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哲学・宗教質問箱

389迷える大羊:2009/06/18(木) 21:29:22
ゴルゴとキリスト教
>ゴルゴ13のヴァチカンもので、背景説明が全く私の『ローマ法王』からそのままコピーというのがありました

 もしかして、中国とカトリック教会の関係がちょっと出てきた話かですかね?うろ覚えですが、メインテーマは確か中国の新興宗教と中国共産党とのからみでした。
 これまで、「ゴルゴ13」なんて思いっきりキリスト教ネタのタイトルなのにキリスト教描写が結構適当なところがあったんで、オヤ?と思ったものでした。「ゴルゴ13」中のヴァチカンは人身売買組織のボスをゴルゴに依頼して、始末したり、ゴルゴの影武者をいつの間にか造ってたり、なかなかアクティブな組織で、ゴルゴ13の良き顧客となっている模様です。

 まあ、日本の劇画やドラマに出てくるキリスト教っていい加減ですよね。妻子持ちの神父だとか、モグリの神父だとか(単立教会があり得ないカトリックでは不可能では?)がでてきたり、いつでもどこでもやたらと「神、神」を連呼したり、ちょっと変人なのでは?と思うくらい、「品行方正」だったり・・・。

390あがるま:2009/06/22(月) 13:32:46
ラディスラフ・クリマ
についてブロッグで書かれて居るのを拝見しました。
エリカ・アブラムさんはパトチカの翻訳者なのですね。
成る可く解り易い彼の著作としては何をお奨めになりますか?
Deus sumは手に這入るのですか?
触りのあたりでも日本語で書いて戴ければ有り難いのですが。

391Sekko:2009/06/23(火) 23:48:31
こんにちは
 あがるまさん、こんにちは。

 クリマのソリプシスムの真髄は、日記と書簡で全部分ります。書簡といっても、彼の信奉者からの個人的援助に応えて論文を送っていたわけです。フランス語版は手に入ります。

 http://livre.fnac.com/a1603340/Ladislav-Klima-Oeuvres-completes?Mn=-1&Ra=-1&To=0&Nu=4&Fr=3

 でも、高くて分厚くすごく読みにくいです。

 今の仕事が一段落したら触りを紹介したいですが。それにはもう少し読みこまなくては。エリカからPCで送ってもらったものも、私は読むと肩が凝り、目がかすみ、これほど魅力的でなかったらもうとっくにギブアップしているところです。

 もうひとつの問題点は、この間、チェコの人と話したら、そもそもエリカ(の夫)が冷戦中にクリマの手稿をチェコから持ち出したことに対してすごい不信感と敵意を持たれました。その辺も含めてクリマの本格研究はけっこう微妙です。

 ドイツ語ラテン語ギリシャ語も混じっていますがそれはあがるまさんなら問題ないでしょうし、チェコ語がOKならもっと嬉しいです。ただ、彼のようなタイプの思想の読み解きには、キリスト教とヨーロッパ中心主義の幻想と伝統の葛藤をかなり体感していることが必要かもしれません。まあ知性の腕力(って矛盾ですが)さえ強靭なら大丈夫でしょう。後は感性の問題ですが、私のブログからクリマをたどってここまで来て下さったということは、すでに、「仲間」だなあと思います。

 あがるまさんがクリマの思想を分析してくださって、エリカと違う視点で他と関連づけてくださればすごく嬉しいのですが。

 私はクリマの研究をするより紹介し、自分がクリマ風ソリプシストになって、今の世界の文脈の中で別の論を展開してみたいと思います。できたら「生き方」も。

 そのうちクリマ専門の紹介ブログをつくって、サークルができるものか見てみたいですね。

392あがるま:2009/06/25(木) 07:38:37
九鬼周造
に関する論文でパリでF.ダステュールの許で学位を取つたサイトーさんと云ふ方の話を大分前に聞いたことがありますがネット上での噂は聞きません。
日本語で著作を発表された様子もありませんが、中村弓子?の本の後書きで彼女の名前が記載されて居たのを見た気もします。
竹下さんなら、お年や在仏期間からご存知かも知れません。
日本には帰らずに現地で学者人生を送る方も沢山居られるのでせう。

393Sekko:2009/06/26(金) 06:24:18
日本人の研究者や
 学者の方とはほとんど交流がありません。ずっと昔からいて、こっちの大学で勤め上げて、引退して日本語もほとんど話さない方もたまにいます。
 日本のような国と、ヨーロッパではかなり歴史の接点が少ないので、両方に足を置いていないと、距離のとり方が難しくなって見えてこないことも多くなります。クリマと今のチェコの関係も、東ドイツでずっと排斥されていたニーチェが冷戦後急に「真のヨーロッパ人」としてもてはやされたように、政治的反動もいろいろありますから。ヨーロッパは特に、第一次大戦と第二次大戦の傷と、互いの移民関係とが重なり合って、哲学や宗教のトレンドにも強い影響を与えているのです。その辺のニュアンスや事情を知ってはじめて腑に落ちるようなことも、いまだにいろいろあります。

 今は、クリマのソリプシスムは正教のヘカシズムと大いに関係があるのではないかと思っているところです。エックハルトなんかをクリマがどう読んでいたのか、次にエリカに聞いてみます。無神論にはいくつか種類があって、「神と合一=自分が神になる=無になる」という神秘主義的無神論とクリマのソリプシズムは親和性があると思うのですが、彼自身が膨大な理論を構築しているのをまず読まないとなんとも言えません。私の考えは大体エリカによって承認されているので大筋は外れていないと思うのですが・・・
 今のところあまりお役に立てなくてすみません。

394あがるま:2009/06/26(金) 14:41:49
パラミズム
ご丁寧に何度も有難うございます。
神秘主義や東方教会よりも、ダスチュール→現象学(九鬼、パトチカ、ロンバッハ)→クザヌス云ふ聯関がありさうですが、クザヌスとエックハルトの関係を、詳しく辿る知識がないので申し訳ありません。
グレゴリオス・パラマスをダシにして、初めて集合論を学んだ高校生が思ひつきさうな本を書き笑殺された方も居られます。
日本では(キリスト教や)古典的形而上学の原理が理解されて居ないのか、簡単に欧米の哲学が超越されて、独自の『思想』が樹立されます。
ディスクールなどと云ふ言葉が盛んに使はれてもその本来の意味(概念的思惟)を分つて使つて居るのか?高橋里美や九鬼周造などフッセルから直接間接に学んだ連中は分つて居たと思ひますが。
最近でも水村美苗が、日本語は滅びると云つても、日本には古典とかカノンと云ふ概念がないために何が主題なのか分らなくて見当違ひのことが云はれて居るやうです。
日本の学校教育の缺陥が問題になるのでせう。

395Sekko:2009/06/29(月) 20:46:06
パラマスとクリマ
実は今、クリマのソリプシズムをパラマスとひそかにすり合わせているのです。
 クリマのソリプシズムを、宗教神秘主義の中で理解しようと思ったら、Filioque はやはりまずいと思うんですよ。じゃあ、Hus や Wiklif はどうだったんだということも当然見なければならないし・・・

 太陽が、直接見えないけれど父的本質であって、聖霊と子はその働きとしてキャッチ可能な光線だというパラマス的イメージはすごくよく分かるんですよ。
 クリマのソリプシズムでは、私も神、あなたも神、という神の関係性があり、しかも、それはひとつの全体だというのがあって、それは、光線と光線源を分けないと(切り離すというわけではない)不可能です。集合論的に、たとえば、部分集合でも無限である(偶数習合とか)というたとえは、読むと「おおっ」と思うんですが、生き方に適用するとリアリティを失うし。クリマのソリプシズムはそのまま彼の生き方だったのがすごいんですけれど。

 まあ、今のところ、もう少し読み込んで、人に紹介できる程度になってからまた書かせていただきます。

396あがるま:2009/06/30(火) 00:26:32
theosisも
クザヌスのcontractioも碌に知らないのでまともな応答もできないのですが、アウグスティヌスの三位一体論が人間の(志向的)意識をモデルとした、極端な人間中心主義=solipsismeであることを思ひ出せば良いのではないかと思ひます。
八木雄二『中世哲学への招待』でドゥンス・スコトゥス論の三位一体論は認識論であり、『父なる神』は認識の起源=記憶、『子なる神』はロゴス=理知で、聖霊は愛=意志である、と云ふ興味深い指摘がありました。でも何故か彼はそれをアウグスティヌスと結びつけることはしませんでした。
フッセルなら父=志向対象、子=志向内容、聖霊=志向作用とでもしたかも知れません。
差異性は同一性に対立する差異ではなくて同一性の差異化(Rombach)、とでも云ふのか?

397Sekko:2009/06/30(火) 21:41:23
Vladimir Soloviev
 昨日エリカに話したんですが、私がクリマの中にヘシカスムを見るのは自由だが、クリマは自分が東方的な神秘主義とは違うことを強調していたそうなんです。Vladimir Soloviev を批判している膨大な論考をpdfで送りつけてきました。クリマは一切の関係性を拒否していたというのです。まあ確かにそうでないと、ソリプシストとはよべませんが・・・独我論と我神論の比較論考も残しています。エリカとの話をまたブログの方に備忘メモしておきます。パトチカは、クリマの論理学を評価した文を残してるそうです。でも、たいていのチェコ人は、クリマを文学者の枠に閉じ込めるか、黙殺しようとしているのです。クンデラとかも。自由世界でどう売り込みどう生き残るかが最大の関心みたいですね。

398あがるま:2009/07/02(木) 13:10:21
(無題)
クリマの文章を一行も見たことがないのでは話にもならないので
耶無を得ず周辺から近づくしかないのですが、
クリマがショーペンハウアー(=カント)やバークレーの信奉者であつた処を見ると、人間は(神や天使と違つて)真善美などの超越範疇の知的直観を持たないのでdiskursiv ― これを橋里美は『分散的』と訳して居ますが、それは多分この言葉がdiscret(密接しないで離れて立つ)から来るからでせう ― な概念を使用して、主語と述語動詞と補語を文法により縫ひ併せるしかない。そして範疇やその命題Satzが現実存在に如何にして適用され得るかは、法学的な実践(日本語では権利問題と訳して居るので解りにくいが)や図式論によつて視覚的に説明するしかない。
しかし真についての知的直観はないが、美や善については神ならぬ人間にも直観はある。(純理批判には(難解な)図式論は必須だが、美的判断力や倫理の批判には必要がない所以です)。
一挙に対象を把握してしまふ直観は常に感覚的でその対象を持つはずですが、痛みとかオルガスムは志向対象のない感覚で、山上の体験を一般的な経験として説明することはそれ自体論理的矛盾になりさうです。

399あがるま:2009/07/06(月) 17:58:43
パトチカ(
カンディンスキ(その先生はF.シュトック)と云へばガブリエレ・ミュンター ― 坂崎乙郎が女性画家として唯一認めた。
彼らが共同生活をして居たムルナウと云ふ場所は列車で通つただけですが、湖(シュタッフェル湖と云ふらしい)が美しくて途中下車してみたい町でした。
さう云へばカンディンスキはR.シュタイナーの信奉者でもありました。
05/07/09

<自己が世界の現出Erscheinungの可能性の制約MoeglichkeitsBedingungであり、世界が自己の現出の制約であるが、自我的egologischなものは普遍的な現出構造ErscheinungsStrukturを組織化する中心点にすぎない>(新田義弘『現象学』から。 多分Patocka, La monde naturel comme probleme philosophique.1976から。ドイツ語は適当に入れた)
と云ふものであれば、意味と存在の次元の区別が不十分としても、(他者との)関係を拒否する訳はありませんね。04.07.09

400あがるま:2009/07/08(水) 12:32:51
バッハの
『Wohltempeliert』esKlavierを『平均律』ピアノ曲集と云ふから両者は同じものかと思つてゐたら、Wikiによれば違ふものらしい。
『純正』調は(イデアの世界だけで)現実には(竹下流に云へば身体的には)在り得ないもので、皆少しづつ調子が違ふからこそ美しいハーモニーが奏でられのでは?

