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本尊と曼荼羅
1
:
管理者
:2002/04/04(木) 07:30
いちりんさんより、スレッドテーマの御提案がありました。立ち上げます。幅広い議論が展開される事を期待致します。提案文は以下の通り。
30 名前: いちりん 投稿日: 2002/04/04(木) 02:20
本尊と曼荼羅って、とてもおもしろいテーマですよね。
こちらのスレッドは、「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」ということですが、
できれば、「本尊と曼荼羅」というテーマで、論じていったらいいなあと思います。
管理人さん、いかがでしょうか。
真宗の本尊とか、密教の本尊とか、天台の本尊観とか、あるいは釈迦在世のときの本尊とか、いろいろとおもしろいと思います。たとえば、天台の四種三昧の修行などみますと、修行によって本尊が変わりますよね。
そういうところから、本門の本尊をとらえかえしていくと、本質的なものがみえてくるかなあと思ってもみたり。
77
:
問答迷人
:2005/05/03(火) 07:55:08
>76 本尊抄と相違
『其の本尊の為体〈ていたらく〉、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、』との文は、並座の二仏が妙法蓮華経の脇士と読めますから、相違するとは言えないと思います。また、蓮師の初期字像曼陀羅は、この本尊抄の文のままに、『脇士は並座の二仏』を表していると思います。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/002.html
78
:
問答迷人
:2005/05/03(火) 08:07:04
>釈尊久遠成道、すなわち、寿量本仏ということです。
その寿量本仏と教主釈尊の関係はどうなるのでしょうか。
79
:
犀角独歩
:2005/05/03(火) 08:25:46
問答さん:
> 寿量本仏と教主釈尊
本門と迹門の関係ではないでしょうか。
> 75
考えながら、書いたものですから、断定的な物言いになってしまいました。この点、お詫び申し上げます。もちろん、以上の如く、考えると言うことです。
最近、わたしは釈尊仏像と蓮師の関係に特に注意を払っています。
蓮師の傍らには常に釈迦一体仏があり、それが既成の事実として成り立っている点を富士門は見落としていないのかという疑問です。
たとえば、仏像と漫荼羅、どちらなのかという議論がなされ、富士方では仏像を斥け、漫荼羅が本尊であるといいます。しかし、これは本当なのでしょうか。何故ならば、上述したとおり、終生、蓮師は釈迦一体仏を随身されていたからです。
こう記すと富士方では『宗祖御遷化記録』の「御遺言に云はく仏は(釈迦立像)墓所の傍らに立て置くべし云々」を引用し、蓮師は斯様に言われた、故に漫荼羅が正意であると論を進めます。また、富士方で学んだ人は、恰も自分で考えたように上述の如く語ります。
しかし、これは恣意的な解釈であるとわたしには思えます。
そもそも蓮師は唯物論者ではありませんでした。いまで言う「永遠の生命」を信じた人でした。つまり、自分が死んだから無くなってしまうとは考えいなかったわけです。自分のたましいは身延の墓にあると考えたのでしょう。その自分の死後の居場所に、終生、随身した仏像を置けというのが、この遺言でした。この仏像は、蓮師ご自身の持仏であるからです。他の弟子檀那はそれぞれまた、仏像造立し、それを所持・安置していた、それはそれぞれの仏像です。随身仏は蓮師自身の仏像であるから、死後も自分の許に置けということは、何も仏像を斥けて漫荼羅を本尊としたことを意味しないと言うことです。
蓮師がまた、漫荼羅を弟子檀那に授与した。しかし、それは仏像をやめて、この漫荼羅を拝めということではまるでなかったのではないでしょうか。仏像は仏像、漫荼羅は漫荼羅です。それは恰も仏像は仏像、法華経は法華経と同じです。片方を採り、片方を捨てると言った取捨選択で考えるところではないということです。むしろ、仏像釈尊の随身と日々、読経供養を前提に、法華経があり、漫荼羅もあり、唱題もあるというのが、蓮師の在りし日のお姿であったと思います。
わたしたちは漫荼羅本尊正意という富士の操作に騙されていないか、その影響で無意識に考えていないのかという反省がわたしにはあります。そんな意味での議論でもあります。
80
:
愚鈍凡夫
:2005/05/03(火) 08:29:11
横レス失礼します。
> その寿量本仏と教主釈尊の関係はどうなるのでしょうか。
久遠実成の教主釈尊と始成正覚の釈尊という関係ではないでしょうか。
「新尼御前御返事」を拝する限り、蓮祖は「御本尊」と「漫荼羅」は別物として認識していたように小生には思えるのです。
具体的には、「新尼御前御返事」の下記の文が引っかかっているのです。
「其の故は此の御本尊は天竺より漢土へ渡り候いしあまたの三蔵漢土より月氏へ入り候いし人人の中にもしるしをかせ給はず、西域慈恩伝伝燈録等の書どもを開き見候へば五天竺の諸国の寺寺の本尊皆しるし尽して渡す、又漢土より日本に渡る聖人日域より漢土へ入る賢者等のしるされて候、寺寺の御本尊皆かんがへ尽し日本国最初の寺元興寺四天王寺等の無量の寺寺の日記、日本紀と申すふみより始めて多くの日記にのこりなく註して候へば其の寺寺の御本尊又かくれなし、其の中に此の本尊はあへてましまさず。」
この文における「此の御本尊」とは、「久遠実成の教主釈尊」を顕す人は未だ一人もなし。と述べられているように思えるのです。
81
:
愚鈍凡夫
:2005/05/03(火) 08:30:59
ああっ済みません。投稿をタイプしている間に、犀角独歩さんの投稿がありました。 m(_ _)m
82
:
犀角独歩
:2005/05/03(火) 08:35:13
> 77
この点は先に議論しましたが、本尊抄と報恩抄の脈絡で考えてきたところですね。
本尊抄「塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士は上行等の四菩薩、文殊弥勒等の四菩薩は眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月郷を見るが如し。十方の諸仏は大地の上に処したもう。迹仏迹土を表する故也…地涌千界出現して本門の釈尊の脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」
報恩抄「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・竝びに上行等の四菩薩脇士となるべし」
本尊抄にある如く、「脇士は上行等の四菩薩」ではないでしょうか。
しかし、本門が説き已れば、迹門以下(いげ)の仏菩薩の久遠釈尊の脇士であるというのが報恩抄の趣旨と見えます。しかし、ここでも妙法蓮華経のわきしとは言っておりません。
83
:
犀角独歩
:2005/05/03(火) 08:38:58
愚鈍凡夫さん、どうも。
問答さん、続きはまた、明日にさせていただきます。
これから、オフ会の用意をし、出掛けることにいたします。
拝命の「東京オフ会責任者」の任を果たしてまいります。
84
:
問答迷人
:2005/05/03(火) 08:50:37
>しかし、ここでも妙法蓮華経のわきしとは言っておりません
確かにそうなのですが、蓮師の字像曼陀羅では、南無妙法蓮華経が一番大きく、しかも太くしたためられ、その両側に釈迦多宝以下が小さな細字でしたためられる訳です。なぜ本門の教主釈尊が中尊として大きく太くしたためられていないのか、甚だしく疑問があるわけです。また、なぜ、『南無釈迦牟尼仏』の・唱名念仏では無くて、『南無妙法蓮華経』の唱題なのか、本尊が本門の教主釈尊なら、なぜ「南無本門教主釈尊」では無いのか、というのが、僕の根本的な疑問であるわけです。唱題が蓮師の独創なら、対象たる本尊もやはり、『題目』なのではないのか、という疑問です。
85
:
問答迷人
:2005/05/03(火) 08:54:28
犀角独歩さん
東京オフ会責任者、宜しくお願い申し上げます。
86
:
愚鈍凡夫
:2005/05/03(火) 11:47:23
「二仏並座」とは法華経宝塔品の次の文のことですよね。
「爾時多寶佛。於寶塔中。分半座与。釋迦牟尼佛。而作是言。釋迦牟尼佛。可就此座。即時釋迦牟尼佛。入其塔中。坐其半座。結跏趺坐。(爾の時に多宝仏、宝塔に中に於て、半座を分ち釈迦牟尼仏に与えて、是の言をなしたまわく、釈迦牟尼仏此の座に就きたもうべし。即時に釈迦牟尼仏其の塔中に入り、其の半座に坐して結跏趺坐したもう。)」(妙法蓮華經見寶塔品第十一)
この時点で釈尊は、まだ久遠実成を明かしていないわけですから、始成正覚の次元に留まっているわけですよね。従って、「報恩抄」の次の文には何の矛盾もないと思います。
「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・竝びに上行等の四菩薩脇士となるべし」(報恩抄)
87
:
問答迷人
:2005/05/03(火) 11:55:10
愚鈍凡夫さん
>次の文には何の矛盾もないと思います。
そうですね。ただ、こと曼陀羅に関して考えれば、「本門の教主釈尊」を中尊としてしたためられた曼陀羅は一幅も存在しない訳です。これはなぜだと思われますか。
88
:
愚鈍凡夫
:2005/05/03(火) 12:20:03
あっ問答迷人さん、どうもです。
小生は、蓮祖は法華経の主題こそが久成釈尊の悟りの内容を要約したものだと考えられたのだと思います。そして、この釈尊の究極の悟達に帰命することが成仏の直道であると考えられたのではないでしょうか。
蓮祖漫荼羅を立体像の投影と考えれば、諸尊の立体的座配の中心に「南無妙法蓮華経」があります。これは、蓮祖漫荼羅が蓮祖がイメージする悟達の境地を顕したものだということではないでしょうか。言い換えれば、諸尊の功徳の集約が「南無妙法蓮華経」であって、唱題行によって諸尊の功徳を我が身に集めることができる。といったことを図示したものではないでしょうか。以上の理由で、中尊が「本門の教主釈尊」ではなく、「南無妙法蓮華経」であるのではないですか。
89
:
問答迷人
:2005/05/03(火) 13:05:03
愚鈍凡夫さん
>諸尊の功徳の集約が「南無妙法蓮華経」であって、唱題行によって諸尊の功徳を我が身に集めることができる。といったことを図示
了解です。仰る意味は分かります。ただ、蓮師が、字像曼陀羅をさして、『本尊』と呼ばれる事例があるから、話がややこしいのだと思います。所謂保田の万年救護の曼陀羅は、賛嘆文に大本尊と在るわけで、この曼陀羅には少なくとも本尊義が存するのだと思います。ところが、本門教主釈尊が曼陀羅の中央に書かれてはいませんね。なぜだと思われますか。この曼陀羅が本尊ならば、その中央に本門教主釈尊が書かれ、左右に釈迦多宝が書かれていなければおかしなことになると思います。
そのような観点から、やはり、中央に書かれた『南無妙法蓮華経』が中尊で、『本門の本尊』で、『本門の教主釈尊』なのではないでしょうか。少なくとも蓮師の字像曼陀羅が、本尊を表したものなら、そういう帰結にしかならないと思うのです。
90
:
通りすがりの凡夫
:2005/05/03(火) 14:38:19
皆様
興師書写が残されている本尊問答抄は参考にはならないのでしょうか。
本尊問答抄には以下のように書かれているかと思います。
「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目
を以て本尊とすべし」
また
「問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、
答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と
定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は
法華経は釈尊の父母諸仏の眼目なり釈迦大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へ
り故に今能生を以て本尊とするなり」
これらを蓮師の考えとするならば、明らかに法は能生、人(仏)は所生ということで
あり、能生たる妙法蓮華経を本尊とし、所生の仏が脇士となってもなんら不自然では
ないと考えますがいかがでしょうか。
妙法五字をもって本尊とする考えを持っていたとした方が、諸御抄をすんなり読める
と思うのです。曼陀羅と本尊を別に考えたいという意見は、裏に釈迦仏像崇拝を正当
化したいという別な意図があるように感じてしまうのは、私だけでしょうか。,
91
:
愚鈍凡夫
:2005/05/03(火) 14:47:16
問答迷人さん、どうもです。
小生にとっては、保田妙本寺の万年救護本尊の
「大覚世尊御入滅後経歴二千二百二十余年雖尓月漢日三ヶ国之間未有此大本尊或知不弘之或不知之我慈父以仏智隠留之為末代残之後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之」
これが悩みの種なんですよ。 ( ̄(エ) ̄)ゞ クマッタナー
