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短詩人/Hyperion

598秋魚:2015/09/27(日) 10:13:14
(無題)
・・あきるの市菅生にある正勝神社へポタリング。秋川へ向う滝山街道で青梅から満地トンネルを越えるともう近い。・・秋川歌舞伎という明治以来の農村歌舞伎を継承している。以前たまたまこの正勝神社での公演に出くわしたことがある。正勝神社のもっと手前の広場でその神社にはいってみなかった。祭神が正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)という触れ込みで興味をもったが、今回実際訪ねてみると大山祇命が祭神ということでした。「・・創建年不明。 元暦年間(1184〜85)武蔵七党のうち横山党に属する菅生氏の祈願所であったという。」本殿は元禄四年に造営、上屋拝殿これは天保十三年に造営。・・元禄四年といえば芭蕉が前年に幻住庵を出庵したあと京都奈良滋賀を徘徊してまわった年。十月美濃垂井の規外の本龍寺に滞在。「作りなす庭をいさむる時雨かな」このあと江戸にもどる。

・・天保十三年(1842)
6.22 七代目市川団十郎、奢侈で江戸から追放される
7.1 水戸藩、偕楽園を構築
7.23 異国船打ち払いの方針を、薪水を与えて立ち去らせるように指示
8.3 川越、忍、今治三藩に江戸湾岸の警備を指示
10.2 高島秋帆、外国人との交友の罪で入牢する(冤罪)
11.24 佐久間象山、老中・真田幸貫に海防八策を上書
12.24 羽田、下田に奉行所を設置
12月 水戸藩、大砲鋳造により梵鐘を徴発

・・天保十四年(1843)なら、芭蕉百五十回忌。

宝物として、神社なのに十一面観音像がある。また水盥一個、天保十四年七月吉日信陽高遠保科保正と銘あり。この石工銘は青梅の住吉神社の碑にも記されてあり。信陽は長野県のこと。伊那谷の石工が1843年頃あきる野青梅で活躍していたことがわかります。(大発見!)

 正勝神社  N35度45分26秒 E139度16分39秒

・・この滝山街道を右折すると菅生の正勝神社。左折すると草花通りというのがありずっと多摩川に向う。青梅とあきる野を分かつ草花丘陵というのがあり、このあたりの散策はやってなかった。よい機会で左折した。この丘陵の裏手、多摩川に接するあたり、羽村の郷土館があるはず。玉川上水引き込み口の南側になる。交通の便はよくないがのどかな自然にめぐまれてよい里山になっている。はじめての道というのはいつも新鮮でうれしいもの。人にたずねながら羽村の上水郷土館に着いた。・・玉川上水建立が目玉のようだが、もうひとつ「大菩薩峠」の作家中里介山の生地という。この向こうの水車小屋で生まれたとか。

 中里介山 1885年(明治18年) - 1944年(昭和19年)

・・いまの青梅街道。江戸の頃はダムもなかったから多摩川に沿った道があって、深山橋のあたりから大きく北西に迂回して柳沢峠に至る道ではなく、そのまま大菩薩峠に至る山道が本道であったかと。ともかく鳩ノ巣の先数馬の切り通しあたりでも馬は通れない。映画のなかでも女子の旅人が足場をくずすシーンが記憶にある。はじめに奥多摩をこえて甲州市までゆく大菩薩峠の小説は、魅惑。吉川英治、川合玉堂などほんの入口のところで風光を愛でていた感がある。かくいう自分も大菩薩峠は未踏であり、柳沢峠にもいっていない。ともかく普通の甲州路への旅として昔はあったとは思うものの、今でも大変な険路。・・先日20号の甲州街道、高尾から塩山は輪行だったけれど、やはり山が入り組んでいて昔の街道は険しかったにちがいない。大垂水峠なんてまったく嫌な道だった。・・この青梅街道、志あるものは必ず甲州まで歩いていったにちがいあるまい。中里介山は59歳で没するまで実に多くの仕事をした。未完の長編小説「大菩薩峠」を書き続けただけでも頭が下がる。・・高尾山麓や御岳山中にも庵をむすんで夢を果たそうとした。御岳山は自分もよく訪れるようになったが、ここもそう簡単ではない。とりわけ居住というのは、勇気がいる。介山がそういう仕事を易々とやったのではないのはわかる。しかし結果として仕事を残したというのはやはり頭が下がる。

 見習いたいものが多い。


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