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短詩人/Hyperion

518秋魚:2015/05/02(土) 19:08:22
(無題)
「 俳聖芭蕉翁の百五十回の遠忌に當れるにあひて、惺庵西馬(せいあん・さいば)兼て追福を営むに社盟数十輩と議り、清水寺内に地を卜して一塚を築り、碑面篆額の贈號は故二條公の粟津の霊室に賜ふ處なり。
今四山これに筆を採、また高韻を書る者は菱湖に聞、清水寺は上毛第一観音の霊場にて洛の清水に景趣等しきと云。
句も亦彼を取てこゝに移す相當れる成べし。
予、この道に遊ふの因を以て一條の来由を祭主の為にしるす。
維時天保十三年龍集壬寅三月 五品多々良大内瀾長」

富処西馬

文化5年(1808年)、高崎田町に生まれる。

 天保4年(1833年)、西馬と号す。

・・

天保13年(1842年)3月、清水寺に芭蕉の句碑を建立。

 観音の甍みやりつはなの雲

・・一年早いが芭蕉翁百五十回忌ということです。

1843年 高崎大火にて母没す。
1844年 奥州行脚に旅立つ。


安政5年(1858年)8月15日、没。51歳。


久米逸淵 > 川村碩布(六気老人。長翠、巣兆、道彦、保吉、春鴻、葛三、虎杖とともに加舎白雄八弟の一人。) >  加舎白雄(1738-1791)「 加舎白雄は与謝蕪村とならび称される江戸中期の俳人、文学史上“天明中興の五傑”に数えられている。」・・明和2年(1765年)、銚子滞在中鳥明に師事

・・松露庵烏明 白井鳥酔門。

「 天明8年(1788年)3月28日、蝶夢は再び烏明を訪ねた。

廿八日、雨天。向井氏の宅に重厚入道おはしますにかたらひ、松露庵を訪ひ、其由師旅館に遊ぶ。」


『富士美行脚』

五升庵蝶夢(1732−1796)  井上井月(1822−1887 )

519秋魚:2015/05/31(日) 08:14:52
(無題)
・・お七みたいのは、バカだバカだとみなになじられてけっきょく罰をうけるのでしょうね。わたしはとってもシンパですが(笑)

・・さて、きょうもよい天気!高水三山にハイキングに出ました。先日いった雷電山は青梅丘陵ハイキングコースの西端。そこから最寄は軍畑駅です。おなじ軍畑から高水三山へ登山道がひらけてます。ここらまで来ると駅に駐輪場がない。前に来た時密かに自転車置き場を見ておきました。駅の手前に小さな踏切があってそのすぐ横の空き地は柚子の木が一本。公園の様でもありますが、だれかの私有地のようでもあります。ここはどうでしょう。・・このあたりまでもう庭のようです。ママチャリでOK。・・海禅寺に寄りました。きのう薬王寺はもう盛りをすぎてまた来年ということでしたが、ここは山の辺だからか、まだ五分咲き程度。咲き様もちょっと違います。・・同じところ二度も三度も来るものでないかもしれません。一期一会といいますから。
・・自転車を置こうと思った空き地、先客のご婦人がひとり水を飲みながら休んでいました。黙って自転車を置くのも失礼と思い、声をかけて話をしました。なんでも千葉の方から友だちと待ち合わせて来るつもりが、相手が電車一本遅れたようです。遠いとこから来ているのですね。高水山はけっこうな登山らしいですよ。自分も未経験なので、ただ聞いていました。・・その後登り始めてわかったのですが、大変な人気の山歩きのようです。登山客がいっぱい。しかも、ほんとに小さな子どもも歩いてる。山の中で何人か5、6才の女の子も見かけました。高水三山は、高水山、岩茸石山、惣岳山の三つを言います。いつだかの皇太子殿下も登ったとか。トレイルランのコースにもなってます。きょうは五月の休日、天気もいいし、みな思うところは同じでしょうか。ほっとします。・・自転車で使う筋肉と山登りで使う筋肉、違うでしょう。自転車でハードに走っていても、山登りが楽にはなりません。・・しかし、今回意外とアップの登りに強いのがわかりました。ぴょんぴょんと跳ねたくなる時もあり。ダメなのは呼吸器系です。気管支が弱いのか変な咳が出ます。杉の木があいかわらず多いのですが、杉が花粉症の大原因というの、ウソだと思います。すこし花粉症の気味が、杉の森にはいるとかえってすーすー通って楽になります。思うにあれは都会の自動車の排気ガスが原因だと思います。・・森林浴といいますから、渓流や滝などあるとマイナスイオンが発生して、たいへん空気の健康はいいと聞いています。

・・さて、高水山の途中までは渓流といっしょでした。そのうちに登りのきついところが続き、おばさん方には応えるのか、時々グチらしきも聞こえてきます。小さい子でもう歩きたくなさそうな子もいました。まだまだ先は長いです。黙々と登るしかありません。・・高水山の頂上手前に常福寺というお寺があります。やっとここまで来ると、門の額文字があり趣のあるよい字でしたが、なんと、それはあの浄月律師のものでした。江戸期、真浄寺の和尚です。きのう訪ねて牡丹の写真をいただいたばかりでした。

 天人も雲ふみ外す花王かな   井月

・・自分の瞑想とは、この一句にはじまり、この一句に回帰しますが、瞑想の想念はことばにしないがいいです。・・ひたすら山を登るのみですから、いまは

・・山を登り始めて分かったのですが、みな靴に服装にまったく登山の準備で来ています。クマが出るという噂もあり、鈴を鳴らして歩く人もいます。それにアイゼン。・・いい装備です。
・・自分は甘く見た訳ではなく、なるべく軽くしたい一念から、小型のリュックひとつ。水とクッキーバー一本。服装は普段着のひと昔前のもの。Tシャツで汗をとりたい。厚着をすると、失敗しそうで、ジャンパーを外せるように。だいぶダサク見えそう。靴は重要ですが、履きつぶすつもりで軽いスニーカー。この靴のおかげで何度かすべりころげそうになりました。みないい登山靴で来ています。高水三山はハイキングではなく、登山だと友人もいってました。・・あとひとつ平衡感覚が、問題でした。自転車でバランスをとるのは馴れています。山道で一二度ひどくよろけたものです。これは酒をのむのが災いしたか。いざというところでは反射神経には自信があります。

・・高水山から岩茸石山というところまで来ました。かわった名前ですね。なんと読むか今でもわかりません。いわたけいしやま、かな?ここは眺めがとてもいいです。・・御岳方面から来た人と軍畑から来た人が山の頂上でもいっしょになります。道中ひとと話すことがあってもむずかしい議論はやめたがいいですね。だれもしていませんけど。・・たまたま休憩中に隣した学生風の人とすこし言葉をかわしました。千葉の人で、ほぼ同郷の人でした。市川の人です。すっかりなつかしくなって、少々たちいった話もしたくなりました。・・ひとつつよく言ったのは、あの土地はつまらないということ。つまらないという内容を説明すると重くなるのでやめました。けど彼も納得していたようです。(アノ土地ハ下手スルト女ノ子ガ自殺シマス)

・・さて、もうひとつ惣岳山に向かいます。この山あまり期待しません。帰路に立ち寄る山くらいな感じでした。どこだか忘れましたが、岩ごつごつあぶない道がいくつかありました。

・・いいとこ眺めたら、もう、下山したくなりました。下りの道ってけっこう嫌なものです。靴がすべりやすくてね。筋肉と骨格にブレーキかけながら、バランスを保ち続けるの、疲れます。御岳に降りて、ビール飲んで休みたいところ。帰路安心してどすんとヘマするの何度かあります。・・あの正丸トンネル思えば、おおかたこわいものありません。これだけ人が多いと、群集の人でしょうね。

・・御岳の駅の近くに出ました。玉川やという手打ち蕎麦やがいいと、聞いてました。で、看板たよりに、店に入りました。下から入ってお二階へどうぞ。で、びっくり。人が行列なして待っている。二十人くらいはいそう。席をもらってる人も、あまり食べてる人はみあたらない。列の一番後ろの人に、これって待ち客ですか?そうです。・・で、笑って、あきらめることにしました。やれやれ。

・・駅にむかっていくと小さな軽食喫茶がありました。人がいないのを幸いここに飛び込みました。おにぎりセットと缶ビールを注文しました。窓際の席から、街道が眺めます。おにぎりは、酒かすとユズを使って、よい味です。ほかにおしんこと緑茶もつきます。上品にまとめてますね。・・そうこうしてお客さんも入ってきました。


 はるたつや新年古き米五升   芭蕉

・・五升庵蝶夢という俳僧がいます。芭蕉の句から「五升」をいただいたそうです。古米の話を雅号にするのは、よくわかりませんでした。・・山登りをして、麓でおにぎりを食べたら、ひらめいて「五升」のこと、理解されました。お愛想しながら、自分も蝶夢さながらかと、・・

520秋魚:2015/05/05(火) 17:50:40
(無題)
・・都留谷村には、自転車でいかねばなるまい。ちと遠い〜なあ。日帰りは無理。高尾までなら90分で出られそう。駅で自転車をたたんで最寄駅まで輪行というのはどうだろう。大月からのルートはあるのか。都留にいったら河口湖は近いのではないか?・・待てよ。輪行なら日帰りもできる。

芭蕉百回忌は、都留でもあった。

円通院境内に芭蕉の句碑がある。

  旅人と我名よはれんはつ時雨  芭蕉

10月12日 嵐雪三世居二代六花庵建立

・・ここは、カツゾーは必ず訪ねたはず。


 青梅の谷野真浄寺はどうだろう。句は刻まれてないが、やはり百年忌。


さくら花梢のしづくおつるより幾世しぐれの名にやふりけむ

                   日野資枝

・・しぐれ桜に自分をみたのは、この真浄寺。


・・

・・いずれにせよ、輪行は憶えねばならない。重い腰をあげるか。


   *

・・善光寺。

ここの本尊も秘仏だそうだ。ただ三尊像らしき、・・釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊かも。

・・善光寺でいま開帳されるのは、前立阿弥陀三尊像。中央に阿弥陀如来、両側に観音、勢至の両菩薩。これを一光三尊仏という。

・・物部守屋が難波の海にすてた三尊像。本田善光がひろいあげて、長野にもち来たらした。最古の本当の本尊だそうです。

・・浅草寺の秘仏本尊は、一寸八分の黄金の観音像。成木川の岩井堂から流れてきたという。

521秋魚:2015/05/06(水) 16:41:15
(無題)
まり様

・・きょうも自転車日和。ここの面白さは並大抵ではない。成木川上流と常盤の地に向かった。街道を外れて多摩川に沿った道をいくつか走り、軍畑あたりまでは庭同然。二三日前に来たばかりだが、新鮮な空気は変わらない。軍畑からアップする坂道をのぼり、最初はほんとに地獄のように感じたものだが、アップがあればダウンもある。あまり苦しくはない。堪えられるという気概があればいい。・・鎌倉街道という、どこが鎌倉かい!それほど田舎だ。スクラップ回収場などあって世の果ての道だ。斎場、老人ホームはさすがにない。・・松ノ木トンネルを越え、小沢峠にむかう手前に成木川にうつかる。ここの分岐を左にいけば常盤林道、右なら小沢トンネルがあって名栗にはいる。きょうはこの分岐にある蕎麦やをたずねた。一年くらい前に訪ねたことがあるのです。店主と話して、もっと早く訪れるべきでした。さすが、忘れてますね。・・実は、常盤が目標です。義経の母堂の香りを追いかけたのです。きょうは。・・成木川の上流というのが、なんともうれしい。

・・ほんとに、うれしい。ここはサイクリストたちの準メッカ。プロの競輪の選手なんかも練習に来ているようだ。ほんとに田舎だと思っているのは、自分だけかもしれない。蕎麦やさんの前にひとりサイクリストが休憩中。つれづれに話しかける。名栗のダムまで行ってきたとか。小沢峠の坂道は大変だったでしょう。下りは楽ですが。・・左の道を知ってますか?いえ、行ってません。いまお蕎麦を注文してるところです。え、それから手打ちでは、時間かかりますね。わたしは黒山の麓まで行くつもり。常盤林道を。では、帰ってくるまでに、お蕎麦を注文しておきましょう。

・・店の主人に会うと、すっかり忘れていますね。ごめんなさい。こっちは来づらいです。常盤を嗅ぎに来ました。・・思うに、常盤がここに流れてきた頃は、もう大変なオバサンだったでしょう。清盛に義経の命乞いをして、一度自分を捨てた。・・その後一度だれかに嫁いだでしょう。京の河崎観音堂で捕らわれたあとも、たぶん、拘束はなかったはず。・・

・・で、お蕎麦を注文して、帰りに寄ります。左手の道。最初は、ほんとにのんびり山里のよう。いつも不思議に思うのは、人が住んでるのかいないのか、とても静かです。成木川に沿って、道はつづきます。もっと下流の美杉台あたりでひどく感動したのが、はずかしく思えるくらい、静かな渓流です。常盤が住んだのは、どのあたりかと思い巡らしながら進みました。サイクリストが来るべきヒルクライムのレースに向けて何人か練習にきているみたいですね。よく出会います。・・先日登った高水山の表参道はすぐ先にありました。皇太子、雅子さまのご成婚一周年くらいに高水山に登られたようで、お蕎麦屋さんにその時の写真が飾られていました。若々しくてお二人ともたいへんすがすがしいです。よくこの山に来られましたね。軍畑からのは裏参道、多摩川からになりますが、ここからだと成木川を見ながらの登山です。このプランニングすばらしいです。途中、岩井堂観音にも立ち寄ったらいうことありません。・・

・・ほんとにアップの坂道。何台もサイクリストがやってくる。こちらは景色をみながらで足つきが多い。・・と、脚立にすわってじっとカメラを据えて見守る人がいる。渓流の上へ。これは、例によってカワセミの飛翔を捉えたいのでしょう。通りがかりで、声をかけてきたのはその人の方。歩いてきたのはアンタだけだよ。自転車に乗らずにきたのを、笑われたようだ。ここはみなヒルクライムの練習道路ということらしい。かれらはそれだが、自分は違う。観光のお散歩ですよ。すこしバカ話をして、騒ぐとカワセミはまったく現れそうに無い。では、いきます。・・その後も坂道はつづく。景色はまったくいい。この道の最終ゴール地点に着くころ、一人のサイクリストが上がってきた。えらい、足つきなしで来た。湧水の水のみ場があって、でも顔と手だけを洗った。かれも一休みして帰路についた途端、バッキと音がした。自転車にアクシデントのよう。・・近寄って聞くと、ディレーラーの付け根が折れたということです。めったにないという。自転車のことは相当詳しそう。でも、最悪という。下りだから下までは大丈夫でしょう。ブレーキもOK。30キロほど来たという。・・何の助けにもならないので、お気をつけてというほかはなかった。・・しかし、あんなトラブルもあるのか。

・・黒山の登山口を探した。それらしい道がある。なんかケモノミチだなあ。きょうは登らず。下に下りてお蕎麦を食べたくなった。くだりはけっこうな距離だが、はやい、はやい、あっというまに着いた。井戸口というお蕎麦やさんです。注文してあったので、自慢の蕎麦すぐにもいただけるとか。ビールはありますか。はい。ママさんがいろいろやってくれます。ビールがうまい。蕎麦とビール。そのうち、マスターと世間話を。青梅の人で、地元よく知ってます。とくに石灰の採取場とか砕石場とか、お酒が好きで、めずらしいものたくさんあります。・・沖縄のアワモリついでくれました。青梅有数の政治家もここに立ち寄るとか、こんなど田舎にね。それより、山をひとつもってるようで、そこの巨樹とか竹林とか山菜とかいろいろ話がいっぱいあるようでした。樹の写真をさがしてましたが、みつからない。山をもってるなんて、ロマンですね。

522秋魚:2015/05/09(土) 20:02:58
(無題)
 まだ月は十三七つ梅の花

・・自転車のたたみ方、思案にふける。どうしても袋に収めねば。まだその袋も用意してない。簡単そうでなんかやっかい。前輪の着脱は何度か試みた。ギアチェーンのある後輪は一度試行しただけ。前回のパンク修理も幸か不幸か前輪のトラブルだった。後輪は・・思案してばかりもいられないが。日がたつごとに疎くなる。自転車をバラバラにして再度組み立てるというのが臆病になってる。

・・ところで、井月全集掉尾を飾る芥川龍之介の文は、繰り返し読まれているだろう。「・・天明の遺音は既に絶え、明治の新調は未起らなかつた時代は、彼にも薫習を及ぼしたのである。」このくだり、「薫習」という言葉がいつもひっかかっていた。手元の辞書では「・・香気が衣服に移りしみこんで、ついにはその衣服自身が香気を出すに至るように、体や言葉、心のはたらきが心に残す影響作用をいう。」
・・自分は春一番に咲く梅の花の香のようなものと認識していたが、習気の負の側面をみれば、井月の晩年は放浪乞食よろしく時代の香気(?)に染まっていただろうか。

・・十三七つという数え方、すてきですね。十三夜七つ刻らしいです。秩父で会った蕎麦やの娘さんのようです。

   *

・・「カリフォルニア」という映画は、おもしろい。あのトランボ脱走の動機は、八百屋お七と同じでしょう。・・おもしろい。

523秋魚:2015/05/11(月) 01:03:13
(無題)
・・自転車専門店をまわった。大手の店はほどよく客もいれば店員はよく話をしてくれる。この地域ではそんなにいい店はない。以前の住まいなら、Y'sroadとかNarushimafriendとか超ブランドのお店も近かった。実際四方八方に開けたよいところだった。・・パーツを取り寄せるならネットショップが一番か。輪行袋はネットで買うだろう。すこしでも知識を得るために、いくつか店をたずねた。自転車の売り場でいる店員は、やっぱりその道のプロまでいかなくても相当に乗りこなして来ている。いろいろ話し込んでいるうち相手も自分の経験談を軸にして話し出す。・・きょうはだいぶ勉強になった。

・・「梅の花」連吟をすこし、

折人も思案顔なく梅の枝         有隣
振袖の花盗人や楳屋敷          井月
夜の梅を盗みにくるや闇の内        隣
宵闇や梅が香通ふ風よわし         月
よい梅と誉れば月もさしかゝり       隣
野の梅や誉る替りに折て行         月

・・

・・芥川龍之介の名で憶い出したが、かれの文学思念の本領は、花盗人ではなかったか。芥川が登場する伊勢物語六段。

「昔おとこありけり。女のえうまじかりけるを、としをへてよばひわたりける
を、からうじてぬすみいでゝ、いとくらきにきけり。あくた河といふかはをゐ
ていきければ、くさのうへにをきたりけるつゆを、かれはなにぞとなむ・・

 しらたまかなにぞと人のとひし時つゆとこたへてきえなましものを

・・この女は二条の后だそうだ、藤原高子。

「・・彼の遍昭が連ねし。花の散り積る芥川を打ち渡り。思ひ知らずも迷ひ行く。かづける衣
は紅葉襲。緋の袴踏みしだき。誘ひ出づるやまめ男。紫の。一本ゆひの藤袴。・・」

・・雲林院にも現れる、その先が武蔵野だったと記憶するが、・・ヴァージョンによっては、信濃路だったりする。


 いずれも井月の通った道だ。

524秋魚:2015/05/12(火) 13:54:41
(無題)
・・天気くずれそう。台風来てる。あの妖精のような人すてきですね(笑)

・・田舎の信濃川、上流は千曲川になります。豊後の三浦安貞は、日に三度、先祖の墓参りを欠かさなかった。父がそういって、わが家もそのような家訓でしたが、封建性の暗さでほとんど省みられませんでした。千葉で生まれましたから、長岡は二度訪れただけ、ほとんど無知です。母は雪がいやで上京したといいます。

・・うっかりしてました。上州(群馬)から越後(長岡)にはいるに、鉄道で清水トンネルをくぐっていましたが、昔はそんなトンネル無かったのですね。トンネルの上は谷川岳でとても急峻な山といいます。ほどよい峠道すらなかったのではないか。カツゾーの江戸の頃は、高崎から碓氷峠を越えて、上田や小諸、長野に入り、そこから北越に向かったのだと思います(まあ逆のコースですが)。千曲川、信濃川沿いに道があったのか。まったく見当もつきません。・・碓氷峠が最大の難所といいます。ヤマトタケルはここを通っています。芭蕉も、更科紀行で姨捨の月をみてから、ここを通って江戸に入ってます。ただこのあたり記録が無い。長岡から江戸に向かうに、どうしても長野経由になったのではないか。・・因みに信濃川、千曲川の源流は、甲武信ヶ岳に向ってるそうです。山梨、埼玉、長野三県の境にある2475mの山です。いったことはありません。

・・だいたい信濃路というのもどういう道かわかっていません。検索すると料理屋のチェーンの名前だったりして。・・めげずに検索。「大和路、信濃路」という堀辰雄の小品がみつかりました。ぽつりぽつり読んでる最中ですが、大和路の方で、法隆寺訪問についておもしろい記事がありました。金堂壁画の模写が行われていたようです。

「・・十月二十三日、法隆寺に向う車窓で
 きのうは朝から一しょう懸命になって、新規に小説の構想を立ててみたが、どうしても駄目だ。きょうは一つ、すべての局面転換のため、最後のとっておきにしていた法隆寺へ往って、こないだホテルで一しょに話した画家のSさんに壁画の模写をしているところでも見せてもらって、大いに自分を発奮させ、それから夢殿(ゆめどの)の門のまえにある、あの虚子の「斑鳩(いかるが)物語」に出てくる、古い、なつかしい宿屋に上がって、そこで半日ほど小説を考えてくるつもりだ。
十月二十四日、夕方
 きのう、あれから法隆寺へいって、一時間ばかり壁画を模写している画家たちの仕事を見せて貰いながら過ごした。これまでにも何度かこの壁画を見にきたが、いつも金堂のなかが暗い上に、もう何処もかも痛いたしいほど剥落(はくらく)しているので、殆ど何も分からず、ただ「かべのゑのほとけのくにもあれにけるかも」などという歌がおのずから口ずさまれてくるばかりだった。――それがこんど、金堂(こんどう)の中にはいってみると、それぞれの足場の上で仕事をしている十人ばかりの画家たちの背ごしに、四方の壁に四仏浄土を描いた壁画の隅々までが蛍光灯のあかるい光のなかに鮮やかに浮かび上がっている。それが一層そのひどい剥落のあとをまざまざと見せてはいるが、そこに浮かび出てきた色調の美しいといったらない。画面全体にほのかに漂っている透明な空色が、どの仏たちのまわりにも、なんともいえず愉(たの)しげな雰囲気をかもし出している。そうしてその仏たちのお貌だの、宝冠だの、天衣(てんね)だのは、まだところどころの陰などに、目のさめるほど鮮やかな紅だの、緑だの、黄だの、紫だのを残している。西域あたりの画風らしい天衣などの緑いろの凹凸のぐあいも言いしれず美しい。東の隅の小壁に描かれた菩薩(ぼさつ)の、手にしている蓮華(れんげ)に見入っていると、それがなんだか薔薇(ばら)の花かなんぞのような、幻覚さえおこって来そうになるほどだ。
 僕は模写の仕事の邪魔をしないように、できるだけ小さくなって四壁の絵を一つ一つ見てまわっていたが、とうとうしまいに僕もSさんの櫓(やぐら)の上にあがりこんで、いま描いている部分をちかぢかと見せて貰った。そこなどは色もすっかり剥(は)げている上、大きな亀裂が稲妻形にできている部分で、そういうところもそっくりその儘(まま)に模写しているのだ。なにしろ、こんな狭苦しい櫓の上で、絵道具のいっぱい散らばった中に、身じろぎもならず坐ったぎり、一日じゅう仕事をして、一寸平方位の模写しかできないそうだ。どうかすると何んにもない傷痕ばかりを描いているうちに一と月ぐらいはいつのまにか立ってしまうこともあるという。――そんな話を僕にしながら、その間も絶えずSさんは絵筆を動かしている。僕はSさんの仕事の邪魔をするのを怖れ、お礼をいって、ひとりで櫓を下りてゆきながら、いまにも此の世から消えてゆこうとしている古代の痕をこうやって必死になってその儘に残そうとしている人たちの仕事に切ないほどの感動をおぼえた。……」

・・この画家のSさんというのは、秋田在住の仏画師鈴木空如さんかと思ったが、たぶん違うでしょう。空如さんは「明治40年(1907年)から昭和7年(1932年)にかけて法隆寺に数十回出向き、金堂外陣(げじん)の土壁に描かれた十二面の壁画を独力で模写した。」とあるように、独力の作業でした。堀辰雄の訪問は、昭和18年すこし以前、複数の人たちの模写作業のようです。

・・昭和24年(1949)には、例の金堂火災が起きています。この文は、この火災事故が起きる前の壁画模写の風景です。

・・鈴木空如さんの独力の壁画模写も味があります。・・大正十二年頃第一回目の模写を終えたのは、太子千三百年祭の時。ちょうどその時の金堂古材から、祖父が聖徳太子像を彫り起こしたといいます。同じ裏日本の雪国にいて二人は交流があったと、母から聞いていますが、確かめようもないことです。

525秋魚:2015/05/12(火) 22:19:05
(無題)
・・弓が浜

・・もう記憶の像でしかないが、夏の光を追っていた。二度訪れたことがある。
そんなに大きな浜べではない。メルヘンチックな香りで、風、波のやさしい寄せ。たぶん夜、月が浮かんだら、最高にロマンチックでしょう。

・・小さな女の子を連れた若い母親が多かったような。母親もまだ若い娘のようでした。時代でしょうか。そういうファッションがあったようです。

・・あいにく。わたしが訪れた時は、風つよく勢いのある波がざざーっと入ってきて、遊泳禁止になってました。・・その名のとおり、弧をえがいた美しい浜べです。ただ強い波がくると砂を巻き上げて、とても水浴はできません。波打ち際のほんの戯れ遊びを、子どもがしてました。・・人が多く、すぐにあきらめました。

・・伊豆の半島めぐりをしていたのです。


・・かがみ浜

・・もうすこし先にゆくと、この浜があります。ここは岩で守られたもっと小さな浜べです。ほんの手前にまた小さな砂浜もあります。外海にさらされて、時おり白刃をたてて大きな波が打ち寄せますが、奥の砂浜に着くまでに、小さくなだめられます。岩がごつごつありますから。・・水はとてもきれいです。・・波と遊ぶなら、楽しいです。

・・なぜか人はほかに二三いただけでした。

 この小さな夢のような浜べは、尾道の詩人が教えたところです。


・・弓ヶ浜

・・二度目の訪れは、海の家の一日アルバイトでした。
・・もうあまり覚えていません。夏の光にうとくなっていた頃でした。

526秋魚:2015/05/13(水) 22:54:13
(無題)
・・ネットでこれはいいと物色した輪行袋。欠品とかある。たて続けに欠品、品切れというの、やはりみな考えてるのは同じようなことか。チャリダーの夢は輪行でステップアップする。・・もう何十年前になるのか支笏湖のユースに女子のチャリダーが二人来ていた。大学のクラブの先輩後輩だという。彼女らヘルメットして服装もそういう決まったスタイルで北海道まではやはり輪行ということだった。東京の学生だという。・・こういうプランニングいとも容易に実行するのに、ほとほと感心したものだった。

・・火山峠。ひやまとうげ。

 この辺の地図を描いているが、まだまだです。きょう読んだ本では、火山の部落というのがあるらしい。ここにカツゾーのお弟子さんがよく集ったという。その先十キロほど山の中には、四徳という土地。ここにもよく足を運んだ。いい温泉もあるらしい。

・・この火山峠です。幻視されるのは、


 自転車でいってみたい。

・・アプローチの道、いろいろあります。

 山頭火は、二度試みた。往くのはどこも一度きり。二度往くなら何度でも往く。そういってます。・・もう一度、というのが、深く聞こえませんか?

・・

527秋魚:2015/05/15(金) 01:48:28
(無題)
・・あの橋のたもとで〜そういうメロドラマが幼年期をすくいあげてた世代は赤トンボのように川辺の空地に羽根を休めに降りてくるのだろうか。人と話すことが多い。
・・たぶん「大菩薩峠」の映画のイメジだと思うが、数馬の切通しという奥多摩の難所がある。ここに今はトンネルがあって思慮無く越えることができるその昔道を旅路の娘が一人杖をつきながら登ってゆく。途中足をすべらせて木の茂みへ転落するのをフラッシュバックすることがある。

528秋魚:2015/05/17(日) 17:14:31
(無題)
・・クロスバイク。後輪の着脱を試みた。輪行のガイドによると最低十回は予行していた方がよいとある。パンクした時も車輪外しは必須になる。

・・その前にスタンドとペダルの取り外しを試みた。スタンドは三つネジを緩めれば外せそう。しかしカチンカチンに固まっていてびくともしない。CRCという潤滑油を注いで半日たったらネジは緩んだ。これは何とかなる。・・次にペダル外しにかかった。15mmのペダルレンチを使う。工具箱にあるのはツメが折れて破損している。専門工具は高価なので百円ショップで新しいのを入手。が、これがまったくダメ。工具が悪いのでなくネジがカチンカチンでCRCを注いでもびくともしない。使い方もまずいのだろう。輪行でペダル装填のままなんとかやれるのではないか。とりあえずあきらめ。

・・後輪の外しにかかった。チェーンに触れると手が汚れるという。Vブレーキの解除。この解除はいいが、作業を終えてもとに復旧させた時ブレーキの接触に不具合が起こった。実際輪行した場合、解体−組立て、解体−組立ての作業を2回しなければならない。そのたびに微妙な調整をすることになる。調整用の工具を携行する必要がある。やはり簡単にはいかない。・・クイックレリーズの爪を起こすと車輪は容易に外れる。チェーンを外して、スプロケットというギアの歯の塊はホイールに付属。問題はディレーラー。ここはデリケートでここをガードするにエンド金具を用いる。この備品はいま注文中。袋も注文中だが、さてうまく袋に収まるかどうか。

・・きょうのところは組立て復旧に手間取ったがなんとか成功した。試運転もしてみたが異常なし。気がついたこと、リアの七段ギア、アウターの7番目は無効だった。6番目で止まっている。これはギアディレーラーの調節が不充分なのかもしれないが、普段ほとんど使用していない。お店で購入したとき店員に調整してもらったままだ。・・ギアの調節というのがディレーラーで出来るらしい。取説を読んでここもマスターしてみたい。

529秋魚:2015/05/18(月) 18:11:23
(無題)
@高野長英

>・・天保10年(1839年)、蛮社の獄が勃発。長英も幕政批判のかどで捕らえられ(奉行所に自ら出頭した説もある)、永牢の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監。

>・・弘化元年(1844年)6月30日、牢屋敷の火災に乗じて脱獄。この火災は、長英が牢で働いていた非人栄蔵をそそのかして放火させたとの説が有力である。

>・・天保十五年五月十日(1844年6月25日)水戸藩の藤田東湖に日記によりますと、「暁七ツ時大城奥より出火御本丸不残御焼失」となります。火は「朝五時頃鎮火」とありますので、4時間ほど燃えていたようです。まだ暗い午前四時の火事です、消火活動も十分ではなく、江戸城本丸は全焼、たくさんの人が亡くなり、多くの財宝が灰塵に帰しました。

@藤田東湖

>・・弘化元年(1844年)5月に斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚し、小石川藩邸(上屋敷)に幽閉され、同年9月には禄を剥奪される。翌弘化2年(1845年)2月に幽閉のまま小梅藩邸(下屋敷)に移る。この幽閉・蟄居中に『弘道館記述義』『常陸帯』『回天詩史』など多くの著作が書かれた。理念や覚悟を述べるとともに、全体をとおして現状に対する悲憤を漂わせており、幕末の志士たちに深い影響を与えることとなった。


@富処西馬

>・・「 俳聖芭蕉翁の百五十回の遠忌に當れるにあひて、惺庵西馬(せいあん・さいば)兼て追福を営むに社盟数十輩と議り、清水寺内に地を卜して一塚を築り、碑面篆額の贈號は故二條公の粟津の霊室に賜ふ處なり。
今四山これに筆を採、また高韻を書る者は菱湖に聞、清水寺は上毛第一観音の霊場にて洛の清水に景趣等しきと云。
句も亦彼を取てこゝに移す相當れる成べし。
予、この道に遊ふの因を以て一條の来由を祭主の為にしるす。
維時天保十三年龍集壬寅三月 五品多々良大内瀾長」

富処西馬

文化5年(1808年)、高崎田町に生まれる。

 天保4年(1833年)、西馬と号す。

・・

天保13年(1842年)3月、清水寺に芭蕉の句碑を建立。

 観音の甍みやりつはなの雲

・・一年早いが芭蕉翁百五十回忌ということです。

1843年 高崎大火にて母没す。
1844年 奥州行脚に旅立つ。


安政5年(1858年)8月15日、没。51歳。

530秋魚:2015/05/19(火) 11:46:10
(無題)
・・府中熊野神社にある上円下方墳はめずらしいものだが、もうひとつ三鷹天文台の近くに見られるという。この熊野神社の前の甲州街道は新宿までつながる。調布あたりで武蔵野湧水の野川が横切って流れる。湧水近辺から先土器、縄文の遺跡がよく発掘されている。旧石器の見られるところは、水源が近い。多摩川の流れは大昔から何度かスジを変えている。野川のように水源の湧水が大昔からその場所を変えていなければ、その近くに遺跡もよく見られるだろう。たぶん野川も水源はともかくその流れは幾スジも変化しているだろう。・・大地震などあり地殻の変動があれば、湧水が枯れたり、また別の水が湧き出したりするだろう。

・・野川の水源は国分寺の日立製作所研究所の敷地にある。仮にも湧水であるので水は透き通っている。これに沿って三鷹、調布から深大寺の側を通って多摩川に注ぎ込む。湧水の川を保護するために生活汚水は流さないようになっているはずだ。武蔵野で湧水があるのは、地層のずれ、断層のみられるところだ。国分寺崖線、青柳段丘とか国立の方でもいくつか湧水は見られた。・・調布深大寺にも湧水があるという。

・・野川は、三鷹にある野川公園の中を流れる。その公園の外れあたりに近藤勇の生家があった。あと近くにあった大きな霊園はなんといったか、太宰治の墓があるという。U君が墓参りをしたといっていた。・・三島由紀夫もそうここの多磨霊園というのだそうです。あ、三島はそうです、府中の多磨霊園。・・太宰治は三鷹禅林寺です。森鴎外といっしょです。いずれもU君から聞いた話だ。・・三島の金閣寺など読み返してみたいと思っていた。・・太宰は玉川上水でよく心中をしたようだが、あれしきの川でたやすく死ねるものだろうか。相方の女だけ死んで自分は生きながらえたなど笑えない話が多い。

・・入水心中というのが、そもそもまったく花のないものになっている。入水死というの、死後の自分を想像したら、女子はとくに望まないでしょう。後先のことは考えないというのが自死の決意としたら、むしろ記憶、痕跡の抹消方法をとるか。・・込んだ話になりそう。

・・江戸幕末の頃、わが家系にもゆうという女子の哀しい入水話がある。

531秋魚:2015/05/20(水) 21:46:44
(無題)
新編武蔵風土記稿による龍巌寺の縁起

(原宿村)龍岩寺
禅宗臨済派古碧山と號す、多磨郡由井領山田村廣園寺末、本尊釈迦、脇士文殊、普賢を安す、相傳ふ、境内昔は名主半右衛門か屋敷にて鎮守弁天社あり、側に小庵を建て喚室と云僧をして住せしめしか、慶長七年遂に宅を捨て寺とす、依て喚室を開山とすと寺傳にいへり、鐘銘に掾は、御入国以前よりの寺なりと載す、何れか是なるや喚室は元和八年十一月二十四日寂す。
辨天社。地主の神なり。
天満宮。往古は木立像なりしと、今木札に神號を記し、裏に来由を載す、其略に源義家此所にて出陣の連句を催し、社前に納む、依て句寄の天神と號すと。稲荷を合祀せり。
日吉山王社。是も神號を記せし木札の裏に、往古は當村千駄谷村境榎樹の下に勧請ありしを、寛永中当寺第三世明叟の時ここに移すと云。
圓座松。砌下にあり、囲み四尺許、根上一尺許を隔て四方へ蟠延す、大さ東西七間餘、南北六間半、其状圓坐を敷たる如くなれは此名あり、初栽せしより凡九十年に及ふと云ふ、
鐘楼。元禄十一年鋳造の鐘をかく。(新編武蔵風土記稿より


