したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

哲学・宗教質問箱

489あがるま:2010/09/18(土) 03:09:21
<松井冬子「痛みが美に変る」>
日本での学位論文だと云ふ今村純子『シモーヌ・ウェイユの詩学』(慶應大学出版会)にも同じやうなテーゼがありました。
どうやら美女にとつては不幸は美に繋がつてゐるらしい
<認識を阻む不幸の直中で美的感情が溢れ出るところに至高の自由が開かれてゆくウェイユの形而上学において、詩といファクターに着目するならば、私たちは、創造的想像力が構築した『架空の世界』を、すなはち、けつして経験してえない、『無』、『真空』、『ないもの』を、現実の非実在性として認識してしまつてゐるといふ『不思議さ』のうちにある。p.26>
この引用文では難解のやうですが、この本はとても読み易くて博士論文としてのアカデミックな骨格が不足してゐやうにも思はれます。

490:2010/09/18(土) 05:51:38
竹下節子さん
節子さんの本「無神論」を読みました。
具体的に色々書かれていました。
竹下節子さんはキリスト教が嫌になったので、
無神論という本を書かれたのですか?

491Sekko:2010/09/19(日) 00:39:46
無神論の本について
「匿名希望」さま

>竹下節子さんはキリスト教が嫌になったので、無神論という本を書かれたのですか?

そんなことはまったくありません。そう読めたとしたら、私の力不足です。

キリスト教の歴史の中でも、他の宗教もそうですが、どうしても人は「自分」や「自分の家族」や「自分の共同体」の損得や都合によって、神も宗教も変質させていく傾向があり、けれども、それに対して、いつの時代にも、エゴイズムを離れた刷新の力もまた生まれるもので、それによって、「既成宗教」もまた、自分を見直していく、そういう繰り返しだと思います。

キリスト教の中には、人と人が支配関係や依存関係を維持するのに都合よく作られた偶像を破壊する力があると私は思います。(別に他の宗教にはその力がないという意味ではありませんが。)

逆に、キリスト教と称していても、キリスト教信者と称していても、弱い立場の人を従属させたり依存させたり無視したりする個々のケースはあるわけで、そういう場合は、名前が「キリスト教」だからといっても、本質は遠いところにあると思います。たとえ「無神論者」と称している人でも、今目の前に倒れている知らない人をすすんで助けるとしたら、倒れている人にとっては、道路の反対側に渡ってしまうキリスト教信者よりも、「隣人」ですよね。福音書にあるとおりです。

結局は、一人一人が、実際にどうやって他者とかかわって行くかという毎日の実践が問われていると思います。

その意味で、「キリスト者」だと言われるかどうかよりも「隣人」だと言われるように生きたいですが、難しいですね。

492arikui:2010/09/24(金) 23:50:54
司祭になることについて
はじめまして。
フランスの事情に詳しい竹下節子さまに伺いたいことがあります。
最近テレビでフランスでカトリックの司祭・修道女への志願者が激減していて
教区でミサを行い続けるためにアフリカから司祭を招いているというニュースを見てびっくりしました。
世界全体の潮流とはいえ、フランスでさえそうなのか・・・という感じです。
かつては一家から聖職者を出すことは「誇り」のようにとらえられていたと思うのですが(或いは貧しい家庭の秀才にとっては勉強を続けるチャンスという)今のフランス人家庭にとって子供が司祭・修道女を目指すということはどういうとらえ方なのでしょうか?

493Sekko:2010/09/25(土) 23:48:08
arikuiさま
 そうですね。でも、「司祭が足りないから、アフリカから招く」という単純なものでもないです。人口に対する司祭の割合は今でも、フランスはアフリカよりも多いです。
 カトリックでは司祭に叙階される時、特定の司教区か修道院などの所属が決められます。Incardination といいます。五年間以上別のところで働いたら変更も可能だそうです。で、昔はどの小教区にも、所属の司祭がいたんですが、今は、老齢化して、フランスの小教区所属司祭の半数以上が75歳以上です。75歳が一応定年なのですが、司祭不足なのでその半数は現役です。というより、健康状態が許す限りみな続けるようです。
 Pontoiseの例で、181人の司祭のうち、62人がincardineされた人、68人が、他の司教区所属の人(たとえば別の場所の修道会に所属しているとか、企業で言えば出向 立場)、51人が外国人司祭となっています。
 アフリカ人が多いのは、たとえばコンゴなど旧ベルギー領のカトリックがマジョリティの国とかでは、フランス語が公用語だし、フランス語系修道会が根強いので、フランスやベルギーの神学校に入って司祭になる人も多いからです。つまり、言葉を含めて歴史的に関係が深いからです。
 後は、EU拡大で、ヨーロッパ同士の行き来が自由化したこともあり、司祭の数の多いポーランド人司祭がたくさん来ています。人口の規模からいっても、ポーランド人司祭が外国人司祭の中でも多いようです。

 確かに昔は、教育の質のために神学校に行く人も少なくなかったし、一家に一人は聖職者を、という傾向もありました。カトリックの聖職者は独身なので、甥や姪たちにとって持続したスーパーバイザーとしてよりどころになったという側面もありました。

 今はブルジョワのカトリック家庭の子女のグループなどをのぞいて、若くしてカトリックに深くかかわる青年は少ないです。全体として精神的な危機にあたって救いを求める若者はカルト宗教や福音派などマーケッティングがうまいか積極的なグループへと向かいますし、カトリックでも教条主義的なグループとか、「キリスト軍団」のような使命感に燃えたタイプのグループに近づくことが多いです。
 これは、カトリックだけが衰退したということではなくて、今は情報も多く、若者のモラトリアムが許される時代でもあり、すべてについて、昔のように若いうちに「社会での立ち位置を決めて引き受ける」という傾向が減ったことの一部でもあと言われています。昔はたとえば、労働組合の所属は基本のひとつでしたし、結婚も標準でした。今のフランス人は子供は作っても、結婚率はすごく少なくなってます。組合参加率も。

 でも、ある意味で、長い家庭生活を経てから結婚するとか、他の職業を経た後で使命を自覚して聖職者になるとか、自覚的な選択が可能なのは悪いことばかりではありません。
 親が子供の選択をリスペクトする率は日本より高いと思います。

494arikui:2010/10/11(月) 06:49:08
御礼が遅くなりました
Sekkoさま
御礼が遅くなり誠に申し訳ありません。丁寧なご回答ありがとうございました。

>長い家庭生活を経てから結婚するとか、他の職業を経た後で使命を自覚して聖職者になる
ことのベネフィットについては同感です。
問題は「受け入れる」カトリック教会の組織の柔軟性ですよね・・・

495迷える大羊:2010/12/16(木) 22:21:44
東京都「青少年健全育成条例」
 以前から、現都知事が熱心に制定を推進していたこの条例、ついに今月可決されました。それと、キリスト教、宗教に何の関係が?ということは後述するとしまして、とりあえず、この条例がなんなのか?と申しますと・・・。

『非実在青少年』(18才未満の登場人物)の性行為をみだりに性的対象として肯定的に描写した漫画など」を「自主的な区分販売」とし、成人コーナーにしか置かないようにするよう自主規制、です。

 この「非実在青少年」というのが基準があまりにあいまい、との反発をマンガ家、出版社側から受け、「非実在青少年」の言葉が削除し、「刑罰法規に触れる性行為や、婚姻を禁止されている近親者間の行為を、不当に賛美・誇張して描いた漫画など」の表現が加え修正、めでたく?今月条例成立と相成ったわけです。

まあ、この条例については賛否両論いろいろあるでしょうが、その辺はとりあえず脇に置いといて・・。

 個人的に気になるのは、この条例によれば、旧約聖書の「マンガ化」はアウト、思いっきり「成人指定」の範疇に入ってしまうんじゃないのか?近親相姦、ノゾキ、レイプ、親子どんぶり・・などなど、「健全な青少年の育成」に「有害」な要素がテンコ盛りやないか!とふと考えてしまったのですが・・。

 これから東京都下のキリスト教書店などにおいてもマンガ化された聖書本は、一般の神学本、エッセイとは隔離して「成人コーナー」に置かないとならなくなるんですかねぇ?あと、日本を代表する古典文学「源氏物語」も相当にヤバいんじゃ?
 これも、マンガ化されたものは今のように呑気に一般の受験本と並べて陳列、っていうのはダメなのでしょうかね?

 あと旧約聖書が日本・東京で「成人指定」を受け、エロ本扱いされた場合、イスラエルあたりを筆頭に世界の一神教の国々がどのような反応を示すかも気になるところですね。

 しかし、個人的には「青少年健全育成」(偽善ぽくて嫌いです、この言葉)に「有害」なコンテンツは他にいくらでもあるだろうに、なんでマンガ、アニメなんでしょうね?とりあえず、叩きやすいところから叩いてるとしか思えないんですが・・。そもそも、エロマンガの流通と「青少年健全育成」だの、実際の性犯罪だのに本当に何か関係あるんですかね?

 旧約聖書についても、やれ性的に乱脈だとか、矛盾しとるやないか、と散々ツッコミを入れてきましたが、あれが、やたらと「清らか」で「健全」で単純な「勧善懲悪」な話ばっかりだったら・・・。確かに理解はしやすいかもしれないけども、恐ろしく単純で図式的な、感動的ではあってもどうにも底の浅い、それこそ「マンガチック」な有様にとっくに飽きがきて白けきってるかもしれませんね。

 先生はじめ、皆さんはどうお考えでしょうか?

496異邦人ヨハネ:2010/12/18(土) 17:41:59
迷える大羊さん、心配不要では
確かに旧約聖書には人間の悪い行いが書かれていますが、それらを「肯定的に描写」しているのでありませんから、条例違反と判断されることはないのではありませんか。

497迷える大羊:2010/12/19(日) 13:03:37
(無題)
>確かに旧約聖書には人間の悪い行いが書かれていますが、それらを「肯定的に描写」しているのでありませんから、条例違反と判断されることはないのではありませんか。

確かにレビ記では主はモーゼに近親相姦はダメって言ってますね。でも、あからさまにそのタブーを犯している連中(サラはアブラハムの妻であると同時にアブラハムの父テラの妻でもある)に何のおとがめもないですし、親子で交わったロト父娘に対しても主より非難やお仕置きが加えられた形跡は・・。
 それどころか、「オナニー」で有名なオナンが交わるべき相手は兄貴の嫁さんですし。ダビデなど部下の妻に横恋慕し、風呂をノゾき、ものにして、旦那は職権でもって最前線の戦場に送りこみ戦死させ・・、鬼のような男ですね(でも、マタイの福音書ではイエス様のご先祖)。ダビデに対しては一応、お仕置きはあるにはあるんですが、何にもやってないヨブが悲惨な目にあわされていることを考えると、随分、罰が軽いっていうか、エコひいきされているよな、やっぱり、アウト、まずいなぁと個人的には思います。

 まあ、「マンガ」にしなけりゃいいんですけどね。しかし、エロマンガ、エロアニメ、その他エロ本の流通と青少年の「健全」な育成だのって本当に何か関係あるんですかね?
 こんな「聖典」を常日頃読んでるクリスチャン、ユダヤ教徒、ムスリムは「変質者予備軍」なんでしょうか?

 大体「肯定的に描写」しているかどうか?なんて誰が何の基準を元にして判断するつもりなんですかね?
 そもそも、条例でいう「健全な青少年」というのがどういう定義なのかわかりませんが、条例の内容を鑑みて、とりあえず性犯罪を犯さない青少年、と定義することにして、未成年の性犯罪ってそんなに増えているのか?統計、データをあたってみましたが、そんな傾向は全然見当たらない、むしろ近年はえらい勢いで減ってますけどね。

http://www.npa.go.jp/toukei/keiki/hanzai_h21/h21hanzaitoukei.htm
(平成21年の犯罪(警察庁))

http://kangaeru.s59.xrea.com/G-Rape.htm
(少年によるレイプ統計、未成年の強姦犯検挙人数と少年人口(10歳〜19歳)10万人あたりの比率、元ネタはやはり警察庁統計書)

 ただ、これらのデータは日本国全体を対象にしたデータで、「東京都のみ」に絞ったデータは発見できませんでした。また、エロマンガ、エロアニメとの因果関係を調べたデータも今のところ発見しておりません。
 東京都側、現都知事側でそういうデータを持っているのかもしれませんね(棒読み)。

498Sekko:2010/12/20(月) 07:23:17
この話、
東京都の条例って言うところが、知事さんのキャラやキャリアから考えてなんだか、笑える感じがしますね。彼の昔の小説なんかは映画化はされてましたけれどマンガやアニメはなかったんですね、きっと。

そう言えば私は前に、旧約聖書のマンガ化について監修などのお話を相談されたことがあります。でも、そういう細かいこと考えつきませんでした。

よく猥褻物の基準として「劣情を刺激」というのがありますよね。あれもなんだか笑えますね。別に肯定的とか賛美とかじゃなくとも、否定的でも「劣情を刺激される」ことはシチュエーションによってあるでしょうけど。

そういうことを言い出したら、なんでも、マンガとかアニメでビジュアルに表現してしまったら、想像の余地は減ってしまって、タブーの持つ刺激も少なくなるんじゃないかなあ。

まあ、年齢やシチュエーションによってはもう何をどのように見ても聞いても読んでも劣情を刺激されちゃう人もいるでしょうし、そんな心配をするなら、青少年の鬱病や自死の問題の対策を立てる方が急務のような気もします。

後、キリスト教圏の人がどうこう言うよりも、すごく正直に言って、劣情を刺激するだけの表現テクニックなら日本人の方がはるかに進んでると思いますよ。屈折しているのかなあ。ラテン系の人とか一般に単純だと思う。普通のフランス艶笑ジョークとか、日本人には全然おかしくないと思うのは私だけなのかなあ。もちろん頽廃的で倒錯的なすごい文学もフランスにはあるわけで、あくまでも平均レベルの話ですけど。

個人的には、あまりにも進化した日本製のひどいマンガやアニメがフランスに入ってくるのは嬉しくないですし、私がもし、妻とか娘とか恋人とかを愛する男だとしたら、ものすごく嫌だと思います。そういうものがあるからこそ、何が嫌なのか、とか、自分が大切にしたいのは何なのかとかを気づかせてくれるという面もありますね。

499迷える大羊:2010/12/20(月) 22:43:31
「健全」って何?
 お断りしておきたいのですが、別に私だって「いかにも」といったキャラが性器むき出しでナニをしているシーンが露骨なエロアニメ、エロマンガのあからさまな氾濫を肯定しているわけではないですよ。倫理というよりは趣味の問題ですけど。

 でも、この手の問題って結局のところ客観的な基準を設けることが難しい、というか不可能じゃないですか。それにそういったものを不自然に排除した社会が本当に「健全」なのかどうか?はなはだ疑問で。

 それに「青少年の健全な育成」とはいうけれど、自分の子供時代を省みても、大きなお世話っていうか、子供をあまりにバカにしすぎてないですか?という疑問もありますね。

 日本製のアニメやマンガがどうして世界でどうしてウケたのか?というと、いろいろ理由があるけれど、子供だからこの程度でいい、といった「手抜き」がないことがあると思います。つまり、日本製アニメやマンガの登場以前、世界の大抵の国々でマンガやアニメといえば「子供向き」、子供相手だから、この程度の話、なるべく「健全」で「当たり障りのないもの」という呪縛にとらわれていたところが多かった。でも、子供は大人が勝手に考えるほどに世間知らずでも、ものを考えていないわけでもない、自分自身の子供時代を省みても、そういう「手抜き」とか「偽善」は意外とわかっちゃいます。

 そんな中、そういった呪縛に囚われない、子供相手だからといって「手を抜かない」ストーリーやクオリティで作り込んだ日本製アニメがタイミングよく出てきた、というところが大きいと思うのです。
 例えば、40代以下の日本人、特に男性なら大体名前くらいは知っているアニメに「機動戦士ガンダム」なんてのがあります。ロボットがドンパチを展開するアニメ、ってことで内容を知らないと子供向けそのものに見えますが、宇宙植民地の独立闘争とか、人類の進化とか、中間管理職の立場の苦しさ、あと、なんといっても勧善懲悪ではなく、敵側にも彼らなりの正義とか理想があるし、主人公の側にもずる賢い人物が結構いて、一筋縄ではいかないキャラクターばかり、どうみても大人にならないと理解できそうにないストーリー(少なくとも一部のおバカなハリウッド製アクション映画よりは、はるかに「大人」な内容)にも関わらず、子供たちにバカ受けし、関連商品のプラモデルはデパートで奪い合いになるような大ヒット。
 初回放送から三十年経った今も人気は廃れず、「国民的アニメ」になってます。あれが、明るくて「健全」な少年が主人公が「悪い」敵をやっつける内容なら・・、例え子供時代でも観る気なんておきませんね。
 今回の規制が東京都限定とはいえ、日本のマンガ、アニメの衰退のはじまりにならなきゃいいけど、と思う次第。日本のマンガが「スーパーマン」みたいな単純、無難きわまりない、「健全」な「勧善懲悪」ものばっかりになるなんて、考えただけでゾッとします。

 ここで引き合いに出した、旧約聖書にしたって、いろいろツッコんできましたが、あれが「健全」な内容だったら、さぞかし「つまらない」代物だと思います。聖書解説本の中には旧約聖書(新約もだけれども)の毒毒しい部分はカットして、見て見ぬふりをして、当たり障りのない、誰にでも理解できる道徳的な部分しか紹介しないものがありますが、一体、何を考えているんだろう、と思ったりします。実際、それではキリスト教、ユダヤ教は単なる「道徳」とは似て非なるもの、という本質的なところがわからなくなるんじゃないでしょうか?

 

500りゅう:2010/12/23(木) 08:29:52
聖Sekkoによる救い?
カトリック生活1月号の「カトリック・サプリ」を読ませていただきました。
よくわからない点があったので質問させてもらいます。

「でも、神の愛が永遠だとしたら、やぱり永遠の地獄などない。一人で這い上がれなくても、誰かがきっと手を差し伸べてくれる。地獄にいるときはその手をつかむ勇気をもとう。天国にいるときは手を差し伸べる勇気をもとう。」(カトリック・サプリ 最後の段落)

これは、まだ生きている状況のことを言っているのでしょうか。
それとも、死後の話をしているのでしょうか?

死後の話だとすれば、これは完全に異端説になると思います。
神が救ってくれないなら、わたしたちが救おうと言っているように見えます。わたしたちに人を救う力があると言っているのでしょうか。
人を救えるのは神のみで、わたしたちはそのお手伝いをするだけでしょう。
また、地獄に落ちてしまったなら、それを神の意思として受け入れるのではなく、天国にいる神ではない誰かに助けを求めようと言っていますね。

つまりは、
「救いに関しては、もう神様など関係ない。わたしたちで勝手にやりましょう!」
と言っているように見えます。


上のカトリック・サプリの文章は、とても優しい文章に見えて、実は神不在のまま救いを進めようとしている、とても恐ろしい異端説に思えます。
わたしたちの救いはイエスからのみでしょう。
それとも、主イエス以外にも、「聖Sekkoとその仲間たち」による救いも別にあると説いているのでしょうか?

解説をお願いします。

501Sekko:2010/12/24(金) 04:16:06
りゅうさまへ
誤解を与えてすみません。

死後のことは私には分からないので、とりあえず、ここでは、生きているうちに「天国にいるような気分だ」とか「地獄にいるような気分だ」とかいう精神状態の意味だと考えてください。

その前のところで、神の愛の関係性においては生と死とか時空は関係ないと書いたので、死後だとか生きているうちだとか限定しなかったのです。


実はこの部分を書いていた時にははっきりと、LYTTA BASSET という女性牧師で神学者が人間の脆弱さとキリスト教について書いたエッセイが頭にありました。

『LA FRAGILITE faiblesse ou richesse? 』(ALBIN MICHEL)

この人のことは前にも『カトサプ』で書いたことがあるのですが、息子さんが自殺した後でどのように喪を生き、生き続けたかという貴重な体験を語ってくれる人です。

その中で彼女は、ラザロが死んで悲しみにくれているマリアとマルタの姉妹の様子が描かれた福音書のシーン(ヨハネ11)について解説しています。

姉妹はラザロが病気なのでイエスのもとに使いをやって助けを求めたのですが、イエスはすぐに動かず、ラザロは死んでしまいます。姉妹は絶望します。

埋葬後四日も経ってからようやくイエスが到着するのですが、その知らせを聞いて、マルタの方は、すぐに迎えに行きます。ところがマリアは家に引きこもったままです。絶望のあまり、イエスの到着の知らせも耳に入っていなかったのでしょう。

で、先にイエスに出会ったマルタがうちに戻り、マリアを呼んで「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちします。これを聞くとマリアはすぐに立ち上がってイエスのもとに行くのです。

このことからリタ・バセは、人は愛する人を失った絶望の中にいる時には、主の呼びかけも聞こえないことがあるが、そんな時でも、他の人が手をさしのべてくれると起き上がれることがあるのだ、と言っています。マリアが立ち上がることができたのは、自分の意志ではなく、マルトが耳打ちしてくれたからなのです。

愛する人を失うような絶望のどん底で、神の声がきこえない、というのはいわば「地獄」の状態で、そんな時には人はなかなか自力で脱出できません。でも、知らせにとびついて先に駆けつけてイエスの声を聞けたマルタが耳元でささやいたことでマリアに知らせが届いたように、知らせに耳をすましているような幸せな人に助けてもらえれば、誰でも絶望から脱することができるかもしれない、という話です。

思えば、聖人と呼ばれる人たちは、まさにその役目を果たしてくれる方たちなのでしょう。

いわゆる崇敬の対象になる聖人たちはキリスト者の生き方の模範として推奨されているわけです。でも、誰でも、生きているうちに、周りの人よりは元気があるとか余力があるとかいう人、恵み感じているような人は、自分の周りで苦しんでいたりぐったりしたりしている人に声をかけたり助けたりしなさい、と言うことだと思います。それは地獄にいる人を救えるとか救いなさい、という話ではありません。「先生がいらして、あなたをお呼びです」と、取り次ぎをしなさいという話で、誰でもその役目に招かれているのだと思います。

リタ・バセは、人は毎日寝て起きるように、そうやって、小さな死、喪失を経験しながら、それでも、呼ばれ、陽に照らされ、再び目を覚まし、生き始めるのだとも言っています。(彼女を息子の死という「地獄」から出るようにと導いてくれたのは、聖母マリアでした)

私も、毎日少し落ち込んだりしていても、究極の救いに信頼を置いている人たちのメッセージには励まされて、そのうち、また起き上がることができます。

連載では言葉が足りなくて申し訳ありませんが、この文を補足させてくださってありがとうございました。りゅうさま、みなさま、メリー・クリスマス!!!

502りゅう:2010/12/25(土) 00:05:55
解説ありがとうございました
解説ありがとうございました。

カトリック・サプリの中盤くらいに、個人的に異端だと思っているテイヤール・ド・シャルダンの引用があったり、ニーチェが出たりと、かなり疑いながら読んでいました。
ド・シャルダンが否定している地獄は、間違いなく「死後の地獄そのもの」でしょう。

また、解説を受けた今も「神の愛が永遠だとしたら、やっぱり永遠の地獄などない」の表現は良くなかったと思います。

辛いことや悲しいことを経験すると、自分の人生を『永遠の地獄』と思い込むこともある。そのような時「天国の状態にある人」は手を差し伸べる勇気を持とう。
解説を読んだ今は、そのように受け止められます。

しかし、ド・シャルダンの引用があり、その後に『神の愛が永遠だとしたら、やっぱり永遠の地獄などはない。』と言われると、死後の地獄を想定すると思います。

ここで解説してもらえて安心しました。
質問をしたおかげで、新たな良いお話も読めて、カトリック・サプリを二度楽しむことができました(^ー^* )♪

メリー・クリスマス♪

503迷える大羊:2010/12/31(金) 08:55:50
アカのイエス?
 聖書読んで、イエス様のお言葉について、いつも気になるのは、どこまでが本気?どこまでが冗談?どこまでが譬え?どこまでが挑発、皮肉?なのかが今一つ判然としないこと。

 その中でも、特に気になるのは「金持ちの青年」の話(マタイ19章16−30、マルコ10章17-31、ルカ18章18−30)

 何がか、というとイエスって私有財産制を否定しているのかな?今でいうところの共産主義者(それも過激な)なのか?ってこと。
 それも財産だけならまだしも、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑、みんな捨てろ、といっているのだから穏やかではないですよね。

 字句通りに読むなら、共産主義的な平等社会を理想として、しかも、出家のような形で教団みんなが加わることにより実現しようとした、ととれますが。

 しかし、出家っていうとオウム(現アレフ)の「出家信者」を連想してしまって、どうにも落ち着かないです。個人的に・・。あと「親兄弟を捨てろ」のくだりは、スターリン政権下のソ連や文化大革命中の中国といった旧共産圏で、「反党分子」は親兄弟であっても告発、密告した歴史を思い浮かべてしまい、ぎょっとします。
 もしかして、イエスが処刑されず生き延びていたら、スターリンや毛沢東ばりの独裁者になっていたんだろうか?と失礼かつ恐ろしい想像すらしてしまいます。

 それとも、現実には不可能であることは承知で、あえて弟子や、弟子志願の青年の「覚悟」を試す意味で「言ってみた」だけなのか?どう解釈すればいいんでしょうね?

