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死について

4問答迷人:2009/03/16(月) 16:06:57

【死を素直に受け入れる事】について

僕は「おくりびと」を見て、納棺師の執り行う納棺の儀式が、亡くなった方の尊厳の維持に対する他者の介添えなんだと思いました。

そして、もう一方、死を迎える者自身が、自分自身の尊厳性を維持するにはどうすれば良いのだろうか、とも思いました。

宗教が人にとって必要であるとすれば、この事こそがその最重要課題であることは間違いないことだろうと思います。

その答えは、自分自身が死を素直に受け入れる事が出来れば、それこそが究極の尊厳性の維持なんだろうと思っています。

犀角独歩さんが、「死への過敏症」について、ブログに書いておられました。僕自身、過敏症なのかそうでないか、判りませんが、死を迎えた肉親を目の当たりにする時(先日、妻の父が87才で亡くなりました)、自分にも何時かその時がやってくることを強く意識させられます。そして、死を迎える自分自身を想像すると、やはりそれは大きな恐怖であることは疑う余地が有りません。今現在では、死を素直に受け入れる準備が何も出来ていない事を悟らざるを得ません。

必ず死が訪れる以上、素直に死を受け入れることが出来る事が、やはりどうしても必要なのだと思います。僕にとって残された時間はそう長くない。最長でも50年後には、この世に居なくなっていることは間違いないことです。それどころか、それが明日かも知れないからです。

5孤独な迷子:2009/03/16(月) 19:08:54
一昨年心筋梗塞で緊急入院しました。
二週間ほどICUに入れられ、一ヶ月ほどで退院できましたが、かなり危なかったようです。
治療中に麻酔のせいかもしれませんが、大きな河があり、向こう岸がとてもきれいな光景を見ました。
「今度再狭窄したら危ないですよ。」と医師に宣告され、「死」と隣り合わせに生きています。
「死後」はどうなんだろうと、よく考えてしまいます。誰にもわからないことでしょうけど・・・。

6問答迷人:2009/03/16(月) 19:23:00

孤独な迷子さん

今晩は。

>「死」と隣り合わせに生きています。

それは大変な事でしたね。お大事になされて下さい。僕も持病の高血圧があり、この冬は、薬を飲んでいるのに160-120などという恐ろしい数字が出ていました。今は小康状態で普通に暮らしていますが、降圧剤は毎日手放せません。

>大きな河があり、向こう岸がとてもきれいな光景を見ました。

記憶を辿って、出来るだけ詳しくその光景を教えていただけませんでしょうか。よろしくお願い致します。

7再挑戦者:2009/03/16(月) 19:41:26
 

 、、、。
 ご免です、、。
 イヨイヨ、、真打のご登場の実感 です、、。 ご期待 致します、!

8犀角独歩:2009/03/16(月) 20:46:38

hageさん、追って語り合いたいと思います。

問答名人さん、新スレ、有り難うございます。

孤独な迷子さん、お久しぶりですね。

再挑戦者さん、わかりやすい文章でお願いしますよ。

9空即是進化:2009/03/16(月) 21:05:52

 「永遠の生命」???。学会流の生命論が全く相手にされてないってことかな。学会OBが多いのに。
 釈尊は《無記》ということのようで。
 これまで、「死」についての考察が少なかったこと自体が、ある意味不思議ですね。

10再挑戦者:2009/03/16(月) 21:09:12

 イヤー、、大先輩 殿から 「 クギを ? 刺されましたのは ウレシー!! です ヨ、、」、、 今後とも
 小生の 方 こそ よろしく、、、「お頼み、」、です  。  失礼をば 致しました、です。

11ひきこもり:2009/03/17(火) 00:43:48
死は最終的な終焉ではないと思います。原因がなければ結果はないのですから。

宇宙生成にしても、現代宇宙観は聖書、キリスト教、イスラム教、神道に毒されて
います。特に神道が酷いです。

12幻論乙坊:2009/03/17(火) 11:20:15
死は不可避なんですが、ここでの死と言うのは生命その物、固体の滅亡を指しているのではないのでしょうね。
死の恐怖は人間だけに存在するのではないかと考えています。
(他の動物と知的コミュニケーションを図る事の出来ない現時点における人間の手前勝手な論理ですが)
死の対極にある生より死を少し語らせてもらいます。
私達、人間は何らかの意味付けをしなければ立ち往生し、一歩も前に進む事が出来ません。
この様な言動に至ったのは、これこれこう言う理由であるとか。
こちらよりあちらを選択したのは、かくかくしかじかを考慮した為である。
等といった具合に意味付けを要す。
「ただなんとなく」と言う場合もあるじゃないか!
と言う声が挙がりそうですが
「ただなんとなく」と言う意味を貼り付けているのでしょう。
人間は生きるにも意味付けが必要で、自分はこの世で生きるに値する物であると言うものを見出さなければ生きていく事が出来ないと考えます。
良く言われる「生き甲斐」ですね。
生きるに値する何らかの理由を見出さなければ心の安定感が得られない。
肉体の消滅も恐れはしますが、人は植物人間や脳死状態に自らが陥る事も恐れます、これはその状態に生き甲斐を見出せないからでしょう。
他人から見れば下らない、なんてなんてみみっちい取るに足らない内容であってもその人にとってこの世に自己を保つだけの意味付けであればよいのです。
一方、死(固体の滅亡ではない)はそこに意味付けが見出せない、見出せないと心がいつまでも不安定であるから恐怖を覚えるのだと考えます。
ですから、死に意味付けを有す自殺は経験をしていませんが他の死よりも恐怖感が少ないものと考えています。
多くの自殺は人生に絶望したと言ったケースなのでしょうがこれも絶望した。
と言う意味が付されています。
自己の自尊心や名誉や美の為に自ら生を絶つ人も存在しますね。
死に対する捉え方も時間空間的に異なるのでしょうが、死の恐怖とは生存中に満足いく生活を送れなかった、後悔が残った。
未来においてその悔いを何とか埋め合わせたい、その為に人間は未来を創りあげたんだろうけれども、その未来が絶たれたので恐怖を覚えるんじゃないでしょうか。

是全幻想

13顕正居士:2009/03/17(火) 19:11:58
死のソリューションとしての永生

これには社会的と個人的の二方面があります。何らかの著作物を残しそれが古典となった場合、
社会的永生が得られます。我々は身近な人以外はその人または他人の著作物を通して人格に
触れます。著作物とは直接に対話はできませんが、今後はそのような工夫も可能になるでしょう。

個人的の永生は脳または身体全部の情報をスキャンして磁気記録とし、現実あるいは仮想の
身体を付与すれば人格を再生できるでしょう。定期的にスキャンし、不幸に交通事故で死亡した
場合に再生したとします。その人の社会活動は継続し、他人にとっては本人と変わらないだけで
なく、再生者は記憶に一部断絶があるけれども本人だと自覚するでしょう。

そう自覚しても再生者はやはり本人ではない。ここに真の個人的永生の問題が残りますが、
シミュレーテッドリアリティの中のコピーを生前に起動しておき、本人と記憶の共有を行っておけば
解決できそうです。

14問答迷人:2009/03/17(火) 19:26:57

幻論乙坊さん

>人間は未来を創りあげたんだろうけれども、その未来が絶たれたので恐怖を覚える

なるほど。人間には【未来と言う観念】が有るから、死を認識する事が出来る、そして、死の時点で未来が絶たれるから、そこに恐怖を感じる、そういうことですね。

ただ、人間は死を知ってしまった以上、果たして、死の恐怖から逃れる事が出来るのでしょうか。それこそ、未来の観念を失ってしまえば、死を恐れる事は亡くなるでしょうが、それでは人間としての尊厳を保つ事も出来なくなるのではないのでしょうか。

限りある人生を、限りあるものと自覚し、そこに、如何に生きるべきかと言う意味づけをする事が、人としての生きるあり方なんだろうと思います。そして、死をもその意味付けの中に取り込んでしまう事に成功すれば、精神的な意味での死の恐怖は克服されるのでは無いかと思います。

取り留めのない書込みで申し訳有りません。御叱正下さい。

15顕正居士:2009/03/17(火) 20:47:22
復活、天国、転生と永生

ユダヤ人はギリシャ人、ローマ人、日本人などと同じく一世説*でしたが、ユダヤ教から派生した
キリスト教は世界の終末*にすべての人がいったん復活すると云います。
現代的に表現すれば、全知の造物主はすべての人の脳と身体の記録を保存しておくことができる。
しかし復活者は死者のコピーではないのか?死者本人というには死の記憶がなければならない。
本人問題の自覚はあったかのか否かはわかりませんが、中世の神学では世界の終末まで死者の
霊魂は天国や煉獄にとどまるとする。これは現実の身体を付与するまでシミュレーテッドリアリティの
中で記憶の連続を保持することといえます。
インド人、スリランカ人、チベット人は転生(三世説)を信じ、仏教国にはこの影響が及んでいます。
インド教徒と仏教徒は行為とその結果について客観と主観の二重の解釈をするので転生説には
さまざまな矛盾があります。けれども記憶を維持しながら意識が別の身体に転生することは将来は
可能でしょう。
復活、天国、転生は古代以来の永生についての基本的なアイデアであったといえるでしょう。

*明治の仏教学者島地大等は諸民族の死生観を一世説、二世説、三世説に分類した。
*最後の審判。ペルシャのゾロアスター教に由来する。

16孤独な迷子:2009/03/17(火) 22:07:39
問答迷人さん

ご無沙汰しています。また参加させて頂きます。

>お大事になされて下さい。

お気遣い有り難うございます。問答迷人さんもお身体をお大事にして下さい。

>記憶を辿って、出来るだけ詳しくその光景を教えていただけませんでしょうか。

当時はとにかく心臓のあたりがとても痛くて、記憶も断片的ですが、救急車で病院に運ばれすぐに検査されました。
そして急性心筋梗塞と告げられました。その次に覚えているのは、処療台の上で治療されている時でした。その時も痛くてうなっていましたが、痛み止めか何かを投与されたのでしょう、急に痛みがなくなり、身体も軽くなったように感じました。その後に「川」が見え、向こう岸はとてもきれいでした。暫くして、また痛みを感じるようになり、同時に医師や看護士さんたちの声が聞こえてきました。痛くて身体を動かしていたら、「動かないで。もう一本入れよう。」と聞こえ、その後再び痛みがなくなり、フワッとした感じになり、もう一度同じ光景を見ました。その時直感的に「向こう岸に渡ったら危ない」と思ったのを覚えています。その後気づいたらベッドの上でした。母親や妹に後で聞いたことには「最悪のこともあり得ます。」と言われていたようです。

これで参考になりますでしょうか。



犀角独歩さん

>孤独な迷子さん、お久しぶりですね。

こちらこそご無沙汰しております。
またいろいろとお聞きすることがあると思いますが、今後とも宜しくお願い致します。

17hage:2009/03/17(火) 22:08:47
私は、実際にできるかどうかは別にして、
地獄に墜ちようと、寂光浄土に参拝できようと、死後の世界が無かろうと、輪廻転生しようと、何がどうあろうと、
全て御法様におまかせしきれば、恐怖も何も無いのだろうなと想像しています。

18顕正居士:2009/03/18(水) 00:35:08
死のソリューションはいつ頃か?