>・・春もやゝけしき調ふ月と梅

元禄6年(1693年)春の句。出典は『続猿蓑』(沾圃編)。

上部が欠落している。

 龍巖寺の周辺に近衛歩兵第四聯隊の兵舎があったので、龍巖寺は戦災に遭ったそうだ。

寛政5年(1793年)正月、建立。脇田赤峰(1751年〜1834年)書。

『諸国翁墳記』に「翁 塚 江戸青山原宿龍巖寺ニアリ 二世冬英・五陵建」とある。



青山原宿竜巖寺 境内ニ在

[梅月]墳

春もやゝけしき調ふ月と梅

寛政五癸丑年正月建之 兌堂冬英 旬樹五陵

此寺を俗に松の寺と云


『広茗荷集』

532秋魚:2015/05/21(木) 01:15:20
(無題)
・・うっかりしていたことが多い。芭蕉の門弟に天野桃隣というものがいる。伊賀上野の人で芭蕉の甥とも従弟ともいわれ、芭蕉が大坂で没した時、桃隣は深川の芭蕉庵を預かっていた。

>・・伊賀上野の人。本名勘兵衛。通称藤太夫。太白堂。

天野藤太夫。太白堂・呉竹軒、後ハ桃翁ト云。本土伊賀上野、翁古朋友也。神田ニ居ス。享保四己亥十二月九日八十二歿。浅草光明寺葬。 『蕉門諸生全伝』(遠藤曰人稿)


・・元禄4年(1691年)9月22日、芭蕉は江戸へ旅立つ。

 同年閏10月23日、芭蕉は新城在住の太田白雪に案内され、鳳来寺山に登山した。天野桃隣・各務支考、白雪の子桃先・桃後らがこれに従った。

・・うっかりしていたのは、この鳳来寺山。大宝2年(702年)、利修仙人が開山したと伝える。

・・元禄4年(1691年)9月22日、芭蕉は膳所義仲寺を後にして江戸へ旅立つ。途中で鳳来寺に立ち寄った。

・・石段――その古風なのがよろしい――何千段、老杉しんしんと並び立つてゐる、水音が絶えない、霧、折からの鐘声もありがたかつた。

本堂前の広場でおべんたうをひらいて一杯いただいた。『旅日記』


山頭火も来ている。

「・・参道の石段の数が1,425段あり、徳川家光によって建てられた仁王門は国の重要文化財である[1]。また、愛知県の県鳥であるコノハズク(仏法僧)の寺としても有名である。」

・・1425段の石段というのは、すごい。

「・・新城に住む弟子太田白雪の家に泊まった芭蕉は、弟子たちを連れて鳳来寺へ参詣に来ました。急な坂道の途中で足を休め

木枯しに岩吹きとがる杉間かな

という句をよみました。現在、山道の石段を100段ほど上った左側に、この木枯しの句碑が立てられています。

 たいへん寒い日だったので冷えたためか、芭蕉は持病がひどくなり、頂上まで登らずに引き返し、表参道にあった家根屋という宿屋に泊りました。この宿で芭蕉は

夜着一つ祈り出して旅寝かな

・・たいへんな石段だったようです。・・芭蕉はさいごまで登りきらなかったかもです。

 (1691)同年10月29日、芭蕉は3年ぶりで江戸に到着。桃隣は芭蕉に同伴して、初めて江戸に移住した。

 されば師が東行の袂にすがり、はじめて富士の高きを驚き、むさしの広きをうかゞふ。

『陸奥鵆』

 霜月はしめ粟津より東武に歸菴。(桃隣同行)。神も旅寝の吟此時なり。

・・はじめて富士の高きを驚き、むさしの広きをうかゞふ。

この桃隣の、感想です。おもしろいのは。富士と武蔵野。

「・・元禄7年(1694年)5月11日、芭蕉は江戸を発って上方へ最後の旅する。

五月十一日江府そこそこにいとまごひして、川がやどせし京橋の家に腰かけ、いさとよふる里かへりの道づれせんなと、つねよりむつましくさそひたまへとも、一日二日さはり有とてやみぬ。名残惜げに見えてたちまとひ給。弟子ども追々にかけつけて、品川の驛にしたひなく

   麥の穂を便につかむわかれかな   翁

箱根の關越て

   目にかゝる時やことさら五月富士


『芭蕉翁行状記』(路通編)

・・この句が、芭蕉の旅で最後の記憶の富士であっただろう。


 箱根宿は東海道五十三次10番目の宿場。

 くもり空で、とても富士など見えないと思っていた所、山を越える頃ふとその雲が切れて、実に目にもおざやかに富士の姿が現れた。

 その山容の美しさ、このように予期もしない時にふと目に入った時こそ、殊更に美しく感じられるよ富士の峰は、という句である。

533秋魚:2015/05/21(木) 20:32:15
(無題)
・・五月晴がもうすこし続きそう。マンションの管理人さんのおかげで自転車右ペダルが外れそう。ネジが動いた。・・左は逆ネジですね。なんて固いのでしょう。いいですよ。とりあえず。裏山の枝の伐採と草刈はボランチアでやらせてください。蛇が出そうですね。薮蚊がこわいです。強力な毒蚊もいるようですから。大丈夫、やらせてください。

・・今日はいい道ですが、二時間半ほど走ります。多摩川のサイクリングロードを下って、多摩丘陵の中まで走ります。多摩川は護岸工事がすすんでいます。鬱蒼としたところかなり整備されています。基本は洪水を防ぐためらしいですが。・・一度自転車を解体して再組立てさせたものの試しのり。ブレーキが心配でした。まあなんとかです。もうすぐ輪行袋が届きますから、それから小さくチャレンジです。

・・先日コゲラが木を叩いていた公園のバラが、今はきれいです。

・・平日なのに、やはり人気のサイクリングロード。サイクリストによく出会います。集団で移動するサイクリストたちもいて。装備が完全そう。みんなそれぞれサイクリングの理由があるのですが、出先で話すことあっても、まず理由を言い合うことはありません。まったくヤボに属することです。・・いつかの秩父で会ったカッコいいお姉さんとか(バイクライダーでしたが)雑談でそれとなく理由が察せられることもあります。素敵なお姉さんでしたから、ほんのり想像されるだけでいいでしょう。・・自分の自転車乗りはたぶんだれもわからないでしょう(笑)

・・どんな時でも、ソウルメイトがいるかいないか、それが大切です。

・・多摩川をくだって、モノレールの走る橋は立日橋でしょうか。自転車もここで岸を変えます。そこからやはり川沿いのたいへん爽快な道で石田橋の袂まで、ここは以前の住まいから庭の出口のようでした。日野のここらに土方歳三が生まれています。モノレールを浅川の新井橋のほうへ途中忌野清志郎の通った日野高校がある。・・高幡不動駅から多摩動物公園にむけていく間に、在日アジア外国人のための語学学校らしきがあって、いつも特別活気ある若者たちが自転車で押し寄せます。信号待ちで彼らの言葉を聞くと、まあ何語ですか、識別はできません。かれら若者の輝き方、日本の若者とちょっと違ってます。傍でみている限り、ノスタルジックな香りです。

534秋魚:2015/05/23(土) 14:34:06
(無題)
・・自転車の解体−組立てに再チャレンジ。エンド金具と袋が届いた。エンド金具はメーカーはほとんどオーストリチのものだけ。これを使ってもディレーラーを完全に保護するのむずかしいようなことネットのコメント多い。それに袋は、収納がいかにも困難な記事も多い。クロスバイクは後発の流行であまり輪行向きではないともいう。ともかく最低限電車に持ち運べる状態まではチャレンジしたい。JRの規則が厳しくなって、完全に袋に収納されないものは受け付けられない旨の情報もある。下手な解体−組立てで破損が起きるのがこわい。予行はやはり十回はやった方がよさそう。

・・今回はまずフロント、リアのVブレーキの解除。自転車をさかさまにしてサドルとハンドルで支える。クイックレリーズを緩めてまず前輪。次に後輪。・・あとでわかったことだが、車輪のセンターがずれるとブレーキのシューの位置が狂う。これはすべてクイックレリーズの調節でうまくいく。後輪のチェーンの外し方、組み込みかた、繰り返しやるとうまくなりそう。

・・チェーンの位置をギアのアウターへ置くのは、前回学んだとおり。ただしエンド金具でチェーンを引っ掛けて固定する方法がある。今回これを試みたが、その為に一度ギアをインナーへ移す必要がある。とりあえずリアだけ。・・これでエンド金具を固定。レリーズで堅く締めないとたやすく位置がずれる。スタンドも外す。次にホイールをフレームの脇に固定する。これが実は一番よくわからない。自転車本体の形がどうなってるのか。目の前にあっても知恵の輪のようで把握できない。要は袋に入るようにホイールを固定するわけだ。なんとか形をつくってみる。今回失敗したのは、スプロケットの位置。位置取りわるく振動を与えるとフレームがキズつきそう。これは左右を変えれば解決しそう。次回の課題です。二本のベルトで固定。もう一本は自前のヒモで固定。いかにも自信の無い装填だ。

・・さていよいよ袋に収める。結論からいうと、失敗。やり方もまずいのだろうけど、フォークとハンドルの部分がどうしても完全に収まらない。下方にたるみがあるので、もうすこし詰められそうだが、無理して収めると袋が破けるのではないか。・・次回からは、最善を試みてフォークは外に出したままなんとか乗車してみたい。駅員も客が多くなければ細かくいわないでしょう。知人の外人は八高線で袋にも入れず看視付きで乗車したこともあったという。・・甘いか?

・・あと肩にかけるショルダーバンドの取り付けも、わからないまま、これも次回の課題。

・・このあとの組立て復旧。袋から出し、エンド金具を外し、ホイールを取り付ける。細かい点多々むずかしいことがあったが、なんとか復旧。・・半日かかっている。これでは一日二回の解体−組立て、解体−組立てはやってられない。もうしばらく予行をつづけねばです。

535秋魚:2015/05/25(月) 00:10:50
(無題)
・・都留に流れる川は、桂川といいいます。水源は山中湖。

>・・「都留」は都留郡の郡名に由来し、「都留」は都留市の位置する桂川(相模川)流域の地域が富士山の裾野を蔓のように延びており、その様子から「連葛」「豆留」(いずれも「つる」)とよばれていたことに由来するとされている。

・・この桂川が魅惑です。一度大月の方へ流れ、相模湖、津久井湖のダムを経て相模川となって下るのだそうです。先年、藤野から入ってやまなみ温泉を訪ねた時、桂川の流入する相模湖、津久井湖はよく見てきました。さらに先年、厚木の方から大山詣での時、相模川の下流は海のようでした。・・桂川は、ずっと上流ですね。

・・都留市内からは、富士はほぼ見えにくいそうです。芭蕉のいた谷村からは、富士は見えたのだろうか。一度訪ねてみないとわかりませんね。

・・都留市から富士吉田へ向う途中の西桂町というところまで来れば、富士もきれいに見えるとのこと。

「・・桂川や柄杓川流域に先史時代からの遺跡がみられ、湧水の湧く三つ峠遺跡は県内最高所の遺跡として知られる。また、御坂層からは第三紀中新世の化石が見つかっており、当時は海に面した入り江であったことを窺わせている。水が綺麗なところにしか生えないバイカモが自生している。」


・・芭蕉「月待ちの湯」という日帰り温泉から、二十六夜山を登山ハイキングすれば、富士見のスポットは多くあるという。・・やみつきになりそう。

536秋魚:2015/05/26(火) 00:30:10
(無題)
・・自転車の左ペダルが動いた。CRCをネジの隙間にまんべんなく注いで数分後レンチで試みたらすんなり動いた。さすがCRC。前回効き目がなかったのはCRCの注ぎ方が悪かったのだろう。右ペダルもトライ。CRCならレンチが効く。・・これでひとつ自転車工学が進歩した。しかしドン臭いことやってますね。自転車の解体−組立てもさらに試みたがだいぶ上達したか。ショルダーベルトの設置だけがまだ習得してない。もう二三回ですね。

・・最近自分のゆくところクロスバイクで走ってる人あまりいません。ロードバイクの本格派がほとんど。ですからいつも後ろから追い越されること多しです。・・以前ママチャリで宮沢湖まで出かけたことありましたが、かなり無謀でした。自転車自体が途中で分解するのではないかとたえず気になっていて、おまけにパンクの可能性も高かった。ロードバイクの人に道を尋ねたら、女性でしたが「その自転車でいくの?」と憐憫のまなざしを受けたものでした。クロスバイクはその後数乗りこなして今では自分の身体ほど身についています。ロードバイクに乗ったらどうか。このところ想像すること多し。長距離の輪行ならロードが軽快そうです。

・・きょうは裏山の草刈をした。山は他の人の所有だが、庭のように使用してもよいとのこと。桃、梅、桜、金柑など、こちらの趣味ある人が植えていて、初夏には鶯がよく鳴きに来る。山の奥は檜、杉、左手は道路にかけて竹の林がある。この中も鶯が飛び交っている。今どき朝はいろんな鳥の声で眼が覚める。ホトトギスが鳴いてるはずだが、自分は識別できない。俳句でホトトギスはよく詠まれている。俳句詠みでホトトギスも知らないのは、トホホです。山の近くに住むようになって、なんとかホトトギスくらい見究めたいものです。

・・草刈は、きょうはお遊び程度。竹の子が出てきたというので、それをいただこうかと思った。竹にもいろいろあって、孟宗竹のものが有名。お店で売られているのは孟宗でしょう。・・食べられない竹の子もあるのかなと思い調べたらおおかた食用になるとのこと。ただ竹の子は灰汁ぬきがたいへん。以前義姉の田舎から立派なのをいただいたが、灰汁抜きも知らず笑われたものだ。米ぬかを使うのだそうです。竹の子のアクは採り立てならさほどでなく日がたつと強くなるらしい。今回の竹はなんでしょう。孟宗ではありません。竹薮というほどやや細い竹であまり風情はありません。でもともかく竹の子。そのまま伸びても邪魔になるだけだというので数本折り取って来ました。・・草刈は利鎌をつかって、これもトホホのショックだったのは、野草の名前ドクダミ以外ほとんど識別できなかったこと。草むらにカマを入れると、ときどき思わぬ葉枝の反発を受け顔や眼に当たりそうになったり。なんか得たいの知れない虫がいて急に手足の肌がかゆくなったりします。蛇もどこかにいるはずです。広い敷地でほかにおもしろい植物もありそうで、すこしわくわく。・・この建物の管理理事になったので山の手入れも自由にやってくださいということでした。

537秋魚:2015/05/26(火) 22:52:26
(無題)
・・自転車の専門用語の使い方間違ってました。ギアの位置をあらわすアウター、インナーはフロントギアにのみ使い、後輪のリアギアにはトップ(ハイ)、ロウを使うそうです。アウタートップは一番重く、インナーロウは一番軽いギアになります。輪行の時はアウタートップで車輪を外しますが、単に後輪を外す場合インナートップでやるといいます。素人にはすこし難解な話になります。

・・きょうも解体−組立ての後、試験乗り。多摩川サイクリングロードで稲城まで走りました。注油すると解体作業で手が汚れるのでしばらく注油してません。ディレーラのごみなど除去したのでかえって走りは軽快になったよう。ギアチェンも特に問題なし。輪行は袋に収めて電車で移動する間が勝負。けっこうな荷物です。

・・サイクリングの帰りに立川のナルシマフレンドに寄ってみました。もともと競輪の選手が引退してはじめたお店のようなこと聞いてましたが、ずいぶんとブランド化して立派になったものです。数年前ウィンドウにはGiantが並んでましたが、数ヶ月前はブリジストンのAnchor、今日お店でみたら、まったく得体の知れない高価なものばかり。店員にBianchiやGiantは置いてないのかと聞いたら、Bianchiは扱いなし、Giantは取り寄せになるという。ナルシマでBianchi、Giantは買うなというようでした。・・しかし20万から5、60万のもの。100万くらいのもありますが、買う人いるんですね。わたしなどお話にならない感じでした。ただ輪行袋の宣伝はありました。これはどこにでもあるやつです。輪行自体流行のようです。よくわかります。わたしは運べればいいというので、ネットで最安値のものを入手。たぶんこれでいけるでしょう。自転車はもちょっといいのが欲しいですね。

・・スポーツサイクルの構造はとてもシンプルです。無駄がほぼゼロという創作の歴史を感じます。ブランド品は各パーツの質のよさにあらわれます。高い買い物をする時は、そのお店でケアを保証してるとこ多いです。・・この道にはまってる人多そうです。

・・もう夜中になってます。またホトトギスがぴーひょろろ鳴いてます。ようやく鳴き声は覚えましたが、すがた形は見ていません。

・・ベルツ博士という名前からするとドイツ人かな。この人が東京大学の医学部を創ったような記事がありました。日本人の女子をもらって最初のジャパノローグみたいな人。第一の功績が温泉療法といってました。ベルツ水というのは化粧水です。草津の温泉を大きく評価していたそうです。

「・・ベルツ博士は荒井花子と結婚し、明治11年頃より草津温泉を訪れるようになる。温泉の成分を分析し、正しい入浴法を指導すると共に「草津は高原の保養地に最も適している。草津には優れた温泉のほか、最良の空気と理想的な飲料水がある。こんな土地がもしヨーロッパにあったらどんなににぎわうだろうか。」と賞賛し、私費を投じて6千坪の土地を購入し温泉を引きクアハウスを建てて公開した。世界無比の高原温泉であることを世界に紹介し、日本の草津を世界水準に引き上げてくれました。 」

・・ドイツには、たしかバーデンバーデンに温泉があるはずです。しかし、この草津温泉の手放しの称賛は注目です。

・・先日わたしが訪れた和どうの湯は、鉱泉ですが、すばらしい湯でした。どうすばらしいかというと、表面上はなんの変化もないのです。・・家に帰って顔を洗ったら、もうぬるぬるになりました。融けてしまったかと思ったほど。・・正丸トンネルという修羅を通ってあぶら汗だったかもしれませんが。

538秋魚:2015/05/28(木) 00:53:31
(無題)
・・深夜の0時半頃にきまってホトトギスの鳴く声が聞こえる。鶯などは求愛のためにホーホケキョと鳴くと聞くが、かの鳥はどうか。

・・このところ瞑想もしくは瞑想力について思い巡らすことがある。

梵志ということばがある。バラモンの僧のことだ。

539秋魚:2015/05/28(木) 21:58:20
(無題)
・・また輪行の予行。今回はスピードアップして最終の運べる状態まで。完全収納とショルダーベルトを取り付ける。このベルトは支えで車体の一番安定した重心を手で握って運ぶのがよさそう。ホイールをフレームにしっかり固定することが肝心。

「・・私は大地の清新な芳香、そして私は火の熱さ、私は生きとし生けるものの生命、そして私は苦行者の苦行。」

・・ヴェーダンタが私という時は、注意ですね。

「・・ブラフマーの昼が始まると、全生物は姿を現し、ブラフマーの夜が来ると彼らは再びその姿を消す。」
「・・何度も何度もブラフマーの夜が明ける度、全生物は現れ出て、ブラフマーの夜が訪れる度、彼らは絶望的に消滅する。」

「・・究極的には、ブラフマーの寿命が尽きると、彼らはすべて消滅し、無限といってよい程長い年月を未顕現の状態で過す。そしてまた、ブラフマーが再び生まれて次の周期が始まると、彼らはまた姿を現す。」

・・物質世界の罠のことらしいですが。

「・・だがこの顕現、未顕現の現象を超えて、別の永遠な非顕現自然が実在する。それは至上至高にして不滅。この世界のすべてが消滅してもそのまま残る。」


・・こういうところへ突き進むお姉さんって、カッコいいですね。

540秋魚:2015/05/31(日) 00:20:21
(無題)
・・解体−組立て後の試し乗り。きょうは都心に向った。去年の暮れに仙川まで行ったのを復習し、そこから先は未知のライドになる。例によって多摩川サイクリングロードは完全無欠で国立府中までゆける。かつての庭だ。フロントブレーキが少し鳴くようになったのは、調整で消せる。いまのブレーキ幅を維持しないと解体−組立てがスムーズにいかない。鳴かせておくか。この府中あたりからの甲州街道がかなりやっかい。車道はこわくて走れない。旧甲州街道などの側道も一部使えるが、明大前あたりの井の頭通りに折れるまで一本道。今回は新宿に向わず渋谷をめざした。井の頭通りは三鷹の五日市街道からわかれ吉祥寺を通って渋谷に伸びる道だ。都心は例によってざっと調べただけ。渋谷周辺の芭蕉句碑を洗っておいた。

?金王八幡宮 渋谷3-5-12 しばらくハ花のうへなる月夜かな
?宮益御嶽神社 渋谷1-12-16 眼にかゝる時や殊更さ月不二
?龍巌寺 神宮前2-3-8  春もやゝけしき調ふ月と梅

・・井の頭道路を代々木公園の前で折れて渋谷駅をめざした。何度か人に道を尋ねたが、渋谷中心に向うに方向を失った。人が多く繰り出すところがハチ公のいる駅だろう。しかし迷い込んだのはホテルなどある妖しい通り。朝の清掃をしている妖しいメークのお姉さんに道を尋ねるわけにもゆかずなんとか人ごみを追って道玄坂をくだった。駅前に交番がポツンとあって客対応の巡査が十人くらいたむろしていた。

・・三つの訪問地のうち最初の一つがわかれば、他の二つは容易に到達できる。若い巡査に金王八幡を尋ねた。てきぱきと教えてくれたが最初にすすむ道をとりちがえたため青山通りには一向に神社らしきはない。ちがってるなというので、今度は青学の守衛さんに尋ねた。なるほどもうひとつ向こうの道ですね。しかし自転車が乗れないくらいの人ごみです。

・・ところで、

?しばらくハ 1817年。「文化14年、太白堂門人山奴社中建立。」太白堂は天野桃隣の号。

?眼にかゝる 1825年。同宮益町御嶽山中ニ在 富士墳(宮益坂は別名「富士見坂」とも言われた。)「文化八年五月栗菴宇橋社中建之」

?春もやゝ 1793年。「翁塚 江戸青山原宿龍巖寺ニアリ 二世冬英・五陵建」

・・芭蕉句碑の建立はかくのごときで、寺社の由緒起源はさらに古く衆民の信仰のもとはこちらにある。

・・金王八幡宮は、渋谷を代表する神宮とある。源頼朝が植えたという金王桜は一重と八重の桜を同じ木に咲かすというめずらしいもの。頼朝が平氏との闘いで参篭した神宮で、渋谷金王丸は忠節な武将。義経追討の命を受け、館に討ち入ったが、そこで落命している。

「寛治6年(1092年)、渋谷氏の祖河崎土佐守基家創始。元渋谷八幡宮と称したが、金王丸の名声に因み、後に金王八幡宮と称される。金王丸は17才の時源義朝に従って保元の乱に参加して大功を建てた。」

 金王丸は、もともと源義朝の俊英な部下であったというが、渋谷氏というのは桓武平氏の血の流れを継いでいる。・・先日訪ねた秩父の妙見山というところに日月二つの旗を納めた八幡宮を開き、この月の旗をいまの渋谷金王八幡に移して神宮を開いた。渋谷氏は関東に下った高望王の流れをくむ平氏の末裔だが、源氏にたくみに使われている歴史がある。・・秩父の妙見山は武甲山ではないかともいうが、渋谷の本家は八幡と妙見の秩父というのは、一驚だった。

・・立ち寄った金王八幡宮は、ちょうど結婚式のさなかで、笙、篳篥などの音曲が聞こえてくる。


 宮益御嶽神社は、一度駅にもどって青山通りに向うと左手にすぐに見つけられた。宮益坂はいまは都会のビルで埋まっているが、昔は富士見の坂だという。・・青梅にもある御嶽神社の由緒は古いものだが、ここの御嶽神社は元亀年間に勧請したものという。

都神社名鑑による渋谷御嶽神社の由緒によれば、

「大和国吉野郡金峯神社分祭の社にして、日本式尊を奉祭する。創立は元亀元年(一五七〇)にして寛永年間(一六二四−四四)再建すという。明治三年四月十七日かしこくも明治天皇駒場野練兵場において、我が国最初の観兵式統覧のため行幸のさい、御往復とも御召替のため御小休所となったところである。当時その筋より白木鳥居と駒寄を寄進される。・・」

・・社殿前にあるのは、あうんの狛犬ではなくオオカミであるのは、いかにも青梅の御嶽神社の大口真神を勧請してるふうだが、大和国吉野郡金峯神社分祭の社というのは、新政府の格式の作り方か。明治天皇の足跡も高く清めたいもの。

 眼にかゝる時や殊更さ月不二

・・ここは江戸時代に流行した富士講のパワースポットとしておおいに信仰されていたと思われる。

 三つ目の龍巌寺は、神社でなく臨済の禅寺。「檀信徒以外の出入をお断り申す」とある。理由を言って芭蕉の句碑だけは見させていただくことができた。

 春もやゝけしき調ふ月と梅

・・ここの注目すべきは、その建立年1793年。芭蕉百回忌である。「寛政5年(1793年)正月、建立。脇田赤峰(1751年〜1834年)書。」とあり、この脇田赤峰は著名な能筆家。井月はここにも必ず立ち寄っているはず。

・・神社の前の坂道は、勢揃い坂という。「この道は鎌倉街道であり、平安時代後期の武将で、八幡太郎の通称で知られる源義家が、奥州征伐(後三年の役、永保3年・1083)に向うときに、ここで軍勢を揃えて出陣して行ったといわれ、この名が残っている」

 源義家が奥州へ向ったというのは、奥の細道の志向と重ならないこともないが、こういう石碑の建立というのは、意味づけを深読みしない方がよさそうだ。


・・さて、この日は若者の街原宿界隈をすこしポタリングして、飯田橋の神楽坂エスパスという画廊へ向った。渋谷の寺社まわりで地理不案内と人ごみで思わぬ時を使った。友人の水彩画個展へ訪ねたかった。神宮外苑のあたりから信濃町、四谷見附、外堀通りをそのままいけば飯田橋までゆける。また道をまちがえて新宿通りを皇居の方へ進んでしまった。ここはいつか来た道。また巡査に聞いて、硯友社跡のあるあたりから駅の裏にでた。あとは葉書の案内で神楽坂をのぼり、なんとか画廊にたどりついた。

知ってる人がいると、ホッとする。佐治恭太郎さん。日曜画家です。仕事が忙しいのによく作りましたね。頭が下がる。・・さわやかなよい絵です。

きょうは日帰りで、帰り夜になると、自転車もこわい道になる。しばらくいてお暇しようと思ったら、おもしろい友人がこれからどんどん来るから会っていてくれとか、しきりに引き止める。たぶん帰り5時間はかかる。国立あたりからの夜道は馴れてはいる。まあ4時までが限度かな。神楽坂界隈も散歩したら楽しそう。・・なんでも唯識思想の専門家とその周辺の人(チャイニーズ)が来るのだという。青学、成城大、信州大でそれぞれ教授だとか。おもしろいのは、奥さんが信州大の教授で、それなら今度伊那に行く予定がある。信州大は伊那だったはず。娘さんが美人でモデルだという。その娘さんもこれから来るという。佐治さんのまわりとてもそんな人脈想像できないので眉唾ではあったが、日本の唯識の第一人者は横山先生といってその方もきょう見える予定だったとか。ともかくチャイニーズの美人モデルに会ってみてとかに釣られて、すこし長居をしてしまった。・・けっきょく他の友人がどんどん現れておもしろいことになったが、美人さんたちはそんな早く来ないでしょう。・・自転車乗りのが大切でやっと暇乞いして画廊をでた。

・・帰りは、市ヶ谷から新宿に向う靖国通りをゆきそのまま青梅街道。これ一本で青梅までゆける。・・しかし、この道つまらない。途中五日市街道にはいるのを選んだ。あまりはやくはいると迷路に落ち込んだのはいつかの体験。井の頭通りを逆行して甲州街道まで出たものだった。じっと我慢で荻窪まで、ここは駅前にでる。さらにいって三鷹のあたり、玉川上水に沿った道が五日市街道。車線も広くよい道だが、信号待ちがたくさんあってしかも長い時間待たされる。これをパスして内側に折れたが結局出口は遠く、押し戻されてまた五日市街道へ。途中交番で尋ねると、このまま五日市街道で拝島までいくしかない。横田基地のわきを通ります。この道ははじめてなので興味もあってここをひたすら進む。もう七時をすぎて暗いです。都会だからまだいい。いつか埼玉の田舎で夜道を走ったら真っ暗でどうなることかと思ったものだ。拝島ちかく横田の基地の照明がみえる。きれいなので写真を撮りたかったがあきらめる。拝島にでれば、16号とぶつかり入り組んだ交差点。ここからJRの線路沿いに福生に向うのは何度か試みてお手の物。夜道でもこわくはない。

・・剥き身の腕が日を浴びて焼けて、ひりひりする。草刈でとったドクダミをつけた湯を浴びた。薬効でひりひりは治まったようだ。

541秋魚:2015/06/02(火) 21:41:24
(無題)
・・予行ばかりやってもいられない。今日は念願の輪行をやってみた。滝山街道、高尾街道でJR高尾の駅へ。90分でいけると思ったが100分かかった。さて、駅の近くで自転車を解体せねば。観光の駅で手頃な場所がない。すこし離れているがロータリーから駅沿いの小道にはいるところにちょうどよい空き場所がある。家のベランダでやるのと趣き違ってうまくいくかどうか。ショルダーベルトの取り付けがやはりもたついてこれは結局使用しない飾りになった。フォークが一本どうしても収まらない。これでもって駅まで運び、切符を買って普通の改札は通れない。駅員さんにいって入場口を開けてもらう。荷物をみても何もお咎めなし。やや重いがこれは許容範囲。なんとか電車に乗り込んだ。先頭車両で荷物優先の場所選び。座る場所もみつけて隣した奥さんと四方山話になる。自転車の相当な乗り手にみられたが、まだ素人です。自転車の解体は最近はじめたばかり。BSでチャリダーの番組みがあるとか一般的話題でも話がつづく。この奥さんはマウンテンバイクを乗ってたが今は飾ってあるだけとか。健康によいので自分の乗り方でやるのがよいとかいってるうち、大月の駅に着きました。奥さんは勝沼のワイナリーに行くそうです。

・・大月の駅を出てここは観光案内所があります。ここも組立ての手頃な場所を見つけてすぐ組立てにはいる。解体より組立てが容易です。運んでる間にどこも破損がなければいいです。ブレーキが一番気になる。ギアの位置も正常にもどして、これで都留までいけそう。案内所で大月、都留、猿橋のガイドをしてもらい、都留には391の国道一本ということでした。これが実はひどい道でした。正丸トンネル内と似たような歩道があってダンプは来るしいやひどい道です。

・・都留では、円通院というお寺、桃林庵という芭蕉仮寓の庵。それにすこし離れた月待ちの湯という温泉。ここが目標でした。大月から小一時間で都留市中心部にはいれます。赤坂という手前の町でまだ雪化粧の残る富士が見えてきました。写真を撮ろう撮ろうと思って進むうち都留市街にはいると急に富士は姿を消しました。

・・都留には、観光案内所がありません。大月でいただいた地図を一二度参照しましたが、だいたいの見当をつけてすすんでから土地の人に道を尋ねるというのが一番いいようです。ささいな事でも土地の人と言葉を交わすのは、うれしいことです。都留の中央山沿いの円通院はすぐにわかりました。芭蕉が谷村仮寓中世話になった高山麋塒(びじ)の家の菩提寺にもなってますが、ここは蕉翁百年忌建立の句碑があります。私的には、この百年忌の興味であちこち周っています。

 旅人と我名よはれんはつ時雨  芭蕉

10月12日 嵐雪三世居二代六花庵建立

・・もともと谷村で詠まれた句ではありませんが、芭蕉が旅をつよく意識した土地で、句碑をつくる意味は深いでしょう。渋谷の龍巌寺百年忌碑には、井月はただに寄ったとしても、こちら円通院の句碑は這ってでも訪ねているでしょう。井月「越後獅子」に載る東都の俳人小林見外は猿橋の生まれです。江戸で知り合ったと思われますが、ほど近い都留谷村の話はおおく語られたと想像されます。・・この円通院をもうすこし先にすすむと、桃林庵という芭蕉仮寓の庵(再建されたもの)が見られます。・・富士の話が立ち消えてしまいましたが、ずっといつも富士をさがしていました。この桃林庵から富士はまったく見えません。この周辺からでも何か向いに山があり、そこに隠れているような、ともかくまったく富士は見えません。・・いま輪行から帰って、谷村における芭蕉と富士ということで、たぶんだれも述べておられないと思われる、重大なことに気がついています。・・それについてもうすこしここらをポタリングしないとなんとも言えませんが。

・・それで次に戸沢というもっと山よりにある月待ちの湯という温泉に向いました。

この月待ちの湯というのがお笑い話になります。「・・陰暦正月と7月の二十六日の夜半に、月の出るのを待って拝むことを二十六夜待といい・・」この信仰のある二十六夜山という山が近くにあります。

・・今回の輪行、平日でしたが、実は道中自分以外志を同じくするものひとりも出会わなかったのです。高尾の駅でも出会わなかったし、大月の駅でも出会わない。391の国道でもです。また、月待ちの湯は都留市中心から5kmほど山間にはいったところです。その街道そんなわるい道ではありません。でも、サイクリストは出会いません。・・それでは、と思いつつ、月待ちの湯は想像とちがい遠いのなんの、しかも道がわかりにくい。3,4度人に尋ねました。温泉に近づくと、道の傾斜もきつくなりしかしこれくらいは何でもありません。想像とちがいかなり山奥の村に来た感じでしたが、やっと温泉にたどりつきました。・・お笑い話というのは、失礼な話ですが、遠来の客自分だけではなかったか、老人クラブの寄り合いみたいで、とても楽しかったです。・・温泉自体はアルカリ泉の上等のもの。このへんの地層、4つのプレートが犇いていてその間隙から湯が湧き出るということです。近くの二十六夜山トレッキングがおもしろそうで、ここを起点に道があるとか。フロントで尋ねたら、案内のパンフいただけました。都留市中心で見えなかった富士見のスポットがあるとのこと。

・・輪行先で温泉にはいるのは、テルマエロマエのタイムスリップと似ています。こういうのも幻術のひとつ。地元の人たちの楽しみを崩さないうちに帰路につくことにしました。

・・お笑いというのは、このあとの自分のお話です。温泉に来るまで苦労でしたが、帰路よく覚えていなく道をまちがえてしまいました。郊外では富士もみえます。右折してどんどん進めば富士を背にして大月の駅に向うはずでした。そのつもりが、なんと眼前に雪肌らの富士がみえる!もしや、反対方向にすすんでいるのでは?人通りもほとんどない街道でした。むこうの方から、やっと歩く老人と付き添いの娘さんらしきが。迷路にはいって一大事。走りよってここはどこかと尋ねました。藁にもすがる思いでしたが、娘さんのたいへん落ち着いたやさしい対応でした。引き返して左折しなければなりません。前に富士があるから前進すれば富士吉田ですか?いえ、やはり大月にでます。ただ峠越えで駅ではなくとんでもないところだそうです。ことばのひとつひとつがやさしく正確なふうでした。・・涙はでませんでしたが、ご老人と娘さんにたくさんお礼をいって、ひきかえすことにしました。道をまちがえておもしろかったこと。途中桂川の橋をわたりました。今回富士のほかにこの桂川も見たく思ってました。このあたり田んぼの畦など勢いのある透明な水が走っています。桂川も透き通った清烈な流れです。桂川をみるのをほとんど忘れていました。道をまちがえたおかげで桂川をおがめました。

・・月待ちの湯、すこし甘く見てましたね。輪行サイクリングはすべて自己責任。迷路にはまるのも自分の責任です。帰りは、もう一度自転車の解体−組立てをする仕事あります。大月の観光案内所で隣の猿橋を見てそこから電車に乗るとよいとか聞いていました。猿橋は桂川にかかる日本三奇橋のひとつといわれます。それで大月の駅には寄らず、国道20号(甲州街道)を上ってひとつ先の猿橋まで自転車を走らせました。それが、です。高尾から猿橋、大月まで自転車で来るとしたら大垂水峠をこえておそらくずっとこの20号しか道はないのではないか。以前藤野という駅まではやって来たことあります。この20号もこわい道です。途中トンネルもあるようですし。大月から猿橋へひと走りしましたが、もう途中でやめたくなりました。車がびゅんびゅん。大型車も来ます。側道もありそうにない。あともどりが出来ずなんとか車をやりすごしながら猿橋駅の前まで来ました。コンビニでジュースを買って店員に猿橋はどこか?聞きますと、もう二三km先とのこと。ここであきらめるのも癪だったので危険な20号をさらに進みました。で、ありました。・・観光名物らしく集団の客がガイドとともにもう見物の最中でした。人ごみもあの殺伐な20号よりは救われます。奇橋といって、なんとなく猿の橋なのはおもしろいです。それにその下の桂川の渓谷はぞっとするほど深い。桂川の流れの頼もしさはよかったけれど、20号の殺伐さは、今回とても気になりました。