何故、この1舗にのみ「大本尊」とあるのか。
それと、1274(文永11)年の漫荼羅に「二千二百二十余年」とあるのに、1275(文永12)年の漫荼羅には「二千二百三十余年」とあるのか、合理的な説明がつかないのです。
益々( ̄(エ) ̄;)ゞ クマッタナー
だから、小生はあの万年救護本尊の讃文は、蓮祖滅後の書き込みではないかといった推論をたてています。
92
:
愚鈍凡夫
:2005/05/03(火) 14:57:43
通りすがりの凡夫さん、始めまして。
> 曼陀羅と本尊を別に考えたいという意見は、裏に釈迦仏像崇拝を正当化したいという別な意図があるように感じてしまうのは、私だけでしょうか。
別に、「曼陀羅」と「御本尊」が同意であっても別段不都合はありませんし、それが蓮祖の真意であるなら否定する理由は何もありません。
ただ小生は、日寛師のように執筆年度違う御書を都合良くパッチワークして理論を組み立てようとは思いません。理由は、そうすることによって蓮祖の思いからどんどん離れていくように思うからです。
だから、小生は、執筆年度の近い御書やそれに準ずる蓮祖の書き込みを判断基準にしています。それと、「本尊問答抄」は未決書ですよね。ならば、他の真蹟御書で仰る事を裏付けられるでしょうか。
93
:
問答迷人
:2005/05/03(火) 18:43:33
通りすがりの凡夫さん
仰るご意見は良く分かりますが、曼陀羅正意を立てる日興門流の祖、日興上人の写本しか残されていない遺文を使って、「本門の本尊とは、南無妙法蓮華経だ」と論じても、日興門流以外の人たちの納得は得られないと思います。ですから、僕は、本尊問答抄は真蹟が無いので考察の基礎資料とはしない、という姿勢で考えています。
>釈迦仏像崇拝を正当化したいという別な意図
これは、蓮師が釈迦仏像を生涯随身されたという事実に基づいていますから、説得力があり、蓮師の考えを考えるに当たって、無視できないと思っています。他方、中央に南無妙法蓮華経と大書きした曼陀羅を多数残されたのも事実です。この二つの事実を事実としてそのまま捉え、真蹟遺文を基にして、蓮師の考えを探ってゆきたいと考えています。
94
:
通りすがりの凡夫
:2005/05/03(火) 20:15:05
愚鈍凡夫さん、はじめまして
すでに引用されている観心本尊抄はいかがでしょうか。
観心本尊抄は、そもそもタイトルの通り、蓮師の考える本尊像を明かした書だと思い
ます。すなわち、三大秘法義における本門の本尊について一貫して論じたものであろ
うと思います。それを前提に本尊抄を拝してみますと、一念三千の展開から始まり、
本尊の義も一念三千の法理の上に成り立つこと、すなわち草木に色心十界の因果を明
かすことでその義が現れることを示しています。さらに、
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然
に彼の因果の功徳を譲り与え給う」
とされ、妙法蓮華経の五字に釈尊の因果の功徳が収まるとされ、更にその上で
「妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや」
し、衆生の色心に妙覚の釈尊の因果が具わることを示しています。
この時点で、妙法蓮華経の五字=妙覚の釈尊=一念三千の本尊=衆生の色心という関
係が明確に提示されています。
そうしておいてから既に引用がありますように、本尊の相を明かしています。
「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わ
ず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う、其の本尊
の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏多宝仏釈
尊の脇士上行等の四菩薩文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化他方の大小
の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給
う迹仏迹土を表する故なり」
この記述を曼陀羅の相と異なるとするのはかなり無理があると思います。したがって、
「本門の肝心南無妙法蓮華経の五字」を中心とした本尊を、蓮師は想定されていたと
考えますが、いかがでしょうか。
95
:
通りすがりの凡夫
:2005/05/03(火) 20:36:26
問答迷人さん、はじめまして。
本尊問答抄はそういう位置づけですか。了解いたしました。
蓮師随身仏の件、蓮師は生涯随身されながらその仏像を本尊と主張されていないこと
から、本尊としての意義付けはなかったのではないでしょうか。また御抄中に記され
る本尊像ともかけ離れたものであると思われます。蓮師は造仏義を持っていたとして
も、本化四菩薩は欠くことのできない要素であり、それを欠いて本門の本尊義はなり
立たないと考えるからです。
96
:
問答迷人
:2005/05/03(火) 20:41:55
通りすがりの凡夫さん
>「本門の肝心南無妙法蓮華経の五字」を中心とした本尊を、蓮師は想定されていた
僕もそのように考えています。ただ、報恩抄の「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・竝びに上行等の四菩薩脇士となるべし」との遺文との整合性はどうなるのか、という点で、何かまだ、蓮師の教えの元意を理解していないのではなかろうか、と危惧するところです。この点については、通りすがりの凡夫さんはどのようにお考えでしょうか。
97
:
通りすがりの凡夫
:2005/05/03(火) 20:53:34
ところで、蓮師御在世中、授与された曼陀羅をどのように安置したのでしょうね。
当時の一般家庭に現在の仏壇に相当するものがあったのでしょうか。
紙幅の曼陀羅はむしろ携帯性にすぐれており、文字どおり身に帯し、あるいは本尊
抄にあるがごとく首にかけ常に所持したのではないでしょうか。
法華経の説くところによれば、経巻を所住のところ、山谷広野すべて道場であり、
経巻受持の一行を中心とした、読・誦・解説・書写がその修行の形態とされていま
す。就中、蓮師は受持の一行にその意義を見いだしていたと思います。
98
:
問答迷人
:2005/05/03(火) 20:57:05
>その仏像を本尊と主張されていないこと
この点は確かにそうですね、しかしながら、釈迦仏の仏像造立に対しては、制止するどころか、褒め称えています。
『今日眼女は今年の祈りのやうなれども、教主釈尊をつくりまいらせ給ひ候へば、後生も疑ひなし。二十九億九万四千八百三十人の女人の中の第一也とをぼしめすべし。委しくは又々申すべく候。恐々謹言。』(弘安二年二月二日 日眼女御返事)
また、ご自身は、随身の釈迦仏に対して法華経を読み、題目を唱えられていたのではないか、という可能性を否定する根拠がありません。
99
:
通りすがりの凡夫
:2005/05/03(火) 21:20:27
>>96
問答迷人さん
本尊抄の論理からの帰結になってしまいますが、妙法蓮華経の五字=妙覚の釈尊であ
りますから、本門の教主釈尊は妙法五字であっても不思議ではないと考えます。また、
そう考えれば、次下の
「所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし」
を自然に拝せると考えます。
また、法華経方便品を読みますと、釈尊の悟れる法を指して一切種智としています。
法華経は、諸仏が共通に悟った根源の智慧を説こうとしたものと考えられますから、
その諸仏の智慧がそのまま仏を表してもおかしくはないと考えます。
また、題号であるサッダルマプンダリーカスートラは、正しき教えの白蓮とされてい
ます。白蓮とは釈尊を表すとされる学者の方もおりますね。では、正しき教えとはと
考える時、法としての釈尊、すなわち法本尊を表すのではないかと思うのは、ちょっ
と飛躍し過ぎと思うので、軽く読み捨てて下さい。
100
:
一字三礼
:2005/05/03(火) 21:45:45
本尊を論ずる上で、問題となっている点
蓮祖随身釈迦仏像を根拠として釈迦仏本尊を主張しますと以下の問題に突き当たります。
① 身口意が合わなくなる。口では題目で「経」に帰依しながら「仏」を拝する行為となる。
② 大曼荼羅の用途がわからなくなる。
③ 大曼荼羅上では中心が題目であって久遠釈尊ではない。
④ 観心本尊抄で述べられている、本化四菩薩が無い。
⑤ 蓮祖の随身仏の所持は、観心本尊抄による本尊義の成立よりかなり以前からである。
⑥ 新尼御前御返事、保田の大本尊の記述と相違する。
一方、大曼荼羅本尊の問題点は、
① 観心本尊抄、報恩抄等の諸御書の記述に反する。
② 随身仏の役割がわからなくなる。
③ それぞれの大曼荼羅の相貌・座配に違いがあるのは何故か。
101
:
通りすがりの凡夫
:2005/05/03(火) 21:47:53
>>98
問答迷人さん
前段と考えあわせますと、むしろ信心を褒められたものと拝されます。すなわち、
「設い釈迦仏をつくりかけども阿弥陀仏の浄土へゆかんと思いて本意の様には思い候
はぬぞ」
とあることを考えあわせますと、釈迦仏造立そのものというより、「本意」が大事で
あるとの意と考えます。本意とは、妙法への信心であると考えておりますが、いかが
でしょうか。蓮師の仏法は、一念三千の法理なくしては、成り立たないと思います。
すなわち、信心の一念がもっとも大切であり、心の法門と思います。同抄に引かれる
方便品の一節はまさにそのことを表すのではないでしょうか。
「若し人仏の為の故に諸の形像を建立す是くの如き諸人等皆已に仏道を成じき」
信心の心から出た善行によって仏道を成じるということであり、その心を賞賛された
ものと思いますが、いかがでしょうか。
この釈迦仏に蓮師の本尊義はないと思います。
102
:
問答迷人
:2005/05/03(火) 22:01:30
一字三礼さん
問題点をまとめて頂き、有難うございます。仰る通りであると思います。僕が一番着目するのは、『① 身口意が合わなくなる。口では題目で「経」に帰依しながら「仏」を拝する行為となる。』という点です。
また、本尊抄、報恩抄における『本門教主釈尊がを本門の本尊』との記述の意味するところが今ひとつ分からないという歯がゆさがあります。
103
:
問答迷人
:2005/05/03(火) 22:12:07
通りすがりの凡夫さん
曼陀羅の安置方法、やはり、日興上人が「掛け奉るべし」と書かれたごとく、随所に於いて掛け奉ったのではないでしようか。曼陀羅を仏壇に安置するという奉安式は少し時代を経て確立されたのではないでしようか。あくまでも、唱題に主眼が有ったわけで、何時所を追われるか、何時命を狙われるか、何時所払いをされるか、という迫害の嵐の中の蓮師の存命中には、仏壇に安置する、という奉安式は珍しかったのではないでしょうか。随時随所で壁にかけて唱題したのではないかと、僕は思っています。
>本門の教主釈尊は妙法五字であっても不思議ではない
にも拘わらず、本尊抄、報恩抄において、「妙法五字」が本尊である、と述べなかったのは、如何なる理由によるものなのか、この点については、いかがお考えでしょうか。
104
:
問答迷人
:2005/05/03(火) 22:17:56
>この釈迦仏に蓮師の本尊義はない
本尊に惑う、ということは、開目抄の主要なテーマで有ったわけです。信心を褒められて、何に対する信心か、という事を蓮師が等閑に付したというのは、いかにも蓮師に対して失礼ではないでしょうか。僕は、釈迦仏の造立には、それなりの賞賛すべき事であったからこそ、賞賛されたのだと思います。その「賞賛すべき点」が私たちには良く分かっていないだけではないのでしょうか。
105
:
通りすがりの凡夫
:2005/05/03(火) 22:37:41
>>103
問答迷人さん
曼陀羅安置の方法、納得できました。ありがとうございます。
> 本尊抄、報恩抄において、「妙法五字」が本尊である、と述べなかったのは、如何なる理由によるものなのか
これについては、私は本尊抄の論理展開から次のように考えております。すなわち、
草木に十界の因果を表さなければ、本尊の義が成り立たないこと。そして妙法蓮華経
の五字=妙覚の釈尊であること。これらのことから、曼陀羅は釈尊一身の十界の因果
を草木(紙幅)の上に表したものと考えられます。また、これらは同時に我等が色心
でもあるわけです。すなわち、曼陀羅に記される諸尊は、妙覚の釈尊の地獄界から仏
界までを表していることは本尊抄に明らかでしょう。これらの諸尊の代表格が、南無
釈迦牟尼仏であり、釈尊己心の仏界であると考えられます。その仏界への帰命を指し
て本門の教主釈尊とされたと考えています。
また、法華経の説くところには、見仏思想がありますね。法華経の行者の前には釈尊
が姿を現すと各所に説かれます。このことからも、法華経=釈尊の対応付けは普通に
なされたのではないかと考えます。
106
:
通りすがりの凡夫
:2005/05/03(火) 23:07:19
>>104
問答迷人さん
この御抄を戴いた日眼女は四条金吾の奥方ですから、当然ずっと以前に曼陀羅を受け
その意義についてもある程度理解されていた方と思われます。その方が何らかの願を
立て、そのために釈迦仏を造立されたのだと拝されます。