GNR革命と人間の寿命延長の可能性 http://tyeestyle.blogspot.com/2008/06/gnr.html

『2001年宇宙の旅』(1968年)の未来予測と今日の現実を比較するとコンピュータの普及は予想を
越えるが、宇宙開発と人工知能の発達はいささか停滞しているように思えます。カーツワイル氏の
21世紀半ばの技術予測に不安があるとすれば基礎となる人工知能でしょう。また今後の科学技術
の発達を制限するのはもう一つ人類の寿命です。
惑星グリース581C http://beiryu.exblog.jp/5228766/ は地球から20光年の近くにありますが、
現在のロケットの速度では到達に数十万年かかります。これでは探査船計画すら立てられません。
宇宙探査には飛行速度を上げるとともに人類の寿命を宇宙サイズに近づける必要があるでしょう。
Genetics、Nanotechnology、Roboticsの最初のGが数十年でどのくらい発達できるでしょうか。
しかし寿命を倍ていどに出来ればその間に技術が進歩し、次には10倍にできるかも知れません。
10倍にできればそのまた次には半不老不死ができないとはいえませんから、前世紀終わり生まれ
の人には永生の可能性はかなりあるかも知れません。

19幻論乙坊:2009/03/18(水) 01:55:01
問答名人さんからお言葉を投げかけられるなんて光栄です。
今晩は

問答名人さん、からお言葉を投げかけられるなんて光栄で心拍数が上がった状態で書き込んでいます。
ここのところ年が年なので、心臓が弱っていて伝えたい事が最後まで記すことが出来るかとても不安ですが
なんとか頑張ってみます。


>死の恐怖から逃れる事が出来るのでしょうか。

逃れられないのだろうと考えています。

>それこそ、未来の観念を失ってしまえば、死を恐れる事は亡くなるでしょうが、

未来を失する事はパックとして、漏れなく過去も現在も失する訳ですね。
詰まり過去・現在・未来と言う時間の概念が無くなる訳ですから、その時点で人間という動物も
この世から無くなるんじゃないかと考えます。

>それでは人間としての尊厳を保つ事も出来なくなるのではないのでしょうか。

そうですね。
私達、人間は心の安定だけでは生きていく事が出来ず、生き甲斐や人間としての自尊心や尊厳が必要なのでしょうね。
ではどうして、人間は自尊心や尊厳が必要になったんだろう?
と考えたりしている訳なんです。

>限りある人生を、限りあるものと自覚し、そこに、如何に生きるべきかと言う意味づけをする事が、人としての生きるあり方なんだろうと思います。

ええ、良く言われる事で理解できます。
「限りある人生を、限りあるものと自覚し、」とは、どうして限りがり、自覚に至ったのか?
と言う疑問は在りますね。
ここは宗教の掲示板で余り深く(唯幻論を語るのは)入り込むのは場違いか?
とも思いますので止めておきます(何を言っているのだ知識[言葉]を有していないのだろう!
とお思いの方も多いのでは?図星です、生兵法はなんとやらです)

>如何に生きるべきかと言う意味づけをする事が、

意味付けをしなければ生きていけないのが人間だと考えている訳です。
この有限のにおいて私という個の何らかの成果と言うか?足跡というか?
先に挙げた後悔をしたくない訳ですね。
他の動物のように意味付けが必要なければ越した事とはないのだと考えています。

>人としての生きるあり方なんだろうと思います。

ではなくて、人間だからそうならざるを得ないんだろうと、私は捉える訳です。
しかし、この部分が非常に重要なんだと愚考致しているしです。

>死をもその意味付けの中に取り込んでしまう事に成功すれば、
精神的な意味での死の恐怖は克服されるのでは無いかと思います。

そうでしょうね。
死への意味付けは既に私が挙げたもので自殺が在りますね。
ただ多くの文化で自殺はタブー視されていますから人間は容易く自殺は出来ない。
「死に甲斐」と言う語がかつての日本においては(大東亜戦争以前まで)存在したようですが
現在の日本においてはいかほどの言語としての力を有しているでしょうか?
ほぼ死語の様相を呈していそうでが、中東辺りでは「死に甲斐」が結構存在していそうですね。

こんな言葉があります。
人間が「生きがい」を求めるということが、人類にもっとも大きな被害を
及ぼす行動なんです。
生きがいを求めずに生きられる人間がいるとすれば、最も平和的な、
人に迷惑をかけない人間なんですよ。(幻想を語る 岸田秀 青土社)

是全幻想

20問答迷人:2009/03/18(水) 12:42:11

孤独な迷子さん

誠に有難う御座います。経過が良くわかりました。もう少し質問してもよろしいでしょうか。

>「川」が見え、向こう岸はとてもきれい

〇 大きな川と言うのは、向こう岸が良く見えるのですから、50メートルくらいの川幅だったのでしょうか。或いは、もっと幅が広かったのでしょうか。

〇 その川を見ていらっしゃった角度はどのようでしたか、川岸辺りから見た光景だったのでしょうか、高台から見渡したような光景だったのでしょうか。

〇 向こう岸がとてもきれい、というのは、花が咲き乱れているような、お花畑が向こう岸にあるような感じでしたか、それとも、岩や木々の有様がとても綺麗だったのでしょうか。

よろしくお願い致します。

21問答迷人:2009/03/18(水) 13:07:31

幻論乙坊さん

>ではどうして、人間は自尊心や尊厳が必要になったんだろう

それは自分自身を客観視する能力を身に付けたからだと思います。又、客観視できるからこそ他者の死を見て自分も死ぬ存在なのだと理解するのだと。

>中東辺りでは「死に甲斐」が結構存在していそうですね。

『葉隠れ』の武士道では有りませんが、僕は「『人生』とは死ぬ事と見つけたり」と言うのが、精神的な死への恐怖を克服する道ではないかと思っています。そして、その先に仏教の南無、釈尊と法華経に命を奉ってしまうということがあるのではないかと。

23幻論乙坊:2009/03/18(水) 18:31:38
問答迷人さん
こんにちは。

先ず、HNの打ち間違い大変申し訳御座いませんでした(謝)

>それは自分自身を客観視する能力を身に付けたからだと思います。

と言う解釈を宜しければもう少し詳しく解説していただけますでしょうか。

>客観視できるからこそ他者の死を見て自分も死ぬ存在なのだと理解するのだと。

同感です、近しい人の死を見て自分も何時は死ぬのだと覚えるんでしょうね。
又、これはどうでしょう。
死の対極に生が有る訳ですね。
死が有ってこその生ですから、死が無くなれば生も無くなる、そうなると生きていても生の実感が得られなくなる事でしょう。
自分は何時かは死ぬんだと認識していなければ活力のない生に成ってしまうんじゃないかな、死を意識する事に拠って充実した生を送る事が出来る。

>僕は「『人生』とは死ぬ事と見つけたり」と言うのが、精神的な死への恐怖を克服する道ではないかと思っています。

同じような事を岸田秀氏が述べています。
「死を否認すればするほど、死から逃げようとすればするほど死は怖くなるものである。
いつか死ぬ自分というものをきちんと知って、思い描く。
そのうち死ぬんだと自覚しておく、明日死ぬかもしれなといつも考えておくことしか死
の恐怖を克服する術はないかもしれない。」(「哀しみ」という感情 岸田秀 新書館)

24再挑戦者:2009/03/18(水) 22:11:52
、、、。
 諸賢さまの、、言々は 誠に、、スッゲー、、です。

 ウマシカのクラスの ドアホの 小生の感じを 言わせて 下さい、、。

 、、、「ワシなどは、 アッ、、と 気が着いたら、、ヒト として 生きておりました、、」、、です。

 その、生きていく 根本には ?? かが、? 必要、? と 期待した方も 御在りでしょう ネ !?

 しかし、、「生命が、 断絶 するのか、? 連続 ? するのかは !!?」、でしょうか ?

 また、「、、仏の境涯を知らしめたい、と、願った、教主の釈尊様の、、カネアイも、?・」、、でしょうか、??

 これから、、も 「、、アッ、、と、、、気が着いたならば、、ソコイラノ、、ノライヌ〜〜ノラネコ〜〜に ”生”、、」を受けることも、、否定は不可能、、でしょうか、!?

25hage:2009/03/19(木) 07:17:05
Wikiで「死」を検索すると、このようにありました。

死をどのように受け止めるか
第一段階:「否認と孤立」
病などの理由で、自分の余命があと半年であるとか三か月であるなどと知り、それが事実であると分かっているが、あえて、死の運命の事実を拒否し否定する段階。それは冗談でしょうとか、何かの間違いだという風に反論し、死の事実を否定するが、否定しきれない事実であることが分かっているがゆえに、事実を拒否し否定し、事実を肯定している周囲から距離を置くことになる。
第二段階:「怒り」
拒否し否定しようとして、否定しきれない事実、宿命だと自覚できたとき、「なぜ私が死なねばならないのか」という「死の根拠」を問いかける。このとき、当然、そのような形而上学的な根拠は見つからない。それゆえ、誰々のような社会の役に立たない人が死ぬのは納得できる、しかし、なぜ自分が死なねばならないのか、その問いの答えの不在に対し、怒りを感じ表明する。
第三段階:「取り引き」
しかし、死の事実性・既定性は拒否もできないし、根拠を尋ねて答えがないことに対し怒っても、結局、「死に行く定め」は変化させることができない。死の宿命はどうしようもない、と認識するが、なお何かの救いがないかと模索する。この時、自分は強欲であったから、財産を慈善事業に寄付するので、死を解除してほしいとか、長年会っていない娘がいる、彼女に会えたなら死ねるなど、条件を付けて死を回避の可能性を探ったり、死の受容を考え、取引を試みる。
第四段階:「抑鬱」
条件を提示してそれが満たされても、なお死の定めが消えないことが分かると、どのようにしても自分はやがて死ぬのであるという事実が感情的にも理解され、閉塞感が訪れる。何の希望もなく、何をすることもできない、何を試みても死の事実性は消えない。このようにして深い憂鬱と抑鬱状態に落ち込む。
第五段階:「受容」
抑鬱のなかで、死の事実を反芻している時、死は「無」であり「暗黒の虚無」だという今までの考えは、もしかして違っているのかもしれないという考えに出会うことがある。あるいはそのような明確な考えでなくとも、死を恐怖し、拒否し、回避しようと必死であったが、しかし、死は何か別のことかも知れないという心境が訪れる。人によって表現は異なるが、死んで行くことは自然なことなのだという認識に達するとき、心にある平安が訪れ「死の受容」へと人は至る。

なるほどなぁと思いましたので、貼り付けさせてもらいます。

26彰往考来:2009/03/19(木) 08:04:48

>25 hageさん

これは、ガンを宣告された患者がどのように死を許容するかのステップですね。
確かにこのとおりですが、個人差があります。私の経験でいえば第二段階:「怒り」はありましたがかなり短かったです。そして第三段階:「取り引き」を通らず第四段階:「抑鬱」へと入ったと思います。これはやはり日蓮聖人を信仰していたからでしょうか。その後は第五段階:「受容」と第四段階:「抑鬱」をくり返し徐々に第五段階:「受容」の時間が長くなりました。色々な人の体験をお聞きしてもこの繰り返しはあるようです。パターンとしてこの死を許容するステップはあっているのですが、そう単純なものではないです。

私は幸いにも娑婆世界に戻れました。この貴重な経験を踏まえ残された時間を悔いなく使いたいと考えています。 

彰往考来

27hage:2009/03/19(木) 22:29:19
彰往考来さん

貴重な経験談を聞けて有難いです。
私も、悔いの残らないように、時間を生かしたいものです。

「生」と「時間」は人にとっては同じなのかもしれないですね。

28幻論乙坊:2009/03/20(金) 17:57:19
彰往考来さん
こんにちは。

お元気そうでなによりです。
No25 hageさんの投稿
>ガンを宣告された患者がどのように死を許容するかのステップですね。

なんですか。
確かに死を容認するに至るまでの過程は個々さまざまでしょうね。

一神教では創造主の作り物である自分は死ねば神の元に戻る。
とする教えを堅く信じるならば、日本文化の死生観とは随分楽なものかも知れませんね。

29犀角独歩:2009/03/20(金) 18:00:48

具体的には、キューブラ・ロス著『死の瞬間』のことでしょうね。
http://epi-w.at.webry.info/200710/article_4.html

30問答迷人:2009/03/20(金) 20:15:46

幻論乙坊さん

レスが遅くなって済みません。ご質問の件について、補足してみます。

>ではどうして、人間は自尊心や尊厳が必要になったんだろう

自尊心とは、自分自身が一定の評価を与えられているとの思いです。その思いは、自分を客観視して他者と比較するところから生まれる訳で、自分が劣っていて惨めだと感じるとき、それを克服しようとする、これが生きると言う事なんだと思います。つまりは、人は、プライドなしには生きられない、と。

31幻論乙坊:2009/03/20(金) 22:38:46
問答迷人さん
返レス有難う御座います。

ええ良く解ります。
自分に存在価値を見出さなければ生きて行く事が出来ないのが私達人間だと
考えております。

>それは自分自身を客観視する能力を身に付けたからだと思います

この部分のニュアンスを確認しておきたいのですが、
人間はもともと劣っていて惨めな生き物である。
このままでは生きていく事が出来ないから自尊心や尊厳や自身の価値、
プライドを見出さなければならなかった。
自尊心等は自己と他者が有って生まれるものであるからそこから
客観視する能力を身に付けたのだ。
とする訳でしょうか?
ご意見宜しくお願い致します。

自己を客体化しなくとも、他者から認められても自尊心やプライドは確保出来る訳ですよね。
(他者から認められる事によって心が必ず安定されるとは思いません、問答迷人さんの
説と二本立てかな?と愚考致すところです)

32問答迷人:2009/03/20(金) 23:16:21

幻論乙坊さん

少し僕の考えとは違います。

人間が自分を客観視する能力を身に付けたことにより、自分がもともと劣っていて惨めな生き物であることを自覚した。このままでは生きていく事が出来ないから自尊心や尊厳や自身の価値、プライドを見出さなければならなかった。

こういう順序だと考えています。

なお、人間が自分を客観視する能力を身に付けたのは、やはり、通説の通り、二足歩行によって手が自由に使えるようになり、脳が発達した結果であったろうと思います。

33幻論乙坊:2009/03/21(土) 00:22:51
問答迷人さん

有難う御座います。

自己を客観視するのは必要にかられて人間が見に付けたものだと考えるんですが。





脳が発達した事により自己を客観視する能力が身に付いた。
(この時点に於いては、自己を客観視しなければならない要因は見出していなかった)
そして自己を客観視して見ると、自己はもともと劣っていて惨めな生き物
であると自覚するに至った。

そうではなく、自己を客観視しなければならない何らかの要因が発生した所、
たまたま脳が発達していたので試行錯誤のうえ自己を客観視する能力が備わっていった。

34再挑戦者:2009/03/21(土) 23:39:35
 失礼します。
 「死」は、、生あるものには一番に恐ろしい 最後の、関門 でしょうか、。
 しかし、業病?などでは イサギヨク 潔く「死」を受け入れることも、?!! 有っても、エエンじゃないでしょうか、?
 また、逆に、「、、死んではタマラン、、何とか 生き延びたい、? と、、苦しみの中で、畳をかきむしり、? ”生つめが剥がれてしまうほどの地獄の?苦悩”、、」、をしてまでも、生きたいのも、自然でしょうか、? 一筋縄では、、? でしょうか  ?