・・輪行の自転車解体−組立ては一日一回というのが本当はよいのかもしれません。猿橋の駅で二度目の解体にとりかかりました。車輪を外す前にギアの位置をアウタートップにするのを忘れてしまい、そのまま外しました。チェーンがたるんで外れそう。なんとか張りをつくりましたが、もしチェーンが外れたら、自分はもとにもどせるだろうか?ディレーラ部分のチェーンのかかりは今でもよくわかっていません。変なトラブルなしに、きょうはもう帰りたい一心になりました。

542秋魚:2015/06/05(金) 01:58:48
(無題)
暖簾に春風たちぬ駿河町  五渡

(*駿河町  町名の由来は江戸城の向こうに駿河の富士山を望むことから。ここからの富士山の眺望は江戸一と言われていた。)

井月編「家づと集」諸州の項に載る句。この五渡とは誰だろう。

 五渡という雅号の俳人 武州妻沼の人。薬種商大和屋の主人として三代まで五渡を名乗る。

・・おそらく井月の会った五渡は三代目であろう。武州と上州でなされた芭蕉百五十回忌の俳諧連歌興行に名を連ねている。


三代五渡

薬種商大和屋の主人。通称定次郎。越鳥、後五渡の号を継ぐ。有磯庵。

 天保12年(1841年)4月12日、深谷市中瀬の吉祥寺で祖翁百五十回忌追福脇起俳諧之連歌興行。

三代五渡の句

俤やますます白き苔の花  『蝉塚集』

耻かしや花に来てさへ寐わすれし 『花の雲』



* 『蝉塚集』 斎藤南々の芭蕉句碑建立記念句集。田川鳳朗序、久米逸淵跋。

 天保12年(1841年)4月12日、俳諧連句興行。5月、芭蕉百五十回忌に芭蕉の句碑建立。


* 『花の雲』(富処西馬)

富処西馬の芭蕉句碑建立記念句集。田川鳳朗序、久米逸淵跋。

 天保13年(1842年)春、富処西馬は高崎市の清水寺に芭蕉の句碑を建立。
茲に亦上毛高崎の府、惺菴西馬ありて祭をまうく、其礼や厚々淳々、地を卜して恩報の碑を築き、払子を振て霊弔をさしまねく、同志雲の如く集り、香名しくれて叢根林葉をそゝく、風吟夕ニ一集札をなすといふ、こゝにおいてか一条をもとむ、よつて鳳朗腐毫を採て是か為に記誌す

    天保十三歳季春日

      天保壬寅三月二十八日於上毛清水寺興行
      一百五十回忌追福正式俳諧百韻

観音の甍みやりつ花の雲   祖翁

残るかたなき春の日のかけ    西馬


碑前手向

はせを忌のひとふしなれや花のかけ
   碩布

めくりあひむかしのけふの花の雲
   逸渕

花に只手を合はせたるはかりなり
  信濃 葛古

けふの我こゝろを啼や呼子鳥
  武蔵 寄三

面影にたつや霞のかれ尾花
   青荷


行春やこゝろを洗ふ椎の露
   上毛 竹煙



      百五十年同昔日
      紅々緑々祖翁真

柳さへ花さへさそふ供養かな
   西馬


ある事のなくて過たし花に風
  武蔵 南々

耻かしや花に来てさへ寐わすれし
   五渡

寐ところのかはるも嬉しはるの宵
   市月



   春之部


恵方ハと問婆とひとひよしの山
   鳳郎

目に見えて寒たけ立し柳かな
   見外


   夏之部


      卯 月


鳴といふ木につひきかすほとゝきす
   江戸 松什

散を見てからすの逃る牡丹かな
   万古



   秋之部


朝かほにあらく当るや稲の風
  京 梅室

一口に三夜をほめけり盆の月
   而后



   冬之部


      神無月

はいはいと出るや小春の鱗雲
   江戸 護物



  *

@巻 菱湖(まき りょうこ、安永6年(1777年) - 天保14年4月7日(1843年5月6日))は、江戸時代後期の書家。越後国巻(現在の新潟市西蒲区)に生まれる。姓は池田、後に巻を名襲名。名は大任、

・・明治政府及び宮内庁の官用文字・欽定文字は御家流から菱湖流に改められ、菱湖の門下生は1万人を超えたと伝えられている。


「芭蕉花の雲句碑(高崎清水寺) ・・碑面の句は当代第一級の書家であった越後出身の巻菱湖が筆をとり、碑背の文を常陸国牛久藩主の大内蘭長が書いたもの」

  *

@桜井梅室  明和6年(1769)生〜嘉永5年10月1日(新暦1852年11月12日)歿
 名は能充。俳号は初め雪雄、素信又は素心、後に梅室と改め通称とした。方圓斎、陸々等の別号がある。金沢の人、父祖代々加賀藩の刀研師で、桜井新九郎の子。
 16歳にして俳諧に志し、槐庵馬来・高桑闌更に師事した。文化4年、家職を弟子に譲り、京に上って俳諧をもって世に知られるに至った。文政から天保にかけては江戸にて活躍。江戸滞留10余年の後、金沢に帰省したが、再び京に上り、嘉永4年には、二条家から花の下宗匠の許しを得た。俳名もいよいよ高く「天保の三大家」と称された。


天保14年(1843年)、芭蕉百五十回忌に比良城林曹社中は太融寺に芭蕉句碑を建立。梅室筆。

 しら菊の目に立て見る塵もなし

天保14年(1843年)閏9月、大津市の幻住庵跡に芭蕉句碑を建立。梅室筆。

 先たのむ椎の樹もあり夏木立

・・各地に芭蕉句碑を建立しているが、天保14年芭蕉百五十回忌には、二箇所に建立。天保12年(1841年)には、武州深谷市吉祥寺での芭蕉百五十回忌俳諧連句興行、天保13年(1842年)には、上州高崎の清水寺の俳諧連句興行にそれぞれ出句している。


・・神出鬼没だが、いずれも蕉翁百五十回忌。

543秋魚:2015/06/07(日) 22:00:07
(無題)
・・入梅まじか。晴れたので、きょうは飯能の美術家柳井嗣雄さんと藤浪お嬢を案内して岩井堂観音にでかけた。岩井堂は元浅草観音として有名だが、近頃は訪問者は皆無に近い。成木川に沿った街道の青梅と飯能の端境に位置し、河岸にそそりたつ岩壁の中にあるこの岩井堂は、車で訪れるには駐車する場所もなく周囲はまったくの自然に囲まれて人の訪問を拒否してるかのよう。自分は以前一度訪ねていて、川淵で上下に緊密に篭められた祈祷空間をうれしく思っていた。・・継体大王の頃、行脚の僧が一寸八分の黄金の仏像を岩の祠に祀った。ある日洪水でその仏像が成木川に流され、それから百年ほどの間に、入間川ずっと下流の隅田川まで流され、漁師の網にかかって日の目をみた。それが浅草寺本尊の観音様になったということです。

・・唐竹の柳井さんのアトリエから車で向った。山王峠をこえ小曽木街道にはいる交差点を左折しまもなく岩淵の岩井堂がある。案の定駐車がむずかしい。ああでもないこうでもないやって少し離れた写真館の主人の許しで庭に車を置かさせてもらった。

・・ここは登山ハイキングというほどではないが、切り立った崖を川縁まで下りる参道、そこから細い鎖道に沿ってすすみ大きな岩の裏側にまわるふうだ。以前来た時はさらに川べりまで降りる道があったと記憶していたが、工事で変改されたよう。すこしいくと本堂らしきに着いた。岩の祠に首の無い石像がいくつも並んでいてやや不気味。川べりまで降りると、湧水のある竜宮の空間があると、ものの記事にはある。けっきょくその存在の有無はわからぬまま。自分としては物足りなかった。・・その本堂からさらに上にすすむ岩の階段道があってずっといくと赤い巨岩の天辺までいける。細いけわしい道で、草木に蔽われていても岩肌の部分が清潔なので安心できる。頂上付近には、とても強い香りの花がある。藤浪さんのいうにはジャスミンだという。すぐ真下は草木に隠れた深い谷だ。木々の緑の上に出たよう。冬など見晴らしのよい日には雪の富士山をみることもできるという。この地域で富士をみれるというのはめずらしいことだ。

・・この大きな赤い岩は何なのでしょう。地震があっても崩れそうにない。頂上は小さな空間だが、居心地はいい。三人でお茶とカリントウをいただいてしばらく休んだ。

・・岩井堂を訪れる人は皆無というのは、すこし誇張した言い方だ。ネットで調べてもいくつか興趣深く踏み込んだサイトもある。折に触れ訪ねる人はままいるはずだ。ただわたしらが訪れる時はほぼ無人と思ってまちがいない。・・ずっとくだってサンバ祭りなどで賑わう浅草寺にいってみればわかる。絶えぬ人の参詣でいつも満ち溢れている。いまはいろいろ錯綜した寺社がたちならび本尊が何であるか気に留める人もすくないのではないか。よし気に留めたとしてもここの観音像は絶対秘仏となっている。

・・岩井堂観音はもともと岩の祠に安置されていた。古来の場所はわからないが、今はそれらしきには何体かの石仏が置かれている。ただしおおよそ首がない。これは、明治期になって行われた廃仏毀釈の運動によるものだろうか。修復されたものもひとつふたつみえる。が、こんな訪問のすくないところではむしろ石仏破壊の傷跡をそのまま残した方が歴史の真実がわかるというものだ。この首無しの石仏群は、けっきょく無視されている元浅草の観音像の現在にすぎない。首を切ったのは明治の新政府とばかり理解するものではない。

・・いずれにしても岩井堂は、今でも成木川の淵で亡霊然としてたたずんでいる。

544秋魚:2015/06/10(水) 16:16:24
(無題)
・・先日成木川の上流まで常盤の面影を訪ねたが、ほとんど伝説くらいの思い入れだった。
地元だったので一驚し、この辺鄙な田舎にかの常盤御前が住まいしたなどにわかに信じがたかった。時代なのかこういう古いものを追う人も少なくなっているせいか土地の人もほとんど気にかけていない。牛若の母堂、それでも一部で熱心な追っかけやってる人いるはずと思い、ネットで探したらやはり存在してました。・・すぐ隣の飯能にはよく赴きます。この飯能に常盤伝説があるというの頭に残っていて、こちらで探していたのです。まだ訪ねてはいませんが天覧山、多峯主山の峠道を歩いて陸奥の義経を追いかけようとしたらしい。常盤の墓があるという言い伝えは何ヶ所かあって、飯能もそのひとつ。常盤塚があるのかないのか自分もこんど追っかけをやってみたい。有名な常盤の墓は関が原にあるそうだ。牛若が鞍馬山をでて東国に向ったとき常盤も追いかけたが、賊に襲われて関ヶ原で落命したという。こんな早い時期に常盤は亡くなってませんから、関が原のお話は作り事ですね。

・・野ざらしの旅で芭蕉が常盤の塚にあい句を詠んでます。

 義朝の心に似たりあきの風

常盤の死は今でも謎です。京の一条河崎観音堂で捕らえられたあと(1186年)鎌倉に護送されたかは不明だが、やはり東国にくだってきているのではないか?・・青梅の成木川上流の常盤林道付近に隠れ住んだという話は、飯能の山歩きの話とあわせて真実味が増してきた。青梅の成木の隠れ里は、たいへんな田舎の印象があったが、これはたぶん違っている。鎌倉街道と呼ばれるものがすぐ近くにあり、これは大山詣での道ともいわれ、また高水山という霊山の表参道にも目と鼻の先。この高水山には頼朝の忠臣畠山重忠が帰依していたというから、もしや重忠の保護下にあったやもしれぬ。

・・常盤の追いかけ人は、実際、成木林道のかたわらに常盤の館の名残、石垣のあるのを確認したという。ここから飯能へは、たぶん脱出逃亡の道行きということもあろうかと。

 『常盤林道を上ると、途中の杉林に舘舎(御殿)蹟と称し、石垣の跡が残っているやゝ平坦な所がある。ここに源義経の母常盤御前が住んでいたといわれている。常盤御前は、源氏の棟梁源義朝が京の帝に仕える千人の侍女の中から選んだ絶世の美女、後に頼朝が鎌倉幕府を興し京都から常盤御前を呼び寄せたとき、人目を避けて一時この地に住まわせたと言い伝えられている。今でも地元の人はこの山を御殿と呼び、常盤の地名もここから来たと思われる』    〜常盤むかし話懇談会〜

・・おそらくこういう言い伝えが、妥当な話であろう。そんな館跡まで本当に残っているとは思ってもみなかった。・・常盤が京の清盛の前に出頭したのは、捕らわれの母と三人の子の命を救うためだった。大河ドラマもひさしくみていない。このシーンはみなどう作るのだろう。・・常盤の生涯の節目節目がいろいろ想像のはたらくドラマにみえる。ただし、常盤の晩年は藪の中、闇の中にその香りをほのかに残すのみ。

545秋魚:2015/06/11(木) 21:25:24
(無題)
甲斐の山中(家)に立ち寄りて、

 行駒の麦に慰むやどり哉

・・芭蕉「野ざらしの旅」の末の帰路、江戸にはいる一歩手前、甲斐の山中(家)は都留の谷村か、勝沼の万福寺か。

・・万福寺には、駒塚という馬蹄石がある。

>・・昭和33年(1958)刊、勝沼町誌刊行委員会編「勝沼町誌」
p1237〜38 万福寺の項によれば、

* 馬蹄石
 駒塚ともいう長さ二間広さ九尺石の面は平らにして馬の蹄の跡四個を留む。伝説によると聖徳太子甲斐の驪駒に乗り富士山、駒ヶ岳に登り還りてこの石に駐したりと。

・・芭蕉は万福寺に寄ってこの馬蹄石をみたという着想から、ここに句碑が建てられ「駒塚集」という句集が編まれた。

三車上人という万福寺の和尚が編んだものだが、成立は寛政五年(1793年)芭蕉百回忌に合わせたものかといわれる。ただし「行駒の麦に慰むやどり哉」の句碑は、蝶夢が「富士美行脚」の旅で万福寺に立ち寄った時すでにこの句碑をみているので、1788年より以前のこと。あるいは「富士美行脚」の脚色で1788年に句碑を見たことにしたのかもしれぬが。


・・序文が高桑闌更、跋文が井上重厚。蝶夢門と闌更門の競合ともみれる。



若葉して御めの雫ぬぐはばや


・・芭蕉が奈良の唐招提寺に訪れた際、鑑真和尚の坐像を拝みて詠んだ句。元禄元年(1688年)。

・・芭蕉は、聖徳太子をどう捉えていたのだろうか?百年忌に甲斐で編まれた「こまづか集」をみているうち、ふと気になった。源平の合戦で運命を翻弄されたものたちに多く手向けの句を寄せている芭蕉だが、鬼神を語らず、太子については何も句を残していないとみた。聖徳太子については、今でもその聖人についてのイメージや実在性について疑義をはさまれること多く、ほんとうの顔はわかっていない。奈良に訪れて法隆寺にも寄ったのは推察されるにしても、句を残すことはなかった。・・唐招提寺に寄ったのは、たしか、鑑真和尚を詠んだ句が残っている。

・・「こまづか集」の騒ぎに比して、この一句。


・・御めの雫は、涙ではないだろう。・・あるいは涙かもしれぬ。


 行駒の麦に慰む・・若葉かな (へんな俳句)


   *

・・自転車の調整で、また前輪のタイヤ外しを試みた。バーストした部分、あれからだいぶ乗り回しているが、すこし不安になった。傷を負った部分、必ずもとに復旧するというのではない。身体なども古傷は後年になってぶりかえしてくる。・・前輪を車体から外すのは容易になった。タイヤをリムから外すのはまだ馴れていない。・・なんとか開けてみる。やはり変な圧がかかっているのか、クリアファイルの傷口の上は両面テープの接着剤が溶けてしまってた。その分ファイルが脹らんで凹みをつくっていた。チューブもすこし変色。やはり応急処置の限界か。チューブは穴あきがないがパンク修理用のパッチを貼ってもとにもどした。・・タイヤ交換を視野にいれねば。

・・次の輪行は、高崎までの片道輪行(帰り)をプランしている。

546秋魚:2015/06/13(土) 01:25:16
(無題)
 五味可都里

本名は五味宗蔵。加藤暁台、高桑闌更に学ぶ。別号、葛履。葛里。蕪庵。雪亭。

甲州藤田


可都里
   五味宗蔵


『諸郡銘録』
 寛保3年(1743年)、中巨摩郡藤田に生まれる。

 明和7年(1770年)11月、高桑闌更に入門。

 天明2年(1782年)4月10日から22日まで五味可都里が信州諏訪・佐久及び上州妙義・榛名を旅する。『諏訪道之記』

・・


 天明8年(1788年)秋、闌更を藤田村に迎えて歌仙を巻く。『農おとこ』(可都里編)刊。闌更序。


@ 『農おとこ』

・・農男とは、麦刈の頃、富士山に残った雪が、笠をかぶり鍬を持った男のように見えることをいい、この時期田植えをすることが習わしであるという。

不尽のねや皐月定る雪をとこ
??可都里



 雨ぬれをとめ野は田うゑ笠
?? 闌更







   歌僊



夕暮や真白きうへに天つ不尽
??闌更



 あしがらごえもいのちなりけり
?? 可都里







ほとゝぎす朝寝の里に田長よぶ
?? 可都里



杜鵑まつたのしさの更わたり
?? 作良



   おなじこゝろを



鳥総たてし明るき山にほとゝぎす
   京  闌更



千鳥啼や川下の月京に入
   差出  石牙



箒木にあやまく庭のへだてかな
?? 如毛



   姨捨山にて



名月や千曲の夜霧越の雲
   信濃  伯先



きりぎりす鳴や小藪のかいまがり
   上毛  似鳩



降雪や陽さかむなるおこし炭
?? 鷺白



木瓜咲や木履をはいて遊び行
?? 丈水



朝戸出や露になれたる丸天窓
   嵯峨  重厚



   よし野にて



花の雪梢は花にわかぬかな
   播磨  青蘿



   歌僊



貫之の燧さげつゝなつの月
??可都里



 舳さき涼しさなみの浮鯛
?? 闌更

547秋魚:2015/06/14(日) 22:20:36
(無題)
・・飯能の奥に廃屋があって自由に使ってよろしい。という話があった。近くに住んでる友人が、美術家ですが、乗り気になってその家敷地を整備しはじめた。強く誘われたわけではないが、一日草刈など手伝いにでかけた。・・このところ体調と自転車の整備で余念無く半分は調整のつもりで自転車を走らせた。

・・この自転車何年目になるのだろう。普通はこれまでの走った総距離を目安に使うらしい。素人サイクリストの自分はむろんそんなことを気にかけず乗り回してきた。一応のブランド品で、使い込んでも狂いがでてくるということはなく、日を追って身体になじんでくるのはうれしかった。ただやはり部分的な劣化はどこかで起きる。タイヤはまだまだ使えそうだが、半年ほど前バーストした前輪は補修したとはいえそろそろ限界かというところ。・・新しい替えタイヤを注文して入手した。

・・もうしばらく空気圧を加減しながら乗ってみる。青梅坂から小曽木街道へ、途中緑の木の中でホトトギスの声を聞き分けたのは、最近の成果。うれしかった。昼過ぎに友人の家に着いた。どんな集まりかも想像してなかったので、すこし面食らう。新しい人に出会うと自己紹介とかしどろもどろで重くなる。なるべくこういう会には参加しないようにしていた。人見知りだと人はいう。

・・なんかすばらしい奥様たちがいらしてて、食事中とか。わたしはお茶でけっこうでしたが、いろいろお裾分けにあずかった。年季のはいった奥様たちは、みな料理上手で、ささいな集まりではありましたが、最後まで手作りのデザートとかお菓子とかこんなことは滅多になくそれだけで自律神経に狂いが来てしまった。・・こういうときは廃屋の整備をおもいきり手伝うにかぎる。きょうは庭の雑草、植木の刈り込みが主なる仕事。しかしけっこうなものです。葛のつる、アケビの蔓などからまり鬱蒼とした庭はジャングルの様。気持ちが先になって挑んでも体調はついていかない。安い靴をはいていたのでバラの棘でも貫通して痛みをおぼえた。参加しているご婦人たちが勇猛果敢なのでしり込みするわけにもいかずなんとかがんばった。実は、体調がすごくわるかった。ひけ間際さいごの一時間でようやくなじんで来たのがわかった。・・家でパソコンの相手ばかりしているとこうなるのでしょう。

・・ウグイスは自宅の前でもよく鳴くけれど、ここはもっとすばらしい音色で鳴いた。信じがたいほど鮮明だ。参加していたご婦人の家ではカッコウがよく鳴くという。カッコウは飛びながら鳴くのだという。その飛びかたも波打つように飛んで、尾が長いとか。

548秋魚:2015/06/16(火) 01:15:02
(無題)
・・お岩、お露までこの世とつながる江戸の時代はインターネットよりおもしろいかも。芭蕉翁のつながり世界どこまでみえるか、このところの興味である。

  1793年 芭蕉百年忌・百五十年祭
  1843年 芭蕉百五十年忌・二百年祭

・・1793年の近傍は、天明期大飢饉、大火災。後桜町上皇、光格天皇の時代です。

>・・東北地方は1770年代から悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、すでに農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による冷害傾向をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。

>・・幕藩体制の確立とともに各地で新田開発、耕地灌漑を目指した事業が行われた。しかし行き過ぎた開発は労働力不足を招き、強引に治水した河川が耕作地に近接しすぎることで、洪水を頻発させ生産量の低下を起こす原因にもなった。さらに当時は、田沼意次時代で重商主義政策が打ち出され「商業的農業の公認による年貢増徴策」へと転換され、地方の諸藩は藩財政逼迫の折に、稲作の行き過ぎた奨励(結果的に冷害に脆弱であった)や、備蓄米を払底し江戸への廻米に向けるなどの失政が重なった。大凶作の一方で米価の上昇に歯止めが掛からず、結果的に飢饉が全国規模に拡大することとなった。

>・・異常気象の原因は諸説あり完全に解明されていない。有力な説は、火山噴出物による日傘効果で1783年6月3日 アイスランドのラキ火山(Lakagígar)の巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火)と、同じくアイスランドのグリムスヴォトン火山(Grímsvötn)の1783年から1785年にかけての噴火である。これらの噴火は1回の噴出量が桁違いに大きく、膨大な量の火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に低温化・冷害を生起し、天明の飢饉のほかフランス革命の遠因となったといわれている。また、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が噴火、浅間山の天明大噴火は8月5日から始まり、降灰は関東平野や東北地方で始まっていた飢饉に拍車をかけ悪化させた[6]。なお、ピナツボ火山噴火の経験から、巨大火山噴火の影響は10年程度続いたと考えられる。 しかし、異常気象による不作は1782年から続いており、1783年6月の浅間山とラキの噴火だけでは1783年の飢饉の原因を説明できていない。

>・・信州善光寺大勧進表大門の手前にある放生池は、時の第79世貫主・等順大僧正が天明の大飢饉において、善光寺貯蔵の米麦を放出して民衆を飢餓から救済、等順の恩に感謝した人々が集まり掘った池と伝えられている[7][8]。

>・・御所千度参り(ごしょせんどまいり)は、天明7年6月7日 (1787年7月21日)に発生した、京都御所の周囲を多数の人々が廻り、千度参りをした事件。

この御所千度参りは、天明7年6月7日頃から始まった。初めは数人だったが、その数は段々増えて行き、6月10日には3万人に達し、6月18日頃には7万人に達したという。御所千度参りに集まった人々は、京都やその周辺のみならず、河内や近江、大坂などから来た者もいたという。

京都は人であふれ、後桜町上皇からは3万個のリンゴ(日本で古くから栽培されている、和りんご)が配られた。他にも、有栖川宮や一条家などでは茶が、九条家や鷹司家からは握り飯が配られた。

この事態を憂慮した光格天皇が京都所司代を通じて江戸幕府に飢饉に苦しむ民衆救済を要求する。これは、禁中並公家諸法度に対する明白な違反行為であった。そのため、天皇の叔父でもある関白鷹司輔平も厳罰を覚悟して同様の申し入れを行った。これに対して幕府は米1,500俵を京都市民への放出を決定、法度違反に関しては事態の深刻さから天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした。

549秋魚:2015/06/17(水) 17:34:44
(無題)
・・補修調整した自転車でまた多摩川サイクリングロードを走った。昔目標とされたサイクリングロードはいまや試行ロード。これに馴れすぎると悪路が走れなくなる。前回都留大月の国道を走ったとき、立ち往生したサイクリストをみて車はあわてたに違いない。ママチャリ感覚で走ってるサイクリストに事故をおこすのは自動車のドライバーも嫌であろう。これは道端で車を見ていればわかる。・・まれにだがアオリのドライバーもいる。遭遇しないのを祈るのみ。

・・カーレースなどでよくトラブルで中断するのは、たぶん設計創作の微妙な誤差が原因であろう。各パーツ機能の限界までチャレンジして結果を出そうとするのがカーレースの目標だ。すべてのパーツが同じ限界機能でつながっているわけではない。全体の限界の近傍では限界機能をこえたものもあらわれる。・・あまり競って無理をしないに限る。

・・とはいえ、自転車はよく整備した方がよい。無精者の自分は最低限の整備にやっと気づいた程度です。

・・高崎まで80キロはあるな。見立て狂いは茶飯であるのは、これまでの経験だ。

550秋魚:2015/06/17(水) 20:38:52
(無題)
・・高崎清水寺観音。想い出多し。キズ多し。

「・・高崎観音山の東腹にある曹洞宗の寺院で、古くから養蚕の仏様として近郷の信仰を集めています。大同3年( 808)に、坂上田村麿が東国平定の際に戦死した将兵の冥福を祈り、京都の清水寺から勧請して建てたと伝えられています。本尊は千手観音で、近隣丘陵地の名称「観音山」の基となるものです。」

・・「せいすいじ」と読むそうだ。要は、坂上田村麿つながりでしょう。

「・・後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。」

・・『枕草子』は「さわがしきもの」の例として清水観音の縁日を挙げ、『源氏物語』「夕顔」の巻や『今昔物語集』にも清水観音への言及があるなど、平安時代中期には観音霊場として著名であったことがわかる


 観音の甍ミやりつはなの雲

 高崎市指定重要文化財である。

「芭蕉花の雲句碑

 この句碑は、江戸時代末期の上州随一の俳人であった高崎田町生まれの富所(志倉)西馬が、芭蕉俳諧の流れをくむ者として、上州内外の俳人と共同で芭蕉百五十年遠忌の前年にあたる天保13年(1842年)春に建立したものである。この時、記念の大俳句会も開催している。」


・・近傍が、天保の大飢饉。

「・・天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)は、江戸時代後期の1833年(天保4年)に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化した飢饉である。1839年(天保10年)まで続いた。1836年(天保7年)までと定義する説もある。」


「・・ 主な原因は洪水や冷害であった。東北地方(陸奥国と出羽国)の被害が最も大きく、特に仙台藩の場合は盛んに新田開発を行い、実高で100万石を超える石高を有していたが、米作に偏った政策を行っていたため被害が甚大であった。

各地で餓死者を多数出し、徳川幕府は救済のため、江戸では市中21ヶ所に御救小屋(5800人収容)を設置したが、救済者は70万人を超えた。米価急騰も引き起こしたため、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発し、天保7年6月に幕府直轄領である甲斐国一国規模の百姓一揆となった天保騒動や、天保8年2月に大坂で起こった大塩平八郎の乱の原因にもなった。特に大阪では毎日約150人-200人を超える餓死者を出していたという。」

* 天保騒動(てんぽうそうどう)は、江戸時代後期の天保7年(1836年)8月に甲斐国で起こった百姓一揆。甲斐東部の郡内地方(都留郡)から発生し、国中地方へ波及し一国規模の騒動となった。別称に郡内騒動、甲斐一国騒動、甲州騒動。


 ・・天保7年8月17日(1836年9月27日)夜半、谷村では下谷村近郷百姓による米穀商居宅への打ちこわしが発生し、騒動の発端となった。谷村には石和代官所の出張陣屋である谷村代官所が諸愛しているが、元締手代山内左内は不在で、石和陣屋から加判手代松岡啓次が出張し、関係者の処罰と村々への取締を行い収拾される。

・・一方、谷村での打ちこわしと同時に都留郡下和田村(大月市七保町下和田)の武七(治左衛門)、同郡犬目村(上野原市犬目)の兵助は同郡鳥沢村(大月市)で合流すると、米価引き下げを求めた強訴を計画し一揆勢の頭取となった。」

・・都留谷村、大月あたり、百五十回忌は凶兆になるわな。

  *

?江戸文化との交流(多摩人:小林天淵の例)
1848年(弘化4年)夏、江戸の町学者で『江戸繁盛記』の著者・寺門静軒は、武州多摩郡青梅村の小林天淵を尋ね、青梅の里に遊んだ。
小林天淵は、生粋の多摩人で青梅仲町の生まれで、生家は酒商で名主も兼ね、若い時には家業に励みその後江戸に出て絵を谷文晁に、狂歌を大田南畝に学び、江戸文化人との交友が広かった。
寺門静軒が天淵を尋ねた時は52歳、天淵は70歳で、天淵は老後家塾を開き、集まった郷党の人の数は600人の多きにのぼるという。



・・強力な先達のつながりが得られた。邁進するのみ。

551秋魚:2015/06/18(木) 20:20:41
(無題)
天明の六俳客?? ・・無爲庵樗良、暮雨庵暁臺、夜半亭蕪村(谷口蕪村)、春秋庵白雄、雪中庵蓼太、南無庵蘭更である。

天明中興の五傑 ・・ 人各々好む所あり。蕪村の雄放、暁台の剛健、蘭更の艶冶、白雄の老蒼、蓼太の富麗等、

天保の三大家  成田蒼虬、桜井梅室、田川鳳朗

552秋魚:2015/06/19(金) 01:42:41
(無題)
「・・宝暦事件 ほうれきじけん

1758年(宝暦8)に京都で朝権回復を志す尊王論者の少壮公卿(くぎょう)らと竹内式部(たけのうちしきぶ)が処罰された事件。儒者、神道者の竹内式部は崎門(きもん)学派、垂加神道(すいかしんとう)に基づいて『日本書紀』『保建(ほうけん)大記』『靖献遺言(せいけんいげん)』などを家塾で講義した。そのなかで武家に政権を奪われた朝家の政権回復の心構えを説く一方、激しく将軍を誹謗(ひぼう)した。現状に不満をもつ門弟の徳大寺公城(きみき)、正親町三条公積(おおぎまちさんじょうきんつむ)、烏丸光胤(からすまるみつたね)、西洞院時名(にしのとういんときな)などの公卿は師の説に深く感銘した。彼らは君徳涵養(かんよう)のため若い桃園(ももぞの)天皇に式部の学説にのっとった『日本書紀』を進講した。しかし事が朝廷と幕府との関係悪化に発展するのを恐れた前関白一条道香(みちか)らは、天皇の嫡母青綺門院(せいきもんいん)を動かして、徳大寺らの官を停(と)め永蟄居(えいちっきょ)など処罰して天皇の周囲から排除した(宝暦8年7月)。一方、式部については、京都所司代松平輝高に連絡して幕府にゆだね、翌59年5月京都町奉行(ぶぎょう)は式部を重追放に処した。式部は京を追われ伊勢(いせ)国(三重県)宇治山田へ退去した。[山田忠雄]

・・この烏丸光胤(からすまるみつたね)は烏丸光栄を養子で継いだ人です。竹内式部の門弟には日野資枝もいますが、烏丸光栄の末子で日野家に養子で入りました。竹内式部を追い詰めるため日野資枝の裏切りがあったそうです。

・・烏丸家の文学と日野家の儒学を統合してあらわれたのが日野資枝。子の日野資矩とともに後桜町天皇に和歌をもって仕えたとのこと。

553秋魚:2015/06/19(金) 11:18:03
(無題)
・・前回の都留ポタリングで、月待ちの湯からの帰路道を間違えたのは今でもわからない。地図をひろげて再検討してみる。戸沢谷村道から高速道にぶつかった十字路で左折したのがまずかったか?そのまま行くと谷村とか都留文大のある方にむかう。引き返して左折で正解か。道を尋ねた人が、そのまま行くと峠をこえて大月へ行くというのは、話しをわかりやすくする為誇張したものか。・・谷村のもっと先なら十日市場の湧水めぐりができた。田原の滝では、芭蕉は句を詠んでいる。

 勢いヒあり氷消ては滝津魚

・・途中桂川と思ったものは違うだろう。菅野川かなにかの支流。間違い多し。

554秋魚:2015/06/19(金) 22:42:09
(無題)
・・岩井堂  N35度50分08 E139度18分02

・・火山峠  N35度46分50  E137度59分18

・・青梅市畑中 N35度46分58  E139度14分42

555秋魚:2015/06/20(土) 01:27:39
(無題)
青梅や筒井づゝなるその昔

・・この青梅は季のオブジェかもしれぬが、自分はこの土地のことと理解した。井月は青梅を訪ねている。・・おそらく谷野の真浄寺。ここにある時雨桜碑と芭蕉塚。ここに立ち会っているはず。

・・つつ井づつとは何であろう?