401Sekko:2009/07/08(水) 18:44:43
バッハのことなど
 ブログのご愛読ありがとうございます。

 シュタイナーの絵も見ましたが、当時はどう評価されたか知りませんが、古いなあ、という印象を免れませんでした。カンディンスキーはさすがに古くない。いろいろなところに書きましたが、私が絵を観る時の基準は、それをベッドのそばにかけるとして、毎日、朝目覚めた時に一番に目に入るもの、夜寝るときに最後に目に入るものだと想定し、それに耐えられるか、というのと、地球が滅びたとして、宇宙船で別の惑星に向かう時、たった一つの絵を「地球の生命」というタイトルで持っていけるとしたらそれを選べるか、というのと2種類あります。私の場合、何かそうなると、形より、色が大事になるかもしれません。色のない世界って辛いです。カンディンスキーは別にすごく好きな画家ではなかったのですが、今回見て、宇宙脱出するなら晩年の作品を一つ、って思いましたね。ミュンターとの付き合い方には、あまりいい感じは持ってないんですよ。アーティストのカップルというのはやはりどちらかがどちらかを潰すことが多く、そこにさらにジェンダーがからんで、複雑です。
 バッハのこととかについてはブログでまた少し続きを書きました。

402あがるま:2009/07/30(木) 14:45:08
超・異端
現代新書の『ジャンヌ・ダルク − 超異端の聖女』を通読しました。
彼女についてはミシュレや高山一彦の簡単な本しか読んだことはありませんでしたが、
「正統と異端のパラドックスの中をぐるぐる廻る私」と仰る通りとても面白く興味深く、また複雑なものですね。うまく概念的に分節されたものだと感心します。

J.ル・ゴッフの提唱するPara-Heregieと云ふ基礎概念の、異端heregieを「選択」と云ふほどの意味(34頁)と書かれて居るので、ラテン語のheresis(haeresis)はギリシア語の(di)hairesisをのまま使つたので、「(二つに)分離する」と云ふ意味で現代語で言ふ「セクト」のことだと思つて居たのですが、慥かに古典語の辞書には「選挙・選択」と云ふ意味が載つて居ました。

またギリシア語のparaは「傍らに」と云ふ意味で、「(河を)超へて」と云ふ意味のラテン語のtransとは明らかに違ふし、ル・ゴッフも両綴にギリシア語を使つて居るが、日本語ではpara-psychologyを超心理学と云ふ様に「trans超」と「para副次的」は(戯画的に)混同されることもある様です。(フランスの大学の科目たるprapsychologieは米国のとは別物なのでせう)
第一哲学たる存在論ontologieに対する 本質論ousiologieや神学theologieが副次para的なものの典型でせうか?
「柄(正統)と地(異端)」を超へた「地平(超・異端)」、の言外には超越範疇transcendentalia(ト・ヘン一者たる神)が透かし見えるやうです。より現実的な登場人物の傍らで、ジャンヌは已然として、お伽噺と云ふ印象です。
30.07.09

403あがるま:2009/08/09(日) 00:48:48
flocci-nauci-nihili-pili-fication
<生物の種も惑星にも太陽系にも宇宙にも寿命があって、そのスパンの中で考えるだけでも、個人の生などは、絶対の無意味でしかない。floccinaucinihilipilification。
これがポストモダンのニヒリズムであり、「神の死」である。>

明らかにこれは間違つてゐる、ハイデッガーは「人間は宇宙の大きさに較べては微小な無のき如きものである」などと言つた訳ではない。
細谷貞雄は夙に渡邊二郎のそのやうな単純な誤解を指摘した。
まして死が永遠の代替物だとも思へない。個体にはすべて始めと終はりがあるのは、それが有限で形を持つてゐるからだらう。

パラ・ヘレジーは日本語では「エセ似非・異端」とでも云ふべきか。

404Sekko:2009/08/09(日) 06:47:30
para と trans など
 ええと、ブログで書いたことは文脈を省略した断片なので、言葉が足らなかったと思いますが、ハイデッガーのことは全く頭にありませんでした。
 ちょうど扱っていたところが、Martin Rees と Richard Dawkins の無神論だったので、ああいう言い方になったのです。ハイデッガーは全然別物だと思っていますし、私はむしろ、ハイデッガーは、ポストモダンというより、形を変えたモダンの系譜じゃないかと感じています。フランス実存主義の哲学者たちも、反教権主義は別としても、ニヒリズムと背中合わせの無神論とは違うんじゃないかと。まあ、この辺は、長くなるんで、いつかちゃんとまとめてみたいですが・・
 実は、Martin Rees なんかのこの考え方は、solipsisme historique 批判なんです。「今ここ」だけ主義の批判なんで、「今ここ」だけ主義というものが、「永遠に死ぬ=つまり生まれ変わりとか復活とか死後の世界がない」ことに対する恐怖から生まれていると見ているんで、結果的に「永遠の否定」にもなってるのが逆説的なんでおもしろいんですが。分りにくいかもしれませんが・・・
 私個人は、「死=しょうがない」という感慨しかないんですけど。
 個体には、終わりは確かにあって有限だけど、初めはどこが最初か確実には遡れないので、始まりの方が無限だ、って言ってる遺伝学者がいましたが、それもなあ、別に慰めにはなんないです。若い時に無神論者でも死が近づくと不可知論者っていうのは、若い時の革命家が中年になってブルジョワ左派になるように、多分、イデオロギーの一種なのかも。
 私は「今ここ」の管理すらも上手くいかないんで、procrastination、神とか死とか偉そうに言えません。

 パラとトランスの訳ですが、確かに、パラは「併行」とかのニュアンスを出すべきだと思ったのですが、ご指摘のように、パラプシコロジーが超心理学と通常訳されているのを知っていたので、語感もいいし、あがるまさんがおっしゃってくださったように、transcendance をイメージしたかったのです。その意味では、成功したかと思います。でも例えば、paramedecine なんかは明らかに「代替医療」なんですよね。alterとかじゃなくても。後、metanoia という時のメタというのも、しっくりきません。まあ、パラエレジーもそうでししたが、カタカナを示すことで、ある程度類推してもらえると思っていますが。

405あがるま:2009/08/12(水) 02:34:48
ポスト・モデルネ
と云ふ概念を知りませんが、『近代(主義)』と云ふのを一番良く定義して居るのはバルトなどのプロテスタント神学でそれは『AnthropoZentrik人間中心(主義)』と云ふことだと習ひました。大分前には『post-historic』と言つたものかも知れません。
Stanford Encyclopedy of philosophyが一番良く説明してある様ですが、ハバマスが云ふやうに自己言及的なもので、自分の論拠を破壊してしまふものでせうか。
http://poznejsamsebe.wz.cz/filosofie_ladislava_klimy.pdf
でDavid Seterleの Filosofie Ladislava Klimyと云ふのを見つけました。40ページくらいの文章ですから私もチェコ語が解れば良いのですが。

406迷える大羊:2009/08/23(日) 21:51:59
キリスト教の「救い」とは?
 これまで、キリスト教に関して、いろいろ質問させていただきましたが、実はキリスト教に関して一番肝心な部分がどうしても理解できないでいます。

 何かといいますと、イエスは救世主、といいますが、一体、何から「救った」のか?ということで。これが私にとってはわかったようで、わかりません。

 そりゃまあ、信徒一人一人、個人単位でみれば、いろいろあるでしょう。たとえば肉親が亡くなって悲嘆にくれているところを癒された、とか、信じたら、心が楽になったとか、仕事や人生がいい方向に向かいだしたとか・・・etc。

 でも、これらは、当人にとっては重大なのでしょうが、その救いはあくまで個人単位でのことだし、客観的にみれば、別にイエスでないと、というものでもない。、心が弱った時、悩んでいるときにたまたま出会った救いがキリスト教だったに過ぎない、極端かつ失礼な話、オウムに出会っておればオウムに流れてしまったんじゃ?と思ったりもします。

 キリスト教によって救われた、と思える場合でも、実態としては、イエスとかキリスト教というよりは親切で人柄のいい牧師さんとか神父さん、信者、教会関係者に助けられた、といったものが多いんじゃないかなぁ、と。

 もちろん、信じたら借金が消えた、長年の持病が治ったとかいういわゆる「現世利益」を保障する存在とも違いますし、ローマ帝国を蹴散らし、ユダヤの地を解放・・といった旧約聖書タイプの政治・軍事的なヒーロー、救い主、という役回りもイエス自身が福音書の中で否定してるし・・。

 大体、ローマ時代のイスラエルって客観的にみて、どうしようもなく酷かったか?というとそうでもないような気もします。ローマ支配下、といってもある程度の自治権は保障されていたし、民族宗教(ユダヤ教)を信仰する権利も守られていたみたいだし、他のローマの属領、植民地に比べれば、だいぶマシな状況であるように思えます。現代でも、例えばチベットとかもっと悲惨な支配にさらされている地はいくらでもありそうな。

 この程度の状況で「救世主を」なんていっていたんでは、他のもっと悲惨な状況にある地域の住民からは「ケッ」っていわれそうですし、所詮はユダヤ人だけの都合に過ぎませんし・・。

 個人単位ではなく、キリスト教全体の立場として、イエスは何から信者を救った、ということになっているのでしょうか?
 特にイエスの直弟子、初期クリスチャンは具体的に何から救われた、解放された、と思って、強力なパワーだとかエネルギーを得たんでしょうか?

407迷える大羊:2009/08/23(日) 22:32:05
ローマ帝国とキリスト教
 連続投稿失礼します。あとキリスト教に関してはローマ帝国との関係も外せないところですが。教会でパウロとか使徒とかの苦難の伝道行を聞かされると、つい「ローマ、悪い奴じゃ」と思ってしまいがちですけど、私なんかは、根が天の邪鬼なのか、逆にローマ帝国ってすごい先進国じゃないか、と思ってしまいます。

 先スレでも述べたとおり、イエス存命時のイスラエルはローマ支配下ですが、ある程度の自治権と信仰の自由は保障していて、決してローマ古来の信仰を押し付けていませんし(難しくてできなかったのかもしれませんが)。法律・裁判制度なんかも、政治的でないものはほとんど現地人に任せていたようでもありますし。古代にしてはかなり理性的な支配だな、という感じが。イエスの生まれた年には帝国全土にわたって国勢調査をやったりしてますし。

 パオロなんかもキリスト教改宗語、伝道の旅をしていますが、あの当時、ローマ帝国以外の地域で市井の一般人があれだけの旅をすることが(資金とか時間の問題はあるにせよ)可能だったのかどうか?これまた、非常に高度な法による統治と交通網が整備されていた証拠ですよね。
 また、パオロ書簡には他宗教の信者との折り合いについて書かれた部分があるけど、これまた様々な宗教が帝国内に存在可能だったということなわけで。むしろ、中世以降のヨーロッパのキリスト教以外ナシ、な状況の方が遥かにひどい。

 キリスト教もローマ時代の全期にわたって年がら年中弾圧されていたわけでなく、キリスト教嫌いの施政者が権力の座についた場合だけの散発的なものだったらしいですし。

 このキリスト教嫌いの施政者、権力者というのも、ネロのような例外、論外はありますが、決して悪辣、愚劣な人間というわけではなく、例えば五賢帝の一人、マルクス・アウレリウスとか帝政後期のディオクレアヌス帝とか、有能で責任感のある皇帝ほど、キリスト教にきつくあたっているわけで、なにやら事情は複雑、決して善悪の二元論で割り切れない気もします。
 権力者ではないけどローマ帝国きっての歴史家のタキトゥスなんて、キリスト教のことを「有害な迷信」とカルト扱いしてますし。彼だって決して偏狭な価値観の持ち主とは思えないし。

 というわけで、教会でパオロや使徒たちの苦難に満ちた伝道行や、初期クリスチャンの受けた弾圧の話を聞かされるたびに、確かにその精神力とか信仰心には感心するものの、「ローマ帝国って本当にひどいの?あの時代にしては、かなりマトモな部類に属する国家なんじゃないの?」とか、逆に「すごいなぁ、一般人があれだけの旅ができるインフラがあるなんて」とローマ帝国びいきになる私は天の邪鬼なんでしょうか?

408フランチェスカ:2009/08/29(土) 06:50:06
シュタイナーのアントロポゾフィー
初めて投稿します。
『大人のためのスピリチュアル「超」』たいへんおもしろく読みました。私自身は信者ではないのですが、宗教(特にキリスト教、そしてカトリック)に関心があり、ますますいろいろなことが知りたくなりました。
ところで、タイトルの「シュタイナーのアントロポゾフィー」ですが、エゾテリックな分野もご専門であるSekkoさんならば、ご存知でしょう。日本でも「シュタイナー教育」の名でルドルフ・シュタイナーの名は知られてきています。私も教育に関心があり、本を読み始めました。シュタイナーは、人間は身体、エーテル体、アストラル体、自我の4つから成り、最初の3つはそれぞれ鉱物界、植物界、動物界と共有するものと言っています。さらに、人間の霊魂は生前と死後は霊の世界にあり、地上においてカルマを背負い、身体に受肉する、という考えです。また、キリストというものがアントロポゾフィーにおいては、非常に重要な概念になっていて、これはシュタイナーの宇宙論ともからんで、私にはよくわからないのですが、キリスト教では異端とされるようでもあり、同時に、本質的には「正しい神秘主義」といってもよいようにも思われます。
Sekkoさんはどのように考えられますか?

