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短詩人/Hyperion
540
:
秋魚
:2015/05/31(日) 00:20:21
(無題)
・・解体−組立て後の試し乗り。きょうは都心に向った。去年の暮れに仙川まで行ったのを復習し、そこから先は未知のライドになる。例によって多摩川サイクリングロードは完全無欠で国立府中までゆける。かつての庭だ。フロントブレーキが少し鳴くようになったのは、調整で消せる。いまのブレーキ幅を維持しないと解体−組立てがスムーズにいかない。鳴かせておくか。この府中あたりからの甲州街道がかなりやっかい。車道はこわくて走れない。旧甲州街道などの側道も一部使えるが、明大前あたりの井の頭通りに折れるまで一本道。今回は新宿に向わず渋谷をめざした。井の頭通りは三鷹の五日市街道からわかれ吉祥寺を通って渋谷に伸びる道だ。都心は例によってざっと調べただけ。渋谷周辺の芭蕉句碑を洗っておいた。
?金王八幡宮 渋谷3-5-12 しばらくハ花のうへなる月夜かな
?宮益御嶽神社 渋谷1-12-16 眼にかゝる時や殊更さ月不二
?龍巌寺 神宮前2-3-8 春もやゝけしき調ふ月と梅
・・井の頭道路を代々木公園の前で折れて渋谷駅をめざした。何度か人に道を尋ねたが、渋谷中心に向うに方向を失った。人が多く繰り出すところがハチ公のいる駅だろう。しかし迷い込んだのはホテルなどある妖しい通り。朝の清掃をしている妖しいメークのお姉さんに道を尋ねるわけにもゆかずなんとか人ごみを追って道玄坂をくだった。駅前に交番がポツンとあって客対応の巡査が十人くらいたむろしていた。
・・三つの訪問地のうち最初の一つがわかれば、他の二つは容易に到達できる。若い巡査に金王八幡を尋ねた。てきぱきと教えてくれたが最初にすすむ道をとりちがえたため青山通りには一向に神社らしきはない。ちがってるなというので、今度は青学の守衛さんに尋ねた。なるほどもうひとつ向こうの道ですね。しかし自転車が乗れないくらいの人ごみです。
・・ところで、
?しばらくハ 1817年。「文化14年、太白堂門人山奴社中建立。」太白堂は天野桃隣の号。
?眼にかゝる 1825年。同宮益町御嶽山中ニ在 富士墳(宮益坂は別名「富士見坂」とも言われた。)「文化八年五月栗菴宇橋社中建之」
?春もやゝ 1793年。「翁塚 江戸青山原宿龍巖寺ニアリ 二世冬英・五陵建」
・・芭蕉句碑の建立はかくのごときで、寺社の由緒起源はさらに古く衆民の信仰のもとはこちらにある。
・・金王八幡宮は、渋谷を代表する神宮とある。源頼朝が植えたという金王桜は一重と八重の桜を同じ木に咲かすというめずらしいもの。頼朝が平氏との闘いで参篭した神宮で、渋谷金王丸は忠節な武将。義経追討の命を受け、館に討ち入ったが、そこで落命している。
「寛治6年(1092年)、渋谷氏の祖河崎土佐守基家創始。元渋谷八幡宮と称したが、金王丸の名声に因み、後に金王八幡宮と称される。金王丸は17才の時源義朝に従って保元の乱に参加して大功を建てた。」
金王丸は、もともと源義朝の俊英な部下であったというが、渋谷氏というのは桓武平氏の血の流れを継いでいる。・・先日訪ねた秩父の妙見山というところに日月二つの旗を納めた八幡宮を開き、この月の旗をいまの渋谷金王八幡に移して神宮を開いた。渋谷氏は関東に下った高望王の流れをくむ平氏の末裔だが、源氏にたくみに使われている歴史がある。・・秩父の妙見山は武甲山ではないかともいうが、渋谷の本家は八幡と妙見の秩父というのは、一驚だった。
・・立ち寄った金王八幡宮は、ちょうど結婚式のさなかで、笙、篳篥などの音曲が聞こえてくる。
宮益御嶽神社は、一度駅にもどって青山通りに向うと左手にすぐに見つけられた。宮益坂はいまは都会のビルで埋まっているが、昔は富士見の坂だという。・・青梅にもある御嶽神社の由緒は古いものだが、ここの御嶽神社は元亀年間に勧請したものという。
都神社名鑑による渋谷御嶽神社の由緒によれば、
「大和国吉野郡金峯神社分祭の社にして、日本式尊を奉祭する。創立は元亀元年(一五七〇)にして寛永年間(一六二四−四四)再建すという。明治三年四月十七日かしこくも明治天皇駒場野練兵場において、我が国最初の観兵式統覧のため行幸のさい、御往復とも御召替のため御小休所となったところである。当時その筋より白木鳥居と駒寄を寄進される。・・」