「筒には星の意味があるのは金星を夕つつと呼ぶことからも明かで、星こそ航海の重要な目印であり、海の守り神として相応しい。オリオン座の三ツ星の神格化が三筒男と思われる。」

井を中にしてつつとつつが出会う。星が井の中に映ろう。

「浅海と云う深い入り江の奧に鎮座。津々浦々の津々を筒と表現し、入り江の奧を底筒男、入り江の入り口を表筒男、その中間を中筒男と云うのが真弓常忠氏の住吉三神についての説である。対馬の港を見れば、納得できる説ではあるが、やはり筒は星だと思う。」


   *

臼左 俳人。武蔵。横川貞八郎。旧左とも書く。別号尺雪園・好々居。武蔵青梅の人。由岐男門。明治十年宗匠となる。埼玉県南西部に門人が多い。青梅の金剛寺境内に門人好々居社中が明治二十七年に句碑を建てる。『初心俳諧百人集』に肖像を載せる。明治三十二年(一八九九)没、七三歳。井月『余波』所収。「寝転んで見る花でなき牡丹かな」

556秋魚:2015/06/20(土) 19:49:22
(無題)
・・梅雨の晴れ間をぬって入間アウトレットパークまで自転車を走らせた。入間は不思議なところです。日常の活気というのがすこぶるよい水準というか。自分のような若ぶり年寄りには刺激が多い。

・・河辺駅前から北進して霞川にぶつかるまで。ここをさらに北西に進めば塩船観音に至る。この日は霞川に沿ったサイクリングロードで青梅の外れまで行く。躑躅の名所薬王寺に行った時、この霞川サイクリングロードを発見した。ほとんど歩行者専用かとも思えるが歩く人はあまり出会わない。まったく快適な道だ。川べりで紫陽花がきれいに咲く。カワセミの飛翔をとらえようとするカメラマンも今はいない。岩蔵街道を横切ってさらに進む。水は澄んで魚もみえる。ゆったりした水鳥が一羽みえた。写真を撮ろうとすると大きく羽根をひろげて飛び去るのがいつもだ。ちょっと遠目からなんとか一枚。これはコサギというのだろう。帰り入間の博物館で似た鳥の写真があった。

・・青梅から外れてここから入間市です。という標識があった。さて、ここからが迷路。16号にでる必要がある。東京の都心ばかり目がいく人には、この16号のことはわからない。首都圏大回りの環状線だ。・・自転車乗りのはじめの頃、横浜みなとみらいに出た。深夜に横浜から町田にでるのはこれしかないという。16号は本来が自動車道。歩道はあるがいま思い返しても人の歩く道ではない。自転車の道でもない。まったく恐怖だった。この16号は横田基地のわきを通って狭山、入間、川越その先は自分には未知だ。

・・アウトレットモールかと思っていたが、ミツイアウトレットパークが正式な名称。この集合商店の建物にY’roadという自転車店があるという。これが目標だった。入間から一度狭山にはいる。茶畑が一面にひろがっている。ここは以前立川から飯能にでる時通ったあたり。かなり入り組んでいる。飯能街道では車にあおられたものだ。まああまりいい道ではないが、悪路の修羅場をいくつか経験して恐れはない。人に聞きながらなんとか16号まできた。あいかわらずすごい道路ですね。16号は横断というのがひどくむずかしい。・・アウトレットパークまで近づいているはずだが、まだ見えてこない。そうこうするうち回転寿司のはま寿司が見えた。昼もだいぶ回っているので、ここで休憩にした。はま寿司はなかなかよい店です。ネタが新鮮。しかしすごい込みよう。何を注文するかなと考えてかなり遊べる。南高梅のはいった海草うどんを注文した。南高梅のいいものは一つ百円はする。どんな梅が来るか。まあ微妙ですね。最高級ではないが、まずまず。

・・店をでるとすこし先にミツイアウトレットパークがあった。二階建てで、小さな小売店がいくつも肩を並べてる。数回建ての大きなビルを想像していたが裏切られた。案内所が見つからなくてぐるぐるまわり尋ねる人もいない。露天の八百屋さんに聞いてやっと案内所に着いた。Y’roadは二階にあがって左の方へいってください。しかし、店名も大方わからぬ店が多い。服店が多く海外のブランドを安く売る店かな。ユニクロを分散化したような。この傾向すこし聞いている。アウトレットというのは、だいたいどういう意味なのだろう。Y’roadは、うちはアウトレット商品を安く販売してます。というから在庫の整理みたく聞こえるが。自転車は、店に飾ってあるのはほぼ完売に近い。このパークも人ごみがすごい。入間のこの地域やたらとだだ広く買い物でおしゃれができる注目のパークらしい。自転車のパンフをもらおうと思ったらそれにも値段がついている。ごちゃごちゃ現代版アメヨコという感じ。ほかにアウトドア商品の店をひとまわり。品物のひとつひとつはもうついていけないものばかり。若い人にはいいかもしれない。

・・同じ道を走るのはおもしろくない。また別の道をさがして帰路についた。と、どういうわけか入間市博物館というのにぶつかった。地域の歴史がわかるのはうれしい。迷わず寄ることにした。入館料がすこしかかります。いいですけど、簡単なパンフをつくるべきです。案内嬢が江戸末期に綿の織物の紹介があって、絹ではありませんか?いえ綿です。貿易で輸入したものです。・・この案内嬢、美人でした。あなた美人ですね。いえそんなことは、といって恥じらいの顔はやはり美人でした。

・・この博物館。緑茶のサービスがあります。せっかくですから狭山茶をいただきました。ほかにもいろいろおもしろかったのですけど、思いをあたためてまた自転車に乗りました。

557秋魚:2015/06/22(月) 20:14:11
(無題)
・・気をもんでいても仕様もない。自転車のタイヤ交換をした。タイヤ交換は二度目。バーストしたものまだまだ使えそうだが、とりあえず次のロングライドは新しいタイヤで行く。バルブ部分の調整がすこしコツがいる。プロ仕様の交換もあるはずだが、前回よりはスムーズにいった。700×32C。以前の台湾製のタイヤ、磨耗がすくないし悪くない。すこし重い感じはするものの安定感はある。今度のパナレーサーすこし細目の感はある。フロントだけの取替えでバランスが崩れなければよいが。

・・輪行の練習を何度もやったので前輪後輪の着脱は自信ができた。出先の大方のトラブルは対処できる。

・・公立の図書館ネットを利用すると、たいていの本資料は地元で借り出せる。長岡の図書館の係の人が教えてくれた。おかげでずいぶん変わった資料にも目を通すことができる。このところ新事実の発見があいつぐ。・・そのことできょうは青梅の金剛寺をたずねた。将門ゆかりの梅があるお寺だ。家から近いのです。この句碑があった。


 青梅やまたこのさきもいくちとせ

           好々居臼左

・・幕末から明治初期の俳人らしい。なんと井月三部集のうち「余波のみづくき」に一句寄せている。

 寝転んで見る花でなき牡丹かな

             臼左

・・井月は、やはり青梅に訪れているな。

 青梅や筒井づゝなるその昔

           井月

あおうめと読めば、土地のおうめではない。しかし臼左のように青梅で詠んだのなら地元をうたった俳句ととれる。

井月の句は、おおかた句作事情が不明という。青梅は夏の季語でしょうか。筒井づゝは伊勢物語にあります。・・いなかわたらひしけるのは、井月。たぶん青梅に来ています。臼左と会って詠んだ句でしょう。

もし、青梅に来ていれば、ここだけということはない。青梅の堂上文化の香りをかいで歩いたでしょう。ほど近い常保寺、すこし足を伸ばして谷野の真浄寺にも訪ねたでしょう。とくに真浄寺には、例の芭蕉百年忌翁塚がある。いってみれば、日野資枝のしぐれ桜碑と肩を並べているのを見ただろう。


・・ここまで思い巡らせて、すこしふるえが来た。

558秋魚:2015/06/25(木) 00:55:16
(無題)
・・自転車のタイヤ交換して試し乗り。パナレーサーはタイヤの凹凸紋が二倍はある。その分接地面が半減するか。軽快になる。前輪で急カーブするとすこし滑りかげんになった。前輪は軽快に後輪はやや重くその他はほぼ問題なし。大丈夫これで当分いける。

・・武蔵村山の郷土館で江戸期の俳人を特集展示している。「幻住庵記」の版木の展示もある。先日いった狭山瑞穂の先のほうだが、よい距離だ。今度は霞川をとことん辿ることにした。躑躅の咲く頃に藤橋の薬王寺に訪ねるのは最高のサイクリング。参道下の無人店で買った野菜は美味だった。霞川は入間にはいると一度沿った道がなくなる。さらにいくとまた現れる。ここで道をたずねる。霞川はけっきょく入間川に合流するのだという。青梅の黒沢川が成木川に入りその成木川も入間川へと合流する。・・霞川を追って入間川に行くと武蔵村山は外れてしまう。・・青梅街道をひたすら立川方面に進むのが正解だった。それでやはり茶畑のあるあたりから16号にでて右折、青梅街道にぶつかるまで走ることになった。このあたり瑞穂箱根ヶ崎という。・・あれれ伊奈街道というのがある。バスがたくさん集まっている。高速バス立川ー飯田線というのがあるらしい。ひどく安価だが。よりによって自分の道で遭遇するとは、自転車の輪行も考え中だった。案内所のお姉さんからパンフをいただいた。・・きょうは武蔵村山の郷土館まで、さらに遠いという。このあたり立川の方から以前来たことがある。残堀川という水があるか無きかの川に沿ってきた。もうひとつ空掘川というのがあってこちらは水源がどこかもわからない。ほとんど水が無かったりする。青梅街道も新旧ふたつに分かれ、新青梅街道なら道幅もひろく快適で帰路はこちらで走った。新しい未知の場所を訪ねるのは、時間が二倍かかる。かたくりの湯という温泉があって昔来たことがある。そのすこし先に郷土館があった。

・・「企画展村山の俳諧」というのが正式な名称。ネットで知ったのだが28日までという。なんでも幻住庵記の版木の展示というのは目玉だった。ここは無料だった。あまり人は訪ねていない。まったく自分のための展示のよう。案内嬢に写真をとっていいか尋ねると、ノーということだった。許可をとらずに撮るべきだったか。それでもパンフはないか尋ねたら、資料館だよりという立派なものがある。「幻住庵記」版木の解説評論が載っている。購入しようとしたら無料だという。すばらしいパンフです。それにしても先日の入間の博物館もおおいに見習うべきか。・・版木というのは原文を鏡文字にして木版彫刻で彫る。そうして墨をぬって刷るのですね。こういう印刷術の仕組みもよくわかった。それより驚きなのは、これは芭蕉百五十年忌の時つくられたものらしい。いや春秋庵宗匠の梅傘という人が百五十年忌に粟津の義仲寺でわけていただいたものを万延元年(1860)再版して作り直したものという。この百五十年忌は1843年だが、一年まちがえている。万延元年(1860)再版というのも意味深ではある。・・春秋庵というのは加舎白雄という天明の魅惑俳人を引き継ぐものだ。梅傘は青梅の人ともいい、未調査だが、おどろきが続く。


人恋し灯ともしころをさくらちる

           加舎白雄

・・多磨界隈、白雄がよく歩いている。


@備忘

・・武蔵村山  伊奈海道

* 伊奈平  ・・武蔵村山市南部に位置する。北で残堀・三ツ藤、東で榎、南で立川市一番町、南西で立川市西砂町、西で横田基地内の大字三ツ木と隣接している。

* 地名の由来[編集]伊奈平地区を通過していた、現在のあきる野市域にかつて存在した伊奈宿へ至る「伊奈海道」に由来する。

近くに、 阿豆佐味天神社。 ・・五日市街道(伊奈道)の立川砂川にも存在する。

* 五日市街道
 五日市街道は、杉並区梅里で青梅街道から分かれ、あきるの市(五日市)に向かう街道です。江戸時代の初期には「伊奈道」と呼ばれ、その後「青梅街道脇道」「五日市道」「江戸道」「砂川道」とも呼ばれ、秋川から江戸に炭や農産物を運ぶためなどに利用されていました。

* 阿豆佐味天神社の創建年代等は不詳ながら、上総介高望王が再建が寛平年間(889-898)に再建したと伝えられ、延喜式神名帳に記載される多磨郡八座のうちの一社だといいます。江戸時代には社領12石の御朱印状を拝領、明治6年には郷社に列格していました。

西多摩郡瑞穂町殿ケ谷1008 北緯35度46分0秒,東経139度21分53秒 【祭神】少彦名命 素戔嗚命 大己貴命 『神名帳考証』豊宇気姫命

・・この北緯35度46分0秒が利いている。


* 遠山弘湖の句碑

    玉垣の 外面はうめの はやしかな

  遠山弘湖(こうこ)[1818〜81]は安政年間に梅笠
  から春秋庵を引き継いだ俳人である。江戸出身で、
  最初落語家を目指し、最後は碩布の高弟久米逸淵
  に学んで俳人になった。師匠の居住した本庄や
  毛呂郷にも足跡を残し、熊井村(今の鳩山町熊井)
  で没した。

売りものや炭俵にも化粧なは  「家づと集」

559秋魚:2015/06/28(日) 02:18:19
(無題)
・・梅笠(楳笠ばいりゅう・浜中はまなか、春秋庵9世)1805ー63 青梅俳人:梅室門、1848「時雨文庫」編/
1849「霜華集」編/57「春秋稿」編

・・この時雨文庫というのを読みたい。

560秋魚:2015/06/28(日) 11:17:55
(無題)
・・所要があって地元の図書館に本をリクエストした。高崎市で発行した市史資料編だが、借りられるか半信半疑。それがつい先日許可され今手元にある。『花の雲』という句集が読めるというその道の大先輩からの情報だった。分厚い本で装丁もしっかりシリーズで十冊以上はありそうだ。高崎市のこういう市史資料を文化として残す強い意志に敬服。うれしくもあった。

・・先日武蔵村山の郷土館で「村山の俳諧」展をみたが、その時の幕末の俳人梅笠(ばいりゅう)は青梅の人としり、調査したくなった。青梅の古刹をまわって芭蕉句碑の由来を尋ねたりしたら、住職さんは代替わりしてあまり詳しくない。市の郷土資料館に訪ねたほうがよいとも言われた。・・それで今日は釜の淵公園にある郷土館を訪問した。普段なら展示を見て回るだけだが、今回は事務員さんに会って求める資料の存否を尋ねた。郷土資料の管理などどうやってるのかもろもろに無知で窓口らしきには遮二無二になる癖がついた。無礼かもしれぬが、そういう情報を保存管理している場合、かなり気前よい応対がある。

・・「青梅宿の文芸活動−小林天渕を中心に」という十二年ほど前の展示パンフレットを示されて、それが青梅俳諧についてかなり詳しく書かれていた。井月と親交があったと目される臼左のことも書かれてある。汪洋(天渕の俳号)のすぐれた門下生のよう。梅笠は汪洋の知友といったところか。おもしろいのは、梅笠は桜井梅室の門下という。梅室は加賀の人で高桑闌更の弟子。もう一昔前の青梅の文化人中原章は加賀の人。梅笠は春秋庵八世で加舎白雄の系を継ぐ。闌更と白雄の流れを青梅にもたらした。

・・天明から18世紀末芭蕉百年忌(1793)にかけては、俳諧世界も活発な動きで見るべきものも多い。天保の時代から芭蕉百五十年忌(1843)また幕末維新にかけて、月並俳諧として子規によってくくられてあるごとく、井月の生きた時代だが、作品は正直めげるものが多い。

561秋魚:2015/06/30(火) 01:16:56
(無題)
かすが野の雪まをわけておひいでくる草のはつかにみえしきみはも

・・壬生忠岑。

・・古今伝授のこと探って古今集を見ていたら、この歌にぶつかった。

「貫之は下手な歌よみにて古今集は下らぬ集にて有之候」と言い捨てた子規。まんざらでも無いが。

雪まという、幻影がぞくぞくしてくる。

おなじ忠岑の歌に、

 是貞のみこの家の哥合のうた

山田もる秋のかりいほにおくつゆはいなおほせ鳥の涙なりけり

古今和歌集(巻五306)

 秋のかりいほを追っていた・・この「いなおほせ鳥」が古今伝授の三鳥(呼子鳥、稲負鳥、百千鳥)のひとつという。古今伝授がそう簡単に暴かれるものでもあるまいものだが、稲負鳥は「否、仰せどおり」出典出自を問うまい。というのが、私見。稲負鳥、稲を負う鳥なら渡来系の出自が秘されているのだろう。


秋の田のかりほの庵(いほ)の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ(後撰302)天智天皇

秋田苅る借廬(かりほ)を作り吾が居れば衣手寒し露ぞ置きにける(万葉巻十)詠み人知らず


「・・二条家の秘伝は二条為世の弟子であった頓阿によって受け継がれ、その後経賢、尭尋、尭孝と続いた。尭孝は東常縁に秘伝をことごとく教授し、常縁は室町時代中期における和歌の権威となった

「・・古今和歌集は上流階級の教養である和歌の中心を成していたが、注釈無しでその内容を正確に理解することは困難であった。このため、古今集解釈の伝授を受けるということには大きな権威が伴った。文明三年(1471年)、常縁は美濃国妙見宮(現在の明建神社)において連歌師宗祇に古今集の伝授を行った。

東常縁 ⇒ 宗祇(1471年)

「・・宗祇は三条西実隆と肖柏に伝授を行い、肖柏が林宗二に伝えたことによって、古今伝授の系統は三つに分かれることになった。三条西家に伝えられたものは後に「御所伝授」、肖柏が堺の町人に伝えた系譜は「堺伝授」、林宗二の系統は「奈良伝授」と呼ばれている。


「・・三条西家は代々一家で相伝していたが、三条西実枝はその子がまだ幼かったため、後に子孫に伝授を行うという約束で細川幽斎に伝授を行った。ところが慶長5年(1600年)、幽斎の居城田辺城は石田三成方の小野木重次らに包囲された(田辺城の戦い)。幽斎が古今伝授を行わないうちに死亡し、古今伝授が絶えることをおそれた朝廷は勅使を派遣し、幽斎の身柄を保護して開城させた[6]。幽斎は八条宮智仁親王、三条西実条などに伝授を行い[7]、1625年(寛永2年)、後水尾上皇は八条宮から伝受をうけ、以降この系統は御所伝授と呼ばれる。


・・【派生歌】が、かくも多い。

秋の田の庵に葺ける苫を荒みもりくる露のいやは寝らるる(和泉式部[続後撰])
草の庵なに露けしと思ひけむもらぬ岩屋も袖はぬれけり(*行尊[金葉])
秋の田に庵さすしづの苫をあらみ月と友にや守りあかすらん(藤原顕輔[新古今])
露だにもおけばたまらぬ秋の田のかりほの庵に時雨降るなり(藤原家隆)
唐衣かりいほのとこの露寒み萩のにしきを重ねてぞ着る(藤原定家)
秋の田のかりほの庵に露おきてひまもあらはに月ぞもりくる(後鳥羽院)
苫をあらみ露は袂におきゐつつかりほの庵に月をみしかな(〃)
足引の山田もるいほの苫をあらみ木の下露や袖にもるらむ(〃)
旅寝するあまの苫屋のとまをあらみ寒き嵐に千鳥さへなく(〃)
小山田のかりほのいほのとことはに我が衣手は秋の白露(順徳院)
秋の田のかり庵の露はおきながら月にぞしぼる夜はの衣手(藤原為家)
ことわりに過ぎてぞぬるる秋の田のかりほの庵の露のやどりは(〃)
秋の田のかりほの苫にふく稲のほの上渡る軒の月かげ(正徹)
苫をあらみ小田もる老の心にはなほたへかねて露はらふらん(東常縁)
晴るる間の雨にかりほのとまをあらみ漏りにし程は漏らぬ月影(藤原惺窩)
思へ世は玉しくとても秋の田の仮庵ならぬ宿りやはある(後水尾院)

562秋魚:2015/07/02(木) 00:13:52
(無題)
?清水寺観音 石原町2401
?妙見寺   引間町213
?萬日堂/みかえり阿弥陀仏(君が代橋) 下豊岡町832-1
?定家神社(烏川近く) 下佐野町873
?多胡碑  吉井町池1085(北緯36度15分54.0秒 東経138度59分46.8秒)
?山ノ上碑 山名町(北緯36度16分37.5秒 東経139度1分40.0秒)
?金井沢碑 山名町(北緯36度17分8.36秒 東経139度0分58.27秒)
?観音山温泉 石原町2892

・・清水寺の石段は518段ある。参道に咲く紫陽花がみごとという。
・・うっかり梅雨の晴れ間は過ぎてしまいました。

・・妙見寺  ここが関東妙見信仰のはじまり

「・・和銅7年(714年)、上野国大掾(たいじょう)忠明が妙見寺で目が赤く首の白い亀を得、元正天皇に献上。天皇はこれを喜び、同年9月2日をもって霊亀と改元したという。」


   *

・・天候がすぐれません。台風も発生。なかなかポタリングも出られない。八高線沿いの高麗川、毛呂、越生、小川とかほかにも興趣あるところ多く、以前小川に遠乗りした時はほとんど通過しただけだった。都幾川なんてのも洒落ていたけど。

毛呂の川角八幡神社には寄ってみたい。川村碩布は毛呂山の出身。

 道傍のむくけは馬に喰はれけり

大先輩の旅日記にある都幾川の慈光寺というのは、とてもよさそうだ。

 あかあかと日はつれなくもあきの風

天武天皇の白鳳2年(673年)、釈道忠慈光寺を開山。これは古い。観音堂の本尊十一面千手千雁観音は、行基のお作。ここは国宝の「慈光寺経」が奉納されてある。これは、すごい!
久能寺経、平家納経と合わせて三大納経という。こんな田舎にあるのが、すごい!

・・山の上なので、今回は寄れそうにありませんが。

563秋魚:2015/07/03(金) 10:35:55
(無題)
何処やらに鶴の声聞く霞かな
柳から出て行舟の早さかな
程近くなればかたげる日傘かな
ちり初めてしきりに萩の盛かな
折曲り水は流れて稲の花
凩やとまり烏の横にゆく
鷹匠の涕すすり込旭かな
雪ながら富士は今年の物らしき


別れ行くものともしらで幼子が乳房含みてゑむぞ悲しき
かくばかりはかなき物とおもひきやもろきは人の命なりけり

小金井良精の母幸


鳰鳥のふいと浮いたりけさの秋  漫々


翁今思体は浅き砂川を見るごとく、句の形・付心ともに軽きなり。其所に至りて意味ありと侍る。

子珊「別座舗」

爰元度々々会御座候へ共、いまだかるみに移り兼、しぶしぶの俳諧散々の句のみ出候而、致迷惑候。

去来宛芭蕉翁

「かるみ」は淡々として浅き砂川を見るようなものとはいえ、平凡尋常のものを捉えてばかりいると俳諧の堕落につながる。「かるみ」の風体は「高く心をさとりて俗に帰」ることが最重要である。

564秋魚:2015/07/04(土) 00:22:33
(無題)
をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくも呼子鳥かな (古今29)

                        よみ人しらず

・・この呼子鳥が古今伝授されている。

ツツドリか?

https://www.youtube.com/watch?v=g_Rx5WeLZH0


大和には鳴きてか来らむ呼子鳥象の中山呼びぞ越ゆなる(70)
神なびの石瀬の社の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋まさる(1419)
世の常に聞けば苦しき呼子鳥声なつかしき時にはなりぬ(1447)
滝の上の三船の山ゆ秋津辺に来鳴き渡るは誰れ呼子鳥(1713)
我が背子を莫越の山の呼子鳥君呼び返せ夜の更けぬとに(1822)
春日なる羽がひの山ゆ佐保の内へ鳴き行くなるは誰れ呼子鳥(1827)
答へぬにな呼び響めそ呼子鳥佐保の山辺を上り下りに(1828)
朝霧にしののに濡れて呼子鳥三船の山ゆ鳴き渡る見ゆ(1831)
朝霧の八重山越えて呼子鳥鳴きや汝が来る宿もあらなくに(1941)


   *


あづさ弓おしてはるさめ今日降りぬ明日さへ降らば若菜つみてむ(古今20)

                        よみ人しらず


「あづさ弓おして」 この序のあづさ弓 ・・あづさみ、阿豆佐味(ゆが消失)。


あづさ弓おしてはる雨ふるさとのみかきが原ぞうす緑なる(藤原家隆[玉葉])
あづさ弓おしてはる雨をやまだに苗代水も今やひくらむ(藤原良経)
あづさ弓おしてはる雨いる方もさだかに見えぬ春の夜の月(後鳥羽院)
今日だにも道ふみ分けぬ白雪の明日さへ降らば人も待たれじ(西園寺実氏[続拾遺])
山風も花の香ながら真木の戸をおしてはる雨曙の空(正徹)



百千鳥さへづる春は物ごとにあらたまれども我ぞ古りゆく(古今28)

                       よみ人しらず


・・この百千鳥も古今伝授


百千鳥さへづる春のあさみどり野べの霞ににほふ梅が枝(後鳥羽院[風雅])
百千鳥さへづる空は変はらねど我が身の春はあらたまりつつ(後鳥羽院)
百千鳥こゑや昔のそれならぬ我が身ふりゆく春雨の空(藤原定家)
百千鳥さへづる春のかずかずに幾世の花の見て古りぬらむ(〃)
物ごとにあらたまれども鶯のさへづる春は身のみ古りつつ(藤原為家)
おのがねはあらたまれども鶯の谷のねぐらぞいとど古りゆく(宗良親王)
時しありと聞くもうれしき百千鳥さへづる春を今日は待ちえて(後水尾院)


・・この後水尾院というの気になります。

伊勢物語御抄 天(地)」(左肩・雲母入題箋)。
奥書なし。

・・後水尾院が講じた伊勢物語講釈の聞書である。・・他の、後水尾院の同じ講釈の聞書に拠れば、明暦二年(1656)八月二十二日から九月二十九日まで、十二座に渡っての講釈の聞書であると知れる。後水尾院(1696〜1680)は江戸時代初期の天皇。

「・・この時の講釈の聴講者は、妙法院尭然親王・聖護院道晃親王・飛鳥井雅章・岩倉具起・中院通茂・烏丸資慶・白川雅喬・日野弘資の八名とされる(大津有一『伊勢物語古註釈の研究』)。うち、尭然・道晃・雅章・具起の四名は、翌明暦三年二月に後水尾院から古今伝授をうけることになる。さらに、通茂・資慶・弘資の三人は、寛文四年(1664)に同じく後水尾院から第二次の古今伝授を受けた四人のうちの三人である(いま一人は後西天皇)。残りの雅喬も古今伝授を許されながら辞退したと伝えられる  ・・とすれば、この伊勢物語講釈は、伝授の階梯化を意識してか、後水尾院が、古今伝授の前段階として行ったものと理解すべきであろう。

・・後水尾院は、八条宮智仁親王から「古今伝授」をうけるのだが

八条宮智仁親王は、天正5年(1600年)7月細川幽斎から古今伝授を受け、寛永2年(1625年)12月これを甥の後水尾天皇に相伝し、ここにいわゆる御所伝授の道が開かれた


・・なぜ、古今伝授の下地が伊勢物語なんですかね。

  *


明建神社

岐阜県郡上市大和町牧814-1
位置 北緯35度48分42.48秒
東経136度55分24.79秒
主祭神 国常立尊(妙見菩薩)

・・文明3年(1471年)、東常縁が連歌師宗祇に古今伝授の講義を行なった

565秋魚:2015/07/05(日) 21:32:34
(無題)
・・トリプルで台風がせまってる。梅雨前線が停滞して晴れ間がない。ポタリングでうずうず。高崎までシミュレーションを細かくやってみる。といっても自分の方法は大雑把なものだ。・・高崎までざっと80kはあるだろう。前回の秩父までは60k。百キロをこなすチャリダーは茶飯だからびくつくことはない。以前小川までいった時、はじめての場所は遠く感じるものだが、日高、毛呂、越生・・この越生が異常に長く感じられた。自動車道は透いていたが、アップダウンが多い。・・ネットで経験者はとても楽だという。たしかに真直ぐで車も少なくよい道だと記憶する。・・越生を越えると都幾川というところにでる。ここがおもしろそうでいろいろ調べてみる。慈光寺というお寺は春先の桜がよさそうだ。山の中だが寄れないこともない。温泉もいくつかある。・・昭和レトロの玉川温泉というのがアルカリイオンph10.1とかいいようだ。ここには日本最高ph11.3を誇る都幾川温泉てのもある。・・帰りに寄ってみるか。

・・自転車の整備にかかった。本当の愛好家はひとつひとつのパーツについてとても愛情こめた整備をするものだ。よく町でみかけることがある。・・注油にこったことがあったが、必要以上にやりすぎてチェーンが外れたりした。空気圧を無視していっぱいに入れたらバーストしたり、むずかしいもの。ブレーキの調整だけは、欠かせない。ワイヤーを交換するなどは、未経験。・・二日一泊輪行でなんとか完走したい。


@備忘

・・貞観地震(じょうがんじしん)は、平安時代前期の貞観11年5月26日(ユリウス暦869年7月9日[2]、 グレゴリオ暦7月13日)に、日本の陸奥国東方沖(日本海溝付近)の海底を震源域として発生したと推定されている巨大地震である。地震の規模は少なくともマグニチュード8.3以上であったとされる。地震に伴って発生した津波による被害も甚大であった。

・・貞観大噴火(じょうがんだいふんか)とは、平安時代初期の864年(貞観6年)から866年(貞観8年)にかけて発生した、富士山の大規模な噴火活動である。

・・雲林院  ・・もとは、淳和天皇の離宮・紫野院として造成された。紫野一帯は野の広がる狩猟地であったが、桜の名所でもあった。文人を交えてたびたび行幸したという。その後仁明天皇の離宮となり、やがて皇子常康親王に譲った。869年(貞観11年)親王が亡くなった後、僧正遍昭に託し、ここを官寺「雲林院」とした。

566秋魚:2015/07/08(水) 16:20:47
(無題)
・・台風め。このところ気になったのは台風のトリオと天気の行方。天気予報は一日たつと大きく変わる。7日の日に高崎までの自転車乗りをプランしていた。30%の降水確率が翌日は50%の雨だという。きょう一日しのげればという思いで家をでた。台風の梅雨前線押し上げ具合で天気がころころ変わる。しばらく遠乗りもしてないで気分的にも限界だった。青梅坂から小曽木街道、岩井堂、飯能駅前、ずっといって宮沢湖の温泉あたりまで、一時間とすこし。この先八高線に沿って小川まではいつか来た。二度目の道は楽に思える。楽にかまえた時いつも事故にあうので気をつけねば。高麗川まではいつでも来れる気がした。どういうわけか雨がぽつぽつ。寄り道無しで高崎に向う手もあったが、毛呂に来て街道を外れ川角八幡神社を訪ねることにした。意外と外れにあり、人に尋ねてやっと着くと、芭蕉の句碑があった。

道傍のむくけは馬に喰はれけり

文政12年(1829年)3月、三世春秋庵連中建立。

「三世春秋庵」は川村碩布。(先輩の資料から)

・・実は、ほとんど読めませんでした。神さびていました。

・・もとの街道にもどり越生、都幾川に向う。以前ここらで長く感じられたのは、ここでアップの坂がひとつ。さほどのアップではない。はじめて来ると心細くはあるし出会うものすべて障害のリスクあり。道そのものが障害ともなる。道は絶対どこかに通じていると、放浪の天才から聞いたことがある。そういう道への信頼は、後になって瞑想すればよいことかも。いまは尋ねて進むだけ。

・・道を尋ねた時、にこやかな人が多いが、不機嫌そうな人もいる。

・・八高線沿いの道。左手に小さな山がいくつも見える。その山に雲か霞か煙っているのは、雨が近い。薄曇りで微雨なのは、前線のこちら側。どしゃ降りになるのは向こう側。都幾川は慈光寺への道を確認した。小川までは列車も緑陰列車になる。・・で、小川からが未知の道。隣の寄居まで一本道だったと思う。実は、この先藤岡あたりまでよく覚えていない。寄居までは、なんとか入った。地図では簡単にみえたが、寄居から藤岡まで意外と長い距離。利根川を越えたのはどこでだろう。人に聞いたら川越へいきますよ。などいう。神流川という川もこえた。ともかく何がなんだかわからない。この街道が藤岡に通じてますよ。というのが便りだった。寄居の道が長かった。・・微雨でぽつぽつ来るのでひたすら高崎をめざした。藤岡から高崎へも、もっとわからない。ここでは何度も人に尋ねた。17号という道をまっすぐいきなさい。これが最終的な支えになった。・・藤岡あたりで、右足の膝関節が痛み出した。高崎に着いたらいろいろお寺めぐり神社めぐりを考えていた。高崎へ無事たどり着くのが先決になった。七時頃出て、正午ころに到着予定していたのも、大きくくずれ、高崎駅前に着いたのは2時くらいだったと思う。・・ここで交番に寄り、観光案内所を尋ねた。駅の二階にありますよ。ただし自転車の駐輪ができない。大きな駅です。交番で情報をいただくことにした。清水寺はどこでしょう。山の方で遠いですよ。5、6キロはある。足が痛むが清水寺くらいはまわりたい。ここの近くに観音寺温泉というのがあってぜひここに寄りたかった。実は、お寺より温泉を欲した。駅の西口にでてまっすぐ行くと烏川という立派な川がある。聖石橋を渡ってさらに行くと清水寺の参道。遠いというほどではない。これまで来た道を思えば。・・が、来てみて唖然。長いながい石段がある。

・・足が痛くなっているのに、この石段はでも登らざるを得ない。今回の最高目標だから。というより、芭蕉の句碑を探していた。・・最初の石段のすぐ脇にありました。

 観音の甍ミやりつはなの雲

これは、巻菱湖という新潟の書家が揮毫したという。

巻菱湖 安永6年(1777年) - 天保14年4月7日(1843年)

「明治政府及び宮内庁の官用文字・欽定文字は御家流から菱湖流に改められ、菱湖の門下生は1万人を超えたと伝えられている。」

・・石段は518段あるそうだ。三河の鳳来寺は1425段。上には上があるにしても、登るとなると、ぞくぞく。それにしてもここまでが長かった上、足が痛む。引きずるように一段一段、こういうのは頑張るというのではない。登りきる先が明るみをもって見えている。・・うむ、いい石段。

・・清水の舞台のようなものもありました。

・・坂上田村麻呂が立ち寄ったのですね。それを確認して下山することにしました。足痛で下りがまた大変。気分的には大変楽ですが。これから上ってくる人に、まだ石段つづきますか?まだまだこれからです。ご婦人たちで紫陽花を見に来たらしい。・・やっと下まで降りると、今度は自分と似た若者が自転車ですっと到着。その場に駐輪。靴紐をしめなおし、シャツも外して上半身裸でまさに石段をのぼりゆく構え。・・いい石段。

・・近くの観音山温泉を探しました。地図ではこの清水寺のさらに上の山の中にあるようです。右手にまわると色とりどりの休憩ホテルがいくつもあって若者のデートコースかもと。そのさらに上に坂をのぼると、観音山温泉錦山荘がありました。ここは旅館ですが温泉は日帰りができます。もう長距離を走って長い石段をのぼりくたくたでした。・・自分の見立てねらいに狂いはなく、静かな場所でとてもよい温泉なのはすぐにわかった。温泉では、微雨の中きょうの一日の出会いのことがパノラマの映像のように想起できます。

・・高崎に着いたらいろいろお寺めぐり神社めぐりを思案していた。が、こちらの見立ては甘い。清水寺と温泉できょうはもういいという感じになった。温泉の展望はまことによい。湯は鉱泉だがわるくない。・・フロントの若者がいろいろ面倒見がよく、先のプランにすべて情報をあたえてくれた。・・まず休憩して食事もとれるらしい。宿泊もよいということだが、あいにく駅前の手頃ホテルに予約済み。次の機会にいたします。ほんとはもういい年だから大枚はたいて老舗旅館に泊るべきだろう。ふうてんの自転車旅行です。頭が下がる。・・食事してあと一つ神社を訪ねたい。定家神社はどこでしょう?近くはないです。ネットで調べてくれて地図までいただけた。烏川というりっぱな川の縁にあるようです。・・吉井の多胡碑のことも尋ねた。ここは若者も知っていてそんな遠くはないという。明日晴れるならぜひ行ってみたい。天気予報も調べてくれて明日は50%だという。・・無理かな。

・・ほんとによい温泉旅館だ。一日の労苦が報われたよう。さて充分休んで定家神社に向った。下佐野町にあるという。ここは不思議な神社です。・・というより、不思議な場所です。


 * 烏川は、群馬・長野県境の鼻曲山に源を発し、流域面積1,393.7km2、幹線流路延長61.8km、平均河床勾配は1/39で、利根川上流の支川の中では最大の流域面積を有します。


 上毛野佐野の舟橋取り放し親はさくれど吾はさかるがへ[万葉3439]

・・佐野は古来舟橋で知られていた。

 苦しくも降りくる雨か三輪の崎佐野の渡りに家もあらなくに[万葉267、新勅撰500]
 駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野の渡りの雪の夕暮[新古今671・定家]

・・この佐野の渡りとは別物のようだ。

 恋ひわたる佐野の舟橋影絶えて人やりならぬ音をのみぞなく[拾遺愚草79]
 ことづてよ佐野の舟橋はるかなるよその思ひにこがれわたると[拾遺愚草1273]

 東路の佐野の舟橋かけてのみ思ひわたるを知る人のなさ[後撰619等]
 東路の佐野の舟橋はじめより思ふ心ありいとひすな君[古今六帖2557]

いかがせん佐野の舟橋さのみやはふみだに見じと人のいふべき[永久百首・忠房]

 東路の佐野の舟橋くちぬとも妹しさだめばかよはざらめや[堀河百首・顕季]

 今更に恋路にまよふ身を持ちてなに渡りけん佐野の舟橋[堀河百首・師頼]
 さらぬだに道ふみまどふくもる夜にいかで渡らん佐野の舟橋[田多民治集155]


夕霧に佐野の舟橋音すなり手なれの駒の帰りくるかも[詞花328俊雅母]
五月雨に佐野の舟橋浮きぬればのりてぞ人はさし渡るらん[山家集223]
風吹けば佐野の舟橋波越すと見ゆるは葦の穂末なりけり[林葉集618]

恋ひわたる佐野の舟橋影絶えて人やりならぬ音をのみぞなく[拾遺愚草79]
東路の佐野の舟橋白波の上にぞかよふ花の散るころ[秋篠月清集966]
東路の佐野の舟橋明日よりや暮れぬる春を恋ひわたるべき[後鳥羽院御集220]
よばふべき人もあらばや五月雨に浮きて流るる佐野の舟橋[千五百番歌合・越前]

かけてだに契りし仲はほど遠し思ひを絶えね佐野の舟橋[順徳院]
人知れぬ心をいそのかみつけやかけてもふりぬ佐野の舟橋[行意]
ことづてよ佐野の舟橋はるかなるよその思ひにこがれわたると[定家]
東路の佐野の舟橋霧こめてよそにのみやは思ひわたらん[家衡]
尋ねても渡らぬ仲の月日さへかげ絶えはつる佐野の舟橋[俊成卿女]
東路にかけては過ぎし中河の瀬絶えもつらし佐野の舟橋[兵衛内侍]
思ふ人波の遠方尋ぬべき佐野の舟橋えやはうごかん[家隆]
もらさばや波のよそにも三輪が崎佐野の舟橋かけじと思へど[忠定]
なかなかにかくる心も苦しきに絶えなば絶えね佐野の舟橋[知家]
かけて猶いく世か恋ひんよそにのみ聞きこそわたれ佐野の舟橋[範宗]
絶えねただうきにつれなき身なりともさのみは待たじ佐野の舟橋[行能]
東路や佐野の舟橋いたづらに渡りしころも袖やぬれなん[康光]


