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短詩人/Hyperion
618
:
秋魚
:2015/12/31(木) 17:20:50
(無題)
・・この一年もいろいろ温泉めぐりをした。ホームページなどで宣伝も多いが、さほどの中身のないものもある。結局は口コミの話になって善し悪しは淘汰されていくようだ。物が無くてまず宣伝から入るのがネットショップ。これもそうそう詐欺めいたものばかりやってると続くわけがない。評判を得ようとするのは宣伝以上のものがあればよい。そこまで気づかってはいられないか。
・・忘年会に手ぶらで招待されたところでは、温泉の話になってすでに山形の田舎の温泉が抜群であるとか、車を使って遠いところの穴場の秘湯をたずねる人もいた。持ってる人はよく訪ねるものだ。近場でいろいろまわる自分からすると、遠隔の温泉はすでにあきらめている。・・きょうは自動車に乗っていい温泉に訪ねたい友がいて、自分の知る限り一押しの温泉に案内した。
・・自愛が流行してなかなか自分の趣味につきあう人もまれになった。都心の方から車で来るが85歳のおばあさんとお孫さんのいる妹さんが便乗するのだという。逝く人が多いのでこれは大歓迎。せいぜい友一家のよい癒しになればよい。近場の温泉については自信がある。秋川渓谷の瀬音の湯まで案内した。・・なんでも九州の佐賀まで温泉につかりにいったばかりだとか。そりゃいい温泉は山ほどある。まあ近場でどういう感想をもつか、あとは湯あたりしないよう注意した。・・ここの湯質はみな褒める。アルカリ性単純泉の純度の高いもの。露天でもはじめての客は驚きの声をあげる。運転手の友は、アルコールはやれないが、かなり満足そう。宴会の幹事でも思案したか。あとで女性たちもほめちぎる。おばあさんが妙にしゃんとした声でいい湯だーと。新宿とか浅草とかからの訪問で水と緑があるだけでも感動らしい。偶に来ればそう感じるさ。みやげもの店で地元の野菜とかこれもうれしそうに買い漁っていた。
・・レストランも一杯。てんぷら御膳を注文。ここのてんぷらは並大抵ではない。美味しいよと宣伝したが、みなも美味いとはいったが、辛口の批評をいわさせてもらうと、以前とはちょっと味が落ちていた。年末で客が多いので、量こなすために材料の質がやや低下、あと全体のつくりもやや雑な気がした。でも、それはいわなかった。・・帰りに払沢の滝の見物をとも思ったが、おばあさんは山道歩くの大変でしょう。それはキャンセルよい気分のまま青梅の釜の淵公園散歩して無事帰るのが一番。公園は寒いだけであまりおもしろくなかったようだけど、すこし頭を冷やして帰路につくのも一考。・・たぶん私の見立ては完璧だと思う。
・・近場の温泉は自信あり。
619
:
秋魚
:2016/01/30(土) 09:12:00
(無題)
00534 [詞書] 題しらす
読人不知読人しらす(000)
人しれぬ思ひをつねにするかなるふしの山こそわか身なりけれ
ひとしれぬ−おもひをつねに−するかなる−ふしのやまこそ−わかみなりけれ
・・古今集における「富士」。
富士の表記だが、濁点のとれたカナ文字で「ふし」とある。
00680 [詞書] 題しらす
番号外作者ふちはらのたたゆき(999)
君てへは見まれ見すまれふしのねのめつらしけなくもゆるわかこひ
きみてへは−みまれみすまれ−ふしのねの−めつらしけなく−もゆるわかこひ
01028 [詞書] 誹諧歌:題しらす
番号外作者きのめのと(999)
ふしのねのならぬおもひにもえはもえ神たにけたぬむなしけふりを
ふしのねの−ならぬおもひに−もえはもえ−かみたにけたぬ−むなしけふりを
01001 [詞書] 短歌:題しらす
読人不知よみ人しらす(000)
あふことのまれなるいろにおもひそめわか身はつねにあまくものはるる時なく
ふしのねのもえつつとはにおもへともあふことかたしなにしかも人をうらみむ
わたつみのおきをふかめておもひてしおもひはいまはいたつらになりぬへらな
りゆく水のたゆる時なくかくなわにおもひみたれてふるゆきのけなはけぬへ
くおもへともえふの身なれはなほやますおもひはふかしあしひきの山した水
のこかくれてたきつ心をたれにかもあひかたらはむいろにいては人しりぬへ
みすみそめのゆふへになれはひとりゐてあはれあはれとなけきあまりせむす
へなみににはにいててたちやすらへはしろたへの衣のそてにおくつゆのけな
はけぬへくおもへともなほなけかれぬはるかすみよそにも人にあはむとおもへ
は
あふことの−まれなるいろに−おもひそめ−わかみはつねに−あまくもの−はるるときな
く−ふしのねの−もえつつとはに−おもへとも−あふことかたし−なにしかも−ひとをう
らみむ−わたつみの−おきをふかめて−おもひてし−おもひをいまは−いたつらに−なり
ぬへらなり−ゆくみつの−たゆるときなく−かくなわに−おもひみたれて−ふるゆきの−
けなはけぬへく−おもへとも−えふのみなれは−なほやます−おもひはふかし−あしひき
の−やましたみつの−こかくれて−たきつこころを−たれにかも−あひかたらはむ−いろ
にいては−ひとしりぬへみ−すみそめの−ゆふへになれは−ひとりゐて−あはれあはれと
−なけきあまり−せむすへなみに−にはにいてて−たちやすらへは−しろたへの−ころも
のそてに−おくつゆの−けなはけぬへく−おもへとも−なほなけかれぬ−はるかすみ−よ
そにもひとに−あはむとおもへは
00489 [詞書] 題しらす
読人不知読人しらす(000)
するかなるたこの浦浪たたぬひはあれとも君をこひぬ日はなし
するかなる−たこのうらなみ−たたぬひは−あれともきみを−こひぬひはなし
620
:
秋魚
:2016/01/06(水) 11:02:44
(無題)
(小鳥の画に)
不尽山月雪花やほとゝぎす
・・この画紙をみてみたい。不尽の表記はそのままか、不盡か。
音数で俳句に合わせると、「ふじやま●つきゆきはなやほととぎす」と読むか。
「不尽」「山」「月」「雪」「花」や「ほとゝぎす」。
この漢字の並びが俳句の妙。月・秋 雪・冬 花・春 ほとゝぎす・夏という四季のめぐりがある。
「山」と「月」が切れてますな。
・・九条良経「花月百首」以降の井月風「花月」の俳諧といったところか。
621
:
秋魚
:2016/01/07(木) 00:38:04
(無題)
・・芭蕉最晩年の峠越えというのがある。伊賀から大坂に向う暗峠というところだ。元禄7年9月9日。
菊の香にくらがり登る節句かな
・・暗峠は奈良県生駒市から大阪府東大阪市に通ずる道にある。いったことはないが暗いけわしい道のようだ。大坂に抜けておよそ一ヶ月半後に逝いてしまう。
菊の香や奈良には古き仏たち
・・これも同じ日の句という。
・・青梅の歌人浄月律師(1758〜1832)60歳の時に河内髪切山高貴寺に入律したという、その髪切山は暗峠のあるところ。ほかに役行者で名高い慈光寺もある。
>高貴寺(こうきじ)は、大阪府南河内郡河南町平石にある高野山真言宗の仏教寺院。
北緯34度29分57.8秒 東経135度39分52.2秒
・・開山は役行者で、文武天皇の勅願によるといわれている。河内高貴寺縁起によると、役行者が草創した二十八箇所の修験霊場のひとつで、古くは底筒男命が降臨した地として、神下山香花寺と称した。
弘仁年間に、空海が来住した際、高貴徳王菩薩の示現を見たため、高貴寺と改称した。
・・安永5年(1776年)に慈雲尊者飲光が入寺し、大和郡山藩主柳沢保光の帰依・支援を受け、堂舎を整備し、当寺を真言律と梵学修行道場とし、戒壇を設けて正法律の本山とした。
この慈雲というのが、ただものでない。
>・・慈雲(じうん、享保3年7月28日(1718年8月24日) - 文化元年12月22日(1805年1月22日))は江戸時代後期の真言宗の僧侶。戒律を重視し「正法律」(真言律)を提唱した。雲伝神道の開祖。
・・1758年(宝暦8年)から生駒山中の雙龍庵という草庵に隠居して研究に専念し、千巻にも及ぶ梵語研究の大著『梵学津梁』を著す。その内容は、密教で行われてきた梵字の呪術的解釈を排し、梵語の文法を研究して、梵文で書かれた仏教教典の原典の内容を正しく読解しようとするものであった。・・1775年(安永4年)、『十善法語』を著す。1776年(安永5年)に河内の高貴寺(南河内郡河南町)に入寺した。大和郡山藩主・柳沢保光の支援を受け、高貴寺の堂舎を整備し、この寺を正法律の本山と定めた。
浄月律師の高貴寺行きは、芭蕉の暗峠越えを踏もうとしたのではないか?
622
:
秋魚
:2016/01/08(金) 21:15:26
(無題)
・・峠越えというので柳沢峠越えのサイクリング日記を読んだ。やはり気になる。熊谷から飯能青梅そして青梅街道を直進。柳沢峠で富士見のあと塩山甲府、ここから富士川を南下して身延山まで。やー、チャレンジする人はいるものだ。奥多摩湖までのトンネルも恐怖といっていたが二度目はさほどでないと。しかし丹波山から先の渓谷はぞっとするほどという。長いアップの坂道と百mもあろうかという断崖の渓谷。写真をみたが足がすくみそう。柳沢峠の景色はたしかにいいらしい。春先にいったがここらは真冬という。路面凍結に注意。峠から塩山までが急勾配。ダウンヒルで千mほど豪快だがあぶないものだ。・・クロスバイクでは無理かなと思うが乗れないところは歩けばよい。やってやれないことはない気もする。
・・塩山から甲府は以前も走った。平坦な道で車だけを気にすればいい。ここらで一泊。石和健康ランドがいいかもしれない。ここから先身延山までが未知。県道があるがあまりいい道ではないという。
・・ひきこもりをやっているとすべて恐怖に思われる。自転車も肉体も使わずに劣化するのは耐えられないことだ。冬晴れなので多摩川サイクリングロードを走ってモノレールの終点駅多摩センターまでめざした。
・・例によって何度か走ってるコースだが景色がすこしづつ変化している。時折まったく違う道かと感じることがある。ひどい時には進んでいるつもりが左右に大きくずれたり後戻りなんてのもある。吹雪の中で同じところをぐるぐる歩き回り最後は力尽きて眠ってしまうのは、なんといったか。・・しかしこのコースに迷いはない。
・・多摩川のモノレールのある橋は立日橋といったか、もうすこし川沿いに進むと白鷺だか鶴だかが数羽群れて羽根をやすめている。
・・まったくこの種の白い鳥の区別もわからない。おおかたサギの仲間でしょう。頭の形が目立ってる違う種類のもよくみかける。冬だからここにいるのか。静かなるロックンローラーと呼んだりもした。
・・ところで今日のメインは帰りの夕日にみかけた。
夕士峰も朝不尽も見てさらし搗
この夕富士のこと。まったく偶然の景色。・・富士がよく見えるのは立日橋をわたり立川から昭島までの間。五日市線のあるあたりまではよく見える。土提にあがってカメラを構える人もちらほら。空気が澄んで夕焼け富士がきわだつ。
・・甲州街道多摩川にうつかる石田の渡りをわたらず、井月はそのまま堤沿いに上流をめざしたのではないだろうか。福生あたりまで一時富士は姿を消すが、羽村玉川上水口までにもう一度姿をあらわす。奥のほうに見える山は大岳山。青梅にはいると富士はみえにくい。・・しかし必ず井月は青梅に来た。
623
:
秋魚
:2016/01/18(月) 01:35:15
(無題)
初虹は麓に消えて富士の山
初虹や裏見が滝に照る朝日
旭の匂ふ裏見が滝や鷹の声
鷹鳴くや富士に曇りのなき夕
・・むずかしくなりましたな。井月も。
[題詞]山部宿祢赤人望不盡山歌一首[并短歌]
[原文]天地之 分時従 神左備手 高貴寸 駿河有 布士能高嶺乎 天原 振放見者 度日之 陰毛隠比 照月乃 光毛不見 白雲母 伊去波伐加利 時自久曽 雪者落家留 語告 言継将徃 不盡能高嶺者
[訓読]天地の 別れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は
318
[題詞](山部宿祢赤人望不盡山歌一首[并短歌])反歌
[原文]田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留
[訓読]田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
・・おそらく東海道のフジこそ富士であろう。この田子の浦は、
由比 北緯35度06分23秒 東経138度33分42秒
「東海道の親不知」と呼ばれる断崖に位置し、歴史地理学的には関東政権(江戸・鎌倉・小田原)と東海政権(駿府)の境界となってきた。
江戸時代には東海道由比宿の宿場町であった。江戸時代の絵師・歌川広重による由比の浮世絵には、難所を越える旅人や、帆掛け船の浮かぶ駿河湾、駿河湾越しの富士山などが描かれている。
あるいは、蒲原 北緯35度7分6.8秒 東経138度35分58.8秒
・・江戸時代は蒲原宿が置かれ、宿場町として機能していた。
あるいは、富士市 田子の浦港沖 北緯35度9分40.8秒東経138度40分34.6秒
たこの浦の藤花を見侍て 柿本 人麿
たこの浦の 底さへにほふ 藤波を かざして行かん 見ぬ人のため
(拾遺和歌集)
624
:
秋魚
:2016/01/19(火) 02:10:24
(無題)
初鶏や常に似合ぬ太き声 有隣
若水汲の歩行井の端 井月
・・
斯花の曇にまことよい日和 隣
浅香の沼に田にし鳴くころ 月
・・須賀川の多代女が「越後獅子」に寄せたのは、
盃の裏にまことやうめのはな
うめは梅、生めとかけたか。多代女と井月がたしかに会ったことがわかる。・・須賀川から郡山には芭蕉も入った道だ。
栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや、
世の人の見付ぬ花や軒の栗
・・
山深み岩にしただる水とめんかつがつ落つる橡拾ふほど 西行
・・この後が、あさか沼
阿佐可夜麻加氣佐閇美由流夜真乃井能安佐伎己々呂乎和可於母波奈久尓
あさかやま かげさへみゆる やまのゐの あさきこころを わがおもはなくに
・・
「古今集」仮名序で、貫之が、歌の父母のうち母にあたる歌という。巻16/3807
この山ノ井に安積山が写っているそのような浅い心でないと、采女の歌です。ここを井月が訪れないわけがありません。(たいした痕跡があるわけでもありませんが)
芭蕉と曾良はけっこう淡白でしたね。カツミという植物を探したほどで。
安積山?? 北緯37度27分 東経140度23分
長岡城あたり 北緯37度27分 東経138度51分
625
:
秋魚
:2016/01/20(水) 01:06:06
(無題)
・・武蔵、多摩の芭蕉百回忌。1793年ですが。
? 武州毛呂の川村硯布亭。橿寮硯布庵で1790年。(前倒し)春秋庵系の俳人多く集まる。加舎白雄、長翠(春秋庵二世)、榎本星布、等。
?武州多磨青梅真浄寺。1793年。浄月律師。「芭蕉翁霊塚」建立。しぐれ桜碑と並ぶ。
?武蔵五日市開光院。翁塚。山市亭梅志建てる。百回忌頃。梅志は深川臨川寺に「墨直しの碑」を建てた玄武坊の門弟。支考派ですね。
なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。[おほさざきのみかどの、なにはづにてみこときこえける時、東宮をたがひにゆづりて、くらゐにつきたまはで、三とせになりにければ、王仁といふ人のいぶかり思て、よみてたてまつりけるうた也、この花は梅のはなをいふなるべし。]あさか山のことばは、うねめのたはぶれよりよみて[かづらきのおほきみをみちのおくへつかはしたりけるに、くにのつかさ、事おろそかなりとて、まうけなどしたりけれど、すさまじかりければ、うねめなりける女の、かはらけとりてよめるなり、これにぞおほきみの心とけにける、あさか山かげさへ見ゆる山の井のあさくは人をおもふのもかは。]、このふたうたは、うたのちちははのやうにてぞ、手ならふ人のはじめにもしける。
そもそも、うたのさま、むつなり。からのうたにも、かくぞあるべき。
そのむくさのひとつには、そへうた。おほささきのみかどを、そへたてまつれるうた、
なにはづにさくやこの花ふゆごもりいまははるべとさくやこのはな
といへるなるべし。
626
:
秋魚
:2016/01/20(水) 23:29:34
(無題)
>・・平林寺(へいりんじ)は、埼玉県新座市野火止にある臨済宗妙心寺派の寺院である。
埼玉県新座市野火止3-1-1 位置 北緯35度47分23.44秒 東経139度33分36.74秒
野火止(のびどめ)・・「かつて焼畑農業が盛んに行われ、関東ローム層の乾燥した土壌が草木の燃え広がりを早めたことから、延焼を食い止めるために用水が多数造られた」ことが由来とされている[1]。
・・業平塚(在原業平が京より東国へ東くだりの折、武蔵野が原に駒を止めて休んだという伝えがある。)
江戸名所図会によると、野火止塚(九十九塚)と同じく、古へ野火を遮り止むるために築きたりしものなるべきを後世好事の人、伊勢物語によりて名付けしなるべし。塚上石碑を建てて和歌の一首をちりばめたり。その詠にいはく「むさし野にかたり伝へし在原のその名を忍ぶ露の小塚」とあるが、この歌碑は今はない。
むかし、男ありけり。人のむすめを盗みて、武蔵野へ率てゆくほどに、盗人なりければ、国の守にからめられにけり。女をば草むらの中に置きて、逃げにけり。道来る人、この野は盗人あなりとて、火つけむとす。女、わびて、
武蔵野は今日はな焼きそ若草の
つまもこもれりわれもこもれり
とよみけるを聞きて、女をばとりて、ともに率ていにけり。
『伊勢物語』(第十二段)
加舎白雄は野火止で句を詠んでいる。
野火留にて
妻も子も榾火に籠る野守かな
行暮れし越路や榾の遠明り
灰に書く西洋文字や榾明り 井月
627
:
秋魚
:2016/01/24(日) 01:41:50
(無題)
・・アユ(鮎、香魚、年魚、Plecoglossus altivelis)は、キュウリウオ目に分類される、川や海などを回遊する魚である
多摩川はかつてアユが途絶えた。いまは存在する。青梅美術館の下龍が淵あたりでコアユを放流した記念碑がある。
・・アユの語源は、秋の産卵期に川を下ることから「アユル」(落ちるの意)に由来するとの説や神前に供える食物であるというところから「饗(あえ)」に由来するとの説など諸説ある[4]。
現在の「鮎」の字が当てられている由来は諸説あり、神功皇后がアユを釣って戦いの勝敗を占ったとする説[4]、アユが一定の縄張りを独占する(占める)ところからつけられた字であるというものなど諸説ある。
・・コアユ。小鮎は小さい鮎のこと。成長過程で小さいがやがて若鮎と呼ばれる。目一杯成長して小ぶりのままの鮎もコアユと呼ばれる。海にでず湖などで一生を終えるアユのことだ。陸封魚だが、ヤマメ、イワナ、ハヤなども本来は海にいたものらしい。淡水魚でも陸封魚と呼ばれる。
・・アユという意味での漢字の鮎は奈良時代ごろから使われていたが、当時の鮎はナマズを指しており、記紀を含め殆どがアユを年魚と表記している。
中国で漢字の「鮎」は古代日本と同様ナマズを指しており[4]、中国語でアユは、「香魚(シャンユー、xiāngyú)」が標準名とされている。地方名では、山東省で「秋生魚」、「海胎魚」、福建省南部では「溪鰛」、台湾では「[魚桀]魚」(漢字2文字)、「國姓魚」とも呼ばれる。
・・俳句の季語として「鮎」「鵜飼」はともに夏をあらわすが、春には「若鮎」、秋は「落ち鮎」、冬の季語は「氷魚(ひお、ひうお)」と、四季折々の季語
・・
瀬を渡る飛び石もあり小鮎汲み
楽しみは浅瀬にあるや小鮎汲み
若鮎や花と汲まゝ網の露
武の玉川に遊て
徐に柳のかぜや小鮎くみ
井月に、鮎汲みの句がいくつかある。これって、多摩川で小鮎くみして遊んだ時の句作でしょう。
小鮎と若鮎はたぶん別物ですね。
コアユについて、おもしろい解説があります。
>・・琵琶湖に生息するアユは、オオアユと遺伝的に異なる[7]。ただし、正式な亜種としては分類されていない。アイソザイム(アロザイム)分析の結果、日本本土産の海産アユからの別離は10 万年前と推定されている[6]。
生態的にも特殊で、仔稚魚期に海には下らず、琵琶湖を海の代わりとして利用している。琵琶湖の流入河川へ遡上し、他地域のアユのように大きく成長するもの(オオアユ)と、湖内にとどまり大きく成長しないもの(コアユ)が存在する。従来、オオアユとコアユの「両者間での遺伝的な差は無い」とされていたが、「亜種として隔離の兆候が出ている」とする研究結果もある
アユは神秘だ。スイカの香りがする。
・・アユの成魚は川で生活し、川で産卵するが、生活史の3分の1程度を占める仔稚魚期には海で生活する。このような回遊は「両側回遊」(りょうそくかいゆう)と呼ばれる。
親のアユは遡上した河川を流下し河川の下流域に降り産卵を行う。最高水温が20℃を下回る頃に始まり、最高水温が16℃を下回る頃に終了する。粒径 1mm程度の沈性粘着卵を夜間に産卵する
体長59-63mmになると鱗が全身に形成され稚魚は翌年4月-5月頃に5-10cm程度になり、川を遡上するが、この頃から体に色がつき、さらに歯の形が岩の上の藻類を食べるのに適した櫛(くし)のような形に変化する。
アユが岩石表面の藻類をこそげ取ると岩の上に紡錘形の独特の食べ痕が残り、これを特に「はみあと(食み跡)」という。
・・多くの若魚は群れをつくるが、特に体が大きくなった何割かの若魚はえさの藻類が多い場所を独占して縄張りを作るようになる。一般には、縄張りを持つようになったアユは黄色みを帯びることで知られている[18]。特にヒレの縁や胸にできる黄色斑は縄張りをもつアユのシンボルとされている[18]。アユの視覚は黄色を強く認識し、それによって各個体の争いを回避している
・・アユについて、興味は尽きない。
628
:
秋魚
:2016/01/25(月) 01:53:07
(無題)
唐土にて月を見て、よみける 安倍仲麿
あまの原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも (古今 9-4
06)
この歌は、昔、仲麿を、唐土に物習はしに遣はしたりけるに、
数多の年を経て、え帰りまうで来ざりけるを、この国より又
使まかり至りけるにたぐひて、まうで来なむとて出で立ちけるに、
明州と言ふ所の海辺にて、かの国の人、餞別しけり。
夜に成りて、月のいと面白くさしいでたりけるを見て、よめるとなむ語り伝ふる
・・
山部宿祢赤人、富士の山を望る歌一首并せて短歌
天地の 別れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光(ひかり)も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は(03/0317)
反歌
田子の浦ゆうち出でて見れば真白(ましろ)にぞ富士の高嶺に雪は降りける(03/0318)
・・
→ 「天の原振りさけ見れば駿河なる富士の高嶺にいでし月かも」
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-0hakken3.htm
・・安倍仲麿と山部赤人の月のコレスポンデンスが見てとれるのですが、
三笠山は、御蓋山。・・「蓋」
>・・咸享元年三月。遣使賀平高麗。爾後繼來朝貢。則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。
629
:
秋魚
:2016/01/25(月) 23:47:40
(無題)
・・武蔵野は広い。在原業平がここにやってきたというのはほんとうだろうか。根雪の残る武蔵野を新座平林寺をめざした。西国分寺から武蔵野線で三つ目くらいの駅だったと記憶している。通ったことはあるがほぼ不案内。所沢川越あたりはよく走ったのでむずかしくはないと多寡をくくった。が、これは大間違い。地図でさっと見ただけで出発した。寒いのでしばらく自転車はお休みしていた。筋肉の萎縮より呼吸運動の停止ほうが神経を狂わせる。細胞が活発になり呼吸がそれにあわせる。脳は反射神経が全開して生き生きと働く。家にこもると想念ばかりが勝手に太る。山頭火がそうだったように時雨の旅にでるべきだ。時雨というのは、ちょっと嫌な天候かと思いつつ。
・・新座はたしか新羅人の部落だったとか。そんな昔のことは今は関係ないかもしれぬ。道路の南側の歩道は日が当らないためかところどころ雪が残っている。すべってころぶとあぶない。そういう微妙な日の出発だった。最近は自分の扮装を気にしなくなってたぶんすごい格好してる。浮浪者まがいにみえるかも。気にしないことだ。昭島に野暮用があってそのあと立川国立まででた。ここらは昔の地元。ここから西国分寺の武蔵野線にぶつかるあたりまでいった。そこからは調べがなくて人に聞き聞き進む。府中街道をいきなさい。所沢にむかってそこからカーブして志木街道を浦和方面へすすむ。ずっといくと清瀬、新座ですよ。
・・まったく楽勝のライドかと思っていた。途中レストランでお昼をとって野火止の平林寺は3時半頃になった。電車でも新秋津から新座までは時間がかかったようだった。関越道を越えて川越街道の近く、一画が広い雑木林になっている。その武蔵野の林と野火止の用水路が売りらしい。平林寺は紅葉の名所、季節にはよく人の訪れもあるようだ。寺構内に入るには入園料がかかる。森閑として臨済宗妙心寺派の禅道場という。帰りの時間が少ない。入園はあきらめた。
・・十二
むかし、おとこ有けり。人のむすめをぬすみて武蔵野へゐてゆくほどに、ぬす人なりければ、くにのかみにからめられにけり。女をばくさむらの中にをきて、にげにけり。みちくる人、このゝはぬす人あなりとて、火つけむとす。女、わびて、
むさしのはけふはなやきそわかくさのつまもこもれり我もこもれり
とよみけるをきゝて、女をばとりて、ともにゐていにけり
・・伊勢物語十二段の舞台という、それらしい業平塚があるはずだ。
630
:
秋魚
:2016/01/27(水) 00:21:42
(無題)
堀河太政大臣、身まかりにける時、深草の山にをさめてける後に、よみける
深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け(古今832)
・・上野岑雄(かむつけのみねお)が詠んだというが、堀河太政大臣藤原基経の死に哀傷をこめたかどうか疑わしい。生没年未詳で、一説に承和年間(834-848)頃の人とあり、藤原基経薨時(寛平三年=西暦891年)とは年代が合わない。
古今集巻十六832の歌だが、直前にある831の歌は、
空蝉はからをみつつもなぐさめつ深草の山けぶりだにたて
僧都勝延の歌の前に「堀川の云々」付け書きがくる。
藤原基経は能「雲林院」では、妹の藤原高子を武蔵野に追いかけ鬼一口で飲んだといういわくつきの妖人。
おそらく古今集編集のfakeであろう。
千葉県東金市山田の貴船明神にも「墨染桜」がありますが、これは東大寺再建の為の砂金勧進のために陸奥の国に向かった西行法師が、京都・深草の墨染桜の枝を杖にして歩き、当地を訪れたとき貴船大明神を勧請し、その傍にその杖を突き刺し、「深草の野辺の桜木心あらば 亦この里にすみぞめに咲け」と詠じて去りましたが、この杖が芽をふき墨染桜となったと言われています。
・・このあたりの話もどうですか。基経の魂魄を杖にこめるなど奇怪ですね。
631
:
秋魚
:2016/02/01(月) 02:11:50
(無題)
・・昨年都留に寄った帰り大月の隣猿橋をみたのを想い起こす。甲州街道の幹線で古来多くのものがここを通る。猿橋は名ばかりで本物の橋があるとは知らなかった。大月からすぐ隣一駅だが20号はまったく嫌な道だ。道幅がせまく自動車専用道路といった感がある。飯能秩父の正丸トンネルも地獄だったがここも相当なものだった。・・しかし猿橋、日本三奇橋のひとつという。実際の景観もなるほどといったものだったが後で調べてみると多くの文人墨客がここを訪れている。
・・山頭火は、「五月の甲州街道はまことによろしい。桂川峡では河鹿が鳴いてゐた。
山にも野にもいろいろの花が咲いてゐる。猿橋。
若葉かゞやく今日は猿橋を渡る
こんな句が出来るのも旅の一興だ。
など云ってるが、桂川沿いは歩くにはいいかもしれない。
水の月猶手にうときさるはしやたには千尋のかげの川瀬に
と詠んだのは、宗祇。
『廻国雑記』を著した聖護院の道興もこの絶景をみた。
「・・猿橋とて川の底千尋に及び侍る上に、三十余丈の橋を渡して侍りけり。此の橋に種々の説あり。昔、猿の渡しけるなど里人の申し侍りき。さる事ありけるにや、信用し難し。此の橋朽損の時は、いづれに国中の猿飼ども集りて、勧進などして渡し侍るとなむ。然あらば其の由緒も侍ることあり。所がら奇妙なる境地なり。
名のみしてさけふもきかぬ猿橋の下にこたふる山川の声
同じ心を、あまた詠じ侍りけるに、
谷深きそはの岩ほのさる橋は人も梢をわたるとそみる
水の月猶手にうとき猿橋や谷は千ひろのかけの川せに
・・
この道興という人は気になる。「聖護院(しょうごいん)は京都府京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗総本山(本庁)の寺院。」「日本の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の霞を統括する総本山である。」とwikiにあるが、この「霞」とは何であろう。さらに「・・静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、 代々法親王[2]が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った[3]。明治まで37代を数える門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となった[3]。江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、皇室と深い関わりを持ち、現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。・・祇園祭の役行者山(えんのぎょうじゃやま)では聖護院が護摩焚きを始め(採燈護摩供)導師の山伏が護摩木を護摩壇に投げ入れる儀式を行う。」
「享保19年(1734年)11月16日、 聖護院の森にて、呉服商の井筒屋伝兵衛と、先斗町近江屋の遊女お俊との心中事件が起きた[3]。」
「天明8(1788年)と安政元年(1854年)の内裏炎上に際し、光格天皇と孝明天皇が一時期仮宮として使用した。当時の聖護院門跡は光格天皇と同母弟の盈仁法親王であり、当院と皇室は深い関係であった。」
・・いろいろ興味深いが、役の行者の関わりが大きいようだ。
この道興。おもしろいのは国分寺の恋ヶ窪、新座の平林寺野火止にも訪れがある。
・・此の関をこえ過ぎて、恋が窪といへる所にて、
朽ちはてぬ名のみ残れる恋が窪今はたとふも契りならすや
・・此のあたりに野火どめのつかといふ塚あり。けふはなやきそと詠ぜしによりて、烽火忽にやとまりけるとなむ。それより此の塚をのびどめと名づけ侍るよし、国の人申し侍りければ、
わか草の妻も籠らぬ冬されにやかてもかるゝのひとめの塚
632
:
秋魚
:2016/02/01(月) 22:11:49
(無題)
