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本尊と曼荼羅
149
:
犀角独歩[TRACKBACK]
:2005/05/05(木) 10:00:56
―148からつづく―
なお、漫荼羅が本尊かという点について、このスレッドの当初で、かつてLibraさんが以下のような紹介をしました。
*** 以下転載 ***
4 名前: Libra 投稿日: 2002/04/05(金) 11:24
「本尊論に関連して、以下を、参考資料として引用させて頂きます。
──────────────────────────────────────
大崎学報一○二号に山中喜八氏が報告するところによれば、聖人自から図顕した大曼
荼羅として百二十余幅が今日に伝えられ、殊に保田妙本寺所蔵の文永十一年十二月図
顕の大曼荼羅には「大覚世尊御入滅後経歴二千二百二十余年 雖爾月漢日三ヶ国之間
未有之大本尊 或知不弘之或不知之 我慈父以仏智隠留之為末代残之 後五百歳之時
上行菩薩出現於世始弘宣之」という讃文があるという。ここに明かに「大本尊」と明
記してあるのであるから、曼荼羅は本尊ではないという立言は決して許されないので
ある。
(浅井円道「本尊論の展開」、影山堯雄編『中世法華仏教の展開』、平楽寺書店、
1974年、p. 252)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/r4
*** 転載おわり ***
しかし、わたしは、この浅井師の見解には異論があります。
何故ならば、現存御筆漫荼羅のなかで「本尊」と明記された本尊は、この第16「本尊」1舗に限るからです。ですから、この御筆を「本尊」と記されたからといって、、他に「大漫荼羅」を記された御筆までも、本尊とするのは拡大解釈に過ぎず、何ら証拠にはなりません。
むしろ、この第16のみが「本尊」であるという立論すら可能であると思えます。
以上、漫荼羅・本尊の問題は実に悩ましい問題なのであって、それを何ら名証を得ず、即断して、思い込むことは、わたしは蓮師の遺志に悖ると思う故に、この問題を繰り返し、取り上げてきたわけです。
あと、一点、記せば、先にわたしは「受持即功徳」ということを記し、自然譲与の問題に触れました。実はこの点は本尊抄では
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」
「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては、仏、猶お文殊・薬王等にも之を付属したまはず。何に況んや其の已下をや。但地涌千界を召して八品を説いて之を付属したもう」
という付属を軸にすれば、まるで正反対のことを蓮師は書いているわけです。しかし、違いがあります。前者は「妙法蓮華経」であるのに対して「本門の肝心南無妙法蓮華経の五字」です。
つまり、妙法蓮華経は自然譲与であるけれど、南無妙法蓮華経の五字は付属であるということを蓮師は言っています。この点はいまの話題から離れますので、ここでは言及しませんが、一つ言えることは、妙法蓮華経が付属の正体ではなく、南無妙法蓮華経五字が付属の正体であるというのが蓮師の主張であると思えます。
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