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本尊と曼荼羅
141
:
犀角独歩
:2005/05/04(水) 16:44:47
―140からつづく―
何故、このような混乱が生じるのか。富士方は常に動かぬ大前提を思考から除去するところから始めるからだという反省が常にわたしにはあります。何かと言えば、蓮師は釈迦一体像を随身し、それを本尊としていたという事実です。この動かぬ基礎の派生から、唱題があり、漫荼羅図示もあります。南無妙法蓮華経は、この本仏釈尊(像)に向かう、誓いの言葉とも言えるわけで、釈迦仏像に向かい南無妙法蓮華経と唱えれば、「お釈迦様、わたしはお釈迦様の最高の教えである法華経に帰命します」という意味となります。ところがこの釈尊(仏像)に向かうという当然の大前提が取り払われて、漫荼羅に南無妙法蓮華経と唱えるだけでは、問答さんの問いのように、何で「南無釈迦牟尼仏」ではないのかという問いも起きるでしょう。けれど、「南無妙法蓮華経」が本仏釈尊へ向かってのの誓いの言葉であれば、なにも「南無釈迦牟尼仏」を言うまでもないことであると、わたしには思えます。
なお、わたしは妙法蓮華経は、上行付属の正体ではないというのが結論です。その理由は至って簡単です。すなわち、涌出品に
「他方の国土の諸の来れる菩薩摩訶薩の八恒河沙の数に過ぎたる、大衆の中に於て起立し合掌し礼を作して、仏に白して言さく、 世尊、若し我等仏の滅後に於て此の娑婆世界に在って、勤加精進して是の経典を護持し読誦し書写し供養せんことを聴したまわば、当に此の土に於て広く之を説きたてまつるべし。
爾の時に仏、諸の菩薩摩訶薩衆に告げたまわく、 止みね、善男子、汝等が此の経を護持せんことを須いじ。所以は何ん、我が娑婆世界に自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩あり。一一の菩薩に各六万恒河沙の眷属あり。是の諸人等能く我が滅後に於て、護持し読誦し広く此の経を説かん」
というからです。また、神力品には
「汝等如来の滅後に於て、応当に一心に受持・読誦し解説・書写し説の如く修行すべし…如来の滅後に於て 仏の所説の経の因縁及び次第を知って 義に随って実の如く説かん」
というのであって、法を付属したのではなく、その修行と弘教を託したからでした。
妙法蓮華経が付属の正体であるのであれば、以下の文はどうなるでしょうか。
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」
すなわち、五字受持・功徳の自然譲与が蓮師の主張です。
となれば、ここに五字付属など介在の余地はありません。妙法蓮華経の名を知り、受持すれば自然と功徳が譲り与えられるわけですから。
つまり、五字は付属の正体というより、上行の所伝であり、そのように伝えられるところ、すなわち、弘教された妙法蓮華経を受持すれば自然と本因(菩薩道)・本果(成仏)という功徳を譲り与えられるというのが蓮師の主張であるわけです。つまり、南無妙法蓮華経の南無とは「受持」の異名と言えることになるのでしょう。受持即観心ならぬ、受持即功徳が蓮師の主張であったわけです。ここにも南無妙法蓮華経の意義があると思えます。
縷々記しましたが、いずれにしても、今回の議論で、わたしが求めたのは、漫荼羅が本尊であるというのであれば、その名証を。久遠釈尊が妙法蓮華経であるというのであれば、その名証を、蓮師が漫荼羅を拝んだというのであれば、その名証を、という議論に立ち戻りたいのですが、如何でしょうか。
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