・・猿橋といえば、見外。
岨の雨山吹しほるたはみかな (越後)
ちる雪や曳た小松のひと風情 (家づと)
小林見外は江戸菊守園の主。猿橋産で当地に句碑もある。
宗祇の号に、自然斎・種玉庵・見外斎。この見外斎から倣ったものであろう。
633
:
秋魚
:2016/02/08(月) 20:30:28
(無題)
・・寒中、ひさびさの都心サイクリング。うっすら雪化粧の山並みから湿り雪といって道路にはつもらない。満を持しての浅草、隅田川千住木母寺、そこから南に川を下って深川芭蕉庵跡、万年橋、清澄庭園近くの禅師仏頂ゆかりの臨川寺、他はわき目も振らず朝8時すぎに出発した。青梅から多摩川サイクリングロードにでて古巣の国立までゆき中央線沿いに国分寺三鷹このあたりから青梅街道を走るという構想だったが、川沿いの道は雪がありそうであきらめ。ひたすら青梅線と中央線に沿った道を選んだ。先日新座平林寺をめざした道とほぼ一緒。自転車のチェーン周りの掃除をしてブレーキ調整もした。そのおかげで踏み足は軽い。立川国立あたりまでゴミゴミした道もここらはお手の物。ただし風が異様に冷たい。三鷹あたりから五日市街道か青梅街道にでるのを交番で尋ねた。環八か環七にぶつかるまでひたすら直進せよということだったが、早めに青梅街道を選んだ気がする。青梅街道をまっすぐ行けば新宿にでるのは知っていた。しかし今回は上野のむこうの浅草隅田川にゆきたい。どこかしらで飯田橋へゆく道に切り替えた。そうこうして大久保通りから後楽園にでた。ここの春日通りをゆけば上野、浅草は簡単だ。ここもよく知っている。はじめての道だが土地感がはたらいて最短距離で隅田川の厩橋まで来た。・・中野から新宿に近づく道は車道は危険。バスなどの大型車がスッと後ろから来ることがある。実は帰り一度だけこわい思いをした。こう書いている今は自転車も自分も無事故であったのを喜びたい。
・・浅草寺の後ろにあった新吉原の町跡をみたかったが今回はパスして隅田川の上流へもう千住といって合流する荒川に近いところ。梅若橋の木母寺をめざした。言問い橋は業平橋のことだろう。白鬚橋からもうひとつが梅若橋。ここだ。しかしまるで人気がない。寺ばかりは近代的にぴかぴかしていた。
隅田川沿いにある桜堤公園をずっと上流へ走る。桜の花の季節はほんとによい花見ができそうだ。川船に乗って遊覧するのもおもしろそう。しかし今は風が冷たい。人通りも多くはない。言問い橋を越えたあたりでキャッキャッ白い鳥が群れ騒いでいる。これが都鳥かともいぶかったが、それにしても群舞して風情がない。・・梅若橋の袂近く木母寺がある。石碑がやたらたくさんあって由緒が多いらしいがつきあってられない。・・梅若丸の歌がある。
尋ね来て 問はは応へよ都鳥 墨田川原の露と消へぬと
哀しいお話があるという。
京都五山の僧万里の「梅花無尽蔵」にも訪れがしるされている。木母寺の木母は、梅の字を解体して木母としたという。梅にたいへん縁がある。また「廻国雑記」を書いた道興もここを訪れた。・・梅若塚は謡曲「隅田川」によってよく知られている。
・・さてここは訪れるだけで充分。すぐに踵を返して下流の両国、深川芭蕉庵跡の方へ向った。ほぼ川に沿った道で気は楽だった。
・・芭蕉翁史跡展望庭園に寄ってみた。隅田川と小名木川を望む河岸の一角。中央にある翁像はゆかしいものだ。芭蕉の像はたいてい小川破笠の絵をもとにつくられている。説明書きを読み忘れたがこれも破笠の絵から面相をつくっていると思われる。「・・小川破笠(1663-1747)は芭蕉門の俳人で絵をよくした。寛保元年(1741年)、師匠であった芭蕉の肖像画を描いている。実際に芭蕉と親しく接していた者による肖像画だけに、芭蕉のおもかげを最もよく伝えるものであろう。」
・・ほかに小名木川に舟を浮かべ五本松を眺めながら詠んだ句がある。
川上と この川下や 月の友 はせを
・・この深川にいて、川上と川下の雅趣を思いやるというのは、発見。
「・・今宵月の夜に私は五本松のあたりに舟を浮かべて月を眺めているが、この川上にも風雅の心を同じゅうする私の友がいて、今頃は私と同様にこの月を眺めていることであろう」
これで、支考の墨直しの碑の文の意味もすこし解けてくる。
・・小名木川と隅田川にあたるところ万年橋がある。ここは以前訪れたこともあり、ここから清澄庭園の方へ向う途中に仏頂禅師のいた臨川寺があるはず。果たしてせまい一画だが寺はあった。臨済宗妙心寺派の寺だ。中に入るとおもしろいように石碑が並んでいる。芭蕉由緒の碑、墨直しの碑、玄武仏碑、梅花仏碑、の四つ。ほとんどこれらの碑が売りですね。とくに注目すべきは、墨直しの碑。これは京都東山双林寺にある墨直しの碑を、神谷玄武坊が碑文等そのまま写したものだ。銘文の一部を引く。
「・・あづさ弓 武さしの国の 名にしあふ 世に墨染の 先にたつ
人にあらずに ありし世の 言の葉はみな 声ありて その玉川の
みなかみの 水のこころぞ 汲てしる 六すじ五すじ たてよこに
流れてすえば ふか川や この世を露の おきてねて その陰たのむ
その葉だに いつ秋風の やぶりけむ その名ばかりに とささをきぬ」
・・支考の文で、武蔵の国の流れる川を「玉川」ひとつに代表させている。
・・おそらく芭蕉も支考も隅田川、玉川の上流を訪ねてはいまい。隅田川なら先刻木母寺のもちょっと先で荒川、そこを遡って川越で入間川に分かれる。昔は入間川の方がよく知られていた。浅草はそれなり賑わっていた。「花の雲鐘は上野か浅草か」芭蕉のこの句は花の雲の行方が暗示されている。入間川を飯能の方にたどると成木川に分かれる。これはもう青梅の川だ。・・限りなく多摩川の上流に近づくようだが水源を同じくすることはない。この水源を求むる旅を半分でも試みるものがいたとしたら、それは井月であろう。
・・碑を見学していたら、お若い住職さんに顔が会った。墨直しの碑は戦災で破損し後再建されたもの。それでも碑文は読めない。翻刻したものはありませんか?と尋ねたらパンフがあるという。家の中に入ってしばらくとてもよくできたパンフをみせてくれた。どうぞというので涙が出るほどお礼をいってこれで今日は大収穫。ホテルであきない思考ができる。
・・さてこの後深川稲荷を御参り。清澄庭園をぐるり廻って長岡藩下屋敷の跡地を探した。いろんなお寺が密集した区域がありどうもこのあたりではないか?ずかずか寺の受付で案内を乞うた。がどこも昔のことはわからないということでした。これはあきらめ。
・・永代橋のすばらしい夕景を拝んで兜町のホテルに向った。
634
:
秋魚
:2016/02/10(水) 19:58:26
(無題)
・・さて皇居周りからの帰路だ。新宿通りをゆけば南口で甲州街道にでやすい。靖国通りならそのまま青梅街道につながる。これもよく知らなかった。今回は迷わず靖国通りでゆく。毎度だが新宿周辺はいたってあぶない。なんか気が荒いというか。・・青梅街道から外れて五日市街道もしくは井の頭通り、連雀通りなどで国分寺に出れば恋ヶ窪の熊野神社もみつかるはず。一度訪れがあるが地理がまだよくわからない。もう一度再学習。ほんとは昔の道をなつかしみ辿るのは末期症状なのかも。熊野神社の横にあるお寺で敬慕した女流詩人が眠っている。・・借りを返さねば。
ひよろひよろとなほ露けしやをみなへし はせを
明治7年(1874年)8月、寶雪庵可尊建立。
月花の遊びのゆかむいざさらば
寶雪庵可尊(坂本八郎兵衛)は、明治19年(1886年)に88歳で亡くなったが、その辞世の句を門人たちが明治30年(1897年)に建てたもの。
明治12年(1879年)、『故郷碑』(宝雪庵可尊輯)。
・・この宝雪庵可尊という俳人を実は追っている。
何鳥か寝た影丸し月のうめ 可尊(井月編「家づと集」1864年)
「芭蕉の正統蕉門がここに」・・国分寺恋ケ窪出身の坂本八郎兵衛は、ひょんなことから芭蕉の正統蕉門である江戸牛込の宝雪庵に弟子入りした。後に才能を見込まれ47歳で跡取りになると、宝雪庵六世可尊として江戸末期の俳壇で活躍している。1869年に恋ケ窪に戻ると、地元の青年たちに俳句を広めた。
・・井月が可尊に知己を得て句を交換したとしたら、恋ヶ窪でなく新宿の牛込ですね。井月が新宿に出ていたというのは、めずらしい。新宿は甲州街道、青梅街道の出発点ですから、井月も歩いたはずだ。おそらく宝雪庵という俳諧の縁で知り合ったと思われる。・・このとき句を交換するばかりでなく、可尊の故郷の恋ヶ窪の話も聞いたでしょう。聖護院門跡の道興の訪れがあると。恋ヶ窪、武蔵野平林寺などは道興の訪れに倣ったとも思える。確証はないが。
・・熊野神社まわりから国立へ向う道がある。迂闊なことだった。遺跡の発掘で昔よく通った道だ。坂道を下ると駅でそこから大学通りをまっすぐ谷保へと向う。この辺は庭だった。南武線谷保駅のすぐ裏の甲州街道沿いに谷保天満宮、それに土方歳三がよく通ったという学問と書の先生本田覚庵の家がある。古民家として今でも残っているという。歳三は石田の渡しを舟に乗らず飛び石を伝って日野の方から来たそうだ。本田覚庵というのは獣医だが、米庵流という幕末三筆のひとつを汲んでいる。この米庵流、井月もすこし知っている。すぐ近くが谷保天満。・・本田覚庵の家。これはびっくり。なんと以前何年も住んだわたしの下宿の目の前にある。春は桜、ほかに槻の木とか、梅、木立の異様な景状がいつも気になっていた。・・ここに歳三がよく訪れていたとは。
635
:
秋魚
:2016/02/11(木) 23:18:42
(無題)
・・宮ノ平から多摩川を渡り吉野街道にぶつかる辺り、街道を離れて梅ヶ谷峠へ向う坂道がある。暗い陰鬱な道だがここを行けば日の出町に入れる。中曽根総理とレーガン大統領が会談した日の出山荘というのがある。この山荘には興味もなかったが今日はこの道から日の出に入ってつるつる温泉にゆくことにした。秋川街道から入ってつるつる温泉には何度か訪ねた。二回ほどか。車がよく来る梅ヶ谷峠はアップの坂が長く青梅と日の出の境の峠で特に標識もない。この坂を登りきってしまえば急にのどかな風景で自転車も楽だ。梅の花もちらほら咲いている。・・日の出山荘にゆく道はまた別に分かれる。気が重いが行けるところまで行くことにした。山懐という風で着いてみるとかなりの敷地にいろいろ屋敷があるようだ。大統領や各国の要人を招くほどだから接待は万全なのだろう。単純な山小屋を想像していたのでなるほどと思った。今は入館料をとる名跡になっている。
・・ここから坂道を下って一路つるつる温泉に向った。一度秋川街道にでて萱窪というところまでゆく。そこからまた西へ平井川という川沿いの道をどんどん行くと急な坂道になる辺りでつるつる温泉がみえる。昔はこの道と坂がたいへんなものに思えたが今はどうということもない。ほどなく着いてしまった。・・ひさしぶりに来てみると建物は変わってないのだろうけどよく整備されてきてるようだ。源泉ばかりでアルカリ純度の高い単純泉。これも売りで変わらない。瀬音の湯とほぼ同じ。向こうのほうが新しい分湯は上質に感じた。温泉も時がたつと消耗劣化というのがあるようだ。しかしここはそれはない、いい温泉だ。長湯をして湯あたりをしないようにと注意もある。湯あたりは自分も一回したことがある。潜水病高山病みたいなもので回復がなかなか来ない。たいていは救急車を呼ぶようだ。自分の時はなんとか自力で回復させたけれど。・・さてここのレストランも充実してきてる。食でいい想いがないと、口コミもさんざんになるからどこも力を入れてるようだ。つるつるも前回よりたいへんな向上をみせた。釜飯ご飯を注文。
・・さて帰り多摩川の永田橋までつづく道がある。陰気な秋川街道を避けてこの道から滝山街道にでて迂回して帰ることにした。どんどん行くと途中裏道にもまわりお寺がけっこう多い。・・東光寺という禅寺がありその上の山には妙見宮というのがあって山頂まで参道が長くみえる。麓で若い娘さんが登ってきたので妙見宮のこと聞いてみた。娘さんもはじめてでよく知らないという。見に行くのですか。それでは一緒に行きましょう。そういって急な参道を登っていった。
636
:
秋魚
:2016/02/21(日) 22:41:47
(無題)
・・加舎白雄「武蔵野行脚」に、霞川という川原に遊びてとある。「思ひしほど霞まぬもよき川瀬哉」と句を詠む。かすみ川というのはどこにもありそうな名でもしやと思い青梅の田園を流れて狭山入間から入間川に合流する霞川のことと思いついた。・・以前東青梅の上流から入ってカワセミやコサギなどいるサイクリングロードを川沿いにどこまでも追っていこうとした。結局この日は武蔵村山に用事かあって途中断念したけれど、今日こそとことん追って入間川へ合流する河口を見るつもりだ。白雄が訪ねたのは青梅の霞川にちがいないなど変な確信をもった。
・・青梅マラソンがあって街道にのぞんだが、丁度スタートの号砲が鳴ったばかりらしい。続々とランナーが走ってくる。エントリーは何千人か何万人か。ともかく人が多い。参加するランナーを見て思ったが、けっこうな年輩の人が多い。大丈夫かなと見える人もいるが、たぶん大丈夫なのでしょう。自転車なら年いってもいける。走るのはどうですかねという気もする。走るのが好きな人も多いか。
・・霞川はやはり生活水が流れるのかすこし濁りが目立った。魚も水鳥もみえる川だから昔は清らかな川だったのだろう。今でもカワセミが見られるというが。サギとツルの区別もつかない。きょうはツルに似た鳥がいた。写真を撮ろうとかまえると羽根を広げて飛び去ってゆくのはいつものこと。カモは遊んでいるから人見知りはないようだ。ツルはむずかしい。
・・青梅の端に入間の金子という土地に入る。この向こうに丘陵がつづき土地の人に聞くと加冶丘陵というらしい。そのむこうに入間川も流れているはずだ。井月三部集に載る野井という俳人はこの金子の出身。後江戸にでて本町二丁目に住む。新吉原の妓楼の主人海老原新甫とは仲のよい俳人仲間。・・井月は野井の故郷を訪ねたかもしれない。入間川を遡って霞川に沿って来たか、青梅街道を西へ進みすこし北西に外れればもうこの霞川あたりまで来れる。・・塩船観音寺、真浄寺はその先、霞丘陵の麓にある。
何処やらに鶴の声聞く霞かな
・・霞川に沿った道というのは一本道でない。あれこれ迂回しながら行くしかない。合流点に近づくにつれ川幅も広くなってはきている。水鳥はあちこちよくいる。江戸の頃はのどかなよい川だったのだろう。・・入間川にだいぶ近づいたあたりで地形が入り組みついに川に沿って河口にでるのをあきらめた。先に入間川の岸辺にでてみることにした。ガソリンスタンドで道を尋ね、なんとか広瀬橋という大きな橋のあるところに出た。はー入間川はやはり広く大きいか。すこし上がったところに霞川の河口がみえる。・・青梅丘陵からでた霞川がこんなところまで延びて入間川にそそぐのは確認して安心できた。飯能狭山入間と青梅瑞穂の境目にいくつか緑の多い丘陵がある。その丘陵の南がわの手前に流れるのが霞川。たいした川ではないがこれに沿って霞丘陵まで上がるのが、よいサイクリング。
・・入間川というのは昔からある。よく洪水で氾濫する川だ。実際川越あたりは堤防脇はひどく低地になっている。広瀬橋を渡ると広瀬神社があり埼玉でも有数の古い神社という。ケヤキの神木の古いものがありたしかに古そうだが、文人墨客はあまり訪ねてもいなさそうだ。江戸の頃地元の俳句連が寄せた句碑があったが、芭蕉などの句碑はない。(あとで調べたら「ものいへば唇寒し秋の風」の句碑があるとのこと)・・梅の木は古木になると竜のようによじれてくるという。そういう古い梅ノ木があった。
・・この広瀬神社よりすこし入間川上流にあがると笹井白鬚神社があるはず。実はここを訪れたかった。聖護院門跡道興が『廻国雑記』でやはりここに寄っている。当時(室町時代)は佐西といって観音寺というお寺であったらしい。ほかに芭蕉の句碑がある。
武蔵野や一寸ほどの鹿の聲
芭蕉32歳の時の作。芭蕉も広い武蔵野の鹿のいるようなところまで歩いたか。江戸にでて二三年のこと。
637
:
秋魚
:2016/03/01(火) 00:26:04
(無題)
湯原王の七夕(しちせき)の歌二首
牽牛(ひこほし)の思ひますらむ心より見る我苦し夜の更けゆけば(万8-1544)
織女(たなばた)の袖つぐ宵の暁(あかとき)は川瀬の鶴(たづ)は鳴かずともよし(万8-1545)
湯原王の鳴く鹿の歌一首
秋萩の散りの乱(まが)ひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の遥けさ(万8-1550)
湯原王の蟋蟀(こほろぎ)の歌一首
夕月夜(ゆふづくよ)心もしのに白露の置くこの庭にこほろぎ鳴くも(万8-1552)
湯原王の吉野にて作る歌一首
吉野なる夏実(なつみ)の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山陰にして(万3-375)
なつみ川かはおとたえて氷る夜に山かげさむく鴨ぞ鳴くなる(伏見院[新後撰])
春もなほなつみのかはのあさ氷まだ消えやらず山かげにして(西音[玉葉])
わきて猶こほりやすらん大井河さむる嵐の山陰にして(基嗣[風雅])
なつみ川こほりかねたる早きせをうきねの床と鴨ぞ鳴くなる(宗良親王)
なつみ川山陰にして見し雪ののこるがさくか岸の卯花(正徹)
湯原王の娘子に贈る歌
目には見て手には取らえぬ月の内の楓(かつら)のごとき妹をいかにせむ(万4-632)
*湯原王
志貴皇子の子。兄弟に光仁天皇・春日王・海上女王らがいる。
・・
秋萩の散りの乱(まが)ひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の遥けさ
なつみ川かはおとたえて氷る夜に山かげさむく鴨ぞ鳴くなる (伏見院)
・・
638
:
秋魚
:2016/03/12(土) 01:11:15
(無題)
おく山のおどろがしたもふみわけてみちある代ぞと人に知らせむ 後鳥羽院
・・も・ふみわけて・みち
これは紅葉を踏み分けるか。紅葉を切っています。
見わたせば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋となにおもひけん 後鳥羽院
1.雪ながら山本かすむ夕べかな 宗祇
2.行く水とほく梅にほふさと 肖柏
3.川風に一むら柳春見えて 宗長
4.舟さす音もしるきあけがた 祇
5.月や猶霧わたる夜に殘るらん 柏
・・
徐に柳のかぜや小鮎くみ 井月
これは水無瀬三吟にならえば、第三の宗長ですな。
・・
「梅にほふさと」は、
639
:
秋魚
:2016/03/16(水) 00:48:03
(無題)
・・ のーまく さんまんだー ばーざらだん せん だー まー か ろ しゃーだー
そわ た や うん たら たー かん まん
・・成田山新勝寺(以下「成田山」)の歴史は古く、御本尊の不動明王像は平安時代の初め、嵯峨天皇の勅願により弘法大師自らが敬刻し開眼したものと伝わります。その後は長らく京都の高雄山神護寺に奉安されていました。この御尊像が、はるか東国の下総国成田に遷座されることになったのは、朱雀天皇の天慶2年(939)に起こった「将門の乱」のときです。朝廷は真言宗の高僧寛朝大僧正に神仏の力による将門の調伏を命じました。そこで寛朝大僧正は、神護寺の不動明王像を奉持し、現在の成田の地に不動明王像を祀り調伏の護摩を修したのであります。
よみ倦ぬ青梅どきや三国志
三国志ノ内
一踊りして来て酒の未だぬくし
張飛
蟷螂やものものしげに道へ出る
よみ懸し戦国策や稲光り
・・江戸は芭蕉と将門ですな。
神田明神には、将門塚がある。
640
:
秋魚
:2016/03/18(金) 01:48:42
(無題)
・・都幾山慈光寺が気になってたが、予定変更。もうすこし手前の越生梅林にサイクリング。飯能−寄居線という県道、ほぼ八高線に沿っている。飯能まではほんとうに楽になった。ただし小曽木街道はそれほど広くないし、ダンプも時々来る。だいぶ勝手がわかったから飯能市街には一時間とすこし、そこから宮沢湖までももう馴れた。日高高麗川あたりやはり大型のダンプなど来るさほど広くない県道をなんとか抜ければ毛呂山あたりでよい道になる。・・実はこの道でかける前の印象ですこし気が重くなる。アップダウンが多いというわけではない。前回の走りの記憶を消してからでないとでかける気もしない。
・・毛呂山まで来たら、新しい村の記念館があるという看板。いまどき白樺派ですかね。たぶんこの時代でもっとも流行らない思潮でしょう。生ける化石か。トルストイの影響があるとか。武者小路実篤とかも、正直気が重い。・・街道をそれて700mとか、きょうはここへ立ち寄ることにした。・・ほんとうに新しい村なんど有るのかよ。単線の線路を渡って、どうやらその村の敷地の中に入った。や、や、や、意外とおもしろい。詩碑などがあちこちあるのは想像した通り。茶畑やソーラーパネルなどもあって、今でも新しい村の住民活動は続いているようだ。きれいごとの文句ばかり散りばめられていて、これは一種の宗教の様。古い井戸とか建物も時代がかったものだ。・・一応美術館らしきがあって入館料二百円払って訪ねてみた。ほとんど武者小路さんの絵とか書とか詩とか飾ってあって、タイムスリップみたいなのは、でもしきりにそれを拒む自分も居て、やはりついていけない気にもなる。
・・新しい村は宮崎の日向ではじめられた。七年あってダムの建設でやむなくこの毛呂山へ移動。日向では実篤さんも生活してたが、この毛呂山には住まなかったという。晩年の二十年は都内の調布が住まいだった。この新しい村は主旨に賛同する仲間が続けているという。なんか活気もないけど大丈夫なのか。気づかっても仕様もないのでここを去って越生に向うことにした。
・・毛呂山から越生に向うにしばらくいくと、山の方へ道がわかれる。越生の梅林にゆくにはここで折れた方が良いのかあたりに尋ねる人もいない。角にある何か野菜の仕分け場みたいなのがあって、引き戸をあけて、なんとか尋ねる人をみつけた。仕事中で悪いとは思ったがもはや手は無い。土地の人はやはり詳しい。道を曲がって道なり真直ぐ行けばよいとのこと。街道は細くなるが、あとは人に聞き聞き進んだ。ひとつ由緒ありげな寺に寄った。参道に無人の野菜売り場があって夏みかんがよさそうだった。帰りに寄ることにした。・・梅林まで山懐の里のようでけっこう距離がある。近づくと梅ノ木が多くなる。なんか整然とした梅林ですこし期待はずれ。せっかく来たからにはと入園料三百円払って中にはいる。青梅の梅の公園の方がおもしろいか。いろいろ変化に富んでいる。しかし今は無い。今年は暖冬でもう梅の花も盛りをまわったか。それでも中には人も多い。お昼時でうどんと梅酒を注文。枝垂れ梅のいいものもある。古さを誇る梅もあったが花は終わっていた。猿回しの大道芸とか、みせものも多い。・・さて梅林をぬけて、このまま帰るのもどうか。太田道真の隠棲した館があるはず。宗祇が訪ねて来ているはず。龍・・寺とか名前が思い出されず。それでも人に聞いたらリュウオンジ、龍穏寺という。太田道潅の墓があるらしい。ここに向った。
・・越辺川はオッペガワという川沿いに山懐へおよそ6キロの道のりだ。途中いって人はまったくいない。やめたくなった。とくに上り坂が続くと、リタイヤしたくなる。・・ここからがいつもの性分、ここまできて引き返す手は無い。龍穏寺まではなんとしてもゆく気になる。もしここであきらめると一生の後悔になるやも。とまあいい加減な理由でがんばる。坂がどんどん山猫軒というカフェが近い。最後に登りきった坂をもう一度大きく降ってゆくと、急に明るく開けて村もお寺も見えてきた。まさに隠れ里です。
・・「縦有千声尚合稀況今一度隔枝飛誰知残夏似初夏細雨山中聴未帰」
たとえ千声あるともなお合うこと稀なりいわんや今一度枝を隔てて飛ぶおや誰か知らん残夏の初夏に似たるを細雨山中に聴きていまだ帰らず
万里集久【梅花無尽蔵(二)
・・1486年、太田道潅と万里集久が道真の居館「自得軒」を訪れた。その時の集久の詩という。
・・その46日後の七月二十六日、道灌は主君・扇谷上杉定正によって相州糟屋館で謀殺される。
641
:
秋魚
:2016/03/22(火) 00:46:20
(無題)
地「潮満潮干二つの玉を。/\。釣針に取
り添へ捧げ申し。舞楽を奏し。豊姫玉依。
袖をかへして。舞ひ給ふ。天女舞「。
地「いつれも妙なる舞の袖。/\。玉のか
んざし桂の黛。月も照り添ふ花の姿。雪
を廻らす。袂かな。
シテ「わたづみの宮主。舞働。地「姿は老龍
の。雲に蟠り。かせ杖にすがり。左右に返
す。袂も花やかに。足踏はとう/\と。
・・「玉井」vs「紅葉狩」
雲に嵐の声すなり。
散るか正木の葛城の。神の契の夜かけて。
月の盃さす袖も。雪をめぐらす袂かな。
堪へず紅葉。中ノ舞「。
シテワカ「堪へず紅葉青苔の地。地「堪へず紅葉
青苔の地。又これ涼風暮れゆく空に。雨
うちそゝぐ夜嵐の。もの凄ましき。山陰
に。月待つほどのうたゝ寐に。かたしく
袖も露深し。夢ばし覚まし。給ふなよ夢
ばし覚まし給ふなよ。来序中入間「。
ワキ「あらあさましや我ながら。無明の酒
の酔心。まどろむ隙もなき内に。あらた
なりける夢の告と。地「驚く枕に雷火乱
れ。天地も響き風遠近の。たづきも知ら
ぬ山中に。おぼつかなしや。恐ろしや。
歌「不思議や今までありつる女。/\。と
り%\化生の姿をあらはし。あるひは巌
に火焔を放ち。または虚空に焔を降らし。
642
:
秋魚
:2016/03/25(金) 01:23:26
(無題)
姨捨山
俤や姥ひとりなく月の友
姨捨山
俤や姥ひとりなく月の友
? いざよひもまだ更科の郡かな いざよひもまださらしなの郡哉
? 更科や三よさの月見雲もなし 越人
? ひよろひよろと尚露けしやをみなへし 尚
ひよろひよろとこけて露けしやをミなへし
? 身にしみて大根からし秋の風
? 木曾のとち浮世の人の土産かな (よにおりし人にとらせん木曾のとち)
木曾のとちうきよの人のミやげ哉
? 送られつ別ツ果ては木曾の秋
?? 身にしミて大根からし秋の風
? 善光寺
月影や四門四宗も只ひとつ
善光寺
月影や四門四宗も只一
? 吹とばす石ハ浅間の野分哉?? (秋風や石吹颪すあさま山)
落
(吹颪あさまは石の野分哉)
とばす ハ
吹(落す)石をあさまの野分哉
・・「更科紀行」 本文と真蹟草稿こきまぜると迫力があります
・・将門の太刀のごとく三日月のごとく。両刃の剣ではありません。
643
:
秋魚
:2016/03/25(金) 03:13:31
(無題)
芭蕉庵「三ヶ月日記」素堂序
我友芭蕉の翁、月にふけりて、いつはとはわかぬ物から、ことに秋を待わたりて、他の求めなし。・・・
・・・初秋はくれぬ。中の秋に至りて、はつ月のはつかなる比より、夜毎に名月の思ひをなしくもりみはれみ扉をおほふことまれ也。我庵ちかきわたりなれば、月にふたり隠者の市をなさむと、みづから申つることぐさも古めきて、入りくる人々にも句をすゝむる叓になりぬ。昔より隠の実ありて、名の世にあらはるゝ叓、月のこゝろなるべし。
隠にしてすゞむも哀三かの月 素堂
三か月や地は朧なる蕎麦畠 芭蕉
影ちるや葛の葉裏の三かの月 杉風
・・・
三日月はこの杉風の第三までに尽きると思うが、如何。
羽黒山の呂丸に託して、後支考が死の前年(1730)に一巻の書として開板した「三日月日記」。
翁の遺状によれば真正な「三日月日記」は伊賀にあるという。が、これはfakeであろう。
・・
鶴岡にある草稿と支考の板本とはいくつか異同あり。
・・「三日月日記」は図書館から借りたものだが、予想期待に反して大部は読めないものだった。「隠にしてすゞむも哀三かの月」素堂の句は、板本では「隠にして進むも哀三かの月」とあり支考の歪曲がめにつく。・・支考はこういう細工をするものと理解する格好の書物か。
・・芭蕉は「更科紀行」などと同じく草稿のまま未完成に残して他の心ある弟子に作品の成立を委ねたのではないか。推敲の過程をそのまま残すそれが本来の作品のすがたともとれる。三日月日記という未完の部分を残して秘すことを意図した。
・・お調子者の支考はそのあたり曲解とみる。
644
:
秋魚
:2016/03/27(日) 01:42:08
(無題)
・・
Non ce n'est rien qu'une chanson qui revient quelquefois
Rien qu'un sourire, en souvenir d'un garçon d'autrefois
Quand mes jours sont gris
Qu'il neige sur ma vie, il revient dans ma mémoire
Au lycée Français un soir il m'attendait
Il souriait Nicolas
いえ 時々思い出されるのはひとつの歌にすぎない
昔会った男の子を思い出して浮かべる、ひとつの笑みにすぎない
私の日々が灰色のとき、
私の人生に雪が降るとき、彼が私の記憶によみがえる
フランス系のリセで ある夜彼は私を待っていた
彼は微笑んでいた ニコラは
{Refrain:}
Nicolas, Nicolas, ma première larme ne fût que pour toi
On était, des enfants, notre peine valait bien celle des grands
Nicolas, Nicolas, c'était de l'amour, on ne le savait pas
C'est la vie, qui nous prend
Qui nous emmène où elle veut et où elle va
ニコラ、ニコラ、私の初めての涙はあなたのためだけではなかった
私たちは子供でも、私たちの苦しみは大人たちの苦しみと同等だった
ニコラ、ニコラ、それは恋だったのか、私たちには分からなかった
人生は、私たちをとらえ、
私たちを思うがままに運んでいく
Un homme enfant, aux yeux trop grands, sur un quai, qui pleurait
Il a neigé, beaucoup depuis, sur là bas, sur Paris
Et il ne sait rien, de moi et de ma vie
Ce que je fais, qui je suis
Il ne connaît pas, l'autre Maritza, il garde la vraie là-bas
子どもっぽい男が、駅で、とっても大きな目に涙を浮かべていた
その後、雪がたくさん降った、あちらでも、パリでも
そして彼はいま私について、私の人生について何も知らない
私が何をしたか、何であるのか
彼は別のマリヅァを知らず、彼はあちらで本物を守り続けている
Nicolas, Nicolas mon premier chagrin s'appelle comme toi
Je savais, que jamais, je ne reviendrai ici auprès de toi
Nicolas, Nicolas c'était de l'amour, on ne le savait pas
C'est le temps, qui s'en va
Qui invente toutes nos peines et nos joies.