 字句通り解釈すれば、高額所得者、セレブのクリスチャンは「あり得ない」話ですし、クリスチャンは全財産を捨て去り、無一文にならなければならないことになりますね。
 これですと、十一献金どころの話、騒ぎではなくなってしまいますが・・

504迷える大羊:2010/12/31(金) 09:11:18
ダビデへのエコひいき
 連続投稿失礼します。旧約聖書を読んで思ったことなんですが・・。主はどうして、ダビデに「甘い」んでしょうか?
 これまでに何度か触れましたけど、トンでもない男ですよね。

 人は殺しまくり、部下の妻、人妻の風呂を覗いて、横恋慕して、ナニをして、旦那は最前線の戦場に送り込んで亡き者にして・・・、鬼畜の如き所業。この哀れな旦那の他にもダビデに殺戮された者は数知れず・・。

 一応、主も彼にお仕置きはしているんですけど(寝取った部下の妻パテシバとのの赤ん坊は亡くなったり、領民が殺されたり)、彼が行ってきた殺りく行為、レイプの数々と比較して、どうにも軽い感じがするのは否めない、なんといっても彼自身は無事だし、と思うのは私だけでしょうか??

 なんといっても主、神様がおかしいのは、後世の王様を残酷な目にあわせるとき、いつも、都合よくダビデの所業を忘れて

 「しかし、我が僕ダビデが私の戒めを守り、心を尽くして、私に従って歩み、私の目にかなう正しいことだけを行った・・」(列王記上14章8節、新共同訳聖書より)

 あまり、主に向かってこんなこといいたくありませんが、「アホですか?どこに目をつけてるんですか?」といいたくなります。
 一体、ダビデのエピソードで旧約聖書の記者はどんなメッセージを送りたいんでしょうか?主の御贔屓にあずかれば、どんな悪さをやってもOKとか、世の中力がすべて、という身もフタもない不条理な教訓しか読み取れませんが・・。

 それにしても、私もダビデのように主の御贔屓にあずかれればなぁ、と思う次第。

 よい御年を。

505Sekko:2011/01/06(木) 06:58:48
謹賀新年
年末年始でバタバタしていてお返事遅れてすみません。

まず最初の話。

金持ちの青年の救いの話の方ですが、これについてはいろいろな人が解説しているし、説教も読めるので、ネットで検索してみてください。

ポイントは、後半にあるのだとは言えます。

つまり、金持ちが天の国に入るのはほとんど不可能(だってらくだが針の穴を通る方より難しいんですからね)なのですが、そういういろいろな掟だの条件を超えて、

「人間にできることではないが、神には何でもできる」

というところであって、人間が掟をあげつらって完全になるとか天国に行くとかについて仕分けすることはできない、というのが分かります。

確かに初期キリスト教会はかなり原始共産制に近かったですが、それはイデオロギーではなかったし、支配のツールでもなかったわけです。

次のダビデの依怙贔屓ですが、これはもう、キリスト教的には、ナザレのイエスが人と神との新しい関係に入って行くにあたって、どのような文化的、歴史的、宗教的な文脈に現れたのかということを知るための大きな流れとして読んでいくしかないですね。

まあ、政治や権力を担う人を宗教のリーダーになる、あるいは、宗教のリーダーが政治や軍事のリーダーになると、いつの時代も結局は大変なことになるわけで、だからこそ神はついに自分の独り子を武器を持たさずに送りこんだということになるのかもしれません。

ダビデというと、去年の夏に広尾の山種美術館に行くために恵比寿から歩いて行くとミケランジェロの巨大ダビデ像の型どりコピーが道路沿いに立っているのでびっくりしたのを思い出します。ゴリアトを投石で殺した若きダビデはそれなりにオーラがありますが・・・

アメリカのメガ伝道師たちは、アブラハムもダビデもソロモンも経済的に恵まれていたのだから宗教的指導者が経済的に恵まれることは望ましいのだと堂々と言ったりしているようなんですが、これはもう、キリスト教と違いますよね。

キリスト教のメッセージで何が本質的なのかというのは、素直に読めばキャッチできると思います。多分大羊さんも分かっていらっしゃるのでしょうが、どうしてもダビデの所業やその評価なんかが気になるあたり、それは、ひょっとして、別のレベルの不信感が形を変えて現れているような気がします。まあ、今年もぼちぼち行ってください。

506迷える大羊:2011/01/06(木) 22:06:32
明けましておめでとうございます
 いつも、御世話になります。不快な表現もあるかもしれませんが、これでも、聖書は私なりに真面目に読んでいるつもりですし、キリスト教についても真剣に考えているつもりです。信じていただけないかもしれませんけど・・。というか、真面目に、真剣に聖書を読んだり考えたりすると、却ってワケわかんなくなりますね。
 まあ、単に察しが悪いだけかもしれませんが・・。そういえば、ペテロも察しが悪いというか、いまいち空気が読めないところがあって、イエスによく叱られる印象がありますね。なんていうか、絶妙なボケとツッコミというか・・。

>だからこそ神はついに自分の独り子を武器を持たさずに送りこんだということになるのかもしれません

 しかし、現実にイエスについてきたのは、どう考えてもダビデタイプの救世主を期待しているユダヤ民族主義者が大部分で・・。なんでまた、イエスってこんな過激派を連れて歩いたんでしょうね?いずれ、彼らの怒りやら憎しみやらを買い、裏切りを招くことはわかりそうなものなのに・・。また、どうして自分は旧約でいうところのメシアとは違うってあっさり認めなかったのかな?とも。

>ゴリアトを投石で殺した若きダビデ

 重箱の隅をつつくわけじゃないんですけど。私は以前、ダビデは投石一発でゴリアテを殺した、とばっかり思いこんでいたんですが、聖書を真面目にじっくりと読んでみると違いました。
 確かにダビデの投石はゴリアテの額に命中するんですが、致命傷にはなっておらず、戦闘不能に陥らせただけ。そこから、ダビデは倒れたゴリアテに駆け寄り、ゴリアテの腰に差している剣を奪い、とどめを刺し、首をちょん切って絶命させた・・、というのが聖書の記述ですね(新共同訳聖書 サムエル記上17章49〜51節)。
 聖書を真面目に読んでみると、聖母マリアとかイエスの誕生(馬小屋で云々)とか、教会や一般的に信じられている伝承と実際の聖書の記述って微妙に、あるいは全然違っていることが多くて、なんだか戸惑ってしまうことが多いです。

 それにしてもなぁ、ダビデに関してはやっぱり納得がいかない、どう考えても神様を一番ナメている人物としか思えないんですが・・・(笑)。

507今紫:2011/01/08(土) 23:49:46
謹賀新年
 竹下先生、明けましておめでとうございます。そしてお久しぶりです。

 昨年は複雑な年でした。サタンが勢力を伸ばしているようです。
さて、先生の著書である『陰謀論にダマされるな』を拝読しました。確かに事件やスキャンダルの裏には陰謀が存在するといわれますが「陰謀論」になりますと、却って物事の判断を誤らせる危険性があることを知りました。私は中丸薫氏やベンジャミン・フルフォード氏の著書やサイトを拝読することがありますがこれも決して惑わされないようにすることが大切なのですね。
 おしまいに著名なエクソシストのアモルス師の言葉で覚えている箇所があります。
 「オカルトの木は真の信仰が翳ると育つ」
 イエス様が「偽預言者には警戒せよ」とおっしゃっているのと同じです。真の信仰をゆるがせる「陰謀論」「カルト」「ニューエイジ」「マシューブックス」に対してどの様に接したらよろしいのでしょうか?
 『聖者の宇宙』も拝読しました。改めて聖人の世界を味わうことができました。どんな英雄や偉人、新宗教(カルト)、各宗教の原理主義も彼らには敵わないでしょう。本年の活躍を期待いたします。

508迷える大羊:2011/01/09(日) 12:41:06
不信感
 >不信感

 ああ、これはですね。まあ、以前から抜けない疑問、でこちらでも何度かお話しさせていただいてはおりますが、キリスト教やクリスチャンの世界では、聖書にどんなに理不尽な話、明らかにひどい話があっても、「これは何か意味があるに違いない」「いや、聖書は侵略、略奪行為を正当化などしていない」なんて無理やり思いこまなければいけないんですかねぇ・・ってことですね。

 正直、私、旧約聖書にはどうにもついていけないものを感じることが多くって。ダビデの話なんてまだいいんです。どうにも個人的に「これは問題だ」と思わざるえないのは、ヨシュア記。

 神様はイスラエルの民に「足の裏が踏むところすべてをあなたたちに与える」と約束。しかし、そこにはすでに異民族が居住。で、主はどうしたか、っていうと、城門を閉じて抵抗する(当たり前ですね)現地人(異民族)への攻略方法をイスラエル人に指南した上、略奪行為に「お墨付き」を与えているのですから恐れ入ります。
 とにかく、イスラエル人に占領された異民族の街は男も女も若者から老人に至るまですべて抹殺されたのだからすさまじい限り。

 これ読むと、「ああ、道理でパレスチナ問題は解決しないはずだ・・」とため息が出てきますね。第三者や非ユダヤ教徒、非クリスチャンからすると「超勝手」「自己中」、としか言いようがない理屈、所業でも、イスラエルの民、ユダヤ教徒からすれば「主のご命令」だし、占領地は「約束の地」なのですから、話がかみ合うわけないですし。

 でも、私がわけあって関わっている教会(プロテスタント)の牧師さんなんかは「聖書は侵略、略奪行為を決して正当化していない」って言い張るんですよね。察しが悪く、素直でもない私などは「ええ??どこをどう読んだらそんな風に解釈できるんだ〜??」と頭を抱えざるえないんですが・・・。
 ていうか、クリスチャンの世界じゃ、たとえ聖書でもおかしい個所はおかしい、っていったり考えたりしたらいかんのかなぁ、という疑問と、何か必死に自分の理論を正当化しようとして、歪曲に歪曲を重ねている姿が見えてくるようで、白けてしまいました。

 どうも、聖書の過剰な神聖化は考えものだなって思うのと、別にカトリック関係者のサイトだからいうわけではないのですが、聖書に対する接し方とか距離の取り方はカトリックの方が「健全」かもなぁ、と思った次第です。

 あと、私のイエスやキリスト教についての考え方っていうのは、時に過激なこと、首を傾げたくなるようなことも言ったりやったりする、胡散臭いところもあるけれど、でも、その教えや生きる姿勢には共鳴するし、この社会において様々な良き部分を担ってきた、特にあまり目に見えない部分での良き部分を担ってきた、その存在が世の中や自分を良い方向に変える可能性を信じます、といったもの。

 しかし、「この程度」ではクリスチャン失格みたいなんですね。「それじゃ、ガンジーなど、一般の偉人と同じなんです、信仰にはならないんです」のだそうです。さらに「イエス様がこの世に来られたのは人が虫けらになったことに匹敵するすごいことなんです」なんて熱く語られてしまいました。
 キリスト教にシンパシーはこれでもあるんですが、そこまで「強烈」に「信じる」ことを求められるんじゃ、厳しいな、と思った次第。

 ところで、うまく言葉で言えないんですが、先生やこちらに集う皆さんの信仰の「度合い」ってどの程度のものなのでしょうか?やはり、私程度の「信仰」は「甘すぎる」「生ぬるすぎる」ものなんですかね?

509Sekko:2011/01/10(月) 07:21:46
今紫さま
ご愛読ありがとうございます。

確かにキリストも釈迦も、呪術的な世界から人々を解放しようとしているのはすばらしいと思います。

それでも人は自分や大切な人の老病死などを前にすると、どんなあやしいものにでもすがってしまいますし、神仏も願いをかなえてもらう取引相手のように見てしまったりします。最悪の場合は、自分や自分の大切な人以外の利益や安全は損なわれてもいいくらいの気にもなりかねません。だとすると、「サタン」はきっと私たち一人一人の心に潜んでいるのでしょう。それを飼いならし、すべての人にとってそれぞれ一番いい道が開けるようにと願うばかりです。

今紫さんにとって今年が充実したものとなることをお祈りします。

510Sekko:2011/01/10(月) 08:24:56
大羊さま
まず最初に、これは、「善意の近所のおばさん」程度のスタンスでのお答えなんで、それ以上のものではないことをお断りします。

大羊さんが、もし、そんなに、

「聖書についてみんなと同じように考えるのでなくてはうちの共同体の仲間に入れてやらないよ」

だとか

「うちの仲間になるのなら、うちの考え方に完全に合意しなくてはならないよ」

というタイプの共同体と関わっているとしたら、大羊さんが向こうを変えることは絶対にできないと思うし、よほど洗脳されない限り納得できることもないと思うので、細部にこだわって悩むのは時間の無駄だと思いますよ。

キリスト教は旧約部分を聖典に取り入れることでキリスト教が歴史的にどう位置付けられてユダヤ教を普遍宗教として仕上げるに至ったかを明らかにしているわけですが、

民族宗教であるユダヤ教の文脈では神さまは明らかに民族神であり、氏神みたいなものですから、他民族の利益なんて眼中になくても自然な感じがします。

でも、多神教が一般だった世界から、「私だけを拝め」とオンリーワンの方向に進化したユダヤ教の一神教体質のおかげで、地縁血縁を超えたすべての人がキリストの名のもとで救われるという普遍宗教が誕生したのだから、普遍主義擁護の私の立場としては感謝です。

イエスもユダヤ人によるバイアスのかかりまくっていたユダヤ教を普遍的な隣人愛に敷衍ししてくれましたし、神との契約や律法を解釈する人々の恣意性を批判しました。それに続く人たちも、人種民族性別立場の差を超えて誰もがキリストの体の一部として永遠に生きる有機体を構成しうるというイメージを与えてくれたので、その連帯生命力の可能性の前では、旧約のヘンなところのごり押し正当化など、無意味というよりマイナスととられても無理ないですね。

普通のキリスト教シンパの人は、ただ、自分より弱い者や小さい者を気づかう、大きくて強いものより小さくて弱いものを優先する、という教えだけ、実践をできるだけ心がけるだけでよく、キリストやキリスト教の名のもとにそういうことを実践している人を助けたりリスペクトするだけでいいと思います。

もちろん他の宗教でも同じような利他の勧めはありますし、それは結局、あまりもの極端なエゴイストは人間の歴史の中で結局自然淘汰されて、ある程度の利他に価値を認める遺伝子が生き伸びて社会を構成してきたからだと思います。そういう意味で利他には普遍性があります。

もちろん、強いものが弱いものを縛り支配するという社会もいつの世にもあるわけですが、そんな時に、いつも勇敢で身を賭しても弱い人を救ってきた宗教者や信仰者は出ましたし、その価値は測りきれません。

キリスト教の場合、イエスを偉人として見ているだけではなく、その復活と聖霊降臨の場面で何かが起こったことによる信仰が核になっているので、それに関しては、その意味がインスパイアされるかどうか、または「回心」に至る歩み方は、人それぞれだと思います。

大羊さんの場合、大切な奥さまの関わる共同体ということで、どうしても「理解したい」と思われるのかもしれませんが、

じつは、最近ついブログ http://spinou.exblog.jp/15742118/
に書いちゃったんですが、他宗教とのすごく楽で平和な共存方法は、その共同体のことを宗教だと思わずにカルチャーだと思えばいいのではないでしょうか。

もちろん、信じている人たちにとっては宗教であるのですから、それを否定するわけではありません。でも大羊さん自身はまだ宗教を求める心になっていないし帰属欲求もない、だからその共同体を「大羊さんにとっての宗教」として吟味する必要もないということで、カルチャーとしてリスペクトすればいいのでは?

夫婦に別々の愛読書があったり、別ジャンルの音楽が好きでも、互いにけなしたり強要したりしなければ、理解をしあって棲み分けたり、たまに相手の好きなコンサートにつきあったりと、平和で豊かな関係が築けるのと基本的には同じだと思います。

本当に内面的な神との関係などは別でしょうが、所詮人間が集まって作る共同体には、その時々の組み合わせで特殊な展開をすることは大いにあると思います。

大羊さんのように健全な批判精神と奥さまを思いやる心があれば、きっといい方向に行くと思いますよ。今年がいい年でありますように。

511迷える大羊:2011/01/13(木) 04:43:34
聖書に従う、とは??
 いつも、お忙しい中、御丁寧に恐れ入ります。ところで、どうして私は、「それは聖書にいかに書いてあるかで判断します」とか「聖書は誤りなき神の御言葉」なんていっている人々をみると、イライラして、聖書のヘンなところをいろいろあげつらいたくなるのだろう?とあれこれ考えてみました。もちろん、聖書とか神だとかイエスだとかを貶めているわけでもなければ、バカにしているわけでもありません。

 で、結論としては、その「ウソっぽさ」もさることながら、自分の意見や自分の好き嫌いにすぎないものを「聖書の権威」を借りて正当化したり、自分の意見に対して自分自身で責任を持とうとしないその姿勢(それは神の御意志ですとか、聖書に書いてあるからとか)に苛立ちを感じるんだ、と気付きました。

 例えば、キリスト教の世界では同性愛者に大抵否定的です。で、同性愛者に否定的なクリスチャンは大抵、「聖書に罪と定めてある」と、聖書を引き合いに出します。これが、私からすると、非常に「ウソ臭く」感じてしまうのです。じゃあ、そんなことをいっている人々、そのように言うクリスチャンって、本当に聖書に定めたとおりの生き方をしているのか?って話です。

 確かに「同性愛者は死ななければならない」(レビ記18章22節、20章13節)と聖書にありますが、同じように、「反抗的な息子は殺せ」(申命記21章18節以降)と書いてありますし、また、「結婚している兄が死んだら、家系を絶やさぬように、弟が兄の妻と再婚しろ」(参照:申命記25章5節以降)とか、その他、面白いのとか過激なのとかが、いろいろありますが、そういった掟を全部守っているクリスチャンがいるかと言えば、そんな人は世界中探しても、まずいないでしょう。

 にも関わらず、同性愛の禁止(とか自分の個人的な主張、趣味趣向に沿う部分)に関してだけは敏感になって「聖書に書いてある」と言い出す人がいるわけです。
 自分が守ってもいないし、従ってもいないくせに、その聖書を盾に自分の主張を正当化する、聖書を自分の目的のために都合よく利用する、という根性が気に食わないのです。

 こういうことを言いだす人々って、聖書の記述で、自分が守り切れない、あるいは納得できないものは「神はこのような不完全な私をも赦してくださいます」などと言って逃れ、
 自分が守る必要を感じないものについては、「これはユダヤ教の律法であって、キリスト教はこれを克服した」などと言ってスルーし、 自分でも守れるな、これは、と思ったものについては順守を頑固に主張する、と・・。

 要するに、判断をしているのは自分の主観であって、聖書はそれに後から理由をつけるために都合よく利用しているだけだろ、と言いたくなってくるのです。自分の主観に過ぎないものを、神の意志、聖書の意志であるかのように称するのは、自分で判断したことや発言したことに対して自分で責任を取らない事にもつながるんじゃないの?それってある意味、聖書やイエス、神に対する冒涜なんではないの?と思うのですが・・。

 まあ、キリスト教に限らず、信仰にはこういった独善に陥る危険性は多かれ、少なかれ付きものだと思いますが、このような独善に対しては、どのように対処、あるいは自制すべきなのでしょうね?

512arikui:2011/02/14(月) 21:31:34
ようやく
質問ではないのですみません。ようやく日本でも「神々と男たち」が見られることになりました。お蔵入りかと心配していたのですがシネスイッチ銀座で3月5日から公開されます。ブログを拝読して興味を持っていたので楽しみです。

513:2011/02/19(土) 23:54:37
ルカの福音書第16章
ルカの福音書第16章は聖書中の最難関といわれています。不正な管理人のたとえが記載されています。

イエスは、弟子達にいいました。

主人に一人の会計管理人が雇われていました。この男は主人の財産を無駄使いしていると告発する者がいました。主人は会計管理人を呼んでいいました。

「あなたのことについて聞いていることがありますが、本当はどうなのですか。会計の報告を出しなさい。管理を任せておくわけにはいきません」

会計管理人は考えました。

(どうしようかな。主人は私から会計の仕事を取り上げようとしている。土方をする力もないし、乞食をするのも恥ずかしい。そうだ、いい考えがある。会計の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような人を作ればいいんだ)

そこで会計管理人は主人に借りのある人を呼んで、最初の人に

「私の主人にいくら借りがあるか」

と聞きました。

「油100缶だ」

というと、会計管理人は

「これがあなたの証文です。急いで50缶と書き直しなさい」といいました。

また、別の人に「私の主人にいくら借りがあるか」と聞きました。

「小麦100俵だ」というと会計管理人はいいました。

「これがあなたの証文です。80俵に書き直しなさい」

主人はこの、不正な会計管理人のやり方をほめました。

「この世の子らは、自分の仲間に対して光の子らより賢くふるまっています。不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば金がなくなったとき、あなたはがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえるでしょう。ごく小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実です。ごく小さなことにも忠実でない人は、大きなことにも忠実ではありません。だから不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当の価値あるものをまかせるでしょうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたのものを与えてくれるでしょうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を軽んじるか、どちらかです。あなたがたは、神と富に仕えることはできません」

この「主人」は原典では、ルカがイエスにだけ使用した「ホ・キュリオス」となっていますので、通説では「主人」はイエス自身であるとされています。また、このたとえは弟子達に話されています。

イエスの会計管理人は、ユダですので、これはユダへの皮肉なのかもしれません。ユダは横領の疑いをかけられていたのかもしれません。

俗説では、「富の追求の批判である」とか、「唯一無二の主人であるべき神への忠誠の勧めである」などといわれていますが、はっきりしないように思います。教会の関係者に聴いても、明瞭な解釈を示してくれた人はいません。直後に、この話を聞いていた金に執着するファリサイ派の人々が、イエスを嘲笑ったと書かれています。

禅問答のようなこのルカの福音書第16章ですが、聖書というテキストの奥深さを感じさせてくれる一章だと思います。

ルカの福音書第16章について、どのようにお考えでしょうか。長年の課題ですが、まだ、はっきりした結論がだせないでいることの一つです。

514Sekko:2011/02/20(日) 20:53:46
ルカ16章
いいテーマですね。

私はイエスのたとえ話の中でこの手の、説教者が「・・・」となってしまいがちなものが好きです。初期教会の頃から、「不都合なエピソード」を削除するチャンスがいくらでもあったと思うのにちゃんと残しちゃうのが、かえって本物っぽい感じがするからです。

「神からのお告げ」というのは言葉にした途端に何らかの解釈や恣意が入りそうですが、周りの人と同じ言葉を使って話していたイエスの言葉の聞き書きって、もちろん伝聞の不確かさはあっても、「ちょっと変」なものを残しているところが誠実な感じがします。

特にこの話は、

「この世の子らは、自分の仲間に対して光の子らより賢くふるまっています。」

と、明らかに、信者にとって一見「不都合」な対比がありますからね。

まあ、いろいろなこじつけに近い解釈がたくさんあり、一番まともそうなものは、その前の「失くした銀貨の話」や「放蕩息子の話」の流れで読むことで、神の前では数字の多寡などこの世の物差しは関係ないという風に読むものです。また、「金を作るより友達を作ることの方が大事」という意味だとか、「ここでの『金』とは愛のことで、愛を独り占めにするとよくないので他の人にも大盤振る舞いをすることで赦されるのだ」とか、「誰でも自分の罪を十字架のキリストに背負わせて購ってもらうので、その手続きを罪人が他の罪人にしてもいいのだ(つまりここでは、横領していた人が、勝手に別の人の借金も軽くする)」という意味だという人もいます。

私は、今のネオリベラル経済の世界の中での格差の問題とアラブ社会で次々と起こりつつある民主主義革命との関係を見ていると、このエピソードがよく分かります。

いや、このエピソードが「よく分かる」というより、このエピソードを通して見ると現実世界の状況がよく見えてくる、といった方がいいでしょう。

聖書の「?」な箇所、特に「科学的に見て『?』な箇所」の取り扱いには、一つは非神話化というか、ここはシンボリックな意味であり実はこういう意味なのだ、という風なやり方があります。でも、聖書の記述を無理に「リアル」に合わせるよりも、「リアル」の出来事を、聖書の記述を通してシンボリックに解釈していく方が、目が開かれることがあると思います。

長くなるので私の見方については別のところでまた書いて、あらためてここでお知らせします。

http://setukotakeshita.com/

515:2011/02/21(月) 00:16:18
マタイの福音書第8章
子供の頃、カトリック系の学校に通っていたため、聖書は、若い頃から比較的よく読んでいました。処女受胎や復活の奇蹟話は、古代人の牧歌的な物語だと思っていました。それでも、イエスの言説には、いくつか興味深いところがありました。例えば、マタイの福音書第8章のローマ軍の百人隊長の僕の病気を直すところなどです。

当時のエルサレムは、戦後の日本がアメリカの属国だったのと同じようにローマの支配下に置かれていて、ローマ軍が街を闊歩していました。そうした中でこの事件は起きたものだと思います。

民衆の中にいたイエスは、ローマ人の百人隊長から「部下が中風で寝こんでいるんだ。何とかしてやってくれ。そいつの家に行かなくたってお前ならできるだろう。俺だって別に動かなくても、手下の兵隊どもに行けといえば、行くし、来いといえば来るのだから、お前ほどの力があれば、部下のところに行かなくても、ここでできるだろう」といわれます。

百人隊長の手下達は、面白おかしくイエスを嘲笑したかもしれません。

この時、イエスは、ユダヤの民衆に向かって毅然とこういいます。

「皆さん、お聴きになりましたか、この隊長さんは本当に素晴らしい方です。イスラエル中探してもこの方ほど信仰に厚い方はいないでしょう。そう、いつの日か、東西から大勢の異国の方々がやって来て、天の国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくでしょう。隊長さん、お帰りなさい。部下の方の病気はもう直っています」

子供心に、この状況下で、とっさにこの対応をしたイエスという男を心底すごいと思ったのですが、カトリックの教会関係者に聞くと、この話は、最初からすごく熱心なイエスの信者だったローマの百人隊長が、懇願してイエスに部下の病気を直してもらった奇蹟話だと、皆、一様に主張します。

マタイの福音書第8章についてどう思われますか。長年の懸案の一つです。

516Sekko:2011/02/21(月) 01:33:40
百人隊長の話
ここのところはそんなに不思議だとは思いません。

百人隊長は別にそんなに挑発的な態度をとったのではなくて、むしろ懇願していたのでは?

