがとうございます。もう一つ。高畑殿が中等部に在籍中の同級の、山咲氏のあだ名をお願いします。」
「あだ名あ・・・デコ・・・か?」
「ハイ、ありがとうございます。お通り下さい。」
二人の兵士は左右に退き、東条が扉を開け、中にいざなった。
「何なんですか、あの質問は?」
「うん、中々良いだろ。本人確認の為の方法としては。」
「いや、そんな事じゃないでしょう。どうして、ここまで入ってきてセキュリティチェックがあるのですか。そんなのもっと前でやるべき事でしょう。」
東条が苦笑いを浮かべる。
「まあ、仕方あるまい。今回は初めての総研主催の全体会議だ。統合の情報部もその存在を示したいのだろう。」
総研の会合に、どうして統本情報部が絡んでくるんだ・・・
ブツブツぼやきながら、高畑は促されるまま、中に入る。

123shin:2006/12/02(土) 14:25:43
東条に連れられて会議室に入り、高畑は息を呑む。
勿論、高畑は会議室にいる殆ど全ての人々と面識があった。
しかしながら、そのメンバーが全員揃っているのを見るのはこれが始めてである。
井上、梅津、八木、高柳らがいるのは当然として、普段は殆ど交渉も無い、濱口首相以下、政府関係者、統合作戦本部の部長クラスを勤める軍人、そう現在の帝国を運営している要員が全て集まっていたのである。
これじゃあ、東条さんが迎えに来るのも仕方ないか・・・
そんな事を考えながら、高畑は促されるまま、会議のテーブルにつく。

「それでは、全員揃ったようですので、総研所長による緊急招集会議を開催致します。進行役は、所長の指名により、小職が勤めさせて頂きます。宜しいでしょうか。」
全員が頷く。
「本日の会議の目的は、二つあります。一つはこの召集が可能かどうかの訓練です。これは、個々におられる皆様方が、無事比較的短期間にお集まり頂けた事で、目的は達成しております。尚、統本情報部の協力の下、全員が密かにここに集まっておりますが、一応対外的にはここにはいないこととなっており、別の場所にいるという、所謂不在証明的な隠蔽工作は行われております。」
井上は、そこまで説明して全員が理解するまで一呼吸置いた。
「良いかな?」
「ハイ、どうぞ。」
濱口首相が口を挟む。
「井上君達、総研のメンバーがそこまで秘匿に拘る理由は何かね。確かに、これだけのメンバーが一度に介するとなると、目立たぬように留意は必要だろうが、ここまで徹底する以上、よほどの理由があると思うのだが。」
「ハイ、おっしゃる通りです。これはもう一つの目的とも関わりがありますが、国内よりも列強に対する情報対策がその主な理由です。」
井上は、堀情報部部長を見る。
「私から説明致します。」
振られた堀は、表情を変えずに話し始める。
しかし、付き合いの長い井上にすれば、堀部長が目で一つ貸しだと言っているのは良く判り、軽く頭を下げる。
「「のと」資料の分析から、わが国の防諜体制が非常に甘いものであった事が明らかになっております。特に、暗号通信に関しては、各部門間での機密の取り扱いの差から情報の漏洩が指摘されておりました。」
「それは、十分に承知しているが、それに対しては、かなり防諜面では厳しくしたのではないのかね。」
幣原外相が、怪訝な顔で問いかけてきた。
何せ、外務省から軍事情報が漏れていたと言う事実を突きつけられた結果、以前と比べてかなり外務省は情報の漏洩には神経質とも言えるくらい気を使っていた
「ハイ、確かに、暗号関係や、機密文章の扱い等は、以前とは格段の進歩が見られており、その方面での防諜レベルは格段の進展が見られております。しかしながら、帝国人は日本語と言う言葉は、他国の人間には判るまいと考えがちで、日本人同士であれば、平気で秘密を話していても大丈夫とすら考えてしまいがちです。そして、この方面の防諜対策は非常に難しい問題を含んでいました。」
多くのものが、怪訝そうな顔で、堀を見つめる。
「文章や通信に関しては、全体の規制の統一で、防諜レベルを上げることは可能ですが、個人間の付き合いの段階、いや、勿論疑わしき人物に対する調査等は情報部に限らず、特高等でも実施していますが、このような段階での情報の漏洩を全て抑えるのはほぼ不可能です。」
「要は、友人まで疑いだしたら、切りが無いと言う事か・・・」
「ハイ、そうです。勿論私も含め、皆さんが「のと」に関する情報を知らない人間に話すことはありませんが、相手が知っている、情報ランクが自分と同じと考えてしまう事は十分起こりえます。」
「情報が漏れたのかね。」
ぼそりと呟くように、核心に切り込んできたのは、吉田茂だった。
現在は、統本の外務省担当として、情報ランクが上位に入りだした人物だった。
「ええ、その通りです。最も、誰が漏らしたとか言う話ではなく、あくまでも各種の情報を総合した結果、「帝国が、何か途方も無いものを手に入れた」と言うレベルですが、列強各国の内、米国、ソ連、独逸、そして英国が真剣に動き出しています。」
会議に出席していた全員が、深刻に黙り込む。

124shin:2006/12/02(土) 14:27:00
確かに、帝国の動きは列強の国々からすれば、信じられない程鮮やかなものに見えるであろう。
何せ、各国が不況に喘ぐ中、好景気に沸きかえっている。
ある程度までは、東洋のミラクル、アジア数千年の歴史等のたわごとで、ごまかせるであろうが、流石に、原因があると考える人間が出てくるのは仕方ない。
「結果として、「のと」に関する総研と外部機関との会合は、可能な限り秘匿すると言う所長の判断で、このような回りくどいやり方を取りました事を皆様にお詫び申し上げます。」
井上が、頭を下げ、堀の言葉を引き継ぐ。
「で、情報が漏れたと言うだけでは、このような大げさな会合が必要な筈もあるまい。本当の理由を話してくれても良いだろう。」
二年前から国防総省長官(本人は嫌がったが)を勤めさせられている、永田が少し、怒ったように問いかけてくる。
それはそうである。
首相や、外相、そして彼本人も含めて、情報の漏洩に関する話は、以前から聞いている。その為に、総研との会合が、このような秘匿方法を取ることとなった事も、了承済みである。
しかしながら、今回の会合に関しては、その直前まで、彼にも知らされていなかったのだった。
自分の足元で、密かに知らない動きが生じていると言うのは気持ちの良いものではない。
しかも、彼自身、陸軍の縮軍に関わっているだけに尚更である。
「英国に対する「のと」情報の開示の可否です。」
梅津が、苦虫を噛み潰したような顔で答える。
会議室にざわめきが広がる。
列強からの詮索が強くなってきている、特に帝国総軍との共同研究から、兵器の共同生産まで踏み込みだした、英国からの詮索は強くなっているのは、ここのメンバー全員が感じていた事実である。

125shin:2006/12/02(土) 14:28:35
最も、英国にとっても、新規開発分野である電子機器関連では帝国が独自に開発していたと言う言い訳は割合素直に受け取られ、高柳や八木が提供した、マグネトロンやアンテナに関しては、素直にその技術を賞賛している。
 しかしながら、問題となったのは帝国が紹介した新型の中戦車であった。

中戦車そのものは、40年に独逸が実戦に投入してくる四号戦車の後期型を参考に、ほぼそれと同等の性能を持つ戦車を目指し、開発されたものである。
何せ、目標のスペックが、30年代初頭に提示されていた事もあり、開発は予想以上に進展した。前面に40ミリの傾斜装甲を持ち、57ミリ長身砲を搭載した中戦車は、英国との共同生産分に関しては、鋳造砲塔の搭載すら可能となっていた。
 その中で特に問題となったのは、エンジンだった。
「のと」資料の分析結果から、総研が主力エンジンとして開発目標に据えたのが、ロールスロイスマリーンエンジンである。
1936年に、その初期型がスピットファイヤに積まれ、「のと」世界の大戦最高峰の戦闘機として位置づけられていたP51ムスタングには、このライセンス生産であるアリソンエンジンが積まれているとの資料を見れば、この選択も頷けよう。
特に、マリーンエンジンは、陸戦用にディチューンされたものが、のと世界では、戦後の英国製戦車に搭載されていたと記されていれば、その汎用性も魅力であった。
このため、32年には総研は日商を通じてロールス社に対して技術提携の契約を交わしていた。
その内容は、年間最低100台の液冷エンジンの購入と、帝国から技術者の研修派遣、そしてその見返りとしての資本提供も含まれていた。
しかも、この契約はあくまでも基本契約であり、購入した100台のエンジンの素性が良ければ更に追加の購入が行われる事となっており、実際に日商は年間500台以上の各種エンジンを購入し、様々な分野に転売していた。
これは帝国側にも、液冷エンジンを整備出来る整備員の長期的な育成と言う目的もあり、三菱や中島製作所等の航空機メーカーに格安で販売され、多くが国産の戦闘機のエンジンとして使われることとなった。
お蔭で、ロールス社も世界不況に関わらず、ある程度の売り上げを維持出来た事もあり、マリーンエンジンは「のと」世界よりも一年早くそのプロトタイプの製造に成功しており、帝国には35年初頭に供給される事となった。
そして、半年後には、帝国独自の改良を加えた車載用エンジンとしての発注が行われ、その初期型が英国派遣兵団の新型中戦車に積まれることとなったのである。
帝国側にすれば、英国との共同生産を目論んでいる以上、全てが帝国製の戦車ではなく、エンジンが英国製である点、また、砲そのものも英国の七ポンド対戦車砲の搭載が可能である等の点が、有利に運ぶものとの発想からこのような戦車を提供した訳である。
しかしながら、この余りにも日本的発想が、逆に英国内で大きな問題として取り上げられることとなった。
勿論、表面上はこのような事は一切出てこない。
実際、英国は来るべき大戦に向け、兵器生産の可能な限りの増大を図らなければならず、その為には、同盟国である帝国側からの提案は渡りに船だった。
何せ、本国以外での生産拠点を手に入れられ、しかも価格が遥かに安くなる等の利点は大きい。
その上、提供された派遣兵団の各種兵装は、新式の自動小銃も含め、英国の製品の水準と同等、あるいはそれ以上の性能を持っていたのである。
それから一年、両国の兵器の共同生産は順調にその生産数を増加させており、目標である六個兵団分の各種戦闘車輌、航空機、自動小銃から補給用トラックまでの整備は36年初頭には整いそうな勢いであった。

しかしながら、その裏で、英国政府首脳は、流石に疑いの目を強めていた。
確かに、帝国側が言うように、戦車のエンジンとして適切なエンジンの開発が遅れたため、たまたま手に入ったマリーンエンジンを流用したと言う説明は思い切った処置だが、あり得ない事はない。
だが、あまりにもそのタイミングが良すぎた。
そう、あまりにも帝国側の対応が良すぎると言う事が、疑問を生んでしまったのだった。
帝国を訪れる英国人は徐々に増加していたが、その中でも国内の情報機関が英国政府筋の諜報員であろうと目される人物の増加は更に著しかった。
これは、情報関係者が把握している人物に関してだけであるのだから、国内の防諜網をすり抜けた諜報員も多々いる事は間違いなかった。
そして、その多数の諜報員を使い、英国は、帝国が何か途轍もないものを手に入れている。
さらに、それが「のと」と言うコードネームで呼ばれていると言う事までどうやら知られてしまっているようだった。

126shin:2006/12/02(土) 14:30:02
「結局、あまりにも上手く行き過ぎたのでしょうね。」
梅津が、これらのあらましを語り終えると、井上が溜め息を吐きながら、そう呟く。
「英国は既に、知りえた情報から、帝国側が何か秘匿しているとの疑いを強めています。これに対して、総研内でも、対応策に苦慮しています。」
「方策は、二つ考えられます。一つは嘘を塗り固めて対応する。この方策には、「のと」の全てではなく、一部だけ発見物として提示し、英国との情報をある程度制限する道も含まれています。もう一つは仲間に引き込んでしまう。ここにおられる「のと」関係者の一員として英国首脳も巻き込み、今後の戦略立案に組み込んでしまう方法です。」
井上は参加者全員を見回しながら、言葉を続ける。
「小職は、後者の案を推しております。理由は、ある程度疑惑を抱えたままでは今後の同盟遂行が難しい点、また、今後の世界情勢への対応を考慮した場合、帝国のみの国策遂行では無理がある点。帝国は大英帝国のような世界帝国の経験も、今後の運営意欲も不足していると考えております。」
そこまで話すと、井上は梅津を促す。
「本官は、前者です。理由は井上とは反対に、大英帝国に「のと」情報を開示すれば、それは帝国の自主性の放棄に繋がると言う点です。これまでのように、帝国独自の政策の遂行は困難となり、更には英国の国策に引きずられてしまうと考えております。」
二人はそこまで話すと、黙り込む。
会議室の誰もがあっけに取られ、暫くは話し声すら起こらない。
「判った、要は総研でも、政策立案が出来ないと言うことだな。」
流石に、全員を代表するかのように、濱口首相が言葉をつないだ。
「はい、残念ながらその通りです。極端に言ってしまえば、総研の設立目的は、大戦による敗北を避けると言う点にあります。英国の取り扱いは、どちらを選ぼうとも、敗戦を避けると言う点では大きな違いはありません。
現時点において、英国が帝国との同盟を破棄する可能性はゼロではないでしょうが、少なくとも「のと」情報の取り扱いによって左右されることはないものと考えます。」
「うむ、戦後のわが国のありようの問題だな。吉田君、君はどう考える。」
濱口が突然、吉田茂に振った。
「私ですか。私ならば、全部開示しますね。そうしながら、まだあるかも知れないと英国には思わせとけば良いじゃないですか。どうせジョンブルの事ですから、誠心誠意の対応を見せても、疑って掛かってくるのは当然ですし、それぐらい交わせないで、国家百年を計れる訳もないでしょう。」
「ハハハ、そうだな。君の言うとおりだよ。よし、英国に開示しよう。総研の諸君や先生方もそれで宜しいかな。」

127shin:2006/12/02(土) 14:30:59
「そ、そんなに簡単に決めて良いんですか。」
高畑が、思わず声を掛ける。
「うん、高畑君は反対かな。何か理由でもあるのかな。」
「い、いえ・・・そう言う訳ではないですが・・・
ただ、これまでわが国は「のと」情報でかなりの利益を叩き出して来ました。
開示するとなると、このからくりが英国に知られますので、これについては一悶着あるでしょうから・・・」
流石に、その資金の殆どを叩き出して来た高畑である。
今でこそ、日商と言う大財閥を指揮しているとは言え、「のと」情報をいち早く活用して、巨額の運営資金を叩き出した過去がロイズ社や他の英国企業に知られるのは非常にまずかった。
「ははは、流石にわが国の影の蔵相も形無しかな。仕方あるまい。そのリスクはどう転んでも避けられまい。まあ、暫くは居心地が悪いが、我慢するんだな。」
幣原外相に、笑いながらそう言われると、高畑も言い返せない。
ホンとに政治家ってやつは、一体誰のためなんだよ・・・
高畑は更に言いたい文句をぐっと飲み込む。
「それでは、帝国の方針は、英国に対する「のと」情報の開示、勿論相手は厳密に選ばせてもらいますが、それで宜しいでしょうか。」
政府首脳がその方向に同意した以上、それ以上の反対も起こらない。
梅津は仕方ないという顔を隠そうともしないが、反論する気は無いようだった。

「方針が決まった所で、それに関連する問題がもう一つございます。これに関しては、総研所長も本会議に出席されます。」
横の扉が開くと、全員が一斉に立ち上がり、頭を下げる。
ゆっくりと、陛下は正面の座席に腰をおろして、軽く頷く。
それに併せて、全員が再び着席する。
総研では陛下は公式の場とは違い、堅苦しい儀礼は略するのが最早当たり前になっていた。
「隣で一通り、議論は聞かせて頂きました。私も、英国に対する情報開示の方針が決まったことにほっとしています。とは言っても、秘匿となっていても、これに対して私の方からどうこう言う積もりはありませんでした。」
一言一言確認するかのように、陛下は話し続ける。
「ただ、英国にどのような情報を伝えるにしろ、私個人としてお願いしたい事があります。」
ここで、陛下は全員をゆっくりと見回した。
そこにはこの八年間、帝国を戦乱から避ける為に必死に走り回っているメンバーが揃っていた。
「それは、核兵器の扱いです。諸君らにお願いしたい。今後帝国の国策は、核兵器を作らない、作らせないと言う立場で立案、遂行して頂きたい。」

128shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:19:41
所長が井上を促す。
「ここにおられる殆どの方はご存知でしょうが、核兵器とは、ウラニウムやプルトニウム等の非常に重たい原子の核分裂を一時期に発生させ、大量のエネルギーを引き出し、それによる大量破壊をもたらす兵器です。
その破壊力は、通常兵器とは比較にならないほど大きく、「のと」世界では、西暦1945年に広島、長崎に使用され、両市は廃墟と化しました。
しかも、これは初期型の核兵器であり、その後更にその威力は強大となります。
戦後、米国とソ連の両方がこの兵器を手にし、両大国ともその被害想定が途方もないため、外交手段としての全面戦争が使えなくなりました。
何しろ、核兵器数発で、主要都市は灰燼に帰すると言う状況では、全面戦争は自殺行為です。
「のと」世界では、その結果、両陣営の間で核兵器を使わない、小国同士の争いに、それぞれ列強がスポンサーとなる所謂代理戦争が各地で発生しながら、最終的にソ連の崩壊する90年代まで、冷戦、冷たい戦争と書きますが、その冷戦体制が持続します。
ソ連崩壊後は、このような重石が取れた米国は、通常兵器による覇権活動を再開し、中東においては、それまでソ連を後ろ盾に米国の勢力圏入りを阻んでいた国家を叩き潰して行きます。
まあ、アジア地域においては、中華が核兵器を持っている為、米国の覇権活動は依然として制限されたままでした。
更に、大戦後、朝鮮半島の北半分に成立した、独裁国家、北朝鮮と呼んでいたようですが、が核兵器を持つに至り、状況は更に悪くなっていました。
 「のと」の本来いた時代、2015年でも、アジア地域のこの状況は変わらず、北朝鮮は、国内がガタガタになりながらも、依然米国の勢力圏に組み込まれるのを拒んでいました。
 まあ米国にすれば、早い話が、数人の鉄砲玉を抱えた弱小博徒が、近隣の住民を盾に立てこもっているような状況でしょうか。官憲も下手に手出しできないと言うところでしょう。
八木先生、現状での核兵器開発に関して、お願いします。」
「総研調査部の八木です。核兵器に関しては、その被害、破壊力、「のと」世界の兵器体系等の情報は豊富に存在し、また起動方法等の概念的なものは理解する事ができました。しかしながら、流石にこの情報はあちらの世界でも重要情報に指定されているのか、設計や理論等の詳細情報等はかなり乏しいものでした。
ただ、こちらの世界での帝国での研究の第一人者として、京大の仁科教授の名前が上がっており、彼や招聘した海外の科学者の協力も得て、基礎研究は既に完成しています。」
「それは、どういう意味かな。すまんな、私は科学に疎いもので。」
濱口首相が全員を代表して問うた。
基礎研究や理論と言われても、全員が理解できる訳でも無い。
「まあ、簡単に言いますと、どのようにすれば核兵器が作れるか。その為に何を用意しなければいけないか等まで判っていると言う事です。
核兵器では、起爆に関しての、タイミングの制御が非常に難しいらしいのですが、幸いこれに関しても、最近の電子部品と、「のと」のパソコン、電子計算機ですね、これを使えばそれ程困難ではないと言う見込みが立てられています。」
「と言うことは、わが国は明日でも核兵器を持つ事が出来るのかな。」
吉田が身を乗り出すようにして聞く。
「いや、それは流石に・・・」
どう答えてよいものか、八木はちらりと所長の顔を伺う。
しかしながら、所長は顔色すら変えず、そんな八木を黙って見ているだけだった。
自分で判断しろとのお達しですか・・・

129shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:22:10
八木は覚悟を決めたかのように、興味津々で次の言葉を待っている吉田を真っ直ぐに見つめた。
「総研調査部としては、三年あれば可能であると考えています。
原料の採掘と、必要施設の建設に一年、核物質の抽出に一年、最終的な爆弾の製造に一年程度でしょう。」
室内にざわめきが広がる。
「一つ良いですか。」
黙って聞いていた、永田が遠慮がちに問いかけた。
八木が頷くと、徐に口を開く。
「費用は?三年間で必要となる金額です。
そして、どれ位の量、爆弾とするなら何発ですか。
後、その威力はどの程度を考えておられますか。」
単刀直入な質問に、ピタッとざわめきが収まり、全員の目が所長と八木の間を彷徨う。
核兵器を「作らない、作らせない」を、国策にして欲しいと言ったのは所長、いや陛下である。
所長の言葉ならば、建策であるが、陛下であるが故にそれは命令に等しい。
それでも、誰もが今の今まで、核兵器そのものを遠い将来の課題程度にしか考えていなかった。
ところが、八木の話からすれば、直ぐにでも作れると言っているに等しい。
それ故に、建策とは裏腹に、誰もが永田の質問の答えに注目せざるを得なかった。
全員の視線が自分に集まっているのを感じながらも、八木は流石にそれには答えられず、黙って俯いてしまう。
「予算10億前後で、「のと」世界で帝国に落とされた程度のものなら、5発位は作れます。それ以降は、原料のウラン鉱石の入手と、ウラニウムの抽出に掛かる期間のみで、量産まで可能でしょう。」
梅津が、全く感情を殺したような声で、淡々と答えた。
「おおっ!」
「エエッ!」
「何と・・・」
会議室全体に驚嘆や唸るような言葉で満たされた。
誰もが、気がついていた。
それがあれば、帝国は世界の覇権が握れると。
「のと」資料で、米国が開発したと記録されていた時期よりも、少なくとも五年前に帝国だけが核兵器を開発する訳である。
逆に言えば、「のと」資料の無い他の列強は、後五年は開発出来ない。
いや、それどころか、帝国がその使用をほのめかせば、どこの国も作らせない事は可能である。
核兵器を唯一持つ帝国に逆らうのは、銃を持つ人に素手で立ち向かうようなものなのだ。

130shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:25:07
大変だ・・・
高畑は、真っ青になりながら、会議室内で広がるざわめきから一人離れ、総研の仲間達を見つめた。
所長は、表情も変えず、端然と座っている。
井上と梅津は、むっつりと黙り込んだまま、八木は顔を上げようともしない。
高柳は青い顔に困惑を浮かべて、視線だけがさ迷っている。
どうりで、こんな緊急召集が行われる訳だ・・・

本来ならば、高畑自身も、あちら側にいた筈である。
幸か不幸か、誰かが、英国との共同生産の状況確認と、資金状況を把握しに行く必要があり、久しぶりに長期出張中だった為、この会合の召集する側から、召集される方に回ってしまったのだった。
核兵器の開発状況の報告が総研メンバーに行われ、その結果高畑抜きでシナリオが検討され、このような発表の仕方に至った訳であろう。
仁科先生って、本当に優秀な方なんだなあ・・・
ふと、高畑はそんな事を思った。
当然、核兵器の問題は「のと」が現れた時以来、メンバーの間でしばしば話題になっていた。
しかし、米国での開発に掛かった費用で、連合艦隊がもう一杯作れると書かれていただけに、そんなに安く作れるなんて思いもしなかった。
最も安くとは言っても、戦艦が、何隻か作れる程度の金は掛かるが。
とにかく、総研の資金に頼らずとも政府がその予算内で何とか作れる金額に収まってしまっている。
あっ、それで緊急会議か。
高畑は漸く、自分がいない間に、シナリオが作られ、会議が開かれた理由に納得がいった。
情報は漏れる。
メンバーに報告が上がった以上、他の総研関係者がその情報を知るのに、それ程時間か掛かる訳ではない。
その結果、帝国としての方針が定まっていない内に、走り出すことは十分に考えられる。
所長の方針が「作らない」だとするなら、一旦走り出した動きは、止めねばならなくなる。
でも、絶対に止められないだろうなあ・・・
そりゃそうである。
帝国の為と考えれば、泥を被る連中は、ゴロゴロしている。
例えそれが、独りよがりで、独善的であっても、正しいと信じているならば、無茶をやる人間には事欠かないのが、悲しい限りだが帝国なんだよなあ・・・

131shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:26:57
しかし、どうやってこの状況を納める気なんだ。
高畑が、一人冷静になっていく中で、周りでの議論は更に白熱しているようだった。
特に、所長も止めようともしないため、お互い同士で話す声も自然と大きくなっている。
うん・・・
漸く、高畑も自分以外でも何名かが、表情を殺しながら周りの議論を聞いている事に気がついた。
もっともそれは、情報部の堀部長の様子がそうだったからであり、自然とそれ以外でもそうしている連中に注意が行った訳である。
ええっと、堀さんだろ、それに東条さんもか。
首相は、違うな本当に知らなかったみたいだな。
永田さんは・・・
うーん、あの人は判らないな・・・
どうやら、何名かのメンバーには事前に情報が漏らされ、何らかの指示が行われているようだった。
流石に、シナリオが読めない為、それ以上の判断が出来ず、高畑は後で詳しく事情を聞くのが待ち遠しくなってくる。
やはり梅津さんに聞くのが一番かな。
どうせ、悪辣な方法を考えるのは、井上さんだが、あの人にまともに聞いても上手くはぐらされそうだしな。

「もう、十二分に理解できたと思うが、どうかな。」
流石に、所長が口を開くと、全員が黙る。
「改めて、みなさんに言っておきます。帝国は核兵器を作りません。そして、他の国がこれを開発することは全力を挙げて阻止して下さい。」
所長が立ち上がり、深々と礼をする。
全員が慌てて立ち上がり、更に深く答礼して動かない。
そりゃそうである。
今の口調は、総研所長の話し方ではなかった。
それは、大日本帝国君主、今上陛下そのものの口調だった。

132shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:29:07
「私はこれで失礼します。後はみなさんで考えてみて下さい。」
所長がそのまま退席し、扉が閉まると、流石に緊張が緩むのが判る。
「で、どうするのかね。英国に対する情報開示、核兵器の開発停止。総研としての建策方針は出来ているんだろ。」
濱口首相が、疲れたような声で、井上と梅津を睨みつける。
流石に、「のと」発見直前から首相をしているだけあり、簡単には騙されないぞと言う表情がありありと判る。
「人聞きの悪いことを言わないで下さい。まあ確かに、英国に対する情報開示に関しては、以前から検討課題として上がっていましたが、核兵器の件は、総研でも突然の事です。」
そう井上が代表するように言っても、周りの疑いの目は変わらない。
「あっ、皆さん信用されてませんね。それじゃ、そこにいる高畑君に聞いて下さい。彼はこの三ヶ月程外地に出てましたから、今回の件は全く知りません。」
少しむっとした表情を浮かべ、井上が高畑を指し示す。
あっ、あの野郎、こっちに振りやがった・・・
全員の視線が集まり、流石に高畑も慌てた。
「えっ、はい。確かに、核兵器の件は私もここで初めて伺いました。
最も、研究開発が進展しており、近々報告があるとの事は知っていましたが、ここまで進展しているとは想像もしておりませんでした。」
そう言いながらも、高畑は井上を睨みつけるが、彼は知らん振りである。
「そうか、高畑君が言うなら信用しよう。で、英国に対する情報開示は?」
どういう訳か、こう言う場合には、首相も含め、政治家、軍人達は総研所長付きのメンバーの中で、高畑に対する評価だけが高かった。
金銭に関しては、別の意味で一目置かれているが、このような謀略的な事柄からは、一番遠い位置にいるものと思われているらしい。
まあ、現実にそれは正しいんだけどなあ・・・
高畑は一人、自分だけがこの会合のシナリオに関わっていなかった理由をもう一つ見つけ、納得する。
「はい、英国に対しては、井上さんの言うとおり、ある程度の方策は検討しておりました。」
「で、それは?」
「一本釣りです。」

133shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:30:28
「一本釣り?」
全員が、困惑した表情で高畑に先を促す。
「ええ、英国に情報開示といっても、英国政府を通しての情報開示は機密漏えいの問題が発生するとの話は出ていました。
もし開示するとするならば、特定の人物を指名して彼を通じて情報開示する形であろうと。
こちらが選んだ特定の人物を介して英国に対する情報開示のルートを構築すべきででしょう。」
こう言う話は余り得意ではない。
勿論、説明だけなら、高畑でも出来る。
お金に関する事なら、幾らでも対応できるのだが、流石に質問が出たら対応出来ない。
ちらっと、井上を見ると、流石に軽く頷きを返してきた。
高畑が話している内容が正しく、彼なりの礼をしているのは、付き合いが長いため高畑にも判った。
しかし、口元の僅かな綻びから、やはり彼が楽しみだしているのまで気がつき、こちらも目で促す。
「その先は、小職が説明致します。」
仕方ないと言う表情を高畑に隠そうともせず、井上が引き継ぐ。
「全面的な情報開示と言っても、無制限な情報開示は流石に実施出来ません。」

134shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:33:09
英国に対する「のと」情報の開示に関しての検討で、問題となった点は英国が取りうる国策だった。
勿論、英国が「のと」情報の内容を知ったとしても、それが日英関係の解消に繋がる事はまず考えられない。
誰も声を出しては言わないが、両国とも対独戦に向けた日英連合軍の構築に向けて動き出している。
それを、今の時点で破棄する事は、英国にとって何の利益ももたらさない。
しかしながら、梅津と井上の意見が食い違ったのは、英国の対米政策への影響だった。
「のと」情報の中には、第二次大戦中、米国がどのように英国への援助を提供し、そして、大戦終了後いかに取り立てたかについて、詳細な情報が含まれている。
これを知った時、英国の反応をどう見るかで、意見が判れたのである。
井上は、それ相応の対応、即ち米国に対する警戒を強めながらも、その状況を上手く利用しようとする流れで、推移すると考えた。
これに対して、梅津は大筋で合意しながらも、極端な反米政策に走る危険性をも指摘したのである。
勿論、「のと」情報を米国に提供することで、全面的な米国の援助を得ると言う選択肢、即ち親米政策に走ると言う可能性も検討されたが、流石に、大英帝国が没落する事が判っていれば、それはあり得ないと言うのが、総研内での結論だった。
要は、現時点で英国が帝国との同盟をどのように捉えるかの見方の違いだった。
対独戦を考えた場合、帝国との同盟により、何とかそれを遂行できると見るならば、対米政策は、極端に走ることはないであろう。
これからも、国際政治と言うものが判っていない我侭な放蕩息子をあやす積りで米国へ対応して行くであろう。
これに対して、万が一にも帝国との同盟が、十分なものだと考えたらどうであろうか。
しかも、これには「のと」情報の開示まで含まれるのである。
英国が、放蕩息子の我侭を聞かないケースも考えられる。
例えばカリブ海に於ける米海軍による臨検の権利がある。
英国は、これまでの米国のカリブ海洋上での臨検権を認めていなかったが、昨年これを許可している。
これも、欧州での戦乱が近づいているとの認識から、米国に対する譲歩であった。
帝国との同盟の価値を高く評価すればするほど、英国側からのこのような米国に対する譲歩は減少するであろうし、強いては英米関係が今以上に険悪になる可能性すらある。
梅津はこれを恐れた。
少なくとも、英国が米国に対して譲歩路線を放棄するのは、大戦勃発後が望ましい。
それ故、現在での英国に対する「のと」情報の開示は早すぎるとの判断であった。
これに対して、そのようなリスクを勘案しても、英国に対する情報開示が遅れる事による両国の関係の悪化を恐れたのが、井上である。
また既に、日英協調体制が確立されており、両国は対独開戦に向けて走り始めている。
この時点で、現在のように英国が帝国の機密を探る行為にその貴重なリソースを裂くのは惜しい。
それよりも、「のと」情報を活用しながら、そのリソースを対独、対ソに向けて貰いたい位である。

135shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:37:36
これ以外にも、総研では帝国内に対する影響を危惧する声もあった。
それでなくても、国内には、帝国の国策である親英政策に不満を持つ勢力もいるのも事実だった。
親英政策ではなく、英国従属政策とすら揶揄する連中もいる。
それが、「のと」情報の開示で、帝国が親英追従政策の強化、更には国益さえも売り渡すのかと一層非難を強める事となるであろう。
まあ、この連中は吠えるだけなので、何とでも対応は出来た。
また、具体的な「のと」情報に触れれるレベルでもない。
厄介なのは、総研メンバーと目されながら、政策には反対なのに、それを表に出さず、動こうとする連中が出る事だった。

 最も、過去八年間そのような動きが無かった訳ではない。
国防総省において、他の部門の長が、移動するにも関わらず、統合作戦本部情報部の堀部長が、首相と同じように八年間も移動せずその席に就いている理由がそれだった。
「のと」情報では、開戦時の連合艦隊司令長官であり、堀部長とも個人的に親しい間柄であった人物が二年前不幸な事故で他界した事を知らないメンバーは総研にはいない。
彼ほどの人物でも、不幸な事故にあう事は無い訳ではないが、それだけで、他のメンバーには十分だった。
ちなみに、総研の井上は、事故の一報を聞いた時、
「最近、車が増えたから、危ないからなあ。」
と呟いたとまことしやかに伝えられている。
しかも、それは事故の内容が、交通事故だと誰も知らない時にと言う注釈までつけて広められていた。
 本当の所は決して表に出る事は無い。
それでも、総研と統合作戦本部が、どのような意思で動くのかを全員に知らしめるにはそれで十分だった。

136shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:39:23
勿論、井上がこのような内容を直接話す訳ではない。
一連の説明の中で、「総研メンバーの方々に於いては、戦略が策定された場合、例え反対でもその遂行を妨げる方はいらっしゃらないと信じております。」
と、わざわざ梅津を見つめながら言っただけである。
まあ、梅津にすれば、良い迷惑でしか無いが、彼もこのような脅しが必要である事は十分に理解しており、それに対してどうこう言う程、修羅場を知らない訳でもなかったが。

「従いまして、英国の国策が極端に走る可能性も否定は出来ませんが、少なくともこの方向性に関しては、日英の協調により、対応は可能であろうと考えております。
いや、全力を挙げて対応する心積もりです。」
何事も無いように、井上は説明を続ける。
「即ち、英国の国策を、帝国の国策と合致させるべく、可能な限りの努力を払う必要があります。何卒皆様のご協力をお願い致します。」
井上は、英国が自らの意思で、帝国が望む国策を打ち出すように、全員で努力すれば良いと、こともなげに言い放つ。

137shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:41:19
濱口は、苦虫を噛み潰したような顔で、聞いていた。
それは、彼らにすれば、国内で行ってきた活動を更に海外まで広げると言う事にしか過ぎないのだと、理解しているからこそである。
初めからそうだった。
濱口は、総研が成立した頃を思い出す。
当事はまだ、甘さがあり、可愛げがあった。
その為、彼はそのような総研メンバーの建策を理解した上で、その流れに乗っていたと言えよう。
最も、暴漢に襲撃され、死亡と言う事実を突きつけられれば、濱口自身にも覚悟も定まる。
彼から見れば、若造でしか過ぎないこのような男達が、真摯に検討した建策を生意気だと潰すよりも、その流れに沿うように動くことこそ自分の役割だと考え対応してきた積りである。
それがどうだ。
あれから八年、この前の二人、いや高畑も含めれば三人は、大きく化けてしまった。
当事のような甘さは影を潜め、自分達のやっている事に自信を持って対応している。
確かに、井上が言うように、英国の政策すらも変えて行くと言うのは、困難ではあろうが、今の彼らに出来ない事とは思えない。
梅津ですら、それが気に入らないにしろ、不可能と思っているような面ではなかった。
彼らはきっとやるだろう、またその為の組織すら、今は手に入れている。
統合作戦本部情報部も、やはり化けたものだった。
堀は、普段の温厚そうな表情とは裏腹に、着々とその組織を整え、しかも、総研から直接資金提供を受け、国家が表立って出来ない部分すら、対応できる組織を作り出していた。
彼も含めると、四人か・・・
いや、そうではない、彼らに続く人材は溢れかえっている。
濱口はチラッと吉田の顔を見る。
吉田は、真っ直ぐに井上を睨みつけているが、その口元には面白そうな笑みがこぼれだしそうな顔をしている。
危ない・・・
濱口はそこに、大きな陥穽が広がるのが見えたように思えた。

今は問題とならない。
これからも彼らはしっかりと帝国の行くべき方向を策定し続けるであろう。
そして、その殆どが上手く嵌り、それは彼らに更なる自信を与えて行くだろう。
今はまだ良い。
彼ら自身が、それもこれも全て、「のと」情報があってこそだと言う事を見に染みて理解している限り。
だが、何時までそれが続くか。
今後、「のと」情報には無い状況が益々起こってくる。
勿論、彼らは既にそのような事態に備えるため、様々な情報の入手手段や、遥か未来の分析手法等も活用し、準備を進めている。
しかし人間のする事であり、全てを予測するなど、神のみがなしえる業である。
予期できない、予測できない事態の発生が、危機であり、その時にどのように対応するかが初めて試される訳である。
それが、残念ながら陛下が御作りになられた総研には、経験の無い事態である。
自分や井上蔵相が現役の間はまだましである。
いや、自負にしか過ぎないかもしれないが、少なくとも総研の建策に疑いを持って対応し、「上手くいかない」と言う事態も想定して動いている。
しかし、今回の英国に対する情報開示、そして核兵器の制限が上手くいけばどうなるのか。
彼らの評価は益々高まり、同時に自信も更に強まる。
そして、それが慢心に繋がるまでどれ程の時が必要だろうか。
その時に、果たして自分はいるだろうか。
いや、今よりも賛同者を増やした総研と言う化け物に対して、果たして自分は対抗できるであろうか。
濱口はも一度、吉田を見た。
今回は、彼も気がつき、その小さな瞳をこちらに向け、何かと問うような表情を浮かべる。
何でもないと言うように、濱口は首を軽く振り、溜め息を吐いた。
やはり、潮時か・・・
吉田茂、「のと」資料では、後の総理大臣であり、戦後の道筋を付けた人物と記されていた。
非常にあくが強く、毀誉方便の激しい人物。
今はまだ、化けたとは言えないが、既にその片鱗はうかがい知れる。
井上、梅津ら総研に、対抗できるだけの素質は備えている、いや、備えている事を願っていると言う方が正しい。
よし、そうしよう・・・
濱口は、自分なりの方針を固めると、再び井上の説明に耳を傾けた。

138shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:43:56
「英国と米国の関係で、留意する必要がある点がもう一つございます。」
井上は次の問題に移っていた。

既に述べたように、第二次大戦前の英米関係は、決して良好とは言えなかった。
現実問題として、独逸に対抗する上で米国からの支援が必要不可欠であったが故に、その辺りに目を瞑ったと言うのが実情だろう。
しかし、その割り切り方が物凄い。
「のと」資料によれば、米国を味方につけると決めたなら、その為に必要な手段は国を挙げて実施している。
資源地域の譲渡等の経済面での約束のみならず、技術情報の多くを提供して、米国を見方につけるため、動き回っている。
一部資料では、後のチャーチル首相自ら、米国の秘密結社である「フリーメイソン」にまで加盟しているとすら述べていた。
まあある種の陰謀史観であるが、要は、チャーチルは米国の為に英国を売り渡したとすら、言われているのである。
そこまで言われる程、戦争に勝つ為には手段を選ばない国である。
そのような国である以上、帝国との提携だけで、独逸やソ連に対抗出来ないとなった時の英国は、なりふり構わず様々な情報を米国に投げ出すであろう。
その中に、「のと」情報が含まれていない保証はない。
いや、むしろ最上級の情報として米国に譲り渡す可能性は高い。

「まあ、帝国と英国だけで、独逸に勝てれば問題とはならないのですが、確約は出来ません。
要は、国策の問題と、情報が米国へ流れる危険性があると言う二点を我々自身が理解した上で、情報開示の方策を考えねばならないと言う事です。」
「問題はそれだけかね?」
「ハイ、「のと」情報を英国首脳に開示するとした場合、留意すべき点はこの二点と考えております。」
「それ以外は問題にならない。と言うのだな。発明、発見等の先進情報の活用については、どうなんだね。
「のと」情報を活用し、既に帝国で特許を取得しているものは、様々に及んでいると聞いているが、それは問題にならないのかな。」
井上蔵相が、少し皮肉っぽく聞いてくる。
「まあ、確かに、発明者が知ったら悔しがるものはあるでしょうが、問題になるとは考えておりません。
理由としては、公開可能な発明や発見は、「のと」世界での研究者が思いつくよりも以前に公開されている点があります。
例えば、帝人にて発明された事となっている、「ナイロン」、いわゆる化学繊維と言うものは、本来ならば、米国のデュポン社の発明です。
しかしながら、デュポン社が例え「のと」情報を知りえたとしても、これを証明する方法が無いのです。
ましてや、今現在デュポン社では、化学繊維の研究を行っておりません。
当然、既にあるものの研究開発を行う理由が無いからです。
従いまして、デュポン社は、それが自社の技術者による発見の盗作だと訴えようにも、証拠が無いので、訴える事も出来なくなります。
但し、現在軍事関連等で、機密にされている発明、例えばトランジスタ等では、多分そのアイデアの特許を取得する人物も出てくる可能性はあります。
この場合は、その国の特許収入はある程度制限される事となるでしょうし、将来国家どうしの話し合いで、逆に特許料を払うケースすら出てくる可能性はあります。
しかし、それも「のと」情報を知っていると言う前提ですから、まず起こりえないでしょう。
国家間となりますと、後は外交レベルですか。
従って、この辺りは、対応できる世界ですので、問題にはなり得ないと考えております。」
井上がそつなく答えると、頷くしか出来ない。
「英国の国策に対しての影響と、米国への機密漏洩への対処としての方策として、検討しているのが、先ほど「高畑」から話が出ました、「一本釣り」です。」

139shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:46:38
「まず、最初に、正規の外交ルートを通して、英国に対して、いわゆる「のと」情報の開示の用意があると連絡を入れます。
但し、開示に関しては、帝国が指名する人物を介して行うとの条件を付けます。
こちら側が望んでいる人物を英国政府に、代表として選ばざるを得ない状況を最初から作る訳です。」
「それで、一本釣りか。」
「はいそうです。勿論英国は難色を示すでしょうが、少なくとも帝国が「のと」情報を開示しようとしていると言う姿勢は示せます。」
「まあ、そこら当たりは外交だな。」
幣原外相が答える。
少なくとも、自分の出番がある点を好意的に解釈しているのだろう。
「で、選んだ人物に「のと」情報全てを開示するのかね。」
「はい、その方が良いかと。
下手に隠し立てしても、信用されませんし、「のと」の船体と内部を見せるだけでは、この人物に対する交渉が出来ません。」
濱口は無言のまま、先を促す。
「情報開示とは言え、帝国内でもある程度の制限は行っております。
その意味で、英国内に情報が広がるにしろ、その情報閲覧ランクが必要となります。
こちらの指名した人物に、この情報閲覧のランク付けを担当して頂きたいと考えております。
あっ、勿論そのランク付けに対して、当該人物に対する拒否権は総研側にあると言うのが前提ですが。」

「なんだ、今の総研と同じ形じゃないか。」
幣原外相が呆れたように呟いた。
「仰るとおりです。「のと」情報を直接政治家に渡すのはあまりにも危険すぎます。」
「それは、我々に対する皮肉かね。」
濱口が嫌そうに顔を歪めている他の政治家を代表して言った。
「いや、別に皮肉でも何でもないと考えています。勿論、我々のような軍人も同様ですが。」
しれっとした顔で、井上は答える。
「現実に、大きな利害関係が生じない人物、また長期的な視点からこれを判断できる人物が最も望ましいと愚考します。
残念ながら我々自身もその基準を満たしている等というおこがましい事は考えませんが、少なくとも英国側にて「のと」情報を管理する人物も、そのような基準に近づく人を探すべきでしょう。」
井上は、一旦言葉を切りかけたが、直ぐに話を続けた。
「あっ、それと、残念ながら英国には所長のように、我々よりも遥かに基準に近い人物はいませんので、それをお忘れなく。」

140shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:48:28
全員が苦虫を噛み潰したような顔をしている。
それはそうである。
お前たちでは「のと」情報を管理出来ない、帝国は陛下が辛うじてその基準を満たすと言われて、しかも全員が反論できないのだから。
あーあ、井上さん、また敵を増やして・・・
高畑は頭を抱えたくなった。
まるで、一心に全員の恨みを買うような行為をどうして、この人はいつもするんだろう。
皮肉屋であるのは判っているが、あまりにも辛らつである。
根は悪い人じゃないのになあ・・・

「で、それで、総研は候補者も絞り込んでいるのだろ。」
濱口が井上の先を促す。
「ハイ、アーサー・C・クラーク、後の小説家、現在、英国陸軍電波研究施設にて勤務している研究者、少尉です。
それと、こちらはご存知の方もいらっしゃるでしょうが、ジョン・メイナード・ケインズ、経済学者、現在は大蔵省顧問に迎えられ、大戦中の英国の資金繰りを担当する事となっております。
それと、ケインズ氏は、1946年死亡となっています。」
暫く誰も口を開かない。
どう考えても、このような組み合わせに何の意味も見出せなかった。
第一、ケインズだけならば、現在の濱口政権が実施している内需拡大策の基本理論を提供している学者であるから、知らないでもなかったが、クラークとなると、知っている人間すらいない。
「参考までに、教えてもらえないだろうか、どのような基準でこの二人が選ばれたのかね?」
かなり皮肉交じりに、濱口首相は問いかけるが、井上は平気な顔である。
「ハイ、一番の問題は、「のと」情報でも、英国人に関する情報はそれ程ないと言う点でした。」

141shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:50:50
膨大な資料の塊である「のと」情報でも、それはあくまでも「のと」世界の日本人が、自分達の興味で集めた資料でしか過ぎない。
その内容は、個人が興味を持った事柄に関する情報が多く、結果として興味が行かない分野に関しての情報は極端に少なくなっていた。
英国に対する情報開示において、その適任者を探すにしても、日本人のデータに比較すると、外国人のデータは遥かに少ない。しかも戦時中にどのような役割を負っていたかとなると、
それは殆ど見つからなかった。
ある程度詳しいデータが集まるのは、どうしても主要な政治家、軍人が中心であり、それ以外は名前だけが出てくる程度であった。
勿論、井上の場合のように、本人の伝記がある場合など、あり得よう筈も無かった。
政界に対してある程度顔が利き、政治に深く関与していない人物であり、尚且つ米国に「のと」情報を開示する事に積極的でなさそうな人物となると、探す方が無駄に近かった。
アーサー・C・クラーク博士の名前が上がってきたのは、大戦後、「のと」世界でも一二を争う小説家として、著書もあり、経歴もはっきりと資料の中にあったためである。
しかも、戦時中は軍の電波研究者であり、教官も勤めたと言う経歴がある点も好ましかった。
小説の分野は空想科学小説と言う荒唐無稽な分野であるが、逆に「のと」資料に接しても、拒否はしないだろうとの予測も立てられる。
勿論、クラーク博士の実績の半分以上が科学関係の書籍である点も、単なる無想家ではない事を示していた。
そして、何より戦後死亡するまで、セイロンに在住し、英国から勲章まで受けたと言う経歴が、米国寄りの活動を取るとは思えない点が上げられた。
英国側で「のと」資料の取り扱いを任せるに足る人物であると言うのが、総研での評価であった。
しかしながら、クラーク氏では、年齢が若すぎた。
1917年生まれ、現在まだ20歳にしかなっていない。
せめて、40代ならば、何とかなるであろが、これでは対象としてあまりにも若すぎた。
これに対して、ケインズ氏の場合は、逆である。
現在54歳で、しかも1946年には死亡している。
ただ、生粋の英国エリートであり、実際に第一次大戦後の講和会議では、大蔵省の随員として参加し、正論をどうどうと述べる胆力も備わっていた。
ちなみに、彼は独逸に対する賠償金に反対し、途中で辞表を提出している。
政財界にも顔が利き、第一次大戦後も様々な建策を述べながら受け入れられず、
しかも、その建策がことごとく正しいとの評価も高い。
「のと」世界では、37年の時点では、何度目かの建策が受け入れられず、不遇を囲っている状態となっていたが、現実には大蔵省の顧問となっている。
そう、総研からの働きかけで、英国政府も内需拡大策を実施しているため、その陣頭指揮を任されているのだった。

142shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:52:05
「ケインズ氏に関しては、既に「のと」世界とは違う方向に進まれているのは間違いありません。しかしながら、典型的な英国紳士であり、大戦時内閣のチャーチル首相とは反発しあいながらも、戦争遂行の為に、全力を尽くします。
そして、それだけの努力を払いながら、45年には、彼の政策が米国には受け入れられず、英国は切り捨てられます。
この事実だけでも、彼が米国側に立って「のと」情報を使う可能性は非常に低いでしょう。」
「しかし、それは逆に、初めらか米国側に立って働いていたと言う見方も出来ないことはないのじゃないかな。」
説明を聞いて、永田が尋ねる。
「ええ、そのような見方も出来るでしょうね。しかしながら、その場合、ケインズ氏にはどのような動機があるのでしょうか。」
「それは、英国内で自分の建策がことごとく採用されない辺りがあり得そうじゃないかね。」
井上蔵相が答える。流石に、同じ経済家としてその辺りは思いつく。
「その場合でも、現在は違います。英国は明らかに内需拡大策を実施しております。この事から、彼が受け入れられない為に裏切る事はあり得ません。
それに、彼は様々な投資活動を実践しており、十分に資産家です。名誉、金銭欲、あるいは脅しから等の各方面からの可能性はまずあり得ません。」
「そうか、君達がそう言うなら、そこは信じよう。しかし、なんでケインズ氏だけではなく、そのクラーク君と言う若手も同時なんだね。」
濱口の質問に、わが意を得たりと井上が続ける。
「ええ、それが鍵なんです。考えても見てください、ケインズ氏にとり、現在この世界で最も重要と思える「のと」情報に無制限でアクセス出来る権限が与えられると言う事は、彼の虚栄心を十分満足させるでしょう。
ただ、同時にその権限が、全く無名の20代そこそこの若造にも与えられると言う事が、ケインズ氏にとって、どのような意味を持つか。」
「とげだな。指先に刺さってしまった、気にはなるが見つからないとげのようなものか。」
「ハイ、おっしゃる通りです。ケインズ氏にとり、常に意識しなければいけない存在として、クラーク博士がいるだけで、彼の独善的な行動はかなり抑えられるものと期待しております。」
「しかし、そんなに上手くいくのかね。私には机上の空論のように思えて仕方ないのだが。」
幣原外相の顔には、疑いしか浮かんでいない。
「ええ、おっしゃる通りです。ここまではあくまでも我々の想定にしか過ぎません。
しかし、英国政府に対して、「のと」情報の全アクセス権を与えるのはこの両者だけと通知し、しかも、両人の同意があり、しかも帝国と、英国の情報部門が許可を与えた人物のみ、分野情報をその人物に提供すると言う縛りを入れれば、かなり違うのではないでしょうか。
少なくとも無制限の情報流出は防げます。」

143shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:54:56
「それはそうだが、それでも私には非常に危うい理屈にしか思えないのだが。」
濱口が全員を代表するように、述べる。
あまりにも理路整然としているように聞こえるだけに、余計に信用できないと言うのが、ほぼ全員の気持ちだった。

「お疑いはもっともです。我々自身もこれが十全の体制だとは考えておりません。」
これまで黙って井上に説明させていた梅津が始めて口を開いた。
「改めて申し上げますが、本官はあくまでも英国に対する情報開示には反対の立場です。
ただ、本官の反意は、その時期の問題です。
長期的には、英国に対して何らかの情報開示が必要不可欠であると言う点では反対はしておりませんでした。」
梅津は全員がその言葉を咀嚼するのを待つように、暫く黙る。
「「のと」情報をこのままわが国だけで、独占した場合、帝国はこれまで以上の繁栄を謳歌する事が可能でしょう。
しかし、それは逆に列強全部から怨まれる事に繋がります。
全ての発明・発見は帝国発であり、その先取利益を確保するだけでも、帝国には莫大な富が集中するでしょう。
これで、列強との軋轢が生じない筈がありません。
間違いなく、帝国は戦塵に巻き込まれます。
勿論、本官も軍人であり、今の帝国軍の実力、そして今後配備される先進兵器体系を持ってすれば、負ける事は無いと考えます。
しかし、それは何時まででしょうか。
どこかの時点で、いやはっきり言えば、帝国が「のと」情報を実用化しきった時点で、それは終わりを告げます。
そして、列強が追いついて来た時、帝国に対する恨みは考えたくありません。
それ故、「のと」情報の不必要な長期に渡る秘匿に対しては反対するものです。」

144名無しさん:2006/12/09(土) 13:57:36
「共犯者は増やしておくに限りますからな。」
吉田がぼそりとつぶやく。
誰もが、帝国の実力を十二分に理解していた。
以前とは違い、「のと」情報及びそこから派生した総研と言う組織のお蔭で、欧米列強に対する見方も大きく変わっている。
それまでの漠然とした不安を感じる存在から、ある意味現実として認識できるまで降りてきたと言う方が正しいかもしれない。
全てが情報量だった。
帝国の周辺には、欧米の植民地や没落した中華帝国しか存在せず、欧米は遥かに遠い。
米国の巨大生産施設を実際に見学したものは、それを見て帝国が敵う訳はないと思ってしまう。
だが、果たして彼は現在の八幡製鉄所を見学したことがあるのだろうか。
欧米恐れるに足らずと、声だかに叫ぶものは、本当に欧米の生産施設を見てきたのであろうか。
独逸に留学したものは、その良い面だけを見せられ、独逸贔屓となって帰国する。
逆に、フランスやイタリアに行ったものは、その差別的扱いや、退廃的な所のみを記憶に納めて帰ってくる。
そのような情報量の差が、列強に対する過大評価や過小評価を招いていたと言えよう。
それが「のと」の出現により、大きく変わった。
資料を直接目にしたものは、欧米列強と帝国の格差を明確な数字で突きつけられる。
そして、総研が「のと」資料で得られた、各種分析手法を駆使して提供する月例報告や、年次報告では、帝国の状況が列強各国との相対的な比較の上で語られている。
これが数年以上も続いた訳であるから、誰もが見方を変えざるを得ない。
各省庁からの報告も、以前よりは遥かに改善されていた。
何せ、省益を優先したようなレポートは、総研からのレポートで叩き潰されてしまうのである。
「君はそうは言うが、総研からはこのようなレポートが上がっているのだが、どちらが正しいのかね。」
いやみったらしく、大臣からそう指摘されると、官僚も下手な誤魔化しは効かなくなっていた。
結果、誰もが昭和12年現在の帝国の国力をある程度まで正確に把握できるようにはなっていた。
そして、事実を正確に把握すればするほど、米国の巨大さを認識させられる結果となる。
一つの指針である粗鋼生産量を比較しても、その巨大さは認識出来る。
「のと」発現以降、帝国はその生産量を飛躍的に増大させている。
特に、昨年は前年比170%と言う驚異的な伸びを示しているのである。
1936年時点での統計では、粗鋼生産量は、1200万トンと「のと」世界の6倍まで膨れ上がっている。
それでも、漸く独逸と並ぶレベルまで国力が大きくなったに過ぎない。
そして、米国は長期的な不況に喘ぎながらも、楽々この数字を凌駕し、2000万トンに達しようとしている。
しかも、この数字は不況のせいであり、不況以前は3000万トン近い生産を誇り、「のと」資料では40年に戦時体制がフル稼働しだすと、あっという間に4000万トンを超えてしまっている。
帝国がギリギリ限界まで頑張り、「のと」と言う裏技を使い叩き出した数字ですら、米国の半分にしか過ぎないのである。
このような情報が総研を通じて、軍需省だけで留まるのでなく、国防総省を含む全官庁に正確に伝えられている以上、列強と争う事が如何に無意味かは誰もが認識している常識だった。

145shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 13:59:39
「本官が適切と考えた開示時期は、来年です。」
再び梅津が話し始める。
「英国が独逸に対して先端を開き、これに対して帝国が参戦するタイミングにて、日英同盟を更に強化すると言う名目も立ちます。
そして、何よりも英国の国策がぶれても、対応は可能となっているでしょう。
帝国が、英国の強力な同盟者である事を示した後ならば、おのずから対米政策は今よりも厳しいものにならざるを得ません。」
「しかし、既に決は取っている。英国への開示は本年実施される。」
永田が冷たく言い放つ。
梅津が今更何を言い出したのか、その顔には少し苛立ちが浮かんでいた。
「失礼致しました。永田長官のおっしゃる通りです。
本官が述べたいのは、「何時開示するか」と言うタイミングの問題でしかなく、その内容は極端に言えばどうでも良いと言う事です。」
梅津がそれだけ言うと、再び黙ってしまう。
井上は、仕方なさそうにそんな梅津を見ていたが、おもむろに口を開いた。
「帝国は、既に「のと」情報を全て分析し、それぞれの分野で必要な記録を完成させております。
しかしながら、この情報は、決して体系だった情報ではなく、様々な欠落もあり、帝国が一夜のうちに未来の科学技術を全て実用化できるものではないのは皆さんも良くご存知の事です。
このような雑多な情報の中で、比較的体系だったものは、電子機器関連及び、兵器体系でした。
他の分野は、様々なヒント、またいずれこのようなものが出来ると言う程度にしか判らない情報ばかりです。
例えば、身近な例ですが、今から53年後に実用化され、帝国も「のと」から直接実物を手に入れる事が出来た、所謂「90式戦車」があります。
この戦車に関しては、この八年間の間、研究班は徹底的に調査し、どのようなエンジン体系で駆動しているのか、砲塔のライフリング等の仕組み、赤外線連動の照準機、更には特殊なサスペンションに至るまで、その仕組みは解明されております。
しかしながら、帝国はこの戦車を生産できません。
まず、エンジンそのものの成型技術がありません。
砲塔の鋳造方法、装甲板は組成まで資料から判っているのですが、それでも製造できません。
更に、電子制御の部分となると、同じものは作れたとしても、戦車に載せる程小型化は不可能です。
勿論、この分析で手に入れた様々なノウハウは、帝国の最新鋭の97式中戦車に反映されています。
要は、八年間掛かって、分析もほぼ終了し、様々な分野で反映できるものは反映させておりますが、これ以上の「のと」資料の分析から帝国が得られる情報が無いと言う事です。」
「それは、「のと」そのものがもう必要ないと言うことかな。」
濱口首相が、憮然と問いかける。
必要ないなら、それを早く言えば、その使い道は様々考えられる。
「いや、そうではありません。
帝国の科学者では、これ以上の有意の情報を得るのは困難だと言うことです。
当然ながら、欧米の科学者は我々とは異なるメンタリティを持っています。
否、別に欧米と限定しなくても、要は新しいメンバーになればまた違う視点で見れると言うべきでしょう。
その場合には、我々が見過ごした資料から、全く違うノウハウを手に入れる事も考えられます。
しかしながら、これ以上のと情報を広く帝国内の科学者に提供することは、機密保持の点で大きな負担となるでしょう。
この意味で、友邦である英国に対して、開示する事は、新たな発見・発明に繋がると考える次第です。」

146shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 14:01:23
「従って、開示のレベルは関係ないか。」
「しかし、その場合、英国が帝国のライバルとして巨大化するのを助ける事に繋がるのではないのか。」
誰かがそう言うと、井上は冷たい視線を発言者に向ける。
「お忘れですか、英国は帝国のライバルではありません。遥かに巨大な列強なのです。今更どうしようと言うのですか。
遥かインド洋を横切って、英国まで攻め上がりますか。
手に入れた最新兵器で武装した帝国総軍をすり潰す覚悟で、スエズ運河を占領でもしますか。
小職は御免ですな。」
発言者が身を竦める思いで小さくなる。
「まあ、井上君、君達の言いたいことは良く分かった。
英国が資料を手に入れ、電子部品や、化学製品の作り方を取得しても、既に帝国で実用化してしまっているものに関しては、大きな違いは無いと言うことだな。」
濱口首相がとりなすように話をまとめる。
「いつかは、ばれる。その時に列強から袋叩きにあう前に、相手に喜ばれながら手渡し、その後の友好関係の構築を目指す。
まあ、妥当、いや、最善の策でしょうな。」
幣原外相が続ける。
「その場合は、全て提示し、他の列強からの恨みを一緒に被ってもらう。
しかも、それにより、英国が再び世界帝国に返り咲こうが問題ではない。
少なくとも、帝国が滅亡する事はない、と言うことかな。」
井上蔵相が更にそれを纏め上げる。
流石に、八年に渡って、帝国を運営してきた重鎮達である。
理解は早い。

147shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 14:03:39
「それでは、英国への開示は、この方向で政府も動こう。それで良いな。」
濱口がそう言いながら、辺りを見回すと、全員に安堵の雰囲気が広がった。

「それで、核兵器はどうなるのだ?」
そう、英国への開示は、まだ問題の半分にしか過ぎない。
更に大きな問題が、核兵器の取り扱いだった。

「核兵器に関しては、現時点では、所長の方針を遵守し、そのために努力する。
としか答えられません。」
「それは、総研として建策の案が無いと言う事なのかな。」
「いや、そうではありません。
現実問題として、既に統本情報部は動かれている筈ですが、それ以上の対応は、大戦の行方如何でしょう。
今の時点で、建策すること自体、本当に机上の空論に陥ってしまう可能性が大きすぎます。」
「そうか、言うとおりだな。
堀君、現状は特に変化は無いのかな。」
濱口首相が、統本情報部部長に問いかける。
「はい、皆さんもご存知の通り、核開発に関しましては、列強各国の開発を妨害するとの方針で、これまでも動いております。
既に、「のと」資料で名前の上がっていた科学者全員に対して、監視体制が整っております。
また、一部の科学者に対しては、帝国での研究の可能性を提示し、既に数名は国内に入っております。
特に重要なのは、レオ・シラード博士を招聘出来た点です。
亡命ユダヤ人の博士は、「のと」資料ではアインシュタイン博士をして、当時のルーズベルト大統領に核開発を促す手紙を書かせた人物としても有名ですが、
核兵器の可能性に気がついた初期の科学者でもあります。
まあ、彼を含む数名だけでも、米国における開発は若干遅れるものと考えられます。」
「そうか、原子爆弾の開発に関しては、「のと」世界のルーズベルトよりも、ランドン大統領の方が消極的なのか?」
濱口首相は、他のメンバーに聞かせる為に、自分の知っている内容であるにも関わらず、更に堀に問いかける。
「いえ、それはまだ判りません。ただ、少なくとも米国政府から科学者に対するアプローチはまだ始まっておりません。
「のと」資料でも核兵器開発の開始は41年となっておりますので、米国政府がその可能性に気がつくのにはまだ数年は必要だと考えております。
情報部としては、少なくとも今後一年間は、関係科学者の帝国への招聘と、監視に的を絞り動いて行く積りです。」
「そうか、了解した。で、一年後はどうなるのだ。」
「それは、今の所は何とも言いかねます。
今回の「のと」情報の英国への開示によって、英国政府も核兵器の可能性を知るわけですから、英国の出方次第でしょうか。
それと、戦争が開始されるでしょうから、我々のやり方も少し手荒なものにならざるを得ないでしょう。」
情報部の言う「少し手荒なもの」については、誰も聞こうとはしない。
それが、大人の常識と言うものだった。

148shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 14:10:34
「少なくとも、今のところ帝国以外に核兵器を開発できる国家は無い。
英国への「のと」情報の開示により、英国での核開発の可能性は大きくなるが、この一年でどうなるものでもない。
来年以降は、次期大戦が開始され、それに応じて状況が変化する以上、今の時点で現在の方針を変更する理由はないと言う事か。」
濱口首相が話をまとめる。
「はい、おっしゃる通りです。
それと、核兵器の研究に関しては、今後も継続します。
しかしながら、核兵器の生産は行わない。
この点はご留意下さい。」
井上が付け足す。

「よし、以上かな。井上君、何か他に議題はあるかね。」
井上が無言で首を振る。
「それでは、この際だから、私から一言皆さんに言っておこう。」
濱口首相が改めて、全員を見回す。

149shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 14:12:25
「今回のように、総研の主要メンバーが集まれる機会は当分ないものと思う。
全員で改めて肝に銘じていただきたいのは、この総研そのものの目的を忘れないで欲しいと言う事だ。
井上君や梅津君、そして高畑君や他の科学者の先生方、あなた方の建策は、一重に、次期大戦にて、帝国が滅亡することを防ぐことにある。
だからと言って、何をやっても良いという訳でもないことを忘れないで欲しい。
帝国は、立憲君主制の国家であり、「のと」資料に述べられているような帝国主義、あるいはヒトラーのような独裁国家ではない。
それ故、回りくどいやり方しか出来ず、いらだつ事もあるだろう。
それでも、諸君らには頑張って頂きたい。
そして、どうしようもない時は、首相が責任を負う。
これを忘れないで欲しい。
諸君らの殆どのものが知っているものと思うが、帝国の運営はきれい事だけで済む訳は無い。
泥を被る事もあろう、後ろ指を差される事もあるだろう。
それでも、この八年間の活動の全ての責任は、首相であるこの濱口にある。
これは、形だけではなく、歴然たる事実として認識して欲しい。
諸君、これまで本当にありがとう。
そしてこれからも、この国をより良きものにする為に、頑張って欲しい。」
濱口首相が立ち上がり、頭を下げると、会議室にざわめきが広がる。
それもそうである。
濱口首相の話はまるで、辞任するかのような内容だった。
「あっ、それと最後に一つ。
私はまだ辞めるつもりはない。
少なくとも、後一年は勤めさせて貰う。
しかしながら、来年大戦が勃発すれば、挙国一致内閣を組閣するつもりである。
そして、私はその首相にはなれない。」
多くの者が、異議を唱えようとするのを手で制止ながら、濱口は続ける。
「戦争となれば、果断な決断力が要求される。
そして、その決断の責任は、平時よりも更に重い。
この重責に耐えるには、私は年を取りすぎた。
まあ、自分とすれば後二三年は大丈夫だと思いたいが、流石にこれから45年まで八年間も
続ける事は出来ないだろう。
だから、私はその任を後任に託すことにする。
吉田君、君に戦時内閣の首相をお願いしたい。」
ガターンと大きな音が会議室に響いた。
吉田茂が慌てて立ち上がり、椅子を後ろに倒していた。

150shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/09(土) 14:14:23
真っ青である。
「わ、私ですか・・・」
それまで、吉田は、濱口さんがどうやら辞める積りらしいな、と他人事のように話を聞いていたのだった。
後任は、幣原外相かな、それとも永田さん辺りに振るかな、戦時だしなあ、などと気楽に考えていたにしか過ぎない。
吉田は、イタリア大使から急遽帰国させられ、それ以降は、総研と政府の間で外交関連の交渉取りまとめを中心に実務をこなしてきていた。
時に、皮肉交じりで意見を述べる態度から、幣原外相には煙たがられていたが、何故か邪険にはされなかった。
まあ、帝国も伸張しているし、自分もそれに寄与していると言う仕事上の満足感もあり、後8年もすれば、落ち着いて悠々自適の生活を思い描いていたに過ぎない。
突然の事で、舞い上がってしまい、立ち上がっていたが、改めて周りを見回すと、総研の主要メンバーは、納得の表情を浮かべている。
井上に至っては、ニヤニヤ笑みすら浮かべているのが、癪に障った。
「「のと」資料ですね。」
吉田はその理由に思い当たり、鋭く言う。
全員がほおっと、驚いた顔を浮かべて、また逆に納得してしまう。
これまで、自分もかなり仕事を任されていると思っていたが、その割には、「のと」資料の閲覧ランクが上がらなかった事が、今になって思い当たる。
「そうか、吉田君は、資料は閲覧できなかったんだな。」
「ハイ、流石に、彼に閲覧させる訳にはまいりません。これは所長の判断でもありました。」
梅津が簡素に答えた。
「それでは、所長に閲覧ランクの引き上げをお願いしよう。
これからは、彼もその立場で動いてもらわんとな。」
どうやら、「のと」世界では自分は結構頑張っていたようだ。
そんな事で、弱みなんか見せてなるものかと言う思いに、思わず、自分がやった事を聞きたくなるのをぐっと堪える。
「それでは、来年の開戦を持って、内閣総辞職、後任には挙国一致内閣として、吉田茂を首相指名する。
皆さんも異議はないでしょうな。」
吉田の「のと」世界での経歴を知っているものは、納得したように頷いている。
それはそうである。
戦後の内閣総理大臣を五回も務め、しかもサンフランシスコ講和条約を結んだ人物である。
適任と言えば、彼ほど適任者はいない。
事情を知らない他のメンバーは、濱口首相の言い方に口を挟めるものでもなかった。
本人があっけに取られている間に、次期内閣総理大臣は、あっさりと決まってしまっていた。

151shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/23(土) 21:32:18
1937年6月14日
 所々に低い潅木か生い茂る以外は、目立つものが何もないこの地では、周りから少し高くなった所に設けられた、その建物は結構目立つ。
 逆に言えば、二階建てのその建物の屋上に設けられた四角い監視所に立つ兵士からすれば、近づいてくるものは、かなり早い段階から見えている事になる。
 しかしながら、その兵士は命令された通り、対岸を監視していたため、反対側から近づいてくる幾つかの車輌に気がつくのが遅れたのは、仕方の無い事だった。
 それでも、彼は気がつくと直ちに、下に声を掛け、下士官らしい人物が確認に上がって来、小さな監視所は、慌しい気配に包まれた。
アムール川を挟む川沿いの、渡河可能な地点に、このような監視所が整備されたのはここ数年の事だった。
 施設そのものは、中華政府のものであり、現にそこに詰めている兵隊は独逸軍に良く似た民国軍服を羽織っている。
 対岸からは、ある程度目立つように作られた監視所であるが、その後方は一段と低くなっており、車輌が何台か止まれる空間が確保されていた。
その広場から伸びる道らしきものを通り、高機動偵察車に先導されるように、一台の兵員輸送車が監視所に接近してきたのは、流石に対岸からは見えようもない。
帝国軍では、正式には高機動偵察車と呼ばれている車輌は、オープントップの四角い車体に、相応のエンジンを積んだだけの、四輪駆動の車輌であるが、その手軽さと利便性の為、非常に重宝されている。
プロトタイプは、30年代初頭に早々に作られ、あっという間に、旅団の標準装備になってしまった車輌であるが、ジープと言う通称の由来を知っているものは少ない。
これに対して、兵員輸送車は、一応正面からなら9ミリ程度の機銃弾では貫通出来ないよう装甲も施し、後輪の代わりにキャタピラ駆動の本格的なものである。
帝国総軍でもそれほど配備が進んでいる訳でもなく、近衛教導兵団でもなければ、旅団本部以外では滅多に見られないものである。
 監視所後ろの広場に辿り着くと、ジープからは、二名の将校が降り立ち、後方の兵員輸送車からは、若い将校と兵士達が素早く飛び出し、整列する。
予め、待ち受けていたのであろう兵に、その若い将校が何かを告げると、彼は慌てる様子も無く、監視所の中に戻って行った。
「全く、たるんどる。」
停戦監視団のま新しい制服を纏った少尉が、よっぽど、そんな兵の態度が気に入らなかったのだろうか、イライラと辺りを見回しながら、声高くつぶやく。
「まあ、そういらだつな、なんせここは辺境だ。こんな所で何か起こるなんて、国軍も思ってる訳ない。」
ジープから降り立った将校の一人が気軽に声掛ける。
「そうはおっしゃいますが、中尉、士気の弛緩は重大問題です。帝国軍なら彼らは懲罰もんです。」
「あのなあ、榊なあ。」
それを聞いていたもう一人の全体の指揮官らしい将校が横から口を挟んだ。
「はっ?」
突然指揮官に話しかけられ、戸惑いながら、統合本部作戦部停戦監視団派遣将校榊少尉は、答える。
「お前な、判ってるのか。俺らは帝国軍ではない。停戦監視団派遣将校だ。しかも、彼らは中華民国国民政府東北辺防軍所属のれっきとした部隊だ。帝国軍の基準で物事を判断するな。」
「いえ、そうはおっしゃいますが、軍は軍です。あのような緩慢な動きでは、敵に漬け込む隙を与えます。」
真っ直ぐに、見つめる目が、自分の言っている事に間違いは無いと心から思っているのが判る。
佐藤はうんざりとした顔で、榊の顔を見つめた。
こいつ、本当に、若い、若すぎる・・・
ここ、数年の改革で、士官学校もかなり変わったと聞いているが、それでもこんな坊ちゃんが出てくるとは。
佐藤は同行した、将校を振り返るが、彼は黙って首を左右に振るだけである。
佐藤は頭を抱えたくなった。

152shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/23(土) 21:33:02
統本情報部は、一課から七課までの課からなっており、それぞれが担当地域を担っている。
情報部にはそれ以外に総務課がおかれている。
総務課には、後の世界で、庶務と呼ばれる一般雑務をこなす係もあるが、情報部においては、特別な扱いを受けていた。
通常は、五年前より受け入れが始まった事務系の女性兵士が、総務課より各課に派遣され、雑務をこなしているが、時折、そんな彼女達とは全く毛色の違う将兵が総務課より各課に派遣されてくる。
彼らか派遣されてくると、課長と打ち合わせをし、時には何人かの課員が呼ばれ、必要な情報を入手すると、出て行って暫くは戻ってこない。
否、場合によっては、それきり音沙汰の無い場合すらある。
勿論、課員は、彼らが何者かは判っているが、それは口にしない。
総務課特務班、世界の様々な紛争地域を渡り歩き、時には非合法な活動もこなしながら、情報部の必要とする情報を入手してくる実働要員だった。

佐藤が短い休暇を終え、特務班に顔を出すと、直ぐに班長に呼ばれた。
「体調は?」
「万全です。」
「そうか。この書類に目を通し、一時に部長室に出頭するように。」
班長は、めんどくさそうに書類を渡すと、もう用は無いというように、手で追い払う。
一言なんか言ってやろうかと思うが、罵声ではこの班長には勝てそうに無いので、黙って書類を受け取り、軽く頭を下げ、自席に戻る。
パラパラと渡された書類に目を通す。
一目見て、今度の任地は中華東北区である事が見て取れた。
俗に言う、満蒙である。
挟み込まれた白地図には、現在の満蒙地域の北辺軍、所謂張学良が指揮官の中華民国国軍の配置から、停戦監視団、帝国軍の配置まで全て記載されていた。
そうか、ロシアか・・・
更に地図には、アムール川を挟むように、対岸に位置するソ連軍の配置状況まで記載されている。
しかし、最近何かあったかな・・・
書類に尚も目を通しながら、佐藤は一人で、状況を推測してみる。
ソ連が脅威であることは、今も昔も変わらない。
しかしながら、ここ数年は国境紛争等も起きておらず、おとなしいものだった。
と言うことは、何か起きるのか、いや、起こすのか?
起こすなら、自分がそれを命じられるのは願い下げだなと思いながらも、取りあえず、与えられた情報は全て把握するように、少し真剣に書類に目を向けた。

153shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/23(土) 21:33:39
「失礼します。」
部長室に入ると、既に先客がいた。
「梅津だ。宜しく。」
軽く頭を下げ、指し示されたソファに腰を下ろす。
「資料は読んだな。早速だが、行き先は、乾岔子(カンチャーズ)島だ。」
その名前を聞いても、一体何処にあるのか、佐藤には全く検討がつかなかった。
「アムール川沿い、ハルピンの北西400キロの地点、言うまでも無く中ソ国境だ。」
佐藤は、いやそうに繭をしかめる。
「一応、一個中隊を付ける。身分は、停戦監視団派遣将校。後方支援としては、ハルピンで習熟訓練中の戦車中隊が、演習も兼ねて、国境周辺を警備中だ。指揮官は島田大尉。50キロ程上流の、アイグンで、中華民国北辺軍に引渡し予定の新式河川砲艦が試験中だ。こちらは、木村大佐が試験管として乗船していることとなっているので、いざとなったら、彼の指揮下に入るように。」
佐藤の眉が釣り上がる。
ここまで、大掛かりな準備が整っている以上、事はただ事ではない。
「「のと」情報は知ってるな。」
改めて確認するまでもない。
総務課特務班が派遣される地点は、「のと」情報と呼ばれる丸秘情報からによる場合が多く、その由来は様々な噂があるが、精度の高い防諜情報である。
「今回は、精度はそれ程高いものではないが、アムール川にある中州に、ソ連軍が侵攻を企てているとの事だ。」
なるほど、その為の出動ならば、良く判る。
しかしそれが、特務班が動くほどの事なのか。
佐藤の疑問が顔に現れたのか、梅津が尚も話を続ける。
「現地指揮官の独断ならば、単なる国境での小競り合いで終る。しかし、裏でソ連首脳の意思が働いていたら、どう思う?」
「威力偵察ですか?」
何らかの意図があり、実施されるならば、それはその後の侵攻準備に他ならない。
なるほど、欧州でも徐々にきな臭い雰囲気が漂い始めていると聞く。
ソ連が動くとすれば、東か西か、どちらも可能性はある。
西が慌しくなり、列強がそれにかまけている間に、東で動く可能性、逆に東を固めておき、その間に西で動く可能性、両方とも可能であろう。
いくら、現在は大きな紛争も無く、帝国とソ連、中華の関係が比較的良好とは言え、ソ連が中国共産党を支援しているのは、公然の秘密だし、ロシアはロシアである。
「どちらの可能性が高いと考えられますか?」
「その判断がつかんから、情報部が動かざる得ないんだよ。」
それまで、黙って聞いていた堀部長が、ポツリと言った。
ごもっとも・・・
佐藤は、軽く頭を下げ、部長に敬意を表する。
「まあ、どちらにしても、禍根を断つため、中洲への侵入者は殲滅してくれ。但し、あくまでも中華国軍の手によってだ。」
「それは・・・難しいですね。」
「判っている。しかし、国軍が国境紛争一つ解決出来ないと判れば、ソ連はつけ上がる。帝国が他の地域での紛争にかまけて、動けないと見れば、何をするか判らんからな。」
なるほど、帝国は欧州に参戦する積りらしい。
その位は、ここにいれば、佐藤でも判る。
梅津はその辺りまで理解したらしい佐藤の顔を満足そうに見つめる。
まあ、「のと」資料では、陸軍中野学校の創設者と書かれている以上は、この位は当然か・・・
そんな事を梅津が考えているのは、佐藤幸徳中佐には、判るはずも無かった。

154shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/23(土) 21:34:20
「大尉、田中大尉・・・」
「うん、あっ、俺か。」
生半可な返事を返すと、若い榊少尉の顔に、この人大丈夫かと言う表情が浮かんでいる。
佐藤は、思わず心の中で苦笑する。
今の自分は佐藤ではなく、田中大尉だった。
いかん、いかん、気をつけなければ・・・
と言っても、佐藤がそれを気にしている訳でもない。
40過ぎて、うだつの上がらない大尉役なので、結構気に入っている。
ぼおっとしていても、誰も不思議に思わないし、呼ばれて返事をしなくても、怪しまれない。
結構楽だな、大尉と言うのも。
「で、なんだ。」
「監視所の司令がお見えです。」
「おお、それは如何、挨拶せねば。」
大げさに驚いて、後ろを振り返ると、自分と似たようなやや小太りの少佐が困った顔で、こちらを見ていた。
いかにもぞんざいな敬礼を交わす。
それでも、階級章から、少佐と判るので、相手が手を下ろすまで、ちゃんと待った。
「停戦監視団、田中大尉、二人は、大衡中尉、榊少尉です。」
「東北辺防軍、劉少佐です。何かあったのですか?」
どちらかと言えば、濁音がきついが、それでも流暢な英語が帰ってくる。
昔は、日本語か北京語が使われていたが、最近では英語が共通語になりつつある。
勿論、佐藤も英語どころか、北京語も使えるが、ここはわざとゆっくりとした英語で答える。
「先月、北安郊外で、問題を起こした共産匪賊を追っています。ええっと、ソ連に逃げ込もうとしているとの情報があり、暫くこの辺りで警戒させて頂きたい。」

155shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/23(土) 21:35:01
これは本当である。
蒋介石も張学良も、共産党の暗躍には手を焼いていた。
流石に、大規模な紛争は、治まっていたが、共産党はその代わり、徹底したゲリラ戦法に切り替え、あちこちで小競り合いを引き起こしている。
特に満州地区では、中華本土の腐敗した利権構造の為、逃げ出してくる人々が後を絶たず、お蔭で、紛れ込んでくる共産党員もきりが無かった。
まあ、満州地区では、停戦監視団や、東北辺防軍そのものが、利権構造とは無縁の存在であるので、中国中央とは違い、それほど彼らには活躍の場所は無い。
それでも時折、郊外で爆弾騒ぎなどか起こるのは止められなかった。
何せ、裏ではモンゴル経由で、ソ連製の武器弾薬が流れ込んでおり、幾ら規制しようとしても、広い大陸故、抜け道はいくらでもあった。
 ちなみに、東北辺防軍そのものが、利権構造から切り離されているのは、何も張学良を含む北方軍閥が、精錬潔白な訳では無い。
フリートレードゾーンのせいで、通関手数料である、3%以上の賄賂を要求できないため、通行料や、その他の名目で、軍隊が上がりを掠める事が出来なくなってしまった為である。
しかも、高畑達が、彼らに投資顧問を派遣し、裏技的な金儲けの方法を伝授している点も大きかった。
彼らは、満州地区の治安の維持が、日々増えてゆく資産の為に必要不可欠なものである事を良く理解しており、それ故、東北辺防軍が健全である事が要求されていたのである。

目の前にいる中国人の少佐も、その新しい東北辺防軍を良く表わしていた。
昔の軍閥と違い、この五年間で彼らの待遇は遥かに良くなっている。
しかも、少佐ともなれば、収入はかなりのものである。
制服も自分で誂えたものであろう、佐藤達が着ている停戦監視団のものよりも見栄えが良い。
血色の良さそうな顔に、小太りではあるが、流石に軍人らしく、無駄な贅肉に塗れている訳では無い。
今は、佐藤が手渡した、書類に目を通してるが、その態度も堂々としている。

156shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/23(土) 21:35:45
「判りました、暫くこの辺りで、警戒待機されるのですね。宿舎は、どうされます?」
別に、彼が親切で言っている訳ではない。
いや、劉少佐の場合は、親切心からかも知れないが、とにかく、停戦監視団と北辺軍の間の協定では、北辺軍が提供したサービスには、相応の代価が支払われる事となっており、その請求は、よっぽど無茶を言わない限り、受け入れられる。
「いや、お申し出はありがたいのですが、共産匪賊に網を張って待ち伏せですから、そう言う訳には行かないんですよ。」
佐藤は残念そうに、言う。
北辺軍の少佐クラスともなると、専用のコックを引き連れている事もある。
提供される料理は、後で請求出来る事もあり、かなり豪華である。
「ほう、それは残念ですね。まあ、今晩位宿舎においでになりませんか、食事くらいは良いでしょう。」
「えっ、それは、」
「大尉!」
思わず承諾しようとすると、横から榊少尉が、肘でつついてくる。
「折角ですが、特命ですので、お受けする訳には参りませんよね、大尉」
「えっ、おまえ、な、何を・・・」
「お忘れですか、あくまでも気付かれないように留意を払えと言われたじゃないですか。」
「そ、それは・・・そうだが、しかしなあ・・・」
二人がこそこそ話し出したのを、劉少佐は、少し呆れ顔で、大衡中尉に視線を向ける。
年下の少尉が、うだつの上がらない大尉に諫言している図そのものの構図に、何とも言えない。
大衡中尉が、無駄ですと言うように、首を軽く振る。
「命令です・・・」、「日華友好・・・」とか言う言葉が聞こえてくるが、やがて意見がまとまったようだった。

「失礼致しました。劉少佐、まことに残念ながら、そのお誘いもお断りせざるを得ません。」
大尉は非常に残念そうな、いや未練たっぷりでこちらを見つめてくる。
きっともう一度誘いを掛ければ、今度は喜んで乗ってきそうである。
しかし、横にいる若い少尉は、さも当然であると言う顔で、真っ直ぐに見つめている。
まあそこまで、誘う義理もないし、何よりもそうなった時に、この若い将校のいらぬ恨みでも買いそうで怖い。
「判りました。まあお互い仕事ですからね。それで、食料の方は?」
「ああ、それは、後で兵舎の方に、給食班を向かわせますので、宜しく。」
「そりゃ良い、兵が喜びます。では宜しく。」
敬礼を交わすと、停戦監視団の三人の将校は、まだぶつぶつぼやいている大尉を中尉があやすように、何か言いながら、部隊の方に戻って行った。

157shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/23(土) 21:36:26
あれじゃ、本当に共産匪賊とやらを捕まえられるのかね。
そんな事を思いながら、北辺軍少佐も、監視哨の中に戻る。

少なくとも、これで北辺軍には警戒されることは無かろう。
まだ心配ならないと睨んでいる榊少尉を半分からかいながらも、佐藤は心の中で一人頷く。
最も、中華料理を食べ損ねたのは本当に残念ではあったが。
まあ、食材を交換出来るから、隊の給食班が何かそれらしいものを作ってくれるのを期待するか。

大陸からの撤兵からこっち、導入された新しい制度に、給食班の整備があった。
それまでのような、兵一人一人に、飯ごうを持たせ、自炊させるのを廃止し、給食班による一括調理による配給制に部隊の食事は変わっていた。
食材は予め、補給品として用意されており、現地での略奪まがいの行為は堅く禁じられている。
これは、民衆の恨みを買わないために当然と言えば当然の事なのだが、その代わり、いかにも日本人らしく、食事に凝る給食班の班長達は、物々交換による食材の調達を行うようになっていた。
軍も、最初は便衣隊などの暗躍を恐れ、禁止しようとしていたが、それも今では積極的に奨励している。
帝国が持ち込んだ食材に、意外と人気がある事が判ったせいだった。
缶詰で提供される、鯨の大和煮や鮭や鮪の水煮等は、結構現地でも喜ばれた。
そして、最も人気のあるのが、五年前から食材に導入された乾燥麺だった。
何よりも、長期保存が利き、かさばらない点が、導入の理由だったが、予め味付けし、揚げてある乾燥麺は、お湯に入れて茹でるだけで結構上手いと評判になっていた。
製造元の日新製粉では、増産に励んでいるらしいが、まだまだ中華の辺境では数が少なく、貴重品扱いとなっており、補給班が、設営の準備を始めると、近所の農家から、食材を持って交換に来る程だった。

「それじゃ、少尉、何名か連れて、他の小隊の配置を確認してきてくれ。ジープを使ってかまわんよ。」
佐藤は辺りの地図を取り出し、眺めながら、榊少尉に告げる。
「この辺りが野営地に使えそうだな。取りあえず、この辺りが本部になるか。」
「そうですね、そこなら、隠れるにも適してそうですし、川にも近いですね。」
横から地図を覗き込み、大衡が答える。
「うん、どうした、何かあるか。」
佐藤は、榊がまだ動き出さないので、不振そうに声を掛ける。
一瞬、何か言いたそうな顔を浮かべた榊少尉だが、すばやく敬礼すると、きびすを返して、兵隊を呼び、準備にかかる。

158shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/23(土) 21:37:06
「彼、絶対、大尉が自分のいない間に、大佐の招待を受けに行くんだと思ってますよ。」
馬鹿言えと言う顔を大衡に向けながら、それには気が付かなかったと一人納得する。
まあ、仕事が無ければ、否定は出来ないな。
あいつ、絶対サボらないで下さいと言いたかったんだろうな。
流石に、上官二人に対して、そこまで口は聞けない。
それに兵も見ている。
兵隊の前では上官の悪口を言わない位の教育は受けているようだった。
しかし、あまりに手を抜くとその内には彼もそんな教育も忘れてしまいそうだった。
まあ、二週間も一緒に行動していると、その辺はさっしが着く。
新任の榊少尉にすれば、自分のような上官は許せないのだろう。
偵察車に、三名程の兵隊を乗せ、榊少尉が出発して行くと、佐藤は改めて、残りの兵隊を見回す。
残った兵隊達は、休めの体制のままで、こちらの指示を待ち受けている。
全員がこれからの行動に興味津々であるが、それでも殆どの兵隊がその気持ちを上手く隠しているのに気が付き、佐藤は心の中で微笑む。
兵達の多くは、召集兵ではなく、ある程度熟練兵を選んであるのが判るだけに、安心出来る。
特に、残った下士官は、いかにも歴戦のつわものとと言う感じで、完全な職業軍人そのもののふてぶてしさで待機している。
十分な間合いを取り、兵たちから少し距離を置いて何気なさそうに佇んでいるが、警戒は崩していない。
昭和維新後、大きな紛争も起きていない帝国軍に取り、貴重な実践経験者であろう。
一瞬、視線が会うと、曹長は慌てて目を逸らした。
その仕草に、ふと疑問を感じ、佐藤は曹長を手で差し招く。

159shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/23(土) 21:37:47
「ここの手前500メートル程戻った所に道があっただろう。ここだ。」
地図を広げ、曹長にも見えるように示しながら、佐藤は話す。
「ここを暫く進んだこの辺り、ここに本部を築く。ところで貴様、任務は聞いているか。」
流石に、隊長の自分がそう聞くのもおかしい気もする。
数年前までは、何をしに行くのかが知らされる方がまれだったのだ。
どこかで、引っかかる気がしたため、会話を繋ぐ為に聞いただけだった。
「はあ、一応は。」
曹長も、何か迷っているようで、言い方が曖昧である。
しかし、何か覚悟を決めたらしく、曹長は、ビシッと背筋を伸ばすと、
「失礼いたしました。本職の聞いていますのは、建前だけであります。田中大尉殿。」
やや痩せた鋭い目つきの曹長の、覚悟を決めて、探り入れるような言い方に、佐藤の目が少し動く。
『だいい』、『たいい』ではなく、旧陸軍の呼び方である。しかもご丁寧に『どの』まで付けている。
総軍創設以来、殿は普段は使われなくなった。大尉も陸海共通の『たいい』に変わっている。
ピンと来るものがあり、少し口調を改める。
「貴様、軍に何年になる。」
「ハッ、今年で20年です。先の大戦の折には、歩兵第32連隊でした。」
そうか、あそこにいたのか。それでは隠しても仕方ない。
佐藤は、大衡と目を合わせ、頷きあう。
歩兵第32連隊は、当事佐藤が中隊長を務めた部隊だった。
そして、大衡も、違う名前でそこにいたのだった。
「確か、チンタオだったな。名前は?」
「ハイ、坂口健吾特務曹長です。」
坂口は、あの頃まだ一等兵だった筈だ。それが特務とは、偉くなったもんである。
「そうか、坂口一等兵か、偉くなったなあ。」
大衡も、やっと思い出したのか、嬉しそうに言う。
「はっ、ありがとうございます。」
坂口がほっとした顔で、嬉しそうに答える。
そりゃそうである。
指揮官として、二名の将校が赴任してきた時、坂口は唖然とした。
二人とも、年はとっているが、明らかに坂口が最初に配属された部隊の小隊長と中隊長である。
当時連隊で、佐藤中尉と仲村少尉の凸凹コンビを知らないものはいない程の二人だった。
普段は、将校にしておくのはもったいない程、気さくで、とにかく兵を大事にする指揮官だった。
戦闘となると、人が変わったように、獰猛になるが、それでも、その命令はその後の無理難題を吹っかける天保銭将校とは全く違っていた。
それに、この二人はきっと忘れているであろうが、坂口は中隊長に命を救われたと信じている。
この中隊長がいなければ、そして、自分の属した小隊の指揮を仲村少尉が取っていなければ、あの時生きては帰れなかっただろう。
そんな、軍では珍しい事に、坂口自身が敬愛する指揮官二人組みが赴任してきたのである。
本当ならば、挨拶に行きたい所だったが、名前と階級が合わない。
坂口が覚えている中隊長は、佐藤幸徳の筈だが、田中幸徳と名乗られているし、小隊長は仲村栄一が、大衡栄一となっている。
二人とも、どこかの家系でも継いだのかとも思ったが、それよりも階級が合わない。
確か、中隊長は五年前に中佐になられていた筈だし、小隊長は少佐だった筈である。
何かある。
伊達に、特務曹長と名乗っている訳ではない。
それくらいは、坂口も察しがつく。
ここは、黙っていなければと思うのだが、それでも本人達を目にすると、落ち着かなくなるのはどうしようもなかった。

160shin ◆QzrHPBAK6k:2006/12/23(土) 21:38:34
「それで、坂口曹長、どうして建前と気がついた。」
一通りの歓談を終らせ、佐藤が問いかける。
少なくとも、坂口のような歴戦の曹長が部隊にいるのは安心できる。
まあ、兵隊の経歴を確認しないで、編成を考えたやつには、帰ったらきっちりと落とし前はつけさすが、今はありがたい。
「ハッ、中隊の兵が、古参中心で選抜されております。それに、武装もほぼ充足体制です。」
言う通りだった。
近衛教導兵団ならばいざ知らず、沖縄特選管区所属の監視団派遣部隊にしては、装備が良すぎる。
「ふむ、やりすぎかな。で、それだけか?」
「いえ、戦車中隊が、後方に待機している点も、尋常ではありません。」
坂口が付け足す。
やはり、曹クラスの情報網は侮れない。
特に、任地によっては自分達の命が掛かっているだけに、情報収集は死活問題だろう。
「これは、何かあると思いましたが、やばいのは出来れば遠慮させて貰いたいと、他の連中と話しておった所に、大尉が着任されました。」
坂口が、言葉を選ぶように、話す。
「大尉が、あの当事の中隊長のお知り合いの方ならば、邪険にはされまいと、後は当たって砕けろです。」
「おまえなあ、他の連中だったら、ただじゃすまんぞ。」
佐藤はあきれてしまう。
自分だから、かなり突っ込んでも大丈夫だと言われては、あまり好い気はしない。
「ハッ、申し訳ございません。何分当事の中隊長は、それは型破りの方でしたから。」
隣で仲村が、笑いを堪えて真っ赤になっているのが、余計に気に障る。
しかし、一体どんな話になっているのか。
今回の件が終ったら、聞き出さねば。
「うむ、良く判った。詳しい事は言えんが、露西亜が越境してくる可能性がある。」
とにかく話はそこまでにし、声を落として、要点だけ伝える。
「場所は、一キロ程上流の中洲、乾岔子(カンチャーズ)島が怪しい。場合によっては、河川砲艦がお出ましの可能性もある。」
「河川砲艦ですか、剣呑ですな。」
坂口も、打って変わって真面目な顔で、一言も聞き逃すまいと、顔を寄せる。
「問題は、ここが中華だと言う事だ。撃退、いや殲滅してしまう必要はあるのだが、帝国軍が全面に出る訳にはいかん。」
「それで、三八が多いんですか。」
坂口も、兵員輸送車の中に、普段より余分に三八式歩兵銃が積んであるのは気が付いていた。
歩兵の携帯兵器は、五年前から順次、新式の九二式小銃に更新が進められていた。
40発入りの弾奏を用い、連射の効く小銃は、重宝がられていたが、三八式も、一部程度の良いものは残され、主に狙撃銃として部隊では、射撃の上手いものに渡されていた。
その三八が余分に積んであるのである。
北辺軍に紛れて、三八による狙撃を多用しようと言う考えは、坂口でも思いつく。

こいつ、中々鋭いな・・・
いや、この位は誰でも思いつくか。
佐藤は、少しがっかりしながらも、それは表情には出さない。
「そうだ、北辺軍があくまでも主功で、帝国軍はそれをサポートする事となる。遠距離からの狙撃や迫による砲撃、夜間戦闘、トラップの準備、貴様にやってもらう事は、沢山ありそうだな。」
軍は下士官で持つ。
ばれてしまったのは問題だが、この場合逆に良かったかもしれない。
信頼できる下士官が一人いるといないでは、その後の展開が全く違ってくるのだから。

161shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:22:46
「大尉、大尉!」
テントの外から押し殺したような声で、榊少尉が叫んでいる。
本部を決め、設営を行ってから五日が過ぎていた。
最初は、部隊にも緊張があったが、それも五日目の明け方近くともなると、少しずつ弛緩した空気が広がり始めていた頃だった。
「なんだあ・・・」
いかにも寝てましたと言う顔を浮かべ、佐藤はテントから出る。
「巡回に出ていた兵からの報告です。対岸で何かおかしな動きがあるとの事です。」
「お前、そんな事で俺を起こしたのか。全く、一体なんだってんだ。で、巡回に出てたのは誰だ。」
ちょっとやりすぎかなとも思うが、少し怒った顔で、榊少尉を睨む。
「ハッ、坂口曹長の分隊です。おい、曹長!」
暗闇の中から、坂口が進み出る。
坂口に分隊を与え、夜間の警戒に行かせたのは佐藤自身なのだが、それは言わない。
二日前に、密かに対岸の偵察に出向いた仲村が、情報を掴んで来ていた。
それによると、戦車数台を含む、大隊規模の部隊が前進して来ていた。
しかも、その後方には更に、数個師団規模の部隊が待機しているようである。
まあ後方の師団は、あくまでも後詰であろう。
師団規模での戦闘となると、最早国境紛争と呼べるレベルを超えてしまう。
第一そこまでの部隊を対岸に渡すための船舶の手配が行われている気配は無かった。
少なくとも大隊規模の部隊で、用意が整い次第、乾岔子(カンチャーズ)島を占領してしまう気であろう。
「対岸で、何やら音が聞こえました。」
「うん、対岸の音?」
「ハイ、夜間ですから結構遠くまで聞こえます。いや、対岸まで聞こえる程ですから、一両や二両の車輌が動いている音ではありません。」
「ふむ、ロシアが何かたくらんでいるのか。匪賊の迎えの準備か?」
自分でも白々しすぎて、声が棒読みに近くなっているのを慌ててごまかす。
「榊少尉、どう考える。」
「ハイ、共産匪賊がロシアと連絡を取っているならば、対岸で何か騒ぎを起こし、その間に、それほど遠くない地点からの渡河かと。」
「うむ、悪くないな。しかし、この辺りで渡河できるのは、我々のいる地点だぞ。その間をどうやって通り抜ける積りだ。」
「はあ、そうですね。あっ、逆に対岸ではなく、カンチャース島辺りで騒ぎを起こす積りでは。そうすれば、我々もそちらに気を取られて、監視哨と配置の間の警戒が薄れるかと。」
坊ちゃんだと思っていたが、榊も割合と頭は働くようである。
それ程誘導する必要もなく、望みの答えに辿り着いてくれた。
但し、ロシアの連中は別に匪賊を迎えに来るのが、その目的ではないだろう。
実際はこちらが予めリークした匪賊の話に乗って、中華領である中州を占領してしまおうと考えているのであろう。
「あっ、そう言えば、小型船舶でしょうか、トラックとは違うエンジン音も聞こえました。」
「あたりだな。で、どうする。」

162shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:23:23
「はっ、直ちに、我々も部隊をカンチャース島まで前進させ、待ち伏せします。敵の侵攻を阻止し、速やかに現状復帰致します。」
「40点」
「はあ、」
「一つ、ここは中華民国領だ。帝国軍が動く訳にはいかない。二つ、我々は停戦監視団であり、帝国軍ですらない。従って、国境紛争には介入する訳にはいかない。」
「あっ、そうですね・・・ それでは、直ちに劉少佐に連絡、我々は対岸で監視を継続。特に匪賊の渡河に注意を払います。」
「うーん、70点。」
「えっ、と言いますと。」
少しむっとしているのが判るだけに、面白い。
本当に、若いやつは判りやすくて楽しい。
「北辺軍は、大切な友邦である。我々はその辺りも考慮する必要がある。」
「直ちに、戦闘準備を整え、第一、第二小隊は、北辺軍の支援、第三小隊は、匪賊の接近に備え後方警戒に当たる。大衡中尉!」
「はっ!」
いつの間にか、出動準備を終えた大衡中尉が後方に控えている。
「第三小隊を任す。榊少尉!」
「は、ハイッ!」
いつもと違い、突然厳しい口調に変わった、佐藤に驚きを隠せない。
「直ちに、北辺軍劉少佐の元に行き、状況を報告。」
「ハイ!」
「あっ、それから、劉少佐には、「監視団は、表立っては国境紛争には関われませんが、出来うる限りの支援は致します。」とちゃんと伝えるんだぞ。それと、準備が整い次第、こちらから伺うともな。」
最後だけ、いつもの佐藤の口調である。
声を潜め、まるで子供の悪巧みを告げるような、その言い方に、榊は少し憮然とする。
「ハイ、了解しました。」
それでも、軽く答礼すると、急いでジープに走り寄る。

「やけに、丁寧ですね。」
大衡中尉事、仲村がニヤニヤしながら、佐藤につぶやく。
「なに、部下を育てるのも、上官の仕事だ。」
仲村は、口を半分開き、何か言おうとするが、それを飲み込み、頭を左右に振る。
イヤイヤ、この人がそれだけの理由で、これほど懇切丁寧に、状況を理解させた筈は無い。
きっと、榊少尉は大変な目にあうのだろうな・・・
佐藤も、仲村との付き合いは、長い。
何を考えているのかは、判ったが、特に何も言わない。
どうせ、こいつもその辺りは判っているだろう。

163shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:23:56
「坂口曹長!」
気持ちを切り替え、坂口を側に呼ぶ。
本部用のテントに入ると、仲村が手早く付近の地図を床机の上に広げる。
「迫の小隊は?」
「ハイ、ここに適当な場所がありました。正面は潅木に覆われていますが、十分な射角が取れます。一応、カンチャース島の要所までの方位、距離の計測は済ませました。広さは、不十分でしたので、兵を使い、広げてあります。」
やはり、有能な下士官を持つと楽である。
仲村と連絡を取りながら、既に準備を済ましている。
「移動地点は?」
振り返って、仲村に確認する。
「一応、第三までは、整備してあります。それ以外には、予備として未整備ですが、二つほどは。」
そんなの当たり前でしょと言う顔で、仲村が答える。
時々、無性に腹が立つのは、こういう時だ。
副官としては、申し分ないのだが、態度がでかいのが玉に瑕である。
佐藤は自分の事を棚に上げて、仲村をジロリと睨んだ。
そんな佐藤にびくともしないのが、仲村である。
あくまでも涼しい顔で、次の命令を待ち受ける。
「よし、カンチャース島自体はどうだ。確か中華の役人と、数名の砂金取りの連中がいた筈だが。」
「ああ、砂金取りの連中は、既に昨日退去しています。臨時収入が入ったと町に行くと言っておりました。役人の方は、突然北平からの呼び出しで、慌しく出て行きましたが。」
やはり、その辺りは抜け目が無い。
「ふん、上出来だ。戦車中隊はどこまで前進している。」
「ハッ、後方10キロの地点で待機中です。」
「今は、まだその辺りで良いな。それじゃ、何か抜けはないか。」
坂口は、びっくりしたように、首を振る。
目の前の中隊長は、自分のような曹長をも参謀のように扱っている。
確かに、型破りな人だと思っていたが、良いのかこれで。

「よし、それじゃ、仲村、後は任せたぞ。坂口、貴様の率いる分隊に、渡河の準備をさせろ。渡河用の船は、」
ちらっと仲村を見ると、軽く頷いたので、そのまま続ける。
「場所は、良しここだ。ここで待機してろ。車輌は少し下げて隠しとけ。無線を忘れるな。俺は、監視所に行き、話を終えたらそこに行く。何か質問は?」
二人とも異論はなさそうだった。
「それじゃ、かかれ。」

164shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:24:39
監視所まで着くと、榊から話が通っているのか、辺りの雰囲気が慌しい。
乗ってきたジープの兵に、そのまま待機するように言い、佐藤は中に入る。
外観は、二階建てだが、コンクリートの床があり、どうやら指揮所は地下に設けられているようだった。
金があるって良いな・・・
ほんの少し前まで、国境地帯の監視所と言えば、塹壕と、簡単なトーチカだったものだ。
それが、ここ数年で、コンクリート作りの立派なものに代わっている。
地下に向かう階段の前で、歩哨に要件を告げると、直ぐに確認が済んだのか、通してくれた。
階段の奥に鉄製の扉があり、中は結構広い指揮所になっていた。
どうやら、地下式のトーチカを先に作り、その上に監視所を設けたようである。
確かに、これなら、上の監視所が破壊されれば、誰もここに指揮所があるとは思わないであろう。
中央のテーブルに地図が広げられ、劉少佐が、それを見ながら部下に指示を出している。
榊少尉がこちらに気付き、軽く目礼する。
佐藤は、劉少佐の側に寄り、軽く頭を下げながら、直ぐに話を始める。

「どんな状況ですか?」
「田中大尉、助かったよ。君の所の部下が知らせてくれたのでな。直ぐに小隊を編成し、カンチャース島に渡らせるよう指示した。帝国軍はサポートに回ってくれると言う事だが?」
劉少佐は、サポートに力を込めて、こちらを探るように問いかけてくる。
少佐も馬鹿ではない。
五日近くも側にいるのだから、佐藤の率いる中隊が、かなり増強されているのは判っている。
それを当てにしてソ連軍に対応するのと、しないのでは全く意味が違う。
「はあ、一応我々は、停戦監視団ですから、表に出るわけには行きません。まあ、ばれない範囲で、可能な限りと言うとこですね。」
「うむ、それでもありがたい。宜しく頼む。」
このおっさん、中々やるな。
最近でこそ、日本人をあからさまに嫌うやつは減ったが、それでもそれまでの態度が態度だけに、反感を持っているやつは、少なくない。
それが、階級が上なのに、素直に頭を下げれるとは、たいしたものである。
「判りました。出来うる限り援護させて頂きます。」
流石にこんな所で敬礼する訳にも行かず、少し姿勢を正して、答える。
「で、早速ですが、小管も、分隊を引き連れて、カンチャース島まで渡ります。榊少尉を連絡将校として、こちらに残しておきますので、何かありましたら、彼を通じてご命令下さい。」
「貴官が、行くのか?」
流石に、劉少佐は驚いたように問う。
「ハイ、ソ連軍の国境警備隊が、匪賊の援護として騒ぎを起こすだけならば、小競り合い程度で、引き上げるものと思います。」
「うむ、そうだろうな。」
「しかし、国境の警備状況を探ろうとしているのであれば、事はそう簡単には済まないでしょう。」
「貴官は、大規模な威力偵察の可能性があると考えているのか。」
「いえっ、今のところはまだそこまでは。ただ、その可能性もある以上、この目で確認しておきたいと考えております。」
「そうか、了解した。しかし、無理はするなよ。私も友邦の士官に怪我でもされたら立場が無い。それに、君にはまだ食事に付き合ってもらってないしな。」
「ハッ、これが済みましたら、是非とも御相伴させて頂きます。」
にやっと微笑みながら、再び頭を軽く下げる。
きびすを返し、二人の会話を、目を丸くして眺めていた榊を招く。
「榊少尉、貴様はここに連絡将校として残れ。ジープの無線に常に一人兵を付けておくのを忘れるな。」
「えっ、は、ハイ、了解しました!」
うむっと頷き、劉少佐に軽く会釈して出て行こうとした。
「あっ、大尉!」
榊少尉が後ろから声を掛けてくる。
「ご無事でお戻りください。」
こいつ、俺が危ない目に会うと思っている。
軽く頷き、指揮室を出ながら、思わずニヤニヤ笑いそうになる。
俺に言わせれば、どう考えても、こっちの方が危なくなる筈だった。

165shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:25:17
川沿いの、指定地点のかなり手前で、ジープを止めて、辺りを見回す。
おっ、あそこか。
坂口の分隊が乗ってきた兵員輸送車がどこかこの辺りに、隠してある筈だった。
そろそろ夜も明けようか、かなり明るくなってきていたが、直ぐには見つからなかった。
轍も綺麗に消して、半分埋まっているような感じで、上手く偽装してあり、最初から輸送車を見つける積りで見ていなければまず気がつくまい。
ジープから降り、運転してきた兵には、そのまま本隊に戻るように命じ、川に向かって歩いて行く。
この時期、やぶ蚊が多いのは閉口するが、内地と違い、乾燥した地面は歩きやすい。
直ぐに、坂口らが待ち受けている場所に到着する。
「用意は出来ております。そろそろあちらさんも、渡河の準備を進めているようです。」
坂口が直ぐに飛んできて、敬礼もそこそこに状況を報告する。
早く渡河してしまわないと、敵さんに見つかってしまうと言う気持ちがありありと浮かんでいる。
「おお、すまん、直ぐに行こう。」
「ハッ」
2艘のゴムボートを引きずるようにして、川に浮かべながら、全員がボートに乗り込む。
佐藤も乗り込むと、直ぐに小型のエンジンが動き出し、ボートはゆっくりとカンチャース島に向かう。
幾ら川向こうから見えない点を選んで渡河していると言え、くぐもったようなエンジン音に全員が、気が気でない。
こんな所を襲われたら、お陀仏である。
兵たちも、ボートに積んであった、オールだけではなく、小銃の銃把をも使って、必死に漕ぐ。
幸い、弾も飛んでこず、何とか島まで辿り着けた。
全員が手早くボートから降りると、そのままボートを陸の上に引きずり上げる。
何せ、ボートには武器弾薬も積んであるから、全員必死だった。
最も、既に前日までにかなりの弾薬を島に運び込ませてはいたが、弾は大いにこした事は無い。
後の手配は、坂口に任せ、佐藤は二人ほど兵を連れて、島の中央に向かう。
全周四キロ程の小さな島だが、中央部には、中華民国の領土である事を示すように、簡単な詰め所が建てられていた。
一応、気休め程度だが、塀も作られており、普段は役人も詰めている。
佐藤達がそこまで辿り着くと、既に北辺軍の兵士が詰めており、鋭い誰何を浴びせてくる。
勿論、撃たれては堪らないので、ちゃんと目立つように途中から通路の真ん中を歩いてきた。
相手が、停戦監視団の将校と判ると、慌てて敬礼して来るのを軽く制し、責任者を呼ぶ。
建物から走り出てきた将校は中尉だった。
「北辺軍、梁中尉です。」
「停戦監視団、田中大尉だ。劉少佐には話は通してある。で、どうだソ連の様子は。」
手短に話すと、何か言いたげだったが、直ぐに気を取り直して、話し始める。
「ハイ、先ほどから対岸の動きは更に活発になっています。もう直ぐにでもこちらに渡ってきそうです。」
「で、中華北辺軍としては、どう対処するのだ。」
「はあ、一応警告ぐらいはする必要があります。あいつらの事ですから、そんな事聞きはしないでしょうが。」
実に、嫌そうに梁中尉が答える。
警告を発するのは梁中尉自身であり、それの返事が銃弾である可能性は十分あるのだ。
「そうか、で、警告を聞かない場合の対応は、」
「相手から弾が飛んでこなければ、警告射、飛んでくれば応戦です。」
普段はそんな対応を取っているとはとても思えなかったが、それは言うべき事ではない。
少なくとも、停戦監視団がいる所ではある程度お行儀よく対応しようと、努力は認めるべきである。
「そうか、良く理解できた。監視団としては、これは国境紛争なので管轄外であるが、劉少佐とも相談し、万が一ソビエト連邦の国境守備隊が国境侵犯を行った場合、監視団と言う立場は表には出せないが、全面的に北辺軍に協力する。一応一個小隊連れてきている。軽機もある。直ぐに配置に着こう。」
勿論、梁中尉に依存はある筈も無い。
手早く、配置を相談し、兵達を持ち場につかせる。

166shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:25:57
「大尉、来ました。」
梁中尉と話していると、坂口が走ってくる。
早速、二人は対岸が見渡せる地点まで走りよった。
川向こうから、三隻の小型船舶がこちらに向かって来ていた。
あちらから見えないように、腹ばいになったまま、佐藤は双眼鏡を取り出し、眺める。
「一隻は、河川砲艦だな。後の二隻は武装はなさそうだ。全部で2、30人程度か。」
ふと、横を見ると、佐藤の手にしたカールツァイスの双眼鏡を羨ましそうに、梁中尉が見ている。
高い金出して手に入れた最新式だけに、自尊心がくすぐられる。
そのまま、双眼鏡を渡してやると、軽く礼をして、梁中尉も近寄って来る船を注視する。
「どうやら、やる気満々ですね。でも、あまり警戒しているようには見えません。」
「そりゃそうだろう、こんな早朝からこちらが待ち伏せしているとは思ってもいないだろう。」
二人とも、一旦下がって、話を続ける。
その前に、佐藤が手を出して双眼鏡を取り返すのは忘れない。
梁中尉も名残り惜しそうに、それを返す。
昔なら、戦闘のドサクサに紛れて双眼鏡欲しさに、後ろから撃たれかねないな・・・
物騒な考えが頭をよぎるが、慌てて打ち消す。
「しかし、あれじゃ、警告にのこのこ出て行くのは自殺行為だな。どうする。」
「そうですね。一応警告は発しないと・・・」
梁中尉も困りこんでいる。
「メガホンか何か無いか。それなら陰に隠れて、声は届くだろう。格好なんか気にしている場合じゃないと思うぞ。」
兵の前で弱気を見せる事と、実際の危険を天秤に掛けて、梁中尉はまだ悩んでいる。
「貴官が撃たれたら、指揮系統もあったもんじゃない。ここは格好より、実利だろう。」
そこまで言って、ようやく自分を納得させたのか、梁中尉は頷き、詰め所に戻って行った。

167shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:26:37
佐藤は、坂口を呼ぶ。
「迫は、あちらまで届くか?」
「はあ、射程はギリギリですが、何とかなると思います。」
「それじゃ、用意させとけ、とにかく今は追い払わねばどうしようもない。」
佐藤は辺りを見回し、暫く考え込む。
河川砲艦は、小型船舶に、76ミリ歩兵砲を搭載して、装甲を施したものであろう。
あれが本格的に撃ってくれば、こちらは下がるしかない。
少なくとも、まともな塹壕すら用意していない状況では、どうしようもない。
迫撃砲の砲撃に、慌てて下がってくれれば良いが、幸運を当てにする訳にもいかない。
対戦車小隊の37ミリが三門あるが、あれは川向こうだ。
こんな事なら、一門位こちらに運ばせれば良かったとも思うが、最初からそんな事まで出来る訳ない。
「坂口!」
「はいっ!」
真横で声がしたので、びっくりするが、隣にいるのだから当然だった。
「あれあるか、ええっと、携帯式の擲弾筒、グレネードとか言うやつ。」
「はあ、一応、小銃分だけは、運んできておりますが?」
あんなもん、使うんですかと、顔が語っている。
最新式の装備と言う事で、派遣される前に渡された携帯式の擲弾発射装置だった。
小銃の銃身に装着し、小型の手榴弾のようなものを500メートル程飛ばせるとの事で、使用実績を報告してくれと言われて渡されたものだった。
そんなうんさくさいものを渡されて、兵が喜ぶ筈も無い。
佐藤自身だって、最初に使うのは願い下げだ。
第一、手元で爆発したらお陀仏だし、銃にどんな負担が掛かるのかも判らない。
技官は、これは大丈夫だと言っていたが、「これは」が気になる。
それでも、この状況ではすがってみるしかない。
「直ぐに、配れ。迫撃砲の砲弾が飛んできたら、各自、そうだな三発発射しろ。方向は大体で良い。」
「はっ、手配します。」
坂口が走り去る。
佐藤も急いで、通信手の待機している所に走る。

「大衡中尉を呼び出せ。」
通信手は、直ぐにダイヤルを調整し、相手と話を始める。
直ぐに、マイクとヘッドフォンを佐藤に手渡す。
「大衡中尉、そこにいるのか?」
「ハイ、大衡です。」
「直ぐに、戦車中隊、島田大尉に連絡を入れ、川沿いまで前進して貰え。それと、排土板が着いた車輌がある筈だから、直ぐにこちらに渡せるように用意しとけ。」
「あー、船が必要ですね。了解しました。」
仲村の事だから、船の手配ぐらい何とかするだろう。
「赤軍の野郎、しょっぱなから河川砲艦を持ち込んできやがった。何とか撃退出来たら、直ぐに排土板着きの戦車と、対戦車砲小隊を一個こちらに渡すんだ。」
「はい、了解しました。で、撃退できない場合は?」
こいつ、本当に嫌なこと聞きやがる。
「その場合は、後は頼んだぞ。」
イヤイヤだが、そう答える。
誰が、仲村なんかに後を頼むもんか。
必ず、還ってやる。
「ハイ、りょーかいしました。」
あいつも、そんな事起きる訳ないと思ってやがる。
一瞬、ここでくたばってやろうかとも思うが、あほらしいので、そのまま通信を切る。

168shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:27:12
「おい、これアイグンまで届くか。」
「はっ、アイグンですか。」
通信手は、急いで地図を取り出そうとする。
「大体50キロ位だ。」
「ああそれなら、大丈夫です。届きます。」
「それなら、アイグンの木村大佐を呼び出してくれ。周波数は、○○××だ。コードネームは、きつつき、これで通る筈だ。」
通信手は、すぐさま通信機に向かい、呼び出しを始める。
暫く、待っていると通信手がこちらに向かい頷く。
「木村大佐ですか。」
一方は既に入れてあるので、直ぐに出てくれる筈だった。
「おお、さと・・・否、田中大尉か、どうした。」
「ハイ、ソ連が国境を侵そうとしています。」
「うん、それは聞いているが。」
「最初から、河川砲艦を仕立てています。」
「判った。こちらも出動する。」
流石に話が早い。
「驚くなよ、こっちの河川砲艦は凄いからな。それじゃ。」
直ぐに切れてしまい、佐藤は少し唖然とする。
話は早いのは良いのだが、あいつ、大佐に昇格したのに、あんなんで良いのか。
いいのか、あんなに腰が軽くて・・・
無意識の内に、マイクとヘッドフォンを返し、首を振りながら、急いで戻る。
どうやら間に合ったようだった。
先ほどの所に腹ばいになると、まさしくソ連の舟艇が、島に着上する所だった。

何名かのロシア兵が、川に膝まで浸かり、河岸に走り寄って来る所だった。
手にしたロープを引っ張り始めると、直ぐに何名かの兵がそれを補助する。
河川砲艦は、一応、船首を上流に向け、数十メートルの所で流されない程度のエンジン音を響かせ、停止している。
二隻の船が、何とか固定されると、簡単な板が渡され、将校らしい人物が、それを渡って、上陸してきた。

さて、こちらの様子はどうなんだ・・・
「そこの船、ここは中華共和国の領土である。君達は不法にわが国の領土を侵犯している。直ちに退去しなさい。」
どうやら、メガホンレベルではない。
拡声器の設備でもあったのか、かなり通った梁中尉の声が、辺りに響く。
そんなもんまであるとは、佐藤も予想すらしなかったが、これはこれで効果的だ。
梁中尉はご丁寧にも、同じ内容をロシア語で繰返している。
更に、彼が英語に切り替えて話し始めると、突然銃声が響き渡る。
頭を竦めたまま、双眼鏡を向けると、将校の後からついて出てきたやつが、拳銃を振り回している。
あれが、政治将校と言うやつかな・・・
普通の軍人ならば、兵を散開させ、安全を確保してから様子を見る。
もう少し賢ければ、白旗でも立てて、様子を見るため、特使を派遣してくるであろう。
しかし、そんなまともな思考を全て打ち消すように、その男は、将校に何か怒鳴っている。
すぐさま将校は、兵たちに小銃を構え、前進を命じたようだ。
訳も判らず、ロシア兵が走るようにこちらに向かって来る。
このままだと、白兵戦も考えねばならないかと、思ったが、再び先ほどの政治将校が何かを叫んで、その心配を打ち消してくれた。
ロシア兵が一斉に発砲したのだった。

169shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:27:42
その途端、回り中から銃声が響いた。
真っ先に倒れたのは、将校らしい人物だった。
それも数発の玉があたったようで、ピクリとも動かない。
ロシア兵も打ち返してくるが、既に半数が倒れている。
後の連中は、その場に腹ばいになって撃っているが、このままでは彼らは一人も助からんだろう。
佐藤は、すぐさま双眼鏡を川に停泊したままの、河川砲艦に向ける。
やはり、気がついたのか、船が動き始めている。

「坂口!迫だっ!」
「ハイ、了解しました!」
帝国の下士官は凄い。何処にいるかの確認すらしていなかったが、いつの間にか側に戻ってきている。
返事をすると、すぐさま物凄い速さで、腹ばいのまま後方に進むかと思うと、そのまま後ろに手を振る。
間に合うのか。
再び、双眼鏡を河川砲艦に向けた。
船は、速度を上げ、ゆっくりと旋回している。
どうやら、走りながら砲撃する積りだ。
ロシア兵の被害は出ているが、この程度では、被害の内には入らないであろう。
76ミリで砲撃されれば、今の状況では、弾が当たった辺りの兵は助からない。
その時、微かな音がして、後方から幾つかの砲弾が落下してくる。
その途端、シュポッと言うような音が多数聞こえたかと思うと、目の前に地獄が生じた。

閃光が広がり、爆風と同時に、多数の火の玉が河川砲艦辺りから、ロシア兵のいる辺りまで、一斉に広がる。
しかも、それは暫く続き、辺り一面、白い煙で満たされた。
迫撃砲の砲撃は、まだ続いていたが、それでも少し視界が回復すると、砲艦は既に対岸に向かって、退散し始めている。
「迫撃砲中止!」
佐藤は立ち上がると、後方に大声で叫ぶ。
辺りが静かになると、目の前の河岸には動くもの一つ無かった。

170shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:28:13
「田中大尉」
ぼおっと、タバコを燻らせ、川辺の清掃を見ていた佐藤に、後ろから声が掛かる。
「我が方の損害は、負傷者が三名、軽症です。ああ、ありがとうございました。」
梁中尉が、少しやつれたような顔をこちらに向け、軽く頭を下げる。
「うん、礼は要らんよ。出来ることをしたまでだ。」
「ハア・・・しかし、凄いですね。」
辺りを見回しながら、梁中尉が溜め息を付く。
全体としては、半時にも及ばない戦闘だった。
日中側には、軽症者が数名出ただけで、対するソ連軍は、半数が死亡、残りは重軽症で、既に後ろの小屋に運び込まれ、治療を受けている。
「こんなもん、単なる偶然だ。連中の事だ、すぐさま体制を整えて、出っ張って来る。」
「それよりも、次の攻撃に備えるため、増援の要請と、塹壕の構築をお願いする。河川砲艦があの砲を打ち出したら、このままではえらい事になる。劉少佐からは何と?」
梁中尉は、一瞬何か言いたそうだが、それを諦め、答える。
「一応、直ぐに増援を連れてこちらに来られるとの事です。」
劉少佐も、ソ連の狙いがこの島の占領だと決めたらしい。
「一応、ソ連の狙いはこの島だろうが、他の地域も・・・いや、良い。お待ちしておりますと伝えて下さい。」
あの少佐なら、その辺りは抜かりなくやるだろう。
あまり、北辺軍に命令っぽく見える言動は控えたい。
「了解しまた。では。」

梁中尉が戻って行くと、佐藤は溜め息を吐き、側に来ていた坂口を促す。
「グレネードですか、あれはダメであります。」
「そうか?こんだけ結果が出れば、喜ぶぞ。」
坂口が首を左右に振る。
「報告致します。個人用擲弾発射装置ですが、12機用意してありまたが、現在使用に耐えるのは三機だけであります。戦闘開始時から、使い物にならなかった。言わば初段から不発のものが三機、二発目が不発になったものが二機、三発打てたが、それ以降動かないのが三機、四発打てたものもあったのですが、それも動きません。一回の戦闘で、計9機の不良ではとても兵に持たす訳には参りません。」
「うん、判った、判った。直ぐに回収して、技研に送り返してしまえ。しかしまあ、お蔭で助かったがな。」
「ハイ、これは望外のものだと思います。ちゃんと動けば、かなり使い勝手はありそうです。」
坂口も素直に頷く。
この上官が、下手に格好をつけるのを嫌うのは良く知っている。
あんな河川砲艦がまともに撃ってきたら、どんなことになっていたかと思うと、つくづく運が良かったとしか言いようが無い。

「とにかく、北辺軍を手伝って、塹壕作りだ。次はああはいかん。」
「ろ助、来ますか?」
「特務曹長殿が、それを聞いてどうすんだ。そんな事は誰とは言わんが新任の少尉殿にでも聞くんだな。」
佐藤が苦笑いを浮かべて、さっさと歩き始める。
少し調子に乗りすぎたと、坂口は反省しながら、その後姿に敬礼するのだった。
20名前後の死傷者で、赤軍がカンチャースを諦める筈もなかった。
今度はああは行くまい。
とにかく、穴掘りだ。
そう思いながら、坂口も駆け足で、兵達達の所に向かう。

171shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:28:44
戦闘になった河岸とは反対側に目をやりながら、佐藤は通信手の所に向かった。
「あっ、大尉、連絡が入っています。」
丁度、誰かから無線が入っていたようで、すぐさまマイクとヘッドフォンを渡される。
「誰からだ?」
「島田大尉です。川向こうに到着されたようです。」
早いなと、思いながらも、佐藤はマイクに口を向ける。
「田中です、どうぞ。」
「おおっ、田中大尉ですか。こちらは島田です。ご無沙汰しております。今河岸に到着しました。ご無事ですか。」
「ああ、大丈夫だ。ソ連さんは、目くらましに騙されて、一旦引いてくれた。またじきに来るだろうから、至急塹壕を作りたい。貴様の所に、排土板付きの戦車があったろ。あれをこちらに渡してくれ。手はずは大衡に言ってある。至急頼む。」
「了解しました。他の戦車のご用命はないですか?」
「いや、こっちの島の上じゃ、精々土に埋めてトーチカにする位しか役に立たん。それよりも島とそちら側の水路の確保を頼む。」
「判りました。では、ご無事で。」
島田大尉の口調は、少し残念そうであった。
97式の装甲は、37ミリでは貫通出来ない造りになっているが、ソ連の76ミリではどうだか判らない。
まあ76ミリと言っても今では旧式の単身砲だろうから、理屈の上では400メートルも離れればまず大丈夫とは思うが、それでもこんな狭い島で装甲試験をする気にはならない。
それに、木村大佐もじき現れるだろうから、河川砲艦には河川砲艦で対応してもらった方が良い。
マイクセットを通信手に返し、一旦中央の小屋に向かう。