409Sekko:2009/09/05(土) 08:47:08
みなさまへ
 お返事遅れてすみません。ここのところネットの接続が上手く行かなくて、今やっと回復しました。

 まず、ローマ帝国とキリスト教、ここではくわしいことは書けませんが、このテーマではいろいろな本が出ているので、興味があれば探してみてください。私は次の本で少しまとめています。
 キリスト教が、ユダヤ世界を出て普遍宗教になったのは、ローマ市民であったパウロの活躍が大きいし、ローマ的な世界観や当時の宗教事情や、政治軍事状況が関係しているので、「キリスト教が弾圧に負けずに最終的に勝利した」というような単純な話でないことはもちろんです。
 キリスト教によって何を救われたか、これもいろいろありますが、みなが当時の煩雑な宗教儀式や典礼や供物のシステムにがんじがらめになっていたのから救われた、っていう側面はあるようです。後、やはり、実存的なこと、ストア派のように肉体の死後は、魂が「宇宙=コスモス」の秩序の中に帰っていくというのでなく、肉体も魂も復活して、永遠の命をもらえる、というところが魅力だったと思います。仏教も中国を通過するうちに輪廻が消えて、みんな成仏して祖霊となるのが基本になり、さらに、成仏のための悟りや修行から、絶対他力の阿弥陀信仰と極楽往生が人気を得たように、「生前の人格を失わないままで無条件丸ごと救済」みたいな方向に流れるんでしょうか。
 しかし、もう少し掘り下げて考えると、イエスは、「救いを求める人々の心を利用して惑わせる偶像崇拝」の実情や傾向というものから、人を自由にして救ったというところが大事なので、そこのところをちゃんと説明した『自由人イエス』(クリスチャン・デュコック師、ドンボスコ社)を翻訳解説したものが10月か11月に出る予定ですのでそれをぜひ読んでみてください。


 フランチェスカさま、

 私は、シュタイナーは、昔シュタイナー教育とかリトミックによって最初に知りました。音楽と身体性や、教育について、私の考えて多少実践していることと通じるので、それには共感します。
 でも、あの辺の、つまり、19世紀後半から20世紀前半にどっと出てきた神智学とか人智学とか、つまり心霊主義とか、ブラバツキー夫人とかシュタイナーとかの一連の人々には私は偏見を持っています。
 あの頃のオリエント趣味とか、シンクレチックな諸教混交神秘主義とか、あまりにもあの時代の西洋の特別な精神状況と結びついているので、普遍性が感じられないし、その後の展開を見ても、相対化せずにはおれません。科学と宗教とか理性と信仰とかの対立をどう折り合いをつけるかという西洋近代の相克の中のヴァリエーションですが、さまざまな伝統を継ぎはぎした宇宙論にそんなに説得力があるとは思えません。
 シュタイナーの方は、一応、神智学と東洋趣味と離れたんですが、今度は西洋中心主義の方に針がふれちゃって、第一次大戦の頃にはゲルマン人の霊的優越を唱えていたみたいですし、私は一般的に、あの手の、霊的進化論が苦手なんです。霊のステージを上げて進化して救済されるなどのエリート思想も。
 シュタイナーの教育論には理想主義がそれなりにいい方に表れていますが、そして、彼が天性のアーティストであったらしいことにも好感を持ちますが。
 まあ、元が西洋キリスト教世界の人たちなんで、イエスは解脱したマイスター
として特別の地位を与えられてはいますが、お話としてきくのは嫌いじゃないですが、それを説いてまわる側には私はなれません。何が「正しい神秘主義」というような価値判断も無理です。「うちの宗派が一番」というような主張があるところからは、すべて距離を置くことにしています。ごめんなさい。
 不思議話は好きなんですよ。でも超越とか魂とか霊とかの話は所詮、この世界の物差しで測れないものですから、他の人と優しい関係が築けるような形で上手に付き合って行くのがいいと思います。人生において迷っているときや苦しい時にはつい「神秘」に「救われる」どころか足をすくわれることがありますから気をつけた方がいいですよ。

 明日から留守ですので、また帰ってからこの掲示板を拝見します。

410フランチェスカ:2009/09/05(土) 22:54:50
「正しい神秘主義」とは?
お返事ありがとうございます。
いえ、私も決してシュタイナーの思想に「惚れこんでいる」というわけではないのです。が、教育の実践を見る機会があり、なかなかよさそうだと思ったわけです。思想に関しては、よくわからないところが多々あります。ただ、日本でおこなわれている「シュタイナー教育」に関心を寄せている人々は、どちらかというと、ロハスとかエコロジーとか自然育児とかマクロビオティックとか、そういったものに関心がある人々が多く、オカルトとか心霊主義とかブラバツキー夫人とかいったものに関心があるわけではない、という印象を受けます。でも、たしかにどこか「あやしい」感じはあります。やはり、これは「うちの宗派が一番」というような思想なのでしょうか・・・?
「正しい神秘主義」という表現は、ご著書のカバーに書いてあったのでしたっけ、それを引用させていただきました(たしか「正しい神秘主義は気持ちいい」でしたっけ?図書館の本でしたので、今手元にありませんが)。たしかに、何が正しく、何が正しくないかということに基準を設けることはできないと思います。
「神秘」に足をすくわれないよう、気をつけます。

411Sekko:2009/09/07(月) 13:42:10
フランチェスカさま
 そうですね。私も今本が手元にないですが、人生良好感をあたえてくれて、他の人や社会と切り離さないでいい関係を持ち続けられるのなら、「正しい神秘主義」というか神秘主義との正しい付き合い方なんでしょう。ただ、体質的に、シュタイナーもそうでしょうが、「霊的」な人っているようで、それも、それをどう使うかが問題なんでしょう。フランスでも、超能力好き、ロハス、エコロジー、マクロビオチック、仏教、瞑想、自然育児、自然療法、オカルトって、境界引きが難しく、実際重なっているのもたくさんあります。ツマミグイシテ免疫を作っておくほうが、頭から否定して何かの拍子にかえってのめりこむよりはいいと思うんですが。

412迷える大羊:2009/10/12(月) 23:15:51
メディアにおけるムハンマド
 最近、ネットを眺めていると、日本マンガ・アニメの世界への意外な、とんでもない拡散ぶりにあっと驚くことがしばしばあります。「まさか、こんなものが」っていうものまでいつのまに流れていたりして。そんなマンガの一つに「最聖☆戦隊ホーリーメン」なる作品があって。(URLはエロ画像多しの理由で削除しました悪しからず)
 なんでも、一般人として立川で暮らす聖イエスと聖ブッダ。しかしひとたび立川に危機が訪れれば「最聖☆戦隊ホーリーメン」に変身して悪と戦う、という作品のようです(未読)。
 この作品は、一昨年くらいから連載開始されて人気を博している、イエスとブツダが現代日本に降臨し、立川のアパートで二人暮らしする「聖☆おにいさん」のセルフパロディーというか別バージョン。まあ、日本らしいというか、日本以外ではありえないマンガですね、自慢していいのか、悪いのかわかりませんが、・・。

 しかし、このマンガにムハンマドは出演しません。世界3大宗教、何億もの信徒を抱える宗教の開祖にも関わらず。その理由について作者は原作者がインタビューで「シャレにならないからやめた」、とはっきりいってます。

 それにしても、昨年だか一昨年だったか、デンマークでの騒動をみるまでもなく、世界中のメディアがムハンマドの扱いにはピリピリしてますし、公の場でムハンマドのパロディーをみかけることはありませんが、こういう状況って本当にイスラムとかムハンマドにとっていいことなんですかね?という疑問が・・。

 まず、はじめにしっかりお断りしておきたいのですが、他宗教、それも全世界に何億もの信徒を抱える信仰に対する故なき中傷誹謗は厳に慎むべき、っていうのはわかりますし、当然です。
 また、その教えの優れた部分は十分認識してるつもりですし、騒ぎを起こす原理主義者、過激派はごく一部ということもわかってます。数とか割合からすれば、むしろキリスト教のそれより少ないかも、とも思ってます。

 でも、その辺を考慮した上であえていうのですが、「あの方」にはあまりにもタブーが多すぎなんじゃないか、と。間違っても「聖☆おにいさん」「最聖☆戦隊ホーリーメン」みたいなマンガのキャラにはできないし。

 しかし、あまりにタブーが多かったりとか、自主規制を徹底してしまうと、悪意が陰にこもって却ってヒドいことになるんじゃないか?と思わないでもないです。
  実際、「あの方」の教えを信ずる人々への中傷誹謗の主に欧米系の動画、サイトはネットでいっぱいみかけますし、ご紹介したサイトにも、

>「あれ? 誰か一人足りないような…」
 「預言者の人?」

 などという皮肉・イヤミまじりのコメントもちらほら・・・。

 こういう意見を開陳するとやっぱり断罪(差別肯定ということで)されちゃいますかね?

 ちなみにクリスチャンの方にこのマンガ見せましたけど、普通に面白がるかつまんない、と思うかのいずれかで不快感を出す人はいませんでした。外国人の反応も同様でご紹介したサイトでも、カトリックとかクリスチャンの方も普通に面白がっているコメントがついてましたが・・・。

 一番の疑問は「人であり神である」イエスより、あくまで「人間」であるはずの、あの方に対する扱いの方がよっぽど気を遣われている、という現状がなんだかなぁ、と思ってしまうんですが。
 イスラム教界でムハンマドの描写についてはどういう議論があるのですかね?キリスト教同様、イスラムにもリベラル、保守、といろいろあると思うのですが・・。

413Sekko:2009/10/14(水) 20:13:47
「触らぬ神に祟りなし」
 大羊さま

 日本に限って言えば、仏教やブッダはもちろんなじみがあるし、キリスト教も一応15世紀に入ってきて一時は流行ったわけだし、明治維新以降は、西洋キリスト教文明をいろいろ採用したのだから、これも、信者数が少ない割りになじみがあるのではないのでしょうか。お釈迦様の花祭りよりキリストのクリスマスの方が商業的に根付いてることもそうですね。その点やはりイスラム教とは、そのようなはっきりした接点がなかったのでなじみがないのは確かだと思います。
 それにいわゆる一神教の中では、同根の創造神を戴いているはずですが、ユダヤ教の神とイスラムの神は、具象化する偶像崇拝の禁止が徹底しているのでアニメのキャラには使いようがなく、その点でキリスト教の神は三位一体の人格神ということでずっと図像化されていたので使いやすいんでしょう。イエスやブッダが「元人間」というか、一応「歴史的人物」であり、同時に人間の条件を超えたというのも、超能力者テイストでいろいろ転用しやすいんでしょう。
 その点、歴史的人物のMさんの方は、神の言葉や意志を仲介する預言者であり(もっともM さんはイエスも one of 預言者だって言っているわけですが)、うまく他の二人の仲間キャラとしてアレンジできないのかも。
 実際にはどの宗教の教祖にでも起こることですが、Mさんを神格化しちゃっている異端グループもあるわけで、まあ、今の国際情勢から言っても、それこそ「触らぬ神に祟りなし」っていうことでしょうか。

 考えたらこの「触らぬ神に祟りなし」って智恵は奥が深いかも、です。宗教や欲望に関するリスクマネージメントなんでしょうね。
 信仰というのが「信頼」に基づくとしたら、難しいところです。最終的には「分別」の力で、でも、それにもインスピレーションのひと押しが必要かもしれないし・・・

414迷える大羊:2009/10/14(水) 23:21:28
すみません・・・。
 先スレ「メディアにおける・・・」で御紹介したサイト、よくみると、どうも、エロな方面のマンガ、アニメもかなり紹介されていて、現在のところ、その手の作品が一面に出ています。申し訳ないんですけど、URLの方だけ、削除できますか?

 日本マンガ・アニメが普及するのはいいけど、こんなものまで観るなよ、てな感じでネットも良し悪しですね。

415Picky:2009/10/15(木) 21:33:48
大羊さま
大羊様、いつもメッセージありがとうございます。管理人のPickyです。
さて、URLだけ削除とのことですが、管理人は基本的に全文削除できても一部削除はできないんですよ。で、このページの下の方へとずずずいっとスクロールしてくだされば、「自分の投稿の編集」ができますのでそちらでお願いできますでしょうか?
ご面倒ですがよろしくお願いします。
ところで、大羊さんの投稿を読んで、ちょっと前に流行ったダンブラウンの小説、あの方を題材にしていたらえらいことになっただろうな、と思いました。おっと、触らぬ神に、でした!

416迷える大羊:2009/10/17(土) 06:43:09
触らぬ神に・・ですか。
 お相手ありがとうございます。やはり、結論は触らぬ神に・・・ですか。しかし、不公平な気もしますねぇ。人であり神であるはずのイエスとかカトリックとかは散々パロディとかギャグのネタにされているし、ブツダだってここまで気を遣われてないんですけどね。
 侮辱はいかんにしても、なんでここまで扱いに差があるの?てな気も。

 こちらでも、教会でも、人であり神でありとか三位一体、ってなんやねんってさんざんツッコミましたし、「あの方」も同じツッコミを入れていましたが、今思えば、重要なのはそんな理屈ではなく、信仰の実際の実態の方かなぁ、と思わないでもありません。
 どう考えても、実質的に神様扱いされているのは「あの方」の方のような気がしますけどね。

417今紫:2009/10/17(土) 21:09:49
日本におけるカトリック教会の人物の列聖、列福はありえるか
 竹下先生、お久しぶりです。先生の掲示板に書き込みを入れて4年が経ちますが覚えていらっしゃるでしょうか。あれから洗礼を受けて3年の歳月を迎えました。

 さて、先生に質問があります。日本におけるカトリック教会で日本二十六聖殉教者、日本205福者殉教者、日本十六聖人殉教者(聖トマス西と15人)、2008年(平成20)11月24日に福者ペトロ岐部と187殉教者が列聖、列福されてきました。現在、高山右近や北原怜子、チマッティ神父の列福運動が盛んですが、では、それ以外に日本のために尽くした宣教者や信徒への列福、列聖はありえるのでしょうか。

 日本のカトリック信者の大半は外国の聖人らを崇敬していますが、わが国におけるカトリック人物(あくまでも故人に限ります)のほとんどが未だ列福はおろか、教会による公式調査や崇敬が少ないのではないでしょうか。

 たとえば、永井隆博士や岩下壮一神父に細川ガラシア、大友宗麟、B・プティジャン司教にM・ド・ロ神父、戦国時代、徳川時代、幕末から明治、大正、昭和のカトリック教会に進行と力を示した殉教者に証聖者らがあげられますがどうなるのでしょうか。やはり、彼らに対する崇敬が必要なのでしょうか?