「自分はあなたにふさわしいものではないですが頼みます。」と謙虚なイメージもあります。

ここのところで私がすぐ思い出すのは前に訳した『聖骸布の仔』(中央公論新社)の中で(p157)、主人公がこのくだりを思い出して、「自分はとてもあなたをうちに迎えられるようなものではありませんがひと言だけ言ってください」と願うシーンです。
ローマ人の家にユダヤ人が入れないという事情を差し引いても、ここは、「直接に触れていただくのは無理ですがひと言だけでも・・・」という切羽詰まった気持ちが背景になっています。このエピソードはルカやヨハネにも類似のものがあるので比べて見てください。

あ、今、日本語で検索してみましたら、こういう分かりやすいものがありました。

http://gnarly.at.webry.info/201009/article_7.html

ご参考に。

この話で私にとって面白いのは、「遠隔治療ができるかどうか」というテーマです(すみません、信仰とあまり関係がなくて)。

触ってもらうのはもちろん、言葉をかけるだけとか、後ろから衣に触れるだけで癒されるとか、いろんなイエスの「奇跡」がありますが、

「あなたの信じたとおりになりますように」という言葉がもらえるのは最高ですね。

日本にキリスト教宣教師が来た時も、加持祈祷の僧たちは病人のそばにつきっきりで平癒祈願をしたのに効かなくて、宣教師たちは「自分ちで祈って治した」ので感心されたというようなエピソードもあるようですが、今のカトリックの聖人システムにおける「奇跡の治癒」も、その伝統にあるんでしょう。

まあこのエピソードのヨハネ・バージョンではイエスも「不思議なわざを見なければ決して信じない」というのはいかがなものか、という態度を見せていますが・・・

「遠隔治療」は今でも「実はよく聞く話」でもあるので、すごく興味があります。

その治癒を本人か近くの人が必死に望まないと「ひと言」は伝わらないのかもしれません。される方が望まないのに遠隔操作できたら呪いだってかけられてしまいそうで怖いです。

日本でミッションスクールに行かれていた方たちは、みなそれぞれに聖書の一節などにいろいろな思い出や思い入れもおありなんでしょうね。回りとちょっと切り離されているから独特な感じで残るのかも・・

http://setukotakeshita.com/

517:2011/02/22(火) 03:37:15
イエス・キリストの本質
外典のトマスの福音書には次のような記載があります。

あるとき、イエスが村の道を歩いていると、一人の少年が走ってきてイエスの肩にぶつかった。イエスは腹を立て、「この道を二度と歩けないようしてやる」と言い放った。すると、その子はすぐに死んでしまった。その子の親は、驚き、怒り、イエスの父であるヨセフの家にやってきて文句を言った。「こんな恐ろしい子と同じ場所に住むことはできない。この子を連れて、村を出て行くか、それとも、このような呪いの言葉を二度と口にしないよう教育することだ」と。ヨセフは、イエスを呼び、叱ったが、イエスは次のように答えた。「お父さんの気持ちもわかりますから、そのようなことは口にしないようにします。でも、あの人たちは、必ず罰を受けることになりますよ」まもなく、イエスを訴えた人たちは、みな目が見えなくなった。それを知った人々は怖れおののき、イエスが口にすることは、善いことも悪いことも、必ず成就すると言い合った。

また、正典のマタイの福音書第21章には、次のような記載があります。

「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかに何もなかった。そこで、『今から後いつまでも、お前には実がならないように』といわれると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった」

神の子イエスの悩み、苦しみの原点は、こうした事象の積み重ねのなかから形成されてきたものなのではないかと思います。

「山上の垂訓」はイエスのオリジナルではなく、エッセネ派のテキスト死海文書にその原型を見ることができますが、イエスの伝えるところに奇妙な説得力があるのは、だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向け、下着を取ろうとする者には、上着も取らせないと、その者達が、いちじくの木のように死んでしまうためなのではないか、そういう懸念を常時、持つなかで培われてきた思考なのではないかと思うわけです。

反対に、神の子イエスを信じ、敬愛する者には、様々な神の恩恵とご加護がもたらされています。キリストの復活の奇蹟により、その効力は、2000年以上たった今も健在で、数多くのキリストを敬愛する人々が、今も、その恩恵に預かっているのではないか。エトワールの素朴なキリスト教観は、以上のようなものです。

間違っているかもしれません。

遠隔治療についてですが、パソコンを通じてのネットでのボードゲーム対戦(囲碁、将棋、チェス、オセロ、バックギャモンなど)の経験がある方であれば、思いあたるのではないかと思うのですが。パソコンの向こう側にいる相手からパソコンを通じて強烈な気を感じることがあると思います。相手が強者の場合、それは、まだ、何の情報も伝わっていない開戦前の対面の時から不思議と分かるものです。この原理を応用すると、遠隔治療も可能であろうと思いますし、例えば、絵画、書、彫刻などを通じての時間を超えた治療というものも行えるのではないかと思います。

これも、間違っているかもしれません。

新約聖書は、繰り返し読んでいますが、特に誰かに教えてもらったり、解説書を読んで、定説の解釈を覚えたりしたことはありません。あるがままに自分自身が、テキストから読み取れた内容について、時間をかけて考えているだけです。もちろん、キリスト教徒ではありません。それでも、この思想は、非常に魅力的な古代の思想であり、また、有効なものだと思っています。

518Sekko:2011/02/22(火) 04:10:06
本質ですか・・・
そんな大仰なタイトルでへんな話を振らないでください。どうフォローしていいか分かりませんから。

この外典の話は確か、その後で、少年イエスに呪われた人たちは全員あっさり癒されるんですよ。
イチジクの話は何となく笑えます。このことについて、パレスチナ出身の人がイチジクの季節を知らなかったはずがない、これはイエスが青森出身の日本人だった証拠の一つ、っていう変な議論を読んだことがあるのも思い出しました。

まあ、深入りしても意味のないものはスル―してください。

これ以上お答えできないのでForum3の雑談に移動してください。

ネットゲームなどで相手の気みたいなのが感じられるとか、あるいはPCそのものがある時点でやけにパーソナルな反応をするというのは私も聞いたことがあります。おもしろいですね。死んだ人が電話とかテレビとかパソコンとかの回線を使ってコンタクトしてくるとかいう話もありますね。死んだら実験したいです。実はこういう実験をしようねとある人と約束していたことがないでもないんですが、実際は、怖くて怖くて・・・
自分が死んだらやってみたいですが、こちら側でキャッチするのは怖くて嫌です。

http://setukotakeshita.com/

519:2011/02/26(土) 08:55:29
ヒルデガルド・フォン・ビンゲン
こちらのサイトにあるヒルデガルド・フォン・ビンゲンに関する記載を大変興味深く拝見しました。

オーストリアの軍医ヘルツカによって紹介された薬草(ハーブ)研究家のヒルデガルドと中世の無伴奏ボーカル曲の作曲家ヒルデガルドが同一人物だということを初めて知りました。

彼女の挿し絵は、カール・グスタフ・ユングの象徴図(マンダラ)や仏教の曼荼羅によく似ています。また、幻視体験(ヴィジョン)の記述は、大乗仏教の仏典「無量寿光量経」と似ているように思います。

中世ヨーロッパ最大の賢女と言われているのもうなずける気がします。

バーバラ・ニューマンの「ヒルデガルト・フォン・ビンゲン 女性的なるものの心理学」(村本詔司訳 新水社)がよい研究書といわれているようですが、他にも、ヒルデガルドに関することが記載されているよい邦訳本はあるものでしょうか。

少し、研究してみたいと思っています。

520Sekko:2011/02/27(日) 07:35:20
ヒルデガルド
彼女のことは是非まとめたくて、サイトに少しずつ書いていこうとしていたのですが、後回しになっています。

日本語では種村季弘さんの『ビンゲンのヒルデガルトの世界』を読んだことがありますが、私的には今一つでした。フランスにはいろんな切り口のものがあります。
私もいつかは挑戦したいです。

http://setukotakeshita.com/

521:2011/03/04(金) 03:10:50
エフライムの木
旧約聖書のエザキエル書第37章に次のような記載があります。

主の言葉がわたしに臨んだ「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上にユダおよびその友であるイスラエルの子孫のためにと書き、また、一本の木を取って、その上に、ヨセフ及びその友であるイスラエルの全家のためにと書け。これはエフライムの木である。あなたはこれを合わせて、一つの木となせ。これはあなたの手で一つになる」

日ユ同祖論の根拠とされる旧約聖書の記述です。


旧約聖書の系図です。

アブラハム = サラ
     ↓
イサク = リベカ
     ↓
エサウ(兄)
ヤコブ(弟) = レア(姉)
        = ラケル(妹)
        ↓
       ユダ他
       ヨセフ = アセナテ
           ↓
          エフライム


古事記の系図です。

スサノウ = アマテラス
      ↓
オシホミミ = トヨアキツシヒメ
      ↓
ホアカリ(兄)
ニニギ(弟) = イワナガヒメ(姉)
        =  コノハナサクヤヒメ(妹)
        ↓
       ホデリ他
       ホホデミ = トヨタマヒメ
            ↓
       ウガヤフイアエズ

この二つの系譜の構造はそっくりです。

1 エサウもホアカリも毛人といわれていました。

2 コノハナサクヤヒメとリケルは絶世の美人で、レアとイワナガヒメは今一つの容姿です。ニニギとヤコブは、この姉妹をいずれも妻にします。

3 ホデリ(海幸彦)は、ホホデミ(山幸彦)が釣り針を失くしたことを責めて海人の国へやります。そこでホホデミはトヨタマヒメと出会います。ヨゼフは、兄達にいじめられ、エジプトへ売られて行きます。そこでアセナテと出会います。

ウガヤフキアエズとその妻タマヨリヒメの子供が神武天皇ですので、この系譜の一致は、とても不思議なことだと思います。

個人的には、8世紀の創作物である古事記に、聖徳太子の厩戸伝説などとともにネストリウス派キリスト教(景教)の影響が色濃く反映されたものなのではないかと思っていますが、長年の関心ごとの一つです。

エフライムの木=古事記と旧約聖書の系譜の構造の一致について、どう思われますでしょうか。

522Sekko:2011/03/05(土) 01:18:53
相関?
一定以上の情報量のあるcorpusを比較して、「似ている部分」を取り出して並べて「偶然とは思えない相似」と驚かせる手法や「トンでも説」は山のようにあります。

その手際に感心させられることもありますが、その意図とかねらっている効果とかに警戒心を抱かされることも多いです。

宗教や民族に関する言説でそういう話をするのは誤解のもとなので、コメントしません。あしからず。

http://setukotakeshita.com/

523:2011/03/09(水) 23:37:33
構造主義
学生の頃、構造主義が流行していて、邦訳で、ソシュールの「一般言語学講義」やレヴィ・ストロース、ジャック・ラカン、ルイ・アルチュセール、ミッシェル・フーコーなどのテキストを読んでいました。言語、親族の構造、神話などから始まった構造は、その後、商品、貨幣、資本、無意識、狂気、囚人などへ対象範囲を広げ、さらには、料理、服飾、文学、チェス、サーカスなども構造主義の対象となり、ロラン・バルトにいたっては、プロレスまで構造主義の対象にしてしまいました。自分では、その頃、彼らを、皮肉をこめて「構造主義の達人」と呼んでいました。

ポスト構造主義については、よく知りません。

現在、構造主義は、フランスで、どのように評価されているのでしょうか。また、フランスの人々は、今でも、構造主義のテキストを読まれているのでしょうか。

ルイ・アルチュセールのテキストを一番熱心に読んでいましたので、1980年11月におきた不幸な事件には、ひどくショックを受け、その後、構造主義のテキストをあまり読まなくなりました。今でも、新聞報道を読んで、とても驚いた時のことを、思い出すことがあります。構造主義のテキストから、いろいろなことを学びましたが、自分では、まだ、完全には整理しきれていない感じです。

524Sekko:2011/03/10(木) 07:10:32
ポスト構造主義など
私も学生時代が構造主義全盛でした。なつかしいですね。
まあ構造主義がその後どのように展開したかなどはネットで検索するか別の一般質問掲示板にでも問い合わせてください。

私は日本で構造主義を知り、その後フランスに住んでいる者としての印象だけ言います。

言語構造主義が人類学や民俗学や比較宗教などに応用された時、それまで、日本にいて「欧米思想」を学んでいた人たちにとって、

東西の文化の差などは表面に現れた差であってその底には人類共通の語りの構造だの、普遍的な概念図式だのがある、と言われたのはちょっとしたグローバリゼーションというか、自分たちの言葉で自分たちの文化から構造を抽象してグローバルに語るという快感があったような気がします。

同時に、ほぼ並行して、すでにポスト構造主義のデリダの脱構築のような言説も入ってきました。「文化的差異の奥には普遍的な隠れた構造がある」というのはいわば理神論や無神論のヴァリエーションであり、一神教的ヨーロッパに中心となる視座をもつものである、という批判のもとに、構造が解体された中心なき相対主義が流行ることになったわけです。
文化や社会現象の意味は多様であって、構造主義の「構造」をなしていた二元主義的価値観の要素は否定され、すべてはグラデーションをなしているかのようでした。

この構造主義からポスト構造主義への推移は、常に疑似科学的な衣をまとっていました。キリスト教的自由意思を駆使したリベラルなユマニズムにおける人間主体の世界観から、非宗教的で中立的で普遍的な価値を探ろうとしたわけです。

そこにアメリカ的なコミュニタリアニズムだとかマイノリティの尊重などの流れも加わったので、日本では

「欧米中心主義の時代は終わったよね、今はアジアが面白いよね」

という動きも生まれまして、その一部は内向きになり、縄文文化礼讃とかナショナリズムにまで向かったように思います。

フランスではアングロサクソンの共同体主義に対抗する普遍主義の伝統があるので、「普遍主義の中での相対主義」という構造主義的立場が今でも根強くあります。
「普遍=絶対」ではないわけで、相対主義は、普遍主義が全体主義に向かわせない有効な歯止めとなっています。

それは思想のトレンドなどではなく、政治理念として残っているわけです。

今の世界は全体としてはまだまだ蒙昧や宗教原理主義や狂信や人権無視がはびこっていますから、過去にそれらに対する最も有効な防護策として登場した「普遍理念」自体を脱構築的に相対化して有名無実にしてしまうのは100年早いと私は思います。

フランス人の一般がどうとかは分かりませんが、

「理念や価値観というのは、個人や社会にとって、具体的な行動の規範になる選択を倫理的に決断したものであるべきだ」

と考えている人たちが確実にいて、私はその一人です。

今のアラブ世界の民主「革命」を見ていて、自由とか民主主義というものがただのスローガンなのか、どの程度の普遍性と実効性があるものか、それらは果たして民族や文化によってヴァリエーションがあるものなのか、などについて考えています。

日本にとって「舶来」の自由とか民主主義は常に「言葉」であって、倫理的に決断して選択した行動規範ではなかったと思います。アメリカが持ってきたものも「言葉」で、彼らの行動は一貫してパワーゲームでした。

この辺の事情について今いろいろ考えているところです。

http://setukotakeshita.com/

525:2011/03/17(木) 23:04:58
普遍主義
3月11日に発生した大地震の被災地に在住していましたので、パソコンが不通になり、返信が遅れてしまいました。

とても丁寧な回答をいただきましてありがとうございました。何度も繰り返し、丁寧に読み返しました。

「理念や価値観というのは、個人や社会にとって、具体的な行動の規範になる選択を倫理的に決断したものであるべきだ」

という考え方は、自己の無意識に忠実に粗野に生きている自分自身には、縁遠い感じの生き方のように思いましたが、そういう風に過ごすのが、本当は一番よい生き方なのではないかと思いました。

構造主義以外にも、カール・グスタフ・ユングの集合的無意識、チョムスキーの生成文法、ジョルジュ・バタイユの蕩尽、カール・ポランニーの経済人類学、マイケル・ポランニーの暗黙知など、1970年代〜1980年代に流行した思想は、普遍主義を元にしたものが多かったように思います。

例えば進化論にしても、日本には今西錦司教授の今西進化論が、多くの支持を集めていましたし、吉本隆明の共同幻想、廣松渉の物象化論なども、広義の意味での普遍主義に位置付けられるのではないかと思います。

デカルト、べーコン以降、近代の主流となっていた「主観−客観」図式(二元主義的価値観)から、ハイデッカーの「世界−内−存在」図式の出現を踏まえ、ベトナム戦争、ドルショック、オイルショック、公害、オカルトブームなど1970年代に起きた様々な事象から「近代の終焉」とか「近代の超克」というテーゼが、掲げられていた頃のことです。

これらの思想潮流が十分総括されないうちに、ベルリンの壁が崩れ、ソ連が崩壊し、オウム真理教の一連の事件が起き、世紀末を迎え、9.11が起き、イラク戦争を経て、今日を迎えています。

今は、思想的にも、とても混乱した中にいるような気がします。シンプルで分かりやすい明瞭な新しい思想潮流が現れることを期待しています。

そうしたもので、何かご紹介いただけるよい知らせはないものでしょうか。

526:2011/04/06(水) 21:19:25
現象学について
現象学の定義がよくわかりません。
? ある本には、"主観と客観の融合"であるとか、ある本では"実在の予想に基づく態度を排除し、ありのままの「事象そのもの」を明らかにするもの"とか本によってさまざまです。わかりやすく簡潔にお願いします。

メルロ・ポンティについて
(1) 彼によると、"私たちは身体によって他者や世界と関わっている"(身体図式)ということですが、これは物事を認識するにあたって、身体で感じるもの、身体に触れるものでなければ、認識できてないという解釈でよろしいでしょうか?
もし間違いであれば、ご教授願います。
(2) 彼の"身体図式"の説は、どういうところが"現象学"と呼べるのでしょうか??と関連して、お願いします。

527:2011/04/06(水) 21:20:40
フッサールについて
本に、"自然的態度を変更し、世界の存在を括弧にいれて(判断中止=エポケー)、そこにあらわれる志向性を有する自我意識を観察すると、世界の意味がわかってくる"とありましたが、
(1) 彼のいう「志向性」とは、人間がもっている"思い込み"と解釈してよろしいでしょうか?
もし違うのであれば、ご教授願います。
(2) "世界の存在を括弧にいれて"とは、どういうことでしょうか?
(3) これは、「あす事象がある」という前提をいったん保留して、ある程度自分のもっている知識や情報をもとにある認識を解明すると、その意味が確信できるという解釈でよろしいでしょうか?
もし間違いであれば、ご教授願います。
(4) 彼の説のどういうところが"現象学"と呼べるのでしょうか??

528:2011/04/06(水) 21:22:03
現象学
「実存主義者である、ハイデッカーやサルトルも、文献によれば現象学の部類に入っています。
彼らの説のどの部分が、現象学なのでしょうか?

529Sekko:2011/04/11(月) 07:53:42
現象学について
エクリチュール千代丸さまへ

哲学質問箱と言った言葉で検索してここにたどり着かれたのかとお察ししますが、申し訳ありませんが、ここは一般的なあるいは教科書的なお答えをする場所でないので、別の質問サイトや、あるいはキイワードの検索でお調べください。

ここを見ていらっしゃる私の読者のみなさんのためにひとこと付け加えておきますと、私は、カトリック神学と現象学の関係に非常に興味を持っています。

フッサールの弟子だったエデイット・シュタインが現象学を捨てて神学に向かったのとは反対に、後にヨハネ=パウロ2世となるカロル・ヴォイティラ(以下JP2)は、神学と現象学(これもシュタインと同じくフッサールの弟子でユダヤ系でカトリックに改宗したマックス・シェーラーの価値倫理学がJP2の学位論文)を統合しました。スコラ哲学のトマス・アクィナス神学を現象学によって読み替えたのです。トマス神学では、神にのみ絶対の権利を認め、人間同士の権利や義務は相対的な関係性にあるという立場でしたが、JP2は、倫理や価値は人間の外にあるのではなく人間の自己像という意識化と切り離せないものだと考えました。
私が行動を起こす、という能動と、何かが私の中で起こる、という受動の二つが、内在性と超越性というものが同時に作用しあうという意味で、自己表現に結実すると考えたのです。(Personne et Acte)

まあ簡単には説明できませんが、結論から言うと、現象学的倫理学に依拠するカトリック神学を模索した結果、JP2は「基本的人権は共同体に優先する」という方針に至ったわけです。それまでのカトリック教会は、そこのところが曖昧というか、自分たちも共同体優先だったので、20世紀の全体主義や全体主義的共産主義に対して明確な弾劾ができなかったのです。
ところがJP2はトーミズムの現象学的再考によって、むしろ福音書のイエスに近いラディカルな平等主義、個人の尊重、共同体の縛りからの解放、自律としての自由を志向したので、あれほど徹底した社会主義陣営との戦いを展開できたわけです。

これらについては今準備中の本でもう少し分かりやすく解説するつもりです。

ここではこのテーマは打ち切りですのでよろしく。

http://setukotakeshita.com/

530:2011/06/05(日) 15:24:17
post modern
竹下さんお久しぶりです。小谷野敦です。震災以来、まともな知性の持ち主まで陰謀論にはまっていて困って竹下さんの本を見てみました。すると「ポストモダン」という語が出てきたので気になりました。私はポストモダンというのは建築の用語以外には使えないと考えていますが、竹下さんはどういう定義で使っておられるのでしょうか。

531Sekko:2011/06/05(日) 23:14:22
ポストモダン
私の『陰謀論にダマされるな!』(ベスト新書)で使われているのは、陰謀論を解説する心理学者が使っているという文脈だと思いますが、そこでは、ごく普通に、つまりWikipedia なんかで出てくる程度の意味です。「大きな物語」の終焉とあるように、リオタール風の意味でもあります。世界は民主主義と人権主義、自由平等、という方向に向かって「進歩」していくはずだし、進歩しなくてはならないという確信に基づいた歴史観があって、それに基づいたシナリオが構成されていたのが「西洋近代」であり、ポストモダンとは、その西洋中心史観が崩れて脱中心、相対主義が基本になった、という意味です。歴史の流れを説明する教科書的権威が否定されたので、そこに陰謀論が繁殖する土壌が用意されたという感じでしょうか。

私個人的には、「西洋近代」とは、キリスト教的理念の非宗教化、世俗化ととらえているので、ポストモダンとは、「西洋近代」の基盤をなす世俗化されたキリスト教的理念の否定だと考えています。「西洋近代」は反教権的イデオロギーの理神論に拠って打ち立てられたもので、ポストモダンは、さらにそのイデオロギーを否定したものであり、そのままでは「非キリスト教社会」の文化の文脈には組み込めないものだと考えています。つまり、20世紀後半にフランス構造主義などによって広く共有された近代批判とは区別して考えています。
『陰謀論に・・・』は、その前の『無神論』とセットになって構成されたものです。

これについて話し出すと長くなるので、ここではこれだけで失礼します。

http://setukotakeshita.com/

532:2011/06/06(月) 12:59:34
小谷野敦
どうもありがとうございます。リオタールの使い方はヘーゲルを前提にしたもので、竹下さんはポパーに言及しているので、ヘーゲルを踏襲するのは変だなと思ったのです。また、私の考えでは、人権・自由・平等といった理念は未だ全然否定されていないので、ポストモダンはおかしいだろうと思ったのです。

533迷える大羊:2011/06/15(水) 22:13:56
サムライとキリスト教
 先日、新聞の中の方をペラペラサクサク見ておりましたら、2013年のNHK大河ドラマは、新島襄の妻・新島八重を主人公とした描き下ろしドラマに決定とか。

 新島襄はいわずと知れた、明治6大教育家の一人であり、クリスチャンであり、彼の創設した同志社大学はいわゆるミッションスクールです。その新島襄は安中藩士の家に生まれていますし、「武士道」で有名な新渡戸稲造(は盛岡藩士の息子、津田塾大学の津田梅子は旧幕臣の娘、内村鑑三(高崎藩士の家)、坂本竜馬の甥の坂本直寛・・、といった具合に、今さら何を、と思われるかもしれませんが、幕末・明治時代のクリスチャンは元武士(どちらかといえば旧幕府側が多いような)が非常に多いですよね。どうしてでしょうね?