ニコラ、ニコラ 私の最初の悲しみにはあなたの名前がついている
私はわかっていた、けして、ここへあなたのそばには戻らないだろうと
ニコラ、ニコラ それは恋だったのか、私たちには分かっていなかった
時は、過ぎて行き
私たちの苦しみや歓びをすべて創り出す
645
:
秋魚
:2016/03/29(火) 02:35:00
(無題)
・・このところ自治会の仕事をふりむけられてきて、今日は近辺のパトロールコースを下見した。自転車で遠出をして身近なところはいつも通っているはずだが、意外と盲点になっていて知らない道と場所が多い。
・・吉野街道に沿った裏道は山の斜面にも沿ってアップダウンの坂が入り組んでいる。さながら迷路のようだ。柚子、夏みかん、カボスとか柑橘が取り入れもなされずそのまま熟して落下しているのもよくみかける。先日越生に行った時は、無人の里でひとつ柚子をみやげにもらった。家で料理につかったが、いいものだった。
この地域やはり外にでないと何も起こらない。
吉野街道から川にむかって降りてゆく道があった。まあほんとに細い道。突き当たりの家などたぶん廃家でしょう。いろいろ草木の茂った道を下りてゆくと、いつもは万年橋の上から眺める多摩川の河原にでた。夏ならばここで川遊びもできるでしょう。いまは無人です。
・・これから草木も芽吹いて繁茂すると歩きにくくもなるだろう。斜面の草木の道に、赤い実のなるのを見つけた。これって千両とか万両とかじゃなくて、アザカではないだろうか。
木天珠(プンテックビーズ・木化石)の由来
エッチドカーネリアン
インダス文明期に、発見された技法により生まれたビーズエッチドカーネリアン。
天然石のカーネリアン(紅玉髄)にアルカリ性の溶液で人為的に模様付けをしたビーズです。
ナトロン(天然ソーダ)でカーネリアンの表面に様々な文様を描き、300度〜400度の熱で低温焼付けしたものです。
アルカリによる腐食加工で模様付けすることををエッチングと呼ぶことから、エッチングされたカーネリアンという意味の「エッチド・カーネリアン」と呼ばれます。
塩生植物の灰には、酸化ナトリウム(Na2O)が多く含まれ、その灰汁(あく)を煮詰めれば、玉髄を腐食する強いアルカリ液が出来ます。
エッチド・カーネリアンの登場には、石英と強アルカリ液(ソーダ灰の原料)、すなわちガラスの原料が関わっていたのです。
ヒマラヤ圏で見られるエッチドカーネリアンはチョンジーと同様の単純な文様が多く、チベット圏ではチョンジーと呼ばれジービーズファミリーの1つとされております。
エッチング技法は、インドの近隣国にも伝わり、ビルマ(現ミャンマー)のPYU(ピュー朝4世紀〜832年)では、化石化した木(オパール)に対してエッチングが行われました。
このビーズはPumtek Beads(プンテックビーズ)と呼ばれています。
646
:
秋魚
:2016/05/01(日) 07:54:30
(無題)
・・そろそろロングライドがうずく。青梅街道を甲州にぬける柳沢峠越えが目標だ。奥多摩からならクロスバイクでぬけるのも可能か。ネットの記事ではたしかに壮絶そう。丹波山村までは一度経験した。トンネルがいくつもあるがなんとかクリアできそう。奥多摩湖から離れて丹波山方面に向う登りスロープが実は顎がでる。のめこいの湯が目標だったからここもクリアした。・・その先が苛酷だという。シミュレーションではここ道の駅で小休憩。到着がはやく体力に余力があればそのまま丹波渓谷に向う。だんだらで30キロほど走らねばならない。柳沢峠で一休み。富士がみえればよい。・・ここからが大変。千メートル以上の落差のダウンヒルが待ってる。
・・シミュレーションはやめて近場のまだ見ぬ花の道を訪ねた。青梅杣保の霞丘陵と真浄寺。しぐれ桜を見てみたい。
・・ところで、桜ではなく梅。
一華開五葉 結果自然成
これを水無瀬三吟何人でみると、
雪ながら山本かすむ夕べかな 宗祇
行く水とほく梅にほふさと 肖柏
川風に一むら柳春見えて 宗長
舟さす音もしるきあけがた 祇
月や猶霧わたる夜に殘るらん 柏
・・梅花の五葉がみえますか?
647
:
秋魚
:2016/04/13(水) 01:41:31
(無題)
聖霊院の前では、鏡池が水をたたえています。明治の昔の頃はこの池のほとりに茶店があり、ここで一休憩した正岡子規が即興で詠んだのが、あの有名な俳句です。
「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
・・
648
:
秋魚
:2016/04/13(水) 22:40:30
(無題)
・・江戸武蔵野の怨霊はなんといっても平将門。いつの時代もこの霊が跋扈してると思って間違いない。深川芭蕉庵あたりにも必ず。日本史の大きな流れの中では聖徳太子が第一の怨霊の雄だ。甲斐の黒駒に乗って富士山を踏破したなど霊は神出鬼没。鬼霊だが悪霊か善霊かはわからない。平将門は鬼霊。太子は聖霊。ということにしておく。
・・法隆寺聖霊院。1284年(弘安7年)・・建て替えられたという神殿づくりの建物の中には、黒漆で仕上げた大きな厨子が3つ造り付けてあります。そのうち真ん中の厨子におさめられているのが、聖徳太子像。
・・45歳のときの姿を表したものと言われますが、重要な神事の際に用いる冠、巾子冠(こじかん)を頭にいただき、儀式用の笏(細長い板)を両手で抱く束帯姿
1284年。ドイツ・ハーメルンで約130人の子供が集団失踪(ハーメルンの笛吹き男のおこり)
・・4体の侍者像の他に、附(つけたり)として「木造蓬莱山及亀座付の銅造観音菩薩立像」がある。
これは聖徳太子像の、いわゆる「胎内仏」
・・後鳥羽院(1180-1239)
1284年は、院46回忌。
649
:
秋魚
:2016/04/15(金) 19:52:42
(無題)
・・義姉が逝去した。ぽつりぽつり故ある人が去る。
・・物理の労働がひさしいので、お天気もよく、自転車の解体−組立てを試みた。世の憂さ人の憂さを忘れるにはこれが一番。このハヤブサ号もう何年目になるのだろう。そろそろ本体の劣化疲労が来る頃だが。一応のブランド品でフレーム、ギア等はしっかりしている。・・Vブレーキの解除。レリーズも解除。前輪後輪の外しにかかる。ここまでは実はお手の物。後輪のギアチェーンの掛りはさほど恐くなくなった。フレーム本体を逆さまにしてあちこち調整清掃をした。フロントギアのところで乗車中変な音がするので何かと思っていた。ギアチェンジするパーツのネジが二本浮いて緩んでいたのを発見。+ドライバで締める。なるほど音が消えた。あぶないな。このまま放っていたらチェーンのネジが磨耗して急にぷっつん切れたりするだろう。手馴れた人はチェーンの長さも替えられるし、ギアの調節もたやすい。自分はあいかわらず素人です。
・・今年はもうひと踏張りハヤブサ号には頑張ってもらう。ブレーキが大切だ。輪行のためにエンド金具の取り付けも試みた。実は昨秋以来ですっかり忘れている。前回は固定の締め付けが甘く何度か車中でへたってしまった。袋にうまく収めるのでせいいっぱい。こんどはうまくやりたい。で、袋詰めは今回はやめてすぐ組立てにはいった。後輪のチェーン部分すんなりいかずもなんとか復旧する。前輪の据付はネジの回し方で車輪のセンターがずれるので細心の調節になる。これは失敗して試行錯誤の経験が生きる。リアブレーキの復旧も実はちょいむずかしい。ワイヤの長さが狂ったりするからだ。これも経験済。
・・祖父が法隆寺金堂古材から彫り起こした聖徳太子像が手元にある。太子千三百回忌の御会に下賜された真正の古材だ。博物館の科学班の方はそれは科学的な証明はできないという。
・・聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)。1921年(大正十年)が太子千三百回忌。・・この木像の開眼式は、法隆寺聖霊院で行われた。1923年一月十八日。この時のお墨付きの証書が実は先日兄の家から出てきた。聖霊院で開眼式が行われたなどやはり特別な彫像であろう。
・・法隆寺の創建者聖徳太子の住まう聖霊院は、実は、鎌倉時代1284年に造られたもの。が、ここは特殊な場所だ。平安末期から鎌倉期にかけて太子信仰が盛んになったという。政治的には推古天皇の摂政という以上のものではない。・・摂政で思い当たるのは、この時期、摂政後京極良経。
・・太子信仰というのは、深追いはやめておく。
650
:
秋魚
:2016/04/17(日) 15:13:18
(無題)
・・自転車の整備。フロントディレーラのネジを締めたのは失敗。あれは調節ネジだった。おかげでフロントギアがかからなくなってしまった。取説をみて調整したがうまくいかない。駅前の自転車ショップに相談に行く。可動域となんとかで二箇所の調節が必要。18百yenかかるとのこと。・・自分でチャレンジすることにした。
・・ショップの人の話ではネジの調節だけでは駄目ということだった。で結局ネジの調節を再度試みた。すると試し乗りをしてギアチェンジがうまく行くようになった。がどうもしっくり来ない。夜再度の調節。・・翌朝再度の調節。可動ポイントというのがあってここに注油を試みた。するとディレーラの動きが良くなり異音もなくなった。完全ではないがこれが限界か。フロントのギアチェンジはあまりやらない。遠乗りをした時トラブルが無ければよい。
・・すごい地震が熊本大分に起こった。東日本の震災から5年目で九州に来た。津波と原発の事故は無いようだが、マグニチュード7前後のが三連で来た。外人の観光客がぐーんと増えていたもののこれで急減か。東京オリンピックなど関東に来たら最悪だ。
・・阿蘇山は巨大な外輪山をもつクレータ形の火山だ。こんな火山めずらしいのではないか。ここも巨大な隕石衝突があったやもしれぬ。
・・アデン湾にもクレータ形の火山がある。
651
:
秋魚
:2016/04/19(火) 22:27:15
(無題)
・・熊本の地震。断層のずれ30キロにおよび2mほど地面が切れている。阿蘇山のカルデラに達しているというからまだまだ恐い。かつてない大地震がこれからやってくるかも。これも朕の不徳にいたすところという元首がいたら涙がでるが。
・・涙といえば、後鳥羽院の歌に
露は袖に物思ふころはさぞな置くかならず秋の習ひならねど
・・この露は涙のことそうです。
乾く間もなく秋くれぬ露の袖 井月
・・いかにも俳句の切れ味するどし。
秋の露や袂にいたく結ぶらむ長き夜飽かず宿る月かな 後鳥羽院
・・院も負けてはいない。露に宿る月なら、いたいか?
・・
652
:
秋魚
:2016/04/22(金) 21:17:05
(無題)
・・思考が腐食される風で自転車に乗ることにした。五月には柳沢峠にチャレンジしてみたい。先日調整したフロントギアの様子見だった。コースは玉川上水取水口から多摩川CRをくだり立川日野の橋をわたり土方歳三記念館からモノレールに沿って多摩動物公園、多磨センターまで行きなれた温泉がある。コースはほどよいアップダウンスロープでまったく快適。ここに馴れてしまうと青梅街道など恐くて走れない。・・フロントギアチェンジは完璧。気持ち悪くなるほどよくかかる。購入店の最初の調整なんだったかと思う。リアギアは逆に今ひとつ。ここも自前で調節できそう。復旧不能になりそうでやめておく。・・もう春が進んで新緑の季節。厚着をして出て失敗。出発前の想念と体調はまったくあてにならない。この頑固な想念の切り崩しと体調は新陳代謝の更新です。昔はよかった。
竹芝伝説(「更級日記」より)
・・いかなる所ぞと問へば、「これはいにしへたけしばといふさかなり。国の人のありけるを、火たき屋の火たく衛士(えじ)にさしたてまつりたりけるに、御前の庭を掃くとて、『などや苦しきめを見るらむ、わが国に七つ三つつくり据えたる酒壺に、さし渡したるひたえの瓢(ひさご)の、南風ふ吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見で、かくてあるよ』と、ひとりごちつぶやきけるを、その時、みかどの御むすめ、いみじうかしづかれたまふ、ただひとり御簾のきはに立ち出でたまひて、柱によりかかりて御覧ずるに、このをのこの、かくひとりごつを、いとあはれに、いかなる瓢の、いかになびくならむと、いみじうゆかしくおぼされければ、御簾をおし上げて、『あのをのこ、こち寄れ』と仰せられければ、酒壺のことをいま一かへり申しければ、『われ率て行きて見せよ。さいふやうあり』と仰せられければ、かしこくおそろしと思ひけれど、さるべきにやありけむ、負ひたてまつりて下るに、ろんなく人追ひて来らむと思ひて、その夜、勢多の橋のもとに、この宮を据ゑたてまつりて、勢多の橋を一間ばかりこほちて、それを飛び越えて、この宮をかき負ひたてまつりて、七日七夜(なぬかななよ)といふに、武蔵の国に行き着きにけり。・・
・・ここは三田済海寺のあたりか。月の岬もこのあたり。
河陽宮【かやのみや】
嵯峨天皇の離宮。現在の京都府大山崎町にあった。河陽すなわち河の北,淀川畔の風光明媚な山麓一帯の地に営まれ,水瀬(みなせ)などでの遊猟の足場に使われた。のち荒廃し,行幸(ぎょうこう)があれば使用して宮名も存続することを条件に861年山城国府の建物となる。
帰朝の後、筑紫にて、送りに詣(ま)で来たる唐人の帰るにつけて、河陽県の妃の女王の君に 中納言
何にかはたとへて言はむ海のはて雲のよそにて思ふ思ひは
*
済海寺
済海寺(さいかいじ)は、東京都港区三田四丁目に存在する浄土宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。江戸三十三箇所観音霊場の第26番札所である。札所本尊は亀塚正観世音菩薩。
東京都港区三田四丁目16番23号 位置 北緯35度38分37.4秒 東経139度44分29.3秒
・・更級日記に登場する皇女と武蔵国の武士との恋愛物語である竹芝伝説の「竹芝寺」の跡地に位置する。
・・1621年(元和7年)牧野忠成と念無聖上人によって創設。越後長岡藩藩主家牧野氏や伊予松山藩主家松平氏及びその定府家中が江戸での菩提寺として使用。
・・1859年(安政6年)にフランス総領事館となり、2年後には公使館となって1874年(明治7年)まで続いた。
・・1982年に済海寺にある旧越後長岡藩主家牧野家墓所の悠久山への改葬が行われるが、鈴木公雄を団長とする済海寺遺跡調査団による緊急遺骨調査が行われた。
653
:
秋魚
:2016/04/24(日) 17:50:08
(無題)
・・自転車の解体−組立て袋詰めを試みた。フレームに車輪を括りつけて固定するのがひさしぶりでちんぷんかんぷん。なんとか袋詰めまでもっていったがうまくはない。ネットでゴミ袋で代用したという記事があったが、恐れ入る。電車に乗せるには車輪をしっかり固定したい。チェーンの位置は一番軽い位置。インナーロウがベスト。リアディレーラだが逆の位置にして失敗。フレームが汚れてしまった。・・組立てた時後輪のブレーキが偏ってしまった。何故か?クイックレバーの固定位置でも調節できず。調節ネジを動かした。なんとか復旧。・・リアディレーラの調節ネジをすこし動かせて急に不安になった。ディレーラの調節はむずかしい。道路にでて試し乗り。やはりかかり具合がおかしい。すこしすこしネジを回して調節。一度はチェーンが外れたりした。復旧のさせ方もコツがある。あれこれやって深追いはしないことにした。・・ディレーラ調整はむずかしい。
昨日発艸庵
超然欲図南
用之而不勤
我聞之老耽
不急亦不緩
我聞之瞿曇
・・役の行者は母を鉢に載せて唐に逃れたという。隋の敬脱は天秤棒の一方に母を、一方に書物と筆を担って歩き、食事時になると母を樹下に坐らせ、村落に入り乞食をして食料を調え、母に供したという。
654
:
秋魚
:2016/04/26(火) 22:36:32
(無題)
・・日本書記の記述によると、木の種類によって、用途が定められているとのことです。
スギとクスノキは、浮宝(船)に、ヒノキは瑞宮(宮殿)、マキは死体を入れる棺として使えということです。法隆寺も薬師寺もすべてヒノキでできているそうです。
>・・法隆寺の伽藍は、1000年から1300年で伐採され、材料になっており、このような長い耐用年数のものはヒノキ以外にない。飛鳥の時代には、樹齢1000年、2000年のヒノキがあった。現在の日本では、木曽の樹齢450年が最高とのことで、これではとても堂塔ができない。ヒノキは、日本と台湾だけのもので、台湾では樹齢2400年から2600年のヒノキがある。」
・・樹齢1000年のヒノキを伐採、材料にすれば、1000年、2000年のものなら2000年もつ
・・大正十年(1921)太子千三百回忌。法隆寺金堂の古材一部取替えがあった。1300年という数に深い意味があるか。
>・・法隆寺の解体修理の時、屋根瓦を取り外すと今まで重荷がかかっていた垂木(たるぎ)が反り返ってきたそうです。昭和17年に五重塔、昭和20年に金堂の解体修理をするまで、創建以来この時まで部分修理はあったものの解体修理はされていません。鉋(カンナ)をかければ1000年以上経った今でも品のいいヒノキの香りがするそうです。
・・夏四月の癸卯の朔壬申に、夜半之後に、法隆寺に災けり。一屋も餘ること無し。大雨ふり雷震る。(670)
「法隆寺は焼けてはいない」
655
:
秋魚
:2016/04/30(土) 20:56:26
(無題)
・・自転車の微調整。ブレーキをすこし。ブレーキ鳴きを止めたい。方法は分かっているが、数度使用すると元の木阿弥。角度をつけて強く固定締めすればよいかも。
・・試し乗りというので、霞川サイクリングコースで今井の薬王寺までゆく。つつじはもう外れだろう。東青梅駅の横から成木街道にはいった。途中霞川にぶつかるはず。ここにでると左に折れて水源を遡ることにした。青梅丘陵の下を鉄道公園の方へ。もう細い小川というか水路。しかし水はきれい。さらにつづくが途中でバック。下流をめざした。・・この川やたらと鯉が多い。鴨などの水鳥も多い。天明の俳人加舎白雄がたずねたのはこの霞川であろう。井月もここに入ったか。谷野の真浄寺には必ず来ている。
・・自転車のギアチェンジは完璧。ブレーキももう鳴かない。この状態で奥多摩から懸案の柳沢峠へ。近いうちに。・・伊那にいった時は、予行とか直前まで準備はよくした。今度も最低限体力をつけてのぞみたい。何が起こるかわからない。
・・薬王寺は道に迷って何度か人に尋ねた。おかしなことに谷野の真浄寺と間違えていたり。自分もぼけましたか。・・参道の麓で野菜を売っていたはず。あった、あった。帰りに買おう。薬王寺は開基が鎌倉期末でそれでも本尊の薬師仏は聖徳太子作というが、ほんとかしら。人が多いけど花は盛りを過ぎています。さっと歩いて帰ることにした。・・野菜はエシャレットとラディッシュ。
・・青梅新町の牡丹園に寄った。ここも盛りを廻ったか。
*
露とくとく心みに浮世すゝがばや
若しこれ、扶桑(ふさう)に伯夷(はくい)あらば、必ず口をすゝがん。もし是、許由(きょいう)に告げば、耳をあらはむ。
山を昇り坂を下るに、秋の日既(すでに)斜になれば、名ある所々み残して、先ず、後醍醐帝の御廟を拝む。
御廟(ごべう)年経て忍ぶは何をしのぶ草
やまとより山城を経て、近江路に入て美濃に至る。います・山中を過て、いにしへ常盤の塚有。伊勢の守武(もりたけ)が云ひける「よし朝殿に似たる秋風」とは、いづれのところか似たりけん。我もまた、
義朝の心に似たり秋の風
・・それにしても気になるのは、常盤の墓。
>・・義経は一連の戦いで活躍をするものの、異母兄である頼朝と対立、没落し追われる身の上となる。都を落ちたのちの文治2年(1186年)6月6日、常盤は京都の一条河崎観音堂(京の東北、鴨川西岸の感応寺)の辺りで義経の妹と共に鎌倉方に捕らわれている。
・・常盤について、その後の詳細は不明である。侍女と共に義経を追いかけたという伝承もあり、常盤の墓とされるものは岐阜県関ケ原町、群馬県前橋市、鹿児島県郡山町(現鹿児島市)、埼玉県飯能市と各所にある。さらに、飯能市に隣接する東京都青梅市成木の最奥部、常盤の地には常盤が人目を避けて一時隠れ住まわされたという伝承があり、地名は常盤御前に因む
・・飯能あたりがそれらしい。関が原は無い。
656
:
秋魚
:2016/05/02(月) 01:06:02
(無題)
・・江戸の頃、高尾というのは吉原の名妓のことだ。高尾太夫。大坂新町が夕霧太夫。京の島原が吉野太夫。高尾は襲名されて何代か浮名を流した。おもしろいのは、二代目万治高尾。いろいろエピソードが多い。陸奥仙台藩主・伊達綱宗の意に従わなかったために、三叉の船中で惨殺されたというのはその一つ。伊達騒動の種にもなる。信憑性はないが、高潔な元政上人との色恋沙汰もある。
>・・江戸時代の日蓮宗の僧・元政(げんせい、1623-1668)。俗名を石井吉兵衛。京都の武
士の家に生まれた。13歳で彦根藩井伊直孝に仕える。19歳で病により帰郷する。泉涌寺の周律師に出家を断られ、江戸に赴く。江戸詰めの頃、吉原二代目三浦屋・高尾太夫と恋仲となる。だが、仙台藩主・伊達綱宗の太夫への横恋慕により、太夫は操を立て抗し惨殺(自死とも)されたともいう。
・・まことの話なら、おもしろいのは元政上人。井月は京の深草瑞光寺を訪ねて元政を慕ったそうだが、この高尾との恋話を聞いていたと思われる。武士がどういうものか、妓楼の遊女がどういうものかもよくみていた。
出て見る野守もつむやとぶ火野の雪まの若なけふもすくなき 信尋
「後鳥羽院四百年忌御会」寛永十五年(1638) 巻頭は後水尾院の霞で、
こひつゝもなくや四かへりもゝちどり霞へだてて遠きむかしを 院
この若菜の題の第二を詠んだのが、近衛信尋。
>・・慶長4年(1599年)5月2日、後陽成天皇の第四皇子。八條宮智仁親王の甥。幼称は二宮(にのみや)。母は近衛前久の娘・前子。母方の伯父・近衛信尹の養子となる。
和歌に極めて優れ、叔父であり桂離宮を造営した八條宮智仁親王と非常に親しく、桂離宮における交流は有名である。
・・逸話だが、六条三筋町(後に嶋原に移転)一の名妓・吉野太夫を灰屋紹益と競った逸話でも知られる。太夫が紹益に身請けされ、結婚した際には大変落胆したという話が伝わっている。
こちらは吉野太夫。一代限りだそうだ。
信尋も古今伝授を受けたが、三条西・幽斎流ではなく宗祇から近衛尚通へという近衛流伝授であったという。
657
:
秋魚
:2016/05/03(火) 02:05:54
(無題)
・・山頭火ふうにえいっ!といって旅に出る。ネットで甲州ツーリングの記事をみたら眼を瞠るものがあった。熊谷、飯能、青梅、奥多摩、丹波山、柳沢峠、塩山、甲府、身延、昇仙峡、笹子峠、上野原、檜原、秋川・・・熊谷 ざっと三泊四日で廻ってる。青梅街道は411でこの柳沢峠越えだけでもハードであろう。この方、最初から輪行は外しているみたい。帰りの20号甲州街道で笹子越えから大月あたりまでよほど嫌な思いで走ってる。よくわかる。この20号を避けて上野原から甲武峠へ廻ったというのもすごい。・・富士川沿いに身延の久遠寺までしっかり廻った。頭が下がる。
・・自称「古今伝授ライン」「火山峠ライン」を振り出しに、連句なら発句・脇の確度で柳沢峠越えが集中するメインであるだろう。
・・思考はこれ以上すすまない。横しぐれでも出てゆくべきか。体調はまあまあだが以前より体力は落ちている。頼るは気力のみ。丹波山までのトンネルも恐くはない。それからのアップダウンスロープ。これはきつそう。初日は柳沢峠を越えて塩山の大菩薩の湯に入れれば一安心。午後2時くらいには着きたいが。甘いか。東山梨の八日市場跡で芭蕉句碑をみる。笛吹川をこえて石和健康ランドは夕方までにゆけるか。勝沼等々力の万福寺には聖徳太子の黒駒の足跡がある。これは帰路に。
658
:
秋魚
:2016/05/04(水) 18:19:48
(無題)
・・よく晴れた。出発を期する前に、足馴らしに出た。青梅坂を越えて小曽木から成木のポタリング。安楽寺という成木ゆかりの寺がある。行基がざわざわ鳴る楠を調伏したという因縁だ。途中岩蔵温泉街のコンブリオという喫茶店を下見した。庭園がいい。帰りに寄ろう。・・安楽寺は地図では成木一丁目。岩井堂をこえて西にゆけどなかなか見つからない。いくつか寺社はあるが、安楽寺ではない。・・たまらず通りがかりの人に尋ねる。もう近いですよ。土地の人ですか。もとは山梨塩山です。え、明日行きますそこへ。ほー、奥多摩から大菩薩ラインですか。自転車はたいへんですよ。(おおかたの人は大変な道という)塩山は金山がありました。・・そうこういううちに安楽寺の参道が見えてきた。どうもありがとう。安楽寺はここらで一番大きな寺という。季節には桃の花畑がいい。杉の巨木もある。・・寺だが、宗派がわからない。元禄六年(1693)の書院造りの建物で江戸期のものは最古という。なかなか立派です。・・俳人歌人が立ち寄って句を残したというのもない。しかし行基が訪ねたというのはありそうだ。
・・足馴らし。ギアは着実にかかる。ブレーキも問題なし。タイヤは空気の圧が思案のしどころ。いつぞやはパンパンに入れて失敗した。なんとしてもパンクは避けたい。安楽寺は桃の花の頃にまた来てみたい。
・・思いついてポタリングした。小曽木、成木はほんとに近場。岩倉温泉には洒落たカフェがあった。また来ますといいながら訪ねていない。名前は・・もうひとつコンブリオというカフェレストランがある。外からみたが庭がきれい。このへんはほんとに田舎。知ってる人が車で訪ねてくるようだ。ちょっと躊躇ったがコーヒーでもいただこう。庭のテラス席があって先客がお二人。白い芳香をはなつ花があって、何の花ですか?先客のご婦人に声をかける。ナニワイバラ。聞きなれない名でもう一度。ナ、ニ、ワ、イバラ。・・はーバラの種ですね。よい香りです。
・・つれづれに話をする。わたしは近場ですけど、相方はけっこう遠く車できてる。庭の花をみによく来るそうだ。店の中の入り方もわからず。行って来ましょうか?いえ自分で行きますといおうとしたが、思わず、ええお願いします。お年寄りに仕事させるなんて無粋でしたね。・・食事もできるらしい。帰ってからネット検索したら、洒落たよい店とのこと。ナニワイバラも調べたら中国原産、1700年頃渡来したらしい。
・・この日はふたつ。芭蕉忌年ゆかりの事物があった。安楽寺本堂1693年、ナニワイバラ1700年。
659
:
秋魚
:2016/05/07(土) 16:55:49
(無題)