418Sekko:2009/10/18(日) 07:44:05
列聖列福について
 列福、列聖に至るまでの手続きは複雑で、「公式調査」などの前に、基本的にはボトム・アップ、教区レベルで運動が盛り上がらなければなりません。上から教育的な意図で今度はこの人を、って感じにはならないし、その意味では活動修道会系の人の方がネットワークがしっかりしていてチャンスが多い気がします。チマッティ神父なんかも、サレジオ会はもちろんですが、出身のトリノとかの地元の教会でがんばって熱心に奇跡を求める祈りをしてる人の方が日本より絶対数は多いんじゃないかなあという気がするんですが。何か起こるとしたらトリノじゃないかなあ、と。
 しかし・・・私は、個人的には奇跡譚も聖人システムも好きですけど、実際問題として、今、誰かを列福まで持っていくには、崇敬心や情熱だけでなく、それなりの時間と費用がかかります。ある意味壮大な無駄で、まあそれはそれで、時間や費用に換算できない次元での価値や豊かさがあると思いますが、そもそも、そのような徳のある方たちは、公式のタイトルがあろうとなかろうと、すでに尊敬の対象にもなり、今生きている人間の助けにもなると思います。そういう方たちの気持ちや信仰を受け継いで、今の世界をよくしていくことに時間と金を使うことで本当の意味での諸聖人のコミュニオンに参加できるのではないでしょうか。仏教に「妙好人」って言葉がありますが、広く知られることのない地味な信仰者でも、本当に聖人のような人は少なくないかもしれません。公式の聖人として光をあてられるのか、野の花のようにひっそりと過ぎるのか、それこそ私たちの思惑や理解を超えたいろいろな恵みのあり方なんだと思います。
 今紫さんの挙げられたような方たちの多くは、すでに信仰の恵みによって報われてるような気もしますし。
 今紫さんの生活が充実したものでありますようにお祈りします。

419今紫:2009/10/18(日) 15:46:40
返事と訂正です
 ご返答ありがとうございました。神への信仰と謙遜で柔和に生きてきた彼らに倣いより充実した生活を送って参ります。
 それから、訂正があります。質問文の中に「進行」という言葉がありますが正しくは「信仰」の誤りです。お詫び申し上げます。

420迷える大羊:2009/11/23(月) 23:19:40
ベルメルシュ神父事件
 最近、手がけた事件は殺人だけで124件、帝銀事件、下山事件など昭和、特に戦後の混乱期の大事件に多く関わった、昭和の名刑事、平塚八兵衛氏(1913年〜1979年)の回想録(「刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史 佐々木嘉信著、産経新聞社編、新潮社)を読みました。
 一般的には昭和三十八年の村越吉展ちゃん(当時4歳)の誘拐殺人事件において、アリバイの矛盾を突破口に犯人を自供に追い込んだことで有名な方。
 そのプロフェッショナルとしての意識の高さ、すさまじい捜査、犯人検挙への執念に思わず唸らされてしまいました。推理小説に出てくるような「名刑事・名警部」という存在が本当にいるんだ、といった感じで。

 そんな彼が手がけた事件の一つにスチュワーデス事件がありました。これは、昭和34年(1959年)三月十日、東京・杉並区の善福寺川で、英国航空でスチュワーデスをしていてカトリック信徒であった武川知子さんが遺体で発見。司法解剖の結果、ベルギー出身の司祭ベルメルシュ氏が重要参考人として浮上するものの、任意の取り調べも進展しないうちに、同年6月、ベルメルシュ氏が急に帰国、事件は迷宮入りした、というもの。
 平塚氏の回想録を読む限り、容疑はかなり濃厚。血液型の検出を拒んだり、日本語ぺらぺらなのに何もしゃべらなかったり、何よりも急に帰国してしまったり、心証的には限りなくクロっぽい。当時のカトリック教会の対応(急に帰国させちゃった)にはかなり疑問を感じます、というか実際、世論は非難ごうごうだったらしいですが。
 松本清張氏などはこの事件を元に「黒い福音」という作品を書きあげたりしてます。

 この事件の回想を読んでいて興味深いのは、当時の日本人の「欧米人コンプレックス」ぶり。外人は苦手、ってことで捜査員が誰も容疑者の神父に近寄らない、平塚警部自身、「外人相手じゃ呼吸(取り調べの)が乱れてやりづらい」などとこぼしていること。先日、やはり同時代の日本が舞台になった松本清張氏の「ゼロの焦点」を読んだのですが、そこにもやはりそういった趣旨の描写があって、なんていうか考えさせられました。米軍占領が解けてまだ7、8年程度、経済レベル、生活水準も先進国レベルには程遠かったあの時代、欧米とか欧米人相手になるとどこか引いてしまう、屈折した対応が出てしまうところが、なんだかなぁ、と思ったものでした。あと、どうにも気になるのは、平塚氏の回想によれば、ベルメルシュ神父の名が捜査陣に出てきたきっかけというのが、救援物資の横流しの捜査の過程だった、ということ。まさか、教会や神父が??てな感じですが、前述の「黒い福音」ではそうやって布教資金を稼いだことになってます。もう、ダン・ブラウンどころの騒ぎではないですね。

 ところで、このスチュワーデス事件。現在のカトリック教会とか信徒はどう思ってる方が多いんでしょうね?私個人は潔白なら日本の取り調べに従うべきだろう、骨を埋める覚悟でやってきた日本で身の証しを立てるべし、殺人をやってしまったのなら、神ではなく人間なのだからこういうこともあったと裁きを受けるべき。あの当時のカトリック教会の対応って聖書の「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」にまったく反してるじゃないか?何より、素朴な感情として、日本人として不愉快、と思ってしまうのですが・・。

421Sekko:2009/11/26(木) 01:04:13
知りませんでした。
 面白そうなのでちょっと検索。ほんと、便利な時代ですね。

 当時の朝日新聞の記事に、まだ神父の名が挙がっていない頃に、松本清張さんがすでにコメントを載せていて、それによると、

「ともかく犯行のもようからみて犯人は自家用車を持っている。 経済的にもゆたかな男ではなかろうか。 男友達はたくさんあったというが、どうもスチュワーデスになって からの友達が犯人ではないかと思える。
そして彼女の職業がら日本人ではなく、外人ではないかとも考えられる。 外人も中華料理を食べるし、また外人ならこっそり彼女を連れて泊まる ことのできる知人宅などもたくさんあるわけだ。 いずれにしろ犯行の動機は愛欲のもつれだろう。」

 これって・・・これはこれですごいバイアスがかかっているなあと思いました。コンプレックスの裏返しもあるんでしょう。
 別の推理作家は、「男は若くはない。 女にふられた恨みからだというのが私のカンだ。 胃のなかにあった中華料理がわりと高級だった点から犯人は金持で、 彼女が看護婦時代からの友達ではなく、スチュワーデスになってからの つき合いだと思える。 犯行現場だが、よそで殺して死体を運んだ場合、タクシーなら届出が あるだろう。 自家用車、ドライブクラブの車も考えられるが、発見現場で殺したとも いえる。どうも私は発見場所が犯行現場のような気がする。 これもカンだが、殺し方からみて外人ではなさそうだ。」っていうんです。

 1959年に外国航空会社のスチュアーデスが殺されたという時点で、「日本人か外人か」という見方がされること自体、何か偏見に満ちているなあとも思いました。別の記事によると、遠藤周作さんはエッセイの中で、「真相が究明されるまで、あの神父をとり調べるべきだった。あの神父は逃げたらいけなかった。堂々と取調べを受けて、潔白ならば証明すべきだった。あの事件のせいで、どれほどの悪イメージが日本の教会に当時広まったかが計り知れない」という趣旨の言葉を残したそうですね。

 私が新聞記事だけで読んだ感想では、この神父さんが神経衰弱になって胃がおかしくなったので、面倒を避けたかった修道会が帰国させた、というのはありそうだと思うし、何だか、この派手な騒ぎの裏で罰せられずにすんでほくそえんでいる真犯人がいるかもしれないなあとも思います。それが外人だか日本人だかは知りませんが。私のイメージでは、殺人に至るくらいの深い仲になっていたら、もう少し周囲に目立っていたと思いますが。それに当時のカトリックの外人司祭は目立ちすぎて、そんなに隠れてふらふらできたとも考えにくいんですけど。救援物資隠匿何とかはよく分かりませんね。私のイメージではサレジオ会は戦争の同盟国のイタリア系だったので戦中もなんとかやってたけど、管区長のチマッティ神父なんかの窮乏ぶりは大変だったようで、戦後にそんなにいい汁を吸えたとも思えないんですけどねえ。6千通も手紙を残したチマッティ神父の書簡集は1932年のまで読んだんですが、1959年のこの事件の時のことをすごく読みたいですね。当時すでに80歳だったはずで、かわいそう。まあ、このベルメルシュ神父のアリバイとか確信できていたなら、良心の問題はなくて、帰国させたことの是非について悩んだかも。

 真実ってすごく知りたいです。被害者の葬儀ミサとかどうしたのかなあとか、そういうのは小説とかにでてくるのかしら。親がカトリックをどう思ってたのかとか。好奇心が描きたてられます。

 殺人者がでる可能性があるということ自体は、イタリアとかベルギーとか、一昔前はデフォルトがカトリックだし、なんでもあるでしょうから驚きませんが。

 私はこの事件の被害者のようなミッションスクールの出でもないし、若い頃は、「白人の神父さん」とかアテネフランセのアヌーイ神父しか見たことなかったです。彼はサンタクロースみたいですごくやさしいでしたね。

422迷える大羊:2009/11/28(土) 00:09:04
外人(欧米人)コンプレックス
 ってまあ、今でも日本人にまったくなくなったとはいえませんが、あの時代、戦後間もない時期のそれはちょっと異様ですよね、今からみれば。まあ、当時の状況を考えればムリないといえばムリないのですが。
 あと、あの時代に日本に居住、滞在する外国人といえば、いわゆる在日韓国人、朝鮮人と中国系が少々で、東京ですら、いわゆる「外人」を見かけることは稀だったでしょうし。
 捜査員も、日本人の犯罪者を数多く「落として」きた平塚警部もどう接してよいのやら、かなり困惑したようです。
 今は外国人なんて全く珍しくなく、通勤途中の電車やバスの中でもよく見かけるし、私の職場でも、いわゆる在日韓国人以外の、人種が異なる外国の方いますし。ここ十年ちょっとくらいでやけに増えたなぁ、と思っていましたが、実際、日本に滞在、居住する外国人って10年前の5割増しだそうで。
 平塚警部も存命なら「外人は苦手」なんていってられませんね。

 ところでクリスチャンの増減と日本人の外人(欧米人)コンプレックスの間には微妙な関係があるような気がするのは、単なる思いすごしでしょうか?
 というのは日本でクリスチャンが増えた時期というのは明治時代と戦後間もない時代ですが、いずれも欧米人コンプレックスとか憧れの強かった時期ですよね。
 逆にいえば、イエスは今でも日本では「ガイジン」扱いってことか?