一方、蓮師は、仏像の開眼は法華経によって行うべきを示されており、蓮師の指導の
もとに開眼供養が行われたものと考えています。真蹟はないですが、四条家では、建
治年間にも釈迦仏造立を行っていると思われ、何らかの体験を積んでいるのでしょう。
それらの前例を覆すことで、信心から遠ざかることを懸念されたとも考えられますね。
蓮師一代の化導に古くから従ってきた信徒ならではの事例ではないでしょうか。
107
:
問答迷人
:2005/05/03(火) 23:20:06
>蓮師一代の化導に古くから従ってきた信徒ならではの事例ではないでしょうか
そうかも知れません。只、そうだとしても、蓮師の化導において、釈迦仏造立が初期の段階においては推奨されるべき事柄であったということなりますが、この点、いかがでしょうか
108
:
愚鈍凡夫
:2005/05/03(火) 23:27:59
うわっ、レスがかなり進んでる。 (;^_^A アセアセ・・・
通りすがりの凡夫さん、どうもです。
>>94
:レス有り難うございます。
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(観心本尊抄)
なるほど、「我等此の五字を受持すれば」の文から曼陀羅=御本尊との展開ですね。でも、この文は、釈尊が累積してきた功徳が法華経の題目に集約されていて、この題目を受持する事によってその功徳を体現することができるという意味ではないでしょうか。
観心本尊抄に、
「草木の上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり、」
「然りと雖も詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏木画二像の本尊は有名無実なり。」
とあります。この文は、逆に「色心の因果」「一念三千の仏種」を置くことによって木絵二像も本尊たり得ることを示唆しているのだと思います。
ただ、確かに、次の文は蓮祖漫荼羅をイメージさせます。
「其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏多宝仏釈尊の脇士上行等の四菩薩文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う迹仏迹土を表する故なり」
しかし、「観心本尊抄」を拝する限りにおいて、「漫荼羅」が「御本尊」であるとは一言も出てきません。もし、「漫荼羅」こそが「御本尊」であるなら、明確に仰ると思うのですがいかがでしょうか。
109
:
通りすがりの凡夫
:2005/05/03(火) 23:37:18
>>107
問答迷人さん
> 蓮師の化導において、釈迦仏造立が初期の段階においては推奨されるべき事柄であった
推奨されるとまでいいきってよいかどうかはわかりませんが、実際にそうだったので
はないでしょうか。今話題にしている日眼女造立釈迦仏供養事にも、
「此の男女は皆念仏者にて候ぞ皆念仏なるが故に阿弥陀仏を本尊とす現世の祈りも又
是くの如し、設い釈迦仏をつくりかけども阿弥陀仏の浄土へゆかんと思いて本意の様
には思い候はぬぞ、中中つくりかかぬにはをとり候なり」
とありますが、化導の初期段階では阿弥陀仏信仰から釈尊への信心へ移させることが
非常に重要だったと考えられます。
110
:
通りすがりの凡夫
:2005/05/03(火) 23:49:54
>>108
愚鈍凡夫さん
> 釈尊が累積してきた功徳が法華経の題目に集約されていて、この題目を受持する事によってその功徳を体現することができる
観心本尊抄は、一貫して本尊論を展開していると私は考えております。揺らぐところ
はないように思います。
> 「漫荼羅」こそが「御本尊」であるなら、明確に仰る
それは観心本尊抄という書の性質によるものと考えます。すなわち、本尊論を展開し
た論文であり、曼陀羅本尊の理論的背景を示すという目的によるのではないでしょう
か。
111
:
犀角独歩
:2005/05/03(火) 23:57:53
問答さん、オフ会、2次会、3次会を終え、いま帰宅しました。
ややつかれていますので、簡略に申し上げます。
わたしが申し上げていることは、蓮師の在世、仏像本尊は既成の事実であったこと。漫荼羅が本尊であるなどということはまったく、人々は思いも寄らなかったこと。
もう一つ、もし久遠釈尊=妙法蓮華経であるのであれば、釈尊は自分自身を附属してしまったことになること。
例をひけば、問答さんに弟子がいらっしゃって、「この仕事をしておけ」と命じたとします。すると、その仕事は師匠そのものであるから、自分は師匠そのものを相続したと言うような話が釈尊=妙法蓮華経という考えであるとわたしは申し上げているわけです。
仕事とは妙法蓮華経の弘通です。しかし釈尊=妙法蓮華経であれば、釈尊は自分自身を附属したことになってしまうというのがわたしの記したことです。こんなことは有り得ないと申し上げているわけです。ですから、本尊釈尊が、附属したのが妙法蓮華経であり、本尊と題目は別であるというのが、わたしの記したことです。即ち、本門本尊と本門題目の別を言っているわけです。
本日は疲れていますので、以上の如く、簡略に申し上げてご意見をお待ちします。
いずれにしても、蓮師門下で漫荼羅が本尊であることが既成であったのではなく、釈尊像が本尊であったことが既成である点で、問答さんとわたしの意見は異ならないと判断しておりますが、この理解は間違っているでしょうか。
なお、本尊問答抄は、真跡を残さないので、ここではいちおう資料から除外して議論をしたいと思います。
112
:
愚鈍凡夫
:2005/05/03(火) 23:58:05
通りすがりの凡夫さん、どうもです。
「観心本尊抄」が蓮祖の本尊観を顕した書であることは間違いないですし、そのことに意義を挟むつもりは毛頭ありません。
小生は、逆に本尊観を顕した書であるからこそ、「漫荼羅」=「御本尊」であるなら、明確にそう仰しゃると思うのです。
113
:
愚鈍凡夫
:2005/05/04(水) 00:03:10
済みません。訂正です。
誤⇒そのことに意義を挟むつもりは毛頭ありません。
正⇒そのことに異議を挟むつもりは毛頭ありません。
です。悪しからず。 m(_ _)m
114
:
犀角独歩
:2005/05/04(水) 00:10:09
愚鈍凡夫さん、本尊抄は観心本尊の「仏像出現」を示した書ですね。
115
:
愚鈍凡夫
:2005/05/04(水) 00:26:26
あっ、犀角独歩さん、お疲れ様です。
> 本尊抄は観心本尊の「仏像出現」を示した書ですね。
ただ、蓮祖は日蓮の名を冠する宗派が「御本尊」のことで今もなお揉めているなんて夢にも思わないでしょうね。
今、いらしたら「何をわけのわからんことゆうとんねん」って言うでしょうか(何で、大阪弁やねん)。
116
:
通りすがりの凡夫
:2005/05/04(水) 00:35:33
>>111
犀角独歩さん、はじめまして
> 漫荼羅が本尊であるなどということはまったく、人々は思いも寄らなかったこと
ゆえに未會有の曼陀羅とも考えられるわけですね。
観心本尊抄送状にはまさに次のようにかかれております。
「此の書は難多く答少し未聞の事なれば人耳目を驚動す可きか」
したがって、このことから本門の本尊ではないとはいえないと考えられます。むしろ
本尊抄を素直に拝せば、本尊の相が曼陀羅と一致することに意義を感じるのではない
でしょうか。
> 久遠釈尊=妙法蓮華経であるのであれば、釈尊は自分自身を附属してしまったことになる
これについては、先ほども少し書きましたが、私は少し違う考えを持っています。法
華経は、釈尊の悟った智慧、因果の功徳を附属した経典であると考えています。方便
品より始まる説法は、まさにそのことを説いております。智慧なるが故に、三世常住
の仏であるととらえることができます。蓮師は、成仏の根源の種子を妙法五字として
明確にされたわけです。この妙法五字は、単に釈尊の因果の功徳であるばかりでなく、
三世十方の諸仏の釈尊の因果の功徳でもあります。これも方便品に明らかだと考えま
す。ゆえに、「自分自身を附属」という論は無理があるように感じます。
本尊と題目を境智の二法と考えた場合でも、境智各別なのか、それとも境智不二なの
かと考える時、境智不二であろうと思うわけです。
117
:
問答迷人
:2005/05/04(水) 06:50:06
>本尊釈尊が、附属したのが妙法蓮華経であり、本尊と題目は別
オフ会、お疲れ様でした。有意義な内容であったようですね、独歩さんはじめ、ご参加の皆様のご努力に敬意を表します。
問題点が、かなり鮮明になったと思います。整理、有難うございます。
今、問題にしている「本門の本尊」は、蓮師の説くところの本尊ですから、ゆはり、「観心の本尊」であると思います。すなわち、観心本尊抄において蓮師が説いた法門であると考えてよいと思います。そうしますと、その本尊の有り様は、蓮師の業績の上で考えれば、蓮師の字像曼陀羅に示された内容が、観心本尊抄の本尊の有り様とほぼ一致すると思われます。しかも、その結論部分には、『一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたもう。』と有りますから、これらの観心本尊抄の記述にほぼ添った形の「字像曼陀羅」をもって、観心本尊と捉えても、間違いではなかろうと思うのです。勿論、観心本尊抄に「曼陀羅」語が一言も書かれていない以上、蓮師のお考えになる「観心本尊」の範疇に字像曼陀羅が含まれる、という意味で、仏像本尊を排除する意味ではありません。
そして、字像曼陀羅が観心本尊を表したものであれば、その表現形式をつぶさに検討する必要があると考えます。
曼陀羅の中央に大書きされた南無妙法蓮華経の文字、これは何を意味するのでしょうか。また、初期の曼陀羅に見られる釈迦多宝の二仏を脇士とし、南無妙法蓮華経を中尊とした表現、さらに、観心本尊抄の執筆以降の曼陀羅は、本尊抄の記述にほぼ等しい形の表現となっていること、これらは、『観心本尊』が曼陀羅で有るかどうかは別として、少なくとも、曼陀羅の形として「観心本尊」を表したものが、蓮師の字像曼陀羅で有る事は、否定できないであろうと思います。
曼陀羅の表現形式としては、中央に大きく描かれた南無妙法蓮華経を中尊と考えるほか無く、小さく、細い字で表現された釈迦多宝が本尊である、というのは、いかにも違和感を禁じ得ません。字像曼陀羅の中尊はやはり、「南無妙法蓮華経」であると捉えるしかなく、字像曼陀羅が観心本尊を表したものであれば、観心本尊も「南無妙法蓮華経」であると考えるしかないと思います。
『久遠本仏=妙法蓮華経なら、久遠本仏は自分自身を付属してしまったことになる、それはありえない、』との独歩さんの論難については、確かにおかしなことになってしまいそうなのですが、字像曼陀羅を観心本尊の表現形式と考えると、そのおかしなことを蓮師は平気で行っておられるとしか思えません。果たして、字像曼陀羅は観心本尊の表現形式ではないのでしょうか。この点、如何お考えでしょうか。
118
:
犀角独歩
:2005/05/04(水) 06:58:08
116 通りすがりの凡夫さん、はじめまして。
> 本尊抄を素直に拝せば、本尊の相が曼陀羅と一致
それは部分的な話でしょう。
不動愛染に関する記述はありませんし、天照八幡についても記述がありません。素直に読めば、宝塔品虚空説法の様を描写している範囲にとどまっています。本尊抄の述作は文永10年なのであって、当時の漫荼羅には天照八幡はまだ勧請されていないようですが、その後の変遷におけるこの固定とも一致しません。
> 法華経は、釈尊の悟った智慧、因果の功徳を附属した経典であると考えています
「因果の功徳を附属」するとは、どういう意味でしょうか。
結要付属されるのは、法ではなく、功徳ですか。
> …智慧なるが故に、三世常住の仏である
法華経の説相は寿量品における五百塵点成道を言うものです。また、蓮師の考えは「三世常住の仏」を論じるのではなく、「三世常住の仏性」を言うものでしょう。この点から「三身所顕無始古仏」を結論しますが、これは「三世常住の仏」とは違い、三妙合論から結論するところではないでしょうか。
> 三世十方の諸仏の釈尊の因果の功徳…方便品
方便品のどの文でしょうか。
> ゆえに、「自分自身を附属」という論は無理
これはわたしが書いたことを誤解していませんか。
わたしは、釈尊=妙法蓮華経(人法体一)としてしまえば、結要付属において、釈尊自身まで付属してしまうことになる。故に本尊、付属の法は別に考えなければならないと記したのです。ですから、法=仏といった具合の考え方では自分自身を付属したことになるので成り立たない。つまり、法=仏という考えは「無理」があると、むしろ、わたしのほうが言っているわけです。
> 本尊と題目を境智の二法…境智不二であろうと思うわけです
ここでいう本尊とは釈尊ですか、題目ですか、どちらでしょうか。
ここで議論していることは、自分がどう思うということではなく、「蓮師はどう考えたのか」です。蓮師の真跡中で本尊と題目を境智の二法に配立する法門があるのでしょうか。
本尊と題目は、三つの法門における二つであって、ここに戒壇義を欠くことは御立法門の有様と一致しません。