・・帰宅してからの「佐野の舟橋」調べです。驚きですね。舟橋というのは、いくつも舟をつなげて橋のようにつくる。それを渡るのだそうです。不安定な橋で恋路にたとえられるとか。

定家神社は、この佐野にあります。わたしが訪れた時は、紅いきらびやかな本堂があって、たぶん近い時代に建て直したものでしょう。古い由緒のわりには余り管理が行き届いていない様な。・・芭蕉の句碑もただ晒されて置かれているごときで、文字も読めません。

 松杉を誉てや風のかほる音  (先輩の資料から)


 左努山に打つや斧音の遠かども寝もとか子ろが面に見えつる

                 『万葉集』(巻十四)東歌

・・そういえば、万葉の歌碑もありました。


駅前までもどろうと思い、そういえば佐野橋というのが気になって土地の人に尋ねました。坂を下ってすぐあるというのです。古風な木橋があって、このあたりが佐野の舟橋かとも、特になにも案内書きはありません。佐野の渡りの雰囲気もあり、写真を一枚とりました。

   *

・・天気があいかわらずよくありません。足も痛いしきょうはもうホテルにチェックインです。足が痛くなった原因、すこしわかります。垂れ込めて運動不足というのもありますが、自転車のサドルの位置がよくないようです。膝に負担がかからないようすこし高目に修正しました。・・駅前のホテルは良心的ですね。安価なうえに朝食もフリーでした。

・・予定していた寺社まわり句碑まわり半分以上カットして、明日は、輪行の帰路一本にしぼりました。午後から雨になりそうです。・・都幾川の温泉に寄って休んでいくことも考えましたが、午前中の晴れ間のうちに帰路をすすめるのが、賢明と判断。自転車の解体−組立ても前回の都留のときより実行していません。この輪行を首尾よくやるのも目標でした。自転車のトラブルが一番気をつかいます。

・・高崎の駅はずっと昔寄った時と比べ格段に大きな規模になってます。新幹線も来ますから。自転車の解体袋詰めはやりにくい。夜下見してやれないこともありませんが、八高線のひとつ先倉賀野の駅までいってそこでやることにしました。・・この考えは正解。こちらの駅は人もすくなく遠慮なく解体作業できます。ただし、フレームにホイールのくくりつけ方忘れてしまって、その場まかせのいい加減になりました。ともかく袋には収まったようです。

・・高麗川まで、二両のディーゼルの列車だそうです。ローカル列車なら輪行はあまり問題ないようです。首都圏を通過するのはむずかしそう。

567秋魚:2015/07/14(火) 21:39:41
(無題)
・・急に暑くなりました。真夏の日差しを浴びてポタリングするのも乙なものですが、日焼けが大変でしょう。きょうは先輩の教えに従って立川にある国文学資料館を訪ねました。もちろん自転車でです。この頃先輩せんぱいというのは実に先輩らしき人にお会いしたからです。韓流ドラマなどでよく先輩せんぱいという言葉耳にします。いいですね。わたしも使ってみたいと思ってました。

・・立川は昔米軍の基地があっていつごろですか土地は返還されて昭和記念公園とか広大な土地の利用が進んだようです。競輪場があったりごちゃごちゃしてわたしも仕事で通ったことがあります。ほとんど地元です。(というかほとんど馴染めていません)

・・例によって羽村あたりから多摩川サイクリングロードにでてそのまま立日橋のあるところまで、モノレールに沿って左折し駅に向います。駅の北口に出る仕方を尋ねてまたモノレールに沿って高松駅まで。ここからは案内板を見ながらいけば迷うことはないでしょう。地図ももたずに出ました。

・・国文学資料館。古文書文学の主にマイクロフィルムで保存収蔵してある。翻刻されたものはあまりないとか。江戸後期青梅の俳人梅笠の編「時雨文庫」というのを探しました。先輩に紹介してもらった検索ページはうまくヒットしません。立川なら近いです。直接出向くことにした。・・大きい建物で入り口がどこにあるのか人気もないしだいぶうろうろ迷いました。管理室で記名してずっといくとそれらしき図書室がみえ、中には人もけっこう見えていました。荷物をロッカーに収めてとか入室の手続きもややこしくそれでも事務員さんの案内のまま「時雨文庫」の存在まで見つけていただきました。ここは専門の研究者しか訪ねてきそうもない。とはいえ、何人か熱心な人がいるので国文学もすてたものではない。「時雨文庫」の古い和字はほとんど自分は読めませんけど、他の人たちは読んでるみたい。頭が下がります。・・自分の文学もかなり緻密になってきた。古文書もきっと読めるようになるでしょう。この資料館これから時々通うことにしました。

・・しかし、ですな。瞑想力というもの考えさせられます。瞑想の方法は、まず、時空を外すことではじまる。誰がそうするのか。瞑想する人だから自分でしょう。あくまで自分、自己にこだわるのが瞑想でしょう。そういうのはどんなに上手にやっても瞑想の限界なのだと、自分は思う。それは、あなたの限界だといえばよいことです。瞑想者にとっては。・・瞑想のコミュニオンをめざすのは宗教でしょう。個人の瞑想は雑多な想念の集積に終始しても、気分が晴れればよい瞑想と自己評価すればよい。・・宗教以外で瞑想のコミュニオンというのは存在すると実は自分は信じています。

・・愛、ハートとかこういう言葉は、重い言葉で宗教家のことばです。

568秋魚:2015/07/18(土) 12:18:02
(無題)
・・リクエストした本が届いたという知らせで、地元の図書館を訪ねた。全国の公立図書館で相互貸し出しのシステムがあるというのを知って、このところこの利用に余念がない。昔は欲しい本を探して古本屋歩きというのをやったものだが、最近はネットの時代、検索で探してネットショップで入手というのが茶飯でしょう。情報だけの求めなら、最後まで検索で事足りるはず。本も電子書籍というのが通常化してきた。・・ある種マイナーな資料は需要がないから電子化もされていない。旧来の図書館も捨てたものではない。ひとつひとつの図書館には限界があるにしても、相互に図書館ネットでつながれば、マイナーな資料も息を吹き返す。・・ある種マイナーな情報というのは、ネットでは大流行。情報のコミュニオンというのはよくみかける。ネットの電子文字は信頼が置けないという人も多いが。

・・図書館の入口で「戦後70年企画展/ヒロシマ・ナガサキ原爆写真パネル展」の案内があり、立ち寄った。「広島平和記念資料館からお借りした、長崎・広島の原爆写真パネルを展示します。」というので、自分のような年寄りはもう何度か目にしたもののように感じた。細緻にみると必ず以前と異なるイメージ想念が生まれるのはわかっていたが、ひとつふたつの想念にとどめて会場をあとにした。もともとがほとんど記憶のない子どもや新世界にしか目が向かない青年淑女にはかなり刺激のつよい展示のはず。でもこういうところって、若い人こどもってあまり来ないみたいです。

・・イベントとして「紙芝居を用いた戦争の語り」「詩の朗読/茨城のり子集『言の葉』より」とあり、戦争・被爆・敗戦の記憶を世代につなげる試みがなされる。
・・別の企画で「白い町ヒロシマ」上映8月8日(土)中央図書館多目的室。「昭和20年8月6日、広島へ原爆投下。学童疎開の子どもたちは、広島にいる家族を一瞬にして失った。真実をどう伝えるか、先生たちの心は揺れ動く。そして、子どもたちを連れ、焦土と化した広島へ向かう・・・。」

・・この映画は未見。原作木村靖子、脚本新藤兼人。こちらはのぞいてみたい。

569秋魚:2015/07/19(日) 15:53:01
(無題)
雪のうちに春は来にけり鶯のこほれる涙いまやとくらむ(古今4)

二条の后は、藤原高子。清和天皇の女御。

・・たしかに、この歌は強烈にわれらの感性をゆさぶります。古今集ではこれ一首でしょう。二条の后の歌は。

鶯の氷れる涙とけぬれどなほ我が袖はむすぼほれつつ(藤原良経)

・・派生歌の中では、九条家の良経の歌が呼応して秀逸かと。二条と九条の区別もあいまいですが、沖縄などのネイティブからするとヤマトの美学として同じく際立ってみえるそうです。

・・原爆ふたつで、ヤマト民族のエゴ(自我)が吹き飛んだという認識に沿うなら、戦後日本人のアイデンティティはどこにも求めようが無い。新大陸北米のインディオあたりに血の近さを感じる人も多いでしょう。ネイティブは敗戦を受けたヤマトの血にあるはずで、インディオとは別物、ヤマトの美学がやはり郷愁をもって再考される。ヤマトの美学=フジワラの美学というあたりほとんど区別不能ではないでしょうか。

・・フジワラの血のワクチン接種がどこかでなされている。

余談ですが、藤原高子は五節の舞でその美貌が際立ったそうです。いい女だったと思います。

「・・清和天皇が東宮であったころ、天皇の祖母である皇太后藤原順子の邸にて出仕か。貞観元年(859年)9歳の清和天皇即位にともなう大嘗祭において、五節舞姫をつとめ従五位下に叙された。清和天皇元服の2年後の貞観8年(866年)、25歳で入内し女御となり貞明親王(後の陽成天皇)を産む。」

一方で、清和源氏の父清和天皇といえば、大地に呪われた天皇といわれます。

「・・疫病の流行により朝廷は863年(貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念した。

・・869年(貞観11年)、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来の化身とされた牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。この869年の御霊会が祇園祭の起源とされている。」

570秋魚:2015/07/22(水) 21:31:34
(無題)
・・納涼祭がある。夕方から笛太鼓の音が流れている。ここに越してきてからひとり気になる少女がいる。最初の年の納涼祭のとき母親といっしょにいるのを見かけた。源氏物語の若紫を見つけたような新鮮な驚きがあった。母親とはいつも挨拶ていど。だけど感じのいい人だ。少女もこの頃大きな元気な声で挨拶してくる。・・ロリコンなのはたしかです。

・・図書館にまた本をリクエストした。「弄花抄」という三条西実隆・牡丹花肖柏の源氏物語注釈書。事務員さんがその場で調べてくれて都の中央図書館にあるらしい。大変な古書で館外の貸し出しはできないらしい。ただし青梅の図書館で内覧はできるとのこと。それでけっこう。お願い申します。・・さいきんこれが病みつきになっています。

・・ヒマのあるうちに源氏物語を読みたくなった。ア−サーウエイリーの英訳本と岩波の原本をひっぱりだした。最近は視力が落ちて読書の集中力も落ちた。読み切る自信はないが、ともかく読んでみたい。

・・図書館の帰りに梅の湯に寄った。遠乗りの後の温泉っていいものですが、きょうはポタリングなし。サウナで汗を流したあとビールを飲みながら次の自転車乗りの構想を思案した。ひとつ大きな目標があるが、これはツーリングになる。輪行で何日かはじめての土地を廻ることになる。


   *

・・子どもの頃みたアニメで面白かったのは「白蛇伝」。たおやかで最高に美麗な少女は、実は、白蛇だった。妖術をつかう。つよい恋心も異類ゆえにかなわぬ定め。・・この妖術が敗北しこれを捨て人間になれば恋もかなうという。・・近代個人の人格の変貌はふつうの人生でよく目撃することがあった。実際ヘビのような奴もいた。狐の女とか白蛇の女に出会いたいといつも思っていた。・・当時シンデレラというアニメもあって見た記憶がある。あの王子様という王権神話の刷り込みが自分には胡散くさくついていけない。どこにあんな王子がいるのか。夢見る女の子たちはまったく信じられるらしい。シンデレラに感情移入して王子様に追いかけられたいとか、王権神話の構造を棚に上げてあれは王子か否か品評会のおしゃべりもよくきく。

・・「白蛇伝」は血湧き肉踊る。

571秋魚:2015/07/24(金) 20:10:23
(無題)
・・憂いなんてもんじゃなく心配。支笏湖のユースで会ったチャリダーの女子は岡山産。如月小春に似ていた。先日図書館で、この如月小春もう四十代そこそこで亡くなってるのを知った。あのチャリダーは元気と思う。突然の訃報というのだけはやめてもらいたい。

・・常盤御膳の飯能歩きの説を追って、多峰主山、見返り坂近辺を訪ねた。よく晴れていたが、この夏の天気気まぐれだそうだ。小曽木街道から飯能にはいる峠道で黒雲、にわか雨に襲われた。ちょうど人家も無くなるあたり木陰で雨宿りをしていたが、雨足は強まるばかり、雨宿りの場所を山小屋の軒の方へと移動した。にわか雨だからじきに止むであろう。実際しばらくたって雨足も弱くなってきた。しかしカッパも着てしたたか濡れた。いくつか水に弱いものかろうじてガードして野ネズミのような体勢になった。野人そのもの。ひさしぶりですね。

・・坂を登りきった所にローソンコンビニがある。晴れたわけでなくここまで行ってコンビニで雨宿り。自転車でこんなどしゃぶりの雨につかまるとは予想外。お昼時パンとジュースで休憩した。街の方から山の方へと雲が流れる。・・やがて雨もあがり飯能に入るとまず天覧山をめざした。この辺の地理ほとんど不案内です。地図があったがざっと見ただけ。能仁寺というお寺の背後に天覧山があるらしい。実はこの天覧山に興味は無く多峰主山、見返り坂の常盤の影を追った。・・天気わるし。時折ぽつぽつ来るし、雷鳴も。だいたい天覧山は195mくらい自転車で登れそうだが。情報は無い。それでも自転車でいけるところまでゆくことにした。途中天覧山をカットして多峰主山に向ったが、山道になり自転車は無理そう。見返り坂の近いところまでいったが、ここも急坂の細い道。きょうはあきらめて、天覧山の山頂一本にめざした。ここから先は自転車は無理というところで駐輪し、階段を徒歩で進んだ。・・天覧山は明治天皇の命名だそうだ。もとは愛宕山という。まったく天候のせいか登山客ひとりふたり見た程度。山頂にはだれもいなかった。一億五千万年くらい前の古生代海底のチャート石がせせりあがった岩山という。見晴らしはよい。

・・青梅の成木にいた常盤が館をぬけて成木川、入間川沿いにくだった。天覧山の南側裾野を歩かず多峰主山を迂回して見返り坂を歩き、天覧山をパスしようとしたのは何か理由があるのであろう。その裏山のあたりで山賊を装った鎌倉の追っ手に包囲されたと想像する人もいる。常盤がこのあたりを逃げて歩いたのを信じない人も多い。関が原に常盤の墓があるというのは、まったくでたらめなのはわかる。

・・天候不安定なので、きょうはもう帰ることにした。飯能から青梅の小曽木街道に入ってまた雲行きがおかしくなってきた。ぽつりぽつりと来たらそれでは収まらない。岩蔵温泉のあたりで雨足も強くなる。進むのは困難。そういえばこの辺りに喫茶店があったはず。温泉郷界隈にはいって、運よく見つけた!しかも営業してるらしい。さあ、コーヒーでも飲んで雨宿り。「ゆば」というお店で以前寄ろうとしたらお休みだった。中に入ってわかったのだが、金土日祭日しか開いてないという。金曜日でまったく運がよかった。雨宿りです。すみません。コーヒーいただけますか?感じのよいママさんが受けてくれた。このお店はじめて入ったけどとても感じいいです。モネの庭園のような庭があり、ジャズも聴ける。こんな田舎にといっては失礼だけど、たいへんおシャレなお店です。図書がいくつかあり、いろいろ旅行しているな。地球の歩き方なんてのもある。これは同世代のトロッター。娘というよりママさんらしい。

572秋魚:2015/07/27(月) 00:35:29
(無題)
・・最近自転車のポタリングで気づいたこと。名所旧跡の名でたとえば天覧山などそれが通称になっているから仕方なく天覧山はどこですか?など人に尋ねたりもする。お酒の名にもあったりして(笑)。案内地図にも動かぬ名前で載っている。・・しかし、由来を見るとはじめは愛宕山とか羅漢寺とか呼ばれて明治になって天皇が軍隊を総覧して立ち寄った山で天覧山となった。など地名を呼ぶのも恥ずかしくなること多し。いつか渋谷の御嶽神社に寄った時も明治天皇が立ち寄って休憩した神社だとか御嶽自体のことばには深い言われがあるはず。土地の名のメモリアルが明治天皇あたりで説明されちゃうのはおもしろくない。土地の精霊が今でもいるはず。・・見返り坂なんてのは常盤御膳が今通り過ぎた風景があまりに美しかったので振り返った所などいう。だれがそういったのかわからぬまでも、こちらは真実味があっておもしろい。時代がたってもどんな美しい風景なのか確かめたい思いになる。先日は悪天候でかなわなかったけど。

・・青梅の岩蔵温泉郷。東京の奥座敷と呼ばれている。そういっても語感でピンと来る人はあまりいないのではないか。東京は地方から出てきたり外国から帰ってきたりまた異国の外人も住んでいたり東京生まれの者が占有するイメージはほぼ滅んでいる。表面上はある種無国籍の街に移りつつある。ポタリングで温泉にいっても異国人をよくみかける。

・・岩蔵温泉というのはたぶんすごいところです。温泉マニアの自分がまだ未経験なのは申し訳ない。頭が下がる。こんど友人を誘って訪ねてみましょう。雨に降られてママダ屋さんのカフェに寄ったら感動でした。ヤマトタケルが立ち寄って傷を癒した湯というのです。タケルの岩の痕跡もまだ残っています。自分は確認しています。

・・隣の飯能もすばらしい所です。1923年の関東大震災を憶えていますか。東京の大震災です。近いうち来ますよ、必ず。飯能はなぜかあの震災で無疵だった。土地がそうなって守られたのでしょう。関東平野は大昔ほとんど海でした。周辺の山からは海の化石がたくさん出ます。都心域は土砂とゴミの堆積層です。東京でも掘れば温泉がでます。1700mくらいですか。氷河期以前の海水が噴出すそうです。腐葉土などの堆積層から出るのは黒色で、古い海水のは琥珀色か赤茶けた湯ですね。塩の味がします。・・東京の奥多摩よりの温泉は透明なアルカリ性単純泉が多い。石灰岩、チャート岩層など硬い岩盤の下から良質なアルカリ泉が出ます。

・・直下型大地震では、都心は見る影もありません。今ある祭典はすべて夢、まぼろしです。オリンピックまで、たぶん現実はもたないでしょう。それまでに夢をみながら命を終える人は幸いでしょう。

573秋魚:2015/07/29(水) 01:30:19
(無題)
・・家の近辺の地理はようやくわかってきた。あちこちポタリングしたおかげで迷路の網目が幾分はっきり見えてきた。迷路が無くなるというの自分は実はおもしろくない。西も東もわからぬ土地にはいりこむのは、恐怖。というか緊張しますね。わざわざそういう異域に入り込むのは・・あまり分析したくない心理です。

・・群馬高崎あたりから谷川岳の急峻の山を越えて裏日本の新潟に入る道。昔はそんな道など無いと思っていたが、あるらしい。三国峠という峠を越える道がある。今は関越道という道路が走ってる。ママチャリで三国峠を越えた。という記事があった。思い立ってチャレンジしたらしいその若者の心、よくわかる。昔の人は徒歩とか馬で旅をした。自転車でどこでもいけないことはない。・・しかし三国峠なんて知りませんがトンネルがあるそうです。これは先日正丸トンネルというのくぐって大変でした。無謀な人もいるものだ。・・事実こわい思いをしたそうです。

・・青梅街道を奥多摩から大菩薩嶺を迂回して柳沢峠くだって甲州市塩山にはいる道は険路という。ロードレーサーならチャレンジする人も多い。マンションの管理人さんは昔からの自転車乗り。全国の輪行もよくやってる。その人が自転車でチャレンジしたがあまりに険しい道でリタイアしたという。アップダウンが何回かあって最後に強烈なアップの坂がある。柳沢峠には茶店もあるらしいが。日向和田にすむイギリス人は、こういう難関のコースものともしない。外人のサイクリストは平常心でコースを選ぶ。ヒルクライム上級の奥多摩周遊道路とかの難関もいともたやすくチャレンジしている。自転車もいいもの乗ってるけど。秩父の方から雁坂峠を越えて甲州市にはいるなんてのもあるらしい。・・自分は、このうち柳沢峠コースは魅惑で時々シミュレーションしてみる。

・・青梅から南下八王子に入って高尾からの甲州街道。たしか20号といった。ここはあまり自転車で走りたくない。勝沼にゆくまで笹子トンネルもある。トンネルの落盤事故があったところ。甲府にはいる手前酒折まで輪行というのはどうだろう。ヤマトタケルが火焼の翁と連歌をした社がある。ここから甲府市内まで自転車でゆく。

・・翌日、甲府から中央線小淵沢あたりまでどんな道か見当もつかない。甲府の外れの駅から鈍行というのあるのだろうか。この中央線昔使ったことがある。何度か乗り継ぎ乗り継ぎを繰り返したと思う。富士山がよく見えた記憶もある。道がよければ自転車で走りたいがまったくわからない。・・右手に八ヶ岳、左手に富士というおもしろい列車の道だったと思う。山登りの好きな人は八ヶ岳をターゲットに楽しみをもつ人多い。諏訪あたりまでの道もまったくわからない。

・・先達はいる。

甲府〜諏訪を自転車で走ってきた。

七里岩ラインという中央本線沿いの県道。60km弱のずっと登りという苦行。高低差は800m。・・出走し韮崎から七里岩ラインに入ります。

・・他に20号の甲州街道ラインがある。こちらはダンプがびゅんびゅん。

・・交通量は国道ほどではないものの、コンビニも3カ所ほどありました。日野春駅前、長坂駅手前、小淵沢の大滝湧水の手前です。

・・八ヶ岳を眺めながら走行


 このライン、いける!


 ・・ふたりは真っ暗な火山峠を越えて高遠に出ると、そこから藤沢街道を急ぎ、杖突峠から諏訪の茅野にくだる。
 甲州街道や和田峠越えは追手がかかると考え、茅野から大門峠に道をとり、峠のふもとで一泊、その夜はじめて財布を調べて、合計八十六銭しかないことがわかる。・・しかし、中仙道の途中で、越後の高田から上京途中の妙な小僧に助けられたりして、とにかく上州安中の宿につく。・・こんどは安中から乗り合い馬車に乗って熊谷までゆき、そのころ終点駅であった熊谷から上野まで、はじめて汽車に乗る。・・空谷少年は結局桂庵の手で、駒形の裏町の足袋屋に住込みで勤めることになる。

 日さかりや瞽女にものきく仁王門

574秋魚:2015/08/20(木) 01:40:03
(無題)
・・たしかに暑い!住んでる土地のインフラで起きてること、地震が来るかとか地下水脈の変化とかすこし気にしてます。

・・「芥川龍之介の死」という萩原朔太郎のエッセイを読みました。文学者のインフラがすこし気になります。文学する精神のインフラですが。龍之介は井月を渇仰していましたが、朔太郎との対話では俳人は芭蕉蕪村のみで語られたようです。

芥川龍之介――彼は詩を熱情してゐる小説家である。

詩と小説というモチーフで、龍之介と朔太郎はよい話し相手であったというか宿命的な転機を経験する。

このエッセイの末尾の章を読んでみます。

「・・見よ! この崇高な山頂に、一つの新しい石碑が建つてる。いくつかの坂を越えて、遠い「時代の旅人」はそこを登るであらう。そして秋の落ちかかる日の光で、人々は石碑の文字を讀むであらう。そこには何が書いてあるか?

 見る者は默し、うなづき、そして皆行き去るだらう。時は移り、風雪は空を飛んでる。ああ! だれが文字の腐食を防ぎ得るか、山頂の空氣は希薄であり、鳥は樹木にかなしく鳴いてる。だが新しき季節は來り、氷は解けそめ、再び人々はその麓を通るだらう。その時、ああだれが山頂の墓碑を見るか。多數の認識の眼を超えて、白く、雲の如く、日に輝いてゐる一つ義(ただ)しき存在を。」


・・芥川の文学も古くなってゆくのかなど時々考えます。石碑の文字はたしかに腐食して読みがたくなります。芭蕉の句碑を見て廻ることもしますが、もともとが読みがたい文字であったり風化して苔で隠れたり、それでも誰かが正確に読んでいます。

・・龍之介の死の理由をもっとも正確にいいあてているのは朔太郎ではないか、そんな気がします。

575秋魚:2015/08/07(金) 13:23:03
(無題)
・・沼津の高尾山古墳が脚光を浴びてる。前方後方墳という古代史を新しく展く鍵となる古墳形だ。道路整備計画と遺跡の保存保護の問題で今でも行政上の処理が揺れている。前方後方墳とは聞きなれない名前だが、古代史研究家の間ではすでに分布と方位線とか一部詳細に調べがすすんでいる。

・・源氏物語、古今集、伊勢物語の古今伝授の枢要な鍵と目される雲林院の調べから、沼津の高尾山古墳も同緯度の方位線が重なるのは、おどろきだった。


??・・雲林院

京都市北区 紫野 雲林院町35-4. 緯度:35.040876 経度:135.748690

・・三河八橋(知立市八橋) ほぼ北緯35度

・・熱田神宮 北緯35度07分38.59秒 東経136度54分31.22秒

・・沼津  北緯35度5分44.1秒 東経138度51分48.4秒

・・三崎漁港 北緯35度8分16秒 東経139度37分7秒


・・粗雑な調べで、沼津の位置などどこを基準にしたのか忘失してて有用性はあまりない。

専門の研究家の詳細な調べが別にあります。

http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/2884

http://userimg.teacup.com/userimg/8220.teacup.com/toraijin/img/bbs/0002884.png

・・このうち長野松本の弘法山古墳は信濃路への展開のメモリアル。 長野県松本市並柳2-1000

北緯36度12分46.9秒
東経137度58分58.3秒
形状 前方後方墳

碓氷峠を越えて高崎にも前方後方墳は存在します。

元島名将軍塚古墳(もとしまなしょうぐんづかこふん)

群馬県高崎市元島名町
北緯36度19分23.43秒 東経139度4分8.28秒
形状 前方後方墳
規模 墳丘長75m
高さ8.5m

近くの前橋にも東日本最大級の前方後方墳があります。

前橋八幡山古墳(まえばしはちまんやまこふん)は、群馬県前橋市朝倉町にある前方後方墳。


所在地 群馬県前橋市朝倉町四丁目9-3
位置 北緯36度22分01.6秒
東経139度06分03.0秒
形状 前方後方墳
規模 墳丘長130m
高さ12m
築造年代 4世紀中頃
埋葬施設 (推定)竪穴式石室
史跡指定 国の史跡「八幡山古墳」


八つ橋ですが、

・・みちしれる人もなくて、まどひいきけり。みかはのくに、やつはしといふ所にいたりぬ。そこをやつはしといひけるは、水ゆく河のくもでなれば、はしをやつわたせるによりてなむ、やつはしとはい
ひける。そのさはのほとりの木のかげにおりゐて、かれいひくひけり。そのさはにかきつばたいとおもしろくさきたり。それを見て、ある人のいはく、かきつばたといふいつもじをくのかみにすへて、たびのこゝろをよめ、といひければよめる。

 から衣きつゝなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思


・・むかし男は、複数いて、ここで分散していったのではないか?

東海道の東下りはひとつのラインです。海に出るものや、木曽川、天竜川を遡って諏訪、長野に入ったものもいたでしょう。

576秋魚:2015/08/08(土) 22:36:16
(無題)
・・「白い町ヒロシマ」という原爆被災の映画をみた。戦争体験をもとにした原作の映画化と思われる。学童疎開で被災を逃れたヤスコという少女の視点が基軸で、原作の木村靖子さんというのはこの少女であろう。脚本化したのは新藤兼人。原爆投下のドキュメンタリ映像をまじえながら昭和二十年の二月から八月六日の被爆の日までのある家族の生の流れがホームドラマのタッチで進行する。家族の絆がこれほどノスタルジックに想い起こされるのは、やはり時代の流れか。絆のあり様は今も昔もあまり変わりは無いと思いたいが。

・・それにしても原爆は苛酷です。一瞬にして美しい家族の絆を断ち切る。絆自体は傷ついたままより強く心に残る。生き残ったものの絆を再確認してまた生きてゆくしかないのだろう。

・・白い町というのは、二月頃広島に雪が降ったらしい。雪化粧の広島はめずらしいという。これは虚構かなとも思ったが、たぶん現実だったのだろう。・・白い町ヒロシマというのは、その夏のヒロシマのことで、ピカドンと黒い雨、一面の焼け野原。真っ白な夏だった。

・・茜色の空を歌う小椋圭の音楽がたいへんに叙情的で涙がでます。

・・広島の外れ島根の際に学童疎開する子どもたち。このおかげで被爆には会わなかった。この広島の中心と疎開した田舎の距離がなんともいえず悩ましいのは、かの子どもたちだけではあるまい。お寺でしたが。緑もいっそう濃いところです。

・・映画の最後でわかったのですが、埼玉の都幾川がロケ地だったようです。この都幾川は、先日、自転車で通りがかりました。よいお寺と温泉があります。ほんとに田舎です。

577秋魚:2015/08/12(水) 21:54:12
(無題)
・・古今伝授について、西田正宏氏の要約がある。

>・・「古今伝授」を一言で定義することは極めて困難である。特に、ここ三十年程の間に、古今集の享受史の研究が飛躍的に進展し、その結果、「古今伝授」そのものの持つイメージがずいぶん変わった。従来は、「古今伝授」と認識されてこなかったことも含めて、広く「古今伝授」として捉えられるようになった。
広義には、『古今和歌集』の講義の全般を指し、院政期頃(古今集撰集から約200 年)から『古今和歌集』の難語解釈を中心に注釈(講義)が行われるようになった。御子左家(基俊⇒俊成⇒定家)と六条家(顕輔⇒清輔⇒顕昭)の対立および定家の息子・為家さらに孫の為氏の死後、大きくは、冷泉・二条・京極と三流の対立を中心に、細かくは、為世・為相・為顕などの諸流派が加わり、流派対立の混迷を極める。結果として、多くの偽書を生み出すことになった。
狭義には、東常縁(とうのつねなり)より宗祇が受けた講義(特に秘伝の伝授)をはじまりとし、以降、その説を宗祇が門弟に伝授したことを指す。宗祇から三条西実隆・宗二(奈良伝授)・肖柏(堺伝授)らに伝授されたとされるが、実隆から細川幽斎を経て、天皇家へと伝授されたいわゆる「御所伝授」と呼ばれるもの以外の実態は明らかでない部分が多い。


・・905年に奏上された古今和歌集の頭初の意図、意味の網目が、200年も経つと、一筋縄のもので収まらない。古今伝授というのはおそらく某かの権威つくりであろう。あるいは権威の秘密と解釈のこととする。

古今集自体が類稀なひとつの権威。・・御子左家の端末たとえば定家の解釈が正当な古今伝授を伝えるというのは、錯誤だろう。はじめに注釈なしで古今集を読むことが肝心。いなおほせ鳥。

・・古今伝授以前を解釈する。定家を古今集解釈のひとつのメルクマールとする。百人一首とは、一人一首で百人百首の歌合せではなく、一人一首、百人でも一首のこと。


題しらず

秋の田のかりほの庵(いほ)の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ(後撰302)

>・・かりほの庵 仮庵の庵。同語を重ねて言ったもの。「刈り穂」と掛詞か。「一説に、刈り穂の庵。一説には、かりいほのいほ。(中略)かりいほのいほ、よろしかるべきにや。いにしへの哥は同事をかさねよむ事みちの義也」(宗祇抄)。

・・古今伝授の宗匠宗祇においてもこの程度の解釈にとどまる。「いにしへの哥は同事をかさねよむ事みちの義也」という同事とはなにか。

>・・【乙巳の変】いつしのへん
干支が乙巳にあたる645年(大化1),中大兄皇子(後の天智天皇),中臣鎌子(後の藤原鎌足)らが蘇我大臣家を滅ぼして新政権を樹立した政変。皇極女帝のもとで,皇位継承や政治方針に関し大臣の蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子と対立していた女帝の長子中大兄らは,唐の興隆により国際関係が緊張して高句麗や百済には政変が起き,643年冬には皇位継承の有力候補だった山背(やましろ)大兄皇子(王)一家が入鹿に滅ぼされると,蘇我一族の倉山田石川麻呂(くらのやまだのいしかわのまろ)らを同志として大臣家打倒を決意し,645年6月12日,皇居の正殿で石川麻呂が〈三韓の表文(ひようぶん)〉と称する外交文書を読みあげている最中に,中大兄が率先して入鹿を斬り,雇っていた暗殺者たちがこれを殺し,翌日には蝦夷も護衛兵らに逃亡されて自殺した。


決行日当日の役割分担は、
●倉山田麻呂臣が上表文を読み上げる。
●中臣鎌子は俳優を手配して油断させて入鹿の剣を取り上げる。
●中大兄は門衛に指示して一二か所の門をすべて閉鎖させる。
●中大兄は槍を持って大極殿の側に隠れる。
●中臣鎌子は弓矢を持って背後に隠れる。
●佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田は上表文を読み上げている時に入鹿に斬りかかる。

倉山田麻呂が上表文を読み上げている間、子麻呂と網田は入鹿の威を恐れて怖気づき身動き取れなくなっていた。背後にいた中大兄が「ヤアー!」と気合を入れて、中大兄、子麻呂、網田の三人で入鹿を斬り倒した。


・・このように、自ら手を下した中大兄はあっぱれとみるべきかどうか。中臣鎌子は背後から惨状を見ていただけではないか。

578秋魚:2015/08/16(日) 00:41:26
(無題)
題しらず

をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくも呼子鳥かな(古今29)


・・ママチャリ後輪のブレーキワイヤを交換した。ワイヤ留めのネジが固くて放っておいたが、CRCの潤滑油を充分かけてえいっと気合をいれてなんなく動いた。細かな調整がけっこうむずかしくともかく使えるところまでもっていった。・・翌日急に後輪のタイヤが空気抜けしていた。パンクか?バルブの虫ゴムが擦り切れていた。これも取り付け位置などなかなかすんなりいかない。簡単な作業らしいが、未経験なものは失敗も多い。

・・高尾−甲府−諏訪−伊那−火山峠のツーリング輪行をシミュレートしている。

・・高尾−塩山を輪行して、甲府盆地には自転車ではいる。駅前のホテルを予約したがたぶん時間が余る。武田神社と信玄の隠し湯要崖に訪ねたい。問題は二日目。甲府から諏訪までこの道は天候が急変しそう。いざとなったら最寄の駅から輪行。たしか60キロほどあり、アップの道が続く。20号はわかりやすいが余り楽しい道ではないらしい。時間を充分とってあるあるので安全運転でいく。諏訪は温泉のメッカ。ここで一泊。上諏訪から伊那に入る道はまだ調べがすすんでいない。杖突峠から高遠にはいるサイクリストの記事があった。こなせないほどではないらしい。天竜川沿いに飯田線に沿っていく道があればよいが。三日目は直接火山峠までめざす。三峰川を散策して井月のお墓を探す。今回の予定はここまで。ここもホテルを予約した。帰路はまったく空白。

・・クロスバイクのブレーキ他すこしの微調整。自転車はこのすこしの調整が後々ひびく。先日雨に降られたのでチェーンに注油をする。遠距離のツーリングをシミュレートして大き目のバックパックを背負って自転車を走らせた。例によって青梅坂から小曽木街道をまっすぐ龍崖山の峠をこえて飯能にはいる。先日通った天覧山横の道をのぼれば秩父街道(?)の入口にでる。観光案内所があって巾着田にゆく時はこの道が一番近い。このあたりまでなら一時間そこそこで着く。・・きょうは正丸まではいかない。吾野宿にゆく。−飯能の紙−という展示がある。吾野はさほど近くは無い。二時間かかる。

・・いま帰宅してお茶を飲んでる。実に美味い。白昼野外の大労働で水に渇える。冷たいビール、ジュースより温かいお茶が美味い。

・・ヒルクライムなどは大きいバックパックは厳禁というのを聞いた。軽くすることだと。しかし今回は昔使ったバックパックを出来るだけ小さくして使う。ミレーのバックパックは背当たりがよい。このパックも今使わないともう永久に使うこともないだろう。