423あがるま:2009/11/30(月) 14:01:04
ドン・ボスコ
私の住んで居た処がこのドンボスコ(さう呼ばれてました)の近くなので興味があります。
この団体が作つた高等学校の出身者で有名なのはヴァイオリニストの江藤俊哉で、彼の旧宅は私の家の近くでした。
今でもサレジヲ会の尼さんを見かけます − 外国人神父が一緒でも別に目立つほどではない。近くの東伏見にはイエズス会の立派な施設もあります。
戦後のどさくさ紛れに沢山の外国人が犯罪がありました。
上智大学の所有になつて居る四谷お堀端の運動場は不当占拠したものだし、大久保のロッテ製菓の工場もさうだといはれてゐます。
(神父がとは言はないが)耶蘇教徒は5百年も前から日本人を東南アジアや欧州に売笑婦として売り飛ばすのが商売だつた。

424Sekko:2009/12/01(火) 08:19:28
この話はこれで終わりです。
 何々事件で誰それが犯人かもしれないという噂話だけなら興味深いこともありますが、「耶蘇教徒は・・・が商売だった」とあるカテゴリーの人をまとめてしかも5世紀にわたって断定するような中傷は歓迎しません。これが仏教徒でもムスリムでも女性でも日本人でもフランス人でも同様です。ここは一応質問箱なので、個人の見解はご遠慮ください。

 大羊さんの意見について。日本で一番布教が効を奏したのは安土桃山時代かなあと思ってました。その時も「南蛮人」のもたらしたテクノロジーが興味を引いたと思いますし、カトリックで、明治時代は、インテリがプロテスタントに惹かれた、ってイメージを私は持ってました。戦後は、修道会とかが戦災孤児の救済をしたことや、占領軍の多くがクリスチャンだったでしょうし、それこそ救援物資の流れも、横流しは知りませんが、キリスト教国から教会や修道会を通した援助もたくさんあったと思います。今の豊かな日本ではぴんと来ませんが、マザーテレサのように布教を直接目的とせずにひたすら奉仕に身を捧げた人もいます。
 日本では、キリスト教はしばしば欧米文明とセットとなっていた上、ミッションスクールのお嬢様カルチャーがあって、政財界人の夫人なんかにミッションスクール出身の方が多いとかで憧れがあったのかもしれませんね。ホテルのチャペルでキリスト教風に結婚式を挙げる時、白人男性がバイトで牧師役をするとか、カトリックの神父でも日本人が司式するとがっかりするとかいう話もあるそうで、そうなると、やはり、欧米風への憧れみたいなのと結びついていたんでしょう。今はアジア・アフリカや南米の方が信者数が多そうで、日本の教会でも信者の半数が外国人なんてところもあるようです。「イエス」は、パレスチナ人だから、本来ならヨーロッパでは外人扱いですが、日本ではどうなんでしょう。お釈迦様はインド人だし、山とか樹とか滝とか蛇とか鹿のような人間や動物ですらないものでもご神体として拝んだりできるんだから、イエスの「ガイジン性」自体はどうってこともない気もしますけれどね。

425VINO:2009/12/07(月) 15:37:38
欧米かっ!
ちょっと古いギャグですみません。 私もキリスト教を取り巻く風潮のひとつにこの欧米へのコンプレックスは切っても切れない関係があると思います。安土桃山時代にカトリックが入ってきて、江戸時代は禁止されていたにも関わらず、長崎、特に五島列島の辺りは日本の古来からの風習、それこそ神道、仏教と独特な感じでMIXされたカト〜が浸透しているそうですし、開国後は旧・武士階級から広まったそうですし(だからなのか、年齢が多い方、おハイソな感じ未だにあります。高学歴で、英語にも堪能・・・なんて方も珍しくないですし)これは主に所謂メインラインの教会に見られる現象でしょうが、戦後はレッドパージ政策とセットで福音派・・・のグループがどどど・・・と入って来たと思います。
またまた悪口になりますが、彼らの信仰の方向性は<キリスト教は偉いっ!正しい!>ですし、元々は謙虚が美徳・・・の日本人の自分を謙遜する部分と妙に合ってしまうのかな?とも思います。なまぐさ坊主とはよく聞きますが、神父や牧師ですと聞きませんよね?  数年間、外国で過ごしまして感じた事は、始めはメインラインの人間が立ち上げた日本語のプロ〜教会も熱く、濃いFの人たちに浸食されつつあるということです。子供をインター校に通わせたり、そのカレンダーに沿った生活をしている間に<欧米は偉い!>がどんどん増殖するのでしょうね。女性に限って言うと、日本に普通に暮らすのと違い、親戚関係やご近所との間のお嫁さん、奥さんを演じなくても良い・・・がさらに拍車をかけるのだと思います。そうして熱い信仰を持ってとにかく多くの人が受洗しますが、帰国後はとまどうようですね。メインラインではぬるいし、違和感を抱くそうです。困ったもんです・・・話はそれますが、今、私の通う教会では<聖☆おにいさん>が人気です。二人ともとても良い人ですよね。私は仏陀も好きですよ。

426Sekko:2009/12/09(水) 20:10:49
女性の場合
 日本の女性のカトリック信者で、先祖代々の宗旨(仏教)と暮らしている人には、世代や土地柄によっても違うでしょうが、肩身の狭い思いをした、隠れキリシタンのように暮らした、という人もいれば、「あそこの奥さんはキリスト教だから」ということで、完全に世間にあわせなくても例外扱いしてもらえて、ある種の自由を享受できた、という人もいます。キリスト教だから、と冠婚葬祭の縛りをうまくかわして日本内外人の個人主義ですむとしたら、差別やいじめがなければ楽かもしれません。差別やいじめは、原則横並びの人が「ちょっと違う」時に起こるので、「欧米だもんね」と言っちゃえば免れるのかも。
 大昔に小学校の同級生の女の子が急に「私は今日からアニエスと呼んで」と宣言して驚いたことを覚えてます。「・・子」がデフォルトみたいな時代に、突然「アニエス」ですから。洗礼を受けてアニエスになったと言うことで、なんだか根拠なく「尊敬?」されてましたよ。というのは大げさだけど、仲間はずれとかでなかったのは確実です。
 もっと言っちゃうと、日本においてキリスト教がいまだに「欧米風」で寛大に扱われてるのって、私には、コンプレックスよりも、「女子供」への差別の匂いがしますね。女の子はミッションスクールに入れといてお嬢様風で洗礼受けてもちゃんと伝統社会のエリートと結婚できて、「だんな様」からも教会行事への出席を「ゆるしてもらえる」とか。家の先祖の法事などさえちゃんとこなしてれば、教会は「女子供の世界」という感じがあるのではないでしょうか。
 それって、「家事の手抜きをしないのなら外で働くのを許す」的な発想ではないでしょうか。

 実は、17世紀以降のヨーロッパのカトリック国で、すでに「宗教=女子供」のレッテルが存在していたという事実もあります。批判精神のある大人の男は宗教の「子供だまし」の言説など信じないが、女子供のしつけや気晴らしには勧められる、という言説があちこちに残っているんですよ。

 日本の場合、よく言えば女子供は、精神が柔軟で適応能力もすぐれているから「外来」文化も違和感なく取り入れて自分のものにしてしまうけれど、「大人の男」は、それこそコンプレックスとか世間体とかいろいろ邪魔して、保守的になるとも考えられるのですけれど。

 逆に、ヨーロッパでも教会離れが進んだ時代には、ジャンセニズムに見られるようにその反動としての神秘熱や厳格さも出てきて、それがまた、キリスト教離れにつながったという悪循環もありました。
 日本でマイナーなキリスト教の中で、一部の独善的な言動がことさら目立つことになれば、全体としてまさに負のスパイラルですよね。

 ドン・ボスコ社の新刊『自由人イエス』
 http://www.kyobunkwan.jp/xbooks/shop/45_718.html

 をぜひ読んでみてください。

427迷える大羊:2009/12/12(土) 10:03:32
宗教=お花畑?
>実は、17世紀以降のヨーロッパのカトリック国で、すでに「宗教=女子供」のレッテルが存在していたという事実もあります。批判精神のある大人の男は宗教の「子供だまし」の言説など信じないが、女子供のしつけや気晴らしには勧められる、という言説があちこちに残っているんですよ

 うーん、ガリレオ裁判とか魔女狩り、異端狩りの印象が強烈すぎるので、意外な話ですね。でも、私の独断と偏見ではカトリックの世界ってわりと、それはそれ、あれはあれ、信仰の世界と現実を割り切って分けて割り切って考えるタイプの方が多そうな感じ。良くも悪くもあまり「宗教の信者」といった感じのする人が少ないように思います。葬式でも普通に焼香する人が大多数だし、やたらと神経質に神社仏閣を避けてまわる人もあまりいませんし、プロの一部教会、信者のように信仰心が昂じすぎて、聖書はすべて事実と言い張る人もいませんし。そういうことを考えれば「さもありなん」といった気もしますね。

 面白かったのは、麻生元首相と鳩山現総理の公開討論。カトリック信者の麻生氏の方が見た感じといい、発言内容といい良くも悪くもプラグマティックで、おそらくは無宗教の鳩山氏のいうことの方がこれまた、良くも悪くも「宗教っぽい」感じがしたことですね。

 しかし、キリスト教会の女性比率の高さは他宗教と比べても際立ってますね。いつも、どうしてだろ?と考えます。

 蛇足ながら、これはあくまで独断と偏見であり、別にカトリック、麻生氏、鳩山氏を特に持ち上げてるわけでもなければ、貶めてるわけでもないことをお断り申し上げます。

428marie(HNnaoからかえました):2009/12/13(日) 17:49:47
キリスト教の時間
キリスト教には典礼暦という暦があります。待降節からはじまり降誕ー公現ー受難節ー復活節ー聖霊降臨ー主の昇天ーそして、マリアの被昇天、それ以後は諸聖人の祝日がつづいて、また待降節とめぐつてゆきます。これは我々がイエスの生涯を共にしながら、イエスにちかずく喜びの日々でもあります。こうして、一年の円環的時間がまわつてゆき、生涯、これはくりかえされてゆきます。
しかし、またキリス救には天地の創造からキリストの再臨までの線的時間もあります。円環的時間はわかりやすいですが、線的時間は日本人には馴染みがうすいようにおもわれます。私の考えでは円環的時間が螺旋状にあがつてゆき、この線的時間を生きてゆく、というのがキリスト教の時間感覚かとおもつています。そのめざすところは「自由他在」つまり先生の「自由人イエス」の解説によりますと、「自分が自由で何ものにも捉われない境地にあつて、その自由を人と共にあることに行使するということ」にあると考えられます。イエスの自由はまさに自由他在の完成であつたわけですから、線的時間はやはりイエスの再臨によつて、完成される、そのためにはわれわれはイエスにならつて円環的暦の時間をいきてゆけばいいのかな・・というのが今の私の考えです。足りないことや間違いがありましたら、ご指示いただけますと幸いにぞんじます。

429marie:2009/12/13(日) 22:05:20
追加です。
典礼暦はイエスからみれば、線的時間になりますね。ひとりの人の生涯が2千年の長きにわたつて、また将来も信者の円環的時間になつてゆくというのは、やはり、特別なことですね。イエスという点が人類の環にはまり込んでゆく不思議さを感じます。人間のすみずみまでイエスが住んでいるという感覚に呆然といたします。直線と円環が同時存在になる人物は、やはり神の子なんだな〜とおもつているところです。変ですかね?

430marie:2009/12/13(日) 22:05:20
追加です。
典礼暦はイエスからみれば、線的時間になりますね。ひとりの人の生涯が2千年の長きにわたつて、また将来も信者の円環的時間になつてゆくというのは、やはり、特別なことですね。イエスという点が人類の環にはまり込んでゆく不思議さを感じます。人間のすみずみまでイエスが住んでいるという感覚に呆然といたします。直線と円環が同時存在になる人物は、やはり神の子なんだな〜とおもつているところです。変ですかね?