また、蓮師の真跡中に境智による法門の仕立ては垣間見られません。ただし、当然のこととして、注法華経に六大部からそれを写すところは見られます。しかし、これを本尊と題目に充てる解釈は見られません。
本尊:題目=境:智=不二であると言うのはいかなる根拠によるのでしょうか。このような考えは蓮師が懐いていたとする証拠はなんでしょうか。
119
:
愚鈍凡夫
:2005/05/04(水) 07:42:56
皆さん、おはようございます。
小生は、蓮祖が本尊として崇めているのは寿量品に説かれる処の「久成の釈尊」であって、始成正覚の釈尊ではないと思います。したがって、釈迦多宝、十方の諸仏、上行等の四菩薩を脇士とすると宣言された下記の文に矛盾を感じません。むしろ、「本門の本尊」の説明としては筋が通っていると思っています。
「答えて云く一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし、」(報恩抄)
120
:
問答迷人
:2005/05/04(水) 08:45:18
愚鈍凡夫さん
>釈迦多宝、十方の諸仏、上行等の四菩薩を脇士とすると宣言
この報恩抄の文について、御確認させていただきたいのですが、『本門の教主釈尊』が中尊で、『釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩』は、その『本門の教主釈尊』の脇士となる、と言う意味に捉えていらっしゃるのでしょうか。
121
:
犀角独歩
:2005/05/04(水) 09:41:11
117 問答名人さん
> オフ会、お疲れ様
有り難うございます。
> 問題点…鮮明…整理、有難うございます。
こちらこそ、有り難うございます。
> 「本門の本尊」…「観心の本尊」…観心本尊抄において蓮師が説いた法門
ええ、そのような絞り込みとなろうかと存じます。
> 観心本尊抄の本尊の有り様とほぼ一致…『一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたもう。』と有りますから、これらの観心本尊抄の記述にほぼ添った形の「字像曼陀羅」…観心本尊と捉えても、間違いではなかろう
いえ、わたしは、そうではないと思うのです。
本尊抄は当初から止観から一念三千を探り、六道から二乗、さらに己心の菩薩、仏まで思索されて行くわけです。つまり、蓮師が本尊抄でいう本尊とは文字どおり心で観た本尊でした。その仏本尊が地涌菩薩に付属した法ということに論が進むのが本尊抄一巻の趣旨ではないでしょうか。
観心本尊とは「字像曼陀羅」ではなく、文字どおり心で観た本尊、久遠実成釈尊ではないでしょうか。これは漫荼羅とは違います。
> 曼陀羅の中央に大書きされた南無妙法蓮華経の文字、これは何を意味するのでしょうか。
釈尊が上行菩薩等に付属した一念三千という珠を裏んだ法ではないでしょうか。
> 初期の曼陀羅…本尊抄の記述にほぼ等しい形の表現
これは118にも記しましたが、不動愛染という重要な勧請について、本尊抄には何ら記述がありません。つまり、「ほぼ等しい形」とは言えません。一致するのは、むしろ、法華経宝塔品です。
> 曼陀羅の形として「観心本尊」…蓮師の字像曼陀羅で有る事は、否定できない
いえ、そうではないと思います。
観心本尊は久遠実成の釈尊であり、その仏像を出現させるべきであるというのが一つの本尊抄の主張になっています。そして、それとは別に一念三千の珠を裏む妙法蓮華経の五字は上行が付属された法の正体であるので、それを特筆したのが漫荼羅というもう一つの側面があるのではないでしょうか。本尊から見れば本尊釈尊・脇士四菩薩となり、付属の法を書き表せば漫荼羅となるという関係で、意義が違っています。
> 曼陀羅の表現形式としては、中央に大きく描かれた南無妙法蓮華経を中尊と考えるほか無く、小さく、細い字で表現された釈迦多宝が本尊である、というのは、いかにも違和感を禁じ得ません。字像曼陀羅の中尊はやはり、「南無妙法蓮華経」であると捉えるしかなく、字像曼陀羅が観心本尊を表したものであれば、観心本尊も「南無妙法蓮華経」であると考えるしかないと思います。
この点は、漫荼羅が本尊であるという前提から考えられるので「違和感」となるのではないでしょうか。本尊釈尊から付属された法を大書したものが漫荼羅であると考えれば、二仏並座して証明を加え、四菩薩が、その並座の一方の主・釈尊の脇士として座を構えるという図示は何の不思議もありません。
> 字像曼陀羅を観心本尊の表現形式と考えると、そのおかしなことを蓮師は平気で行っておられるとしか思えません。果たして、字像曼陀羅は観心本尊の表現形式ではないのでしょうか。この点、如何お考えでしょうか。
上述したとおりですが、字像漫荼羅を本尊と考えるために蓮師は「おかしなことを言っている」ように思えるわけで、己心仏界=久遠実成釈尊=仏像出現として一つ、上行結要付属の一念三千の珠を裏む妙法蓮華経を図示したのが漫荼羅であるとして一つと整理すれば、まったくおかしなことを言っていることにはなりません
付属した仏=己心仏界=久遠実成釈尊=出現させるべき仏像
付属された法=妙法蓮華経裏一念三千珠=図示された漫荼羅
付属された菩薩=弘通の資格者・上行等四菩薩
は実に明快に本尊抄中に整理されて記述されています。
これを本尊=漫荼羅という固定観念から見ると、本尊=釈尊=妙法蓮華経と一つのものに見ようとするために、蓮師が「おかしなことを言っている」と映ずることになるのではないでしょうか。しかし、ここを上述のとおり付属した仏・法・菩薩と整理してみれば、実に整然と理論化されていることがわかります。本尊を仏像と表現するところと付属の法を漫荼羅と図示することは、本尊抄一巻を読めば、別のこととして書き表されているのではないでしょうか。
122
:
問答迷人
:2005/05/04(水) 10:08:14
犀角独歩さん
実によく問題点を整理していただき、誠に有難うございます。
本尊は仏、曼陀羅は法。そうしますと、ひとつの巨大な難問が現れてくると思います。『南無妙法蓮華経』という唱題のあり方についてです。本尊に向かって、本尊に帰命を誓うのが『南無妙法蓮華経』という唱題なのだと思います。本尊が『妙法蓮華経』で無いのなら、なぜ『南無妙法蓮華経』と唱える事を蓮師は教えたのか、という疑問です。法に帰命することだけで、その教えた仏はどうでも良いのでしょうか。妙法蓮華経の現文には「南無釈迦牟尼仏仏」とありますが、蓮師はそこを撰時抄において敢えて『南無妙法蓮華経』と読み替えています。この意図は何なのか、という疑問です。
123
:
通りすがりの凡夫
:2005/05/04(水) 10:10:20
>>118
犀角独歩さん
今日は時間がありませんので、多分次に書くのは明日になってしまいます。
>宝塔品虚空説法の様を描写している範囲
それは多少無理があるのではないでしょうか。「其の本尊の為体」とありますから、
本尊の相を示されたものでしょう。
「塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏多宝仏」
この箇所はいかがでしょうか。宝塔品から塔中の妙法蓮華経の存在は読めないと思い
ます。また、これをそのまま読むならば、中央に妙法蓮華経があり、その左右に釈迦
牟尼仏・多宝仏という配置であることは明らかです。蓮師の第一義に妙法蓮華経があ
るがゆえに中尊となるのだと考えます。
また、仏像として配置した場合を想像しますと、中央に妙法蓮華経、その左右に釈迦
牟尼仏・多宝仏が配置されるわけで、釈迦仏のみを拝させる配置としては、いささか
奇妙な配置といわざるを得ません。中央に配されたものが第一義であることは、動か
ないと思われます。
不動愛染、天照八幡のこと、万民(九界の衆生)のうちに入ると思います。
>「因果の功徳を附属」するとは、どういう意味でしょうか。
まず、妙法蓮華経の五字が法華経附属の法体であることは了解していただけると考え
ます。その上で法であり、釈尊および三世十方の諸仏の因果の功徳です。蓮師はすで
に以下の考えを示しておられます。
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」
つぎに法華経ですが、すでに釈尊の因行果徳を諸仏の智慧としております。
「諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞・辟支仏の
知ること能わざる所なり。所以は何ん、仏曾て百千万億無数の諸仏に親近し、尽くし
て諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称普く聞えたまえり。甚深未曾有の法
を成就して、宜しきに随って説きたもう所意趣解り難し。」
「無量億劫に於て 此の諸道を行じ已って 道場にして果を成ずることを得て 我已
に悉く知見す 是の如き大果報 種々の性相の義 我及び十方の仏 乃し能く是の事
を知しめせり」
このことをさらに説くために、過去仏、未来仏、現在仏の諸仏の義が同じであること
を示しているのが方便品であろうと思います。
過去仏「究竟して皆一切種智を得たり」
未来仏「究竟して皆一切種智を得べし」
現在仏「究竟して皆一切種智を得」
この諸仏所生の種子である一切種智とは、妙法五字であることは蓮師門下ならば動か
ないでしょう。
法華経成立は諸説ありとしても、釈尊滅後数百年さらに現在の形になるまでに数百年
程度かかっていますが、法華経迹門にその原始のプロットがあると思います。大通化
導然り、如来使然り、一切種智然りであります。その一つ一つのプロットをより具体
化させ、実事として表現したのが本門であり、現在の法華経経典だと考えます。
> これはわたしが書いたことを誤解していませんか。
いえ、犀角独歩さんの論が、仏自身を附属は不可という事に対して、法華経の意にそ
って無理ではないことを示したものです。
> 蓮師の真跡中で本尊と題目を境智の二法に配立する法門があるのでしょうか。
たしかに明示する真蹟はありません。
しかしながら、すでに、本尊抄は、以下の文を根拠に論を展開したものです。本尊抄
冒頭に曰く、
「摩訶止観第五に云く『夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界
なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千一念の
心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す乃至所以に称して不可思議
境と為す意此に在り』等云云」
観心本尊、すなわち事の不可思議境だろうと考えます。
124
:
愚鈍凡夫
:2005/05/04(水) 10:21:20
問答迷人さん、おはようございます。
小生は、「漫荼羅」=「御本尊」とは考えていません。
敢えて、蓮祖漫荼羅の中尊は何を意味するのかと問われれば、
>>88
:にも記しましたが、諸尊の功徳の集約が中尊の「南無妙法蓮華経」であって、唱題行によって諸尊の功徳を我が身に集めることができる。ということだと思います。
また、蓮祖漫荼羅は蓮祖の悟達の世界のイメージそのものであって、法華経の主題こそが久成釈尊の悟りを要約したものであり、法華経の主題に帰命することが成道への直道であるというのが蓮祖のお考えだと思います。
125
:
愚鈍凡夫
:2005/05/04(水) 10:33:48
>>124
:からの続き。
「報恩抄」の文に戻りますと、「本門の本尊」は釈迦多宝、十方の諸仏並びに地涌四菩薩を脇士とするという意味だと思います。
要するに、本尊の差別化を表現しているのではないでしょうか。蓮祖は脇士の立て方で、本尊の意味合いが変わってくると思われていたのだと思います。
126
:
問答迷人
:2005/05/04(水) 10:35:15
愚鈍凡夫さん
重ねてお伺いします。
蓮師の字像曼陀羅において、南無妙法蓮華経の左右に釈迦多宝がしたためられていますが、この釈迦は本門の教主釈尊であるとお考えでしょうか。
127
:
犀角独歩
:2005/05/04(水) 10:39:46
123 通りすがりの凡夫さん
>宝塔品虚空説法の様を描写している範囲
> それは多少無理があるのではないでしょうか。
いえ、蓮師は出現宝塔の中に妙法蓮華経ありと達観したと言うことを申し上げているわけで、法華経それ自体の説相を言っているわけではありません。
> 「塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏多宝仏」
> この箇所はいかがでしょうか。宝塔品から塔中の妙法蓮華経の存在は読めないと思います。
ええ、原文からは、もちろん、読めません。ですから、上述したとおり、宝塔中に妙法蓮華経ありとするのが蓮師の本尊抄でしょう。
> 蓮師の第一義に妙法蓮華経があるがゆえに中尊となるのだと考えます。
中尊ということを蓮師が言っておりますか。
> また、仏像として配置した場合を想像しますと、中央に妙法蓮華経、その左右に釈迦牟尼仏・多宝仏が配置されるわけで、釈迦仏のみを拝させる配置としては、いささか奇妙な配置といわざるを得ません。中央に配されたものが第一義であることは、動かないと思われます。
この点については、121に記しました。
> 不動愛染、天照八幡のこと、万民(九界の衆生)のうち
