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死について
37
:
犀角独歩
:2009/03/25(水) 19:54:08
問答名人さん
有り難うございます。
ご高覧いただいたかと存じますが、hageさんも触れてくださった「死への過敏症」、ちょっと、長いのですが、議論の参考に転載させていただきます。
知り合いの坊さんが見たら気分を害されるかも知れませんが…。
***
死への過敏症に陥らせて操る技法
宗教というのは、いい面もたくさんある。しかし、歴史が長いだけに問題点もたくさんある。その問題は祖師に係ることもあれば、その後の伝聞に原因があるもある。特に人類は、ここ100年で科学的に、立花隆氏の言葉を借りれば「爆発」的な進歩を遂げた。数千年、いや数万年、数十万年分の進歩をわずか100年で遂げてしまった。科学技術はさらに進歩を遂げていくだろう。われわれの時代はいつしか、科学時代の始めという意味の「原始時代」と呼ばれるようになるかも知れない。となれば、われわれは科学文明の原始人である。
そうした爆発的進歩の前に、しかし、仏教があり、日蓮がいた。
日蓮は全知全能の神でもないし…そんなものはいないと思うが…だから、700年前に言われていた、それでも当時最高水準の学問では考えてはいたろう。その後、700年間の人々も同様だった。だから、そこで紡がれた教えが伝承・伝聞が、科学的叡智で解明されたとき、「成り立たない」という事態が生じたのだ。しかし、これは日蓮を筆頭とする伝承者に責任を負わせるのは酷である。しかし、それを科学で否定されても「事実である」と人に語れば“嘘”ということなってしまう。
信者が、それでも“嘘”を公言してはばからない理由は、それぞれが感得する体験、彼らの言葉で言えば「実証」「功徳(利益 [りやく]」社会心理学の用語で言えば“個人的リアリティ”によるのだろう。
しかし、これは信仰のプラシーボ効果だ。きゃからばあさんも、そんなことをお書きになっていた。同感だ。
彼らにとって、如何に自分が信仰があるのか、そのスケールに体験がある。彼らはしかし、体験=いい結果を通じて、欲得をふくらませているのだろうか。
もう会うこともなくなったある人が、かつて、こんなことを質問を投げかけた。
「成仏したい」という want/need/wish だって煩悩じゃないの?」
違うある人は、こう言った。
「功徳、功徳といっている人って、結局、単に欲望が大きく、貪欲なだけじゃないの?」
こうした信仰圏を抜け出てみると、たしかに彼らは、欲深く映じる。
藤田東湖さんは最近の日記で「煩悩即菩提」ということをお書きになっている。その日記の意からは離れるが、この言葉は生まれるべくして生まれた言葉と思う。
煩悩即菩提は、日蓮の真跡では『大田殿女房御返事』に1カ所載るぐらいだが、『注法華経』にはある。玄義「體生死即涅槃名為定 達煩惱即菩提名為慧」に由来するのだろう。慧に掛けるところにまさに天台の禅定の慧が光る。
しかし、「功徳がある」を連発する創価学会・顕正会を含む大石寺圏の用法はおかしい。殊に創価学会はひどく、顕正会はそれに準じ、大石寺は少しましだ。これで役僧たちの金満ぶりがなければ、少しはまともと思えるのだが生活態度が伴わない。結局、欲望重視で菩提への“即”がそこに見られない。
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