・・このままでは一生のトラウマ。柳沢峠。朝6時には出発するつもりが7時近くなってしまった。天候だけの相談で5月の連休真っ盛りになった。これも一興か。イタリアのブリンデシから8月の真っ盛りにフェリーでギリシャに渡った。あの殺人的な混雑と比べればどうということもあるまい。軽い気持ちでいたが、実際出て見るとマイカーを飛ばしてバイクライダーたちも群舞してまあ青梅街道は騒がしいのなんの。みな天気の良い休日の考えることは同じか。奥多摩までもはらはらどきどき進んだ。こんな出鼻でくじかれてはたまらない。・・奥多摩の駅から奥多摩湖まで411はトンネル多く恐い道だが、昔道という側道がある。ここも経験済みで最初からここに入ることにした。ところがこれが失敗。昔道へ入るところを間違えてしまい途中で土地の人に聞くと先にある階段を自転車を持ち上げてあがれば昔道です。とかなんとか。やむなく進むとその階段のあたりに熊蜂がぶんぶんしてる。自分の縄張りとでもいいたそうで他の虫が飛んでくると追撃して追い出す。細い道でその階段をあがるにはどうしても熊蜂に直撃するふうだ。そのうちいなくなるだろうと思って退避したが十分ほどしてもまだ滞空して去らない。引き返すことも出来ず困ったものだ。・・別の虫を追っかけて一時姿を消した間隙に思い切って突っ走った。なんとかここをクリア。しかし余計な時を使った。さらに悪いことにこの昔道まともに奥多摩湖の方には進まない。進んでるつもりが駅の方だったり。結局ぐるぐる遠回りしてやっと本道にはいったと思ったらまたおかしくなって回避しようとした白鬚トンネル入口にでた。あきらめてトンネルを走る。この日はバイクが爆音をあげてトンネル内は大音響。こわいのなんの。
・・トンネルをいくつか抜けて奥多摩湖畔に着いた。ライダーが大挙して集まってる。ここから奥多摩周遊道路かそのまま411を柳沢峠の方へか、ここまでのライダーもいるだろう。チャリダーは大挙してというのはない。それでもよく出会う。・・競輪選手のレース用のシャツがあって、今日は、これを着用。これは目立つのかチャリダーはみなこんにちわという。・・しかし奥多摩湖に着くまでに余計なエネルギーを使った。柳沢峠なんてとても覚束なくなった。このあと湖の外れの深山橋。ここから丹波山村まではいつかチャレンジした。かなりの急坂もある。ここにくるチャリダーは本格的ないい自転車に乗ってくる。ナルシマのシャツのサイクリストもいて。クロスバイクのママチャリ風なのは自分くらい。着ているシャツだけは立派なものだが。丹波山村の食堂で軽食をと思ったが、あまりに人多くごちゃごちゃなので、自前の稲荷寿司で休憩。水分を補給して、これから未知の柳沢峠までたいへんな道だという。勇気をだして出発。
・・実はここから柳沢峠まであまり憶えていない。アップダウンスロープはさほどでないが基調はアップ。トンネルがいくつかある。一番奥の峡谷の道は進行方向左手がすぐ断崖絶壁でとても覗く気もしない。右手は絶壁。こんなところによく道をつくった。道路の左半分はいつ崩落してもおかしくない。写真を一枚もとらなかったのは、一刻もはやくここを走りぬけたい一心。道路も亀裂がはいっていたり、ともかくこわい。
・・予期していた通りなかなか足が廻らなくなった。足着きで何度か休みを入れるようになった。後ろから来たチャリダーに何度も追い越される。かまわないことだ。歩いても完走が目標だから。しかしクロスバイクでチャレンジとは。誰もが何かいいたそう。一之瀬という集落に出てそこで休んでいるサイクリストに声かけた。柳沢峠はまだまだ?あと6キロくらい。ここまできたら引き返さない方がいい。峠からの下りは快適そのものですから。ダウンヒルはなんともないようだった。・・なんでも杉並から来たそうで経験者のようだ。このあたりのサイクリストはほぼプロみたい。でも女性のサイクリストにもよく会った。なんかしぶとく乗りこなす。自転車はやはりよいもの乗ってる。一日だけ足馴らしをしてにわかサイクリストの自分など及びもつかない。・・でもここは相当のプロでもきついはず。
・・丹波村から出たのが11時過ぎ。柳沢峠に到着したのが2時半くらいだったか。ここは富士山がよく見える。写真をとったが光ってよく写らない。眼では大きく見えても写真では小さな富士だ。近くにいたご婦人に聞くと、ホワイトバランスを調節します。そんな調節があったのか。で、彼女はよく撮れたようだ。娘さんらしきが「さっきママチャリでここまで来た人いたよ」という。それって自分のことではないか。フラットハンドルのクロスバイクではママチャリに見えるだろう。タイヤも太い。(これって後々のお笑い種になった)ママチャリで柳沢峠を踏破した。なんて自慢かも。
・・さあもう自転車に乗るのが嫌になった。峠の茶店もあったがパス。さていよいよ下山。御岳山のダウンヒルで馴れているから、壮大なダウンヒルだが快適なばかり。今までの苦労が一気に報われる。立体橋の道もあってよくこんな道をつくったと感心する。塩山の街まで一気か。だいぶ下ったあたりで大菩薩の湯という温泉があるはず。ずんずんいくとあった、あった。温泉がいいのは、人がたくさんいることだ。人がいるだけでうれしい。・・よくマインドの発想を変える生き方をいう人がいるけれど、マインドというのはあてにならない。もの、人、環境の直接的なリラクゼーションが無ければ、マインドも育たない。・・この日の夜は石和の健康ランドにいた。お風呂甲子園というので2連覇とか。実際、あらゆる「もの」の方法でリフレッシュ、リラックス、ヘルシーを追求するのは、さすが。・・大菩薩の湯は天然温泉。アルカリ性単純泉。ペーハー10以上ある。
・・国道411は柳沢峠を下って塩山に入る。大菩薩ラインというが、昔の大菩薩峠を越える登山道は車は走れない。裂石温泉というのは昔武田信玄の秘湯であったそうでちょうど大菩薩峠への登り口にある。中里介山の記念館もここにあり、生家は羽村の玉川取水場あたりというから、すっかり「大菩薩峠」の人になったようだ。甲斐の国の鬼門にあたるのは此の塩山。金山もあり塩山もあり水晶もとれるとか、それはどこかわからない。大菩薩ラインこんなイメージの暗い道はない。
・・大菩薩の湯を下ってゆくと明治の女流樋口一葉の生家のある街を通る。この辺の生まれなんだ。塩山でもやや山の手になるか。作家にならずとも女流の情念の育ちは思い及びがたきものがある。「たけくらべ」はたしか隅田川河畔の下町の話ではなかったか。情念の育ちを古いといって切り捨てるのが今の世かもしれぬが、自身は古いものしか興趣がわかない。うっすらと一葉の情念を想起しながら411を下りきった。
・・塩山駅の隣は東山梨。この駅のすぐ近くに江戸の頃は八日市場がひらけていた。俳人産科医の早川漫々の住んだ町だ。父親が早川石牙、子が安田雷石。いづれも医師で俳句をものしている。この八日市場跡に芭蕉の句碑があるはず。雷石が建てた。・・東山梨の駅を尋ねてまわり近くまできて八日市場跡を尋ねた。で、思う通りに見つけられた。
?? 明ほのやまた朔日に子規
660
:
秋魚
:2016/05/08(日) 12:50:42
(無題)
・・もうくたくたに疲れた。休憩できるならどこでもよい。石和健康ランドは会員登録したら無料入館券が送られてきた。気前のいい健康ランド。石和なのに天然温泉でないのが不満だがその分健康とヒーリングをとことん追求してるとみる。お風呂甲子園二連覇とか。朝までいられるのが魅力。自転車ツーリングなら仮眠でけっこう。柳沢峠越えの殺伐としたツーリングの後では騒がしい健康ランドは救い。インターネットも可能。みなとみらいの万葉倶楽部に近いか。温泉の評判がよくなるかどうかは後はレストランによる。ここの和心という店はよくつくってある。同じ生ビールでも美味いこと限りなし。
・・天気予報では急に明日は雨模様になった。さあどうするか。身延の久遠寺まで行く予定もあった。甲斐上野のみたまの湯もおもしろそうだった。身延にむけて行けるとこまで行って考えることにした。朝はやくに健康ランドを出た。
・・身延線に沿った道。鰍沢というところで富士川の川沿い国道52号へでるか、すこし東へ迂回して山の中に入り峠をこえて線路沿いをめざすか。方法は二つ。ネットでこの国道はとてもきついというので、峠越えの道を選んだ。・・鰍沢に行くまで140という雁坂道を笛吹川に沿っていった。ところが途中でせまい車道一本になり車も多い。やむなく沿道を探した。田んぼなどある道を人に聞き聞き、うわっと赤い花畑にでた。芥子の花?でも観賞用の花でしょう。
・・午前中雨はもちそうだ。身延山めざしていけるとこまで行こう。雨になったら身延線で輪行すればよい。鰍沢から東へ山越えの道。けっこう大回り。トンネルもある。下部温泉というところまで行くはず。峠を二回越えたか、憶えていない。帰りはこの道走りたくない。火山峠に似ている。
・・下部温泉から身延の駅までまだある。富士川の両岸に道がある。右岸は国道で敬遠。あとでわかったが、身延山に近いあたりでは国道52も道幅がひろく快適な歩道もある。この国道甲府からは左手が富士川の川原で、車も多くやめた方がいい。帰路はいいかも。・・というわけで帰りはこの道を走った。ともかくダンプが多い。右も左もまったく嫌な道。
・・そうこうして身延山の入口まできた。
・・身延山詣での客が多いと想像したが、いたって閑静。久遠寺は日蓮宗の総本山。中山の法華経寺が総本山かと思っていたが、よくわからぬ。日蓮の墓があるのはこちらの方。千葉の生まれで、清澄山にも大きな寺があるらしい。法華経を一義におく宗派は多くあり、日蓮はその総元締めならこの久遠寺は大本山。もっと人が集まってもよいはず。時節が外れていたか。大門をくぐると長い石の階段があり菩提梯というが287段ある。南無妙法蓮華経になぞらえて7階梯のつくり。えっちらえっちら登るのが供養らしい。行くか行かぬか思案して、上から降りてきた老夫婦に様子を尋ねると、奥の院まですべてめぐってきたという。せっかく来たからすべて拝んで行こうということらしい。若い頃は夫婦手をとって鳳来寺の石段も登ったという。鳳来寺はすごいですよ。芭蕉は登りきらなかった。羽黒山も登ったとか、ともかくすごい参拝客だ。・・それでこの階段もぜひ登るようにすすめてくれたが、ハイといって一区画だけ進みました。五重塔や大伽藍には興味なし。身延山まで来たことにします。・・そして昼食をとっていると、ぽつりぽつりと雨が来た。・・身延の駅にいって輪行に切り替えるかさてと迷ったが、微雨でしょう。このまま国道52で石和までもどることにした。恐怖の52でしたが、歩道も完備されておりさすが国道という感じでしばらくはよいサイクリング。後ろから雨脚が追いかけられてくるふう。甲府までなら50キロ、鰍沢まででもけっこうある。みたまの湯に寄るなど予定をすべてキャンセル。石和の健康ランドまでもどることにした。しかし52号は車の数も多く二度と走りたくない道だ。特に対向車線は最悪。ネットの記事の人はよく走った。・・石和から身延線沿いに久遠寺まで来ただけでよい巡礼になった。
・・感動の二日間。柳沢峠越えは発句。身延久遠寺行きは脇、といったところ。芭蕉「更科紀行」で姨捨山の月見が発句。善光寺詣でが脇、といったところ。ここに深いものがある。わかっていたのは翁と井月のみ。・・さて三日目は帰路。楽しみは自転車をたたんでの輪行。石和駅の先から411に出て、勝沼インターチェンジこのあたりに等々力の万福寺がある。ここに寄ってまた芭蕉句碑がある。聖徳太子の馬蹄石もある。健康ランドのフロントでみっちり行く道を案内してもらう。ここの健康ランド、サービスは抜群。さすが甲子園連覇だけある。山梨駅から140の裏の「ほったらかしの湯」も思案したが、温泉は疲れて入るのが一番。ここもパス。万福寺によって帰路輪行に決めた。ともかく等々力の交差点に出なければ。ポイントで人に尋ねるのがうまくなった。無駄の無い情報がいつも得られる。で万福寺もすぐにわかった。
661
:
秋魚
:2016/05/12(木) 13:07:37
(無題)
・・自転車に乗りながらの情報はやはり粗雑なところある。塩山の大菩薩ラインをくだって一葉の里とかの文字が目に入ったから、てっきりここは明治の女流樋口一葉の生地と認識した。
「・・東京府第二大区一小区内幸町の東京府庁構内(現在の東京都千代田区)の長屋で生まれる。本名は樋口奈津。父は樋口為之助(則義)、母は古屋家の娘多喜(あやめ)・・樋口家は甲斐国山梨郡中萩原村重郎原(現:山梨県甲州市塩山)の長百姓。・・父の則義も農業より学問を好んだ。多喜との結婚を許されなかったため、駆け落ち同然で江戸に出たという。
樋口奈津(戸籍名)
樋口夏子
1872年5月2日生誕 東京府内幸町
生誕は東京だが、塩山から両親が駈落ちででてきた。ほぼ塩山の情念を継いでいる。
・・少女時代までは中流家庭に育ち、幼少時代から読書を好み草双紙の類いを読み、7歳の時に曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと伝えられる。
・・名家の令嬢であった田辺龍子(三宅花圃)は「思い出の人々」という自伝の中で、「萩の舎」の月例会で、友人と床の間の前で寿司の配膳を待ちながら「清風徐ろに吹来つて水波起らず」という赤壁の賦の一節を読み上げていたら、給仕をしていた猫背の女が「酒を挙げて客に属し、明日の詩を誦し窈窕の章を歌ふ」と口ずさんだのに気付いて、「なんだ、生意気な女」と思っていたら、それが一葉で、
「清風徐ろに吹来つて水波起らず
「酒を挙げて客に属し、明日の詩を誦し窈窕の章を歌ふ
徐に柳のかぜや小鮎くみ 井月
また、発見!
よみ倦ぬ青梅どきや三国志
・・青梅の多摩川で「赤壁の賦」を思い浮かべていたのがわかる。
662
:
秋魚
:2016/05/16(月) 14:57:05
(無題)
・・自転車の解体袋詰めを塩山の駅でやってみた。勝沼の駅はスペースがなく輪行はしづらいと何かで読んだ。勝手知った塩山へ。411をそのまま行けばよい。・・塩山駅の駐輪場の脇は人通りも少なく格好の場所がある。だいぶ手馴れては来たが最終の詰めがまだ甘い。きれいに車体を収納できないのはクロスバイクの限界もあるが、もうすこしうまくなるはず。車内にもちこむにクレームが無いだろう程度でまとめる。
・・勝沼の戦いというのがあった。
>・・甲州勝沼の戦い(こうしゅうかつぬまのたたかい、慶応4年3月6日(1868年3月29日))は、戊辰戦争における戦闘の一つ。・・同年3月4日から新政府軍の土佐藩の板垣退助、薩摩藩の伊地知正治らが先鋒総督府参謀として、新政府軍3,000を率いて甲府城に入城した。・・新選組は甲陽鎮撫隊と名を改め、近藤勇は大久保剛(後に大和)、副長の土方歳三は内藤隼人と変名して、3月1日に江戸を出発し甲州街道を甲府へ向かった・・甲陽鎮撫隊は勝沼から前進し、甲州街道と青梅街道の分岐点近くで軍事上の要衝であるこの地に布陣した。300いた兵は恐れをなして次々脱走し、121まで減ってしまったという。・・3月6日、山梨郡一町田中村・歌田(山梨市一町田中・歌田)において甲陽鎮撫隊と新政府軍との間で戦闘が始まった。戦況は鎮撫隊側が不利で、新政府軍からの砲撃で大砲は破壊された。のち、近藤は勝沼の柏尾坂へ後退し、抗戦を続ける。
・・等々力の交差点から大月方面へすすむと柏尾坂ですね。このあたり一帯戊辰戦争の戦場だったようです。
・・甲州の葡萄つくりは早川漫々の知恵だとも聞いている。
663
:
秋魚
:2016/05/22(日) 03:43:48
(無題)
いなづまやとゞまるところ人のうへ?? 白雄
・・相模の大山不動堂の参道にこの句碑があるという。大山は自転車で廻ったところだが、この碑はまったく気がつかなかった。
寛政5年(1793年)9月13日、加舎白雄の三回忌に當所春秋庵社中建立。
・・芭蕉の百回忌年ではないか。偶然か。
世ははかな電光石火酒くまん
・・おなじく『葛の葉表』(中村伯先編)に載っている。
白雄の代表作
人こひしひともしごろをさくらちる
・・東京墨田区の白鬚神社に句碑がある。この冬木母寺を訪れた時すぐ近くにあったはず。これもまったく気がつかない。よし見つけたとしても文字は磨耗してほぼ読めないだろう。
「白を坊は国を威すに兵革をそなへて、かつて人を和するの玄徳なし」・・道彦による白雄評が有名だが、過激派か。
・・八王子で春秋庵でなく松原庵を継いだ榎本星布の存在が気になる。白雄に私淑した。
『葛の葉表』には
吹いるゝ梅を栞や宇治拾遺
・・
蝶老てたましひ菊にあそぶ哉
散花の下にめでたき髑髏かな
咲花もちれるも阿字の自在哉
『葛の葉表』
天明5年(1785年)、中村伯先は芭蕉の句碑を建立。加舎白雄書。
天明6年(1786年)、記念集『葛の葉表』(伯先編)刊。自序。白雄跋。
白雄、暁台、碩布、星布、闌更、蝶夢ら多士済々。・・世は天明の大飢饉真っ盛り。
天明の大飢饉(てんめいのだいききん)とは、江戸時代中期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。
>・・天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による更なる冷害をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。・・天明2年(1782年)から3年にかけての冬には異様に暖かい日が続いた。
・・被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと杉田玄白は『後見草』で伝えているが、死んだ人間の肉を食い
・・被害は特に陸奥で酷く、弘前藩(津軽藩)の例を取れば死者が十数万人に達したとも伝えられており[3]、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況
・・異常気象の原因は諸説あり完全に解明されていない。有力な説は火山噴出物による日傘効果で、1783年6月3日 アイスランドのラキ火山(Lakagígar)の巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火)と、同じくアイスランドのグリムスヴォトン火山(Grímsvötn)の1783年から1785年にかけての噴火である。これらの噴火は1回の噴出量が桁違いに大きく、膨大な量の火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に低温化・冷害を生起し、天明の飢饉のほかフランス革命の遠因となったといわれている。
・・天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が噴火、浅間山の天明大噴火は8月5日から始まり、降灰は関東平野や東北地方で始まっていた飢饉に拍車をかけ悪化させた
等順(とうじゅん、1742年(寛保2年) - 1804年(文化元年)3月25日)は、江戸時代の大僧正。 東叡山寛永寺護国院第13世住職、信州善光寺別当大勧進第79世貫主、養源院第11世住職を歴任。
・・1782年(天明2年) 地元信濃国出身者で近世初めて、信州善光寺別当大勧進第79世貫主に就任。
1783年(天明3年) 浅間山大噴火被災地である上野国鎌原観音堂(現群馬県嬬恋村)へ赴き、念仏供養を30日間施行。食糧等を物資調達、被災者一人に白米5合と銭50文を3000人に施す。
善光寺に戻り、天明の大飢饉飢民救済のため、善光寺所蔵の米麦を全て蔵出しして民衆に施す。救済を受けた人々が等順の恩に感謝して、集まり掘ったのが大勧進表大門前にある放生池。[1][2][3]
1784年(天明4年)2月 融通念仏血脈譜(お血脈)を新たに簡略化して作成、参拝者へ配布を始める。等順は生涯でお血脈を約180万枚配布。落語の題材にもなり、善光寺信仰の全国的普及
・・善光寺を世に知らしめたのはこの等順。お血脈信仰の流布もこの等順。
・・1783年8月5日(天明3年7月8日) 大噴火。天明噴火 噴出物総量4.5×108m3、火山爆発指数:VEI4。
4月9日(旧暦。以下この項目では同じ)に活動を再開した浅間山は、5月26日、6月27日と、1か月ごとに噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けた。
6月27日からは噴火や爆発を毎日繰り返すようになっていた。日を追うごとに間隔が短くなると共に激しさも増した。
鬼押出し溶岩流の範囲
7月6日から3日間に渡る噴火で大災害を引き起こした。最初に北東および北西方向(浅間山から北方向に向かってV字型)に吾妻火砕流が発生(この火砕流は、いずれも群馬県側に流下した)。続いて、約3か月続いた活動によって山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発・噴火の震動に耐えきれずに崩壊。これらが大規模な土石雪崩となって北側へ高速で押し寄せた。高速化した巨大な流れは、山麓の大地をえぐり取りながら流下。鎌原村(現嬬恋村大字鎌原地域)と長野原町の一部を壊滅させ、さらに吾妻川に流れ込んで天然ダムを形成し河道閉塞を生じた。天然ダムは直ぐに決壊して泥流となり大洪水を引き起こして、吾妻川沿いの村々を飲み込みながら本流となる利根川へと入り込み
・・天明期の俳人は、浅間の噴火と大飢饉がトラウマとなった。
664
:
秋魚
:2016/05/25(水) 01:30:33
(無題)
太田道真禅門のかたへ七朝の祝言に遣し侍る 長歌
あら玉の 年はむかしに 立かへり 世ものとやかに 四方のうみ 八のあつまの 国つかせ 花を匂はす ことのはに 六くさ七くさ つむ人の よはひも遠き むさしのゝ うけくる花の うけかたき 身は敷島の あま人に むまれきつゝも うきしつむ うき世の旅に 年をへて 雲井はなるゝ 老鶴の 羽杖つかれて 音になくを 千代のともつる あはれとて やとりをかせる 松かえを おなしみとりの かけたかき 山田の杉の いろかへす 君と人との 身をあはせ ちとせをかはし つかえなん やとる此宿 万代はへん
かへし歌
七草やことのはくさにはるをつむ千とせそ遠き武蔵野のはら
心敬が太田道真に贈った歌
文明三年(1471)
一月四日 東常縁(とうのつねより)が宗祇(そうぎ)に古今和歌集に関する秘説を教授(古今伝授)
九月十二日 桜島大噴火
665
:
秋魚
:2016/05/25(水) 17:55:52
(無題)
安積山 N37度27分10秒 E140度23分28秒
長岡市今朝白 N37度27分01秒 E138度51分37秒
福島県双葉郡双葉町歴史民族資料館 N37度27分01秒 E141度00分26秒
・・E138度51分37秒に沿って南下すると、
青梅真浄寺−郡上大和妙見宮の古今伝授ラインと交差するのは、青梅街道411の柳沢峠ラインのもっとも北よりで接する地点。
青梅真浄寺 北緯35度48分18秒 東経139度17分18秒
妙見宮 岐阜県郡上市大和町牧814-1??北緯35度48分42.48秒 東経136度55分24.79秒
因みに、大菩薩峠は、北緯35度44分9秒 東経138度51分12秒
ここからやや奥多摩よりに入った地点で、交差。
沼津 高尾山古墳 北緯35度7分22.73秒 東経138度51分40.22秒
三島大社 北緯35度7分20.66秒 東経138度55分7.79秒
丹波山温泉 山梨県北都留郡丹波山村890 北緯35度47分23秒 東経138度55分19.9秒
666
:
秋魚
:2016/05/26(木) 21:30:58
(無題)
・・西行、芭蕉。この二人「古今伝授」とは無縁。西行は歌詠みだが師らしきはいない。ほぼ漂泊と独詠の歌人。芭蕉は北村季吟という師がいたが「古今伝授」はない。季吟は松永貞徳から「古今伝授」もどきがあったらしい。貞徳自身も細川幽斎からの伝授もどきといわれる。古今伝授が体をなすのは、歌人連歌師俳諧連歌師までで生粋の俳諧師には形が無い。
・・柳沢吉保は北村季吟から古今伝授を受けた。
>柳沢氏は清和源氏の流れを引く河内源氏の支流、甲斐源氏武田氏一門である甲斐一条氏の末裔を称し[注釈 1]、甲斐国北西部の在郷武士団である武川衆に属した。
・・元禄13年(1700年)から翌元禄14年にかけて、吉保は武田信玄の次男・龍芳(海野信親)の子孫とされる武田信興を将軍綱吉に引きあわせ、高家武田家の創設に尽力する[31]。高家武田家は柳沢家から何度か養子を迎えている[32]。
・・翌宝永元年(1704年)12月21日、綱吉の後継に甲府徳川家の綱豊が決まると、綱豊の後任として甲斐国甲府城と駿河国内に所領を与えられ、15万1200石の大名となる
・・同年2月19日の甲府城受け取りは家臣の柳沢保格・平岡資因らが務めている[36]。3月12日、駿河の所領を返上し、甲斐国国中3郡(巨摩郡・山梨郡・八代郡)を与えられる
・・同年4月10日から4月12日には甲斐恵林寺(甲州市塩山小屋敷)において武田信玄の百三十三回忌の法要を行なっている
・・宝永6年(1709年)2月19日(3月29日)、将軍綱吉が薨去したことで、幕府内の状況は一変した。代わって新将軍家宣(綱豊)とその家臣である新井白石が権勢を握るようになり、綱吉近臣派の勢いは失われていった。
・・1714同年11月2日に死去・・享保9年(1724年)3月11日に吉里は大和国郡山への転封を命じられ、永慶寺の大和郡山移転に伴い同4月12日に吉保夫妻の遺骸は恵林寺(甲州市塩山小屋敷)へ改葬され
柳沢 保光(やなぎさわ やすみつ)は、江戸時代中期の大名。大和郡山藩第3代藩主。1768年(明和5年):甲斐守
・・やなぎさわ やすみつ江戸後期の大和郡山藩主。初名は安信、号は尭山、甲斐守と称する。茶道を片岡宗幽に、和歌を日野資枝に学び、御家流の書を能くするなど諸芸に秀でた。
・・日野資枝から古今伝授を受けている。
青梅街道の柳沢峠は江戸の柳沢家のゆかりということか。
・・青梅の文人根岸典則、浄月律師は、日野資枝の門人として京に入ったというが、やはり甲州裏街道で大菩薩峠を越えたのではないだろうか。
667
:
秋魚
:2016/05/28(土) 10:37:20
(無題)
・・
第111代 後西(ござい)天皇 寛文四年五月(1664)、後西天皇が御水尾法皇より古今伝授を受けられた
第112代 霊元天皇 天和三年四月(1683)、霊元天皇が御西天皇より古今伝授を受けられた
第115代 桜町天皇 延享元年5月(1744)、桜町天皇が烏丸光栄より古今伝授を受けられた
第116代 桃園天皇 宝暦10年2月(1760)、桃園天皇が有栖川官職仁親王より古今伝授を受けられた
第117代 後桜町天皇 明和4年2月(1767)、後桜町天皇が有栖川官職仁親王より古今伝授を受けられた
第119代 光格天皇 寛政9年9月(1797)、光格天皇が後桜町天皇より古今伝授を受けられた
第120代 仁孝(にんこう)天皇 天保13年5月(1842)、仁孝天皇が光格天皇より古今伝授を受けられた
・・いわゆる御所伝授の系譜。
・・有栖川宮職仁親王(ありすがわのみやよりひとしんのう)
霊元天皇の皇子としては兄尊昭法親王に次ぎ歌道に優れ、桃園・後桜町・後桃園の3天皇をはじめとして300名に伝授した。父から受け継いだ書道にも造詣が深く、有栖川流書道の創始者
・・有栖川宮職仁から、300人に古今伝授?