本尊抄の該当の文で万民とは「迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月郷を見るが如し」とあります。ところが漫荼羅図では中央題目に比する大きさで左右に梵字をもって特筆されるのが不動・愛染です。それを万民で括ることは「無理」があります。
>>「因果の功徳を附属」するとは、どういう意味でしょうか。
> …妙法蓮華経の五字が法華経附属の法体
そうですね。
功徳ではなく法です。
法であるところを功徳と記されたことに対する質問です。
法の説明を以て功徳の説明とされては問と答が一致しません。
> 法華経成立…現在の法華経経典だと考えます。
この点は異論はありますが、既に言い尽くしたことであり、本論とは直接関係ありませんので、応答は控えます。
> 仏自身を附属は不可という事に対して、法華経の意にそって無理ではない
どのように無理ではないのでしょうか。無理だと思います。
これではたとえば、「このお金をあなたにあげる」と差し出されたとき、その差し出した本人までもらっていいと言っているようなものです。そんな事は成り立ちません。
>> 蓮師の真跡中で本尊と題目を境智の二法に配立する法門があるのでしょうか。
> …本尊抄冒頭…
これは本尊・題目を境智に蓮師が配した説明になっていません。
> 観心本尊、すなわち事の不可思議境だろうと考えます。
これは、通りすがりの凡夫さんご自身のお考えであって、蓮師の考えではありません。また不可思議境を言った天台とも違っています。三千不可思議境は止観禅で観念観法される心中に観る法であって本尊ではありません。また、蓮師はそのようなことを本尊抄において書いておりません。さらにこれが本尊(境)題目(智)であると蓮師が言った証拠とはなりません。
128
:
犀角独歩
:2005/05/04(水) 10:42:54
問答名人さん、先に横レス、失礼します。
愚鈍凡夫さんへのご質問の点は「互為主伴」を不可とされるご質問ですか。
129
:
問答迷人
:2005/05/04(水) 10:53:04
>「互為主伴」を不可
『互いに主伴を為す』と読めばよいのでしょうか。そういう意味では有りません。この釈迦が、本門の教主釈尊で無いなら、本門の教主釈尊が曼陀羅には書かれていないことになりますが、どうなんでしょうね、という質問です。
130
:
愚鈍凡夫
:2005/05/04(水) 11:04:25
従地涌出品と寿量品を読んでいたのですが、
> 蓮師の字像曼陀羅において、南無妙法蓮華経の左右に釈迦多宝がしたためられていますが、この釈迦は本門の教主釈尊であるとお考えでしょうか。
どうでしょうか。
もし蓮祖漫荼羅が宝塔品からの儀式を顕しているとすれば、宝塔=南無妙法蓮華経ということになるかと思います。もしそうなら法華経の会座にいるはずのない諸尊をどうとらえるかという問題が出てきます。
仮に、釈迦仏が五百塵点劫成道を明かしている処を描写しているとの解釈が成り立てば、「本門の教主釈尊」ということになるかと思います。
133
:
犀角独歩
:2005/05/04(水) 11:20:06
122 問答名人さん
> 本尊に帰命を誓うのが『南無妙法蓮華経』という唱題
どうもわたしにはこのような言葉の言い回しが理解できないのです。
南無妙法蓮華経とは妙法蓮華経に帰命するという意味で、ここの「本尊」語は介在していないのではないでしょうか。
> 法に帰命することだけで、その教えた仏はどうでも良いのでしょうか。
蓮師の漫荼羅には「南無釈迦牟尼仏」と書かれてあります。
真跡ではありませんが、『真言見聞』に「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり三宝一体なる故なり是れ涅槃経の文」とあります。単に「南無釈迦牟尼仏」といえば、五時のどの釈迦をも意味してしまいますね。しかし、蓮師は法華経寿量仏の釈尊を本尊とするわけですから、単に「南無釈迦牟尼仏」というだけでは特定されないことになる、故に妙法蓮華経(法)と法華経寿量品(仏)と付属される菩薩(僧)の三宝一体をもって捌くのが南無妙法蓮華経ではないでしょうか。ただし、ここでいう一体とは一つにカテゴライズするという意味で、イコールを意味するものではないということです。
> 妙法蓮華経の現文には「南無釈迦牟尼仏仏」…蓮師はそこを撰時抄において敢えて『南無妙法蓮華経』と読み替え…
具体的にはどの文でしょうか。
134
:
問答迷人
:2005/05/04(水) 11:42:31
>具体的にはどの文でしょうか。
『今諸の菩薩摩訶薩の為に、大乗経の妙法蓮華、教菩薩法、仏所護念と名づくるを説きたもう。汝等当に、深心に随喜すべし、亦当に、釈迦牟尼仏を礼拝し供養すべし。彼の諸の衆生、虚空の中の声を聞き已って、合掌して娑婆世界に向かって、是の如き言を作さく、南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏と。』(如来神力品)
『文の心は第五の五百歳の時、悪鬼の身に入る大僧等国中に充満せん。其の時に智人一人出現せん。彼の悪鬼の入る大僧等、時の王臣・万民等を語て、悪口罵詈、杖木瓦礫、流罪死罪に行なはん時、釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌の大菩薩らに仰せつけば、梵帝・日月・四天等に申し下され、其の時天変地夭盛んなるべし。国主等其のいさめを用ひずば・国にをほせつけて、彼々の国々の悪王悪比丘等をせめらるるならば、前代未聞の大闘諍一閻浮提に起るべし。其の時日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ、或は身ををしむゆへに、一切の仏菩薩にいのり(祈)をかくともしるし(験)なくば、彼のにくみ(憎)つる一の小僧を信じて、無量の大僧等・八万の大王等・一切の万民、皆頭を地につけ掌を合わせて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし。例せば神力品の十神力の時、十方世界の一切衆生一人もなく、娑婆世界に向て大音声をはなちて、南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、と一同にさけびしがごとし。』(撰時抄)
135
:
犀角独歩
:2005/05/04(水) 11:49:42
> 134
やはり、この文ですか。
ここでは「南無釈迦牟尼仏、南無妙法蓮華経」となっています。
蓮師は、当然、南無釈迦牟尼仏が前提で、それを唱題の行と立てるときには、「南無妙法蓮華経」ということではないでしょうか。
136
:
問答迷人
:2005/05/04(水) 12:07:28
>南無釈迦牟尼仏が前提で、それを唱題の行と立てるときには、「南無妙法蓮華経」
もし、そうだとすると、議論が堂々巡りに陥る嫌いがありますが、なぜ、南無釈迦牟尼仏の称名念仏が法華経現文にあるのに、それを取らずに、敢えて『南無妙法蓮華経』という唱題行を蓮師が選び取ったのか、という問題です。修行としては唱題でなければならなかったのはなぜなのでしょう。法然の南無阿弥陀仏の称名念仏に対抗するために、敢えて称名念仏を避けたのでしょうか。如何お考えでしょうか。
137
:
問答迷人
:2005/05/04(水) 12:18:03
犀角独歩さん
愚鈍凡夫さん
みなさん
これから、所用で出かけます。書き込みは明日になります。宜しくお願いいたします。
138
:
顕正居士
:2005/05/04(水) 13:28:47
本尊抄と報恩抄の文から本門の本尊とは本門教主釈尊である、またこの教主釈尊を像に造ると
(具体的の本尊)曼荼羅の姿になる、といえるのではないでしょうか?
報恩抄の文「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏竝上行等の
四菩薩脇士となるべし」
ですが、「本門の教主釈尊」が「宝塔の内の釈迦多宝」でそこで切れ、分身仏と四菩薩が脇士
になると読むことができます。以前、そう読むべきでないかと書いたのですが、考えが変わり
ました。分身の諸仏が脇士になるのは変である。本門教主釈尊の脇士は上行等の四菩薩である
はずだから。天台大師は法華文句見宝塔品の冒頭に多宝法身、釈迦報身、分身応身と注釈して
いる。「外の諸仏」までが本門教主釈尊の説明ではないだろうか。「竝」は「付け加える」の
意味に取ります。そう読めば本門の教主釈尊=宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏であり、三身常住
の仏の脇士が上行等の四菩薩であるとなります。
優陀那日輝師の『妙宗本尊弁』という著述にはいわゆる妙宗の二種本尊(釈迦仏と曼荼羅)の
関係が詳細に論じられています。
妙宗本尊弁
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049311&VOL_NUM=00000&KOMA=2&ITYPE=0
140
:
犀角独歩
:2005/05/04(水) 16:44:18
顕正居士さん、いつもご教示有り難うございます。
輝師本、いま読もうとしましたが、120葉余もあるので、あとでゆっくりと拝読させていただくこととします。
問答さん、今回の議論は、そもそも、蓮師は、漫荼羅を本尊として図示したのかという問いかけではじまり、その根拠・証拠を求めたのですが、どうも旧来の如く、本尊であるという前提で論が進むという具合です。また、蓮師はその漫荼羅を拝んだのかどうかという問いかけでもありました。結局のところ、この二問の挙証はなされず、ただ単に本尊=題目を繰り返したところで、なんの説得性もないというのが、わたしの偽らざる感想です。先にもこのような議論を試みたのですが、どうも根強い固定観念の前に議論は、漫荼羅が本尊である前提で進んでしまいます。議論は難しいと思う次第です。
報恩抄、法華取要抄といった三つの法門へ発展する前段階である本尊抄は、観心本尊と題目という二本柱で論が立っています。止観における一念三千の論拠を探ることから始まり、さらに天台の難信難解を挙げて非情成仏から木画成仏という根拠を示したのちに仏像出現を主張する論の運びは実に周到で論理的であると思います。観心本尊を明確にしたのち、三身所顕無始古仏・常住浄土という三妙合論を基にする久遠本仏を示し、その初発心の弟子が滅後末法に弘通する法が妙法蓮華経であり、この五字には一念三千の珠が裏まれていると結論づけられ、これを弘めることを示します。また、一閻浮提第一の本尊が立つとも言います。
本尊抄の構成は周到で、三宝義にしっかりと添っています。仏宝−久遠実成釈尊、法宝−妙法蓮華経、僧宝−四菩薩です。しかしながら、わたしのように半世紀も富士にいた人間は、釈尊・上行=日蓮=本仏であり、本仏は妙法蓮華経なのだと、こう刷り込まれしまっています。そして、漫荼羅こそ、本尊であるとも既成の事実のように刷り込まれています。しかし、実際のところ、蓮師が漫荼羅を拝んだという形跡はまったく見当たらないわけです。また、妙法蓮華経が釈尊であるというのであれば、こんな大事なことを何故、誰にも教えないのかという疑問も生じます。
そもそも釈尊=題目=一念三千というのは、例の蓮師のあずかり知らない『秘密荘厳論』で展開されるところであって、蓮師の説とは言い難いものです。すなわち、「一念三千即自受用身、自受用身とは尊形(そんぎょう)を出でたる仏と。出尊形仏とは無作の三身」という、これです。
しかし、本尊抄は、本尊と題目を分かつのであってこれをイコールとしてとらえれば、まず久遠三宝は潰えます。ついでいえば妙法蓮華経=釈尊であれば、釈尊は報身ではなく、、むしろ、法身ということになります。しかしながら、顕正居士さんがご指摘下さったとおり、天台の報身/釈尊・法身/多宝・分身/応身の三身と釈することを蓮師は前提とされるはずですから、この脈絡とも反することになります。
141
:
犀角独歩
:2005/05/04(水) 16:44:47
―140からつづく―
何故、このような混乱が生じるのか。富士方は常に動かぬ大前提を思考から除去するところから始めるからだという反省が常にわたしにはあります。何かと言えば、蓮師は釈迦一体像を随身し、それを本尊としていたという事実です。この動かぬ基礎の派生から、唱題があり、漫荼羅図示もあります。南無妙法蓮華経は、この本仏釈尊(像)に向かう、誓いの言葉とも言えるわけで、釈迦仏像に向かい南無妙法蓮華経と唱えれば、「お釈迦様、わたしはお釈迦様の最高の教えである法華経に帰命します」という意味となります。ところがこの釈尊(仏像)に向かうという当然の大前提が取り払われて、漫荼羅に南無妙法蓮華経と唱えるだけでは、問答さんの問いのように、何で「南無釈迦牟尼仏」ではないのかという問いも起きるでしょう。けれど、「南無妙法蓮華経」が本仏釈尊へ向かってのの誓いの言葉であれば、なにも「南無釈迦牟尼仏」を言うまでもないことであると、わたしには思えます。
なお、わたしは妙法蓮華経は、上行付属の正体ではないというのが結論です。その理由は至って簡単です。すなわち、涌出品に
「他方の国土の諸の来れる菩薩摩訶薩の八恒河沙の数に過ぎたる、大衆の中に於て起立し合掌し礼を作して、仏に白して言さく、 世尊、若し我等仏の滅後に於て此の娑婆世界に在って、勤加精進して是の経典を護持し読誦し書写し供養せんことを聴したまわば、当に此の土に於て広く之を説きたてまつるべし。