 まさしく、、「 死に様  == 生き様、、??」、、でしょうか 、、?

35犀角独歩:2009/03/23(月) 10:07:39

問答名人さん

やや議論が止まったようなので、記させていただきます。

わたしたちが、大石寺の信仰に入って、もっとも意識させられたのは『妙法尼御前御返事』に「先臨終の事を習て後に他事を習べし」ということではないでしょうか。わたしは、そうでした。しかし、いま振り返ってみるとき、この一節の解釈、受けてきた「指導」につき、やや、間違いがあったように思います。

どうも、この文を、「死ぬことをまず考えろ」という意味に教えられてきたきらいがあります。

しかし、「いきて候し時よりもなをいろしろく、かたちもそむせずと云云。天台云 白白譬天。大論云 赤白端正者得天上云云。天台大師御臨終記云 色白。玄奘三蔵御臨終を記云 色白。一代聖教の定る名目云黒業は六道にとどまり、白業は四聖となる。」と続くわけで、つまり、文意は「先臨終の“相”の事を習」うという文章ではないですか。

つまり、過去の人々がどんな臨終の相であったから仏教の正邪を押し図れという文章ですね。

さきに問答名人さんも取り上げていらっしゃった『おくりびと』の原作『納棺夫日記』に

「ある家で納棺した時のことだった。
始めようとしたら、そこに集まっていた全員でお題目を唱え始めた。
その死体はひどく硬直していた。特に腕の硬直がひどく、私はかけ蒲団の下で、腕の硬直を和らげるのに悪戦苦闘していた。指を曲げたり、腕の関節を曲げたり伸ばしたりしながら、やっとの思いで動くようにして、仏衣の袖に手を通そうとした時だった。
「あれ、見てみなされ、あんなに硬直していたのに、お題目をあげたらあんなに柔らかくなって」と一人が叫んだ。するとお題目が一斉に止んで、
「ほんとだ、ほんとだ、お題目をあげたらあんなに柔らかくなって」と言いながら全員が、私の手元を覗き込むように見ていた。
私はあきれてしまった。
あの時ほど、宗教というものに不信感を抱いたことはなかった。あれは決してお題目を唱えたから柔らかくなったのではない。
宗教の熱心な信者は、往々にしてこうした事象を己の信じる宗教の功徳にしてしまう。」(177頁)

という記述があることを以前紹介しました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1033276317/786

日蓮がいう臨終のことをまず習えというのは、自分が死んでしまうことや、死後のついてをいっているのではないと思います。

日本文化の底流にある「死に様」、それもよい死に様を示すことに主旨があり、そのためには正しい教えによらなければならないといった話だったと思えます。

何か、こんな点で、わたしは「死の過敏症にさせられていた」と思ったわけです。この点は GREE、mixi で書いたのですが、たぶん、hage さんは、これをご高覧くださり、こちらでわたしに問いかけてくださったのだと拝察しています。

36問答迷人:2009/03/24(火) 18:13:15
犀角独歩さん

>先臨終の事を習て後に他事を習べし
>文意は「先臨終の“相”の事を習」うという文章ではないですか。

僕は入信する時に、学会幹部にそのように教えられました。『死んだときの相にその人の一生が顕われる』と。
母親が死んでまもなくのころだったので、この言葉は鮮明に脳裏に焼きつきました。母親は日本脳炎で亡くなりましたが、正直言って、お世辞にも良い死相では無かったです。眼球が定まらず、片方は白目でした。子供心に、何であんなに優しい母親がこんな死に方をしなければならないのか、と思いました。死相の話を聞かされたのは、そのあと数年後でしたから、ショックでした。

>日蓮がいう臨終のことをまず習えというのは、自分が死んでしまうことや、死後のついてをいっているのではないと思います。日本文化の底流にある「死に様」、それもよい死に様を示すことに主旨があり、そのためには正しい教えによらなければならないといった話だったと思えます。

仰る通りであると思います。独歩さんの仰る意味での『死の過敏症』であれば、僕もまともに過敏症に感染したと思います。

ただ、その後、色々な方々の死相を拝見する機会が何度か有りましたが、日蓮正宗の人でも、死後硬直の酷い人、死斑が酷く出ている人。念仏宗の葬儀なのに、美しい相で亡くなっている人、何故なのかと、訝しく思ったりしましたが、独歩さんが以前ご紹介くださった「納棺夫日記」を見て、「これが真相か」と納得しました。

日蓮聖人は、自身で多数の人々の死相を検分した訳ではなく、経典等によってそのように述べたに過ぎないのではないかと思います。日蓮聖人がそのように述べた理由は、独歩さんが仰るとおり、『日本文化の底流にある「死に様」、それもよい死に様を示すことに主旨があり、そのためには正しい教えによらなければならないといった話だった』というのが真相であると考えます。日本文化に合わせたに過ぎないと。

37犀角独歩:2009/03/25(水) 19:54:08

問答名人さん

有り難うございます。

ご高覧いただいたかと存じますが、hageさんも触れてくださった「死への過敏症」、ちょっと、長いのですが、議論の参考に転載させていただきます。
知り合いの坊さんが見たら気分を害されるかも知れませんが…。

***

死への過敏症に陥らせて操る技法

宗教というのは、いい面もたくさんある。しかし、歴史が長いだけに問題点もたくさんある。その問題は祖師に係ることもあれば、その後の伝聞に原因があるもある。特に人類は、ここ100年で科学的に、立花隆氏の言葉を借りれば「爆発」的な進歩を遂げた。数千年、いや数万年、数十万年分の進歩をわずか100年で遂げてしまった。科学技術はさらに進歩を遂げていくだろう。われわれの時代はいつしか、科学時代の始めという意味の「原始時代」と呼ばれるようになるかも知れない。となれば、われわれは科学文明の原始人である。

そうした爆発的進歩の前に、しかし、仏教があり、日蓮がいた。
日蓮は全知全能の神でもないし…そんなものはいないと思うが…だから、700年前に言われていた、それでも当時最高水準の学問では考えてはいたろう。その後、700年間の人々も同様だった。だから、そこで紡がれた教えが伝承・伝聞が、科学的叡智で解明されたとき、「成り立たない」という事態が生じたのだ。しかし、これは日蓮を筆頭とする伝承者に責任を負わせるのは酷である。しかし、それを科学で否定されても「事実である」と人に語れば“嘘”ということなってしまう。

信者が、それでも“嘘”を公言してはばからない理由は、それぞれが感得する体験、彼らの言葉で言えば「実証」「功徳(利益 [りやく]」社会心理学の用語で言えば“個人的リアリティ”によるのだろう。

しかし、これは信仰のプラシーボ効果だ。きゃからばあさんも、そんなことをお書きになっていた。同感だ。

彼らにとって、如何に自分が信仰があるのか、そのスケールに体験がある。彼らはしかし、体験=いい結果を通じて、欲得をふくらませているのだろうか。

もう会うこともなくなったある人が、かつて、こんなことを質問を投げかけた。
「成仏したい」という want/need/wish だって煩悩じゃないの?」

違うある人は、こう言った。
「功徳、功徳といっている人って、結局、単に欲望が大きく、貪欲なだけじゃないの?」

こうした信仰圏を抜け出てみると、たしかに彼らは、欲深く映じる。
藤田東湖さんは最近の日記で「煩悩即菩提」ということをお書きになっている。その日記の意からは離れるが、この言葉は生まれるべくして生まれた言葉と思う。

煩悩即菩提は、日蓮の真跡では『大田殿女房御返事』に1カ所載るぐらいだが、『注法華経』にはある。玄義「體生死即涅槃名為定 達煩惱即菩提名為慧」に由来するのだろう。慧に掛けるところにまさに天台の禅定の慧が光る。

しかし、「功徳がある」を連発する創価学会・顕正会を含む大石寺圏の用法はおかしい。殊に創価学会はひどく、顕正会はそれに準じ、大石寺は少しましだ。これで役僧たちの金満ぶりがなければ、少しはまともと思えるのだが生活態度が伴わない。結局、欲望重視で菩提への“即”がそこに見られない。

38犀角独歩:2009/03/25(水) 19:54:42

-37からつづく-


この周辺の僧俗は欲深いのか?
しかし、この欲は金銭欲とか、名誉欲と顕在するのは、一部の特権階級を上り詰める異常者で、一般の信徒は、慎ましい面もある。
それでも、彼らは欲深いと、わたしには映じる。しかしこれは悪口ではない。彼らの欲とは、生きる欲、生き続けたい欲、創価学会の常套句を使えば「永遠の生命」でありたいという自己存在に係る欲望なのだ。

こうしたバラモン以来の自己存続欲望が“我”の想念として生じたのではないか。これに対してゴータマブッダは非我を説いた。自分があり続けるという欲望からすら脱却したのだ。解脱である。

わたしが信仰圏を抜け出すとき、ときたま、テレビで見た海外番組の心理ドラマが、決定的な鍵になった。そのドラマがなんであるのか、まるで覚えていない。そのセリフも曖昧な記憶なのだが、ヒロインに対して、医者(だと記憶する)が、こういう。

「あなたは、死の過敏症にされている」

目から鱗が落ちるという言葉を、しばしば使うが、創価学会から大石寺の信者であった時代、そう40年に及ぶ長い時間、わたしにかけられていた暗示の正体はこれだったのだ。

信仰への拘りも、生への拘りにその基があり、そして、よりよく生きたい、人よりよくありたい(それは信仰を含めて)という“欲望”、つまり煩悩を形成していたのだ。

いまのわたしは、特に再生(輪廻、生まれ変わり)を望まない。永遠の生命への執着は絶てた。死は恐れることではなく、受け入れることである。
死への恐怖を克服されると、こうした煩悩によって人を操る宗教はあさましく映じる。

そう思って、眺める信者達の姿は、実はあさましく映る。得たいもの・得たもの・得られないものの総称としての欲望煩悩と、執着から来る喪失の恐怖にどよめいているように映じる。

わたしは、ここ数年、創価学会・顕正会を含む大石寺の、教学の誤りと、何より、その本尊が後世の作品に過ぎないことを記してきた。

では、仮にその教学が日蓮が説いたままであったとしよう。その本尊が日蓮が作ったものであったとしよう。

しかし、だから一体なんだというのだ。
所謂「本門戒壇の大御本尊」が本物であったとして、ただの彫刻ではないか。

そうしたものが本物であって欲しい願望は、つまりは、欲望から、そうあって欲しいという思いに過ぎない。仮に本物であっても、欲望で人を操るツールなど、死への過敏症を卒業すれば、もはや、不要なのだ。

プラシーボ(偽薬)は、薬が必要な人には、効くだろうが、薬を必要としないものにとっては、無用なのだ。

39問答迷人:2009/03/26(木) 09:31:33

犀角独歩さん

>信仰への拘りも、生への拘りにその基があり、

単純化して考えますと、草木は根を張り幹を太くし花を咲かせ実を付けて子孫を残し、最後は枯れて土に戻ります。草木は其々が持つDNAに従って活動し、寿命を終える。ここには生の営みがあるのみで、「拘り」などというものは見ることが出来ません。草木に心が無い以上、当たり前の事かも知れませんが。