梁中尉と、防御について打ち合わせを済まし、川辺に戻ると、既に対岸からは、大きな筏のようなものが近づいて来ていた。
中央のシートに覆われた大きなものが多分戦車だろう。
連絡が入っていたのだろう、坂口が既に数人の兵を連れて来ている。
河岸までその筏が近づくと、素早くロープが投げられ、兵たちがそれを固定する。
佐藤達が渡ってきた時に使ったようなゴムボートならば引き上げてしまえるが、筏となるとそうも行かない。
手早くシートが取られ、ガソリンエンジンのややかん高い音が響き渡る。

172shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:29:20
97式中戦車、昭和10年から配備が始まった、帝国が誇る最新鋭の戦闘車両である。
傾斜のついた前面装甲と、丸みを帯びた砲塔は、明らかにそれまでの戦車のイメージとは全く違うものだった。
最初に部隊に配備された時には、どうしてこれが中戦車なのだと言うのが、戦車兵たちのもっぱらの感想だった。
少なくとも、今まで細々と配備されていたこれ以前の戦車と比較すれば、どうみても重戦車である。
しかしながら、部隊の中から特に選抜され、習熟訓練に派遣された特技章持ちの兵や下士官達は、大村総合演習場から帰ってくると、様子が一変する。
彼らは部隊の演習でも、そして勿論たまに発生する小規模な紛争においても、徹底した機動戦術に拘るようになり、停車しての射撃は最低限に抑えようと必死になるのだった。
そう、彼らは大村で、いやと言うほど思い知らされるのである。
97式は、あくまでも中戦車であり、それよりも遥かに強力な重戦車が帝国には存在することを。
現在はほぼ手作りで、制作費が駆逐艦に相当すると言われ、演習に用いるしかないが、いずれ帝国が本格生産に乗り出すであろう、次期、いや次の次かもしれない、強力無比な戦車。
搭載されている砲塔は100ミリ以上でありながら、そのシルエットは、限りなく低い。
演習を行えば、到底自分達の97式が届かない距離から、正確な模擬弾を叩き込んでくる、隔絶した存在。
そんな戦車がいずれ登場すると判れば、戦車兵達もその戦い方からおごりが消えるのも無理なかった。

とは言え、現在では多分最強の戦車の部類に入る、97式中戦車は、慎重に動き出し、河岸に設置する。
筏が傾きかけるが、それでも強力なキャタピラは地面を掴み、何とか無事島に乗り上げることが出来た。
普通の97式と違い、カンチャース島に降り立った戦車には、背後に長方形の鉄板のような物が付いていた。
簡易式だが、排土版がついており、その意味ではトラクターとして使える一台である。

「田中大尉!お久しぶりです。」
砲塔から顔を出して、嬉しそうに佐藤に話しかけてくるのは、島田大尉だった。
「なんだ、結局貴様、来たのか。」
「ええっ、対岸の守りは部下に任せて来ました。あちらより、大尉のいる所の方が面白そうですしね。」
半分、笑いを堪えるような言い方で、島田は茶化すように、言ってくる。
何せ、本土で出動する前に、木村大佐と三人で打ち合わせを行っており、島田も佐藤が変名を使っている事を知っている。
しかも、こいつは恐怖と言う感情をどこかに置き忘れたような漢であり、その行動基準は、面白いかそうでないかに限られている。
「判った、判った。直ぐに排土板を使って、援体壕を作るのを手伝ってくれ。急げ、じきに赤軍さんがやってくる。」
「了解しました。」
エンジンが、一際うなりを上げて、戦車は兵たちに先導されて、作業に向かっていった。

173shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:30:06
「た、大尉!」
やれやれと首を振っている佐藤に、坂口が声を掛ける。
うん、と首をそちらに向け、佐藤も驚いたように、口を開ける。
幅の広いアムール川の上流から猛烈な勢いで、一隻の艦艇が近づいてくる。
あっという間に、近づいてきたそれは、急激にその速度を落とし、佐藤達が佇む河岸に、停戦しようとしていた。
勿論、艦尾に翻っている旗は、中華民国国旗であるため、誰も慌てることなく、唖然とその船体を見つめていた。
昔、朝鮮に亀甲船とか言う名前の船があったな。
佐藤は、停船した船を見つめてそんな事を考えた。
シルエットは、鋭い鏃型の船体に、上部まで装甲で覆われた突起の少ない形状は、何か悪い冗談のように思えた。
軸船に沿うように、丁度中央に、くぼみがあり、そこからは37ミリはありそうな砲塔が覗いている。
これじゃあ、まるで戦車だな。
そんな感想を覚えていると、船体の中央部のハッチのようなものが開き、将校が顔をだす。
「よう、佐藤!、いや違ったね。田中大尉、大丈夫だったか。」
顔を出したのは、案の定、木村大佐である。
どうして、こいつはこんなヘンな船に乗っているのだ。
佐藤は頭を抱えたくなった。

佐藤は知る由も無いが、木村昌福大佐は、「のと」発見時に、最初に駆けつけた駆逐艦の艦長だった。
それ以来、彼は総研のメンバーとして活動を強いられている。
それはそうである。
なんにせよ、のとそのものを見てしまっている上に、「のと」資料にも、名前の上がっている提督となる人である。
総研メンバーに取り込まれない訳は無かった。
当初は、陸戦隊を率いた大田実中佐らと同様に、警邏の任務が中心だったが、総研の研究施設が整って来るに連れて、彼らの役割も変わってきた。
研究班が、直接実物のある未来兵器を基に、可能な限りの現在技術と、「のと」そのものに積まれていた各種工作器機を利用して試作品を作り始めると、当然ながらそれを試験する必要が生じたのだ。
結局、外部から新たな要員を取り込むよりはと、木村大佐達が実地試験を行うようになるまでには、それ程時間は必要としなかった。
ただ、二人とも海軍出身であり、陸戦兵器はそれ程得意ではない。
当初は陸戦隊を率いていた大田中佐に任されていたが、研究が進み、未来技術を応用した各種試作兵器が作り出されだすとそうも行かなくなった。
結局、1933年には陸軍部より、新たに栗林大佐が陸戦兵器の試験官として招聘されている。
また、航空機の分野まで試作品の製作が進みだすと、35年には、「のと」資料を基に、元陸軍の加藤健夫少佐、元海軍の淵田美津夫少佐、野中五郎中尉等も招聘されている。

とにかくそのような経緯は佐藤には関係はない。
彼にすれば、情報部の仕事で、秘匿兵器の受け取りと講習に大村の特殊ドックに入った時に出会って以来の付き合いである。
秘匿兵器と言っても、ゴムボートに過ぎなかったが、それでも圧縮空気で一瞬の内に展開出来るそれは、使い勝手が良く、今では結構各地の部隊で使われていた。
技官の説明を聞いていた佐藤の側に現れ、同じように説明を聞いていたかと思うと突然話しかけてきたのが、最初だった。
どうやら、佐藤が実戦で使うと言う事で興味を持ったみたいで、どのように使うかを、色々探りを入れてきた。
その時は、任務が任務であり、曖昧に誤魔化していたが、彼もそれに気が付いたらしく、簡単な自己紹介をして離れて行った。
驚いたのは、それから数ヶ月して、任務から帰国した佐藤の元に彼がやって来た事だった。
わざわざ情報部まで来られる以上、彼のセキュリティレベルが高い事にも驚いたが、高々ゴムボートについて、そこまで尋ねてくる事自体に驚きを覚えたものだった。
結局、その事について、尋ねると、訳が判らない顔で、これがあると、いざと言うときに部下が助かるじゃないかと真剣に言うのに、更に驚かされた。
こいつ、いやこの人は、本当に部下を大切にする人だと気付かされ、それ以来佐藤も真摯に彼の質問に答えた。
それ以来の付き合いである。
木村大佐の方でも、佐藤が気に入ったようで、何かあると直ぐに連絡してくる。
今回の任務に関しても、木村大佐本人が希望して参加してくれたみたいで、それはそれでありがたいとは思っていたが、まさかこんな船で現れるとは予想すらしていなかった。

174shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:30:44
「木村大佐、で、それは何ですか?」
佐藤が、顔一杯に呆れた表情で問いかける。
「うん、これ?中々面白いよ。研究班で、船の船体形状に関して色々作っていてね。丁度英国からマリーンエンジンが幾つか手に入ったので、載せさせてみたら、結構良いものが出来たんだよ。」
ニコニコしながら、そう説明する木村大佐には、佐藤も余計に呆れるしかない。
どう見ても、数百トンレベルの小船にしか過ぎない。
そこに、強力な戦闘機のエンジンを積むなんて、何を考えているのかと、素人の佐藤でも思ってしまう。
「パワーボートと言うらしいんだけどね。残念ながら、速度は凄いんだが、安定性がもう一つだね。結局河川か、湾内位しか使い道はなさそうなんだ。」
木村大佐は、そんな佐藤の呆れ顔に頓着する様子も無く、説明を続ける。
「でまあ、解体するのもなんだから、北辺軍に使って貰えないかとこちらに運んできたんだよ。まあ、丁度手頃な試験になりそうで良かった。で、ソ連軍は直ぐにでも来そうなのかい?」
「えっ、ええ、余り時間は無いと思います。」
「そうか、間に合ったね。もう直ぐ、残りの三隻もやってくるだろうから、何処で配置につこうかね?」
「いや、それでは、一応、こちらにおいで願いますか。」
幾らなんでも、今の自分は田中大尉である。
佐藤は、一応口調に気を使いながら、木村大佐を指揮所代わりに使われている、詰め所までいざなった。

詰め所には劉少佐も駆けつけていた。
木村大佐を連れて、佐藤が中に入ると、流石に驚いたようだが、事情を話すと、納得してくれた。
また木村大佐も、階級には頓着せず、あくまでも劉少佐を立てた事もプラスに働いた。
簡単な打ち合わせを済ますと、全員が忙しそうに動き出す。
それはそうである。
何時再びソ連軍がやってくるのか判らない状況で、ゆっくりと歓談している余裕は無い。
榊少尉も島に来ていたが、この状況では彼の事を、気を使っている暇も無い。
かなり引きつった顔に、可愛そうには思うが、それよりも戦闘準備が優先された。
佐藤も、坂口を引き連れて、陣地の構築状況を見に行くしかなかった。

河岸から少し離れた所で、97式中戦車が後ろ向きに土を押している。
戦車に取り付けられた排土板にしか過ぎないが、それでもあると無いでは全く違う。
見る見る土を盛り上げ、少なくとも前面からの攻撃には暫くは持つ程度の塹壕が出来てい行く。
「全部完成するまで、待ってくれると助かるんだがな。」
誰に言うでもなく、佐藤は呟いた。
とにかく何も無い島に援体が出来るだけでもかなり粘れる。
「大尉、そうも行かないようです。」
坂口が、川向こうを指差して、佐藤を促す。
腰に吊るした双眼鏡をそちらに向けると、今度は二桁以上の船舶が、こちらに向かって動き始めていた。

175shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/01(月) 04:31:28
「で、ソ連は間違いなく、こちらのメッセージを受け取ったんだな。」
「ああ、あれだけやられれば、当分、そうだな最低一年は手を出しては来ないだろう。」
アムール川流域のカンチャース島を巡る紛争から、既に二ヶ月が経過していた。
欧州派遣から帰国した井上に、梅津がカンチャース島事件を説明していた。
結局、紛争そのものは、ソ連の完全な敗北に終った。
木村大佐の率いる、4隻の装甲艇の戦果は凄まじく、ソ連が用意した4隻の河川砲艦は、あっという間に沈められていた。
40ノット以上の高速で走り回りながら、37ミリ速射砲を撃ちまくる小型の船舶に翻弄される形で、河川砲艦が沈没すると、後に控えていた兵員輸送用の小型船舶の末路は惨めだった。
しかも、カンチャース島からは、一台だが、97式中戦車が、小型船舶を狙い打ち、それでも島に辿り着こうとした船舶は、護岸に造られた急増のトーチカからの重機の射撃で、次々と沈められていった。
結局、後退命令が出されないまま、ソ連軍は、大隊規模の部隊を失っていた。
この時点でも、ソ連の極東司令部は、強気の姿勢を崩さず、更に部隊を集結させようとしたが、
中華政府からの国境侵犯に対する正式な抗議と、北辺軍が、カンチャース対岸に、部隊を集結させ、渡河準備を始めると、流石にその動きは終息に向かった。
そしてそれに呼応するように、陸海空軍総司令となった蒋介石が、華北の中共軍に対する攻撃を本格化させると、ソ連は日英政府に対して、中華政府との紛争調停を依頼してきたのだった。
「蒋介石も流石にしたたかだよ。不可侵条約の締結を迫っている。」
「ソ連が支援している中共軍を叩き潰さない代わりに、条約の締結による満州地区からのソ連軍の影響の排除が目的か。」
「ああ、それもあるが、主に帝国に対する牽制が目的だろうな。」
「のと」資料を使い、帝国がその進路を大きく変えた結果、中華大陸での覇権争いも、大きく変化していた。
大慶油田からの収入で、他の軍閥とは格段の資金力を持った蒋介石の支配力は強化されており、最早蒋介石政権に直接反旗を翻しているのは、華北の一部を何とか維持している中共軍だけとなっていた。
「のと」世界では、あくまでも各地の軍閥の合意の上に成り立っていた中華政府であったが、現実の世界では、完全に独裁体制を確立し始めていた。
蒋介石にとって、華北の中共軍も、単なる軍閥の一つでしか過ぎず、力でねじ伏せるのは難しく無い。
そして、このような状況の中で、彼にとって気になるのが、張学良率いる北辺軍と、その後ろにいる帝国の存在だった。
他の軍閥に対しては、蒋介石自らの子飼いの部下を送り込む事により、順次完全な支配下に置きつつあった。
しかしながら、北辺軍に対しては、この政策が中々上手く行かない。
張学良は、蒋介石のそのような動きに対して、決して表立っては反対せず、中華政府からの軍人の派遣と言う形を取っての部下の送り込みも素直に受け入れてくる。
しかしながら、送り込んだ部下達は、数ヶ月以内に贈賄の疑いで告発されて、弾き出されるのが常だった。
北方軍閥の支配地域では、蒋介石自身も含めた、他の軍閥では当たり前になっている、各種賄賂が通じないのである。
フリートレードゾーンと言う仕組みが稼動しているせいで、利権構造が全く異質の体制となっているのだが、中央から派遣された子飼いの部下達は、理屈として言い聞かされていても、それが理解出来ず、馬脚を現してしまうのだった。
そして、更に問題を複雑にしているのが、その背後に見え隠れする帝国の存在だった。
勿論、帝国と中華政府の関係が悪化している訳では無い。
しかしながら、北辺軍を完全な支配下に置こうとして、軍事的な衝突が発生した場合に、帝国、特に停戦監視団がどのような動きを示すかは、蒋介石にとっても大きな問題となりつつあった。

この結果が、蒋介石によるソ連に対する不可侵条約の締結へと結びついていた。
そう、満州地区の支配体制の確立のため、蒋介石は、帝国とソ連を手玉に取ろうとしているのだった。

「華北の中共軍支配を黙認する代わりに、不可侵条約の締結、それによる帝国への牽制か。」
「ああ、そうだ。しかし、大丈夫なのか人事ながら、心配してしまうね。」
梅津は溜め息を吐き出しながら、井上に告げる。
「中国共産党の存在を単なる軍閥の一つと捉えている限り、間違ってはいないんじゃないか。」
井上は、冷たく言い放つ。
「まあ、いずれ痛い目に会うのは蒋介石だ。少なくとも中華本土での利権構造が変わらない限り、足元から崩される危険性は大きいし、それを教えてやる義理はないしな。それに、」
「いずれ、放棄する予定の満州地区だ。痛くも痒くも無いか・・・」
梅津が井上の最後の言葉を奪うように、結論を話す。
少しむっとした井上だが、軽く肩を竦めるだけだった。

176shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/06(土) 10:22:18
1938年、欧州では昨年末、フランコ総統の下にスペイン新政権が樹立されたが、戦乱は納まらず、多くの人々は暗い影を感じ取っており、不穏な空気の中で年を開けた。
一月初旬に、イタリアが海軍増強計画を発表すると、各国ともそれに合わせるかのように、新たな艦船の建造計画を表明し、米国ですら、ルーズベルトに代わって大統領に就任していたランドン大統領が、年頭調書で、海軍の増強を提案する始末だった。
アジア地域では、「のと」資料に記されたような、大規模な日中紛争は発生しておらず、蒋介石中華政府は、華北の共産軍も国軍第八軍として取り込み、統一中華政府としての体制を確立しようとしていた。
しかしながら、昨年10月から開始された、日英米との満州地域の停戦監視団の扱いに対する交渉は、1月を迎えても、一向に進展しないままだった。
帝国も含め、参加国すべてが、フリートレードゾーンの存続を望んでいる限りにおいては、当面の交渉が、暗礁に乗り上げるのも無理もなかった。
蒋介石自身も、交渉そのものが、独立中国の体面だけの問題である事を良く認識しており、強攻策に出るよりは、政権の足場固めに精を出しているのが現実だった。

「イタリアは、「のと」資料とほぼ同じ内容か。」
さっきから資料に目を通しながら、色々見比べていた梅津が、井上に話しかける。
「ああ、帝国の改変の影響を一番受けなかった国と言えるからな。」
「独逸は、空母が無い。その代わり巡洋戦艦が一隻増えている。英国もその影響で、プリンスウェールズ級五隻が六隻の建造に。ソ連はまあ、計画だけは立派だな。」
「おお、中々意欲的な計画だよ。戦艦を四隻も作るそうだ。どんな船になるのか興味はあるね。」
「フランスは、まあ、あれだ。政権のごたごたのせいで、腰が据わってないな。それでも、イタリアに対抗出来る艦船の建造だけは続けているのは、立派だな。」
「で、やはり頭の痛いのは、米国だな。」
二人が顔を揃えているのも、米国のランドン大統領の年頭調書のせいだった。

1936年に、帝国も批准した第2次ロンドン軍縮会議は、各国の軍備拡張に対して、ある程度の歯止めにはなっていた。
その証拠に、各国で建造される戦艦の主砲は軒並み14インチクラスであり、排水量も35000トンと言う枠組みをある程度維持しようとしている。
独逸がビスマルク級に15インチを積もうとしたり、ソ連が16インチを積むとの話もあるが、所詮陸軍国の海軍とあまり誰も気にはしてなかった。
しかしながら、独逸の2艦の戦艦建造により、英国が戦艦枠の拡大を要求し、それが認められた結果、日米はスライド条項により、新たな戦艦建造の枠を手に入れていた。
米国は旧型艦のリプレイスとしての枠も含め、3万5千トンクラスならば代替艦4艦、新造6艦、帝国は代替2艦、新造3艦までは建造可能となった。
帝国の場合、厳密に言えば、対英米5.5割が認められた枠なので、3.3艦となるが、そんな船作れる訳は無い。
そこで、英米に対して、交渉が行われ、代替艦2艦、新造戦艦2艦、2万5千トン級の空母2艦の枠を手に入れている。
戦艦を一隻減らし、逆に空母2艦の追加建造を認めさせたわけである。
この結果、戦艦部隊は、旧型に分類されるが、機関及び電装関係を一新している16インチ砲艦の「長門」、「陸奥」、14インチ砲艦の「伊勢」、「日向」、「榛名」、「霧島」。
31年に代替艦として建造が開始され、34年に竣工した新鋭の14インチ砲艦の「金剛」、「比叡」の計8艦体制から、1939年には、新たに竣工する新造艦としての「扶桑」、「山城」と、現存の「春名」、「霧島」の代替艦を含め10艦体制となる予定だった。
しかしながら、帝国は39年には大戦が勃発している事を予測しており、無条約時代が訪れるのを見越していた。
そのため、「榛名」、「霧島」は、解体と称して大改装が密かに予定されている。
そう、帝国は、戦時に突入する39年には、10艦体制ではなく、12艦体制を密かに計画していたのである。
 勿論、「のと」資料の分析から、戦艦に対して航空攻撃が有効である事は理解していたが、それでも、米国の戦艦14艦体制に対して、新造艦6艦、改装艦6艦の体制は、米国が新造艦を就航させても、暫くの間の安全保障としては十分なものであった。
 特に、欧州大戦に対して積極的に介入を目論んでいる状態では、少なくとも4艦程度の派遣は考慮せざるを得ず、残り8艦が本土防衛として残されている点は大きかった。

177shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/06(土) 10:23:12
 ところが、ランドン大統領の年頭調書が、この目論見を大幅に崩す事となった。
なんと、ランドン大統領は、米国が保有する戦艦建造枠を一斉に行使し、現在建造中の2艦に加え、8艦、計10艦の大量建造計画をぶち上げたのだった。
全ての戦艦を本年度中に起工し、全艦を三年後の1941年には竣工させると言うものだった。
少なくとも戦艦に関する限り、1941年には新造艦を組み入れて20艦体制が確立される。
しかも、帝国が目論んでいる代替艦の改装まで対応されれば、24艦体制となってしまうのだった。

「どうみても、景気浮揚策なんだがな。」
「ああ、国内向けだ。しかし、同時に帝国の戦略の大幅な見直しを迫ることとなるな。」
「迷惑以外の何者でも無いな。」
二人が、いや帝国が、頭を抱えたくなるのも、仕方なかった。
ルーズベルトの後を継いで、36年に大統領に就任したランドン大統領は、共和党とは言え、ニューディール政策そのものを全面的に否定した訳ではなかった。
ただ、その政策が、余りにも共産主義的で、結果として労働争議の拡大をもたらした点を突き、ルーズベルトを破っていた。
このため、大統領に就任してからは、大規模公共投資を継続しながら、対外不干渉の原則を守り、農業保護等の政策を打ち出していた。
しかしながら、米国資本が、好景気を示す満州や独逸に流れ出すのを防ぐ事は出来ず、米国の景気は2年経っても低迷し続けており、40年の大統領選挙では、余程の事が無い限り再選される見込みは無いと言われている。
それに対する起死回生の一打とも言うのが、今回の戦艦大量発注である。
確かに、軍備増強は、非常に判りやすい大規模公共投資だった。
戦艦10艦ともなると、現在のドックでは不足しており、本年中に新たに追加のドックが建造される。
また、新造艦の追加に伴い、海軍そのものが要員確保に走る必要から、2万人程度の増員が必要となる。
造船ドック建築に対する周辺での雇用創出、海軍の増員に対する新規雇用に対する期待感等は、ダムや道路建設よりも非常に判りやすかった。
しかも、戦艦だけ建造する訳ではない。
艦隊を編成する以上、補助艦艇も大量に必要となり、来年以降、それらの艦艇の建造が期待される事となる。
勿論、問題が無い訳ではない。
軍事関連の投資は、完成後の見返りが何も無いのである。
道路やダムならば、その後の公共財としての価値もあるが、戦艦は、そのような価値を生み出さない。
あくまでも一時的なカンフル剤でしか過ぎず、しかも、効果が表れるまで、追加投資、即ち継続的な軍備増強が必要となる。
そして、その行き着く所は、戦争だった。
景気浮揚策としての、投資の回収を目論むならば、旧態然としてはいるが、戦争による資源地帯や市場の拡大が必要不可欠となる。
ある程度までは効果的な景気浮揚策であるが、その反動も大きい劇薬と言えよう。

「のと」世界では、ルーズベルトがそれを行い、見事景気を回復させたとも言える。
しかしそれは、同時に戦争での勝利が絶対条件であった。
もしも、米国が敗戦していたなら、大恐慌と呼ばれる米国の不況が冗談に過ぎないような不況に見舞われていただろう。

178shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/06(土) 10:23:51
しかしながら、現実にはそのルーズベルトは既に過去の人物となっている。
ランドン大統領は、ソ連とのコネクションも無ければ、英国のチャーチルと特に中の良い訳で無い。
「軍備が充実すれば、戦争以外に道は無いか。」
梅津がポツリとつぶやく。
「ああ、「のと」世界とは立場が逆転しているな。あちらの世界では、帝国が分不相応な軍備を持ち、戦争に突入したのに、こちらでは、米国がそうなりそうだ。」
「問題は、米国がどこと戦うか・・・だな。」
暫く、二人とも何も言わない。
やがて、徐に井上が口を開いた。
「帝国と言う選択肢は非常に小さいか。」
「あたりまえだろ、そうなるように我々がどれだけ苦労していると思ってるんだ。」
大陸からも撤退し陸軍を縮小し、戦艦の数も減らしている。
しかも、徹底した英国追随外交まで展開しており、満州への米国資本の導入も積極的に行っている。
少なくとも、米国が帝国に因縁をつける材料は無い。
今の時点で、日米が戦争になると言えば、頭がおかしいのではと思われても仕方ない。
「独逸についての参戦は、それを起こらせないためにも、「のと」世界よりも一年早い開戦を目指している訳だし。何よりも、どこも米国に戦争を吹っかけようとはしないぞ。帝国を締め付けて、開戦に持って行くと言う方法も、今更締め付けられる要因もないしなあ。」
梅津が、ぼやくように、井上に投げかける。
「そうなんだよな。ソ連はさらさらそんな気は無いだろうし、英国ならば係争関係になる事案も無い事はないが、「のと」資料を手に入れた今の英国がそれに乗る訳ない。」
井上が少し考えるようにしながら、話続ける。
「一番良いのは、このまま米国が軍備拡張を続けて、世界最大の海軍でも作って貰い、他の列強がそれを無視し続ける。そして、ある日国家として財政破綻でもしてくれたら。いや、ありえんだろうなあ。」
「そりゃ、無理だ。幾らなんでもそう上手く行く訳ない。その前に、米国が自ら戦争を引き起こすだうろな。」
井上が、はっと何かに気がついたように、梅津を睨む。
「まて、戦争を引き起こすだと!」
「えっ、いや、「のと」世界では、帝国がそうじゃないかと思って。中華との戦争で経済が破綻に近づいた時に、言い方は悪いが、米国に戦争を吹っかけたとも取れるだろう。それと同じ事じゃないか。」
「そうか、そうだよな。米国みたいな大国が、そんな馬鹿な事する訳無いと考えつかなかったが、他の選択肢が無くなれば、その可能性もあるのだな。」
「「のと」世界では、国内の反対を押し切る材料としての帝国からの参戦が必要だったが、それすらも考慮しないで、戦争を吹っかけるとなると・・・」
やにわに、井上が立ち上がり、壁際の棚に向かう。
巻かれて置かれていた世界地図を手にすると、部屋のテーブルに広げる。
「どこで、紛争を引き起こす?どこだ?」
じっと地図を眺め、ブツブツつぶやく井上の横に立った梅津も、同様に地図を睨み考え込む。
暫くして、二人は顔を見合わせる。
「そうなると、可能性はここと、ここ、それとここだな。」
二人は、ほぼ同じ可能性に行き当たり、黙りこんでしまう。
米国が、地域紛争を引き起こして、メリットのある場所は限られている。
その結果、米国が権益を手に入れられる地域として、世界地図を眺めれば、井上が指し示したエリアは、限定される。
また、それ故、梅津も躊躇いなく同意したのだった。
特定地域で紛争を捻出し、米国が大規模に介入出来る地点。
それにより、米国に利益をもたらす資源地域となると、おのずから限られてくる。
一つは、中東の石油資源、次が東南アジア、特にオランダ領インドネシア一帯、そして最後が、大慶油田を抱える満州だった。

179shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/06(土) 10:24:29
「可能性が一番低いのは、中東か・・・」
梅津がつぶやく。
「ああ、あまりにも米国から遠い。地中海を通っていては、その前に阻止されてしまう。インド洋から回り込もうにも、英国を味方につけない限り、周りに中継地点が取れない。」
「フィリピンを拠点としてのオランダ領インドネシア、満州がターゲットとなるな。」
二人は考え込む。
「紛争を起こすなら、満州の方がやりやすいだろうな。米国資本もかなり入っており、米国系市民の保護と言う名目で、停戦監視団の増員も可能だ。」
「しかし、その場合は、日英のみならず、ソ連・中華も巻き込む大騒動になるぞ。
まあ、インドネシアの保障占領が良い線だろう。」
梅津が呆れたように言う。
「判らん、そこまで追い詰められたら、何をするか・・・」
そこまで、話して、ふと、井上が顔を上げ、梅津を見る。
「うん、何だ?」
「いや、先走り過ぎたかなと思ってな。」
そう言われて、梅津も苦笑いを浮かべる。
「ああ、そうだな。まだ机上の空論なんてレベルじゃないな。」
「まあ、先を見るのは悪くないが、今はまだ・・・早いな・・・」
「留意はしておくさ、とにかく、総研でのランドン調書に対する意見をまとめよう。」
「ああ、そうだな・・・」
井上も頷き、二人は部屋を出て、総研の研究員との打ち合わせに向かう。
数年後、二人ともこの時の会話を痛いほど思い出す事になろうとは、その時は予想もしなかった。

180shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/06(土) 10:25:01
「ううっ、まだ寒いなあ・・・」
欧州を走り抜ける豪華列車から降り立った高畑は、着ていたコートの襟を立てて、辺りを見回す。
3月に入ったとは言え、まだまだウィーンは冬だった。
「高畑さんでしょうか。」
突然大きな声を掛けられ、高畑はびっくりして振り返る。
「ああ、君は、迎えの?」
「ハッ、榊し・・・、榊です。」
手を額に持って行こうとするのを辛うじて堪えたのが、見ていても判る。
これじゃ、軍人だって丸判りじゃないか。
直立不動の体勢は、どう見ても、帝国軍人そのものだった。
着ている背広がまるで似合っていない。
まだ、若く、真面目そうな顔は緊張に歪んでいる。
「うん、まあ、とにかく、行こうか。」
「ハイ!ご案内致します。」
コチコチに緊張したまま、辺りを警戒しているのが、いかにも判りやすい。
これじゃ、防諜もあったもんじゃないなあ。
呆れ返ると共に、不安になるが、ふと気が付くと、もう一人付かず離れずについてきている。
相手が東洋人でなかったら、全く気が付かない所だった。
ははあ、こっちが正式の護衛か。
高畑は、妙に納得しながら、駅の出口に向かった。
外には、ロールスロイス ファントムⅢが止まっており、思わず高畑も口笛を吹くように、口をすぼめる。
榊が、緊張したように、後部座席の扉を開く。
高畑が中に入ると、既に先客が待っていた。
こちらは、貫禄があり、背広が良く似合っている。
これで葉巻でも咥えれば、米国のギャングの親玉と言っても、信じてしまいそうだった。
「佐藤さんかな?」
「高畑さんですね。宜しく。」
扉が閉まり、車は音も無く走り始めた。
前後に一台ずつ護衛の車が付き、三台はウィーン郊外目指す。
英国の最高級車の乗り心地は流石で、高畑はそれを堪能するように目を閉じた。

「高畑さん、着きましたよ。」
「ああ、すまん。寝てしまったようだ。」
車は、広大な森の中を走っている。
着いたと聞いたのに、辺りは森と言うのは、どう言う事だ。
「ここは、もう敷地の中なんですよ。」
高畑が怪訝な顔を浮かべていると、佐藤が呆れたように言い捨てる。
やがて、その先には宮殿かと思うような大邸宅が見えてき、車はその正面に停車した。
建物からいかにもバトラーと言う感じの男が駆け寄り、車のドアを開けてくれる。
流石に高畑も少しは緊張しながら、建物の中に入った。

181shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/06(土) 10:25:39
佐藤ともう一人、併せて三人だけで、控えの間を通り抜け、正面の部屋に案内された。
「ほおう、流石に欧州の大富豪、凄いものですな。これを見れば東洋の帝国なんぞ、本当に貧乏国だと思い知らされますね。」
暫く待つ間、佐藤が辺りをゆっくりと見回しながら、話しかけてきた。
「ああ、まあ世界一の金持ちの一族だからね。比較は出来んよ。」
高畑も気軽そうに答える。
きっと、どこかで誰かが三人の様子を伺っている筈だった。
幾ら、英国のネイサン・ロスチャイルドの紹介とは言え、当然警戒はしているだろう。

バトラーがお茶を運んでくると、漸く扉が開き、この館の主人が現れた。
「あなたが、高畑さんですか。一度はお会いしたいと思っておりました。」
にこやかに微笑みながら、手を差し出されたが、流石に高畑も緊張が隠せなかった。
ルイス・ロスチャイルド、オーストリア最大、いや欧州一の大富豪との面会である。
握手する手が、震えそうになるのを何とか抑えるのが精一杯だった。
連れの二人の紹介が済むと、ロスチャイルドは正面に腰を下ろす。
「それで、ご用件はなんでしょうか?ネイサンからは、話を聞くようにと言われていますが、出来れば手短にお願いしたいのですが。」
いかにも、人を見下したような言い方に、あきれ返る。
そう来るなら、要件はとっとと済ましてしまうに限る。
「三日後、3月13日に、ナチス独逸が、オーストリアを併合します。予定では、貴方は明日、イタリアに向かって脱出しようと考えてられるでしょうが、それでは遅すぎます。」
流石に驚いたのか、ロスチャイルドの眉が上がり、先を促す。
「我々の車に乗って、このままスイスに向かって頂きたい。その為の用意は出来ております。」
佐藤がその先を引き継いで、話し始める。
「そうですか?あなた方の話が本当だと信じる理由はないんですがね。」
「信じていただかなくても、我々は気にしません。同行願えないなら、無理やりでもお連れするだけですから。」
そう言いながら、佐藤は何処に隠していたのか、背中から、短機関銃を取り出し、ロスチャイルドに突きつけるのだった。
これには、ロスチャイルドも驚き、手にしていたティーカップを落としそうになる。
「これは、玩具のように見えますが、立派に機能します。少なくとも護衛の方が来られる前に、貴方に怪我をさせる事ぐらいは出来ます。」
「ら、乱暴な・・・」
「あ、あの、この男の失礼はお詫びします。一応、ネイサン氏にも了解はとっております。」
高畑が、余りにも短絡的な佐藤の行動に驚いて、慌てて声を掛ける。
「な、なんですか。」
「えっ、いや、言う事を聞かない場合は、無理やりでもお連れするように、頼まれましたので。」
高畑が、頭を掻きながら、仕方なさそうに、答える。
全く、これだから、情報部の軍人は、困るんだよな。
ロスチャイルドはそんな様子に、目を白黒させるが、それでも直ぐに決断したようだった。
「判りました。それでは参りましょう。ネイサンがそこまで言うならば、信じるしかないでしょうしね。用意する時間はありますか?」
その質問に、佐藤が首を左右に振って答える。
「す、すみません。既にナチスの監視が付いています。我々も余り時間の余裕はないと考えていますので、直ちにお願いします。」
なんで、俺が答えなきゃいけないんだ、本当に。
高畑は頭が痛くなるようだった。

182shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/06(土) 10:26:18
「仕方ないですね。まあ、銃器で脅されている立場では、従うしかないですな。」
ロスチャイルドは立ち上がり、それでも執事を呼んで、事情を説明する。
流石に、ロスチャイルド家の執事である。
佐藤が銃を突きつけているにも関わらず、一切それを見ようともせず、主人の話を聞いていた。
「それじゃ、まいりましょうか。」
そう言って、ロスチャイルドは自分が先頭に立って、部屋を出ようとする。
「あっ、その銃のようなもの。本当に弾が出るのですか。」
佐藤が軽く頷く。
「それじゃ、一寸試しに、そこの花瓶を撃って見てくれませんか。」
ばばっと軽い連射音が響き、花瓶は粉々に崩れ落ちる。
「ほう、凄いもんですね。私も一つその銃が欲しいですな。」
「残念ながら、これは売り物では無いので。」
佐藤がそう言うと、ロスチャイルドは、残念そうに首を振りながら、二人を引き連れるようにして、部屋を出て行く。
高畑も慌てて、その後を追う。
しかし、あんな銃、どっから取ってきたのだ。
いや、聞かなくても判る。
少なくとも、背広の後ろに隠せるような機関銃なんて、この世界何処を探しても、手に入る場所なんて他にある訳も無かった。

183shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/10(水) 00:06:58
 スエズ運河は、言葉とは裏腹に、結構広い川のように見える。
日本郵船が誇る2万5千トンの最新鋭の豪華客船、新田丸でも、両岸までは十分な距離がある。
「なんだかなあ・・・」
その豪華客船でも一際豪華な、特別船室のテラスに腰を下ろし、良く冷えたジントニックのグラスを燻らせながら、高畑は、大きく溜め息をついた。
目の前を通り過ぎてゆく、いかにも異国情緒溢れる中東の風景も、彼には目に入っていなかった。
「疲れるなあ・・・」
高畑は、何度目かの溜め息を吐き出し、グラスを口に運ぶ。
「おや、ここにおいでだったのですか。イーデン氏が捜しておられましたよ。」
断りもせず、彼の船室に入ってきて、更にテラスまで高畑を探しにずかずかと入ってくるこの人物が、高畑を疲れさす原因だった。
「あまり、勝手に部屋には入って欲しくないんだけどね。」
「ああ、これは失礼しました。しかし、本官の仕事上、それも止む終えないかと。」
絶対そんな事思ってもいないくせに。

二ヶ月前、オーストリアでルイス・ロスチャイルドを拉致同然に連れ出し、監視していたナチスの特務、所謂ゲシュタポと激しいカーチェイスを行い、挙句の果てには銃撃戦まで演じて見せた統合本部情報部総務課の佐藤大佐だった。
本来ならば、高畑の役割はスイスの某所にある日商が手配した山荘まで、ルイス・ロスチャイルド氏を届ければ終るはずだった。
しかしながら、山荘に到着すると、既にネイサン・ロスチャイルド氏も駆けつけており、その場でロスチャイルド家の緊急会議のようなものが開かれ、その結果が出るまで足止めされてしまった。
会議は三週間近く続き、その間には独逸のロスチャイルド一族のフランク・ゴールドスミスまでやって来て、夜遅くまで何やら話が続いているようだった。
元々、今回のルイス・ロスチャイルド氏の救出劇は、ネイサン氏からの依頼だった。
英国政府筋より、ネイサン氏にナチス独逸のルイス・ロスチャイルド氏が拘束されようとしているとの情報が伝えられ、同時にその救出には、英国政府としては動くことが出来ない旨と、代理に日商の高畑を通じて、帝国政府に依頼してはどうかと言うアドバイスも含まれていた。
まあ、この辺は「のと」情報から、ルイス・ロスチャイルド氏の救出が必要であるとの判断が日英の首脳陣でなされた結果の表上の筋書きである。
ネイサン氏も裏に何かあるとの事は気が付いているだろうが、それには触れず、正式に高畑に依頼をとってきた。
その結果、予め情報部より派遣されていた佐藤大佐以下のメンバーが準備を整え、高畑が、ネイサン・ロスチャイルド氏の紹介で、出向いた訳である。
本来ならば、これで高畑の出番は終了の筈が、足止めをくらい、スイスにある日商の支店から各種指示を出しながら、滞在するしかなかった。

184shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/10(水) 00:09:05
そして、高畑がスイスを離れられないとなると、情報部も部隊のメンバー全てを他に移す訳にも行かず、佐藤大佐以下、四名の要員だけが、スイスに残る事となった。
結局、この四名に対する対応で、高畑が振り回される事となる。
佐藤大佐は、何故かルイス・ロスチャイルド氏に気に入られたようで、会議を行っていない場合には、良く呼び出されて食事を共にしている。
そして、困ったことにそのような場には必ず高畑も招かれる。
佐藤大佐は、英語はそれ程得意ではないようで、言葉数は少なくなるため、会話を繋ぐのが高畑の役割だった。
佐藤大佐の部下もそれぞれが、個性豊かな連中であり、何かしらトラブルを引き起こすと、それに対しての対応も、高畑がするしかない。
英語の殆ど話せないくせに、酒が好きな坂口特務曹長は、町に出て酒場で喧嘩をしてくる。
まだ若い榊少尉は、高畑の護衛任務は継続していると言い張り、何処に行くのでもついてくる。
しかも、あからさまに、周りを警戒する態度を示すので、否でも目立ってしまう。
比較的健全そうに見えた、仲村少佐にしても、あの騒動の最中にどうやったのか、独逸製の武器を多数手に入れており、帝国に持ち帰る方法を相談してくる始末だった。
三週間も経つと、慣れない対応にいい加減疲れていただけに、ネイサンらロスチャイルド家の連中から、相談を持ちかけられた時は、ほっとしたものだった。

「で、私に英国政府に対する仲介を頼むと。」
高畑は更に、頭が痛くなるように思えた。
ロスチャイルド家のお歴々が集まっているかと思うと、代表してネイサン氏が話し始めた内容は、唖然とするような話だった。
どうして、俺なんだ!
高畑は心から叫びたくなる。
要は、ロスチャイルド家は、その家を上げて、ヒトラー打倒に力を貸す事に決めたと言う事を、英国政府首脳に話して欲しいとの事だった。
そんな事ぐらい、自分でやれよと言いたくなるが、よくよく話を聞けば、その裏があった。
要は、英国民としてネイサン氏が話すと、単なる国内での協力関係が主であり、一国と言うレベルを超えた協力となると、仲介者が必要だと言う説明だった。
しかも、痩せても枯れても彼らは商人である。
それだけに、協力には見返りがつきものだと言うのだ。
その交渉を高畑にお願いしたいと言う事である。

185shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/10(水) 00:09:59
本当に油断も隙もありゃしない。
高畑達が、英国とどのような交渉を行ったか、まるで知っているような口ぶりに、脱帽するしかなかった。
帝国は、英国側に立って、来るべき対独戦を戦う事を英国政府に表明していた。
勿論、それは密かにであるが、その為に武器の共同開発から、軍隊レベルでのすり合わせまで既に実施している。
しかしながら、英国を見方につける為だけに、「のと」情報の開示まで行い、その見返りを求めない程帝国も愚かでは無かった。
今回の対独戦への参戦にて、直接的なメリットは、中東における石油資源の開発がある。
「のと」情報より、イラン及びエジプト南部、のと世界では、クゥエート及びサウジアラビアと言う国になっている地域での優先的石油開発権を認めさせていた。
ロスチャイルド家がその辺りの事情をどの程度まで理解しているのかは、流石に聞くわけにも行かない。
それでも彼らが、少なくとも日英の間で石油資源に関する取引が行われた事を知っているのは間違いなかった。
なぜなら、ロスチャイルド家としての対独戦に対する全面支援の見返りも、新たな石油資源の開発に関してだったのである。

それから一ヶ月、高畑は再びロンドンに戻り、総研の情報班と検討を加えながら、英国政府に対する交渉を行う羽目になった。
最終的に、イタリア領リビアで発見されるであろう油田の開発権を、「今後発見される新たな油田に対する第一開発権をシェル石油に認める」と言う形で、交渉を纏め上げた。

そして、漸く日英の最終交渉が行われるインド洋に向かうために、英国代表のイーデン外相と最新鋭の日本郵船の豪華客船に乗っているのだった。

186shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/10(水) 00:10:43
「で、なんで、貴方が一緒にいるのですか?」
うんざりした顔で、ずかずかと部屋に押し入ってきた佐藤大佐に対して、高畑は問いかける。
英国に戻った後は、ようやく開放されたと思っていたのに、船に乗り込んだ途端、彼らがいたのだった。
「お忘れですか、我々の任務は、高畑さん、貴方の護衛ですからね。」
おそらく、堀さん辺りの差し金だろう。
護衛と言うのは嘘ではないだろうが、監視の役割も兼ねているに違いない。
最近、総研の情報班と、統本情報部の間で、色々確執が増えて来ている。
まあ、情報を扱うと言う意味では、両者が反目するのは仕方ないのだが、ここまで来ると流石にうんざりする。
今度、情報班の班長に会ったら、良く言っとこう。

「で、イーデン氏は何と。」
「はあ、高畑さんは何処にいるかと聞かれまして。アデンに着いてからの予定の確認だと思われます。」
「それじゃ、行かなきゃな。判った。」
徐に立ち上がり、テラスから部屋に戻る。
しっかりと、仲村少佐と、坂口曹長まで控えている。
うんざりしながら、部屋を出ると、ご丁寧に直立不動で、榊少尉が挨拶をしてくる。
本当に、軍人ってやつは。
高畑は頭を左右に振りながら、イーデン氏の部屋に向かうのだった。

結局、新田丸がアデンに着くと、高畑、イーデン等は随行の数名を引き連れ、密かに下船する。
しっかりと佐藤大佐の案内で、暫く車で海岸線を移動すると、停泊中の四発の大型飛行艇が待ち受けていた。
彼らはそれに乗り込むと、飛行艇はすべるように動き出し、やがて海岸からは見えなくなっていった。

187shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/13(土) 17:15:58
 チャゴス諸島、ディエゴガルシア島、2年前に、帝国が緊急展開軍のプロトタイプを初めて英国に開示した場所である。それ以来、この諸島は日英の秘匿活動の拠点として大きく変貌していく事となった。
 島から、本来の住民は全て他の諸島への移住を強制され、代わりに各種軍事施設が急ピッチで建造されており、今もその建造は続けられていた。
最終的には、4000メートル級の大型滑走路を初め、一度に5万人の兵員を収容できる各種施設、大量の武器弾薬を備蓄する倉庫群、そしてこれらの諸施設を維持管理するための荷揚げ能力の有する大規模港湾施設に至るまで、それはここがインド洋に浮かぶ孤島群だとは想像も出来ない程の充実が目指されていた。
そして、建設が進むこれらの施設を横目に、既にここには大量の物資が運び込まれつつあった。
いや、物資のみならず、多くの軍人さえも、集結し始めていた。
大きく弧を描く岩礁の中には、多数の輸送船が停泊しており、そことは少し離れた所には、帝国国軍の艦艇や、英国海軍の艦艇すらも停泊している。
 現在集積しているのは、対独戦に向けた第一陣であり、帝国、英国からの兵員を抽出した二個兵団であった。
本年に入り、日英は対独戦に向け、機動兵団の本格編成に突入していた。
帝国は、九州管区の機動兵団がその第一陣に選ばれ、旅団毎に移動を開始している。
彼らは、連隊規模で、輸送船団に組み込まれ、密かにオーストラリアに向かった。
秘匿と言っても、九州管区の兵団3万人近くが丸々一個移動する訳だから、完全に隠蔽する事など不可能である。
その為、兵団の将校達には、半年の特別機動訓練を英国軍と実施するため、オーストラリアに向かうとの情報が与えられていた。
明らかに、来るべき欧州大戦の準備と丸判りであるが、それは覚悟の上である。
要は、参戦時期を見誤ってくれればそれで良いのである。
指定の港湾まで、列車で運ばれた兵士達は、背中に一杯の装備を背負い、船に乗り込んで行く。
良く見れば、船の大きさに対して、乗り込む兵士の数が少ないのは判るはずだが、別に乗船港がここだけと限られる訳では無い。
実際に同じような船が、日付をずらして他の港湾に現れており、それを裏付けている。
これと呼応するように、英国でも、本国師団が丸々二個、オーストラリアに派遣される事となり、その準備は盛大に実施されていた。
こちらは、逆に独逸等に対してのアピールの意味合いが強い。
即ち、英国はいざとなれば参戦出来る体制は整えようとしているが、師団をオーストラリアに送る以上、その時期はまだ先であると。
オーストラリアに到着した、日英の兵団要員は、その地に集積された機動用車輌を提供され、一ヶ月程の合同訓練が実施される。
彼らに関しては、元々本国にいる時から、分隊レベルでの機動訓練は優先的に実施されていたのでその期間は比較的短い。
むしろ、第二陣、三陣となる兵団の訓練期間が長くなるのが、仕方ない事であるが、厳しかった。
訓練の終了した彼らは、再び輸送船に乗り込み、ディエゴガルシアまで渡って来ていたのである。
第一陣は、ここで装備を完全充足し、用意が整い次第、南アフリカに向かう。
その頃には、第二陣がここ、ディエゴガルシア、第三陣がオーストラリアに展開される。
そして、作戦命令が発令されるまで、そこで待機することとなるのだった。

188shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/13(土) 17:19:11
「壮観なものですね、輸送船が60隻、護衛艦隊二個群、空母が4席もこの狭い岩礁に待機しているのは。」
「ああ、ある意味無茶ですね。事故でも起こったら目も当てられない。一体いくら金が掛かっていると思っているのか。」
高畑は、イーデン氏の言葉に、嫌そうに相槌を打つ。
狭い岩礁内だけに、停泊できる場所も限られてくる。
結果として、10隻以上の輸送船が、串刺しのようにくっつき合って止まっているのは、結構怖いものがある。
しかも、その船の中には弾薬が満載されており、ここに一発でも爆弾が落ちたらと思うと、落ち着いてろと言う方が無茶だった。

「しかし、その為のロスチャイルド家でしょう。高畑さんも努力なされたじゃないですか。」
イーデン氏は笑いながら、話しかけてくる。
「のと」資料では、この年の三月にチェンバレン首相の対イタリア宥和政策に反対して外相を辞任している筈だが、現在でも英国外相の地位に留まっている。
そう、のと資料が、彼の経歴も大きく変えつつあった。
同盟国日本との共闘体制が確立されると、宥和政策は、39年までの時間稼ぎではなく、38年までと一年早まっている。
既に開戦時期は、独逸のチェコスロバキア侵入時と決められており、これに対してはイーデンも異議を挟む事なく、結果として外相の辞任までには至っていない。
しかも、今回のロスチャイルド家の取り込みにより、彼の立場は更に変わっていた。
ルイス・ロスチャイルドの救出により、一族を挙げての英国支援を決定したロスチャイルド家が、戦争指導者として強く望んだのが彼だった。
そして、ロスチャイルド家が望む以上、他の財界要人に対する根回しは終了しており、チェンバレン首相や、政府関連者もその方向での政策策定に向けて動き出していた。
当初、帝国は「のと」資料も含め、各種情報分析から、チェンバレンーチャーチルでの推移を予想していた。
特に、チャーチルはロスチャイルド家とも親しく、当然ながら、ロスチャイルド家は彼を推してくるものと思われていた。
ところが、現実にはチャーチルではなく、イーデンを推薦したのだった。
流石に高畑も、ネイサン氏と二人きりの時に、その事を聞いてみる誘惑には勝てなかった。
ネイサン氏の答えは短的だった。
「彼は、米国に近すぎる。」
これがその回答だった。
ロスチャイルド家は、日英の戦争準備を独自のルートで調べ上げ、彼らなりの結論として、米国抜きで対独戦を戦い切れる、いや、自分達が資金援助すれば、可能であるとの結論に達したようだった。
また、それ故、独逸の財閥である一族のゴールドスミス家も、日英側に立っての協力を申し入れてきている訳ではある。
 戦争には金が掛かる。
日英併せて六個の完全機動化兵団の武装、100隻以上の輸送船の手配など、どれ一つとっても、膨大な金額が必要となるのは言うまでも無い。
「のと」世界では、米国がこの戦費を肩代わりし、そして第一次大戦時よりも更に情け容赦無く取立て、大英帝国は没落している。
それが判っているだけに、戦費の調達を米国に依存するわけには行かなかった。
そして、それ以外のスポンサーとして日英が目をつけたのが、ロスチャイルド家を筆頭とする欧州の大富豪達だった。

189shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/13(土) 17:19:54
「いや、戦費調達の目処がある程度立ったのは、嬉しいんですが、やはりこれだけのものを用意したのが、戦争となると消えて行くのが何ともねえ。それにきれい事かもしれませんが、やはり人死にが出るのはやり切れませんね。」
「ああ、成程、判りました。それならば、私もきれい事にしか過ぎないでしょうが、こう返すしかありませんね。つまり、我々が努力しないと、更に被害は増えるのです、と。」
「確かに、おっしゃる通りです。きれい事、だけどそれが人生ですね。」
「ええ、それじゃ、そろそろ行きましょうか。」
「そうですね、参りましょう。例え建前だけでも、「より良き明日を作るために。」」
「より良き明日を目指して。」
英国の次世代の指導者イーデンと、帝国の影の財務長官と言われる高畑は、ここ数ヶ月の活動を通じて、お互い相手を認め合う存在となっていたのだった。

190shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/13(土) 17:21:26
 1938年5月24日、欧州での戦乱の気配が濃厚になる中、彼らはその部屋に集まっていた。
大英帝国全権大使イーデン外相、駐英全権大使吉田茂、カニンガム陸軍中将、サマービル海軍中将、山口多聞中将(役務)、栗林少将(役務)、英国情報部マッキンレー部長、帝国統合本部情報部堀貞吉部長、特別情報担当、ケインズ、クラーク、そして総研井上、高畑らであった。
誰がどこで気を使ったのか、日英の主要メンバーの比率は丁度一対一に設定されていた。
公式にはイーデンは、インド独立問題を検討するため、スエズを越えてインドに向かう船の上であり、吉田茂は、逆に英国に向かう船の上にいる事となっていた。
 他のメンバーも何らかの理由を付けて移動中と言う名目で、彼らは密かにディエゴガルシアに集まってきていたのだった。
「全員揃ったようですね、それでは始めましょうか。」
イーデンと高畑が揃って部屋に入り、席に着くと、井上が話し始める。
「本会議は、公式には来るべき対独戦に向けた日英の最終打ち合わせ会議です。それ故、今回設立された、日英統合軍欧州派遣司令官であるカニンガム中将に会議の進行はお願いすることとなります。」
井上は、カニンガム中将に軽く頭を下げる。
「そして、まあ、今更ここにいる皆様には隠す必要も無いのですが、これは「のと」情報に関する最初の日英共同会議である点もご認識頂きたい。」
「それは、どう解釈すれば良いのかな。」
イーデンが怪訝そうに井上に尋ねる。
「つまり、ここで話された内容のかなりの部分が議事録から抹消される可能性があると言う点を、お含み置き願いたいのです。」
「ああ、そりゃそうだね。表に出せない内容がかなりあるだろう。」
吉田がいかにもと言う顔で頷く。
「そう言う事です。では、カニンガム中将、宜しくお願いします。」
井上が頭を下げると、日英統合軍欧州派遣司令官、カニンガム中将が徐に立ち上がった。

そう、カニンガム中将の司令官と言う立場は、決して二つの国家の別々の軍隊を運営する連合軍の司令官ではない。
あくまでも、日英両国が一つの軍として組織された統合軍の司令官だった。

191shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/13(土) 17:22:18
1936年より始まった日英の武器共同開発に端を発した一連の、両国の武装の共用化は、一年もしない内に、全ての分野にまで広がった。
何しろ、満州地区では武装監視団の名目で、英国将校の下に、帝国将兵が配備についている。
東南アジアでは、艦隊指揮権は英国にありながら、その艦隊そものは帝国が運営すると言う状況が、既に数年に渡って続いていた事もあり、少なくともアジア方面での武装を共用する事に関しては、何処からも異議は出なかった。
そして何よりもコストの問題がそれに拍車を掛けた。
満州、オーストラリア、インドに作られた、公称トラクター工場、実質戦車工場での戦車生産は、部品の共用化、最新鋭の製造機器、そして徹底した生産管理の手法の導入で、誰も予想すらしなかったほどのコストダウンをもたらした。
何しろ、帝国内では、大村にある工廠と、三菱重工静岡工場、帝国車輌群馬車輌部の三箇所、日英共同出資による満州、オーストラリアの工場、その上に、ロールスロイス社の本国工場とインドのニューデリー工場の世界計7箇所で二年間強の期間、同一車種を生産し続けたのである。
しかも、大村の工廠と、ロールスロイスの本国工場以外の生産ラインは、その設計から、冶具に至るまで全て同じものが使われている。
工場により生産ラインの数は、4本から6本であるが、戦車生産に使われたのはその半分のラインである。
それでも全部のラインを合わすと、20本近い同一ラインによる同一機種の生産と言う、かって無かった生産方式である。
「のと」資料を縦横に活用し、戦後のマスプロダクションの考え方を全面に押し出し、どこかでトラブルが発生したならば、全生産ラインに直ちにその対応策が通達されると言うシステマチックな対応は、これまで存在した、いかなる生産方法も太刀打ち出来ないものだった。
その結果、1937年中に、年間生産台数は6千台にも達する。
むしろ、エンジンや主砲、砲塔の生産が追いつかず、急遽同様の生産方式が導入された程だった。
エンジンは全てロールスロイスマリーンエンジンのディ・チューンバージョンであるが、英国ロールスロイス社での生産だけでは到底足りず、帝国では、三菱重工と中島製作所がライセンス生産を実施している。
両社とも、航空機エンジンとしての需要も高いため、三菱は岡山に、中島製作所は、栃木にそれぞれ専用のエンジン工場を新たに建設し、その需要に対応することとなった。
しかしながら、主砲と砲塔、特に鋳造砲塔は、最後まで生産に追いつかず、結局生産された97式シリーズは、1万台を超えたが、その1/3が様々なバリエーションの車輌として完成している。
 ともかく、これだけの車輌を生産した結果、そのコストは、関係者全てを唖然とさせるものだった。
何しろ、最終的に、一台辺りの単価が3万円を切るまで下がってしまったのである。
戦車、それも現在では最強の一つに十分数えられる中戦車の値段が、装甲車程度まで落ちたことに、両国の軍事関係者が狂喜乱舞したのも頷けよう。
少なくとも、多くの陸戦関係者の頭の中に、大平原を駆け抜ける、機甲師団の勇姿が浮かんだことは間違いない。
おかげで、両国政府とも、軍部からの機甲部隊増設の要求に四苦八苦する羽目になった。

192shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/13(土) 17:23:10
 値段はともかく、主要陸戦兵器の戦車のこのような状況が明らかになった37年には、戦闘機に関しても、両国での共同開発・生産が本格化する。
帝国側が、当初からマリーンエンジンを戦闘機開発の主要エンジンに据えていたことも、この開発を推進した。
英国側では、既にプロトタイプの完成していたスピットファイヤを、帝国側では97試戦闘機「疾風」を持ち寄り、量産型の検討を行った。
元々、ある程度スピットファイヤを意識して作られた97試である。
帝国側も、97試そのものにそれ程のこだわりは無い。
スピットファイヤのプロトタイプに幾つかの提案を行い、量産型を決定している。
最も、この影で、帝国において、何人もの技術者が自棄酒に浸ることになったのは別の話であるが。
とにかくこうして、英国側ではスピットファイヤ、帝国名称疾風改の共同生産も開始された。
その後、更に共同開発・生産項目は増加し、各種野砲、高射砲、兵員輸送車、更には戦艦まで共用設計が行われるに至る。
 流石に、戦艦そのものの生産に関しては、共用部品の多様化で落ち着いたが、この結果、両軍の意識はかなり変化した。
即ち、帝国軍の装備には認めるべき点があると、しぶしぶながら英国側も認め、また帝国側も、「のと」資料から時代に先行した武装体系を展開しようとしていたが、かなりの部分で検討課題がある事を気がつかされることとなった。
例えば、将来の小銃弾が小型化する事が判っているため、帝国は6.5ミリより大きな口径の携帯兵器に消極的であった。
しかしながら、小隊レベルでの火力支援の減少に繋がるとの指摘により、英国製の携帯型の機関銃、と言ってもかなりの重量であるが、を採用している。

193shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/13(土) 17:24:06
そして、「のと」資料の存在が、一部英国首脳陣に開示されると、英国内で一大パニックが発生した。
帝国が、所謂未来技術を手に入れており、しかも、それを9年近く秘匿しながら、展開していた。
このことが、一挙に帝国脅威論に発展するまでに、それほど時間は掛からなかった。
一国だけ突出したアドバンテージを有しており、しかもそれが黄色人種であると言う、人種論まで飛び出す始末だった。
しかしながら、「のと」資料の自由閲覧が許可された、ケインズ、クラークらが帰国すると、それは終息して行った。
ケインズは、自らの経済的な視点から、帝国の政策の的確さを評価し、クラークはまだ若いながらも、その可能性に着目し、首脳陣を説得して回る。
最も、ケインズにすれば、自らの経済論がある程度実践されている事実、及び「のと」世界では米国に経済を牛耳られていると言う資料を提示されれば自らその方向も決まろう。
二人は、今更帝国の脅威を訴えるより、英国がそれに乗る事の方が、メリットが大きい事を説いて回ったのである。
とにかく、全てが遅すぎた。
既に、英国は、武装の共同開発・生産の面で帝国との連携に抜き差しならないレベルまで踏み込んでいた。
こうして、あるものは積極的に、そして一部はしぶしぶながら、帝国、即ち総研の打ち出した建策に、英国は乗ることを決めたのだった。

こうなると、英国の対応は素早かった。
早々に、軍の共同運用の打診を打ち出してきた。
即ち、これまでの計画では日英は連合軍と言う形で、それぞれの運用を行い、作戦レベルでのすり合わせを行うと言うものだった。
これに対して、英国側の新たな提案は、それを更に一歩踏み込み、指揮系統の統一から、部隊運用・補給に至るまで一つの軍として運用しようと言うものだった。
これまで、アジア地域においては、英国仕官による帝国軍の武装監視団の運用等は行われていたが、この提案は、更に逆の場合も含んでいた。
いや、とにかく帝国軍、英国軍と言う区分ではなく、統合軍として一つにしようとい言う提案だった。
具体的には、本国警備の軍はこれに含めない。
逆に、地球レベルでの軍事活動においては、日英は一つの軍としての組織を形成すると言うものだった。
指揮系統に関しても、アジア地域、太平洋に於いては、帝国政府の主導を認める。
欧州、大西洋、インド洋地域では英国政府の主導を認めると言うものだった。
勿論、通常は両国政府の合意が前提であるが、緊急を要する対応を行う必要が生じた場合、両国とも事後承諾を認めると言う事であった。
英国側が、正式にアジア・太平洋地域を帝国の勢力範囲と認めた事は、ある意味喜ばしい事であるが、逆に言えば、それ以外では英国の権益を優先すると言う事である。

194shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/13(土) 17:25:05
今度は、帝国側が一大パニックに陥った。
アジア地域以外での軍の指揮権を移譲せよと迫っているようなものだと、憤慨するものもいれば、帝国の権益を確保できると単純に喜ぶものもいる。
そして、この海外活動における統一軍の形成を置き土産に、濱口首相は10年近くに及ぶ、政権の座から降りる事を表明したのだった。
最も、この辺りの内容は、政府及び国軍、そして野党政治家の一部のみが知っている事実であり、国民への発表は、本年10月頃に予定されている欧州大戦の開始まで伏せられている。
とにかく、英国の大胆すぎる提案に対して、濱口首相は身体を張って、それに答えて見せた訳であり、反対意見も自ら封じられる事となった。