爾の時に仏、諸の菩薩摩訶薩衆に告げたまわく、 止みね、善男子、汝等が此の経を護持せんことを須いじ。所以は何ん、我が娑婆世界に自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩あり。一一の菩薩に各六万恒河沙の眷属あり。是の諸人等能く我が滅後に於て、護持し読誦し広く此の経を説かん」
というからです。また、神力品には
「汝等如来の滅後に於て、応当に一心に受持・読誦し解説・書写し説の如く修行すべし…如来の滅後に於て 仏の所説の経の因縁及び次第を知って 義に随って実の如く説かん」
というのであって、法を付属したのではなく、その修行と弘教を託したからでした。
妙法蓮華経が付属の正体であるのであれば、以下の文はどうなるでしょうか。
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」
すなわち、五字受持・功徳の自然譲与が蓮師の主張です。
となれば、ここに五字付属など介在の余地はありません。妙法蓮華経の名を知り、受持すれば自然と功徳が譲り与えられるわけですから。
つまり、五字は付属の正体というより、上行の所伝であり、そのように伝えられるところ、すなわち、弘教された妙法蓮華経を受持すれば自然と本因(菩薩道)・本果(成仏)という功徳を譲り与えられるというのが蓮師の主張であるわけです。つまり、南無妙法蓮華経の南無とは「受持」の異名と言えることになるのでしょう。受持即観心ならぬ、受持即功徳が蓮師の主張であったわけです。ここにも南無妙法蓮華経の意義があると思えます。
縷々記しましたが、いずれにしても、今回の議論で、わたしが求めたのは、漫荼羅が本尊であるというのであれば、その名証を。久遠釈尊が妙法蓮華経であるというのであれば、その名証を、蓮師が漫荼羅を拝んだというのであれば、その名証を、という議論に立ち戻りたいのですが、如何でしょうか。
142
:
通りすがりの凡夫
:2005/05/04(水) 22:25:24
>>127
犀角独歩さん
まず、本尊抄の「其の本尊の為体」という表現は、本尊の相を表すことを了解いただ
けますか。
次に、随身仏を本尊としたという文証はありますでしょうか。
随身仏が、本尊抄の本尊の相と異なるのはなぜだとお考えでしょうか。
以下の真蹟については、紙幅曼陀羅ととるのが自然だとおもいますが、どうお考えに
なられますか。
「又御本尊一ふくかきてまいらせ候」(是日尼御書)
私には、犀角独歩さんが曼陀羅≠本尊という前提から無理に論を起こしているように
感じられるのです。
> 中尊ということを蓮師が言っておりますか
「妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや」
因果の功徳は妙法蓮華経であり、骨髄であるといわれています。
「『其れ能く此の経法を護る事有らん者は則ち為れ我及び多宝を供養するなり、乃至
亦復諸の来り給える化仏の諸の世界を荘厳し光飾し給う者を供養するなり』等云云、
釈迦多宝十方の諸仏は我が仏界なり其の跡を継紹して其の功徳を受得す」
この法華経の文によれば、経法を護る事=仏供養であるとしております。
> 漫荼羅図では中央題目に比する大きさで左右に梵字をもって特筆される
文字の大きさで重要度が決まるとお考えであれば、不動、愛染が釈尊より文字が大き
くかつ梵字なので釈尊よりも重要であるということでしょうか。私はそうではなく、
虚空会の儀式を格護する善神の表現であると考えます。
> 法であるところを功徳と記されたことに対する質問です。
法であり、因果の功徳なのです。釈尊および三世十方の諸仏が因行のうえに証得した
諸仏所生の種子である妙法を功徳としています。
143
:
犀角独歩
:2005/05/04(水) 23:29:37
142 通りすがりの凡夫さん、あなたが立てるような退屈な議論は数年前に既にしたところで、あまり興味がありません。
何度も繰り返しますが、わたしは蓮師の考えを求めているので、あなたの御説には興味はありません。
> 本尊抄の「其の本尊の為体」という表現は、本尊の相を表すことを了解
では、本尊が漫荼羅であるという証拠はどこにあるのでしょうか。
> 随身仏を本尊としたという文証はありますでしょうか。
わたしは随身仏は蓮師の持仏であると言ったのであって、本尊であるとは書いておりません。蓮師が己心に観た久遠実成釈尊が本尊であり、仏像と出現すると本尊抄に書かれたと繰り返し書いています。
このような誤解に基づく疑問をたびたび出されますが、もう少し真面目にちゃんと読んで正確に問いかけていただきたいものです。
> 随身仏が、本尊抄の本尊の相と異なるのはなぜだとお考えでしょうか。
この質問は一つ前の思いこみ、思い違いに基づくので意味をなしません。
> 「又御本尊一ふくかきてまいらせ候」(是日尼御書)
この点もたびたび繰り返し記していますが、蓮師は護として記した漫荼羅を本尊と記す例はあっても、それがただちに本門本尊に当たっていないと言うことを永らく議論しているのです。過去のロムぐらい読んでから、問うたらどうでしょうか。
> 私には、犀角独歩さんが曼陀羅≠本尊という前提から無理に論を起こしているように感じられるのです。
それは、どのように感じられようが勝手ですが、そもそもこの観察自体まるで的はずれです。わたしが記しているのは、漫荼羅が本尊である明証が何かあるのであろうかということです。ありますか。
わたしは漫荼羅が本尊であることが証明されれば、それはたいへんにけっこうなことであるという個人的な思いがあります。しかし、それを証明するに足りる蓮師真跡を自分自身が思い当たらないので、問答さんとその点を論じ合っているところです。そこに横レスのうえ、的はずれなことをしばしば書かれるのは実に迷惑なことです。
>> 中尊ということを蓮師が言っておりますか
>「妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや」
因果の功徳は妙法蓮華経であり、骨髄であるといわれています。
「『其れ能く此の経法を護る事有らん者は則ち為れ我及び多宝を供養するなり、乃至亦復諸の来り給える化仏の諸の世界を荘厳し光飾し給う者を供養するなり』等云云、
釈迦多宝十方の諸仏は我が仏界なり其の跡を継紹して其の功徳を受得す」この法華経の文によれば、経法を護る事=仏供養であるとしております。
これのどこが中尊の説明なのでしょうか。
> 文字の大きさで重要度が決まるとお考え
わたしはそんなことは少しも書いておりません。あなたが、不動・愛染は、万民のうちだというので、そんな考えには無理があると記したのみです。
> 不動、愛染…虚空会の儀式を格護する善神の表現であると考えます。
これまた、繰り返しますが、わたしはあなたの考えには興味はありませんし、また、ここで個人の解釈を出し合っているわけではありません。蓮師真跡n挙証を求めています。すなわち、蓮師の考えを明証として挙げよと言っているのです。
不動・愛染が虚空会を格護する明王ならぬ神であるという前代未聞の‘説’はどのような証拠に基づいているのでしょうか。こんな個人の思いつきには、繰り返しますが、わたしは興味がありません。それとも文証がありますか。
> 法であり、因果の功徳なのです。釈尊および三世十方の諸仏が因行のうえに証得した諸仏所生の種子である妙法を功徳としています。
その証拠はなんでしょうか。
繰り返しますが、わたしはあなたの意見を聞いているのではありません。蓮師の真跡中に顕れる文証を求めているのです。誤解無きようお願いいたします。
ともかくも、いまは問答さんと蓮師の確実な証拠を探求しているところなので、的はずれな横レスはご遠慮いただけませんでしょうか。
144
:
通りすがりの凡夫
:2005/05/04(水) 23:55:13
>>143
犀角独歩さん
> 蓮師は釈迦一体像を随身し、それを本尊としていたという事実です。
動かぬ大前提なのは、釈迦一体像を随身まであり、本尊としたかどうかはまた別な
話ですね。それにしても、護りの本尊、本門の本尊、釈迦一体像本尊といくつも本
尊を仮定されることは、開目抄の主張を考える時、どうなのでしょうか。また、蓮
師は事実の上で本門の本尊を建立されたのかされなかったのか、どうなのでしょう。
いずれにしてもお邪魔なようですので、通りすがりは去らせていただきます。
愚鈍凡夫さん、問答迷人さん、犀角独歩さん、皆様、
おつきあい下さり、ありがとうございました。
145
:
犀角独歩
:2005/05/05(木) 00:38:53
144 通りすがりの凡夫さん、どうもあなたは、わたしの言っていることを率直にご覧にならないようですね。
要は主張するのであれば、蓮師の確実な資料を付すということです。
どうも、そのことは苦手に属しますか。
そのような資糧を付していただければ、愚鈍凡夫さんのように、議論にすんなりと加われるというものです。
146
:
愚鈍凡夫
:2005/05/05(木) 03:12:58
いやぁ、早く寝過ぎて中途半端な時間に目が覚めてしまった。 (^^ゞ
皆さん、おはようございます。なんていっても誰もいないか。 (^◇^;)
蓮祖は、「観心本尊抄」に蓮祖漫荼羅をイメージする記述があるのにもかかわらず、「漫荼羅」が「御本尊」であると明示されていないことは注目に値すると思います。
では、蓮祖漫荼羅は何ぞや、と問われれば、「兩界曼陀羅」と同じ役割を担っていると言えないでしょうか。すなわち、蓮祖のイメージする悟達の世界を図示されたのだと。
よって、蓮祖の本尊は「久成釈尊」という結論は動かし難い事実だと思います。
ただ蓮祖は、ご自身の漫荼羅に弟子や信者たちが日々の信仰の対境として信仰心を向けることに反対されたとは思いません(そのような御書はありませんから)。
147
:
犀角独歩
:2005/05/05(木) 09:59:49
○ここまでの整理
通りすがりの凡夫さんが指摘した141「蓮師は釈迦一体像を随身し、それを本尊としていた」また、そのあと、143に「わたしは随身仏は蓮師の持仏であると言ったのであって、本尊であるとは書いておりません。蓮師が己心に観た久遠実成釈尊が本尊であり、仏像と出現すると本尊抄に書かれた」と、相矛盾することを書きました。
この点について、一言、弁明を記します。
蓮師が随身された一体仏は持仏として、ご自身所持されていたわけです。その経過のなかで、『観心本尊抄』で論証して「事行の南無妙法蓮華経の五字、竝びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず」という二つの名目を出す至ります。
> 釈迦一体像を随身まであり、本尊としたかどうかはまた別な話
という考えは、仏道の基礎に悖る浅はかな論難でしょう。
随身というのは、懐中に入れて鼻紙や、いまの子どもたちが携帯電話のストラップにつけたアクセサリーとは違います。
蓮師における持仏・随身がどのような意味であったのか、それはたしかに明確なところははっきりしませんが、はっきりしていることは仏像、尊像、漫荼羅といわれる類のなかで蓮師が終生、所持されたものが釈迦一体仏像であるという事実です。それを本尊としたみるのはむしろ自然な考えでしょう。もし、それが本尊でないとすれば、では、何を本尊として所持され、もしくは安置され、拝まれたのか、その具体的な尊体は? というのが、当初の疑義です。法華天台の流れの僧侶が釈迦仏を持仏として所持すれば、それを自身の本尊としていると見るのは自然なことでしょう。
故にた141「蓮師は釈迦一体像を随身し、それを本尊としていた」と記しました。ただし、それは随身、護本尊という範疇であって、蓮師に留まらず、一般的に行われていたことなのだろうと思います。つまり、蓮師がその後、展開される本尊義に基づく仏像という事ではない故に、143に「わたしは随身仏は蓮師の持仏であると言ったのであって、本尊であるとは書いておりません。蓮師が己心に観た久遠実成釈尊が本尊であり、仏像と出現すると本尊抄に書かれた」と記しました。前者は天台一般の本尊義、後者は蓮師の本尊義として、別の意味で使用したために齟齬が生じました。
なお『是日尼御書』の「御本尊一ふくかきてまいらせ候」という一文を引き、これが漫荼羅を書き、御本尊としたという明証の如く扱いますが、では、これが(字像)漫荼羅である証拠があるのでしょうか。明証としては、やや弱い印象があります。
『開目抄』と言われますが、つまり、これは
「天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり。倶舎・成実・律宗は三十四心断結成道の釈尊を本尊とせり。天尊の太子、迷惑して我が身は民の子とおもうがごとし。華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗等の四宗は大乗の宗なり。法相・三論は勝応身ににたる仏を本尊とす。大王の太子、我が父は侍とおもうがごとし。華厳宗・真言宗は釈尊を下げて盧舎那・大日等を本尊と定む。天子たる父を下げて種姓もなき者の法王のごとくなるにつけり。浄土宗は釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏とおも(思)て、教主をすてたり。禅宗は、下賎の者、一分の徳あて父母をさぐるがごとし。仏をさげ経を下す。此れ皆本尊に迷えり。例せば三皇已前に父をしらず、人皆禽獣に同ぜしがごとし。寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ。不知恩の者」