第121代 孝明天皇
第122代 明治天皇
・・このあたり古今伝授は詳らかでない。ただし明治天皇は御製歌は多くある。
・・有栖川宮職仁から、300人に古今伝授?
- 正仁親王 - 職仁親王 - 織仁親王 - 韶仁親王 - 幟仁親王 - 熾仁親王 - 威仁親王
* 戊辰戦争 ・・新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍した。
・・旧幕府軍は近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城を防衛拠点としようとした。しかし東山道を進み信州にあった土佐藩士・板垣退助、薩摩藩士・伊地知正治が率いる新政府軍は、板垣が率いる迅衝隊が甲州へ向かい
* 有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日(1835年3月17日) - 明治28年(1895年)1月15日)は、江戸時代後期〜明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。号は初め「泰山」、後に「霞堂」。階級・勲等・功級は陸軍大将大勲位功二級。
・・御所伝授の系は、立派な軍人ですな。
・・和宮親子内親王と婚約していたことで知られる。
668
:
秋魚
:2016/05/29(日) 14:20:28
(無題)
鶯の水田にうつる山の影
春の行宵のくらさや惹き蟇の声
行く春は木々の影さす水の床
花を待つ雨や木の間の底明り
葛水やすわりて細き膝頭
見わたして出水の跡の残暑哉
初しぐれ鯲をはかる枡のうへ
西日さす窓や小春の運び雨
雨晴れやかしら揃えし楢林
・・早川漫々にこんな佳句が多いのは知らなかった。
669
:
秋魚
:2016/05/31(火) 00:52:23
(無題)
蝶の飛ばかり野中の日かげ哉
・・芭蕉が「野ざらし紀行」の旅の途中で詠んだ句とされる。榎本星布がこの句碑を八王子永福稲荷神社に建てた(1800)。今在るものは昭和24年松原庵門人による再建。
・・星布の墓は八王子元横山町の大義寺にあるという。青梅吉野街道の端から滝山街道をどこまでも南下し八王子の駅まで自転車を走らせた。あきるのインターから戸吹トンネルを越えていつもは高尾街道を走ったが、この日は直進。創価大の広い敷地を越えて道の駅の曲がり角をまっすぐ行けば浅川橋をわたり大義寺も近い。八王子郊外は起伏に富んだ丘陵があってアップダウンスロープやトンネルが多い。ひよどりトンネルというのはけっこう長い。道自体は幅も広く快適だ。浅川をこえると大義寺はすぐにわかった。
・・龍華山大義寺とあって宗派はわからない。調べたら真言宗智山派という。墓地をうろつくのはあまり気持ちのいいものではない。清掃人の人に尋ねたら入り口のところに星布の墓があるという。松原庵で名が通っている。都指定の保存碑でもあまり訪ねる人もないか。小さな墓碑で「咲花もちれるも阿字の自在哉」の句が刻まれている。
・・伊那の中村伯先もそうだが星布も天明の時代に派閥をこえて蕉風俳諧の結束を意欲した。白雄の望んだことであろうが。
蝶の飛ばかり野中の日かげ哉
・・この句碑は八王子ほかあちこちにいくつか見られる。
「霞みわたった春の野を折々蝶の飛び交う羽だけが、わずかに野中の日陰である。春の光に満ちた野の様をよくあらわしている。」
埼玉小川町の松郷峠にあるものは、ほとんど埋もれてみつけづらいが、いつか訪ねてみたい。
山崎北華という江戸の奇人は、「奥の細道」の足跡を辿ったが、那須野でこの句に触れている。
「聞きしに違はず。竪さま八十里。横或は廿里。或は十二三里の原なり。草もいまだ長からず。木といふものは。木瓜さへもなし。炎暑の折など如何にぞや。手して掬ふ水もなし。翁のほ句に有りし。
蝶の飛ぶばかり野中の日影かな
とはかゝる所にや有りけん。」
・・句の場所が特定されないのに、それらしき場所をもつのは、発句のよい力かもですね。
670
:
秋魚
:2016/05/31(火) 13:47:26
(無題)
猪牙で来し客驚かす一葉かな 井月
・・細長い小舟。吉原、深川の遊郭通いの客が使う。
・・深川近辺、隅田川沿いに散策していたのがわかる。
「一葉落ちて天下の秋」
A straw show which way the wind blows.(一本の麦わらを見れば風向きがわかる)
・・幕末の吉原は 空気も重かろう。
671
:
秋魚
:2016/06/01(水) 00:52:03
(無題)
月影をさこそ明石の浦なれど 雲井の秋ぞなほも恋しき
(列女百人一首??亀菊)
・・亀菊は、後鳥羽院に寵愛された白拍子。承久の乱後、院とともに隠岐に流れた。
江口の遊女といわれるが、
天王寺へ詣で侍りけるに、俄に雨降りければ、江口に宿を借りけるに、貸し侍らざりければ、よみ侍りける
西行法師
世の中をいとふまでこそかたからめ仮の宿をも惜しむ君かな
返し
遊女妙
世をいとふ人とし聞けば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ
江口は淀川の河口あたり、遊女の里。
・・雲井の井は当て字というも、月と井の乖離かな。
名月や院に召さるゝ白拍子 井月
672
:
秋魚
:2016/06/02(木) 14:54:02
(無題)
観音の甍みやりつ花の雲
花の雲鐘は上野か浅草か 翁
・・
囲碁に倦み弓にもあきて霞山
里の児の魚掴むなり鐘霞
乗合の込日を鐘の霞みけり
見せ馬に手を打つ頃や鐘かすむ
見るものゝ霞まぬはなし野の日和 井月
・・霞に焦点をあてた句作。といっても「霞」自体はフォーカスをとりにくいもの。
「鐘」と「霞」を同位したいくつかの句に注目。
雪ながら山本かすむ夕べかな 宗祇
行く水とほく梅にほふさと 肖柏
川風に一むら柳春見えて 宗長
舟さす音もしるきあけがた 祇
月や猶霧わたる夜に殘るらん 柏
・・水無瀬三吟何人百韻は「かすみ」にはじまる。「舟さす音」まで明け方。
まろび出る筆の軽みや朝霞
何処やらに鶴の声聞く霞かな
・・「朝霞」は「浅香」。霞は軽みを帯びた。
・・
673
:
秋魚
:2016/06/03(金) 17:46:23
(無題)
・・青梅街道奥多摩路で、いつも気になっていた将門神社を訪ねた。何度か通りかかったがついぞ訪ね当てたことはない。将門というバス停があってもいつも無人だった。ほぼ人家の無い道から街道沿いの山道を登ってゆくのをネットで確認していた。・・奥多摩までの道、もう何度か走っているが、いつも大変に緊張する。御岳まではよいにしても御岳から川井が異常に長く道幅もせまい。さらにダンプや暴走族まがいのライダーもよくくる。今日は平日だったのでまだよかった。先日の連休の時はすごかった。死にたくないので体ごと緊張する。自堕落になったらここのポタリングは最高だ。潜在している病を無化するのもこの道にある。甲府から身延までの富士川沿いの国道も似ているが、この奥多摩路の方がまだ雅趣がおおい。ダンプも煽りが無い。
・・鳩ノ巣の手前歩けば7分。ともかく参道の登り口をみつけたい。・・あった、あった。何やら標示がある。自転車の留められそうな空地もあって、ほんとに細い参道。ほぼ無人。
>・・鳩ノ巣駅の東方500mに「将門神社」があります。秩父地方では、秩父で生き残った将門一族が奥多摩側へ移住し子孫が繁栄したとの言い伝えがあります。将門神社は、将門の子の将軍太郎良門が亡父の遺影を刻んで奉納して将門宮(将門大明神)と呼び、やはりその子孫で当村の領主三田忠平が鎮守としてから栄え、かつては秩父地方からの参詣者でにぎわったといわれています。神社の境内には御幸姫観音像も建てられており、いまでも奥多摩町の民家では将門の愛姫・御幸姫のお札を戸口に貼っているのを見かけます。
・・ポタリングといっても、自分などより深い興味で調べもすすんでいる人は多い。無断借用で申し訳ない。みゆき姫という将門の愛妃もここに流れて来たかもしれぬ。・・御幸姫というのは、妻か娘かわからない。もともとすべて伝説上の話なのでどこまで何が真実か。ただし将門一族が秩父から奥多摩に流れたか、はじめから奥多摩に流れたかありえそうなことだ。戦国期の青梅の三田氏は将門の後裔を自認する。金剛寺の将門の梅の話も、将門一族が生きながらえねば、よい話にはならない。あるいは将門の後裔がつくった話なのかもしれない。
・・まったく隠れ里の神社と思える。山の斜面の下は多摩川の渓谷が深い。人家はぱらぱらあってもアルジェならカスバさながら。山の地理さえわかればどんな追及もとどかない。・・本殿に近づくとにわかに人声が聞こえた。三四人の参拝客が山道を降りてくる。平日でこういうところに足を運ぶのはもう隠居の老人が多い。無人と思ったが訪ねる人に出会ってすこしほっとする。話してみると、彼らも老いを自覚しての山歩き神社詣でのようだ。強い意志があるわけではない。・・将門の後裔なら時折ここを訪れているだろう。派手な彩色の狛犬があったが、こういうものは古くは無い。信仰が新しいのはわかる。
・・将門伝説を追っていたら、羽黒山の五重塔は将門の創建とある。信じがたいがまことしやかな由緒書もある。おそらく修験道の信仰でそういう言い伝えが創作されたものだろう。奥多摩にある鍾乳洞が地下でつながってこの羽黒山まで来ているという。この地下道を将門の霊がいったりきたりするという。ほんとかしら。・・羽黒山で思い出したが、ここの石段は2446段あるという。身延山でお会いした夫婦はここと鳳来寺1425段もすべて登ったと言う。話していても覇気するどいご夫婦だった。
・・将門神社の参道は、ほんとにおくゆかしい。みゆき姫らんの道という。そういうランの草があるのか、識別できなかった。丸い小さな葉の低木が参道沿いによく見えたけど、あれは何の木なのか。これもわからなかった。
将門神社 N35度48分51秒 E139度08分00秒
もえぎの湯 N35度48分16秒 E139度06分09秒
・・ほぼ古今伝授ライン
下呂温泉もこのライン
674
:
秋魚
:2016/06/09(木) 00:38:21
(無題)
・・
遣るあてもなき雛買ひぬ二日月 井月
こがらしに二日の月の吹き散るか 荷兮
吹きとばす石はあさまの野分哉 翁
・・
かれ朶に烏のとまりけり秋の暮 翁
凩やとまり烏の横にゆく 井月
・・二日月は故郷にいる娘の記憶。
とまり烏という井月の位置がみえます。
675
:
秋魚
:2016/06/12(日) 02:28:33
(無題)
・・福生の郷土館に訪ねてみた。森田友昇という維新からの俳人の資料があるという。八王子星布の松原庵を四世で継いだ。福生が地元で生業は横浜で活動していた。俳人として立机したのは明治十二年(1879)。記念集「浅川集」が編まれた。
・・中央線立川から青梅線で20分もあれば福生に着くだろう。新宿から青梅街道なら途中五日市街道をまっすぐ行けばよい。多摩川を渡る前が福生だ。五日市街道は別名伊奈街道と呼ばれている。五日市の秋川周辺に伊奈という村があるからだ。そう信州の伊那谷から石工の職人が流れて住み着いている。伊奈石という特殊な石を切り出していた。
・・福生は田村酒蔵の嘉泉をつくるこの家も昔から俳家だ。森田友昇はここの友甫に句作を学んだ。江戸にでて富処西馬についたともいわれる。余り知られていないが、榎本星布の流れで尾形仂氏などによって発掘されている。
「芭蕉は延宝5年に万句興行(100人の連句を100巻)行って宗匠となり立机、延宝6年「歳旦帳」を作っている。」
・・立机というのは晴れやかなものだ。芭蕉なども万句興行をやっているというから、驚きだ。
・・友昇が立机する以前明治三年に「高むしろ集」という句集を出している。今回この句集を見ることができた。序を寄せたのは、為山と見外。いづれも井月三部集東都の俳人で名を連ねている。伊那の精知、甲斐の雷石。野井はムサシ、青梅の臼左はこの集でなく「浅川集」に名がある。
歳々年々人不同
老の春あとへもとらは一むかし 見外
いつものとほり梅のさく庭 友昇
海苔きぬた折に聞ゆる風吹て 外
追ねは鶴もようあそふなり 昇
・・
676
:
秋魚
:2016/06/18(土) 00:47:46
(無題)
元禄8年(1695年)、各務支考は深川芭蕉庵を訪れた。
むかし此叟の深川を出るとて、此草庵を俗なる人にゆづりて
草の戸も住みかはる世や雛の家
・・今はまことに、すまずなりてかなし。
元禄11年(1698年)、惟然、江戸に入り、深川の芭蕉庵を訪れる。
深川の舊菴にて
こゝらにはまたまた梅の殘とも
『けふの昔』
深川庵
思ふさま遊ぶに梅は散らば散れ
・・芭蕉庵は、どうあっても梅なのか?
広瀬惟然
鳥の羽風に梅の花散るを見て隠遁。
千斤ノ金有ルモ林下ノ貧ニ如カズ
ひだるさに馴れてよく寝る霜夜哉
水鳥やむかうの岸へつういつい
・・此人のむすめは尾張名護屋の豪家に嫁したるを、かく風狂しありく後は音信もせず。あるとき名古屋の町にて行あひたり。女は侍女下部など引つれてありしが、父を見つけて、いかにいづこにかおはしましけん、なつかしさよとて、人目も恥ず、こつがい乞丐ともいふべき姿なる袖に取つきて歎きしかば、おのれもうちなみだぐみて、
両袖に唯何となく時雨哉。
といひ捨てはしり過ぬとなん。
・・
677
:
秋魚
:2016/06/20(月) 22:28:57
(無題)
>・・戸隠山の九頭龍信仰の源は戸隠神社の九頭龍大神である[1]。・・西暦800年代の中盤頃の話として、「学門」という名の修行者の法華経の功徳によって、九つの頭と龍の尾を持つ鬼がこの地で岩戸に閉じこめられ、善神に転じて水神として人々を助けたという言い伝えが残されている(調伏善龍化伝承)。
・・その後、九頭龍権現として崇められ雨乞いが行われた[2]。雨と水を司る他、歯痛の治療にも霊験があり、好物の梨[1]を供えると、歯の痛みを取り除いてくれるとされている
・・玉藻の前は、金色九尾の狐の化身。那須野で射止められる。
> 那須 与一(なす の よいち、嘉応元年(1169年)? - 文治5年8月8日(1189年9月19日)?)は、平安時代末期の武将
・・治承・寿永の乱において、源頼朝方に加わり、源義経に従軍。元暦2年(1185年)の屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とす
678
:
秋魚
:2016/06/20(月) 23:29:27
(無題)
・・武州杣保谷村の真浄寺にある「時雨桜」について、日野資枝の詠んだ歌は、
さくら花木梢のしつくおつるより幾世しくれの名にやふりけむ
・・資枝の子資矩もまた歌を寄せている。
武州入間郡杣保内谷野村真浄寺門前に二株の桜あり此木四時もわかたす雫絶へすおつこといつも神無月になれば昼夜やすみなく落ちて其床しきこと雨の如しとそ此こゝろを従一位殿称しつかわさる今又資矩にも歌よめと望にきかせて』と云ふ前書きで
花もあれと枝のしつくの名にしおふ、しくれのさくらよゝおけるかな
正二位 資矩
・・このように京の堂上の歌人親子から、二つながらに歌を詠まれたしぐれ桜とは、とりわけてゆかしいものであっただろう。
・・武蔵野の片田舎の学問僧浄月律師が、歌詠みの習いを京の日野資枝に願った。その時の入門書のようなものが残されている。
「為和歌御門弟取伝候條々不存疎略儀他門輩堅不可口外候尤此道永得心可致可習練候於て違背者可蒙大小神祇御罸候仍誓状如件
年 号 月 日 日野家司中」
・・ある種古今伝授にあわせた誓文にみえる。
(これは秘伝であるからけして口外してはならぬ)
・・この二人の公家が、実際、武蔵野の青梅まで訪ねてしぐれ桜の花を眺めたか、そうでなくては歌も詠めまい。弟子が師に歌を詠めなどいっていいものかどうか気になるものだが、これは主客の反転?
歌詠めといってるのは、浄月ではなく桜の木であろう。
*
・・文明三年(1471年)、東常縁は美濃国妙見宮(現在の明建神社)において連歌師宗祇に古今集の伝授を行った。
岐阜県郡上市大和町牧814-1 北緯35度48分42.48秒 東経136度55分24.79秒
「切紙伝授」というのがある。
679
:
秋魚
:2016/06/28(火) 21:53:45
(無題)
・・います山中を過て、いにしへ常盤の塚あり。伊勢の守武がいひける「よしとも殿に似たる秋風」とは、いづれの處かにたりけん。我もまた、
義朝の心に似たりあきの風
・・野ざらしの旅で芭蕉が関が原の常盤の墓をみて詠んだ句。この常盤の墓は偽作なのは今では分かっている。芭蕉翁そんなこと詮索するヒマはなかったか。守武の付句にあわせた句を残す。・・江戸武蔵野にいて杣山よりの青梅や飯能まではたぶん一度たりと足を運んでいないのがわかる。常盤はおそらく関が原を越えて東国までやってきているはずだ。青梅飯能の常盤伝説はよほど信じられる。・・大垣に入って「死にもせぬ旅ねの果よあきのくれ」など言ってるから、常盤の死などかまってられぬというのがあったか。にしてもいい気なものだ。俳諧とはこういうものかもしれぬが。
・・もうひとつおもしろい文芸に立ち会った。吉田兼好『徒然草』第六段・・「聖徳太子の御墓をかねて築かせ給ひける時も、『ここを切れ、かしこを断て、子孫あらせじと思ふなり』と侍りけるとかや」。太子が生前自分の墓をつくるに子孫を残すまいとの意思表示でよく知られている言葉だ。『聖徳太子伝暦』という古書に書かれたものを兼好が読んでいたものと思われる。
「・・冬十二月、太子が駕を命じて、科長の墓処にて墓を造る者を覧る。直ちに墓内に入り、四望して左右に謂ひて曰く、此処を必ず断て、彼処を必ず切れ、まさに子孫のあとを断やすべからしめんと欲すと。墓工、命に随ひ、断つべきものは断ち、切るべきものは切る。太子、おほいに悦ぶ」
・・吉田兼好もよほどおめでたい歌人だ。聖徳太子伝の古典に書かれた言葉をまったく疑いもしないのだから。後太子ばかりでなく太子一族二十五人がこぞって昇天したのを何が悦ばしいものか。
680
:
秋魚
:2016/06/29(水) 19:09:22
(無題)
神垣やおもひもかけず涅槃像
・・芭蕉が伊勢外宮の境内で詠んだ句。笈の小文の旅にある。
涅槃会に開帳されていたなら、二月十五日。神宮で涅槃像に出くわすとは、思いの外。
元禄元年のことだが、神仏習合があったか。
・・法隆寺五重塔北面の涅槃像。
「是の時に、諸王諸臣及び天下の百姓、悉に長老は愛き児を失へるが如くして、塩酢の味、口に在れども嘗めず。少幼は慈の父母を亡へるが如くして、哭き泣きつる声、行路に満て李り」(書紀)
「・・生駒山に逃亡した。家臣の三輪文屋君は、「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣」(東国に難を避け、そこで再起を期し、入鹿を討つべし)と進言するが、山背大兄王は戦闘を望まず「如卿所 其勝必然 但吾情冀 十年不役百姓 以一身之故 豈煩勞萬民 又於後世 不欲民言由吾之故 喪己父母 豈其戰勝之後 方言丈夫哉 夫損身固國 不亦丈夫者歟」(われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん)と言った。山中で山背大兄王発見の報をうけた蘇我入鹿は高向国押に逮捕するように命ずるが断られる。
結局、山背大兄王は生駒山を下り斑鳩寺に入り、11月11日(12月30日)に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる」 wikiより
・・wikiなどの記事は大方日本書紀を元に述べてある。山背大兄王とその一族殺害の首謀は曾我入鹿ただひとりのごとき。
『上宮聖徳太子伝補闕記』では、
「・・癸卯年十一月十一日丙戌、亥時、宗我大臣、并びに林臣入鹿、致奴王子児名軽王、巨勢徳太古臣、大臣大伴馬甘連公、中臣塩屋枚夫等六人、悪逆至計を発して、太子子孫男女廿三(五)王、罪なくして害せさる」
・・軽皇子なんかも共犯に名を連ねてあるが。
・・『日本書紀』は疑ってかかるべきか。
681
:
秋魚
:2016/07/01(金) 21:21:38
(無題)
・・九尾の狐は、若藻という十六才の少女に化け、吉備真備の乗る遣唐使船に同乗し来日を果たしたとされる。この時、吉備真備が唐からもち帰った奇文に「野馬台詩」というのがある。
「・・大臣吉備真備が遣唐使として唐の国にいた頃、その学識に恐れをなした唐人は、彼を高樓に登らせて梯子を外し、そこに住む鬼に殺させようとした。
しかし、吉備大臣の前に現れた鬼は、自分もまた遣唐使として入唐した際、高樓に閉じ込められて死んだのだと身の上を語り、同じ日本人のよしみで吉備大臣に唐国のことをいろいろと教えようと申し出た。・・吉備大臣は鬼の助けを得て、唐人が出す難問(『文選』の解読、囲碁の名人との勝負)を次々とクリアしたが、最後に出てきた宝志作という不思議な暗号文には手も足もでない。そこで思わず日本の仏神を祈った時、屋根から一匹の蜘蛛が落ちてきて、その文の上を這いまわった。吉備大臣がその糸の跡を目で追うと、それまで見当もつかなかった暗号がすらすらと読めたのである。かくして、吉備大臣は『文選』や囲碁と共に『野馬台詩』を日本に持ち帰ることになった。」
・・高樓で友になった鬼は阿倍仲麻呂ではないかといわれる。
吉備 真備(きび の まきび、持統天皇9年(695年) - 宝亀6年10月2日(775年11月3日))
・・この『野馬台詩』、梁の預言者、宝誌のつくったものといわれる。
宝誌(ほうし、 418年(義熙14年) - 514年(天監13年))は、中国の南朝において活躍した神異・風狂の僧である。
・・普通元年(520年)、達磨は海を渡って中国へ布教に来る。9月21日(10月18日)、広州に上陸。当時中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁が治めていた。
禅の開祖達磨大師が梁の武帝と交わした問答がある。
帝問曰 朕即位已來 造寺寫經度僧不可勝紀 有何功?