所長も含めた総研主要メンバー達は、濱口首相も含めた秘密会議の席上でこの結論を採択していた。
全員が、気がついていた。
「軍の統一運用」、これが何をもたらすかを。
「宜しいのですか?」
結局、誰もそれを口にする事が出来ず、所長にその質問をぶつけたのは、濱口首相だった。
「何がだね。私は賛成だが?」
所長は落ち着いた口調で、言葉を返す。
「し、しかし、軍の統一運用は、始まりにしか過ぎません!」
堪えきれず、梅津が思わず叫んでいた。
所長は、黙って頷く。
「軍の統一運用により、両国の垣根は一層低くなります。そして、それにより両国政府間での調整事項は、膨大なものとなる。」
井上が、誰に言い聞かせるでもなく、話し始める。
「統一運用が上手く行けば行くほど、両国の恒常的な調整機関の設立が必要となり、それは外交問題一切に関する権限がいずれ必要となる。そして、その調整内容は、直ぐに軍事レベルだけではすまなくなり、行政機関としての権限が必要となる。その行き着く先は・・・、連邦政府。」
井上が話し終えても、暫く誰も何も言わない。
皇居に隣接する、今では総研の分室になっているこの部屋は、9年前に、井上と梅津が始めて所長にあったその部屋でもあった。
小さな部屋に、井上ら五人、それに所長と濱口首相の七人も入ればもう一杯である。
静まり返った部屋の中で、全員が所長を見つめ続ける。
「四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世に など波風の 立ちさわぐらん」
徐に話し始めた所長の口から出てきたのは一遍の歌だった。
「これは、「のと」世界の私が、英米開戦に至る御前会議にて、詠んだ明治帝の歌です。この中にはご存知の人もいるでしょう。」
全員がその歌を知っていた。
八木や高柳ら調査班のメンバーにしても、英米開戦に至る経緯は確認せざるを得ない事項だった。
それ故、御前会議の内容に関しては、ほおっておいても、行き当たる。
「あちらの世界では、これをして、私が非戦主義者だったと言う理由にしております。
しかし、今の私はそうは思っておりません。
「のと」世界の私は余程悔しかったのでしょう。
何も戦争を望んでいたとは思いませんが、明らかに私自身の政策の失敗を理解していたと思います。
自らは、平和を望んだ筈です。
そして、その為に、果敢にも中華出兵を早期に片付けようと、展開兵力の増強も行ったのでしょう。
しかし、上手くいかなかった。
中華問題を片付けられるように、東条ら陸軍の首脳陣を政権につけさえしています。
「のと」資料を読むと、あたかも私は関与していないように書かれていますが、この私がそんないい加減な君主ではないと言うのは一番良く判っています。」

195shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/13(土) 17:25:46
そう言って、所長は全員の顔を一人一人眺めて行く。
完全に硬直したような表情を崩さない梅津。
少し斜めに構えたポーズを崩さないが、それでも真摯に話を聞いている井上。
本人はそれを隠そうとしているが、これから何を言うのか、興味を隠し切れない高畑。
研究者故か、冷静そうな表情だが、感銘を受けたような八木。
驚きを隠しきれず、視線を辺りにさ迷わせている高柳。
真っ直ぐに、こちらを見つめ、次の言葉を待っている、剛直そうな濱口。
「のと」資料が無ければ、これ程のメンバーを集められたのか、それとも、資料があったからこれほどのメンバーに化けたのかは判らないが、全員が本当に頑張ってくれている。
「諸君らの協力で、ここまで何とか私の希望するような世界を目指してこれました。
本当にこれには感謝しています。」
そう言って所長が頭を下げると、流石に全員が困りこんでしまう。
いくら、所長と言う立場に慣れているとは言え、やはり相手は主上である。
「諸君には、これからも頑張って頂かないといけないのですが、今後を考えた場合、一つ問題があります。」
「1945年・・・ですか?」
高畑が、驚いたように、声を発する。
成程と頷く、井上や濱口首相であったが、他のメンバーは訳の判らない顔である。
「総研は、1945年8月15日に解散するんだよ。」
井上が、所長が微かに頷くのを見届け、そう言った。
「戦後を考えなければいけません。」
所長の言葉に、全員が頷く。
「私自身、立憲君主制をどうこう言う訳ではありませんが、制度としてみた場合、何時までもこの体制で良いとは思ってはいません。
責任の所在が非常に曖昧になる現行の制度では、やはり安定に欠けています。」
立憲君主制の元では、政府首脳や軍の行為の最終責任は、君主にある。
しかしながら、君主に責任を取らせる訳にはいかないため、自ら、責任の所在を曖昧にしてしまいがちだった。
「勿論、くにぬし(国主)として、祭ごとを行うのは室の勤めであり、それは今後も続けていかねば行けないと考えていますが、終戦後は政治からは身を引くべきと考えています。」
「しかしながら、所長がそのように決断されても、おいそれと、体制の構築は出来かねます。」
梅津が悲鳴に近い言葉を発する。
「そう、ですから、外圧が必要となるのです。」
部屋の中に、うめき声とも何とも言えない声が響く。
為政者が、その責任を国民に対して全うする上で、民主主義と言うのは、最良とは言えないかもしれないが、決して悪い方法ではない。
しかしながら、日本では明治以降立憲君主制を取ってきた為、責任の所在を曖昧にすると言う手法が確立されてしまっている。
その為、例え「のと」世界のように、純然たる民主国家に変貌したとしても、慣用として、責任不在の政治手法が生き残ってしまう。
これを防ぐのには、外圧、即ち、英国との連邦政府の可能性と言うのは、非常に有益であろうと言うのが、所長の言いたい点だった。
今はまだ、その可能性まで気がついている人間は少ないであろう。
しかしながら、この先八年近くの期間を統合軍として戦い抜いて行けば否応でもその可能性に気がつく人間は増えて行く。
何時になるかはまるで判らないが、少なくとも政治を行う人間が、それを意識して政権を維持する限り、曖昧な責任所在は取れるものではない。
そんな事をすれば、統合政府どころか、逆に英国に飲み込まれてしまう可能性すら出てくるのである。
「判りました。陛下がそこまでお考えならば、不肖濱口、命に代えても英国との統合軍の設立を承認させます。」
最早老齢にさしかかっている濱口首相が立ち上がり、それだけ言うと、頭を深々と下げる。
激情家の濱口、その二つの眼からは、止め処も無く涙が溢れていた。

196shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:13:34
「英日統合軍欧州派遣司令官のカニンガムです。それではこれまでの状況を山口の方から説明致します。」
「日英統合軍欧州派遣艦隊運営司令山口です。統合軍欧州派遣部隊、以降は統合軍と略させて頂きます、の現状を説明させて頂きます。」
Chif-Commander of Allied Force of Great Briten and Japan for Europa とカニンガムが言ったのに対して、山口は、わざわざChif-Commander of Control for Navy Division of Allied Force of Japan and Great Briten for Europaと言いなおしている所に、お互いの意識の違いが見える。
これにはカニンガムも苦笑を浮かべて座り込むしかなかった。
現実には、文章では日本語、英語の両方が作られるため、英語表記ではカニンガムが言ったように、英国が先に来て、日本語では日本が先に来ている。
まあだれも、正式名称を口にすることもなく、最終的には書類上からも統合軍と言う部分しか残らなくなるのだが、まだ出来たばかりではこれも仕方なかった。

「統合軍は、6個兵団、兵力18万、後方支援7万人、総員数25万人からなる軍組織です。」
部屋の明かりが消され、大型のプロジェクターを使い、組織図が示される。
「それぞれの兵団は、三個旅団及び工兵、輸送のそれぞれの大隊からなる総勢2万8千人の部隊です。
兵員、物資、燃料輸送用の車輌は、約5600台、戦車などの戦闘車両は約500台を擁する機動兵団となります。
更に、計画では兵団には、指揮艦として巡洋艦1、防空用の空母2、船団護衛の為の駆逐艦8、上陸支援用の強襲艦12、輸送船24隻、油槽船3隻が所属する事となっております。
現在、この兵団の編成を急ピッチで進めておりますが、完全充足に達しているのは、ここディエゴガルシアに滞在している、第一及び第二兵団までです。
第三、第四兵団に関しては、既に兵員は充足されオーストラリアにて練成中です。
第五、第六兵団については、現在、オーストラリアに向けて集結中です。」
スライドが変わり、オーストラリアに向けて航行中の船舶が指し示される。
航路は、インド、満州地区、そして日本からオーストラリアに向けて伸びていた。
「また、第三兵団以降に関しては、強襲艦、指定エリアに海岸から展開するために、特に作られた専用の艦艇ですが、そのものの絶対数が不足しており、配備は見送られる予定です。」
山口は、一旦話を止め、会議室を見渡した。
「ここで、問題となっているのが、残りの四個兵団、現在オーストラリアにて練成中の、第四以降の輸送船の割り当てです。
現在、輸送に割り当てる事が出来る輸送船は、ここディエゴガルシアにて出動待機中のものを除き、60隻程度であり、これは四個兵団を完全充足状態で輸送するのに必要とされる船舶の半分でしかありません。」

197shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:14:30
統合軍の編成にて、一番の問題は船の手配だった。
六個兵団を完全充足する場合、巡洋艦6隻、駆逐艦48隻は目処が立っていたが、その他の艦艇は厳しい限りだった。
空母12隻は、正規空母ではなく、当初よりそのために建造されていた自動車輸送船の改装による、所謂護衛空母が当てられる予定だが、現在稼動しているのは8隻にしか過ぎない。
残りの4隻については、既に2隻が習熟訓練中であるが、残りはこれから習熟訓練が開始されるありさまだった。
問題は輸送船である。
既に徴用された輸送船の数は、108隻に達しているが、これでも4個兵団を輸送するに足るだけであり、更に60隻が必要とされている。
船そのものは、日英の商船隊からの徴用で不可能な数ではない。
帝国は、当初から護衛空母や輸送船の拡充に力を入れており、既に30年代初頭より商船の大増産を開始していた。
全国の造船所に対する技術指導と、政府系の超優遇融資の提供により、5万トン以上のドックが20箇所以上で建造され、当初は1万5千トン、32年からは「のと」とほぼ同じクラスの輸送船が大量に増産されていた。
同一船型の艦船の大量生産であり、竣工に要する期間は、年々短くなり、今では一隻辺り、1年程度となっていた。
最も、これは戦車等の製造と同様に、量産体制が確立されているせいである。
船体等の鋼板は、予め製鉄所の側に作られた工場で大量に量産されており、ドックでは、運びこまれたこれらの鋼板を組み立てる作業が中心となっているせいだった。
電気溶接等の技術開発や、ディーゼルエンジンの耐久性や生産性もかなりのレベルまで達している。
造船所そのものも、政府推奨以外でも大型ドックを備える所も増えていた。
長崎造船所などは、1号から7号までのドック全てが、5万トン以上に拡大され、しかもそれらが全て稼動していると言う近年まれに見る活況を示している。
結果、2万トンクラスの輸送船船そのものは38年の時点で、300隻近くまで膨れ上がっていた。
そして、現在ではこれらの造船所では高畑が欧州から乗ってきた新田丸ような、2万5千トンクラスに拡大された輸送船の生産が開始されている。
当初計画では、2万トンクラスの輸送船が、戦時体制下徴用される事を見越して、より大型の艦船に置き換える事で対応して行く予定だったのである。
全て、当初計画を上回る規模で拡大しており、英国における生産も加味すれば、必要船舶は余裕でクリアできる筈だった。
しかしながら、これらの2万トンクラスの大型輸送船は、現実には世界中の主要航路で活動中の船だった。
そして、帝国の予想を遥かに上回る好景気が、徴用を困難なものにしてしまっていたのである。
高畑らが画策したのは、輸送船の大型化による、輸送費の大幅なコストダウンであり、これは見事に成功した。
特に、戦車と同様に、同一艦形の大量生産と言う発想は、これまでに無く、生産コストの面でも他国を圧倒した。
米国や欧州各国の不況が逆に幸いし、欧米の輸送会社は軒並みその規模を縮小するなか、帝国系の日本郵船等の運送会社はそのシェアを伸ばし続けた。
そして、35年前後から、米国を除く他の列強が、景気回復局面に入りだすと、需要は一気に膨らみ、帝国系の運送会社の船舶需要はうなぎ上りに増加している。
現在統合軍に組み込まれている、108隻の輸送船にしても、その六割が、元々日英の軍用の輸送船として押さえられていた船舶であり、新たに徴用出来たのは、50隻にも満たない数でしかなかった。

198shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:15:39
「平時においては、強制的な船舶の徴用は、防諜上の理由からもなるべく避けたいと考えております。
この結果、作戦案に一部修正を加え、これに対応する事となります。」
スライドが入れ替わり、アフリカが大写しになる。
「当初計画では、南アフリカのケープタウンが最終待機場所の予定でしたが、現在ここシエラレオネ、フリータウン近郊に、新たな集結拠点を建築中です。」

今回の対独戦の開始にあたっては、「のと」資料の分析から得られた二つのコンセプトが作戦計画に組み込まれていた。
一つは欧州において、独逸が対仏戦にて展開した、電撃戦の考え方。
そして、もう一つが、米国海兵隊と言うコンセプトである。
電撃戦に対しては、様々な資料があり、それらを分析した結果、独逸軍の機動化は不十分であるとの結論に達していた。
即ち、正面装備である戦車の充実には力が注がれているが、それらに付随する歩兵の機動化、更には段列、所謂補給部隊に対しては、資源の配分の問題があるにせよ、殆どなされていない。
結果が、対仏戦におけるダンケルクの撤退戦を引き起こし、更には対ソ戦での敗北に繋がったとの分析だった。
ダンケルクにおいて、あれだけ狭い地域に英仏の軍を追い込んでおきながら、最後は取り逃がしている。
対ソ戦においては、確かにソ連側の戦車が優秀ではあったが、全体の兵力の展開、作戦指導、その他総合力では独逸が遥かに勝っており、それぞれの局面では見事勝利を修めている。
しかしながら、補給が不十分なため、個々の勝利を継続する事が出来ず、ソ連側に退却戦を実施する時間的な余裕を与えてしまった点が対ソ戦開戦の一年目の状況であろう。
少なくとも、ソ連の戦争指導の稚拙さを考慮するならば、「のと」世界のヒトラーは、機甲師団の増設よりも、補給部隊の機械化を重視した方が、初年度での勝利の可能性は高かったと分析されている。
要は、短期での制圧を目指すには、独逸の機動力が不十分であったとの結論である。
その為、統合軍では、部隊全体の継戦力も含めた機動化を目指し、正面戦闘に従事する、戦車部隊、歩兵部隊のみならず、砲兵、工兵、燃料弾薬、燃料の輸送に至るまでの機動力の充実に力が注がれている。
 そして、この機動部隊に更に米国の海兵隊を参考に、航空戦力、海上輸送戦力を組み込み、一つの兵団として編成が行われていた。

199shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:16:27
もっとも、短期間での機動兵力を海に面してさえいれば、任意の地点に展開出来る部隊として編成された訳であるが、問題が無いわけでは無い。
長期的な船舶輸送では、兵員の質の低下、即ち、船酔いが大きくクローズアップされたのである。
何しろ、大洋を越えての部隊の展開であるから、輸送される期間はどうしても、長くなる。
一ヶ月以上に渡って、船に乗せられた兵員が、海岸から陸に上がって、直ぐに戦えと言っても、流石に無理がある。
想定では、2割が戦闘正面に展開出来ず、4割が展開できても、殆ど戦力とならず、実質的に4割程度の正面戦力まで減衰してしまう。
最も、「のと」資料によれば、陸軍は、太平洋戦争の緒戦において、東南アジア方面の展開において、実際にこれを成し遂げている。
日本から一ヶ月以上掛けて、アジア各地域に兵員を輸送し、見事緒戦の勝利を得たわけであるから、どれ程日本軍が精強であったのか、あるいは敵が弱かったのか判ろうと言うものである。
そして、困ったことに、統合軍は日英共同であり、今回の敵は精強なる独逸軍である。
いくら帝国軍が精強と言っても、統合軍として戦う以上、それを考慮する必要は十分すぎる程理由があった。
結果、出された結論が、船舶による輸送は、二週間、船の居住環境を改善したとしても、20日間以内の展開が望まれる事となった。
ちなみに、当初の帝国軍の見積もりでは、30日であったが、流石にこれは、英国側将校から却下されている。
最終的に、ディエゴガルシアで1次集結を行った部隊は、南アフリカに設けられた、集結地点で、十分な休息を取り、開戦三週間前に、現地から出動する。
一旦兵団は、スコットランド北方の秘匿湾まで一気に前進し、その場で待機、そして欧州上陸を目指すと言う作戦に決定されていた。

200shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:18:04
しかしながら、ここに来て船舶の不足が明らかになった。
その為、限りある輸送船の使いまわしを考える必要が出てきたのである。
その場合、南アフリカでは、中継拠点として余りにも遠く、更に欧州に近いデポの選定が必要となったのである。
結果、中部アフリカ西海岸にある、シエラレオネのフリータウンがその地として選ばれた訳である。

「フリータウンは、勿論英国の植民地ですが、欧州に近い分、防諜上のリスクは大きくなります。」
山口は続けた。
「また、気候的にも熱帯地域に属し、兵の疲労も南アフリカより大きいかと考えますが、統合軍としては、許容範囲と考えています。
何よりも、戦闘正面に、十分な兵力が展開出来ないよりは、良いとの結論に達しました。」
ここまで話すと、山口は席に戻る。
部屋の明かりが戻ると、再びカニンガムが口を開いた。
「以上が、統合軍の状況です。何か質問は?」
「色々あるぞ、まずは、勝てるのか?」
吉田茂駐英全権大使が、単刀直入に質問し、全員があっけに取られる。
「いや、勝つための算段を行っている積りなのですが。」
カニンガム中将は、微苦笑を浮かべながら答える。
この帝国次期首相は、一体全体、何を言い始めるのだ。
「ああ、それは判っている。諸君らがその為に努力しているのも承知している。
しかしだ!対独戦の勝利条件は非常に厳しいぞ。
個々の戦闘では、負ける事はまずないと言うのは、良く判っているが、本当にベルリンまで辿り着けるのかね?」
全員が改めて、納得した表情を浮かべる。
カニンガムは、さりげなくマッキンレーに顔を向ける。
英国情報部部長は、帝国側のパートナーである堀部長と視線を交わす。
「それに関しては、情報部からお話しするのが適切でしょう。英国情報部のマッキンレーです。」
軽く頭を下げ、マッキンレーが話し始めた。
「本作戦の最重要点は、ナチス独逸にどこまで気付かれずに、部隊展開が出来るかに掛かっております。
現在の所、独逸側が我々の動きに気付いていると言う兆候は全くありません。」
マッキンレーはそれだけ告げると、黙り込んでしまう。
会議室に困惑が広がる。
「マック、それじゃ皆さんが納得しない。もう少し詳しく説明してくれないか。」
流石に、困った様子でイーデンが口を添えた。
「本作戦の最重要課題は、どれだけ早くベルリンまで辿り着けるかにあります。」
マッキンレーは仕方なさそうに、話し始める。
「軍事作戦そのものは、統合軍の皆さんの方が、詳しいでしょうから、それは省きますが、要は、上陸予定地点から、ベルリンまでの間で、どれだけ独逸軍の戦線が構築されるかに掛かっていると認識しています。」
あってますか、と言う風にマッキンレーはカニンガムに目線を向けた。
カニンガムが頷くのを確認し、更に言葉を続ける。
「現在の独逸軍で、我が方の統合軍に対抗できる可能性のあるのは、現在練成中の独逸陸軍機甲師団ですが、これはグーデリアン少将の下、二個師団が編成中であり、場所は東独逸である事は確認済みです。」
「それ以外の部隊で、即応可能なものは、今の所見受けられません。」
どうだ、十分説明したぞと言う顔で、マッキンレーが再び黙り込む。

201shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:18:42
仕方なさそうに、溜め息を付きながら、カニンガムが口を開いた。
「まあ、吉田大使が危惧されるような、ベルリンをいち早く制圧すると言う勝利条件を阻害する可能性のある部隊で、即応可能なものは、今の独逸には無いと言う事が判っております。
また、それ以外の地域拠点の部隊は、我々が的確に判断さえすれば、対処可能であろうと考えております。
そして、何よりも、現在独逸国内には、英国情報部を初め、帝国統合本部情報部、そして総研情報分析班も含め、日英の情報収集の専門家が張り付いており、これから半年間、独逸側での通常と違う活動が行われれば、いち早く情報が伝わる体制を構築しており、不足の自体に備えております。」
一気に、まくし立て、カニンガムは吉田大使の顔を見る。
全く、どうして司令官の私が説明しなきゃ行けないのかと思うが、この会議のメンバーでは他に方法は無かった。
「うむ、良く判った。可能な限りの対応は取られていると考えるべきだな。それでは、次に懸案だった補給はどうなっている?」
吉田大使は、休む間もなく、突っ込んでくる。
実は、日本を立つ前に、総研で梅津から散々レクチャーされているのだが、全員の意識合わせは必要不可欠だった。
「はい、確かに。作戦そのものは、短期決戦を想定していますが、それでも最悪の場合も考慮し、潤沢な補給が絶対必要であるのは言うまでもありません。
従いまして、陸戦部隊は、エルベ川沿いに、ベルリンを目指します。」
今度は山口が答える。
流石に、カニンガムばかりに答えさせては申し訳無いと思ったのであろう。
「幸いなことに、ドイツ国内では河川輸送路が発達しており、エルベ川はチェコスロバキアが、航行権を有しております。
予め、数隻の油槽船が、チェコを目指して南下する予定ですし、開戦後は、航空支援も行えます。
また、河川砲艦も手配しておりますので、補給路の確保は出来るものと考えております。」
「そうか、では米国、ソ連の動きはどうなんだ?」
これは情報部マターである。
全員が、マッキンレーを見るが、彼はイヤイヤと手を振り、堀を指差す。
「統合本部情報部堀です。それについては、小職から答えます。」
少しげんなりしながらも、堀が話し始める。
「ソ連については、昨年のカンチャース、満州の北部を流れる国境ですが、での全面敗北を受け、アジア方面での策動は、暫く延期される模様です。
しかしながら、欧州方面での活動がその分活発化しており、「のと」資料の対フィンランド戦が早まる可能性があります。」

202shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:19:12
昨年のカンチャースでの国境紛争は、ソ連側が予期したよりも、中華北辺軍及び、帝国主体の停戦監視団の展開が速く、紛争に関与したシベリア方面軍は、少ない部隊ではあるが、徹底的に敗北している。
この結果、アジア方面への進出は、ある程度大規模な攻勢以外は無理であるとの結論が出されたようで、シベリア方面軍の活動は、減少している。
これに対して、欧州方面、ポーランドからチェコスロバキア、ルーマニアに対する部隊の強化、及びフィンランド方面での部隊の増大が伝えられている。
帝国政府は、密かにトルコ政府、フィンランド政府と交渉を持ち、対ソ監視網を構築していた。
帝国が偵察用の機体を提供し、トルコ、フィンランドが滑走路と補給・整備施設を提供するとの条件で、二個偵察小隊が、それぞれ一個ずつ、トルコとフィンランドに展開している。
トルコを飛び立った真っ黒に塗られ、国籍マークも消した双発の偵察機が、ソ連領内を縦断する形で、フィンランドまで、そして、フィンランドからは逆方向に飛んでいる。
まだ配備の少ない機上電探を搭載し、いざとなれば、大概の戦闘機を振り切れる性能を持つ、最新鋭の機体により、ソ連軍の活動は克明に写真に納められているのだった。
ちなみに、撮影された写真は、情報部の分析も添えて、同じものが両国政府に渡されており、対ソ連に関してだけで言えば、両国とも帝国の同盟国と言って良かった。
ただ、帝国の最新鋭の偵察機に関しては、両国とも興味津々のようで、着陸するたびに、見慣れない軍人の質問責めにあうのは困りものだった。
とにかく、「のと」世界では、張鼓峯、ノモンハンと言う一連のアジア方面の国境紛争の後、ソ連は独逸のポーランド侵攻に合わせる形で、ポーランド、そして英仏と独逸が睨み合っている隙をつくようにフィンランドへの侵攻を行っている。
現実には、アジア方面での策動は早々と見切りをつけたようで、フィンランド国境付近への部隊の集積が既に開始されていた。
どうやら、スターリンは、本年度中にもフィンランドとの「冬戦争」を開始する積りのようだった。

203shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:19:44
「それは、承知している。と言う事は、特に大きな変化はないと言って良いのだな。」
わざと、むっとした顔を浮かべ、吉田大使は答える。
この辺りの分析結果は、当然両国政府首脳にも伝わっており、今更言われるまでも無い内容である。
現実に、帝国から様々な情報を提供されているフィンランドからは、支援要請が寄せられており、日英両国は、密かに支援策を打ち出している。
戦闘車輌80両と、航空機120機が10月までに、第一陣としてフィンランドに売却される事となっていた。
ただ、今の時点で対独戦用の、97式中戦車や、疾風を売却する訳には行かないので、提供されるのは、97式の車体を利用して作られている、突撃砲と、帝国側で増加試作された、疾風のプロトタイプであった。
日英共に、米国との戦争は出来れば避けたいと考えているが、ソ連とは戦わざるを得ないと考えていた。
米国は、何と言っても大洋が国家そのものを隔てている。
あちからユーラシア大陸に関与してこない限り、大きな問題にはならない。
それに対して、ソ連は違う。
思想そのものが違う上に、陸続きで侵攻出来る所に、両国の権益が山ほどある。
それ故、衝突は避けて通れないものと考えられていた。
また、「のと」資料からも、超大国が二つもあると言う情況は非常に好ましくない。
何せ、その二つの超大国の間に挟まれているのが、日英そのものである以上、少なくとも片方は無くなって貰いたいものである。
「のと」世界では、英国がフィンランドを援助しようにも、対独戦の戦争準備の為、十分な装備が割けなかったようだが、現実には日英の同盟により、ある程度までは可能となっている。
ただ、やはり対独戦の開始に向けての準備が急がれている現状では、それにも限りがあるのは仕方が無かった。

204shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:20:24
「それで、米国の方はどうなんだね。」
吉田大使に代わって、イーデン外相が先を促すように、声を掛けた。
「はい、米国は何か感ずいているようです。オーストラリアに向かう船団から米国の駆逐艦との遭遇情報が増えております。
また、大西洋での米国海軍の活動も以前より活発化しております。」
「うーむ、何時までも隠しおおせるものでもないか。」
堀の答えに、イーデン外相が呻く。
「まあ、仕方ないですな。チャーチル卿にもうひと働きしてもらうしか無いでしょう。」
吉田大使が、嬉しそうに言うので、イーデン外相の顔が少し強張る。
「のと」情報が、帝国から王室を通じて英国政府に伝えられた時、チェンバレン首相はその情報をチャーチルから隠したのだった。
井上達からの働きかけもあったが、現実問題として、「のと」世界では次の首相となるチャーチルは米国とのつながりが大きすぎた。
その結果、少なくとも開戦までの一年間は、「のと」情報の開示者のリストからは除外されていた。
最も、チェンバレンのチャーチルに対する評価は高くなく、彼自身もその結論に異論はなかった。
その結果、昨年の統合軍設立の話では、一時はチャーチルが海軍卿を辞任するかと言う騒ぎまで行った経緯すらある。
今では、チェンバレンとチャーチルの仲は険悪と言っても良く、その影響を受ける形で、イーデンの地位が上昇しているとも言えた。
これまで、チャーチルの下で働いてきたイーデンの立場は、同等、いや、ロスチャイルド家の支持が明確になった今では、チャーチルよりも上位に来ている。
実際、イーデンが、昨年来「のと」情報の閲覧が許されているのを見ても、王室がどちらを支持しているのかは明確であった。

205shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:21:05
イーデンにしてみれば、非常にやりにくい事おびただしかった。
チャーチル自身も、自分に隠れて関係者が何か画策している事は気付いており、色々探りを入れているが、結果ははかばかしくない。
逆に、それが更にチャーチルの立場を悪くしているのが判るイーデンには何ともやり切れないと言うのが正直な感想だった。
「で、米国はどの程度気付いていると、情報部のお歴々は、考えているのかな。浅学の私どもに、説明してもらえるかな。」
これさえなければ、吉田も悪い人間ではないのだか。
堀は溜め息を殺し、無表情で離し続ける。
「はあ、日英で対独戦を始めようとしてるのには、明らかに気がついております。
米国海軍艦艇の整備状況、備品の購入情況等から、戦時体制への準備に入ったものと推測されます。」
「問題は、どちらに付くか?だな・・・」
イーデンが気を取り直して呟く。
「ハイ、ルーズベルトが大統領ならば、独逸を叩くと言うので間違いは無いのですが、ランドン大統領の場合、選択肢が十分にあります。」
米国内の、独逸支援勢力は、意外と多い。
勿論、ナチス独逸自身が、そのプロパガンダの為に、かなりの資金を投入していると言うのもあるが、何を言っても、白人系の移民の三分の一近くが、独逸系なのである。
最も、彼らの場合は、好意的中立が精々で、自分達から積極的に欧州での戦争に加わろうと言う意識は無かったが。
「どちらかと言えば、独逸側での参戦を狙っているものと思われます。」
始めて、井上が口を挟む。
流石に、総研の主要メンバーである彼の言葉に、全員がその先を待ち受ける。
「政策的には、民主党よりの共和党の大統領ですが、ルーズベルトと大きく違う点は、ソビエト政府の影響が少ない事です。
特に、労働問題でルーズベルトを破って大統領になっただけに、その方面のスタッフは排除されており、代わりに米国の大手資本家の息のかかった連中が入っております。」
「そして、彼らは独逸に大きく投資している、そう言う事か。」
井上の言葉を吉田が引き取る。
「更に、「のと」世界では、ルーズベルト大統領の下、独逸に対する重金属の禁輸措置、中立法の改正等で、独逸に対する締め付けを行ってたようですが、ランドン大統領はこれらの措置を一切実施しておりません。」
「むしろ、対独貿易は徐々にですが、拡大傾向にあります。」

206shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/20(土) 10:21:44
「それで、総研はどう考えているのかな。対米戦の可能性はあるのかね。」
「まあ、当面は大丈夫かと。米国の戦争準備は全く整っておりません。」
井上が、まさかと言う顔で答える。
「ただ、明らかに独逸側に立った動きをしてくるものと考えられます。」
「具体的には?」
「まずは、情報の提供からでしょうね。独逸に対して、日英の艦隊がどこにいるかの情報を伝える。
さりげなく、独逸の輸送船の航路上に駆逐艦が展開し、偶然にも出くわした国籍不明の潜水艦を追い払う位はやるでしょうね。」
「統合軍の対応は?」
「大西洋を北上する時点で、米国に察知される可能性はゼロではありません。」
今度は山口が答えた。
「しかし、艦隊には電探も搭載していますし、航空機の護衛もついております。
そうやすやすと、米軍の艦艇を近づける事はないと考えております。」
「ふむ、そうか、少なくとも最低限必要な期間の秘匿は可能か。」
「ええ、まあ、それでも気がつくものがいないとは限りませんが、それだけでは判断材料としては不十分かと。」
「よし、判った。ここまでの準備は概ね順調である訳だな。イーデン外相、何か他に質問はありますかな。」
イーデンも首を横にふり、特に何も無いことを示す。
「それでは、作戦は、予定通り進めると言う方針で宜しいですかな。
で、開戦時期は?」
吉田はイーデンに話を振る。
「九月末から10月初頭、ナチス独逸のチェコスロバキア侵攻の時点となる。
後四ヶ月を切った訳だ。最早、我々は引き返す事は出来ない。」
「また、引き返す積りもないですな。」
吉田が口を挟む。
「ええ、ナチス独逸は何としても、叩き潰す必要があります。」
「しかし、独逸を叩き潰す必要は無い。」
今度は井上が、ぼそりと呟く。
「そう、その通りです。」
イーデンは、口を挟む連中に戸惑いながらも、気を取り直して話し続ける。
「諸君らも、今更ではあるが、この点を留意して作戦指導を心がけてくれたまえ。」
統合軍の首脳陣を一人ひとり見つめながら、イーデンは、言葉を選ぶ。
「本年10月までに、日英統合軍は、独逸に戦闘を挑む。しかしながら、これは戦争ではない。
いや、我々はこれを国家間の戦闘とは位置づけていない。
我々は、あくまでも独逸帝国におけるナチス政権の打倒を目指し、独逸に侵攻するのである。
結果、単なる軍事行動よりも更に困難な役割を諸君らに要求することとなる。
この先、侵攻までの作業は大変なものであろうが、それは序章にしか過ぎない。
統合軍の役割は非常に重大である。
今後の日英の行方が君達の行動に掛かっていると言っても言い過ぎではないだろう。
月並みな言葉しか浮かばないが、本当に、宜しくお願いする。」
イーデンは深々と頭を下げ、話を締めくくった。
カニンガム司令官を筆頭に、山口、サマービルら統合軍首脳は一斉に立ち上がり、見事な敬礼を返すのだった。

207shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:22:47
会議が終り、高畑がイーデン外相と話していると、井上が呼びかける。
「それじゃ、また。」
挨拶もそこそこ、井上の後をついて廊下を歩いて行く。
「何ですか?」
「うん、情報分析班の班長が来てるんで、挨拶にな。」
高畑が回れ右して立ち去ろうとするが、井上にがっしりと腕を掴まれ、離さない。
「離して下さい、あの人と関わると、ろくなこと無いんですから。」
「まあ、そう言うな。我々で選んだ人物なんだから。」
井上がニヤニヤ笑っているだけに、余計に癪に障る。
「そうは、言いますがね、お蔭でオーストラリアまで行かされ、挙句にはゲシュタポに追いかけられたの私なんですからね。」
「ああ、聞いてる。お手柄だったじゃないか。」
ずるずると引きずられるようになりながらも、高畑は辛うじて抗議を続ける。
「私はね、軍人じゃないんですよ、これでも立派な実業家なんです。どうして、あんな目に会わなきゃ行けないんですか。それもこれも全部あの人のせいでしょうが。」
「いや、軍人でもあんな危険な事は、普通やらんぞ。」
「なーにが、ちょっとオーストラリアまで頼まれて欲しいですか。護衛は堀に頼んで、優秀なものを付けるですか。ほんとに・・・」
まだ、ぶつぶつ言っているが、高畑も観念したらしく、自分で並んで歩き始める。
「まあ、そう言う不満は、本人に言うんだな。お蔭で、欧州の大富豪をこちらに引き寄せる事できたんだし。良かったじゃないか。」
「あのね、言えると思います?井上さんだって苦手じゃないですか。」
「そりゃ、仕方ない。何せ階級はあちらが上だからな。軍隊は階級が全てさ。」
絶対そんな事、井上が思ってる訳無い。
高畑は、確信を込めて言えるが、皮肉そうに笑っている井上の顔を見ると、もう何も言う気にならなかった。

208shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:26:14
「入ります。」
ディエゴガルシアに建てられた、統合軍司令部とでも称すべき建物の中には、日英のそれぞれの部局の支部が設けられている。
二人が入ったのは、帝国統合本部の情報部の部屋だった。
既に何度も来ているのか、井上は幾つかの机の間を通り抜け、奥の応接室の中に入る。
正面に、堀部長が腰を下ろし、向かい合う形で、問題の人物が座っていた。

「おう、今噂してた所だ、良く無事還ってこれたな。」
男が頭だけ、回して高畑に言った。
「あのねえ、山本さん、他に言う事あるんじゃないんですか。本当に・・・」
「おお、すまん、すまん、頑張って貰って、本当に悪かった。」
高畑が、文句を最後まで言わない内に、山本が真剣に謝って来た。
そう下手に出られると、それ以上文句も言えない。
矢張り、この人は苦手である。
申し訳なさそうな顔に、嘘は無い。
心のそこから悪かったと思っているのは間違いない。
本当に部下思いのいい人なのだが、仕事に関しては、冷酷になれる人でもあるんだよなあ。
そう思いながら、高畑は横のソファに腰を下ろした。
「おお、井上君、久しぶり、元気にしてたかね。」
黙って反対側に腰を下ろす井上に、今度は元気そうに声を掛ける。
「はい、おかげさまで、何とか元気にやっております。」
「そうか、うん、それは良かった。」
山本は一人で納得し、ウンウン頷いている。
「おい、イソ、何が良かったんだよ。単なる社交辞令じゃないか。」
堀が呆れたように山本に声を掛ける。
「いや、何を言う。帝国の明日を担う井上君が、元気なんだぞ、こんなめでたい事ないじゃないか。」
「あー、判った、判った、そう言う事で良いよ。」
「いや、堀、お主は判ってない、」
「ハイハイ、判った判った。」
堀は、適当に相槌を打って、話を打ち切ろうとする。
今や帝国の防諜を代表する二つの組織、統合本部情報部と、総研情報分析班の二つの長が、こんなに中が良くて、良いのかと高畑は思ってしまう。
「あっ、そうだ、堀さん、山本さん、現場での軋轢は、何とかして下さいよ。」
二人とも、話を止め、うん、何かと言う顔で高畑を見つめる。
「今回、山本さんの依頼で、オーストラリアまで行きましたが、護衛に付けてもらった情報部の方、佐藤さん達ですよ。」
「うん、佐藤からは無事任務を勤め上げたと報告はここで貰っているが、あいつらが何かしたのか?」
堀の表情が一気に真剣になる。
流石に長年、情報部の長を務めているだけはあり、その顔には凄みさえ滲み出ていた。
「いや、そうじゃないです。佐藤さんたちは良くやってくれました。」
高畑は慌てて、堀の心配を打ち消す。
「ただ、今回は長期間に渡って、護衛をして貰ったんですが、その間何かと、情報班について、探りを入れてこられるのに、閉口したんですよ。」
「なんだ、あまりびっくりさせんでくれ。これでも気は小さいんだから。」
どこをどう見たら、気の小さい人に見えるんだと、言いたくなる。
「いや、とにかく、情報部と総研情報分析班同士の現場での確執は何とかならないですか。」
「そりゃ、無理だろう。そう言うもんだから。」
山本が仕方ないよなと言う顔を堀に向けると、彼も頷いている。
元々、軍が主導する情報部や、公式情報中心の外務省に対して、全く独自のルートでの情報入手、分析の為に設立された総研情報分析班である。
現場での仲が良い訳なかった。
「ですが、情報分析班の班員の多くが、わが社の社員であり、殆ど素人ですよ。情報部のように荒事に対処できる連中なんていないでしょう。」
「そこで、情報部に目の敵にされたら、いざと言う時に、助けて貰えない事もあり得るでしょう。」
「いや、それは無い。と言うかね、そんな事、私が許さない。」
堀にそこまで断言されると、それ以上高畑にも言えない。

209shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:28:55
「しかし、現実問題として、堀さんが許さんと言っても、徹底できるもんでもないでしょう。」
その代わり、井上が切り込んできた。
「元々、情報分析班の存在そのものを秘匿してきた事が全ての原因です。何らかの方策を考えるべきでしょう。」

総研の情報分析班は、情報の重要性を痛いほど痛感している井上ら総研メンバーが独自に作り上げた情報収集組織である。
別に、非合法のスパイもどきを大量に抱え込んでいる訳では無く、組織と言ってもやっている事は、非常に地道な情報収集・分析作業を行うだけである。
ただ、高畑が絡んでいるだけあり、そこには大量の資金が投入されていた。
主要国それぞれに、情報分析センターが設けられ、そこにはその国で可能な限り手に入る全ての情報が集められる。
雑誌や新聞はもとより、市井の酒場等で聞きかじったゴシップさえも、情報として処理されるのである。
それぞれの情報分析センターは、日商系と判らないように、現地で別法人を立てられ、それが各国の同様のセンターと提携している形態が取られている。
元々、合法的な情報と、市井のゴシップ程度を集めているだけであるから、各国の首脳陣もそれ程注意を払わない。
しかしながら、ここに、「のと」情報で得られた、各種統計手法等の分析手法が用いられている為、驚くべき精度の情報が集まるのである。
単なる既存の情報ソースから、軍の動向まで判ると言われれば、普通は笑い飛ばす。
実際、「のと」世界でも、米国株式市場の薬品会社の株価の動向から、米国が南に向かうのか、北に向かうのか分析した者もいたのである。

このことが、統合軍情報部との軋轢の元となっていた。
要は、同じような情報が政府に届けられても、総研情報班の方が、精度が高いのである。
勿論、堀以下情報部の首脳陣でも、「のと」情報にある程度閲覧許可を得たものは、その理由が判っている以上、気にはしない。
しかし、現場は違う。
また、判っていながらも、堀達は、それを組織の発奮材料に使うのは仕方の無い事だった。
結果、情報部の現場にすれば、情報班には何か特別な情報入手ルートがあるのではないかと、要らない軋轢が生じているのである。

210shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:31:31
「しかしなあ、井上、そうは言っても、納得させる方法なんか無いぞ。」
どうやって情報を入手しているかを明かせば、どこからそれが他国に漏れるか判らない。
現在は、警戒されていない為に、ある程度自由に情報が収集出来る訳であるから、これは死活問題にも繋がりかねない。
山本は、それを指摘したのだった。
「その為の、山本閣下じゃないですか。」
井上が、掛かったと言わんばかりに、山本に詰め寄る。
ありゃ、またこの人、ろくでも無いアイデア思いついたに違いない。
高畑は、井上のこの表情を見るたびに、対象にされた人が可愛そうになるのだった。
「おい、また禄でもない事考えてるんだな。否だぞ、俺はやらんぞ。」
山本がそっぽを向いても、当事者でない、堀は気楽なものである。
「うん、井上君、何か良い方法があるようだな。」
この二人が揃うと、碌な事ない。
高畑は、悪友が頭を抱えているのを嬉しそうに見つめている堀と井上の顔を交互に見つめ、新たに確信するのだった。

山本五十六、「のと」世界では、開戦時の連合艦隊司令長官を務めた人物である。
帝国内では、交通事故で死亡したと思われているが、実際には総研情報分析班の班長として、主に欧州方面で、活動を続けていた。
「のと」情報によって、山本が開戦時の連合艦隊司令長官と知らされ、一番驚いたのは、誰を隠そう、堀部長その人だった。
確かに、若い頃には日露戦争にも従事し、実戦経験もあるが、指揮官として見た場合、アイツ程信用できない男はいない。
それが、堀の印象だった。
とにかく、賭け事が大好きで、人当たりも良い。
部下の面倒見も良く、人には好かれるが、悪友として言わしてもらえば、余りにも危ないのである。
乾坤一擲の大勝負が大好きなばくち打ちで、人情に熱いあまり、人事に感情を挟みかねない。
非常に徹するべき司令官が、それでは堪ったものではない。
「のと」資料を調べても、対米戦初頭の真珠湾攻撃等は、いかにも彼がやりそうな作戦だった。
しかも、彼はあちらの世界では、戦争半ばで戦死している。
堀は頭を抱えたくなった。
友人だけに、堀は彼の人となりを良く知っている。
そのまま、当時の海軍大臣辺りを勤めていれば、優秀な行政官を勤め上げるであろうが、艦隊司令官には向いていない。
だが、そう考えているのは、堀一人であり、「のと」資料を見ただけでは、そこまで判る筈も無い。
案の定、評価は二分したが、山本は統合軍と国防省の中で、頭角を現してきた。
そして1934年4月の人事で、彼に統合作戦本部作戦本部長の話が出たのである。
昭和維新からこの方、人事に先例なしとは言われているが、現実に前任者の永田本部長は、国防省長官に内定している。
確かに、そのまま四年間無事勤め上げれば、山本が国防省長官になると言うなら、問題は無かろう。
少なくとも、実戦司令官に就く事は無い。
しかしながら、4年後の38年は、大戦の一年前である。
当時は、本当に4年で人事異動が行われるのか疑わしい限りだった。
場合によっては、そのままの布陣で戦争突入とも考えられる。
現実に、本年の人事では、濱口首相の退陣が予定されているため、現在も大きな変動は行われていない。
後継と目されている、吉田大使が新たな構想で人事を検討出来るようにと言う配慮であった。

211shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:35:43
とにかく、34年の時点では、彼が作戦本部長に就任するならば、最悪第2次世界大戦での作戦指導は、山本が行うこととなる。
悩んだ末、堀は結局、自分の思いを山本に打ち明けたのである。

堀が滔々と自分の危惧を打ち明けるのを、山本は幾分気分を害したような顔をしたが、それでも言いたい事は理解してくれた。
そして、困ったことに山本自身、その危惧を納得してしまうのだった。
確かに、山本自身も「のと」資料に対するアクセス権は高い。
基本的に、「のと」世界で戦死している人物に対しては、完全秘匿か、高い権限を付与し、自分のやるべき事を考えさせる方策が採用されていた。
元海軍では、南雲、山口等が高い権限を与えられ、かなり自由に「のと」資料の閲覧が許可されていた。
山本もこの一人である。
そして、山本自身、考えれば考えるほど、自分が連合艦隊司令長官と言うのが上手く当て嵌まらないと感じていたのだった。
勿論、山本本人は、そのギャップを埋めるべく努力はしてきた積りだが、改めて堀に指摘されると、さも有りなんと思ってしまうのだった。
とは言え、今回の人事で、統合作戦本部、作戦本部長になれるのではないかと期待していたのは嘘ではない。
上手く行けば、四年後には国防総省長官であるから、その席は魅力だった。
しかし、堀に指摘されように、人事異動が行われないで戦争に突入した場合、どうなるのかと考えると、正直気が重い。

今更内定が出てしまったら、辞退するのは難しい。
いくらなんでも、山本自身、そこでキャリアを止めてしまう気も無いし、下手に動けないのも事実だった。
結局、二人は悩んだ末、井上を呼んだのだった。

「丁度よかった。山本さん、良い役職があります。」
簡単な説明だけで、井上が喜んで提示したのは、総研情報分析班の班長だったのである。
総研分析班は、一応梅津、井上、高畑らで可能な限り、運営していたが、流石に4年も経つと、全員が片手まで出来るレベルを超えていた。
彼らも適任者を捜していたのである。
班長である以上、政府首脳にも対等に口が聞けて、ある程度押しの強い人物。
かと言って、謀略を得意とする堀のような人物では、危なっかしくて任せられない。
ある程度語学の才能も必要であり、井上自身山本少将が適任だと思っていたとの事だった。
「それに、戦争指導に関しては、私も貴方を信用していないですから、ここで、こちらに移って頂くと、非常に助かります。」
あからさまに言われ、山本は気分を害するが、井上は頓着しない。
「それに、もう一つ、陛下の信任厚い総研のしかも班長にしか出来ない任務がございます。」
井上が、そのあらましを語ると、最初は渋っていた山本も、情報分析班班長就任を内諾する。
まあ、井上にすれば、山本が就任をごねたなら、所長にお出まし願うだけであるから、何とかなるとは思っていたが。

「しかし、それにしても、本当に作戦本部長に内定しているならば、それを蹴って総研に入るとなると、色々差し障りは無いのか?」
堀が、心配そうに聞く。
いくら、山本では心もとないとは言え、彼の経歴に傷が付くのは、悪友とは言え申し訳ない。
「なあに、俺の評判が落ちる位、どうでも良いよ。」
山本は、そう言うが、ある程度強がりであるのは堀だからこそ判る。
「いい方法が御座います。」
井上が嬉しそうに言い、情報部の堀は恐ろしいと言う評価が当分確立することとなったのである。

212shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:41:10
暫くして、連合艦隊の解散の話が、統合本部内に広まり、これに対して国防本部の山本航空担当部長が、異議を唱えているとの噂が一挙に広まる。
そして山本が、国防総省加藤長官や、統合本部作戦本部長永田部長にねじ込んだと言う事が広まり、軍部内は騒然となった。
1934年3月末、山本が交通事故に合い、亡くなったとの話が広まる。
しかも、その時、情報部の堀部長は、「そうか」と一言言って黙ってしまった。
総研の井上は、事故にあったと聞いただけで、「最近車が増えたからなあ。」と平然と答えた。
等の噂が広まる。
誰も事実を確認できないまま、四月の人事異動が発令され、統合本部作戦本部長には、豊田副武が抜粋される。
首脳陣は、一切山本には触れない。
それどころか、部下には声を潜めて、
「その話をするな。私は「情報部」に睨まれたくない。」
と言う始末だった。

ここに、目出度く山本は、総研情報分析班班長として、新たに本部の置かれたスイスに赴任したのであった。
それから四年、山本は主に欧州で情報班の組織化と、様々なコネクションを作るのに精を出してきた。
表向きは、総力研究所、欧州所長と言う肩書きで、欧州の様々な人物に会う。
総研の費用で一流の身なりを整え、様々な社交場に出入りしては、顔を売って行った。
ちなみに、大好きなギャンブルも、仕事の一環として顔を出せるので、こんなに嬉しい事は無かった。
お蔭で、出入り禁止の店が更に増え、Yamamoto Fifty Sixと言えば、一流のギャンブラーとしてその筋では結構有名になっていた。
勿論、自分を知っている日本人に会えば、
「お上のお仕事だから、内緒だよ。」
と口を塞ぐのも忘れない。
まあ、髪も伸ばし、英国セビルロー仕立てのオーダーメイドのスーツに身を包んだ山本を見て、本人だと直ぐに気が付く日本人はめったにいなかったが。

213shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:44:00
「で、井上、今度は俺に何をさせたいんだ。」
山本が諦めたように、井上の顔を見る。
「十分欧州でのコネクションも御作りになられたようですから、そろそろ本業の方の準備に掛かるべきかと。」
「うん?アラン・ダレスなら既に面識を持ったぞ。今度はスイスに赴任すると言ってたぞ。」
そう、総研所長から山本に託された重要な役割は、いざと言う時の米国政府を含む列強各国との非公式な交渉ルートの確立だった。
総研の存在は、既に各国も掴んでいた。
その欧州所長と言う肩書きから、列強も非公式な帝国の窓口である事は、察しが付く。
しかも、本人が様々な会合に顔を出していれば、なお更である。

「いや山本さん、確かに、表上の肩書きは皆さんご存知でしょうが、統本情報部もその情報ルートに興味を示している以上、列強各国もその情報入手方法に興味を持っているものと思われます。」
「そりゃ、そうだろうな。しかし、それがこの山本と繋がるのか?」
総研情報分析班、班長と言う立場と、欧州所長では明らかに役割が違う。
「ですから、それを繋げるのです。いや、繋げて下さい。」
「ふむ、表は総研欧州所長、しかしてその実態は欧州列強間を暗躍し、密かな秘密を奪い去る、総研情報班、班長。おいおい、何だが活劇に出来そうだぞ。」
堀が、どうやら井上が考えている事を察したように、楽しそうにコメントを加える。
「馬鹿言え、おれは活劇はやらんぞ。ふうむ、言いたい事は判った。単なる所長と言う立場だけじゃなく、欧州方面での情報入手の総元締めと言う立場だと示す事で、更に相手の気を引こうと言うのか。しかし、それが、情報部との軋轢とどう繋がるのだ。」
「情報分析班、班長として、新たに組織を作ってください。いや、表上の第二の情報部として、周りに判るように、情報収集組織を作るのです。」
「なんだって、おいおい、井上、お主、組織を作るとなると大変だぞ。」
「いや、本当に情報部を立ち上げる訳ではありません。あくまでもそれらしく見えれは宜しいのです。列強各国からすれば、丸判り、いや少しは隠蔽が必要でしょうが、ばれても良い組織です。」
「ふむ、戦争が始まれば、真っ先に潰されるか、逆情報を流す為に使われるようなものか。逆に、それらしいものがあれば、各国とも信用するな。そして本来の情報分析班を隠してしまうのか。案外いけるかもしれんな。」
堀が納得したように、解説を加える。
「しかし、それらしい組織と言っても、作るとなると事だぞ。金も必要だ。」
「組織そのものは、これまでの総研情報班の中から、幾つかの情報源となっている地元の顔役等を丸抱えにしてはどうでしょう。現地組織のリーダーとしてそのまま採用してしまうのです。資金の方は・・・」
あっ、何か前にもあったような・・・
高畑は、井上がこちらを向いたので、少し後擦りさる。
「そうか、高畑君が協力してくれれば、問題は無いな。」
山本が納得したように、頷く。
頼むからそこで納得しないでくれ。
高畑の心の叫びは誰にも聞こえずに、欧州での新たな組織作りが行われる事となった。
それは、欧州での開戦まで、あと四ヶ月を切った時点だった。

214shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:47:39
「で、井上、お前がわざわざこんな所まで出向いてくる以上、何か理由があるのだろう。」
「ええ、やはり独逸の動向が気になります。今の所は、チェンバレン首相が率先して、戦争回避の為に、走り回っていますが、独逸がそれをどこまで信用しているのか。
それと、独逸の国内情況は、どの程度まとまっているのかと。」
書面による情報は、国内にいても一応は届いていた。
しかしながら、細かいニュアンスとでも言うべき内容は、実際に現場にいる人間に聞くのが一番である。
今回、日英の所謂統合軍戦略会議に、井上も同行した一番の理由が、これだった。
「信用はしてないな。だけど、利用しているよ、ヒトラーは、」
山本が端的に答える。
「国内情勢は、ヒトラーのいない所では、批判も出る。だが、彼の前に出て批判する勢力は無い。
ありゃ、一種の神がかりだな。俺も一度パーティーに出たが、確かに人を引き付ける力はあるぞ。」
波に乗っていると言うのであろうか、今のヒトラーは本当に圧倒的な存在感で、場を支配していると言っても良かった。
山本自身、レセプションで端のほうで見ていただけだが、身体が震えるようにすら思えた。
独逸語があまり得意でなく、「のと」情報を知っているだけに、構えられたと言う点も大きい。
忙しいヒトラーが、会場にいたのは、ほんの短い間だったが、その場にいた全員が、彼の一挙一動を見つめていたと言っても良かった。
「それだけに、今の独逸で彼に逆らうのは大変だぞ。「のと」情報のように、戦争で負けが込んでくればまた話は違うだろうが、今の所そんな事も無いしな。」
「そうですか、やはり難しいですか。」
井上が残念そうに言う。
彼が、情報分析班に分析を依頼していたのは、独逸での反ナチス勢力の組成の可能性だった。
開戦ともなれば、早期に独逸軍を撃破すべく、作戦は検討されているが、その後の展開も重要だった。
単に、勝てば良いと言うのでは、「のと」世界の帝国と同じである。
最も、あちらの帝国は勝つことすら出来なかった訳であるが。
「で、ヒトラーは英国の宥和政策を利用していると言うスタンスは、「のと」世界と変わらないのですね。我々の対伊太利亜政策の変更や、米国の動向等の影響はそれ程見られないと言う事で、宜しいのですか。」
「うむ、分析班では予測とあまり大きな違いは出てない。動員は続けられているが、その動きに大きな変化は無い。少なくとも彼らが当面戦争にはならないと考えているのは、違いは無い。」
「堀さんの方で何か付け足す事はありますか?」
黙って聞いていた堀に、井上が話を振るが、彼は首を横に振るだけだった。
「それでは、この先は、英国の連中も呼びましょう。」
井上は、部屋の隅にある電話に向かう。

215shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:53:30
暫くして、部屋に三人の英国人が入ってくる。
井上たちは、会話を英語に切り替え、検討内容を告げる。
「海軍のレーダー提督、先ごろ首になった、フリッチェ上級大将、この二名を押さえられるかです。」
最初に口を開いたのは、マッキンレーだった。
そして、それだけ言うと、もう十分とばかり黙り込んでしまう。
「もう少し、説明しろよ。だいたい君は、言葉が少なすぎる。さっきの会議でもあの態度はまるで子供じゃないか。」
ケインズが真剣に怒っているのを、若いクラークは我関せずと何か一心に考えている。
「ケインズさん、貴方の意見は?」
井上が話題を変えるように、ケインズに振った。
英国側の三人は、昨年から「のと」資料の閲覧を許されている者達である。
ケインズとクラークは、総研側から指名した人物であるが、マッキンレーは違う。
ケインズとクラークの報告を元に、英国側が新たに送り込んで来た人物だった。
最初は、「のと」資料にも名前が上がっておらず、総研側もかなり警戒したが、どうやら、王室関係者らしい。
偽名の可能性もあるが、とにかく「のと」資料室に入ると、日本語の資料にも関わらず、彼は殆どその部屋に篭もりっきりで、目を通していた。
そして、二ヶ月間資料を調べると、その足で急ぎ帰国していったのだった。
それから再び、帝国の要人の前に現れた時には、今度は英国情報部と言う新設の組織の長としてだった。
正確には英国王室情報部であり、位置づけは総研と同じである。
即ち、英国王室の私的機関であり、政府に対しては建策機能を持っている。
どうやら、マッキンレーはかなり有能な人物であるようで、帝国にいる間に、「のと」資料だけではなく、総研の仕組みも理解して帰ったようであった。
あれだけ口数が少なくて、どうやって英国首脳陣を納得させたのか、不思議に思えるが、とにかくそこまでやり遂げる才能は持っている。
それだけに、独逸の戦後を考えた場合、押さえるべき人物に対する見解は適切だった。
レーター提督が、ヒトラーを含めたナチス幹部と中が良いわけでないのは、「のと」資料でも記載されている。
フリッチェ上級大将は、スキャンダルをでっち上げられ、先ごろ罷免された国防軍№.2の陸軍総司令官である。
両人とも軍内での人望は高く、それ故フリッチェ上級大将は首になっている。レーダーが生き残っているのは、海軍の勢力が弱小であり、また海軍内を見た場合、他の首脳陣も似たようなレベルでナチスを嫌っていたからである。

216shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:57:05
「うむ、独逸の戦後を見越した場合だが。」
ケインズが、マッキンレーを睨みつけながら話し始めた。
「人に関しては、マッキンレーの言うとおりだろう。私はそれよりも、戦後の復興策を上手くやる必要を訴えたい。」
流石に経済の専門家だけはある言い方だった。
まあ、逆に言えば、やはりそこかと言う気もしないでもない。
「少なくとも、ナチの政権下よりも悪化させては見も蓋も無い。直ぐに第二、第三のヒトラーが現れるぞ。まあ、今度はわが国の政府も賠償金をどうこうなどという馬鹿なことはするまいが。」
「しかし、英国もそうですが、わが国も戦闘となれば、それ相応の出費が必要となります。勿論、計画では短期決戦にて費用を最低限に抑えようとはしていますが、現実にはどう転ぶか判りません。」
「最悪の場合も考える必要は、あるな。」
堀がそう答えると、山本が付け加える。
本当に、この二人はピッタリと息があっていた。

「そりゃ、判る。戦費の回収は政権にとっての死活問題であるからな。まあ、それも両国政府には暫く我慢してもらって、回収は五年後位からとして予算を組んで貰うしかないだろう。」
ケインズが楽観的に言い放つ。
そうは言っても、国家予算を食いつぶす戦費であるだけに、誰も軽くは扱えず、沈黙が広がる。
「何、そんなに悲観する事はないだろう。上手く投資を行えば英独日の経済圏での経済成長は加速するぞ。そうすれば、負債なんて何とでもなる。
クラーク君、彼らにアレを見せてやれ。」
「ハア、」
どこかに意識が飛んでいるのか、クラークは生返事で、ポケットから紙を取り出す。
「ええっと、合成ゴム、冷鋼圧延処理、赤外線、光学ガラス、電子顕微鏡、電気回路遮断器、極性を持ったリレー、風洞、アセチレンガス、エックス線管、セラミック、染料、テープレコーダー、ディーゼル・エンジン、殺虫剤、カラーフィルム加工、バター製造機、まだありますが、続けますか。」
もう良いとケインズが首を振る。
「少なくとも、独逸では、これらの新規技術が開発中だ。これらに適切な投資と技術援助を行う事で、莫大な富を生み出す。それさえ間違えなければ、負債の回収なんか、簡単なものだろう。」
「のと」資料では、戦後、米国はペーパークリップ作戦と銘打って、これらの技術を殆ど強奪して行く。
この結果、あちらの世界では米国の戦後の繁栄が始まると言っても良かった。
それを、独逸の技術と認めて、日英が支援すれば、新たな経済拡大が待ち受けている筈である。
しかも、こちらには「のと」資料まであり、彼らに適切な助言を行う方策はどのようにでも取れる。
また、同時に共同特許と言う形も形成出来る。

217shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 13:59:59
「はあ、それはおっしゃる通りだと思いますが、その場合の問題は、どこがそれをするかなんですよね。」
高畑が口を挟んだ。
「うん、そりゃ、君とこだろう。日商の看板は伊達ではあるまい。世界に冠たる総合商社なんだから、それ位当然だろ。」
ケインズが不思議そうな顔で高畑を見つめる。
「のと」資料の使い方から、実際の技術指導、共同会社の設立まで、帝国内で散々行ってきた日商ならば、ノウハウも蓄積されており、そんなに難しい事では無い筈だった。
「いや、確かに、私の会社ならば、やれと言われれば幾らでも出来ます。しかし、一応、私企業ですよ。英国側はそれで良いんですか?」
高畑が慌てて反論する。
「今更、何を言っているんだね君は。ロスチャイルド家のネイサンが二ヶ月もスイスで君を拘束した理由もわかっとらんのか。」
ケインズが呆れたように、高畑の顔を見つめる。
「えっ、いや、そ、それは・・・」
一体、どこからそんな情報が漏れたのかと高畑は蒼くなる。
ちらっとマッキンレーを見ると、普段から無表情の顔であるが、確かに目が笑っていた。

「何かあったのか?」
井上が怪訝そうに、高畑を問いただす。
「いや、まあ、帰ったら相談しようと思ってたんですが。ロスチャイルド家からは、日商に対する資本参加の申し込みがありました。」
「どの程度?」
「全株式の30%です・・・」
ヒュウッと、山本が口を窄める。
それはそうである。
日商は、現在世界最大の総合商社である。
その実態は、非常に上手く隠されているから、殆どの者には判らないが、総資産は天文学的な数字となっていた。
関連会社は数知れず、ブリテッシュオイルカンパニー、ロールスロイス、ロイズ保険会社等の英国系大企業との合弁会社等も多数立ち上げており、その影響力は米国国内にも及んでいる。
高畑に言わせれば、「のと」情報等と言う卑怯なものを使う以上、これ位は誰でも出来ると言う事になるが、やはり彼の手腕が無ければここまでには至らないであろう。
毎年二回、高畑から、日商の経営報告的なものが、総研内部で行われるが、その度に、メンバー全員が唖然とせざる得ない世界が広がっていた。

218shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 14:02:36
「井上・・・、金があるって、素晴らしいな・・・」
実際、梅津が漏らしたこの言葉が的確に、全員の意識を示していた。
とにかく、日商が運営している現金類だけで、帝国の拡大し続けている国家予算を上回っているのである。
梅津らにすれば、それだけでも十分過ぎる程だった。
巧妙に分散され、隠されている各地の資源地帯の土地所有権等の資産を含めると、その金額は最早理解できるものではない。

そして、日商の恐ろしいのは、その株主だった。
資本金100万円にて立ち上げられた日商だが、1929年に総研経由の出資で、資本金は500万円に引き上げられていた。
そして、新たな株式が発行され、全発行済み株式の8割が、総研所有とされた。
言わば、日商は総研の経済上の看板なのである。
しかも、それの意味する所は、皇室所有の総合商社と言う前代未聞の会社だった。
昨年、「のと」情報が英国側に開示された時点で、総研所有の株式の25%、発行済み株式の2割に当たる株式が、英国王室に譲渡されている。
勿論、代価は払ってもらっているが、それは破格ともいえる格安のものだった。
お蔭で、現在の日商の株主は、皇室6割、英国王室3割、民間1割と言う構成になっている。
ちなみに、英国王室の残り一割は、高畑ら民間から別途買い上げている。

