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本尊と曼荼羅

118犀角独歩:2005/05/04(水) 06:58:08

116 通りすがりの凡夫さん、はじめまして。

> 本尊抄を素直に拝せば、本尊の相が曼陀羅と一致

それは部分的な話でしょう。
不動愛染に関する記述はありませんし、天照八幡についても記述がありません。素直に読めば、宝塔品虚空説法の様を描写している範囲にとどまっています。本尊抄の述作は文永10年なのであって、当時の漫荼羅には天照八幡はまだ勧請されていないようですが、その後の変遷におけるこの固定とも一致しません。

> 法華経は、釈尊の悟った智慧、因果の功徳を附属した経典であると考えています

「因果の功徳を附属」するとは、どういう意味でしょうか。
結要付属されるのは、法ではなく、功徳ですか。

> …智慧なるが故に、三世常住の仏である

法華経の説相は寿量品における五百塵点成道を言うものです。また、蓮師の考えは「三世常住の仏」を論じるのではなく、「三世常住の仏性」を言うものでしょう。この点から「三身所顕無始古仏」を結論しますが、これは「三世常住の仏」とは違い、三妙合論から結論するところではないでしょうか。

> 三世十方の諸仏の釈尊の因果の功徳…方便品

方便品のどの文でしょうか。

> ゆえに、「自分自身を附属」という論は無理

これはわたしが書いたことを誤解していませんか。
わたしは、釈尊=妙法蓮華経(人法体一)としてしまえば、結要付属において、釈尊自身まで付属してしまうことになる。故に本尊、付属の法は別に考えなければならないと記したのです。ですから、法=仏といった具合の考え方では自分自身を付属したことになるので成り立たない。つまり、法=仏という考えは「無理」があると、むしろ、わたしのほうが言っているわけです。

> 本尊と題目を境智の二法…境智不二であろうと思うわけです

ここでいう本尊とは釈尊ですか、題目ですか、どちらでしょうか。

ここで議論していることは、自分がどう思うということではなく、「蓮師はどう考えたのか」です。蓮師の真跡中で本尊と題目を境智の二法に配立する法門があるのでしょうか。

本尊と題目は、三つの法門における二つであって、ここに戒壇義を欠くことは御立法門の有様と一致しません。

また、蓮師の真跡中に境智による法門の仕立ては垣間見られません。ただし、当然のこととして、注法華経に六大部からそれを写すところは見られます。しかし、これを本尊と題目に充てる解釈は見られません。

本尊:題目=境:智=不二であると言うのはいかなる根拠によるのでしょうか。このような考えは蓮師が懐いていたとする証拠はなんでしょうか。


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