431Sekko:2009/12/16(水) 04:02:49
キリスト教の時間
 そうですね。典礼暦と「創造から終末に向う一回性の線的時間」の考えはキリスト教の中で上手くできていると思います。キリスト教無神論の歴史の中では、必ず、この創造に関する「初めと終わり」の概念が否定されて、物質世界は永遠であるという主張がされてきました。これはエネルギー普遍の法則とか、原子の不滅みたいな理論の形成とも連動しているんですが、そのうち、地球はもとより、宇宙にもビッグバンによる「始まり」があったとか、いつかはクラッシュして消滅するとか、見方のスケールを変えると、永遠性とか循環性とか終始のある線的時間は、互換性があったり、共存したりできると思います。もっとも普通の人間には、循環し再生する自然の営みに比べて、生まれ育ち老いて死んで消えていく自分や自分の近いところにいる同類のかかえる線的時間の一回性の意識というのは強烈で、不可逆的な死の恐怖をどう管理するかというところから宗教儀礼も生まれたのでしょう。仏教でも弥勒信仰などで釈迦の入滅後56億7千万年後の未来に姿を現わして多くの人々を救済するとか、一応線的な時間もありますが、基本はこの世の時間や空間などは幻であり、循環的な輪廻から脱することこそ救済ですよね。キリスト教も、終末の後に魂といっしょに肉体も復活するとかいうことで、肉体の一回性を相対化したり、線的時間を無意味にする各種聖人の時空を超越した「交信」などによって、歴史性を無化する工夫があります。
 イエスが十字架上で一度死んだけれど復活して、そのままずっと、生きているというのも、たんに聖なる人が死後も腐敗しないとか存在の仕方を変えたというより、また別の生き方へとすべての人をいざなってる感じはします。
 愛する人の誕生日や命日やらを毎年想起するというのは、自然な感情だし、それが権威的に押しつけられたら嫌ですが、繰り返して想起しないと人って忘れっぽいからなあ、という実感もあります。
 螺旋的に円環しながら上昇していくイメージはすてきだし、そこに神の国の建設とかいうポジティヴな目標が与えられるのはいいことですね。そうしないと、正直言って、毎年季節や暦や行事は巡るのに、人生の後半ではそのスピードが年々早くなって、体力も衰え、螺旋上昇どころかきりもみ的に落下するって実感さえありますから。それを救うのは、「この私の人生」の救済とか螺旋上昇でなく、やはり、自分が自分に立っているけれど他者と生きているのだという連帯の目線であり、個人の老いや死を超えた大きな全体に参加できるというイメージです。実際、自分の生も、すでにいない多くの人の共同作業の上で育まれたという感謝と感動がすでにあります。私一人では、家一軒建てられず、食糧も調達できず、病気も治せず、サヴァイヴァル力はゼロですから。今私より弱い立場にいる人とか次の世代の人などに私も微少でも何らかの形で役に立ちたいです。

432marie:2009/12/16(水) 09:24:37
ありがとう
お返事ありがとうございました。「別の生き方へとすべての人をいざなつている」という復活のイメージに共感大なるものがあります。

>>それを救うのは、「この私の人生」の救済とか螺旋上昇でなく、やはり、自分が自分に立っているけれど他者と生きているのだという連帯の目線であり、個人の老いや死を超えた大きな全体に参加できるというイメージです

私のキリスト教時間イメージで生きることに自信のようなものが生まれました。ありがとうございました。

433M.N:2010/01/07(木) 11:38:48
認識論と存在論
哲学でいう認識論と存在論はどう違うのでしょうか。
たとえば机の上にコップがあるとします。このコップがあるようにみえているが、
実際にはないというのが観念論で、あるように見えているし実際にもあるというのが
実在論とします。そこで認識論というのはコップがある(存在する)根拠を理路整然
説明するものだと思うのですが。そうであれば結局認識論=存在論ということにならないでしょうか。なぜ哲学では認識論、存在論などとわけるのですか。

434Sekko:2010/01/13(水) 23:45:39
存在論について
認識論と存在論の違いは、かなり大きな問題です。哲学的にも、コンセンサスなどありません。「認識論と存在論の違い」でネットで検索すれば、いろいろな考え方が出てくると思います。
 カントはそう言わないと思いますが、私はハルトマン風で、認識論は存在論を必要とし、認識し得うる関係の存在論だと思います。
 つまり、存在論はかなり形而上的な話ですが、認識論はもっとプラグマティックで、認識するものされるものとの関係性が問題になるからです。
 たとえば、M・Nさんが「存在している」かどうかは、少なくとも私にとっては、こうしてここで、私に問いかけてくださリ、私が答えることによって意味を持つものであります。逆に、ここを黙って見てくださっている他の方の存在は開示されない限り、私には意味を持ちません。私は最近、『無神論の系譜』(仮題)を脱稿したのですが、神の存在証明とか言うものも、そういう堂々巡りの連続でした。存在論と認識論と論理学の間を行ったり来たり。マザー・テレサが神を見失って苦しんでいたというのが、死後に、一部で話題でしたが、「聖人」と呼ばれる人たちで、神の存在に対する信仰は失わないけれど、神の不在(非存在でなく)に悩んだ人は少なからずいます。
 私の音楽の生徒で6歳の少女が年末、突然、サンタクロースは存在しない、と言った時、私は、存在の仕方にはいろいろあるもので、私は信じている、もしあなたの両親を含む多くの人が信じていなければサンタクロースは存在しなくなるんだ、と答えました。サンタクロースの名のもとに、子供を喜ばせたいと親に思わせるのガサンタクロースの存在の仕方じゃないかって。
 神には体とかないんですから、あるのは「情報の元」みたいなもんで、どこにでも宿せるから、自分の心に囲っておけるんです。
 最近、ウィルスは微小すぎて遺伝子のような情報しかなくて、ミトコンドリアのように、人間の遺伝子も昔からウィルスを取り込んでは進化してきた、今もひょっとして進化のヒントを得るためにインフルエンザ・ウィルスなどを取り込むのだ、という趣旨の医学論文を読みまして、神と似てるなあと思ったところです。ウィルスは「火星人の襲撃」のように、実体を持った「敵」でなく、からだの中で増殖するわけでもなく、体がその情報を次々とコピーしてしまうだけなんだそうです。他者による受容がその存在の根幹というか唯一の実体であるような存在もあるんだなあ、と思うこの頃です。
 質問の内容とずれてるかもしれませんが、クラシックな答えは他所で探してください。

435あがるま:2010/01/15(金) 04:56:20
認識論は心理学で
存在論は論理学です
バークレー僧正が『存在esseとは知覚されるpercipiことだ』と云つたことはご存知でせう。
存在を『がある存在』DaSeinと『である存在』SoSeinに区別するのは和辻哲郎以来だと思ひますが、それを適用すれば認識論は『である』であり存在論は『がある』になります。
アリストテレス以来の伝統では両者の区別はなく主語(基体)に述語を結合させた命題でもつて事態を端的に表現して居ました。
『存在は本質的に論理的であり、論理は単に主観的な心理現象ではなく、あくまで客観的な実在の表現』です。
ニコライ・ハルトマンはカントの存在論的解釈で『我々の認識が物自体の認識ではないならばそれは認識と云ふ事柄自身に撞着する』と云ふ訳です。
カントが『存在とは実在的な述語ではない』とか『観念論論駁』や『可能性の条件』と云ふのは心理学的解釈を擁護した訳ではありません。

436M.N:2010/01/15(金) 10:48:59
認識論と存在論
お二人に感謝します。ありがとうございました。

437あがるま:2010/01/26(火) 12:46:36
村上靖彦がブロッグで
滞日中のパトチカ(パトチュカ)の1月23日の講演に触れて居る。
彼に特徴的な現出と意味と存在の区別が不明確な『ノエマの現象学』が、フィンクの『自体的に現出する世界遊戯』に由来することは夙に新田義弘が指摘して居るが、クリマとパトチカの仏訳者が同じなのは重大な意味があるのだらう。

438あがるま:2010/01/26(火) 12:50:21
訂正
滞日中なのはプラハカレル大学のカレル・ノヴォトニKarel Novotnyです。
彼もクリマを読んで居るだらうから、今にクリマについても語りだすかも知れない。

439Sekko:2010/01/27(水) 20:08:08
分りませんよ
 エリカは年末ずっとプラハで、学会記録の翻訳チェックをしていたんですが、パトチカの専門家と同室に詰めていて、彼女の発行したクリマの本が書架にあったに関わらず、彼らは全く本の存在すら知らなかったそうです。でも、年末の滞在で、ずっと探していたクリマの文章が一つ見つかったそうで、収穫はあったようです。今この瞬間にクリマに興味を持っているのは、世界でエリカと私とあがるまさんくらいですよ、きっと。エリカはクリマの思想ついてあれこれ考えているのは自分の他は私だけだと言ってましたから。

440あがるま:2010/02/06(土) 22:33:18
クリマ、パトチカ、未知動物、神
このサイトの主催者が亡くなつたことをお聞きし非常に残念です!

<クリマ>は哲学者ではなくて売れないジャーナリスト兼小説家だつた − その小説も(まだ読んで居ないが)ポルノに近いものらしいから、哲学者からは相手にされなかつただらう。

<パトチカ>の履歴を出版社の頁で見て居たら、彼は若い頃デルプフェルト − 外科医のトワルトと同様シュリーマンの協力者で、アテネのアクロポリスのパルテノン神殿とエレクティオンの間にある旧アテナ神殿跡(今ではDoerpfeld-Fundamentと呼ばれる)の発見者 − に従つて考古学を研究して居たらしい。

<未知動物>
以前史的イエスの研究者のブロッグで文書による史的イエスの研究と一角獣の研究の何処が違ふのか質問した覚えがある、彼が何と答へたか忘れたが、私は同じ様に根拠のないもの − 将来一角獣の骨か化石かイエスの骨が発見された時のためには役立つかもしれないが(とクリプキが云つてた) − と今でも思つて居る。

441あがるま:2010/02/06(土) 22:36:11
クリマ、パトチカ、未知動物、神
このサイトの主催者が亡くなつたことをお聞きし非常に残念です!

<クリマ>は哲学者ではなくて売れないジャーナリスト兼小説家だつた − その小説も(まだ読んで居ないが)ポルノに近いものらしいから、哲学者からは相手にされなかつただらう。

<パトチカ>の履歴を出版社の頁で見て居たら、彼は若い頃デルプフェルト − 外科医のトワルトと同様シュリーマンの協力者で、アテネのアクロポリスのパルテノン神殿とエレクティオンの間にある旧アテナ神殿跡(今ではDoerpfeld-Fundamentと呼ばれる)の発見者 − に従つて考古学を研究して居たらしい。

<未知動物>
以前、史的イエスの研究者のブロッグで文書による史的イエスの研究と一角獣の研究の何処が違ふのか質問した覚えがある、彼が何と答へたか忘れたが、私は同じ様に根拠のないもの − 将来一角獣の骨か化石かイエスの骨が発見された時のためには役立つかもしれないが(とクリプキが云つてた) − と今でも思つて居る。

442Sekko:2010/02/16(火) 06:46:28
クリマは哲学者として認識されてましたよ。
 クリマの小説には確かにSMやスカトロジーのシーンが出てきますが、彼のソリプシスムと明らかに連動してる哲学小説の面があります。社会主義政権が倒れた後すぐにプラハのある出版社がクリマの小説を他の匿名小説と共にキッチュな小説として出しました。それで誤解を招いているのかもしれません。
 エリカのお勧めは1909年に彼が自分が神であるという啓示を得たときと並行して書かれた『チェコ物語』で彼の父親がモデルになっているようですが、その政治家のインセストシーンなど出てきます。でもその主人公は独我論にたどり着くのです。ストイシズムとマゾヒズムは同根で、神の創造の業はマゾヒズムの一種であり、クリマのソリプシズムも苦しみの中から生まれた、とエリカは言っています。『チェコ物語』は発見されている断片の半分くらいがチェコで出版されていますが、残りはエリカが持っているということです。
私は全集に入っている仏訳の Le Grand Roman を読みかけています。なかなか途方もないものです。

443金太郎とまさかり:2010/03/06(土) 21:17:27
(無題)
はじめまして、金太郎とまさかり、と申します
ハンドルネームで「申します」もないとは思いますが・・・

つい最近になって個人的事情によりキリスト教とものみの塔について調べていた時
竹下さんの「知の教科書 キリスト教」を書店で少し立ち読みしまして印象に残り
今は「カルトか宗教か」を拝読している最中です

著書の中の「人がカルトから離れるとき」の件で「エホバの証人」
と書かれているのですが「ものみの塔=エホバの証人」とはやはりカルトなのでしょうか?

私はものみの塔に関係している人間ではありません
古い知り合いが5,6年前からものみの塔に自ら入信し、活動に参加しています
その事はつい最近知ったのですが
話を聞くと社会生活からどんどん離れていってしまうようで心配でしょうがありません
今の今までものみの塔はカルトっぽいなと思っていましたがよく分からなかったし
とは言え、家族でもない自分のようなものが脱会のすすめなど到底出来ません
出来る事と言えば竹下さんの仰るとおりに自分のささいな日常を一方的にメールしていたくらいです
知人の親御さんは伝道を聞かない代わりに自由にさせているようです、話しを聞いた限りですけど

どうすればいいんでしょうか?
本音としては脱会してもらいたい
でも5,6年も教団の教えや仲間とのつながりの中で生きてきたわけですから
もう知人の血肉の一部になっていると思うんです

ひょっとして竹下さんにご相談する事ではないのかも・・・
もっとしかるべき機関に相談するべきなのでしょう
もう少し時間がたてばひとりでも今よりは冷静に考えられるとは思いますが