579秋魚:2015/08/20(木) 23:29:24
(無題)
・・自転車の解体−組立ていまひとつ合点がいかない。もう一度試行してみる。ブレーキ解除、前輪を外す。フレームごと車体をさかさまにする。チェーンの位置をアウタートップにする。後輪を外す。スタンドを外す。エンド金具を付ける。・・さてこのあと車輪を二つフレームにくくりつける。これがよくわからない。ネット検索では、バンド固定位置はとくに決まりがないそうだ。自分が試したものよりすこし後方がいいようだ。・・袋入れは次回に。・・組立ては簡単に思えた。しかし後輪の取り付けチェーンの位置が定まらず。てこずる。アウターにもってくるのはチェーンの張りを強くするためか。組み立てた後にブレーキがうまくかからない。これはハンドル部分のワイヤーが外れていたためだった。不具合があるのは必ず原因がある。原因を無視して強引に補正しようとすると破損したりですね。今回はセーフでした。

・・先日小曽木街道の無人野菜売り場で買ったピーマン。とても甘い。小さいピーマンがたくさん袋に入って百円だった。特に無農薬とか有機野菜とかうたってないが美味い。カン酎ハイはカインズのゆずがとてもいい。鰹のタタキは当たり外れはあまりない。モロヘイヤもいい。トマトばかりは当たり外れが多い。形は野菜だがいま出回るものは問題多し。・・しかしたかがピーマンといえ、美味い。

・・青梅俳諧に精通する大先生にお手紙を書いた。江戸後期から維新にかけて青梅の文化は華々しい。といっても、あまり説得しませんね。小林天渕は谷文晁につき青梅文晁と呼ばれたなどいっても、なんだ谷文晁の弟子のぐっと下かとみられる程度。・・青梅に住んだ吉川英司、川合玉堂ではなく、青梅にはもっと早く堂上文化があった。中原章、浄月律師、根岸典則、小峰峯真、小林天渕・・このうち浄月律師は歌集、句集のまとめたものを一冊つくるべきだと思う。よき理解をしめす人がもう高齢になって若い新しい人は興味をもたなくなってきてる。このままいくとこの土地を潤い光らせた古い文化が滅んでゆくのかも。

580秋魚:2015/08/22(土) 19:07:30
(無題)
・・自転車組立て後ブレーキ調整した。ツーリング前に試し乗り。御嶽山に登りレンゲショウマ鑑賞とダウンヒルを試みた。レンゲショウマは夕方とか雨もよいに光る花という。御嶽神社の薪能とかもある。しかし日帰りの参拝は無理っぽい。ともかくもレンゲショウマとダウンヒルで昼から自転車を走らせた。ダウンヒルで自転車を酷使して本番のツーリングでつぶれないかとも気がかりだった。近頃はすべてにおいて限界状況が見えている。体力的にも限界を感じることも多い。夏バテでつぶれるようなら情けない。御岳山自転車登山はこれまで二回試みている。吉野街道から参道のケーブル駅までもちょっとしたヒルクライム。後半はどうしても足つきになる。ケーブル滝本駅からが山の中の参道。ヒルクライムなんてものじゃない。自転車をひいて徒歩で登る。自転車はころがすだけだから重い荷物ではない。しかしかなりの登り坂です。体調が狂って気持ち悪くなる。悪い汗がでる。足も重い。やめたくなる。半分ほど登るとほんとに小さな少女が母親といっしょに歩いてる。おおかたはみなケーブルに乗るから、こんな小さな子が大丈夫?もう死にそうだよー。子どもの体力というのよくわからない。わたしらが思ってるより強いものらしいが。自転車で御岳山に登るのも今回も自分ひとりだった。やってる人もいるはずだが多くは無い。登りでバテたらいくらでも休みをいれればよい。下りのダウンヒルははじめは想像しただけ。可能と判断してはじめてトライした時は必死だった。目の前今現在の運転だけがすべての緊張。今回も一二度谷底へ転落かというひやりがあった。・・そうこうして茶店のあるところまで来た。自転車の駐輪場所は心得ている。今回はレンゲショウマの前にすぐに紅葉屋という蕎麦やに入った。ビールと蕎麦で休憩。

・・八月のお盆明けの土曜日で人の出が多い。さすが青梅の御嶽山。登山客、神社参り、それに山頂に群生するレンゲショウマの開花が人を呼ぶ。ハイキング客はみないい装備だ。吉野街道ではいい格好のサイクリストが何人もいた。青梅ばかりは外に出ないと生きた気がしない。体力が落ちているのは分かったが、峠を越えたあとは不思議と強靭な体力がもどる。家にこもってシミュレーションばかりというのはよくない。

・・神社へあがる女坂の傍らにすこしレンゲショウマがみえた。写真を撮ってる人がいて、群生地は別のところという。何も知らないで来たが、ケーブル駅の裏にレンゲショウマがたくさん見えるという。まったくケーブル駅なんていったこともなかった。


   *


小野小町

いそのかみといふ寺に詣でゝ日の暮れにければ夜あけてまかり歸らむとてとゞまりて此寺に遍昭侍ると人の告げ侍りければ物いひ心みむとていひ侍りける



岩の上に旅寢をすればいと寒し苔の衣を我れにかさなむ



遍昭かへし


世を背く苔のころもは唯一重貸さねば疎しいざ二人ねむ

581秋魚:2015/08/25(火) 19:59:58
(無題)
・・天候はもう秋ですね。台風なくても降水確率30%くらいで甲府盆地あたりは雨がくる。諏訪湖周辺や天竜川沿いでも雨は来そう。大雨でなければなんとかいける。自転車のフェンダーを外してあるので大雨だと悲惨です。・・急に空気抜けも困るから後輪のバルブをチェックした。劣化というのではないがもうしばらくは持ちそう。虫ゴムのいらないスーパーバルブを予備で持っていこう。予想しうる大方のトラブルは対処したい。自転車の調整はもう微調整でいいのではないか。ブレーキ鳴きが気になるが警笛がわりでそのままいく。

・・出発まで一週切った。ロードラインをもっと調べねば。塩山から甲府まで20号は避けたい。初日は完全に動きたい。塩山から周辺のサイクリング魅するもの多い。青梅街道柳沢峠越えというのいつかやってみたい。塩山から中央線に沿って甲府まではむずかしくはなさそう。石和には終日営業の健康ランドがある。ここは帰路に。

・・天気だけが心配になった。降水確率40〜50%。雲が広がって夕立のようなのは無いだろう。甲府から韮崎まで、その後の20号でない街道を調べねば。雨ならすべて輪行になる。昔の人はずっと歩いたのだから、これくらいでびびっていては何もできない。

・・甲府−諏訪のロードラインをシミュレートしてみた。韮崎からの県道17号というのが快適そう。晴れればの話だが。国道20号の右側ですね。中央線に近いとある。地図でみると茅野あたりで幹線と離れそう。もうすこし調べたい。

・・青梅の郷土館を訪ねた。以前訪ねた時にお願いした古い文献のコピーをもとめた。浄月律師の評伝です。ここ以外では国会図書館にしかないという。貴重な文献。学芸員の方で詳しい方がいらして助かりました。・・中原章についてすこし読んでみましたが、なんかおもしろい。充実した記事のよう。・・もうすぐツーリングに出るので、帰ってからしっかり読むことにしよう。なぜって、帰っての楽しみがあれば絶対事故に会わない。郷土館に感謝!

582秋魚:2015/08/29(土) 23:41:01
(無題)
・・秋雨前線が発生。天気が不順なので、ツーリングを一週延期した。八ヶ岳や富士の見える街道を、ほんとは赤トンボの舞う秋晴れのサイクリングをしてみたい。天気図ばかり見てすごすのも疲れるものだ。

・・浄月律師の評伝をすこし読む。中原章(〜1790)という希代の文人が当時青梅に漂泊していた。加賀出身だがどのような身分かはわからない。京都にでて諸々の学問と歌道を修練した風で、どんなこともよく知っていた。多摩川周辺に放浪していたが、ついには青梅の上町常保寺に庵をむすんだ。浄月はこの中原章に師事したという。

・・青梅漂泊は十四年にわたるというから、1776年(米国独立の年)にこの地に訪れたことになる。まず根岸典則、浄月律師が入門。学問もそうだがとりわけ魅するものはその歌学だった。若い頃京都に出て隅谷正雅という人に和歌を学んだとあるが、この隅谷という者は今のネットでもヒットしない。この歌が堂上風という。

 鈴虫の声ふり捨て有明のねやへはいらし月になりゆく    章

 この堂上風というのいまひとつわからぬも、当時の青梅では新鮮な京みやびであったらしい。て近な江戸でもてはやされたものとあきらかに一線を画する文化だった。

 青梅谷野の真浄寺にある「しぐれ桜碑」には、日野資枝の歌が刻まれている。

 さくら花梢のしづくおつるより幾世しぐれの名にやふりけむ

 日野資枝こそはまさに京の堂上歌人。子の資矩とともに後桜町天皇に歌をもって仕えたという。浄月典則とも京の日野家に交流し、日野資枝も青梅に訪れた。

・・このあたりも中原章の導きという。

・・

浄月律師の作った章の祭文がある。

「夙に武門に出て帝都に留学すること十有余年にして、神儒仏の学窮すと云ふことなし、尤も歌道に精しく春の鶯秋の蝉の吟綿々としてたへず、浮詞雲の如く起り艶流泉の如くに涌く雲上に賞せられけるに、栄利を慕わずして、遠く四方に斗籔して旧地名跡普く至らずと云ふ処なし、其徳里々に伝はり家々に称せらる」

・・先の「しぐれ桜碑」と並んでおなじ形の芭蕉翁霊塚もあり、これは1793年芭蕉百回忌に浄月律師の建てたものという。

・・毛呂山の俳人川村硯布がここを訪れ句を残している。

「武州多摩の郡真浄寺の
    門前に時雨のさくらあり
     枝に哥よめとあれハ
 さくらはな梢の雫落るより
  いくよ時雨のなにやふりけん
  此歌いと尊く覚て杖を止る事二日

 朧夜はしくれ桜の荷擔(カタン)かな」


・・思うに、密かに井月もここを訪れている。

 青梅や筒井づゝなるその昔

これは「しぐれ桜碑」と「翁塚」の並べて建てる様をみて詠んだ句とみるが、どうか。


『布鬼圃』

583秋魚:2015/09/02(水) 22:49:41
(無題)
・・女心と秋の空というのがあった。まったく今日はよく晴れた。すこし前の予報では70%の雨だった。三日連続して晴れ待ちというのは待ちぼうけになるかも。来週からまた雨の日が続きそう。しかし秋雨前線は急に消えることもある。今日は秋のうろこ雲がすこし見えていた。

・・近場の温泉でまだ未訪問の石神温泉というのにいってみた。奥多摩線の駅でいうと石神前というたいへんマイナーな駅から徒歩でゆける。多摩川べりにたいへん景色の良いおくたま路という温泉旅館がある。宿泊するのはやや値が張るが、日帰り温泉をはじめたという。

・・自宅からママチャリでとても快適なサイクリング。20分で到着できる。青梅街道吉野街道ともに使わず幻のサイクリングを楽しめる。スーパー銭湯が流行してこういう片田舎の肩肘張った温泉にはあまり人も出向かない。秩父の和銅温泉みたいに貸切で使えるだろう。そう想像した通り、客は自分ひとりだった。旅館の方でもお昼前後のチェックインまでの空き時間を日帰りで開放したようだ。

・・一級ホテルの温泉ほど快適なものはない。ロケーションの素晴らしさ。貸切で使えるならまさに瞑想がやれそう。露天はないがすぐ前は多摩川のせせらぎがみえる。川を取り入れた借景の庭があってここも歩いてみたい。・・泉質は、アルカリ性単純泉で、奥多摩湖畔にある鶴の湯をひいている。小河内温泉は昔からある。ダムを造って一度埋没したが、その後湯をくみあげて復活させたという。しかし、奥多摩湖からこの二俣尾までちょっとした距離です。どうやって引いているのか。

・・帰り道、栗の実がたくさん落ちて弾けてる。たいていは人が拾ってイガばかり。それでも拾われずにあるのもあって、よいのを拾った。

   *

たねとなるひとの心のいつもあらば
むかしにおよべやまとことのは    京極為兼


俊成−定家−為家

この為家のもと、為氏(二条)為教(京極)為相(冷泉)の三派あり。京極為兼はこの為教の庶子。


・・すこし引いてみますが、絢爛たる歌ぶりです。


鳥の音ものどけき山の朝あけに霞の色は春めきにけり(玉葉)

沈みはつる入日のきはにあらはれぬ霞める山のなほ奥の峰(風雅)

思ひそめき四(よつ)の時には花の春はるのうちにも明けぼのの空(玉葉)

梅が香は枕にみちてうぐひすの声より明くる窓のしののめ(風雅)

梅の花くれなゐにほふ夕暮に柳なびきて春雨ぞふる(玉葉)

霞みくるる夕日の空にふりそめて静かになれる宵の春雨(金玉歌合)

さびしさは花よいつかのながめして霞に暮るる春雨のそら(風雅)

春の夜の明くる光のうすにほひ霞の底ぞ花になりゆく(弘安八年四月歌合)

思ひやるなべての花の春の風このひともとの恨みのみかは(玉葉)

・・

584秋魚:2015/09/04(金) 03:09:52
遠く四方に斗藪して
・・先日、中原章について書かれた浄月律師の文を写していて妙な言葉にぶつかった。

「・・遠く四方に斗藪して」というこの「斗藪」という言葉である。「とそう」と読むが梵語で「頭陀」のことという。「ふりはらう」の意。「斗」は「北斗」などで馴染みだが「容量の単位」「ます」「ひしゃく」「少しの量」「けわしい」「かどだっている」「たちまち」「急に」などある。「闘う」という意味は無い。

「藪」は込み入った画数で判別難し、現代表記なら「薮」で「やぶ」のこと。草冠に数。

「斗藪」は仏法用語で行脚のこと。

・・いったいこういう漢字の当てはどういう思念で誰が行ったものか。根気が失せて調べたくも無いが、最近ポタリングとかツーリングとか見知らぬ土地の地図を調べること多く、実際完璧な調査は無く頭に入れた地図も思い込みほどのものであったり、現実に歩いて迷いばかりのあの格闘は何であろうと思っていた矢先、突然「籔」ヤブという言葉に思い当たった。「斗」はもろに闘争の闘の略字かと思ったが「タタカウ」という意味はないらしい。・・「籔」ヤブというのは、普通にタケヤブなどの茫々の草木のことだろうけど、自分には「迷宮」ラビリンスという言葉がよい感触です。「斗」というのはある一定の量をもった空間ですね、おそらくは。籔を切り開く剣=太刀があって、タタカウは太刀交ウとか先走りの想像もやはり籔の中のこと。・・そういえば仏法用語の好きな芥川龍之介はこの「斗藪」から思いついて『籔の中』を書いたのかもしれない。・・「迷宮」ラビリンスというのはクレタ島にあるクノッソス宮殿のこと。興味深い神話がある。・・ミノタウロス、テーセウス、アリアドーネとか、迷宮は迷路ではありません。ラビリンスは両刃斧の意です。

   *

・・先日、やはり興趣を感じた京極為兼の歌について、玉葉集という一人選者ですが、京極派の歌風を代表しているとするなら、「絢爛たる歌ぶり」と評しましたがたぶんこの言葉は外れている。表現で違和を感じている時必ずどこか的を射ていないでしょう。・・江戸後期青梅の歌人をさぐっていて、浄月は二条派の堂上歌人日野資枝についたから二条風と思いきやそうではなく冷泉風という方がいて、実はこの区別自分は認識不能です。玉葉集はずっと昔さっと斜め読みしたことがあり、この斜め読みというのも違っているでしょうけど、この斜め読みから外れる歌の情を強く感じていました。ど真ん中でまっすぐです。

・・たぶん、もうすこし繊細な差異の言葉があるでしょう。

585秋魚:2015/09/05(土) 23:49:23
(無題)
・・天候不順。ツーリングさらに一週延期。出発日を決めるとかならず雨予報になる。もともとそんな急ぐツーリングでもない。行程とスポットで調べも遅れているから丁度よいかも。

・・甲府から諏訪をシミュレートする。甲府−韮崎まではなんとかいけそう。韮崎からR17で七里岩ラインにはいる。このライン桃の花咲く春先が抜群のようだ。サイクリストにはけっこうな人気ライン。韮崎ー小渕沢までが七里岩ライン。ここから清里、八ヶ岳に向う道がある。諏訪にゆくにはR17をまっすぐ茅野あたりまでゆく。富士見峠というところまではアップが続く。甲州街道を使わずほんとにいい道らしい。富士見から茅野までは下りになる。が、この道よくわからない。・・ともかくも晴れてくれなければお話にならない。

・・越境台風というのが遠い南の海上に来ている。あたかも台風17号?これの進行しだいで秋雨前線もぶっ飛んでくれるかも。大陸の秋の高気圧がずっと甲州伊那路を蔽ってくれるといいが。

・・諏訪湖周遊はまったく楽なサイクリングだという。天竜川沿いに下り伊那谷も容易という記事もある。甲府−諏訪が難関か。ここをこなせば八ヶ岳方面にもラインが開けてくる。


「花」と「しぐれ」

・・西行と芭蕉。

 今日ばかり花も時雨よ西行忌   井月


井月は、やはり、青梅に来ているな。


   *

 絶品の栗ご飯ができた。

・・先日、たまたま出くわした落ち栗の実を拾った。たいていは虫食いばかりのものが多いが、この日は、艶のあるよいものばかり。人の通わぬ道で拾う人もいなかったようだ。・・さてどうするか。以前筍のあく抜きで奮闘したことがある。栗もアクがありそうだ。・・こんなときインターネットは大変ありがたい。検索すると、かゆいところに手が届いた栗ご飯の造り方レシピーがいっぱいある。そのうち一つの方法で栗ご飯をつくることにした。

 栗ご飯つくりは二度チャレンジした。栗をふたつに分けた。はじめのは余りうまくいかなかったので、結果だけ。栗は皮むきがたいへん。鬼殻という固い外皮は慣れないとめんどうだ。これはコツがある。二度目にはうまくいった。食用とする実の上にさらに薄い皮がある。名称は思い出せないが、ここに強いアクがあるという。これはしっかり取り捨てなければならない。むき実の栗であとは害になるようなアクはないらしい。炊飯器の米に乗せて炊き上げればよい。で、塩と酒がいる。この量加減が最初はうまくいかなかった。塩の量は少なすぎたかもしれない。塩も酒も残るアク消しになったはず。白米の研ぎ方もぬるかったようだ。・・結果、栗ご飯はできたが、ややうす味。栗自体はあまい良いものだった。

 二度目は、今日。白米を丹念によく研いだ。研げば研ぐほど甘みがでるという。玄米と黒米を少々。塩は前回よりやや多めに。多すぎてはいけない。栗は水につけて剥きやすくした。米についてもいろいろある。「ひとめぼれ」などいっても、同じ名で雲泥の差ある。「こしひかり」もそう。たまたま今あるのは、青森産「まっしぐら」。普段の二倍よく研いだ。・・栗を乗せて今回は醤油を数滴。酒は炊き上がってから蒸らしつつ使った。水加減とか栗の数とかいろいろレシピーは無視して勘を頼りで作った。

・・果たして、絶品の美味さだ。この栗ご飯だけでも食がすすむほど。

 酒がよかったかな。千代鶴の四段仕込み。

586秋魚:2015/09/07(月) 21:11:15
(無題)
・・ハリケーンの越境台風とインスタント台風の発生。進路はまだわからぬも来週はじめには台風一過の晴れの日がつづきそう。三度目の正直でありたい。

 中原章について、放浪が青梅に定着したのは安永五年(1776)。この土地に堂上文化をもちきたらしたという。青梅の花の時代はここにはじまる。

・・この年花咲く京の都はどうであったか。安永五年二月、夜半亭蕪村のもとに名古屋から俳友暁台が訪ねてきた。この頃は桃、桜が同時に咲く花の季節という。暁台と夜半亭の面々が一昼夜のうちに桃と桜の名所を二箇所経めぐるという快事があった。京では桜の名所は数多いけれど桃の花咲く名所は当時もかぎられていた。まず行きたいのは伏見の桃山でしょう。伏見の桃は江戸のはじめ伏見城倒壊ののち城跡にたくさんの桃の木を植えたのがそのはじまりという。安永九年刊『伏見鑑』桃山を孫引きすると、

「伏見の町の東に有。南北十町余り、東西三四町、或は五六町の間、数億万株の桃花、山野に満ちて爛漫たり。」


桃つらつら花尽きる処水長し  暁台

桃おちこち花のうらうへ入日さす  几董


・・この伏見のあと一行は京の西北嵐山へむかう。花見遊山の酔狂で、

星影の花にしみ入る夜明けかな  几董

夜桃林を出てあかつき嵯峨の桜人   蕪村


 京の粋はさすがです。


・・この安永五年からさらに五年ほどして、1781年、天明期にはいる。この期は蕪村暁台もさることながら、天明の俳人たちがおおいに遊歴雄飛した時代だった。時代は混沌としていましたが。

天明2年-8年(1782年-1788年): 天明の大飢饉
天明3年(1783年)7月6日 : 浅間山で大噴火。死者約2万人。大飢饉が更に深刻化。
天明4年(1784年)2月23日 : 筑前国志賀島で金印発見。
天明4年(1784年)3月 : 田沼意知が江戸城内で佐野政言に殺される。
天明4年(1784年): 蝦夷地の開拓が始まる。
天明6年(1786年)8月 : 田沼意次が失脚。
天明6年(1786年): 最上徳内、千島を探検し、得撫島に至る。
天明7年(1787年)4月 : 徳川家斉が将軍に就任。
天明7年(1787年)5月 : 天明の打ちこわし(江戸・大坂で米屋が打ち壊された事件)。
天明7年(1787年)6月 : 松平定信が老中に就任、寛政の改革を行う。
天明7年(1787年)6月7日 : 御所千度参りが起こる。
天明8年(1788年)1月30日 : 天明の京都大火により、皇居炎上、京都の大半が焼失。
天明8年(1788年): 尊号一件始まる。


・・青梅で、中原章、浄月律師、根岸典則らが生きたのもこの時代。

587秋魚:2015/09/09(水) 00:01:09
(無題)
・・まさに恵みの台風か。雨より風の台風は昔から好きだった。風でちぎれた松ぼっくりの匂いとか遠い海の香りとともに風に乗って飛びたくなるのは幼少の気質だった。空の奥でごうごうと鳴る風の音には武者ぶるいがしたものだ。

・・日曜あたりから今度は晴れてきそう。諏訪から伊那谷へを検索してみた。諏訪湖西南の端岡谷から天竜川が開いて流れる。これに沿った県道は伊那街道か。これがよさそう。・・茅野のあたりから守屋山の脇道で杖突峠にあがるのもたいへん興趣をそそる。桜の頃高遠に入るならここをチャレンジしてみたい。高遠の桜半端でなさそう。・・今回は安全ルートで行く。・・それより甲府から諏訪までがどきどきわくわく心配だ。韮崎から小渕沢まで七里岩ラインは必ず、その先富士見峠までは17号で行く。地図ではここから20号に入ったほうが道はわかりやすくはないか。17号そのまま高原の道を茅野の外れまで行くラインもあるが。・・伊那、駒ヶ根には訪ねたい料理屋がある。うまく行けるだろうか。


 桃桜の春の景ばかり思い描いている。京伏見の桃の花見はいいものらしいが、青梅の里も昔は梅というより桃の花里であったらしい。昔というのは江戸後期、明治の頃です。

 明治の小説家田山花袋が奥多摩紀行を残している。

・・

玉茗も同じ心配をしたらしく、

「君、多摩川の山水は本当にいいんだろうね。昨日からのあれほどの苦労、あれほどの難儀をしていよいよ出会ってみれば、なんだこんな程度の山水か、ということにはならないだろうね」

 と念を押してくる。

「決してそんなことはないさ」

??と強張って答えたが、花袋の胸にも一抹の不安があった。

 旅篭を出て街道を山懐に向かい、日向和田(ひなたわだ)の小村落を過ぎると、山水の景は少しずつ引き締まってきた。

 二俣尾(ふたまたお)の村に至って、ついにその場に立ち尽くすほどの好景に出会った。

「全村皆桃花(とうか)なり。全村紅(くれない)なり」

 というわけで、桃の花に埋もれそうな村落が目の前に開けた。

??桃源郷かと思えるような村里を抜けて、再び流れに添って進めば、御嶽山が視界に入ってくる。渓流に点在する岩塊も、奇巌・怪石の状をなしてきた。

 川井の村を過ぎると、山愈(いよいよ)深く水愈(いよいよ)清麗となって心を打たれ、つい時折立ちどまる。

 先を歩んでいた玉茗が「これはすばらしい風景だ」と叫んだ。

 彼らは現在の奥多摩渓谷にあって、一、二を争う景勝の地、鳩ノ巣渓谷を眼下にした。

                       (これは大藪宏さんの文です)


「全村皆桃花(とうか)なり。全村紅(くれない)なり」

・・先日の栗を拾った石神温泉のあたりが二俣尾。全村皆桃花というほどではありませんが、春には桃の花が咲いてます。


・・田山花袋が青梅奥多摩を散策しようと思いついたのには、実は、江戸末期の儒者林鶴梁という先人の奥多摩紀行『豈止快録(きしかいろく)』に触発されていました。

「・・御嶽から小丹波(こたば)、棚沢、白丸と歩みを進め、数馬の石門(切り通し)に着くと、

「山は険に、樹木は老に。群巌怒るがごとくして人を脅かし、石渓は激怒して轟音を発し、鬼界を往くがごとし」

 という風景に接し、鶴梁は感嘆の声をあげた。

 ここから奥の峡谷は、渓山が種々に変化して奇絶なことは限りがない。同行者三人はただ顔を見合わせて「美景なり」を繰り返すばかりであった。」


                     (これも大藪宏さんの文です)



 おもしろいですね。川合玉堂も白丸、数馬の切通しは絶景の讃あり。

588秋魚:2015/09/10(木) 18:43:16
(無題)
・・雨台風。各地に水の被害がある。多摩川の下流でも河川敷はほぼ水でいっぱいとか。わたしのところは丁度上流の方から平地の街中へ流れ込むあたり。水流の勢いは強いが溢れるというのはなさそうだ。釜の渕公園というところに郷土館があり、河川敷より一段あがった土地にあり、すこし心配になった。午後になってまた雨がぱらつく空だが、自転車で川の様子を見に出た。・・こちらの河川敷も木々の茂るあたりまで水でいっぱい。夏の間はキャンプと水遊び、釣り客でにぎわっていた。上流の方でたくさん降って山から水を集めたようだ。この辺で溢れるようだと中流あたりでも堤防をこえるだろう。

・・御岳、鳩ノ巣あたりから、多摩川は、峡谷になる。奥多摩駅のあるあたりからさらに奥多摩湖へ向う川に沿った昔道がある。けっこうな距離です。昔の甲州街道で観光の季節以外はあまり人も歩かない。このへんも深い峡谷。道の上から奇岩、鬼岩の多いのは江戸の頃にあった大洪水の爪跡という。これは山の斜面を水がどどっと流れ落ち土砂を押し流したものだろう。堅い岩だけが残った。この昔道もけっこうな奇景です。


・・あの瞑想、すてきですね。


火山峠 N35度46分50秒 E137度59分18秒

自宅  N35度46分58秒 E139度14分43秒


青梅御岳山(神社) N35度46分58秒 E139度8分59秒

御岳神社奥の院  N35度46分46秒 EE139度8分30秒


・・御岳神社と自宅緯度線が完全同一。

この御岳神社から奥の院に向けた参道、西南に三分の二ほどあがると火山峠の緯度位置です。


・・この緯度線、多摩川に沿って奥多摩をどんどん遡ると湖の中央を通ります。青梅街道とぶつかるのは柳沢峠あたりで、富士がよく見える。

589秋魚:2015/09/11(金) 19:34:24
(無題)
・・台風の過ぎた後に前線の切れ端がすこし残る。日曜はこれがすこし気になる。が、待ったなし。まったくツーリングモードになる。

・・自転車の再調整をした。meridaは基礎構造がしっかりしていてブレがほとんどない。一度ブレーキワイヤが外れて立往生したことあったが、こちらの調整ミス。下手に調整してチェーンが外れたこともあった。解体組立て後の調整はあまり時間をかけられない。ヒルクライムが多そうなのでブレーキ調整を念入りにした。ブレーキ鳴きも止まったはず。

・・諏訪から岡谷辰野と行けばよいらしい。帰路塩尻に寄りたいと思ってこのあたりを調べてみた。昔電車で通ったことあります。中央線、飯田線とか篠ノ井線とか入り組んでいて乗り継ぎむずかしかった。地図でみると簡単そうだけどよくよく調べてやはりむずかしい。自転車で岡谷からなら塩尻峠をこえねばならない。辰野からの道もあるようだ。ヒルクライムになるらしい。電車の本数も半端でなく少ない。飯田線で伊那−駒ヶ根に行くことも考えたが、下手するともどれなくなる。一時間に一本あればよいくらい。けっきょくこのあたりすべて自転車に乗るのが最良か。・・帰り、高遠から杖突峠の道にまわるというのはどうだろう。ヒルクライムが大変そうだが、登りきれば諏訪湖の端茅野に入る。ここから富士見峠あたりまで輪行して下りは17号で甲府まで。石和で一泊。あとは楽に帰れる。

・・トリップアートというのを昔やってたけど(笑)

  魂の叫びというのには負ける。

590秋魚:2015/09/12(土) 23:33:26
(無題)
・・朝は東京ど真ん中の地震で目が覚めた。また大きな地震かなとも思ったが、横揺れでほどなく止んだ。震度5弱から4。このあたりまでなら人はあまり気にしない。震度5を越えるとエレベータも自動停止する。震源は東京湾らしくマグニチュードは5.2。規模はこんなものであまり気にも留まらないようだ。でも都下ど真ん中というのは気になる。規模はたまたまこの程度だったと思えばいつ都心で大地震が来るやもしれぬ。

・・天が落ちてくるやもしれぬ。と気遣うのを杞憂という。しかし地震はよく来る。

・・直前でよく晴れたので御岳までポタリングに出た。雨降りで体が鈍っていたし自転車のペダリングの具合も見たかった。一年ほど前までは御岳までポタリングするのも勇気がいるものだった。今は気楽な足馴らしになる。ブレーキ、ギアの具合も問題なし。・・駅近の食堂でランチをとる予定がたまたま休業。それでいつかの名物蕎麦や玉川屋にはいった。ほどよい混雑で案内嬢が席をとってくれた。この案内嬢かわいい娘でどうも言葉使いなど日本人でない風だ。フィリピンとかタイとか。帰りにちょっと訊いてみたら、日本人です。といった。ごめんなさい。でもかわいい子でした。

・・他の客はみなグループでにぎやか。ハイキング姿の若い女性もいた。若い人を見るとなんか感動する。自分はこのところ古典古代の調べ事ばかりで急に年寄りになった気がする。若い子に声をかけると変なおじさんといわれるかも。でも若い子はいい。・・ざる蕎麦とビールで休んでいると、一人客が失礼しますと前の席に座った。男子で若者ではない。一人同士ですこし話をしてみたくなった。・・あたりさわりのない話から相手も素直に応じてくれた。なんでも栃木から車で来たという。吉川英治記念館に来たそうだ。栃木茨木方面水が溢れているのでこちらにまわったとか。足利の人で歴史が好きでついつい混み入った話になった。四方山話の中で、栃木の佐野に江戸のはじめオランダ船リーフデ号の漂着した遺物があるという。船は1600年大分の臼杵に着いたが船尾にあったエラスムスの木像がどういうわけか佐野にあるという。今は国宝と認定され国立博物館に所蔵という。リーフデ号ってウイリイアムアダムスの乗ってた船ですね。いろいろ話がはずんだけど明日はツーリングに出る予定。のんびりもしてられず話し相手のお礼をいってひとまずお店をでた。

彼岸花があちこちぽつぽつ咲いてます。

さて、帰宅してこれから最後の準備です。

591秋魚:2015/09/16(水) 19:04:41
(無題)
・・さきほどツーリングから帰宅。伊那市駅から自転車をたたんで特急あずさで八王子まで。あとは高尾から自転車を組立て青梅まで。朝は創造館で井月の書を眺めてました。・・高遠にでて杖突峠からダウンヒルして茅野から輪行帰路というのを思案してましたが、杖突峠のこわさを強調する人多くそれでもやれると信じてました。結局これは断念。木曜日は東京も全面的雨予報というのに従いました。自転車で雨というのはまったく動けませんから。・・特急列車に輪行袋の自転車で乗り込むというのが初体験。袋の自転車の置き場所というのでさんざん悩みましたが、座席の隙間に押し込むことができなんとか他人の迷惑にならず乗り込めました。この方法を覚えれば大方の輪行はうまくいくようです。

・・自転車行路は、塩山−甲府、甲府−諏訪、諏訪−伊那−火山峠−駒ヶ根。駒ヶ根の割烹料理屋「水車」のご主人さんが車でいろいろ案内してくださり伊那のホテルは自転車に乗らず助かりました。初日もけっこうでしたが、二日目の甲府−諏訪というのは驚天動地。三日目もさらに。


・・最初から三日目までは到着地とホテルを予約した。その日まかせの行きあたりばったりというのは昔よくやったものだけれど、宿泊予約は確実に動ける。

・・青梅から高尾までというのは以前都留に行った時のやり方で高尾の駅前での自転車解体は手馴れた風でできた。ちょうどプラットフォームに出ると快速小渕沢行きが出発真近。つながりよく電車に乗れた。エンド金具の止めが緩く動いたほかは自転車もうまくおけた。塩山の駅で組立て観光案内所のお姉さんに地図と甲府までの行き方をアドバイスしてもらう。ここで自分が予定していた青梅街道をあきらめ雁坂からの道を選んだ。笛吹川に沿った道がある。道がわからなくなると美容院があってスミマセンと顔をだしてお仕事中なのにいろいろ訊いてそれでもみなうれしそうに教えてくれます。洗髪中のお客さんまでが目を開いて怒られるのかと一瞬そうでなく正確な情報を伝えてくれました。塩山から甲府は17kmばかり。たいした距離ではありません。それでも何度も人に聞きました。

・・酒折という社があります。ヤマトタケルが筑波嶺をまわって火焼の翁と連歌をとりかわした処です。

 ここも訪ねたい処のひとつでした。裏山に柑橘の実が色づいています。

・・すぐ隣に甲斐善光寺とかあり人込みでにぎやかでしたが、こちらはひっそり。でも本居宣長が寿詞を残しています。


・・甲府は、予定より早く着きました。ここもほとんど未知の街です。駅横に舞鶴城という城が立ち公園になってるようですが、今回は立ち寄りません。近くの宿を予約してあります。駅周辺北側から東にかけていろいろ史跡が並んでいるようです。酒折の宮の隣の甲斐善光寺はきらびやかな建物で長野善光寺の威光をそのまま遷しているかのよう。芭蕉の句碑がひとつありました。・・もっと真北の参道をずっとあがると武田神社にぶつかります。こちらもたいへんな人気のようでいつも観光客に溢れています。塩山あたりもそうですが甲府は戦国の武田信玄の威光が今でも根強く輝いている土地であの風林火山の旗があちこち見られます。街のつくりも武田一色というか当時のこの国の統率力の強さがうかがわれます。甲府は街中にしても温泉がみられ、湯村温泉とかすこし郊外のところにも名湯があり、いろいろ物色していて、武田神社のさらに北の方の山へとあがって積翠寺温泉という要害がパワースポットでここの日帰りを試みました。・・駅前の交番で案内をもらい、要害は信玄の隠れ湯とか、夜は露天からの眺めは絶景といい、ただし到り着くまでの坂道はなみたいていではありませんという。ヒルクライムは覚悟していました。自分のヒルクライムは歩いてでも登るスタイルで下りの軽快さをよく知っています。ここは是が非でもあがっていきます。・・まだ先かよとぼやきながらペットボトルの水の美味いこと。初日から汗がどっとでました。・・着いてみると自動車なら簡単なのか人も多い。自転車で来たのは自分くらい。でも、見立てどおりのよい湯です。泉質もなかなか。この日の疲れをさっと洗い流しました。

