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素朴な疑問

3140犀角独歩:2007/01/28(日) 15:42:01

しゅんかんさん

行儀が悪いのですが、飯を食うときだけはテレビを観ます。
朝は遅くとも、4時5時には起きますが、夜は11時から3時の時間帯はしっかり寝るようにしています。この時間の睡眠は、体に善いという実感があります。

3141独学徒:2007/01/28(日) 22:21:34

犀角度歩さん、

>正中二年十一月十二日の夜日蓮聖人の御影堂に於いて、日興に給はる所の御筆本尊以下廿‘舗’、御影像一舗並に日興が影像一‘鋪’御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ

これは要法寺中興の日辰の祖師伝の記述だと思いますが、少々次代が下っているものと感じます。
むしろ日順雑集に「御滅後に聖人の御房を御堂に日興上人の御計として造り玉ふ、御影を造らせ玉ふ事も日興上人の御建立なり。」『御影を造らせ』とあることを考えれば、日興が拝したものは日蓮木像であろうと考えます。

この日興の振舞は、日蓮本仏圏にとっては『住持三宝』として十分説明がつくものと思います。
つまり、

仏法=日蓮御影
法宝=大曼荼羅
僧宝=日興

です。
『住持三宝』ですから、「日興」の部分が貫首・住職となって現在まで続くという考えです。
なので、私はてっきり石山の御影堂形式は『住持三宝』を顕していると思い込んでいました。
しかし石山は『一体三宝』というわけです。これはやはり「人法一箇」の思想の影響ではないでしょうか。

北山や要法寺は広布達成時は仏像造立で、釈尊久遠本仏義に立っていますので、こちらはむしろ曼荼羅一体安置をもって『住持三宝』とすべきなのかと考えます。
釈尊久遠本仏義に立つ、要法寺や北山が、日蓮御影と曼荼羅を持って本堂に安置し、『住持三宝』の形をとっている方が矛盾しているように感じます。
郷門や石山あるいは西山は、日蓮本仏義ですので、その思想自体に問題はありますが、一応、教義と三宝奉安形式は一致していると思います。

3142れん:2007/01/29(月) 07:52:49
横レス失礼します。
犀角独歩さんが引用された日代宛て日興置状の重須盗難の資料は、日辰師祖師伝が初出ではなく、もう少し時代が遡ると思います。石山六世日時談「大石記」に日代宛て日興置状の存在に触れてますので、南北朝末期には置状は成立していたとみるべきで、日順血脈には大体同時期の盗難事件の記述がありますから、当時の盗難品に関する記述として参考資料として扱えると思います。
日順雑集から、池上の御影とそれ程変わらない時期に日興が日蓮御影木像を造ったと思われ、また日興置状から、日蓮の絵像もあったということになるのでしょうね。

3143犀角独歩:2007/01/29(月) 09:38:38

そうすると、日興の往時、すで日蓮木像があったということになるわけですか。なるほど。この点、ちょっと、最後に記します。

独学徒さん

> 日興の振舞…日蓮本仏圏…『住持三宝』…仏法=日蓮御影/法宝=大曼荼羅/僧宝=日興

これは石山では下種三宝です。住持三宝ではないでしょう。
「住持」というのは、いまの言葉で言えば、住職ですね。
ですから、執行師が指摘されたように、当住に重があるわけですね。
日蓮の段階では釈迦冥益・日蓮顕益、日興の段階では大聖冥益・日興顕益、歴代「法主」の段階では日興冥益・当住顕益とスライドしていき、さらに隠尊冥益・当住顕益とまで、位置づけられる論理です。要するに「法主」の今日蓮論であり、石山能化が言った「御法主上人猊下は戒壇の大御本尊と不二の尊体」などという表現は、本仏でその彫刻と人法一箇であるはずの日蓮のオハコが石山住職に置き換えられてしまっています。つまり、これでは、日蓮は本仏の脱仏で、下種仏が当住であると暗に言っているようなものです。まさに当住顕益です。

元来、三祖に絞る石山教学は、保田の日要の扱いなどと、この点でやや相違していたとわたしは考えています。ですから、住持三宝という考えが、石山に根付かなかったのでしょう。しかし、日顕さんの段階ではそうではなくなった。以上のような次第ですから、当住三宝と下種三宝は、ややニュアンスに相違があります。

なお、わたしが宝前の三宝と言ったのは、日興在世当時、宝前は漫荼羅本尊(法宝)と日蓮像(五老方義:僧宝/石山義:仏宝)で、三つが揃わないという意味です。
石山の現行の客殿式は、先に独学徒さんが挙げた次第ですから、下種三宝を並べた形です。この点、教義の是非は別として、理路が会っているというのは、ご指摘のとおりであろうと思います。

しかし、日興は漫荼羅本尊と日蓮像を置いただけであれば、二宝にしかならないという指摘をしたわけです。日興は宝前のなかに漫荼羅本尊、日蓮像に並んで座っているわけではなかったでしょうから。

さて、では、仏像を置いたかどうか、置けば、揃うが、置かなかったというのが大方の富士義ですね。

石山のような客殿奉安は、他では、あまり、見られません。となると、仏壇に、そもそも三宝を具えさせようなどという考えは、従来の教団にも、当初の日蓮・日興の段階でもなかったのではないかという指摘をしたのが先で言ったことです。

3144犀角独歩:2007/01/29(月) 09:39:06

―3143からつづく―

れんさん

> 日興が日蓮御影木像を造った…日蓮の絵像もあった

この二つはどんなふうに扱われたのでしょうね。
ありのままに日興の言かどうかわかりませんが

「日興が云はく、先づ影像を図する所詮は後代に知らせしめんが為なり、是に付け非に付け有りのまゝに移すべきなり。之に依って日興門徒の在家出家の輩、聖人を見奉る仁等一同に評議して其の年月図し奉る所なり、全体に異ならずと雖も大概麁相に之を図せり、仍って裏に書き付けを成す云云。但し彼の面々に図する像一つも相似せざるの中に、去ぬる正和二年日順図絵の本あり、相似の分なけれども自余の像よりもすこし面影有り。而る間後輩に彼此の是非を弁ぜんが為に裏に不似の書き付け之を置く」

・善いところも悪いところもそのまま描け
・評議して年月を書け

これは尊像というより、もはや記録ですね。

たくさん書かれたり・造られたりしたけれど、どれも似ていない、そんななかで正和2年に日順が描いたものは、少しは面影がある。でも、のちに誤解があるといけないから、裏に「似ていない」と書き付けたというわけですね。

この文章が信頼できるものであるとすれば、本当に日興は御影像を造っていたんだろうかという疑問が彷彿とします。だいたい、ここまで厳しいことを日興が言っていたとして、(これは言っていたでしょうが)では、日興が造らせた日蓮木像があったとして、どんなに似ていたのか?、似ていたのであれば、その像を写生すればいいではないかという疑問が生じるわけです。

自分の造った木像だけは僧宝の意義を有する尊像だけど、あとはみなスケッチ、日付をちゃんと入れとけ、似てないと書いた?

本当にそんな遣り取りだったんでしょうか。

むしろ、日蓮の面影を写すものは何もなく、だけど、あとからあとから、まるで似てない絵像が、日蓮だといってたくさん造られる、これは困ったことだという日興の心中と見たほうが自然と感じます。すると、そもそも日興造立の日蓮像なんて、ほんとうにあったんだろうか。あったとすれば、「儂のだけが似ているぞ」と言っているようなものですね。これも似てないけれど、だけど、これは僧宝日蓮像でいいんだと、そんな強言を日興がしたかどうか。
どうも、すっきりしません。

3145犀角独歩:2007/01/29(月) 10:05:58

でも、以上のようなわたしの疑問からすると、日興所蔵の日蓮画像を拝んでいたという論法も成り立ちませんね。うーん。
お二人のご賢察を期待します。

3146れん:2007/01/29(月) 11:34:02
犀角独歩さん
石山文書に「日興御さく釈迦」とありますから、日興は日蓮と同じように釈尊木像を安置していたろうと思います。信用できる日興文献では、日興自身は釈迦本佛観で、日蓮勝釈迦劣という意味での日蓮本佛観は有さなかったと思います。
しかし日順雑集に写本を有する垂迹堂棟札に三堂の一つとして「日蓮聖人御影堂」とあり、独立した堂宇としての「御影堂」には日蓮の木像の御影が安置されていたのではないかというのが、私の現時点の見解です。
日順雑集には日興が身延在山中の事績として、日蓮の住坊を御影堂にして、御影像を安置したとあり、雑集の当該文のニュアンスから、日興が身延の御影堂に安置したのは独学徒さんのご指摘の如く絵でなくて木造の御影のようですので、独立した堂宇としての「御影堂安置は日蓮木像御影」の傍証となるかもしれません。
それに対し、絵像の方は、大師講に天台大師の絵の御影が懸けられていたように、日蓮の追善の十三日の講・法要などにおいて懸けられる用途もあったのではと思います。
あと、殊の外、日興が日蓮御影を尊重した理由は、もちろん日蓮本仏義の解釈からではなく、むしろ、台当違目の上からの処置だったのではと愚考します。

3147きゃからばあ:2007/01/29(月) 11:49:36

ちょっと脱線します。

3127犀角独歩さん

>常住本尊となれば、一宗の代表者に自分専用の本尊を書いてもらうわけです。それ相応の奉供養を伴うことでしょう。

常住本尊の下付についてですが、『教師必携』には「10年以上の者」とあった記憶があります。
また法道院では「1年に1人以上の折伏で10年続いた者」と定めていました。
ところが本山近くの檀家には「3年御形木」と言われ、入信して3年は御形木でその後常住本尊が下付されます。あくまでも願い出があればです。
参考までに常住本尊(信徒用)の御供養ですが、
冥加料(奉御供養)10万円以上
板の場合、彫刻代等50万円
紙幅の場合、表装代等8万または10万5千円(大きさの違い)

3148きゃからばあ:2007/01/29(月) 12:05:53

さらに脱線します。

よく内拝は強信な人だけに許されると言われています。
しかし内拝できるほとんどの方々は御形木本尊です。
さて本門戒壇の大御本尊の内拝と常住本尊の下付とではどちらが強盛な信者なのでしょう。
言い方が変でした。
常住本尊を下付してもらえない信者を強信者として内拝させて、なおかつその方々から御供養を受け取るのはやっぱり変でしょ。
内拝できる人はすべて常住本尊を下付させるか、または常住本尊の下付者以外は内拝させない。
これなら理屈が通るのだけどなぁ。
じゃないとやっぱり大御本尊は偽物、と思いたくなっちゃうよ。

3149独学徒:2007/01/29(月) 21:48:40

犀角独歩さん、

>これは石山では下種三宝です。住持三宝ではないでしょう。
ええ、これはあくまでも通仏教上の住持三宝義をもとに、日蓮本仏論圏の思想を、私なりに当てはめてみたものです。

>「住持」というのは、いまの言葉で言えば、住職ですね。

私は先に紹介しました、青山先生の「三つの宝」で示されている『「住持」とは「法に住し、法を護持する」という意味です。』という解釈を通仏教上の概念として依用しました。
ここでは、「住持」とは「法に住し、法を護持する」との意ですので、必ずしも「住職」の意としては使用していません。この意味からすれば、日蓮本仏論圏にとっては、まさに日興の振舞は日興在世における『住持三宝』の姿と主張することも可能です。
もちろん当の石山では、これを『住持三宝』の姿としていません。私はむしろそのことが不思議に思えました。

>日興は宝前のなかに漫荼羅本尊、日蓮像に並んで座っているわけではなかったでしょうから。

漫荼羅本尊、日蓮像に日興が並んでいた場合は、『現世三宝』(別体三宝)になるというのが私の見解でして、その意味では、日興在世の日興の振舞は現在の御影堂式であり、『住持三宝』の形式であると思いました。
しかし繰り返しになりますが、当の石山は御影堂式を『住持三宝』といわずに、『一体三宝』といっています。

>石山のような客殿奉安は、他では、あまり、見られません。

私は石山の客殿は、ビデオと写真でしか見たことがありませんが、確かに石山の客殿は変わっていると思います。
他の富士門本山クラスも客殿は、曼荼羅を中心に日蓮(向って左)・日興(向って右)という勧請はありますが、私の直見した限りでは皆「絵像」です。
しかし石山は「木像」ですね。
私は「絵像」に関しては、その描かれ方からして、仏像もしくは曼荼羅の脇に置かれたものと思います。
「木像」と違って、水鏡にしても波木井の御影にしても、古い「絵像」は真正面を向いていません。これはつまり真正面に奉掲するものとして書かれたものではないからだと思います。
その意味では、石山以外の富士門本山で、曼荼羅の両脇に「絵像」を配置するやり方は、向きとしては間違っていないと思います。
しかし石山の客殿は「木像」ですので、皆真正面を向いています。これは本来、何かの脇に配置するものというよりも、真ん中に位置するものと思います。
もちろん、犀角独歩さんご指摘の通り、日興在世には石山の客殿形式はもとより、富士門他山で見える勧請形式もなったと思います。

れんさん、

「大石記」のご教示ありがとう御座います。
たしかに「数通の御譲リ状」などの記述がみえますね。
興風談所の「日興上人全集」にて「日興置状」の頁を見ると、註に「本状における重須本門寺の重宝盗難事件は、日代師関係の八通遺状の史料的価値を考慮に入れれば事実とは認めがたい。」とありますので、かなり後世のものかと思っていました。
しかし「大石記」にその存在を示唆する記述がある以上、れんさんご指摘の通り、「祖師伝」よりもずっと次代を遡れる事になりますね。

