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死について
38
:
犀角独歩
:2009/03/25(水) 19:54:42
-37からつづく-
この周辺の僧俗は欲深いのか?
しかし、この欲は金銭欲とか、名誉欲と顕在するのは、一部の特権階級を上り詰める異常者で、一般の信徒は、慎ましい面もある。
それでも、彼らは欲深いと、わたしには映じる。しかしこれは悪口ではない。彼らの欲とは、生きる欲、生き続けたい欲、創価学会の常套句を使えば「永遠の生命」でありたいという自己存在に係る欲望なのだ。
こうしたバラモン以来の自己存続欲望が“我”の想念として生じたのではないか。これに対してゴータマブッダは非我を説いた。自分があり続けるという欲望からすら脱却したのだ。解脱である。
わたしが信仰圏を抜け出すとき、ときたま、テレビで見た海外番組の心理ドラマが、決定的な鍵になった。そのドラマがなんであるのか、まるで覚えていない。そのセリフも曖昧な記憶なのだが、ヒロインに対して、医者(だと記憶する)が、こういう。
「あなたは、死の過敏症にされている」
目から鱗が落ちるという言葉を、しばしば使うが、創価学会から大石寺の信者であった時代、そう40年に及ぶ長い時間、わたしにかけられていた暗示の正体はこれだったのだ。
信仰への拘りも、生への拘りにその基があり、そして、よりよく生きたい、人よりよくありたい(それは信仰を含めて)という“欲望”、つまり煩悩を形成していたのだ。
いまのわたしは、特に再生(輪廻、生まれ変わり)を望まない。永遠の生命への執着は絶てた。死は恐れることではなく、受け入れることである。
死への恐怖を克服されると、こうした煩悩によって人を操る宗教はあさましく映じる。
そう思って、眺める信者達の姿は、実はあさましく映る。得たいもの・得たもの・得られないものの総称としての欲望煩悩と、執着から来る喪失の恐怖にどよめいているように映じる。
わたしは、ここ数年、創価学会・顕正会を含む大石寺の、教学の誤りと、何より、その本尊が後世の作品に過ぎないことを記してきた。
では、仮にその教学が日蓮が説いたままであったとしよう。その本尊が日蓮が作ったものであったとしよう。
しかし、だから一体なんだというのだ。
所謂「本門戒壇の大御本尊」が本物であったとして、ただの彫刻ではないか。
そうしたものが本物であって欲しい願望は、つまりは、欲望から、そうあって欲しいという思いに過ぎない。仮に本物であっても、欲望で人を操るツールなど、死への過敏症を卒業すれば、もはや、不要なのだ。
プラシーボ(偽薬)は、薬が必要な人には、効くだろうが、薬を必要としないものにとっては、無用なのだ。
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