ところが、人は、生に拘ります。そして、生に拘り続けた結果、今日の科学技術文明を築き上げたのも事実だと思います。

そう考えると、生に対する良い拘りと悪い拘りが有るのではないかと思えてきます。

この交通整理を期待されているのが、思想・哲学・宗教なんだと思います。

しかし、独歩さんご指摘の「死の過敏症」を初めとして、思想・哲学・宗教には、人を生への悪い拘りに導くものが少なく無いのではないかと思います。


>そして、よりよく生きたい、人よりよくありたい(それは信仰を含めて)という“欲望”、つまり煩悩を形成していたのだ。

これでは信仰を持つことが、却ってその人を苦しめる結果をもたらすことになりますね。

思想・哲学・宗教に期待されている事は、その人が持つDNAに従って生が営まれるように、そのみちしるべの役割を果たしてくれる事であると思います。

纏まりませんが、独歩さんの文章を読ませていただいて、こんな感想を懐きました。

40犀角独歩:2009/03/26(木) 09:39:43

問答さん

ご感想、有り難うございます。

37、38にまとめたこと、実はゴータマブッダの元々の考えは、こんなことではなかったのかと考えています。

それ以外の仏教だと言われることは、すべて後付で、実はバラモンからヒンドゥー化された、もしくはミトラ教やら何やらの外来思想の摂取。そうした欲望でふくらんだ宗教が教団として存続できる理由は、実は経済、その“購買”動機こそ欲望=煩悩。

しかし、ゴータマブッダは、一切の所有を越え、ついには自己の心身の所有すら越えていった。道義で考え尽くせる人類史で最も初期に遡れる合理主義的発送の持ち主であったのではないか、そんな人物像をわたしは懐いています。

けれど、こうしたゴータマブッダの原形は、なんら利益を生まない。人々の欲望を煽らない。欲望を煽り、経済が成り立ったほうが、むしろ発展した。つまり、ゴータマブッダの悟りとは関係のない異端ばかりが発展し、日本にも至ったのだと、わたしは考えています。

41犀角独歩:2009/03/27(金) 09:52:53

【40の訂正】

誤)合理主義的発送の持ち主
正)合理主義的発想の持ち主

42問答迷人:2009/03/27(金) 13:49:38

青木新門著『納棺夫日記』を読んで

昨日、納棺夫日記が宅急便で届いた。映画「おくりびと」が、その場面場面が、納棺夫日記に基づいている事が確認できた。

「死を忌むべき悪としてとらえ、生に絶対の価値を置く今日の不幸は、誰もが必ず死ぬと言う事実の前で、絶望的な矛盾に直面することである。」

実に鋭く僕自身の抱える自己矛盾を抉り出して下さった、素晴らしい一節である。日本文化の「穢れ」の観念、そして「生」を礼賛するこの文明のあり方、それらが綯い混ぜになって、僕の「死への恐怖」を形成している事が良くわかった。青木新門さんの説く「親鸞の光の教え」は僕には今のところ体験出来そうにも無いが、「死」を巡る問題の所在が極めて明瞭になったと思った。

43問答迷人:2009/03/27(金) 14:14:58

犀角独歩さん

>つまり、ゴータマブッダの悟りとは関係のない異端ばかりが発展し、日本にも至ったのだと、わたしは考えています。

大筋でお考えに賛同します。釈尊は、悟りを得た後、この悟りを人々に語るべきか否か、迷ったとされています。そして梵天の請いにより初転法輪がなされたと。釈尊は恐らく、悟りを説いても誰も理解できず、却って人々を混乱させるだけにならないかと迷ったのだと思います。釈尊が危惧した通り、その教えは捻じ曲げられ、勝手に追加され、今日では、恐らくは、ほとんどその原型を留めないまでに変化してしまっているのだと思います。

変わり果てた今日の仏教の中に、釈尊の教えは一体どうなってしまっているのでしょうか。釈尊が危惧したとおり、説いた事自体が、徒労に終わってしまったのでしょうか。お考えをお聞かせ戴ければ幸いです。

44hage:2009/03/27(金) 22:53:17
人間には「生老病死」の苦しみがあるとされたのは、たしか釈尊だったと記憶しています。
人間の苦しみから開放し救いたいと思われたのも釈尊だったと記憶しています。
人間の苦しみは欲望、煩悩によって生まれるとされたのも釈尊だったと記憶しています。

「死の苦しみを逃れたい」「死への恐怖不安から開放されたい」「成仏したい」という欲望、煩悩を無くすことは、凡夫にはなかなか難しいですよね。
「死の過敏症」も含めて、よりよく生きたい、人よりよくありたい、やすらかに死んでいきたい、という欲望があり、煩悩があるのが人間だと思います。
逆に人間らしくてよいのではないでしょうかね?

45hage:2009/03/27(金) 23:03:41
犀角独歩さん

>ゴータマブッダは非我を説いた。自分があり続けるという欲望からすら脱却したのだ。

私はあまり詳しくはないのですが、ゴータマブッダは非我を求め修行したが、自分はあるという事を説かれたのでは??
犀角独歩さんの意味するところと、私の意味するところが違うのかもしれませんが・・・

46犀角独歩:2009/03/28(土) 06:32:42

問答名人さん

わたしは、ゴータマブッダが、一切衆生を救うことを考えていたという、まずはじめの一歩を疑ってかかっています。

そうした救い主を必要としない自分自身を確立する修行法=道(どう)を提示しただけではないでしょうか。

最後の遺言は、「自らを灯明とすること」「法を灯明とすること」だといいます。ここでいう法とは教法であり、修行法という意味ではないですか。その修行を自らが行い悟り(菩提)に至れ、それがゴータマブッダの遺言のすべてであるとわたしは思います。

なにか、神秘的な力、神仏が救いあげてくれるといったことをいったのではないと思うのです。

ですから、この点に気付き、修行によって自らが精進していくわけですから、ゴータマブッダの言ったことはその意味では徒労にはなっていないだろうと思います。

ただ、わたしたちが仏教だと思ってきたものは、バラモン教であったということではないですか。わたしはいまの坊さんを見ると、まるでバラモンのようにしか見えません。このバラモンからの脱却にゴータマブッダの道があったと考えています。

47犀角独歩:2009/03/28(土) 06:35:39
hageさん

> ゴータマブッダは非我を求め修行したが、自分はあるという事を説かれた

ゴータマブッダは非我を悟ったのであって、「自分はある」といったデカルトのようなことは言っていないと思いますが。

48hage:2009/03/28(土) 08:19:15
私の中途半端な知識で申し訳ないのですが、
釈尊を題材にした作品にヘルマン・ヘッセ 『シッダールタ』 があります。
私はこの小説が好きで、何回も読みました。
Wikiで釈迦をみると
「減食、絶食等、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行ったが、心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれている。」
とありますが、ヘッセの作品にもこのあたりの表現があります。
ヘッセの釈尊の解釈が正しいか間違っているかは判りませんが、人の解釈としては間違っていないのではないかと思います。
非我ではなく一切をあるがままに、苦労を楽しんでよいのでは?

49犀角独歩:2009/03/28(土) 09:32:43
hageさん

Wikiの該当の記述は苦楽中道を悟ったとする場面で非我云々とは関係ないと思いますよ。

また非我、むしろ無我と言われてきました。
いずれにしても、ここで問題にされているのは「我」でしょうが、この考えは、ゴータマブッダ以前のバラモンの考えでしょう。

わたし自身はバラモン教説に関する新たな視点を投じたのではないかと想像しています。

しかし、ゴータマブッダの教説は修道であって、その基本は戒律です。

> 一切をあるがままに、苦労を楽しんでよいのでは

この言い回しはどうもよくわからないのですが、「一切をあるがまま」には「諸法中無我」といったことで、苦労を楽しむと言うより苦楽中道、つまり、苦にも楽にも依らないと言うことですから、苦労を楽しむといったこととは違うように思えます。

50空即是進化:2009/03/28(土) 10:37:56

 釈尊の時代に限らず、現在の多くの国々でも、死は極めて身近なものでありますが、
生物にとって、生きて子孫を残すことがすべてに優先します。
 ほとんどの人間(動物)は常に飢えていた。そこに善悪はありません。しかし、
大型肉食獣や他の人間集団からの攻撃から身を守るため、協力しあうという本能も
得したようです。
 
 現生人類の声帯が進化し、言葉を獲得したのが10数万年前。5万年前ごろまで
並存していたネアンデルタール人には、言語をあやつれるような声帯は無かったよ
うです。
 人類が体毛を失い衣服に相当するものを身につけるようになったのは、衣服に
とりつくシラミの研究から11万4千年前と推定されるとか。
 アダムとイブが知恵の果の実を食べたのはこの頃ということ。
 人間の脳の基本構造も、そのころからほとんど変わっていないようで、「死」や
生き甲斐についても考えるようになった。
 
 人類の歴史はかくも長いようで短い。自分の前世が何であったかを訪ねると、
あっという間に原始人。1万年前に人類と別に神々の世界があったと考えることに
も無理がある。
 
 現代の日本人は、過去の人類の目から見れば、すでに天界の住人で、神々以上の
存在と言えるかも。今以上の天国(極楽には女性がいないから嫌だ)を想像したら
どんなものがあるのでしょうか。全く障害のない無刺激な世界では、すぐ飽きるに
違いない。
 平均寿命が延びすぎて、死を怖れる人も減っている気がします。既成宗教が想定
していなかった時代がきてしまいました。
 欲を捨て去ることはできません。今ここにいる幸運を素直に受け入れていいのでは。
 
 宇宙そのものを「神」とよぶならば、人類すべてが神に選ばれた至高(究極の進化
を遂げた)の存在であり、神は我々を使って、宇宙の更なる進化を目指している。

 スレ違いならば、お許しください。

51犀角独歩:2009/03/28(土) 10:41:13

空即是進化さん

詳しいレスは問答さんがなさることと存じますが、50にお書きになったこと大いに賛同します。

54hage:2009/03/28(土) 21:01:29
犀角独歩さん

「諸法無我」をWikiでみると、

我々人間は、しらずしらずの間に私自身の現存在を通じて、そこに幼い時から成長して現在にいたるまで肉体や精神の成長変化を認めながら、そこに「私」と呼ぶ実体的「我」を想定し、成長変化してきた私そのものをつかまえて、私は私であると考える。
しかし、諸法無我はそれこそ我執であるとして退け、変化をその変化のままに、変化するものこそ私なのだと説くのである。
この意味で、諸法無我は、自己としてそこにあるのではなく、つねに一切の力の中に関係的存在として生かされてあるという、縁起の事実を生きぬくことを教えるものである。

とあります。
「死の受容」、「死への過敏症」からの脱却、はこのあたりと関係あるのでしょうね。

空即是進化さん
現代の日本は物質的に見れば本当に天界なんだと思えますよね。
でも、世界の中には苦しんでいる人も多いし、日本の中にも心を病んでいる人が多いのも事実です。
それを考えるともっと新化しなければいけないのだろうし、真の意味での宗教の力、慈悲の心も必要なのでは?