・・自転車にトラブルがなかった一日に感謝。明日の行程はずっと長距離のサイクリングです。

592秋魚:2015/09/17(木) 19:17:28
(無題)
・・なぜ自転車か?ゆく先々で不思議におもわれる節がある。火山峠に行くのになぜ困難なサイクリングの道を選ぶのか。・・甲府−諏訪は概ね60kmはある。想像では、左手に富士山、右手に八ヶ岳、さらにゆくと左手に南アルプスの山並みが見えるはず。国道20号、中央線がひたすらこの山間の土地を伸びてゆく。自分が走ろうと思うのは韮崎からの県道17号。七里岩ライン。小淵沢まで東西にせりあがった岩壁の丘の道です。

・・街道をサイクリングするにもっと目立つ服装がよいとアドバイスされています。競輪の選手のスポーツウェアがどういうわけか手元にありました。レース用でno9の番号があり派手ハデですからずっと着用することありませんでした。今回意を決してこのシャツを着てこの区画走ります。派手な服装というのは何故かよくわかります。

・・二日目。まずは韮崎まではいかねばならない。地図で選んだルートと違い、昨日交番でアドバイスでは、駅の北側から山の手通りに入る。この道をどこまでも真直ぐいけばよい。とのこと。・・これを採りましたが、それが大変でした。

 実際、韮崎まで簡単にいけると踏んでいました。交番で聞いたのは、この道まっすぐ行けば七里岩ラインに直接合流できる道のようでした。・・どんどん行くと分かれ道があって右手に行くのが正しかったようです。自分は左折しずっと下って20号に出てしまいました。この20号でも韮崎に入ればさらに17号にも入れるはずです。そう頼んで20号を進みましたが、なんとも殺伐とした道です。甲府からまっすぐ諏訪をめざすのであればこの20号一本で大丈夫です。ただし快適ではないという。だだ広くて道を訊く人にも会いません。やっと土地の人に会って17号の入り口を教えてもらいました。韮崎の町に入りその七里岩ラインへの登り坂のところで麓の工場の人に尋ねました。奥さんがうれしそうにこのラインを語って、交通は詳しそう。すぐ旦那さんもでてきてああでもないこうでもない細々というけれど情報過多でもう出たほうがよいでしょう。帰りにまた寄ってくださいなどいう。ハイ運がよければ。ありがとうをいっていよいよ七里岩ラインへ。・・しかしこれが自動車の数の多いこと。おまけに最初は急なスロープが続きます。アップダウンが多いのも聞いていました。

・・甲府から七里岩ラインへ入るのに一時間もあればいくと踏んでたのは大間違い。3時間はかかってる。最初のスロープだけで30分。・・朝7時30分にでて諏訪には昼過ぎには到着できるくらいな思惑でした。が、これも大外れ。・・実際夕方の5時に上諏訪のホテルでしたから。・・丸一日の余裕でサイクリングだけの日です。自転車のトラブル無ければ。・・何度も繰りかえし来るアップダウン。一方的なアップでないのが救いです。・・車の数は減ってゆきサイクリングはどんどん快適になります。

 山梨の外れ小淵沢が最初の目標。

・・韮崎あたりから晴れていれば富士がきれいに見えるはずでした。自転車乗りに集中して遠くの景色よく見てません。時折たしかめて見ましたが、うっすら雲がかかり富士は見えません。七里岩ラインで見えたのは南アルプスの山々と八ヶ岳連峰だったと思います。ともかくアップダウンをこなすのに夢中で、周囲の景色は稲穂が金色に色づいてあと蕎麦の白い花(?)が盛りだったようです。・・小淵沢の駅前に入るまで、かなり曲がりくねったスロープを走り、道がわからなくなりました。まれに出会う人に尋ねてなんとか小淵沢の駅前へ到着。ここは清里方面からの接続もあって食事のとれるお店も数軒あります。観光案内所で地図と諏訪へ行く道を教えてもらい、古民家の蕎麦屋で休憩。

 派手ハデのスポーツウエアで、でもすっかり自分の風体忘れています。サイクリストは普通みんなきらびやかですね。ヘルメットなども本格的で。特に自分がおかしく見られはしません。お昼をまわってほんとうなら諏訪に着いていてもよい時間でした。もうあきらめです。セイロ天蕎麦とビールで休憩。静かなお店でしたが、そのうちグループ客がどっとやってきました。早々にしていよいよ隣の富士見に向います。

・・ここはもう長野です。七里岩ラインはここで終わり続きは17号でまっすぐ。しかし諏訪までの道ほとんど未知でした。富士見の駅の方から20号に入ると茅野諏訪は入りやすいようでしたが、原村というのを越えて尖石遺跡の近くまで行きそこからビーナスラインというので茅野へ南下。すこし大回りのコースを採りました。・・これが実はたいへんな道でした。八ヶ岳、南アルプスの景色はよく見えました。

富士見は峠になってるとばかり思っていました。このラインここがmaxの標高であとは下りです。アップダウンが繰り返されるので富士見以降は楽ということはない。だいたい富士見峠がどこかも不明。やたらと富士見、富士見が多いのではやく抜けたい感じでした。富士山なども見えません。・・原村へ向う道。もう道を尋ねる人にはそうそう出会いません。農協に入って尋ねました。どこに寄っても場違いな風です。三人くらいでああでもないこうでもない。で文殊の知恵が最後に来ます。やはり17号を真直ぐ。だだ広い高原の道をとんでもない地平に向けて走ってるようでしたが、もう後には退けない。急なヒルクライムはもう無いし、車も少ないし、サイクリングは快適です。

・・原村に入ってスマートフォンを持ってる人に道を尋ねました。どこへ行きたいの?諏訪です。え、自転車で?甲府から来ました。驚いた風で、親子で甲府から諏訪へサイクリングした記事が長野日報に載ってたけど、ひょっとしてアナタ?・・いえいえそれほどの冒険では無いです。実際これまでにサイクリストはひとりも出会いませんでしたが、ネットではいくつか走った記事が見られますよ。クロスバイクで走っているのは、異常だったかもしれません。来る前にドロップハンドルのロードバイクを購入してと思案しましたが、馴れる時間がありません。このHayabusaならお手の物。ちょっと風変わりなツーリングには違いない。

さて、県道17号の終点は尖石縄文遺跡のある交差点。ここは茅野市です。ここを左折して南下。茅野市街に入り国道20号に合流。そのままいけば上諏訪に着きます。尖石縄文遺跡は何年か前に訪れたことがある。ビーナス像の発掘があっておどろきの遺跡ですが、今回はパス。富士見の方で井戸尻遺跡館などもありましたが、ここもパス。・・はやく諏訪にたどりつきたい一心。

・・茅野の街中で道に迷い、通りがかりの女子高生に声をかけました。道に迷っちゃった。駅はどういくの?と、かわいい子です。はきはきと、頭の良さそうな生徒会の役員でもやれそうな。・・同級生にこんな子がいたらきっとホの字になっていたでしょう。質問の答える声にうっとりしてしまい思わず、場違いな話をしそうになりました。自分のチンケな風体も忘れていて。・・ありがとう。といって去りましたが、なぜか記憶に残る子でした。誰かに似ているか?

 さて、上諏訪のホテルに到着です。

593秋魚:2015/09/18(金) 21:56:40
(無題)
・・諏訪のホテルはたいてい温泉です。一晩中好きに入れるというので、でも二度使っただけです。自転車でアップダウンを何度もやって筋肉痛が来るはずですが、なんともないのは興奮が続いているからでしょうが、湯の癒しもあるでしょう。

 いよいよ本命の伊那に入ります。諏訪湖沿いに岡谷まで行きます。天竜川の開き口でここからずっと伊那谷へ流れだんだんと脇の水流を集め天竜渓谷はそれは見事なものです。(昔の記憶)・・あとは天竜川に沿ってまず辰野まで出ます。それからやはり天竜川沿いに伊那街道をひたすら進めばよいようです。・・岡谷−辰野という道、実はあまり良い道ではないです。特に自転車には。細い上に午前のこの時間、通勤ラッシュの車が続きます。距離も意外と長いです。奥多摩の悪路は経験済みでなんとかこなせるものの勝手のわからぬ初物はいやなものです。

 本命にたどりつくにやや困難な道はどうやっても存在する。岡谷−辰野という道、嫌な道でしたが、なんとかクリアしました。辰野−伊那はだんだん快適になります。辰野から箕輪に入ってこの土地の広いこと。なかなか抜けられなかったのは、早く伊那にたどりつきたかったからでしょう。・・この天竜川に沿って、これはうっかりしていたけれど、糸魚川−静岡構造線をなし、フォッサマグナ「大きい割れ目」の西の端に沿った道のことだった。・・あの八ヶ岳と南アルプスの狭間の平原も釜無し川が流れていましたが、フォッサマグナの構造をつくっています。地質学上の大きな発見があり、今回のツーリングもそこがステージなのに今気づきました。

・・自転車を走らせます。伊那にもう入っているようです。田園風景は、稲穂が金色に実りつつあるようです。記憶が定かではありません。・・この伊那街道、このまままっすぐいけば火山峠に行くはず。はじめに伊那市駅に寄ろうとしました。ガソリンスタンドで右折する道を教えてもらい、ちょうどその交差点に来た時、考えが変わりました。右にいけば伊那市駅、まっすぐなら火山峠。この近辺にミスズの郵便局があるはず。・・井月のお墓に寄ろう。

 近くの郵便局にずかずか入り、順番を無視して事務の人に声をかけました。ミスズに行きたい。郵便局はどこでしょう?若い事務員さんが仕事途中でしたが、ミスズはこの交差点を左折して高遠の方へ行ってください。すこし遠いです。おおまかな位置を教えてもらい、ありがとうをいって、すぐその道に走りました。火山峠のあとに井月のお墓をさがす予定でしたが、急に、お墓に寄りたくなりました。・・伊那から高遠に向う道があります。その途中ミスズの郵便局のあるところで左折しまっすぐいって突き当たりを左折とかざっと地図は頭に入っていました。・・実際ミスズ地区までかなりあり人に何度も尋ねました。坂を登り一段高い平地にでます。もう近いはずですが、耕運機を動かしている人に尋ねるとよく知っていました。にこにこ笑って今度は確実です。

 見晴らしの利く平地の中に一本の木があって、その下に井月のお墓があると頭にあります。この一帯白い花が満面に咲いていて蕎麦の花でしょうか。赤とんぼもちらほら。天竜川の向こうの山並みまで見晴らかせ光の広がりは空と一体でした。・・あの木だろうか?この見える光の風景の全体がステージのようでまさにそのど真ん中に一本の木があります。空気、光、地熱とか一体になって体に染みこんで来るようです。・・近づくと、囲い塀の横に案内板があってまちがいありません、ここに井月は眠っています。

 はるばる来ました。案内板の前に自転車を留めて、やっと来たか。自転車にぽつっと声をかけました。囲いを廻って簡素な墓地に入れます。塩原家の代々のお墓がいくつかあって、一本の木の下に丸い愛想のある墓石がありました。・・井月の墓です。

 なんというか万感の想いがこみあげてきて、墓に手を合わせたり、周囲をうろうろ、しばらくは何もできません。・・火山峠までは自分で歩いていました。そこで倒れてこのミスズの地に眠りにつくまで地元の人のお世話です。墓石も。・・降るとまで人には見せて花曇り。この句が刻まれていて今は磨耗で読めません。・・ペットボトルの水を墓石にかけました。

594秋魚:2015/09/19(土) 13:44:50
(無題)
・・伊那に入ってもう何人か土地の人と言葉を交わしています。土地の方ですか?と尋ねてみなうなずきます。感じのよいこと限りなし。

 さて、ミスズを離れて今度こそ伊那街道を火山峠に向います。途中コンビニで水とパンを補給し、電話をかけられないか尋ねたら、電話ボックスは無いという。お店のケイタイ使ってください。そんな悪いですよ。いいつつお言葉に甘え、駒ヶ根の知人に電話をかけさせて貰った。井月顕彰会の方で、お会いしてすこしでも話がしたい旨話が通っていました。伊那と駒ヶ根の境が火山峠です。これを自転車で越えてお会いしましょう。

・・火山峠、ひやまとうげと読みます。そう簡単ではないらしい。街道のガソリンスタンドで火山峠に行く道たずねたら、峠があってたいへんですよ。諦めをうながすよう。もともと火山峠に行くのが目標だから、道を確認してお礼をいい、黙々と走った。だらだらと坂が続きます。急なのは足つきでこなすのは馴れたもの。途中郵便配達の人にきくと、大変ですよ。国道にまわれば楽な道です。でも、火山峠に行きたいのです。なら行かれてください。登りきれば楽です。

駒ヶ根に行くなら天竜川沿いの国道がよいらしい。火山峠は車なら楽でしょう。自転車をみて、それもロードレーサーではない。やめた方がいい、とみな思うらしい。井月は歩いて峠を越えていた。体が動かなくなって倒れた場所にいってみたかった。井月を芥川に紹介した下島空谷もこの峠を越えている。人の手で葬られた墓ではなく、独力の力尽きた場所を見たかった。

・・途中やはり栗の実が弾けて落ちている。二つ三つ拾ってみた。・・まだかよ。と、ぼやきそうになるが、ここは意地でも登る。ヒルクライムの挑戦ではなく、井月の限界の届かなかった先からのアプローチ。手を伸ばしてみたい。・・そうこうしているうち池のある場所に来た。ここではない。もうすこし上がると、頂上らしいが火山峠の標識はない。そこを下ってゆくと田んぼのあるところに来た。田んぼの畦に倒れたというから、このあたりか。芭蕉の松という木があり、芭蕉の句碑がある。隣にも、井月終焉の地とあり、句碑もある。


火山峠 N35度46分50秒 E137度59分18秒

自宅  N35度46分58秒 E139度14分43秒


青梅御嶽山(神社) N35度46分58秒 E139度8分59秒

御嶽神社奥の院  N35度46分46秒 EE139度8分30秒


・・火山峠の標高の分岐点で、井月は倒れたわけではない。駒ヶ根よりから峠を越えようとして力尽きた。力はあったが、体のコントロールが利かなくなった。よろよろと田んぼの畦に倒れこんだ。

 峠の分岐点をはさんで北側250メートルと南側250メートルのゾーンで井月と自分は生死を分けている。

595秋魚:2015/09/21(月) 17:54:11
(無題)
・・岡谷から特急あずさにいっしょに乗り合わせた人がいる。自転車の置き場所などアドバイスしてもらったりすこし話したりしました。八王子までの帰りというので降車駅もいっしょでした。出張のお仕事の帰りのようで八王子からさらに八高線で飯能にまで行くそうです。田舎ですよと言ってましたがそんなことないです。もっと聞くと美杉台にお住まいとか。・・思わず笑ってしまったのですが、美杉台は飯能随一の高級住宅地。田舎という言葉はあたらない。笑ったのはまずかったかもしれない。・・以前交番の巡査にたしなめられたこと思い出したもので。一期一会というので、巡査との間でどんなおもしろい話があったかついぺらぺらやってしまいました。成木川と入間川という実に美しい川があります。この川の起伏に沿って変化に富んだ自然のウォーキングができます。今の季節なら道端に栗の実が落ちてます。どんぐりの実なども落ちてますけど。栗の方はそのままおいしくいただけます。・・これは田舎というのとはちがいます。

・・足腰の筋肉がひきしまる心地よい筋肉痛が二三日ありました。そうしてパソコンなどで思い出に耽っていると身体の緊張は解かれてまたどこかに出たくなります。

 きょうは飯能の先の日高にある巾着田というところまでサイクリング。昔は一日がかりで出かけたものですが、たぶん一時間とすこしで行けるでしょう。

 巾着田 N35度52分53秒 E139度18分37秒

・・天覧山の脇の道を通ってすぐ秩父へ向う街道に出ます。そこの観光案内所ではまっすぐ3kmほどいけば着くとのこと。歩道の無いせまい場所がありますが、車の渋滞でかえって自転車は安全に走れます。休日なので人はたいへん多い。西武線高麗駅に自転車を留めぶらぶら行列なして出店をみながら歩きます。もう二三日前の平日がよかったかもしれません。盛りをすぎた彼岸花は年増の舞姫のよう。ほんとに人出が多い。きょうはこういう雑踏に入りたい気でした。これだけ人が多いと花の勢いも負けますね。というかたくさんの彼岸花と人の多さのせめぎあいのようでした。

・・巾着の形に高麗川が流れています。近くに高麗神社もありここら一帯は高句麗の若光王が流れ住んだ土地。渡来人の土地です。そういう訳でもないでしょう。見物客の言葉が時折耳に入りますが日本語でないこと多いです。外国人観光客がずっと増えているようですが。

 autoの露光だと、この花まともに写りません。写真マニアもたくさん来ていました。

・・このあたり台村というそうです。巾着田の入口に「水天の碑」というのがあります。これは、天保年代(1830−1844)に繰り返された旱魃、大洪水などの天災を鎮めるために、台村の人々が建立したものという。・・天保期の空気は若年の井月も充分触れている。ここらは毛呂山の川村硯布が近いか。硯布の姨捨紀行というのがあった。

・・お花見を楽しむというのでもないサイクリング。自転車の調子と自分の体の調子を確認してみたかった。青梅坂にはじまりスロープがいくつかあります。・・これにはまったく強くなりました。足つきをせずそのままの姿勢でアップをこなせます。秩父街道を日高へ向かう道。悪路です。一部歩道が無く白線もあるかなきか、ダンプが来るとこわいです。ロードレーサーがこなすようには出来ませんがこれも自己流でこなせます。・・この道は何度か走ってる道でほぼ楽ですね。

 帰り道は、入間川、成木川、小曽木街道へ出るまでに、道端に、栗の実が弾けて落ちてます。土地の人が拾っているようですが、その後にもぽつぽつ。これを拾って帰りました。小曽木の無人野菜売り場では、キュウリを買って、たぶんとても甘いです。

596秋魚:2015/09/25(金) 23:38:30
(無題)
・・今の自分を知るために父を知るべきだろう。父を知るために父の時代、父の父の時代を知る必要がある。父の父は祖父だが、わたしの場合祖父は明治二年生まれ。明治からの日本近代が枢要な課題であろう。・・祖父を知るために祖父の父を知るべきだろう。祖父の父は曾祖父だが、曾祖父を知るために、曾祖父の時代、曾祖父の父、曾祖父の父の時代を知る必要がある。・・曾祖父の父の時代を知るために曾祖父の父の父の時代を知る必要がある。

仮に、曾祖父の時代、曾祖父の父の時代のメルクマールを天保期とすると、曾祖父の父の父の時代は天明期のメルクマールとなる。

597秋魚:2015/09/27(日) 00:13:11
(無題)
・・石清水八幡宮。 北緯34度52分46.8秒 東経135度42分0.2秒

 京都府八幡市八幡高坊30

>・・平安時代前期に八幡宮総本社の宇佐神宮(大分県宇佐市)から勧請された神社で、京都盆地南西の男山(鳩ヶ峰、標高143メートル)山上に鎮座する。

・・「石」「清水」「八幡」 これだけエレメントの揃ったものは裏がありそうですね。

 桂川、宇治川、木津川が合流して淀川になる地点です。長岡京の外れに位置するか。この淀川は、蕪村が 澱河歌三首で詠んでいる。

○春水浮梅花 南流菟合澱
 錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
 錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
○菟水合澱水 交流如一身
 船中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
 船中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
 浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
 妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
 沈(しづみ)てしたがふことあたはず

・・宇治川が淀川(桂川)に合流してゆくモチーフを見てますが、木津川も合流しています。木津川の上流は伊賀でありここは芭蕉も最晩年に舟で降っていったはずです。

 この二人の俳人、長岡京と平安京のブレにまでは思い至らずでしょう。平安京の裏鬼門に石清水八幡宮はつくられました。

 芭蕉は、奥の細道の旅で、石清水を詠んでいます。

「湯泉大明神の相殿に八幡宮を移し奉りて、両神一方に拝まれさせ給ふを

 湯をむすぶ誓ひも同じ石清水
                   (曾良旅日記)

>・・那須湯本の温泉大明神。京都の石清水八幡宮が合祀されているので、ここに参詣し、その社殿の湯を手ですくうと、両神社にお参りしたことになるという。これは湯が結ぶ縁である。

 近江の幻住庵の国分山上には、石清水八幡宮から遷座された聖徳太子堂がある。しかしこれは、明治二年の神仏分離令以来のことだ。

>・・貞観元年(859年)に南都大安寺の僧行教(空海の弟子)が宇佐神宮にて受けた「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託により、翌貞観2年(860年)清和天皇が社殿を造営したのが創建とされる。

・・貞観のはじめ清和天皇の創建というのが、悩ましい。

598秋魚:2015/09/27(日) 10:13:14
(無題)
・・あきるの市菅生にある正勝神社へポタリング。秋川へ向う滝山街道で青梅から満地トンネルを越えるともう近い。・・秋川歌舞伎という明治以来の農村歌舞伎を継承している。以前たまたまこの正勝神社での公演に出くわしたことがある。正勝神社のもっと手前の広場でその神社にはいってみなかった。祭神が正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)という触れ込みで興味をもったが、今回実際訪ねてみると大山祇命が祭神ということでした。「・・創建年不明。 元暦年間(1184〜85)武蔵七党のうち横山党に属する菅生氏の祈願所であったという。」本殿は元禄四年に造営、上屋拝殿これは天保十三年に造営。・・元禄四年といえば芭蕉が前年に幻住庵を出庵したあと京都奈良滋賀を徘徊してまわった年。十月美濃垂井の規外の本龍寺に滞在。「作りなす庭をいさむる時雨かな」このあと江戸にもどる。

・・天保十三年(1842)
6.22 七代目市川団十郎、奢侈で江戸から追放される
7.1 水戸藩、偕楽園を構築
7.23 異国船打ち払いの方針を、薪水を与えて立ち去らせるように指示
8.3 川越、忍、今治三藩に江戸湾岸の警備を指示
10.2 高島秋帆、外国人との交友の罪で入牢する(冤罪)
11.24 佐久間象山、老中・真田幸貫に海防八策を上書
12.24 羽田、下田に奉行所を設置
12月 水戸藩、大砲鋳造により梵鐘を徴発

・・天保十四年(1843)なら、芭蕉百五十回忌。

宝物として、神社なのに十一面観音像がある。また水盥一個、天保十四年七月吉日信陽高遠保科保正と銘あり。この石工銘は青梅の住吉神社の碑にも記されてあり。信陽は長野県のこと。伊那谷の石工が1843年頃あきる野青梅で活躍していたことがわかります。(大発見!)

 正勝神社  N35度45分26秒 E139度16分39秒

・・この滝山街道を右折すると菅生の正勝神社。左折すると草花通りというのがありずっと多摩川に向う。青梅とあきる野を分かつ草花丘陵というのがあり、このあたりの散策はやってなかった。よい機会で左折した。この丘陵の裏手、多摩川に接するあたり、羽村の郷土館があるはず。玉川上水引き込み口の南側になる。交通の便はよくないがのどかな自然にめぐまれてよい里山になっている。はじめての道というのはいつも新鮮でうれしいもの。人にたずねながら羽村の上水郷土館に着いた。・・玉川上水建立が目玉のようだが、もうひとつ「大菩薩峠」の作家中里介山の生地という。この向こうの水車小屋で生まれたとか。

 中里介山 1885年(明治18年) - 1944年(昭和19年)

・・いまの青梅街道。江戸の頃はダムもなかったから多摩川に沿った道があって、深山橋のあたりから大きく北西に迂回して柳沢峠に至る道ではなく、そのまま大菩薩峠に至る山道が本道であったかと。ともかく鳩ノ巣の先数馬の切り通しあたりでも馬は通れない。映画のなかでも女子の旅人が足場をくずすシーンが記憶にある。はじめに奥多摩をこえて甲州市までゆく大菩薩峠の小説は、魅惑。吉川英治、川合玉堂などほんの入口のところで風光を愛でていた感がある。かくいう自分も大菩薩峠は未踏であり、柳沢峠にもいっていない。ともかく普通の甲州路への旅として昔はあったとは思うものの、今でも大変な険路。・・先日20号の甲州街道、高尾から塩山は輪行だったけれど、やはり山が入り組んでいて昔の街道は険しかったにちがいない。大垂水峠なんてまったく嫌な道だった。・・この青梅街道、志あるものは必ず甲州まで歩いていったにちがいあるまい。中里介山は59歳で没するまで実に多くの仕事をした。未完の長編小説「大菩薩峠」を書き続けただけでも頭が下がる。・・高尾山麓や御岳山中にも庵をむすんで夢を果たそうとした。御岳山は自分もよく訪れるようになったが、ここもそう簡単ではない。とりわけ居住というのは、勇気がいる。介山がそういう仕事を易々とやったのではないのはわかる。しかし結果として仕事を残したというのはやはり頭が下がる。

 見習いたいものが多い。

599秋魚:2015/09/29(火) 01:50:03
(無題)
 航海の女神はイシスでしょう。

 船の舳先に立つのはあやういものです。

>・・イシスは永遠の処女であり、オシリス(夫であり兄)の死後
処女のまま息子ホルスを身ごもったとされ
「天上の聖母」「星の母」「海の母」などと言われ
「ホルスに乳を与えるイシス女神」像などが
イエスの母・マリアへの信仰の元になったと言われています。

・・サント=マリー=ド=ラ=メール(Saintes-Maries-de-la-Mer)は、ブーシュ=デュ=ローヌ県アルル郡の都市。

 ナザレのイエスが磔刑に処せられた後、マグダラのマリア、マリア・サロメ、マリア・ヤコベ、従者のサラ、マルタ、ラザロたちが、エルサレムから小舟で逃れてこの地へと流れ着いた。彼女たちのうち、マリア・ヤコベとマリア・サロメの2人とこれに従うサラがこの地に残った。

・・伝説では、マグダラのマリアはサント=ボーム山塊へ、マルタはタラスコンへ赴いたとされており、


 このマグダラのマリアが、イエスの妻であり子を身籠っていたという真面目な話があります。

600秋魚:2015/10/03(土) 20:23:38
(無題)
・・自転車の遠乗りもステップアップすると大変なエネルギーを使う。今回のツーリングでよくわかった。自転車本体の解体−組立てとかハードの作業は勇気のいるものだ。最低限のレベルは身に付いたとは思う。

・・ハードといえば、パソコンのハードいじりも長らくやってない。IT関連はハードもソフトも短期無関心でいるとどんどん遅れをとってわからなくなる。以前職場に詳しい人がいていろいろ教わったが、パソコン創作をすすめてくれた。これはよほどお金とヒマに恵まれないと実践できそうにない。・・ノートパソコンの寿命は使い方にもよるが5〜6年だそうで短いものだ。ハードディスクのデータファイル容量も巨大なものがどんどんでてる。容量いっぱいになるまえにパソコンが壊れることが多い。マシーンのハードが壊れるのでなくディスクがウイルスとかファイル誤作動で壊れるケースは何度かあった。これの修復は何度かやって今のパソコンは十年近く使っている。・・基本ソフトのアプリケーションも使いこなせてないものが多い。インターネットのページをwordやpdfファイルに変換するのにチャレンジしてみた。いともたやすくやってる人にはつまらない話でしょう。

・・王様writerというチャイナ系の文書作成ソフトがある。ずっと以前中古のパソコンを購入したとき付属していたものだ。王様officeといってまるで何か某ブランドソフトのパクリのようだが、よく出来ている。ほとんど使ってなかったので、そう思うのはつい最近のこと。・・pdfファイルというのは気に入ってる。wordファイルをpdfファイルに変換するのに、この王様writerはいとも容易だ。wordは昔は画像も組み込めなかった。いまは組み込めるがバランスがよくない。これをpdfファイルに変換するとまったくきれいな文書ファイルになる。インターネットのページをpdfまでもってゆくには、コピーでwordに写す必要がある。いろいろやってみたが、完璧なpdfになる。

・・王様officeはよいとしても、王様securityは要注意!詳細はいえないがこれのおかげでハードディスクが破損したことがある。王様ソフトにだけ問題があるのではない。よくわからないことは、黙するしかないわけだが。

601秋魚:2015/10/05(月) 00:22:21
(無題)
方舟 長水に戯る
湛澹 自ら浮沈す
絃歌 中流に發す
悲響 餘音あり
音聲 君が懐に入る
悽愴 人心を傷ましむ
心傷 安に念ふ所ぞ
但願ふ 恩情の深からんことを
願はくは 晨風鳥となりて
雙飛 北林に翔けむ

602秋魚:2015/10/14(水) 20:02:57
(無題)
・・今日は疲れた。伊那のツーリング以後自転車の整備もしてなかった。チェーンとギアの清掃と注油をするなど思い出して整備。どこかにポタリングしようと、そうだ!都幾川の慈光寺がいい。以前高崎に行った時は天気もわるくゆとりもなかった。慈光寺はちょっと寄るなんて気安い訪ね方はできない。ときがわに入ってから左折して9キロほど山の中に入る。都幾山という山の上にある。ネットの記事では春先が断然よさそうだ。秋は秋でいいらしい。今は季節外れの気もするが、思い立ったら吉日。朝遅めに家を出た。

・・距離は高崎の半分くらいか。一度は経験済みの道はいたって自信がある。まわりの景色もよくみれるようになった。宮沢湖の温泉キラリまでは一時間ちょっとでいける。高麗神社ももうすこし先だ。この辺は日高という。毛呂山は武者小路実篤が新しき村とかをはじめた土地で記念館があるようだ。看板をみかけたが訪れてはいない。春秋庵を継いだ川村硯布の生地でしぶい俳句をつくる。芭蕉句碑のある川角八幡には前回訪れたがこわい神主さんがいた。このあたりまた別件で散策したい。毛呂山の埼玉医大のあるところまでは車も多くあまりよい道ではない。ここからは道幅も広く快適な走りができる。飯能小川線の道路は毛呂山越生がたいへん長く感じられる。越生は梅林で名高いが、途中梅林へ向う道がいくつもある。街道を逸れて山の方に向うらしい。ダンプがたくさん来るのは吉野街道で慣れてはいたが、この街道もけっこうなものだった。越生を過ぎるとときがわで今は都幾川とはいわないらしい。アップダウンの坂はいくつかある。田中交差点のところで左折。すこしアップの道を9キロだという。途中中学生のランニングの指導をしてる先生に道を尋ねた。山に入るに右折しなければならずそこからが急な坂道になる。これが3キロ。

・・田中交差点から慈光寺に向う道では、正装したサイクリストがちらほら。品川ナンバーのライダーも来ていた。車もすくなくスロープがきつくなる道にしてもヒルクライムではかっこうの道。名の通った道なのかもしれない。まあ自分は足つきで自転車を引いて歩いたけれど。

・・最初に青石板の碑が並ぶところに来た。ここは変わったものがいっぱいあってちょっと寄っただけでは消化できない感じだ。参道には桜の木があってこれが春にはいいらしい。あとシャガの草も群生している。これの花も四月末とか。季節はずれでほとんど人もいないと思いきや上ではやはり訪ね人がいましたね。

・・そうそう参道にのぼる前に女人堂という古風なお堂がありました。これの由来がおもしろい。この慈光寺には「慈光寺経」という国宝があります。この由来もおもしろいのですが、さておき、その慈光寺経のうち「装飾法華経提婆達多品」というのがあります。この本文には、サーガラ竜王の娘が、解悟(さとり)に達したことに、釈迦の高弟サーリプトラ(舎利弗)が、疑義をはさむが、彼女は、これを論破して、衆生に法を説き、解悟(さとり)をえさせて信受させてゆく物語がある。この故に女人成仏の経巻として、古来よりあまた女人の信仰篤いものという。・・慈光寺の平安初期は女人禁制のため慈光坂の途中に建立。

 本経の結縁者は、文永七年(1270)の一品経書写次第に吉祥御前とある。

見返し絵は、金箔、砂子を霞濃淡に横断させた上に、墨絵による松、柳、もみじを描き、下方に芦、おみなえしと岩を配している。この絵の中に、「法華経序品」の「或有諸比丘、精進持浄戒、猶如護明珠」の文字が芦手絵風に見え隠れする。・・

・・青石塔婆という石碑の裏あたりに芭蕉の句碑があったらしい。これは探したのだが遂にわからなかった。木の幹に埋もれるように画像を記憶していた。「あかあかと日はつれなくも秋の風」、上にあがって管理の坊さんにも尋ねたが、実際わからなかった。なんでも一緒にあった木が枯れたので移したような旨。広い境内でくまぐま見て廻ることもできず、次回の楽しみに句碑はあきらめた。

・・開山堂がある。天武天皇の白鳳二年(673年) 釈道忠慈光寺を開山。開山堂は国指定重要文化財慈光寺開山塔の覆堂である。

・・平成二年、鐘楼再建。銅鐘寛文三年(1245年)5月18日、鋳造。この鐘、椎鐘とある。この表記あちこちで見られるのだが、正式な意味不明。椎はツチのことで叩いて鳴らす鐘の意のようだが。

・・芭蕉「幻住庵ノ記」に、「まずたのむ椎の木もあり夏木立」とあり、これは実の椎の木ばかりと思っていたが、ひょっとしてこの椎鐘とつながるのかと、思わぬ思索が広がった。

・・良寛や空海の書を参道に展示してあるのは、何故だろう。そう思ったが悪くはない。般若心経とかで、書体を見るものだろう。気がせいてじっくり鑑賞できないのが、残念。時の鐘があって、ちょうど正午の鐘が鳴っていた。

・・本堂とかいろいろ見るべきものが多そうだ。ぎたぎたしたお寺ではないが、山の中をあちこち廻らねばならぬので、疲れてもきた。本堂はあまり覚えが無い。観音堂というのは、魅するものがある。千手観音像が本尊か。・・もうひとつ国宝となってる慈光寺経を見たかった。で、どういうわけか模造かと思われるその経を展示してあるところにきた。これももうじっくり鑑賞なんて気もおこらない。この慈光寺経の一部は山麓の女人堂のもの。歌詠みの九条義経の供養に後鳥羽上皇の発願で奉納された由。装飾経の全体はどんなものかなんとなく鑑賞するので手一杯。写真をぽつぽつ。

・・この慈光寺。七井、七石、七木がある。それぞれ云われがあるが、月の井だけ見る。

「・・役行者として有名な役小角が慈光寺に登り、仏法を広めるための守護を神明に祈りました。するとこの井戸の水面に映る月輪の内に蔵王権現が現れ、役小角にその誓約をしたとのことです。以来、この井戸を「月の井」と呼ぶようになったそうです。

 ひょっとして井月はここにも訪れているのではないか?