 ただし、ほとんどプロテスタントでカトリックは全く聞かない(知らないだけかもしれませんが)、これまたどうしてでしょうね。
 個人的には、元新撰組で、坂本竜馬を斬った疑いが濃厚な今井信郎氏とか、元新撰組なのかどうかはあやふやですが、結城無二三とかに興味ありますね。単純にあの斬ったはったの血で血を争う抗争に明け暮れた日々からクリスチャンというのはなんともすごい転身、いろいろな紆余曲折、第三者からみると面白い人生を歩んだんだろうな、と思いますし。

 ところで、サムライといえば、海外では未だに日本のステレオタイプの主要な位置を占めているようですが(こんな動画がネット上に腐るほどありますし)、

http://www.youtube.com/watch?v=1-C40DliUTI&feature=player_embedded

 そのイメージは肯定的なものなんでしょうか?それとも否定的なものなんでしょうかね?
ただ、いずれにしても有名なのは戦士、軍人としての部分で、こういう側面(宗教家、教養人)はあまりしられていないんだろうなぁ、とは思いますが・・。
 

534Sekko:2011/06/16(木) 06:17:59
明治のクリスチャン
>幕末・明治時代のクリスチャンは元武士(どちらかといえば旧幕府側が多いような)が非常に多いですよね。どうしてでしょうね?

>ただし、ほとんどプロテスタントでカトリックは全く聞かない(知らないだけかもしれませんが)、これまたどうしてでしょうね。

やはり、当時の知識人階級が「洋学」を吸収するのとセットとなって入ってきたからではないでしょうか。いくら「和魂洋才」といっても、19世紀後半にピークに差しかかっていた西洋近代進歩思想は、特にプロテスタント国やWASP文化と結びついていたから、洋「才」を学んだエリートが洋「魂」にも染まったのは不思議じゃないと思います。

それに比べてフランスなどカトリック国は、その時代、もうがちがちの政教分離へと向かっていたので「洋魂」部分はかなりパーソナルなものになっていたかと思います。

もちろんフランスのパリ外国宣教会などは、開国した日本に宣教師を送っていましたが、17世紀に壊滅したはずの幻のキリシタンの子孫を見つけようといったところにロマンを見出していたような気もします。

要するに、カトリックは16世紀にイエズス会とかフランシスコ会とかが、かなりがんばって日本で布教したのに弾圧されて大量の殉教者を出して、一度、ストーリーが終わっていたわけです。それでも、それに対するノスタルジーみたいなのはずっと語り伝えられていたわけで、そのこだわりはなかなかでした。隠れキリシタン発見の感動ストーリーなど有名ですね。

16世紀末から17世紀はじめにかけての大量殉教者と武士道との関係を述べる人もいますよ。
あの頃すでに戦略として大名が宣教されたこともありますし、家長が改宗したら一家郎党全員改宗という感じだし、一度改宗したら後でいくら迫害されても「節を曲げない」というのも武士的美学のうちだし、それなりの相性はあったのかもしれません。

サムライは、カミカゼとテロリストが結びつけられて以来かなりイメージが微妙ですが、今でもフランスでは柔道や合気道のスポーツクラブによくついている名前だし、ネガティヴではないと思います。ま、教養人というよりはやはり体育会系のイメージですけれど・・・

http://setukotakeshita.com/

535迷える大羊:2011/06/17(金) 21:45:08
ステレオタイプ
お忙しい中、どうも。

>政教分離

 日本が鎖国中の18,19世紀にフランスなんか、かなり政教分離が進んじゃいましたからねぇ。今でももっとも「真面目に」政教分離している国ではないでしょうか?フランスって。
 ただ、日本においてはなんだかんだいっても信者数はカトリックの方が多い(プロテスタントより)ですね。カトリックは一般人にターゲットを絞って、プロテスタントと棲み分けたのかしらん?と勝手に想像してしまいました。

>サムライは、カミカゼとテロリストが結びつけられて以来かなりイメージが微妙

 あの神風特攻隊の日本のイメージダウンに果たした役割は果てしないものがありますね。もちろん、個々の特攻隊員には同情しますけども。それにしても、今だにサムライが日本のステレオタイプになるくらい、日本の現状って一部を除く海外の国々には知られていない事実には溜息がでますねぇ。
 しかし、単純に国力だけみれば、中国に抜かれたとはいえ、世界有数のもの。そんな国がこれだけ存在感が薄い、ということは今まで世界史上であったんでしょうか?

536迷える大羊:2011/07/24(日) 13:11:15
リアル・イエス
 今から10年も前の話ですが、BBCで放送された科学ドキュメンタリー番組「神の子」にて。
 なんでも、マンチェスター大学法医学教室が、エルサレムで大量に発見された紀元1世紀のユダヤ人の人骨群の中から、当時の典型的なユダヤ人男性の頭がい骨を選出して「イエスの顔」を復元したそうで。

http://hexagon.inri.client.jp/floorA4F_ha/a4fhb616.html

 クリスチャンの方とかキリスト教圏の人々にとって、やはり「実在したイエスの姿、声、振る舞い」、つまり、リアル・イエスに対する関心は昔から高いようですね。
 しかし、史料があまりに無さ過ぎて、結局、行けども、行けども推測の域を出ず、確か、100年くらい前だったか、ドイツのブルトマン(でしたっけ?)って神学者が

「聖書の記述はあまりにも神話的な表現に彩られていて、歴史のイエスを知る事はほとんど不可能だ」

 なんて言って匙を投げてましたね。要するにヴァーチャルでないリアルなイエスについてはさっぱりわからない、てなことで。
 ところで、考古学とか歴史学が将来、飛躍的に発達して、極端な話、タイムマシンが実現して、リアル・イエスの姿が判明した場合、クリスチャンの信仰心にどういう影響が生じるでしょうね?

 ヴァーチャルでない、生身のリアル・イエスが「発覚」「発見」された場合、アイドルがスキャンダル発覚、才能の枯渇、加齢などで「幻滅」され人気が落ちるように、イエスについても同様なことが起きないでしょうか?
 思うのですが、リアルな生身の「人間」としてのイエスは綺麗ごとでない面が多々あるでしょうし。福音書ですら、故郷での評判は至って悪かったこと、家族関係はよくなかったことが、それとなく示唆しているくらいですしね。

 SF小説にも、英国のマイケル・ムアコックの「この人を見よ!」なんて、タイムマシンで2000年前の世界で、リアルのイエスやマリアに会ったものの、まったくの俗人で、失望し、結局、主人公自身が「イエス」の役割を歴史上で演じてしまう・・、なんて話がありましたね。

http://www.amazon.co.jp/%E3%81%93%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%82%88-%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%82%AB%E3%83%AF%E6%96%87%E5%BA%AB-SF-444-%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%82%A2%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF/dp/4150104441

537Sekko:2011/07/25(月) 00:39:54
リアル・イエスのこと
この復元写真って、一世紀の典型的なユダヤ人の骨からって、あまりにもアバウトだと思いますが・・・
言動や女性に囲まれていた様子からしてもっと優男だったイメージはあるんですが。

人間としてのイエスが復元されたらどういう反応を引き起こすのかという物語『聖骸布の仔』(中央公論新社)を訳したことがあります。おもしろい小説です。

http://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E9%AA%B8%E5%B8%83%E3%81%AE%E4%BB%94-%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3-%E3%82%B3%E3%83%B4%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%88/dp/4120037231/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1311520250&sr=1-1

また講談社ムック『聖骸布の男』に、聖骸布の実物大写真ポスターを載せたのは迫力があります。
私もコメントを書きました。

http://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E9%AA%B8%E5%B8%83%E3%81%AE%E7%94%B7-%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AF%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%80%81%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B-G-%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA/dp/406213957X/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1311520529&sr=1-1

調布でコンプリ神父の話を聞くたびに、感動を覚えます。

コンプリ神父の本もどうぞ。

ムアコックの本も読んだことあります。

私は、聖骸布の真偽がどうあれ、イエスの生と死にまつわる「事実」関係がどうあれ、キリスト教の信仰の基本的なところは変わらないと思います。

でも他の神さまの、検証不可能な神話とちがって、人間だけれど復活したというミステリーが根本にあるのがいろんな人の好奇心を刺激して、「信仰」とは別に独特の世界を形作っているのは興味深いですね。

http://setukotakeshita.com/

538迷える大羊:2011/07/25(月) 20:37:21
リアル・イエス2
 お相手恐れ入ります。

 まあ、聖書はイエスの容姿について、何も語っていませんからねぇ。常識的に考えれば、大きくも小さくもない、イケメンでも不細工でもない、ごくごく普通のユダヤ人男性ってことになるんでしょうが・・。

>『聖骸布の仔』(中央公論新社)

 何やら、「ジェラシック・パーク」のイエス版みたいな話ですねぇ。ところで、なんでこんなスレをたてたか、と申しますと、前にも触れましたけれども、キリスト教の世界には、聖書やイエスにまつわることなら、なんでも「都合よく解釈」する人々がいて、たとえば、旧約聖書の、第三者からすると、どうみても残虐、ひどい話としか思えない、列王伝とかヨシュア記、ダビデの所業の部分をみても、「聖書は侵略行為を決して正当化していない(どこが?)」なんて言い張ったりするし・・・。

 また、福音書にチラチラ出てくるイエスのダークな部分、例えば、故郷で敬われなかったエピソードは、「それはイエスの正体を罪に満ちた不完全な人間たちには理解できなかったからである」とか、家族関係が悪かったように見える場面も「肉による家族には理解できなかったのである」・・、なんて、おいおい、よくそんな、都合よくというか、「相手が悪いんだぁ」みたいな自己中な解釈ができるもんだなぁ、と半ば感心、半ば呆れることがあるからなんです。

 まあ、なんていうか、そこまで何事も自分側に都合よく物事を考えれば、人生に悩みは少ないだろうなぁ、確かに「信じる者は救われる」だよ、と思ったと同時に神様を信じるって、そんな風に何でも自分側に都合よく物事を考えることなのかしらん?という疑問があるもので・・。ま、私の周囲だけの話かもしれませんが。

 そんな人々が、リアル・イエスを知ってしまって、なおかつ、それが自分の思い描いていた「イエス様」とまったく違っていたら、どう反応するのかしら?というちょっと意地の悪い疑問というか、想定を考えてしまったんですよね。

 まあ、イエス様は今まで通り、ヴァーチャルな神様であり続けた方が無難だし、世のため、人の為なのかもしれませんね。
 それにしても、こういうヴァーチャル神、アイドル、イエスを作り上げた、パオロのプロデューサー的な才能は大したものだなぁ、と改めて思います。

539迷える大羊:2011/10/10(月) 14:10:46
カルトとまともな宗教
 について、なんだかよくわからなくなっています。よく言われるカルトとまともな宗教の見分け方は、カネにシビアっていうか汚くない、危機感を煽ったりして恐怖で人を縛らない、ってことですが、それをいうなら、初期キリスト教会は「アウト」になりませんか?実際、ローマの歴史家タキトゥスは「有害な迷信」として、「カルト」扱いしてますし・・。

 イエスとか初期キリスト教も「世の終わりは近い! 悔い改めよ!」みたいなこと言っているし、カネについても、聖書にこんな話があったりしますし・・・。

 使徒言行録5章1〜11節(新共同訳聖書より)

1 ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、
2 妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
3 すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。
4 売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
5 この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。
6 若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。
7 それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事をしらずに入って来た。
8 ペトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。
9 ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」
10 すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。
11 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。

 要するに、財産を正直に差し出さないと、献金しないと、天罰が下るぞ!って話ですよねこれ?しかし、献金額を多少偽ったくらいで、人が死ぬのなら、今ごろ、日本中、いや、世界中の教会は死体だらけじゃ??。それよりなりより、献金をごまかす奴には死を!なんて発想がなんだか・・。

 聖書についても、正典にすら、イエスの「過激発言」はいろいろあるし、さらに、いろいろ聞いたり調べたりすると、正典には入らなかった福音書群やイエスの幼児期の物語とかには、イエスと肩がぶつかったから呪われて殺されたとか、イエスが遊んでいたのを邪魔したから呪われてすぐ殺されたとか、そういうのは割とありふれた形で転がっているみたいで・・・。

 これでは救世主どころか、「恐怖新聞」とか「エコエコアザラク」の黒井ミサです(ご存知なければ、すみません、70年代のホラーマンガです)。

 こういうキリスト教初期の歴史から鑑みるに、今カルト、異端扱いされている、某教団も、政界との関係が取り沙汰されるあの団体も、何百年か後には立派な「伝統宗教」となり、教祖や開祖に向けられた社会的非難、取り締まりは「法難」とか「迫害」ってことになるんでしょうかね?
 教祖、開祖が如何に凶悪犯罪を犯そうとも、死刑判決などもっての他で、それこそ、「尊師は我々の罪を背負って神に召されたのだ!」なんて話になりかねない?反キリスト教の立場からすれば、ローマ総督ピラトは実に愚かな判断を下したものです。

 まともな宗教とそうでない宗教、教団、教会の境界線、違いってなんでしょうね?なんだかわからななくなってきました。

540Sekko:2011/10/10(月) 17:48:42
宗教と金
についての特集があった時に、二年ほど前ですが、私はこのアナニアのエピソードを取り上げました。それらの記事をまとめた本が来年1月に出る予定です。

私も聖書の中のこういう一見して「絶対、変」という箇所にこだわるのがわりと好きなのですが、考えてみてください、キリスト教神学論争がヨーロッパの最高の知性の持ち主たちによって延々となされてきた歴史を。私や大羊さんが突っ込みたくなる部分なんて、もうさんざんいじくりまわされているんですよ。納得のいく答えだっていくらでもあります。

ただ、言えることは、宗教なんて、人間の営み、時代や文化や経済事情の中での人と人の関係なのですから、宗教そのものをカルトだとかどうとかそれこそ「格付け」する問題ではなく、自分が自分の時代と自分の共同体の中でどう行動するか、が問題なのです。どの宗教に属している誰でも独善的、排他的な行動をとることはあるわけですから。

でも、この私ですら、そういう広い視野を持てる時代なのですから、その今の時代の「カルト教団」が数百年後に立派な伝統宗教になっているとかは私は思えません。情報の力や歴史の分析などはやはり「蓄積」として長いスパンでは人をまともな方向(つまり連帯して生きていく方向)に向かわせると、思いたいです。

(一般論としては、『カルトか宗教か』(文春新書)で書いたことは今も通用すると思います。)

http://setukotakeshita.com/

541迷える大羊:2011/10/10(月) 20:36:58
ありがとうございます
>私も聖書の中のこういう一見して「絶対、変」という箇所にこだわるのがわりと好きなのですが

 そうなんですか。私の家内に、こういう聖書の「アラ探し」みたいな話をすると、かなり嫌な顔されたり、怒られたりしましたが・・。もっとも、今は私の影響?を受けたのか、全く動じない、むしろ、自分から変なところ探して面白がっておりますが・・。
 ただ、関わっている教会の関係者の方なんかだと、やはり、聖書はとにかく正しいんだ、意味があるんだ、みたいにとらえてる人が多くて。
 やはり、カトリックの方が聖書との距離の取り方が適切、というか緩いのかな?って思ったりしますね。

>考えてみてください、キリスト教神学論争がヨーロッパの最高の知性の持ち主たちによっ>て延々となされてきた歴史を。私や大羊さんが突っ込みたくなる部分なんて、もうさんざ>んいじくりまわされているんですよ。納得のいく答えだっていくらでもあります。

 そうでしょうね。ただ、この神学とか哲学とかいうものに対する基本的な教養が私には決定的に欠けておりまして。それではいけない、とその手の本を読んだこともなくはないのですが、あまりにもクソ難しくて・・。とにかく、脚注の脚注の脚注のものすごい、多重ネスティングで、私の頭脳では結局、なんだったんだ?、でして。

 結局、エラそうなことを言っているようですが、私のやっていることって、聖書を買ってきて、とにかく読んでみる、参考書、解説書に頼る(頼ってもわからない)ことなく、そのままストレートに読む・・、だけでして。で、単純に読んでみた結果、これなんだ?おかしいじゃないの?みたいな話をこちらでさせていただいているわけです。

 リアルの教会はどうかっていいますと、全部が全部がそうってわけではないですけど、これまた、聖書のわかりやすいところ、誰もが理解でき感動できるところばかりを繰り返して読ませる、で、こんなアラ探しみたいな話はスルーされ、なかなか付き合ってくれませんね。

>自分が自分の時代と自分の共同体の中でどう行動するか、

 結局はそこに尽きますね、確かに。でも、それはそれで難しい話ではないか?と。まあ、犯罪とか第三者に迷惑をかけるのは論外にしても、どんなにお金を好き放題に巻き上げられても、どんなに度外れた奉仕を強いられても、自分が満足なら、その人にとってはカルトではない、って見方もできちゃうような気がしますが・・。

 プロテスタント教会にはカルトからの信者救済に頑張っている人が結構いたりするものですが、そういう方から聞いた話によれば、入信してしまった人は、絶対に自分は正しいと思っていますし、それを脱会させるためには、「逆洗脳」、つまり洗脳と同じ方法で、こちらの世界の常識を叩き込みますから、やってる人も自分がやってることが妥当なのかどうかわかんなくなってしまうこともある、って言っていましたが・・。脱会者も、とりあえず理屈とか頭では、自分が間違っていたことを理解しても、生き甲斐というか、張りを無くしたような状態になる場合がある、との話も聞いたような。

 正直いって、私にはわからないことだらけです(何が正しいか?正義か?について)

542迷える大羊:2011/11/07(月) 19:56:22
ブログをよんで
http://spinou.exblog.jp/17063887/

 先生のブログ最新版(11/7)の欧米の政教分離についての記述に興味深く拝見、かつ、ああなるほどね、と思わされました。これ、兼ねてから関心のあった話でして。ていうのは、日本のキリスト教会って、とかく靖国神社だとか、建国記念日とか国家神道の絡む事項に関し「政教分離」を大義名分としてて非常に敏感かつ、批判的なところが多いです。
 私が知る限りでは、日本のキリスト教会で公文書に元号を使用するのは確か「救世軍」だけだったような・・。
 もちろん、戦前のある時期から戦時中に至る時代に非常に屈辱的な妥協を国家権力によって強いられた歴史は確かにありますし、理解できないわけでもないのですが、いつも、思うことは、「そういう欧米のキリスト教主流の国家の政教分離はどうなってるの?」ってこと。

 私が知る限りでは、先生がおっしゃる通り、本当にきっちりと「政教分離」しているのはフランスぐらいで、聖書に大統領が宣誓するアメリカなどがいい例ですが、日本と引き比べて格別、政教分離がしっかりしているような感じでは・・、というのが正直な感想。
 キリスト教側の「政教一致」は批判しないの?何とも思わないの?って心の中でいつもツッコミを入れていました。
 某キリスト教関係のサイトでその辺りを突っ込んでも、左派系政党の引き写しやら、欧米人目線みたいな反応ばかりでどうにも納得いく個人的に論説がみられませんでした。

 うまく、言葉で説明できないけれども、

>G20における日本の立ち位置というのは、「欧米」先進国と同じように疲弊して低成長なの>に、「老獪パワー」仲間に入れてもらえるパスワードを有していない、空気を読めないヒ>トみたいだ。

 日本のキリスト教会には上のような状態にある日本とか日本人と「欧米」先進国の橋渡しというか通訳のような存在になるべきなんじゃないの?外からの借り物思想で日本的伝統を否定ばかりしてないでさ、と思ってしまいました。
 内村鑑三とか新渡戸稲造とか明治のクリスチャンはそういう人多かったように思えますが。

 まあ、ユーロはかつての共産主義のような「壮大な社会実験」に終わりそうな予感が個人的にはしますです・・。

543F.T:2011/11/08(火) 15:39:53
霊感占い
ご著書を読ませていただいています。カトリック信者です。

友人(やはりカトリックです)が、霊能占いの類に関心が深く、そういうところで前世をみてもらったりして、今の不運な状況を因果律で説明を受けては、「当たっている」と深く納得しています。家族が闘病中で、私にも相談に行くように強く勧めてきます。病気というのも先祖、家系などに伝わるあらゆるものの融合体の現象だとか・・・食べ過ぎたらおなかを壊す、という因果関係は、わかりますが、先祖にこういうことがあるから、その連鎖で不幸や病気がおとずれるという発想に違和感を覚えます。イエスの時代に、悪霊がついているから、そのような病気になる、と阻害された病人に重なります。自分に深い悩みや迷いがあるときは、ふとほだされそうになるのですが、このような発想をどのようにとらえたらよいでしょうか。もしかしたら、友人は一種のカウンセリングのような効能を感じているのかもしれないのですが・・

544Sekko:2011/11/09(水) 02:20:33
F.T.さま
占いだとか「スピリチュアル」系のグッズやパフォーマンスがサブカルチャーとして野放しになっている今の時代は、自分のスタンスを自覚していなければそういうものとの「依存」関係にはまってしまいがちなので、注意が必要だと思います。
明らかに「宗教」色を出しているものとなら、カトリックに軸足を置いている方は警戒することができるでしょうが、何となく迷信のようなものはかえって付き合い方が難しいですね。ご家族が闘病中というのはF.T.さんでしょうか。そのような辛い時期は、「藁をもつかみたい」時ですから、その状態の「説明」をしてもらって原因を取り除きたいという気持ちには誰でもなると思います。

私は、先祖が何とか、という言説は、個人的に一切受けつけません。先祖との関係は私たちの心の中にあると思うので、カトリックでの「聖人とのコミュニオン」のように、「先祖が守ってくれる」という信頼の連鎖であると思います。「先祖をちゃんと祀っていなかったから罰があたった」というような表現は、罪悪感につけこむマインド・ビジネスにもつながります。

気持ちの安定を求めるならカトリックの方なら闘病している方のためにミサをあげてもらうとか、信頼できる方に祈ってもらうとかも可能だと思います。
私は母が倒れた時に、ある神父さまに「お母様にとって一番いい結果になるように神さまに祈ります」と言われてすごく楽になりました。

また、去年、肩を傷めて痛みに苦しめられたので、早く楽になるなら何でもしようと、ダメもとだと思って霊能者にも見てもらいましたが、「生き霊が憑いている」と言われました。そんなことは信じないけれど、反証することすらできないブラックゾーンですから気分が悪く、結局、別のポジティヴな霊能者から「そんなことはありませんよ」と言われてやっと落ち着きました。

占いでひどいことを言われたことも過去にあり、それを回避するには特別の祈りが別料金で必要と言われました。その時も、「そんな人を信じてはいけない。何の問題もない」と言ってくれる別の占い師に否定されるまで気分が悪いでした。

ドクターショッピングのようにスピリチュアル系を渡り歩くと、実にいろんなことを言われるものです。ポジティヴでいいところだけキャッチすることでストレスを軽減するスキルのない人は、最初から近寄らない方がいいと思います。