55空即是進化:2009/03/28(土) 22:26:59
hageさん 悩み苦しむ人たちも、また天界の住人です。相互扶助の観点から、出来る限りの支援は必要でしょうが、
実際何ができるのでしょうか。特に宗教の役割が意味するところは?
 どんな境遇であれ、人間として生を受けたことがどれほど幸運であるかを知らしめることが、特効薬の気がします。

56幻論乙坊:2009/03/28(土) 23:50:33
人間なんてこんな生物なんでしょう。

普遍妥当的なものなんてないし、そうだと思い込んでいる物だって予備知識に拠るところ
が多く、その予備知識に振り回されている自己がある。

死の感情も私がよく使う、時間空間的に異なる訳で、日本文化における捉え方に拘っている
だけの事だと思う。

板曼荼羅なのか、仏像なのか、印刷コピー曼荼羅なのか、この様な物を取り上げ
議論が成立するのも、そこに自信意味付けをしたからであり、その物自体(曼荼羅等)
には何ら普遍的意味は存在しない。

この事を個々、頭のどこかで(無意識の領域に追いやっているのかも知れないが)
了解しているので自己の中において葛藤が有るのかも知れないのかな?
と感じていたりします。

是全幻想

57問答迷人:2009/03/29(日) 08:38:50

犀角独歩さん

>わたしはいまの坊さんを見ると、まるでバラモンのようにしか見えません。このバラモンからの脱却にゴータマブッダの道があったと考えています。

とてもよくわかります。結局、そういう事なんですね。一人一人が、自分で自分を悟ってゆくこと、その方法論を釈尊は教えたのに、時代が過ぎると、アナタ任せの信仰が蔓延ってしまう。常にアナタ任せから脱却し続けない限り、悟りから遠ざかる一方だと。

有難うございました。

58問答迷人:2009/03/29(日) 09:13:08

空即是進化さん

>現代の日本人は、過去の人類の目から見れば、すでに天界の住人

仰るとおりだと存じます。日本国憲法に支えられた僕たちの今の境遇は、人類の営々たる努力の最先端であると思います。勿論、地球上には、今も何千年前とそう変わらぬ生活を続ける人々もいるし、貧困飢餓に苦しみ、餓死する人が毎日いることも事実です。今日の経済危機により職を失い、路頭を彷徨うしかない方々がいらっしゃるのも事実です。それでもなお、総体としては、今の日本人は限りなく豊な生活をほぼ平等に享受できていますし、総理大臣の悪口を悪し様に言っても、憲兵隊に引っ張られる事も有りません。本当に奇跡のような境遇であり、天界の最上かも知れませんね。

>平均寿命が延びすぎて、死を怖れる人も減っている気がします。既成宗教が想定していなかった時代がきてしまいました。

八十才まで生きられたと言う釈尊とほぼ同じ日本人の平均余命、これはやはり奇跡でしょうね。医療制度に様々な問題を抱えるものの、日本人のほとんどの人が健康保険制度に守られて、誰でもすぐに医者に診て貰える国は、先進国の名に恥じないと思います。

>欲を捨て去ることはできません。今ここにいる幸運を素直に受け入れていいのでは。

同感です。先人と世界の人々に支えられた有り難い姿だと思います。

>神は我々を使って、宇宙の更なる進化を目指している。

人類は、遂に地球環境を脅かす存在になりました。そして、幸いな事に、そのことを人類は自覚しています。今朝の新聞によれば日米で共同研究が始まるそうです。とても素晴らしいことだと思います。効率の良い太陽電池の開発や、CO2の地中封じ込め技術が完成すれば、エネルギー危機や地球温暖化問題は、かなり解決に向かって前進するのではないかと期待するところです。

今、僕たちが享受している天界の境遇を、人類全体が享受できるようになり、しかも、その人類が地球環境を脅かさない事。そうなったときには、人類はかなり進化したな、ということになるのでしょうね。サルからヒトへの進化くらいの、大進化なのだと思います。

今の僕たちがその最先端にいる奇跡に感謝しなくてはならないなぁ、と思いました。

59問答迷人:2009/03/29(日) 09:27:56

幻論乙坊さん

>板曼荼羅なのか、仏像なのか、印刷コピー曼荼羅なのか、この様な物を取り上げ議論が成立するのも、そこに自信意味付けをしたからであり、その物自体(曼荼羅等)には何ら普遍的意味は存在しない。

道具という物は、それを使う人にとってはとても大切なものなのですが、使わない人にとっては、どうでも良いガラクタと変わり無いですね。曼陀羅も日蓮聖人を信じ、題目を唱える人にはとても大切なもの、ツールですが、禅宗の僧侶にとっては、どうでも良い偶像でしかないと思います。

日蓮聖人が何のために曼陀羅を認めたのか、その目的が大事なのだと。これは、仰る通り、ある目的における意味付けなんだと思います。

曼陀羅はお題目を唱える、という修行においてのみ意味を持つツールですから、お題目を唱えない人にとっては、たとえ日蓮聖人の真筆であっても、骨董品としての価値しか無いわけですね。

60幻論乙坊:2009/03/29(日) 19:14:32
問答迷人さん
こんばんは

ご理解戴き有難う御座います。

誤解はないと思いますが板曼荼羅、仏像、印刷コピー曼荼羅等がくだらないと述べているのでは御座いません。
人間は心の安定を求めるために何かに縋らずにはいられないのでしょうね。
その何かは時間空間的に異なりますね。

私は以前にも少し触れましたが信仰経験は一度も無いにも拘らず、
育った環境のせいで数年前まで、石山寺院以外の神社仏閣へ足を踏み入れる事が出来ませんでした。
親族のその宗教を否定しているにも関わらず、私は無意識的にその教義(神社仏閣へ足を踏み入れるな)
を受け容れてしまっていたのですね。

仕事の関係上、どうしても足を踏み入れなければならなかった場合の具体的な反応としては
一、鳥肌がたつ。
二、薄気味悪い。
三、焦燥感に駆られる。
四、近いうちに何か良くない事が起こるのでは。
五、それら敷地内の飲食物は一切口にする事が出来ない。
(自販機に拠るものも)
など等です。
現在ではそれらの場所に何とか足を踏み入れる事が出来る様に成りました。
が、一〜五までは未だに払拭出来ずにいます。
是は育った環境(文化)によるもと理解しています。

多くの国々でそうでしょうが、宗教は崇高なもので崇め奉るものであるから、口汚く罵ったり粗末に扱っては成らないし、疑うものではなく邪推を働いてはいけない。
その様な行為を働く者は、その者自身の心が穢れているからである。
私達、日本に於いては神社仏閣に参詣し、お賽銭を投げ込み鰐口を叩き、手を合わせれば清々しい気持ちになる人が多いらしい。
そのものそれ自体に何らかの潜在的能力を有しているのではなく、物心付いたら多くの人達がその様な振る舞いをして、
自分もそれに倣った方が安心であるからでしょう、
これは宗教とはそう言うものだと、言う共通認識の上に成り立っているものにほかならないと考えます。
でなければ「宗教なんてバカバカしい。」と無信仰者であることをある種のインテリ系のように声高に叫ぶ人に
「では、この仏像を叩き割ってみろ」と、言って易々と叩き割れる人物はそうはいないと思う。

これはその様な文化に育ち教育を受けたからに他ならない。
知識を有していなければ、それらは崇高でも崇め奉らなければ成らないとの思考にも至らない訳であるから、笑い飛ばし、邪険にも扱うし、口汚くも罵れ、叩き割る事も出来そこに足を踏み込んでも鳥肌も立たないのは言うまでもない。
しかし、その様な行為の後、「貴方が先程、バカ笑いし、邪険に口汚く罵ったものはこの辺りの多くの人が心の拠り所として奉られているものだったのですよ」
と知らされて、はじめて罪悪感(ある者は身の危険)を覚えるのですね。


私が現在よく寺院を訪れるのは私自身、宗教を否定し受け容れる事が出来なかったにも拘らず、
石山寺院と学会会館では拒絶反応を認めず、そのくせ神社仏閣に足を踏み入れた際トラウマによる
拒絶反応を起こしてしまう。
その自己矛盾を克服するためなのです。

是全幻想

61問答迷人:2009/03/29(日) 20:33:54

幻論乙坊さん

>宗教は崇高なもので崇め奉るものであるから、口汚く罵ったり粗末に扱っては成らない

日本においては、概ねそのような態度が一般的で有ると思います。海外に付いては、良くわかりませんが。

>石山寺院と学会会館では拒絶反応を認めず、そのくせ神社仏閣に足を踏み入れた際トラウマによる拒絶反応を起こしてしまう。

そうですか。これは、高校生のときに入信した僕とは少し事情が違うようです。今は、石山寺院と学会会館には拒絶反応を感じ、神社仏閣に足を踏み入れる事には大した違和感は無く、ただ、賽銭を入れることには今も抵抗感はある、と言ったところでしょうか。

まぁ、大石寺の歴史を調べれば調べるほど、金輪際参詣したくない、という気持ちが強くなります。

62空即是進化:2009/03/30(月) 23:55:34

 問答さん、独歩さん、ご賛同いただきありがとうございます。
 調子に乗って、もう少し意見表明を続けます。

 人間死んだらどうなるのか? 
 脳を離れた意識は存在しないでしょう。いわゆる`霊魂=我`は無い。
 意識体としての超越的実在(梵)もあり得ない。
 前世も来世も無い。
 
 脳の働きを知れば知るほど、そのすごさが解ります。
 生きてるときの瞬間々々の精神活動は、何らかのエネルギーとして残留するかもしれないが、
死後の魂がそれ自体で能動的な存在たることはあり得ない。
 
 土から生まれて土に帰る。それ以上を欲すれば、苦がやってくる。欲と苦は生きてる限り避け
られない。避けられなければ、あとはコントロールの問題かな。それが八正道。

 宇宙は、138億年前、時空の歪みから生じた極々高温エネルギーが、空間の拡大と低温化に
より物質転換したことから始まったらしい。最初の物質はほとんどが水素とヘリウム。それが、
融合と分裂を重ねるうちに百いくつかの天然元素ができあがった。

 地球も人間も原材料は同じである。宇宙(神)は、その材料を使って無限の可能性を試してい
る。どこまで進化できるのか、その最高傑作が人間であろう。さらに人間は自ら進化するだけで
なく、偶然の組み合わせだけではなしえない地球環境の改造(進化)まで手を出すようになった。
世界遺産は自然遺産も多いけど、人為的な美しさ(文化遺産)もすばらしい。

 話はズレますが、人類にとって本当に恐ろしいのは温暖化でなく、寒冷化です。それも近い将来
必ずやってくるという。その対策が絶対的に必要と思われるが、現実に直面するまでは無理か。


 すなわち、人間の存在理由及びその価値は、「進化」の一点につきる。

 私達は10×何百乗以上の幸運のもとに、この時代の人間として生まれてくることができました。
 宝くじに当たって、世界一周旅行しているようなものでしょうか。貧乏旅行の人もいますが。
 せっかくだから、目一杯楽しむべきですね。

 とは言え、大方解ったようなつもりでも、獄中の戸田さんの悟りのような感動は無い。まだ、
上っ面だけということなんでしょうか。毎日つまらんことで動揺しているし。
 
 「霊魂など無い」と知った日から、それまで時々感じていた夜の不気味さを感じなくなりました。
 

 かなり大胆なことを書いている割には、表現力が無くて申し訳ありません。
 諸兄のご叱責をお願いします。

63hage:2009/03/31(火) 23:06:48
空即是進化さん

霊魂があるのか無いのかは解りませんが、
意識とは何なのか??心とは何なのか??を考えると、本当に不思議です。
意識や心には形もなければ大きさもありません。あるのは変化だけなのでしょうか?
もし、変化そのものを意識、心と捉えるならば、高等生物だけが持つものではなく、
単細胞生物も心を持つかもしれませんし、鉱物にも長い長い年月で考えれば意識らしきものがあるのかもしれません。
地球や、宇宙そのものも変化しているので意識を持つのかもしれません。
素粒子の世界、原子や電子でさえ意識によって変化している、変化によって意識が起きているのかもしれませんね。

それからすると、人間の知識は、ほんの極々小さいわずかな一部分でしかないのでしょうね。

64hage:2009/03/31(火) 23:13:27
仏様は眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・未那識・阿騾頼耶識・阿摩羅識
の九識で表わされていますね。

65犀角独歩:2009/04/01(水) 13:10:45

魂といった話について、仏教ではありませんが、以下のサイトはよくまとまっています。

http://w5.abcoroti.com/~ikikata/bunrui.htm

66顕正居士:2009/04/01(水) 15:32:49
心身問題 Mind Body Problem についての現代の議論はWikipediaによくまとめられています。

心身問題 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E8%BA%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C

下にあります「心の哲学のトピックス」の各項目を読むと現代の議論があらかた把握できます。
この2-30年、コンピュータ科学と脳科学の進歩によって心身問題の議論に深化が見られます。

67幻論乙坊:2009/04/01(水) 17:45:47
問答迷人さん
年度末でバタバタして返レス大変遅れてしまいました(謝)

問答さんは高校生の頃(自らの意志?)に入信された。

私は、これも既にこちらで記していますが、私のご受戒を受けた日は、私の出生日です(これは現実的では有りませんね。
多分、親が正確な日を忘れてしまい出生年月日としたのでしょう、いずれにせよ私の意思などそっち除けな訳です。
子は(人間の子は出生してかなりの年月を親に全面依存しなければ生きて行けませんね)親に全面依存しなければ成らないし、
親を介して世間を認識するのだろうから、私のトラウマ(何より私は信仰経験がこれまでの人生においてまるで無い)
による石山、学会系以外の寺院への拒絶反応と問答迷人さんのそれとは当然違ったものと成るんでしょうね。