不適切な書き込みと思われましたらお手数ですが削除お願いいたします
では失礼いたします

444Sekko:2010/03/07(日) 07:22:16
難しい問題ですね、
 こればかりは万人向けの回答はありませんね。
 私の親戚にも、知り合いにも「エホバの…」信者はいます。日本にもフランスにも。
 私の知っているケースでは、大人の入信はそれなりの心理的社会的理由が想像できて、そのような布教の仕方には異論があるのですが、そのまま何十年も、それなりにいろいろな面で折り合いをつけてやっているようですので、もしも分岐点で他の道を選んでいたらその人にとってもっとよい人生が送れていたのかどうかはなんとも言えません。ただ、家族を巻き込むことでの葛藤は多く、「エホバの…」の家庭でまれて育った子どもたちは、かなりつらいと思います。私の音楽仲間で親友といっていい人物の場合、大騒ぎの末、今は社会的にも私生活的にも自立と平安を得ています。彼の両親も心の底では「神よりも共同体よりも自分の子がかわいい」と思っているらしく、今はなかよくやっていますが、両親がずっとエホバにとどまっている現実は変わらず、一番つらくて心を蝕むのは、仲の良さにおける「偽善性」のようです。裏切りの感覚や罪悪感もそうです。これはもうどうすることもできませんが、たとえそのような問題がなくとも、人はそれぞれ、貧困だとか暴力とか痛みとかいじめとか病気とか障害とか家族の死,事故、などそれぞれの問題をそれぞれの感受性で生きているのですから、特定の宗教だの共同体だのによる「犠牲」だけを特化して糾弾してもしょうがないと思います。全体としては人権や自由や尊厳を侵すようなグループやイデオロギーを批判していき、個別には、理解して寄り添い、その人から疑いや弱さのサインがあった時に見逃さず、変わらぬ信頼を表明するのがいいんではないでしょうか。
 どこかの自治区みたいなところに隔離されて「出家状態」になるようなタイプの共同体なんかよりはかなりましだと思います。
 私は一般的に終末論的な脅しをかけたり恐怖を煽るタイプの宗教が苦手で、アメリカ系の比較的新しいプロテスタントによくあるわけですが、なんで日本のようにキリスト教文化でもない社会にいる人がわざわざそんなものにはまるのかた不思議です。アメリカ文化の受容のヴァリエーションなんでしょうか。
 先頃のハイチの地震の後で、フランスの「エホバ…」グループの医療班がボランティアで現地に入って活躍し感謝されているドキュメンタリー番組を見たんですが、確かにすごく熱心で頭が下がるんですが、その中心にいる医師が堂々と、これは世界の終りの徴しだ、神の怒りだ、悔悛が大事だみたいなことを口にするのです。サイエンxトロジーとか福音派とか、終末論的なカルトとか、もうハイな状態で、被害者をカトリックから改宗させたりしてました。4人の子を失った母とかに、一人残ったのは神のご加護とか言ってるんです。医療施設を回って、片脚切断された女の子に、もう片脚が残ったのを神に感謝しろとか言ってるんです。切断された方のは神罰だとでもいうのでしょうか。
 とにかく、心身の試練にいるさなかの人に宗教勧誘しちゃいけないというのはフランスなどでは法令化しています。子供にも。学校、病院、高齢者施設などの内部や近辺での勧誘禁止です。逆に、公立の病院にはチャペルがついてます。祈りたい人や宗教サービスを受けたい人は使えますが、信者でない人に働きかけることは一切禁止です。マザー・テレサの施設も、奉仕のみでいわゆる布教宣教はありませんでしたね。外部的にはひたすら奉仕だけ、という修道会はたくさんあります。
 でも、つらい時、怖い時、絶望した時に、宗教を求めるのは人の常だし、ハイチでも、とにかく(カトリックだろうと福音派だろうと一応デフォルトがキリスト教なんで)、みんなイエスの名を叫んでいたそうで、そういう表現の手段があるのはいいなと思います。こういう時に、「神も仏もあるものか」と自暴自棄になる人より、神にすがる人の方が圧倒的に多いのって、そういうタイプの自衛反応をする人間の方が生き残って子孫を残してきたという進化論の自然選択と淘汰の結果なんでしょうか・・・

 でも、痛い人、苦しい人、つらい人が神の名を口にするのはいいけど、救助に来てくれる人、世話をしてくれる人は、心の中で祈っておいてほしい、と私はなんとなく思います。

 あまり答えにはなっていませんが、アメリカ系終末論系の新宗教ヘの対策は、やはり餅は餅屋ということで、キリスト教老舗のプレーンがついているNPOに相談した方が、単なるしろうとの互助組織より信頼できて有効かも、と考えます。お友達の宗教活動が、何らかの個人の危機の解決法だったのか、あるいは「金太郎とまさかり」さんから見て、明らかに世界を狭めてネガティヴに変わったように見えるのか、そのへんもよくお考えください。

445金太郎とまさかり:2010/03/08(月) 00:14:38
(無題)
竹下さん、訳のわからない書き込みに早速お返事頂いて
本当に感謝致します
何度も読み返しています

今日友人ふたりにも話しを聞いてもらい
大分落ち着きました
そのうちのひとりはギリシャ正教やカトリック、プロテスタントに触れてきた人で
やはりものみの塔の事は良く思っていないようです
家族も巻き込むしね、と
竹下さんの仰るとおりに、カルトな宗教から奪還?させるような団体に相談してみたら?とその友人にも言われました
家族でもないのにそんな権利はないと思うとか信仰も古くからの知人の一部になっているから無下に出来ないとか本当にいろいろ話しました

そして話し合った末、当分の自分のスタンスとしては
キリスト教やものみの塔の組織の仕組みなどの知識を増やしつつ
古くからの知人が教団に飽きたり、疑問を持って辞めたりした時に(そうなるかどうかは皆目見当がつきませんが)
受け入れられる体制を作りたいと思います
私が根負けしないように、マイペースで行きたいと思います

今後もこちらのホームページは継続されていくのでしょうか?
何かあればまた寄らせて頂きたい所存です

446迷える大羊:2010/03/10(水) 22:09:36
教会との相性
 まだ、こちらの掲示板は「生きて」いますでしょうか?ワケあってキリスト教の世界に関わって数年。しかし、未だに受洗はしておりません。別にキリスト教とかイエスが嫌いとか賛成していない、というわけではありません、疑問はいろいろありますが・・。

 その理由(受洗)しない理由の一つは、合う教会がないってことがあります。私の経験、見聞の範囲では、老舗の教会、大手の教派というのは理性的。怪しげな要素も私的にアレルギーを催す要素はほとんどないのですが、概して形式的でお役所チックな面が多く、平たくいってしまうと「つまんない」。

 では、活気があって「楽しい」教会ならいいのか、といえば、そういうところは信仰面では恐ろしく保守的な場合が多く、たとえば、他宗教、日本文化に対し妙に排他的(お焼香は絶対できません、とか・・)、聖書を一字一句信じて、疑わない、やたらと神聖視する、とかでちょっとついていけない、と思わされる場合が多々ある。
 特に害がなく楽しければいいんじゃない、という意見もありそうですが、自分の宗教観や考えからあまりにかけ離れているのでは、周囲に合わせるのがつらいところ。

 「現役」のクリスチャンの方はこの辺り、どのように考えていらっしゃるのでしょうね?どこで妥協し、どこで譲らないのか?考えを聞いてみたいところです。

447Sekko:2010/03/11(木) 21:37:50
教会の選び方
 って・・・

 受洗によってある共同体に参加することは、ボランティアグループや趣味の同好会と違うのですからいろいろ比較検討して最適なものを選ぶというコトニハかにらずしもならないと思います。
 まず「出会い」だし、差し出されるものだし。

 また、社交クラブでもないのですから、楽しいとかつまんないとかの基準というのもまずいでしょう。それなら「サービス機関」として魅力的な営業努力をしているところが有利ですが、もうそれだけで、他の人(コミュニティの内外にかわらず)に心を寄せるという精神から離れそうです。

 とりあえずは、身近な教会に、人間として尊敬できて信頼できる先輩か指導者がいるかどうかが大切ではないでしょうか。また、今の迷っている心境を話した時に、真っ先に、他教会を批判したり貶めたり、間違っていると決めつけるような態度に出る人たちがいるの避けた方がいいでしょう。また、今の自分の状況にだけ照らし合わせるのではなく、たとえば将来育てるかもしれない子供たちによりよい世界観を与えてくれるかどうか、困難に出合った時に信頼できるか、とかも視野に入れればどうでしょう。

 それでも、「判断の誤り」はありますし、向こうも人間の集まりですから、カラーが変わったりすることもあるでしょう。今の、そして、今までの大羊さんの誠実な探求の姿勢を見る限り、たとえ、選択を誤っても軌道修正はできると思うし、ほんとうの意味でのキリスト者として成長し続けていかれると思います。

 参考に『自由人イエス』
 http://shop-pauline.jp/?pid=17548299

 をぜひお読みになってください。

 掲示板は不可抗力以外は、今のところ続けます。場所を改める時はここと、ブログでお知らせします。

448marie:2010/03/12(金) 09:14:41
土居健郎氏の場合
「甘えの構造」で有名な土居健郎氏が「信仰と『甘え』」春秋社をだしています。そのなかに学生時代の信仰遍歴が見事に書きだされています。土居先生は最初はプロテスタントでしたが、無教会の矢内原先生の門下生となり、最後にホイベルス神父に出会いカトリツクになります。その過程が「キリスト教と私」に書かれています。また内村鑑三の信仰遍歴の記述も見事です。大羊さんの迷いは「あれか、これか」ですよね。信仰はその二分法が崩れたところから発生します。そこで出会う人が本当に信頼できるかどうか、ここが鍵でしょうね。信頼できれば、飛び込めます。信頼できなければ、まだ遍歴をくりかえすのがいいでしょう。土居先生は遍歴の果てにたどりついたカトリツクから生涯離れることはありませんでした。ホイベルス神父のいう「懐かしき神」に生涯ひかれておられたことが他の本でもよみとれますし、70歳以後、信仰問題をどしどし発表されていますが、「本来の面目」といえるものがそこに脈をうつて、つたわつてきます。
信仰は毎日、しらぬうちに育つもので、その育ちにアツと気がついたとき、貴方は「神の国」にいることでしょう。

449Sekko:2010/03/12(金) 19:49:20
信頼
 marieさん、ありがとうございます。

 私の体験だけで言うと、私の信頼感をそそる人たちは、全然排他的でもなく、「自分の宗教」に私も入信すればいい、と誘うようなことは言われたことがありません。また、私は個人的にあらゆる種類の「勧誘」が好きではないので、誘われると引いてしまうし、信頼感も薄れます。宗教の中には一定の様式の宣教や布教やある種の実践を一般信者にノルマとして課しているものもあり、そういうのも私は苦手です。「信じなければ不幸になる」「信じれば幸せになる」というタイプの説得もいやです。

 しかし、周りのだれも助けてくれない時に、そういうグループだけが手を差し伸べてくれるという状況の人もいるわけで、その問題は大きいと思います。結局、「所属している共同体」に関わりなく、「自分よりも困難な状況にいると思われる人たちが必要としていることを少しでも提供できないか」について各自が意識することが大切なのではないでしょうか。

 何々派はここがよくて何々派はここが悪いとか比較検討し始める時点で、何か本質的なものを見失ってしまうかもしれません。

450迷える大羊:2010/03/13(土) 23:16:24
すみません、よくわかりませんでした
 お相手ありがとうございます。「つまんない」とか「楽しい」というのはちょっと語弊がありましたね。もちろん、同好会などと同等のレベルでそんなことをいったのではなく、なんていったらいいのか、「得るものがあった」という歯ごたえというか、出会いというか、うーん、私の乏しいボキャブラリーではちょっと表現が難しいです。

>最適なものを選ぶというコトニハかにらずしもならないと思います。
 まず「出会い」だし、差し出されるものだし。

 せっかくお答えいただいたのに申し訳ないのですが、この辺りがよくわかりませんでした。そんなものは、それこそ神様が決めること、自分の頭で考えたり、吟味してみるという行為は、神様に対して「無礼」というか、おこがましい行為ってことなのでしょうか?。
 確かに教会でも、職場でも自分の希望とか考えとか要望とかなどと、100%合うところなんてありえないよ、ということ、理屈でどうのこうのいう世界ではないよ、ということくらいはわかりますが・・。

>今の迷っている心境を話した時に、真っ先に、他教会を批判したり貶めたり、間違っていると

 あからさまにそのようなことをする教会とか信徒とかに出会ったことはありませんが、遠回しにはあります。また、身内がクリスチャンってことで、私がクリスチャンになることは当然、そうでないとうまくいかないよ、みたいなことを言われ、反発を覚えたことはありますね。逆効果っていうか、却って意地でもキリスト教など近づかない、少なくともこの教会には関わらない、と思ってしまいました。

 >信頼できる人

 これも、難しいですね。人柄的にはいい人、見習う点も多い人だけど、信仰面ではとてもついていけない、ってことはありました。具体的には、すでに何度かお話しているかと思いますが、他宗教とか日本の風習についてあまりに排他的で、七五三などはもちろん否定、「仏式の葬儀にはなるべく出ないで済むようにする」とか「神社仏閣に行くと気持ち悪くなる」なんて話を聞いたときには、あまりの感覚の違いに頭がクラクラする思いでした。それなら、クリスマス(元はローマの異教の祭り)も止めたら?といいたくなる衝動を抑えるのに苦労したものでした。
 自分は別に仏教や神道とは何の関わりもシンパシーもないのですが、どうにもこういう考えとか感覚にはアレルギーがありますね。

>子供たちによりよい世界観

 私自身、大した世界観なんてもっていませんので、これも考えてしまうところです。ただ、「神社仏閣に入ると気分が悪くなる」みたいな感覚だとか「聖書に書いてあることは絶対正しいんだ、創造説を学校でも教えろ」みたいなことを自分の子供に吹き込まれるのは、頼むから勘弁して、とは思いますね。

 どうも、言われていることが今一つピンと来ず、私にとって、まだ信仰の世界というのはよくわからないもののようです。ところで、世間一般的に宗教とか信仰、というと、「何か不幸に遭ったのか?、つらい目にでも合ったのか?」と思われることが多いし、実際、そういう人の心のスキマにつけ込む怪しげな団体も多々あるのは事実。