>石山文書に「日興御さく釈迦」
これは「家中抄」でしょうか。ここまで次代が下ると、どうなんでしょう。
私としましては、一寸依用に耐えない感があります。

私は日順・日代の思想に、仏像造立を広布の時としていることが観取されるということは、日興も日興在世には仏像の造立は無かったのではないかと考えます。

本門本尊である本仏・釈迦仏像は、広布の時、国主によって造立されるものとの思想であったのであれば、広布に至らないうちは、三宝は揃わず、二宝をもって時を待ったのではないかと考えます。

3150れん:2007/01/29(月) 22:42:16
独学徒さん
雪山書房版の富士宗学要集の口絵に筆者不明の切紙目録があり、その中にありましたので一応引用しましたが、成立時代が分かりませんから、これはややフライングでしたね。
石山に日蓮の真蹟のある宝軽法重事に「寿量品の釈迦仏の形像をかきつくれる堂塔いまだ候はず」と逆説的に本門寺構想の一端が示されています。この日蓮の書いた文章の「寿量品の釈迦仏の形像」を「かきつく」ったものを安置する堂塔が日興がのちにいう本門寺の原型ということになるのでしょうね。
日興が釈迦像を所持していたか否か、資料が無い分わかりませんが、四十九院の供僧だった青年時代の日興が自作かどうか分かりませんが、持仏として釈迦像を所持していてもおかしくないと思います。まあ、現存しないのでなんとも言えないのですが。

3151犀角独歩:2007/01/29(月) 23:07:34

れんさん、有り難うございます。

木像がないと辻褄が合わないでしょうね。
お二方のご指摘は目が覚める思いがしました。
善いですね、こういった思いこみを揺らがせるご批正というのは。脳が若返る気がします。と言っても黴びかけていますが(笑)
釈迦仏像(仏宝)・漫荼羅本尊(宝宝)・日蓮木像(僧宝)と揃うわけですね。

日興木像のことが、先の盗難記に出てきますが、こうなると、独学徒さんがおっしゃるような住持三宝の線が出てきます。この場合、どんな奉安であったのでしょうか。大漫荼羅を挟んで日蓮日興という、いまの石山客殿のような具合でしょうか。


独学徒さん

「住持」を辞典で引いてみてください。
青山さんが仰っていることはどうか知りませんが、わたしが記したことは一般的な語彙の意味です。
住持という言葉があり、次に住持三宝という語彙が生じ、ついで青山さんの解釈という時系列です。

「法に住し、法を護持する」とは、まさに住職(当住)の責務だと思います。
たとえば、住職以外に、日興の時でいえば、日順でも誰でもいいですが、「我こそは法に住し、法を護持する故に住持である」と主張したところで、何言っているんだという話になりませんか。住持は、住職以外では意味をなしません。

それでも、「住持」が富要上で、この語句の使用が見られないと言うことは、この信仰圏では意識されていなかったと言うことでしょう。それを、その信仰圏で用いられない語彙で解釈しても意味はないと思いますが。

日精の記述はともかくとして、一尊四士を自身の義とした日興が一尊四士の仏像を奉安せず、それをした人間を「盗んだ」と非難すると言うことはあるのでしょうか。これはないとわたしは思います。故に日興は一尊四士像を祀っていたと思います。それをかき消したのは、その後継者ではないでしょうか。

いずれにしても日蓮・日興の段階で奉安を三宝を基本に考えるというのは、実状に沿わないと思いますが如何ですか。

だいたい、日蓮は一体仏のみでしたでしょう。四士をも副えず、御影もなし、漫荼羅も奉懸せず、日蓮の奉安は三宝具足であるはずはないと思いますが、この点はどうでしょうか。

3152犀角独歩:2007/01/29(月) 23:32:27

きゃからばあさん

お久しぶりです。
ぜんぜん、関係ありませんが、ブログで梵字のことを書いているとき「キャカラバア」を文献随所で見て、いまさら、すごいHNだと思いました。

しかし、石山の教師必携から引用とは恐れ入りました。
なんともマニアックな資料をお持ちですね。

実際の‘費用’はもう少し高いですよね。

形木、常住、内拝の関係、「なるほど」と納得しました。
これは確かにおかしいですね。

わたしが法華講で、登山したとき、一般信徒でも内拝はできても、「猊下」へのお目通りは限られた人だけ。これも逆じゃないでしょうかね。
今の調子じゃあ、「猊下」のほうが「御戒壇様」より上位の扱いとなってしまいますね。

3153独学徒:2007/01/30(火) 00:16:48

犀角独歩さん、

『住持』の語句の意味としては犀角独歩さんのご教示の通りと思います。
私がこれまでの投稿で用いたのは、一般論としての「住持」の解釈ではなく、青山先生らの解釈を通仏教の解釈と考えて依用し、それに日蓮本仏義を当てはめてみたものです。
これは石山義とかではなく、私の個人的な解釈としてです。あえて富士門の言を借りれば、柳沢宏道師の著作に御影堂の奉安形式をもって、『住持三宝』としていたということです。
私は青山先生の説明は、通仏教上の説明ととらえてもいいと思うのです。
以下は、法隆寺系の話ですが、『住持三宝』のとらえ方は、青山先生とほぼ一緒です。

http://www.pref.nara.jp/koho/kenseidayori2/tayori/t2005/tayori1712/1300tobira1712.html

青山先生も、法隆寺関係者も、『住持三宝』の「僧宝」を、貫首あるいは住職とはいっていません。
これを私は石山よりに「貫首・住職」としたわけです。
つまり、犀角独歩さんは、一般論としての「住持」の解釈を用い、私は青山先生らの解釈を通仏教の概念として依用しました。
この点ですれ違いがあったものと思います。

いずれにしましても、石山は御影堂の奉安形式を『住持三宝』と言っていない訳で、私の投稿したことは意味の無い内容でした。

>一尊四士を自身の義とした日興が一尊四士の仏像を奉安せず、それをした人間を「盗んだ」と非難すると言うことはあるのでしょうか。

私は、むしろ日興自身が造立する前に、他門徒のよって造立されてしまったからこそ、「盗む」などという感情的な表現があるのだと考えます。
日興が先に造立していれば、他門の所業は、むしろ日興の例に習ったと解するところだと思います。そうであれば、「盗んだ」などといわずに、他門に先駆したとして、もっと誇らしげな表現があっていいと思います。
そしてもし、日興在世に仏像造立なされていれば、日興直弟子でもある、日順・日代の思想の中に、広布時造立といった思想は起こらないと思います。
そもそも仏教で「仏像」を造らないこと自体が異質ですが、日興には本門本尊たる一尊四士は、広布の時、国主によって造立すべきといった拘りがあったように感じます。

開祖・宗祖を「僧宝」と位置づけるならば、三宝思想は、どの宗派も開祖・宗祖の滅後に起こる思想であると思います。
したがって、日蓮門下にとっての三宝は、日蓮滅後より起こるものと考えます。
その意味では、富士門では早くて日興の代ということだと思います。
そして日興の代には広布には至らず、故に本門本尊たる「仏宝」の一尊四士の造立には至らず、自身の拘りからニ宝をもって時を待ったのではないかと考えた次第です。

3154犀角独歩:2007/01/30(火) 09:04:54

独学徒さん

お気づきかどうかわかりませんが、独学徒さんとわたしでは住持のとらえ方が違っています。何が違うかというと、独学徒さんはこの用語を僧宝に用いられているとお考えになっているようですが、執行師が仰る「当住顕益」といった思想では、仏宝としての扱いであるということです。わたしはこの筋から記しています。より厳密に言えば、顕益、つまり、衆生済度の主役が仏から僧、それも当住(一宗の統率者、もしくは大本山格の住職)が主役になるという論法です。ここで言われる当住は、もはや僧宝ではなく、仏宝に匹敵しています。つまり、これは日蓮本仏論、さらに派祖(日興)本仏論を換骨奪胎して、当住こそ、顕益(仏宝)の主体者なのだというものです。この時点で、もはや、通仏教における住持三宝論は通用しないのです。
柳澤師の記述も、単に奉安という形式で論じられていますが、本質は以上のようなところではないでしょうか。

ですから、もし、当住三宝を石山に当て嵌めれば、別体三宝ではなく一体三宝となりませんか。この一体とは当住の一身です。これを具体的な教学相伝系譜で言えば、「唯授一人」です。

さて、次に日興一尊四士義と実際の造立ですが、仰るところは理路が整っています。説得性もあります。わたしのなかでは日興の仏像造立という考えは捨てていませんが、可能性として、このお考えには賛同します。

「日興には本門本尊たる一尊四士は、広布の時、国主によって造立すべきといった拘りがあった」とは、『本尊抄』からするとき、まさに至当なお考えであろうと存じます。また、日興は『本尊問答抄』の書写?者として知られるわけですから、題目本尊論者(法本尊ではなく、題目という文字を本尊とする)であったと考えることもできますから、持仏も有さなかったのかも知れません。
この点は、もうしばらく考えてみたいと思います。

> 日蓮門下にとっての三宝は、日蓮滅後より起こる

たしかにこの側面はあります。ただ、在世にも三宝観はあったでしょう。
僧宝は日蓮である、日興であるというのは総別では別の論です。
在家の立場からすれば、僧侶は国の宝であり、みな僧宝です。

たとえば、日蓮は『立正安国論』に「三宝在世百王未窮此世早衰其法何廃」などといいますから、通説としての三宝観は基本として有していたわけです。

先の話題の一尊四士とは、久遠五百塵点成道の釈尊と初発心の弟子上行等の四菩薩、所伝の妙法蓮華經から仏像造立を考えたものですね。日蓮がその門下に訓えた三宝観はここにあります。仏宝は久遠成道本師釈迦如来、法宝は所伝の妙法蓮華經、僧宝は上行等の四菩薩です。では、この法華久遠三宝観が滅後に発したかと言えば、そうではなく、既に『本尊抄』の段階で確定していたでしょう。

日蓮滅後に起こる三宝観は、では、この上行が日蓮である、ならば、日蓮こそ僧宝であるという前段を基礎にしたところでの変遷でしょうね。

ここから、宝前を、画・像で三宝を象る動向に進んでいったのだとは思います。軈て、傍流では、いずこからの影響で住持三宝を編まれ、さらに石山門下の下種三宝として定着していく流れとなっていったのでしょう。

一つ、重要な点は、日蓮・日興における三宝観は先に挙げた如く、久遠釈尊・妙法蓮華經・四菩薩であったのに、そこに御影信仰は興ったために、一尊四士の担い手を自負した日興自身がそれを撤廃する役割を果たしたと言うことでしょうか。しかし、これは富士方の動向で、むしろ洛陽では、一塔両尊四士等、新たな発展も遂げていったわけでした。

独学徒さんに沿って記せば、広宣流布の暁まで、一尊四士像を棚上げにしてしまったために、ついにこの仏像奉安は定着することもなく、忘れられ、漫荼羅一辺倒から、戒壇本尊という奇妙な考えが創案され、ついに彫刻板に仕立て上がられることによって、日興の一尊四士義は、完全に消え去りました。歴史の皮肉といったところでしょうか。

3155独学徒:2007/01/30(火) 22:46:20

犀角独歩さん、私の勘違いから発した議論にお付き合い下さり恐縮です。

以下、「三宝」の部分に絞って、もう一度私の考えを整理させていただきます。
私は『住持三宝』の「住持」は、仏・法・僧の三つ全てにかけて用いているつもりです。
つまり『住持三宝』とは、「住持仏宝」「住持法宝」「住持僧宝」です。
また私が依用したのは執行師の考えではなく、青山師の三種三宝の定義です。(以下、「青山定義」とします。)
そして「住持」の一般的解釈も用いませんでした。
私が「青山定義」を通仏教上の三宝観とした点は、早計であったと思います。

ちなみに「青山定義」の三種三宝とは、『一体三宝』『現世三宝』『住持三宝』です。
「青山定義」では、『一体三宝』は究極の真理そのものといいます。
また『現世三宝』とは、歴史上存在した仏・法・僧をいい、『住持三宝』は『現世三宝』の仏・法の二宝を常住の形象化した形で表現し、僧宝については、現在存在している二宝を常に持つ人物とします。
「青山定義」では、具体的に『現世三宝』と『住持三宝』を次のように説明します。

    現世三宝     住持三宝
仏宝  釈尊       仏像・・・・・・・・・・・>人間から木像へ
法宝  釈尊の説法    経典・・・・・・・・・・・>音声から文字へ
僧宝  在世の弟子    現在存在している和合衆・・>直弟子から当住へ

この「青山定義」に、富士門の日蓮本仏思想を当てはめてみたのです。
それを以下のように考えました。

     現世三宝    住持三宝
仏宝   日蓮      日蓮御影
法宝   日蓮の題目   大曼荼羅
僧宝   日興      貫首・住職

以上のことから、石山の御影堂式は『住持三宝』をあらわしているのではないかと思ったわけです。
また石山の『別体三宝』は、「青山定義」の『現世三宝』と意義を同じくすると考えました。
しかし、犀角独歩さんご指摘の通り、石山では御影堂式を『一体三宝』としているわけで、その時点で、私の意見は石山の見解とは相違していることがわかりました。
そして御影堂式を『住持三宝』とするのは、柳澤宏道師の「石山本尊の研究」の記述であることも確認しました。
私は御影堂式を『住持三宝』と呼ぶ分には、日蓮本仏論圏としては一応、教義と本尊勧請は一致していると思いました。
しかし、繰り返しになりますが、石山はこれを『一体三宝』といっているわけで、この時点で私の議論は終わったと思っています。

