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本尊と曼荼羅

148犀角独歩:2005/05/05(木) 10:00:26

―147からつづく―

ここで、では、問題になるのは、蓮師が随身された釈迦一体像は寿量本尊仏像かということですが、これは違うでしょう。伊東配流から随身していた仏像を所持されながら、「未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」と言う以上、随身一体仏像がそれに契当しないことは明らかだからです。

ここで、問題になったのは、本尊抄で「本尊の為体」以下の文言が、漫荼羅図示を示したものかどうかという点です。
ここで記されるところは、たしかに漫荼羅図示と多くは一致します。しかし、それ以前に宝塔品二仏並座から従地涌出品の説相を敷衍していることも、もちろん明らかです。しかし、ここで特筆する点は「塔中妙法蓮華経」という一文であって、蓮師は涌現宝塔の中に「妙法蓮華経あり」という達観を、ここに示すわけです。

法華原典から読むとき、宝塔の中にあるのは多宝如来の舎利、もしくはミイラであり、神秘的経典世界は、その舎利(ミイラ)はしかし生きています。その生きた舎利(ミイラ)が釈尊に話しかけ、並座を勧めるというのが元来の物語です。つまり、多宝塔は多宝如来墓塔なのですが、天台は、顕正居士さんがご説明下さったところを踏まえれば、この宝塔のなかには法身・多宝、報身・釈迦、応身・分身ありとしたということになるのでしょうか。しかし、蓮師はこの宝塔の中に妙法蓮華経があるというわけです。顕正居士さんのご教示を受けてわたしが蓮師もその考えを踏襲していると思ったのは、本尊抄の「釈迦多宝十方の諸仏は我が仏界也」と合致するからでした。

では、この記述が漫荼羅本尊を指すのかということになりますが、しかし、蓮師漫荼羅における決定的な要素を欠いています。その点を指摘したわけです。つまり、不動・愛染がその筆頭に上がるでしょう。この明王が万民であるとか、虚空会を格護する「善神」であるなどという突飛な発想は問題外です。

蓮師漫荼羅を見れば、即座に理解できますが、最低限の要素は「南無妙法蓮華経」「釈迦牟尼仏」「多宝如来」「不動明王」「愛染明王」です。先の三つについては本尊抄の文で当たっても、不動・愛染が当たらないわけです。故に本尊抄の記述を直ちに漫荼羅図示を示したというのは短絡と言うほかありません。何より、法華経に不動・愛染が元来、介入の余地はありません。それを涌出宝塔・地涌菩薩を記述する法華経の説相を書き記したことで漫荼羅図示の説明であるというのは、実に乱暴な話と言うほかありません。この文が漫荼羅図示を表したというのであれば、しかるべき説明が付されたはずです。

また、本尊抄述作当時は、どうであったかはっきりしませんが、天照八幡の勧請がありますが、その点の説明にもなっていません。さらに進めば。その四隅、東西南北に凝し、ここに四大天王が勧請されますが、この点については、もちろん、この時点で戒壇義すら至っていないわけですから、当然、記されていないわけです。

このように見ていけば、該当の記述は、法華経説相の涌出宝塔・地涌菩薩の範疇に留まるというほかないわけです。しかし、この記述は「本尊」、すなわち寿量本仏を示したものであることは動かないと思います。本尊とということにつき、漫荼羅の如く書される図を言うのではなく、その説明対象である釈迦がどんな仏であるかという説明として蓮師は記していると思うわけです。

以上のことも踏まえ、、「其の本尊の為体」を「その本尊のていたらく」と読むのが門下一般とされていますが、わたしはこの点については大いに疑義を懐きます。この「為体」は「体と為(な)り」と読むべきではないのかと考えます。「其の本尊が体と為り」です。つまり、この文の直前に記される「仏」、すなわち寿量本仏を「本尊体」と為して、涌出宝塔・地涌菩薩の出現を見る虚空会の説相があるという意味を記したのではないのかとわたしは考えます。

このように考えていくと、漫荼羅を直ちに蓮師が本尊としたという論拠は、実に薄弱であるという思いを懐かざるを得なくなったというのが、偽らざる心境であるということです。しかし、これは「曼陀羅≠本尊という前提から無理に論を起こしている」などということではなく、むしろ、逆で、漫荼羅本尊論者は、蓮師の遺文を牽強付会して無理に漫荼羅を本尊に仕立て上げていないかという疑問に基づくものです。


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