そして、この日商に対して、ロスチャイルド家が、資本参加を申し込んできた訳であるから、高畑も即答できるものではなく、帰国して相談する積りでいた訳である。

219shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 14:05:00
「ロスチャイルド家は、欧州大富豪、言わば欧州経済界の代表としてそれを申し入れているんだ。
それ位、高畑君も理解していよう。」
ケインズが続ける。
「ええっ、それは理解していましたが、しかし良いんですか、日商で。」
高畑にすれば、英国王室の資本参加はあっても、日商は帝国の企業だと言う意識はある。
最も、現在の社員は日本人でない者の方が遥かに多い、多国籍企業となってはいるが。
しかも、欧州と言う先進国家群が、帝国と言う後発国家から派生した企業を、その代表と認めるなんてありえる話とは思えないのだった。

「いまさら、日商のまねをしても始まらん。それに、間に合うものでもない。」
ケインズがにがにがしく言う。
「私個人としては、得体のしれんアジア人の作った会社なんてと言う意識に同調したいのが本音だが、君達がやってきた、十年のアドバンテージをひっくり返そうとするならば、
中に入って、内側から食い破るしかないだろうな。」
「はあ、そう言うもんですか。」
そこまで、あからさまに言われると、逆にいやみに聞こえないから不思議である。
油断すれば、何時でも取って代わってやると正面から言われるている訳であるから、腹も立たない。
少なくとも、外から訳の判らない謀略や暴力的な手段で対応されるよりは遥かにましだろう。
「とにかく、ここ五年間近く、戦争準備と言う形で、独逸経済はかさ上げされている。確かに、戦争でもしない事には、この景気は崩壊し、独逸は再び長い不況に陥るのは目に見えている。」
ケインズが、如何にも経済学者らしく話を続ける。
「それを、素早く侵攻し、更に経済を発展させる事により、我々の側に立たさなければならない訳だ。」
「追加投資と、新たな戦争目的の提示ですね。」
井上の口から漏れた言葉に、皆が驚く。
「新たな戦争目的と言うのは良く判るが、井上の口から追加投資と言う言葉が出てくるとは。
時代が変わったな。」
山本が呆れた顔で、言った。
「そう言う山本さんも、その言葉の意味が判っているじゃないですか。我々は最早軍人ではないんですよ。」

220shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 14:07:33
「そこ!ごちゃごちゃ言っとらんで、人の話をちゃんと聞きたまえ。これだから、軍人は始末に終えん!」
ケインズが釘を刺して、話を続ける。
「今回の独逸侵攻は、君達軍人には単なる軍事行動にしか過ぎんと思っているだろうが、実際はその後の我々経済人の活動が重要なんだよ。」
更に、嫌味を言うのを忘れないのが、如何にも英国人だった。
「侵攻直前までに、英国に、帝国の生産管理の専門家も含めた技術者集団、ナチス独逸の迫害から逃れてきた科学者を中心とする研究者集団を待機させる。」
「戦闘終了と共に、彼らは予め決められた拠点に駆けつけ、工場ならば、新たな生産計画の立ち上げ、研究施設ならば、研究の現状の確認と、新たな方向性の提示を行う。
特に、兵器生産に関しては、現状の独逸兵器の生産の継続と、新しい設計に基づいた生産、また生産施設の改装も行わなければいけない以上、大変なものとなる。」
「日商は、平行してシーメンズ、マン、クルップ社等の独逸企業に対する新たな融資、資本参加等の交渉を行う。この辺りは、ロスチャイルド家とも話を通してあるので、交渉がまとまる事を前提に、現場を先行させねばなるまい。」
「サイズの問題もあるぞ、インチ・ヤードではなく、メートルなんだからな。その辺りも上手くやらないと、偉い事となる。」
ここで、ふとケインズは話を止めた。
「そう言えば、八木とも話したのだが、高畑君が行った、亡命科学者達の確保は見事だな。あれにはほとほと感心させられたよ。」
「はあ、ありがとうございます。」
ケインズの話し方が教授の講義に近いせいだが、何だか、本当に学生の頃に戻ったような気がする。

221shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 14:09:56
核兵器の開発に関して、「のと」資料を分析していて気がつくのは、その科学者達の出身地である。
純粋に米国生まれの学者もいない訳ではないが、アインシュタインを初め、多くの学者は欧州から渡ってきているのである。
それも、30年代に入ってきてから顕著となっている。
勿論、帝国も国家として情報部を通じて、これらの学者に接触を図り、可能ならば帝国に来て貰う為、色々努力もし、成果も上がっていた。
しかし、彼らからすれば、辺境のアジアに移動するのは躊躇いが大きい。
この事に、早期から気が付いていた八木は高畑に相談を持ちかけ、総研として他の対策を講じたのである。
31年に、英国王室に話を通し、新たに皇室から信託財産が英国王室に預けられた。
エジンバラ郊外にある王室領の一部が敷地として用意され、そこに王室理化学研究所が設立されている。
一応、英国王室が、亡命科学者達に、生活と研究の場を提供すると言う建前で、多くの科学者達がそこに留まっているのである。
ケインズ自身も王室理化学研究所の設立は知っていたが、それが高畑らの画策である事は全く気が付いていなかったのだった。

222shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 14:12:11
「とにかく、もう、余り時間が無い。そちらの帝国側の準備は、日本にいる間に、八木君達と詰めて来たので、後は英国側での準備だ。まあある程度は、話は通してあるので、間に合うとは思うが、総研や日商には更に働いて貰わなければいけない。」
講義終了、と言う形で、ケインズは一気に話を締めくくる。
全員が少しあっけに取られ、暫く沈黙が広がった。
「他に、何かあるかな?」
違う意味で毒気が抜かれたように、井上が全員に聞いた。
「クラーク君は、何かあるのかな。」
堀は、先ほどから話を聞きながらも、全員の様子を注意深く観察していた。
全員が、ケインズの独断場にあっけに取られている中で、一人クラークだけが、何か他の事を考えているのが判っていた。
彼は、この中でも飛び抜けて若い。
まだ二十歳そこそこなのだから、他に心配事でもあっても不思議はない。
それでも、一応気になり、彼に話を向けてみたのだった。
「あっ、いや、べ、別に・・・」
「うん、クラーク、何か忘れてたかな?」
ケインズも少しは、気になるのか、クラークを促す。
「はあ、実は、一つ・・・」
彼は、また、口ごもる。
「クラーク、君はまだ若いから、このような場では、躊躇いが出るのも仕方ない。しかしだな、少なくとも我々のメンバーに入っている以上は、疑問があるならば、はっきりと言う必要があるぞ。」
ケインズに怒られ、クラークは覚悟を決めたようだった。
「実は、独逸とソ連の関係なのです。
「のと」資料でも、確かに三年後、1941年には独ソ戦が開始されています。
このことから、我々は独逸とソ連が決して心から信用していない、いや、言い方が悪いかな。
中が悪いと考えすぎてないかと言う事なのです。」
「うん、少し意味が判らないが、独逸とソ連が、中が良いと何か問題があるのかな。」
山本が、話しあぐねているクラークに声を掛ける。
「す、済みません。上手く説明できないのですが、独逸に開戦した場合、ソ連がどう動くのかが気になって・・・
何か、良く判らないんですが、自分でも見落としているような感じがするんです。」
そこまで話してクラークは黙り込んでしまう。
彼自身、何か判らない、予感のようなもので、もやもやしているだけなのか、本当に困ってしまっている。

223shin ◆QzrHPBAK6k:2007/01/27(土) 14:14:38
「うーむ、確かにソ連は、フィンランド侵攻の為に部隊を集結している最中だな。」
山本が堀に確認するように、話を向ける。
「先ほどの会議で話したように、今のソ連は完全に、北欧を向いている。フィンランドからバルト三国へとその食指を伸ばしている所だ。」
堀は、クラークの疑念に否定的だった。
「ソ連が、我々の動きを察知して、同時に独逸に対する侵攻を行う可能性?
無理だな、間にポーランドが挟まれている。」
「あっ、でも、もしナチス独逸が、ソ連に対して救援を求めたりしたら・・・」
「いや、それは無いだろう。幾らなんでもそこまではできんだろう。」
山本が否定する。
「しかし、その可能性はあるかもしれませんね。」
井上がここで始めてクラークの危惧を肯定するように答える。
「独逸とソ連が、仲が悪いと考えているのは、我々の常識です。
しかしながら、今の時点で、果たしてスターリンとヒトラーの仲は険悪なのでしょうか。
確かに、スペインでは敵同士として戦っていますが、あれはあくまでも内戦ですから。」
「ふむ、実際の所は判らんな。
でも確かに、ソ連と独逸の仲が険悪になるのは、もう少し後だな。」
「ええ、今の所、資源の輸出はしていますし、石油も融通していますよ。」
「そうか、独ソ戦に関する詳細を「のと」資料で見てしまっている以上、我々にも先入観があると言う事だな。
クラーク君、良いところに気がついた。この先は、情報部で検討して貰えば良い。」
ケインズは、やはり先生であった。
年の離れたクラークをまるで生徒を見るように扱っている。
「はあ、ありがとうございます・・・」
「うん、まだ何かあるのかね?」
「えっ、そうじゃないですが、まだ何だか納得出来なくて・・・」
「そうか、それは良い事じゃないか。納得するまで悩みなさい。」
うんうんと一人頷いているケインズに、周りがしらけてしまう。

「まあ、とにかく、あと四ヶ月で全てが始まる。
私も、スイスに戻ったら、クラーク君が気にしている内容について、もう少し調べてみよう。」
山本がそう言うと、クラークは嬉しそうに頭を下げる。

「それでは、一応方針の確認も出来ましたし、以上ですかな。」
全員が頷くのを井上が確認する。
「では、皆さん、これからも頑張ってください。」
閉会の挨拶ぽいものを井上が発し、全員が堀の部屋から出ようとする。
「あっ、高畑!お前、逃げるな!」
一緒にこっそりと高畑が出てゆこうとするのを、井上は目ざとく見つける。
「お前なあ、ロスチャイルドの事、どうしてさっさと言わないんだ!」
「えっ、いや、事が事だから・・・」
閉まった扉の向こうで、二人が言い争う声だけが、かすかにこぼれていた。

224shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/02(金) 10:07:25
 1938年9月12日、ヒトラーがナチス党大会でチェコ領ズデーテン地方合併要求を高らかに宣言した。
4月にズデーデン・独逸党が、ズデーデン地方のチェコからの分離と独立を叫んで以来、それはほぼ勝利宣言に近い内容だった。
「始まったか。」
「ああ、これでヒトラーも今更撤回する訳にも行かない。」
梅津の質問に、手渡された電信記録を見ながら井上が答える。
「大英帝国の方は?」
「予定通りらしい。チェンバレン首相も待ち望んでいたとの連絡が高畑から入っている。直ぐにベルヒテスガーデンに向かうだろう。」
「いよいよ始まるのか。」
「ああ、戦争だ。」
暫く二人は何も言わない。
「上手く・・・行くかな・・・」
梅津がポツリと呟いた。
二人とも、いや総研に関わる全ての人々がこの先に待ち受けている、第2次世界大戦での滅亡を避ける為に努力してきた。
国力を増大させ、力を蓄えてきた。
「満を持して打って出る」
それならば、どれ程楽だろう。
「乾坤一擲の大勝負」
それならば、どれ程気分が高揚するだろう。
二人は目の前にある独逸との戦いを見ているのではなかった。
独逸の先にある、ソ連、そしてその先に待ち受けているかもしれない、米国を見ているのだった。

帝国内には、10年前には考えられなかったような一大重工業施設が広がり、経済は毎年20%以上の伸び率で伸張している。
二年後には、東京で、オリンピックと万国博覧会が同時に開かれる。
人々は、今からそれを期待し、東京のホテルに予約が入る位である。
中島製作所が、満を辞して発売した、普通乗用車「昴」は、飛ぶように売れている。
トラックを専門に作っていた、豊田自動車の発売した高級車、「クラウン」ですら、その売り上げは確実に増加している。
国民は、希望に満ちており、今日より明るい明日を目指して、明るい未来を夢見れる社会が広がっているのだった。
日商は世界最大の総合商社であり、系列企業は軒並み成長を続けている。
帝人が発売した、化学繊維、所謂ナイロンは、爆発的な売れ行きを示しており、世界市場を席巻している。
日輪ゴムは、帝人と共同で始めた合成ゴムの開発を皮切りに、今や合成樹脂メーカーに生まれ変わろうとしていた。
丸善石油部は、丸善石油と社名を変更し、大慶油田の開発だけではなく、中東でも石油資源の開発を行い、石油メジャーの一角に食い込もうとしている。
播磨造船所は、東洋一の造船施設と言う看板を、三菱重工長崎造船所と争っている。
しかも、両造船所そのものが、年々規模を拡大しながらである。
日商系列以外の企業も、年々その規模を拡大していた。
乗用車生産に乗り出した中島製作所や豊田自動車等の製造業から、所謂チキンラーメンとして、今やアジア中に名前が知られ始めている日新食品、東洋製麺等の食料品加工業、世界中に航路を維持している日本郵船、コンテナ輸送と言う画期的な方策を採用し、シェアを伸ばし始めた帝国輸送等の輸送業に至るまで、成長企業は数え切れない程である。
「のと」情報と言う起爆剤と、英明な君主、稀代の名宰相と呼ばれるに値する首相による組み合わせが、未曾有の繁栄を帝国に齎していた。

225shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/02(金) 10:10:08
米国との戦争は、これら全てを無に帰す可能性を秘めていた。
勿論、戦争を回避するため、帝国を崩壊させないための努力の成果として現在の帝国の繁栄があるのだが、それでも十分ではなかった。
それ程米国は巨大な国家である。
帝国内での自動車生産が、年間50万台を越えている今ですら、米国では350万台近い自動車を生産している。
米国が最早慢性的と言ってよい長期不況から抜け出せない状態ですら、こうである。
帝国が、10年掛けて国力を増大させたと言っても、米国に比べればまだまだ小さいと言うしかなかった。

彼らなりに考えているシナリオはある。
それが上手く行けば、米国との対決は回避できる筈だった。
そして、そのシナリオの第一段階とも言えるのが、今回の対独戦なのである。

「上手く・・・行かすさ・・・」
長い沈黙の後、初めて井上が口を開く。
「なあに、少なくとも英国を巻き込んでしまっている以上、「のと」世界のようにはならん。
否、それだけは絶対させん!」
梅津は井上の熱い口調に、唖然とする。
「あ、ああ、そ、そうだな。」
今まで、皮肉屋、毒舌屋と言うのは、いやと言う程見ているが、このような井上は初めてだった。
「とにかく、対独戦だ。」
柄にも無い姿を見せた井上だが、少し照れるのか、慌てて話題を反らす。
「ヒトラーもここに来て中止は出来まい。こちらも準備は整っている。後ば計画を実行に移すだけだ。梅津、頼むぞ!」
「了解した。では、行って来る。」
梅津は、今の統合軍の挨拶ではなく、旧陸軍式の敬礼を返す。
それに対して、井上も旧海軍式の敬礼で答礼した。
暫く、黙ってお互いを見つめていた二人だが、梅津はそのまま踵を返すと、部屋を出て行く。
これから、所長に会い、その足で厚木から、待機している航空機を乗り継いで、欧州に向かうのである。
それは、欧州参戦、それが本格的に始動した、最初の日のアジアの辺境での小さな出来事にしか過ぎない。
しかし、二人とも十分過ぎる程理解していた。
昭和4年8月9日、長崎 野母岬沖に、「のと」が出現してから今日までの、長い準備期間がついに終わりを告げた事を。
これから、本格的な戦いが始まる事を。

ただ二人が、気がついていない、些細な偶然もそこにはある。
それは、9年前の今日、初めて二人は陛下の前で合間見えたのだった。

226shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/02(金) 10:13:42
ベルヒテスガーデン近郊の駅に、英国の政府専用列車が着陸し、見守る儀仗兵に挨拶をしながら、一人の男が降りてきた。
ネビル・チェンバレン英国首相である。
車に乗り込む前、彼は一呼吸置くように、辺りを見回す。
独逸国防軍のダークグリーンの制服を纏った、兵士達の前で、更に誇らしげに直立不動の姿勢で彼を見守る黒い制服の列。
やっと、こいつらから解放されるのか。
チェンバレンは、この黒い服が大嫌いだった。
そして、彼はこの黒い服を着た連中を指揮している眼鏡を掛けた小男が更に嫌いだった。
世間でどう思われているかは知らないが、彼自身ヒトラーは悪い男だとは思っていない。
そして、それは「のと」資料の抜粋に目を通しても変わらなかった。
可愛そうに。
それが、ヒトラーに対する彼の本心だった。
あまりにも、ヒトラーはスタッフに恵まれていない。
弱小政党から、ここまでナチスを大きくした手腕は大したものだと思うし、実際に会って話している限り、非常に理性的な男だと評価できる。
政治家としてみた場合、多分一流の部類に入るであろう。
ただ、本当にスタッフに恵まれていない。
「のと」資料を見ていて気がつくのは、彼に渡る情報が歪曲されているのではないかと言う疑いだった。
勿論、政治家である以上、嘘もつくし、はったりも使う。
だが、本質的な所では、信用できると言うのが、チェンバレンの印象だった。
それ故、彼は独逸との交渉を続けたのだし、宥和政策を続けて来た訳である。
最も、英国の戦備が整っていないと言う方が、大きな理由ではあったが、少なくとも相手がヒトラーである限り、戦争は回避出来るのではないかと言う思いはあった。
それ故、大日本帝国と組む事で、戦争準備が38年中に完成すると判っても、彼は宥和政策を捨てようとはしなかった。
しかしながら、「のと」資料がその前提を大きく崩してしまった。
このまま推移すれば、来年ナチス独逸はポーランドに侵攻する。
そうなれば、宥和政策は崩壊せざるを得ない。
自分は騙されていたのか。
ちょび髭の男は自分よりももっと腹黒い男だったのか。
そう考えてみても、どうしてもヒトラーの印象と一致せず、結局辿り着いたのが、彼のスタッフだった。
情報が操作されている。
ヒトラー本人は、まだ気がついていないようだが、彼に渡る情報は、その前にヒムラー、ゲッペルス、ボルマンらによって、微妙にニュアンスの変更が加えられていると言う疑いだった。
勿論、彼ら自身別にあからさまにヒトラーを操ろうとしている訳では無いだろう。
ただ、自分達に都合の悪い情報は隠し、良い情報は強調する程度であろうが、それでもバイアスが掛かった状態では、ヒトラー本人の政治的判断も変わろうと言うものだった。
その可能性に気がつくと、過去のヒトラーの行動に腑に落ちる点が多々出てくる。
最近の一連の国防軍の罷免にしても、彼には正確な情報が渡っていない為に、起こった事が丸判りである。
まあ、仕方あるまい。
ベルヒテスガーデンに向かう車の中で、チェンバレンは自分に言い聞かせる。
自分は、大英帝国の首相であり、ヒトラーは大ドイツ帝国の総統でしか過ぎない。
これから、あの黒い服の連中に、そのつけを払わせる事になるのだから、ちょび髭の叔父さんには可愛そうだが、お互い国を背負っている以上、覚悟はしているだろう。

227shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/02(金) 10:28:02
ベルヒテスガーデンでの両国首脳会談は、短時間で終了した。
チェンバレンは、挨拶もそこそこ、短く告げただけだった。
「英国政府及びその同盟諸国は、独逸のズデーデン地方の併合は、認めない」と。
そして、
「独逸がズデーデン地方に侵攻した場合、独逸と、英国及びその同盟諸国との関係に、重大な結果を招くであろう。」と。
それだけ告げると、チェンバレンは、簡単に会議の終了を告げ、部屋を出て行ってしまう。

会議室に残された、ヒトラーは、茫然自失の状態で立ちすくむのだった。

「総統・・・」
シーンと物音一つしない会議室で、恐る恐るヒトラーに声を掛けたのは、副総統のルドルフ・ヘスだった。
「彼は、何を言ったのだ。」
「えっ・・・」
「彼が、何を言ったか聞いておるのだ!ボルマン!」
「ハイ。」
側に黙って控えていたボルマンが素早く返事をする。
「彼は、ズデーデン地方の割譲を拒絶したのだな。間違いないな。」
「ハイ、私にもそう聞こえました、総統。」
「調べろ!」
「ハイ?」
ボルマンも、ヒトラーが何を調べろと言っているのは理解していたが、決して自分からそれは言わない。
「すぐさま、どうして英国があのように、強気に出るようになったのか?
たった一月で、何が変わったのだ?
イギリスの特命大使と、アメリカ大使がチェコに入り、ズデーデン割譲の交渉を持ったのは、先月だぞ!」
悲鳴に近い、ヒトラーの叫びで、独逸第三帝国首脳陣は、ある種のパニックに襲われることとなった。

228shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/02(金) 11:07:10
どうして、英国が突然掌を返したのか。
そうするだけの理由が何処にあるのか。
情報部が資料を洗いざらい分析し直し、新たな防諜部隊が英国に送られる。
しかしながら、捗々しい結果は出てこなかった。
いや、誰もそれに目をつけようとしなかったと言う方が正しい。
情報の中には、大西洋での英国海軍の活動が活発になっているとの報告もあった。
英国本土、特にスコットランド北部での警察活動が以前よりも厳重になっているとの報告も上がっている。
米国からは、インド洋、大西洋において、英国海軍の防諜体制が遥かに強化されているとの報告すら伝わって来ていた。
しかしながら、それらの情報が、国防軍情報部や、親衛隊情報部を通じて、総統官邸に上げられても、首脳陣は誰もそれをヒトラーに告げようとはしなかった。
ナチスの首脳陣の誰もが、猫の首に鈴を付ける気にはならなかったのである。
「英国が活動を強化するのは当然の事で、総統に報告するまでも無い。」
このような形で、ヒトラーが、英国の本心に気が付く機会は流れ去っていった。

これまでの大英帝国の融和政策によって、強気一辺倒で政策を実行してきた独逸首脳陣、特にヒトラーに取り、この態度がはったりなのかどうかが問題だった。
しかしながら、総統秘書のボルマン、親衛隊長官のヒムラーらは、ここでナチスが国民に対して、弱気な態度は取れないと言う事を一番気にしていた。
また、国防軍最高司令部総長のカイテルに、意見を言う度胸は無かった。
そして、彼らが待ち望んでいた、いや見たかった報告がもたらされる。
大英帝国の本国にある4個機械化師団の内、二つは既にフランスに派遣されおり、残りの二つは現在中東からオーストラリア方面に展開中であり、本国にいない事が確認されたのである。

「それでは、やはりチェンバレンの態度ははったりと見て良いのだな。」
「ハッ、総統閣下、間違いございません。彼らが動かせる軍隊は、本土近辺にはいません。」
流石にヒトラーは、そのような言葉を信じる程、お人よしではなかった。
「間違い無いのか?」
「ハイ、ウェールズにある兵営、現在オーストラリアに展開中の部隊の本拠地ですが、ここには現在留守番部隊しかいないとの報告です。」
「しかし、本当にオーストラリアに彼らはいるのか?」
「ハイ、オーストラリアからの報告では、英国部隊が、現在も現地で訓練しているとの事です。」
「判った。それでは、英国の態度をブラフと見て、我々は更に態度で占めそう。」
「カイテル!」
「ハイ、総統!」
「国防軍に、作戦開始を命ぜよ。わが国はズデーテン地方を編入する。作戦開始は、一週間後、10月7日とする。」
「ハイル・ヒトラー」
ヒトラーは知らなかった。オーストラリアからの報告が一ヶ月以上も前のものであることを。
 そして、「のと」資料から遅れる事一週間、10月7日早朝、独逸はズデーテン地方へ侵攻を開始した。

229shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/02(金) 11:10:47
大英帝国の対応は素早かった。
午前中に、欧州各国のラジオ局が、独逸のズデーテン進駐のニュースを伝えるのとほぼ同時に、今晩7時に、チェンバレン首相が、英国国営ラジオ放送を通じて、特別放送を行うとの報道を一斉に行ったのだった。
 勿論、独逸国内ではそのような報道はされなかったが、フランスやオランダを初め、デンマーク、ベルギー、ポーランド、チェコスロバキア、スイス等のラジオ局から流される放送は止めようもない。
 チェコスロバキアに至っては、通常よりも出力の高い電波で放送が行われていた。
 ヒトラーを含む独逸首脳は、戸惑いを隠せなかった。
ズデーテン地方に侵攻した独逸国防軍は、抵抗らしい抵抗に会わないまま、前進していた。
それどころか、侵攻したどの地域でも、独逸系住民が、歓呼の声で出迎えてくれる。
しかしながら、奇妙な事に、軍関係は言うに及ばず、チェコ政府関係者が一人もいないと言う情況が広がっていたのである。
そこに来て、欧州の独逸以外の国の一般放送が同じ内容のニュースを話している。
何か、とてつもない事が起きようとしている。
それが、どう言う事かは、残念ながら判らないが、少なくとも独逸に利するとは思えない。
ヒトラーが側近に当り散らす中、直ちに近隣国家のラジオ局に対して調査が行われる。
隣国の中で、辛うじてチェンバレンの演説開始までに情報が上がって来た内容は、どこも同じだった。
朝一番に、ラジオ局の出資企業や個人から直接ニュースソースを渡されたとの事だった。
そして、二つのラジオ局から手に入れたその文面の複製は、全く同じ文面だったのである。
「直ちに、フランス、ポーランド国境に軍を送れ!」
流石に、ヒトラーもここまで来れば、英国が、何事が企んでいた事は容易に察しが付く。
それが、戦争と言う可能性は、ヒトラー自身、一番避けたいケースであるが、どう考えても、それ以外に考えられない。
間に合うのか。いや、戦いとなったら、叶うのか。
ヒトラーの頭の中に、最悪の予想が次々と浮かんでくる。
しかしながら、同時に、「どうやって」、そして「何処から来るのだ」と言う答えられない問いが浮かび上がってくる。

230shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/02(金) 11:14:34
「失礼します。」
ヒトラーが落ちつかなげに歩き回る、広い執務室の扉が開き、国防軍の連絡将校が入ってくる。
「陸軍参謀本部からの連絡です。」
ヒトラーは、なるべく落ち着いている振りをするが、それでも慌てているのは隠せない。
普段なら、ホフマンか、秘書の誰かが受け取り、ヒトラーに手渡すのだが、今はつかつかと歩み寄り、自分で受け取る。
食い入るように、文面に目を通すと、側に控えていたヘスに渡す。
「フランス国境は、特に変わった動きは見られない。
ポーランド軍にも大きな動きは無い。
ベルギー、デンマークでは軍の動きすら見られない。
プリマスやホーツマスの英国海軍に普段と違う動きは見受けられない。
ドーバー海峡を渡る英国軍の動きは無い。
どこだ、どこにいるのだ!
何があるのだ!」
しかしヒトラーの問いに答えられるものは誰もいなかった。
ヒトラーは知らなかった。
英国軍の二個機械化師団が半年前から行方が知れない事など。
インド・オーストラリア・カナダからそれぞれ一個連隊以上が消えている事を。
そして、プリマスの英国海軍泊地には、半年程前から、常に戦艦部隊の1/3以下しか停船していない事を。
更に言えば、今までアイルランド北部や、ウェールズ西部に位置していた多数の航空隊が、この瞬間にも、エジンバラ、ドーバー等の比較的独逸に近い海岸沿いの臨時飛行場に着陸している事や、スコットランド北部、バイナキールと言う誰も聞いた事のない湾から、大量の艦船が出撃して行った事を。

231shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/02(金) 17:59:24
その頃、デンマークにある日系企業の所有地に、何台かのトラックが到着していた。
トラックから多数の民間人が降りてくる。
いや、身なりは何処にでもいる民間人そのものだが、動きは統制の取れた兵隊そのものだった。
彼らは、その非常に統制の取れた動きで、瞬く間に、トラックに詰まれた箱を下ろし、手早く広げ、組み立て始める。
雷除けと言う名目で建物から少し離れた所に建てられた、高い鉄塔、やけに土台や骨組みが丈夫そうな鉄塔に群がると、素早く部品を取り付けてゆく。
周りを取り囲むように、荷物を積んできたトラックが並べられ、何人かの兵士はそこからケーブルを繋いで行く。
一時間程度の工作で、全ての準備が整ったのか、トラックは一斉にエンジンを吹かしぎみに、アイドリングを始める。
「準備出来ました。」
「ご苦労、間に合ったな。良し、エンジンを止めろ。」
再び静寂が辺りを包む。
「開始まで、20分か、ギリギリだったな。」
「ああ、今度はもう少し、早くできるように努力しよう。」
将校らしい、二人はそのまま、頷きあう。
「武器を受け取り、配置に付くか。少なくとも8時間は守らなければいけないのだからな。」
手早く、屋敷から大量の武器弾薬が運び出され、彼らは武装して行く。
また、別の荷物が開けられると、更に服装も着替えて行く。
武器を手に、配置に付く彼らの姿は、何処から見ても、独逸親衛隊そのものだった。

7時になり、英国の短波放送が、総統執務室に流される。
英国国家が鳴り響き、アナウンサーが首相の特別放送を継げた。
通訳が待機し、ヒトラー含め、ナチス高官が待ち受ける中、チェンバレンの肉声がラジオから聞こえ出した。
「世界中の平和を愛する市民諸君、大英帝国首相チェンバレンです。」
「通常より、出力が上がっています。」
ヒムラーがヒトラーに告げる。
「今宵は、皆さんの貴重な時間をこの放送に割いて頂き、本当に感謝します。多分、この放送は、世界中、そう、独逸の国民の皆さんも聞いているでしょう。そう、私達英国国民と同様に、平和を愛する人々です。我々、平和を愛する国民は・・・」

「た、大変です!」
執務室の扉が突然開かれ、親衛隊の将校が飛び込んで来た。
「何事だ!」
ボルマンがヒトラー総統の機嫌を損ねるのを慮るように、すぐさま声を張り上げる。
「国内の、ら、ラジオ局が襲撃されています。」
「なに!」
「なんだと!」
一斉に執務室内が騒然となった。
全国の主要なラジオ局が、ほぼ一斉に電波を発信出来なくなっていた。
突然のぼや騒ぎで、職員が建物から避難したようなケースから、送電が止まってしまったケース、放送機器が突然動かなくなったケース等、止まり方は様々だが、少なくとも独逸東部では殆どのラジオ局が、西部地域でも主要なラジオ局は一斉に放送が停止していた。

232shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/02(金) 18:01:42
そして、そのタイミングを見計らったように、主要な周波数では、臨時放送が始まっていた。
「番組の途中ですが、ここで、英国チェンバレン首相の特別放送をお伝え致します。」
図ったようなメッセージが伝えられ、ワンフレーズだけ、チェンバレン首相の肉声が英語で流れた。
そして、その声がやや小さくなり、それに被さるように独逸語に翻訳されたアナウンサーの声が流れ出したのだった。

チェンバレンのメッセージは明確だった。

「第一次世界大戦と言う前時代的な君主による紛争の結果、独逸国民は塗炭の苦しみを味わう羽目に陥たった。
莫大な賠償金が課せられる事となり、独逸国民の皆さんは、それを懸命に支払おうと努力された。
それは、我々他国の国民が見ても、非常に立派な行動でした。
しかし、それにも限度があった。
世界的な不況に巻き込まれ、独逸では急激なインフレが発生し、国民の皆さんは、明日の生活の保障すら持てない、辛い苦しい時代に直面したのです。
このような非常に厳しい状況に追い込まれたとき、誰が目の前にあるものに縋ろうとするのを止めることが出来るだろうか。
例えそれが、皆さんのような理性的な独逸国民であっても、止むを得ないとしか言えないであろう。
そして、独逸国民、皆さんの前に差し出されたのは、国家社会主義ドイツ労働者党だった。
確かに、ヒトラー総統は、優秀な政治家であろう。
独逸にとって、「今何をすべきか」を決断出来る政治家。
国家にとって信義とでも言えるお互い同士の約束事を破り捨て、自分は正しいと言える政治家はそういる者ではありません。
結果、独逸は優秀な国民の手で、驚異的な回復を見せます。
元々皆さん、独逸国民は優秀な人々なのです。
それが、不当、そう、何時の時代でも、借金は「借りた方にとっては」不当としかいい様がないでしょう。
そう、その借金を棚上げにすれば、優秀な独逸国民が貧困に喘ぎ続ける訳は無いのです。
それに着目し、国家再建を成し遂げた、ヒトラー総統は、優秀な政治家でしょう。
しかしながら、私は国家社会主義ドイツ労働者党に関しては、このような評価すら与えられません。

ワイマール条約と言う停戦条約によって、独逸は領土を割譲させられました。
これは、当時の独逸政府が敗戦を認め、その賠償として土地の提供を要求され、それに対する対価として割譲されたものです。
そして、そうである以上、国家としての独逸が異議を申し立てる事は「フェア」ではない。
しなしながら、そこに住む住民が、独逸への帰属を要求すなら、例え国家であれ、それに逆らう事は出来ません。
オーストリアに対しても同様でしょう。
国民が「フェア」な情況で、統合を望むならば、ヒトラー総統の出身地でもあるオーストリアが、
独逸と統合するのも他の国家が異議を挟む筋合いは無い。
しかしながら、チェコスロバキアに属するズデーデン地方はどうでしょうか。
確かに、独逸への帰属を望む人々もいよう。
だが、反面、新たな国家への帰属を望む人々もおり、今の国家社会主義ドイツ労働者党のやり方は「フェア」と言えるでしょうか?
徒に、独逸系の住民を煽りたて、ズデーデン地方に国家社会主義ドイツ労働者党の党員が送り込まれています。

233shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/02(金) 18:03:52
独逸の国民よ、良く考えて頂きたい。
あなた方は、優秀な政治家としてのヒトラー総統を得た代わりに、何を得たのかと。
本当に、国家社会主義ドイツ労働者党は、あなた方の最良の選択なのかと。
少なくとも、我々、英国を含む幾つかの国家はそうは考えていません。
そして、独逸周辺国にとって、国家社会主義ドイツ労働者党は、害悪でしかない。
ここに至り、我々は一つの決断を迫られました。
そう、本日ただ今を持って、我々、英国を含む諸国家の連合勢力は、国家社会主義ドイツ労働者党を独逸国から排除するための軍事行動を発動します。

これは、国家間の戦争とは我々は考えていません。
我々の目標は、あくまでも国家社会主義ドイツ労働者党と言う政党であり、決して独逸国家ではないのです。

独逸の誇りとも言うべき国防軍の諸君、あなた方は国防軍最高司令官であるヒトラー総統の命令に逆らう事は軍人として出来ないのは我々も承知しています。
それが、例え敬愛する将軍が国家社会主義ドイツ労働者党により、相次いで失脚し、国防省が何故か廃止されたとしても、最高司令官に就いた人物は、立派な人物である事は、我々も承知しています。
我々が派遣するのは軍隊であり、諸君らも軍人である事は言うまでも無い。
そして、我々は、これから貴国に侵攻する訳であり、諸君らはなんと言おうが、それを排除する義務がある。
戦おう!
我々は全力を尽くして、国家社会主義労働者党を貴国から排除する為に、戦う。
そして、諸君ら国防軍は、独逸国を守る為に、戦わねばならない。
ただ、ただ、一つお願いしたい。
この戦いで、我々が国家社会主義ドイツ労働者党を排除した暁には、諸君らは速やかに、独逸国を守るために、立ち上がって頂きたい。
外敵の侵入を防ぐ為だけに、国防軍がある訳ではないのです。
国家の維持、治安の維持も国防軍の重要な任務である。
それを忘れないで頂きたい。

独逸国民の皆さん、ご清聴感謝します。
1938年10月7日、大英帝国首相、アーサー・ネヴィル・チェンバレン
アウフヴィーダーゼン」

234shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/02(金) 18:06:11
放送が終り、ラジオは何も言わなくなる。
そして、雑音だけが激しくなり、慌てて秘書が駆け寄り、摘みを回すが、何処を選んでも、雑音しか聞こえてこない。
「消せ!」
総統執務室に、ヒトラーの鋭い声が響く。
ヒトラーは、そのまま部屋にいるナチス高官を眺め渡す。
「どう言う事だ?」
誰も何も答えない。
「誰も何も言えないのか?」
ヒトラーが尚も問い質す。
「残念ながら、見事な謀略放送です。」
ゲッペルス宣伝相が、辛うじて答えた。
額には汗か浮かんでいる。
「直ちに、逆宣伝の放送準備を。」
ゲッペルスはそのまま部屋を飛び出そうとする。
「まて!多分無駄だろう。」
ヒトラーは冷静に告げ、ゲッペルスを押し止める。
「諸君らも聞いたであろう。あのラジオの雑音を。英国は何らかの方法で放送を妨害する手段を開発したようだ。
多分・・・
ラジオ局が放送再開可能になっても、電波は届かないだろう。」
その時、ヒトラーの予言を証明するように、扉がノックされる。
「入れ。」
総統官邸に詰める、国防軍の連絡将校が、感情の無い顔で部屋に入ってくる。
「国防軍最高司令部より、連絡です。
現在、広範囲に渡り、電波が妨害されており、ラジオ放送、通常の無線共に一切不通との事です。」
連絡将校は、国防軍式の敬礼をすると、秘書官に書類を渡し、部屋を出て行った。

「見たか、彼の態度を。」
ヒトラーがポツリと言い、全員が怪訝そうな顔を浮かべる。
「彼は、我々NASDAP式の敬礼ではなく、陸軍式の敬礼をしたんだぞ。
君達はそれすら気が付かないのか!」
かん高いヒトラーの声が執務室の天井に響き渡る。
勿論、ナチス党員であれば、「ハイル・ヒトラー」と言う形式の右手を高く挙げる敬礼が当然のものとなっており、総統官邸では、多くの国防軍将校もこれに倣っている。
しかしながら、全員が全員とも、それを行う訳では無いが、今のヒトラーには、彼がわざとそうしなかったとしか思えなかった。
総統執務室には重い沈黙が垂れ込め、暫くは誰も何も言えなかった。

235shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/03(土) 11:56:32
 スコットランド北部、バイナキール、大ブリテン島のほぼ北の果て、住民も近所のダーネス辺りに少しだけしかいない、本当の僻地である。
しかしながら、この静かな小さな湾が騒がしくなったのは、半年程前からだった。
三隻程のやけに平たい貨物船が湾に入ってくると、その内の一隻の艦尾から、大発、帝国の上陸用舟艇、と思しき艦艇が次々に現れる。
それらの小型舟艇が、海岸に乗り上げると、平たい艦首がそのまま手前に開き、キャタピラの騒音を撒き散らしながら、ブルドーザーが出てくる。
海岸で待ち受けていた、数名の兵士が誘導するまま、ブルドーザーは通路を広げて行く。
別の大発からは、大きなローラーが付いた重機や、シャベルカーのようなものも現われ、たちまちの内に、海岸から内陸部の小高い丘陵地帯に向かって、簡易道路を建設し始める。
道が通じると、更に輸送船から、多くの重機が現われ、丘陵地帯を平坦な土地に変えてゆく。
砂利を満載したトラックまで登場し、平坦となった土地に、均一に砂利を敷き詰め、ローラーが踏み固めてゆく。
そしてその上に、細かい砂が敷かれ、最後には、コンクリートミキサーまで登場し、そこにコンクリートが敷き詰められて行く。
ここまで来ると、今度は長方形の大きな箱が船から陸揚げされ、待機していたそれ専用のトラックに載せられると、次々と敷き詰められたコンクリートを避けながら、その箱を丘陵地帯まで運び上げて行く。
既に、土台らしいものが用意されており、順番にクレーン車がその箱をその台の上に並べて行く。
素早く、箱に何人もの兵士が駆け寄り、土台と接合させる作業に取り掛かるもの。
箱そのものが分解され、台座だけ残し、他へ運ばれるもの、様々な作業が効率よく実施されて行く。
 一月後には、バイナキールに緊急着陸用の滑走路と簡易宿舎が完成していたのである。
その後更に工事は続けられ、今では浮き桟橋から、補給用のパイプラインが伸び、主滑走路と横風用の滑走路まである立派な航空基地が展開していた。

チェンバレン首相のラジオを通した演説が行われる三時間前、新たなバイナキール航空基地の首滑走路の片隅に、彼らは待機していた。
既に、作戦に関する打ち合わせも済み、これから各機に向かう所だった。
「いいかぁ、お前ら、気合を入れて行けよ!」
「おおっ!」
四十人程の搭乗員達が一斉に大声で返事をする。
その様子を遠巻きに、英国人搭乗員達が面白そうに見ているので、総勢は100人程度であろう。
「これらか、独逸帝国へ出入りだからなあ!抜かるんじゃ無いぞ!」
「おおっ!」
全員が、右手を大きく上に伸ばし、大声で返事をする。
「それじゃ、いくぞ、いいかぁ!」
「はいっっ!」
「帝国総軍はァ!」
「帝国総軍わアッ!」
全員が一斉に大声で唱和する。
「誰にも、負けない!」
「誰にも、負けなぁい!」
流石に、うるさいのか、苦笑いを浮かべながら、英国搭乗員がおどけて耳を塞ぐ。
「我々わあ!強い!」
「我々わあ!強い!」
「必ず、敵を倒してぇ!」
「敵を倒して!」
「帰ってくるぞぉ!」
「帰ってくる!」
「よおーし、行くぞぉ!」
おおっと言うどよめきと同時に、全員が思いっきり右手のこぶしを空に突き上げる。
そして、そのまま待機しているジープに向かって走り出していた。

236shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/03(土) 12:13:08
「メジャー、ノナカ!」
全員の先陣に立ち、搭乗員を鼓舞していた将校も、愛機に向かおうとした時、後ろから声が掛かる。
振り返った野中五郎少佐は、素早く敬礼した。
統合軍バイナキール臨時駐屯地司令官、フィリップ・ヒックス大佐だった。
「今のは、やはり、ヤマトダマシイと何か関係があるのかね?」
そう聞かれ、野中も言葉に詰まる。
「いやっ、直接的には、違うと考えます。どちらかと言えば、シキコウヨウ、ええっと、何と言えば良いのか、全員の意識を高める為に行っている行動です。」
将校たるもの英語が話せないでは話にならない。
そのために、野中も結構勉強したが、やはり難しい単語は直ぐには出てこない。
「ふむ、スピリチュアルイマジネーションかな?
やはり、あれか?
オリエンタル・ゼン・ムーブメントの一環か?」
ヒックス大佐に、誰が余計な事を吹き込んだんだ、一体。
野中自身も聞いた事無い単語が出てくる。
しかも、ヒックス大佐はそれが日本語の言葉の英訳だと思っているらしい。
「はあ、ゼンの思想にシンクロさせて、精神の緊張を高める、日本古来の詠唱法の一つです。
我々は、これで全員の士気を高めております。
大佐、申し訳ございませんが、出撃ですので。」
「おお、そうだな、また帰ってきたら、詳しく教えてくれ。
Good luck!」
そう言って、敬礼して、見送る。
野中は慌てて、自分の愛機の乗員が待ち受けているジープに走りよる。
後部座席に飛び乗り、手で指図すると、すぐさま車は走り出す。
振り返りながら、敬礼をまじわし、やっと溜め息を吐き出した。

「少佐、司令官と何かあったんすか?」
「いいや、何も無いよ。どこかの馬鹿がいい加減な武士道を大佐に教えたようだ。」
「あっ、それ唐沢大尉ですよ。ほらここの建設を指揮した。」
「うーん、あいつか。帰ったらとっちめてやる。」
「大尉、もうそこですよ。」
野中は、慌てて走るジープの後部座席に立ち上がる。左手一本で身体を支えながらも、ビシッと敬礼する。
目の前に、四発のエンジンで大型のプロペラを回し始めている97式重爆撃機が並んでいた。
滑走路に面して、両サイドに10機ずつ並んでいる間を、野中を載せたジープが走り抜ける。
彼に近い方に並んでいるのか、帝国側、向こう側は英国側の搭乗員が乗り込んでいる。

237shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/03(土) 12:19:15
97式重爆、満州ボーイング社が生産している95式輸送機、通称ボーイング輸送機と言われる大型輸送機をベースに、帝国航空廠で改造を加えられ、重爆撃機にされた機体だと言われている。
しかし、野中は知っていた。
これが、米国ではB17と言われている機体とほぼ同じものである事を。
しかも、どちらかと言えば、同じB17でも、「のと」資料にあった、後期のB17以降に近い機体である。
1931年に、米国でボーイング社が設立された時、その出資者にロイズ保険会社の系列会社が入っていた事は、殆ど知られていない。
ましてや、その会社が日商のダミーだとは、絶対に知られてはいけない事実だった。
全体の出資額の1/3近くを出資したロイズ社は、役員を送り込み、ボーイング社の開発計画を、最初は日商に、そして今では英国にも提供している。
そして、33年ごろから、将来の満州地域での航空機輸送の増大が見込めるとの報告を受けた、ボーイング社は、丁度開発を開始していた、米国軍向けの四発爆撃機の派生型としての輸送機の設計を開始した。
図面が出来上がり、試験機が出来上がる頃には、満州航空機株式会社がその機体に非常に興味を示し、輸送機としての受注は確実に見込めそうな勢いであった。
しかしながら、価格面での交渉が進捗せず、このままでは契約には至らないと言う情況に、陥り、役員達は、頭を抱える。
そんな時に、ロイズ社から派遣されている役員が、現地生産での対応を言い出したのである。
他の役員達にも異議は無かった。
大幅なコストダウンが見込め、満州航空機は、その値段ならば、更に発注台数も増えると通達してきたのである。
しかも、満州航空機から話が伝わったのであろう。
日本帝国の統合軍が、適切な輸送機を探しており、ボーイング社の機体に興味まで示しているとの情報も伝わって来る。
早速政府に対して、現地生産での工場の立ち上げを申請するが、今度は米国政府が難色を示しだした。
余りにも、新型爆撃機との共用部分が多いのである。
その為、そのまま満州で生産された場合、容易に日本に、爆撃機として利用されかねないと言う理由だった。
頭を抱えたのは、ボーイング社だった。
大量発注が手に入るかどうかの瀬戸際の時に、そんなありえそうも無い理由で輸出を禁止されては堪らない。
必死に政府と掛け合うが、埒が明かず、役員達は再び頭を抱える。
最終的に、ボーイング社は、同じ部品を使いながらも、全く形状の違う輸送機を何とか作り上げた。
輸送機は、荷物の積み下ろしが楽なように、翼を機体上部に持ち上げ、胴体も一回り大きくなっている。
確かに、搭載量はB17より飛躍的に増加したが、速度、航続距離等は大幅に後退している。
胴体後部は、後ろに大きく開き、積み下ろしも楽であり、輸送機としては申し分ないものが出来上がったのである。
これには、米国政府もしぶしぶ納得を示し、無事満州における航空機生産工場の設立が認められた。

238shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/03(土) 12:22:43
満州航空機からの受注も得られ、生産工場も、満州航空機と合弁での立ち上げも決まり、役員全員がホッとした時に、更に難問が持ち上がったのだった。
今度は日本帝国だった。
折角現地での生産が決まった輸送機だが、これでは発注できないとの事だった。
彼らが求めたのは、B17そのものであり、その航続距離と速度に魅力を感じたのであり、搭載量が増えても、これでは採用できないとの通達だった。
最早、役員達は、精も根も尽き果てたように黙り込む。
帝国政府からの内諾時の発注台数は、初ロット100機であった。
満州ボーイング社での生産施設は、これを見越して投資している。
ここに来て、帝国からの受注がキャンセルされると、ボーイング社は潰れかねない。
この危機に、悪魔の囁きを呟いたのは、ロイズ社から派遣されている役員だった。
造ってしまおう。
ロイズ社としても、ボーイング社が潰れるのは困る。
こうなれば、部品を送り、現地で組み立ててしまおうと。
政府にばれた場合は、日本政府と交渉し、あくまでもボーイング社が提供した輸送機を改造したと言って貰えば良い。
それに、いざとなれば、他の役員が知らない所で、英国出身の役員がやった事にすれば良いと。
全員が、何も言えず、その役員の顔を見つめるだけだった。
役員会議の決は採られず、会議はそれでお開きとなる。
そして、ボーイング社は、帝国政府から新型輸送機100機の受注を無事得る事が出来たのだった。
36年から機体の引渡しが開始され、当初の100機は37年中に完成し、ボーイング社は高配当を株主にもたらした。
そして、嬉しい事に、帝国政府からは、エンジン強化型の本当の輸送機タイプの発注があり、密かに心を悩ましていた問題も目出度く解決でき、ボーイング社は全米でもトップクラスの航空機生産会社にのし上がってゆくのだった。

239shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/03(土) 12:28:04
そして、帝国は手に入れた輸送機(B17型)に、自動機銃の搭載、新型照準器、尾翼強度の強化を施し、新たな重爆撃機を必要台数確保する事に成功していた。
80機が爆撃機仕様であり、残り20機は、電子偵察・司令機に改造されている。
今回の統合軍には、その内、爆撃機60機、電子偵察・司令機20機が提供されていた。

今、野中の目の前に展開しているのは、その内の爆撃機20機である。
既に、電子偵察・司令機はその半分が飛び立っている。
機内に、電子専用の専用発電機を持ち、対地、対空レーダーから、強力な無線傍受、電波妨害機能も持つ、爆撃機4台分の金が掛けられていると言われている電子偵察・司令機は、この97式重爆撃機改良型と、「のと」世界では一式大艇と呼ばれていた97式飛行艇の二つのバージョンが作られていた。
高高度、高速偵察が本領の97式爆撃機改と、長距離、長時間隠密行動が旨の97式飛行艇の二つの機体で、欧州戦での目となり、耳となる飛行機群であった。

野中は待機していた愛機に走り寄り、機体に乗り込む。
通路を通り、操縦席後方に置かれた、航法員席に腰を下ろすと、素早く出撃指令書を確認して行く。
片道三時間、現地行動時間を含めると、トータル七時間近い飛行である。
天候は晴れ。
これは、幸いな事に、目的地付近も同様との気象報告が上がってきている。
今回の出撃は、無事帰還してから、再度簡易整備後の飛行が予定されている。
最初の攻撃は、夜間爆撃であり、少なくとも敵の迎撃がある訳ではないのが、助かる。
まあ、その代わり、爆撃精度は落ちるから、良し悪しであるが、少なくもと二度目の出撃は、明日の真っ昼間である。
どちらかと言えば、二度目の出撃の方が危険性は高い。
前方展開している支援空母、護衛空母からの援護がある事となっているが、微妙なタイミングの問題も発生するかもしれない。
そして、何よりも簡易整備での二度目の飛行を行う以上、全ての機体が十全の状態で飛べる訳ではない。
不良が発生して、万一墜落と言う事となれば、下は敵地である。
野中は頭を振って、どんどん膨らむ妄想を消し去ろうとする。

「機長、準備完了です。」
「良し、それじゃ、野中隊、行くぞ!」
野中の掛け声に合わせるように、機体のエンジンのうなり声が更に多きくなり、大型獣爆撃機はゆっくりと動き始める。
主滑走路に出ると、一台ずつ、一列に並び、発進の順番を待っている。
「バイナキール、バイナキール、ディスイズノナカ、レディトゥフライ!」
管制塔と連絡を取る副操縦士の声が漏れ聞こえてくる。
と言っても、機内はエンジンとフロペラの騒音で、音が聞こえるレベルではなく、耳につけたヘッドフォンからではあるが。
やがて、副操縦士が、指を上に立てると、機体はガクンと前のめりになりながら、猛然と加速して行く。
夕闇が迫り来る、スコットランド北方の海が目の前に広がる中、野中少佐率いる、統合軍戦略爆撃部隊、20機は夜の闇に消えて行った。

240shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/03(土) 12:35:12
「ここらでいいのかなあ。」
「良いんじゃないですか、そこにありますよ。」
「おおっ、あった、あった。それじゃ、仲村君、頼むね。」
「ハイハイ。」
溜め息を付きながら、仲村少佐は、リュックの中から珪酸粘土とニトログリセリンの混合物を取り出す。
手早く、柱の根本に、それを据え付け、信管をセットし、時計を合わす。
手配が整うと、その上から、手早く辺りの雑草をそれらしく配置し、立ち上がった。
「ハイ、出来ました。次行きましょうか。」
「おう、流石、仲村君は早いなあ!」
「何馬鹿なこと言ってんですか、後三箇所に設置するんですからね、急ぎましょう。」
二人は、来た道を引き返し、車道に出る。
如何にも怪しげな中国人二人組みだが、二人は車道の端に止まっている、最近発売されたばかりの独逸の国民車に近寄る。
「良し、次行くぞ、次。坂口、飛ばせ!」
「大佐、無茶言わないで下さい。下手に見つかったらどうすんですか。」
「大丈夫、私は中華民国政府派遣の梁大佐だ!
盟邦独逸帝国のお忍び視察だから、良いんだ!」
「へいへい。」
フォルクスワーゲンは、猛烈な加速で、アウトバーンを走り去って行った。


 独逸帝国は直ちに、全土に対して国家緊急令を発し、国土防衛の体制を整えようとした。
しかしその発令が末端に到達するよりも早く、ラジオ放送から30分後には、ハノーバー地方の有線通信までが不通になり始めた。
ベルリン郊外から、キール、ハンブルグ、ブレーメン一帯での通信が、十分に行えなくなってきているのだった。
勿論、全部が全部では無いのだが、明らかに使える回線が急激に減少している。
無線は、ラジオ放送以降、殆ど使えない。
強力な妨害電波が国境の向こう側から発せられているのは判るが、それ以外にも、どうやら高高度を航空機が飛んでおり、そこからも妨害電波が発せられているようだった。
電波探知器等で、発信源を探る試みは、確かに何かを捕まえたりするのだが、目標が複数個あり、しかも、それらが、巧妙にシンクロされているため、特定が中々出来ない。
辛うじて、連絡のついた航空基地から、夜間に関わらず、戦闘機が発進するが、補足出来ずに、引き返すしか無かった。

241shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/03(土) 12:39:15
 ヴィルヘルムハーベン、キールに次ぐ新生独逸海軍の第二の軍港である。
夜にも関わらず、軍港内には多くの兵士が走り回っていた。
チェンバレンのラジオ放送の直ぐ後に、キールの総司令部から、警戒警報が発令されたのが無事届いた事が大きいが、非番のものも、放送を聞いて駆けつけていた。
「戦争が始まる。」
ラジオ放送を聴いた、兵士達の不安を表せば、その一言に尽きた。
放送終了後、どこの放送局も何も言わない。
電話のある所に言ってみれば、長だの列が連なっており、様子を聞くと、中々繋がらないとの事である。
フランス軍が国境を越えたらしい、英国海軍が、ダンチッヒに上陸した、いや、キールが砲撃されたらしい・・・
デマがどんどん大きくなり、いてもたってもいられないまま、多くの将兵が軍港に集まってきていた。
「一体、どうなっているのだ!」
偶々、ティルピッツの建造情況の視察に来ていた、リッチェンス少将は、集まっていた将校に、当り散らす。
「今の所、具体的な報告は入っておりません。ただ、兵士の間でデマが飛び交っており、通信状態が最悪の為、確認できない事が、更に不安を拡大しています。」
「ええい、その位、判っておる!レーダー大将からの指示は無いのか。」
余りにも情報が不足しており、リッチェンスも具体的な方策が立てられない。
「とにかく、集まっている兵士達は、防衛体制の構築に当たらせろ。する事が無ければ、土嚢でも積ませておけ!それと、稼動出来る艦艇は全て緊急出航準備を急がせろ。」
殆ど同様の情況が、キールでも起こっている事をリッチェンスは知らない。
国防軍に至っては、それぞれの駐屯地から動けず、ただ基地の守りを固めるだけだった。
参謀本部そのものが、混乱の中にあった。
チェコに侵攻した二個師団を引き返さすべきなのか、それともチェコから攻撃が開始されるのか今の時点では判断出来ない。
フランスやポーランド国境周辺の情況も正確には伝わってこないだけに、国内の師団の移動先が決められないのである。

リッチェンスの執務室から急遽伝令となった仕官が走り出ようとした時、辺り一帯に警報が鳴り響いた。
「なんだ!」
「空襲警報です!」
「バカヤロウ!それ位判るわ!」
「あっ、いや、済まん。悪かった。司令部に行って、何か詳細が判るか調べてきてくれ。」
思わず怒鳴りつけてしまい、恥ずかしくなる。
そうだ、空襲だ!
リッチェンスは慌てて建物から走り出る。
急いで退避壕を探すが、まだそんなものは、ここには無い。
結局、他の将兵と同じように、ドッグの基盤近くのコンクリート壁面の隅に固まるしかなかった。
港の方からは、空に向かって探照灯が伸びている。
確かあそこには、グナイゼナウが停泊していた筈だ。
直ぐにでも動き出せるように、朝から機関は暖めていた筈だった。
しかし、それでも出港命令が出されていなかった為、動き出したのは多分ほんの少し前だろう。
くそっ、こんな所でグリーネマリーネの船がやられて堪るか。
ふと、辺りが静まり返り、その中で微かな爆音が聞こえてくる。
「来た!」
誰かが叫ぶ。
探照灯の光が機影を追い求めるように、音源の方向に動いて行く。
しかしながら、何も見えない。
いた!
思ったより小さい。
かなり高度は採っているようである。
それでも真っ直ぐ港に向かって飛んできている。
探照灯の明かりで一瞬だけ浮かび上がったが、総数は三機程度しか見えなかった。
ヒューンと言う金切り音が響き、その小さく見える航空機から何かが落下し始めた。

242shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/03(土) 12:44:55
「よーし、どんぴしゃ、流石だな。」
真っ暗闇の中で、司令機に言われるまま搭載してきた小型爆弾を落とし始めると、その内の幾つかが、爆発し、地上の様子が一瞬明らかになった。
見事、港湾らしい地点に爆弾は落ちている。
「何とまあ、良く場所を特定出来るもんだ。」
野中は感嘆したように、つぶやく。
海を越えている間は、方向と高度、そして速度に対する大まかな指示だけだったのが、目的地に近づくと、細かい修正がイヤフォンから流れて来る。
それに併せて操縦士は微妙に舵を切り、そして言われたタイミングで投弾手はレバーを引く。
信じがたいが、しっかりとそれは目標上空だった。
地上局数箇所からの誘導波、それを三機の電子偵察・司令機が、野中の機の位置と併せながら、
目標の緯度・軽度に乗せて行くのだ。
精密な誘導が、夜間での精密爆撃を可能にしていると理屈では判っても、実際にやるとなると、いつも感嘆してしまうのは仕方ない。
「投下終了!」
「よし、野郎伴、引き上げだ!」
北方から進入した野中達が乗る97式重爆は、ゆっくりと反転し、海の方へと返して行く。
明日は、本番か。
夜間爆撃は、案の定迎撃機も出て来なかった。
これから基地まで戻り、二時間後に再出撃、その時は敵も出てくるだろう。

243shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/03(土) 12:48:13
「なんだあ!」
落ちてきたのは、大型爆弾ではなかった。
野球ボール程の小さな爆弾が、大量にばら撒かれている。
しかも、幾つかは爆発しているような音がするのだが、全部ではなさそうだった。
あれでは、艦は沈まん。
どうやら、航空機はあの三機だけだったようで、後続はなさそうだった。
怪訝そうな顔をしながら、リッチェンスは建物に戻ろうと歩き出す。
「うわっ!」
突然横の方から爆風を受け、地面に叩きつけられた。
一瞬めまいを覚え、左肩から腰に痛みがあるが、何とか立ち上がれる。
全身を触ってみるが、特に外傷もなさそうだった。
「どう言う事だ?」
慌てて、爆風のした方を見ると、何名かが立ち上がれずに呻いていた。
「衛生兵はいるか!」
大声で叫びながら、リッチェンスも他の者と同じように、倒れている将兵に駆け寄る。
「何だと、おい、落ちている爆弾に近づくな!時限爆弾だ!」
あいつら、何て事を。
ヴィルヘルムスハーフェンの港一帯に、いくつばら撒かれたのかは判らないが、千や二千で利くかどうか。
とにかく、見えるだけでも数個の爆弾が転がっている。
ドーンとどこかでくぐもった音が響く。
あれでは、船は破壊できない。
しかしながら、柔な物はそれだけでも十分破壊されて行く。
そして、港で一番柔なのは、辺りを歩いている人間だった。
少なくとも、これで数時間は確実に出港出来る船はいない。
そして、これらの爆弾を処理しても、また夜になって次の攻撃が行われたら。
間違いなく、ヴィルヘルムスハーベンは軍港としての機能を失う。
リッチェンスは呆然と立ちすくむのだった。

同時刻、ヴィルヘルムスハーベン沖合いで、一隻の飛行機が海上を走っていた。
「よし、許可が出た。突っ込むぞ。」
沖合いを走る飛行機、そんな事が出来るのは飛行艇だけである、が速度を上げて海岸を目指す。
予定の地点に着いたのか、飛行艇の後部のドアが開き、両手で抱えられそうな、丸い固まりが海に落ちて行く。
「おーし、三往復したな。まだあるか?」
「終了でーす。」
後部から返事が返って来る。
「そんじゃ、とっとと逃げましょうかねっと。」
飛行艇は沖合いに向かって、速度を上げると、海面すれすれの高さを維持しながら、
瞬く間に飛び去っていった。
独逸海軍が機雷の存在に気が付くのは、翌朝、魚雷艇が触雷した時だった。

その夜、日英統合軍は、英国軍の助けも借りて、40機の重爆撃機と、10機の司令偵察機、そして4機の97式飛行艇で、少なくとも三箇所の港湾、五箇所の飛行場、8箇所の国防軍駐屯地を機能不全に陥れたのだった。
そして、独逸国防軍は一睡も出来ないまま夜明けを迎える。
あいも変わらず、無線は通じないまま、伝令が直接行き来すると言う状況の中で、黎明と伴に、独逸将兵が、そして多くの独逸国民が目にしたのは、独逸国内に向かって侵入してくる多数の航空機だった。

244shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/10(土) 09:44:23
「フロムイーグルリーダー トウ チヤールズ ツウ、フロムイーグル・・・」
「This is Charles two, to Eagle leader, no enemy appeared yet, all directions are cleared, forward on your destination, over」
「へいへい、オール ディレクション アー クリアードってね。」
まだ、敵は現れないようだった。
後方の空母を経由して一時間、既に独逸領内は直ぐそこである。
攻撃第一波に属する彼らは、鷹部隊、コールネームはイーグルと名づけられた大隊だった。
四機で一小隊を形成し、それが三編隊で中隊、中隊三つで大隊と言う名称は中々慣れない。
それでも、通信を全て英語でこなさねばならない事よりはまだましだった。