つまり石山の三宝観は、「青山定義」では説明できないものということです。

三宝以下のところは、実に仰せの通りと思います。
一尊四士が仏・法・僧の三宝を具備していると考えますと、「青山定義」でいえば、日興の義である一尊四士は『一体三宝』ということなのだと思います。
そうしますと、先に私は日興は広布に至らないうちは、二宝をもって時を待ったと記しましたが、この考えは成り立ちませんね。
むしろ広布に至らないうちは、師・日蓮を偲んで、三宝尊成就の時をまったということでしょうか。

3156犀角独歩:2007/01/31(水) 09:51:33

独学徒さん

青山説のレクチャー有り難うございます。

わたしは、三宝というのは、本来、信仰者の心の問題であると思っています。ブッダとダルマとサンガの三つを、宝として大切に思う心ということです。

原始仏教教団では、文字で記すことはされなかったわけですね。ダルマは口伝えと身の実践で伝承されたわけです。この段階で既に三宝はいわれていたと思います。いま生きておわしますブッダを宝として尊敬帰依し、お説きになるところをダルマを宝として帰依実践した。サンガは元来四衆ですから僧侶ばかりではなく、在家男女信者もこれに含まれました。共にブッダ・ダルマの元に衆の集まりをサンガという宝と考えたということです。

お釈迦様がお亡くなりになり、その後、100年は仏像と経典は造られなかったと言います。舎利崇拝は興り、仏塔信仰も徐々に興っていったでしょう。この段階でもブッダ・ダルマはサンガの人々の心の中にあった。

軈て、仏像と経典が造られるようになります。この辺りのことは一字三礼さんがお詳しいところでしょう。
像自体を仏と見なすようになるのはこの頃でしょうか。経典に特別な霊力を有すると言った聖典信仰も文字の発達を相互関係をしながら発展していくのでしょう。所謂「大乗」と称される運動は在家信者が主役であったと思います。菩薩は在家の姿であったでしょう。しかし、軈てそれも僧侶となっていきます。いつしか、三宝は仏・法・僧を指すようになります。

あまりわたしは詳しくありませんが、イスラム系などでは、聖典を聖堂に飾り崇拝の対象とするようなことが興りますね。このような影響かどうかわかりませんが、ダルマというより経典そのものの信仰が興っていきます。法華経創作はこのようなコンセプトに基づくとわたしは考えています。こうなってきますと、ダルマが経典とみなされていくことになります。仏像もそのようになって本来のブッダに取って代わっていったのでしょう。

仏教教団の場合、しかし、祀られるのは、やはり仏像だったのではないでしょうか。三宝を祀る習慣は本来なかったのでは、と記したのは、そのような意味です。仏像の開眼も、目に瞳を書き込む法要を意味しました。仏宝のみの奉安です。

しかし、日蓮は『木絵二像開眼事』で釈迦仏像の前に法華経典を置くことを開眼とします。ここに仏宝・法宝の奉安となっていきます。
『本尊抄』では四菩薩像を暗に示します。これを具体的に受けるのが日興であるわけですね。

日興が漫荼羅を本尊と顕彰するようになり、一尊(仏宝)四士(僧宝)像もあまり流行らなかった。そして、御影信仰を起きた。日蓮上行論が盛んになった。こうして、御影は僧宝像と見なされるに至ります。一経読誦を斥ける日興門下では法華経典の崇重は弱まっていったのでしょうか。漫荼羅も本尊として確定していった。法宝と見なされるようになっていった。そうこうするうちに宝前を三宝と整える風潮が高まっていったという歴史の経緯があるのではないでしょうか。

わたしは三宝というのは崇敬の対象を言うのだと思います。
それは像に刻まれたものであるとか、文字に表されたものであるとかではなく、かつてこの世に生きたブッダ、そこで説かれた教え、そして、それを必至に守り実践した人々そのものです。日蓮門下で言えば、祖師信仰となったのでしょうね。それが三宝尊信だと思います。その三宝尊信から、それを像に刻むのも善いでしょうし、文字として書き、描いたものを大切にするのも、それは善いでしょうね。

前置きが長くなりましたが、住持三宝というのは、日蓮宗では像として実際によくありますね。わたしは行学朝師像はよくみかけます。漫荼羅の前に置かれたり、並べられたりするわけですね。こんな延長に日興像というのもあるのでしょうね。

記憶が曖昧なのですが、どこかで左右に日興・日目像というのを見たことがあったような、それとも、石山客殿の奉安をそのように聞いたような。

この三宝という問題はしかし、僧宝は日蓮だ、日興だ、いや、僧侶みんなだ、いや、四衆だとやっていくうちに、どんどん、本来の僧宝四菩薩が薄まるという相乗効果があり、実際に歴史でもそうなっているのだと改めて思いました。

3157犀角独歩:2007/02/01(木) 15:01:46

れんさん、独学徒さん、彰往考来さん他 諸賢

『聖人御難事抄』、熱原法難、「戒壇本尊」がセットになって語られるようになるのは、いったい、いつ頃からでしょうか。富要で見る限り、こんな関連を述べる文献は見られませんね。

日亨氏『熱原法難史』(大正11年)で否定されるわけですから、それ以前にあったことになりますが、これを言ったのは誰でしょうか。

日柱氏の染筆、並びに常在寺蔵<248>日興本尊が口絵に載る、熊田葦城著『日興上人』を読んでみたのですが、上記の関係についてはまったく触れていませんでした。この書の発刊は大正14年ですね。

誰が言い出し、また、昭和以降、誰が再燃させたのでしょうか。

3158再挑戦者:2007/02/01(木) 20:25:50
 ゴメンします、。
 今も、ドーモ 不可解 なのは 、 日興さんが定めた「日代さん」です、。 されど、、、されど、、石山、、西山、、 保田、、などは、、ナニユエ に この決定に逆らった のでしょうか、、??
 日興さんの神通力消滅、、と言ってしまえば、、オシマイでしょうが、、?
 誠に 不可解 の起点 のような気持ちがしますです、。 諸悪 の 根源 の起点 がこの一点に 、、??? かも、、?

3159れん:2007/02/01(木) 20:38:25
犀角独歩さん
聖人御難事・熱原法難と彫刻の製作縁起をセットで繋げた記述をしたのは、石山三十一代の日因師が初見だと思います。因師の“宗旨建立三四月会合抄”上巻に、聖人御難事の文を挙げて釈する中に「蓮祖は建長五年より弘安二年己卯十月十二日に至て本門戒旦の御本尊を顕す故に出世の御本懐を遂げさせ給ふ、是故に二十七年と云ふなり。其間の大難、弘長・文永次下に之を述す。又法師品を引いて況滅度後の文を釈し御身に当てさせたまふ是なり。又弟子旦那を殺され追出等の無量の小難は御一期に亘るなり。熱原の二十四人等是なり」
今のところ、この因師の記述以前に、聖人御難事・熱原と彫刻とのセットで記述した石山歴代の記述は管見に入っておりません。
以前、顕正居士さんでしたか、寛師が彫刻を蓮師出世の本懐と記述した依文が聖人御難事であると記されておりましたが、寛師の記述は因師ほど露骨ではないようです。
昭和のこの神話復活を誰がしたかは、守備範囲外ですので、どなたかご教示頂ければ幸甚です。

3160独学徒:2007/02/01(木) 22:58:19

犀角独歩さん、何時もご教示ありがとう御座います。

『聖人御難事抄』、熱原法難、「戒壇本尊」の件ですが、恐らくれんさんの仰るとおりだと思いますが、一応私も調べてみたいと思います。
ただ、しばらく仕事の方がたてこんでいまして、日曜日まで毎日遠方まで日帰り出張となっています。
申し訳御座いませんが、少々お時間を下さい。

3161犀角独歩:2007/02/02(金) 07:15:14

れんさん、独学徒さん

有り難うございました。
参考になりました。
引き続き、よろしくお願い申し上げます。

3162犀角独歩:2007/02/02(金) 09:44:54

もう一点、お願いできますか。

今回、熊田葦城著『日興上人』を読んだのですが、このなかで熱原信徒の処刑は弘安3年4月8日であるとしていました。
この根拠は<81>日興本尊にその根拠を求めていました。
この本の発刊は大正14年、巻頭に日柱氏の揮毫が載り、常在寺蔵日興本尊も載せていますが、この二つは当然、石山の許可に依るのでしょう。日柱氏が全文を読んでいるかどうかわかりませんが、熊田氏が調査研究で達した日付と見るより、当時、石山ではその考えがあり採用したと見るほうが至当であると思えます。

富要で検索する限りでは、4月8日説には当たれませんでした。
4月8日説というのは歴代文書に載るものでしょうか。

3163きゃからばあ:2007/02/02(金) 10:12:44

私は書籍を実家に置いているので明言できませんが、
堀上人は『冨士日興上人詳伝』において4月8日としていた記憶がありますが…。

3164犀角独歩:2007/02/02(金) 10:45:17

きゃからばあさん

有り難うございます。
わたしもこの本を手元から離しています。
そうですか、日亨氏は、その立場ですか。

4月8日、説得性がありますね。
この筋で御伝草案を考えると、この処刑以降に日興上人と遊ばす本尊ということになりますね。

3165問答迷人:2007/02/02(金) 11:03:12

富士日興上人詳伝(昭和三十八年十月二十四日 第一刷発行 発行所 創価学会) 第三節 熱原の法難(九十一頁)

「これが記念曼荼羅書写の日は、かならず当時の命日とみるべきであれば、−中略ー神四郎等兄弟三人の斬首および他の十七人の追放は、弘安三年四月八日と定むるのが当然であらねばならぬことを主張する。」

3168犀角独歩:2007/02/02(金) 13:26:56
問答さん

有り難うございます。
日亨氏は、4月8日が当然であると主張ですか。
こうなると、いまの石山の主張はまるで書き変わりますね。
まあ、日亨氏の間違いと言えば、現説は守れるとことになりますが、そうも言えないでしょう。

忘れ去られるのを待って変えてしまうというのが、『悪書「板本尊偽作論」を粉砕す』以降使われた石山お得意の常套手段でした。

弥四郎国重が波木井実長の実子であったと言ったこと
彫刻の材木は七面大権現に祈って手に入れたと言ったこと、
浮いていた池は七面大権現を祀る場所であったと言ったこと
弥四郎国重は神四郎であったと言ったこと
二千二百二十余年と書いてあると言ったこと
命日を4月8日と日亨氏が言ったこと
ついでに言えば、妙海寺大曼荼羅を臨写であるといったこと

みんなないことにして現説が成り立っています。
信徒会員はそれで騙せますが、そうはいきません。

ところで熱原の信徒はどうして処刑にされたのでしょうか。
蟇目の矢で射られても題目を唱えたというのは、事実でしょうが、もし、信仰を捨てないことで処刑になったとしたら、日禅、日秀、日弁、さらに日興、日蓮はなぜ処罰されなかったのでしょうか。

次の質問になりますが、熱原信徒が処刑になった理由は、皆さんは何であるとお考えですか。

3169犀角独歩:2007/02/02(金) 13:34:00

もう一つありました。

「本門戒壇の大御本尊」日蓮日興共同建立であると言ったこと

3170犀角独歩:2007/02/02(金) 13:47:55

○日亨氏、熱原法難に関すること

「熱原の法難は直に大聖人の御一身には関係ないが、御自身では一期の大難として法難終息として其普賢色身の表徴として本門戒壇の本尊を顕して末法万年に残された」

富要に以上のようにあります。「法難終息…本門戒壇の本尊を顕」すとあります。これを問答が挙げてくださった熱原法難史の記述に併せ考えると、本尊の図示は弘安三年四月八日以降になってしまいますが、本尊脇書で、日亨氏は「弘安二年十月十二日」と明記しています。この三つの記述はまったく整合性がありません。この点、石山ではどんな辻褄合わせをしているのでしょうか。