師曰 並無功?
帝曰 何以無功?
師曰 此但人天小果有漏之因 如影隨形雖有非實
帝曰 如何是真功?
答曰 淨智妙圓體自空寂 如是功?不以世求
帝又問 如何是聖諦第一義
師曰 廓然無聖
帝曰 對朕者誰
師曰 不識
帝不領悟
師知機不契
・・
ところで、野馬台詩のはじめは
東海姫氏國(東海姫氏の国)
百世代天工(百世天工に代る)
右司爲輔翼(右司輔翼と為り)
衡主建元功(衡主元功を建つ)
初興治法事(初めに治法の事を興し)
終成祭祖宗(終に祖宗の祭りを成す)
・・この東海姫氏國は、日本のことと言われている。
今見る漢字の並びが吉備真備が見定めたものか、そうとしてなお難解な詩文にはかわりない。
法隆寺五重塔東面の塑像は、維摩詰vs文殊の構図。よく知られた問答があるという。
>・・彼が病気になった際には、釈迦が誰かに見舞いに行くよう勧めたが、舎利弗や目連、大迦葉などの阿羅漢の声聞衆は彼にやり込められた事があるので、誰も行こうとしない。また弥勒などの大乗の菩薩たちも同じような経験があって誰も見舞いに行かなかった。そこで釈迦の弟子である文殊菩薩が代表して、彼の方丈の居室に訪れた。
・・文殊が「どうしたら仏道を成ずることができるか」と問うと、維摩は「非道(貪・瞋・痴から発する仏道に背くこと)を行ぜよ」と答えた。 wikiより
維摩居士
>・・古代インド毘舎離城(ヴァイシャリー)の富豪で、釈迦の在家弟子となったという。もと前世は妙喜国に在していたが 化生して、その身を在俗に委し、大乗仏教の奥義に達したと伝えられ釈迦の教化を輔(たす)けた。
維摩詰vs文殊の構図は、法隆寺の他に興福寺のものが際立っているが、これは鎌倉時代の創作。
維摩居士像 定慶作、木造 88.6センチ、鎌倉時代・建久7年(1196)
おもしろいのは、興福寺の創建。
>・・藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた[注 1]。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。 wikiより
藤原鎌足 推古天皇22年(614年)・・死没 天智天皇8年10月16日(669年11月14日)
法隆寺全焼 天智天皇九年(670年)庚午の歳四月三十日の夜半において、一屋無余の火災に罹った(書紀)
・・書紀によれば、山階寺(興福寺)669年の翌年に法隆寺は跡形もなく焼けた。
*
・・ところで、芭蕉は法隆寺を一度は訪ねたことがあるか?
記録の上からは奈良には数度訪れてはいるが、法隆寺に訪れたという痕跡はみあたらない。「菊の香や奈良には古き仏たち」元禄七年没年九月九日に詠んだ句があっても、特段に法隆寺の仏というわけではない。・・にしても、一度は法隆寺を訪ねているとみる。
観音のいらかみやりつ花の雲
貞享三年(1686)『末若葉』 (花の雲)かねは上野か浅草かと聞えし前の年の春吟也。尤病起の眺望成べし。一聯二句の格也。句呼句とす」
草庵
花の雲鐘は上野か浅草か
「続虚栗」貞享四年
・・芭蕉病起の句に、維摩居士の病起と文殊の訪れを重ねてみるのも、おもしろい。
*
・・『野馬台詩』江戸期の受容だが、
室町後期の写本
『野馬台縁起』 - 東大寺(戒壇院経蔵)蔵(大永2年(1522年))写本
『歌行詩』系写本 - 『長恨歌』『琵琶行』『野馬台詩』を合編した写本群、享禄4年(1531年)写の三重大学図書館蔵本が現存最古とされる
江戸期の刊本
『歌行詩三部抄』 - 寛文9年(1669年)、京都・山村伝右衛門刊
『歌行詩三部首書』 - 延宝3年(1675年)以前刊か
『歌行詩諺解』 - 貞享元年(1684年)刊
『歌行詩詳解』 - 貞享2年(1685年)刊
『野馬台詩国字抄』 - 寛政9年(1797年)刊、文政5年(1822年)再版
『野馬台詩余師』 - 天保14年(1843年)刊、『経典余師』シリーズの1冊、弘化3年(1846年)再版
・・『長恨歌』『琵琶行』『野馬台詩』合本になったものは、芭蕉も読んでいたとみる。
井月の生まれた年(1822)に『野馬台詩国字抄』が再版。『野馬台詩余師』は、天保14年(1843年)刊、弘化3年(1846年)再版。・・天保14年(1843)は芭蕉百五十回忌。弘化3年(1846年)は善光寺地震の前年になる。
黒船来航、幕末にむけてある種の流行であったというから、井月も必ず読んでいたであろう。
682
:
秋魚
:2016/07/02(土) 22:47:55
(無題)
・・芭蕉は斑鳩の法隆寺を訪ねたが、狼狽したのではないか。俳句の感興はおこらなかった。感興は絶大にあったが、発句というまとまりには到らなかった。「菊の香や奈良には古き仏たち」、なんとも平たい凡句とみえる。明治になって正岡子規が「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」と詠んだ。これが傑作というのを誰か正面から解き明かしたものがいるのか。子規のこの句はひどい駄作とみるのは、わたしだけか。芭蕉が発句にしくじった法隆寺。子規がかるがると法隆寺を詠んだから傑作というだけかもしれない。そういう近代の俳句の方法を提示した。それは近代においてだけ有効な句作だ。
・・いまは多くの小中学生が法隆寺の句を詠んで競っているらしい。法隆寺の謎をめぐる多くの新説も華々しい。梅原猛『隠された十字架』など白眉といえる。・・芭蕉−子規の間に、法隆寺を句にしたものはいないのか?天明の俳人・加舎白雄の全集を借りてみた。国文社から上下立派なものが出ている。ほとんど借り手がいないのか、新本のまま枝折の使用もない。
・・法隆寺ではなく、聖徳太子の墓所と思われる叡福寺の古墳を訪ねた記事がある。
「くづれさせたまはぬよりも、此科長の里にかくをくつきをいとなみ、みくらゐに換て扶桑仏法の祖とあふがれさせ給ふ。帰寂のゝち空海上人報謝して数百の法界石を禁禦し非常をしづめたまひしと。それさへ千載におよびツゝすゞろにたのもしく蔓草のおのがじゝに這ワたりて日暮の地籟道心をおこさしむるぞ尊ふし。
築墻や梵字をめぐるなツのあかし
右斑鳩王御廟 」
・・白雄翁、ホッとする。
甲斐の黒駒
「・・太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。」
・・法隆寺以前の逸話だが、黒駒で富士を越えたあと馬を休めて下馬した伝説の地がある。甲州勝沼の万福寺だ。馬蹄石という石がモニュメントとして残っている。野ざらしの旅の帰路、芭蕉がここに寄ったのではないかというので、翁百回忌も営まれた。
駒づかや世にとゞろきの影高し 可都里
道は奥ある苔のしたゝり 作良
風かをる旅の餌ぶくろ紐ときて 白亭
赤松どのゝ京入の月 田鶴村
・・
・・太子は黒駒に乗って富士山を越え、次に信濃に廻ったとある。大雑把な話だがこれは信濃の何処に訪れたのか。長野にある善光寺には太子伝承があるが、善光寺の開基は皇極三年(644)といわれ、この善光寺に立ち寄ったわけではない。・・そうとして善光寺の太子伝承は興趣ふかい。
>・・奈良の法隆寺の寺宝に「聖徳太子の御文箱」と呼ばれているものがあります。その中には信州の善光寺如来が聖徳太子に宛てた手紙が入っていると伝えられてきました。X線撮影でも三通の文書の存在が確かめられています。封印されていますので、誰も読んだ人はいないはずでした。ところが、明治政府の強引な調査(明治五年)により開封され、そのうちの一通だけ写しが国立東京博物館に存在します。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou58/kai05806.html
・・善光寺如来と聖徳太子の往復書簡の存在など、前代未聞ではないか?古田史学会の古賀達也氏の年号による謎解きも興味深いが、何よりも善光寺開基の644年には太子はまだ生存していた証の書簡になる。太子の没年は一応622年という。
683
:
秋魚
:2016/07/04(月) 22:03:01
(無題)
>・・人王九十五代(※九十六代とも)に当たり、天下一たび乱れて主安からず。
この時、東魚来たりて四海を呑む。
日、西天に没する三百七十余日、西鳥来たりて東魚を食う。
そののち、海内一に帰すること三年、ミ猴(ミコウ:猿の意味)のごときもの
天下をかすむること三十余年、大凶変じて一元に帰すなり。
・・楠正成が四天王寺でみた太子「未来記」。後醍醐天皇の幕府転覆を予言されていると読む。
>「・・人王八十六代の時、東夷来りて、泥王国を取る。七年丁亥歳三月、閏月あるべし。四月二十三日、西戎来り、国を従へ、世間豊饒となるべし。賢王の治世三十年、しかる後、空より獼猴、狗、人類を喰らふべしと云々」
『明月記』定家
684
:
秋魚
:2016/07/05(火) 12:02:26
(無題)
菊の香や奈良には古き仏達
菊の香にくらがり登る節句かな
菊に出て奈良と難波は宵月夜
月影や四門四宗も只一ツ
俤や姨ひとり泣月の友
・・奈良の過去世にさほど深入りしない。多くの仏たちを認知はするが離れようとする。
善光寺においても月影のもとで多々ある宗派をひとつにまとめる。
・・「菊の香や」はもう最晩年。くらがり峠は奈良から生駒を越えて大坂に入る最短の道。ほんのりと死の薫習のかおりがする。翁、この後大坂で死没。
・・加舎白雄はよく歩いた。
「あすかのみやしろ橘寺拝ミめぐりしに、艸しげき中より手のひら斗なる瓦を拾ひて
ゆりが根に千とせの瓦得てし哉
こゝろに興じて行々が中にも
橘もあすかの里も砧うつ
かく聞へし師が遺草いとなつかしく、そこに一夜をやどる。
岡の町に夏夜衣うツ宿も哉 」
・・橘寺は太子創建。生地に近い。「かく聞へし師」というのは、誰だろう?
・・天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)は、奈良県斑鳩町の中宮寺が所蔵する、飛鳥時代(7世紀)の染織工芸品。・・銘文から聖徳太子の死去を悼んで橘大郎女妃が作らせたという。
「天寿国繍帳」とは、「聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繍で表した帳(とばり)」の意。
「天寿国」とは、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土を指すもの
>・・辛巳の年(推古天皇29年・西暦621年)12月21日、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(間人皇后)が亡くなり、翌年2月22日には太子自身も亡くなってしまった。これを悲しみ嘆いた太子の妃・橘大郎女は、推古天皇(祖母にあたる)にこう申し上げた。「太子と母の穴穂部間人皇后とは、申し合わせたかのように相次いで逝ってしまった。太子は天寿国に往生したのだが、その国の様子は目に見えない。せめて、図像(かた)によって太子の往生の様子を見たい」と。
橘大郎女(たちばな の おおいらつめ、生没年不詳)は、飛鳥時代の皇族。聖徳太子の妃。父は尾張皇子(敏達天皇の皇子)で推古天皇の孫にあたる。子に白髪部王、手嶋女王。
尾張皇子 − 位奈部橘王(いなべのたちばなのひめみこ)、
斯帰斯麻 宮治天下 天皇名阿 米久爾意
斯波留支 比里爾波 乃弥己等 娶巷奇大
臣名伊奈 米足尼女 名吉多斯 比弥乃弥
己等為大 后生名多 至波奈等 己比乃弥
己等妹名 等巳弥居 加斯支移 比弥乃弥
己等復娶 大后弟名 乎阿尼乃 弥己等為
后生名孔 部間人公 主斯帰斯 麻天皇之
子名ヌ奈 久羅之布 等多麻斯 支乃彌己
等娶庶妹 名等巳弥 居加斯支 移比弥乃
弥己等為 大后坐乎 沙多宮治 天下生名
尾治王多 至波奈等 巳比乃弥 己等娶庶
妹名孔部 間人公主 為大后坐 濱辺宮治
天下生名 等巳刀弥 弥乃弥己 等娶尾治
大王之女 名多至波 奈大女郎 為后歳在
辛巳十二 月廿一癸 酉日入孔 部間人母
王崩明年 二月廿二 日申戌夜 半太子崩
于時多至 波奈大女 郎悲哀嘆 息白畏天
皇前日啓 之雖恐懐 心難止使 我大王与
母王如期 従遊痛酷 无比我大 王所告世
間虚仮唯 仏是真玩 味其法謂 我大王応
生於天寿 国之中而 彼国之形 眼所*看
稀因図像 欲観大王 往生之状 天皇聞之
悽然告曰 有一我子 所啓誠以 為然勅諸
妥女等造 繍帷二張 画者東漢 末賢高麗
加西溢又 漢奴加己 利令者椋 部秦久麻
「橘寺はまた菩提寺と云ふ。
金堂は一間四面二階、救世観音像を安んず。講堂は五間四面、丈六の釈迦像を安んず。五重塔。推古天皇の御前において、太子、勝鬘経を講ずること五六日、竟りの夜、蓮華零る。花の長さ二三尺、方三丈の地に溢る。明旦、これを奏す。天皇大いに奇として車駕にしてこれを覧たまふ。即ち其の地において寺堂を立つを誓ふ。是、今の橘寺なり。菩提寺なり。」
・・ところで、加舎白雄は、実際、富士登山をしている。
「富峰登山の吟
七月四日也けり、吉田口より攀ツゝ、大ゆきあひとかやいふ石室に一夜をあかしつるに、朝日おがまんと人のなミツゝ、あはれなる声して称名をとなへ、我も塵うちはらひそこに出て、只別世界なる事を、
日をのぞむいたゞきやこれ不二の峰
するが路にて、
いく時雨不二の曙ゆふべ哉 」
・・芭蕉の弟子で、誰か、富士登山を試みたものがいるのだろうか?
・・不二の表記、白雄は維摩の不二法門をかじっているのがわかる。ご来光を拝むのは、わたしもよく知っている。
685
:
秋魚
:2016/07/08(金) 21:00:38
(無題)
馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな
秣おふ人を枝折の夏野哉
行駒の麦に慰むやどり哉
686
:
秋魚
:2016/07/09(土) 01:44:55
(無題)
天明6年(1786年)、記念集『葛の葉表』(伯先編)刊。自序。白雄跋。
・・伊那谷の中村伯先のもと白雄門が結集した。
葛の葉のおもて見せけり今朝の霜 翁
霜そのまゝに葛の葉表 伯先
・・
葛の葉は昼を寐る鹿の枕哉?? 白雄
白鷹の葛かいつかむ嵐かな 伯先
*「葛の葉の表見せけり、此句は、一たび嵐雪が翁にそむきし事の直り侍る
時に、幸に書て遣はされ候句也。」
おもしろいのは、早川石牙。
菴に落る椿の音を聞くらす 甲さし出の磯 石牙
太枡事件で甲州を逃亡する以前の出句。同じ「甲さし出の磯」の門連も多く句を寄せている。
里童ぬれありく見ゆ花の寺 甲州台ケ原 台眠
ひかるゝやあるじをしらぬ梅の宿 甲さし出磯 閨歌
雪おれの竹にかくれて梅の花 甲さし出磯 春路
春雨や湯豆腐いまだに捨られず ??甲州石和 高牛
もの寒きなさけにや降はるの雨 甲州藤田 黒沢
庵木には倦ともあかぬ柳哉 甲州 敲氷
水に落ちからに重き椿かな ???????? かひの暮地 墐井
菴に落る椿の音の聞くらす ???????? 甲さし出磯 石牙
松の風きくを子の日のあそび哉 ?? 甲さし出磯 百朶
しばらくは梵誦も笠ぬげ花の影 ???? 甲さし出磯 何鳥
夜ざくらや酒うる家の遠あかり ???? 甲さし出磯 長古
鐘の音も和らかにひるの桜哉 ??????甲さし出磯 如洗
とふ人にまつはる見ゆ藤の花 ?????? 甲州韮崎 巴本
吹いるゝ梅を栞や宇治拾遺 八王子の星布
武蔵野の近いところでは、武蔵村山連、我(吾)野連も熱心。
落栗の籬にいりしひとつ哉 武毛呂 碩布
・・これは、極め付き。
687
:
秋魚
:2016/07/10(日) 23:30:08
(無題)
・・多摩川を昔は玉川と表記した。江戸の頃の話ですが。『玉川泝源日記』(山田早苗)天保十三年刊(1842)という幻の本がいま手元にある。なぜ幻かというに、多摩川の源流を求めた記録のもっとも古くかつ実際の日の目をみたのは昭和45年という長く幻の古書とされてきた。先日奥多摩湖から丹波山村へ丹波川沿いにその奥を廻って柳沢峠にでた。その丹波川渓谷の三重川原というのが水源という。三つの流れが一つに交わるところという。・・しばし待てよ。この本はすごい。
・・「武蔵野は山なし」といふ歌六首
武蔵野は月の入るべき嶺もなし尾花の末にかかる白雲 大納言通方(続古今)
いとど猶かすめば遠し山の端はさらでも見えぬ武蔵野の原 源知行(新千載)
武蔵野やしばしやすらへ時鳥おのが入るべき山の端もなし 藤原教実(夫木)
東路の足柄こえて武蔵野の山もへだてぬ月をみるかな 藤原時朝(同)
武蔵野は山の端しらぬ習ひにも富士の高ねは猶ぞ見えける 最信法師(同)
小男鹿の夜半の草臥しあけぬれば帰る山なき武蔵野の原 (定家家隆撰歌合に)
「山も見ゆる」と詠めるを一首
武蔵野もさすが果てある日数にや富士の嶺ならぬ山も見ゆらん 宗久法師(新後拾遺)
・・武蔵野も多摩川を遡れば山の中に入る。加舎白雄は、甲州街道で多摩川にでるあたり、谷保天満宮に寄った形跡がある。
武野天満宮奉納(谷保天満)
むさし野に松梅多きところ哉
宿の梅といはるゝ宿よ松もよき
梅が香や鮒ひつかけし釣の糸
梅をりに舟よぶ多摩の渡かな
梅折に船よぶ多摩のわたり哉
・・石田の渡しで府中から日野にわたる。幕末の頃は、土方歳三の生家があった。
夕風や野川を蝶の越しより
あるが中に野川流るる女郎花
ふたまたになりて霞める野川かな
・・この野川は、国分寺、三鷹、調府を流れる湧水の川か。多摩川にそそぐ。
武蔵野や一寸ほどな鹿の声
・・芭蕉の武蔵野は、あまり歩いていなかったようだ。深川の庵あたりも武蔵野ととらえていたようだから、歩いてはいるが、広きにわたる散策はやっていない。鹿の声をほの聞く武蔵野は想像上のものであってかまわない。延宝3年、芭蕉32歳の時の作。
・・「西行物語」武蔵野の段を思い描いていたか。
「・・さしていづくをこころざすともなければ、月の光に誘はれて、はる/\とむさしの國に分け入るほどに、をばなが露に宿る月、すゑ越す風に玉散りて、こはぎがもとの蟲のねいと心細く、武蔵野の草のゆかりをたづねけむもなつかしく、宿をば月に忘れて、あすの道行きなむと口誦みて行くほどに、道より五六町ばかりさしいりて、きやうをどくじゆする聲しければ、人里はこの末にはるかに隔たりけるとこそ聞きしに、・・」
688
:
秋魚
:2016/07/12(火) 22:08:23
(無題)
「・・廿六日(天保十三年九月)、境、原(温泉あり)、河内、麦山、川野、留浦(東は武州多磨郡、国境、御代官の榜示杭たちたり)。(西は甲州都留郡)鴨沢村なり。親川山の九十九折りをのぼるに、紅葉の染たる盛りにて、麗しさ、見上げ見おろしたるひまより玉川(丹波川とも云、この辺は川幅いとせまし)の流れに紅葉の散り浮かめるを―
もみじばを散らせる風が手作りの錦をさらす玉川の水 早苗
紅葉の夕映えにいみじきを一枝手折りて、守岡氏がり(?)つどひしつ。去年の丹波川逍遥の楽しきことを友たちに語りて、ほこりたりき。又、こたびはいかで水元に分けいり、ついでに黒川の金山も見まほしく来たけりといへば、あるじは心得つとて、宵より山路をわきまへたる狩人を道しるべに語らひまうけせられけり。」
多摩川にさらす手作りさらさらになにぞこの子のここだ愛しき
・・万葉集のこの歌の多摩川よりずっと上流のさらす錦は格別です。
「・・翌菊月廿七日の空のどかなり。しるべの狩人は用心に鉄砲たづさへて、火縄ふりたてて、さきに立ちゆく。割子をもたせけれど、一夜たどるべくと思へば、餉のかはりに米を袋に入れてもたせつ。さて、三、四町ばかりゆきて、丹波川の上の方の瀬々細く流れたり。石をつたひ、わたりゆくに、一瀬はいみじく激浪に見渡されて、わたり三間ばかりの所に広さ一尺五寸ばかりなる板一枚、橋にかけわたしたり。これを若人はこともなく渡りけれど、予は老の足元のおぼつかなければ、いかにせんとためらひける。この下の程、四町ばかりゆけば、よき板橋かかりければ廻り給へといへども、いかでこれらを渡らでやはと、しるべのものと従者を力に渡りゆく。半ばばかりに板たわみゆき、揺れうごきて、おそろしう思ひつつ、渡りはてて、いきいでつ。・・それより峡沢山といふ
689
:
秋魚
:2016/07/14(木) 21:51:03
(無題)
天保十三年(1842)、山田早苗が玉川の源流をさかのぼった。
・・
笹川繁蔵(ささがわ の しげぞう) 文化7年(1810年)- 弘化4年7月4日(1847年8月14日)
>・・相撲に夢中になるあまり江戸へ出て、千賀ノ浦部屋に入門し岩瀬川を名乗るが1年あまりで廃業。この頃から博打を打つようになり侠客の道に入り、千賀ノ浦部屋の同門で郷里の近い勢力富五郎と共に笹川に帰郷すると一家をおこした[3]。天保13年(1842年)には、笹川須賀山明神の例祭日を利用して、農民救済のために地元の商人宿・十一屋で花会(親分衆のみを客とした賭場)を開く[4]。繁蔵は関東東海地方で名前の知られる大親分に手当たり次第に回状を送り、十一屋の花会には、清水次郎長、国定忠治、大前田英五郎なども駆けつけたと講談『天保水滸伝』では伝えているが、当時次郎長はまだ売り出し前であり、国定忠治も手配書が出て逃亡中であったため、真偽は不明
・・同じ頃、銚子の陣屋から十手を預かる飯岡の大親分・飯岡助五郎と勢力を争う。初め良好だった両者の関係は、笹川一家の勢力が拡大して飯岡一家の縄張と隣接するようになると、どちらにもついていない中間地帯の賭場の寺銭を巡って緊迫し、遂には双方の親分自身が命を狙い狙われるまでになる[6]。天保15年(1844年)8月6日、御用召捕りと称して利根川の水路と陸路の二方面から笹川に侵入してきた飯岡一家と戦い、須賀山明神の境内で飯岡側を一時は敗走させた(大利根河原の決闘)。
・・
国定 忠治(くにさだ ちゅうじ、忠次とも、文化7年(1810年) - 嘉永3年12月21日(1851年1月22日))は、江戸時代後期の侠客である。
>・・忠治は上州勢多郡大前田村(群馬県前橋市)の博徒大前田英五郎の縄張りを受け継いで百々村(どうどうむら)の親分となり、日光例幣使街道、間宿の境町を拠点とする博徒で英五郎と敵対する島村伊三郎と対峙する。・・天保9年(1838年)には世良田の賭場が関東取締出役の捕手により襲撃され三木文蔵が捕縛され、忠治は文蔵奪還を試みるが失敗し、関東取締出役の追求が厳しくなったため逃亡する。忠治は文蔵に加え子分の神崎友五郎や八寸才助らも処刑され一家は打撃を受けた。
さらに天保12年(1841年)には忠治の会津逃亡中に玉村主馬が山王民五郎を殺害して反撃にでると、翌天保13年に忠治は帰還し主馬を殺害する(この際に忠治は子分に「洋制短銃」をもたせている)。関東取締出役は天保10年に出役の不正を摘発し人員を一新して体制の強化をはかり忠治の捕獲を試みているが、天保13年8月に忠治は道案内(目明し)の三室勘助・太良吉親子を殺害し・・
・・
花の雲句碑
>「観音の甍(いらか)みやりつはなの雲」 清水寺に登る石段のふもとにある芭蕉句碑で、高さ1.62メートル、幅1.36メートルの大きさです。
高崎の俳人西馬(さいば)が西上州の俳人たちとはかり、天保13(1842)年3月28日に清水寺で芭蕉150回忌追福のための百韻興行を催しました。江戸から田川鳳朗や久米逸淵も参加するなど盛大な句会となりました。
・・天保十三年。高崎清水寺の後背地は博徒侠客の跋扈乱舞がすさまじい。
天保壬寅三月二十八日於上毛清水寺興行
一百五十回忌追福正式俳諧百韻
観音の甍みやりつ花の雲
祖翁
残るかたなき春の日のかけ
西馬
碑前手向
はせを忌のひとふしなれや花のかけ
碩布
めくりあひむかしのけふの花の雲
逸渕
花に只手を合はせたるはかりなり
信濃 葛古
けふの我こゝろを啼や呼子鳥
武蔵 寄三
面影にたつや霞のかれ尾花
青荷
行春やこゝろを洗ふ椎の露
上毛 竹煙
・・
690
:
秋魚
:2016/07/15(金) 14:12:24
(無題)
・・それより峡沢山といふ高かる山のつづら折りをのぼる程に、木ども更になき芝山にて、所々に清水わき出づるが見渡さる。をちこちなるが次第に流れ合ひて、麓にいたりては峡沢(貝沢)といふ小川になりて、丹波川に会せり。さて二十町ばかりゆきて、峡沢山の一つ家といふあり。立寄るまへに、畑作りたり。いささか平地あり。馬も飼ひたり。そこよりさがしき坂をのぼりて、横端といふ岨道をゆきて、舟越山といふ小峰のたわに至る。・・ここにもいささか畑を作りて、大豆の立枯れたるがみゆ。そこは峰つづきたる絶頂のうち、たわみたるやうに低き所なり。板屋低く作りたるありて、老の夫婦住みたり。丹波山より二里余。立寄りけるに、鉄砲掛けてみゆ。あるじの名を問ひけるに、定吉といひて、年は七十五歳になりぬといへり。茶を乞ひて、割子をとり出して喰ひぬ。おほばが桃をとり置きたりとて、籠にいれたるを給はる。柔かにて、味はひいみじ。いまも枝になりてありと云。
世の常の味はひならず山人の三千とせもへん桃にぞあるらん 早苗
・・又、この山のあなたに、清吉といふが住めりと云。打越え、さがしき坂をくだりて三重川原に至る。かく分け入りぬるは、幽谷の細流れにて、すさまじき処なり。予が思ひわたりぬる願ひは成りにけれど、嗟我僕痛、何吁かな。岩根は落葉に埋もれ、いばらなどかきわけつつ二町ばかりゆきて、大巌ひとつ細流れをせきたり。さるを、大岩の上へ一丈あまりよぢのぼりて、まず、しるべのものにその谷川を問ひけるに、一の瀬川と云。この上に一の瀬村といふあり。そこの山より出づる谷川なりと云。見るに、浅瀬にて、底もよくみえすく。三、四間ばかりの広さの石川なり。」