ここで述べたかったのは人間は個々、感性が異なり、様々に受け取るという事でした。
死生観も様々で普遍妥当なものは存在しない。
「穏やかな顔をしていてまるで眠っているようだ、さぞ成仏された事でしょう」
とは、よく見受けられるある特定の組織内における共同幻想とそっくりだと思惟致しています。
(解りやすい例がファッションですね、そこに身を置いている者は超イケているのだろうが、
身を置かず興味も持っていないものから見れば全然イケていない様に映りますね。
この様な事は何も一部の組織とは限らず、国レベルでも見受けられますね)

成仏、穏やかな死相、死に様と、綺麗だ、楽しい、悲しい。
と言ったものは、この世にまだ生を保っている者が持つ感情ですね。
(私の前世はこれこれである。と言った方に未だ出会った経験がないので以上の様に考えています)
その様に皆で演じている「この様に受け取ろう、思おうじゃないか、幸福ってこんなものだろう」
と、人間だからどうにでも染まってしまう。

「こんな判決じゃ、あの人(あの子)が浮かばず墓前になんて報告すればいいか」とは、
あの人(あの子)が浮かばれないのではなく、貴方が許せず、悔しいく、又、納得が行かないだけである。

「きっと天国に往ってくれた事でしょう」とは、そこに自身を投影しているからじゃないだろうか。
お墓参りは故人の為に参るのではないのは言うまでもないですね。

是全幻想

68空即是進化:2009/04/01(水) 23:21:07
 
 タイム誌等の最新の脳科学関係記事が多数載っています。
 参考になると思われますので、是非ご覧下さい。
  
  http://saito-therapy.org/new_finding/index.htm
      (申し訳ありませんが、リンクの張り方が解りません。) 

 私も、人間がここまで進化したことを、ただの偶然とは思っておりません。
 そうなるべく、何らかの偉大な力が作用しているものと考えます。
 確率的にあり得ないことが、現実に起きている。
 進化にとって有効なものには、特に大きな援護があるのではないか? 

 地球外生命体の存在可能性を主張する人がいますが、私は全宇宙の中で地球にしか
高等生命体はいないと考えています。
 それは、最も生命発生の条件がそろっているこの地球ですら、現在存在する生命系
以外の、別系列の生命体が発生した形跡が無いからです。(ウイルスから人間に到る
まですべて共通のDNAを持っている)
 それほど地球は貴重で、とりわけ人類はすごい存在ということだと思います。

 感謝!

69いちりん:2009/04/04(土) 19:58:30
年をとってきたおかげで、死を「わがごと」として、少しずつとらえられるようになったきた。
いや、といっても、まだまだ「人ご」となんだけどもね。
昨日は、突発性間質性肺炎という病で、あと半年という友人とコンサートに出かけた。
彼女は、空咳をしながら、しんどそうだった。
「半年後にはこの世にいないので、少しずつ整理整頓している」という。
まあ、もし自分だったら、突発的な交通事故で死んでしまうより、あと半年とか、期限があるほうが心の準備、後処理のための支度ができていいのかなあと思ったり。
それにしても、死ぬというのは、やはり病を得て、身体が苦しくなっていくことになるわけだから、じわじわとくる苦しさがつらいなあと思ったり。
自分自身も、「いつなんどき……」と思うわけで、そのつもりで、なにかと準備をしておかねばと思う。

日本でホスピスを始められた先駆者の一人に、柏木哲夫先生がおられるが、こんなことを言われていた。看取った
「多くの家族が“まさか主人(妻)がこんなに早く死を迎えるとは……」と言うそうだ。
「まさか、まさか」と。

それから、「これからという矢先に亡くなる」とも。
定年になってこれから夫婦で旅をしようねという「矢先」。
子供達が巣立って、これから一緒にまたやっていこうねと話し合った「矢先」。

最後の一ヶ月、その人の人生が凝縮されている、と。
「その人が生きてきたように、亡くなる」とも。
「しっかり生きてきた人は、しっかり亡くなっていく」と。

70問答迷人:2009/04/04(土) 20:23:12

いちりんさん

>その人が生きてきたように、亡くなる

含蓄の深いお話、有難う御座います。いちりんさんの仰る言葉をかみ締めていますと、25年ほど前に亡くなった父のことが思い出されます。

父は肝臓がんで亡くなりました。判ったときは既に末期がんで、手術すら出来ませんでした。入院して1ヵ月ほどの命でした。父は生前、「死ぬ事は何も怖くないから、もしがんになったら、隠さずに教えてくれ」と言ってたので、兄が告知しました。途端に食事が取れなくなり、何も話さなくなってしまいました。ようやく口を開いたときは、「俺はがんでは無い。肝硬変なんだ」でした。余程、がんで死ぬ、という事が受け入れがたかったのだと思いました。そして又、少しずつ食事も取り出しました。しばらくしてから、「人は死んだらどうなると思う?」と問いかけてきました。最後の二日ほどは、心が安らいだような感じで、もう病気のことには何も触れずに、「ショーペンハウエルは死について色々言っていたけれど本当の事は死んで見れば判るよな」等と話していました。この時には、もう死を受け入れていたのだと思いました。そして、今にして思えば、やはり父は死はそんなに怖くなかったのだな、と思います。そういう達観したような生き方をした飄々たる父でしたが、死ぬときもやはりそんなに変わらず、飄々として死を受け入れたのだなぁ、と思います。

あと15年ほどで父が亡くなった年齢になりますが、その時にじたばたせずに死を有るがままに受け入れることが出来るのだろうかと思うと、まだそんな心境には程遠い気がします。

71再挑戦者:2009/04/04(土) 20:24:17
 68、、 >、、、、、、。

 失礼します、、。  確かに、人類は進化?しました。 わが地球こそ、一番?
 とヨイショ、、も、したくなるのはご理解可能です、。
 

 でも、はたして、? 真実の宇宙世界は、? 
 広大なる、無量なる? 無辺なる? 「、是諸世界、可得思、、、、是諸世界、、一塵一劫、、」、
と言う、教主なる釈尊様のご意見も一応は御考察されても? ないでしょうか ?
 
 小生が危惧しますのは、「、、宇宙には、われ等だけしか ? 居ない のだ?」、と言う? のは、地球人の「思い上がり ?」 と 「独善性 ? 」の疑義が濃厚かも ?
 これからも、何億光年もの 地球の 果ての果てから、突然に” 研究望遠鏡の中に” 飛び込んでくる宇宙の未知なる物体? などが、新しいニュースとしての期待
も軽視は出来ません、ので、。 失礼、。

72顕正居士:2009/04/04(土) 23:46:59
現在、銀河系にどのくらい電波通信が可能な知的生命が存在するか?(ドレイク方程式)

http://homepage3.nifty.com/brownys_cosmos/space/drake.htm

ちなみにわたしの予想は0.5、0.75、1、0.75、0.05、0.05、10000000 で

「この銀河系内に46.88個の知的生命体がいます。
したがって、平均12943.48光年四方に存在する計算となります。」

隣人は13000光年の彼方なので現在発見できないのは無理がないことになります。

73空即是進化:2009/04/05(日) 00:05:12

 リンク、できたようです。

 再挑戦者さん。
 私もできれば宇宙人には居て欲しいと思ってます。ただ、確率的にはゼロに等しい。
 また、どこかに居るにせよ、コンタクトが取れない以上どうにもならないのでは。

 神様もまた同じ。居てくれればうれしいが、信じる者しか救われない訳だし。

74犀角独歩:2009/04/05(日) 04:36:56

顕正居士さんの書き込みを拝見。カールセーガンを思い出しました。
偶然でしょうか、昨晩、DVDで『コンタクト』を見ていました。

死について、この前、振り返っていたのですが、創価学会にいたときがいちばん怖く、法華講に移ってやや恐怖は弱まり、棄教した今は恐怖は消えました。

そんなことからも「日蓮正宗創価学会」で死の過敏症に冒されていたのだと思う次第です。

以下、以前も転載したセーガンの記事です。
『NEWSWEEK』1997.4.9号の切り抜きを、私は今も大切に取ってあります。

*** 以下転載 ***

昨年、借しまれつつ早逝した著名な天文学者のカール・セーガン。
あくまで科学の人であった彼は、病に倒れても最後まで、そして誰にも、自分のために祈ってくれとは頼まなかった。
それでもニユーヨークの聖ヨハネ大聖堂には、彼の回復を祈る人々がたくさんいた。彼らの祈りは、セーガンが生涯かけて探しても見つからなかった天国に届き、セーガンがついに信じなかった神の耳にも入ったはずだ……もしも祈りが天まで、そして神の耳まで届くものであるならば。
そして、もし神が存在するならば、神は善男善女の祈りを無視してセーガンを天に召した。62歳の早すぎる死。彼が愛した地球には、妻と5人の子供、未完の仕事が山ほど残された。
だがセーガン自身にとっては、悔いのない死だったかもしれない。誘惑には、ついに負けなかったのだから。
もちろん彼も、神の国に無関心ではなかった。宇宙の起源や人間の意識、進化の謎などに自由な思索をめぐらしたセーガンは、この10年ほど、宗教界の人たちとの対話に多くの時問を費やしてきた。
神は存在するのか、とセーガンは問うた。存在する「証拠」がないかぎり、その存在を肯定するわけにはいかない、というのがセーガンの立場である。
この大胆な問いかけを受けて立ったのは、主としてリベラルな聖職者たちだった。聖ヨハネ大聖堂のジェームズ,パークス・モートン師、全米教会評議会のジョーン・ブラウン・キヤンベル師らの名前がある。またロバート・サイプルのようなキリスト教保守派の論客とも渡り合った。
キリスト教の教えは2000年も前に死んだ人たちの言行録に基づいているが、その記述の真偽は今さら立証しようもない。そんなものをなぜ、科学の恩恵に首までつかっている現代の教養人が信じるのか。

75犀角独歩:2009/04/05(日) 04:38:20
-74からつづく-

・NASAでは変人扱い

あるときセーガンはキャンベル師に、「賢いあなたが、なぜ神を信じる?」と尋ねている。
キヤンベル師は驚いて問い返したという。誰も見たことのないプラックホールの存在を、いとも簡単に信じてしまえるほど「賢いあなたが、どうして神を信じられないのですか?」。
だがセーガンとて、最初から神を否定してやろうと意気込んでいたわけではない。こんな手紙が残っている。「全知全能で慈悲深い神に見守られているという考え方は、最初は居心地よかった。だが[信仰を支える]証拠が言い伝えでしかないことに気づいたとき、疑いが生じた。……しかし、もしも神が存在する証拠があるのなら、それを見つけるのは私の義務だと思う」。
実際、最初のうちはセーガンも積極的に神を探していた節がある。20年前、NASA(米航空宇宙局)で火星探査船バイキング号のプロジェクトに携わっていたセーガンは、地球以外の惑星に生命体が存在する可能性をしつこく説き、同僚から変人扱いされたものだ。
愛の存在も証明できない。もちろん、セーガンは「可能性」を信じていただけだ。だから火星深査機が石ころしか発見できなかったのを見届けると、セーガンはそれを「証拠」として受け入れた。
また金星に関しては、温度が高すぎて生命は存在しえないという論文を発表している。
「科学に貢献するたびに、彼の期待は打ち砕かれたの」と言うのは、仕事上のパートナーでもあった夫人のアン・ドルーヤンだ。
もしも神の存在を否定する証拠を前にしたら、信者も信仰を捨てる勇気が必要だと、セーガンは考えていた。そんな異端を是とする宗教があれば、彼も帰依していたかもしれない。
1995年の著書『悪魔に憑かれた世界』では、宇宙人に「誘拐」された人の話や黒魔術など、アメリカ社会にはびこる迷信から科学を擁護する論陣を張った。そして慎重に言葉を選びながらも、信仰の根拠とされるものも迷信と大差ないのではないか、と問いかけている。
こうした飽くなき「証拠主義」に、最初のうち宗教界は防戦一方だった。だが、ある日、キャンベル師の投げかけた一つの問いで形勢は逆転したのかもしれない。「あなた、愛を信じますか?」と師は尋ねた。
「もちろん、と彼は答えました。奥さんを心から愛していましたからね。そこで私は言ったのです。「愛の存在は立証できます?」。
最初はできると言い張っていた彼もやがて祈れ、信仰と同様に愛も証明不能だけれど、存在しないとは言えないと認めたんです」
それでもセーガンは、信仰の組織化としての宗教を認めなかった。
そして神が「全知全能」で「慈愛」に満ちているなら、なぜ祈る必要があるのか、と主張した。祈らなければ神は信者の病気に気づかず、信者を救ってくれないのか。そんな神が全能と言えるのか……。
95年冬、セーガンが骨髄異形成症候群(白血病に似た病気)と診断されたのを知るとバイトン師は彼のために祈りはじめた。
「祈りは確かに効く。どう効くのかは、私にもわからないが」とモートン師は言う。だが、少なくとも「祈りはカールを精神的に元気づけた。そして心が元気になれば、体の機能も改善されるものだ。祈りの力が体の分子構造を変化させるなどという主張は、まったくナンセンスだが」

