したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |
レス数が900を超えています。1000を超えると投稿できなくなるよ。

短詩人/Hyperion

545秋魚:2015/06/11(木) 21:25:24
(無題)
甲斐の山中(家)に立ち寄りて、

 行駒の麦に慰むやどり哉

・・芭蕉「野ざらしの旅」の末の帰路、江戸にはいる一歩手前、甲斐の山中(家)は都留の谷村か、勝沼の万福寺か。

・・万福寺には、駒塚という馬蹄石がある。

>・・昭和33年(1958)刊、勝沼町誌刊行委員会編「勝沼町誌」
p1237〜38 万福寺の項によれば、

* 馬蹄石
 駒塚ともいう長さ二間広さ九尺石の面は平らにして馬の蹄の跡四個を留む。伝説によると聖徳太子甲斐の驪駒に乗り富士山、駒ヶ岳に登り還りてこの石に駐したりと。

・・芭蕉は万福寺に寄ってこの馬蹄石をみたという着想から、ここに句碑が建てられ「駒塚集」という句集が編まれた。

三車上人という万福寺の和尚が編んだものだが、成立は寛政五年(1793年)芭蕉百回忌に合わせたものかといわれる。ただし「行駒の麦に慰むやどり哉」の句碑は、蝶夢が「富士美行脚」の旅で万福寺に立ち寄った時すでにこの句碑をみているので、1788年より以前のこと。あるいは「富士美行脚」の脚色で1788年に句碑を見たことにしたのかもしれぬが。


・・序文が高桑闌更、跋文が井上重厚。蝶夢門と闌更門の競合ともみれる。



若葉して御めの雫ぬぐはばや


・・芭蕉が奈良の唐招提寺に訪れた際、鑑真和尚の坐像を拝みて詠んだ句。元禄元年(1688年)。

・・芭蕉は、聖徳太子をどう捉えていたのだろうか?百年忌に甲斐で編まれた「こまづか集」をみているうち、ふと気になった。源平の合戦で運命を翻弄されたものたちに多く手向けの句を寄せている芭蕉だが、鬼神を語らず、太子については何も句を残していないとみた。聖徳太子については、今でもその聖人についてのイメージや実在性について疑義をはさまれること多く、ほんとうの顔はわかっていない。奈良に訪れて法隆寺にも寄ったのは推察されるにしても、句を残すことはなかった。・・唐招提寺に寄ったのは、たしか、鑑真和尚を詠んだ句が残っている。

・・「こまづか集」の騒ぎに比して、この一句。


・・御めの雫は、涙ではないだろう。・・あるいは涙かもしれぬ。


 行駒の麦に慰む・・若葉かな (へんな俳句)


   *

・・自転車の調整で、また前輪のタイヤ外しを試みた。バーストした部分、あれからだいぶ乗り回しているが、すこし不安になった。傷を負った部分、必ずもとに復旧するというのではない。身体なども古傷は後年になってぶりかえしてくる。・・前輪を車体から外すのは容易になった。タイヤをリムから外すのはまだ馴れていない。・・なんとか開けてみる。やはり変な圧がかかっているのか、クリアファイルの傷口の上は両面テープの接着剤が溶けてしまってた。その分ファイルが脹らんで凹みをつくっていた。チューブもすこし変色。やはり応急処置の限界か。チューブは穴あきがないがパンク修理用のパッチを貼ってもとにもどした。・・タイヤ交換を視野にいれねば。

・・次の輪行は、高崎までの片道輪行(帰り)をプランしている。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板