それに、病気でいうと、先祖から受け継いだ遺伝子でさえ、病気に決定的なものでなく、生活習慣や環境汚染やいろんな要素が複合しているのです。
ちゃんとした情報を集めて読み解いて、試行錯誤し、精一杯手を尽くし、それでも治る見込みがないとしたら辛いですが、病気の人に寄り添ったり大切に思う気持ちや感謝の気持ちなどを伝えたりすることで、病気にも死にもさえも切り離されることのない絆を深めることは可能だと思います。
愛は死より強し、と言いますが、それは「愛はたいていのものの前で屈するのに、「死」にだけは屈しない」、という意味だという人もいて、本当だなあ、と最近思います。

苦痛や不幸の原因を先祖などもろもろの他者や他のことに転嫁するのは逃避の一種で、それを分かっていながらマネージメントする自信があるなら、他の人に迷惑をかけないなら、それも「方便」でしょう。
逃げ道や言い訳がたくさんあった方が柔軟に生きていけるかもしれません。でも、本当に老いや病気や死を前にした重大な危機の前には、かえって耐性がなくなって心が折れてしまうか、悪意の人に騙されてしまうかもしれません。

まあ、何にしろ、今「はまってしまっている」人とは同じ土俵で話し合えないので、やんわりと無視するのがいいと思います。私が役に立てそうなことがあれば遠慮なくおっしゃってください。

http://setukotakeshita.com/

545F.T:2011/11/10(木) 12:34:42
ありがとうございます
早速のお返事ありがとうございます。
病人をかかえているのは、私の方です。順調なときであれば、軽くスルーできたのですが、辛い時期には、ついそういう誘いに反応してしまいそうになります。その友人は、除霊(手かざし)を受けに信仰宗教のお寺にも足しげく通っていて、それにも誘ってきます。

でも病気やら不幸な出来事に見舞われている人なんて、いくらでもいるわけで、もっと言えば、3・11の津波であっという間に人生を奪われてしまったおびただしい数の人たちは、その先祖からのどんな因縁でそういう目にあってしまったわけ?と思っていました。

そのような誘いには、どこか弱みにつけこんでくるような気配を感じてならないのですが、弱っているときには、それに反駁するだけのエネルギーがなくて、不安感だけがあおられてしまっていました。「悪霊がついている」と霊能者に言われて、それを別の霊能者に否定してもらって、安心なさった、というお話に思わず頬がゆるみ、ほっとした気分です。

病人に対しては出来うる限りの手は、尽くしているつもりですし、あとは、痛みに寄り添っていきたいと思います。

546Sekko:2011/11/10(木) 19:12:42
そうですね。
ほんとうに、津波や地震で流されたり下敷きになって亡くなった方の恐怖や苦しみや、残された方の辛さを考えれば、できる限りの「闘病」をご家族の方と共に続けられることは、それだけで恵みだと言えるかもしれません。

今は痛みの緩和治療も発達していると思いますから、そのことでセカンドオピニオンを聞いたり、少しでも楽になる療法を探すのは当然だと思います。でも、エビデンス(有効性の統計的根拠)が重視される医学の世界ですら、医師との相性やめぐり合わせでまったく変わってくるのですから、霊媒師系は手を出さないのが一番です。

痛みを訴えながら亡くなった若い友人の最後の日にいっしょにいた体験がありますが、新興宗教にはまっていた彼女がなぜか聖母の不思議のメダイを握りしめていて、私はずっと彼女の腕をさすっていました。

闘病中のご家族にとって、F.T.さんの想いや、スキンシップは、どんな「除霊」より有効だと思います。どうか無力感にとらわれることなく、さまざまな苦しみも許容する港のような心境でいられますように。

http://setukotakeshita.com/

547迷える大羊:2011/11/29(火) 23:49:27
イエスが上司だったら
 最近、携帯電話をスマートフォンに変えたのをきっかけに、スマートフォンの実質的な開発者であるスティーブ・ジョブス氏の伝記やら関連記事やらをいろいろと読んだのですが。

 外から、一消費者としてみると確かにすごい人、天才、変革者、ですが、相当アクの強い人でもあったらしく、あちこちで衝突をし、自分の会社から追い出されたこともありますし、部下、社員には相当キツイ、厳しい要求をする、無能者は容赦しない人、実際に身近な人間として付き合うのはかなり厳しい、緊張を強いられるタイプの人だったようです(大病を患ってからは、かなり「丸く」なったみたいですが)。

 イエスなんかも、外から、一信者としてみると「愛の人」「変革者」のイメージですが、実際に教祖、というか現実の上司、先輩として付き合ってみるとどうなんだろ?という気もしてきました。聖書のエピソードを読むと、かなりの過激派(テロリストってことではなく)だし、舌鋒鋭いし、皮肉屋だし・・。実際、ペテロなどかなりきつ〜い言葉をイエスから投げかけられているシーンがしばしばありますし(引き下がれ、サタンが!、とか)。

 実際に私なんかが、イエスに会って部下になったら、言動の矛盾を激しく罵倒されて全人格を否定されて追い出されて終わるのかも、という気がしないでもないです。彼の思想からして、身近な人間、血縁者だから優しくする、なんて発想はまずない、むしろそういう人間にこそ厳しくあたりそうですし・・。
 まあ、冷静に考えて、単なる「いい人」「優しい」だけの人が、カリスマ的な人気を集めたり、逆に磔にしてやりたいほどの憎しみを買うこともないでしょうし。

 いずれにしても、凡人が天才と付き合うのは大変、私自身は凡才でも、愚者でもいい、「いい人」とだけ付き合って平凡に暮らしたい・・・、なんて考えちゃいます。
 実際、あらゆる虚飾、名声を抜きにした本当のイエスのキャラクター、性格はどのようなものだったのか?今となっては不可能と知りつつ、知りたくてたまらないですね。

548Sekko:2011/11/30(水) 23:33:28
イエスの性格
イエスは子供はみんな天国に行けると考えてたように、多分、いろいろ保身を考えたりする大人の偽善性を一番嫌ってたのだと思います。共同体主義みたいなのも。

家族だから、血がつながっているから、同じ村出身だから、みたいな「なあなあ」もすごく嫌いそうですね。

でも、ただ弱い人間とか、懐疑や恐怖によって道を誤る人間には、わりと寛容だと思うんで、私は怖くないです。

スティーブ・ジョブスは私には、絶対、無理。

でも、イエスが上司だったら、そもそも商売はうまく行かないでしょう。

パウロの方がやはり(仕事の)上司としては適性があるかも、です。

でも、本当の意味で「偽善」を排するのって、凡人にはすごく難しいことで、「いい人」の9割は偽善とか妥協とか、あるいは単に「鈍い」のかも。

普通の人が「自然体」にしてたらエゴの固まりになるだけだと思うので、目いっぱい偽善を排して自分に厳しくして、それでようやく少しだけ他人に寛容になれる程度じゃないかなあ、とこの頃は思います。

http://setukotakeshita.com/

549迷える大羊:2011/12/01(木) 21:46:40
お忙しい中、恐れ入ります
 イエスの教えとか行動をみて考えさせられることの一つは、本当に「いい人」「優しい人」ってなんだろうな?ってことですね。
 で、キリスト教、というか、イエスの教えの本当のご利益っていうのは、世間一般の「いい人、悪い人」「優秀な人、劣った人」というくびき、「常識」から解放され、自分らしく、肯定して生きていける、ということじゃないかな、と思います。うまく、説明できないんですが・・。

 パウロって、以前から、個人的にマイクロソフトみたいだなぁ、って感じてます。思想的には別にオリジナリティに溢れる・・、てわけではない、彼の功績は一にも二にもその営業マンとしての素晴らしいセンス。つまり、独創性あふれる考案はできないけれど、既存のものをとって、うまくパッケージングして、売って売って売りまくる。

  売り込みの為なら、オリジナルをまるっきり書き換えることも辞さない・・。ビル・ゲイツ氏率いるマイクロソフトは、いろんなアイデアをごった煮的に入れては、それを協調性のない形で実装して広める、オリジナルを知っている人々は、「なんだこりゃ?」と怒るけど、一般ユーザー(信者)からすりゃ、とりあえず手軽に使えれば(救われれば)、なんだっていいんで、なんだかんだいわれつつも普及していく・・。
 なんだ、パオロの布教、宣教の過程そっくりじゃん・・ってことで。怒られるますかね?こんなこというと。

 もっとも、パウロがいなければ今ある、世界宗教としてのキリスト教はなかったわけですし、イエスの教えだけでは、ある意味エキセントリックすぎて、常識的な一般市民には受けなかった可能性も大。どちらがいい悪いではなく、イエスとパウロの二人がそろって、合わさって、初めて世界宗教・キリスト教なんでしょうね。

 ま、ビートルズのレノン・マッカートニーみたいなものか。まったくどうでもいい話ですが、前教皇・ヨハネ・パウロ二世って、英語で読むとジョン・ポールだな、ってふと思い出しました。失礼しました。

550迷える大羊:2011/12/30(金) 14:40:30
金一家とキリスト教
 「将軍様」崩御で、またまた話題を世界に振りまいている北朝鮮について。このニュースを見て思い出したのは、将軍様・金正日氏のお父上、首領様で「永遠の主席」こと金日成氏について。
 先生の著作「ローマ法王」で金日成氏は外戚にクリスチャンがいて、食糧支援などの援助もその繋がりで獲得した・・という話があったように思ったのですが、本当ですか?
 そういえば、あの国のロイヤルファミリーには、例えば、将軍様については白頭山(韓国人、朝鮮人にとっての霊峰、富士山のようなもの)のふもとにて、一番星の下、お生まれになった・・、と第三者からすれば、ホンマかいな?としかいいようない伝説が多くあります。
 イエスについても、ダビデの末裔でベツレヘム生まれなんて、到底、事実とは信じがたい「伝説」が福音書で語られていますが、自らの「神格化」に当たって、聖書とかキリスト教を「参考」にしたんでしょうか?
 思えば、スターリンも元は牧師になるべく、神学校に通っていた人物みたいで、共産主義って実のところキリスト教の裏返ったものなのかも?とよく思わされます。

 ところで、以前から述べていますように、私は、なんていったらいいのか、左がかったもの言いに強い拒否反応がありまして。そんな私にとって、日本のキリスト教会の「左巻き」な言動の多さにはついていけない、と思うことが多々あります。

 もちろん、私自身も含めて完全に不偏不党、中立、公正な組織、人間などというものは存在しないことは重々承知しているんですけれども、それにしても、これはないだろう、と思ったのは、日本キリスト教協議会(NCC)の今年3月の北朝鮮の食糧危機に関する声明。

http://www.kirishin.com/2011/03/ncc2011312.html

、「北朝鮮で食糧不足から餓死者が出ているという情報を日本のメディアが報道していないという現実、また、それと深く結びついていると思われる日本政府の一方的な韓国政府への肩入れというわたしたちの置かれている現実を深く自覚せざるを得ません」

 あくまで悪いのは日本政府と韓国政府なんだそうな・・。いくら、キリスト教と左翼・左派系思想には親和性があるといったって、「左側」の不正やら矛盾には目を瞑るのが、キリスト教の「正義」なの?との疑問がいっぱい・・。
 もちろん、前述したように、完全に公正な人間、不偏不党な人間なんていないでしょう。だからこそ、「神のものは神のものに、カエサルのものはカエサルに」とか、確か、ヨハネの福音書だったと思いましたが、「正しい人など誰もいない」といった具合に、地上の問題について、信仰や教会の立場で特定の立場に肩入れすることを否定しているんじゃないの?と思うんですが。
 どうしても、その種の政治運動がやりたければ、あくまで個人単位で、教会とか信仰を表に出さないで下さい、って思うんですけどね・・。
 

551Sekko:2011/12/31(土) 02:28:19
キリスト教と左派
私も今度のことで、金正恩にどの程度キリスト教の影響があり得るか調べてみようとしたのですが、今のところ具体的なことは見つかりません。ただ、ブログにも書きましたが、韓国のカリタス・コリアやパリ外国宣教会、韓国司教会議などを通じたNGOなどのパイプは、現在、しっかりつながっているようです。ピョンヤンのカトリック教会のミサに参加したフランス人ジャーナリストのドキュメントも見ました。アラブにおけるイスラミストと違って、民族宗教でもないこういうところから「民主化」へのきっかけができるといいのに、と思っています。

弱者の側に立つとか、飢えた人に食べさせ、渇いた人に飲ませる、というのはキリスト教の基本姿勢なので、それは「政治的中立」に優先すると私は思います。

ただし、それを「日本政府」がどうとか「韓国政府」がどうとかという政治的言説にして批判するとしたら、日本のキリスト教協議会は、自国の信徒や一般人の「空気を読めない」ことはなはだしいですね。たとえばミッションスクールのカルチャーとしてのキリスト教シンパや信者の人に対しては、逆効果もいいところでしょう。

政治的な公正とか中立とかは、時代や状況によって変わるものですし、党派がどうあれ、明らかな「犠牲者」の側に立つアクションというのは、「無関心」や「見て見ぬふり」よりずっとましなことだと思います。今年の3月の時点で本当に韓国政府がNGOの食料援助を規制していたのだとしたら、キリスト教組織による抗議は必要だったのかもしれません。

今年はアフリカでもひどい飢餓難民が出ましたが、普段は帝国主義的姿勢をとったり移民に差別したりしているヨーロッパ諸国が毎日のようにキャンペーンを繰り広げ、大騒ぎして援助に駆けつけたのを見ると、「偽善者ですか、キリスト教的自己満足ですか」という突っ込みも喉から出そうになりますが、飢えている人の立場に立てばやはり、健全な反応かなあと思います。政治的な右や左の問題じゃなくて、強者と弱者の問題でしょう。

フランスのカトリックはもちろん、「保守」の側に秤が傾いていますが、「社会福祉」もその「保守」に組み込まれています。「カトリック左派」というのももちろんいますが、フランスで「左派」で活動しようと思ったら宗教色を出さずに政教分離の「共和国主義」の看板を掲げることになります。日本のキリスト教が左派的言動を表に出すことがあるのは、それだけ、日本の「左派」というのが消滅に近い状況にあるからなのかもしれません。それはそれで心配です。多様な抵抗勢力がある社会の方が、一部の強者の暴走を牽制できるでしょうから・・・

http://setukotakeshita.com/

552迷える大羊:2011/12/31(土) 08:01:35
左派アレルギー
>日本の「左派」というのが消滅に近い状況にあるからなのかもしれません。それはそれで心配です。多様な抵抗勢力がある社会の方が、一部の強者の暴走を牽制できるでしょうから・・・

 それはその通りで、私にしたって、抹殺してやろうとはゆめゆめ思いません。でも、日本の左派って国家権力とは別の「強者」に阿ってるパターンが多いですし。
 北朝鮮についていえば、例えば拉致事件についても無視、あるいは相当に証拠が出た段階でも「日本政府・韓国政府のでっち上げ」みたいなことをいってましたし、いよいよ否定できなくなると「植民地支配の清算をしない日本がどうのこうの」と絶対に北朝鮮政府への直接的批判は避けるんですよね。私には、本来の意味での「弱者」の味方にはみえません。
 なんていうか、もうちょっと現実に即した理論なり、立場なりをとってもらいたい、って思います。本当の「弱者」がわかんなくなってきます。彼らの言説をみていると。

 しかし、本当にカトリックとかキリスト教系団体が北朝鮮国内で「自由に」活動してるんですか?うーん、信じがたいですね。あの種の独裁国家において、キリスト教というのは、エイリアンが宇宙船に入り込むようなもの、中から食い荒らされるようなものだと思うんですが・・。
 真面目に信仰すれば、どうしたって今の体制はまともなのか?って疑問を抱きますよね。そんなことがわからないほど、朝鮮労働党側もアホとは思えませんが・・。

553:2012/01/14(土) 21:27:14
アンネリーゼ・ミシェルについて
映画「エミリー・ローズ」のモデルとなったアンネリーゼ・ミシェル (Anneliese Michel)の悪魔憑き事件について、どうお考えになっていらっしゃるかご意見をうかがいたいのですが、よろしくお願いいたします。

アンネリーゼ・ミシェルは、1968年の16歳頃から震えなどの異変が身体に出始め、精神科医に「てんかん」と診断されます。薬を処方され暫くは落ち着いていましたが、やがて普通のてんかんの症状を逸した症状が出始め、幻覚を見たり、身体を何かに持ち上げられベッドに何度も叩きつけられたりします。彼女の意思とは関係なく物凄い力で体を動かされたりしたため、 薬を飲んでも治まらず、やがて蜘蛛や蝿を食べるようになります。とても本人の声とは思えない声で汚い言葉を吐いたり、彼女が知りもしないラテン語を喋るようにもなったといわれています。彼女は自分が悪魔に取り憑かれたのだと考えます。

1973年(20歳)の時、両親は、教会に悪魔祓いを頼みますが拒まれます。 医者にかかり再び薬を処方されましたが、症状とその現象は悪化していきます。1975年、22歳の時、ようやくヴュルツブルク司教会は悪魔祓いの許可を出し、カトリックのエルンスト・アルト司祭(当時41歳)とアーノルト・レンツ(67歳)が悪魔祓いを行います。司祭が「お前は誰だ」と問うと、返事をし、名を名乗ります。アンネリーゼには、6体の悪魔が取り憑いています。

6体の悪魔は、次のとおりです

1 ルシファー(堕天してサタンとなったとされる地獄の王)
2 カイン(アダムとエヴァの息子。アベルという弟を殺し、人類最初の殺人者とされる)
3 ユダ(十二使徒のひとり。キリストを裏切った)
4 ネロ(キリスト教徒を迫害し後世暴君と評されたローマ皇帝)
5 バレンティン・フライシュマン(1572年から1575年にかけてエットレーベン教区で司教を務めた堕落した聖職者)
6 ヒトラー(近代史のドイツの悪名高い独裁者)

悪魔払いは一度は成果をあげますが、再び、アンネリーゼにとり憑き、食事も摂らなくなり1976年7月1日他界しています。

その後彼女の両親と神父は起訴され、裁判の結果両親と神父は過失致死で懲役刑、執行猶予6ヶ月という判決を受けています。写真や録音記録が多数残っていることから、何かと話題になることがあります。この件に関しては、長年いろいろと疑問を持ってきましたが、未だによく分からない不思議な事件だと思っています。

554Sekko:2012/01/15(日) 04:18:35
悪魔憑き
映画は見ていません。

この事件のことは読んだことはあります。

私は、生きている人から発せられているにせよ死んだ人からにせよ悪意を持ったサイコエネルギーとか逆に善意のエネルギーなどが、生きている人に影響を及ぼすことがある、ということは信じられるのですが、この事件の場合は違うような印象を持ちます。特に、いわゆる「憑依」現象で、ルシファーだとかネロとかヒトラーとか、固有名詞が出てくるようなのはただの文化的表象だと思います。

このアンヌリーズさんが、幼い時は非常に熱心なカトリックであったことや、てんかん、統合失調、ジストニア(不随意運動)、ジル・トゥーレット症候群、多重人格、記憶障害など、複合した神経疾患を発症していたらしいことを考えると、「信仰や祈り」に拠ってもそれが治らないことへの絶望から「悪魔憑き」に逃避した(それを言いだしたのは彼女自身だそうなので)のは十分あり得ると思います。

そこで悪魔祓いをしたのは「火に油を注ぐ」ようなものでかえってそこにのめり込むことになった気がします。

私が親だったら、「悪魔を祓う」という方向より、むしろ、彼女が崇敬していたらしい聖母の巡礼地に連れて行くなど、「恩寵」をもらえるという期待の方に誘導していったでしょう。何らかの演出というか、お話しの道筋をつけることは、薬の服用と並行して有効かもしれませんから。

プラセーボとしても、「悪魔祓い」によって悪魔のパフォーマンスを全開させるのはよくなかったと思います。若いのだからとりあえず点滴などで栄養確保して、ひたすら休ませる方がよかったとは思いますが、重症だったのでしょうから症状が軽減したかどうかは分かりません。この事件のように餓死とか脱水で死なせるのは避けたいところです。でも、実際に子供がこういう事態に陥ったら、両親はそれこそ「祈る」しかないような気もします。

宗教的な教養のある精神医によるサイコテラピーがある程度苦しみを軽減したかもしれません。彼女の苦悩の原因を悪魔以外のものにうまく「転嫁」することは可能だったんじゃないかと思います。

余談ですが、この人の悪魔祓いの音源をフランス系のウェブで聞いたら、何分何秒目のところでフランス語で「私は死にたい」と言っている、というコメントがついていて、そこを聞いてみると、本当に、だみ声でそう言っているように聞こえるんです。日本人だって、日本語で「・・・言っている」というコメントをつけられるかも。あるいはもうついていたりして・・・。「言われてみればそう聞こえる」ということで、「超常現象」をエスカレートさせるのもなんだかなあ、と思います。

http://setukotakeshita.com/

555:2012/01/15(日) 11:38:07
潜在意識の奥深さ
素晴らしい回答をありがとうございました。この事件については、You tubeの映像なども多く、遺族や当時の関係者の証言なども見ることができます。40年ほど前の事件ですが、歴史に残る事件ではあると思います。私が長年疑問に思い考えていたところと、ほぼ同じ見解の回答を拝見して、ほっとしました。ここまで極端な事例ではなくても、似たようなことは、身の回りに意外にたくさんあるのではないだろうか思います。人間の潜在意識の問題は、本当に奥深いものだということを実感いたします。

556:2012/02/06(月) 11:20:53
旧約時代
アブラハムの時代は多神教だったのでしょうか?

557sekko:2012/02/06(月) 21:18:04
和多田 敦子さま
ユダヤ民族が多神教だったというより、彼らを取り巻く世界全体が多神教だったと思います。その中で、「アブラハムの神」「イサクの神」のような部族神への信仰が生まれて、その後、出エジプトの試練の中で一神教的な優越神が生まれ、それでも、すこし落ち着くと周りの他の神に目移りする人は多く、バビロン捕囚などの新たな苦難を経て、ようやく、一神教の形ができたというのが今の歴史学の通説ですね。Jean Bottéro の『神の誕生』という本に詳しく解説されていました。今検索したら日本語版も出ていました。『神の誕生―メソポタミア歴史家がみる旧約聖書 』(ヨルダン社)

http://setukotakeshita.com/

558:2012/02/18(土) 10:27:56
聖アウグスティヌスのテキスト
竹下様
初めてお尋ねします.面識も得ずに失礼します.

私は「ヨーロッパの死者の書」を拝読し,3回読み直しました.
著書に出会ったのは,図書館で,バルタザールの「過越の神秘」の直ぐ側にあったからです.
もう10年ほど前になりますが,母の葬儀の際,私は「別れは小さな死」というフレーズを言いましたら,司式司祭が「死は小さな別れ」と言い直してくれました.
このニュアンスが心にとどまっていて,いつか解きほぐしたいと思っていました.
文中に深く思考された方の心を感じて,沢山慰められました.本当にありがとうございます.

それで,私なりに調べてみましたが,素養がないため,探せず,ご示唆をお願いしたいことがございます.

ソレンヌへの葬送の辞として兄が選んだ12頁掲載の聖アウグスティヌスのテキストは,どの著書の何巻かをご存じないでしょうか?

どうか,ご返事を下さいますように,お願いいたします.

559sekko:2012/02/19(日) 07:50:45
mimemegeneさまへ
あのテキストは、フランスでは「アウグスティヌスの祈り」として今でも、教会での葬儀ミサで読まれることがかなり多いものです。最近では女優のアニー・ジラルドの葬儀で読まれたはずです。
いろいろなところに引用もされています。

ソレンヌの葬儀の時にもそのタイトルで読まれ採録されていたので、私は現代フランスの標準的死生観の一端としてあの本にその部分をフランス語から訳して収録したわけです。

すると、このテキストに感動したという声があり、同じものがその後、雑誌に一度、単行本『大人のためのスピリチュアル超入門』(中央公論新社)にも採録されました。

そんなわけで、非常に気になっていたのですが、実は、フランスでそう言われているだけで、元はイギリスの国教会司祭Henry Scott Holland(1847-1918)の説教(1910にエドワード7世の遺体がウェストミンスターに安置公開されていた間の5月15日、セイント・ポール大聖堂で話したもの)の一部なのです。

そして、これは真偽は定かではないですが、それをフランス語に訳したのがシャルル・ペギーだそうで、その訳文があまりにも感動的なのでペギーの祈りとも呼ばれているのです。(ペギー研究者は1996年にこれを否定しています。)

また、今でも、Holland師がアウグスティヌスのテキストにインスパイアされてこれを語ったという話もあるので、もともとがどこにあったのかは私には分かりません。説教全文の中でアウグスティヌスに触れたのかどうか、全文を読んでいないので確かめていません。イギリスでもこの部分だけが語り継がれているように思います。

私もとても気に入ったので、本の中では、若くして命を絶ったソレンヌや遺族に思い入れを入れて日本語訳しました。その思いが通じたのか、それが今でも、mimemegeneさんの慰めとなったことは望外です。

とにかく、英語の原文だったと思われるテキストは今はネットでも読めます。英語では、以下の通りです。フランス語にはかなりヴァリエーションもあります。

? Death is nothing at all, I have only slipped away into the next room.

