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本尊と曼荼羅
79
:
犀角独歩
:2005/05/03(火) 08:25:46
問答さん:
> 寿量本仏と教主釈尊
本門と迹門の関係ではないでしょうか。
> 75
考えながら、書いたものですから、断定的な物言いになってしまいました。この点、お詫び申し上げます。もちろん、以上の如く、考えると言うことです。
最近、わたしは釈尊仏像と蓮師の関係に特に注意を払っています。
蓮師の傍らには常に釈迦一体仏があり、それが既成の事実として成り立っている点を富士門は見落としていないのかという疑問です。
たとえば、仏像と漫荼羅、どちらなのかという議論がなされ、富士方では仏像を斥け、漫荼羅が本尊であるといいます。しかし、これは本当なのでしょうか。何故ならば、上述したとおり、終生、蓮師は釈迦一体仏を随身されていたからです。
こう記すと富士方では『宗祖御遷化記録』の「御遺言に云はく仏は(釈迦立像)墓所の傍らに立て置くべし云々」を引用し、蓮師は斯様に言われた、故に漫荼羅が正意であると論を進めます。また、富士方で学んだ人は、恰も自分で考えたように上述の如く語ります。
しかし、これは恣意的な解釈であるとわたしには思えます。
そもそも蓮師は唯物論者ではありませんでした。いまで言う「永遠の生命」を信じた人でした。つまり、自分が死んだから無くなってしまうとは考えいなかったわけです。自分のたましいは身延の墓にあると考えたのでしょう。その自分の死後の居場所に、終生、随身した仏像を置けというのが、この遺言でした。この仏像は、蓮師ご自身の持仏であるからです。他の弟子檀那はそれぞれまた、仏像造立し、それを所持・安置していた、それはそれぞれの仏像です。随身仏は蓮師自身の仏像であるから、死後も自分の許に置けということは、何も仏像を斥けて漫荼羅を本尊としたことを意味しないと言うことです。
蓮師がまた、漫荼羅を弟子檀那に授与した。しかし、それは仏像をやめて、この漫荼羅を拝めということではまるでなかったのではないでしょうか。仏像は仏像、漫荼羅は漫荼羅です。それは恰も仏像は仏像、法華経は法華経と同じです。片方を採り、片方を捨てると言った取捨選択で考えるところではないということです。むしろ、仏像釈尊の随身と日々、読経供養を前提に、法華経があり、漫荼羅もあり、唱題もあるというのが、蓮師の在りし日のお姿であったと思います。
わたしたちは漫荼羅本尊正意という富士の操作に騙されていないか、その影響で無意識に考えていないのかという反省がわたしにはあります。そんな意味での議論でもあります。
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