富要で、分与帖を引き、以下のように記しています。

「富士下方熱原郷の住人神四郎、兄。
 富士下方同郷の住人弥五郎、弟。
 富士下方熱原郷の住人弥六郎」

しかし、熊田氏は『日興上人』では違っています。

「富士下方熱原郷の住人神四郎、兄。
 富士下方同郷の住人弥五郎、弟。
 富士下方熱原郷の住人弥次郎」

手元に宗全がなく、確認できませんが、熊田氏と同じく、‘弥次郎’となっていた記憶があります。どなかた、この点をご教示願えませんでしょうか。

以上、追加の質問です。
皆さんのご賢察をご披露いただきたくお願い申し上げます。

3171犀角独歩:2007/02/02(金) 13:52:50

どうしてこう打ち間違いが多いのでしょうか。

誤)問答
正)問答さん

訂正をお詫び申し上げます。

3172れん:2007/02/02(金) 15:41:41
犀角独歩さん
熱原の信徒三人の処刑日は、今となっては特定できないと思います。堀日亨師は神四郎追善の日興書写曼荼羅の書写年月日により、四月八日に比定してますが、四月八日に関しては、日興は仏生日に漫荼羅を書写する例が蓮師命日に続いて多いことを考えると、必ずしも、神四郎追善の漫荼羅書写日のみをもって、三人の処刑日と断定するには根拠が薄く感じます。日興写本の現存する弘安三年四五月頃の日蓮遺文に(いま、出先なので原文に当たれませんが)「先もそらごとなり…」云々と、熱原についてのべた下りがあり、おそらく、本消息の書かれた弘安三年春には熱原法難は終息していたと思われますから、三人が処刑されたのは、法難が勃発した弘安二年九月から日蓮遺文から法難の終息がうかがわれる翌年春の間と、大雑把ですが推定するしかないと愚考します。
さて熱原信徒の張本三人が特に斬首という厳しい処断を受けた理由は、日蓮の宗教活動は、幕府から見れば、元冠にて非常事態体制下にあった幕府の挙国一致の宗教政策に従わずに反対・反抗する“悪党”勢力であり、特に駿河は得宗領でしたから、厳しい姿勢と処断をもって、得宗権力が反幕府の“悪党”としての日蓮門下信徒の弾圧を行ったというのが実際ではないでしょうか。幕府(内実は得宗権力)は熱原の農民信徒に対する厳しい処罰を通じて、日蓮やその門下僧俗等の反得宗権力・反幕府的な宗教活動を牽制しようとしたというのが、当たらずとも遠からずの“理由”でありましょう。
熱原の三人の中の弥六郎と弥次郎の表記の相違は、現存する日興正本「本尊分与帳」は痛みが激しく判読不可ですが、江戸期の北山歴代である日優の写本では、「弥六郎」ではなく「弥次郎」となっており、かつての日興正本では「弥次郎」であった可能性があり、弥六郎は石山の所伝で次を六と誤読した結果の誤伝の可能性の方が高いと思います。

3173きゃからばあ:2007/02/02(金) 15:45:21

大石寺にある三烈士の墓は、
中央 熱原住人 神四郎
右側 田中住人 四郎
左側 広野住人 弥太郎
となっています。(弘化3年、日英上人の代に改築)
また後ろの板碑にも日柱上人の文で同様の名前になっています。

3174犀角独歩:2007/02/02(金) 16:49:47

れんさん

有り難うございます。
わたしも処刑は弘安2年(1279)に行われたのではないかと思います。
その理由は日興が<81>本尊を書いた徳治3年(1308)は29年目に当たるからです。つまり、数え年ですからいまの数取りより1年早くなければなりません。すると、弘安3年からだと数が合いません。30年を期したとすればかくのごとくです。この年の敢えて仏生日を選んだということでしょうか。

先ほど、神四郎の墓がある本照寺に問い合わせたところ、こちらでは、いちおう弘安2年10月15日としているとのことでした。墓の発見者は「田中智学先生」だということでした。

ネットで少し検索したところ、本多日生氏に係る『統一主義』に「不借身命:熱原神四郎国重(1)知足道人」という項目を見ました。さて、弥四郎国重が神四郎という説と脈絡のあると思いました。

この熱原信徒の処刑が宗教弾圧であるという点をまったく否定する気はないのですが、わたしが解せないのは、では、日秀・日弁には、なぜ厳しい咎めがなかったのかという点です。となると、その罪状…あくまで名目上ですが…『滝泉寺申状』にいう冤罪をもってされたということになるのだろうかと思った次第です。

きゃからばあさん

有り難うございました。この情報も是非とも欲しいところでした。
こちらでは「弥太郎」ですか。弥六郎の‘六’と‘太’は似ていないことはありませんね。‘次’となるとどうなんでしょうか。しかし、「四郎」はぜんぜん違っていますね。歴史上の記述ですから、特に論おうとは思いませんが、仮に日宗全興尊部と富要で、違いがあるとなると、これは問題だと思います。両方とも同じ日亨氏に依るわけですから。

しかし、ここで熊田氏の『日興上人』に係る日柱氏の名が出るとなると、この時点では諸説紛々、まあ、特に統一見解を出さず保留といった状態にあったのでしょうか。いまのように決めつけてしまうより、歴史の扱いとしては、こちらのほうが自然な感じはしますね。

3175れん:2007/02/02(金) 18:38:07
犀角独歩さん
ご指摘の通り熱原法難の事件が冤罪というのが、日秀・日弁、日蓮・日興に塁が及ぶことがなかった一番の原因ですね。
弘安三年五月三日付けの窪尼御返事(御真蹟断片四紙 保田妙本寺蔵)に「さてはあつわらの事こんどをもつてをぼしめせ。さきもそら事なり…これはそらみげうそと申ス事はみぬさきよりすいして候…」とあって、この時期熱原の事件が冤罪であったことがはっきりしたらしく、法難そのものも終息したことがニュアンスとして伝わります。日興の本尊分与帳には熱原の張本三人の名乗りが「神四郎、弥五郎、弥次郎」であったことが本尊分与帳の日優写本でわかりますが、本尊分与帳と石山の三烈士の墓碑の名前が神四郎以外全く一致しないのは、やはり、石山の熱原の三人の墓碑(作り替えられる以前のものも含め)は相当後代に、正史が失われた時代に作成されたものとしか言えないですね。

3176犀角独歩:2007/02/02(金) 20:55:26

れんさん

なるほど。御説、一々に納得できました。
「そらみげうそ」は虚御教書でよかったのでしたっけ?

3177れん:2007/02/02(金) 21:46:00
引用した窪尼御返事の文中の「そらみげうそ」はご指摘の通り「虚御教書」です。
先に、きゃからばあさんが御提示下さった石山の熱原三烈士の墓標の名乗りの典拠は日精の日蓮聖人年譜や家中抄でしょうか。それ以前には開山日興の本尊分与帳以外、石山歴代の著述には熱原三烈士の名乗りに関する記述は皆無ですね。今でこそ熱原法難と彫刻の製作神話は結び付いていますが、彫刻の脇書にある「弥四郎国重」の初期の設定は波木井実長氏の嫡男であったわけで、その初期に作られた製作神話は熱原法難とは無関係であったわけですが、おそらく日因の時代に、聖人御難事の「出世本懐」「あつわら」に絡めて現行の彫刻神話の原型というべきものが形成されていったのだと愚考しております。

3178犀角独歩:2007/02/03(土) 09:34:42

れんさん

有り難うございます。

映画制作を少しかじったことがある人であれば、知っていることだと思いますが、モンタージュという技法があります。まったく関係のない場面をつないで物語を構成するものです。

感動して涙を流している人の映像がある。この次にヒットラーの映像をつなげ、連続して映写すると、ヒットラーを見て感涙しているように見えることになります。熱原法難と彫刻本尊は、こんなモンタージュされた物語であったわけですね。

かつて問答さん方と議論したことであったと思いますが、御伝草案の熱原法難の御本尊、条々事の弘安二年本尊、そしていまの彫刻、これらもモンタージュして創作された物語でした。

このようなモンタージュされたトリックを、れんさんは解きほぐしてくれました。感謝します。

3179彰往考来:2007/02/04(日) 12:26:51

熱原法難の処刑日について(その1)

各種文献資料を精査したところ管見に入った限りでは、熱原法難の処刑日については下記8種類があります。

①建治2年4月8日説
②弘安2年10月12日説
③弘安2年10月15日説
④弘安2年冬説
⑤弘安2年末説
⑥弘安3年4月8日説
⑦弘安3年3月説
⑧弘安3年説

このうち、④と⑤は実質的に同じ説と判断され、⑧は⑥もしくは⑦に包含されるものと考えます。これら諸説のうち、主要な説は③の弘安2年10月15日説と、⑥の弘安3年4月8日説の二説です。
ここでは、これらの諸説を唱える主要文献を紹介します。

【1】建治2年4月8日説
・荒木英一(清勇)『世界第一本尊論』平成14年覆刻版(初版大正12年:藤波印刷部)、興門資料刊行会、31頁
・堀慈琳(日亨)『熱原法難史』大正12年、雪山書房、187頁
上記2点の資料で建治2年4月8日説が紹介されていますが、富士市厚原にある本照寺の過去帳記載によるもので、上記2点の資料が建治2年4月8日説をとっているわけではありません。
『世界第一本尊論』31頁には「問ふ本照寺の過去帳に藭四郎氏の殉死を建治二年と云ひし所以知らざるや。答えて曰く是れわ(引用者注:“わ”は原文のママ)北山本門寺に於て徳治三年の興師の御本尊を。藭四郎氏の三十三回忌の爲に御認めありしと誤傳せし故。同年より遡れば建治二年が三十三年に相當するを以て建治二年の殉死とせしものと。北山よりの回答書にあり。これを見て安政年代に過去帳に建治二年の恂死と書入れしものなるべし」とあります。また『熱原法難史』187頁には、「本照寺の過去帖には建治二丙子年四月八日とある、過去帖の事であれば日附の誤謬(あやまり)はあるべきでない、次に月も大した間違ひはなからう、年代は何かすると轉寫(うつしかえ)の際(とき)に間違なき(引用者注:〝間違いなき〟と思いますが原文のママ)を保せぬで、先づ其四月八日だけは取るべきであらうと思ふ」とあります。両書は同じ大正12年の発行ですが、荒木英一氏の解説が的を得ていると考えます。なお後で出てきますが、堀慈琳『熱原法難史』では弘安3年4月8日説をとります。また美濃周人氏の『日蓮正宗・創価学会50の謎』1994年、三一書房によれば「現在の富士市厚原にある本照寺の住職は次のように証言している。 (中略) ●本照寺では、最後に神四郎たちの存在が確認されているその十月十五日をもって、毎年神四郎を供養している」(92頁)とありますので現在の本照寺は弘安2年10月15日説をとるものと考えられます。但し、『日蓮正宗・創価学会50の謎』の93頁に「本照寺の住職も、同じようなことを証言している。いわく、「十五日に農民たちは鎌倉に着きましたが、その後、当然、取り調べ、投獄、裁判などがあったはずですから、着いたその日に処刑されるということはなかったでしょう。一説によれば、神四郎たちが処刑されたのは、翌年の三月だということです」と。」とあり弘安2年10月15日説は少々疑問があり弘安三年三月説が有る旨の紹介をしています。(つづく)

by 彰往考来

3180しゅんかん:2007/02/04(日) 17:49:40
申し訳ございません、少し割り込ませて下さい。
彰往考来さん、はじめましてしゅんかんと申します。

本照寺の名称が出ましたので少し調べたのですが。
本照寺とは、日蓮宗静岡県中部宗務所教化センターHP
http://www.myouhou.com/home.html
内の寺院案内に本照寺が案内されてますが、こちらの寺院でしょうか。

3181しゅんかん:2007/02/04(日) 19:25:50
日蓮宗静岡県中部宗務所教化センターHP内の寺院案を拝見いたしますと。
興統法縁の寺院がやはり結構ありますね(お膝元なので)
独歩さんにお教え頂いたのですが、古くからの法華講のお方の仏壇には御影さま
(祖師像)を奉安されておられる方もおられるとお聞きしました。
そこで新たに疑問に思った事なのですが、上記HPの寺院案内で、
「当寺院は興統法縁で祖師像は読経像である」と記載されております。
確かに私が唯一拝見しました石山の末寺での御影さまも読経像でした。
身延派(一致派)等は説法像が大多数のようですね、
この件どなたかご存知のお方宜しくお願い致します。

下記の件もどなたかお願い致します。
法華講で仏壇に奉安されます御影様も読経像のものをされているのでしょうか?