・自分の信念を貫いた死

モートン師よりずっと保守的なサイブルは、もっと具体的な祈りの効果を信じている。だから骨髄移植を受ける直前のセーガンに病状を詳しく尋ね、「より的確に祈る」方途を探ろうとした。「私は君のために祈っている。祈りは神と人の間の溝を埋めるものだから」。師は病床のセーガンに、そう説いたという。
昨年の夏ごろ、セーガンは一時、快方に向かっているように見えた。
そのころ夕食をともにしたキャンベル師によれば、「順調そうだね、と言って、彼はほほ笑んで「そう祈って・」と答えました」。
しかしセーガンは、放射線治療の副作用で肺炎を併発。友人たちの祈りにはますます熱がこもったが、セーガンは最後まで「神が存在する証拠」にこだわり続けた。
「死の床でも掃依しなかった」とドルーヤンは言う。「神にすがらず、死後の世界にも期待せず、私たち二人が二度と会えないことも、ちやんと認めてました」
神を信じたいとは思わなかったのだろうか、と未亡人に聞いてみた。返ってきたのは明快な答え。
「信じたいとは思ってなかったただ、知りたかっただけ」
(文・ジエリー・アドラー)

*** 転載おわり ***

この文章を読み返し、問答さんの御尊父のお話を思い合わせました。

76幻論乙坊:2009/04/06(月) 20:04:16
私は少し違っていて、こんな風に考えています。
スレッドの「死について」からは外れてしまう事、お許し下さい。

現在の日本(先進国と言われている地域など)は物資が捨てるほど溢れかえっていて、
様々な便利機器が発明され産業革命以前の人々からすれば、まるで天界の様に映るやも知れません。

しかし、これは様々な便利機器の存在を知り、恩恵を享受している者の発想ですね。
それらの存在(電子レンジ、テレビ、冷蔵庫、飛行機、自動車等々)を知らない人々にはそれら物資(機器)が無いから「不便だ」と言う発想すら浮かばないのだから現代人は天界に住む人とは言い得ないのでしょう。

万物の霊長と自ら謳う人間が、この地球環境を劣悪で住みにくいものにしている動物に他ならないでしょう。
人間自ら環境を破壊し、後その過ちに自覚し科学技術や規制を設けて現在まで乗り越えて来た。
これらの事を人類の英知の結晶だとか、人類の弛まない進歩の結果だとか、万物の霊長たる人間いったい何処まで進化し続けるのだろうか?
だとか・・・・
自らしでかした尻拭いを自らしただけの事なのに、よくもまあ様々な歯が浮くような賞賛、自画自賛が出来るものだと呆れ返ってしまう。

動物本来の種族保存、個体保存から見ればなんら意味を持たないものに囚われ、執着、固執してしまう私達人間。
文化を(哲学[哲学に宗教も含まれる])持たなければ生きて行けなく、
同一人種である人間を殺さなければ気がおさまらず、
月まで出かけなければならないと思い、
100mを10秒切った切らないで一喜一憂してしまい、
何も無いのに何かを求め危険極まりない万年雪の頂きに登らずにはすまされなかったり。

現生人類の起源は何百万年前かは存じ上げないが、その頃の私達の祖先と現在の私達を比較すれば私達は進化しているのだろうか?
進化とは環境の変化に適応するべく、その生物が持っていた機能を変化させた事と言う意があるそうだ。
何百万年前の現生人類を現代社会に放り出せば、そのもの自身では当然生きていく事は不可能でしょう。
しかし未開の地に住む現代の狩猟民族も先進国に放り出せば生きては行けないだろう。
高等生物と言う語もどうも私にはしっくり来ない。
高等生物と言うのだから何かと比較して人類を高等と定義しているのだろうが、
マグロやサンマが海洋汚染していると聞いたことは無く、
ハイエナやトムソンガゼルが大気汚染の元凶だとも聞いたことが無く、
アルマジロやミミズが土壌汚染に一役買っていると聞いた事もない。

先に挙げた如く人類は他の動物とは異なった生活様式なのだが他の動物のように種族保存、個体保存に根ざすことが出来ず、同一人種にも他の種にも多大な迷惑を掛けなければ生きて行く事の出来ない動物である事は衆目の一致する所ではないでしょうか。

その私達、人類の現代社会が「天界」、人類が「高等生物」と言えるのだろうか?
しかし一方「天界」も「高等生物」も私達人間が操る言葉であるからどの様に使用したって勝手ではある。

又、「何々汚染」や環境破壊だと言うが私達人間も動物である。
で、ある以上、自然の一部でしかないのであるから、人間が行う事は不自然なものは何一つ無く「何々汚染」も自然的なものである。
とも言えそうです。

是全幻想

77れん:2009/04/06(月) 20:36:14
皆さんの大変深い議論に、感銘を覚えています。

私自身は“死”は遅いか早いかは別として、生まれたもの、自分を含めやがて誰にでも訪れるものですから、宗教云々以前に過敏にも鈍感にもならずに、自然の摂理として受け容れています。

ただ、個人的には現代医療の一部?にある“死”は敗北的な感覚には違和感があり、スパゲッティの様なクダを沢山着けて延命を図る治療はしたくないですね。私は寧ろ、死期がはっきりしたら、鎮痛以外は、延命治療の類いは一切せずに死に臨みたいと思っております。まあ、三つ子の魂なんとやらで、善くも悪くも日蓮法華の信仰の家に生まれたので、やはり座亡ならぬ唱題亡が私の一つの理想ですね。


太陽系外の宇宙に、地球と同じ条件を満たした惑星があれば、地球のほかにも(知的生命を含めた)生命体は存在するでしょうが、当然ながらUFOのようなものは存在しないし、電波等の手段による互いの交信も一切出来ないでしょう。その意味では、生命はそれぞれの星で孤立して存在するものと考えております。



たしか“死を思え”という欧州の箴言もあったと記憶してますが、引き続き皆さんの深い御賢察を拝聴致したいと思います。

78空即是進化:2009/04/06(月) 23:46:40

 大変失礼ながら、幻論乙坊さんはかなりお若い方なのかな?
 私などは、かろうじて「飢え」というものを多少実感できる世代に属すると思うのですが、

  〈万物の霊長と自ら謳う人間が、この地球環境を劣悪で住みにくいものにしている
   動物に他ならないでしょう〉

 今の地球は、将来の不安は大いにあるものの、劣悪どころか夢のような世界だと思いますよ。
 昔の方が良かったと考えるのは錯覚でしょう。


 以前、顕正居士さんが「自殺について」のスレッドで紹介してくださったサイトに
極めて興味深い話が載っていました。「釈尊の真意」スレの方が良かったかもしれませんが、
釈尊時代の常識だった輪廻(霊魂)を否定できたことが、解脱(悟り)だったのかも。 
  http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/book_review_miyamoto1.html

 宇宙のあちこちに生命体が存在し、あらゆる可能性が試されているのかもしれませんが、
やはり生命が発生し、何十億年もの間子孫を残し、人間のレベルまで進化を遂げる可能性は
確率的にはゼロに等しいと考えます。

79幻論乙坊:2009/04/07(火) 10:37:58
空即是進化さん
宜しくお願い致します。

>今の地球は、将来の不安は大いにあるものの、劣悪どころか夢のような世界だと思いますよ。

◆そうですね、様々な捉え方があるのでしょうね。

>昔の方が良かったと考えるのは錯覚でしょう。

◆私の稚拙な文によるのでしょう、申し訳御座いません。
私は昔の方が良かった等とは申しておりませんよ。

現在の様々な「物(便利機器)」の恩恵に与かっている私達はこの「物」を失うことに恐怖を覚えているのでしょう。
この「物」の発明以前(産業革命以前)の方達は無いのが世なわけで、飛行機や自動車
DVD、テレビ、MRI(現代医療技術)が無い事に嘆き悲しまないですね。
現代人が産業革命以前の時代に時間移動してしまったと想定したら「ああ!あの時代はまるで天界の様だった」
と思うのでしょう。
と、記したのでした。

この天界観の当て嵌め方ですと、常に天界であろうと言えますね。
飛鳥時代の人が弥生時代の人を見た時、鎌倉時代→奈良時代、江戸時代→室町時代
と言った図式ですね。
人間は安定を求めたがるので過去よりも現時点、身を置いている今が良いのだと思いたがる傾向が
あるのだろうと考えたりしています。

若いのか?
と言う発想も過去よりも、より現在に近いものに何らかの「幸」を見出すのか?
と考えたりしました。

是全幻想

80再挑戦者:2009/04/07(火) 22:36:33
78 さん> ,確率的に ゼロ、、、、>。

 横から、、ゴメンします。 イカナル 根拠に源因されましての、? 御断定でしょうネ、?

 われらの 人類の誕生は 時計に なぞらえますと 地球の年齢時間、に 換算では、、23時58分に相当する、ようです、。
まさしく、、地球では「まぎれも無い 新参者?」、のようです。  

 各国の 電波望遠鏡の 研究機関には、今後も 続々、? と 
 何億〜何兆年〜何兆掛ける*10の兆倍もの 光年の 最果ての、果てからの彼方から の 信号? を待機中 です、、。

 今少しの、余裕の時も 必要 でしょうか、、?

81空即是進化:2009/04/07(火) 23:10:50

幻論乙坊さん、大変失礼しました。
 余計なことを書いてしまったと、後悔してたところです。

 これ以上、言い訳は言わないほうがよいのかもしれませんが、
 ‘過去の自然はどんなに美しくても人間にやさしいものではなかった’ということに異論はないと
思います。
 環境破壊というけれど、70億近い人間が贅沢して生きていくためにはやむを得ない面もある。
 (怒る人も多いだろううなぁ。しかし、現在の自然を維持するためには、地球人の存在は2億人が
  限度という説もある。)

 何が言いたいかといえば、今これほど恵まれた世界にいながら、日本でも11年連続で3万人を越える
自殺者がおり、その予備軍が少なくとも10倍はいるということであります。
 宗教の目的が『抜苦与楽』だとすれば、いかなる教えが役に立つのか。

 釈尊本来の解脱方法が、徹底したマイナス思考の果てに生への執着を捨て去ることだった。との考えを
最近知りました。
 我々が、どれほどの幸運のもとに人間として生まれたか、を知らしめることが『抜苦』の近道ではない
かと考えているのです。

 現代日本人のほとんどが、すでに「輪廻のくびき」から解き放たれてしまっている気がします。

 また余計なことを書き込んでしまいました。 陳謝!