・・社殿前にあるのは、あうんの狛犬ではなくオオカミであるのは、いかにも青梅の御嶽神社の大口真神を勧請してるふうだが、大和国吉野郡金峯神社分祭の社というのは、新政府の格式の作り方か。明治天皇の足跡も高く清めたいもの。
眼にかゝる時や殊更さ月不二
・・ここは江戸時代に流行した富士講のパワースポットとしておおいに信仰されていたと思われる。
三つ目の龍巌寺は、神社でなく臨済の禅寺。「檀信徒以外の出入をお断り申す」とある。理由を言って芭蕉の句碑だけは見させていただくことができた。
春もやゝけしき調ふ月と梅
・・ここの注目すべきは、その建立年1793年。芭蕉百回忌である。「寛政5年(1793年)正月、建立。脇田赤峰(1751年〜1834年)書。」とあり、この脇田赤峰は著名な能筆家。井月はここにも必ず立ち寄っているはず。
・・神社の前の坂道は、勢揃い坂という。「この道は鎌倉街道であり、平安時代後期の武将で、八幡太郎の通称で知られる源義家が、奥州征伐(後三年の役、永保3年・1083)に向うときに、ここで軍勢を揃えて出陣して行ったといわれ、この名が残っている」
源義家が奥州へ向ったというのは、奥の細道の志向と重ならないこともないが、こういう石碑の建立というのは、意味づけを深読みしない方がよさそうだ。
・・さて、この日は若者の街原宿界隈をすこしポタリングして、飯田橋の神楽坂エスパスという画廊へ向った。渋谷の寺社まわりで地理不案内と人ごみで思わぬ時を使った。友人の水彩画個展へ訪ねたかった。神宮外苑のあたりから信濃町、四谷見附、外堀通りをそのままいけば飯田橋までゆける。また道をまちがえて新宿通りを皇居の方へ進んでしまった。ここはいつか来た道。また巡査に聞いて、硯友社跡のあるあたりから駅の裏にでた。あとは葉書の案内で神楽坂をのぼり、なんとか画廊にたどりついた。
知ってる人がいると、ホッとする。佐治恭太郎さん。日曜画家です。仕事が忙しいのによく作りましたね。頭が下がる。・・さわやかなよい絵です。
きょうは日帰りで、帰り夜になると、自転車もこわい道になる。しばらくいてお暇しようと思ったら、おもしろい友人がこれからどんどん来るから会っていてくれとか、しきりに引き止める。たぶん帰り5時間はかかる。国立あたりからの夜道は馴れてはいる。まあ4時までが限度かな。神楽坂界隈も散歩したら楽しそう。・・なんでも唯識思想の専門家とその周辺の人(チャイニーズ)が来るのだという。青学、成城大、信州大でそれぞれ教授だとか。おもしろいのは、奥さんが信州大の教授で、それなら今度伊那に行く予定がある。信州大は伊那だったはず。娘さんが美人でモデルだという。その娘さんもこれから来るという。佐治さんのまわりとてもそんな人脈想像できないので眉唾ではあったが、日本の唯識の第一人者は横山先生といってその方もきょう見える予定だったとか。ともかくチャイニーズの美人モデルに会ってみてとかに釣られて、すこし長居をしてしまった。・・けっきょく他の友人がどんどん現れておもしろいことになったが、美人さんたちはそんな早く来ないでしょう。・・自転車乗りのが大切でやっと暇乞いして画廊をでた。
・・帰りは、市ヶ谷から新宿に向う靖国通りをゆきそのまま青梅街道。これ一本で青梅までゆける。・・しかし、この道つまらない。途中五日市街道にはいるのを選んだ。あまりはやくはいると迷路に落ち込んだのはいつかの体験。井の頭通りを逆行して甲州街道まで出たものだった。じっと我慢で荻窪まで、ここは駅前にでる。さらにいって三鷹のあたり、玉川上水に沿った道が五日市街道。車線も広くよい道だが、信号待ちがたくさんあってしかも長い時間待たされる。これをパスして内側に折れたが結局出口は遠く、押し戻されてまた五日市街道へ。途中交番で尋ねると、このまま五日市街道で拝島までいくしかない。横田基地のわきを通ります。この道ははじめてなので興味もあってここをひたすら進む。もう七時をすぎて暗いです。都会だからまだいい。いつか埼玉の田舎で夜道を走ったら真っ暗でどうなることかと思ったものだ。拝島ちかく横田の基地の照明がみえる。きれいなので写真を撮りたかったがあきらめる。拝島にでれば、16号とぶつかり入り組んだ交差点。ここからJRの線路沿いに福生に向うのは何度か試みてお手の物。夜道でもこわくはない。
・・剥き身の腕が日を浴びて焼けて、ひりひりする。草刈でとったドクダミをつけた湯を浴びた。薬効でひりひりは治まったようだ。
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