3182独学徒:2007/02/04(日) 19:30:14

犀角独歩さん、少し時間ができましたので調べてみました。
江戸期の日蓮宗の史料です。
皆さんとは視点が違い、議論がずれてしまうかも知れませんが、境持院日通筆「日蓮門下系図」(興風談所)に富木常忍の御妻・妙常日妙が駿河国熱原弥四郎国重の娘であるとの記述があります。
また波木井実長の子・南部六郎次郎の系図上に熱原神四郎の名が見えます。
上記2点の画像を、後ほど談議所にアップさせていただきます。

引き続き、関連史料をあたってみます。

3183彰往考来:2007/02/05(月) 06:49:44

>3180しゅんかんさん

そうです。静岡県富士市厚原489の本照寺さんです。

3184彰往考来:2007/02/05(月) 06:51:31

熱原法難の処刑日について(その2)

スレッド3179の続きです。

【2】弘安2年10月12日説
この説は、弘安2年10月12日に顕されたとされる本門戒壇の板漫荼羅絶対視からくる原理主義的なものでしょう。御書である「聖人等御返事」の内容からもこの説は否定されるべきで、当の石山(日蓮正宗大石寺)でもこの説をとっていません。後で出てきますが現在の石山は弘安2年10月15日説をとっていると判断されます。
弘安2年10月12日説は下記資料に記載されています。
・手塚寛道『富士の教義(下)』昭和50年第5版(初版:昭和43年)、青金社、123頁
・安立行(玉井禮一郎)編著『日蓮大聖人自傳』昭和57年、墨水舎、413頁
・菅原関道『興風〔第5号〕』所収「開山日興上人についての私論(1)」昭和61年、興風談所、21頁
『富士の教義(下)』には、「滝泉寺申状には次のように書かれています。 (中略) 鎌倉在住の多くの御門下も百方手をつくされましたが、これらは一切認められず、黙殺され弘安二年十月十二日(西紀〜1279年)神四郎、弥五郎、弥六郎の三人の首を切り、残りの十七人は追放したのであります。以上で熱原の法難は終わったのであります」(123頁)と書かれていて、いやはや実に単純・明快な論調で信じるものは救われるということでしょう。こんな単純な弘安2年10月12日説を今でも信じている人がいるのか疑問です。
『日蓮大聖人自傳』では、堀日亨師は弘安3年4月8日説であるが「富士門流の中では定説となっていない」(412頁)と指摘しています。そして日蓮正宗宗門は十月十五日説であるとし、日蓮正宗妙信講(現在の顕正会)の弘安2年10月12日説を紹介しています。安立行(玉井禮一郎)氏のいう妙信講(当時)の主張内容は「一方同じ日蓮正宗妙信講では、三人の斬首がおこなわれたのは十月十二日であるが、その〝私刑〟の事実が外部に知れたのが十月十五日であるとし、十月十七日にその報に接せられた大聖人が、日付を遡上って十月十二日とされて図顕されたのであるとしている(同講本部幹事村岡長治氏談)。」というものですが、安立行(玉井禮一郎)氏は同書415頁に「果たせるかな、十月十二日、神四郎ら三人は斬首され、それにもめげず残りの法華講衆は退転せず、強信を貫いた。十月十七日にその報に接せられた大聖人は十月十二日を永遠に記念すべく、すでに造立されていた「戒壇本尊」にその日付をあらためて〝画龍点晴〟されたのではなかろうか」と妙信講(当時)の主張内容と同じ自説を展開しています。しかしながら玉井禮一郎氏はその後の著書である『創価学会の悲劇』(平成4年第5刷(初版:昭和63年)、たまいらぼ)に、「私もかつて大石寺の板本尊をまがりなりにも信じていた時期があった。 (中略) そしてそのような信解のもとに、昭和五十五年四月、安立行というペンネームで『日蓮大聖人自伝』(たまいらぼ発行)という約五百ページの膨大な日蓮伝を世に問うたことがある(引用者注:『日蓮大聖人自傳』の発行日は昭和57年(1982)5月31日。また発行所は「たまいらぼ」ではなく「墨水舎」。墨水舎=たまいらぼ であるかどうかは不明ですが、発行所住所は両社とも同じです)が、いまそれを読みかえしてみると、大石寺の板本尊論の不整合性、不蓋然性に対する私の疑問のかずかずがあらためてもっともなこととしてうなずける。そこで拙著からその部分に若干の訂正を施してつぎに掲げる」(30頁)として引き続き修正版を再録していますが、そこでは弘安2年10月12日説は消え、堀日亨師の弘安3年4月8日説を紹介しつつ「大石寺流の中でも定説となっていない」(51頁)と指摘しています。そして日蓮正宗宗門の十月十五日説には、「十月十五日説が正しいとすると、板本尊の十月十二日との三日間のズレが説明できない」(52頁)とするに止めています。『創価学会の悲劇』を読む限り玉井禮一郎氏は堀日亨師の弘安3年4月8日説のようですが明確にそう書かれているわけではありません。(つづく)

by 彰往考来

3185彰往考来:2007/02/05(月) 06:57:31

熱原法難の処刑日について(その3)

スレッド3184の続きです。

菅原関道師は『興風〔第5号〕』(昭和61年、興風談所)所収の「開山日興上人についての私論(1)」21頁に、
「従来、十五日説(山川智応著『日蓮聖人伝十講』等)を主張する依據となるものは、『伯耆殿御返事』の「但シ熱原ノ百姓等安堵セ令(メハ)日秀等別ニ問注有ル可ラ不ル歟」(引用者注:原漢文。(メハ)は菅原論文にはなく『昭和定本 日蓮聖人遺文 第二巻』1676頁により補記しました。堀日亨編『日蓮大聖人御書全集』での読み下し文は「但し熱原の百姓等安堵せしめば日秀等別に問注有る可からざるか」(1456頁)とあります)の文であり、この書状が十二日付になっていることから十二日には三烈士が生存していると断定したようだが、それは誤断である。宗祖が身延で十二日に認められた書状をもって、同日の鎌倉の様子をその中に見い出すことは無理である。つまり、宗祖は、鎌倉の八日、九日の状況を知らせにきた使者(多分、十一日か十二日に身延に着いたであろう)に対して十二日に書状を認めているのである。そして竜泉寺申状とこの書状を携えた者が鎌倉へ向って、十四日・十五日に到着した。その時すでに処刑が済んでいる。それで十五日酉の刻に日興上人からの書状になり、身延の宗祖のもとに十七日酉の刻に到達したと考えられる。さすれば、十二日に生存の根據は何処にも見い出せず、十五日処刑説もかなり薄弱となる。もとより現実に、十二日処刑の当該史料もなく史実的に十二日に断定するわけにはいかないが、十二日〜十五日と巾をもたせて考えることが妥当であることは十分指摘しうる。ならば、大石寺としては、古伝による十二日処刑、それが戒壇本尊由来および意義を顕わすという『三師伝』の伝承が存するのであるから、それに立脚すべきではないだろうか。(現在宗門では富士年表によれば十五日説)」とあります。
しかしながら菅原論文の論旨は、〝最初に弘安二年十月十二日の戒壇本尊ありき〟であって、とても文献史学的な観点からみた時に耐えられる内容ではありません。ご自身で「十五日処刑説もかなり薄弱」、「十二日処刑の当該史料もなく史実的に十二日に断定するわけにはいかない」とおっしゃりながら、「十二日〜十五日と巾をもたせて考えることが妥当であることは十分指摘しうる」という論理の飛躍にはついていけません。論拠とするのが「古伝による十二日処刑」では説得力はゼロに等しいでしょう。“古伝”とおっしゃるのであれば、どの史料なのか、どういう内容なのか明確にすべきでそれをせずして「妥当である」もへったくれもないでしょう。「家中抄」には「同(引用者注:弘安)三年に法華宗の檀那三人をば頚を切ってぞ捨たりける」(『富士宗学要集 第五巻 宗史部』昭和53年、創価学会、152頁)と、明確に「弘安三年」とあるのと、いわゆる“古伝”との内容差はどう説明されるのでしょうか? なぜその“古伝”内容を日精師は「家中抄」に記載していないのでしょうか?それは、日精師が「古伝による十二日処刑」という内容をご存知なかったからでしょう。(つづく)

by 彰往考来

3186彰往考来:2007/02/05(月) 06:58:46

熱原法難の処刑日について(その4)

スレッド3185の続きです。

菅原関道師の論文(「開山日興上人についての私論(1)」)でいう『三師伝』の伝承とは何でしょうか? 『三師伝』とは「三師御伝土代」のことでしょう。「三師御伝土代」に「その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」(『富士宗学要集 第五巻 宗史部』8頁)とあるのが「戒壇本尊由来および意義を顕わす」という伝承なのでしょう。しかしながら、どうしてこれが「十二日処刑」につながるのでしょうか? 興風談所の池田令道師は、『興風〔第16号〕』(平成16年、興風談所)所収の「大石寺蔵『御伝土代』の作者について」の444頁に、「はたして堀日亨師が述べるように、本当に日道は熱原法難のことを詳しく知らずに人数を誤記したのであろうか。私はそうは思わない。『弟子分本尊目録』の述作が永仁六年で日道十六歳。記念本尊の徳治三年は堀日亨師も言われるように日道二六歳である。とりわけ日興に薫陶を受けていた日道がこれらの記述を知らないで生涯を過ごしたとは思いづらいことである。おそらく『御伝土代』の作者は『弟子分本尊目録』や本尊脇書の記述を知らず、伝聞をもとに作文したものと思われる。それが日時であれば得心がいこう」と記述されているように、「三師御伝土代」は日時師が「伝聞をもとに作文した可能性」があり、文献史料として信頼するのは問題があると考えます。もっとも菅原関道師は『三師伝』の〝伝承〟としています。〝伝承〟ということは、最初から信憑性に欠けることを認めているわけです。

堀日亨師の『富士日興上人詳伝』(昭和38年、創価学会)に、「飛曼荼羅(中略)は、三枚続き、全面興師の壮年時代の筆法、年代が文永五年十月十三日とあるの相応するが、書式はまったく弘安年度のでありて、日蓮の名は興師御筆で花押だけが蓮祖のであり、荒町より青葉城内に飛んで火難を避けたというよりも、大いに不可思議な御本尊であるが、ここには早くより座側にありては代筆をも勤められたことの証左にならぬでもない」(16頁) とありますが、これはおかしな内容です。堀日亨師は「三師御伝土代」に「その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」とある内容の傍証に、「飛び漫荼羅」を持ってきたのでしょう。日精師の「家中抄」にも、「同(引用者注:弘安)三年に一百六箇血脈抄を以って日興に授与し給ふ、剰ひ此ノ書の相伝整束して日興に伝ふ、亦本尊の大事口伝あり是レを本尊七箇口決と申すなり、是の故に師に代りて本尊を書写し給ふ事亦多し 日興書写の本尊に大聖人御判を加へ給へるあり奥州仙台仏眼寺霊宝其証なり」(『富士宗学要集 第五巻 宗史部』154頁)とありますが、弘安3年に蓮祖から興師へ本尊の口決相伝があり、御本尊の代筆を興師がしていたという証左には “文永5年”の「飛び漫荼羅」はなり得ませんし、師に代りて本尊を書写し給ふ事亦多しという事を証明する弘安期の御本尊は存在しません。そもそも「飛び漫荼羅」は偽筆です(拙稿:「飛(と)び漫荼羅(まんだら)」に関する一考察 
http://fujikyougaku.fc2web.com/ronbun/tobimandara.htm
を参照ください)
から、そのようなものを証拠にかかげても墓穴を掘るだけです。

by 彰往考来

3187犀角独歩:2007/02/05(月) 09:59:26

独学徒さん

たいへんに興味深い資料のご呈示有り難うございます。

江戸期ですか。
つまり、この図は、それまでの資料を整理して、江戸期の人が、作図したものということでしょうか。
ご教示いただければ有り難く存じます。


彰往考来さん

久方のまとまったご投稿ですね。
これまた、興味深く拝読しました。

やや、所見。
『悪書「板本尊偽作論」を粉砕す』では「一日に本懐に達すと仰せ給い、徐ろにご用意の上十二日の日を選んで御本尊を顕発遊ばされたと拝するならば最も自然の事ではないか」(P27)と言っていました。また、ブログでも取り上げましたが、日興と共同建立だというのが細井氏の言うところでした。12日に日興宛に手紙を書いているわけですから、論として破綻していますね。

模造品であるとわかったいまでは、よくまあ、いろいろな屁理屈を考えこねてきたものだ、ご苦労なことだったというほかありません。

わたしは個人的に、『弘安二年十月十二日』と彫刻に刻んだ理由は、一つは熱原法難物語とのモンタージュ、それともう一つあると考えています。
そのヒントは日蓮の生誕日伝説です。『三師御伝土代』の「貞応元年二月十六日誕生」という一節以外、上古でそれを伝えるものがないために、門下一般で定着した説でした。この日にちを見れば、直ちにわかるわけですが、要は釈尊入滅の翌日です。実際に日蓮がこの日に生まれたかどうか、生まれたかも知れませんが、あるいは誕生日をこの日にしたという可能性もありますね。いまは、法律が厳しくなった行われなくなりましたが、むかしは出生届で日にちを変えて出すと言うことはよく行われていました。近代でもそうですから700年前となれば、もっとおおらかだったのではないかと思います。「お釈迦様の入滅が2月15日だから、その翌日としておこう。釈迦滅後、法華経を流布する意義を籠めて…」といった調子ではなかったかということです。

同じように、日蓮の遷化が10月13日なので、その前の日としようという底意があったのではないかという仮説です。誕生日と同じ調子であれば、10月14日でよいわけですが、では、何故前の日としたか。明星直見相伝があります。
「明星が池を見たもうに日蓮が影即ち今の大曼荼羅なり」
日蓮が池の水面をのぞき込むと、自分の顔が写るはずが、大曼荼羅が写っていたという相伝です。日蓮が本当に語ったかどうか、まあ、語らなかったでしょう。もし、こんなことを知っていたとすれば、本尊集で見られるような、曼荼羅作風が10年間で劇的に変化していくようなことはなかったでしょうから。ここに明瞭に試行錯誤のあとが看取されます。
その真偽はともかく、この相伝からすれば、まず曼荼羅あり、次に日蓮という時系列が物語の根底にあります。(いわば本尊勝日蓮劣、そんなことは言いませんが、実際の扱いはそうなっています。信者では顕著で、日蓮像はそっちのけで漫荼羅ばかりを置いています)

そこからすると、日蓮遷化の日に曼荼羅造立日を置くという発想となります。年次として熱原法難とのモンタージュ、日付としての遷化1日前という2つのアイディアが「弘安二年十月十二日」伝説を生んだのではないか、やや想像を逞しくすれば、そんなところではないかと考えています。

「飛曼荼羅」のご高察は、当オフ会で発表していただいたものでした。
既に1年半前のことになりました。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/21187099.html