イーグルリーダーは、無線機のボタンを押して、会話を編隊内に切り替える。
「全機、独逸領内に入るぞ、敵に備えろ。」
「鷹一、了解」、「イーグルに、らじゃ」、「鷹さん、ラジャ」、「了解、鷹四」
それぞれの中隊長から連絡が帰ってくる。
彼が指示するのは、中隊長までであり、そこから先は、中隊長の役目であり、彼はそれぞれの小隊の動きは追ってない。
双方向の無線機が出来てからは、便利は便利なのだが、全体指揮が非常に難しいものになったのも現実だった。
まあ、信頼するしかないんだがな。
編隊48機全てが無事ついてきている事を祈りながら、彼は前方に注意を集中する。
「イーグルリーダー、こちらチャールズ2、敵機だ、12、3000、11、80、10分」
「ラジャ、イーグルリーダー、オーバー」
数字の羅列を頭の中で素早く勘案する。
12機の敵機が、高度3000フィートで、11時の方向から接近中、距離は80キロ、会敵まで10分との情報である。
「二番、三番、上昇、4000、四番、下降2500、1時」
彼の後方にいた機が、あっという間に前に出る。
そのまま、二番、三番隊計24機が上昇して行く。
一番隊は、そのまま前に出て直進、そして四番隊は、微妙に進路を変えて横に展開しながら下降して行く。
「リーダー、変わらず、五分」
「タリホー、2、3」
二番隊三番機が視認したようだ。
「リーダー、グッドラック」
視認情報が入った以上、司令機の役割は終了である。
後は、現場の仕事になる。
キラッと光ったと思うと、上空11時方向から、敵機が逆落としを掛けてくる。
こちらが、進路を変えないので、ほくそ笑んでいるだろう。
機数はこちらが倍だと見えているだろうから、先に一番隊を狙い、そのまま二番に向かうのが常套手段である。
しかし、ダメだよ。
半分も進まない内に、更に上空から、二番隊が逆落としを掛けた。
敵機の半数が一撃で火を噴いた。
中には当たり所が悪いのだろう、爆発する機体まである。
散会しようと広がった残りの敵機に、三番隊が突入する。
戦闘はそれで終わりだった。
旋風は格闘性能も素晴らしいのだが、それを披露する暇も無い。
「イーグルリーダー、チャールズ2だ、おめでとう。多分君達が最初の撃墜記録となる。」
「ありがとう、チャールズ2、しかし、イーグル隊だけじゃない。イーグルとチャールズ2が最初の撃墜記録だ。帰ったら祝杯を挙げに来てくれ。」
暫く通信が途絶える。
「ありがとう。伺わせて貰う。リチャード少尉です、宜しく」
「ああ、待っている。飯田大尉だ、宜しく」
「オールクリア、グッドラック、大尉、オーバー」
チャールズ2の管制域に入ってから始めて、飯田は相手の名前を知ったのだった。

ふと、無線機のランプが光っている。
誰かが編隊内通信を入れたがっているのだ。
「何だ?」
「大尉、おごりですか?」
「当たり前だろ、英国さんも来るんだからな。」
一斉に歓声が上がるのを、飯田は聞いたような気がした。

245shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/10(土) 09:47:38
海軍には様々なポストがあるが、一番気分の良いのは、戦艦、それも艦長職だろうなあ。
大英帝国本国艦隊、司令長官フォーブス大将は、改めてそう思うのだった。
今のようにCommanding Information Centerに詰めていると、特にそう思ってしまう。
まあこれが好きなやつもいるだろうが、やはり艦橋で全体を眺めながら、艦の指揮を取る方が遥かに楽しそうだった。
正面に大きなアクリル板が立てられ、そこには様々な数字や、艦の形をした樹脂製のボード等が張られている。
確かに、艦隊全体の動きは、明瞭に理解出来る。
中央左にあるのが、本艦、大英帝国本国艦隊旗艦ネルソン。
その上下に少し遅れて進んでいるのが、リヴェンジとラミリーズ。
左手、後方に位置するのが、ヴァリアント。
巡洋戦艦のレナウンとレパルスは、その快速を行かす為、右手前方に展開している。
それよりも遥か前方、上下に大きく離れた所に位置するのは、Imperial Japan Army の二隻の統制戦艦金剛と比叡である。
その周りに二隻の巡洋艦と8隻の駆逐艦が、対潜警戒も兼ねて展開している。
スカパ・フローを出航した時は、二列戦隊だったが、ここに来て艦隊は展開を始めている。
確かに、プロットボード、いわゆる戦況表示板で艦の位置、距離関係を正確につかめるのはありがたいが、やはり面白みに掛けると言うのが、フォーブスの正直な感想だった。
これでは、まるでシミュレーションと変わらないではないか。
司令長官である以上、艦橋に位置取り、硝煙の匂いを嗅ぎながら、戦いたいものだ。
まあ、そう思う以上、自分も古い海軍に属しているのかも知れない。
「失礼します。1艦、網の外にこぼれたようです。」
そんな事を夢想していると、情報将校が、小走りに走りより、紙を渡す。
紙を見るよりも早く、プロットボードの前に広がる北海からバルト海までの海図が広げられた大きなテーブルに目をやると、赤い艦形の模型が、デンマーク海峡を抜けた辺りに置かれている。
赤は、敵艦、この場合は独逸艦である。
艦形は戦艦であるが、色がややピンクであり、それが俗に言う独逸のポケット戦艦である事が判る。
最も、独逸には第一次大戦前の練習艦ぐらいしか戦艦は無いが。
味方の艦隊も地図上に置かれているので、大体の方位、距離は一瞥で把握出来た。
まあ、確かに便利ではある。
「金剛、レナウン左舷より回りこめ、レパルスと比叡が反対側だ。包囲するぞ。」
相手が電探を持っているか、どうかが気になる。
気付かれて、逃走されては厄介だった。
「報告します。独逸のポケット戦艦は、キールにドイッチェランド、ヴィルヘルムスハーベンに、アドミラル・シューア、アドミラル・グラフ・シュペーが待機していたと思われます。」
情報将校がまとめた紙を見ながら、報告する。
「昨晩の封鎖以前に港外に出た可能性は三者ともありますが、コースを見る限り、キールのドイッチェランドと思われます。」
「恐らく、ヴィルヘルムスハーベンの2隻と合流する予定でしょう。」
ドイッチェランドか、独逸には悪いが、新式の射撃管制システムの実験台にさせて貰おう。
「敵は電探を用いているのか?」
「まだ、電波は出しておりません。」
ふむ、レーダーはまだ装備していないのかな。
「念のため、各艦に連絡、電波を捉えたら速やかに、妨害電波、ああ、単一波長で良い、の発信をする事。会敵予想時刻は?」
「先行している巡戦隊が、およそ2時間半、我々本隊が3時間となっております。」
「ふむ・・・、本隊は増速、巡戦隊は減速し、タイミングを合わせろ。会敵予定時間は・・・」
うん、丁度良い、上手く行けば、上陸開始時間と重なる。
「07:00」

246shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/10(土) 09:50:56
一体誰が、こんなややこしい所を上陸地点に定めたのだ。
スミスは、強襲上陸艦シマネマルの作戦艦橋で地図を眺めながら、悪態をつきたくなる。
独逸侵攻作戦「ストライクイーグル」、その中でも初日の敵前上陸の為に、用意されたのは新たに形成された英日統合軍、欧州派遣部隊、第一及び第二兵団だった。
その中でも第一波の強襲上陸部隊は、英国及び大日本帝国拠出部隊の中でも精鋭を集めた、第一兵団であり、イクウェル・スミス少将率いる部隊もその中に含まれている。
但し、スミスが率いる第一兵団、第三旅団は主正面のブルンシュグッテル(Brunsguttel)周辺ではなく、側面であるノルドホルツ(Nordholz)への上陸部隊だった。

作戦は、前夜の主要拠点に対する爆撃、独逸の二大軍港であるキールとヴィルヘルムスハーベンの機雷封鎖。
作戦当日、午前六時より、黎明の中で航空攻撃が開始される。
第一波の航空攻撃は、主に地上部隊の移動を拘束する事が主任務だが、一部スミスの部隊に関連する攻撃隊もある。
そして、六時半にズデーテン地方に侵入した独逸軍に対して、チェコ領内で待機していた機動部隊が攻撃を開始し、地上戦が開始される。
同時に、仏蘭西マジノ戦線から砲撃が開始され、それは一時間続けられる事となっていた。
ポーランドからの攻撃は特にないが、少なくとも独逸国防軍参謀本部は、疑心暗鬼に陥るであろう。
東のポーランド国境付近以外では、その手法は違えども、三方向からの同時攻撃である。
どの方面が主攻なのか、少なくとも一日は混乱して貰えば良い訳である。
現実には、チェコスロバキアからの攻撃で主攻を勤めるのは、戦車大隊一個、97式中戦車36台にしかすぎず、これは陽動である。
仏蘭西は、砲撃だけで、実際の侵攻は行わない、と言うか出来るだけの戦力は無い。
そう、主攻は、スミスらの統合軍欧州派遣部隊、第一兵団の仕事だった。

七時を期して、統合軍はハンブルグ目指して上陸を開始する。
主上陸地点は、キール運河の北海側の出口、ブルンシュグッテル周辺。
当初は、海軍の本国艦隊に出っ張って貰い、戦艦による砲撃で、独逸軍の拠点を叩き潰し、強襲上陸と言う案が有力であった。
しかしながら、この海域は遠浅で、戦艦が行動出来るエリアが限定されており、英国海軍から難色が示された。
航空攻撃を主体にするべきか、いや、戦艦の1隻や2隻ぐらい座礁しても、と議論は割れたが、この地方の偵察が進むにつれ、大規模砲撃案は、却下された。
要は独逸軍がいないのである。
第一次大戦時からのものが中心であるが、幾つかのトーチカが設けられているが、そこに満足な兵士は配置されていない事が明らかになった。
元々、上陸作戦に適しているとは決して言い難い地域である。
現在、編成途中である独逸国防軍にとって、この地方からの攻撃が当面予想されていない以上、そこに多数の兵士を配置する余裕は無かった。

247shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/10(土) 09:54:17
そうと判れば、徒に被害の大きい敵前強襲上陸の必要性も無く、統合軍は作戦を見直し、強襲上陸ではなく、浸透上陸へとその戦法を切り替えていた。
方針が浸透上陸と決められてからは、英国側の独断場だった。
彼らは、使える兵器、人員を見定めるや、帝国側将校達が思いも着かない作戦案を立案して行く。
特に、所謂第五列を大規模に投入する後方攪乱、通信遮断や欺瞞情報の配布等の作戦は、帝国側に、英国を敵に回したくは無いと思わせるほどのものだった。

その結果、スミス少将率いる第三旅団は、ノルドホルツ沖合いの海域で、頭を抱える羽目に陥っていた。
エルベ川河口から北海までの海域に関しては、海底の情況も含めて詳細な海図が用意されていた。
これは過去三年間に渡って、日本郵船等の日英海運会社の船舶で、ハンブルグや、更にエルベ川を遡ってチェコスロバキアまで行く船の多くには密かな改装が行われていたせいである。
最新鋭の音波探知機を艦低に取り付ける改装を実施し、通過したエリアの海底の地形を記録して行く。
中には、わざと通過可能な水域を外れる船まで用意し、海域の調査を行ったのである。
結果、第三旅団を乗せた上陸船団は、本隊から離れ、別の進路から侵入しているのであるが、その侵入路が複雑だった。
十隻以上の大型船が、辺りに散らばっているとしか言いようの無い情況が、スミス少将の乗船する旗艦の後ろに広がっている。
それも、座礁を避けるため、速度は極端に落ちいているから、操船の事がまるで判らないスミス少将がイライラするのも仕方なかった。
こんな所で攻撃を受けたらと思うと、スミスならずとも、暗澹たる予感に苛まれるのは致し方無い。
辺りがまだ暗い為、陸上からはレーダーでも使わない限り視認される危険性は無いと自分に言い聞かせながら、スミス少将は何度も時計を見てしまう。
下手に操船している艦隊運営の連中に声を掛けるのも憚れる。
第一、彼らは彼らなりに必死に仕事をこなしている。
それに、シマネマルと言う名前でも判るが、強襲上陸艦は、帝国側しか用意出来てなく、その運営に関わっているものの多くが日本人だった。
スミス少将には彼らを馬鹿にする気は無い。
あまり高等なジョークが通用しないのは玉に瑕だが、少なくとも彼らは真面目に自分の仕事をこなそうと言う連中である。
傍から見れば、丸分かりであるが、それでもスミス少将は、苛立ちを必死に押し隠し、自分の出番を待つだけの分別はあった。
「予定海域に到達致しました。」
流石に、安堵の色が隠せないのか、報告する艦長の声は弾んでいた。
「ご苦労、直ちに各艦にて上陸準備。予定時刻まで余り余裕が無いが、慌てずに展開を図れ。」
時計をちらりと見ると、まだ5時10分である。
彼らは十分に仕事を成し遂げた。
ここから自分の出番だった。

248shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/10(土) 09:57:54
各艦での動きが慌しくなる。
兵員が疲れてしまわないように、搭載艇への乗船はギリギリまで控えていた分、用意された時間内に、乗り移るのは容易ではない。
それでも、待つ事一時間弱、予定通り殆どの船から多数の大発が、発進準備を整え終える。
「よし、全部隊に通達、6:00を持って、予定通り突入せよ。」
微かに足元から振動が伝わって来る。
シマネマルも機関の回転音が高まる。
他の輸送艦から飛び出した多数の大発も、一斉に前進を開始した。
その中にあっては、シマネマルの大きさのみがやけに強調されてしまう。
強襲上陸艦シマネマル、基準排水量15600トンのこの船は、他の輸送艦と並ぶと幾分小さめで目立たない。
しかしながら、周りが大発ばかりでは、流石に良く目立つ。
平型甲板を有し、偵察機程度ならば離発着が可能なこの船は、敵前上陸も視野に入れて作られた新たな艦種である。
モデルシップのシンシュウマルは、まだ輸送船然とした艦橋を持っていたが、二番艦以降は、シマネマルのように平甲板に改められ、汎用性を拡大している。
精々、六ノット程度までしか出ない大発と違い、シマネマルは徐々にその速度を上げ、大発を引き離して行く。
時計を見ると、もう直ぐ攻撃開始時間である。
「接岸しまーす。」
「後進全速!」
突然、船はスピードを落とし、海岸が迫って来る。
ガクンと言う衝撃が伝わり、全員が何かに捕まりその衝撃に耐えた。
「よーし、機関反転、全速!」
再び、前に進もうとするが、明らかに、艦主は海岸に接地している。
それでも、機関全速は伊達ではない。
ゆっくりと、艦は抵抗を排除するように、前進する。
やがて、その動きも止まり、機関室から、警告の連絡が入った。
「機関停止、バラスト注入。トリムを併せろ。」
複雑な操作が続いているが、スミス少将は、そんな事には構わず、双眼鏡を構え、艦橋から必死に周りを眺めていた。
周辺警戒の兵員は配置してあるが、やはり気になるのは仕方ない。
前方に、延々と連なる堤防が見えているが、その向こう側での動きは見られない。
「どうやら、本当に独逸軍はいないようですね。」
作戦将校として付けられた、ロバーツ大佐が、安堵したように呟く。
「心配しなくても、我々が上陸すれば、いやでも集まってくるよ。」
スミス少将は、自分も安堵しているのを知られないように、顔を双眼鏡に充てたまま、返事をしていた。

249shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/10(土) 10:00:38
「よーし、艦長、準備は整ったようだな。」
「ハイ、直ちに、前部上陸用扉を開きます。」
そう、シマネマルは、平底の船で、そのまま海岸に上陸出来るように、艦首に扉までついているのだった。
陸側から見れば、巨大な船の艦首部分が前方へと倒れて行くのが見えるだろう。
その中から、エンジン音を響かせ、車輌が飛び出してくる。
最初に現れたのは、97式重突撃砲だった。
97式中戦車の車体を流用し、旧海軍の40口径8サンチ砲を搭載した、化け物である。
口径76.2ミリの主砲は、陸上兵器ならば打ち抜けないものが無いと言われている。
エンジン音を高らかに、響かせ、あたりを睥睨するように、と行けば聞こえが良いのだが、実際は、非常にゆっくりと前方に倒れた艦首部分を確かめるような動きだった。
何せ、重突撃砲はひたすら重い。
97式の足回りを強化し、エンジンをチューンアップして、辛うじて走れると言うとんでもない代物である。
重さも、40トン近くに達するため、大発に載らない事は無いが、運用上の制限がかなりある使いづらい代物だった。
数名の整備員達が、艦首の周りを気にするように、足回りを覗き込んでいる。
敵がいないと判った以上、慌てて艦を傷つけても仕方ない。
勿論、その横をかいくぐる様に、何名もの兵士が、飛び出して行き、前方の堤防へと海岸を駆け抜けて行った。

250shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/10(土) 10:03:56
艦橋に、安堵の空気が流れている間も、偵察に飛び出した兵士達は、必死の形相で、海岸線を駆け抜けて行く。
目指すは、前方にある堤防である。
いくら、敵がいないらしいと判っていても、全くいないかどうかは判らない。
そして、一発の銃弾でも、当たればその効果は一緒である。
先頭を駆け抜けるロビンソン軍曹に負けずと、他の数名も必死に堤防まで辿り着く。
上陸時と言うか、軍隊である以上、戦闘用に携帯する武器弾薬類は、10キロ近くはある。
それを抱えたままの全力疾走なので、堤防に辿り着いた時点で、全員が呼吸を整える。
「よし、だれか手を貸せ。」
軍曹が命令すると、たちまち足場が組まれていく。
部下達を踏み台にして、軍曹は二メートル程の堤防の上にそっと顔を出す。
幸い、待ち伏せも無く、堤防の内側はかなり低くなっており、そこを道路が走っている。
その向こうは草地が広がり、その先は小麦畑が広がるのどかな田園風景が連なっているだけだった。
軍曹は、道路の右手100メートルの程の所に車が止まっているのに気がつき、警戒を強める。
直ぐに、車から人が降りてきて、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
手にした自動小銃を向けながら、軍曹は後方に合図を送る。
他の兵士達も堤防をよじ登り始める。
小銃を向けられても、その男性の歩みは止まらない。
それどころか、両手を大きく広げ、害意が無い事を示しながら更に近づいてくる。
どうやら、東洋人らしい。
「ストップ!」
声が届く範囲まで近づいて来た男を停止させる。
背広姿の民間人のようにも見えるが、如何にも怪しげである。
男はニコニコしながら、話しかけてきた。

「グッドモーニング、ジェントルメン。第三旅団だな。」
「ハイ、そうであります。そちらは?」
彼も伊達に軍曹になった訳ではない。
このような状況で、そのような質問をして来る以上、友軍、それも諜報関係の連中である事はまず間違いない。
東洋系なので、日本人かもしれないが、黄色人種の区別はつかない。
それでも、階級はきっと自分より上であろう事は、想像がつく。
まあ、階級が下でも、丁寧に接しても損は無い。
「帝国総軍、佐藤大佐です。現在、5キロ四方には独逸軍はいません。哨戒は、あー、片付けたので、最低2時間は、安全です。司令部へお伝え下さい。」
佐藤も丁寧に答える。
何せ相手が銃を構えて、上陸作戦の真っ最中である以上、下手な刺激はろくな事にはならない。
「ハイ、了解しました。第三旅団、ピーター・ロビンソン軍曹です。暫くお待ち下さい。」
軽く略礼を交わし、ロビンソンは後ろを振り返る。
「通信士!」
堤防の下から返事が聞こえる。
「本部へ連絡。5キロ四方に敵軍はいない。2時間後に敵の哨戒部隊が接近する模様。先行偵察のJapan Imperial Army Captain Sato より通報あり。」
返答を待つ間に、佐藤大佐が、車を手招きする。
部下達が、思わず小銃を向けようとするのを、ロビンソンは、手で制した。
「本部より連絡、了解した。直ちに佐藤大佐には本部までお越し頂きたいとの事です。」
通信士の声が、堤防の下から聞こえてくる。
「宜しいですか。」
「ハイ、了解しました。」
既に、車から二人の東洋人が降りてきて、何やら後部座席から取り出し始めている。
なんとまあ、あんなものどうやって積んだんだ。
手回しの良い事に、折りたたみ式のはしごが後部座席から出てきたのだった。
二人が、はしごを立てかけ、佐藤大佐が当然のように、それを登って堤防に上がってくる。
「では、参りましょうか。」
「ハイ、そこ、ヘイズ、本部まで案内しろ。」
「イエッサー」
ふと、爆音が響き、全員が一斉にそちらを見た。
少なくともそれは海の方から聞こえてきた以上、敵の可能性は少ない。
それでも、全員が直ぐに飛び降りれるように、身構える中、流麗なフォルムの戦闘機が数十機、上空を駆けて行った。

251shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/10(土) 10:07:11
「よーし、目的地だ、一番全機、四番第一、第二、きっちり決めて来い。」
眼下には、滑走路が広がっている。
どうやら、迎撃に上がれたのはあれだけだったようで、無事目的地、ノルドホルツ(Nordholz)の独逸空軍航空基地まで辿り着けた。
遅まきながら、対空砲火が上がってくるが、弾幕は薄い。
早速に、一番隊が上空より打ち上げてくる対空砲火に向かって突っ込んでゆく。
どう見ても、こちらの速度を読み間違えているので、一発も当たらない。
たちまち、銃座が潰され、対空砲火は下火になる。
それを確認したように、四番隊が今度は滑走路横の建物目指して突っ込んでゆく。
狙うのは、格納庫である。
それらしい建物が次々と爆発して行く。
「一番、四番第一、第二、そのまま帰還せよ。二番は上空警戒、三番は下だ。」
一番隊、四番隊の半数が翼を揺らし、次々に離れてゆく。
部隊は半分強に減ってしまったが、敵機が現れるようなら、司令機から連絡が入るから何とかなるだろう。
「そろそろかな?」
笹井は時計を見る。
あれから二十分、基地内で、動くものがあれば、三番隊のどれかの機がそれに向かって、短く機銃照射を掛けるので、今は、下は静かなものだった。
大きな動きがあれば、四番隊の残りの二小隊が爆撃する手はずだが、どうやらそれも無駄になりそうだった。
下の独逸軍も、冷や冷やもんだろうな。
どうして戦闘機が去らないのか、不思議に思っているだろう。

252shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/10(土) 10:09:38
「イーグルリーダー、チャールズ2だ、後5分ほどで、輸送機が到着する。敵影は見えない。」
「了解、護衛する。」
輸送機が来たと言う事は、既に上陸は始まっているのだろう。
そうすると、我々が失敗する訳には行かない。
全く、こんな緻密な作戦、成功する訳ないと思ったが、ここまでは上手く行っているようだった。
「イーグルリーダー、こちらアルバドロス、イーグルリーダー、こちらアルバドロス・・・」
「アルバドロス、こちらイーグルリーダー、宜しく。」
「滑走路、クリア、予定通り、左右から護衛する。グッドラック。」
全く、こんな無茶を請け負うのはどんなやつか、後で顔を拝ませてもらいたいものだった。
「二番、輸送機に向かえ。」
輸送機が見えてき、そのままアプローチに入る。
二番隊から、二機飛び出し、それに併せるように左右に展開する。
残りは更に左右に広がり、地上を警戒している。
三番隊は念のためだろう、何機かは機銃照射を加えると、上空に逃げた。
真っ直ぐに、滑走路に向かう輸送機は、そのまま脚を出し、着陸態勢に入る。
独逸軍も、何が起ころうとしているのかは気がついたようだが、二番隊の戦闘機が、順番に両脇を固めるように飛びすぎる為、何も出来ない。
ここで、砲撃でもされれば一撃なんだが、それも杞憂で終ったようだった。
輸送機は無事、滑走路の端まで辿り着き、機首を巡らし、停止した。
すぐさま後方のアプローチが開き、兵員が飛び出してくる。
本当に、やっちまいやがった。
「よーし、一番機無事着陸、二番機が来るぞ。」
地上では、早速戦闘が開始されたようだった。
遊軍となっている三番隊が、地上部隊の連絡を受け、指定された敵陣へ銃撃を加えている。
その間に、二番隊は再び、接近してきた二番機に向かい、護衛に入る。
一番機と同じように両サイドに護衛の戦闘機を従え、二番機も着陸態勢に入る。
その時、明らかに大口径の砲撃が、輸送機に向かって打ち出された。
「やばい、何処だ!」
飯田の顔に焦りが浮かぶ。
機を巡らして、砲弾が飛んできた方向を目で追う。
「いたっ!」
滑走路から離れており気がつかなかったが、高射砲陣地がそこにはあった。
ほとんど砲を水平にするようにして、次々と砲弾が飛び出している。
Falk88、散々作戦説明時から、写真まで見せられた独逸軍の高射砲である。
とにかく、この高射砲を見つけたら、最優先で潰せと言われていたのに、見逃していた。
なんで、さっき打ってこなかったんだ!
恐らく、何らかの機械的故障だったのだろうが、今は動いている。
それが問題だった。
くそっ、間に合うか。
「四番、第三、小隊全部で潰せ!」
上空待機していた、四番隊の内、三機が目標めがけて突っ込んで行く。

253shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/10(土) 10:13:35
「アアッ!」
滑走路に脚がつくかつかない所で、不幸にも二番目の輸送機に着弾する。
幸い、爆発はしなかったが、明らかに、バランスが崩れている。
「く、くそっ!」
機を操りながら、飯田は悔しそうに呻く。
脚が折れ、機体は片翼を地面に擦り付けそのまま左に旋回したかと思うと、滑走路を飛び出し、崩れ落ちる。
畜生!
幸い火は出てないが、あれでは中の兵士はどうなっている事か。
突然、機体後部の扉が跳ね飛ぶように開き、中から一両の車輌が飛び出してきた。
「戦車?」
いや、砲塔も無く、小型の兵員輸送車のようなものだった。
ユニバーサルキャリアと呼ばれる英国製の兵員輸送車だとは、飯田も知らない。
その車輌は、そのまま全速力で一号機の方へ向かってゆく。
少なくとも、車輌一台は助かったようだった。
「よーし、次が来るぞ、二番隊用意はいいか」
飯田は素早く、気持ちを切り替える。
ここで戸惑っている訳にはいかない。
既に、高射砲陣地は、四番隊の第三小隊が叩き潰していた。
三機の旋風から、小型爆弾を続けさま投げつけられて、攻撃が続けられる訳無かった。
三番目の輸送機が接近して来て、飯田は更に高度を稼ぐ。
少なくとも、あれ以外に砲撃出来るような敵は見当たらない。
海のある方を、期待を込めて捜してみるが、まだ友軍が進撃してくる気配は無い。
天気が良い為、遠方のあちこちに、黒い煙が上がっているのは、統合軍の攻撃の印だった。
「アルバドロス、3、着陸態勢に入る。」
三番目の輸送機は、二番目が被弾したのを見て、一旦大きく旋回していたが、再び滑走路に向かってきた。
「二番隊、レディ」
短い連絡が、イヤフォンから聞こえてくる。
再び輸送機が、銃撃が続いている滑走路にアプローチして来る。
二機の旋風を護衛に付け、今度は無事着陸する。
今度も兵士が後部から飛び降り、その場に散って行く。
「後、一機か・・・」
「イーグルリーダー、三番隊第三、一、白旗が揚がってます!」
「三、三、一、どこだ!」
「滑走路四時方向の建物です。」
「了解した。全機打ち方止め、警戒態勢に入れ。」
どっと疲れが押し寄せてくる。
どうやら、地上の友軍にも確認されたようで、先ほどまでの銃撃が止まり、恐る恐ると言う感じで、独逸兵が両手を上に上げ、現れだした。
完全に制空権を奪われ、一機は大破させたが、次の輸送機が着陸するのを見て、戦意を喪失したようだった。

飯田は安堵のため息を吐きながら、再び高度を取る。
海側を見ると、こちらに向かって動いているものが辛うじて見えた。
「全く、遅いよ・・・」
黎明に上陸した兵団の先遣隊であろう。
少なくとも、これで、空母に着艦しないで済む。
「よーし、全機ご苦労。我々はこのまま待機、燃料の確認忘れるな!降りれる所は出来たが、
直ぐに飛べるとは限らんからな!」

少なくとも、今はホッとしていて良いだろう。
まあ、これで統合軍は、独逸本土に航空基地を確保出来た訳だから。

254shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/17(土) 13:55:22
「まだ、連絡は取れんのか!」
独逸海軍パウル・ヴェネッカー海軍大佐は、イライラと海図を睨みつけながら叫んだ。
既に、夜は明けかけている。
昨年のスペイン内乱で受けた損傷の修理も終え、新式装備を艤装するため、北海経由でヴィルヘルムスハーフェンに向かう途中だった。
そこで、全てが始まった。
一週間前、チェコスロバキア、ズデーテン地方に対する侵攻作戦実施が決定されると同時に、海軍総司令部からは、警戒警報が発令された。
既に、キールからヴィルヘルムスハーベンに、向かう途中だったドイッチュラントにも、一旦キールに引き返すように、命令が飛んだのもその時だった。
パウルも、これは戦争になると思い、独逸海軍の前途を考えると、頭を抱えたくなった。
どう考えても現有勢力での戦争は自殺行為に近かった。
勿論、英国海軍に艦隊決戦を挑めるとは夢想もしていなかったが、通商破壊戦を実施するにしても、使える艦艇が少なすぎる。
戦艦は別格にしても、パウル自身が指揮するドイッチュラントの他、アドミラル・シューア、アドミラル・グラフ・シュペーの三隻以外に使える艦艇が無いのである。
潜水艦に至っては、漸く二桁に達しようと言うレベルでしかない。
とりあえず、巣に篭もって、暴風雨が納まるのを待つ以外、新生独逸海軍が出来る事は何も無い。
通商破壊を考えた場合、新式装備であるデゲレートが装着されていれば、かなりの事が出来るのではないかと、パウルも考えていたが、そのために、ヴィルヘルムスハーベンに行く筈だったのである。
とにかく、戦争になるかならないかの見極めがつくまで、キールに留まると言うのは、非常にまともな判断であると思ったものだった。
ところが、一週間の間に、命令が二転三転する。
キール運河経由で、至急速やかにヴィルヘルムスハーベンに行けと言われたかと思うと、翌日には取り消し命令が届けられる。
その次には、一旦バルト海に出て、待機と言う命令が発令されたかと思うと、それも翌日取り消された。
そして昨日、改めて北海経由で、ウィルスへルムハーベンへ向かえと言う命令がレーダー大将直々の発令で届けられたのだった。
しかも、レーダー大将自ら艦まで訪れての命令である。

255shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/17(土) 13:57:42
「良い艦だな、これは。」
艦長室までわざわさ尋ねてきたレーダーは、待ち受けるパウルにそう言った。
「ハイ、ありがとうございます。」
従卒がコーヒーを運んできたので、二人はソファに向かい合って腰を下ろした。
「戦争になると思うか?」
コーヒーを運んできた従卒が出て行き、扉が閉められると、レーダーは、徐に切り出した。
「えっ、いや、判りません。」
その答えに、ジロリと睨まれ、パウルは慌てて付け足す。
「しかし、戦争になると考えて行動したいと考えます。」
レーダーは、軽く頷き、コーヒーを口に運ぶ。
暫くは、何も言わないので、パウルも黙って待ち受ける。
「わが国の海軍の問題点は何だと考える。」
突然、レーダーが質問を投げ掛けてきた。
「ハッ、艦艇が少ない事ですか?」
「艦は今作っている。」
と言う事は、違うらしい。
「政府の無理解ですか。」
「ふむ、それもあるか・・・」
レーダーが考え込むような顔を見せる。
しかし、これも正解ではないようだった。
「それとも、人員の問題ですか。」
レーダーがじろりと睨むが、正解だったらしい。
「人員の何が問題なんだ。」
「まずは絶対数ですか。余りにも要員が少なすぎます。」
これは期待した答えだったようで、レーダーも頷く。
「それで、」
先を促され、パウルも慌てる。その先までは何も考えていなかった。
「次は、その質ですが、いや、質と言っても将校や兵員としての質ではなく、層の薄さです。」
レーダーが興味を示すように、頷く。
何だ?層の薄さって。
自分で答えながらも、パウルは必死に頭を巡らす。
「正面戦闘要員に人を取られてしまい、補充が利かない。」
ダメだ、これではない。
「また、補助要員が絶対的に不足している事です。」
レーダーの顔が、吾が意を得たように、頷くのを見、パウルは確信した。
補助要員が鍵だ。
そう気がつくと後は簡単だった。
「海軍として整備を進めて行く上で、キール及びヴィルヘルムスハーベンの二大軍港を持っていますが、そこでの整備体制、また補給物資の充当、艦船建造の為の工員、全てが不足しています。これが、我が独逸海軍にとり一番の問題と考えます。」
答えに満足したように、頷くレーダーの姿を見ながら、一番安堵しているのはパウル本人だった。
さあ、一体何のテストなんだこれは。
「そうすると、最初の質問に戻る事となるな。」
最初の質問?
戦争になるかと言う事か、そうすると。
パウルは独り納得する。
いや、納得した振りをしたのだった。
「理解したか。」
「ハイ、最善を尽くしたいと考えます。」

256shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/17(土) 14:00:48
あの後、出港準備は整っていた為、レーダー大将が離艦するや否や出航した。
英国首相の演説をラジオで聞いたのは、出航直後だった。
その後、周辺警戒を行いながら、慎重に海峡を通過し、北海に抜けた。
そのまま急げば夜半にはヴィルヘルムスハーベンには着くのだが、余りにもタイミングが悪い。
この情況で、夜間に味方の港とは言え近づくのは同士討ちの可能性すらある。
ある程度、速度を調整し、今に至っている訳である。
昨夜来、無線通信は不確かで、まともな通信は届かない。
しかしながら、切れ切れであるが、キールとヴィルヘルムスハーベンは空襲を受けたようだった。
パウルは、自分の判断に安堵したが、それでも、英国艦船に出くわしたときに、何をすれば良いのか、悩み続けていた。
要員や艦船が貴重だと言うならば、さっさとユーターンして、バルト海奥に逃げてしまえと取れる。
ところが、レーダー大将の謎賭けはそうではない。
艦よりも、港とその付帯設備、要員が大事だと取れる。
と言う事は、ドイッチュランド一隻が助かるだけでは意味が無い。
何か、何か裏がある筈である。
判らない。
それだけに、自分の行動方針が決められない。
くそっ、はっきりと言ってくれれば良いものを。
そこで、ハッとパウルは気がついた。
はっきりと言えない。
これが鍵だ!
「今、何時だ?」
吹っ切れたような顔で、パウルは航海士に聞く。
「ハッ、06:58です。」
「よし、巡航速度でヴィルヘルムスハーベンへ向かうぞ。」
艦の速度がやや上がり、落ち着いた顔のパウルに艦橋の将兵は少し勇気付けられたように、動き始める。
「前方に、艦影」
「後方から、艦が接近中」
ほぼ同時に、見張りの声が響く。
ほら、現れた。
独り、パウルだけが、自分の謎解きが正しい事の確証を得られたように、微笑むのだった。

257shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/17(土) 14:04:22
「レナウン、レパルス双方から、視認報告が上がってきました。」
「時間は?」
「両方とも7時丁度です。」
フォーブスはそれを聞いて、ニヤリと笑みを浮かべた。
「装甲艦ドイチュラントで間違いないようです。」
さて、どう料理したものか。
戦力は十分過ぎる程ある。
敵に話が通っている可能性も無い訳では無いので、威嚇射撃から始めるか。
「レナウン、レパルスに連絡。レナウンは敵後方、レパルスは敵前方に、それぞれ一発だけ主砲発射。」

「前方、レナウン型戦艦、更にもう一隻、艦種不明」
「後方、レナウン型戦艦、他一隻、不明戦艦」
ふむ、両方とも同じ陣容か、完全に待ち伏せされているな。
パウルは独り納得する。
ここまで綺麗に待ち伏せ出来ている以上、情報が漏れているとしか考えられない。
やはり、レーダー大将に何か話しが通っているに違いない。
となると、どうする。
パウルは頭を悩ます。
かと言って、簡単に降伏する訳にもいかないし、大体それなら、レーダー大将の指示があのような曖昧なものになる訳ない。
何か理由があるはずだが、何をすれば良いのか。
再びパウルは悩み始めた。
「敵艦、発砲!」
前方からの、発射炎が浮かび上がる。
一発だけと言う事は、威嚇射撃か。
声はダブっていた以上、後方の艦からも射撃があった模様だった。
パウルは、微動だにせず、着弾を待ち受ける。
不意に、前方一キロ程度に大きな水しぶきがあがった。
「後方の着弾点との距離しらせろ!」
「後方一キロです!」
艦橋内にほおっと言う声が上がる。
それはそうである、両者の距離がほぼ、同一と言う事は、彼らはそこを狙って打ってきたと言う事である。
「怖気づくな、威嚇射撃だ!」
「右舷、新たな艦、ね、ネルソン級戦艦です!」
見張り員の声は悲鳴に近かった。
ふん、チェックメイトか、まあ、ネルソン提督ならば、海軍軍人としても恥ずかしくはないな。
「ネルソンより発光信号です。停船せよとの事です。」
「機関停止、停船する。」
艦橋にホッとした雰囲気が流れる。
ここまで圧倒的な戦力を見せ付けられ、それと戦うと言うのは自殺行為だと言うのは全員が理解していた。
しかしながら、艦長の決断一つでその自殺行為も起こりうるのが軍隊であるのだから、当然と言えば当然だった。
同時に、パウルは部下の間に同情の気配もしっかりと気がついていた。
開戦初頭に、戦艦を売り渡した艦長、そう思われているのが判るだけに、なんとも言いがたい。
違う、そうじゃないと大声で叫びたいのをじっと我慢する。
とは言え、確約がある話ではないだけに、冷たい汗が背中に広がる。

258shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/17(土) 14:16:04
「ふむ、止まったか。」
フォーブスは残念そうにつぶやく。
これで逃走でもしてくれたら、新しい射撃管制システムのテストに丁度良かったのだが、仕方ない。
「ムラサメに連絡、後は宜しく、以上。」
フォーブスはつまらなそうに、机上の地図を眺めるのだった。

後方に控えていた、駆逐艦が一隻、前に飛び出して行く。
30ノットの速度で、前方のドイチュラントに向かうようだった。
「独逸装甲艦に発光信号、協力に感謝する。これより貴艦に向かう。だ」
さて、ここまでは何とか辿り着けたな。
さてはて、上手く行くかどうか。
梅津は、駆逐艦の艦橋で、双眼鏡を構えながら、独り呟くのだった。

ジリジリとした待ち時間が過ぎ、漸く近づいて来た駆逐艦から、カッターが下ろされ、こちらに向かってくる。
既に、パウルの命令で、全員が礼服に着替えている。
全員が怪訝な顔をしたが、彼は降伏勧告の為に、わざわざ駆逐艦を近づけて人を遣すとは思っていなかった。
何かある以上、それ相応の対応をして、こちらの気概を見せ付ける必要がある。
カッターが横付けされ、代表らしき東洋人を先頭に数名の?
うん、何で英国人じゃないんだ。
パウルは怪訝に重いながらも、それでも登舷礼の合図を出す。
笛が鳴らされ、一列に並んだ乗組員が一斉に敬礼する中、その人物が甲板に現れた。
陸軍軍人。
東洋人でしかも陸軍、多分大日本帝国だろうが、どうしてこんな所に現れるのだ。
それでも、パウルは一歩前に出て、歓迎の言葉を述べる。
「日英統合軍、欧州派遣部隊、梅津少将です。」
何と、提督じゃないか。
パウルは顔が引きつるのを感じたが、それでも何とか敬礼を維持した。
「独逸海軍、ドイチュラント艦長、パウル・ヴェネッカー海軍大佐です。乗艦を許可します。」
副長以下を紹介しながら、相手の紹介も受けてい行く。
英国人は一名だけ、ロバート・アッカート少将、彼も陸軍軍人である。
二名の護衛がついており、それ以外のトミオカ大佐のみが唯一の海軍将校だった。
一体、何か起こっているのか。
パウルは混乱しながらも、彼らを艦長室に招き入れた。

259shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/17(土) 14:18:31
コーヒーが出され、人心地つくと、いよいよ本題である。
「さて、一体何が起こっているのですか。」
ここで我慢出来たら、俺も大人なのだが、流石に最早耐えられない。
「ご存じない?」
「わが国の総統が、チェコスロバキア、ズデーテン地方へ侵攻した。
チェンバレン首相が、独逸に対して宣戦布告した。
キール、ヴィルヘルムスハーベンに攻撃が行われた。
以上が小官の知っている事実です。
きっと今頃は、わが国の領土に英仏軍がなだれ込んでいるのでしょう。」
「うーん、少し違いますね。チェンバレン首相は独逸に宣戦布告してませんよ。NSDAP(国家社会主義ドイツ労働者党)に対して制裁を加えると表明しただけです。」
ロバートが答える。
「同じじゃないですか。」
「貴方も、同じと考えているのですか?」
梅津の言葉にパウルはぐっと口を閉ざす。
確かに、あいつらのせいで、どれ程海軍が苦労しているかと思うと、腹が立つ。
全く、新造艦を作るのに、第一次大戦の廃船から部品を回収するまでしなきゃいけないのは誰のせいなのか。
「いや、国家社会主義ドイツ労働者党の党首が、独逸帝国の総統を務めている以上、同じ事です。」
パウルは辛うじてそう答えるのが精一杯だった。
畜生、なんで俺がこんな話をしなきゃいけないんだ。
俺は軍人だぞ、外交官じゃない。
「そうかもしれませんね。いや、そう取られても仕方ないですね。それが公正な選挙で選ばれた以上、独逸国民にとって、そう捉えるのは当然でしょう。」
おいおい、そこで頷いて良いのか。
逆にパウルの方が心配になる。
「しかし、独逸の法体系に不備があるとしたら、そして、その不備の為に問題が発生しているとしたらどうされますか。」
ロバーツがそう突っ込んでくる。
こいつら、絶対ここに来る前に散々教え込まれている。
それに対して、俺はレーダー大将のいい加減な指示しか無い。
パウルは暗澹たる気持ちに陥るのだった。

260shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/17(土) 14:20:36
「独逸の国民が選んだ政権与党ですから、その不備を外国から指摘するのは内政干渉に当たります。これは我々も理解しています。
しかしながら、その被害が、国外に及んだ時は、どうでしょう。」
ロバーツはじっとパウロの目を見つめながら続ける。
「国家間の紛争解決と言う話ならば、外交から戦争まで様々な対応方法が考えられます。ですが、今回のNSDAPの件はこれに当たりません。
独逸国民が選んだヒトラー総統の政権与党が、チェコスロバキアと言う他国で、不当な活動を実施している。
この情況に対して独逸国内では裁く事が出来ない。かと言って、国家間の戦争を引き起こす事態とは考えられない。
そこで、我々は、国家と言う枠組みを超えた組織を形成し、これに対応しようとしているのです。」
一気にまくし立てたロバーツは、コーヒーを一口口に運ぶ。
顔をしかめる点は如何にもきざな英国人らしい。
いや、そんな事思っている場合じゃない。
「そ、それは・・・詭弁だ!」
辛うじて、パウロは言い返せた。
「そうですよ、で、それが何か?」
平然と嘯く、ロバーツを見ているとむらむらと悪意が湧き上がってくる。
こいつ、一発殴りつけてやろうか。
「理由は、後でもどうにでもなる。事実を見て欲しい。」
梅津が絶妙のタイミングで口を挟んだ。
本当に、この人は普通の戦車師団を任されるべき立場の人なのか。
いや、これが普通の英国人だとしたら、本当にそら恐ろしい。
梅津は気を取り直して、パウロに声を掛ける。

261shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/17(土) 14:23:11
「各国は、明らかに現時点での我々統合軍の活動を戦争とみなすでしょう。しかしながら、我々はこれを制裁と呼び、戦争とは認めない。
この先、何年も法律家達が議論し続けようが、英国及び今回の制裁に参加した国家は、決して認めない。
この事実を考えて欲しい。」
何を言っているのだ、この東洋人は。
パウロは混乱の中にいた。
戦争と制裁などと言う言葉遊びに何の意味があると言うのか。
どの道、我々軍人は、戦って死んで行く。
「国家間の戦争ならば、勝者が敗者に対して、見返りを求める。紛争原因となった土地、条約、賠償金の請求、その他諸々の活動が開始される。」
パウロは真剣に梅津の言葉に耳を傾ける。
「ところが、我々の想定している「制裁」では、このような活動は一切発生しない。賠償金も無ければ、土地や条約の締結等の事象は起こしようが無い。
ただ、目的である国家社会主義ドイツ労働者党を貴国から排除すれば全て終る。」
こいつ、本気なのか。
いや、本気らしい。
東洋人の表情は判り難いが、少なくとも嘘をついているようには見えない。
「勿論、見返りはありますよ。わが国においては、欧州における脅威の排除、そして、こちらの梅津さんのお国には、強力な同盟国の確保と言う切実な見返りがね。まあ、これはわが国にも利益を齎しますが。」
「ま、待ってくれ。」
パウロは、混乱している頭を整理するように、下を向く。
じゃ、何か、独逸と戦争しても賠償金も国土の割譲も要求しない?
しかも、その条件が英・日との同盟国化?
独逸にとって、願ったり叶ったりの条件じゃないか。
仏蘭西は、英国の同盟国であり、結果として独逸は西部での軋轢を気にする必要が無くなる。
海軍は、世界三大海軍の内、二つまで見方に出来れば、怖いものは無い。
しかもヒトラー叔父さんにはお引取り願える。
これで、NASDAPの横槍が入ることは無い。
しかし、しかし、そんな、虫が良すぎる話なんて。
パウルはがばっと顔を上げた。

262shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/17(土) 14:25:35
「ソ連・・・」
二人が、感心したようにお互いを見やり頷いている。
大日本帝国は、アジアの果てで、ソビエトと対峙している。
そして、欧州では、ポーランドが間にあるとは言え、独逸がソ連と対峙すれば、大日本帝国に対するソ連の圧力は弱まる。
二つの海洋国家と、一つの大陸国家、いや、中国も含めれば二つか、完璧なソ連包囲網が形成できる。
パウルはそこまで考え、唖然とした顔で二人を交互に見つめた。
「ヒトラー総統も、同なじようなシナリオを描いてられたようです。しかしながら、NSDAP、国家社会主義ドイツ労働者党の党首では、駄目です。オーストリアを併合した結果、それは決定的になりました。」
ロバーツの言葉に、パウルは怪訝な顔をする。
一体、オーストリアで何があったのか。
「ご存じない?NSDAPは、オーストリアの財閥を殆ど全て党の配下に納めたのですよ。結果、欧州の資本家は、ロスチャイルド家も含め全て反NSDAP陣営になりました。まあ、この情況で資本主義国家たる英国や大日本が、ヒトラー総統のシナリオに付き合うのは不可能となりましたね。」
パウルは曖昧な表情で頷く。
彼らならやりかねない、いや、NSDAPの嫌がらせを受けている海軍軍人としては、絶対やってると確信できてしまう。
しかし、しかし、どうして。
「どうして、そのような話を一介の海軍軍人たる、独逸海軍パウル・ヴェネッカー海軍大佐にお話になられるのですか。」

263shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/17(土) 14:27:03
パウルも覚悟を決めていた。
その証拠に話し方から表情も変わっている。
質問の形式をとっいてるが、相手も判っていよう。
この二人、いや英日統合軍とやらが、自分に何をさせたいのか聞いているのを。

「それは、貴方が、第一次大戦後最初に作られた戦艦、装甲艦ドイチュラントの艦長であり、大佐だからです。」
この梅津と言う少将は、また回りくどい話をする気なのか。
パウルは自分がここまで全面的に同意しているのが判らないのかと少し怒りを覚える。
「いえ、全ての最初に行動を起こすのは、将官では無理があります。将官が指示を出した場合、それは単なるクーデターにしか過ぎません。」
パウルの表情を読むように、梅津が急いで説明した。
「それに、ドイチュラントと言う独逸国民全てが馴染んでいる戦艦がその最初となる事は、宣伝効果は格段に高いですよ。」
ロバーツも慌てて付け足す。
あっ、なんだ勘違いだ。ちゃんと理解されている。
パウルは居住まいを但し、自分の間違いを謝るように、軽く頭を下げた。
「それで、小官は、何をすれば宜しいのか。」
「ドイチュラントの独逸海軍からの離脱と、統合軍への参入を宣言して頂きたい。」
「そして、ヴィルヘルムスハーベンへ向かい、リッチェンス提督を説得して頂きたい。」
パウルは二人の言葉に、唖然となるのだった。


「それで、上手く言ったのだな。」
「ハイ、パウル海軍大佐は、速やかに行動に移るとの事です。」
ドイチュラントを離船し、ロバーツは、ネルソンに乗艦していた。
既に、ドイチュラントは速度を上げて、視界から消えようとしている。
「ヴィルヘルムハーベンは、取れそうか?」
「7割の確立ですか、リッチェンス提督があそこに来ているとは予想してませんでしたから。」
「ふん、何でも思う通りには行かないのが、海軍だろう。おっと、君は陸軍出身だったな。」
フォーブスは、揶揄するように、彼の顔を見つめる。
「ええまあ、まさかこんな船の上で仕事をするとは思いませんでしたよ。」
「何を言っとる。大英帝国は、海軍国だぞ。例え陸軍将官と言えども、艦に慣れなくてどうする。」
「はあ、そうですね。」
心、ここにあらずと言う表情で、返事を返す、ロバーツに、フォーブスが怪訝そうな顔を浮かべる。
「気になるか?」
「そりゃ、勿論です。短い時間ですが、パウロ大佐は、中々の人物ですから。死なすのは惜しい。」
そう言えば、ウメヅは、パウロの事を最初から買ってたが、その訳はなんだろう。
「ふん、所詮我々は軍人だよ。戦場で死ねれば満足だ。それにな、」
フォーブスはニヤリと笑みを浮かべ、内緒の話をするように、彼に語りかけてくる。
「上手く行かなければ、我々は丁度射撃訓練に適当な装甲艦三隻を手に入れるだけじゃないか。」
本心から楽しそうに、手を合わす、フォーブス本国艦隊司令官を見て、ロバーツは、ひたすらパウロの成功を祈るのだった。

264shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/24(土) 10:09:47
キャタピラ付きの車輌が、高速道路のインターチェンジを普通の規則通りに登って行くのを見るのは異様としか言い様が無かった。
広々とした高速道路の合流地点に向かって、四両の戦車が進んで行く。
後方には、更に多数の戦車が並び、辺りには偵察用であろうか、小型のジープが走り回っていた。
戦車は本線に入ると、暫く進み、左側の路肩に寄り、停車する。
先頭車の砲塔に取り付けられたハッチが開かれ、暫くして男が顔を出した。
六車線の馬鹿でかい道路には、他の車は時折友軍の軽車両が走り抜けるくらいで、他の車輌は見えない。
男は双眼鏡を取り出し、進行方向の道路を見つめる。
長い直線は、かなり先で緩やかにカープを描き消えて行く。
両側は緩やかな丘陵地帯が続き、小麦畑だろうか、畑が広がっている。
天候は快晴、時刻はまだ午前11時、晩秋の日差しが心地よい位である。
「隊長」
通話用のヘッドホンに部下の声が響く。
「何だ?」
「四時方向から、友軍機が接近します。」
「了解」
男は、手にした双眼鏡をそちらにかざし、暫く動かす。
いた。
キラリと光る数機の機影は、疾風、いやスピットファイヤか、とにかく友軍である。
「通信士、友軍機は、どちらだ?」
「ええっと、暫くお待ち下さい。」
「疾風です。兵団航空部です。」
待つほど無く、返事が返ってくる。
「なんだ、繋げるか?」
「ハイ、繋ぎます。符丁は、ニュートンです。」
「上空の、ニュートン、こちらはシーザー1-1、応答願います。」
兵団での今日の符丁は、空を飛ぶ連中が、科学者・哲学者、陸がローマ皇帝である。
全く、オクタビアヌスなんて符号を与えられなくて良かった。
舌を噛みそうである。
「こちらはニュートン1-2-1、シーザー1-1、良く聞こえます。」
ニュートンは、航空部の第一大隊、第二中隊、第一小隊所属の航空機である。
すると、知っている人物である可能性がある。
「秘話通信は可能か?」
「準備出来ました。」
「こちらも大丈夫です。」
上空と、部下の通信士から同時に返事が返ってくる。
「島田少佐ですか、こちらは山田中尉です。ご無沙汰しております。」
佐々木は、思わず笑みを浮かべてしまう。
訓練中に、何度か中隊までやってきては、戦車との共同攻撃について聞いてきた、研究熱心なやつだ。
わざわざ戦車に乗っかって、どのあたりが狙いどころかまで確認して行く奇妙なやつだったが、少なくとも気心は知れている。

265shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/24(土) 10:11:19
「山田か、元気にしてたか。」
「ハイ、少佐もお変わりないですか?」
全く、戦場で交わす会話じゃないな。
この辺りの友軍の多くが聞き耳立てているだろうから、ほどほどにしとかないと。
「情況を教えて欲しい。」
「ハイ、前方10キロの所で、敵が集結を始めています。何度か航空攻撃を加えていますので、集結度合いは低いですが、それでも陣地らしきものが出来始めています。」
「了解した。戦車はいないと聞いたが、間違いないか。」
わざわざ増強中隊が出張ってきたのも、それが理由だからだが、実際に上空から観察した報告を得られるならば、その方がありがたい。
「ハイ、戦車は見当たりません。付近に集まって来た車輌に関しては、上空から潰せるものは、ほぼ潰しております。野戦陣地と思われますが、事前に掩蔽されたものがあるかどうかは、航空からでは判断できません。」
的確な判断だろう。掩蔽されている可能性もあるために、野戦陣地攻撃に、戦車中隊11両が借り出されている。
「他に、何か気がついた点はあるか。」
「いえ、特にこの敵に関しては、以上です。」
と言う事は、他もあるのかな。
「了解した。その他の敵情は何かあるか。」
「ハイ、更に後方5キロの地点で動きが見られます。これは、確定していないので、まだ確認中ですが、小職は、戦車ではないかと思うのです。」
「何故、そう思う?」
「前に少佐が言われた条件に合致しています。そこから森が広がっており、高速道路はその中央を横切っております。ですが、後は勘としか言い様が無いです。上空を飛ぶ時に、何とも言えない気配ですか、そのようなものを感じたとしか言えません。」
ほう、こいつ伊達に何度も中隊に質問に来ていた訳でもないんだ。
「判った、注意しよう。報告感謝する。」
「言え、惑わしてしまわなければ良いのですか。」
「なに、何も無くても、警戒は必要だ、心配はするな。ところで、全体情況で何か知っている事はあるか?」
「ハイ、ノルドホルツの航空基地が10時過ぎから稼動を始めました。我々もこれからそちらに向かいます。」
「へえ、それは凄いじゃないか。」
第三旅団が確保に向かう事は知らされていたし、八時に基地を占領したというのは、30分毎の戦況報告で聞いていた。
しかし、稼動が10時過ぎと言うのは、素晴らしい僥倖である。
「ええ、幸い備蓄燃料が無傷で確保できたと言う事です。あちらさんも、かなり混乱していたみたいで、誰もその破壊を指示していなかったみたいですね。本当に幸運です。燃料のオクタン価は少し下がるようですが、航空支援に関しては問題はありません。」
「良かった、助かる。ところで、ヴィルヘルムスハーベンの方は何か変化があるのか。」
「いえ、こちらは何も動きが無いようです。、今の所異様な程静まりかえっているとの事です。」
いくら無線妨害が行われているとは言え、ノルドホルツを占領したと言う情報はヴィルヘルムスハーベンに伝わっていないとは思えない。
現在ハンブルグに向かって侵攻している第一兵団に対して、横合いからの急襲を考えると、ここの奪還は独逸軍にとって急務の筈だ。
まあ、それ故第三旅団そのものがあちらに向かった訳だが。
まだ混乱しているのか。
それならば、自分達の前に立ち塞がろうとしている独逸軍は何なんだ。
島田は頭を振り、取り合えず正面の問題だけに意識を集中しようとした。
所詮自分は、前線指揮官であり、本部幕僚ではない。
「ありがとう、貴官の協力に感謝する。以上だ。」
「いえ、どう致しまして。少佐の武運を祈ります。通信終り。」
上空で、旋回していた戦闘機が、翼を振り南へ向かって行く。
直ぐに次の支援戦闘機が来るだろう。

266shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/24(土) 10:13:14
「通信士、全体通信に切り替えてくれ。」
「準備出来ました。」
「よーし、話は聞いたな。10キロ先に敵の応急陣地、その更に五キロ向こうに、お楽しみの戦車部隊らしきものだ!少し狭いが、中隊突撃隊形にて突っ込むぞ。」
島田はそこで、一旦間を置いた。
「前方の応急陣地を抜いたら、後は後続に任せて、2キロ前進、そこで再度体制を整え、警戒地点を急襲する。第一小隊、前へ!」
島田が見守る中、一斉にややかん高いエンジン音を響かせ、後ろの三台が前に出る。
その後ろから、第二小隊が対向車線へと踏み出し、やや速度を上げて、第一小隊と並ぶ。
三角形を成した第一、第二を先頭に、第三小隊及び中隊本部車2両が横一列に並び、一応中隊突撃体制を構築する。装甲の施された兵員輸送車両が三台、やや下がり気味ながら、五両の間を占める。
その後ろに、兵員輸送車が続き陣形が完成した。
道路上なので、お互いの車間距離が異様に狭いがこれは仕方ない。
「前車、前へ。」
増強戦車中隊は轟音を立てて動き出した。

「全車一旦、停止!」
島田の号令で、部隊は停止する。
時速30キロで、12分、六キロ進んだ計算になる。
「全車最終点検、異常は無いか?」
直ぐに、全車異常なしとの報告が上がってくる。
よし、幸先は良い。
戦車はこう見えてもデリケートなものだが、幸いまだ故障らしい故障は発生していない。
「ここからは、全速で、敵陣まで突っ込む、散会したいが、地雷の可能性もあるので、道路から外れるな!弾種は榴弾、各自任意に発砲、全車、前進!」
一斉にエンジン音を高めた車輌が動き始める。
島田は全車が動き出したかどうか、素早く四方を確認する。
六車線の高速道路も、戦車が11両、兵員輸送車等も含めると、30両近い車輌が、徐々に速度を上げて走り出すのは、圧巻である。

267shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/24(土) 10:15:25
そろそろいいな。
「よーし、全車全速、突っ込むぞ!」
上部ハッチから身を乗り出した身体が、ぐっと後ろに引かれるほどの加速で、戦車が飛び出す。
キャタピラが、コンクリートを擦る音に、ちらっと道路が無茶苦茶になるだろうなと思うが、知った事じゃない。
前方に、敵陣らしいものが見えてくる。
双眼鏡を構えると、土嚢を積んだ簡易陣地で、独逸兵が走り回っている。
閃光を目にして、島田は慌てて車内に身体を滑り込ませ、ハッチを閉じる。
敵も馬鹿じゃない。
突然の戦車の突進に、慌てていても、中には素早く対応するものもいるものである。
カーンと言う音が、車内の轟音を通しても、はっきりと聞き取れた。
敵の発砲が、誰かに当たったようである。
しかし、島田はニヤリと笑みを浮かべる。
やっぱり貫通は出来ない。
37ミリ対戦車砲では貫通できないように作ってあるとは聞いていたが、それでも誰も試したいとは思っていなかった。
「第一小隊、敵陣に突入します。」
「全員、衝撃に備えろ!」
土嚢の山を乗り越えるようにして、戦車が突入する。
第一と、第三小隊が走り抜けながら左右に発砲しているのが判る。
この情況では、当てる必要も無いので、誰も停止しようとはしない。
ガクンとつんのめるような衝撃が襲うが、それでもここまで走ってきた慣性が勝ったようだった。
島田の指揮車も速度を落とすことなく、駆け抜けて行く。
「第一小隊、左に旋回、第二小隊は右、本部及び第三は、そのまま旋回し停止、随時敵陣攻撃!」
後方に飛び出した戦車部隊が、左右に展開し、後ろから敵陣を叩き始める。
中央に飛び出した、兵員輸送車からも、兵士が飛び出し、急いで散会して行く。
「おーし、打ち方止め!」
歩兵にも聞こえるように、外部スピーカーもつなぐ。
時間にして10分も掛からなかった。
独逸軍の陣地は壊滅しており、数名の歩兵が両手を上げて降伏して来ていた。

268shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/24(土) 10:18:05
「報告します。第一小隊、二号車、第三小隊、一号車、三号車、計三両が駄目ですね。」
「ふむ、小隊が一個だめになったか。やっぱ無茶かなあ。」
11両の戦車中隊が、1回の戦闘で8両に減少、被害率3割近い。
中隊戦闘としては、被害が大きすぎるが、その代わり、敵の陣地を30分で抜いた。
しかも、戦車は潰れたが、味方の人的被害は殆ど無い。
スピードと質量を直接陣地にぶつけた訳であるが、戦法として認められるのかどうか。
難しいところだなあ。
このまま、五キロ先の森に強行突入するつもりだったが、本隊を待った方が良さそうである。
「よし、警戒態勢を構築し、本隊の到着まで待機。それと、前田大尉はどこか?」
あちらにいらっしゃいますと、方向を聞いて、戦車から降りる。
ポケットからタバコを取り出し、口に咥え、火をつける。
ふうっと吐き出すと、心地よい疲労が全身に広がる。
コンクリート舗装の道の両側に構築された陣地の方まで歩いて行くと、独逸軍の対戦車砲の残骸の所に、前田大尉はいた。
「前田大尉!」
呼びかける島田に気がつき、作業をしている部下に声を掛け、小走りにこちらに走ってくる。
「少佐、何か?」
「ああ、ここで本隊の到着を待つ。その間に偵察班を編成して、前方の森を見ておきたい。何名か選んで送り出してくれ。」
「了解しました。少佐?」
島田は話しながらも、大尉が走り寄ってくる前に行っていた作業を見つめていた。
「うん、ああっ、何やってるんだ?」
「はあ、あそこにあった、37ミリ、壊れてないみたいなんですよ。で、うちの支援火器の充実に役立って貰おうと。」
島田は、ニヤリと笑う。
「まあ、ほどほどにしとけよ、部隊の移動が遅れるようだと、破棄させるからな。」
「りょーかい。」
まあ、あれは、我が軍の戦車には役に立たなかったが、多分敵の戦車には有効だろう。
全く、歩兵ってやつは・・・
戦車部隊に同行している意味が判ってるのかなあと思いながらも、自分の戦車に戻って行くのだった。

269shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/24(土) 10:19:29
「中隊長!中隊長!」
「おーい、こっちだ。」
上から声を掛けられ、島田は戦車の下から顔を出した。
時間があったので、自分の戦車の整備を手伝っていたのだった。
「本隊が来ました。」
「おう、そうか、今行く。」
手の油をぼろ切れで拭い、島田は道路に向かった。
道路の向こうから、何両もの戦車が進んでくるのが見える。
大隊長の事だから、先頭に立っているだろうと思って見ていると、案の定、一番前の戦車だった。
砲塔のハッチから身を乗り出し、まるで閲覧式の戦車兵そのものである。
全く、狙撃でもされたら一発なんだがなあ。
ところが、不思議と危険な局面では、あんな真似はしていない。
お蔭で、大隊長がああしている時は、安全だと言うへんな神話らしいものが出来上がっている始末である。
大隊長が、こちらを見つけたようで、島田は慌てて額に手をやった。
大隊長も、答礼を返すが、悔しいほどその姿が様になっている。
全く、騎兵将校あがりの貴族様と言うのは、何をやっても様になるようだった。
いやそうでもないか、あの人が特別なのかもしれない。
まあ、英語、フランス語、独逸語がペラペラで、オリンピックの乗馬で金メダルを取るなんて、普通の人間に出来る事では無い。
全く、パロン西と言われるのも当然なのかもしれない。

270shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/24(土) 10:22:49
「で、島田、どうしてここで止まっている。」
戦車から降り立ち、待ち受けていた島田の側まで来ると、第一兵団第一旅団付、増強戦車大隊長、西竹一大佐は、直ぐに聞いてきた。
「ハイ、戦術の具申をさせて頂きたく、お待ちしておりました。」
西大佐の繭が上に上がる。
「以前申し上げさせて頂きました、戦車及び機動歩兵による突撃戦術を今回ここに陣を構築していた独逸軍に対して試したところ、存外に効果がありました。」
「ああ、聞いている。30分で突破したと言う事だな。良くやった。」
「しかしながら、相応の被害も発生しております。」
「何両やられた?」
「ハッ、3両です。1両は修理可能でしたが。」
「そうか、中隊11両に対して3両は大きいな。」
「はあ、幸い人的被害は無かったのですが、この調子で続けると、同様の陣地に対しては、後一回が精一杯です。」
「それと、この先五キロ程の地点に、独逸軍の機甲部隊、それ程大きなものではなさそうなのですが、少なくとも戦車を主体にした中隊規模の部隊が、潜んでいます。」
「そうか、判った。」
西大佐の頭の中で、どのように展開するか、検討しているのだろう様子が伺える。
「我々は、増強大隊である以上、その戦力をすり潰す覚悟があれば、いけそうだな。」
「ハイ、問題はないかと。」
流石に、頭の回転が速い上官は助かる。
「よし、第二中隊を付ける。おい、長井少佐を呼んで来い。」
西大佐は素早く側の従兵に声を掛ける。
「しかし、突撃戦術、まあ突撃を戦術と言う時点で、おかしいな。とにかく、非常に危険な戦法ではある点は、十分に留意しろよ。」
「ええ、それは当然だと。あくまでも今回のような急造陣地に対する戦法です。」
西は尚も話し続けようとする島田を遮るように、手を振る。
「いや、貴様の心配をしているのではない。これが戦訓として蓄積される事を心配しているのだ。」
ああ、なるほど。それは理解出来る。
島田自身も、結構目茶苦茶な方法だと思っている。
今回のように、戦略的な奇襲に近い情況で、敵が十分な防備体制が整っていないからこそ有効なのであって、「陣地攻略には、戦車による突撃戦術が有効である」等と、評価されたら目も当てられない。
第一、前面に地雷原でも作られただけでおしまいである。
「まあ、戦車による一点突破は、元々旧陸軍の浸透突破戦術の応用とも言えないことはないが、その辺りは、十分留意して報告書をまとめろよ。」
「ハイ、了解しました。」
こりゃ、下手に死ぬ訳には行かない。
戦闘中に死亡でもすれば、確実に戦車による突撃戦術を編み出した軍神なんかに祭り上げられ、後の連中が苦労しそうだった。

長井少佐がやってきて、簡単な打ち合わせが行われ、島田は自らの中隊の所へと戻る。
小隊指揮官を集め、作戦を指示すると、すぐさま発進である。
大隊が前方の森に対して攻撃準備を整えている間に、島田が指揮する事となった2小隊は、20両の戦車及び随伴歩兵を伴い、高速道路を外れていった。

271shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/24(土) 10:27:25
「くそっ、増援部隊か。」
島田達の潰した独逸軍の陣地から三キロ程離れた少し小高い地点に腹ばいになって、双眼鏡を眺めていた男が毒づく。
双眼鏡の向こうでは、味方の陣地を潰した英国軍が更に増強されつつあった。
ここからでは全体が見渡せる訳ではないが、それでも二桁の戦車やそれに伴う支援車輌が走り回っているのが見える。
男は、一両の戦車に焦点を合わせて、その細部を更に見つめた。
主砲はそれ程大きなものではない、37ミリ程度であろうが、砲身は味方の対戦車砲より長い。
全体にコンパクトにまとまっているが、明らかに、友軍の試作三号戦車より強力そうな戦車である。
何時の間にあんな戦車開発してたのだ、英軍は。
男は先程からの疑問に再び戻ってしまう。
少なくともOKVから出されている列強兵備概況では一切触れられていなかった。
英国の戦車開発は、巡航戦車MarkⅡで開発が停滞していると言う話はなんだったんだ。
それに支援車輌の量と質は、グーデリアン閣下が目指していた装甲部隊そのものじゃないか。
強力な機動力の持った戦車と、それに随伴できる機動歩兵の組み合わせによる機動戦術。
くそっ、一体何なんだあいつらは。
男は、腹ばいのままゆっくりと後ろに下がり、敵陣から見えなくなって初めて立ち上がる。
足早に、背後に隠れている数台の車の所まで戻ると、偵察を続けるように部下に指示し、車に乗り込んだ。
「閣下、僭越ですが、あまり危険な事は。」
「判っている。直ぐに戻るぞ。」
助手席に座る参謀らしい将校の言葉を手で制し、言い放った。
車は猛烈な速度で走り出し、わき道を通りぬけ森を目指して行く。
くそっ、全部台無しじゃないか。
早朝よりの英軍の策動に、彼は可能な限りの部隊をかき集め対応しようとしていた。
無線が通じない為、部隊の集結一つ取っても、単なる伝令では兵が動かず、結局上級将校をいちいち派遣せざるを得なかった。
お蔭で、英軍の上陸作戦に気がついた時は、既にかなりの部隊が上陸を済ましており、水際での防衛は最早不可能だった。
それでも彼は、この地点に、集めた部隊を集結し、前進防御拠点の構築と、後方の森にかなりの部隊を集結させる事までやってのけたのだった。
訓練用の一号戦車や、試作戦車まで動員し、何とか装甲大隊程度の戦力を構築した。
これを混乱の続く国防軍の中で、たった三時間でやり遂げたのだから、十分自慢できる筈だった。
英軍が、前方の仮設陣地に拘泥している隙に、森に隠した装甲大隊を両翼から突入させ、少なくともここで、敵の進撃を止めてやる積りで準備した筈だった。
敵航空機による偵察も利用し、前方の陣地が精一杯のものであるとの印象操作も上手く行ったと考えていたのに、それが何だ、たった三十分で、我が軍の防御陣地を抜くなんて。

272shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/24(土) 10:28:32
森の中に設営した臨時司令部らしいもので、突入のタイミングを図っていた筈が、あっという間の陣地の崩壊に、我を疑った。
結局、部下の将校からの報告に、信じられない思いで、危険を冒して自分で前線まで見に来る羽目になっていた。
この目で実際に見た英軍は、はっきり言って、彼が予想していた敵とは全く別物だった。
我が軍が構築中の装甲部隊の主力となる三号戦車よりも強力な火力、そして歩兵支援戦車である四号戦車よりも軽快な走行性能。
四号並、いやあるいはそれ以上の火力性能と、三号戦車並みの快足性を持つ戦車が主体の装甲部隊。
恐らく、現在チェコに展開中のグーデリアン閣下の第16装甲軍団よりも、火力、機動力も上であろう。
そして、第16装甲軍団よりも強力な戦力は、独逸帝国には無い。
支援砲兵と強力な陣地、トーチカ等を構築すれば、膠着に持ち込むのも不可能ではないだろうが、ハンブルグ郊外のここにはそんなもの無い。
いや、それどころか、東プロセインのポーランド国境付近、あるいはルール地方の仏蘭西国境あたりに配備されているだけに過ぎず、残りは全てズデーテン地方にある。
とてもじゃないが、それらを再び内戦防御に配備し直すのは時間が足りないし、自分の権限では不可能だ。
その上、上空には英国の戦闘機が飛びまわり、独逸空軍は、端から叩き落されている。
少なくとも、朝から何度か寄せられている報告では、独逸空軍も壊滅的な打撃を浴びているらしかった。
そして、自分が指揮する寄せ集めの装甲大隊が撃破されれば、ハンブルグへの突入を防ぐ戦力はまるでないに等しい。
いや、一応部隊はある程度いるが、それらにこの強力な英軍を撃破出来る戦力は無い。
ハンブルグは間違いなく占領される。
そして、そこから250キロ先にある首都ベルリンまでは、ここにあるようなアウトバーンが真っ直ぐに伸びている。
男は暗澹たる思いに駆られるのだった。

273shin ◆QzrHPBAK6k:2007/02/24(土) 10:29:39
車が、森の中の野戦司令部に到着し、男は仮設テントの中に足を踏み入れる。
数名の将校が、期待の篭もった顔で、自分を見つめている。
くそっ、俺はこの間少将になったばっかりで、貴様らと大きな違いは無いぞ。
そうは思っても、自分は将官であり、彼らは佐官でしかない。
「モーデル閣下・・・」
ついに、一人が指示を仰ぐように、黙りこくっている男に、声を掛ける。
「地図を、いや、もっと大きなやつだ。」
正面の机に広げられていた付近の地図の上に、彼の指示で広域地図が広げられる。
「下がるぞ。現有戦力では、英国軍に対抗出来ない。」
「それでは、ハンブルグまで後退して、そこで防衛ですか?」
「いや、ハンブルグでは市民に対する被害が大きすぎる。それに、敵の進撃速度を考えると、防御陣地の構築の時間が取れない。」
彼は、全員が注目する中で、ベルリン−ハンブルグ間の拠点を見つめてゆく。
「ここだ、ここまで全軍は、速やかに後退する。そして、ここに強固な防御拠点を構築するのだ。」
多分、独逸はこの戦争には勝てない。
それは理解している。
それでも、ヴァルター・モーデル少将は、たたき上げの軍人だった。
指先は、Besenthalと言う小さな村を指差していた。
ハンブルグからベルリンに通じる24号線を50キロ程言ったところにあるLauenburgischenSeen(ラウエンブルク湖沼自然公園)の西端である。
彼が指差したのは、独逸北部に今でも国立公園として残されている、森林地帯だった。
少なくとも、あいつらに、真っ直ぐベルリンまで行かしてなるものか。
独逸軍人が如何にしぶといか、たっぷり教えてやる。

274shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/03(土) 08:22:30
ベルリン、総統官邸、総統執務室。
「なんだ、これは!」
昨晩殆ど眠れなかった第三帝国総統は、OKVから上がってくる情況報告を机の上に叩きつけ、イライラと歩き回る。
「英国軍が、未明にブレーメン地方に上陸した模様。
キール及びヴィルヘルムスハーフェンは、機雷封鎖され、艦艇の出動は当面不可。
チェコスロバキアに向かっていた第十六装甲軍団は、チェコ軍の反撃で、移動出来ない。
ルール地方、プロセインに展開中の師団は、両国境での不穏な動きに対応する為、動かせない。
ないないづくしじゃないか!」
側に控えているNASDAP首脳陣は、何も言えず、立ちすくむだけだった。
「ハルダー参謀総長は、まだ来ないのか!」
「そ、それが、総統・・・」
国防軍最高司令部総長のカイテルが、おずおずと切り出す。
「ハルダー参謀総長は、参謀本部幕僚と、現状把握の為に、今朝一番にベルリンを離れており、まだ連絡がついておりません。」
「な、なんだと・・・」
ヒトラーの顔が硬直し、後の言葉が続かない。
「い、いや、直ぐに、連絡は入るものと・・・」
「ばかもん、なぜそれを早く言わない!」
ハルダー参謀総長がベルリンにいない。
いや、ハルダー一人だけではなく、幕僚も一緒にいないとなると。
クーデターか?
いや、このタイミングではそれは無い。
英国軍が攻めてきていると言う情況では、クーデターを起こして更に混乱させる意味が無い。
いや、逆に混乱しているからこそクーデターがやりやすいと言う考え方も出来る。
しかし、ベルリンを制圧出来る部隊がいない。
主力はズデーテン地方に出払っているし、ベルリンにはNASDAPの親衛隊もいる。
少数での首都の制圧には対抗できる。
となると、やはり考えられるのは、英国軍との裏取引か。
確かに、余りにも都合が良すぎる。
英国軍の動きが、まるで掴めなかったと言うのもそれならば理解できる。
部隊配置自体が、北海に面したブレーメン地方からハンブルグに掛けてはがら空きである。
陸軍、恐らく海軍もこれに加担している可能性は高い。
ヒトラーは執務室を歩き回りながら、思考を巡らす。
となると、効果的な反撃なぞ出来る訳ない。
第一、効果的な反撃が出来たとしても、今の独逸に大英帝国とその同盟国との戦闘に勝てるだけの軍備は無いのは痛いほど判っている。
どうする。
頭の中に亡命と言う言葉が浮かぶ。
しかし、どこにと考えると否定するしかなかった。
伊太利亜では余りにも頼りない。
ソ連は、相手が悪すぎる。
少なくともスターリンでは、こちらの意思が通るとは思えない。
米国。
ここならば、今後の可能性もあろう。
ランドン大統領を焚き付けて、独逸奪還の為の軍を起こし、大西洋を攻め上る。
ヒトラーは頭を振った。
確かに、可能性はあろうが、そこまで落ちぶれたくは無い。
第一、私は独逸を愛している。
国土を荒廃に導き、粗野な米国人の傀儡になる気は無い。
どうする、いや、何をすべきなのだ。

275shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/03(土) 08:28:19
ヒトラーは、側に控えているボルマンやヒムラーをちらりと見る。
こいつらを切り捨てるか。
昨晩のチェンバレンの演説は、NASDAPに対する非難中心であり、ヒトラー個人に対する攻撃は無かった。
ヒトラーを持ち上げながらも、NASDAPが悪いと言わんばかりの内容である。
確かに、ヒトラー自身、党と軍、そして経済界の微妙なバランスの上で政権を維持してきたのは事実であり、その中で党がその勢力を拡張する為に、表に出せない事も色々行っているのも事実だった。
知らなかったで通るか。
無理だ、幾らなんでも党首たるヒトラーが知らなかったと言うたわ言を真に受ける独逸国民は多くない。
知っていたとしたら、どう言い訳が出来るか。
いや、気がついたからこそ、自分の身を犠牲にしても、国家社会主義ドイツ労働者党を排除するために、英国軍を呼び込んだと言うのはどうだ。
ズデーテン地方への侵攻は、独逸国防軍と、英国軍との無用な軋轢を防ぐ為。
国防軍と、党の紛争を避けるために、英国の手を借りた。
うん、これなら行けそうだ。
ピタリと、ヒトラーは立ち止まり、黙って控えていた首脳陣を振り返る。
「カイテル、参謀本部に行く。」
「それは、危険です。」
カイテルが返事をする前に、ヒムラーが叫ぶ。
ヒトラーは改めて、ヒムラーを見つめた。
この眼鏡の小男は、本当に自分の事を気に懸けてくれているのだ。
他の党の首脳陣と違い、彼はヒトラー個人に対して忠誠を誓っているが痛いほど判る。
しかし、彼も切り捨てねばならない。
NASDAP親衛隊そのものが、どう考えても党を象徴するものであり、ヒトラー自身が助かる為には、親衛隊指揮官の犠牲はどうしても必要だ。
「ヒムラー、君の気持ちはありがたい。しかしながら、私は独逸第三帝国総統なのだよ。」
ヒトラーは、諭すようにヒムラーに言う。
「であるならば、この火急の折に、独逸国防軍の指揮を取らないで、何が出来よう。私は行かねばならない。」
「しかたありません。それでは直ちに準備致します。」
「いや、それは必要ない。参謀本部に親衛隊を連れて行くのは如何にもまずい。彼らも落ち着かないだろう。ロンメルを呼べ、総統護衛隊だけで行く。」
「ボルマン、君は党の各支部へ通達だ。英国は、我々NASDAPを独逸から切り離そうと画策している。これに対して国防軍と無用な軋轢を生む事は敵に付け込まれる隙を作るようなものだ。」
「いいか、決して党独自での活動は行うな。間違っても党員だけが攻撃されるような事態は好ましくない。最悪の場合は、党員は国防軍の指示に従うように通達を出せ。」
「ハイ、総統。」
ボルマンは何を考えているのか判らないが、素直に頷く。
「そして、ヒムラー、君には重要な役割がある。武装親衛隊の部隊を全て召集し、そうポツダム、あそこに部隊を展開させるのだ。私は、参謀総本部で防衛の指示を出し次第、そちらに向かう。
英国軍との交渉が必要になるのだ。その時にある程度の力を見せねばならない。」
「ハイル、ヒトラー」
ヒムラーの敬礼を後ろに受けながら、ヒトラーは総統執務室を後にした。

276shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/03(土) 08:33:41
机の上には、独逸全土の地図が広げられ、ハルダーはそれを見入っていた。
情報は不完全であり、半日が過ぎても独逸国防軍、いや独逸全土での混乱は続いていた。
無線は相変わらず不調で、電話は回線を確保していても、途中で切れてしまうと言う有様である。
それでも、ここには情報が集まりだしており、今回の英日統合軍の概要が独逸国防軍でも把握出来るようにはなって来ていた。
そう、英国軍ではなく、統合軍と言う事も把握されていた。
夜明けと共に、キール運河の北海側の出口、ブルンシュグッテル付近に上陸を開始した統合軍は、一時間もしないうちに、強力な先遣隊をハンブルグに向かって発進させていた。
大量の戦車を含むこの部隊は、途中に築かれたモーデル少将の防御陣地を蹴散らし、昼前にはハンブルグに到達している。
モーデル自身が、ハンブルグよりも内陸の地点での防御を選択した為、独逸有数の大都市であるにも関わらず、まともな防御施設は何も用意されていなかった。
それどころか、統合軍の戦車は、中世から続く石畳を駆け抜け、あっという間にハンブルグの市庁広場まで到達していた。
 その後この部隊は、後続の歩兵部隊と共同で、ナチス党支部の占領、党員の検挙を始めている。また一部部隊は、北方へ展開したようで、キール方面に対する防御陣地の構築を始めているとの事であった。
どうやら、先遣部隊の役割はここまでのようで、更に第二派として上陸した部隊が、現在ハンブルグ目指して進撃中であるようだった。
 多分、ハンブルグからベルリンに向けての進撃は、この第二派が対応する事となる模様である。
また、ノルドホルツ沿岸に上陸した別の部隊が、ノルドホルツの空軍基地を占領し、ここを中心に防御陣地を構築している。
先遣部隊が、一時間程で空軍基地を占領すると、その後も上陸が続き、現在は旅団規模の部隊が、ここで防御陣を構築している。
彼らは、純粋に防御部隊のようで、ブレーメン地方やヴィルヘルムスハーベン等に対する攻撃の素振りは全く見せない。
それどころか、部隊から特使がヴィルヘルムスハーベンの海軍基地に派遣されたと言う情報も入っている。

 ここまでの情報を整理しながら、ハルダー参謀総長は大きく溜め息を吐いた。
無線通信が妨害されているにも関わらず、異様な程正確な情報が伝わってきている。
いや、情報が正確すぎるのである。
それもそうである。これらの情報の大部分は、直接統合軍から手に入れているのだから。
ハルダーはあきれ返るしかなかった。
統合軍は、進撃正面の国防軍や陣地に対しては攻撃を加えてくるが、敵対意思を示さない部隊には一切何もしないのである。
統合軍の進撃速度が速すぎて、小隊程度の部隊が、ブルンシュグッテルからハンブルグの間に幾つか取り残されてしまっていたが、彼らが降伏の意思を示すと、送り返してくるのである。
識別の為に、小さな白いリボンを渡され、それを肩の所に取り付けられれば、後は開放されるのである。
流石に、手にした重火器の弾薬は、取り上げられるが、火器類はそのまま持って行くように指示され、小銃や、中には対戦車砲すら馬匹に牽引されたまま、ハンブルグ郊外まで戻ってきた部隊すらあった。
侵攻してきた部隊が、英国軍ではなく、英日統合軍と言う名称で、英国、日本、そしてインド・オーストラリアの部隊からなると言う情報も、これらのリボン付き将兵がもたらした情報だった。
そして、彼らの目的が、ナチス党の排除であり、その為にベルリンを目指している。
既に、独逸海軍は、統合軍に対する敵対を行っていない等の情報が、国防軍将校に再三告げられていた。
これでは、将兵に戦意も湧こうはずが無い。
実際、モーデルのような将軍が指揮する部隊以外では、中隊規模で、移動を止めてしまった部隊すら出ている。
 その上、デンマークとの国境付近で、武装したナチス党員が、不穏な動きを示し、外務省を通じてデンマーク政府から抗議が上がっていると言う情報すら伝えられていた。

277shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/03(土) 08:34:54
これでは、戦争にならない。
ハルダーは何度目かの溜め息を吐き出した。
まあ真剣に敵対しようと言う気もないか。
グーデリアンが率いる最精鋭に近い第16装甲軍団は、ズデーテン地方で、チェコの戦車部隊の攻撃を受け、苦戦していると言う情報も上がってきている。
これまでハルダーは、グーデリアンの唱える装甲部隊と言うものに非常に懐疑的であった。
しかしながら、独逸が抱える装甲軍団よりも遥かに機械化が進んでいるらしい、統合軍の進撃速度と攻撃力は、ハルダーに彼の考えが間違っていた事を気がつかせるには十分過ぎるものだった。
それを認めてしまえば、この師団クラスの装甲部隊に対抗できる戦力は非常に限られているのはハルダーでも判る。
一応、ハルダー自身は参謀総長と言う立場から、東プロセインにあるケンプの第四装甲旅団に諸々の部隊を組み込めば、統合軍に対する反撃は不可能ではないと考えてはいる。
しかしながら、彼自身、その指示を出す積りが無い以上、ベルリンまでの進撃を阻止する上で、使える装甲兵力は無い。

彼は、二週間程前のベック大将の言葉を思い出していた。
「英国及びそれに与する勢力が、総統がズデーテン地方へ侵攻すれば、独逸に侵攻してくる。彼らは、ヒトラー及びナチス党の排除が目的であり、我々はそれを阻止すべきではない。」
まさか、ヒトラーとその一党の排除の為に国を売るのかと思ったが、それでも、ベック大将が反ヒトラー派の将校を集めて作り上げた「黒い礼拝堂」に対してクーデターの中止を宣言した以上はどうしようもなかった。
「これは、確かに大きな賭けだ。しかし少なくもと諸君らが反逆者として後ろ指を指される事は無い。」
ベック大将はそれ以上語ろうとしなかった。
クーデターが中止になった以上、ハルダーに出来る事は少なかった。
今の独逸に、英国及びその同盟軍との戦闘が起これば勝てる道理が無いのは、参謀総長と言う役職についてなくても判る。
それ故、正面対決の姿勢を打ち出すヒトラー排除の為にクーデターまで計画した筈だったのに、ベック大将自らそれを否定してしまったのだから、何が出来ようか。
このまま行けば英国との開戦は避けられない。
そうなれば、独逸はおしまいである。
それが判っているのに、何も出来ないまま、日々を過さなければならない。
しかも、それを参謀総長と言う立場で、である。
結局、ハルダーに出来たのは、英仏の侵攻を防ぐ為に、ルール地方の防御の強化の為の部隊の移動だけだった。

むしろ、チェンバレンの演説を聞いて、ハルダーは逆にホッとしたと言うのが本音だった。
少なくとも、あれこれ悩む必要は無い。
ただ、英国軍の侵攻に備えれば良いと言う立場は、全ての悩みから開放してくれる救いとすら思えたのだった。
ところが、それもたった半日で、覆されてしまった。
英国、いや統合軍と言う名前の侵攻軍の侵入経路は、ハルダーの予想を完全に裏切っていた。
遠浅が続き、それでなくても航海が困難な北海からの侵攻である。
少なくともハルダーの知っている戦争では、このような馬鹿げた行動は考えられなかった。
大量の部隊の上陸は困難であるし、展開出来る正面も少ない。
これまでの軍隊ならば、戦線を構築し、持久戦に持ち込めば、間違いなく手詰まりになる筈だった。
それが、たった一時間程度で部隊を展開し、半日で50キロ先のハンブルグに達している。
しかも、更に後続部隊が、そこからベルリンに向かって動き出そうとしているのだった。
ハルダーはこの日何度目かの大きな溜め息をついた。
このような機動性に富んだ部隊に対して、効果的な反撃手段が無い以上、彼に出来る事はそう多くない。
むしろ、先日のベック大将の言葉に期待を掛けるしか方法が無いのである。
まあ、今の所上がってくる情報は、ベック大将が言っていた内容そのものである。
となれば、今はひたすら、「何もしない」と言うのが一番正しい選択なのであろう。

278shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/03(土) 08:38:08
「参謀総長」
一人の将校が駆け寄って来て、ハルダーの耳元に囁きかける。
「何、それは本当か。」
ヒトラー総統が、参謀本部に向かったとの事だった。
それも、親衛隊を連れずに、総統護衛隊だけを伴ってである。
NASDAPの首脳陣も連れていない。
どう言う事だ?
ヒトラーが何を考えて、参謀本部に向かったのか理由が判らない。
何か、総統しか手に入らない情報があるのか。
「戻るぞ。」
ハルダーは、幕僚に告げると、テントの覆いを捲り上げる。
外は目が眩む位明るい日差しが溢れていた。
そう、そこは、完全な野戦司令部だった。
ベルリンから50キロ北西に築かれた、臨時の参謀本部、ハルダーはそこにいたのだった。
侵攻軍の情報をいち早く入手する為。
そして、同時に、「何もしない為」に。

279shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/03(土) 08:40:08
辺りには、大量の戦闘車両が一斉にエンジンを始動させた為に、きつい排気ガスの匂いが立ち込めていた。
しかしそれも、アランに取れば、戦場音楽の前奏曲にしか過ぎない。
ハンブルグ郊外に集結した第一兵団第二旅団、第一戦車増強大隊が今まさに、進撃を開始しようとしていた。
戦車だけでも、72台、同行する砲兵大隊の自走砲や、兵員輸送車も含めれば、300台近い戦闘車両の集団である。
上陸作戦時は、第一旅団が、中隊規模の戦闘ユニットを組み上げ、順次前進して来たが、ハンブルグに達した今は、戦法を変更出来るのだ。
そのため第二旅団は、ハンブルグを迂回するように走り抜け、1号線と24号線の交差する地点に集結している。
既に、全車の集結も終り、一通りの整備点検・燃料補給も受けた。
そして、この戦闘集団を率いてベルリンを目指すのは、アラン・アデア少将、この私である。
第一旅団の上陸が上手く言った為に、アランの率いる第二旅団は、ブルンシュグッテルよりも遥かな上流、ハンブルグ近郊まで、輸送艦を侵入させる事に成功していた。
結果として、多くの戦闘車両の走行距離は、第一旅団よりも少ない。
お蔭で、これからの踏破に期待が持てる。
西大佐の率いる第一旅団の戦車大隊は、午前中だけで50キロ前進していた。
それを考えれば、これだけの部隊で前進するのだから、上手く行けば今日の午後だけで80キロはいけるだろう。
時速30キロを維持し、途中での給油と整備に一時間掛けたとしても、3時間は走れる。
途中での戦闘に一時間、夕方6時頃までにベルリンまでの距離の最低1/3は踏破出来る。
そうなれば、明日は第一旅団が先陣を務めるから、うん、やはりベルリン突入はこの私が行えそうだ。
西には悪いが、この先で待ち受けているらしい、モーデル将軍率いる独逸装甲部隊との戦闘も、私の勝利で終るだろう。
既にスケジュールは、半日以上前倒しとなっている。
当初計画では、相応の被害も発生する事を見込み、ハンブルグ攻略で本日の予定は終了する筈だったのが、独逸軍は予想以上に脆い。
特に、独逸空軍は、たった半日で排除されてしまっている。
制空権は、完全に統合軍のものであり、お蔭で進撃路も、当初予定のエルベ川沿いではなく、アウトバーンを一気に突っ走ると言う冒険的なものに変更されている。
ハンブルグが無傷で手に入った事で、燃料補給の制約もかなり解除された事も大きい。
よし、後は思い切って突っ込むだけである。
アランは、マイクのスイッチを入れる。
「アランから、全車へ、発進。目標ベルリン!」
一斉に、エンジン音が高まり、待機していた300両の車輌が動き出していた。

280shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/10(土) 02:31:54
「敵が接近中です。」
通信士が、テント内の全員に聞こえるように、大きな声で叫ぶ。
モーデルが新たに野戦司令部とした、大きなテントの中に一斉に緊張が走る。
「慌てるな!距離は?」
「ハッ、前進監視哨の2キロ前方かと。」
机の上に広げられた一帯の地図上に、敵を示すマークが置かれる。
「よし、前衛の戦車部隊が通過した地点で、攻撃開始!前進監視哨からの合図で、攻撃。」
ハンブルグ郊外に集結した敵は、戦車だけでも、50両以上を抱える強力な部隊である。
本来ならば、こちらの偵察部隊等は、敵の警戒線に引っかかる筈だが、敵はそんなもの何も用意していなかった。
どちらかと言えば、圧倒的な戦力を見せ付けるように、前進して来る。
くそっ、完全に舐められている。
モーデルはそれが判るだけに、悪態の一つも付きたくなるが、司令官がそんな馬鹿な真似は出来ない。
「敵、前衛が通過し始めました。」
通信士が、監視哨からの報告を続ける。
前進監視哨は、高速道路から500m程離れた地点に設けられている。
少し地面を掘って、一人が腹ばいになれる程度の場所であり、有線電話がそこからここまで延びている。
一撃でも食らえば、おしまいだが、偽装は効果的に働いているようだった。
「戦車3両通過、更に後続します。」
全員が息を呑んで、報告に聞き入っている。
「6両通過・・・9両・・・12両・・・」
くそっ、まだ続くのか。
「21両、後4両です。」
「アントンに連絡、最後の4両を狙え。」
「通過、今!」
「攻撃開始!」

281shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/10(土) 02:33:44
ハンブルグから一時間強、そろそろ、モーデル将軍が潜んでいると目されている、巨大な森が視野に入ってきた。
「よーし、第一、第二中隊、突撃体制を構築、他の車輌は速度を15キロまで減速。支援歩兵は前進し、所定の位置に付け。」
高速道路が森の中を横切る地点まで3キロ、ここで隊形を整え、後は突撃である。
戦車の装甲を生かして、敵の防御陣地を食い破り、砲撃支援と戦車の機動力で、敵が構築していると思われる陣地を食い破る。
まあ、以前ならば絶対出来ないような危険極まりない戦法だが、巡航戦車MarkⅢには、それが可能なだけの装甲がある。
「左方、10時、発砲炎!」
「何!」
アランが手にした双眼鏡を向ける前に、後方の戦車が爆発する。
「全車、散開、止まるな!敵は大口径砲、叩き潰せ!」
アランは咄嗟に全車に指令する。
陣形を整えつつあった戦車小隊が、左右に広がって行く。
左には、森を背にして、農家がある。
多分あの中から撃ってきたに違いない。
しかし、二キロ以上の距離からMarkⅢを一撃で、破壊できるとなると、うわさに聞く、88ミリ高射砲か。
「更に、発砲炎」
後方に着弾音、また一両やられたようである。
くそ、どうやって、大砲を隠したんだ。
ここから見る限り、普通の農家そのものである。
確かに、建物自体は大砲よりは大きそうだが、あの中から打ってくるなんて。
第二小隊が射撃を開始する。
建物の一部が吹き飛ぶのが見える。
しかし、相手もしぶとい。
その中から、三発目の発砲炎が見え、今度は建物に直進していた戦車が火を噴く。
「敵の射角は狭い!回り込め!」
一両の戦車が、森側から回り込もうとして、爆発に巻き込まれる。
くそっ、地雷か。
その位は予期すべきだった。
森側から回り込もうとしていた小隊が、そのまま回転するように、方向を変える。
「アッ、いかん。」
その途端、森から幾つかの発砲炎が広がった。
前方や側面ならば、敵の砲撃に耐えられても、後方は弱い。
独逸の37ミリでも何とかなる。
案の定、小隊の残り2両もその場で動かなくなる。
「第一砲兵連隊、目標、前方の農家、それと森だ!準備出来次第、支援砲撃!全車、煙幕展開、後退せよ。」

282shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/10(土) 02:37:32
一瞬の攻撃で、五両の戦車がやられていた。
「やはり、88ミリ高射砲です。」
既に、戦闘は終了していた。
砲兵連隊の砲撃により、農家は廃墟となっている。
また、森の方も入り口付近は砲撃で掘り返され、かなり見通しが良くなっていた。
しかしながら、砲撃終了後には、近辺には生きている敵はいなくなっていた。
砲撃が全て破壊したのではなく、独逸兵は、多分その前に後退していたのであろう。
まだ遠くまで行っていないのは間違いないだろうが、現状では直ぐに追い掛ける訳にも行かなかった。
戦車五両の損害で、3キロの前進、あと200キロ強だから、350両程度の戦車があれば無事ベルリンまで辿り着ける。
アランは頭を振って、馬鹿な考えを振り払う。
ハンブルグからここまで敵がいなかった事を考えれば、ここでのいやらしそうな戦闘を済ませれば、同様の規模の敵部隊が二つ、精々三つ程度であろう。
しかし、果たしてここを抜けられるのか。
アランは前方に広がる森を見つめる。
森そのものを焼き払うならば、それも不可能ではない。
しかしながら、あくまでも現在の活動は、ナチス党に対する制裁活動である以上、極端な破壊は望まれていない。
また、航空支援を受けて、敵陣を叩くにも、これだけ深い森では、場所の特定が難しい。
最も順当な戦法は、後続の第一旅団が追いつくのを待ち、後衛として残して迂回してしまう事であろう。
だが、それはアランが一番取りたくない選択だった。
いっそ、被害を省みず、24号線を走り抜けてやろうか。
アランはまた頭を振る。
駄目だ、流石に愚将として名を残したくはない。
精々、警戒態勢を密にし、敵が攻撃して来たら叩きながら、前進するくらいか。
多分敵の88ミリは一門だけではあるまい。
ある程度部隊が前進したところで、森の奥から一撃、混乱に乗じて、迫撃砲等も用いて来るであろう。
これも却下。
まてよ、これだけの森の中に、大口径の高射砲を運び込んでるなら、どこから入れたんだ。
アランは地図を取り出し、目で追う。
詳細な地図ではないが、それでも森の中に入って行く道は幾つかある。
そして、それらの道はそれ程広そうには見えない。
うん、何とかなりそうだな。
「よーし、中隊長、集合!」

283shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/10(土) 02:40:25
「敵、動き出しました。中隊規模の戦車と歩兵部隊が、二つ本隊から分離して南北に移動中。」
テントの中に、通信士の声が響く。
どうやら、敵は三方向から進撃してくる積りである。
「よし、予定通り、それぞれの地点での待機部隊に連絡。戦車は狙うなよ、あくまでも兵員輸送車、軽車両が目標だ。」
37ミリ対戦車砲では、正面からの攻撃では敵の戦車は撃ち抜けない。
先程の前哨戦では、側面や後方をこちらにさらけ出したからこそ撃破出来ただけである。
それだけに、彼らに戦車に向かえと言うのは酷である。
重苦しい沈黙がテントを満たす。
防衛戦であるだけに、敵が攻撃してこない事には、こちら側にやることは無い。
「南方に移動した敵中隊、隊列を組み直しております。」
通信士からの報告が届く。
森の中の数十箇所に、簡単な偵察拠点を築いてある。
勿論、側道の入り口付近だけに、こちらも警戒は怠らない。
「北方の部隊も隊列の変更を実施中。」
「よし、くるぞ、各部隊に、距離300にて発砲、三正射後、直ちに後退」
先程の攻撃では、上手く退避出来たが、今度はどうだろう。
モーデル自身、圧倒的な英軍を撃破する等と言う大それた事は考えていない。
大型獣を倒すのに、じわじわと出血を強制し、出血多量で倒れてくれるのを期待するしか、今の国防軍には対応する術が無い。
まあ、少なくとも何両かの戦車を葬った。
「北方、戦闘開始。」
「南方、戦闘開始」
敵も少しは考えているようである。
少なくとも左右同時攻撃らしい。
と言う事は、次は正面の敵主力の動きがどうでるか。
「正面の敵主力、動き出しました。真っ直ぐ突っ込んできます。」
「何!」
こいつら、何考えているのだ。
あれだけ、見せつけたのに、何も考えずに正面から突っ込んで来るか。

284shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/10(土) 02:42:28
「第二中隊、第三中隊、戦闘に突入、対戦車砲にて、兵員輸送車を狙ってきました。」
ふむ、側道には配置する88ミリは無いのか。
と言う事は、この正面で何門か待ち受けているだろうな。
「よし、速度を上げて、突っ切るぞ、各自打ち方自由!突撃!」
結局、馬鹿みたいに突っ込む羽目になっているが、驚くなよ。マークⅢは今までの戦車じゃない。
隊列全体が、地響きを立てて走り出す。
速度が見る見る上がり始める。

「敵本隊、速度を上げて突っ込んできます。は、早い。」
「撃て、逃すな!」
高射砲大隊の仕官は、慌てて部下達に叫ぶ。
しかしながら、時速60キロでアウトバーンを疾走する戦車など誰も予想すらしておらず、弾はむなしく通り過ぎて行く。

「右、一時方向、発砲炎。」
「よし、砲兵連隊に座標を連絡!」
高速で走り抜ける1個中隊24両の戦車に追いすがるように、大口径の弾が飛来するが、一つも当たらない。
瞬く間に、戦車は通り抜けてゆく。
「な、何なんだ、一体。」
高射砲大隊を指揮していた士官が唖然としていると、突然空から聞きたく無い音が響いてくる。
「退避!」
彼は、必死に飛び出そうとしたが、身体が吹き飛ばされるのが、最後の記憶だった。

「さあて、何処まで行けるか。」
既に、高速で走り始めて10分が経っている。
距離に直せば、10キロを走り抜けた計算になる。
敵の縦深がどれだけあるかであるが、そろそろ抜けるだろう。
「全車、この先右手にサービスエリアがある筈だ。予定通り、そこに突入するぞ。」
こんな速度で走り続ければ、直ぐにお釈迦になるのが戦車だ。
それでも、敵弾でお釈迦にされるのと違い、修理可能の筈だ。

24両の鉄の塊は、道路を一部破壊しながらも、本線を逸れ、サービスエリアに突入する。
少なくとも上空の偵察では、敵部隊はここにはいない筈であるが、周辺警戒は怠らない。
一番緊張する瞬間が過ぎ、戦車隊は、漸く円陣を組み、凶暴な走りを納めた。

285shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/10(土) 02:44:39
アランが、考えた戦法は、こうだった。
戦車が怖いのは88ミリ砲だけであり、それ以外は大した事は無い。
勿論、先程のように油断すれば、後方から撃たれて破壊される戦車も出よう。
その88ミリ高射砲は、遠距離射撃に向いているが、近距離では使いづらい。
となると、道路を狙って配備するにしても、森の奥から狙う形であろう。
それならば、高速で走り抜ければ、当たらない。少なくとも被害はかなり抑えられる。
何せ、森の中からの射撃だけに、射角も限られている。
逆に、撃って来てくれさえすれば、ある程度の位置の特定が出来る。
そうすれば、野砲の射程内である以上、上から潰せる。
だが、どの程度の数を、この深い森の中に隠しているのだろうか。
それを確かめる為に、また陽動の意味も含めて、三方向からの攻撃だった。
幸いな事に、側道の方には88は配置されておらず、独逸軍の集められた高射砲の数が少ない事を示していた。
20門以上用意できるのなら、側道にも1、2門配備してくるであろう。
それが無い以上、上限は限られている。
中隊規模の戦車を突入させ、敵の射撃を誘う。
野砲で敵陣を叩いて、そこに後続の部隊を突入させる。
うん、今の所は上手く行っているようだった。

286shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/10(土) 02:47:27
あいつら、なんて戦争しやがるんだ!
モーデルは、他の将校がいなければ、帽子を投げつけていたであろう。
三重に張り巡らした、Flak88の壁をあっさり突破しやがった。
空軍高射砲大隊を脅してまでして手に入れたなけなしの大口径砲があっという間に無力化されてしまった。
発砲したばかりに、位置が露出してしまった砲は、すぐさま統合軍の砲撃を浴びせかけられ、兵士達は慌てて逃げ出すしかなかった。
二個戦車中隊が高速で走り抜けそれを補うように、残りの戦車、兵員輸送車が前進して来る。
そして、この連中が、破壊された砲兵陣地を占領し、更に後続部隊の安全を確保する。
非常に統制の取れた上手いやり方だと認めざるを得ない。
あれだけ無茶な走りをした先行の戦車中隊は、動けなくなっているかもしれないが、それは足回りの故障であり、砲撃力に支障を来たしている訳でもない。
これでは、すり減らした敵部隊を前方で待ち構える予定の虎の子の機甲部隊を突入させる事等出来る訳ない。
「閣下・・・」
野戦司令部に詰めている、参謀代わりの佐官連中が困ったように問いかけてくる。
モーデルは、周りを見回して、溜め息の一つも吐きたくなった。
彼自身も含めて、ここにいる連中の多くは、この前の大戦で、塹壕戦を戦い抜いたもの達である。
当時と比べれば確かに、兵器は格段の進歩を遂げているが、それに合い等しい戦法が確立されていない。
これに尽きた。
今なら、モーデル自身もグーデリアン閣下が唱えていた機動戦術の意味が身に沁みて判る。
午前中の遭遇戦で、理解したと思っていたが、まだまだ甘かったようである。
後知恵ならば、道路上に何らかの障害物を用意すれば、彼らの進撃を止められたのは明らかであるが、作戦計画時点では、逆に敵が警戒して砲撃を加えてくる事を恐れたのだった。
それが、なんてざまだ。
こうなった以上、次の手を考えなければいけなかった。

287shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/10(土) 02:50:37
自分も含めここにいる連中は、全て新しい戦争の体験者である。
それは最前線で実際に戦っている兵士達も当然含まれる。
この体験を生かして、軍を再編成出来れば、独逸は多分最強の軍を持つ事が出来るだろう。
あのような機動兵器を我々が準備できれば、攻撃にも防御にも可能性は限りなく広がる。
しかし、この先そのような機会があるのか。
このまま、我々が下がれば、ベルリンまでまともな防衛線を築ける部隊は無い。
統合軍は、どのような編成であるかが、国防軍に漏れる事を一切気にしていない。
それどころか、積極的に情報を流している節すら見られる。
それだけに、自分達が下がれば、彼らがベルリンに辿り着くのを防げるものは無い。
いや、ハルダー参謀総長が、ベルリン郊外に野戦司令部を設置し、陣頭指揮を始めている。
だが、ハルダー閣下は、統合軍の機動力、攻撃力がどれ程のものか、判っていない。
時間が足りない。
この勢いで、統合軍がベルリンを目指せば、一週間も掛からずに、到達してしまう。
いや、その半分、三日もあれば可能だ。
幾ら兵を集めても、満足な塹壕の準備すら出来ていない状況で、こいつらの突進力を受け止めたら、あっという間に防衛陣は崩壊するだろう。
遅滞戦術でどれだけ時間が稼げるか。
元々、ここでの戦闘も、モーデル自身その積りで部隊を展開した筈なのに、一日も掛からず抜かれてしまっている。
この先、ベルリンまでラウエンブルクのような自然の要害として使える地形は無い。
そうなると、敵の進軍速度を考えると、出来る事は本当に嫌がらせレベルまで落ちてしまう。
幾つかの地雷を仕掛ける。
道路上に障害物を設置する。
88を農家を解体してまで組み込んだように、適切な地点で、戦車の何両がを撃破して行く。
しかし、モーデルの頭の中にあっという間にその対抗策が思いつく。
軽車両による偵察小隊を多数配置し、常に幅5キロ程の範囲を掃討しながら前進。
更に、航空機による支援があれば、こちらの遅延行動等たかがしれている。
どう見ても分が悪すぎる。

288shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/10(土) 02:57:42
統合軍が自ら表明している目的は、昨晩のチェンバレンの演説と同じであった。
独逸からNSDAPを排除する。
その為に、首都ベルリンを目指す。
妨害するものは排除するが、静観するならば手を出さない。
その証拠に、国防軍の兵士達は、捕虜となっても、直ぐに解放されている。
一応、弾薬だけは取り上げられるが、武器そのものは保持したまま、統合軍のエリアから部隊ごと生還した連中すらいる。
このような連中も、配下に組み入れ再び弾薬を補充して戦線を形成しているのだが、たった半日で、兵士には動揺が広がっている。
それはそうである。
統合軍の装備は、国防軍よりも遥かに優れている。
特に、戦車は脅威としか言い様が無い。
一旦、敗れた連中にすれば、それに再度立ち向かえと言われて、平然としていられるものではない。
一番良いのは、総統以下首脳陣が、ベルリンを離れ、ミュンヘン辺りを臨時の首都としてしまい、このまま統合軍をベルリンに突入させる。
その間に、国防軍が包囲してしまえば、敵がどれだけ打撃力を持っていても、いずれ殲滅出来る。
幾ら、兵装に優れていても、弾薬や燃料に限りがある以上、時間を掛ければ対応は可能である。
問題は、民間人である。
いくら、総統の人気が高いといっても、首都を捨てたとなると、そのイメージはどうしてもつきまとう。
NSDAPにそこまで思い切った政策が出来よう筈がなかった。
それに、統合軍の援軍の可能性も大きい。
国防軍情報部は、英国がこのような部隊を作り上げている事に全く気がつかなかった。
戦車自体もそうであるが、大量の車輌をどのように隠していたのか、全く判らなかった。
そうとなれば、果たして統合軍とやらの戦力が、これだけなのかどうか。
第二派、第三派と増援部隊が送られてくれば、間違いなく独逸は崩壊する。
「ヤーパン・・・」
モーデルは思わず口に出していた。
先の大戦では独逸に敵対して戦い、列強の一つと認められている国。
我々白人社会の中で、唯一の黄色人種。
露西亜との戦争を引き分けに持ち込んだ国家。
英国の同盟国。
陸軍は、対戦前の独逸を真似て作られたと聞く。
それ以上の知識はモーデルには思いつかなかった。
しかし、統合軍と言う英国の同盟軍の中ではかなりの比率を占めているらしい。
明らかに英国人とは違う将校が、数多く見られたと報告されており、これは多分植民地軍と言うよりも、日本人であろう。
これらの戦車も、英国が密かに日本に作らせていたものがかなりある筈だ。
全く、東洋の果ての国家が、英国に上手く乗せられて、態々欧州まで出てこなくて良いものを。

289shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/10(土) 03:00:34
「閣下」
黙りこんでいたモーデルに、いつの間にかテントに入ってきていた副官が声を掛ける。
「うん、なんだ。」
「奇妙な連中が、警戒網に引っかかりまして、閣下に会わせろと言っているのですが。」
「何だ、民間人か?スパイならとっとと捕まえて、引き渡してしまえ。今は戦闘中だ、胡乱なものに用はない。」
「し、しかし、その人物が、このようなものを持っていましたので。」
副官が、モーデルに書面を手渡す。
苛立ちを隠さないまま、モーデルは書面に目を通した。
「判った、会おう。何処にいる。」
「ハイ、外に待たしております。」
モーデルは少し繭を潜めるが、彼もこの手紙に目を通した以上、仕方ない事かも知れない。
モーデルは、息を潜めて待機していた佐官達を振り返る。
「部隊は、待機。敵が攻めてこない限り、こちらからは手出しをするな。」
それだけ言うと、モーデルはゆっくりとテントから出て行く。
渡された手紙には、こう書かれていた。
「この書面をもつ者を、速やかに最上級前線指揮官に面会させる為に、便宜を図って頂ければ幸いである」
そして、その署名は、ヴェルナー・フライヘル・フォン・フリッチュ、前陸軍総司令官だった。

290shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/10(土) 03:03:07
車止めの所まで歩いて行くと、モーデルは目を丸くした。
そこに止まっていたのは、グロッサーメルセデスSSK770である。
独逸国内でも、殆ど見られない超高級車、いや、それよりもヒトラー総統の愛用車と言った方が判りやすい。
こんな車で来られて、しかも前陸軍総司令官の手紙付きとなれば、余程の事が無い限り、上まで話は伝わる。
車の前には、二人の人物が立っていた。
片方は、どうみても東洋人、そしてもう一人は多分英国人であろう。
二人とも高級そうなスーツに身を包み、東洋人の方は、白い手袋まで着用している。
モーデルは、徐に歩み寄る。
「私が指揮官のヴァルター・モーデルだが。」
「モーデル閣下、初めてお目にかかります。私は、大日本帝国総力研究所、欧州所長の山本五十六です。」
「私は英国王室情報部所長マッキンレーです。」
モーデルは、暫く絶句するしかなかった。
目の前で繰り広げられている戦いの、敵側の人間が二人。
しかも、彼らがあっけらかんと語った肩書きは、どういうものか判らないが、どう見ても国の機関としか言えない。
情報部と言う肩書きからすれば、スパイの親玉みたいな連中ではないか。
本当かどうかは疑わしい限りだが、どうしてそんな連中が、敵陣の真ん中に姿を現すのだ。
今ここで、この二人と話しこんでしまえば、多分自分は反逆者になってしまうのだろう。
NSDAPの党員でもいれば、間違いなくこの戦争が終れば自分の立場は無い。
しかし、この二人、フリッチュ前陸軍総司令官の手紙を持っていた。
それは明らかに、国防軍内の反NSDAP一派、否、国防軍の主流派とつながりがある事を示している。
どうする、拘束するか、話を聞くか。
「独逸は勝てない。」
殆どモーデルにしか聞こえない程度の声で、マッキンレーと名乗った男が呟く。
「少なくとも、今の独逸軍の装備では、この戦いの勝利はありませんな。」
横のヤマモトと名乗った日本人もぼそぼそと呟いてくる。
誘っている。
はっきりと、モーデルにも判った。
この二人、ここで殺されても文句も言えないのに、正面から自分にぶつかって来てる。
「ど、どうして・・・」
辛うじて小さく呟くのが精一杯だった。
「独逸国防軍が、打撃を受ける事は、日英両国が望んでいないからですよ。」
「我々だけではソ連と戦えない。」
二人が更に呟く。
モーデルは溜めていた息を一気に吐き出した。
そして、すっと背筋を伸ばす。
「判りました。話を聞きましょう。こちらにおいで下さい。」
くるりと二人に背を向け、すたすたと歩き出す。
モーデルは、後ろで二人が同じように、溜めていた息を吐き出すのには、全く気がつかなかった。

291shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/17(土) 12:18:02
太陽の光がここでは、まだまだ厳しいようだった。
明るい日差しが、高い天井の豪華と言って良い執務室を更に輝かせていた。
大きな机に向かって座っている人物は、やや小柄であるが、瞳は鋭い。
しかし、その表情には決して表では見せない疲れが表れていた。
ドゥーチェ、偉大なるイタリア帝国の独裁者、彼は手にした書面を見ながら首を左右に振るだけだった。
彼も昨晩のチェンバレンの演説の内容は、聞いている。
ヒトラーは調子に乗りすぎ、流石に英国を怒らしてしまった。
独逸国内では既に戦闘が始まっているようで、英国は本気であるらしい。
となると、今自分が見ているこれも本気なのだろう。
独逸と伊太利亜、両国に対してこれまでの融和政策の仮面を脱ぎ捨て、冷酷な大英帝国の表情が全面に出てきたと言う訳である。
 彼は、机の上に今朝一番で、英国大使からチアノ外相に手渡された文章を投げ出した。
文章は、英国側からの、今回の独逸NSDAPに対する制裁実施についての説明であった。
伊太利亜が何ら係争問題を抱えていないならば、英国の外交方針の変更を受け、それに併せて今後の国策を検討して行けば良いだけの筈である。
しかしながら、国際政治はそんなに甘くない。
ここ数年間の懸案事項であるエチオピア問題が、ここに来て暗礁に乗り上げている。
三月位までは、英国も黙認の方向で落ち着こうとしていたのが、その辺りから雲行きが怪しくなって来ていた。
英国のイーデン外相が、改めて、エチオピアからの伊太利亜兵力の撤兵を要求したのが、五月の事である。
その時点では、特に軍事制裁等には触れていなかったが、ここに至ればそれも判る。
英国は、独逸をターゲットに、いや、独逸から対応しようと決めていたのだ。
そしてそれが今始まろうとしている。
独逸の件が片付けば、次は伊太利亜であろう。
彼は、本気になった大英帝国に、今の独逸が敵うとは夢想だにしていなかった。
第一国力が違いすぎる。
そして、独逸が幾ら軍備を増強したとは言え、まだまだ規模が違いすぎる。
数ヶ月もあれば独逸帝国は、いや、ナチス独逸は崩壊するであろう。
そして、伊太利亜は、独逸よりも更に弱い。
これがスペインの内戦に、介入していなければ、まだ何とか手の打ち様もある。
更に言えば、エチオピアに軍を派遣しなければ、否、そうなると、英国に付け込まれる原因すらなくなる。
伊太利亜に残された時間はどの位だろう。
半年程度か、いや場合によってはもっと短いかもしれない。
これまでの協調政策を捨て去り、如何にも強権な帝国らしい政策を英国が実施し始めたとすると、独逸の目処が立った時点で、わが国に向いてくるかもしれない。
その間に、何が出来る。
どのような体制が構築できるか。
英国と独逸の紛争が始まった日、明るい執務室の中で、ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニは、独裁者としての孤独の中にいた。

292shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/17(土) 12:39:40
部屋の中は暗い。
いや、明かりは十分にあるのだが、重厚な作りの室内は、ひたすら重苦しく感じられる。
巨大な宮殿の奥深く、そこまで入り込むには、幾つもの警備を潜り抜けねば辿り着けない。
そんな奥まった一室が、彼の執務室だった。
猜疑心の塊のような男が、この国の最高権力者になりおおせたのは一体何故だったのだろうか。
誰も信じない、誰にも頼らない、全て自分で判断し、命令を下し続ける。
それが彼だった。
それ故、赤軍の中で自分に対するクーデターが企てられているという話に、彼は躊躇うことなく、高級将校の八割を罷免した。
その殆どのものが銃殺刑に架せられ、そして不幸にも生き残ったものは、シベリア送りとなった。
そう、銃殺刑で死亡した者達はまだ幸運なのである。
政敵を葬り去り、失策を冒したものは容赦なく消えて行く。
恐怖が支配する体制。
それが、今のソビエト社会主義共和国連邦だった。
気のせいだろうが、この部屋に入ると温度まで二三度下がるような気がする。
目の前の人物、ヨシフ・スターリン、我が国の最高権力者は、座ったまま手渡した書類に目を通している。
その姿を直立不動の体勢で、他の者達と同様に待ち受けるモトロフは、そう思わざるを得なかった。
「で、どう言う事だ。」
スターリンに渡したのは、英国大使より手交された、独逸侵攻の説明文書だった。
「ハイ、どうやら英国は半年前に、インド方面に派遣した二個師団を呼び戻して、今回の侵攻に用いたようです。」
内務人民委員部のニコライ・エジョフが、寒い筈の部屋の中で汗をかきながら、弁明を始めている。
昨晩のチェンバレンの演説放送―英国はその放送をわざわざ短波放送でも流し全世界に対しても表明していた、以来、内務人民委員部の外務課び外務省の役人達は殆ど寝ていない。
英国駐在のソ連大使は、英国高官に探りを入れるべく、昨晩から交渉にかり出されている。
これは英国の同盟国仏蘭西でも同じだった。
国外での共産党の活動を支援している委員部外務課も同様である。
「今回の英国の対独戦には、同盟国としては、仏蘭西よりも日本が関わっているようです。」
モトロフも必死だった。
スターリンの質問は、何が起こっているのかではない。
どうして、英国の独逸侵攻の予兆を事前に知りえなかったのかである。
外務省の怠慢を挙げ連ねられ、シベリア送りや銃殺なんぞの目には遭いたいとはだれだって思わない。
内務人民委員部は、スターリン直属である以上、責任追及と言っても多可が知れている。
それよりも、外務省の失策として追及されるのは何としてでも避けなければいけない。
「大日本帝国は、昨晩の内に、大英帝国に対する支援声明を発表しております。このことから察するに、今回の侵攻には、英国本土からではなく、インド、オーストラリアの植民地からの軍と日本軍からなる部隊を編成し、一挙に独逸本土に上陸させたものと考えられます。勿論、基幹となっているのは、インドに送られた英国本土師団かと思われますが。」
モトロフの言葉にスターリンの顔に、興味深げな表情が浮かぶ。
ここが正念場である。
この情報は、十中八九、スターリンは知らないと読んでいたが、間違いなさそうである。
かと言って、スターリンの知らない情報を必要以上に握っていると邪推されれば、薮蛇である。

293shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/17(土) 12:47:43
「日本の重光公使から、聞き出しました。まあ、あちらは我が国のアジア方面の活動を気にしていましたが。」
スターリンの眉毛が更に持ち上がる。
少なくとも、これでスターリンに対して、モトロフ自身の情報源が何処かははっきりと示せた。
更に、日本が知りたがっている情報が何かまで開示でき、興味も引き出せた。
「それで、何と答えた。」
「ハイ、我が国は国外に対して、何ら領土的野心はもっていないと。」
それを聞いてスターリンが笑い出す。
部屋の中には追従の笑いが起こる。
「そうか、日本は我が国を恐れているのか。」
モトロフは心の中でホッと安堵のため息を吐く。
しかし、ここで気を抜いては生き残れない。
「ええ、どうやら、日本は英国に対する隷属的な同盟の義務として軍を差し出したようで、その結果としてアジア方面の我が国に対する備えがおろそかになる可能性があるものと思われます。」
「本当に、そうだと思うのか。」
「えっ、い、いや・・・」
あたふたと、慌てふためいた感じが上手く出せたかどうかが気がかりだが、俳優でない以上これは仕方ない。
モトロフ自身、重光公使の本音は違うと見ていた。
第一、今の満州地域に攻め込めば、列強全てを敵に回す危険性すらあり、ソビエトにとっての利益は少ない。
どちらかと言えば、対独戦に手を出すなと言う事であろう。
英国、仏蘭西、そして日本と、列強三カ国が対独戦でまとまっている以上、ソビエトが火事場泥棒的な活動を行えばそれ相応の対応が行われると言う言外の含みだとは推測できる。
しかし猜疑心の強い独裁者に仕えるのは疲れる。
そこまで判っていても、決してその素振りは見せてはいけない。
ある程度、仕事が出来る必要はあるが、出来すぎるのは良くないのだ。
「で、では、日本は何を目論んで。」
「うむ、我が国に対する牽制であろう。手を出すなと言う事だな。」
独裁者が、無事同じ推論に辿り着いた事に安堵はするが、まだまだ不十分である。
「しかし、牽制にもならないのでは?」
「モトロフ、卑しくも外交官たるもの、もう少し裏読みができねばいかんな。」
「はあ・・・」
「彼らは、英国、仏蘭西だけではなく、日本も参戦している事で、対独戦が早期に片付くと見ているのだ。まあ確かに、先の大戦の戦勝国が再び、独逸を叩くのだから、順当な判断であろう。」
「はい、それはそうですが。」
「そうなると、この間に我がソビエトが日本や英国、更には米国の権益まである満州奪還に動いたら、どうなる?」
「なるほど、対独戦が早期に終了するならば、全力で反撃してくると言う事ですか。」
「そうだ、如何に赤軍が精強とは言え、相手にするには少し時間が必要だ。」
少なくとも、苦労して築き上げた日本との良好な関係が、崩れ去る事はなさそうであり、モトロフは更に安堵する。

294shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/17(土) 12:57:17
「しかし、そこまで彼らの言いなりになるのは、革命の遂行には宜しく無い。」
得意げに話すスターリンの言葉に、水平線に湧き上がる雨雲を見たのは気のせいではなかった。
「諸君、この機会にソビエトは、失地回復に向かう。」
スターリンは改めて、その場に集まっていた綺羅星の将軍連中に向かって命令する。
「北欧奪還作戦を更に一ヶ月前倒しして、開始する。」
いや、このタイミングで、大英帝国を刺激するのは、最悪の事態を招きかねない。
慌てて、言葉を挟もうとしたが、スターリンの睨むような顔が目に入る。
「うん、モトロフ、まだ何かあるのか?」
「あっ、いえ、事は慎重に運ぶ必要があります。」
「それぐらい、私が考えないとでも思っているのかね。ニコライ!」
蒼い顔を浮かべて、悄然としていた内務人民委員部の局長がはっと身を固くする。
そう外務省は、この事態を予測できなかった責任は上手く免れたが、彼は違う。
「フィンランドとの開戦理由を明らかにするのだ。英国が納得するような理由をな。」
ニコライの蒼い顔が更に、青くなる。
「し、しかし・・・は、ハイ!」
ぎろりと睨みつけられたニコライはそれ以上、反論等出来る訳無かった。
これで、彼も終わりだな。
得意そうに、こちらを見るスターリンに軽く頭を下げながら、何も言わずに退出する。
モトロフにはこれ以上独裁者を刺激する気にはなれなかった。
頭の中に湧き上がる暗雲を振り払えないまま、モトロフは執務室を後にするのだった。

295shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/17(土) 13:00:36
「大統領が執務室に入られます。」
警護の海兵隊員の声を後ろで聞きながら、ランドン大統領は、久々に明るい笑顔を浮かべ、執務室に入った。
すぐさま横の扉が開き、秘書がコーヒーを持って現れる。
朝のコーヒーが上手いと感じたのは、何ヶ月ぶりだろう。
何せ、欧州で戦争が始まったのだ。
一月前の、チェンバレン首相とヒトラーとの会談が決裂した時点から、欧州ではきな臭い雰囲気が漂っていた。
海軍から、大西洋において、英国海軍の活動が活発になっていると言う報告も上がっており、これは何かあるかと思っていた。
それが、一昨日、突然英国より、全権大使としてチャーチルが派遣されて来た時には、確信に変わっていた。
欧州で再び戦乱が巻き起こる。
それは、合衆国にとって、果たしてメリットに繋がる事なのかどうかの判断は難しい所だった。
中立法がある以上、戦争になれば、英国や仏蘭西、そして独逸に対しての貿易は制限される。
まあ、その分第三国経由と言う方法もある訳であり、列強がその生産を軍需物資にシフトすれば、米国製の民生品の売り上げは上がる。
これは既に先の大戦で経験済みの事であり、その意味不況から抜け出せない合衆国には福音とも言えよう。
しかしながら、国内の資本家達にとっては、大きな痛手となる。
米国資本が投入されている二大地域の内の一つが戦場となる訳だから、彼らの投資が無駄になる可能性は大きい。
資本の損失を、需要が埋めきれるかどうか、否、埋めきれるだけではなく、更に上回るかどうかが問題だった。
もっとも、その分、もう一つの投資先満州は、今回は日本も最初から参戦すると言う事なので、米国系の企業は潤うであろう。
この辺りは更に、詳しい分析を誰かにさせねばと思いながら、チャーチルの話を聞いていると、どうやら少し違う展開であるようだった。
チャーチルは、英国及びその同盟国による統合軍を設立し、独逸国内からのナチス党の排除を行うと言う事を伝えに来たと言うのである。

296shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/17(土) 13:05:04
「これは戦争ではありません。我々はあくまでも「軍事制裁(Military sanction)」をナチス党に対して行うのであり、独逸国家に対する国家間での所謂「War」とは一線を画す行動なのです。」
得意げに語るチャーチルは、如何にも回りくどい英国人らしいと思うばかりだったが、どうやら違うらしい。
「それは、つまり、英国と独逸は戦争状態には無いとおっしゃるのですね。」
ここまで黙って聞いていた、スティムソンが、口を挟んだ。
「そうです。まあ国際法の解釈は、今後何十年も続くでしょうが、少なくとも大英帝国、仏蘭西、大日本帝国は、戦争状態だとは認めませんな。そして、アメリカ合衆国が同意して頂けるのなら、これは国際慣行として通用するでしょう。」
それで一体何が変わるのだと思っていたが、実際大きく変わるのである。
中立法!
これが適応されないのである。
アメリカ合衆国は、戦争を続ける両国に対して、民生品のみならず、兵器ですら販売する事が出来る。
戦争、いや軍事制裁が長引けば長引くほど、米国の利益は大きくなる。
ハッとして、スティムソンを見るが、彼も僅かに頭を下げ、同意を示していた。
チャーチルのいる前で、これ以上動揺を見せる訳にも行かず、なるべく平静の振りをしながら会談を終らせたが、多分あのしたたかな政治家には気が付かれただろう。

「ヘンリー、本当に中立法は適用されないのか。」
チャーチルを追い返すと、直ぐに国務長官と話し込んだ。
そして、二人の結論は、限りなく黒に近いグレーだが、今回はそれで押し通せるだろうという事だった。
いずれ、議会が何か法律を作ってくるだろうが、少なくともそれはこの制裁とやらが終ってからである。
そして、それまでは英国、独逸両国に対して、合衆国は、軍需物資を吹っかけて販売する事が可能となるのだ。
二人とも大人なので、絶対に外には見せられないが、それでも思わず、年代もののボトルを開き、乾杯したのだった。
そして、昨日の正午に、悲痛な表情を浮かべ、短波放送によるチェンバレン首相の演説を聞いた。
内心では小躍りしたい程なのだが、他のスタッフもいる中で、大統領たるものそう感情を表してはいけない。
この戦争、否、制裁が長引けば長引くほど、合衆国の景気は良くなる。
そして、次の選挙まで丁度一年。
上手く景気が回復すれば、殆ど諦めかけていた、再選の目も出てくる。
大西洋の向こう側での動向なので、状況把握には手間取るが、それでもどうやら独逸は大混乱に陥っているようであった。
しかし、ヒトラー総統率いるナチス独逸がこのままで終わる訳はない。
昨晩は、大統領になって以来、初めてぐっすりと眠れたのだった。

297shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/17(土) 13:07:53
椅子に腰を下ろし、朝のコーヒーを十分に堪能していると、国務長官が、昨晩以来の状況報告を持って部屋に入って来た。
「ヘンリー、状況は?」
「統合軍がハンブルグを占領した。」
ヘンリー・スティムソン国務長官の顔は、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
「なんだって、まだ一日も経っていないのに、そこまで行ったのか。」
「ああ、予想したよりも、独逸は軍備が整っていないようだ。」
「うーむ、そうか。そうすると、思ったより早くかたが着きそうなのか。」
期待が音を立てて崩れて行く。
たった一日で、主要都市が占領されてしまうなんて、なんて不甲斐ないのだ。
全く、ヒトラーは何をやっているのだ。
「いや、まだ判らない。少なくとも独逸陸軍、海軍とも抵抗らしい抵抗をしていると言う感じではないらしい。」
ランドンは怪訝な顔で、スティムソンを見つめる。
「ハンブルグにいた大使館員が直接、こちらに電話を掛けてきた。良く判らんが、無線は通じないようだが、国際電話はちゃんと繋がっている。」
スティムソンは書類を見ながら、続ける。
「独逸軍は、ハンブルグでは戦闘らしい戦闘もせず、後退したそうだ。統合軍は、戦車を先頭に殆どハンブルグを通り抜けて行ったらしい。これは、昼過ぎだから、今から三時間位前の話だな。ああ、ナチス党支部は占領されたとの事だ。ちなみに、砲撃らしい砲撃も無かったとの事だ。」
更に、書類を捲りながら、スティムソンは話し続ける。
「噂だけは、凄いぞ。仏蘭西との国境が破られた。チェコでは独逸精鋭部隊が壊滅した。ヒトラー総統は国外逃亡、ああこれは、ベルリンからの報告で、デマだと判っている。飛行機はバタバタ落とされている、まあ、こんなところだ。」
スティムソンは、書類の束を、机の上に放り投げ、座っても良いかと目で聞いて来た。
ランドンが軽く頷くと、ソファに深々と腰掛け、頭を抑える。
「どうやら、思った以上に、英国の用意は周到だったようだ。最もまだベルリンまでは200キロ以上あるから、何が起こるかは判らない。」
スティムソンが顔を上げて、真っ直ぐにこちらを見つめて来た。
「しかし、少なくもと我々はこの制裁とやらを当てにはしない方が良さそうだ。」
「そうなのか?」
「ああ、そうだろう。やはり他人の手を借りるのではなく、自分達で何とかしないと・・・」
ランドンは、黙ってスティムソンの次の言葉を待ち受けた。
自分は大統領で、彼は国務長官にしか過ぎないが、キャリアはスティムソンの方が長い。
頭を上げたスティムソンは、真っ直ぐにランドンを見つめる。
「我々は再来年、オーバルオフィスから追い出される。」
朝の清々しい空気は、一気に氷河期に突入したようだった。

298shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/24(土) 11:41:31
ポツダム、ベルリンから26キロ離れたこの地は、フリードリヒ大王が建設した宮殿がある。
そんなプロセイン王国時代の宮殿郡が散在するこの地で、二つの軍事勢力が相対していた。
モーデル率いる国防軍部隊が、初日の防御戦闘を突如停止し、撤退に入ってから既に一週間が過ぎていた。
モーデルは、近隣の残余部隊を吸収しながら、ゆっくりとベルリン方向に下がって行った。
一方、統合軍の方も戦闘らしい戦闘は一切行わず、それに追随するように、ベルリンを目指して行く。
結局、初日に80キロ近く前進したのにも関わらず、二日目以降の統合軍は、一日30キロ程度の前進に留まり、現在はベルリン郊外のポツダム付近まで進んで来ていた。
部隊は、統合軍第一兵団がほぼ全軍、と言っても3万人程度の兵力である。

299shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/24(土) 11:43:51
「本当に、大丈夫なんだろうなあ。」
アランは、一緒に偵察に出てきた西大佐に話し掛ける。
結局、アランのベルリン一番乗りと言う夢は、作戦の変更により遭えなく潰れてしまっていた。
「さあ、どうでしょうね。まあ最悪でも我々第一兵団が犠牲になれば何とかなるんじゃないですか。」
いや、俺は犠牲にはなりたくないのだが。
アランは心の中でつぶやいた。
西大佐はそんなアラン少将の心情も知らず、前方に広がる独逸国防軍の野戦陣地を望遠鏡で眺めている。
全く、独逸、いや欧州はなんて平なんだ。
ポツダム辺りには特に高い山も無く、ここも精々小高い丘程度の地点である。
双眼鏡で、見ようとしても、そこかしこに広がる小さな森に遮られ、独逸軍陣地の全容は全く掴めない。
ただ、望遠鏡には、その陣地の一部らしい地点が映っているだけだった。
それも、そこで兵士が塹壕を掘っているからそれが判る程度であり、彼らが居なければ、全く見つからなかっただろう。
戦線、いや戦線と言って良いのだろうか、独逸国防軍は、ここに来て、持久陣地らしきものの構築を始めていた。
しかしながら、それも非常にゆっくりとしたものであり、まるで目の前の統合軍の存在を無視しているかのようである。
統合軍の偵察部隊が、側まで行っても、攻撃を仕掛けようとはしない。
どうやら、上から発砲は禁じられているようであった。
そして、その状態が暫く続けば、兵達にとって、最早戦争は終わったも同然である。
兵達は、上のものが思うより、遥かに情勢に敏感である。
どうやら、上同士の話がついたようだと、素早く察知し、声を掛けて来るものさえ出始めている。
これが後二三日も続けば、お互い同士で糧食の交換等が始まる事が予想された。
このような状況に陥っている為、アラン少将と西大佐は、誘い合わせて最前線まで出てきたのである。
既に何箇所かを巡り、今は休憩も兼ねて、少し小高くなった丘に車を止めて独逸国防軍の陣地を眺めている所だった。
全面に展開している独逸国防軍は、兵力5、6万に近い大部隊である。
どうやら、ハンブルグからベルリンの間で、集められる限りの兵士をここに集結させたようであった。
栗林中将率いる、第一兵団司令部からは、発砲禁止と現状維持の指令が戦車大隊にも降りてきている。
それ故、第一旅団及び第二旅団の戦車大隊の指揮官二人が仲良く敵陣偵察なんぞに出て来れる訳である。
二人とも、お互い同士の戦車運用が気になり、話したかったと言う事もあり、二人はそんな話をしながら、ここまで出向いていた。

300shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/24(土) 11:54:19
とは言っても、目の前に広がる6万の独逸国防軍が脅威でない訳ではない。
機動力、砲撃力、防御力どれをとっても、今の統合軍の方が上回っているとしても、現実に6万の兵士が築城した陣地に篭もられては、それもかなり減衰する。
確かに、戦車中隊をすり潰す覚悟で1点突破を図り、そこから部隊を流し込めば、まだ何とかなると言う西の意見には、アランも同意しているが、今更それをやるのはかなり勇気が必要だった。
張り詰めていた気が緩んでおり、同じように作戦を実行しても、被害が大きくなるのは予想できたからである。
「うまくいくのでしょうか。」
双眼鏡を眺めたまま、西がポツリと呟く。
「ああ、きっとね。」
アランも気の無いような声で返事を返す。
全く、戦争がこんなに厄介なものになったのは、何時からなのだろう。
これまでは、素直に目の前の敵を叩きのめせば良かった筈だった。
しかしながら、この戦争は違う。
日英首脳陣に、独逸を取り込むと言う命題があり、その為に、両国の諜報関連の部門が精力的に動き回っていた。
勿論、統合軍は、軍と言う「力」で独逸を叩きのめせると言う自信はあるのだが、その方針には逆らえない。
それは判っているのだが、目の前に敵がいる状況で平然としているのは困難である。
しかも、独逸国防軍は、陣地構築と言う形で、時間が経てば経つほど強力になっているのである。
こちら側は、上陸した全軍を率いてここに来ている訳であり、とてもじゃないが持久戦等出来る状況ではない。
何しろ、ハンブルグに駐留した部隊や、ヴィルヘルムスハーベンの抑えの部隊すら連れて来ている。
最悪の場合は、第二兵団が上陸するまでここに踏みとどまる以外に道は無いと言う何とも恐ろしい状況に追い込まれている訳である。
こんな事は、独逸国防軍と話が通じていると言う状況でもなければ行えるものではない。
そして、二人ともその理屈は判っているのだが、軍人としては耐え難い状況であるのは間違いなかった。
二人はどちらとも無く、立ち上がり、軍服についた埃を払う。
「そろそろ・・・うん?」

301shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/24(土) 11:59:30
前方の森の中の小道を車が走り出てきた。
それはどうやら真っ直ぐこちらを目指してくる。
護衛の兵達に緊張が走るが、西は手でそれを押し止める。
四角いオープンカータイプの軍用車には、運転手と後席の将校が一人いるだけである。
「どうやら、進展があったようだな。」
「ええ、そうでしょうね。あれは将官ですよ。」
二人はどちらからとも無く、笑みを浮かべ、迫り来る車を待ち受けた。


「独逸国防軍陸軍少将ヴァルター・モーデルです。」
「英日統合軍少将アラン・アデア」
「日英統合軍大佐西竹一」
車から降り立った将官が、国防軍式の敬礼をしながらそう言うのを、二人は驚きを隠しながらも、返答する。
モーデルの方も、まさかここに将官がいるとは思っていなかったようで、少し驚いたような顔を浮かべている。
「どうやら、この戦争は終わりだな。」
気を取り直して話し始めた、モーデルに対して、二人が興味深げに見つめる。
「総統は、先程無くなった。」
全く悲しそうな顔も見せずに、モーデルは淡々と続ける。
「参謀本部での会議の後、出てきた所を武装親衛隊を引き連れたヒムラーに襲われ銃殺された。」
このような時期の、ナチス党内部での武力闘争は容認できるものではない。
事態を重く見た国防軍は、ベック参謀長の命令で、すぐさま戒厳令を発令し、ナチス党員の拘束を行なった。
幸い、党員の多くが、ここから目と鼻の先のサンスーシ宮殿に集められていた為、それは迅速に行われた。
急遽、暫定首相として、前陸軍総司令官フリッチュ陸軍大将が任命され、現在ポツダム郊外に展開する統合軍との交渉の為、こちらに向かっているとの事だった。
「それで将軍は、それを上層部に伝える為にお越しですか?」
それにしては、護衛も付けず、身軽な格好が気になり、西は尋ねる。
「いや、それは既にしかるべきものが、そちらの本部に向かっている。私は、まあ、個人的な用だ。」
二人は顔を見合わせる。
モーデルと言えば、一週間前に、それぞれの部隊が戦った国防軍の指揮官である。
彼が何を求めているのかは、二人でなくても興味がある。
「それで、閣下の個人的な用件とは?」
「諸君らの機甲部隊、いや、先日ハンブルグ手前で、我が方の仮設陣地を突破した指揮官、それとラウエンブルクの森をあんな馬鹿な速度で突ききった指揮官だ。彼らに会いたい。
いや、別に意趣返しを考えているのではない。幾つか質問したいのだ。」
二人は、更に顔を見合わせる。
最初のは、西の部下の島田少佐だし、ラウエンブルグは、ここにいるアラン少将本人である。
「これが終わって、指揮官が国に戻ってしまっては、聞きたい事も聞けない。しかし今なら、こちらに居る筈だ。ぜひ会わせて欲しい。」
「そ、それで、閣下、会えたら何をお聞きになるおつもりですか?」
「あの戦法だ!戦車等の機動車輌を敵陣に突っ込ます。作戦と言えるかどうかは判らないが、少なくとも相手が十分な防御を持っていない場合は有効だと思う。
あれは、予め考えた戦法なのか、それともその場の思いつきなのかだ。」
「あれは、島田が以前から考えていた戦法ですが、そう度々使えるものではないですが。」
「島田と言うのか、彼に会えるだろうか?」
やはり、独逸軍は恐ろしい。
自分が相手にした統合軍の戦法を理解しようとして、ここまで単身やってくるなんて。
十分な兵力を与えて敵にはしたくない。
二人とも考えている事は同じだった。
「案内致します。島田少佐は私の部下ですし、ラウエンブルクの森に最高速度で突っ込んだ、向こう見ずな指揮官は、こちらのアラン少将です。」
モーデルが驚いた顔で、アランを見つめる。
アランも少し照れるのか、軽く頭を下げた。
「あ、ああ・・・、色々話を聞かせて欲しい。」
三人は車に乗り込むと、部隊の待つ陣地へと向かっていった。
たった一週間の戦争、いや実質的にはハンブルグが落ちた時点で終了した戦争。
「のと」世界では、五年近く争った英独であったが、少なくともこちらでは信じられない程の短期間でそれは終了したのだった。

302shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/24(土) 12:04:13
 第一兵団の栗林司令官と、独逸暫定首相フリッチュ大将の会見は、非常に手短に終了した。
ヒトラー総統の暗殺と言う事態を受け、両軍とも停戦するのは何ら問題が無かったのである。
それに、統合軍の目的である、NSDAPの排除は、既に独逸国防軍が始めており、統合軍にしても、それを独逸国内勢力で実施して貰えるならば、異論は無い。

直ちに、停戦協定が締結され、第一兵団は、事態が安定するまで、ポツダムに滞在する事となるが、これは仕方なかった。
NSDAPの政策は上手く行っていた側面もあるため、国防軍の政策に反対する勢力に対しては、統合軍の存在は、非常に重要な意味を持つのである。
即ち、NSDAPを排除するか、英国と戦争を行うかの見本を突きつけられれば、正常な国民にとって、どちらを選択すべきかは、少なくとも表面上は選択の余地は無かった。
統合軍が提供するプロパガンダも徹底していた。
「悪いのは、拡大主義に走ったNSDAPの横暴であり、独逸国民は、その被害者である。」
と。

303shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/24(土) 12:07:58
即日、イーデン外相が、統合軍の代表として独逸に入る。
すぐさま、独逸周辺国の大使が集められ、独逸暫定政府との交渉が開始された。
イーデンが表上要求したのは、独逸政府、地方自治体からのナチス党員の排除と、総選挙による新たな政権の樹立だけである。
領土問題等は、各国政府と個別に交渉して欲しいと言うだけで、統合軍としては一切関与しないと表明する。
おかげで、勝ち馬に乗る積りで独逸に対して要求を述べようとした仏蘭西や波蘭大使は、拳の下ろし先に戸惑うばかりであった。
勿論、英国や、帝国は統合軍とは別個に、独自の代表を送り込んでいるのだが、彼らが余計な要求を挙げる事は一切無かった。
結局、各国の不満はあったが、これらの交渉は全て新政権が樹立されてからと棚上げされたのである。
 そして、表上の交渉事が終わると、イーデンは爆弾を投下する。
それは、チェコスロバキアが、日英を主体とする統合軍に対して、部隊の拠出を申し出ているとの発言だった。
これは、対独戦開始前に、チェコスロバキアのエドヴァルド・ベネシュ首相と山本・マッキンレーが纏め上げたシナリオだった。
ズデーテン地方の領有は、チェコスロバキア政府である事は、実際に独逸軍を苦しめた結果、チェコ政府が手に入れたトロフィーだった。
しかしながら、独逸の政権が変わったにしろ、この地方に対する脅威がなくなる訳ではない。
これに対して、安全保障として統合軍の存在は非常に大きい。
何を言っても、チェコスロバキアのベネシュ首相は、目の前で統合軍の戦車がグーデリアン率いる独逸装甲軍団の戦車を撃破しているのを見ているのである。
軍の何割かがチェコ政府の支配から外れるにしろ、それを補ってお釣りが来るのが統合軍だと言う認識は揺らぐものではなかった。
そして、この発言を受け、さりげなくフリッチュ暫定首相が、独逸海軍の即時編入と、事態が収束し、新政権の承諾が得られれば国防軍の一部も統合軍に参加すると発言すると、会場に動揺が走った。
イーデンは、それはありがたいと発言するだけで、何のコメントも発せず、会議を終了に導く。
招聘されたオランダ、ベルギー、仏蘭西、波蘭、瑞西の大使達が、真っ青な顔で本国と連絡を取る為に、殆ど駆け出さんばかりだった。
部屋を出しな、デンマーク大使が、イーデンに話し掛ける。
「我が国も、統合軍に参加する積りですが、何せ軍人が少ないのが申し訳ないですな。」
「イヤイヤ、デンマークの参加は欠かせません。ありがとうございます。」
そう、最悪の場合、キール軍港に対する攻撃も視野に入れていた統合軍は、独逸周辺国ではチェコスロバキア及びデンマークに対しては、戦前から交渉を実施していたのである。
結局は、誰も予期しなかった程、短期間で終わってしまったため、活躍の場は少なかったが、独逸に対する電波妨害や、NSDAPの悪行の証拠作り等、表に出ない部分で協力は大きかった。
イーデンは、去り行くデンマーク大使に頭を下げ見送ったのである。

304shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/24(土) 12:12:17
対独戦が、初日のモーデル少将の自主的な停戦から、一週間も掛かった理由がここにあった。
独逸海軍は、ヴィルヘルムスハーベンの説得が上手く行った時点で、統合軍への参加をキールにいるレーダー提督も受け入れていた。
しかしながら、国防軍に対する説得に時間が必要だった為、当初の予定とは違い、それは公表される事なく、今日に至った訳である。
結局、山本・マッキンレーのコンビは、独逸国防軍首脳陣を順番に説得せざるを得ず、その為に一週間近い日数が必要だったのだ。
独逸軍は、多分欧州で最強の軍足り得た。
しかしながら、それはどのような形であれ、周辺諸国の脅威とならざるを得ない。
これに対して、英国との完全な同盟化を選択する事は、この脅威を大きく減ずる事が出来る。
実際に理屈としては、判らないではないのだが、そう簡単に実現できるものではない。
また、お互い同士の不振がある限り、そうそう頷けるものではなかった。
日英のように、曲がりなりにも立憲君主が存在する国家、また両国の首脳陣のように、「のと」情報から大英帝国の没落や太平洋戦争の結果を知ってしまった国家ならば、このような決断も出来よう。
しかしながら、独逸には国王も居なければ、「のと」情報も開示されていない。
その中で、統合軍への参加を納得させるのは、山本やマッキンレーにとっても至難の技だった。
独逸海軍のように、沿岸海軍から本格海軍への脱皮を目指す、小規模組織ならば選択はそれ程難しい問題ではなかった。
海軍は、常に陸軍の下に見られ、世界三大海軍の内の二つとの共同軍と言うのは、現状よりも遥かにより良い待遇が待ち受けている。
これに対して、世界最大の陸軍国を目指す国防軍は違う。
現場で、戦闘を行った将軍、モーデル少将等の指揮官は、長期的な視点ではなく、今ここにある敵軍と同等の装備を持てるだけで、十分参画する価値があると考えた。
だが、後方で、ハルダー参謀長のように、実物を見ていない将軍、更には将来を考慮する将軍連中の説得には時間が掛かるのも当然だった。
独逸国防軍が、独逸の利益ではなく、日英の利益の為に活動する可能性がある以上、簡単に納得する訳には行かないのが、彼らの立場である。
しかしながら、彼らのも統合軍の装備の充実ぶりを目にし、そして、何よりも東の大国の脅威を指摘され、最後には強権の可能性、即ち実際に戦闘にてけりをつけると言う脅しまで含めて説得されれば、どうしようもなかった。
時間は掛かったが、最後は頑固な将軍達も納得し、そしてヒトラー総統は、ヒムラーの凶弾に倒れたのであった。

1938年10月15日、独逸第三帝国は、独逸共和国として、新たに統合軍への参画を宣言したのである。

305shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/24(土) 12:14:20
「山本さん、あなた、一体何をしたんですか!」
ベルリン郊外の豪邸の一室で、大きな声が響く。
戦闘が終了したと聞かされ、イーデンの搭乗する特別機に紛れ込んで独逸に来た高畑は、部屋に入ってきた山本の顔を見ると、大声で叫んでいた。
「うん、私は私の仕事をしただけだが?」
少し遅れて入ってきたマッキンレーに軽く会釈すると、山本は徐に、ソファに腰を下ろす。
「まだ、二つもの軍隊が、海の上なんですよ、彼らをどうするつもりですか。
梅津さん達軍の人や、英国政府の連中なんかもう大変な目に会っているんですよ。
一体、何をしたんですか?」
「独逸国防軍のクーデターだよ。
我々は、それに手を貸しただけだ。」
説明終わりと、マッキンレーがテーブルに置かれたカップに手を伸ばす。
苦笑いを浮かべた山本が話し始めた内容は、高畑を驚かすには十分だった。
「のと」資料にも記載されていた、独逸国防軍のクーデター計画は、殆ど完成していたのである。
ただ、「のと」世界では、チェンバレンら融和派と呼ばれる勢力の働きかけで、彼らのクーデターは未遂に終わり、その後第2次世界大戦になだれ込んで行く。
しかしながら、実際は違った。
英国の強硬政策のお蔭で、クーデターは実行に移されようとしていた。
国防軍の精鋭部隊が、ズデーテン地方に侵攻する事で、ヒトラーの関心はチェコに向く。
その時点で、プロセイン地方で編成中であった第4装甲旅団がケンプ少将の指揮の下、首都ベルリンを占領し、ヒトラー総統以下、NSDAP首脳陣を拘束する。
「元参謀総長のベック大将が計画の首謀者だ。我々はそれに手を貸しただけだよ。」
山本の話す内容に、高畑は唖然とする。
「そ、そんな事ご存知ならば、統合軍に連絡すれば。」
「いや、我々がそれを知ったのは9月に入ってからだ。そこから軍事作戦に介入は百害あって一理なしだ。
それに、マッキンレーも私も政府の人間じゃないからな。」
平然とそう嘯き、山本もコーヒーを口に運ぶ。
「まあ、井上あたりは、我々は保険の積りだったようだかね。」
「井上さんは、知ってたんですか!」
「ああ、英国側にも何名かに伝えてあるぞ。」
「全く、軍や我々は、良い様に踊らされていただけですか。」
「いいや、そうではない。軍が全うに作戦を実施してくれたから、こうまで短期間に成功したようなものだ。これが馴れ合いだったら、ヒトラーも気がつく。」
そう言われれば、高畑も頷くしかない。
「しかし、何で山本さんの所にそんな情報が入ったのですか。国防軍のクーデター計画が外部の人間に漏れるなんて考えられませんよ。」
「ああ、それか、フリッチュ大将に教えて貰ったのだ。」

306shin ◆QzrHPBAK6k:2007/03/24(土) 12:17:25
彼らは、チェコスロバキアのベネシュ首相の説得の為に、八月から独逸、チェコスロバキアでの活動に入った。
一国の首相を動かすのには、それ相応の人物でなければならず、その点山本は、総研の欧州所長と言う肩書きが役に立った。
また、各国での情報収集組織の編成を始めていた点も大きい。
変な言い方ではあるが、表立っての諜報組織と言う前代未聞の組織であるため、下部組織はそれぞれの国にある、地場の顔役や、反政府系の団体等をそのまま採用すると言う無茶を行っている。
この結果、他国の諜報機関関係者も紛れ込んでいるが、それは判っていて利用している。
そして、独逸においては、NSDAPのスパイもいたが、同時に国防軍の関係者もいた訳である。
日英が、罷免されたフリッチュ大将を戦後の独逸側の交渉相手と定めたため、山本達が、彼に接触する。
そして、フリッチュ大将はクーデターには参画していなかったが、計画は知っていた。
そう、この二点から、山本達がクーデター組織「黒い礼拝堂」との接点を持つに至った訳である。

「そうなんですか、了解しました。まあ、少なくとも戦争が長期化するよりは遥かにましな結末ですからねえ。」
高畑は尚も理解できないと言うように、首を振りながら溜め息を吐き出す。
「しかし、アフリカにいる軍と、船に乗っている第二派の連中はどうするんですかね。
まあ、私はここで独逸経済界の方々と打ち合わせですけどね。」
余りにも対独戦があっけなく終了してしまった結果、第二兵団と第三兵団が中に浮いてしまっていた。
あの連中に掛かる費用も政府には頭の痛い問題となる。
勿論、戦争が長期化すれば、誰もそんな事は言い出さないのだが、たった一週間で終わってしまえば、そうも思いたくなるものだった。
「いや、それは問題ないだろう。第二はフィンランド、第三は伊太利亜に送る予定だと聞いたが。」
マッキンレーがぼそりと呟く。
高畑が飲みかけたコーヒーを危うく噴出す所だった。
「どうして、あなた方は、そんな情報まで知っているんですか!」
「そりゃ、君、我々は諜報機関の長だからだよ。」
山本は悠然とコーヒーを飲みながらそう答えるのだった。

309shin ◆QzrHPBAK6k:2007/04/04(水) 23:33:39
「どうやら、独逸は落ち着きそうだな」
「ああ、裏で色々問題はあったようだが、フリッチュ暫定首相の暫定は取れたよ」
ニヶ月半ぶりに帰国した梅津が井上の問いに答える。
「で、報告では上手く行ったとあるが、産業界の方は問題はないのか?」
「一応、ゴールドスミス家が音頭を取って、クルップやシーメンスと話は付けてくれたからね。既に、生産ラインの改変は始められている。年明け早々にも最初の戦車がラインアウトする見込みだよ」
こちらは高畑が、答える。
彼も二ヶ月間、独逸での交渉を纏め上げ帰国したところだった。
「英国の状況はどうなのか?」
それまで、黙って聞いていた総研所長が、口を挟んだ。
久しぶりに、宮城内にある総研の会議室。
所長以下、井上、梅津、高畑、八木、高柳ら、総研の主要メンバーが全員集まるのは何ヶ月ぶりであろうか。
全員が集まるのも珍しいが、今回は、それ以外にもう一人、いや通訳を連れているから二人か、メンバーが増えている。
ケインズだった。
「チェンバレンの人気は凄いものですよ。開戦時は落ち込みましたが、あれ程鮮やかに、戦争が終結しましたので、長期政権化は間違いないでしょう。ああ、英国王室の方からも、叙勲の話が出ています」
ケインズは、答えながらも、違和感を感じずにはいられなかった。
正面には、大日本帝国の君主が座わり、自分の言葉に満足そうに頷いている。
そして回りは、自分以外全て日本人である。
英国人の自分が、ここにいること自体、違和感の塊である。
だが、これが、総研と言う組織の長が望んだ事である以上、おかしな事ではないのであろう。
総研の重要な会議は、英国の総研と対になる組織に対しても案内が出される。
結果として、ケインズ自身か、クラーク、もしくはマッキンレーの誰かが可能ならば参加すると言うルールが出来ていた。
勿論、日本がそう来る以上、英国側も同じように、オブザーバーとして、総研のメンバーに対して出席案内が出され、大概は高畑がそちらには出席している。

「ソ連は結局動かないままか?」
「ああ、部隊は北に張り付いたままだが、まだ動かない」
梅津が困ったように、溜め息を付く。
ソビエト連邦は、統合軍が独逸に侵攻する以前から、部隊を北欧方面に集め始めていた。
もっとも、それは帝国やトルコ、フィンランド等の周辺国家間の、継続的な諜報活動の結果として浮かび上がったものであり、ソ連側はそれを秘匿しているつもりであった。
しかしながら、対独戦が開始されると、部隊の移動はあからさまに行われるようになり、フィンランド側の緊張は否が応でも高まっていた。
ソビエトが、フィンランドとの冬戦争を開始しようとしている。
「のと」資料を知るものは、一年早いが、誰もがそう思った。
結果、独逸上陸予定だった第二兵団は、そのままバルト海に入り、フィンランドへと向かった。
フィンランドのカッリオ大統領は、急遽国軍総司令官に任命されたマンネルヘルム元帥の進言を受け、これを受け入れる。
更に、第三兵団は、対伊太利亜政策の実施を延期し、11月中旬には、スコットランド北部に作られたバイナキール統合軍基地での待機に入り、ソ連の侵攻を待ち受けた。
ソビエトが、フィンランドに侵攻すれば、防衛陣地帯、通称マンネルハイムラインにて展開した第二兵団がフィンランド軍と共同でこれを防ぐ。
そして、必要ならば第三兵団が遊軍としてソ連軍の後方に上陸、展開する。
ここまでの作戦計画を策定し、これを実行可能にすべく、大童で、準備が進められていた。
特に、冬季兵装は不十分であったので、満州方面での備蓄を取り崩して、英国へと送る事すら行っていた。
11月下旬までには、これらの手配も済み、誰も望んでいる訳ではないにしろ、日英そしてフィンランドの準備は、ほぼ整ったと言えよう。
ところが、ここまで来てソビエトは開戦しなかった。
それから一ヶ月、ソビエトは国境付近に40万以上の軍勢を貼り付けたまま、動こうとしない。
何か外交的交渉の圧力として使われるのかと言う見方もあったが、それも無いままである。

310shin ◆QzrHPBAK6k:2007/04/04(水) 23:35:17
「バルト三国、エストニア、ラトビア、リトアニアに対しても何も行動してないのだな」
「ああ、そうだ、まあ軍事的な圧力は物凄いが、それを何ら結びつけるような行動を起こしていない」
「理由は、不明のままだな」
「ああ、堀、山本さん、マッキンレー、英国陸軍情報部も何も掴んでいない」
ケインズもその話を聞いて頷く。
確かに、何かが行われているとしたならば、それはかなり上層部で決定された事に違いなかった。
「英国政府はどう見ていますか?」
「困りこんでいますな。臨戦態勢のままで軍を維持するにはコストが掛かりますからな」
英国は、統合軍に派遣している四個師団以外に、本国師団を二個仏蘭西に展開していた。
対独戦が終了した以上、これらの二個師団は、大急ぎで本国に引き上げられていた。
本来ならば動員体制を解除し、通常レベルまで戻すべきなのだが、北欧の情勢が情勢だけに、英国政府も、帰国した二個師団と、新たに練成中の四個師団の体制を崩す訳には行かなくなっていた。
元々、英国は海軍国であり、平時の陸軍師団の兵員は少ない。
また、予算配分も海軍重視である。
帝国のように、平時から陸戦部隊をある程度維持し、しかもその展開先が限られている国家ならば、その維持コストも予算内に組み込まれている。
しかしながら、大英帝国は、世界国家であり、各地に派遣される軍の規模も帝国よりも遥かに大きい。
結果として、本国に統合軍も含め、八個師団もの軍を維持するのは、無駄以外の何者でもなかった。
戦闘が始まれば、臨時予算なりが組まれる為、問題とはならない。
しかしながら、戦闘が開始されないまま、数ヶ月に渡って、軍を維持し続けるとなると、それは別だった。
「このまま年を越す事となれば、来年予定されている軍の兵器更新が遅れる可能性すらあります」
ケインズが憂うような表情で答える。
「そうなると、独逸の装備改変も遅れるか」
「ええ、そうなりますな」
部屋の中に、困惑が広がる。

311shin ◆QzrHPBAK6k:2007/04/04(水) 23:37:22
対独戦は、第2次世界大戦を防ぐ為に行われた訳ではない。
戦勝国の英国は、戦後の経済破綻による没落を阻止する為、そして帝国は、国家の維持の為に行った戦いである。
戦闘自体は、両国首脳があきれ返るほど、早期に終結したが、そのために帝国は足掛け九年、英国も、三年の準備を経て行われているから、これも当然と言えば当然だった。
そして、対独戦の一番の目的は、陸軍国独逸の取り込みだった。
日英とも、海軍国であることは言うまでも無い。
「のと」資料以前の帝国は、中国進出、そして満州国と言う領土を得た為に、島国であるにも関わらず、陸軍の拡充を進めざるを得なかった。
結果として、国家戦略が政府、海軍、陸軍全てがバラバラと言う泣くに泣けない状況に陥った訳である。
これに対して、英国はその歴史的経験から、海軍国である点を維持し続けていた。
海がある以上、陸軍が幾ら強くても、海軍さえ維持できれば、その領土を維持できる。
要は幾ら強くても、海を渡らせなければ問題とはならないのである。
同時に、大陸の陸軍国を味方に付ける事で、必要な兵力を確保して来た。
ところが、「のと」世界では、その味方とすべき陸軍国仏蘭西があっけなく敗退してしまう。
あの世界で、その代替となったのが、米国であるが、困った事にこの国は、陸軍国であるが、ユーラシア大陸からは、遠く離れていた。
その結果、米国は、海軍国としての側面も持っており、最終的には大英帝国の利権を全て奪う事となる。
その事が解っていれば、英国の選択は限られてくる。
また、帝国にとり、米国はこの時点では、パートナーとしての選択は無かった。
米国はあくまでも海軍国のライバルであり、決して陸軍のライバルではなかったのだから。
日英両国にとり、独逸は倒すべき敵ではなく、陸軍国のパートナーとして味方に引き込むべき国家となったのである。
そして、その障害となるナチス独逸の排除の為、対独戦が開始され、それは成功裏に終わった。

次の計画は、独逸国防軍の強化であった。
日英は、兵装の共有化、共同での兵器生産により、両国の生産性を格段に高めている。
これに、独逸も加え、三カ国で必要な兵器を生産する事により、更に効率を上げようと計画されていた。
最終的には、日英独三カ国の、兵器生産企業同士の競争となるのは仕方ないが、少なくともそれぞれ独自の開発費は削減される。
それに、日本では日商を窓口に、英国ではロスチャイルド家、そして独逸にはその一族であるゴールドスミス家があり、それぞれの国家間の企業の調停はある程度は可能である。
実際、この二ヶ月の間に、高畑が独逸企業との交渉を纏め上げられたのは、ロスチャイルド家自身が、高畑をその代理人と認めた事も大きかった。

312shin ◆QzrHPBAK6k:2007/04/04(水) 23:40:07
「どれだけ時間があるかが、問題か・・・」
井上が呟く。
ここまでは、計画通りであるとも言えよう。
しかしながら、既に計画には大きな齟齬が発生している。
そこには、二つの要因があった。

一つは、対独戦が余りにも早期に終了した事による問題だった。
それは、鮮やかな勝利であり、欧州全域を覆っていた、新たな戦争への恐怖を払拭したと言う効果は大きい。
しかしながら、実際に戦闘は、ハンブルグ周辺及び、チェコスロバキアのズデーテン地方における小競り合い程度しか発生していない。
勿論、その正面に立たされた、グーデリアンやモーデルは、彼我の戦力差を痛感しているが、それは独逸国防軍全体と言う訳ではない。
せめて、もう少し大きな戦闘が発生し、その結果、独逸国防軍の1個師団程度が、壊滅してくれていれば、その教育効果は大きかったであろう。
勿論、第一兵団は、今年一杯は、ポツダムに滞在し、独逸国防軍にその装備を見せつける予定であるが、それでも戦闘による教育効果とは、比べ物にならない。
その為、独逸国防軍の新兵装への転換は、ゆっくりとしたものとなる。

そして、もう一つの要因は、ソ連の動向だった。
「のと」世界でのソ連が、本格的に動き出すのは、ナチス独逸と連動し、39年、それもポーランド分割からである。
アジアにおける軍事的な小競り合いは、それ以前から起きているが、「のと」世界での帝国陸軍とのノモンハン事変、バルト三国、エストニア、ラトビア、リトアニアの保護国化も1939年に発生している。
ソビエトの動向は、様々なルートを通じて、かなり正確に把握していたが、実際に赤軍上級将校の粛清も発生しており、この世界でもほぼ同様の道筋を辿っているものと思われていた。
もっとも、総研にしても、独ソ間の緊張関係の推移次第では、ソ連が今回の対独戦開戦により、動き出す事はある程度予想はしていた。
その為、フィンランドに対しては、かなり早い時点から、帝国が対ソ同盟的な動きを開始している。
実際、虎の子の97式中戦車を百両程度ではあるが、直接フィンランドに販売している。
航空機にしても、試作増加型ではあるが、英国はスピットファイヤ、帝国は疾風を供給している。
しかしながら、対独戦開戦後の二週間の間での、赤軍の急激な北欧シフトは、日英の予想を上回るものであった。
その為、両国は、対独戦の終了と共に、急遽第二兵団を直接フィンランドに送り込む事すら実施したのである。

313shin ◆QzrHPBAK6k:2007/04/04(水) 23:42:17
ところが、ここに来てソ連は、「のと」世界で呼ばれていた、冬戦争を開始していない。
既に、12月も中旬まで過ぎている今の時点で、開戦していない以上、今年度中の開戦は無いかも知れず、そして、来年になれば雪解けまでの期間が短い為、開戦する可能性は益々低くなる。

かと言って、開戦が無いと言う事で、ここで警戒態勢を下げると言うのは、フィンランドには到底出来ない事であり、また展開している統合軍の第二兵団にしても、引き上げる訳にはいかない。
そして、この中途半端な状況が継続すればするだけ、日英両国にとって、その負担は大きくなるのだった。
日英両国とも、政府があり、官僚がいる。
実際の経費が発生し、それを処理するのは官僚である。
戦争が始まらないのに、費用が発生すると言う状況は、これらの名も無き人々の反発を買うのは十分過ぎる事態であり、その処理に対しての軋轢はどうしても大きくなる。
それに、対応するにしても、政府も戦争と言う特別な事態が発生していない以上、大幅な予算の増額も難しい。
対独戦と言う事での、特別予算枠が確保されていた訳であるが、それも戦争が早期に終了した事で、取り崩されており、新たな予算枠の確保が出来ない以上、通常の軍事予算内で処理せざるを得ない。
結果、次年度における装備更新予算が、圧迫される事となるのである。

勿論、このような問題は、あくまでも短期的な軋轢でしか過ぎない。
翌年になれば、新たな予算組が可能であり、その中での吸収も不可能ではない。
しかし、井上が言うように、時間が問題なのだった。

314shin ◆QzrHPBAK6k:2007/04/04(水) 23:44:26
総研調査班による分析によれば、第2次世界大戦、「のと」世界でそう呼ばれている一連の戦争は、決して一つの戦争ではなかった。
列強各国の覇権競争による幾つかの戦争が組み合わされたのが、世界大戦の実情である。
仏蘭西と独逸の軋轢、英国と独逸、独逸とソ連、ソ連と帝国、帝国と米国、帝国と中国、米国と独逸、そして、この間で振り回されたその他の国々、これら一連の戦争が合わさったものが第2次世界大戦なのである。
中国と米国の朝鮮戦争、ソ連と米国の冷戦と言う名前の戦争まで含めてしまえば、第2次世界大戦は、ソビエトの崩壊まで続いた、60年以上もの戦争なのである。
それを理解しているが故に、日英はまず独逸を叩いた。
ここで独逸を、味方につけてこそ、初めて日英にもこの長きに渡るサバイバルレースにて、勝者として生き残れる可能性も、出てくると言うものだった。

ここまでは良い。
その為の方策を巡らし、最初の戦いにて勝利を納めた。
しかしながら、この競争はまだ始まったばかりである。
今後、ソ連、そして米国と言う競争相手が躍り出てくる前に、どれだけ差がつけられるか。
いや、どれだけ差を縮められるかと言うべきか。
とにかく、日英独の連合を、一つのものとしなければ、どちらの列強に対しても対抗出来るものではない。
その為の時間は、短ければ短い程良いのは、判りきった事である。
むしろ、その為の時間があるのかどうかが、一番不安な点だった。

「とにかく、現状では、ソ連の出方を伺いながら、こちらの準備を整えるしかないな」
梅津が、まとめるように言う。
そう、まだまだ始まったばかりであり、今後の行方は混沌としている。
「ああ、ミスターケインズ、英国首脳にもこの事は良く理解してもらって欲しい。我々は独逸を押さえる事は出来た。しかしながら、第2次世界大戦は、まだ始まっていないと」

その事を理解するのを確認するように、井上は一人一人の顔を見て行く。
所長も含め、全員が厳しい顔を向けている。
大丈夫、我々はここまで辿り着いたのだ。
そう、このメンバーならば、この先も進んで行ける。

316shin ◆QzrHPBAK6k:2007/04/07(土) 16:05:08
1939年、「のと」世界では第2次世界大戦が始まった年が明けた。
「眠いね」
高畑が、如何にも疲れたと言う顔で、呟く。
時間は朝の八時過ぎ、それも一月一日である。

何せ、所長が新年の挨拶をしたいと言い出したため、全員が朝の五時から宮城にある総研の会議室に集まっていたのだ。
年頭の公式行事が山積みの所長のスケジュールを考えると、元旦の朝五時と言う非常識な時間に、集まらざるを得なかった。
それでも、所長の気持ちが判っているだけに、誰も否な顔せず喜んで集まっていた。
それに、三が日が過ぎれば、今度は高柳が、他の多くの科学者・研究者を率いて英国に向かうのである。
これまで国内での調査研究に勤しんできた彼も、流石に英・独との共同研究の推進役として、動かざるを得ない。
高畑も、再び欧州に舞い戻り、経済協力の基盤作りに邁進する。
そして、留守番役を梅津に代わり、今度は井上がユーラシア大陸を一巡りする予定となっていた。
それだけに、所長も激励したいと言う気持ちに嘘偽りは無く、全員が正月だけに、燕尾服に身を纏い待ち受ける中、一人の女性を伴って、所長が会議室に入ってきたのである。
流石にこれには井上でさえ、硬直したように固まってしまった。
皇后陛下である。
後から入ってきた侍従が、ワゴンに積んだ朱塗りの器を運んで来、全員の席に鮮やかな漆塗りの盆を置き、その上に並べてゆく。
侍従が下がると、淡いピンクの洋装に身を纏った皇后自ら、お神酒であろうか、それらしいものが入った器を取り上げると、順番に注いで行く。
流石に、梅津が恐れ多いと止めようとするのを、所長が軽く遮る。
全員が、硬直して見守る中、皇后は、全員の盃にお神酒を注ぎ終わると、所長の斜め後ろに下がる。
ケインズと入れ替わるように、帝国にやってきたクラークは、この女性が誰だか判る筈も無い。
それでも、全員の態度から、察する事は出来、彼も固まったままだった。
所長は、皇后に軽く頷く。
「こうして君達と無事新年を迎える事が出来、本当に嬉しい。この十年間の君達の働きには、感謝しても仕切れるものではない。」
所長は、言葉を切り、一人一人を見回す。
「ここでは、私は総研所長と言う立場で、君達と接して来たし、これからもそうして行こうと思っている。
しかしながら、そうである以上、諸君らに感謝の念を示すのに、適当な方法が無い。」
ここで、所長は少し照れたような顔を浮かべ、皇后を振り返る。
「そこで、皇后、いや、ええっと、家内と相談し、このような形を取る事とした。」
流石に、所長も言葉に詰まる。
「これでも、かなり異例の事であるのは、重々承知しているが、他に適当な方法が思いつかなかった。
とにかく、諸君、あけましておめでとう。そして、これからも宜しくお願いする。」
所長の音頭で、全員が盃を持ち上げ、頭を下げる。

317shin ◆QzrHPBAK6k:2007/04/07(土) 16:06:20
総研は、陛下の私的機関である。
それ故、ここでは陛下は所長と言う肩書きで、表の儀礼を無視するような行動を取る事が出来た。
しかしそれは、非常に危険な事でもあった。
陛下に直接意見が言える場であり、陛下のご意向であると言う言葉が総研メンバーから、外に発せられればどうなるのか。
それでなくても、総研の意見は政府の指針となっているものが、完全に新たな権力中枢となってしまう。
勿論、井上以下、総研のメンバーはその危険性を認識しており、分をわきまえる事に力を尽くしていた。
最初の出だしが粛軍と言う形で始まっている以上、一歩間違えばどうなるのかは、良く判っているだけに、尚更だった。
そして、陛下もその事は判っている。
それだけに、陛下もメンバーに対して、感謝の意を尽くす事が出来ない。
表の肩書きを使い、メンバーに叙勲やそれ相応の待遇を与える事は簡単であるが、それが出来ないのである。
それをやってしまえば、総研と言う曖昧な機関に、権威を与える事となってしまう。
結果として、異例尽くめの元旦の挨拶に繋がった。

それ故、最初の高畑の言葉に繋がる。
所長の気持ちも判る。
感激屋の梅津等は、まだ感極まったような顔を浮かべている。
高畑も所長の気持ちに、熱いものを感じてはいるのだが、流石に元旦の朝の五時からでは、疲れてしまうのは仕方なかった。

318shin ◆QzrHPBAK6k:2007/04/07(土) 16:08:21
「で、結局ソ連は動かずに年が明けた訳だが?」
高畑が、気を取り直して梅津に問い掛けた。
「ああ、あれか。困ったもんだ」
梅津が苦りきった顔で、答えた内容は次の通りだった。

結局、ソ連は日英統合軍のフィンランド展開に気が付き、北欧諸国への戦闘へ踏み切れなかったと言う事らしい。
一番大きな理由は、対独戦がたった二週間で終わってしまい、その影響で、空いた第二兵団をフィンランドに展開出来た事だった。
スターリンにしても、フィンランドとの戦争だけならば、躊躇わないのだが、そのまま日英との戦争は避けたい。
そして、ソ連が手に入れた情報は、ここでフィンランドに侵攻すれば、日英はソ連を攻める可能性が高いと言う事だった。
それも、独逸に展開中の部隊がポーランドを通過し、満州国境からは、帝国軍及び中華北辺軍がなだれ込むと言う情報である。
「ええっ、そんな計画あったのですか?」
八木が驚いたように言う。
それはそうである、少なくとも総研では、そのような戦争計画があるなどと言う事は、全く話題にも上がっていない。

「いんや、無いよ」
井上が、切り捨てるように言う。
しかしその顔は、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
「堀さんとこだ」
梅津が続ける。
「近衛さんに付きまとっている、ゾルゲがいるだろ。彼にそのような情報を、わざと流したそうだ」
リヒャルト・ゾルゲ、独逸の新聞記者と言う事で、帝国に滞在しているが、「のと」情報から、彼がソ連のスパイだと言う事は、判っていた。
「偶々、山本さんとこも、その線で動いていたらしい」
「それは、統合本部と、総研情報班の連携と言う事ですか?」
流石に、総研メンバーが知らない所で、そのような連携が取られるなら、これは問題である。
確かに、堀と山本は、海軍時代の同期であり、仲も良い。
だからと言って、そんな事が許される訳は無い。
「いや、流石にそこまでは無かった。山本さんは山本さんで、陽動作戦の積りだったらしい」
井上が困ったような顔をする。
山本が行っている、本来の情報活動は、情報収集が中心であるが、列強に対する隠れ蓑として、現地雇用の情報機関も抱えている。
これは、列強各国に、ばれてしまう事を前提とした、いわば隠れ蓑なのだが、それがかなり上手く機能している。
対独戦が早期で片付いたのは、この機関の活躍による結果であるだけに、喜ぶべきか、悲しむべきか、悩むところである。
あからさまの活動であるが故に、独逸国防軍の反ナチスグループにも渡りが付けられた訳である。
しかしながら、山本が、保険の積りで、その現地組織に、ポーランドからソ連までの地理情報の収集を下命しただけで、ソ連の動きが止まると言うのも、何だか情けない。
井上にすれば、まだ一年も満たない、みえみえの組織の筈なのに、どうしてそんな簡単に、ソ連が引っかかるんだと言いたい所である。
「とにかく、表と裏の連携方法を何か考えないと。独逸にしろ、ソ連にしても、偶々上手く動いたが、逆の場合も出てくる」
梅津が、溜め息を付く。
「ああ、山本さんとこには、マッキンレーも絡んでいる。あの二人とは上手く連動させないと、今後の展開が、更に複雑になるかもしれんからな」

319shin ◆QzrHPBAK6k:2007/04/07(土) 16:10:41
「うん、何かあるんですか?」
高畑が、井上の言葉に、含みを感じて問うた。
「バルト三国ですか?」
八木が、確認するように答えた。
「ああ、米国が動いている」
それは、頭の痛い話だった。

米国は、11月の時点で、日英統合軍による行動を、しぶしぶながら追認した。
最もこれは、帝国、英国、そして仏蘭西が、認めている以上、反対しても仕方ないと言うニュアンスであり、「今後は、我が国にも知らせて頂きたい」と、チャーチルが散々嫌味を言われて帰って来ている。
しかしながら、12月に入ってから、米国のスタンスが微妙に変わってきていた。
国務長官が、談話の中で、
「国際政治では、あのような行動も、必要となる場合もあろう」
と述べたり、
ランドン大統領が、
「民主主義が、蹂躙された場合、民主的な手続きを取らすために、強権を発する必要もあるのではないか」
とのコメントを述べたりしている。
そして、これらの表上のコメントと連動するかのように、バルト三国やポーランドでの米国大使の活動が活発になっていた。
大使が頻繁に、それぞれの国の大統領府を訪れたり、米国からは、通商交渉と言う名目で、国務省の次官クラスが派遣されているのだった。

「大統領の年頭調書は、四日でしたか?」
「ああ、そうだ。そこでどんな発言がとび出すのか」
「「のと」世界ですと、中立法の廃止、軍備拡大、反全体主義国家ですか。反全体主義国家はなさそうですね」
高柳が資料を見ながら言った。
「ああ、それは大統領がルーズベルトだったからな。今のランドンだと、反共産主義ぐらい言いかねん」
「対ソ戦でも始めるつもりなのでしょうか?」
「いや、さすがにそれは、無理だろう」
「ああ、いくらなんでも、米国から中継国もないままで、バルト海の奥までは厳しいぞ」
「まあ、可能性は低いが、四日の年頭調書で、ランドン大統領がどんな発言をするかだな」
全員が暫く考え込むように、黙り込む。

320shin ◆QzrHPBAK6k:2007/04/07(土) 16:14:00
「やはり、第2次世界大戦が始まるのでしょうか?」
それまでは、あくまでもオブザーバーとして黙っていた、クラークがそれを口にした。
「ああ、可能性はあるな。だが問題は、何処と何処の国が、その口火を切るかだよ」
「ソ連が、ポーランドを攻めるのか、それともフィンランドか」
「やはり、始まるとしたらソ連でしょうか?」
クラークが、半信半疑で問う。
「我が国も含め、日本、独逸の三カ国が一つにまとまった状態で、ソ連が欧州諸国に手を出すでしょうか?」
高畑や八木達が、クラークの問い掛けに、一瞬固まってしまう。
それはそうである。
今の今まで、ソ連がどう動くかが、全ての始まりであると考えていただけに、それは意表を突く考えだった。
「いや、ソ連は今年、正確には今年の後半には、戦争を始めざるを得ない。このまま行けばだが」
井上が、確信があるように答える。
「それは、どうしてですか」
クラークだけではなく、全員が興味深げに聞いてくる。
「天候の問題だ」
「農業問題・・・ですか?」
高畑が、怪訝そうに問い返す。
天候と言えば、世界的な不作に結びつくのは判るのだが、それがどうソ連と繋がるのかが、判らない。
確かに昨年は、世界中が天候不順で、不作だった。
そして、あくまでも「のと」世界では今年も、天候不順が続く。
最早、歴史は大きく変わっているが、唯一「のと」情報と、同じようにように推移しているのが、天候だった。
こればかりは、いくら未来の技術があろうとも、確かに大きく変更出来るものではない。
しかしながら、帝国は「のと」資料を利用し、不況を克服したのと同様に、天候不順に対しても備える事が出来ていた。
具体的には、満州地域における地元農家の育成と、国内の農業改革である。
満州においては、中国中心部の争乱から逃げて来た人々を、大規模農場を作り雇用していた。
資本を拠出し、中国人の手による大規模農場を経営させる。
これは、大豆等の農作物の増産と、共産匪賊化する人々を減少させると言う効果もあり、満州地域の発展に大きく寄与していた。
また国内では、小作農の地位向上の為の法整備を進め、同時に所謂地主層に対して、機械化の為の低利融資を実施し、これまでの労働集約的な農業から、大規模農法へと切り替えさせていた。
重工業の著しい発展に伴い、必要とされる労働力の確保の為でもあるが、同時に農業生産の増加を齎していた。
ちなみに、「のと」世界で行われていた、所謂農地改革のような、徒に小規模農家を作るような政策は実施されていない。
この結果、単年度的な不作が発生しても、一家離散、身売り等の悲惨な事態は、回避されている。

321shin ◆QzrHPBAK6k:2007/04/07(土) 16:15:02
「確かに帝国では、農作物の不作を見越しての政策が可能であるが、ソ連はそんな知識は持っていない」
井上が説明を続ける。
「結果、今年から来年に掛けては、ほおって置けば百万単位の餓死者が発生する事となる」
「そうなると、スターリン体制そのものが、傾きますね」
「そうだ、その可能性は高い。そして、それを避けるためには、何らかの方策が必要となる」
「それが、戦争ですか・・・」
「ああ、残念ながらね」
「為政者の失策の為に、戦争に走る・・・救われませんね」
「そうは言ってもな、帝国にしても、その可能性は十分にあったのだぞ。
それに、米国も長期の不況が続いている状況では、スターリンを嘲笑えん」
梅津が付け足した。
「ソ連に、米国、両方とも戦争を始める十分な理由がある訳ですか」
「そうだ、それ故、独裁政治に近いソ連が、第2次世界大戦を巻き起こす可能性は遥かに高い」
「今年中に、スターリンは何らかの行動を起こさざるを得ない。我々はそれに対する対策を考えねばならないが、その中に、戦争を回避する為の方策は含まれてない」
井上が断言する。
「確かに、回避できたとしても、ソ連にすれば、何の解決にもならない訳ですね」
クラークが納得したように、頷きながらつぶやく。
「ああ、そうだ。餓死者の大量発生をごまかす為に、戦争を欲している連中に対して出来る譲歩等無い」
「そうですね、我々は避けることは出来ない。ならば、立ち向かうしかないのですね」
「そう言うことだ・・・」
そう、それが我々の役割なんだから。

322shin ◆QzrHPBAK6k:2007/06/17(日) 20:43:20
「アメリカ合衆国は、自由と民主主義の担い手として、それを阻む如何なる勢力、国家に対しても断固たる態度を示さねばならない・・・か」
「ああ、偉く勇ましいもんだ」
梅津が手にした書類、四日のランドン大統領の年頭調書の写し、を机の上に投げ出し、溜め息をつく。
「中立法の撤廃、軍備の拡大、公共事業の縮小、ここまでは判りますが、この民主監視団の設立と言うのはなんなんでしょうね」
高畑が、書類を見ながら怪訝そうに言う。
「民主主義を守る為の、国家間の監視組織だそうだ。早速大使が、勧誘に来た。ああ、英国にも来てる。」
井上が、むっつりとしたまま、答える。

全く、悪い冗談としか思えなかった。
米国では、毎年年頭に、大統領が議会に招かれ、そこで今年の方針を演説する事になっている。
その中で、ランドン大統領は、民主監視団(Democratic Gurd)の設立を宣言したのだった。
年頭調書は、最初から昨年の日英による対独戦に触れて来た。
それは、べた褒めと言って良いほどの賛辞から始まった。

「皆さん、貴方方のお住まいの隣の家から、煙が上がっていたらどうされますか?」

隣の家から火の手が上がっている。
ほって置いたら、隣家が焼け落ちる。
しかも、それは下手すれば、裏の家に燃え広がる可能性がある。
貴方の家と隣の家は、庭があるので火が燃え移る可能性は少ない。
だけど、ほっておく訳にはいかないでしょう。
貴方は、直ちにバケツを持って隣家に駆けつける。
ドアを叩くが、家人からの返事はない。
そう、そうなれば、燃え上がるのを無視する訳にも行かず、貴方はドアを蹴破っても、火元に駆けつけるでしょう。
英国の行動は、まさにこれを行ったに過ぎません。
民主主義と言う大切な家が、燃え落ちようとしている時、それを消す為に、何ら躊躇う理由がどこにあるでしょう。

英国や、日本のように、国王や皇帝を掲げる国家ですら、民主主義を守る為に、そこまでの行為を実施したのです。

このように、言いながら、ランドン大統領は、欧州の民主主義国家の行動を正当化し、聞いている方が恥ずかしくなるくらいに、褒め称えたのである。

そして、民主主義の担い手である、米国もこのような流れを傍観している訳には行かないと、議会に対して、いや、欧州列強に対して、民主監視団の設立を訴えたのである。

「英国の反応は?」
梅津が、井上や高畑に顔を向ける。
「いや、まだ今の時点では、何とも。まあ、相手にしないでしょうね」
「順当に考えればそうだが、何か裏があると見た方が良いだろうな。どう見ても、同盟を言い換えただけにすぎんぞ」
井上が、不満げに言う。
「満州の停戦監視団と似たような組織だろう。いや、それよりも、あれを真似したもののように思えるが・・・」
梅津も、何か考え込んでいるように答える。
「ああ、そうかもしれんな、とにかく、堀さんや山本さんには、特に注意して情報を集めて貰うように、一言言っとこう。梅津、それに高畑も、注意してくれ」
「判りました、しかし厄介ですね。何かとてもきな臭い匂いしかしませんね」
高畑も、米国の出方に、不安を感じるが、今は特に何も出来る訳でもない。
他の二人も、何とも言えない不安に、重く押し黙るだけだった。

323shin ◆QzrHPBAK6k:2007/06/17(日) 20:44:43
その日、井上は、早朝からの今後の戦略の、見直し等も含めた、総研での打ち合わせを終え、夜遅くに帰宅していた。
妻は、まだ起きており、遅い夕飯を取り、漸く寝ようかとした所で、それは起こった。

リーンと鳴り出した電話に、否な胸騒ぎを覚え、妻が受話器を取ろうと言うのを制して、自ら電話を取る。
「ハイ、もしもし」
「井上さんですか」
「ああ、そうだが。君か?」
「そうです。大変です。米国が、民主監視団の設立を表明しました。」
「うん、あれは、年頭調書の話じゃ無いのか」
「いや、国際組織として、立ち上げを表明したんです。バルト三国、エストニア、リトアニア、ラトビアが、それに加盟しています」
電話の向こうから、総研所員が更に、加盟した国家を告げているが、井上は最早聞いていなかった。
バルト三国と米国が、同盟。
「のと」資料では、本年土中にソ連に飲み込まれていく筈の弱小国家が、米国の後押しを受けた。
頭の中で、今までの戦略が音を立てて崩れてゆく。
欧州情勢は、劇的に変化する。
あの位置、欧州の最も奥深い場所。
いや、海に面している限り、米国にすれば、距離的な差異は無い。
少なくとも、ユーラシア大陸に、米国が橋頭堡を築いた事は間違いない。
対ソ戦が勃発するにしても、あそこに米国の橋頭堡があれば、どう変わるか・・・

「井上さん、井上さん!もしもし!」
「ああ、すまん、判った。電話ではこれ以上詳しい話は出来ないな。すぐさま総研に戻る」

これも一つのゆり戻しなのかもしれない。
我々は、「のと」資料により、列強に対して、非常に有利な体制を構築する事が出来た。
対ソ戦の戦略も、その後の対米対策、そして世界の有り様まで検討していた筈だった。
それが出来るか、出来ないかの問題は、これからの推移を見ながら、検討していけば良い筈だった。

井上には、米国の戦略が、判った。
それはそうである。
総研が主導し、帝国が行った満州政策の焼き直しそのものである。
民主監視団の名の下に、米国が監視員と言う戦力を欧州に派遣してくる。
まだモンロー主義が幅を利かせている米国であろうから、送られてくる、その戦力は微々たる物であろう。
しかし、そこに、米国兵がいると言う事実は、揺ぎ無い。
万一、攻撃を受けたら、否、攻撃が受けたと言う事実だけがあれば、米国大統領が派兵を躊躇う理由は無い。
バルト三国は、あくまでも対ソ連を見据えての同盟、であるのは間違いないだろう。
しかし、米国から見ればどうか。
建前は、対ソ連であろうが、その橋頭堡は、ソ連以外にも使える。
そう、米国は、対ソ連だけではなく、対英、対独、そして帝国に対しても使える切り札を握った訳である。

迎えの車に乗り込んだ井上は、大きく溜め息を吐く。
「戦略の見直しか・・・」
ポツリとつぶやくと、井上は、シートに深々と座り、堅く目を閉じるのであった。

324名無しさん:2015/08/28(金) 20:01:51
9年経過


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