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本尊と曼荼羅

121犀角独歩:2005/05/04(水) 09:41:11

117 問答名人さん

> オフ会、お疲れ様

有り難うございます。

> 問題点…鮮明…整理、有難うございます。

こちらこそ、有り難うございます。

> 「本門の本尊」…「観心の本尊」…観心本尊抄において蓮師が説いた法門

ええ、そのような絞り込みとなろうかと存じます。

> 観心本尊抄の本尊の有り様とほぼ一致…『一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたもう。』と有りますから、これらの観心本尊抄の記述にほぼ添った形の「字像曼陀羅」…観心本尊と捉えても、間違いではなかろう

いえ、わたしは、そうではないと思うのです。
本尊抄は当初から止観から一念三千を探り、六道から二乗、さらに己心の菩薩、仏まで思索されて行くわけです。つまり、蓮師が本尊抄でいう本尊とは文字どおり心で観た本尊でした。その仏本尊が地涌菩薩に付属した法ということに論が進むのが本尊抄一巻の趣旨ではないでしょうか。
観心本尊とは「字像曼陀羅」ではなく、文字どおり心で観た本尊、久遠実成釈尊ではないでしょうか。これは漫荼羅とは違います。

> 曼陀羅の中央に大書きされた南無妙法蓮華経の文字、これは何を意味するのでしょうか。

釈尊が上行菩薩等に付属した一念三千という珠を裏んだ法ではないでしょうか。

> 初期の曼陀羅…本尊抄の記述にほぼ等しい形の表現

これは118にも記しましたが、不動愛染という重要な勧請について、本尊抄には何ら記述がありません。つまり、「ほぼ等しい形」とは言えません。一致するのは、むしろ、法華経宝塔品です。

> 曼陀羅の形として「観心本尊」…蓮師の字像曼陀羅で有る事は、否定できない

いえ、そうではないと思います。
観心本尊は久遠実成の釈尊であり、その仏像を出現させるべきであるというのが一つの本尊抄の主張になっています。そして、それとは別に一念三千の珠を裏む妙法蓮華経の五字は上行が付属された法の正体であるので、それを特筆したのが漫荼羅というもう一つの側面があるのではないでしょうか。本尊から見れば本尊釈尊・脇士四菩薩となり、付属の法を書き表せば漫荼羅となるという関係で、意義が違っています。


> 曼陀羅の表現形式としては、中央に大きく描かれた南無妙法蓮華経を中尊と考えるほか無く、小さく、細い字で表現された釈迦多宝が本尊である、というのは、いかにも違和感を禁じ得ません。字像曼陀羅の中尊はやはり、「南無妙法蓮華経」であると捉えるしかなく、字像曼陀羅が観心本尊を表したものであれば、観心本尊も「南無妙法蓮華経」であると考えるしかないと思います。

この点は、漫荼羅が本尊であるという前提から考えられるので「違和感」となるのではないでしょうか。本尊釈尊から付属された法を大書したものが漫荼羅であると考えれば、二仏並座して証明を加え、四菩薩が、その並座の一方の主・釈尊の脇士として座を構えるという図示は何の不思議もありません。

> 字像曼陀羅を観心本尊の表現形式と考えると、そのおかしなことを蓮師は平気で行っておられるとしか思えません。果たして、字像曼陀羅は観心本尊の表現形式ではないのでしょうか。この点、如何お考えでしょうか。
上述したとおりですが、字像漫荼羅を本尊と考えるために蓮師は「おかしなことを言っている」ように思えるわけで、己心仏界=久遠実成釈尊=仏像出現として一つ、上行結要付属の一念三千の珠を裏む妙法蓮華経を図示したのが漫荼羅であるとして一つと整理すれば、まったくおかしなことを言っていることにはなりません

付属した仏=己心仏界=久遠実成釈尊=出現させるべき仏像
付属された法=妙法蓮華経裏一念三千珠=図示された漫荼羅
付属された菩薩=弘通の資格者・上行等四菩薩

は実に明快に本尊抄中に整理されて記述されています。
これを本尊=漫荼羅という固定観念から見ると、本尊=釈尊=妙法蓮華経と一つのものに見ようとするために、蓮師が「おかしなことを言っている」と映ずることになるのではないでしょうか。しかし、ここを上述のとおり付属した仏・法・菩薩と整理してみれば、実に整然と理論化されていることがわかります。本尊を仏像と表現するところと付属の法を漫荼羅と図示することは、本尊抄一巻を読めば、別のこととして書き表されているのではないでしょうか。


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