この表現は今日的には差別に抵触し、好ましいと思えませんが、いまは、その問題はいったん置きます。この文意は、「天台宗、寿量品、本尊」であることは明らかです。また、ここに天台宗とある以上、この時点で蓮師ご自身天台宗の自覚であったことも窺われます。
それはともかく、この本尊を、より具体的に記したのが本尊抄ということになるでしょう。しかし、ここにいたり、先には天台宗の本尊が最高位にあると記していたのにも関わらず、未だ「そのような本尊」は顕れていないと、天台宗より、一歩、踏み出した本尊観を展開するわけです。
148
:
犀角独歩
:2005/05/05(木) 10:00:26
―147からつづく―
ここで、では、問題になるのは、蓮師が随身された釈迦一体像は寿量本尊仏像かということですが、これは違うでしょう。伊東配流から随身していた仏像を所持されながら、「未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」と言う以上、随身一体仏像がそれに契当しないことは明らかだからです。
ここで、問題になったのは、本尊抄で「本尊の為体」以下の文言が、漫荼羅図示を示したものかどうかという点です。
ここで記されるところは、たしかに漫荼羅図示と多くは一致します。しかし、それ以前に宝塔品二仏並座から従地涌出品の説相を敷衍していることも、もちろん明らかです。しかし、ここで特筆する点は「塔中妙法蓮華経」という一文であって、蓮師は涌現宝塔の中に「妙法蓮華経あり」という達観を、ここに示すわけです。
法華原典から読むとき、宝塔の中にあるのは多宝如来の舎利、もしくはミイラであり、神秘的経典世界は、その舎利(ミイラ)はしかし生きています。その生きた舎利(ミイラ)が釈尊に話しかけ、並座を勧めるというのが元来の物語です。つまり、多宝塔は多宝如来墓塔なのですが、天台は、顕正居士さんがご説明下さったところを踏まえれば、この宝塔のなかには法身・多宝、報身・釈迦、応身・分身ありとしたということになるのでしょうか。しかし、蓮師はこの宝塔の中に妙法蓮華経があるというわけです。顕正居士さんのご教示を受けてわたしが蓮師もその考えを踏襲していると思ったのは、本尊抄の「釈迦多宝十方の諸仏は我が仏界也」と合致するからでした。
では、この記述が漫荼羅本尊を指すのかということになりますが、しかし、蓮師漫荼羅における決定的な要素を欠いています。その点を指摘したわけです。つまり、不動・愛染がその筆頭に上がるでしょう。この明王が万民であるとか、虚空会を格護する「善神」であるなどという突飛な発想は問題外です。
蓮師漫荼羅を見れば、即座に理解できますが、最低限の要素は「南無妙法蓮華経」「釈迦牟尼仏」「多宝如来」「不動明王」「愛染明王」です。先の三つについては本尊抄の文で当たっても、不動・愛染が当たらないわけです。故に本尊抄の記述を直ちに漫荼羅図示を示したというのは短絡と言うほかありません。何より、法華経に不動・愛染が元来、介入の余地はありません。それを涌出宝塔・地涌菩薩を記述する法華経の説相を書き記したことで漫荼羅図示の説明であるというのは、実に乱暴な話と言うほかありません。この文が漫荼羅図示を表したというのであれば、しかるべき説明が付されたはずです。
また、本尊抄述作当時は、どうであったかはっきりしませんが、天照八幡の勧請がありますが、その点の説明にもなっていません。さらに進めば。その四隅、東西南北に凝し、ここに四大天王が勧請されますが、この点については、もちろん、この時点で戒壇義すら至っていないわけですから、当然、記されていないわけです。
このように見ていけば、該当の記述は、法華経説相の涌出宝塔・地涌菩薩の範疇に留まるというほかないわけです。しかし、この記述は「本尊」、すなわち寿量本仏を示したものであることは動かないと思います。本尊とということにつき、漫荼羅の如く書される図を言うのではなく、その説明対象である釈迦がどんな仏であるかという説明として蓮師は記していると思うわけです。
以上のことも踏まえ、、「其の本尊の為体」を「その本尊のていたらく」と読むのが門下一般とされていますが、わたしはこの点については大いに疑義を懐きます。この「為体」は「体と為(な)り」と読むべきではないのかと考えます。「其の本尊が体と為り」です。つまり、この文の直前に記される「仏」、すなわち寿量本仏を「本尊体」と為して、涌出宝塔・地涌菩薩の出現を見る虚空会の説相があるという意味を記したのではないのかとわたしは考えます。
このように考えていくと、漫荼羅を直ちに蓮師が本尊としたという論拠は、実に薄弱であるという思いを懐かざるを得なくなったというのが、偽らざる心境であるということです。しかし、これは「曼陀羅≠本尊という前提から無理に論を起こしている」などということではなく、むしろ、逆で、漫荼羅本尊論者は、蓮師の遺文を牽強付会して無理に漫荼羅を本尊に仕立て上げていないかという疑問に基づくものです。
149
:
犀角独歩[TRACKBACK]
:2005/05/05(木) 10:00:56
―148からつづく―
なお、漫荼羅が本尊かという点について、このスレッドの当初で、かつてLibraさんが以下のような紹介をしました。
*** 以下転載 ***
4 名前: Libra 投稿日: 2002/04/05(金) 11:24
「本尊論に関連して、以下を、参考資料として引用させて頂きます。
──────────────────────────────────────
大崎学報一○二号に山中喜八氏が報告するところによれば、聖人自から図顕した大曼
荼羅として百二十余幅が今日に伝えられ、殊に保田妙本寺所蔵の文永十一年十二月図
顕の大曼荼羅には「大覚世尊御入滅後経歴二千二百二十余年 雖爾月漢日三ヶ国之間
未有之大本尊 或知不弘之或不知之 我慈父以仏智隠留之為末代残之 後五百歳之時
上行菩薩出現於世始弘宣之」という讃文があるという。ここに明かに「大本尊」と明
記してあるのであるから、曼荼羅は本尊ではないという立言は決して許されないので
ある。
(浅井円道「本尊論の展開」、影山堯雄編『中世法華仏教の展開』、平楽寺書店、
1974年、p. 252)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/r4
*** 転載おわり ***
しかし、わたしは、この浅井師の見解には異論があります。
何故ならば、現存御筆漫荼羅のなかで「本尊」と明記された本尊は、この第16「本尊」1舗に限るからです。ですから、この御筆を「本尊」と記されたからといって、、他に「大漫荼羅」を記された御筆までも、本尊とするのは拡大解釈に過ぎず、何ら証拠にはなりません。
むしろ、この第16のみが「本尊」であるという立論すら可能であると思えます。
以上、漫荼羅・本尊の問題は実に悩ましい問題なのであって、それを何ら名証を得ず、即断して、思い込むことは、わたしは蓮師の遺志に悖ると思う故に、この問題を繰り返し、取り上げてきたわけです。
あと、一点、記せば、先にわたしは「受持即功徳」ということを記し、自然譲与の問題に触れました。実はこの点は本尊抄では
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」
「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては、仏、猶お文殊・薬王等にも之を付属したまはず。何に況んや其の已下をや。但地涌千界を召して八品を説いて之を付属したもう」
という付属を軸にすれば、まるで正反対のことを蓮師は書いているわけです。しかし、違いがあります。前者は「妙法蓮華経」であるのに対して「本門の肝心南無妙法蓮華経の五字」です。
つまり、妙法蓮華経は自然譲与であるけれど、南無妙法蓮華経の五字は付属であるということを蓮師は言っています。この点はいまの話題から離れますので、ここでは言及しませんが、一つ言えることは、妙法蓮華経が付属の正体ではなく、南無妙法蓮華経五字が付属の正体であるというのが蓮師の主張であると思えます。
150
:
問答迷人
:2005/05/05(木) 13:39:35
犀角独歩さん
>漫荼羅が本尊であるというのであれば、その名証を。久遠釈尊が妙法蓮華経であるというのであれば、その名証を、蓮師が漫荼羅を拝んだというのであれば、その名証を、
賛成です。僕は、曼陀羅が本尊なのではなかろうか、と思うだけで、そうだと決め付けて議論しようとしているのでは有りません。あくまでも蓮師の祖意がどうであったのか、それが知りたいだけです。
万年救護本尊については、愚鈍凡夫さんのご意見も参考にさせていただき、慎重に考えたいと思っています。顕正居士さんから、提示していただいた『妙宗本尊弁』を熟読した上で、再度、ご質問させていただきたいと思います。宜しくお願いいたします。
顕正居士さん
妙宗本尊弁のご提示、有難うございます。読ませていただきます。
151
:
犀角独歩
:2005/05/05(木) 14:17:41
問答さん、よろしくお願い申し上げます。
永年、考え、あちらこちらで議論を投げかけてきたある程度の素描をここでできればと思います。
わたしもともかく、顕正居士さんがご提示下さった『妙宗本尊弁』を読んでみようと思います。
愚鈍凡夫さん、146、特に反論はありません。でもまあ、拝む対象と言うより「身に帯し心に存する」という扱いでなかったのかと思うんですね。だいたい、当初から掛け軸にしていたのでしょうか。それとも折り畳んで、袋に入れていたかどうなんでしょうか。
この前のオフ会の折、三学無縁さんと話したのです。
(以下、資料手放し証拠無しです)
掛け軸式の漫荼羅は、当然、奉懸はしただろう、けれど、用が終わればしまっただろう。これはつまり、御膳と蒲団と同じではないかと言ったんです。
身延の草庵にしても狭いところだった。弟子達は天台宗寺院に寄宿していた。そんなところで、特定の仏間と言えるような部屋は持てなかったのではないか。部屋に蒲団を敷けば寝室、御膳を出せば食堂、漫荼羅を懸ければ仏間。朝起きて蒲団を挙げて、御膳を出せば食堂で、片付けて、そこに漫荼羅を懸ければれっきとした道場、仏間となります。こんな用途が掛け軸式の漫荼羅の扱い方ではなかったのか…。
ついで、もう一話。漫荼羅は本尊と言うより、允可証、つまり弟子であることを証する免許のようなものではなかったのか。また、その允可証は祈祷の具でもあったので、不動・愛染と言った密教の要素を含む。また、身に帯すれば護本尊の意を兼ねる、そんなものではなかったのかとも。
三学無縁さんの見解としては、自分の名前を書いてあるものを本尊といって拝むことは有り得ない、本尊であるなら「南無」が冠されているのは変、南無は仰ぐ側の気持ちであるから、ということでした。
いわゆる、妙法曼陀羅供養の起源を探れば、漫荼羅の本尊化の成立時期がある程度、予測できるのではないかという思いがあります。
152
:
愚鈍凡夫
:2005/05/05(木) 15:30:49
犀角独歩さん、どうもです。
掛け軸ですか。まぁ経済的に余裕のある人は表装していたのでしょうが、1紙〜28紙までのバリエーションが何を意味するか、未だに謎なので何とも言えないのですが、比較的面積の大きな物は授与者の希望によったのではないかと推察しています。
この場合、授与者は信仰対象として捉えていたのではないでしょうか。
まぁ・・・・・、裏付は取れませんけどね。 (;^_^A アセアセ…
153
:
犀角独歩
:2005/05/05(木) 16:05:58
152 愚鈍凡夫さん、引き続き、資料手放しですが。
漫荼羅の大きさって、普通で考えれば、やはり懸ける場所に比例すると思えますね。
漫荼羅というのは、結局、「壇」ということですが、儀式法要を行う場所に懸ける用途があったことは予想されますね。
あとは懐中用。折り畳んだ跡が残っている漫荼羅があるわけですから、懐中(御護)は用途としてあったんでしょうね。これはしかし、大きい必要はないでしょうね。
かつて顕正居士さんがご指摘下さった宝珠曼荼羅(中央宝珠/脇士・不動愛染)に蓮師は着想を得ていると思います。虚空蔵菩薩とも関係が見いだせますね。これは法華経世界から離れるわけですが、真言との折衷はもはや疑いの余地はないと思えます。となれば、これは祈祷、壇、呪符ということになるんでしょうか。
だいたい、法華経からは、漫荼羅はおろか、本尊すら、教義として見いだせないわけですね。さらに天照八幡という神道の側面。法華、真言、神道、この三つの要素が織り混ざって漫荼羅は図案化されているわけですね。十界漫荼羅、妙法曼荼羅といえば、実に舌っ足らずな呼称と言うことになるのでしょう。
故に本尊抄の該当文は寿量本仏を説明になっても、漫荼羅図案の説明としては3分の1しか述べていないことになります。
154
:
犀角独歩
:2005/05/05(木) 16:23:50
―153からつづく―