82空即是進化:2009/04/07(火) 23:48:30
 
 再挑戦者さん。
 根拠といえるかどうか解りませんが、地球上すべての生命体が共通のDNAを持っているということ。
 (RNA型ウイルスもいるが、先祖は同根であると推定)
 これは、地球と同じ環境であれば生命の発生はあるはずとの説に対し、地球ですら1系統の生命体しか
存在していないことを根拠としました。
 顕正居士さんに紹介いただいた「ドレイク方程式」はちょっと甘いのでは?と考えています。
 猿がワープロをたたいて、偶然にシェークスピアの作品と同じものができあがる確率は如何?とどっかで
聞いたきたことがありました。それ以下の確率ですよね。

 81について、かなり書き漏らした部分がありましたが、後日あらためて書きたいと思います。

83顕正居士:2009/04/08(水) 02:39:16
生命の起源は地球外という可能性もあります。

火星,パンスペルミア,そして生命の起源
http://park.ecc.u-tokyo.ac.jp/ea/earth/Members/Isozaki/03Panspermia.pdf

パンスペルミア説を尋ねて
http://www.asahi-net.or.jp/~FB8H-SKI/hitoshi/kayo/aka10/sakai/sakai.htm
(古典的パンスペルミア説)

84犀角独歩:2009/04/08(水) 15:24:38

顕正居士さんの、ご投稿を拝見して、少し前に再読した『宇宙からの生命』を思い出しました。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51410744.html

85hage:2009/04/08(水) 19:46:54
山に生えている樹木を見ながら思ったのですが……

大きな樹木はどの部分が生きた木で、どの部分が生きていない木なのだろう?
剥がれかかった樹皮
地面に墜ちた枯れ葉やどんぐり。
人に踏み付けられて、ほとんど土となっている根っこ。
根っこから吸い上げられる水や養分。

樹木だけが生きているのではなく、きっとこの地面も生きている。
そけには、生と死の境界線はなく、とても緩やかに繋がって、生と死を行き来している。

樹木の臨終を思うと、やはり生と死の境界線はなく、時間と共に、とても緩やかに変化しているだけなのではないこと……
樹木には、きっと臨終がないのだろう。

86顕正居士:2009/04/09(木) 19:02:40
hageさん。

年をとった樹木は木材と変わらない死んだ部分を持っているが、その先にまた生きている部分が
あったりする。構造上は死んだ部分も含んで一つの個体であると考えられるようです。

多年生の草花と樹木には動物のような決まった寿命はない。真核生物である植物にもテロメアは
あるが、分裂細胞はテロメラーゼ活性なので、屋久島の縄文杉のように樹液に防腐効果があって、
環境も良好だと幾千年も生きられるらしい。 (*テロメラーゼ  テロメアを復元する酵素)
また樹木の中には根から新しく幹が生えてくる種類があり、樹齢10000年に近いものが発見された。

世界最古の生きた樹木、スウェーデンで発見
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=90025&expand

なお動物にも不老不死の変種はあります。有名なベニクラゲです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B2

87神吉信明:2009/04/11(土) 02:48:25
慶應義塾大学の環境情報学部の訪問講師をやっている佐藤芳明って法華講員が大白連って法忍寺のホームページで顕正会の事を見下してますね!

88hage:2009/04/15(水) 22:45:33
顕正居士さん

生命って本当に不思議ですね。
命が繋がっていくことと、物質が化学反応などで状態が変化していくことと
大きな違いがあるようで、宇宙規模で見ると違いは無いのかもしれないですね。

ところで、過去とは実在するのか?実在するのは今というこの瞬間だけなのか?
過去は現在とは違うどこかに実在するのか?過去は無くなっていて実在しないのか?
過去の自分は生きているのか?死んでいるのか?存在すらしていないのか?
アインシュタインは時空間を説いているが、感覚的には違うような気がするし、
いったいどうなんだろう?というような事を考えるのですが、いかがでしょうか?
過去の自分と、死んだ人を比べた時、違いが無いように思うのですが、いかがでしょうか?

89顕正居士:2009/04/16(木) 00:25:11
hageさん。コネチカット大学のタイムトラベル実験計画の動画です。

素粒子タイムマシン http://www.youtube.com/watch?v=sCUfRnQDZq8 (日本語吹き替え)

Ronald L. Mallett博士のサイト http://www.phys.uconn.edu/~mallett/main/main.htm
YouTubeに新しい動画も幾つかあります。残念ながらまだ成功しておりません。

光速に近い速度で1光年先へ行って帰って来れば、地球ではたとえば100年経っていたりします。
ということは50年/年の速度で時間を空間と同じように移動したことになります。
このことは精密な測定で確認されています。未来へのタイムトラベルには問題ありません。
過去へのタイムトラベルはパラドックスが生じます。パラレルワールドを考えれば解決すると
いう人がいますが、自分が数分過去へ移動する(ただし自分に会わない場所へ)と想定すると
自分が無限増殖するパラドックスがやはり生じます。
過去へのタイムトラベルで何が起こるのかは、どうも実験するしかわからないようです。

未来へのタイムトラベルは可能というか、高速で移動すれば僅かに日常でも生じている。
過去は不可能という理屈は困難です。つまりパラドックスは謎ですが、過去も未来も実在すると
わたしには思えます。

90hage:2009/04/16(木) 17:42:35
死についてから少し離れるかもしれませんが、素粒子の世界では不思議な時間の世界があるようですね。

素粒子の世界の時間反転
http://www.kek.jp/newskek/2005/novdec/past_future.html

K中間子で探る時間反転対称性
http://www.kek.jp/newskek/2004/janfeb/Kpimunu.html

こういう物理科学の発展は、いつか生命や死も解き明かすのでしょうか?

91空即是進化:2009/04/21(火) 21:26:14

しばらく皆さんの投稿が途絶えていますが、あえて拙論を述べれば、
 
 宇宙及び人間の存在理由、そして目的は、『進化』そのものに尽きる。「死」もそのためにある。
あらゆる可能性を極限まで追求し、あるがままを楽しめばよい。
 佐倉哲さんのエッセイ
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/masutani.html
正に 
 『劫初より造りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つうつ』

の心境にたって、この世に生を受けた証を残せれば幸いです。

92hage:2009/04/28(火) 23:03:01
自分自身の死を直視したとすれば
死後の魂のあるなしは別として、
今こうやって考えている自分との別れであり、
今までこうやって考えてきた自分が無くなるということ
感覚や意識や思考が全て無くなるということ
それはどうやっても免れることができないことだとすれば
やはり、不安であり、寂しく、悲しく思うのが普通だと思います。

皆様は、それを直視した場合、自分自身を直視した場合、どう感じられますか?
死を考えるのは、自分自身とはいったい何なのかを直視することに近いと思います。

93顕正居士:2009/04/29(水) 00:00:56
「死は、もろもろの災厄の中でも最も恐ろしいものとされているが、実は、我々にとっては
何者でもないのである。何故なら、我々が現に生きて存在しているときには、死は我々の
ところにはないし、死が実際に我々のところにやってきたときには、我々はもはや存在
しないからである。したがって、死は、生きている人びとにとっても、また死んでしまった
人々にとっても、何者でもないのである。生きている人びとのところには、死は存在しない
のだし、死んでしまった人々は、彼ら自身がもはや存在しないのだから。」
(ディオゲネス・ラエルティオス「ギリシャ哲学者列伝」)
http://blog.hix05.com/blog/2008/03/post_561.html

わたしたちは自分の死を経験することはない。だから死に対する恐怖というのは老衰や
死に至る病いへの不安、あとに残す人たちへの心配、やり残した人生への不満ですね。
実はすべて「生」の問題です。無数の先人の努力によって文明は築かれ生老病死の苦を
少しづつ軽減して来ました。21世紀のうちにあるていどの不老長寿が実現し、死に対する
不安の多くが更に急速に軽減されると信じます。ただしわたしはそういう方面の仕事に
従事しているわけではないので、不老長寿の実現によって大変化するであろう将来社会
のことを考えるとかしかできませんが。

94hage:2009/04/29(水) 00:42:18
顕正居士さんは、自分自身を直視したら、
今いろいろな事を考えている自分自身を思ったら
いろいろな事を考えている自分自身がいつか存在しなくなると思ったら
いつか存在しなくなる自分の思考が今存在しているということを思ったら

いったい自分とは何なのか??と思うことはないですか?
死に対する恐怖以上に自分の存在に対する妙な思いを感じることは無いですか?

95顕正居士:2009/04/29(水) 01:16:53
hageさん。
なぜわたしはわたしであって、あの人やこの人ではないのだろうか?
10歳の頃、そんなことを考えたのを覚えています。
以後、この主題を忘れたことがありません。哲学を職業にはしなかったので
あまり専門的な追求をしたわけではありませんが、いつもこの問題をめぐって
考えておりました。いまはおおよそ解決しました。

自己とか自我というものは個体の生存のために情報の整理をし、意思決定を行なう
機構として進化の過程で生じた。身体の機能は自動的に活動しており、意識に上る
ことはありません。それどころか今の電子計算機とは異なり、自分の脳の状態すら
まったく自我は把握できません。情報の最終的高度の整理と意思決定だけが機能
です。脳細胞間のネットワーク上を走る個体管理ソフトウェアであると考えます。
まだ意識の問題についてはわからないことが多いわけですが、将来的に意識を持つ
機械を設計することで、それらの謎も経験的に少しづつ解かれていくのではないかと
考えています。

96再挑戦者:2009/05/20(水) 19:59:48

 ドーモです、、。
 雄隣の 「正信会掲示板」に石山の某僧侶の「死相のワルサはS会をイジメた現象のバツ」だと大喜びのようです、。
 あそこは、支社・故人でさえも、遠慮なく攻撃する「憎悪の倍増の推進団体?」のよう、。

 日蓮も一応は、念仏や他の宗教者らの「死相の悪サが、その後の信仰の天気に」、なったことから、 「決して”死相”は無視も軽視も不可能と思うが、?
 あれほどの「正信会のイジメ、イヤガラセに励んだ石山の僧侶の”死相”には、、」、、無関心では居れませんです、、ハイ、、。
  時に、宇宙用の電波望遠鏡=パッフル望遠鏡の修理完了であと、5年は稼動のようです、。
 当該鏡により宇宙年齢が137億年と判明したが、今後も 期待をしたい、!

97顕正居士:2009/05/22(金) 14:31:39
>>95で述べた
「自己とか自我というものは…脳細胞間のネットワーク上を走る個体管理ソフトウェアである」
を少し説明します。
自己(自我)とは「情報の最終的高度の整理と意思決定だけが機能」である。つまり3DMMOで
プレイヤーが行使できる機能と同じです。自分のステータスを確認し、身体の移動方向を決定し、
敵に対して攻撃と防御をおこなう。移動する生物(動物)に進化の過程で統覚が生じ、それが
順次に発達したと考えます。
ここで一つの問題があります。現代人レベルの自己(自我)が発生したのはホモサピエンスの
歴史の中できわめて最近だという説です。ヒトには明晰な意識を形成する可能性がDNAに記載
されているが、それが現実的になるためには言語の習得が必要であるのは確かでしょう。
「二分心」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%88%86%E5%BF%83
対して次の問題は偽の問題であると私は考えます。
「哲学的ゾンビ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E7%9A%84%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%83%93
この議論は要約すれば「意識の機能がなぜ無意識に遂行されないのか?」という矛盾した文章に
帰着します。意識とは自分が何を遂行中なのか自覚していることであり、それが意識の体験(cogito)
として記憶されると考えるべきでしょう。

98ひきこもり:2009/07/14(火) 08:35:13
死に対しては、戸田先生の「生命論」で明らかですよ。死んだら無になるという考え方は
誤りです。生まれるための因がなければ今の生はありません。死後は生まれる前に戻るわ
けですから、生の因を持っていますよ。「人生一回きり。生まれ変わりは絶対無い」なん
て馬鹿の戯言ですよ。私には前世を6歳くらいの時に思い出した体験もあります。

99ひきこもり:2009/07/14(火) 08:51:36
>>77
>UFOのようなものは存在しないし

馬鹿なことは言わないで下さい。早稲田大学の教授もUFOの存在は認めています。またそうした
現象を否定する人達は知能指数が低いとも言われています。

私はUFOを何回も見ましたよ。それは飛行機の光ではないことは、急に飛躍したことからも明ら
かです。

100管理者:2009/07/14(火) 09:16:54

ひきこもり さん

>馬鹿の戯言ですよ。
>馬鹿なことは言わないで下さい。

これらのご発言は、当掲示板の書き込みルールに抵触します。今後、言葉遣いにご注意くださるようご注意申し上げます。

101管理者:2009/07/14(火) 09:19:45

【禁止事項】

2「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」等の侮辱表現、侮辱発言は、理由の如何を問わず堅く禁止します。もし、そのような表現や発言が見うけられた場合は、管理者がその都度、御注意申し上げると共に、その該当する表現、発言を含むレス全体を削除致します。なお、管理者の制止を無視して、侮辱表現、侮辱発言を続けられた場合は、以後の投稿をお断りする事になりますので、予め、御承知置き下さい。

102れん:2009/07/14(火) 19:13:13
ひきこもりさん

戸田さんの生命論は、あの時代の読み物としては“面白い”ですが、今の時代からみたら、いかにも古い。この手の系統の“読み物”としましてはアメリカのブライアン・L・ ワイス氏や日本では天外伺朗氏の、初期の著作の方が、内容の是非は置いて、終戦直後の戸田さんの“生命論”よりは遥かにレベルは上だと思いますね。

103北斗:2009/07/16(木) 03:28:00
ひきこもりさん

初めまして。

実に素朴な疑問があるのですが、人の死と言うのは科学的にいうと「細胞の再生が終わる」ということらしいです。

そして「生」は、卵子と精子か結合して細胞分裂をし、外に出ても大丈夫な必要最低限の形になり生まれる。

そこに、どのように「因」という要素が絡むのでしょうか?

そして、貴方のいう「因」というものは一体なんなんでしょうか?

ふと、議論を拝見していて思いました。

お答え頂けたら幸いです。


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