I am I, and you are you.

Whatever we were to each other, that we still are.

Call me by my old familiar name, speak to me in the easy way which you always used, put no difference in your tone, wear no forced air of solemnity or sorrow.

Laugh as we always laughed at the little jokes we shared together.

Let my name ever be the household word that it always was.

Let it be spoken without effect, without the trace of a shadow on it.

Life means all that it ever meant.

It is the same as it ever was.

There is unbroken continuity.

Why should I be out of mind because I am out of sight?

I am waiting for you, for an interval, somewhere very near, just around the corner.

All is well. ?


フランス語や英語では、「私」や「あなた」という人称代名詞にいろいろな思いを込められますが、日本語では、故人や遺族に合わさないとしっくりこないこともありますね。

その『ヨーロッパの死者の書』を書いてから現在までの間に私は両親を次々と亡くしましたが、両親が別の形ですぐそばにいてくれることは実感しました。生前、日本とフランスにわかれていた頃よりもずっと近くの感じです。

私には死者が勝手に千の風になって吹き渡るとは思えませんが、互いに思いを残した者同士が想起し合うとき、生きていた時のさまざまな障害(距離とか病気とか老いとか・・)を越えてより親密な深い場所で何かが起こるような気がします。両親との「別れ」はその意味で「新しい出会い」でもありました。その「出会い」からずいぶん力をもらえたようにも思います。mimemegeneさんもそんな思いがおありになったのではないでしょうか。

そんなわけで、ちゃんとお答えできなくて申し訳ありません。それでも、このテキストの価値には変わらないと思います。

ご質問していただいたおかげで、ようやくこの件についてくわしく書くことができました。ありがとうございます。

(ここまで書いた後で、思い立って日本語で検索したら、ホランドの詩として『さよならのあとで』というタイトルで今年の1月27日に夏葉社から絵本が発売されているようです。知りませんでした。ごめんなさい。)

http://setukotakeshita.com/

560:2012/02/19(日) 22:36:44
心からの感謝を!
ご返事に心から感謝します.
こんなにも長文の概要を教えて下さったご親切に,とても感激しております.
『両親との「別れ」はその意味で「新しい出会い」でもありました。その「出会い」からずいぶん力をもらえたようにも思います。mimemegeneさんもそんな思いがおありになったのではないでしょうか。』と,私のことを思いやって下さり,本当に安らぎます.
私にも帰天した両親との「新しい出会い」が沢山あります.
そして両親だけでなく,他にも幾人かの出会いが続いています.
この他にも私の体験では,死後10年以上経っているのに生身のままのご遺体に聖なる業を見たことや,霊操の体験で多くの恵みをいただきました.
向きあうようにイエスが現れたという人も沢山知っています.
竹下様がおっしゃるように,出会いが恵みだと実感しています.
今日は,聖三木図書館に行って,竹下様の著書を沢山読みました.所蔵数が多くて,一日では読みきれませんでした.

もうお読みかもしれませんが,
夏葉社刊「さよならのあとで」は,その夏葉日記という創業者のブログの2012.01.16(mon)に,
「1月27日に一編の詩とイラストの本を刊行いたします。
3年前、僕は、一番の親友であった従兄を、事故で亡くしました。
以来、創業時から、祈るような気持ちで、この本をつくってきました。
みながみな、いいという詩ではありません。
けれど、僕が、この詩に慰められたように、この詩が、かなしんでいる人の心を、ほんの少しでも、支えてくれたら、と願っています。
なお、この詩の訳者は匿名ですが、その方もまた、大切な家族を失っています。
下記に、全詩を、引用いたします。。。。。」
と書かれています.創業は09年.
1995年の竹下様の訳出文が,上記の方々にとって,「新たな出会い」になっているように思えてなりません.
("Death Is Nothing at All "(ISBN-13: 978-0285628243, Souvenir Pr Ltd UK)が1994年に出版されていて,日本のアマゾンでも買えるようになっていますね.)

私が祈りたいのは,竹下様の訳出文が,日本の司牧者にとって「新たな出会い」になってほしいことです.
竹下様の訳出文のまま複数サイトで掲載されていますし,著書もあるのに,残念です.
カトリックは特に「自死」を通年で取り上げていますが,多くの方がご存知だと嬉しいです.

561sekko:2012/02/20(月) 04:14:15
ハイブリッド
ありがとうございます。

夏葉日記のことは知りませんでしたが、今読んでみたら、最後の

「あなたは私の心をまた見つけるでしょうその中で純化したやさしさといっしょに。
涙をふいて。もし私を愛しているなら、泣かないで」、という文はありませんね。

それでまたフランス語のウェブをあれこれ検索しましたら、ドミニコ会やらベネディクト会の紹介している「アウグスティヌスの祈り」がありまして、中身は違うのですが、「涙をふいて、もし私を愛しているなら、泣かないで」、で終わっています。
「あなたは私の心を・・・」の部分も入っています。出典はありません。死者を悼む祈りのアンソロジーには必ず入っているようです。

でも、アウグスティヌスの『「泣かないで」の祈り』で検索すると、私の訳した文も出てきて、これを葬儀ミサで読んだ、慰められた、という人の手記が少なからずあります。

経緯はわからないのですが、1990年代からこのテキストが多用されるようになったそうで、ホランド師の説教の一部とアウグスティヌスの祈りの最後の部分が合体したようです。「泣かないで」というのを最初に持ってきたものもあります。前回書きましたように、ペギー訳ということに関しては学者から反論が出ていますが、アウグスティヌスのものと合体しているという指摘をしている人は、ネット上ではまだ見つかりません。

文学や神学の研究の過ちではなく、実際の葬儀ミサで読まれて広がったということで看過されているのでしょう。
フランスだけでこういう現象が起きているのかどうかわかりませんが、アウグスティヌスの部分が入ったことで、より胸に響くようになったと思います。国王の死の説教から、愛する人の死の方により親密にシフトしたような。

祈りというものはこうして語り継がれていくのだなあと思います。

私はソレンヌの葬儀で読まれたもののヴァージョンを訳したので文脈上出典は気にしませんでした。それを読んだお兄さんの感じていただろうように訳しただけです。

このような祈りに著作権やら商業的意味があるわけではありませんから、こうして「出会い」のきっかけになったことを感謝するばかりです。

PS??参考にアウグスティヌスの方のフランス語をコピーしておきます。
ここでは、亡くなった方が天に行って、そこがどんなに美しくて幸せか、とあり、見つける「心」は神の心だと解釈できます。

Si tu savais le don de Dieu et ce qu’est le ciel,

Si tu pouvais d’ici entendre le chant des anges et me voir au milieu d’eux,

Si tu pouvais voir se dérouler sous tes yeux les horizons et les champs éternels, les nouveaux sentiers où je marche,

Si un instant tu pouvais contempler comme moi la Beauté devant laquelle toutes les beautés pâlissent …

Quoi ? Tu m’as vu, tu m’as aimé dans le pays des ombres, et tu ne pourrais ni me voir, ni m’aimer encore dans le pays des immuables réalités ?

Crois-moi, quand la mort viendra briser tes liens comme elle a brisé ceux qui m’enchaînaient, et quand un jour que Dieu connaît, et qu’Il a fixé, ton âme viendra dans le ciel où l’a précédée la mienne, ce jour-là tu reverras Celui qui t’aimait et qui t’aime encore, tu retrouveras Son cœur, tu en retrouveras les tendresses épurées…

A Dieu ne plaise qu’entrant dans une vie plus heureuse, infidèle aux souvenirs et aux vraies joies de mon autre vie, je sois devenu moins aimant !

Tu me reverras donc, transfiguré dans l’extase et le bonheur, non plus attendant la mort, mais avançant d’instant en instant avec toi, qui me tiendras la main, dans les sentiers nouveaux de la Lumière et de la Vie, buvant avec ivresse aux pieds de Dieu un breuvage dont on ne se lasse jamais et que tu viendras boire avec moi …

Essuie tes larmes et ne pleure pas si tu m’aimes !…

562:2012/02/20(月) 13:09:04
日常に深く根付くように
仏文を下さって,ありがとうございます.
その後少しネットを見ましたら,作者Saint Augustineとして
St.Augustineへの母St.Monicaの言葉
上記とHolland師の合体
の2バージョンがありました.
いずれもアメリカに住むカトリック信者のサイトで見ました.母St,Monicaの出典は調べていません.
『ホランド師の説教の一部とアウグスティヌスの祈りの最後の部分が合体したようです。』という竹下様のご指摘のとおりですし,『祈りというものはこうして語り継がれていく』という推測の通りでした.
ありがとうございます.

味わったり,祈ったりして,深く感じられるようにしてみようと思います.
各国で,この祈りが,葬儀とその後の日常に深く根付くようにと願ってやみません.


---------------------
St.Augustineへの母St.Monicaの言葉

Words of Saint Monica’s Soul to Saint Augustine

If you love me, do not weep.??If you only knew the gift of God and what Heaven is!??If only you could hear the angels’ song from where you are, and see me among them!??If you could only see before your eyes the eternal fields with their horizons, and the new paths in which I walk!??If only you could contemplate for one moment the Beauty that I see, Beauty before which all others fail and fade!

Why do you who saw me and loved me in the land of shadows, why do you think you will not see me and love me again in the land of unchanging realities?

Believe me, when death breaks your chains as it has broken mine, when, on the day chosen by God, your soul reaches Heaven where I have preceded you, then you will see her who loved and still loves you.??You will find her heart the same, her tenderness even purer than before.

God forbid that on entering a happier life, I should become less loving, unfaithful to the memories and real joys of my other life.??You will see me again transfigured in ecstasy and happiness, no longer waiting for death, but ever hand with you, walking in the new paths of light and life, slaking my thirst to the full at the feet of God from a fount of which one never tires, and which you will come to share with me.

Wipe away your tears, and if you love me truly, weep no more.

Saint Augustine
-------------------------------
上記St.AugustineとHollandの合体

If You Love Me, Do Not Cry

If You Love Me, Do Not Cry
Don’t cry if you love me
If you know God’s grace
And what Heaven is like,
If you were able to listen
To the angel songs
And you see me among them,
If you were able to think for awhile
About the beauty
That no other beauty can match,
Wipe your tears and do not cry,
If you love me.
Death is nothing.
It is just having moved to the other side.
I am still what I am and you are still what you are.
What we used to be for each other is still the same.
Call me by the name you used to.
And talk to me as you have done before.
Do not use a different tone.
Do not be rigid or sad.
Continue to laugh about what used to make us laugh.
Pray for me.
Smile.
Think of me and pray with me.
Let my name be mentioned at home as before.
Without any exaggeration or distress.
Life continues to mean what it always did.
And it is still the same
The thread did not break.
Do you feel I have become outside of your thoughts
Because I am far from your sight?
No.
I am not far from you.
I am just on the other side of the road,
And everything is fine.
You will find my heart and my love pure.
Wipe your tears and do not cry.
If you love me.
St. Augustine

563迷える大羊:2012/03/19(月) 22:44:44
キリスト教のメディア戦略
 以前、雑談スレで話題にした、日本のヴァーチャルアイドル「初音ミク」ですが、ネット上を見る限り、その人気はリアルのアイドルを押しのけて世界的になっていて、海外では日本のポップスターといえば「初音ミク」と思われているようで、英国の通信社ロイターが今月3月8日、9日に東京で行われた、彼女(それ?)のライブのニュースを世界中の報道機関に配信したみたいです。

http://www.reuters.com/article/2012/03/09/us-japan-digital-diva-idUSBRE8280DO20120309

 こんなエピソードもありました(毎日新聞WEB版より)

http://mainichi.jp/select/opinion/jidainokaze/news/20120129ddm002070124000c.html

http://www.youtube.com/watch?v=HWcw8S9_0ts&feature=related

 いろいろ興味深いことが多いのですが、なぜ、哲学・宗教スレで話題にするのか?というと、この初音ミクがメジャーになっていく過程が、イエスとかキリスト教のそれとそっくりなのではないのか?という気がしてしょうがないからです。以前は冗談半分でしたが、詳細を知るにつけ、もう冗談ではないような気がするもので。具体的には・・。

・イエスと「初音ミク」の「キャラクター」設定

 初音ミクに発売元のクリプトン社がつけたキャラ設定は16歳 身長158cmだけ。しかし、その透明さが却ってネットユーザーの想像力は刺激され、動画サイトには思い思いの初音ミク像を反映した自作曲・PVが次々とアップされブーム化。

 イエスも、福音書でもヨセフとマリアとの間に生まれ、家業の大工を営んでいたらしい、ということくらいしかわからず、救い主としてではない、リアルな人間としての「キャラクター設定」はほとんどないような。単に不明なのか?でも、イエスの弟子たちが何も知らなかったとは思えないし、取材だってしようと思えばいくらでもできたわけで、あえて「真っ白」にしているのではないか?と思えるのですが、どうでしょう?パオロもリアル・イエスについては全く追及していませんし。

 初音ミクの場合、オリジナルは存在せず、ファン同士が動画サイトでさまざまな「初音ミク」を共有できたのがブームの理由ですが、初期のキリスト教会もこういう効果を狙ったんではないか?と思えてくるのですが・・。

 ・聖書と「初音ミク」の楽曲・イラスト等の作品

 初音ミクの楽曲等の作品は特定のアーチスト、制作グループが作っているわけではなく、インターネット上のユーザーがプロ・アマ入り乱れてよってたかって投稿(主にニコニコ動画)したもので、そのうち、ネット上で人気のあるもの、高評価であったものがCDになったり、ライブ演奏されたりしているわけですが。
 その辺りの様子はグーグル日本版のCMに要領よく表現されてます。

http://www.youtube.com/watch?v=MGt25mv4-2Q&feature=related

 そういえば、聖書も特定の作家によって書かれたわけではなく、信者(アマ?)、聖職者(プロ?)入り乱れて作り上げた、さまざまな伝承、信仰告白、信仰証言のうち、クリスチャン社会(ネット?)で人気の高いエピソード、信憑性の高いエピソード(曲?)が取捨選択されて、文書となった(CD化?)もので、トップダウンではなくボトムアップで作られた・・という点では共通しているような気が。初音ミクはネット、動画サイト、聖書は印刷機、とその時代の「先端メディア」にうまく乗っかって爆発的に「ヒット」したのも同じ?

 ・二次創作による豊かさの獲得

 「初音ミク」制作のクリプトン社は著作権を厳密に解釈せず、商業目的ではない、過激な暴力・エロがない限り、二次、三次創作を認める、というよりむしろ積極的に推奨する姿勢をとったおかげで、レベルの高い創作環境が整備され、作品世界が非常に豊かになったわけですが、キリスト教、聖書も、それを元にした二次創作ともいうべき、宗教画、彫刻その他の芸術作品が非常に多く生み出され、ヨーロッパの文化レベル向上に貢献、といった面があるのと似てるのかな?と思ったりします。少々大げさですが・・。
 ミケランジェロやダ・ビンチは「オタク」?現代人に生まれていたら、作品をニコニコ動画に投稿したり、2ちゃんねるあたりに「マリア様、マジ女神」なんて落書きをしていた、かもと思うとなんだかおかしいです・・。

 ・「プラットフォーム」としてのイエスと初音ミク

 カナダのフランス語新聞は初音ミクを「人物というより、インターネットユーザの協力、コミュニティの出現、そしてアイデアの流通を許すプラットフォームなのだ。」と評していますが、キリスト教におけるイエスというのも神様へのアクセス、コミュニティの出現、協力を許すプラットフォームみたいな存在、なんでしょうか。

http://www.cyberpresse.ca/arts/musique/201111/25/01-4471639-hatsune-miku-paternite-multiple.php

http://lunaticprophet.org/archives/6013


 クリスチャンが信じているのは、なんというか、プラットフォームとか信仰の集合体としてのイエスであって現実の人間を崇め奉っているわけではない、というのが「人であり神であり」という話なのかも、と思ったりします。
 「復活」も死人が蘇る、ではなく、リアル人間としてのイエスは死んでしまっても、プラットフォームとしてのイエスは永遠に存在する、みたいな話だったのかも。古代世界に、ネットとかバーチャルとかリアルなんて技術も概念もなく、ボキャブラリーも貧困であったために、うまく表現ができず、いろいろな「誤解」を招くことになった・・と思えるのですがどうなんでしょう。

 こうして書き連ねてみると(もし意図的にやっているとすれば)、キリスト教ってすごい宗教だな、2千年以上先のネット社会を先取りしてるじゃないか?と思ったりします。それとも、単にメディア戦略の基本は時代が変わっても変わらない、というだけのことでしょうか?
 また、こういう解釈ってクリスチャン一般の感覚に近いものなんでしょうか?(特にイエスの位置づけとか「復活」とか「人であり神であり」の部分)

 初音ミクの「ライブ」の様子

http://www.youtube.com/watch?v=aY44nr0ZUZ8&NR=1

564sekko:2012/03/20(火) 08:58:03
キリスト教と初音ミク
うーん、なかなか面白いお話ですね。

でも、私は、この初音ミクのライブの動画を見てカルトの大会みたいな印象を受けます。観客というかファンは、脳内の仮想空間だけを互いに共有しているので、ステージの初音ミクからの情報って、予測できるものばかりですよね。

これが生身の歌手なら、その場は華やかでも、覚醒剤中毒とか、暴力沙汰とか結婚とか妊娠とか離婚とか病気、老い、怪我、事故、酔っ払い運転、激やせ、激太り、いろんなことが起き得るわけだし、過去も背負っていたり、家族や子供を背負ってたり、いろいろあって、いつファンを裏切るかもしれないわけです。そういう危うさも含めて、情報処理負荷がずっと大きい。

これに対して、初音ミクはオーバースペックであっても、中につめられる情報は、受け手の脳の情動システムを本当に駆り立てるようなものではない、と思うんです。逆に、快感を得るために要求される脳内資源というのは小さいと思われます。だから安易にはまってしまう。もちろん、ゲームデザインによる規制には縛られるわけですが、この世で一番ストレスフルな「予測できない他者」とは対峙しない。

でも、生きた他者と対峙しないところには創造的知性は生まれないし、創造的知性のないところに真の救済もないと思うんです。

キリスト教はむしろ、ひとつのテンプレートとして西洋世界に今も使いまわされているので、それを共有しない文化では、仮想空間としてもなかなか認知されにくい気もします。

キリスト教が普遍宗教としてその福音宣教にかけてきた情熱は分かりますが、そして今の福音派のように巧妙なマーケッティングをしているところもありますが、特にヴァーチャルだとは思えません。ヒーローや教祖や神の記号性というのはキリスト教だけではなくてどの宗教や支配者神話にも当てはまると思います。

むしろ、ナザレのイエスは、出自などはなるほど曖昧ですが、受難のシーンというのはかなり真に迫ってリアルに書かれていて、痛みとか傷とかの身体性があり、弟子からの裏切られ方、見捨てられ方、民衆からの嘲罵、どれをとっても、普通の予測を超えたシーンの連続なので、それを消化するだけでも、信者は大変なんじゃないでしょうか。

でもどんなにつるりとしたヴァーチャルな教義に閉じ込めようとしてもそこから必ずしみ出てくる血と水みたいなのがあるところが醍醐味だったりして・・・

http://setukotakeshita.com/

565迷える大羊:2012/03/22(木) 13:24:41
お忙しいところ失礼しました
 まあ、もちろん、初音ミクみたいなボーカロイドがリアルのアイドルにとって代わる、なんてことはなさそうで、一種のニッチ産業でしょうね。たとえ、SFに出てくるようなアンドロイドが実現したとしても・・。初音ミクにしても、冗談が本当に、ひょうたんからコマ、みたいな展開で販売会社自体がビックリしてたりしますし・・。

 私自身はそのSFチックな展開を面白がっている、という立場ですね。あと、従来の作り手→受け手、大手プロダクション、大手テレビ局、電通などの大手広告代理店、マスコミ経由というアイドル製造のパターンを全く破った形で出てきた、という点に痛快さを感じたのもありますね。
 で、そんな「アイドル」が生身のアーチストだって困難な海外ライブ、ロサンゼルス・ノキアシアターライブをあっさり成功させたっていうのも、これまたSFというかギャグ以外なにものでもないてな感じで。(アメリカにも、世界にも「ニコ厨」「2ちゃんねらー」みたいな人々が大勢いるんだなぁって思いました)。
 2009年に「アルバム」がオリコンチャート一位を獲得した際に古い音楽ファンやテレビ局からの「生身のアーチストより仮想歌手の方が人気なんて、世も末」との反発もこれまた予想通り・・てな感じです。

 あと、初音ミクの場合、ヤマハの音声合成技術「ボーカロイド」、SEGAの3DCG、ホログラム技術、アニメ・マンガ、同人文化、ニコニコ動画、2ちゃんねるなど日本独自のネット文化、山口百恵、ピンクレディー、キャンディーズから松田聖子、小泉今日子などを経てAKB48に至る、これまた日本独自の「女の子アイドル」カルチャーなどなど、善し悪し、好き嫌いは別にして、ある意味、日本の技術と文化(サブカル)が集大成されている、といったところも興味深かったです。

 まあ、もちろん、所詮は娯楽ですし、キリスト教とは「内容」が違いすぎるので比較は何なんですが、純粋にイエスのイメージや聖書が流通、拡散していく過程は良く似たところがあるよなぁ、と思った次第です。

 でも、乱暴なのは承知しておりますが、キリスト教には「聖と俗」、「信仰としての真実」と「客観的な事実」を使い分ける姿勢っていうか、伝統みたいなものがあるように思えますが。いえ、遠藤周作氏からパクッた理屈ですけど。でなければ、復活とか奇跡とか、一般常識的にはかなり「ヘン」なことを信じている人々が浮世離れしないで生活していられないでしょうし。
 その辺の感覚が壊れちゃった人がいわゆる「原理主義者」「過激派」になるんだろうなぁって思いますし。ちなみにネットでは初音ミク、ボーカロイドに入れ込み過ぎ、な人を「ミク廃」と呼んでます(笑)。
 

566迷える大羊:2012/04/21(土) 00:06:08
キリスト教の「被害者意識」
 先日、身内の付き合いで教会に行ったのですが、説教の際、日本においてキリスト教が1945年の敗戦・終戦に至るまで、いかに迫害され、偏見にさらされてきたか・・なんて話をされました。別に、件の教会に限らず、この種の話は日本の教会ではよく聞きます。
 でも、個人的にこの種の話を聞くと、なんだかイラっとしてくるのです。なんか、私たちはいつも正しいのに、苛められてばっかり・・なんて被害者妄想全開の愚痴かつ独善的な感じがしてきて。

 いえ、別に日本においてキリスト教に対する偏見とか、障害がなかった、とはもちろん思っていないし、戦前、特に日中戦争勃発後の戦時色の強まった時期においては国家神道との兼ね合い、信仰と戦争協力との矛盾に悩んだりとかあって大変でしたでしょう、確かに。
 さらに1941年にプロテスタント諸派は強引に統合されて「日本キリスト教団」になりましたし。かの遠藤周作氏も「天皇とキリスト、どっちが大事かいうてみい」なんて嫌がらせをよく言われたそうですし。
 あと、江戸時代はもちろん、間違いなく迫害の時代、クリスチャンには暗黒の時代だったでしょうね。

 だけれども、明治時代から終戦に至るまで、絶え間ない迫害と偏見に・・なんて言われると「??」です。そんなこと言うのなら、日本にあるキリスト教会は、戦前はすべて、ローマ時代のカタコンペみたいな地下教会だったのか?