最近、この曼荼羅の写真をしみじみ眺めたのですが、この「日蓮花押」
誰が模したものにしても、ひどいですよね、これは。
これを堀日亨氏は、日蓮の花押だと言ったわけですか。もはや、ほとんど、この人の曼荼羅の鑑識眼はゼロに等しいと思えます。
彰往考来さんが最後に、謙遜されながら、書かれた一節に、わたしは大いに賛同します。また、このことは、日蓮作と偽った「本門戒壇の大御本尊」、日興作と偽った「大石寺持仏堂安置本尊」にも言えます。

「…ちょっと調べれば偽筆とわかるのが「飛び漫荼羅」である。このようなものを "真筆だ"、"重宝だ" といって騒いでいたプロの宗教家たちはいったい何者なのであろうか。恥ずかしくないのだろうか。金儲けのためには何をやってもよいのであろうか。 故意か過失かは別にして詐欺行為に等しいことを自覚してもらいたい。すでに鬼籍(きせき)に入った人を含め、猛省(もうせい)していただきたいものである」

3188独学徒:2007/02/05(月) 11:36:03

犀角独歩さん、

はじめに昨日の投稿に誤記がありました。

誤:富木常忍の御妻・妙常日妙が駿河国熱原弥四郎国重の娘である
正:富木常忍の後妻・妙常日妙が駿河国熱原弥四郎国重の娘である

です。失礼しました。


>つまり、この図は、それまでの資料を整理して、江戸期の人が、作図したものということでしょうか。

「日蓮門下系図」では、日通が披見した身延や中山法華経寺の宗祖真蹟遺文や真蹟曼荼羅に関する記述があるので、日通は系図作成の為にそれらの諸山を遊学していたものと思われます。
「日蓮門下系図」では、富木常忍の後妻を駿河国熱原弥四郎国重の娘としていますので、あるいは中山門流にそのような伝承があるのかもしれません。

「日蓮門下系図」は玉沢妙法華寺第33世の境持院日通によって書かれたもので、日通は1702年に出生し1776年に没しているとありますので、18世紀中ごろに作成されたものであろうと思います。
「日蓮門下系図」は日通の師僧である能持院日週が作成した、「過去帳」の裏に書かれているもので、興風談所の解題を要約しますと、当時の日昭・玉沢門流の思想的影響の下に作成されているとのことです。
能持院日週は1677年出生で1714年に没しています。そのことから日週と日通の接点は、日通が12歳までの間の期間ということになります。内容的に見ても、師日週の残した「過去帳」の裏に、ある程度修行を積んだ日通が書き込んだものと思われ、日週・日通の共同・同時進行的に作成されたものとは思えません。
よって、「日蓮門下系図」自体は18世紀中ごろの作成ではないかと思われます。
その意味では、れんさんご指摘の大石寺歴代としては、31世日因師の活躍された時代とほぼ同時期ということになろうかと思います。

3189独学徒:2007/02/05(月) 11:52:25

犀角独歩さん、

「日蓮門下系図」でもう一箇所、熱原弥四郎国重に関する記述を見つけました。
こちらは系図の註より、「東鑑」(吾妻鑑)を参照したことがわかります。
後ほど談議所の方に画像をアップします。

3190犀角独歩:2007/02/05(月) 22:03:21

独学徒さん

有り難うございます。
少し考えてみます。

3191彰往考来:2007/02/06(火) 06:50:14
犀角独歩さん

>明星直見相伝があります。
「明星が池を見たもうに日蓮が影即ち今の大曼荼羅なり」

明星直見相伝を詳しく知らないのですが「明星が池を見たもう」とあるこの日が弘安2年10月12日であるなら、すでに日宗研で発表していますが、弘安2年10日は金星(明星)が伏の時期で夜空に現れていません。従って史実的に論理破綻しているといえませんか?

3192彰往考来:2007/02/06(火) 06:52:18
>3191誤記訂正

誤:弘安2年10日は金星(明星)が
正:弘安2年10月12日は金星(明星)が

彰往考来   拝

3193顕正居士:2007/02/06(火) 08:03:01
>>3191
これは清澄寺の明星池です。
日寛師は建長5年4月28日としているそうです(取要抄文段)。

3194犀角独歩:2007/02/06(火) 08:34:16

彰往考来さん

『御本尊七箇相承』に

一、明星直見の本尊の事如何、師の曰はく末代の凡夫・幼稚の為めに何物を以つて本尊とす可きと・虚空蔵に御祈請ありし時・古僧示して言はく汝等が身を以つて本尊と為す可し・明星の池を見給へとの玉へば、即ち彼の池を見るに不思議なり日蓮が影・今の大曼荼羅なり云云、
此の事を横川の俊範法印に御物語りありしを法印讃歎して言く善哉々々・釈迦古僧に値ひ奉つて塔中に直授せるなり貴し貴しと讃め被れたり、日興は浪の上にゆられて見へ給ひつる処の本尊の御形なりしをば能く能く似せ奉るなり、仍つて本尊書写の事・一向日興之を書写し奉る可き事勿論なるのみ

日寛『六巻抄・三重秘伝鈔』に

御義口伝に云わく、自受用身即一念三千。
伝教の云わく、一念三千即自受用身云云。
御相伝に云わく、明星が池を見たもうに日蓮が影即ち今の大曼荼羅なり云云。
本尊抄に云わく、一念三千即自受用身云云。
報恩抄に云わく、自受用身即一念三千云云。

同『同・当流行事鈔』に

我等唱え奉る所の本門の題目其の体何物ぞや。謂わく、本門の大本尊是れなり。本門の大本尊其の体何物ぞや。謂わく、蓮祖大聖人是れなり。故に御相伝(御本尊七箇之相承)に云わく、中央の首題、左右の十界皆悉く日蓮なり、故に日蓮判と主付給えり。又云わく、明星が池を見るに不思議なり日蓮が影今の大曼荼羅なり。又云わく、唱えられ給う処の七字は仏界なり、唱え奉る我等衆生は九界なり、是れ則ち真実の十界互具なり云云。

同『蓮祖義立の八相』に

清澄山に池あり明星水と名づく、祖師行法の時定んで此の水をむすべば、毎夜明星天子池の辺に下りて、吾祖師を守りたまふ

同『観心本尊抄文段上』に

…明星直見の伝受…

同『観心本尊抄文段下』に

…「明星直見の口伝」に云云

同『開目抄下愚記』に

明星直見の口伝に云く「即ち明星池を望みたまえば、日蓮が影は即ち今の大曼荼羅なり」と云云

同『取要抄文段』に

御年三十二歳、建長五年癸丑の春の比、再び故郷に帰り、末法の本尊を祈りたまうに、四月二十八日の暁天に、古僧示して云く「汝が身を以て本尊と為すべし」と。即ち明星池を見たまえば、不思議なり、蓮祖の影即ち今の大漫荼羅なり。この時、正しく我が身は法華経の題目なりと知り、朝日に向って始めて南無妙法蓮華経と唱え、而る後、無量の巨難を忍び、三大秘法を弘む。文永八年九月十二日子丑の刻、竜口御難の時、名字凡身の当体即久遠元初の自受用身と顕れたまえり。具には開目抄愚記の如し。故に蓮祖大聖人は末法下種の本仏、主師親の三徳なり。故に本尊と仰ぐべきなり。



七箇相承の段階で、言うところの本尊は、もちろん、いまの彫刻本尊とはまったく関係はなく、のちのモンタージュですね。
また、建長5年4月28日という特定もありませんが、日寛は、こう記します。
清澄寺に明星池というものがあったのかどうか、いま、ちょっとネットで検索したところ、星の井戸(明星井)というのはあるそうです。
http://astro.ysc.go.jp/izumo/n_kanto.html#070

日蓮が虚空蔵菩薩に祈願して、「明星の如くなる大宝珠」(清澄寺大衆中)とも言うわけですが、清澄寺には明星にまつわる何かがあるのでしょうか。
彰往考来さんが得意とされる分野のように思えます。

3195きゃからばあ:2007/02/06(火) 09:38:29

犀角独歩さん

大過去帳ですが、江戸時代から使われていると聞いています。
その大過去帳には5老祖も書かれているのに三烈士がないのは本当に変です。
それにしてもペットにも卒塔婆を勧める宗門が、三烈士に卒塔婆がないのはつまらない。
また今年の2月14日は大聖人の父(妙日尊霊)の750回忌もやらない。
さて4月2日の戸田城聖氏(大宣院)の50回忌はどうするのかなあ?
結局、宗門にとって俗は下という考えは変わらないのでしょうか?

3196パンナコッタ:2007/02/06(火) 14:50:58
しかし熱原の事件は、みなさんの考証を見ていると無理矢理"三烈士"を作り出した伝説のような
気がしないでもないですね。(烈士の語彙は池上兄弟を二烈士に譬喩した兄弟抄に対するのかな?)
御伝の「大聖人の御弟子数百人僧俗斯の如く頚を切たるはなし」→おかしいですね。八月に弥四郎男が頚を切られているのに。
これは彰往考来さんご指摘のように後世の産物でしょうし、追伸末尾の「在世一代乃至于時応永十年癸予九月廿二日の
三行あるに依り後師誤りて日時上人作の三師之伝とせし事あり今因に之を記し置く」が、言わずものがなでしょう。

この時期の日興写本"伯耆殿御返事"を見てみますと、『但現証の殺害刃傷のみ』は、御神事の時の四郎男、
八月に頚を切られた弥四郎男の事でしょう。 また、この弥四郎に関連づけて本門戒壇の板本尊伝説が形成された
パッチワークの一助になっている(日付の相違を含め後代に混乱・改竄はされたでしょう)ような気もしますね。

さてここからは単なる主観なのですが、この弥四郎男、本当に個人の弥四郎さんなのでしょうか?
滝泉寺申状(今では滝泉寺大衆日秀日弁等陳状案と言うそうですけど)の該当文は、
 『政所代去四月御神事之最中
  法華経信心之行人令刃傷四郎男去八月令切弥四郎男之
  頚【日秀等擬刎頭事此中書入】』
 http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/colum_ft.html  (原文17年2月のC参照)
"弥"という字は妙楽の「教弥」でおなじみの、弥【いよいよ】という副詞の意味もとれますので、
"去ぬる八月弥(いよいよ)四郎男の頚を切らしむ" だったのかもしれません。(?_?)エ?
まあ、これは単なる思いつきに過ぎないのですし、その様に読めないこともない程度のことですが、
独学徒さん指摘の常忍筆の、この部分の文章のつながりは悪くはないでしょう。(被害者は一人でより強調された文意になりますな)

いずれにせよ苅田狼藉事件以後ばかりがクローズアップされますが、人が斬り殺されたことに言及できるのは八月に頚を切られた
この"男"であり(弟子分本尊目録の記述や徳治三年の脇書があった上で)、この人物の扱いが自分にはチト不憫に思えたので、
この様な愚考をした次第です。

3197しゅんかん:2007/02/06(火) 18:11:50
>8183彰往考来さん有難うございました。

3198れん:2007/02/06(火) 18:55:28
独学徒さん御提示の資料で他門にも、江戸時代においては一連の弥四郎国重伝説が定着していたことが分かりますね。
このネタ元が石山ならば、石山の江戸初期以来の彫刻成立神話の口コミ宣伝?が功を奏したということになりますし、弥四郎国重が他門に先行していた伝説ならば、むしろ、それをパクッたのは石山ということになると思います。
郷師門流の小泉久遠寺の伝承では、同寺蔵の板本尊にならって石山で彫刻が作成されたとされております。私見では両寺の板本尊は安土桃山時代から江戸時代初期の両寺の復興に伴い、最初に小泉久遠寺で板本尊が作成され、その後、小泉の板本尊から着想を得て、石山の彫刻が作成された可能性が高いと考えていますので、石山彫刻の「弥四郎国重」も他門に先行して存在した弥四郎国重伝説からパクッて来た可能性も有るでしょうね。
少なくとも、江戸時代においては、他門でも弥四郎国重を肯定的に捉えていますから、他門に先行して存在していた弥四郎国重の伝承を採用して「本門戒壇之願主」に仕立てたというのが、史実に近いものと愚考します。
しかし、きゃからばあさんが仰るように、熱原法難における張本の神四郎・弥五郎・弥次郎の三人の存在がクローズアップされすぎて、熱原における最初の犠牲者というべき四郎男や弥四郎男の伝が、竜泉寺申状以外失われてしまったのは残念ですね。

3199彰往考来:2007/02/06(火) 20:43:40
>3193 顕正居士さん
>3194 犀角独歩さん

よく解りました。ありがとうございました。

>日蓮が虚空蔵菩薩に祈願して、「明星の如くなる大宝珠」

本件、思うところがあるのですが、分析などに時間がかかりまして後回しになっています。
まあ、将来への楽しみということで。この解析をしないと死ぬに死に切れませんので長生きできそうです。

3200れん:2007/02/06(火) 21:53:49
横レス失礼します。
池田令道師著「富士門流の信仰と化儀」によると清澄寺では鎌倉期の当時盛んに修行僧による“虚空蔵求聞持法”が行われていたと紹介されています。
その求聞持法の際の所作の中には「明星天子供の時は別して本尊を安置せず、窓アケテ直ちに生身の明星に之れを供し奉る」という儀式があるようです。
あとは彰往さんの後々の分析とその結果の御発表を待ちますが、富士の明星口伝はともかく、開宗以前の出家前後の蓮師の清澄寺における修法には興味深く思います。彰往さんの御研究と後々の御発表に期待申し上げるものです。

