したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |
レス数が900を超えています。1000を超えると投稿できなくなるよ。

短詩人/Hyperion

524秋魚:2015/05/12(火) 13:54:41
(無題)
・・天気くずれそう。台風来てる。あの妖精のような人すてきですね(笑)

・・田舎の信濃川、上流は千曲川になります。豊後の三浦安貞は、日に三度、先祖の墓参りを欠かさなかった。父がそういって、わが家もそのような家訓でしたが、封建性の暗さでほとんど省みられませんでした。千葉で生まれましたから、長岡は二度訪れただけ、ほとんど無知です。母は雪がいやで上京したといいます。

・・うっかりしてました。上州(群馬)から越後(長岡)にはいるに、鉄道で清水トンネルをくぐっていましたが、昔はそんなトンネル無かったのですね。トンネルの上は谷川岳でとても急峻な山といいます。ほどよい峠道すらなかったのではないか。カツゾーの江戸の頃は、高崎から碓氷峠を越えて、上田や小諸、長野に入り、そこから北越に向かったのだと思います(まあ逆のコースですが)。千曲川、信濃川沿いに道があったのか。まったく見当もつきません。・・碓氷峠が最大の難所といいます。ヤマトタケルはここを通っています。芭蕉も、更科紀行で姨捨の月をみてから、ここを通って江戸に入ってます。ただこのあたり記録が無い。長岡から江戸に向かうに、どうしても長野経由になったのではないか。・・因みに信濃川、千曲川の源流は、甲武信ヶ岳に向ってるそうです。山梨、埼玉、長野三県の境にある2475mの山です。いったことはありません。

・・だいたい信濃路というのもどういう道かわかっていません。検索すると料理屋のチェーンの名前だったりして。・・めげずに検索。「大和路、信濃路」という堀辰雄の小品がみつかりました。ぽつりぽつり読んでる最中ですが、大和路の方で、法隆寺訪問についておもしろい記事がありました。金堂壁画の模写が行われていたようです。

「・・十月二十三日、法隆寺に向う車窓で
 きのうは朝から一しょう懸命になって、新規に小説の構想を立ててみたが、どうしても駄目だ。きょうは一つ、すべての局面転換のため、最後のとっておきにしていた法隆寺へ往って、こないだホテルで一しょに話した画家のSさんに壁画の模写をしているところでも見せてもらって、大いに自分を発奮させ、それから夢殿(ゆめどの)の門のまえにある、あの虚子の「斑鳩(いかるが)物語」に出てくる、古い、なつかしい宿屋に上がって、そこで半日ほど小説を考えてくるつもりだ。
十月二十四日、夕方
 きのう、あれから法隆寺へいって、一時間ばかり壁画を模写している画家たちの仕事を見せて貰いながら過ごした。これまでにも何度かこの壁画を見にきたが、いつも金堂のなかが暗い上に、もう何処もかも痛いたしいほど剥落(はくらく)しているので、殆ど何も分からず、ただ「かべのゑのほとけのくにもあれにけるかも」などという歌がおのずから口ずさまれてくるばかりだった。――それがこんど、金堂(こんどう)の中にはいってみると、それぞれの足場の上で仕事をしている十人ばかりの画家たちの背ごしに、四方の壁に四仏浄土を描いた壁画の隅々までが蛍光灯のあかるい光のなかに鮮やかに浮かび上がっている。それが一層そのひどい剥落のあとをまざまざと見せてはいるが、そこに浮かび出てきた色調の美しいといったらない。画面全体にほのかに漂っている透明な空色が、どの仏たちのまわりにも、なんともいえず愉(たの)しげな雰囲気をかもし出している。そうしてその仏たちのお貌だの、宝冠だの、天衣(てんね)だのは、まだところどころの陰などに、目のさめるほど鮮やかな紅だの、緑だの、黄だの、紫だのを残している。西域あたりの画風らしい天衣などの緑いろの凹凸のぐあいも言いしれず美しい。東の隅の小壁に描かれた菩薩(ぼさつ)の、手にしている蓮華(れんげ)に見入っていると、それがなんだか薔薇(ばら)の花かなんぞのような、幻覚さえおこって来そうになるほどだ。
 僕は模写の仕事の邪魔をしないように、できるだけ小さくなって四壁の絵を一つ一つ見てまわっていたが、とうとうしまいに僕もSさんの櫓(やぐら)の上にあがりこんで、いま描いている部分をちかぢかと見せて貰った。そこなどは色もすっかり剥(は)げている上、大きな亀裂が稲妻形にできている部分で、そういうところもそっくりその儘(まま)に模写しているのだ。なにしろ、こんな狭苦しい櫓の上で、絵道具のいっぱい散らばった中に、身じろぎもならず坐ったぎり、一日じゅう仕事をして、一寸平方位の模写しかできないそうだ。どうかすると何んにもない傷痕ばかりを描いているうちに一と月ぐらいはいつのまにか立ってしまうこともあるという。――そんな話を僕にしながら、その間も絶えずSさんは絵筆を動かしている。僕はSさんの仕事の邪魔をするのを怖れ、お礼をいって、ひとりで櫓を下りてゆきながら、いまにも此の世から消えてゆこうとしている古代の痕をこうやって必死になってその儘に残そうとしている人たちの仕事に切ないほどの感動をおぼえた。……」

・・この画家のSさんというのは、秋田在住の仏画師鈴木空如さんかと思ったが、たぶん違うでしょう。空如さんは「明治40年(1907年)から昭和7年(1932年)にかけて法隆寺に数十回出向き、金堂外陣(げじん)の土壁に描かれた十二面の壁画を独力で模写した。」とあるように、独力の作業でした。堀辰雄の訪問は、昭和18年すこし以前、複数の人たちの模写作業のようです。

・・昭和24年(1949)には、例の金堂火災が起きています。この文は、この火災事故が起きる前の壁画模写の風景です。

・・鈴木空如さんの独力の壁画模写も味があります。・・大正十二年頃第一回目の模写を終えたのは、太子千三百年祭の時。ちょうどその時の金堂古材から、祖父が聖徳太子像を彫り起こしたといいます。同じ裏日本の雪国にいて二人は交流があったと、母から聞いていますが、確かめようもないことです。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板