・・毛呂山の俳人川村硯布がここを訪れてる気がした。青梅の真浄寺には時雨桜の碑もあって句を残している。都幾川の慈光寺は天台の名刹ゆえか田舎でも歌人俳人はきっと訪れる。善光寺詣を残した硯布もきっと訪れるはずと思うものだが。ただし句を詠んだかどうかはわからない。・・慈光寺は謎も多いか。

 春先にでも再訪しようと思い、この日は、下山にかかった。参道のスロープは下りなのでまったく楽だ。ハイキング、登山などで体調がくずれるのは大方アップにかかる登り道だろう。気圧の変化で急に耳鳴りがしたりする。火山峠で井月が倒れたのも峠越えをする手前のことだろう。下り帰路というのは心身ともに安らぎが多い。・・田中交差点から小川の方へ向い、噂の玉川温泉に寄ることにした。ここらの温泉いくつかあるが、湯量豊富で良質のアルカリ性単純泉がでるという。日本最高ペーハーとかの都幾川温泉は位が高く今日は見送り、庶民的な日帰り玉川温泉をめざした。ときがわといっても山の方でなくゴルフ場などある里山の外れの方だった。周囲はゴルフ場もあるらしいが森と田園ばかりでこんなところに人が集まるのかすこし不安。

 すこし離れていてまったくの田舎道。着いてみると車の客が多い。というか下町の銀座並にがやがやざわついている。丁度お昼時だからだろうか。・・ここはいわゆる静かな温泉ではない。まったく元気いっぱい。わたしのように落ち込んだ者には面食らうものがある。それはそれでかえって嬉しい。・・評判のように湯質はとてもよい。ペーハー10.1という最高純度。秋川の瀬音の湯とほぼ同じ水準。湯量が多い分こちらの方がよく見える。

・・レストランで「おふろ甲子園」の記事を載せるフリーペーパーを手にした。先日伊那にいったとき塩尻の信州健康ランドにも寄ろうとしたが、ここは「おふろ甲子園」という大会で優勝したとか聞いていた。おふろのコンテストがあるのもよく知らなかった。この玉川温泉もこれに参加しているらしい。道理で番台さん(?)も元気なはずだ。静かにしている自分が恥ずかしくなるくらい。温泉というのは元来こういうものかもしれない。・・しかしこの温泉の流行は何であろうか?です。

603秋魚:2015/10/23(金) 00:29:58
(無題)
・・健康検診。たいへんな良化。あれだけ自転車に乗って温泉に湯浴みして悪くなるはずがない。空気が一番大切です。呼吸器系の運動は肉体を動かしてはじめて調節される。肉体は眺めていて有るものではないです。動かさねば。舞踏家の公演ほど退屈なものはない。空気は場所を選ばないと肉体を動かしてもエネルギーの消耗でしょう。職場の空気はまず変えられません。生命の危険を感じたら即座に離職するべきです。自転車操業に切り替えるべきです。

・・ハートの重要性。ハートとは心臓のことです。するとすぐそうではないという人がいます。肉体の血液循環の原動力は心臓にあります。ハートとは心臓のことです。見えないのをよいことにハートは心臓ではないといいます。ハートは物質ではないようです。ハートは心臓でしょう。自転車に乗るとよくわかります。

・・喫煙者の近くで心臓が痛くなるのは、何故か、しばらく不思議でした。煙草の煙は一酸化炭素を排出します。肺に入るとヘモグロビンと結合してドロっとした血になるそうです。この血がもう一度心臓に送り返されて弁とか近くの脈血管で障害を起こします。心筋梗塞というのはたぶんこのあたりの病でしょう。素人なので不案内ですが。

・・不完全右脚ブロックを指摘されたことがあります。一種の不整脈ですが、喫煙者がよくなるとか。わたしは喫煙はしません。これは二種類あるようです。ひとつは先天的病で手術も必要とするもの。もうひとつは気まぐれ病で心臓に負担をかけなければ表に出ないもの。たぶんわたしは後者のもの。この二年ほどは何もありません。理由もわかっています。いずれまた。

・・健康検診。ともかく良好でした。血の病はありません。

・・告白という言葉も古いでしょう。古い言葉告解に含意されることばでしょう。カトリックの教会に告解をする小部屋があります。簡易的なものは告白をする人、聴聞する司祭が幕で仕切られ顔をみないで声だけでなされます。聴聞する司祭も人間ですから告白すべきものを多くもっています。宗教上のシステムですから神を背にして人は透明になれるでしょう。それを信じて人は告白します。・・聴聞司祭はただ相手の告白を聴くだけ。いっさい自分を語らない。それが賢明な仕事です。

・・ところが、透明な司祭が自分を語り始める。というか教会ではありませんから自由に人は自己愛も他己愛も語れます。無神論があたりまえになった近代以降の告白劇はいくらでもバリュエーションがあるでしょう。なんといいますか、ああいえばこういう、ああいったりこういったり。心ある人からするとただのおしゃべりでしょう。うんざりだ、がまんならない!

・・ある種、神を背に持つ人は幸せですね。自分はもう告白する必要がありませんから。神と一心同体。神との婚姻を誓っているようです。

604秋魚:2015/10/29(木) 21:08:23
(無題)
「梅子熟せりや」

「桃の青きが如し」


・・芭蕉が深川で訪ねた仏頂和尚との問答。

「梅子熟せりや」は、大梅法常の師のことば。師は馬祖道一。709年(景龍3年) - 788年(貞元4年)

公案の語録では、「梅子熟也」。

也  ・・訓読み なり や また かな 音読み ヤ

成り立ち 象形#2#3#4 漢字構成 也 発音 yě 表示 U+4E5F也 部首 乙+2画

字源

ヤ#5

なり、決定の辭、句の終に置く。*1

上を結ぶ辭。*2

下を起す辭。*3

か・や、疑問の辭。*4

や、呼びかけに用ふ。*5

語勢を?める爲めに用ふる助字。*6

かな(哉)詠歎の辭。*7

また、發語の辭、多く詩又は俗語に用ふ、亦よりは輕し。*8

音韻

広韻目次:上35馬
IPAj?a
ローマ字jax/jaa
反切羊者
声母以
声調上声
小韻野
平水韻馬
等呼開口三等韻
韻摂假
韻部麻



・・や、かな  発句の切れ字。

馬祖道一は、箕をつくる家だった。

http://

605秋魚:2015/10/31(土) 14:22:48
(無題)
・・ひさしぶりに多摩川サイクリングロードを走ってみた。中流域のCRはほんとによく整備されている。サイクリングのはじめがこの中流域だったからめぐまれていた。自転車を自分のペースでただ走らせばよい。ではなく、自転車と相談しながら走る。機械と自分の体調を確かめあう。肉体のトレーニングのほか精神のリフレッシュニングもある。バランスと緊張で無心で走る、というのは正確でない。二度三度と走りなれた道ならひとつふたつの想念とも遊べる。

・・この日もひとつふたつ気づきがあった。このサイクリングロードしばらく走ってなかった。パンクがこわいので道のどんな凹凸も記憶しているつもりだった。はじめての道がまったく緊張するのは、ハメられることが多いからだ。標識の読み違えで道をまちがえたり、パンクが仕掛けられたり、もっともっとささいな事でもいろいろある。・・多摩川CRはまったく気楽には違いなかったが、微妙に道筋も風景も変化しているのに気がついた。サイクリングロードにあがるまでの迷路のような道筋もすべてマスターしているつもりだったが、今回も道を失った。ひと月ほどを空けての再走ならまだいい。三四か月ならそれなりの変化がある。ほかの体験だが数年ぶりとかではウラシマさんほどのこともある。

・・川べりの途中に一本の目立つ木がある。木の形状とかはあまり変化しないので、あああの木がある。木の下で何かのグループが集会を開いている。グランドで何かしているようだ。その木はなんの木かわからない。このCR沿いには幾つか魅する木がある。どれも名前を知らないものばかり。きょうはこの一本だけ追究してみることにした。そう思ったのはサイクリングからの帰路。もう日の落ちかかる頃だった。

 柳というのが第一感。しかし幹が太すぎはしまいか。枝垂れ柳のしなやかさに見慣れていたので、たぶん柳ではないと思った。木の種別についてはど素人もいいとこ。青春時代は抽象観念の追求に明け暮れていたから、事物の具体について驚くほど無知なままできた。この木はなにか?

・・この木の下。実は人が大勢いました。写真を一枚とるべきでしたね。人を無視して木ばかり追求したのはまずかった。・・というのも最近「木の下」「花の下」というのが気になっていました。雨が降ると小雨なら大きな葉の茂った木の下で雨宿りができます。夏盛りの木の下では涼しさに浸れます。椎の木、樫の木など、清潔な木がよいです。秋から冬にかけて、この木はたぶん落葉樹でしょう。

 柳の一種と思い、ギョリュウというのを見てみた。御柳、聖柳、タマリスクという。喬木で大木はないらしい。葉の形状も縮れている。花も満面に開花。楊貴妃が好んでいたという。

 柳は種類多く、水辺を好むものらしい。枝垂れ柳は大木ではないが、大きくなる柳もあるという。

ハコヤナギ、白楊というのも見てみた。大きくなるが、葉の形状がどうも。あの木は葉だけは、枝垂れ柳と似ている。

606秋魚:2015/11/07(土) 20:41:50
(無題)
・・寒くなってきた。「孤独な散歩者の夢想」ならぬ寒い温泉サイクリストも夢想に工夫がいる季節になる。先人の旅の記録、たとえば芭蕉の「笈の小文」など読むと、自転車のポタリングにも思考に刺激を受けることもある。

 奈良の吉野山は歌枕、吉野山といえば花。この吉野山に花見詣でをするに、いくつか花見スタイルの歌がある。

昔たれかゝる桜のたねをうゑて吉野を春の山となしけむ(良経)
吉野山こぞの枝折の道かへてまだ見ぬ方の花を尋ねむ(西行)
これはこれはとばかり花の吉野山(貞室)

「笈の小文」では、文中にはないこの三つの歌が芭蕉の脳裏にあった。(失礼!ひとつは句です)

・・弥生半過る程、そぞろにうき立心の花の、我を道引枝折となりて、よしのの花におもひ立たんとするに、かの・・

思い立つはじめが「花の枝折」であるから、芭蕉のポタリングは西行のそれにもっとも近い。

九条良経は新古今の正統派の歌人。桜の種を植えるなど誰が夢想するかとも思うが、歌枕は大昔からあったわけでないフィクションだからそういう虚実をみすえる目は血統よろしくないとできないかも。

新古今の総帥にいた後鳥羽院の歌に吉野を詠んだものがある。

最勝四天王院の障子に、吉野山かきたる所

          太上天皇(後鳥羽院)

み吉野の高嶺の桜散りにけりあらしも白き春のあけぼの

・・花にあらしの喩え。・・俗人にははやくも思考が停止するが。

いづれも、正統派中の正統派、高嶺の桜とはよくいったものです。

・・これはこれはとばかり花の吉野山(貞室)

安原貞室は貞徳門下の俊秀。似非古今伝授の流れです。が、いかにも俳諧らしい。
われわれ俗人の花見はおおかたこんなものではないでしょうか?

七部集「曠野」の巻頭というので紐解いてみました。なるほどこれなら連俳で遊べるでしょうか。

自分のポタリングは芭蕉西行と同じ嗜好の枝折の道だというのが、発見!

607秋魚:2015/11/09(月) 00:42:32
(無題)
「きえたものなり あれのかな 山すでに水おもしろし遅ざくら」

建部綾足(1719〜1774)

・・青梅の梅岩寺にある石碑に刻まれている。「七・五 五・七・五」片歌を提唱していた。

なんとも雅致ある歌ではないか?

608秋魚:2015/11/14(土) 21:42:44
(無題)
・・江戸中期青梅にあらわれた二人の俳諧師。建部綾足と中原章。このうち綾足は絵画もよくして俳諧は片歌に闖入してゆき小説も書いた。中原章はむしろ複合文化人。学問をよくし和歌に秀でたといわれる。

 綾足は俳諧結社の才があり自らは吸露庵を営む。多摩武蔵千葉に多くの門弟がいたという。蕉門十哲のうち野坡に入門、当時のやはり十哲のひとり支考の美濃派に対抗していた。
綾足は江戸では国学の賀茂真淵に師事し万葉の世界に傾き、ヤマトタケルのはじめの連歌から片歌を自己の様式とした。芭蕉に敬意をもっていたが、後年は蕉翁の相対化をはかった。

青梅の梅岩寺に綾足の石碑がある。弟子の根岸涼宇が建てたもの。

「きえたものなり あれのかな 山すでに水おもしろし遅ざくら」

建部綾足(1719〜1774)

「俳仙窟」という紀行俳論は長崎への画家修業の帰り道になったものらしく、青梅とは直接関わりがない。にもかかわらず、俳仙窟という庵は青梅に生まれた。
 その名は、唐の時代、遣唐使がもちかえったといわれる「遊仙窟」という小説のもじりであろう。黄河の上流を尋ねる貴公子が途中幽仙に迷い込み思わぬ乙姫の歓待をうけるという内容らしい。

・・深川芭蕉庵の近くにある臨川寺は、仏頂和尚との問答「梅子熟せりや」「桃の青きが如し」で思考をそそる。ほかに美濃派支考の弟子神谷玄武の建てた「墨直しの碑」がある。京の双林寺にあるものをコピーしたものだ。

<表面>

我が師伊賀の国に生まれて承応の頃より藤堂の家につかふ。その先は桃地の党とかや。今の氏は松尾なりけり。年また四十の老をまたず、武陵の深川に世を遁れて、世に芭蕉の翁とは人のもてはやしたる名なるべし。道はつとめて今日の変化をしり、俳諧は遊びて行脚の便りを求むというべし。されば松嶋は明けぼのの花に笑ひ、象潟(きさがた)はゆふべの雨に泣くとこそ。富士よし野の名に対して「われに一字の作なし」とは、古をつたへいまをしふるの辞(ことば)にぞ。漂泊すでに二十(はた)とせの秋暮れて難波の浦に世をみはてけん。其頃は神無月の中の二日なりけり。さるを湖水のほとりにその魂をとめて、かの木曽寺の苔の下に千歳の名は朽ちざらまし。東華坊ここに此碑を造る事は頓阿西行に法筵を結びて、道に七字の心を伝ふべきとなり。


あづさ弓 武さしの国の 名にしあふ 世に墨染の 先にたつ

人にあらずに ありし世の 言の葉はみな 声ありて その玉川の

みなかみの 水のこころぞ 汲てしる 六すじ五すじ たてよこに

流れてすえば ふか川や この世を露の おきてねて その陰たのむ

その葉だに いつ秋風の やぶりけむ その名ばかりに とささをきぬ

春をかがみの 人も見ぬ 身を難波津の 花とさく はなの鏡に

夢ぞ覚(さめ)ぬる


<裏面>

 維石不言(このいしいわず)  謎文以伝(なぞぶんもってつたふ


「・・その玉川の

みなかみの 水のこころぞ 汲てしる 六すじ五すじ たてよこに」

この玉川の水上を、芭蕉も支考も直接には尋ねていまい。末の方で探ることをいう。

「・・春をかがみの 人も見ぬ 身を難波津の 花とさく はなの鏡に

夢ぞ覚(さめ)ぬる 」

・・「難波津の 花」には歌詠みはよく知る典拠があります。

「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」

この歌の作者は、王仁。

・・古事記には和邇吉師(わにきし)とある。応神天皇の時代に百済より来朝。『論語』『千字文』を伝来し、皇太子宇治稚郎子(うじのわきいらつこ)に典籍を講読したと伝わる。


 おそらく支考の観念では、俳諧の源流はこの王仁の「難波津の 花」に求めたのではないか。古今集の仮名序で紀貫之が採りあげています。

609秋魚:2015/11/16(月) 20:59:13
(無題)
「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」

この歌の作者は、王仁。・・この歌と対をなすのが、宇治稚郎子の歌であろう。

>・・天皇が崩じたが、郎子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合った。そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが太子に立てなかったことを恨み、郎子を殺そうと挙兵した。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知して郎子に伝え、大山守皇子はかえって郎子の謀略に遭って殺された。その際、大山守皇子の遺骸に向けて次の歌を詠んだ

・・ちはや人 宇治の渡りに 渡り瀬に 立てる 梓弓檀 い伐らむと 心は思へど い取らむと 心は思へど 本方は 君を思ひ出 末方は 妹を思ひ出 苛けく 其処に思ひ出 愛しけく 此処に思ひ出 い伐らずそ来る 梓弓檀

>・・宇治稚郎子

 菟道稚郎子とも書く。応神天皇の末子。母は和珥臣の祖、日触使主(ひふれのおみ)の娘、宮主宅媛(みやぬしやかひめ)(古事記では宮主矢河比売)。応神十六年、百済より来朝した王仁に典籍を学ぶ。父応神に寵愛され、同四十年、天の日継と定められる。翌年父帝が崩御すると、大雀命と王位を譲り合ったが、先に亡くなったので、大雀命が即位することとなった(仁徳天皇)。

・・好むと好まざるにかかわらず、権力闘争に巻き込まれると「殺すか殺されるか」の選択になった宇治稚郎子は異母兄の大山守皇子を殺すことになる。この歌は出家遁走を匂わす。

・・名前の「ウジ・ウヂ(莵道/宇遅)」は、京都府南部の地名「宇治」と関係する。「宇治」の地名は古くは「宇遅」「莵道」「兎道」などとも表記されたが、平安時代に「宇治」に定着したとされている

・・地名「宇治」について、『山城国風土記』逸文では、菟道稚郎子の宮が営まれたことが地名の由来としている。

・・北・東・南を山で囲まれて西には巨椋池が広がるという地理的な奥まりを示す「内(うち)」や、宇治を中心とした地方権力によるという政治的な意味での「内」が、「宇治」の由来と考えられている[4][5]。実際、宇治はヤマト王権の最北端という影響の受けにくい位置にあることに加え、菟道稚郎子の説話や「宇治天皇」という表現からも、宇治に1つの政治権力があったものと推測されている

・・文字通り「兎(ウサギ)の群れが通って道になった」ことを「莵道」の由来とする南方熊楠による説もある。



・・遁世の歌人、西行などが花ばかりを追ったのはたしかに理由があろう。

花見ればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける
花に染(そ)む心のいかでのこりけむ捨て果ててきと思ふわが身に
願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ

610秋魚:2015/11/18(水) 00:02:02
(無題)
・・秋が深まり、今年最後のポタリングを、奥多摩にゆきたい。一昨年の満を持した紅葉の川のぼりが思い出される。旬の盛りの季節に紅葉の道を歩くというのはむずかしいものだ。本、中、末の道行きですべてが同じ旬を描いているわけではない。紅葉というのもすでに誤謬がある。黄葉、紅葉と二色ある。黄、紅の中間は無限にある。・・いつか旬をねらって失敗したのが五色沼。情報につられて早歩きした。が、そうでもなく奥に入ると綾錦。あれはあれでよかった。・・真っ赤に染まるのは漆と思っていたが、否、漆は黄である。桜の落葉は早い。銀杏の黄はみごとだが雪がふったりすると見映えもいい。雪は胸をきゅんとする。シェルブールの雨傘という映画は胸がきゅんとする。雪のガソリンスタンドだけど。

・・号泣、慟哭というのも、やってみた。よく晴れていて蕎麦の畑の真ん中だった。一本檜のようなのもあった。ひれふして大地をどんどんと叩きながら、ウォーと声をあげる。どこまでも鳴り響くかのように、どんどん。ウォー、ー。(こういう描写下手です)

・・号泣、慟哭は、カタルシスですね。

宮澤賢治の詩に「無声慟哭」というのがあるのを思い出した。気恥ずかしいので引きませんが、「わたくし」と「おまえ」の分裂が慟哭を呼ぶのですね。無声というのはいかにも詩人だが、声ある慟哭は一度でよいから経験したい。

611秋魚:2015/11/24(火) 00:28:28
(無題)
・・どうも空中楼閣のようなところにいる気がしてならない。インフラの逆襲みたいな感じがつづく。自転車にも乗れない。

・・「横しぐれ」という小説は山頭火のことをいうようだ。山頭火は「しぐれ」の句が多いというが、芭蕉の嗜好をそのまま引き継いだかのよう。しぐれというのは冬の季語で、かりそめにも雨であるから、自分にはしんどい。しぐれへの愛というのは、やはりしんどい。芭蕉は愛などという言葉はいっさい使うまい。横しぐれというのは愛でもなんでもない。強烈な雨あたりのことでしょう。自分にはしんどい。

・・花を愛で慕った西行はよくわかる。草が化けるのが花でしょう。化生の人ですね、西行は。芭蕉を慕った井月は、どちらかというと花の嗜好ですね。芭蕉を通して西行を見ていたでしょう。西行も井月も出自は武士というのがあるかもしれない。自己の忘却を誘うものこそ花という。捨てるべきものは弓と刀なり。・・化生というのもエロスがあるが、実はしんどい。天竜川で舟に乗ろうとした西行は、船頭に「数が多いのでおまえは降りろ」とこつつかれる。武士のプライドはもうなかったから、そこはじっと耐えたそうだ。化生はある意味では場違いの連続になるかもしれない。

・・双子の赤ちゃんが胎内で話し合う。ひとりは、この胎内の生活を極上と思い一生ここに留まることをいう。もうひとりは、この胎内から外に出て新しい空気の世界で生きることをいう。これは何かのたとえ話で語られたようだが、どうも無理があるように思えてならない。赤ちゃんが胎内から出ないというのは、既に異常である。赤ちゃんは死産として排出されるか、あるいは、母体も生存があぶない。赤ちゃんは生きて外に出るのが正常な在り方だ。


故郷有母秋風涙
旅館無人暮雨魂 (源為憲)

思ひ出でよたが兼言のすゑならむきのふの雲のあとの山風 (家隆)

612秋魚:2015/11/27(金) 16:51:42
(無題)
・・「るろうに剣心」という映画。「京都大火編」というのおもしろそうだ。テレビ放映があったようだが、あいにく観ていない。作者が新潟の長岡市出身という。登場人物に長岡の地名など織り込まれているらしい。江戸の頃から長岡もとても火事の多い土地だ。先の戦争では空襲で多く焼かれた。文化的資料も多く失われている。互尊文庫という古文書館が今でもあってそれでも貴重なものが集められている。

・・映画は京都大火というから天明の大火が舞台ではないか。天明期というのは、多くの俳人の活発な動きがあって興味深い。

・・きょうは奥多摩まで紅葉狩り。といえば聞こえはいいが、足馴らし気分転換のポタリング。寒くなってきたので体を動かしたい。呼吸器系の運動は、血液循環をよくし体細胞を活性化する。精神の更新につながる。・・きのうの雨はやはり時雨というのだろうか。旅先でこんな雨に出会ったらたまらない。時雨というのは、翌日晴れたらなんと嬉しいことか外に出たくなった。芭蕉の嗜好、すこしわかってきた。

・・今年の紅葉はまったく不作。どれもこれも完全な色づきの前に枯れ散るふうだ。これからかという感じもあるが、なにか寒いばかりだ。・・柚子の実りはとてもいい。これは救い。青梅街道も殺伐としてるのは平日だからだろうか。御岳から先は歩道も無く一部道幅も細くあぶない区間がある。この道もだいぶ馴れてはきた。・・鳩ノ巣荘という国民宿舎は、以前工事中だったが、どうやら完成したらしい。白丸ダムのところに大きなクレーンがあって大きな工事があるらしい。あちこちトンネルの中も工事があっていろいろインフラも老朽化がすすんでいるようだ。数馬峡の景色はすばらしいものだったが、知らないうちに通り過ぎてしまっていた。もうもえぎの湯のあるあたりに来て奥多摩駅が近い。予定はぜんぜん立ててなかったけど、奥多摩湖に向うむかし道コースをいけるとこまでいくことにした。ここは二三度走っている。

・・むかし道は旧青梅街道という。ここをずっといって奥多摩湖は人造湖だが、さらにいって大菩薩峠にあがる道がひらけていたようだ。標高は1897mあり御岳山や大岳山より高い。図書館でDVDを借りて、映画「大菩薩峠」を観た。片岡千恵蔵が机竜之介を演じている。すごい役者です。音無しの構えというのが、決まってる。・・おもしろいのは人情、非人情の境がよく見えているからだ。御岳神社の奉納試合で竜之介にうち殺された武士の妻おはまが後竜之介を追うことになる。敵討ちではない。二人して逃亡です。・・こういうしんどいの流行りませんね。

・・むかし道にはいるに白髭トンネルを越えてすぐ道がある。このトンネルもやや長くはじめは嫌なトンネルだった。いくつかひどいトンネルを越えたので、これくらいならどうということはない。平日だったからまだよかったかもしれない。車の数もすくない。ハイキングの観光客がもっといるはずだが、午前中というのはまだはやいか。惣岳峡の吊橋のあるところまでともかく行ってみたい。以前来たことあるが、こわい橋でとても渡れなかった。三人以上で渡るなとある。このあたり深い峡谷になっている。

・・しだくら橋という吊橋があって、ここからの奇岩の眺めはいいらしい。ここの三分の一ほど歩いたら揺れて足元おぼつかない。渡りきるのはあきらめた。写真を一枚。・・もう引き返すことにした。このあたり谷底まではどうやって降りるのだろう。降りる用事もないか。帰り道、ハイキングの人がけっこう歩いてくる。平日であまり若い人はいない。景色ばかりはぞくぞくする。・・白髭神社の白板岩とか、猿田彦がこんなところまで足を運んでいるのかと思う。・・昔の裏甲州街道と呼ばれた道という。
映画では、大菩薩峠は富士もみえて眺めは良い。・・しかし、たいへんな道だ。

・・帰り道の民家で、柚子とキウイを売っていた。袋詰めで百円。柚子はこんなに買っても調理しきれない。柚子湯にでも使えばいいが。キウイを買った。・・たくさん入ってるけど、このままでは食べられない。とても固い。袋にリンゴをひとつ入れて十日くらい寝かすらしい。すると軟らかくなるとか。川の傾斜する土手に柿が鈴なりになっている。これは遠くから眺めると紅葉のよう。あれはあのまま収穫できず朽ちていくのだろうか。しかし、鈴なりだ。

・・もえぎの湯に寄った。日本最古の古生層から湧出する温泉。ここは救われる。

613秋魚:2015/12/07(月) 21:33:57
(無題)
打しめりあやめぞかをる郭公なくや五月の雨の夕ぐれ
                後京極摂政良経

・・寒い時は良質の歌を詠みたい。しんしんと染入るような歌を。
三十八歳で逝いた良経の供養する慈光寺経はやはり燦然としてる。あやめほととぎす五月の雨がかくも優美に歌われるのはほかに知らない。供養されるものと蘇りのものがある。

俳句なら五月雨は夏の季語だろう。歌なら季語以前のもの。

しぐれ

雲はなほさだめある世の時雨かな  心敬

世にふるもさらにしぐれの宿りかな 宗祇

世にふるもさらに宗祇のしぐれ哉  芭蕉


横しぐれ

旅の庵は嵐にたぐふ横しぐれ柴の囲ひにとまらざりけり
                   源頼政朝臣

風わたるみねの木の間のよこ時雨もる山よりも下葉そむらむ
                    藤原信実

*後鳥羽院が隠岐に流される時、信実が院の肖像画を描きのこした。


しぐれ桜

さくら花木梢のしつくおつるより幾世しくれの名にやふりけむ
                     従一位資枝


・・たしかに俊成のいうように「横しぐれ」の詞ばかりは、雅でありませんね。

614秋魚:2015/12/09(水) 20:20:05
(無題)
後鳥羽院四百年忌御会

霞            院 御製

こひつゝもなくや四かへりもゝちどり霞へだてて遠きむかしを


若菜           信尋 近衛

出て見る野守もつむやとぶ火野の雪まの若菜けふもすくなき


柳            雅陳 白川三位

風のまのみだれぬ糸にぬきとめて青柳おもき露のしら玉


・・

・・寛永十五年(1638)は、後鳥羽院四百回忌。追善和歌三十首。

・・「霞 院御製」のこの院は後水尾院の作。院の名のもとでまぎらわしい表記は意図あるか。

「もゝちどり」は三鳥のひとつ。古今伝授による。


・・何処やらに鶴の声聞く霞かな  井月

この「霞」と響いているとみるが、如何。



「とぶ火野」 ・・とぶひ‐の【飛火野】 奈良市、春日山のふもと、春日野の一部。また、春日野の別名。元明天皇のころに烽火(のろし)台が置かれた。

【元明天皇】
[661〜721]第43代天皇。在位707〜715。天智天皇の第4皇女。名は阿閇(あべ)。草壁皇子の妃。文武・元正両天皇の母。文武天皇の夭折(ようせつ)後に即位。平城京遷都、古事記・風土記の編纂(へんさん)、和同開珎(わどうかいちん)の鋳造などを行った。

・・

古今和歌集 よみ人しらず
春日野のとぶひの野守いでてみよ今いくかありて若菜つみてん

新古今和歌集 前参議教長
若菜摘む袖とぞ見ゆるかすが野の飛火の野邊の雪のむらぎえ

定家
春のいろを飛火野のもりたづぬれどふたばの若菜ゆきもきえあへず

定家
いつしかと飛火の若菜うちむれて摘めども未だ雪もけなくに

定家
若菜つむ飛火野のもり春日野にけふ降る雨のあすやまつらん

定家
立ちなるるとぶ火の野守おのれさへ霞にたどる春のあけぼの

定家
夕涼とぶ火の野守このごろやいまいくかありてあきの初かぜ

定家
とぶひ野はまだ古年の雪間よりめぐむ若菜ぞはるいそぎける

良経
ゆく年をとぶひのゝもりいでて見よ今いくかまて冬の夜の月

実朝
春日野の飛火野のもりけふとてやむかしかたみに若菜つむらむ

宗良親王
鶯の飛火の野べのはつこゑにたれさそはれて若なつむらむ


・・

615秋魚:2015/12/12(土) 21:25:03
(無題)
・・ここいら辺には柑橘がよく実っている。おおかたは柚子だが、かぼすもある。近所の人に黄色く実ったかぼすを分けてもらった。かぼすはまだ青々としたものを汁を絞ってポン酢をつくるとか。黄熟したものは、そのまま蜜柑のように果肉を食すこともできる。よい味だ。

・・芥川竜之介「地獄変」を再読した。堀川のお殿様にかかえられた良秀という絵師。この絵師が世にも奇体な絵を描いてみせるという。輿の車にうら若き娘が閉じ込められて火をかけられている。その車が燃えながら落下してゆく恐ろしい絵だ。殿様のお力でその実景をつくってみせるというのだ。

・・堀川の殿様というのは、最初の関白となった藤原基経がモデルとのこと。あの古作の雲林院で二条の后藤原高子を武蔵野まで追ってゆき鬼となって捕らえた。高子は基経の妹です。業平と高子の恋の逃避行があって、武蔵野に隠れた業平を盗人として焼き殺そうと野に火をかけようとしたのだ。高子は観念して基経のもとに降るという筋書き。・・後清和天皇の后となり陽成天皇の母となるから、貴族社会の帰りゆきを基経に強制されたわけだ。

地獄絵図の舞台は、雪解の御所という洛外の山荘。お殿様の亡くなった妹君が住まわれた御所という。つまり藤原高子の山荘。紫野の雲林院みたいなところでしょう。

燃え盛る車の中の女は、なんと良秀のひとり娘というから、これが地獄でなくて何であろう。

   *

・・プレアデス星団(M45)は、おうし座の「雄牛の首」のあたりに位置する散開星団です。地球からの距離は約400光年、実直径は約12光年、視直径は約110分(満月の約3.7倍)とされます。

漢名では「昴(ぼう)」、和名では「すばる」と呼ばれます。比較的近距離にある散開星団であるため、肉眼でも輝く五個から七個の星の集まりを見ることができます。狭い範囲に小さな星が密集した特異な景観を呈して、

・・ギリシア神話においてプレアデス(プレイアデス)は、ティタン族のアトラスと、海のニュムペであるプレイオネとの間に生まれた七人姉妹です。

マイア:七姉妹の長女。ゼウスの子ヘルメスの母
エレクトラ:ゼウスの子ダルダノスとイアシオンの母
タイゲタ:ゼウスの子ラケダイモンの母
アルキオネ:ポセイドンの子ヒュリエウスの母
ケラエノ:ポセイドンの子リュコスとエウリュピュロスの母
アステローペ:アレスの子オイノマオスの母
メローペ:七姉妹の末妹。人間であるシシュポスと結婚して不死性を喪失

プレアデス星団で特に明るく輝いているのは、六つの星だけだとされます。七つ目の輝きの鈍い星は、人間と交わったことを恥じるメローペであるとも、ダルダノスの死を悼むエレクトラであるとも、また、アステローペであるともいわれます。

・・姉妹の父であるアトラスが天を背負う役目を負わされた後、オリオンがプレアデス全員を追いかけ回すようになります。ゼウスは彼女らを、初めはハトに、ついでその父を慰められるよう星に変えます。オリオン座はいまだプレアデス星団を追って夜空を回っているとされます。

プレアデスは主に冬の星であり、古代の農業暦において非常に大きな役割を果たしていました。古代ギリシアの詩人ヘシオドスは叙事詩『仕事と日』の中で「そして、もし嵐の海を渡ろうという望みがおまえを捕らえたとしても、プレアデスが強大なオリオンを避けて深い霧の奥に潜り、激しい風が荒れ狂うなら、おまえの船を暗紅色の海に出してはならない。そうではなく、私の言葉のとおり、忘れずに地を耕すのだ」と語っています。

616秋魚:2015/12/17(木) 21:56:32
(無題)
・・東京の新宿から西へ向う街道は大きく二つある。一つは甲州街道、もう一つは青梅街道。青梅街道は高円寺あたりから五日市街道に分かれこれは拝島福生の多摩川を越え秋川沿いに武蔵五日市に向う。青梅街道は三鷹立川瑞穂と内陸を走り青梅で多摩川に沿った道になる。その先は奥多摩に向かい大菩薩嶺を迂回して柳沢峠から甲州市塩山に入る。甲州街道はずっと西に進み調布府中国立(江戸の頃は無かった)の石田橋で多摩川を越える。日野八王子高尾から相模湖大月から塩山に出て青梅街道と出会う。これらの大方は自転車で走っている。

・・今回スポットを当てるのは、甲州街道府中国立からの石田橋多摩川あたり。江戸の頃の街道もあまり大差はないものと見える。国立の谷保天満宮は道真由来古いものらしい。すぐ近くに長年住んでいたが、深く調査することもなかった。この裏に折れて多摩川にぶつかるあたりにある石田橋もつい最近にできた。ただ石田の渡しというのが江戸の頃にはあったという。甲州路をゆくものは必ずここの渡し舟に乗った。

・・芭蕉が深川の芭蕉庵を焼け出され甲州の都留に避難仮寓したのは、天和二年(1682)のこと。甲州街道をすすみこの石田の渡しで多摩川を越えたはず。幕末の頃この石田で名高いのは新撰組の土方歳三の生地である。多摩川を渡った日野の石田郷という。・・この国立の甲州街道沿いの谷保天神のすぐ近くに本田家の古い民家がいまでもある。実はこのまったく近いところに何年も居住していながらその民家の由緒を知らなかった。・・幕末の頃本田覚庵という漢方医で書家である人が住んでいた。なんとこの覚庵の書を習いに川向こうの石田から若き日の土方歳三がよく訪ねてきていたという。近藤勇も生家は調布のあたりやはりこの覚庵の家に書を習いに来ていた。天然理心流の剣術も歳三勇で磨きあった。・・本田覚庵の書は、当時江戸の三大書家の一人市河米庵の流れで、ほかに蘭学とかもろもろの学問にも秀でていた。「覚庵は、歳三の父の妹キンの養子だから歳三とは義理の従兄弟の間柄になる。」という。

・・芭蕉は、おそらく、この石田の渡しを三度は渡っている。深川−都留の往還で二度。もう一度は、野ざらし紀行の帰り道で、木曾諏訪甲府から塩山大月から高尾にぬけて江戸に入った。途中むかし仮寓した都留あたりに寄った記事がある。

「士峯(ふじ)の讃」

崑崙は遠く聞、蓬莱・方丈は仙の地也。まのあたり士峯地を抜て蒼天をさゝえ、日月の為に雲門をひらくかと、むかふところ皆表にして美景千変。詩人も句をつくさず、才士、文人も言をたち、画工も筆捨てわしる。若藐姑射の山の神人有て、其詩を能せんや、其繪をよくせん歟。

  雲霧の暫時百景をつくしけり

・・石田の渡しあたりでも富士を眺められるが、この文「まのあたり士峯地を抜て蒼天をさゝえ」からして富士にかなり近接した土地での詠みであろう。『芭蕉句選拾遺』に「甲州よし田の山家に所持人ありしを、今東武下谷匊志秘蔵なるよし・・」とあり、富士吉田あたりに出向いた時のものか。野ざらしの旅の帰路に立ち寄ったとみる。


・・関こゆる日は、雨降て、山皆雲にかくれたり。

雰しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き

 何某ちり*と云けるは、此たびみちのたすけとなりて、萬いたはり心を盡し侍る。常に莫逆の交ふかく*、朋友信有哉此人。

深川や芭蕉を富士に預行  ちり

・・野ざらし紀行では、深川の芭蕉庵からはよく富士も見えた。万年橋からの富士見は広重の絵にもある。ただし富士を詠んだものは上記の二句のみ。実景は不在の富士のこと。

これに比して、「雲霧の暫時百景をつくしけり」とは、実景の富士を見すえての静観。

「・・日月の為に雲門をひらくかと、むかふところ皆表にして美景千変」 この見える富士の描写を「野ざらし紀行」に載せなかったのは、それなり理由があろう。


・・井月にも、富士を詠んだ句がいくつかある。

方角を富士に見て行く花野かな
初虹は麓に消えて富士の山
富士に日の匂ふ頃なり時鳥
鷹鳴くや富士に曇りのなき夕
初日影富士に位階の沙汰なきや
とくよりも出向ふ士峯や初日影
空色を花とながめて不盡の山
はつ空を花とながめて不盡の山
試る筆の力や不盡の山
上もなき老のしら髪や不盡の山
頂を花とながめて富士の山
雪ながら富士は今年の物らしき
夕士峰も朝不盡も見てさらし搗

617秋魚:2015/12/26(土) 21:52:54
(無題)
きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む
                   摂政太政大臣良経

・・良経のきりぎりすというのは、みごと。

 青梅に漂泊した中原章は、

鈴虫の声ふり捨て有明のねやへはいらし月になりゆく

京極派、持明院派とも?

「古きまくら、古きふすまは、貴妃がかたみより伝へて、恋といひ哀傷とす」(紙衾ノ記)

「翡翠衾寒誰與共」(長恨歌)

・・この「古き枕」が妙。「うた枕」のことか?


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