3201独学徒:2007/02/06(火) 22:08:49

彰往考来さんの解析、私も楽しみにしています。

以下、私は詳しくないのでつぶやきですが、田中成明著『虚空蔵求聞持法』には、「求聞持法の修法には月と星の位置が重要であり、方位、地形が大事なのです。」とあります。
どの本で読んだか記憶が定かでないのですが、『虚空蔵求聞持法』は開始と終わりも、月・星の関係が重要であると読んだ記憶があります。
また開始から終わりまで100日間を要しますので、年の初めの良月星日に開始したと考えれば、終了は4月のいつかになると思いますので、4・28というのは、あるいは日蓮が『虚空蔵求聞持法』を終えた日となんらかの関係があるかもしれませんね。

3202独学徒:2007/02/06(火) 22:23:56

れんさん、ググッて見ますと、空海の「三教指帰」の「谷、響を惜しまず。明星来影す。」がヒットしますね。
空海は口中に明星が飛び込む神秘体験をもって『虚空蔵求聞持法』を終了したようですね。

http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/gumonnjihou.htm

3203犀角独歩:2007/02/06(火) 22:30:18

みなさん、今日、五老門下の本尊相伝に類似したものはないかと読みはじめました。いまのところ、ヒットしません。

明星の意味、わたしは頭がまるで文系なので、現段階でリタイヤです。
彰往考来さんのご賢察に期待しています。
「長生き」などと先のことを仰らず、早々の経過報告も期待します。

3204れん:2007/02/06(火) 23:03:50
独学徒さん、弘法大師における“虚空蔵菩薩求聞持法”につき、ご教示頂き有難うございます。
先に引用した池田令道師の著書によりますと、鎌倉末期の天台僧光宗が著した「渓嵐拾葉集」には、当時、行者が憶持不忘の心地を獲得するために虚空蔵菩薩求聞持法を行ずるならいがあったそうです。
清澄寺には不思議法師が造立したという虚空蔵菩薩像がありますし、当然、若き日の日蓮も修法したでしょう。
中ん就く空海のそれと対比する時、「清澄寺大衆中」に見える神秘体験が蓮師における求聞持法の“成就”を意味したといえるのかも知れませんね。
それがいつ行われたかを解析できるのは、やはり彰往さんですね。

3205犀角独歩:2007/02/06(火) 23:30:14

きゃからばあさん

2月14日で妙尊の七百五十回忌でしたか。
これって、どこもやらなかったんではないでしょうか。
14日が妙日、15日はお釈迦様、で、16日は日蓮誕生、目白押しなんですね。


パンナコッタさん

なるほどと思いました。

それにしても、石山正統の後継者であるはずのが、日道が熱原三烈士を二人と間違え、それでも、「本門戒壇の大御本尊」は日蓮と日興が共同して作ったという石山の言い分は、ほとんど、笑い話ですね。

わたしの前哨で頚を切られて顧みられない弥四郎男を気の毒に思っていました。

3206きゃからばあ:2007/02/07(水) 11:05:11

独学徒さんこんにちは。
独学徒さんのサイトは素晴らしいですね。

>4・28というのは、あるいは日蓮が『虚空蔵求聞持法』を終えた日となんらかの関係があるかもしれませんね。

私は4月28日は方便品の『我始坐道場 観樹亦経行 於三七日中 思惟如是事』「われ始めて道場に坐して 樹を観じまた経行して 三七(21)日の中において かくの如き事を思惟せり」をみて、釈迦の生誕(4月8日)から21日目の4月28日が満願日と想像しています。

3207犀角独歩:2007/02/07(水) 20:44:02

3205への自己レス

> 2月14日…どこもやらなかった

これは過去形で記していますね。来週のことでした。
やるかやらないかは結果待ち、さて、どうなるでしょうか。

3208独学徒:2007/02/07(水) 20:54:14

きゃからばあさん、今晩は。
>釈迦の生誕(4月8日)から21日目の4月28日が満願日
なるほど、こちらも説得力ありますね。


犀角独歩さん、
>> 2月14日…どこもやらなかった
一瞬、バレンタインディのことかと思ってしまいました。

3209犀角独歩:2007/02/10(土) 06:33:31

723 藪の中さん

こちらに移動しました。

> 日蓮さんの遺骨は何処にあるのでしょうか?

身延山久遠寺の、宗廟と御真骨堂の2カ所ではないでしょうか。
宗廟から御真骨堂に移されたときの最後の証言者が、前法主であったという話でしたか。そんな話を聞いた記憶があります。
また、その際、御真骨は拝観できたということでした。
あと、日蓮の荼毘は東京大田区池上でなされたわけですが、この際、分骨があったようで、ここに遺り、御影堂にも籠められていたという記事があったのでしたか。この件は、随分と皆さんの議論したことでした。どなた補完していただければと存じます。

> 身延の特別参拝で見られるものでしょうか?草庵跡近くのお墓にあるのでしょうか?

あります。見られないと思います。

可能性の一番高いことを、教えてください。

> もし法華経が御釈迦さんの説かれたものでは無いと知っていたら、どうなっていたのでしょうか。

この点は難しいところですね。
容易に答えは出ませんが、真剣に考えなければならない点だと思います。

3210犀角独歩:2007/02/10(土) 06:40:38

【3209の訂正】

誤)御影堂にも籠められていた
正)御影像にも籠められていた

3211顕正居士:2007/02/10(土) 08:17:57
日蓮の遺骨を祀るのは
甲斐久遠寺、鎌倉本覚寺、京都妙伝寺、京都宝塔寺、池上本門寺の5箇寺ですか。
本覚寺のは日朝が身延から分骨したもの。本門寺のは日蓮坐像(重文)の胎内です。
妙伝寺や宝塔寺のは縁起が幾らか不分明です。

3212犀角独歩:2007/02/10(土) 09:14:28

顕正居士さん

補完、有り難うございました。

3213パンナコッタ:2007/02/10(土) 12:36:36
御廟所の参考に。
 http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-n-sisou.htm#nichiren
関西身延 妙伝寺の一般的な寺伝。
 http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/folder/1463035.html

3214再挑戦者:2007/02/10(土) 18:28:51
 素朴な疑問です、、。
 昨今、、甲府市周辺で、墓石、、灯篭への倒壊の被害が連続のようです。 ナゼ、、ナニユエ、、にこのようなケッタイな事件が起こるのでしょう、、、ネ、、?   一般の庶民はアセ水たらして必死にガンバッテいますが、(正社員にイジメられながらも)、シコシコとガマンの労働に甘んじています、。
 しかし、、何もアセミズも流さず、人の死ぬのを、、ただ葬儀を待機、?、、して、いるような葬式仏教世界が存在、のようです、、? 片方で楽な、、甘い社会を満喫するオカシナ時代でしょうか、?? この一件は時代の裏側からの厳しい、?、シッペ返しの一端のような感じをいたします、、。 愚考でした、、。

3215藪の中:2007/02/10(土) 19:13:04
有難うございました。犀角独歩さんと交流できるとは、感動です!

お墓参りは、いつも身延の草庵跡横のお墓に行ってます。
御遺骨が、有るとの説明で、よかったと思いました。
お釈迦さんのことですが、日蓮さんは、実直な人と思われ、もし説かれていなかったら、
私は日蓮宗は無かったように思います。そうでなければ、嫌いです。って、自分の
感情をいっても仕方ないけど・・・

3216天蓋真鏡:2007/02/10(土) 20:24:11
横レス失礼します。 ●分骨ですか。私は粉にして土に帰すなり川海に帰すなりで、拘りませんが拘りませんが、、 ●信仰では無くて学問に進んで世の為人の為に仏教界に法華の世界を説いた。と想います。三身説を用い本仏はシャクソンかもしれません。何故なら、法華一乗で成仏、立正安国の仏国土を一人ひとり現出させる教えを、鎌倉時代の僧・日蓮は説いた。と思い考えます。

3217パンナコッタ:2007/02/10(土) 20:35:40
再挑戦者さん、甲府周辺での墓石倒しの犯人は逮捕されていますよ。
 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070210i306.htm

別に意味など無いでしょう。
むしろ倒された墓石が、自分の家のものだったらと考えてみてください。

3218しゅんかん:2007/02/10(土) 22:53:35
蓮祖の御真骨

真如寺(通称、能勢妙見山・大阪、兵庫、山頂に在り両県にまたがっている)
妙顕寺(京都市)蓮永寺(静岡市)妙本寺(鎌倉市)妙顕寺(栃木県)
孝勝寺(仙台市)

御歯二顆
妙照寺(新潟県)
         {以上、日蓮宗の本山めぐりより}

3219藪の中:2007/02/10(土) 23:38:13
早速有難うございました。犀角独歩と、交流でき、感動です。
 いつもお墓参りは身延の草庵跡横のお墓です。そこにご遺骨が
有るとわかり、ほっとしました。

お釈迦様の件ですが、日蓮さんは実直な方と思い、もし偽経とわかっていたら
日蓮宗は無かったと、思いたいです。ってなんの確証も無いですが・・・

3220再挑戦者:2007/02/11(日) 19:27:15
3213の方
 意味なし、、とは、、??
 貴殿も感度がかなり低下のようですナ、?
 庶民があらゆる宗教から見放されている現実の一端緒、、として、、?? 感じても、??
 無理かもしれんが、 一般信者への配慮が、、???、、のようでしょうか、、??

3221再挑戦者:2007/02/11(日) 19:48:23
 続、、。
 イワユル 登山会なるニセ・イベントを企画・運営された方方は、、??誰、??誰、、?? でしょうか、??
 この一件だけは、、決して、、看過、、は、、不可能、、でしょう、、。
 ナぜなら、、この一点に、、、全てのダマシの凝縮が存在する、からです、。
 「イチエンブダイの、、ミゾウの、、戒壇さま、??、、」、、なるエエカゲンな御伽噺にマンマと引きかかり、騙された我らの悔しさを、、今こそ、、再確認をしたいものです、!!
 このまま、、ダマサレ続けるのは、??ゴメンこうむりたい、、が、、。

3222パンナコッタ:2007/02/12(月) 12:39:52
>>3220
 >貴殿も感度がかなり低下
錯乱状態の男が引き起こした器物損壊事件を、主観で凶相の意味づけにするのは勝手ですが、
 "人間が引き起こした人間界の出来事は、人間の手で対処する"という
一般社会の成り立ちを、まずあなたは理解した方がよいでしょう。



管理人さんへ
もしこの先、この件についてスレが荒れるようなことがあれば、直接蓮祖とは関係ない事ですし
また書き込み諸賢の迷惑になりますので、>>3217 を考慮していただき削除のご判断をしてください。

3223藪の中:2007/02/12(月) 17:24:49
 犀角独歩さんから、お答えいただき 感動しています。
身延山の草庵跡横の御廟のにいつもお参りに行きますので、お骨のあるとの回答
ありがたいです。

法華経の偽経の件は、日蓮さんは、実直な方、法華経は選ばなかったと私は
思いたいです。 勝手な解釈。

3224犀角独歩:2007/02/12(月) 17:39:59

藪の中さん

恐縮です。

身延の御廟をわたしもとてもいい場所であると思っています。

法華経が偽經という点ですが、これは最大の難問です。
少し前、松山俊太郎師の「法華経講義」に参加していたのですが、法華経を人類史の金字塔であるとまで仰っていました。
また、種々の新しい神仏信仰の習合から、釈尊信仰への復帰なのだと講義されていました。

法華経は西暦前後数百年の間に創作された物語である。
その法華経を創作し、決して怒らず、艱難辛苦に耐え、軈て滅んでしまったこの集団が遺したもの。わたしは法華経の精神性は、決して嫌いではありません。
ただ、これは釈尊の直説であるという蛮勇はもちろん、持ち合わせていません。

これらの点は、法華経のことと併せて、以下でスレで議論してきたことでした。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/l50

3225再挑戦者:2007/02/12(月) 19:29:04
3222様、、かなりのきついご要望です、。 御削除はおまかせします。
 ただ 小生が申し上げたかったのは、、親しい人の死を悼み、悲しみにくれる遺族を慰める寺院関係のシガラミがいかがでしょうか、?? と言う感じがございました。
 昨今、音楽葬、海への散骨葬、親族だけの家族葬、過疎地では僧侶不在の無住寺も増えています、。
 現今はマスマス宗教色が薄れていますようです、、。 庶民の本音は「、、たかが、葬式、、されど、、葬式、、には金、、カネ、、おかね、、を掛けたくない、、??」、、と言う現実が存在のようでしょうか、?
 だからこそ「、火葬だけの”直葬式”」、が急増のようでしょうか、?
 もうすでに、お寺さんは高すぎる存在のようでしょうか、? 愚考でした、、。

3226顕正居士:2007/02/12(月) 19:34:56
大乗経はインド以来、報身仏(ビルシャナ仏)の説法であるとしますから、
肉身の釈尊(化身、応身)がそれらを説いたと考えたのではありません。
肉身の釈尊が説かれたのは三蔵の経、戒だけとするのです。

3227パンナコッタ:2007/02/12(月) 21:11:06
再挑戦者さん、
削除云々というのは、もし自分とのやりとりで荒れてしまった場合は、
その原因となる>>3217を、管理人さんの判断で削除して下さいと云うことで、
意見を削除しろという意味ではありません。