丹波川、一之瀬川、柳沢川がひとつになるあたりが三重川原か?この辺はまったくわからない。絶壁の大峡谷の下のほうに道があるのかもしれない。人家など一つもなかった。左手の丹波川から奥深く迂回して塩山にむかう柳沢川を左手にみるまで、まったく冥府とみえた。川の内側にあるのが鶏冠山(黒川山)といって金が採れた山だ。金鉱採掘の部落も昔はあっただろう。こういうところは殺伐としてキナ臭いものだ。
・・片岡千恵蔵が机竜之介を演じる「大菩薩峠2部」をみた。天誅組で吉野の木津川から伊勢、東海道に流れ、駿河から富士川沿いの身延道で甲州にむかう。幕末文久三年(1863)よりのこと。甲斐の金山の街が舞台だから、あれは大菩薩峠を降ったいまの塩山だろう。「大菩薩峠」がおもしろいのは、時代もさることながら、すべて無明の世の中にある。こういう暗い映画は流行るまいが、いつの世でも無明世間はあまりかわらない。竜之介よくわかる。
「・・その西の方のさがしき山そばだてりし山と山の峡の細き谷坂の岩間をめぐり落つる滝川あり。その広さ五、六尺、狭きところは三、四尺ばかりにみゆ。是を黒川と云。是、黒川山の金山のもとより流れいづる水なり。落ち落ちて、一の瀬川に会せり。その水をむすびつ。磁石すゑて方角をしるしつ。しばし見渡しつつ、そこより五、六十間ばかりを川に添ひてくだりて、山と山の間よりコロモ川(幅五、六尺許り)、三澗より流れいでて、一の瀬川に会せり。これを合はせて三重川原といふならん。ひとつ谷間に流れあへど、出づるところは山をへだてたり。さる水をおのおの尋ねなば、みな山々のいづみの流れあへるなるべし。かの「群源暮叩谷心寒」といへるも思ひ合はせつ。ここをこそ濫觴といふらん。
尋ね入りみなもとみれば元にしある甲斐の深山の岩清水かな 早苗
また見んことのかたければ、よく見渡しつつ思ふに、既にこの山路に分け入るはじめ峡沢山をのぼる程に、所々にいづみ湧けるが流れくだりて、次第に流れ加はりて、まのあたり麓にいたりて、峡沢といふ三間ばかりの広さの川となりて、末は丹波川に会せり。
691
:
秋魚
:2016/07/16(土) 23:48:55
(無題)
・・鄭人(ていじん)、野に薪(たきぎ)する者有り、駭鹿(がいろく)に遇ひ、御して之を撃ち之を斃す。
人の之を見るを恐れ、遽(あわて)て諸(これ)を隍中(こうちゅう)に蔵(かく)し、之を覆ふに蕉(しょう)を以てす。
其の喜びに勝(た)へず、俄(にわか)にして其の所蔵の処を遺(わす)る。
遂に以て夢と為し、塗(みち)に順(したが)ひて其の事を詠ず。
傍人(ぼうじん)に聞ける者有り、其の言を用ひて之を取る。
・・「よしや思へば定めなき、世は芭蕉葉の夢のうちに、牡鹿の鳴く音は聞きながら」
夕されば小椋(をぐら)の山に臥(ふ)す鹿は今夜(こよひ)は鳴かず寝(い)ねにけらしも(万9-1664)
雄略天皇御製
夕されば小倉の山に鳴く鹿はこよひは鳴かず寝(い)ねにけらしも(万8-1511)
舒明天皇御製(あるいは斉明天皇)
この二つの歌はfakeであろう。雄略や舒明や斉明がこんな歌を詠むわけがない。
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ 天智天皇
・・この歌もfakeであろう。
692
:
秋魚
:2016/07/17(日) 01:09:46
(無題)
多摩川の紅葉を見つゝ行きしかば市の瀬村は散りて久しも
・・長塚たかしは明治から大正の歌人。多摩川に沿って青梅、奥多摩まで、市の瀬村というのは存在しない。天保の頃山田早苗が多摩川の源流を求めたが、丹波川が一の瀬川に入るあたり、三重川原を水源とみた。・・多摩川の水源は明治になって、さらに一の瀬川を上り、水干という湧水地が認められた。たかしの歌の市の瀬は一の瀬のことであろう。・・しかしよくぞ訪ねたものだ。紅葉がみごとという。
693
:
秋魚
:2016/07/18(月) 19:08:07
(無題)
巻8-1511
崗本天皇御製歌一首
暮去者 小倉乃山尓 鳴鹿者 今夜波不鳴 寐<宿>家良思母
夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐ねにけらしも
・・この崗本天皇は舒明天皇あるいは斉明天皇。
・・聖徳太子の歌が日本書紀、万葉集にそれぞれ一首みられる。
「しなてる 片岡山に 飯(いひ)に餓(ゑ)て 臥(こや)せる その旅人(たひと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に餓て 臥せる その旅人あはれ
(書紀)◇片岡山 奈良県北葛城郡王寺町あたりの丘陵。
巻3-415
上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首 [小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豊御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古]
上宮の聖徳皇子、竹原井に出遊しし時、龍田山の死りし人を見て悲傷みて作りませる御歌一首。
家有者 妹之手将纒 草枕 客尓臥有 此旅人A怜
家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ
(拾遺集などには次のように短歌の形で載る。
しなてるや片岡山にいひにうゑてふせる旅人あはれ親なし)
・・行き倒れの死者に出会うのは、万葉集では龍田山、それ以外の書紀、拾遺集では片岡山とある。
岡本宮(おかもとのみや)は、7世紀の舒明天皇及び斉明天皇が営んだ宮。
・・岡本→片岡が書紀の本線。 片岡、肩岡(入鹿の肩)
倒れ臥したのは、蘇我入鹿。
万葉集の龍田山は桜と紅葉で名高い。
「伊勢物語」では、井筒
風吹けばおきつ白波たつた山 夜半にや君がひとりこゆらん
「古今集」巻五292
うりんゐんの木のかげにたゝずみてよみける
わび人のわきてたちよるこのもとはたのむかげなくもみぢちりけり 僧正遍昭
二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる 293
もみぢ葉のながれてとまるみなとには紅深き浪やたつらん そせい
ちはやぶる神世もきかずたつたがはから紅に水くゝるとは なりひらの朝臣 294
・・
万葉集巻九では、高橋虫麻呂
春三月諸卿大夫等下難波時歌二首[并短歌]
白雲之 龍田山之 瀧上之 小鞍嶺尓 開乎為流 櫻花者 山高 風之不息者 春雨之 継而零者 最末枝者 落過去祁利 下枝尓 遺有花者 須臾者 落莫乱 草枕 客去君之 及還来
白雲の 龍田の山の 瀧の上の 小椋の嶺に 咲きををる 桜の花は 山高み 風しやまねば 春雨の 継ぎてし降れば ほつ枝は 散り過ぎにけり 下枝に 残れる花は しましくは 散りな乱ひそ 草枕 旅行く君が 帰り来るまで
吾去者 七日<者>不過 龍田彦 勤此花乎 風尓莫落
我が行きは七日は過ぎじ龍田彦ゆめこの花を風にな散らし
白雲乃 立田山乎 夕晩尓 打越去者 瀧上之 櫻花者 開有者 落過祁里 含有者 可開継 許知<期>智乃 花之盛尓 雖不見<在> 君之三行者 今西應有
白雲の 龍田の山を 夕暮れに うち越え行けば 瀧の上の 桜の花は 咲きたるは 散り過ぎにけり ふふめるは 咲き継ぎぬべし こちごちの 花の盛りに 見さずとも 君がみ行きは 今にしあるべし
暇有者 魚津柴比渡 向峯之 櫻花毛 折末思物緒
暇あらばなづさひ渡り向つ峰の桜の花も折らましものを
・・龍田山越え、抒情歌がきいている
694
:
秋魚
:2016/07/21(木) 01:59:30
(無題)
今 わが悲しみはきわまり、比類なく
わたしをみだす。わたしはじっと見る、石の内部の
凝固するのを。
きびしいわたしゆえ まだ一つのことを知っている、
おまえが大きくなったことを―
……大きくなったことを。
あまりにも大きな悲しみとなって
わたしの心の枠を すっかり
のり越えてしまったことを。
今 おまえはわたしの胎内(おなか)をつきぬけて坐っている。
今となっては もう わたしはおまえを
生むことはできません。
?????????????????????????????????? リルケ「ピエタ」
695
:
秋魚
:2016/07/24(日) 00:57:38
(無題)
・・武蔵野が佳境に入った。明日は自転車で入間川を下り川越まで行ってみよう。
「母なむ藤原なりける」という武蔵のみよし野の里を訪ねたい。
伊勢物語十段「・・むかし、おとこ、むさしのくにまでまどひありきけり。さて、そのくにゝある女をよばひけり。ちゝはこと人にあはせむといひけるを、はゝなむあてなる人に心つけたりける。ちゝはなお人にて、はゝなむふぢはらなりける。さてなむあてなる人にとおもひける。このむこがねによみてをこせたりける。すむところなむ、いるまのこほり、みよしのゝさとなりける。
みよしのゝたのむのかりもひたぶるにきみがゝたにぞよるとなくなる
むこがねかへし、
わが方によるとなくなるみよし野ゝたのむのかりをいつかわすれむ
となむ。人のくにゝても、猶かゝる事なむ、やまざりける。」
・・みよし野は何処か?諸説ある。だいたい昔男の業平はこの武蔵野に実際やってきたのだろうか。入間の郡というから、川越から入間川に沿ってのあたりだろう。一つやはり川越だが、的場というのを見てみたい。初雁橋を渡って牛塚古墳があるあたり、霞ヶ関というのだろうか、三芳野塚があるという。この辺的場古墳群という。
・・母なむ藤原という。
・・むさし野の心もある。
四一
昔、女はらからふたりありけり。ひとりはいやしきおとこのまづしき、ひとりはあてなるおとこもたりけり。いやしきおとこもたる、しはすのつごもりに、うへのきぬをあらひてゝづからはりけり。心ざしはいたしけれど、さるいやしきわざもならはざりければ、うへのきぬのかたをはりやりてけり。せむかたもなくて、たゞなきになきけり。これをかのあてなるおとこきゝて、いと心ぐるしかりければ、いときよらなるろうさうのうへのきぬを、見いでゝやるとて、
むらさきのいろこき時はめもはるにのなるくさ木ぞわかれざりける
むさしのゝ心なるべし
・・武蔵野といえば、むらさき。
「古今集」読人しらず
紫のひともとゆえに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る
・・「紫のゆかり」で源氏物語につながる。
696
:
秋魚
:2016/07/24(日) 21:10:17
(無題)
・・ポケモンGoが大ヒットとか。操作主体が移動して現実を切り開くとか。・・所詮ゲームであろう。自転車のサイクリングトリップアートには及ぶまい。
ひさしぶりに小曽木街道から仏子狭山の豊水橋から入間川サイクリング道路に入って川越まで走った。最初の青梅坂のなんとも爽快なこと。往きはよいが帰路は登りがきつい。ともかくこれしきのアップダウンは苦にならない。黒沢川と岩倉温泉のある小曽木街道は何度走っても奥ゆかしい。さて例によって成木川にそそり立つ岩井堂。ここの巨石は謎だ。宗祇や芭蕉がここまで足を運んでいたなら頭が下がる。川越なら小江戸と呼ばれ宗祇心敬太田道真の河越千句がある。また今日は喜多院という江戸天海ゆかりの地に行く。
・・豊水橋までは嬉しくないが、入間川サイクリングロードの川沿いの風景は絶賛したい。入間川は古い川だ。云い忘れたが聖護院門跡の道興はここらを歩いている。入間の郡みよし野というのは昔男の業平が来たところ。一説には川越の的場という。これから訪ねるところだ。・・サイクリングロードを進むと、川べりで多くの人がカメラをかまえている。何だろうと思って土手を降りて近くの人に尋ねる。・・ササゴイという鳥がオイカワという魚を捕らえて呑み込むのをシャッターチャンスを待っているとか。オイカワは大きな魚でそこが興あるという。そういえば川の向こう縁に一羽いる。ただし先ほど一匹捕らえて呑み込んだばかりだから当分捕獲はないだろうと。で、いろいろ話してくれた人は、大変立派なカメラでその時の画像を見せてくれた。ササゴイとはサギの一種で笹色をしているがあまり大きくない。オイカワは外来種というが小魚ではない。・・しかしカメラマンが多い。
・・川に沿った敷地で公園、運動場、野菜つくりの畑があるのは多摩川もそうだが、ここのはより趣が深い。時代を超えたなつかしみがある。無人の野菜売り場がいくつかある。なかに御自由にお持ちくださいというのが。みるとゴーヤです。一本くらいなら荷物になるまい。いただくことにした。
・・いくつか橋があるが、めざすのは初雁橋。ここを折れて東京国際大の敷地近く牛塚古墳があるはず。駅は的場、霞ヶ関。法城寺というお寺の近くが三芳野塚。このあたり古墳がいっぱいあったが、都市化の波で史跡は原型をとどめなくなった。みよしの神社にそう案内書があった。入り組んだ地形で、何度も人に聞いてやっとそれらしき牛塚古墳をみつけた。・・頭の中に地図をつくっているうちは道に迷わない。錯誤があって自前の地図を白紙にしてしまうと、右も左もわからなくなる。牛塚古墳とみよしの神社をみつけて初雁橋にもどり、川越市街に進むことにした。業平がここに来たのはフィクションとしても川越というのは納得できる。
・・初雁の池などというのもあったらしい。入間川はよく洪水で氾濫する川で有名だが、このあたりなら海のごときか。
・・初雁橋から川越市街までは一直線。未知の道。以前大宮を訪ねた時は、入間川沿いをさらに下り荒川に合流するまで自転車を走らせたが、これは大変な迂回になった。初雁橋から右に折れて川越市街に出てさらに16号に出るのが本筋。ただし川越の駅がいくつかあり駅周辺は混乱する。今回は喜多院までこの道を真直ぐでよい。川越は何回か訪れたが、ここに来て喜多院を尋ねないのは片手落ちといわれたものだ。おしゃれな街で歩いているだけでも楽しめそう。・・喜多院周辺は成田山東照宮とかいくつか寺社がかたまってある。どこをどう歩いたものか。・・春日の局とか天海とかゆかりというが。
・・五百羅漢像の近くに芭蕉句碑を見つけた。・・「名月や池をめぐりて夜もすがら」
・・蕎麦屋で休みながら、大仲居の新井家にある芭蕉句碑を訪ねることにした。店を出る時に大仲居の氷川神社にゆく道を尋ねたが、大仲居すらよくわからないようだった。大雑把な地図をもっていたが、結局、それを頼りに道を直進した。この新井家の訪問記、実は、難航したがとても笑えるものになった。16号に一度出る必要がある。夏の盛りで、道を尋ねる人がいない。ホームセンターの駐車場で係員の人に尋ねた。よくわからず、来る人来る人に聞いてまわってくれて、三人寄れば文殊の知恵みたいな感じになり、ともかく16号を横断してまっすぐ田舎道を進んで其の先でまた人に聞くというようなことになった。川越は広いという。・・実際、16号は殺伐として横断の場所もあまりみつけづらい。田園が開けていて、こんな田舎道でほんとに良いのか。・・たまらず通りにあったお米屋さんに入った。客でもないのに悪いと思ったが、仕様も無い。奥からご主人が出てきて、このあたりが大仲居だという。で、新井家というのがあるはず。すこし行くと山田うどんがあってそこを左折直進して最初の交差点あたり角の家という。氷川神社も近く。・・これは運がいい。で、このあとがお笑いになった。実際、いわれた通りいってみると、新井家というのがあって、どうもこの家お留守の様。訪問をあきらめて氷川神社にむかった。一軒いかにも旧家といった家があり、ここかもと門を入った。表札がなかった。犬に吠えられ、どうも新井家ではなさそう。それで、なおぐるぐるまわってたまたま新井の表札のある家の前にでた。ここはご家族でバーベキュウ。すみません、新井様のお宅でしょうか?芭蕉の句碑を探しています。と、我家ではありません。もう一軒の新井家かもしれませんと。・・そうして氷川神社近くの表札のない家の前まできた。ここも庭をつっきって玄関の呼び鈴を押した。庭の奥に石碑がみえる。・・運よくご主人が在宅。ここが探し回った新井家だとわかった。句碑の写真を撮らせてください。・・十年に一人訪ねる人があればいいと、訪問ノートもある。今年はわたしで二人目。これからどんどん増えるはず。大事に保存管理をお願いした。
697
:
秋魚
:2016/07/25(月) 20:09:18
(無題)
・・身体がバラバラに解体したようだ。骨組みの活性、筋肉の張り、呼吸器のサイクル活動、細胞の活性、血液循環の促進、すべて身を粉にして反射運動神経のみ奮ってある。水がこんなに美味であるとは知らなかった。
>・・1884年(明治17年)、岡倉天心とフェノロサによって1200年の眠りから覚め法隆寺・夢殿の扉が開かれた時、白衣に包まれた秘仏と一巻の織物が発見された。その秘仏が救世観音。
その傍らから発見された一巻の織物が世界織染史上に燦然と輝く四天王獅猟文錦。
698
:
秋魚
:2016/07/29(金) 02:49:22
(無題)
>・・悉く荒夫琉(あらぶる)蝦夷(えみし)等を言向け、また山河の荒ぶる?等を平和して還り上り幸しし時に、足柄の坂本に到りて御粮(みかりて)を食(は)む處に、其の坂の?、白き鹿と化りて來て立ちき。 爾くして即ち其の咋い遺せる蒜(ひる)の片端を以ちて待ち打てば、其の目に中りて乃ち打ち殺しき。 故、其の坂に登り立ちて三たび歎きて詔りて云いしく、「阿(あ)豆(づ)麻(ま)波(は)夜(や)=吾妻はや【阿より下の五字は音を以ちてす】」。 故、其の國を號けて阿豆麻(あづま)と謂う。
・・あづま(東国)の場所はどこか。古事記では足柄の坂本という。白い鹿(土地の神)を偶々噛んでいたヒルで打ち殺してしまった。・・書紀ではここが碓氷峠。ここより東南の国が弟橘媛をしのんだ吾妻(あづま)の国になる。白い鹿に出会ったのは伊那谷を入って阿智村の神坂峠に伝説がある。
・・阿智の昼神温泉に伝わる話は、『大昔の事です。日本武尊がご東征の帰り途、伊那谷を通って園原の神坂峠へさしかかったとき、山と山に閉ざされて空もせまく、雲が幾重にも包んで、越す方法も知れませんでした。さすがの尊もしばらく手を組んで思案にくれていましたが、その時、悪事をなさる神が尊を苦しめようとして白鹿に化けて尊の前に立ちふさがったのです。尊は不思議に思いながら、口に噛んでいた蒜を鹿に投げつけました。それがちょうど鹿の目に当たって、鹿は死んでしまいました。ところがたちまち濃霧が巻き起こって、一寸先も見えなくなった時、一匹の白狗が現れて道に迷う尊を里へ導いてくれたのです。これ以来、神坂越えには蒜を噛んで通ると妖気に打たれる事がないと言われるようになりました。このことから「蒜噛」が、現在の「昼神」の語源になったという説があります。』
・・ところがたちまち濃霧が巻き起こって、一寸先も見えなくなった時、一匹の白狗が現れて道に迷う尊を里へ導いてくれたのです。
この白狗がタケルを窮地から導く伝承は、武蔵御嶽神社にも伝わっている。狗ではなく日本狼だが。
>・・即ち其の國より甲斐に越え出でて、酒折の宮に坐しましし時に歌いて曰く、
邇(に)比(ひ)婆(ば)理(り)
都(つ)久(く)波(ば)袁(を)須(す)疑(ぎ)弖(て)
伊(い)久(く)用(よ)加(か)泥(ね)都(つ)流(る)
新治
筑波を過ぎて
幾夜か寝つる
爾くして、其の御火燒(みひたき)の老人(おきな)御歌に續きて以って歌いて曰く、
迦(か)賀(が)那(な)倍(べ)弖(て)
用(よ)邇(に)波(は)許(こ)許(こ)能(の)用(よ)
比(ひ)邇(に)波(は)登(と)袁(お)加(か)袁(を)
日々並べて
夜には九夜
日には十日を
是を以ちて其の老人を誉めて、即ち東の國造を給うなり。
・・甲斐の酒折の宮は記紀とも一致。筑波から酒折まで九夜十日を数える。これは物部の十種(ひふみ)の道であろう。
人恋し灯ともしころをさくらちる 白雄
699
:
秋魚
:2016/08/03(水) 00:31:15
(無題)
・・地元の納涼祭の設営にかり出された。春の祭礼は不幸があって参加できず、夏祭りは是非参加したかった。自治会の役員になったのはハメられた気がしないでもないが、それはそういう運だと思う。・・祭りの設営というのはけっこうな力仕事でどうなることかと思ったが、遊び気分で参加。・・神社の境内にテントをいくつか組立てて、午後からは出店で焼ソバをつくる。奥さんたちが仕込んだものを理事の素人おじさんたちが鉄板で焼き上げる。知らないままに焼ソバ係になっていた。
・・自転車に乗って身体の運動は万全と思っていたが、脚力と呼吸器系の運動それに反射神経はきたえられるが、両腕の筋肉や足腰の筋肉もほとんどきたえていないのがわかった。特に腕の筋力はめだって衰えていた。弱音を吐いてはいられない。年いっても現役でやってる人はさすが活力も旺盛。完全に萎えた老人になるのはまだまだ早い。若いときのイメージで体を動かせたが、その分後になってひどい筋肉痛が残った。・・あの頑丈そうなテントなどいくつもよく組立てたものだ。力仕事はまだいい。焼ソバを二つのグループで800丁ほどつくる。気が遠くなりそうだったが、乗りかかった舟でいった。隣のグループは半分プロっぽいのがいて、味見くらべをしても、むこうが美味いというのを何度も聞いた。キャベツの焼が足りないとか、奥さん方のクレームも多い。・・で途中ソースの量など何度も修整をいれてなんとか夕方前までに800ほど焼き上げた。以前焼ソバ係が熱中症で倒れた人もいたとか、ともかくみな素人でバカ話をしながら、おもしろいものだった。終わったときは体全体に焼ソバの匂いが染み付いているほど。
・・夕方からの受付販売は奥さん方の仕事。お客さんがぽつぽつやって来て6時頃には若い子供も多く特に女の子は浴衣すがたが新鮮にみえる。この地域意外と子供が多いのがうれしかった。夏祭りだが、盆踊りはやらない。・・一度家で休んでまた出向こうとしたら最近同じマンションに越してきたイギリス人にばったり会った。運動をしてビールを買いに出るところという。地元の祭りだというので、ちょっと誘ってみた。いってみると神楽をやっていて白い犬の仮面をつけた舞があり、あれはgoodluckを意味するのか?など聞かれた。よく知らないが祭りではbadluckは無いでしょう。・・あの神楽、御嶽神社に伝わるタケルを導いた白い犬のテーマでしょう。
・・この外人さん。何でも小説家で、もう数冊本を出しているとか。電子ブックもあります。タイトルを尋ねたら、abandoned(孤児)という、中国の一人っ子政策を問題にした本が代表作という。詩も読むそうだ。
・・おみやげでもらった自作の焼ソバを食べてみた。信じられないことに、その美味なこと、とても美味い。
700
:
秋魚
:2016/08/06(土) 00:20:08
(無題)
・・暑くなった。霞川は昔立川活断層によって霞湖という湖を形成していたという。藤橋という閑静な住宅地から北に抜けて霞川をよぎる辺りで湖床の段差がある。南西の湿地帯が古霞湖であったという。この活断層地震は5千年周期でマギニチュウド7以上のが起こるという。そろそろ来るかもしれない。
・・自転車で霞川サイクリングロードを活断層のみれる所まで走ってみた。もっと上の岩倉温泉郷には、ヤマトタケルが傷を癒した岩陰はこの立川活断層の跡がみれる。東青梅から成木街道にはいり、霞川にぶつかるが今回も上流をのぼり水源を求めた。青梅丘陵の下に沿ってずっといくともう何やら分からぬ湿地帯になってこれより先は進めない。・・後で調べたら根ケ布の丁寧寺の裏の池が霞川水源とあり、これは支流のものか。日を改めて丁寧寺を訪ねてみよう。
・・霞川しょぼい川だが魚も多く水鳥もいる古い川だ。南東の武蔵野台地、これを割って立川活断層、入間飯能を隔てるのが狭山丘陵加治丘陵ずっと西側の青梅には霞丘陵がある。
武蔵のはらに鶴遊ぶなり 井月
*
・・「アルンハイムの地所」というマグリットの絵は三つのバージョンがある。
以前は気に留めていなかったが、窓辺に卵がありその向こうに山の影がある。がそれは巨大な鳥の影だ。山を動かせて太陽を見えるようにするとかいうが、38年→48年→62年の変容で最後のものは繊細な三日月がみえる。これは日食なのかも。
701
:
秋魚
:2016/08/07(日) 22:50:02
(無題)
・・今日は多摩川一万人清掃の日。みんなで川の掃除が出来るというので早起きをした。市と自治体の主催で一万人というからにはずっと下流の方から上流の方までの企画なのだろうか?とりあえず我が地区の分担だけでよい。川原だけで川の中はやらなくてよいみたいな注意があったが聞かなかったことにして川瀬の手の届くところはゴミを拾った。飛び石で足場をつくってバランスがあやういのもやってみた。浅瀬の水の中のゴミは見苦しいこと限りない。・・重量上げの女子選手が奇跡的に重いバーベル上げに成功してる。バランスは限界の奇跡。川の水流の抵抗を感じながらゴミを拾うのは楽しい。人が多い。
・・先日から気になった霞川の水源がある天寧寺に訪ねた。根ケ布といって霞丘陵の麓、塩船観音の裏手で由緒ある曹洞宗の寺だ。霞川から離れてどうしてそこが水源か。実際寺の近くに行ってみると、ちょろちょろと透明な水が流れている。ずっと辿っていゆくと池というより湧水のような湿地にでる。ここか?
