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本尊と曼荼羅

117問答迷人:2005/05/04(水) 06:50:06

>本尊釈尊が、附属したのが妙法蓮華経であり、本尊と題目は別

オフ会、お疲れ様でした。有意義な内容であったようですね、独歩さんはじめ、ご参加の皆様のご努力に敬意を表します。

問題点が、かなり鮮明になったと思います。整理、有難うございます。

今、問題にしている「本門の本尊」は、蓮師の説くところの本尊ですから、ゆはり、「観心の本尊」であると思います。すなわち、観心本尊抄において蓮師が説いた法門であると考えてよいと思います。そうしますと、その本尊の有り様は、蓮師の業績の上で考えれば、蓮師の字像曼陀羅に示された内容が、観心本尊抄の本尊の有り様とほぼ一致すると思われます。しかも、その結論部分には、『一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたもう。』と有りますから、これらの観心本尊抄の記述にほぼ添った形の「字像曼陀羅」をもって、観心本尊と捉えても、間違いではなかろうと思うのです。勿論、観心本尊抄に「曼陀羅」語が一言も書かれていない以上、蓮師のお考えになる「観心本尊」の範疇に字像曼陀羅が含まれる、という意味で、仏像本尊を排除する意味ではありません。

そして、字像曼陀羅が観心本尊を表したものであれば、その表現形式をつぶさに検討する必要があると考えます。

曼陀羅の中央に大書きされた南無妙法蓮華経の文字、これは何を意味するのでしょうか。また、初期の曼陀羅に見られる釈迦多宝の二仏を脇士とし、南無妙法蓮華経を中尊とした表現、さらに、観心本尊抄の執筆以降の曼陀羅は、本尊抄の記述にほぼ等しい形の表現となっていること、これらは、『観心本尊』が曼陀羅で有るかどうかは別として、少なくとも、曼陀羅の形として「観心本尊」を表したものが、蓮師の字像曼陀羅で有る事は、否定できないであろうと思います。

曼陀羅の表現形式としては、中央に大きく描かれた南無妙法蓮華経を中尊と考えるほか無く、小さく、細い字で表現された釈迦多宝が本尊である、というのは、いかにも違和感を禁じ得ません。字像曼陀羅の中尊はやはり、「南無妙法蓮華経」であると捉えるしかなく、字像曼陀羅が観心本尊を表したものであれば、観心本尊も「南無妙法蓮華経」であると考えるしかないと思います。

『久遠本仏=妙法蓮華経なら、久遠本仏は自分自身を付属してしまったことになる、それはありえない、』との独歩さんの論難については、確かにおかしなことになってしまいそうなのですが、字像曼陀羅を観心本尊の表現形式と考えると、そのおかしなことを蓮師は平気で行っておられるとしか思えません。果たして、字像曼陀羅は観心本尊の表現形式ではないのでしょうか。この点、如何お考えでしょうか。


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