宝珠という側面から少し書き足せば、蓮師は虚空蔵求聞持法で生身の虚空蔵菩薩を感見し、智慧の宝珠を受け取った、「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん。明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候」ということですが、この宝珠を、わたしは単なる智慧と考えていたのです。ところが三学無縁さんは、「この珠こそ、本尊抄に言う珠だ」と言ってのけた。すなわち「仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたもう」という珠です。
ここからはわたしの類推ですが、すなわち、この珠が表す智慧と一念三千であり、それを妙法蓮華経の五字で裏んだ。仏は大慈悲を起こして智慧の宝珠として、虚空蔵菩薩に託して日蓮に与えた。この珠を守護するのは、その後、感見する不動・愛染でした。すなわち、頚に懸けてもらった「末代幼稚」とは蓮師その人を指すのではないのか。その一連の脈絡を自身の信仰系譜の継承として漫荼羅に書き表し、弟子と允可した者に与えたのが蓮師の漫荼羅であったのではないのか。ここには弘通すべき付属の法がなんであるのか、しっかりと大書されています。すなわち「南無妙法蓮華経」です。
以上はわたしが想像する漫荼羅図示に至る道程ですが、さて、どうでしょうか。
155
:
犀角独歩
:2005/05/05(木) 21:44:11
問答さん、ちょっと、お考えをお聞かせください。
漫荼羅が本尊だとします。この場合、どこまでが本尊となるのでしょうか。
鬼子母神、竜王なども含めて図されているすべてでしょうか。讃文、日付、授与者はどうでしょうか。それとも南無妙法蓮華経でしょうか。妙法蓮華経でしょうか。釈迦・多宝はどうでしょうか。四菩薩はどうでしょうか。また、この諸尊は経典に登場する仏菩薩でしょうか。それとも、釈迦己心の九界ということでしょうか。
通常、漫荼羅を本尊とする場合、この本尊とはどこまでを指すのでしょうか。
例を『是日尼御書』とします。ここで「又御本尊一ふくかきてまいらせ候」とあります。もしこの「本尊」が四大天王、不動・愛染、十界諸尊の一切を書かれていたとすると、その全部が本尊となりますか。それともあくまで五字に限るのでしょうか。
というか、漫荼羅本尊信仰をされてきた段階で、問答さんは、以上の点、どのように納得されて考えてお出ででしたか。
156
:
愚鈍凡夫
:2005/05/06(金) 04:55:25
皆さんおはようございます。
犀角独歩さん、どうもです。
> 仏は大慈悲を起こして智慧の宝珠として、虚空蔵菩薩に託して日蓮に与えた。
この場合の仏とは大日如来ですか。
虚空蔵菩薩にしたら、「うちの大将を裏切って、釈迦に寝返りやがって。この恩知らず」ってとこでしょうか。 (^▽^;)
157
:
問答迷人
:2005/05/06(金) 06:33:08
>漫荼羅が本尊だとします。この場合、どこまでが本尊となるのでしょうか。
本尊は「本門教主釈尊」。これは動かない。その大前提に立って、「漫荼羅が本尊だとします」と、漫荼羅が「本門教主釈尊」を表している、という意味になりますね。
蓮師は字像曼陀羅を「大曼陀羅」と呼びますから、字像曼陀羅は「諸尊の形像を文字で描いた」ということなのだと思います。
以上を総合して、中央の「南無妙法蓮華経」が「本門教主釈尊」を文字で表したものではないかと考えてきました。さらに、字像曼陀羅は、南無妙法蓮華経を中心として、諸尊、十界の衆生が描かれていますから、その全体が「本門教主釈尊の仏像」という意味を持っていると考えます。その意味からは曼陀羅全体が「本尊」とも言えると思います。これが「御本尊一ふくかきてまいらせ」の意味だと思います。そして、その曼陀羅が「本尊」たる所以を限定的に捉えれば、「南無妙法蓮華経」が「本尊」なのだと思います。
158
:
問答迷人
:2005/05/06(金) 06:40:35
>また、この諸尊は経典に登場する仏菩薩でしょうか。それとも、釈迦己心の九界ということでしょうか。
この区別は良く分かりません。そのようにたて分けて考えたことがありません。
>通常、漫荼羅を本尊とする場合、この本尊とはどこまでを指すのでしょうか。
漫荼羅全体を指すと思います。
159
:
犀角独歩
:2005/05/06(金) 08:49:53
> 156
さすが、愚鈍凡夫さん、好いところに目を付けてくださいました。
大日如来は、実は日蓮漫荼羅を読む解く一つの鍵ですね。ところが「真言亡国だから、大日如来はダメ」という固定観念が富士方にはあります。これはしかし、本当でしょうか。
『法華取要抄』に「華厳経の十方臺上の・盧遮那、大日経・金剛頂経の両界の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左右の左右の脇士也」と記します。つまり、法華経ではその名前が出てきていないが宝塔涌出、多宝如来がお出ましになると、その脇士は大日如来なんだというわけです。
また、『報恩抄』には「月氏には教主釈尊、宝塔品にして、一切の仏をあつめさせ給ひて大地の上に居せしめ、大日如来計り宝塔の中の南の下座にす(居)へ奉りて、教主釈尊は北の上座につかせ給ふ。此の大日如来は大日経の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の主君なり。両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給ふ。此れ即ち法華経の行者なり」とも言うわけですね。
日蓮花押は大日如来の種子を図案化したものであるというのは、山川師の説でしたね。
ここで漫荼羅を奉懸の作法を考えます。南面に懸けますね。つまり、北が奥で手前が南です。奥(北)に釈迦・多宝=教主釈尊は北の上座…多宝仏の上座に教主釈尊居、そして、手前(南)=大日如来…宝塔の中の南の下座に居、です。その南の下座を漫荼羅で見ると「日蓮花押」の位置と合致します。そこで山川説の花押=大日如来。さらに言えば、『不動愛染感見記』の「大日如来より日蓮に至る二十三代嫡々相承」という文を併せ考えると、どうなるか。どうなるでしょうか。
160
:
犀角独歩
:2005/05/06(金) 09:10:10
問答さん、もう少しお付き合いください。
> 釈迦己心の九界
これは『本尊抄』の「…我等が己心の声聞界…我等が己心の釈尊…我等が己心の菩薩等也。地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属」といいます。
最後、地涌千界の菩薩は我等(日蓮)の己心の釈尊の、その釈尊のさらに己心の菩薩であると言います。いわば、人界所具の仏界の、その仏界所具の菩薩であるというのが、蓮師の示すところですから、以上のように記しました。
しかし、もし、これが仏界所具の九界でなければ、漫荼羅を拝む人は、妙法蓮華経のみならず、他の諸尊も拝むことになります。実際のところ、他派一般の日蓮門下にはそんな感覚があるようで、だからこそ、所謂、別勧請があるのだと思います。
問答さんは、この「たて分け」はないと仰いましたが、そうなると「南無妙法蓮華経」以外の所尊も拝んでいる心地でしょうか。
162
:
問答迷人
:2005/05/06(金) 09:38:12
>これが仏界所具の九界でなければ、漫荼羅を拝む人は、妙法蓮華経のみならず、他の諸尊も拝むことになります
あっ、そうですね。それは違います。157に於いて『諸尊、十界の衆生が描かれていますから、その全体が「本門教主釈尊の仏像」』と記した通りです。本尊抄の文に沿えば、『釈迦己心の九界』ということになります。
163
:
犀角独歩
:2005/05/06(金) 09:45:12
> 161
やはり、この心地でいらっしゃいますよね。
もう1点。少し視点を変えます。
寛師説では蓮師漫荼羅本尊(取り分け彫刻本尊なのですが、これは取り敢えず置いて)は「三大秘法惣在」であると、こうなります。
問答さんが仰ってこられたことは、要は漫荼羅(五字題目)=釈尊ということなのですが、こうなると、漫荼羅本尊を拝むことは、久遠釈尊(石山でいえば、本地・自受用/垂迹・上行/再誕・日蓮)を拝むことに異ならないのでしょうか。
164
:
問答迷人
:2005/05/06(金) 09:59:14
>久遠釈尊を拝むことに異ならないのでしょうか。
そうなりますね。そう考えています。
165
:
犀角独歩
:2005/05/06(金) 10:14:43
> 164
漫荼羅は三大秘法惣在で、題目のみならず、本尊(釈尊=日蓮)の意義がある。
では、逆はどうでしょうか。「漫荼羅の図の如く」の仏像は、では、三大秘法惣在足り得るとお考えになりますか。
167
:
問答迷人
:2005/05/06(金) 10:44:56
>「漫荼羅の図の如く」の仏像
文字通り、それは大曼荼羅そのものなのだと思います。木像、金像等を問わず、その仏像群が大曼荼羅を構成する訳ですから、同じく三大秘法惣在足り得ると思います。
168
:
犀角独歩
:2005/05/06(金) 11:03:52
> 167
この仏像による漫荼羅図を実現した場合、その中央には宝塔、その中には妙法蓮華経の五字、そして、並座の二仏が入り、(下座に『報恩抄』の如くであれば大日如来もあり)四菩薩が脇士として置かれることになります。(現行の荘厳では二仏は塔の外となっています。これは間違いであるというのが、わたしの一つの主張ですが、これは置きます)
このような奉安ではしかし、付属の法であれば「南無妙法蓮華経の五字」でなけれならないはずですが、宝塔の中は妙法蓮華経の五字となります。ここに南無妙法蓮華経(漫荼羅)、妙法蓮華経(仏像)の差異が生じますが、これを同じものであるとする整合性は、どのように取れるとお考えになりますか。
もう一点。この仏像奉安では、中央は妙法蓮華経ですが、問答さんは、この妙法蓮華経を拝むことと、漫荼羅の南無妙法蓮華経を拝むことは同じ異義に当たるとお考えになりますか。また、あまた並ぶ仏像を妙法蓮華経に具わる十界と拝しながらも、やはり、拝むのは中央題目ばかりとなりますか。この点は、どのようにお考えになりますか。
169
:
犀角独歩
:2005/05/06(金) 11:05:13
【168の訂正】
誤)同じ異義に当たる
正)同じ意義に当たる
170
:
問答迷人
:2005/05/06(金) 12:04:50
>南無妙法蓮華経(漫荼羅)、妙法蓮華経(仏像)の差異が生じますが、これを同じものであるとする整合性
観心本尊抄に説かれるのは妙法蓮華経五字ですが、曼荼羅としての仏像群の場合は、字像曼荼羅の如く南無を冠して、南無妙法蓮華経となると思います。
>あまた並ぶ仏像を妙法蓮華経に具わる十界と拝しながらも、やはり、拝むのは中央題目ばかりとなりますか。
そう思います。例えば、釈迦三尊を拝する場合、やはり、脇士の二尊には目が行かず、中尊の釈尊を拝んでいると思います。仏像群の場合も同様で有ろうかと思います。
171
:
犀角独歩
:2005/05/06(金) 12:19:50
> 観心本尊抄に説かれるのは妙法蓮華経五字ですが、曼荼羅としての仏像群の場合は、字像曼荼羅の如く南無を冠して、南無妙法蓮華経となる
しかし、こうなると本尊抄の文と相違してしまいませんか。
172
:
犀角独歩
:2005/05/06(金) 12:21:46
これから、でかけますので、戻りましたら、また続けさせていただきますが、もう一点。
漫荼羅の図の如く、仏像に置き換えることを蓮師は、考えていらっしゃったと思われますか。
173
:
問答迷人
:2005/05/06(金) 12:27:16
170の補足です。
曼荼羅は、字像曼荼羅であろうと、仏像群曼荼羅であろうと、いずれも、本門の題目「南無妙法蓮華経」の意義と、本門の本尊「本門教主釈尊」の意義と、本門の戒壇「曼荼羅(壇)」の意義と、この三つの意義を合わせ持つと思っています。
174
:
問答迷人
:2005/05/06(金) 12:32:58
そうですね。しかし、蓮師の字像曼荼羅は、中央南無妙法蓮華経であり、諸尊も南無が冠されており、この点、本尊抄と相違しています。観心本尊と、その表現形式としての曼荼羅では、蓮師のお考えでは、表現において相違があるのだと思います。
175
:
問答迷人
:2005/05/06(金) 12:41:57
>172
国教化された暁には、壮大な伽藍形式の寺院が必須であろうと思います。その時に、安置すべき本尊が字像曼荼羅に限る、というお考えは無かったと思います。もし、字像曼荼羅に限るのであれば、それこそ、その為に、蓮師自らが、巨大な板曼荼羅を作って、未来に備えられたことでしょう。
また、本門の本尊の表現形式が字像曼荼羅に限るのであれば、何処かに、それらしき表現が見られてしかるべきだと思います。そのような遺文が見当たらない以上、字像曼荼羅に限る、というお考えは無かったと思います。また、大曼荼羅とは仰っても、種子曼荼羅とは仰って無いので、仏像曼荼羅は視野に入れておられたと思います。
176
:
藤川一郎
:2005/05/06(金) 12:59:58
>>175
私は仏像曼陀羅派では無いのですが、もし仏像曼陀羅(立体曼陀羅とでも呼びましょうか?)
だったとして、
問題は仏像等の配置方法ですね。
十羅刹女、八大竜王などは文字で書くと簡単ですが「十体の羅刹女」「八体の竜王」等をバランス良く置けるのかどうかですね?
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