3228再挑戦者:2007/02/15(木) 20:00:22
 、、ご了解いたしました、、。 ご心労は深く陳謝致します、、。

3229きゃからばあ:2007/02/16(金) 10:14:45

3173の訂正

>また後ろの板碑にも日柱上人の文で同様の名前になっています。

三烈士の後ろの板碑(英魂之碑)ですが、『諸記録』によると日応上人となっていました。
そしてさらに「刎頭之日実弘安三年四月八日也」とありました。

3230犀角独歩:2007/02/16(金) 10:29:59

3229 きゃからばあさん

有り難うございます。
わたし個人にとっても有意義なご投稿でした。

3231彰往考来:2007/02/17(土) 08:19:04

弥四郎国重伝説

>3187 この図は、それまでの資料を整理して、江戸期の人が、作図したものということでしょうか
>3188 あるいは中山門流にそのような伝承があるのかもしれません
>3198 独学徒さん御提示の資料で他門にも、江戸時代においては一連の弥四郎国重伝説が定着していた

堀日亨師は、『熱原法難史』(大正12年、雪山書房、170頁)に、「辨師の俗姓は自門では不明であるが他門では熱原甚四郎國重の長男で富木殿の妙常日妙は其姉で下野公日忍は其弟、日頂日澄乙御前は其甥姪、天目も亦甥である様に云うてある」と記しています。
いつもながら日亨師の文章は解かり難いのですが、「日弁(辨)師の俗姓は大石寺門流では不明であるが、他門では熱原甚四郎國重の長男で富木殿の(後妻である)妙常日妙は日弁の姉で下野公日忍は日弁の弟、日頂日澄乙御前は日弁の甥と姪、天目も亦甥であるといっている」という意味です。ここでいう他門とは中山門流ではなく身延門流を指すと私は判断します。その根拠は享保15(1730)年に成立した身延山36世の六牙院日潮師の『本化別頭佛祖統記』の「巻二十四〔列傳〕優婆塞」の記載(『本化別頭佛祖統記』昭和48年、本山本満寺、522頁)です。
堀日亨師は、『熱原法難史』238頁の「古史傳集録」にこの『本化別頭佛祖統記』の「巻二十四〔列傳〕優婆塞」の個所を引用しています。そこには、
「日住禪門ハ日辨日忍兩師ノ父熱原氏甚四郎國重ナリ、駿州富士郡ニ農耕ヲ業ト爲ス、家世豪富頗ル才識アリ邑ノ小吏ト爲ル、又一女アリ天目ヲ産ム(以下略)」(引用者注:「熱原氏甚四郎國重」は“氏”が挿入されていますが原文ママ)とあります。「日住禪門」とは「熱原甚四郎國重」の法名ですが、堀日亨師は、『熱原法難史』175頁に、「本照寺の明暦元年(引用者注:1655年)の舊記には「熱原甚四郎國重法名法喜日住禪門當村ノ郷士ナリ時ノ名ハ熱原彌太郎宗祖ノ教化ヲ受ケテ歸伏ノ後藭四郎ト名ク」とあるのを取れるかとも思はる、併し三百年後の記録なれば信を措かれず法喜日住禪門の法號も疑わしいのである」と「熱原甚四郎國重」の法名が「日住禪門」というのは疑わしいとされていますが、日潮師の『本化別頭佛祖統記』が本照寺の明暦元(1655)年の古記などを参照したことは『本化別頭佛祖統記』成立年(1730年)から考えて十分有り得ることです。
独学徒さんがご紹介の興風叢書〔8〕の「能持院日周筆 境持院日通筆 過去帳・日蓮門下系図」(平成16年、興風談所)
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/8/8/

の「日辨」の項にも『本化別頭佛祖統記』と同じような内容が記載されています。本過去帳の成立年は未詳ですが、当該部分は「日通筆」(3頁)とのことで、日通師は(1702−1776年)ですから、本過去帳の当該部分の成立は『本化別頭佛祖統記』の成立した享保15(1730)年より古いと考えます。
よって他門流にある弥四郎国重伝説は、『本化別頭佛祖統記』によるもので、その出所は本照寺の明暦元(1655)年の古記などであり、中山門流にそのような伝承があったとは考え難いということです。

by 彰往考来

3232彰往考来:2007/02/17(土) 08:27:01

>3231 誤記訂正

誤:本過去帳の当該部分の成立は『本化別頭佛祖統記』の成立した享保15(1730)年より古いと考えます。
正:本過去帳の当該部分の成立は『本化別頭佛祖統記』の成立した享保15(1730)年より新しいと考えます。

彰往考来

3233犀角独歩:2007/02/17(土) 09:25:26

彰往考来さん

「‘甚’四郎國重」でよろしいのですね。

もう一つ質問をさせてください。

●郎の頭に付く、神、弥、また、甚は、名前の内ですか、それともそれ以外でしょうか。

3234彰往考来:2007/02/17(土) 09:54:44

>3233

3231投稿で使用した資料のうち『本化別頭佛祖統記』は「‘甚’四郎國重」となっています。
再度よくみたところ、『熱原法難史』175頁では、「本照寺の明暦元年(引用者注:1655年)の舊記には「熱原‘藭’四郎國重(以下略)」となっておりました。謹んで訂正いたします。

>●郎の頭に付く、神、弥、また、甚は、名前の内ですか

名前の内と考えています。但し、“神”は最初は“四郎”であったが処刑後に、“神四郎”となった可能性があると考えています。
それは、「龍泉寺申状」(『日蓮大聖人御書全集』昭和46年第67刷(初版:昭和27年)、創価学会、853頁)に「四郎男」が出てくるからです。
なお、『日蓮大聖人御書全集』に「弥四郎坊男」(853頁)とありますが、これは「弥四郎男」(やしろうお)の誤記で、ご真筆により訂正した旨の謹訂が、『日蓮大聖人御書講義 第13巻』(平成13年、政教新聞社、380頁)に書かれています。
参考までに『日蓮大聖人御書講義 第13巻』に「「男」というのは、当時、農民等の名に慣用的につけれれたもの」(352頁)
とあります。

彰往考来

3235彰往考来:2007/02/17(土) 09:57:23

>3234

またやってしまいました。誤記訂正です。

誤:政教新聞社
正:聖教新聞社

ゴメンナサイ。

3236彰往考来:2007/02/17(土) 09:59:40

>3235 もう一箇所誤記訂正です。

誤:農民等の名に慣用的につけれれたもの
正:農民等の名に慣用的につけられたもの

謹んで訂正いたします。

3237彰往考来:2007/02/17(土) 10:04:13

>3234の追記

『熱原法難史』170頁は、「‘甚’四郎國重」となっています。

3238彰往考来:2007/02/17(土) 11:55:33

熱原法難の処刑日について(その5)

スレッド3186の続きです。

【3】弘安2年10月15日説
現在の日蓮正宗は弘安2年10月15日説をとると判断されます。それは日蓮正宗発行の下記書籍(一部創価学会他発行も含む)が弘安2年10月15日と記載しているからです。
・『日蓮正宗要義』202頁
・『慧燈〔創刊号〕』所収研究発表 熱原法難史146頁
・『熱原法難の歴史』103頁
・『富士年表』44頁
・『日蓮大聖人正伝』370, 476頁
・『日興上人日目上人正伝』84,92,491頁
・『法教学報〔第5号〕』所収「日興上人御入門時期拝考」183頁
もちろん探せばもっとあるでしょう。興味深いのは日蓮正宗関連の書籍で正式に弘安2年10月15日説が記載されるのが昭和53年の『日蓮正宗要義』からであることです。もっともこれは管見に入った資料での判断ですから、先行資料が存在する可能性はあります。ただ昭和45年発行の『日蓮正宗大石寺』(鳳書院、252頁)には「十月、頼綱は、神四郎等二十人を自邸に引き出し取り調べもせず、法華経の題目を捨て弥陀の念仏を称え(引用者注:“唱え”と思いますが原文のママ)よと迫ったが、神四郎等はあくまで法華経の信心を捨てず、題目を唱えぬいた。そこで頼綱は神四郎、弥五郎、弥六郎等(引用者注:“等”は不要ですが原文のママ)の三名を首謀者として、非道にも斬首っしてしまった」とあって記載内容から弘安2年10月15日説をとると考えられますが、具体的な処刑日は書いてありません。昭和50(1975)年発行の東京大学法華経研究会編『創価学会の理念と実践』(第三文明社)には、「1979年(弘安二年)九月二十一日、富士郡熱原の、大聖人門下の僧の持ち田で信徒が協力して稲刈りの最中、役人が大挙して襲い、農民二十人を捕え、その罪名を窃盗罪として幕府に訴えて、直ちに鎌倉へ連行したのである。その取り調べには平頼綱が私邸であたり、事件そのものには全くふれずに、拷問までして改宗を強要した。それはまさに私刑だった。二十人は拷問にもひるまず、信仰を貫き通したため、指導者格の神四郎ら三人が斬罪に処せられ、残りの十七人は追放された。日蓮大聖人は、このめざめたる民衆が権力に屈せず、生命を賭して法を守った法難を眼前にみて、大御本尊を受持しきるだけの信心、機根が調ったと確信し、全世界の民衆が根本として信仰すべき(一閻浮提総与という)本尊を建立されたのである」(210頁)とあり、処刑日を特定して書かれていなのです。もっとも「日蓮大聖人は、〜」以後の文章を読むと、“一閻浮提総与の大御本尊”の図顕日は弘安二年十月十二日ですから、生命を賭して法を守った法難を眼前にみてから建立されたのなら、熱原の法難の処刑日は弘安二年十月十二日より前となってしまうのですが、重箱の隅をつっつくようなことを言うのはよしましょう。「サンタさんなんてホントはいないんだよ、プレゼントは親が枕元に置いているのさ」と、サンタさんを信じている子供に言うようなものですから。ここで問題とすべきなのは、東京大学法華経研究会編『創価学会の理念と実践』が、昭和37(1962)年に発刊された東京大学法華経研究会編『日蓮正宗創価学会』および、昭和42(1967)年に改訂版が発刊された東京大学法華経研究会編『日蓮正宗創価学会』の再改定版にあたるということです。そして『創価学会の理念と実践』の元本である『日蓮正宗創価学会』ではなんと、弘安3年4月8日説をとっているのです。(つづく)

by 彰往考来

3239彰往考来:2007/02/17(土) 11:56:11

熱原法難の処刑日について(その6)

スレッド3238の続きです。

東京大学法華経研究会編『日蓮正宗創価学会』(昭和37年、山喜房仏書林、82頁)には「神四郎等の二十人は、その後獄中に投ぜられること半年、そのあいだ唯一心に題目を唱えて信仰ますます強盛であったが、弘安三年四月八日、神四郎、弥五郎、弥六郎の三兄弟は刑場に引き出され、発起人という廉(かど)によって哀れ斬罪に処せられ、残る十七人は付和雷同の従犯者として追放に処せられた」とあります。また昭和42(1967)年発行の東京大学法華経研究会編『日蓮正宗創価学会』(昭和42年改訂5版、山喜房仏書林、85頁)にも全く同じ文章が載せられています。昭和38年には堀日亨師の『富士日興上人詳伝』(創価学会)が発刊されていて91頁に、「神四郎等兄弟三人の斬首および他の十七人の追放は、弘安三年四月八日と定むるのが当然であらねばならぬことを主張する」とありますから、昭和38年ごろ日蓮正宗内は弘安3年4月8日説が主流であったと判断されます。これが昭和45年発行の『日蓮正宗大石寺』や昭和50(1975)年発行の東京大学法華経研究会編『創価学会の理念と実践』では明確な処刑日記載が消え、昭和53年の『日蓮正宗要義』202頁で明確に弘安2年10月15日説が現れるといった流れとなります。日蓮正宗内で弘安3年4月8日説から弘安2年10月15日説にコペルニクス的転回になっているわけです。弘安3年4月8日説は堀日亨師の説ですから、それを覆す論拠がなければなりません。その論拠は、私は日達師のご説法であったと考えます。
 河合一編『熱原法難の歴史』(1993年第14刷(初版1978(昭和53)年10月15日)、聖教新聞社、103頁)には『大日蓮』昭和38年11月号掲載の第六十六世日達上人のご指南を掲載し、ここでは明確に弘安2年10月15日説をとっています。残念ながら『大日蓮』昭和38年11月号は眼福を得ていませんが、河合一編『熱原法難の歴史』の<注六>に「昭和38年10月6日 法華講関西地区連合会第一回総会「御法主上人猊下御言葉」」(184頁)とありますので、『大日蓮』昭和38年11月号掲載の第六十六世日達上人のご指南は昭和38年10月6日の御言葉であることが解かります。これはひょっとしたら昭和38年10月24日に発刊された堀日亨師の『富士日興上人詳伝』での弘安3年4月8日説への日達師の反論であったのかもしれません。発刊日は前後していますが、第六十六世日達上人が10月13日付けで序を『富士日興上人詳伝』で書かれていることから正式発刊前に第六十六世日達上人に届けられたと考えられます。少なくとも『富士日興上人詳伝』の記載内容は、創価学会発行の『大白蓮華』創刊号から第四十四号(昭和24年7月10日−昭和30年1月1日付発行)までに掲載された内容をまとめたものですから、昭和38年10月6日以前に堀日亨師の『富士日興上人詳伝』は公開されていたわけです。
『熱原法難の歴史』からの孫引きとなりますが『大日蓮』昭和38年11月号掲載の日達上人のご指南内容を少々長いですが以下に引用します。(つづく)

by 彰往考来


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