 手元に遠藤周作氏の「私にとって神とは」という本があるのですが、それによると遠藤氏が離婚して入信した母親に連れられてカトリック教会に行き、洗礼を受けたのが10歳か11歳ころの話。遠藤氏は1923年生まれですから、それは1933、34年、元号でいうと昭和8年か9年ごろの話となります。バリバリの戦前期ですが、別に官憲の目を気にして、隠れ家のようなところに行き・・などという描写は出てきません。どう考えても、読んでも白昼堂々と教会に通っていたとしか思えないのですが。

 あと、戦前期の大事件の一つに昭和7年(1932)、白木屋デパートの火災事件があるのですが、その原因は「クリスマスセール」に使用するクリスマスツリーの電球のスパークによるもの・・って「クリスマスセール」??。いくら、信仰とは無関係の商売・イベントとはいえ、常に「偏見と迫害」にさらされている宗教の行事を「祝ったり」するなんてことがあり得るのか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9C%A8%E5%B1%8B_(%E3%83%87%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88)#.E7.99.BD.E6.9C.A8.E5.B1.8B.E7.81.AB.E4.BA.8B

 さらに突っ込むと日本にミッションスクールはすべて、戦後の創立なのか?と思って調べますと、全然、そんなことはない。日本を代表するミッションスクール・上智大学の沿革をみると、1913年(大正2年)の創設、学長にはヘルマン・ホフマン氏という外国人、それも、どうみても教会関係者としか思えない方が学長に堂々と就任しているんですが・・。

http://www.sophia.ac.jp/jpn/aboutsophia/sophia_spirit/HISTORY-CHART/ayumi1

 あと、明治期から昭和初期のクリスチャンには当時のインテリ階級の武家出身者が多く(内村鑑三、新島襄、津田梅子・・etc)、勝海舟とか渋沢栄一など当時、一級の人物と交友のあった人間も多い。忘れてはならないのがクウェーカーの新渡戸稲造氏で国際連盟事務次長までやっているんですが・・。「偏見と迫害」にさらされて、苛められてばかりの宗教でこんなことあるんでしょうか?

 公平にみて、明治以降、確かに戦時中の一時期、肩身の狭い、つらい思いをしたこともあったかもしれませんが、全体的にみれば、インテリっぽいイメージ、あと欧米先進国のバックがあることもあってイメージはすこぶる良かった、むしろ、迫害・偏見ってことなら金光教とか大本教とか、仏教・神道系の新興宗教あたりへの方がよっぽどひどかったように思えるんですよね・・。
 戦国末期から江戸時代の迫害にしたって、当時のキリスト教はヨーロッパ諸国の植民地獲得の斥候、みたいな側面があったし、じゃあ、同時代のキリスト教国であったヨーロッパって思想・信仰の自由が花開くパラダイスだったの?とのツッコミをどうしても入れたくなりますし。他にもいろいろあるのですが、キリがないのでこの辺りで。

 なんていうか、そこらへんの「事実関係」とか、わりと「恵まれた」環境を「無視」して一方的に迫害、迫害みたいに言われると「いい加減にしてよ」って気分になるのです。
 あと、詳しくは知らないのですが、日本のカトリック教会は戦国末期だか江戸時代初期だかに迫害された人々を聖人候補に申請して認められた(のかな?)ようですが、彼らを否定したり、貶めたりするつもりは全然ないけれども、なんていったらいいのか、もっと前向きな人選はできなかったものなのか?と思ってしまいます。

 質問としては、私みたいに考えるクリスチャンとか教会関係者っているのかな?ってことと、私のようなメンタリティっていうか、ものの見方をする人間はクリスチャンとかカトリック教徒として受け入れられるのかな?ってことですが、どうなんでしょう?

567sekko:2012/05/09(水) 22:19:18
日本のキリスト教
被害者意識は、連帯に向けたマイノリティ・グループのとるサバイバル戦略の一種ですから、そこから自由になるのは難しいですね。

でも、逆に、マジョリティ・グループが、加害者意識と贖罪ばかり考えている自虐的なケースだってこの世には多いわけで、私たちはいつも、そのどちらかに安易に落としこむ誘惑を避けてバランスをとる必要があります。

キリスト教的メンタリティというのは、結局は、信仰に照らされて、人間の生命を絶対に尊重したり、常に、「より弱いほう」に寄り添ったりということだと思うので、過去の迫害のされ方の歴史の見つもりの実態なんて関係ないと私は思います。

迫害した側がそれを正しく認識するのは大切で必要だとは思いますが。

http://setukotakeshita.com/

568迷える大羊:2012/05/16(水) 13:34:57
信仰と現実
>過去の迫害のされ方の歴史の見つもりの実態なんて関係ないと

 これなんですが、もしかすると、「事実関係調べたら、日本でキリスト教は当のキリスト教会が主張するほどにはいじめられてないじゃん、だから、問題なし」という風に思われた?だとすると困ったなぁと思ったりします。

 うまく説明できず困ってますが、これは自分の性格とか経歴の問題かもしれませんが、私、初めにストーリーありきで、情緒優先な話の仕方が体質的に受付ないのです。
 弱者保護とか寄り添うことは、もちろん、とても大切だと思ってます。ただ、本当の「弱者」がそういう、情緒優先、初めにストーリーありきの発想ではわからなくなってしまうのではないの?世の中、そんなに単純なの?という疑問がわいたからです。

 あと、日本のキリスト教、特に戦前期についていえば、確かに個人単位で偏見を持つ人間もいたでしょうが、理解者だって多かったはずです。例えば、聖公会系の知的障害者の福祉施設「滝乃川学園」の理事長は、あの渋沢栄一が勤めていますし、勝海舟の支援も受けてます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E4%B9%83%E5%B7%9D%E5%AD%A6%E5%9C%92

 そんな面を全く無視して、あるいは知らずに、情緒とストーリー優先で1945年まで迫害と偏見に晒され、未だにクリスチャンは増えず・・みたいな話をされると、「そんなメンタリティだから、キリスト教は日本で普及しないんじゃないの?」っていいたくなります。第一、キリスト教への理解者、シンパだった日本人に対し失礼以外何ものでもないし、「感謝」という念を知らんのか?と思ってしまいますし。

 あと、こちらで書くのはどうなのかな?と思う話なんですが、日本カトリック司教団が「原発の即時廃止を」という主張をしています。個人単位でこういう主張をすることは一向に構わないですし、私だって原発は安全、未来のエネルギーなんて夢にも思ってないですし、不信感はいっぱいあります。

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/111108.htm

 しかし、キリスト教会の名義で、信仰の名において、そういうことを主張するのは、それは一体どうなのよ?と思ってしまいます。単に清貧の生活をすればいい、なんて個人単位でどうこうなる話じゃないでしょってことで。
 合法的に営業していた企業が、電力不足で突然自社の生産設備の半分を「廃棄しろ!!」などと言われたら、どうするのか?
 最悪、生産縮小、他地域への移転などなどで、地元の雇用が無くなり・・なんてこともあり得るわけで、そうなったら「弱者」に寄り添うとか、救済どころじゃなくなるぞ、ってことですし。
 第一、原発の立地自治体は原発の運用で財政収入とか雇用を得ているところが多いんだし、そういったところの住民、自治体をどうこうする策でもあるのか?実際、関西電力大飯原発の地元、大飯町は原発再稼働を求めてますし。

http://www.asahi.com/national/update/0514/OSK201205140063.html

 単純に原発即時廃止=正義、再稼働、存続=悪という問題じゃないだろ、そんなところに信仰とか神を安直に絡ませてどうする?そんな、学生とかその辺のオジサン、オバサンレベルの、わかりやすい「正義」をキリスト教会で聞きたいんじゃない、むしろ、そういう、あちら立てればこちら立たず、本当の弱者救済とは?という悩みとか矛盾にキリスト教はどうこたえるのかが知りたいのに・・。と思ってしまうのです。
 それどころか、自分は「安全地帯」(物理的にという意味ではなく立場的に)にいて、何「御花畑」を語ってんの?いい子ぶってんの?と反発すら感じてしまいます。

 いささか、不愉快な話があれば、申し訳ありません。でも、どうも、ここのところ、キリスト教会で話を聞いていて、イラッとすることがしばしばあるもので。
 やはり、私はキリスト教には向いていないのかなぁ?と思ってしまう今日この頃です。

569sekko:2012/05/16(水) 22:47:28
弱者やエコロジーについて
いや、私の知っている限りでは、たとえば最近のカトリックの活動型修道会などは、弱者を生むシステムや制度そのものを問題にしたり、新しい時代の新しい形の弱者の「分別」(?)にも力を入れていて、今ここで貧しい人にお食事を提供して、という従来の形ではだめだと言っていて、情緒的どころかなかなか過激ですよ。

日本のカトリック司教団の原発即時廃止の話ですが、日本のことはよく分かりませんが、少なくとも、フランスの司教会議のいろいろな宣言だとかコメントに関しては、別にカトリック全体としての決議とか行動指針ではなく、彼らの内部での多数決の決議だと私は了解しています。必ず反対派の司教もいるわけで、それは教義だの信条だのと違って、何の拘束力もないはずです。もちろん、ヴァティカンの指針としてのエコロジー、環境保護というのは合意となっていると思うので、まあ、最近の日本の状況で宗教家たちが反原発を唱えるのは、全日本仏教会の「反原発」宣言文もあったかと思いますが、妥当なんじゃないでしょうか。

私は個人的には、反原発とか即時廃止とかいっても、即時廃止できるような問題じゃないところが問題なのだと認識しています。こうなった今はもう、テクノロジーの暴走の後始末は、祈りや善意よりも、テクノロジーをさらに駆使して何とか抑え込んでほしいと思っています。核廃棄物処理への長い戦いをどう予算化するかのほうが気になるんです。

二元論的なまたはイデオロギー的な言説はいろいろあるかと思いますが、そんなこと気になさらないで、これまでどおりの複眼で本質をキャッチするようにしてください。

http://setukotakeshita.com/

570迷える大羊:2012/05/25(金) 13:48:50
ワルとキリスト教
 現実のお話ではなく、映画中のお話ですが・・。「2001年宇宙の旅」で有名なスタンリー・キューブリック監督の作品で、「時計仕掛けのオレンジ」という作品がありまして。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E8%A8%88%E3%81%98%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B8

 気になるのは、その作中で、浮浪者イジメ、レイプ、強盗・・とワルの限りを尽くす主人公が仲間の裏切りにより逮捕され、刑務所送りとなり、看守から「貴様の教会は?」と聞かれて「英国教会」と即座に答えるところ。(動画中の3:30〜3:36の辺り)

http://www.youtube.com/watch?v=Q1UUZSXFlyc&feature=related

 フランスではなく、英国の話ですが、ああ、あちらじゃ、あんなワルも「クリスチャン」(真面目に信じてるかは別にして)なんだなぁ、所属教会がすぐに出てくるんだ・・映画ではなく、現実でもそうなのかな?と、いろいろ考えさせられました。

 何を今更・・とお思いになるかもしれませんが、日本でクリスチャン、教会員というと、ステレオタイプと半ばわかってはいても、すごく真面目で道徳的、「不道徳」などという形容詞がつく言動とは無縁、性に関してはひたすら保守的・・なんてイメージが強いので、こういう映像をみると、改めて違和感と驚きを感じてしまうのです。

 フランスではどうなのでしょう?イスラム系の移民は別にして、例えば、およそ神とか信仰などとは縁が無さそうに見える、不良やらワルやらでも、映画のように所属教会を聞かれたら、すらすらと答えられるものなんでしょうか?
 あちらでも、毎週教会にやってくるような人はやはり、「真面目」「道徳的」な人ってイメージが強いですか?

571sekko:2012/05/26(土) 17:09:38
ワルと信仰…
なんというか、社会生活に必要なモラルを内包しているまともな宗教をまともに信仰している人は「ワル」を抑制してるでしょうけど、ワルの側に安住している人にとっては宗教の諸族など関係ないのでは…。

逮捕された後という特殊なケースなので私には分かりませんが、フランスは少なくとも英米と違って、共和国の建前上、公文書に宗教の所属や人種を書きこむことはあり得ないので、犯罪者(容疑者)が収監された時にそういうことを聞かれたりサインさせられたりすることはないはずです。刑務所内で聖職者を読んでもらう権利は保証されてますが。

だから、そういうことを聞かれる機会もないわけで、また、歴史的にイデオロギー的無神論者も少なくないので、「非行少年」みたいなのが、自分の宗教を聞かれてすぐに答えられるなんて、日本の「非行少年」が実家の檀那寺の宗派を答えられるのと同じくらいの確率だと想像します。

ドイツなんかは、ついこの前までは税金の申告書に宗教を書いたり公立学校でも宗教の時間のために宗教を聞かれてましたから「答え方」も皆心得ていたんでしょうが…

毎週教会に行っている人、のイメージは、教区によって違います。

移民(中南米系とかアフリカ系)の多い教区では、連帯や支援を求めて、また、生き抜く力を求めて本当に信仰を必要としているとか、神頼みを必要としている人も多いです。情報収集の場、ボランティアとコンタクトできる場でもあります。

ブルジョワの多い教区では、やはり彼ら同士の仲間の社交的な情報交換の場、アィデンティティの確認の場、また、特権的人脈を広げる場にもなりますし、ボランティアをする場でもあります。

後は、地方の小教区などでは、教会は氏神さまみたいなものなので、町内会(というようなものはないので)と同じような感じで、ひたすら近所づきあいや生活習慣、典礼カレンダーにそって季節の移り変わりを感じるリズム、などが続いている人、というイメージでしょうね。

モラルとはあまり関係がないのでは…

逆にフランス人仏教徒で週末には仏教センターなんかに行って講習を受けたり瞑想したりしている人たちに対しては、菜食者で殺生をせず、エコロで痩せてて、まじめで堅い人というイメージがあります。

多分、宗派と関係なくマジョリティとマイノリティの関係でしょう。

http://setukotakeshita.com/

572迷える大羊:2012/05/29(火) 21:18:33
ありがとうございます
 なるほど、この辺りの感覚は欧米でも、国によってかなり感覚が異なるんですね。それにしても、フランスの政教分離は徹底してますね。恐らくは世界一徹底しているのでは?と思ったりします。

>ついこの前までは税金の申告書に宗教を書いたり公立学校でも宗教の時間のために宗教を聞かれてましたから「答え方」も皆心得ていたんでしょうが…

 映画のケースは(現実に基づいているとすれば)、このケースなのかもしれませんね。あるいは・・

>ひたすら近所づきあいや生活習慣

 で、聞かれたら機械的に答えただけ・・であまり深い意味はないんでしょう。大半の英国人やヨーロッパ人からすれば。キリスト教との距離感覚でいつも思い出すのは、かのビートルズのジョン・レノンの「キリスト発言」。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%8E%E3%83%B3#.E3.82.AD.E3.83.AA.E3.82.B9.E3.83.88.E7.99.BA.E8.A8.80

 英国では全く問題にならず、というかほとんど無視されましたが、米国に伝わるやいなや大騒ぎ。ビートルズ排斥運動やらメンバーの脅迫やら、大変な事態になったみたいで。
 いわゆる「信心深い」人は英国よりアメリカの方が遥かに多いんだ、キリスト教に対する距離感が英国と米国では全然違うんだ、実はこれこそが、英国と米国を区別する最大のポイントなんだ、ということがよく解るエピソードでした。

573ルチア:2012/06/12(火) 09:37:52
洗礼
初めて質問させて頂きます。竹下様と同年齢の主婦です。初めに、いつもホームページにて「無料」で勉強させて頂いていますこと感謝しております。
竹下様が4月にイグナチオ教会でお話しされた時に、参加させて頂きご本も購入し、大変面白く読みました。(他の著作も愛読させて頂いております)
私は竹下様が信者様なのかどうか、以前から疑問に思っておりましたが、4月の講演で「信者様」だと確信しましたのに、先日の日経新聞でそうではない事を知り考えてしまっています。

私事で申し訳ありませんが、現在、イグナチオで「死生学」で有名な神父様のクラスに3年程通い、「洗礼」を受けるべきかとても迷っています。
神父様の「カソリックで大事なことは、自分を出て、より深く他者と出会う事なのですよ」という言葉に共感しております(神父様はクラスでは、あまり深い話はなさりませんが…)。教会に出入りするようになり、教会の門は開かれており、「洗礼」は聖体拝領を出来るかどうかの問題なのかもしれないとも感じたりしております。とはいえ、今以上に勉強をしたいと思えば受洗された方の為のクラスになってしまいますし、どうしたものかと思っています。もちろん、勉強は本を読んだりして個人でも出来るものではありますが、ボランティアに参加しても自分のみ非受洗者で居心地が悪い(周りは本人ほど気にしてないようですが)部分もあります。
神父様のお話や竹下様の書かれたものには、とても共感しますが、ミサの会衆の応答の時に「復活」を完全に信じていない自分や、応答の言葉の所々にひっかかりを感じる自分を見てしまいます。(これが、一番迷っている所なのですが)
出来たら、竹下様が「洗礼」を受けない理由。竹下様が考える「受洗者」と「非受洗者」の違い。二点をご教示願えたらと思い、投稿させて頂きました。
(余談となりますが、3月に家族でパリに滞在したとき、近くにある「Ste.Trinite教会」に行きましたが信者さんの数の少なさに驚きました。皆さん、教会へ行かれないのでしょうか…)
拙い文を読んで頂きありがとうございます。

574sekko:2012/06/12(火) 22:21:08
ルチアさま
ごめんなさい。記事を事前に確認しなかったので、誤解されるような書き方をされていることに気づきませんでした。記事をまとめられた方は、私の著書を読んでキリスト教徒の視点というよりも、客観的で冷静な視点でキリスト教文化を分析し、語っているといつも感じていられたということで、ああいう書き方になってしまったそうです。

信者であることと冷静な視点は両立しますが、キリスト教がマイノリティの日本では、私自身も、昔、宗教学科でキリスト教を教えている人はみんな信者か聖職者、みたいなイメージでバイアスがかかっているんじゃないかという偏見も無きにしも非ずでしたから、特に表に出す必要はないと思っています。

この記事を読んだ担当の編集者は「信仰を明らかにすると何か不都合が生じて、テロリストから狙われるのかと懸念」した、などと言っていましたが、もちろんそんなこともないです。

私は日本でごく普通の家庭に育って、キリスト教とは知的な興味以外の付き合いはありませんでした。ミッションスクール文化ももちろん知りません。

ミッションスクールで中学高校を過ごし上智で洗礼を受けられたエッセイストの故・島村麻里さんは、「竹下さん、日本にはカトリックお嬢文化というものがあるんですよ」と教えてくれ、彼女は馬小屋セットでお人形遊びをしていたとか、「ルルドのひめぎみマリア様」というような「カトリックいろはカルタ」で育ったと言っていました。私は同じころ、「世界の王者ルーテーズ」といった「プロレスカルタ」で遊んでいましたから、あまりの違いに笑いあいました。

島村さんもそうですが、洗礼を受けた後で教会から離れ、少し罪悪感があったのが、私の本を読んでまたカトリックに親しみを受けた、楽しくなったという人は何人もいらっしゃるようです。「実は、私は、幼児洗礼を受けていまして…」と突然「カミングアウト」なさる仕事関係の人もいて、どう反応すべきなのか分からなかったこともあります。

フランスでは幼児洗礼を受けている人は今でもマジョリティですが、教会に毎日曜行っている人は一割をきっています。まあ、日本人がお宮参りに行ったりお葬式でお坊さんを呼んだりするように、クリスマスや復活祭にだけ教会に行ったり、葬儀ミサだけはするという人はたくさんいますが。

フランスでは逆に仏教徒と称する人は、カトリックの洗礼名簿からわざわざ消してもらって仏教の戒を授けてもらって戒名をもらう、という熱心な人がほとんどです。そんなフランス人の集まりに行くと、私なんて、日本人だから、自然に一目置かれたりしますよ。なんか「Zen」な感じがするらしく。それなりの仏教国カルチャーもありますから。

そんな国で、しかも、フランドルの田舎で、今から30年以上前に成人洗礼を受けたのですが、80歳を超えていた司祭は、そもそも成人洗礼のやり方を知らず、多分司教に問い合わせるという智恵もなかったのか、生まれて初めて授ける成人洗礼(その村にはカトリック以外は存在しません。小教区と町内会の区別がないという感じです)に興奮するばかりで、私は、いわゆるカテキズムなどもなしに、幼児洗礼と同じような感じで、洗礼を受けました。(しかも巡礼者が分けてくれたヨルダン川の水で。)

そんなわけでその日には地方の新聞社が来て大騒ぎになり、その地方新聞に写真も載りました。代父も代母も、幼児洗礼なら絶対に選んでもらえないような老人で、とっても感激してました。

でも、聞かれてこの話をすると、フランス人は面白がるだけですが、日本のカトリックの人には、真面目に勉強している他の人に悪い影響を与えるからそういうことを話すな、と注意されたことがあります。まあ、そういうこともあって、なるべく目立たないようにはしていますが、別に、隠れキリシタンをやってるわけではありません。


こちららの子供のカテキズムでは「キリスト教的生活とは他の人の生活をより快適にするよう努力すること」と言われるので、私は、老司祭さん(私の洗礼の後、それをずっと自慢したいて一年後に亡くなりました)も幸せにしたし、村中を喜ばせたので別に罪悪感はありません。そういうコンテキストで、会衆の応答の言葉とかクレドに対して「全部はいまいち信じてないかも」などというそれこそ皆の予定調和の世界を破って困らせるようなことを突き詰めて考えることもありませんでした。

大人が受洗できるかどうかなどは資格の問題ではなく内的な必要に駆られてだと思いますし、基本的に無償でいただくプレゼントだと思うので、それを大事にしていくかどうかはまた別の問題です。まさに「より深く他者と出会う」ことなしには意味がありません。

日本の方に対しては、そんなわけで、信者としてアドヴァイスするような立場にはまったくありませんが、できるだけ他の人の立場に寄り添うことを自分に課すことを続けています。

そして、ある時、誰かに「えっ、あの人がカトリックならカトリックって信頼できるのかも…」と思ってもらえることがあるとしたら、最高です。私の周りにはそういう素敵な人がたくさんいますよ。

http://setukotakeshita.com/

575jean:2012/06/13(水) 00:32:43
ルチアさま、竹下さま
びっくりしました。竹下さん、信者だったのですか。竹下さんの著書は何冊か図書館で借りて読み、それも始めから終わりまで読むのではなく、つまみ食いする程度の知識しかないのですが、この人、信者でもないのにカトリックのこと、あれこれ調べて書き散らしているぐらいに思っていたのですが、信者だったとは。日経朝刊(6月10日)に載った記事は私も読みました。そのとき、やっぱり、この人、信者ではなかったんだと再確認したつもりになって、イグナチオの8時半のミサに行ったのですが、信者だったとは。ここ数年、こんなにびっくりしたことはありません。それで、思わず投稿してしまいました。

ルチアさんは竹下さんと同年齢とのことですが、私も同世代です。違うのは、私は女ではなく男だということ。1952年生まれ。受洗は1984年の復活徹夜祭。妻と1男1女。キリスト教とは何の関係もない家庭で育ったのに、小さいころから何となく十字架やキリスト教に関心があって、カトリックになってしまいました。でも今では、カトリックではない自分は考えられません。

ルチアさんは、「ミサの・・・応答の言葉の所々にひっかかりを感じる自分を見てしまいます。(これが、一番迷っている所なのですが)」と書いておられますが、具体的に、どのようなところでしょうか。ミサの典文を聞いていて、ちょっと変かなと思うところは私にもあります。教えていただければ、お役に立てるかもしれません。あまり他人のことには関心がなく、洗礼に導かねばという使命感もないので、おかしいと思うことを気楽に話し合えればと思っています。

576ルチア:2012/06/13(水) 17:02:12
受洗
竹下様、お忙しい中、私の質問に丁寧に答えて下さり、心より御礼を申し上げます。
頂いた返答を読み、まず事実が違うことに驚きました。確かに宗教は微妙な問題ですが、事実と違うことを公の紙面に載せてしまう記者さんの倫理観に「?」マークになってしまいました。微妙な問題ととらえるなら、違った書き方もあったのではと思いますが。
とはいえ、そのおかげで竹下様の受洗の経緯も教えて頂ける事となり、感謝しなければいけないのかもしれません。フランドルで受洗されたのですか…。加賀乙彦さんに「フランドルの冬」という御本がありますね。竹下様の文章を読んでいるだけで、こちらも胸が暖かくなってくるような受洗の光景だと思いました。素晴らしい受洗を得られたのですね。
竹下様が仰るように、「大人の受洗は内的な必要に駆られて」の方が殆どで、通っているクラスでも、何か深いお悩みをお持ちの方が「受洗」有りきでクラスに通ってらっしゃる方が多いように思います。私的なことで申し訳ありませんが、私は大きな悩みが有るわけではなく、知的興味(知的と書くのは恥ずかしいくらい低レベルです)から勉強を始めて、想像していた世界よりもカトリックは遥かに奥行きが深く、包容力があることを知り「受洗」を考えるようになった次第です。個人的に確実なことは、勉強を始めてから世界の受容の仕方が変わったことです。これは既にプレゼントのうちに入っていると自分でも思います。
竹下様の返答は「大きなアドヴァイス」になりました。改めて御礼申し上げます。

応答の言葉でひっかかりを覚えるのは「万軍の神なる主。」「国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。」でしょうか。一般的な意味での日本語が指すものとは違うとは考えますが…。