「・・寺ノ背ニ霞ケ池在リ。蛇潜幾年歟、不知。女ト化テ面前ニ来ル。師云、何レヨリ来ルヤ。答曰、某ハ非人也。大慈大悲ヲ垂レテ我業障ヲ解脱セシメ玉ヘト請。師云、正身ヲ現ジ来レ、為メニ抜苦ノ法要ヲ説与セント。女人頭ヲ垂レテ去ル。須叟ニシテ大蛇ノ形ヲ現ジ、池辺ノ木ニ首ヲ横リ、法堂ノ戸牅ニ揚グ。浩水湧出シテ恰モ江河ノ如シ。・・」
・・天寧寺縁起(天保十三年)に霞川の水源は説かれてある。
山田早苗『玉川泝源日記』これ一冊で江戸後期の多摩川沿岸の様子がわかる。
結ぶ実のかはらぬ色の名も世々に青梅の村の梅のひともと
正三位大納言日野資矩
・・これは金剛寺の将門ゆかりの梅を詠んだもの。日野資枝、資矩はどうあっても一度は青梅を訪れているとみる。
玉川の南にわたり駒木野、長淵を歩く。今でも隣町の名前だ。玉泉寺という臨済の古刹はその存在すらも知らなかった。西分村宗徳寺、千ケ瀬宗建寺、畑中地蔵院、青梅延命寺、常保寺みな玉泉寺の末寺という。
今日は、暑い日和の中、この玉泉寺を訪ねた。
702
:
秋魚
:2016/08/13(土) 21:36:20
(無題)
・・盆休みに突入か。飯能の多峯主山にハイキング。多摩川万年橋を渡り青梅坂から小曽木街道はいつものコース。成木川入間川を渡り飯能郷土館に自転車を留めた。小島喜八郎という飯能育ちの画家の展示があった。街の風景画スケッチのほか草と題されたハイパーレアリズムの作品など。こんな作家もいたんだ。ぽつりぽつりと記憶に蘇る。・・すぐ隣の市民会館の駐輪場に自転車留めてここから歩いて能仁寺天覧山から多峯主山に向った。いつか夕立のある日に天覧山まで登った。常盤御前が歩いたという見返り坂は何としても歩いてみたい。義経の母常盤が飯能の多峯主からあまりの景色の良さに振り返り振り返り上ったとされる坂。能仁寺の裏手から天覧山に登りその裏手の道をゆくと飯能笹という特別種の草原と見返り坂になる。天覧山は197m多峯主山は271m。あまり高い山ではない。それでも絶好のハイキングコースとみえ休日に歩く人は多い。途中で道を尋ねた人は葛飾の柴又から来たという。あちらの方は山がないから。ほんとに山がない人は山が恋しいのかも。・・見返り坂は杉木立の景色でこれは青梅の御岳山と同じだがたしかに景色はいい。道はよく整備されている。常盤はこの坂を登って多峯主から高麗峠に向ったのであろう。で山中賊に襲われ落命したとか。あとで郷土館で尋ねたらあくまで伝説だとのこと。
・・多峯主の頂上は見晴らしがよい。霞がかかってなければ富士山が見える。
・・郷土館から徒歩ハイキングに切り替えたのは、正解。以前は自転車一本の多峯主登山を思案していたくらい。御岳山のような舗装された参道がないから、これは無理。体力を目一杯使って眺望の利く山登りは忘れた頃にやるとよい。
・・下山でおもしろいのは、すこし下った雨乞の池。どんな旱でもけして涸れることがないという。かなりの高所にあるまったくの池。湧き水があるという。水草とか色のある魚とかミズスマシとかいていかにも古池。十四、五mの幅でなんなく一周できる。月をみながら夜もすがらという風だが、もすこし里に近くないと。
・・天寧寺は霞川水源の池に大蛇が潜むという。ここの雨乞の池にも何か魔物が棲んでいそう。常盤もここを通ったはずだ。水の中を覗き込んで水面に映る自分の顔を見ることもあったかもしれない。こんなところまでよく来たものだと。
・・常盤の墓と伝わる場所もあるというが、探しあぐねて下山。西の端にある八幡神社など訪ねてさらに吾妻峡へというコースをとった。ここは誰も歩いていない。・・道はしっかりしてる。・・吾妻峡というのは入間川の川原にまで降りてゆく。名前がいいので興味をもったが、ここは次回のために割愛。
・・郷土館にもどって常盤御前と岩井堂観音の情報を探った。
703
:
秋魚
:2016/08/20(土) 01:00:57
(無題)
・・くろす川といへる川に、人の鵜つかひ侍るを見て、【入間市黒須】
岩がねに移ろふ水のくろす川、鵜のゐる影や、名に流れけむ
故郷の事など思ひ出で侍りて、暁まで月に向ひて、
吾郷萬里隔音容一別同遊夢不逢
客裡断陽何時是西山月落暁楼鐘
・・青梅−入間−狭山を流れる霞川。昔は黒須川と呼ぶ。河口付近は今でも黒須の地名が残る。聖護院門跡の道興「廻国雑記」に記述あり。
704
:
秋魚
:2016/08/25(木) 21:55:20
(無題)
?大宮氷川神社 北緯35度55分00.30秒 東経139度37分47.04秒
?中氷川神社(所沢) 北緯35度46分46秒 東経139度25分48秒
・・埼玉県所沢市山口にある、氷川信仰の神社である。旧入間郡と多摩郡92村の総鎮守で旧県社。
?奥氷川神社 北緯35度48分28秒 東経139度05分49秒
・・東京都西多摩郡奥多摩町にある神社。
氷川三本杉:根元近くから三本に分岐している珍しい杉で、鎌倉時代に植えられたという伝説がある神木。
705
:
秋魚
:2016/08/26(金) 21:13:51
(無題)
筑波山 北緯36度13分31秒 東経140度06分24秒
富士山 北緯35度21分38秒 東経138度43分39秒
中氷川神社 北緯35度46分46秒 東経139度25分48秒
大宮氷川神社 北緯35度55分00.30秒 東経139度37分47.04秒
中氷川神社(三ケ島) 北緯35度47分22秒 東経139度23分52秒
706
:
秋魚
:2016/08/28(日) 23:50:55
(無題)
・・旧青梅街道から成木街道にはいるところに三河屋という割烹料理屋がある。懐石を出すところで浮浪人の身には閾が高すぎた。今日は縁があってここの鰻料理を馳走にあずかった。自転車で行くつもりが雨降りだったので徒歩にきりかえた。青梅−東青梅の一駅を電車に乗るのが筋に思えたが、なんのことはない、青梅駅からの線路沿いの道は散歩道としてほんとにうれしい道だ。道沿いにある西分神社はすこし山をのぼるが以前訪ねたことがある。ほかに禅寺なども多い。何より古い民家のある路地など歩くだけでうれしい。
・・この成木街道をすこし上って霞川の水源を探したのはつい先日。天寧寺というのは曹洞宗の寺だ。ここが水源というのだが、もうすこし先の虎柏神社というのもとても古い由緒深い社だ。
>ほつまうちつすうたのあや ホツマ打ち 連歌の文
・・のにかたあふみ 野に片鐙
トラカシハ ヒロヒカンカエ とらかしは ひろひかんかえ トラガシハ 拾ひ考え
アフミサシ イマタテマツル あふみさし いまたてまつる 鐙 挿し 今 奉る
タマカサリ ホメテタマワル たまかさり ほめてたまわる 尊飾り 褒めて賜わる
ムラノナモ タマカワアフミ むらのなも たまかわあふみ 村の名も タマカワアフミ (多摩川青梅)
ミサシクニ サカムノクニト みさしくに さかむのくにと 身差し国 相模の国と
(武蔵国)
あふみさし 鐙 挿し → 青梅 さし → みさし 身差し → 武蔵
・・トラガシワというのは郷人の名らしい。鐙が青梅とは、ヤマトタケがわが身を差して、身差し(武蔵)という。
・・武蔵の国の発祥のメモリアルは青梅ということになる。
むさしあぶみ [4] 【武蔵▽鐙▼】
? 昔,武蔵国で作られた鐙。鐙に鉄板が連なり,その先に刺鉄(さすが)を付けたもの。和歌では,「さすが」に,また鐙は踏むところから「ふみ」にかけて用いる。 「 −さすがにかけて頼むには/伊勢 13」
? サトイモ科の多年草。関東以西の林内に生える。根葉は二個つき,三出複葉。五月,花茎を立てて棍棒状の肉穂花序をつける。花序は黒の縦縞(たてじま)がある鐙状の仏炎苞(ぶつえんほう)に包まれる。
707
:
秋魚
:2016/09/02(金) 12:11:20
(無題)
・・かねてより気になった狭山湖周辺に自転車を走らせた。メインの目標は所沢にある中氷川神社。筑波−富士ラインに乗りほぼ中間の距離に位置すると予測した。事前の下調べでは所沢の山口にあるという地図をもってでかけたが、これは実は失敗。所沢には中氷川神社というのは実は二つある。もうひとつ狭山湖北面の三ケ島にある神社は調べなしで出発。結局狭山湖に着いてから人に聞いたり案内板をみたりで混乱し、三ケ島と山口をいったりきたり最後は三ケ島に近いところから引き返して山口の神社に訪ねた。
筑波山 北緯36度13分31秒 東経140度06分24秒
富士山 北緯35度21分38秒 東経138度43分39秒
中氷川神社 北緯35度46分46秒 東経139度25分48秒
大宮氷川神社 北緯35度55分00.30秒 東経139度37分47.04秒
中氷川神社(三ケ島) 北緯35度47分22秒 東経139度23分52秒
・・青梅街道瑞穂の入り口で新青梅街道と旧青梅街道にわかれる。旧青梅の道をとった。するとすぐに岩蔵街道の入り口がある。こんなところにあるのか。この辺りが立川断層の筋かも。旧青梅街道をゆくとすぐ左手はこんもりした狭山丘陵。はじめに丘の上に平和慰霊塔というのがあり寄ってみた。戦争に殉じた死者を慰霊する塔があって、ほかに広島の原爆で生き残った植物など植わっている。被爆クスノキとか被爆アオギリとか。アンネフランクの薔薇というのは、やはりアンネの死を慰霊するものらしい。どうしてここに?先の戦争も何となく風化しそうな世相でここにも訪ねる人はあまりいない。長い石段を登らねばならない。
・・丘陵に沿ってすこし進むと六道山公園にあがる標識がある。狭山丘陵の上に開けた眺めのよい公園があると聞いていた。
・・阿豆佐味神社というのもこの近く。丘陵の麓で、筑波−富士ラインに乗っている。
東京都西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷1008
北緯35度46分0.52秒 東経139度21分53.65秒
主祭神 少彦名命(すくなひこなのみこと)素戔嗚命(すさのおのみこと)大己貴命(おおなむちのみこと)
創建は892年とあるが、出雲系の神が祀られているのは、やはりヤマトタケが立ち寄ったところか。
「あずさみ」というのは梓弓なら、ここから進路を変更する地点かもしれない。・・北緯35度46分0.52秒
・・山の上の見晴らしでわかったが、雲がなければ富士もよく見える。多摩方面の山並みは鍋のふたの形の大岳山がよく目立つ。
大岳山 北緯35度45分54秒 東経139度07分49秒
・・武蔵村山のかたくりの湯から狭山湖にまわる道がある。いつもはこの温泉とすぐ隣の郷土館まで来ていた。この森の中の道を突き抜けると狭山湖、多摩湖に出る。この二つの湖、人造湖で東京都の水瓶ということらしい。いくらかの湧水とおおかたは多摩川の水を引いているというから驚きだ。多摩川というのは日頃なんて水量の少ない川と感じていたが、玉川上水とか狭山湖多摩湖とかいくつも水を分け引いていれば無理もない。・・にしてもこの狭山湖(山口貯水場)はみごとだ。
・・狭山湖に出るまで葛の花咲く道でサイクリングロードとしてはとてもよい。途中多摩湖に向う道もあったが左に折れる。山口の中氷川に行くなら右の道が正解。まちがえて狭山湖に向った。まわりにこんもり丘陵の森に囲まれてよくこんなところに人造の湖をつくったものだ。案内板があって、岸辺に沿った自転車道を渡ると森があってここがトトロの森ということらしい。所沢−川越の境から西の狭山湖畔にかけてがトトロの森のモデルのようだ。この森の外れに早稲田大学の所沢キャンパスがありそのすぐ隣あたりに中氷川神社がある。このまま人に聞かずにこの中氷川をめざした方がよかったか。途中人にたずねて山口へと大きく迂回して引き返すことになった。
・・あとで調べてわかったが、この三ケ島の中氷川は筑波−富士ラインにほぼ正確にのる。距離もちょうど中間点。三ケ島葭子という与謝野晶子門下の歌人は、父がこの神社の神官で母はあきるの市の岩走神社の社家の長女という。母の家元の縁であきるのに住まいし小学校の教員をしていたとも。歌人は明星からあららぎに移りいろいろ歌壇のスキャンダルに巻き込まれたようだ。・・おもしろいのは父が再婚した異母の子に俳優の左卜全がいる。葭子の弟になる。
春の雨 けぶる欅の梢より をりをり露の かがやきて落つ
・・三ケ島の中氷川には、三ケ島葭子の歌碑がある。これは写実風味のアララギですな。
*崇神天皇御代(紀元前97年〜紀元前29年)に大宮氷川神社より勧進され、日本武尊が東征の折に立ち寄って大己貴命と少彦名命の両神を祀った、と伝えられる。
・・ヤマトタケが立ち寄ったというのは、正解でしょう。
708
:
秋魚
:2016/09/03(土) 22:19:16
(無題)
震旦國の志閑禪師は臨濟下の尊宿なり。臨濟ちなみに師のきたるをみて、とりとどむるに、師いはく、領也。
臨濟はなちていはく、旦放儞一頓。
これより臨濟の子となれり。
臨濟をはなれて末山にいたるに、末山とふ、近離甚處。
師いはく、路口。
末山いはく、なんぢなんぞ蓋却しきたらざる。
師無語。すなはち禮拜して師資の禮をまうく。
師、かへりて末山にとふ、いかならんかこれ末山。
末山いはく、不露頂。
師いはく、いかならんかこれ山中人。
末山いはく、非男女等相。
師いはく、なんぢなんぞ變ぜざる。
末山いはく、これ野狐精にあらず、なにをか變ぜん。
師、禮拜す。
つひに發心して園頭をつとむること始終三年なり。のちに出世せりし時、衆にしめしていはく、われ臨濟爺爺のところにして半杓を得しき、末山孃孃のところにして半杓を得しき。ともに一杓につくりて喫しおはりて、直至如今飽餉餉なり。
いまこの道をききて、昔日のあとを慕古するに、末山は高安大愚の神足なり、命脈ちからありて志閑の孃となる。臨濟は黄檗運師の嫡嗣なり、功夫ちからありて志閑の爺となる。爺とはちちといふなり、孃とは母といふなり。志閑禪師の末山尼了然を禮拜求法する、志氣の勝躅なり、晩學の慣節なり。撃關破節といふべし。
・・紀貫之の生年は866年とも872年とも。貞観の陸奥地震(869)の前後だが、唐の臨済義玄(慧照禅師)(?−867)の入れ替わりの生誕になる。
「正法眼蔵」礼拝得髄に禅師一喝のエピソードがある。貫之はこれを知っていたか?
709
:
秋魚
:2016/09/06(火) 00:48:48
(無題)
・・ふたたび成木街道から霞川の水源へ。風の子太陽の子広場の山の中に石動神社というめずらしい社を訪ねた。石動といっていするぎと読む。この名の神社は東京都にはここのみ。石川県の能登鹿島にあるのが本社という。
石動彦神:能登国石動山の神、かつて石動山に空から流星が落ちて石となり、この地に留まったという伝説がある
・・流星、隕石落下か。
710
:
秋魚
:2016/09/16(金) 17:23:19
(無題)
・・数日前に白萩の咲き初めるのをみた。なんとも清冽ではじめてのようだった。あきるのにある大悲願寺には萩のすばらしいのがある。伊達政宗が訪ねてその白萩に深くおどろき、後株をわけてくれるよう懇願の手紙を書いたという。伊達政宗というのは仙台藩の独眼竜正宗ですね。その白萩をまさに旬の時訪れて見てみたい。そう思っていたが家の近くでもう散ろうとしているのをみて、今日あわててあきるのの大悲願寺まで行ってみることにした。
・・五日市にゆく秋川街道。はじめて走った時はもう二度と走るまいと思ったほど嫌な道だった。登りスロープが長々とつづき、道幅もさほどないうえダンプなど荒々しい車が次から次へとくる。後ろからくる車をいつも気にして走る。峠の頂上までゆけばそれでも気が楽だ。・・あれから修羅場をいくつも走った。そのためか今回はゆとりもある。やばいところは全部停止すればよい。アップのスロープはあまりこたえない。足着きというのはほんとはやらない方がいい。この街道がこわくなくなれば五日市、あきるのは近くなる。天気が悪かったが昼以降は微雨であろう。
・・五日市の駅にでるまえに細い道を左折し進んだ。以前岩走神社という変わった名前の神社を訪ねた。その近くに大悲願寺もあるはず。五日市街道にでてやや進み秋川にかかる橋の手前で大きく左折迂回する道にはいる。・・ここらだが、通りがかりの人に聞いてみる。その角を曲がって坂をのぼり踏切をこえてまっすぐゆくと左手がお寺です。萩ですか?・・ネットなどの情報で中旬からひと月くらいが見ごろとかある。こういうのは一週間は早めた方がよい。薬王院のつつじなど旬と思って訪ねたらたいてい盛りをすぎている。早すぎるくらいが絶対見ごろだ。・・五日市線の踏切をわたり眺めのよい里道をゆく。しっとり落ち着いたお寺です。
・・あきるの市横沢丘陵という。この丘陵の麓に岩走神社があるはず。伊奈の石工が住んだ村と聞いていた。大悲願寺は真言宗豊山派。寺のたたずまいはしっとり落ち着いているが仁王門の天井絵など密教独得の緻密で華美な彩色がほどこされている。観音堂にある木造阿弥陀如来三尊像など平安末期から鎌倉にかけての古いものだ。・・伊達政宗がよくここに訪れるのは下の岩走神社となにか関係があるのかと深読みしたが、読み外れ。後々続く伊達藩の騒ぎと関係するようだ。
・・萩というもの今まで注意してみてなかったが、咲きはじめのものは趣が深い。花ひとつひとつの息吹きが感じられる。全体は細かな花の群舞でそれはそれで見ごたえがあるものらしい。咲くそばからたちまちのうちに散ってゆく。こういう騒がしい咲き散りは自分はあまり好きでない。雨が降ると靄のごとき花群にみえる。この寺の萩はほぼ白萩。黄や紫のものもあるらしいが。
711
:
秋魚
:2016/09/23(金) 21:53:50
(無題)
・・このところ国道411柳沢峠が話題になる。春に自転車でまわって驚天動地、忘れられない思い出になった。青梅近辺で自動車でなら必ず一度はまわってる人がおおい。ともかくすごい道だとは聞いていた。自転車ならヒルクライムは最上級、その道のクロウトが走るメッカだ。わたしがまわった時もみな装備は万全。自転車も高級なロードバイク。・・軽装備のサイクリストはそれでやれるという自信があるのだろう。うらやましいかぎりだ。・・インナーロウのギアで走るものらしいが、自分はもう一段重くしていた。
「・・1878年(明治11年)には、最大の難所であった大菩薩峠を迂回するルートとして柳沢峠が開削され、大菩薩峠を通るルートから変更された。」
「江戸時代まで青梅街道はこの柳沢峠ではなく大菩薩峠(標高1897m)を経由していた。大菩薩峠へは道幅も狭く通行も困難な青梅街道最大の難所であり、遭難者も多く出していたが、甲州街道より二里短く関所が無いこともあり利用者は多かった。塩山側の麓には萩原口留番所跡がある」
「明治になり県令藤村紫朗の主導によって民費で道路改修を行うことになるが、大菩薩峠に車道を通すのは困難だったため、1878年(明治11年)現在の柳沢峠経由の道路を開削した。」
花魁淵
・・武田勝頼の死による甲州征伐の折、武田氏の隠し金山と言われたこの黒川金山も閉山となった。この時、金山の秘密が漏れることを危惧した金山奉行 依田の主導で、鉱山労働者の相手をするため遊廓にいた55人の遊女と金山に従事した配下の武士を皆殺しにすることを決め、酒宴の興にと称して柳沢川の上に藤蔓で吊った宴台の上で彼女らを舞わせ、舞っている間に蔓を切って宴台もろとも淵に沈めて殺害した
・・たぶんこわかったのはこの所為であろう。
奥多摩から丹波川に沿って柳沢峠に向う道は、丹波山村までは開けているが、その先一の瀬までは難路。江戸天保期に山田早苗の玉川源流行があって、一の瀬高橋あたりは柳沢川、黒川山(鶏冠山)は武田の金山だった。甲州側からこの金山めざして鉱夫ほか女郎やなど多少の賑わいはあった。富の源泉である金鉱は厳重に管理されるゆえ、その村はある種の牢獄。花魁淵などいって吉原女郎の画像を置いても同じとみえる。・・江戸安政の大地震の時吉原も大火に見舞われた。
「新吉原での火災は延宝4年から慶応2年の191年間に22回あった。安政2年の地震による火事では、郭内の死者は千二十余人、遊女のみ、530余人を数える。失火があったら火消も繰り出すが、大門内に入らず鎮火を待った。焼け残りがあるとこれを焼き払ったのは、仮小屋での営業が許されないからである。仮宅による営業はうまみもあり、火事を密かに願ったと者もいた。」
吉原の巴屋といえば、
?其巴屋に岩こすといふ傾城は、秀たるものなりき、渠は、もと越後、信濃あたりの深山のものにて、山女衒行かゝりて見れば、老女只一人、六七歳の小女と、あやしき家居に住むあり、立ちよりて問へば、此小女は父母におくれて我手に育侍るといふ、かゝる所にあらんよりは、我江戸に連行ん、我にあたへまじやといへば、山奥のかかる所にありて、若我死せば、狼の餌食ともならん、夫いと幸なり、つれ行て命を全くし給れといふ、女衒歓びて、金弐分を老女へ与へければ、老女も悦びけつとなん、是後に巴屋の岩こすとて全盛の君となりたるといふ事を、年を経て聞けり、其虚実はしらず、同藩の大山氏なるもの、此岩こすに逢けるに、夏の頃なりしが、幮の外に来りて禿を呼て、水を取よせ、其半呑て暑しやと問ふ、大山、暑しと答ふ、其時、その茶碗を持て幮に入り、のみさしたる水をのまする心かとおもふに、さはなくて、おのれ一口呑て、大山が寝たる顔に向ひて、ふつと霧を吹かけたり、顔より髪襟のあたりまで水にぬれければ、驚きて起上る、岩こす笑て、呑たるよりは涼しからん、といひしとなり、凡妓の気骨にあらず、此一談を聞ても察すべきなり?
「新吉原遊女町
日本堤の下にあり。俗に五丁町と唱へたり。(其街五町あるゆゑにいへり。)慶長の頃、江府日に増し繁栄の地となりければ、是を伝へ聞き駿州元吉原の駅より、遊女屋を始めんとする輩二十余人、江戸に移り住す。其頃は、定れる花街もなく、ここかしこに遊女屋散在せしかば、彼輩官に訴へて、京橋具足町の東、泥沼の地を築埋め、一方に口を設け、南の側を角町と唱へ、(今の京橋炭町是也。)北の側を柳町といふ。(今の京橋柳町是也。)又中の通を仲の町と號け、此地に傾城町を開発す。(今京橋具足町と柳町との間、南北への通を中通といへるも、仲の町の旧稱をうしなはざる證據なり。以上事跡合考に載するところなり。)其後庄司甚右衛門といへる者、(相州小田原の産にして、始め甚内と云ふ。また一説に、勘右衛門ともいひけるよしいひ伝ふ。)官の免を得て、元和三年、始めて花■を定め、葺屋町の末にて、二丁四方の地を賜ひ、是を吉原町と號く。(今所謂和泉町、高砂町、住吉町、難波町等、其旧地なりといへり。また菊岡沽涼云ふ、其地沼にして葭萱のみ繁茂したるを開きし故に、葭原ともいふべかりしを、賀して吉原に作るといへり。禄開板の江戸鹿子等の書には、其始め駿州元吉原よりうつす故に、この號ありと云々。)翌年、普請落成す。然るに江府益繁昌し、人家蔓りければ、明暦二年の冬、竟に今の所に替地を賜ふ。(明暦二年丁酉八月今の地にうつる。)依て新吉原町と號くるといへり。此花柳は、まことに三都の魁たり。其賑は、特弥生の花の頃をもて勝れたりとし、春宵一刻の値、千金を顧みず。初秋の燈籠は、萬字屋の玉菊が追福にはじまり、八朔の白重は、巴屋の高橋に起る。今も此日をもて、更衣の節とす。名にしおふ二度の月見の全盛はいふもさらなり、悉く其美を■るにいとまあらず。しばらく此處に是を略す。」
712
:
秋魚
:2016/09/27(火) 01:39:17
(無題)
大菩薩峠 N35度44分9秒 E138度51分12秒
長岡駅 N37度26分49.9秒 E138度51分13.8秒
高尾山古墳 N35度7分22.73秒 E138度51分40.22秒
長岡市今朝白 E138度51分40秒
安積山 N37度27分10秒 E140度23分28秒
長岡市今朝白 N37度27分01秒 E138度51分37秒
福島県双葉郡双葉町歴史民族資料館 N37度27分01秒 E141度00分26秒
713
:
秋魚
:2016/10/01(土) 18:44:20
(無題)
・・栗拾いに出たが遅きにすぎた。どこもかしこも拾われて無い。去年は温泉の帰りにたまたま手付かずのよい栗が弾けていた。同じ場所にいってみたがこういう算段はダメですね。周囲の環境も変わっていて、とても栗拾いなんてものじゃない。
・・萩というのは白いものだと思っていたが小豆色の萩が本命らしい。道すがらもう散り終わりの無残な萩もみた。彼岸花も無残なものだ。いまは金木犀が盛りだ。強烈に香る。
・・外に出て野山を歩くのをためらったが為に旬のものに出会い損なった。
コスモスはよく咲いている。
714
:
秋魚
:2016/10/04(火) 00:50:38
(無題)
・・萩で想い出した。柳沢峠を塩山側へ下って裂石山雲峰寺という寺がある。
「・・寺伝によれば行基が修行に訪れた同年6月17日の夜、霊雲が烈しい光を帯びて当山の上にまたたき、山や谷を大いに震わせたといわれています。そして、山中にある高さ15メートル余りの大石がにわかに真二つとなりました。巨大な石の裂け目からは萩の大樹が生え、さらには石の上に燦然と十一面観音が出現したといわれています。それを目の当たりにした行基は、崇高な心で萩の樹を切り取り十一面観音の尊像へと彫刻し、一庵に奉祀しました。」
・・萩の大樹?
萩というのは草ではないか?
十一面観音など彫れるものだろうか?
萩の別名で野守草というのがある。これはよい名と思うが誰もそれをいわない。
715
:
秋魚
:2016/10/14(金) 21:30:56
(無題)
>・・栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと、行基菩薩*の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。
世の人の見付ぬ花や軒の栗
・・行基の杖は栗、西行の杖は桜、芭蕉の杖はツバキ。
「天親菩薩、無端変、作一條榔栗杖・・・塵沙諸仏、盡在這裏葛藤」
「嚴雲:榔栗?擔不顧人,直入千峰萬峰去」
『碧巌録』にみられる「榔栗」は、「木ヘンに即・木ヘンに栗」という漢字。ソクリツと読むものらしい。天台山にある杖をつくる木の名。同種のものが日本にあるかどうか不明。
716
:
秋魚
:2016/10/17(月) 23:19:28
(無題)
・・吉野街道沿いの空地に花壇をつくるというのでボランチアに出た。私有地ということだが残土置かれて荒れ放題。自治会にお任せになった。形状も三角でわるく一部は野菜つくりで使われているようだがナスなど収穫もされてない。何より道路際で埃っぽい。・・地元の人に聞くと昔は魚屋とかスーパーとかお店があったという。店が流行らず撤退してただの空地になった。自治会の理事、美化委員が主導というので声がかかった。自治会の役員というのはもう余生を生きる年寄りばかりで生活だけは年金とかで安定しているらしい。年を食って安定してないのは自分くらい。それでも家のすぐ近くで土方仕事になるので男手がいるということだった。特に用事もなかったので参加することにした。
・・夏の納涼祭はテント組み立てと焼ソバつくり。先日は運動会があって雨天で中止にはなったが慰労会はおもしろかった。普段はやれない仕事で終わったあとは全身の筋肉痛になるのはいつものこと。こんどの花壇つくりも今は筋肉痛。・・しかしおもしろいものだった。
・・土をほぐして瓦礫を除く。大方の地形つくりのあと道路との仕切りにブロックを置く。これは土木の専門家が一人いて進める。コンクリートをつくる。セメント、砂、砂利を混ぜて水をそそぐ。材料はみなホームセンターで揃うらしい。配合ぐあいはわからない。ブロックを並べて鉄棒とコンクリートで固定。鉄棒の切断などもやってみた。・・草むしりと土おこしくらいに考えていたが、本格的な土台つくりで昼過ぎまで作業。花苗を植えるのは後日のこと。
・・終了して打ち上げの食事会になった。自治会の古参の人がほとんどでいろいろ話がおもしろい。幹部役員はほとんど政治の苦労話でこれはあまり参与したくない。多摩のこの地域、野生の動物が増えているよう。すぐ近くの林で熊が出たとか。イノシシなど親子連れで七八頭も裏山に出没。罠でとらえた人もいて、イノシシ、アライグマ、ハクビジンとか、処理の仕方わからずまた野に放ったとか。イノシシは猛進するから危険。アライグマはクマではなく可愛いものという。万年橋の上から川で水浴びするタヌキをみたことあるが、あれはアライグマだったかも。区別もむずかしい。
・・丹波山村出身の人もいる。町に住んでいるが丹波村に山を所有で、柚子、柿、筍とか豊かにみのる。丹波山にはのめこいの湯がある。いつか自転車で必死で訪ねた。極上の温泉です。ここいら柚子など腐るほど実る。観光客を相手に一袋百円で売られてもいるが、おおかた収穫しないで落下させてるのも多い。柚子狩、柿狩、筍狩にはぜひ参加したい。のち温泉は魅惑。
717
:
秋魚
:2016/10/22(土) 01:16:19
(無題)
・・伊勢物語の東下りで昔男業平が詠んだ言問いの歌。それは白鬚橋の渡しという。
座標: 北緯35度43分41秒 東経139度48分35秒
もうすこし隅田川を遡ると隅田川神社。
北緯35度43分58秒 東経139度48分45.8秒
さらに梅若塚のある木母寺。
北緯35度44分02秒 東経139度48分51秒
奥多摩の大菩薩峠は、 N35度44分9秒 E138度51分12秒
夕べあしたの鐘の声
寂滅為楽と響けども
聞いて驚く人もなし
花は散りても春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
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