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短詩人/Hyperion

550秋魚:2015/06/17(水) 20:38:52
(無題)
・・高崎清水寺観音。想い出多し。キズ多し。

「・・高崎観音山の東腹にある曹洞宗の寺院で、古くから養蚕の仏様として近郷の信仰を集めています。大同3年( 808)に、坂上田村麿が東国平定の際に戦死した将兵の冥福を祈り、京都の清水寺から勧請して建てたと伝えられています。本尊は千手観音で、近隣丘陵地の名称「観音山」の基となるものです。」

・・「せいすいじ」と読むそうだ。要は、坂上田村麿つながりでしょう。

「・・後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。」

・・『枕草子』は「さわがしきもの」の例として清水観音の縁日を挙げ、『源氏物語』「夕顔」の巻や『今昔物語集』にも清水観音への言及があるなど、平安時代中期には観音霊場として著名であったことがわかる


 観音の甍ミやりつはなの雲

 高崎市指定重要文化財である。

「芭蕉花の雲句碑

 この句碑は、江戸時代末期の上州随一の俳人であった高崎田町生まれの富所(志倉)西馬が、芭蕉俳諧の流れをくむ者として、上州内外の俳人と共同で芭蕉百五十年遠忌の前年にあたる天保13年(1842年)春に建立したものである。この時、記念の大俳句会も開催している。」


・・近傍が、天保の大飢饉。

「・・天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)は、江戸時代後期の1833年(天保4年)に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化した飢饉である。1839年(天保10年)まで続いた。1836年(天保7年)までと定義する説もある。」


「・・ 主な原因は洪水や冷害であった。東北地方(陸奥国と出羽国)の被害が最も大きく、特に仙台藩の場合は盛んに新田開発を行い、実高で100万石を超える石高を有していたが、米作に偏った政策を行っていたため被害が甚大であった。

各地で餓死者を多数出し、徳川幕府は救済のため、江戸では市中21ヶ所に御救小屋(5800人収容)を設置したが、救済者は70万人を超えた。米価急騰も引き起こしたため、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発し、天保7年6月に幕府直轄領である甲斐国一国規模の百姓一揆となった天保騒動や、天保8年2月に大坂で起こった大塩平八郎の乱の原因にもなった。特に大阪では毎日約150人-200人を超える餓死者を出していたという。」

* 天保騒動(てんぽうそうどう)は、江戸時代後期の天保7年(1836年)8月に甲斐国で起こった百姓一揆。甲斐東部の郡内地方(都留郡)から発生し、国中地方へ波及し一国規模の騒動となった。別称に郡内騒動、甲斐一国騒動、甲州騒動。


 ・・天保7年8月17日(1836年9月27日)夜半、谷村では下谷村近郷百姓による米穀商居宅への打ちこわしが発生し、騒動の発端となった。谷村には石和代官所の出張陣屋である谷村代官所が諸愛しているが、元締手代山内左内は不在で、石和陣屋から加判手代松岡啓次が出張し、関係者の処罰と村々への取締を行い収拾される。

・・一方、谷村での打ちこわしと同時に都留郡下和田村(大月市七保町下和田)の武七(治左衛門)、同郡犬目村(上野原市犬目)の兵助は同郡鳥沢村(大月市)で合流すると、米価引き下げを求めた強訴を計画し一揆勢の頭取となった。」

・・都留谷村、大月あたり、百五十回忌は凶兆になるわな。

  *

?江戸文化との交流(多摩人:小林天淵の例)
1848年(弘化4年)夏、江戸の町学者で『江戸繁盛記』の著者・寺門静軒は、武州多摩郡青梅村の小林天淵を尋ね、青梅の里に遊んだ。
小林天淵は、生粋の多摩人で青梅仲町の生まれで、生家は酒商で名主も兼ね、若い時には家業に励みその後江戸に出て絵を谷文晁に、狂歌を大田南畝に学び、江戸文化人との交友が広かった。
寺門静軒が天淵を尋ねた時は52歳、天淵は70歳で、天淵は老後家塾を開き、集まった郷党の人の数は600人の多きにのぼるという。



・・強力な先達のつながりが得られた。邁進するのみ。


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