余談ですが、竹下様は「ハンス・リヒター展」を観に行かれたのですね。羨ましいです。リヒターは現役の現代アーティストの最高・最大の作家で、私も観に行きたいのですが、贅沢な願望なので我慢しています。3月にはマチス展が開催されていたので、観ました。その時の「DANCE」の展示があったところでリヒター展は開催されたのでしょうか。こういう大きなアーティストのツアーも、最近はアジア開催があっても日本は素通りだったりして残念です。

竹下様が対応してくださったこと、こちらのホームページを運営されていらっしゃる方のご努力に心より感謝いたします。このような場に触れる機会を得ることこそ「恵み」かと思っております。
ありがとうございました。

577sekko:2012/06/13(水) 19:00:58
ルチアさま
>事実と違うことを公の紙面に載せてしまう記者さんの倫理観に「?」

というところですが、記者さんの名誉のために申し上げますと、私も驚いて問い合わせたのですが、私が今カトリックであることに気づかなかった、というお話でした。記事の確認を事前にしなかったことが一番の問題で私にも責任の一端はあります。私は都会の核家族で育ったので、葬儀社以外から家族の宗旨を聞かれたこともありません。多分日本の多くの人がそうでしょう。

フランスのカトリックの多くもそうで、十代初めのコミュニオン・ソロネルという儀式(家族が集まるイヴェントとしては大事)の後は、教会に縁がない人が多いです。後は、結婚(これも事実婚が多いので教会で結婚する人は少なくなってます)とか自分たちの子の洗礼(これはお宮参りと同じで家族の大事なイヴェント)の時に洗礼の日付と場所を聞かれたり堅信をしているか聞かれたりすることでアィデンティティが出てくる感じです。

これに対してフランスで成人してから仏教徒になった人は、ちゃんと瞑想会や勉強会に行ったり、菜食主義になったり、ダライラマを追っかけたり、自分は仏教徒だというアィデンティティがちゃんと見えます。

私のカトリック感覚(帰属意識としての)はフランスのリベラルなカトリックに近いのであまり気にしていず、日本でも宗教の帰属意識が希薄な普通のうちに育ったので、他の人の宗教意識をチェックする習慣もありませんでした。それで、ずれが生じているのだと思います。フランスでカトリック雑誌からインタビューを受けたことがありますが、その時も別にカトリックかどうかなど聞かれもせず書かれもしませんでした。

でも切実な帰属意識のある方や受洗を迷っているような方にとっては、それは大切なポイントなのでしょう。

逆に、私のポジションのそういう「ずれ」にポジティヴな可能性を見てくださる方もいるので、そして、もしそういう方の方に私はより多く役に立つとしたら、このまま行こうと思っています。

私の中にある複数のアィデンティティは、私がそうで「ある」ことを規定するものではなく、私がそう「なる」ことに向かわせてくれる補完的な活力源だと思っています。それはやはり他者との関係性の中で醸成されるものだと思います。

一つ言いますと、この日経の記事を読まれたあるカトリックのシスターが、今朝メールをくださって、次のようなものでした。

「西洋中心の国際社会に対して、日本が逆にキリスト教的価値を突きつけるくらいにならないといけない」。ほんまにそうです。(絶対にそうはならない、なれない日本ですけれどね。) いいことを書いてくれたと思います。朝日や三大新聞がこういうのを載せてほしいですね。

(中略)

竹下さんが大いにお働きになれる場を神様がくださいますように。ところで上の記事、あのままでは竹下さんは「カトリックではない」ことになりますね。それも真実ではないですね。ただ、あぁいう記事を書くときはカトリックでない方が、好都合ですが。

(引用終わり)

ということで、むしろ「いいこと」に注目していただいたのはありがたいことです。そして誤解とはいえ記者さんの意図もくんでくださっているので、ありがたいと思い救われました。

さて、

「万軍の神なる主」についてですが、

日本語の共同訳でイザヤ6-3 を今見ましたら、確かに万軍の主となっているのですね。

Sabaothは軍隊だけでなく、組織された集まりを指すので、ここでは宇宙を司る神の意志を実行する天使の軍団のような意味なのでしょう。

でもここで「軍」という言葉を入れると誤解されるというのでフランス語でも「天の」という形容詞をつけて緩和してきた歴史があるそうです。

今はもうたいていのフランス語の聖書はSabaothとそのまま書くか、Dieu Maitre de toutすべての主である神、Dieu tout puissant最強の神みたいな訳になっていて、ある領域の支配者の暴力装置としての「軍」という誤解を避けるようになっています。(私の使っているLa Bible de Jérusalem ではSeigneur Yahavé Sabaot です)

訳文にはいろいろな歴史の文脈もありますし、普通の人はあまりこだわらない方がいいんじゃないかと思います。(こういうことを書くとまたどなたかから叱られそうですが…)

http://setukotakeshita.com/

578sekko:2012/06/13(水) 19:24:17
Jeanさま
>ここ数年、こんなにびっくりしたことはありません。

ということにこちらこそ驚きました。

日経の記事よりここでの返事の方がインパクトがあったわけですね。

このことで、あらためて、私の関係するカトリック雑誌の連載や出版物の紹介文を見てみたのですが、確かに、別にどこにも私が洗礼を受けているとかどうとかいうことは出ていませんね。

でも、そういうところ自体が、カトリックがいかに党派性や今ある共同体だけに固執しない、開かれた世界であるかという特色の出ているところで、私としては好感が持てます。

Jeanさんはイグナチオ教会に行かれるのですね。

先日ヨセフホールでトークする前にもちろん聖堂に行きました。復活のキリスト像に、いつも通りフランス語で「ほら、私よ、あなたのためにここにいるのよ」(近頃年齢のせいかおかあさんモードになりつつあるので)と話しかけてしまいました。

Jeanさん、ルチアさんの疑問などにもどんどん答えてさしあげてください。ありがとうございます。

http://setukotakeshita.com/

579mimemegene:2012/06/13(水) 23:29:24
ルチア様
前略,
ルチア様を端緒とする交わりに,私も加わりたいと願って,メールをしてしまいました.

私は竹下様が受洗されていると知覚していました.
主イエスと出会った人だ,神が育てた人だ,と感じると言ったほうが,わかりやすいかも知れませんね.
決意をした人,崇め頼む方をハッキリ知っている人の語り方や感じ方の表現を著書に沢山感じています.
私はイグナチオ教会で30年程前に成人洗礼した一般信徒.年の霊操を始めて15年程の男性.

それで,ルチア様に私の日常を,少しだけ分かち合いたいと願います.
書かれている文を読んで,受洗に向き合うセンスがとても素晴らしいと感じたからです.
私個人のつたない経験で,しかも少し長くなってしまったので,
お時間があるようでしたら,読んでみてください.
無視しても全くかまいませんので.

?「ありがとう」「ごめんなさい」「助けてください」
私は毎晩,一日を振返ります.
三位一体の御交(おんまじわり)が私に触れて下さったことを思い起こします.
振り返る順番はタイトルにある順でないと,上手くできない事は,やり続けるとわかってきます.
例えば,「御交様,今日怒りそうになった時,心がなぜか柔らかくなりました.感謝します」という感じです.
この振返りをした後に,前後での心の変化に集中して,何らかの変化を感じたら,それも言葉にします.
できれば,一連のことを簡潔に書き留めると,1週間毎の振返り,1ヶ月毎の振返りの時に助けになります.
?は,「御交との交わりを体験したらどんなに素晴らしいか」というのを,誰もが感じられるやり方だと思っています.

?主イエスは私を慕う
谷川の水を求める鹿のように「あなたを慕う」というのは旧約のイメージですね.
この聖歌で言うと,新約は「神よ,あなたは私を慕う」となります.
御子イエスの方から,私を求めて来て下さっている.人間になった.
更に,御聖霊が常に私と共にいてくださいます.
知識よりも御聖霊への感度をUPするように,私は常々お願いしています.
身体が霊魂を持っているのではなくて,霊魂が今だけ身体を持っているというイメージを描き,
共にいてくださる感覚を味わうように私はしています.
しかも神様は無理強いを決してなさらないので,いつも安堵ですね.

?改心よりも開心
マザーテレサが著書に書いています.
「テオドーア修道女が亡くなる少し前に、どれほど苦しみがひどいか彼女にたずねました。すると彼女は美しく答えました。
『それはイエスと私の間の秘密です』と。」

それで,テオドーア修道女は,「何故私がこんな死を迎えるのか」等も含めて,全てをイエス様に言い続けたと思います.
イエスはその全てに触れたので,イエスとの秘密が生まれたと思います.恵みですね.

テオドーア修道女のように開心せずに,つまり,「誰にも言わずに自分で解決しようと心にしまってある事」は,解き放たれたくて,「心の傾き」になって,常に関わりを求めてきます.
ですので,ルチア様がミサ応答でひっかかりを覚える言葉は,「心の傾き」を照らすきっかけ,神様からの働きかけの光ではないでしょうか.
私の経験では,このようなきっかけは「しまってある事を神に捧げてほしい」というメッセージです.
また,デーケン師が「より深く他者と出会う事」と表現されているのは,心の中の「二人の自分」(慰めと荒みの二人)の出会いも示唆していると思います.

それで,タイトルの開心のことですが,
「私だけの秘密で,御交にもみてほしくない」というような事は誰にでもあると思います.
その秘密こそ,御交にむかって心を開くのは,恵みだと思います.私も度々恵みを感じています.
言葉では説明できない恵みの塊のような,常に心も身体も温めている体内の塊のような,そんなものが私の中に感じられるようになってきて,これは御交との秘密としか表現しようがないと思っています.

神様がきっと受け取ってくれるだろうと勝手に思った事の方を神様に見せますが,隠している事の方を本当は捧げてほしいと働きかけて下さいます.
神様は全てをご存知だから,私の場合は,「全てをみてください」と言うだけでも開心の扉は開いてゆきました.
恐れは全くないので,?が日々の開心です.

最後の晩餐で「私の身体」と言って割かれたパンはイエス様ですね.
そして,イエス様はパンの形で弟子達の身体の中に入って行きました.
その時のイエス様は,どんなお気持ちで,何を感じられていたでしょうか.
現代では,日々のミサではどうでしょうか.
自分の心を開いて,キリストの心を感じ取れるように求めるために,
私の場合は,言葉や定義ではなく,「感じる」事が全てです.

竹下様の著書は,この「感じる」時に,私の心の霧を晴らす風のようです.だから冒頭で知覚していると書きました.

神父達が言うように,神を愛する心や神との歓びも,既に私に与えて下さっているから,「私は神を愛している」と言えます.
既に恵みを全てをいただいていて,それに少しずつ気付いていく日々が,ルチア様にも始まっていると感じております.
「イエス様を愛している」と言葉はありませんが,そのニュアンスが文から匂い立っていませんか?

580ルチア:2012/06/14(木) 10:55:07
万軍の神なる主
竹下様、初歩的な疑問に調べて答えて下さり、有難うございます。
「天使の軍団」とても受け入れやすくなりました。竹下様の仰る通り、あまり表面的な字句にとらわれずに勉強していこうと思います。「神学」の道を目指しているわけではありませんからね。

日経の記事から波及した皆さんの反応に、一番驚いてらっしゃるのは竹下様ご自身かのように見受けられます。確かに、私も単純に興味を持った本として読むのであったなら、著者が「信者さん」かどうかは全く気にならないと思いますし、推測もしないと思います。
シスターが仰られたように「好都合」(信仰から距離を置いた宗教本という意味かと思いますが)のほうが、読者に先入観無く受け入れられて良いのでしょうか。
読み手としても、熱心な信者さんの書かれた本は「布教目的?」というバイアスがかかって読んでしまいますね。

竹下様がご自身で書かれた「複数のアィデンティティ」は、竹下様の魅力の中で「補完的」ではあっても、大きな部分のように思います。一読者として、どのように「なる」のか、この先をとても楽しみに思っております。
L'art de croireも愛読させて頂いておりますが、この「哲学・宗教質問箱」とは文体も違うし、「複数のアィデンティティ」を感じております。

一つだけ、質問をさせて頂いてよろしいでしょうか?全くの興味だけからの質問です。
ここに投稿してくださった方々は、主日のミサに与ってらっしゃるように思いますが、竹下様はフランスでミサにお出になったりはしないのでしょうか?(純粋にミサ出席だけの為に)
私もイグナチオしか知らないので、認識に偏りがあると思いますが、平日でも夕方6時のミサの前にベンチに座っていると、人が行き交い会話が交わされ、教会が大きな家族として機能しているのを実感します。竹下様の文章から推測するに、これは日本でカトリックが少数派だから起きていることなのでしょうか…。ヨーロッパで教会へ行って、とにかく驚いたことばかりで、人は少ないしベールを被っていらっしゃる方も見当たらないし、考えさせられてしまいました。

お時間の許す時に書いて頂けたら、幸いに存じます。

581ルチア:2012/06/14(木) 11:04:38
jean 様
私の拙い迷いに対応してくださり有難うございます。

このような場所で見知らぬ方から受ける好意に、何と感謝して良いかわかりません。
また、迷った時に投稿させていただくかもしれませんが、よろしくお願いいたします。

582ルチア:2012/06/14(木) 11:16:18
mimemegene 様
丁寧な文章で伝えて頂き、本当に有難うございます。

私はmimemegene 様のような深い信仰は得ておりませんが、仰られていることの意味は少しだけ分かるような気がしてきました。「自分を出る」「開心」はなかなか奥が深く、時間がかかることのように思いますが、「全てを理解しないと受洗できない」という考え方は却下の方向で進んで行きたいと思っております。

御礼申し上げます。

583mimemegene:2012/06/14(木) 19:33:53
ヨーロッパ死者の書
竹下様

4月の聖イグナチオ教会での講演会は,とてもわかりやすく,ありがとうございます.
又ご挨拶ができて,幸せでした.


お尋ねが一つございます.

「ヨーロッパ死者の書」で取り上げている,ジャン・プリユールの「死者の書」が,とても心に残っております.

それで,竹下様は,日本で翻訳出版なさるご予定やおつもりはございますか?

584jean:2012/06/14(木) 20:42:55
「万軍の神なる主」
ルチアさま

竹下さんの回答があるので、それで十分なのですが、あえて付け加えるなら、「主よ、憐れみたまえ」「天のいと高きところには神に栄光」「神の子羊」と比べると「聖なるかな」の歌は確かに少し違った感じがあります。さあ、これからミサの中心、とっても大切な奉献文が始まるのだぞ、という意気込みがあるような感じがあって、私は嫌いではありません。「万軍の神なる主」に限らず、ルチアさんの疑問はほかにもあるでしょう。そんなときは、遠慮せずここで質問されたらいかがですか。難しい問題は竹下さんが的確に答えてくださるでしょうし、簡単な問にはmimemegeneさんや私もお役に立てるかもしれません。

585jean:2012/06/14(木) 20:44:06
「ほら、私よ、あなたのためにここにいるのよ」
竹下さま

女の人は、聖堂でこんな風にイエズスさまに話しかけるのですか。

私は「今日もここに来ることができました。これから始まる御ミサ、カルワリオの再現に与らせてください」といった感じです。中年のときも年を取っても、ミサの前のこの語りかけは変わりません。

竹下さんに、ひとつ質問があります。答えるのが面倒であれば無視していただいても構いません。質問とは、「末っ子に大きな役割が任されるのは何故」「このことをヨーロッパの人たちは、どう考えているのか」です。

ヤコブの12人の息子のうち、エジプトの宰相となってイスラエル人を救ったのは末っ子のヨゼフでした。ダビドも兄たちが次々に面接ではねられ、最後に残ったのは末っ子のダビドでした。12使徒の中でイエズスさまに最も愛されたのは一番若いヨハネでした。ヤコブの弟です。怠惰に見えるマリアのことでイエズスさまに文句を言ったマルタはお姉さん、そのマリアは妹で、マリアの方が大切にされているような感じがします。有名な放蕩息子も弟、帰ってきた弟のために宴会を催した父に文句を言ったのは兄ですね。日雇い労働者の話で、朝早くから汗水流して働いたのに、夕方に少しだけ働いた人が同じ賃金をもらったのはおかしいと文句を言ったのは、聖書には書いてありませんが、何となく兄、夕方だけ働いたのは弟という感じがします。「L’art de croire」で「リジューの聖テレーズを読み返すことにした」と書いておられた教会博士の聖テレーズも4姉妹の末っ子です。何故なんでしょう。なぜ、末っ子がこのように大切な役割を任せられるのでしょう。このことを、ヨーロッパの人たちはどのように解釈しているのでしょうか。

『弱い父「ヨセフ」』を書いた竹下さんなら、この疑問にも答えをお持ちではないかと、お尋ねした次第です。

586sekko:2012/06/15(金) 00:59:32
Jeanさま
女の人は・・・というのは、他の人のことは知りません。

私の場合、フランス語なんで、敬語がなく、こんな感じなんで、日本語にしたら違和感があるかもしれません。私の年代のフランス人なら、カテキズムを受けた時はまだ第二ヴァティカン公会議の前だったでしょうが、私にとってのキリスト教は1980年以降のフランスのリベラルなキリスト教なんで、まあこんなもんです。

イグナチオのイエス像は磔刑像でないのでいいですが、フランスにはリアルなのが多くて、この頃、磔刑像で痛そうにしているキリストを見ると気の毒で気の毒で、こんな痛そうな人に何かお願いしている場合じゃない、一人くらい「私ががんばってあげるからね」と声をかけてあげればいいような気がしまして…
特に五十肩をして腕が痛いのを経験した後では、磔刑像を見るだけで痛くて。
まあ、これは私の内臓的な反射に近いので、スルーしてください。

末っ子の役割の問題、これは面白いテーマで、いつかじっくり書いてみたいと思っています。

こちらでは、半年年上の親戚である洗礼者ヨハネに対するイエスの優越というか、ヨハネが自分は衰えねばならない(ヨハネ3-30)と言ったことも、必ず、聖書の中の年齢の話に引き合いに出されます。また、旧約でいうと、カインがアベルを殺して追放されて、困った(?)アダムがその後にセトをもうけて、そのセトが人類の先祖(カインも子孫を残したしアダムもその後にも子供ができたとかいうのは無視です)になったんで、三番目の子が後継ぎになったというストーリーも(長子の歩が悪い例として)引き合いに出されることがあります。

ユダヤの律法では長子の特権は明らかなんですけれど、古代社会では実際、末っ子が実家に残って老親の面倒を見て家督を継ぐという形態もめずらしくなかったようです。

ヨーロッパでいうと、本当の意味で長子相続が確立したのは11世紀頃らしくて、その長子には、家督や財産を守るために軍事教育を施し、下の子は聖職者に、というのが多くて知的教育を施し、実際聖職者や文人には長子ではない子が多いそうです。テレーズの姉妹のようなのは例外として、修道女になるのも末娘が多いという統計も読んだことがあります。

また、ガラテヤ(4,21-31)にあるように、最初の子は奴隷の子、二番目の子が自由の子、という比喩もあって、この話(アブラハムの2人の子の話)も文字通り読むと、なんだか最初の子に対して不当だと思えますが、「自由」ということについていろいろ考えさせられますね。

つまり、こういう例えがいつのまにか、「家督や財産」などこの世の名や富を継承し守るべき長子的なのが「肉」の子で、聖職者になっちゃって子孫を残さず神にだけ仕えるのが長子の権利と義務を負わない「霊」の子、みたいな図式にすり替わって、安定したのかもしれません。日本でも昔なら子供がたくさんいると末っ子くらいはお寺に修行にだすとか、フランスでも昔はやはり末の子くらいは聖職者にして家族のために祈ってもらうとか、いろんな思惑があったのかもしれません。

旧約聖書って、律法はもちろん細かくて厳しそうですが、実際に展開する物語はなんだかリアルで、人間の家族の微妙な心理とかが露わになっていて、その落差が次の新約になだれ込む契機を作っているのかもしれませんね。そしてその後に続いたたくさんの神学者とか聖職者たちも、その流れの向かう何かの中でいろいろな試行錯誤をしているのかも。

あまり答になってませんが、とりあえず書いてみました。

http://setukotakeshita.com/

587sekko:2012/06/15(金) 07:35:23
mimemegene さま
『ヨーロッパの死者の書』は、私の読んだのは1981年版の

http://www.amazon.fr/livre-morts-occidentaux-Prieur-Jean/dp/2221006151/ref=ntt_at_ep_dpt_8

 なんですが、最近新しい版も出たようです。

この著者はもう百歳近いのですが、まだ活躍しているようで、タイトルだけ見ると、日本だとオカルト本じゃないかと思われるような怪しいジャンルもあるのですが、実は本格的な歴史家で信仰者でもあるという、すごくフランス的な人だと思います。

翻訳出版する出版社があれば私はもちろん協力しますが、どうでしょう。

それから、mimemegene さま、ルチアさまへのお言葉ありがとうございます。しかも、私のことをあんなふうに言っていただけるなんて、それだけでもこのボランティア掲示板を残しといてよかったなあと思います。

サイトを作る時、基本的に、自分の宣伝はしない、私生活は垂れ流さない、目立たないようにする、という路線を決め、ブログも、ネット上で出会ういい加減な批判にうんざりしていたのでコメントもトラックバックも受けつけない「覚書」に限定していたのです。まあ、ネット上であれこれ言われるのは読まないようにしているのですが、今回は、紙の媒体での誤解をきっかけにネットですてきなお声を聞くことができました。

今回のことに関して、なかよしのシスターから、

「わずらわしいことがあったとしても、プラスのことはその何倍もでしょうから。。。そう考えてまたどんどん発信なさってください。」

とメールで言ってもらえたんですよ。確かにそうだなあと思います。

人間、マイナスのことの方がなんでも強烈にインプットされがちですが、公平に考えたら、絶対にプラスのことの方が多いと実感します。

皆さまほんとうにありがとうございました。

http://setukotakeshita.com/

588sekko:2012/06/15(金) 08:34:03
ルチアさま
ええと、ご質問の答えとして…

平日の6時のミサ、みたいなのは、ルルドなどの巡礼地に行った時でもないと出席したことはありません。

フランドルの田舎のうちがあった頃(今はもうありません)は、日曜は絶対行ってましたよ。鐘がうるさいので忘れられないし、というか、町内会みたいなものなので顔を出さないと近所の人に病気だと思われそうだし、司祭さんが気の毒だし、という感じです。

私は歌を歌うのが好きなので、苦になりません。昔、歌を歌えなかった時があるそうで、じっと聞いてるだけだったら苦痛かもしれません。

イグナチオでも昔、フォークミサというものがどんなものか見たくて行きました。そういえば結構人が来てましたね。ミサの前にちょっとリハーサルみたいなものがありました。後は日本では、演奏会や講演を別としたら、町田教会、水戸教会、垂水教会、成城教会で一度ずつ、ミサを体験しましたが、エキゾティックな感じがしました。日本じゃない別世界って雰囲気でした。よそ者には敷居が高い感じもしました。

舞子の愛徳姉妹会に泊めていただいた時は毎朝6時半のミサにつきあいました。シスターたちはみなすてきな歌声です。

日本の教会では、「はい、未信者の人は祝福に並んでください」、とかいうシーンがあるのに驚きました。フランスの都会なら、互いに顔を知らない人も多く、日本人の観光客で、ただ好奇心でフランスの教会のミサに出て、なんとなく並んで聖体拝受までした学生とか何人も知ってますよ。

パリのモスクとかシナゴーグとかだったら、無知からとは言え、そんなよそ者が儀式に参加したら恐ろしい感じがしますが、やっぱカトリックって、老舗の大所帯だから、鷹揚というかルーズというか、怖くはないです。

あ、もちろん、個人的にすごく気にする人はいるので、離婚したとか再婚したとかで聖体に近づかない人もいます。

でも、初聖体前の娘がガールスカウトの仲間と聖体を拝受してしまったと言って真っ青になって、司祭さんのところにかけつけてきたお母さんを見たことがありますが、司祭さんは笑って、「それはコミュニオン・ソヴァージュ(野生の聖体拝受)と言って、気にしなくていいよ、聖体をいただくのは資格の問題でなくて必要の問題なんだから」と答えていました。

ミサで、今はほとんどの人が席から立つ時に、しっかり跪く人もいます。ホスチアをもらう時、舌の上に乗せてもらう人も、跪く人もいます。他の人と同じようにしなくてはならないという感じは特にありません。

これも日本人のブログで、教会で跪いて口でホスチアを受けようとしたら司祭に拒否されて無理やり立たせられたとかいう人がいるのを知って驚きました。第二ヴァティカン公会議でいろいろ変ろうがヨーロッパ中ではいろんな司祭さんや教区があるので、それこそ巡礼地に行っていろんな国の巡礼団のミサを見ると、千差万別だなあと思います。それでもみな親近感があってつながりがある感じで、私はすごく好きです。

以上、ただの観察と感想のレベルでお答えしただけで、信仰の話ではないので、霊的なことが気になる方は無視してください。

http://setukotakeshita.com/


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板