 で、私として、実際に信仰を持たれている方にお尋ねしてみたいのは、信仰を持つきっかけとして何か「不幸なこと」に遭われたのですか?ということ。やっぱり、そういう目にでも遭わない限り信仰の世界というものは理解できないものなのかな?と思ったりもしますね。プライバシーにもかかわりますし、聞き方によっては、ある意味失礼かもしれないので、面と向かってはなかなか聞けなかったりするのですが・・。

451Sekko:2010/03/16(火) 09:10:10
こちらこそ
 分かりにくくてすみません。

 確かに、生まれ育った環境で自然に家族や地域の信仰となじみがあればすんなりいくんでしょうが、大人になってから、そういう絆のない宗教と関わるというのは、「自然」ではないのかもしれません。
 若くて元気で人間関係にも金銭的にも物質的にも不自由してない人は、とりあえず宗教とか信仰とか、「必要ない」かもしれません。「困った時の神頼み」的に気軽にいってお賽銭を投げたりお札をもらったりできる神社仏閣は日本では事欠きませんしね。

 ただ、だれでも、いつまでも若くて元気でいることは不可能ですし、事故、災害、大病を避けられたとしても老いや死は絶対来るわけで、自分だけでなく、親や子や連れ合いを亡くすことだってあるわけです。そういう局面において突然、宗教に勧誘されたりしたら、藁をもすがるって心境になるかもしれないし、病気の治癒に関しても、変な薬や代替医療やあやしい祈りや信心グッズに騙されるかもしれません。そういうことを避けるためにも、元気なうちに危機管理ということで、信頼のおける宗教と冷静に関わっておいて、それを周囲にもそれとなく言っておくのがいいと私は思いますが。

 たとえば両親が交通事故で同時に死んだ場合に、宗教がばらばらだと子供たちが困るだろうからそろえとくとか。別の例で、子供がいつもマジョリティの立場にいるのは教育によくないからあえて日本ではマイノリティなキリスト教のコミュニティに入れたという人もいます。反対に、フランスの日本人で、マイノリティで異文化だということで周囲に溶け込めないのがハンディだからマジョリティのカトリックの洗礼を受けたという人もいます。日本の女性ではやっぱりミッション・スクールに通って影響を受けたという人が多いのではないでしょうか。でも、全然関係ない普通の高校で、文化祭の時に何かの道具を借りに近くの教会に寄って、それが縁でついにシスターになってしまったという方もいらっしゃいます。

 まあ、この話は、内的な信仰の問題と宗教コミュニティの選択の問題が混ざっているので、人生の危機管理として、両方ともに、割り切って考える必要があります。家族代々の宗旨でも、今は共同体が崩れて、葬儀の時は葬儀ビジネスに取り込まれて悲しみに付け込まれて搾取される、ってこともありますし。私は自分の親が、自分たちの信仰は押しつけませんでしたが隠しもせず、葬儀の形とかも全部決めて置いてくれていたので、すごく気が楽でした。見送る方から見て、病気や死に向き合う家族が「信仰があるから」と言ってくれるのって、それこそ救いですよ。

 ただ、大羊さんの問題は、これまでの経緯から想像しますと、奥さまがかなり熱心な共同体活動をしていてそれが生活の一部になっていて、大羊さんが、少なくとも同じ神を信じてくれないと完全に一体化できないというか落ち着かないというか、ということで、プレッシャーがあるのかもしれません。

 でも今の日本では、夫婦が別の宗教でうまくいっているところもいくらでもありますし、片方の宗教が閉鎖的な場合は、バランスをとったり、いざという時の受け皿としてもう一方はアバウトで寛容な共同体を選んでおく、というのがいいかもしれません。そもそも大羊さんが奥さまの宗教に無批判に飛び込むのが可能なタイプであれば、もうとっくに入信して二人で何の疑問もなく熱心に活動してるはずです。これだけいろいろ迷っているということは、「かなり無理」があるんじゃないでしょうか。でも、今大羊さんが、奥さまの宗派から敵とみなされているような宗派に入ってぎくしゃくするか、奥さまが最終的に今の宗派から距離を置いてもらえるか、あるいはいっそギリシャ正教とかロシア正教とかの方が緊張が緩和するとか…今のお二人の信頼関係が宗教についてどういう感じなのかよくわからないので、なんとも言えませんが、とにかく互いに互いを尊重し合えて、譲歩もし合えるのが大切で、支配関係や依存関係にならないように注意しなくてはなりませんよね。愛し合っていっしょになられたお二人の仲を気まずくさせるような神さまなんて意味ない気がします(すみません)。

 少なくとも、家庭内政治判断が困難で迷っている間は無理に決めなくてもいいんじゃないでしょうか。私には、正直言って、今のところ「不幸にも遭わずつらい目にもあってない」大羊さんが「信仰が分からない」というのは、別にそれはそれでいいと思いますが。他の人間とどう関わってどう生きるかのほうが大事ですよ。

452迷える大羊:2010/03/16(火) 22:39:27
またまた、すみません
 いつも、答えづらそうな質問に丁寧に対応いただき恐れ入ります。ちょっと、くどくなるかもしれませんが、キリスト教とか信仰の世界をまったく否定的にみている、なんてことは決してありません。キリスト教にしたって文化とか思想としては大いに肯定しています(本当ですよ)。

 また、「不幸云々〜」などという話を他人事のようにお話しましたが、私だって悩みもあれば劣等感もありますし、人生の上で大失敗、失策も数多くしでかしてますし、自分の力だけで人生を切り開いてきた、なんて自惚れているわけでもありません。
 遠藤周作氏の信仰、キリスト教エッセイ「私にとって神とは」は非常によく理解できましたし、だから、「信仰」に頼る人々の気持ちが100%全くわからないわけではないとは思っていますが・・・。

>病気や死に向き合う家族が「信仰があるから」と言ってくれるのって、それこそ救いですよ。

 ちなみに私の母親はとある仏教系の宗教団体の信徒です。別に彼女は信仰を私に押し付けたりしません。だからこそ、単なる私自身の好き嫌いではなくキリスト教でも、あまりに他宗教への考え方が排他的すぎる教会とか教派は困るのです。

>夫婦が別の宗教でうまくいっているところもいくらでもありますし

 私もそう思うんですが、保守的なキリスト教会とかクリスチャンはそうは思わない、クリスチャンファミリーの形成に熱心な方が多いみたいで、彼女の母教会が所属する団体から、「クリスチャンでない家族を持つ女性へ」(特定の団体についてあれこれいうことが目的ではないので、題名はぼかしてます)なんて本が出てまして・・。要は身内がノン・クリスチャンである、ということは彼らには「試練」らしいんですね。思ったほどには独りよがりな内容ではなかったですが、やっぱりよくわからない感覚で、そんな、家族、夫婦といえど、心の内面まで同じにできるわけないじゃないか、自分に合った信仰を選ぶ(「選ぶ」って不遜ですかね?)より他ないじゃない、というのが私の感想でした。

 実際、私がクリスチャンになったからといって、同じような「信じ方」をするとは限らないし、なまじ同じ神様を信じてる、ということで却ってその「違い」が目についてしょうがない、ってことになりそうな気がしないでも・・。
 実際、私の見聞、独断と偏見ではクリスチャンとかキリスト教徒といっても、「イエスを救い主とする」「使徒信条の内容を肯定する」以外には皆、信仰面でも政治面でも右から左までバラバラ、(非クリスチャンと比較して)特別な要素は何もないと思いますし、皆、クリスチャンになればうまくいくってことなら、世界の三分の一(クリスチャンの世界人口比)は平和で離婚もないってことかい?とシニカルなことを思ってしまいますね。

 あと、もう一つ、ご質問してみたいと思うことに「信仰を持つ」ってことは(神とか聖書とかイエスに対し)「疑う」とか「自分で考える」ってことをやっちゃいかんのかなぁ?ということですね。それこそ、自分の目で冷静に各教会を比較してみたり(別に優劣を比較しているわけではないですよ)、こちらの質問箱でもたびたびしたような、聖書の矛盾点とかトンデモない部分について質問したり(ちなみに彼女はこれやるとイヤな顔、というか「キリスト教批判」と受け取るみたいで、こちらは困惑するのですが・・・)するってことは「神への冒涜」になるんですかね?

 聖書に書かれていることなら(現代の感覚、常識、非クリスチャンからして)どんなに無茶苦茶だったり、奇異に感じられることでも、「これは意味のあること」「誤りなき神のみことば」と信じることが「良き信者」なのですかね?
 なんていったらいいのか、その辺りの感覚も私にはなかなか分からない点でもあります。

453Sekko:2010/03/18(木) 06:56:07
信じること
 信じることとは、何かを字義どおりに刷り込むことではなくて、それによって生き方の変容になるとか世界の見方が変わるとか行動の指針になることだと思うんですよね。変な例えですが、小さい子供がいる家族がクリスマスにサンタクロースがプレゼントをくれると思ってわくわくしているのを見る両親が、サンタクロースなんていないんじゃないか、とか、一家で初詣とかお宮詣りに行く人が、ひょっとしてここに神様なんていないかも、と疑問に思う必要はないと思うんですね。ま、クリスマス禁止とか神社参拝禁止って宗派もありますけど。

 何かを自由意思で信じることによって、自分が他者に対しての公正だとかやさしさだとかに迎えるのなら、真偽なんて優先しないこともありますし、逆に、「何々」を頭から信じるかどうかによって人を裁いたり排除したりするようなシステならは、それはただの「何々」への偶像崇拝じゃないかと私は思います。

 大羊さんが今抵抗を覚えているということは、その「何々」を信じる、認めることが第一義かのようにふるまう人がいるからじゃないでしょうか。

 イエスは、天国に行けるのは洗礼を受けた人だとか自分を信じる者だとか言わず、飢えた人に食べさせ、渇いたいた人に飲ませた人だと行ってるし、何よりも偽善や形式主義を嫌ってたと思います。

 今の時代にキリスト教のドグマをどう考えるかということについて、4月10日発売のカトリック生活5月号で私の考えを書いてますので、チャンスがあればお読みください。

454迷える大羊:2010/03/20(土) 22:21:30
自然が一番ですね
 お忙しいところ恐れ入ります。

>小さい子供がいる家族がクリスマスにサンタクロースがプレゼントをくれると思ってわくわくしているのを見る両親が、サンタクロースなんていないんじゃないか、とか、一家で初詣とかお宮詣りに行く人が、ひょっとしてここに神様なんていないかも、と疑問に思う必要はないと思うんですね

 そういう力の抜けた自然な信仰なら、ああいいよね、と思うんですけどね。お焼香がどうのこうの、という話も別に何が何でも世間一般に合わせろって思ってるわけじゃないですよ。江戸時代の「踏み絵」だとか戦時中の神社参拝みたいに、明らかに信仰を試す意図がある、キリスト教信仰にケチをつける目的があるものなら、そりゃ拒否するのもやむなし、とは思いますよ、私だって。
 でも、そういう意図が全くない、こちら(クリスチャン側)がどう思おうが、あちらは単なる習慣、文化としか思っていないことにまで、やれ異教がどうのこうの、だの偶像崇拝云々なんて感覚はやってられないし、率直にいうとええ加減にしてくれよ、という感想しか湧いてこないです。

>何かを自由意思で信じることによって、自分が他者に対しての公正だとかやさしさだとかに迎えるのなら、

 そうですね、そんな「信仰」が見つけられるといいですね。私の場合は、公正さとか優しさももちろんですが、「強さ」も欲しいです。もちろん、権力とか地位、という意味ではなく、なんていったらいいのか、困難や理不尽にめげない、うろたえない精神力というか、そういったものですが。

 話が脇道にそれますが、今の職場の上司はクリスチャンみたいですが、別に「イエスの精神を体現した」「立派な人物」か?というと、それははなはだ疑問(笑)、どちらかといえば、面倒は部下に押し付けるタイプで「ちょっとあんた、神様はなんでも赦して下さる」なんて開き直ってるんじゃあるまいな?、と思わされることが・・・(笑)

455迷える大羊:2010/04/10(土) 18:13:54
多子とカトリック
 最近、少子化に関する論議がかしましい日本ですが、その逆、つまり人口増加、子沢山が問題となる国々について。
 先進国と違い、発展途上国というのは多子とか過剰な人口増に悩む国々が多いわけですが、多子と宗教ってどのくらい関わりがあるものなんですかね?たとえば、フィリピンあたりなど、宗教がカトリックで、カトリックでは避妊・中絶厳禁であるために、多子となりがち、などという説明がされますが・・。

 でも、一方で、カトリックの本家本元、ヴァチカンのおひざもとのイタリアは世界的に出生率が低い方に属しますし、フランスについてもかの国が爆発的な人口増加に悩んでいる、などという話は聞いたことがありません。
 あと、カトリックだからすべて避妊反対、中絶反対というとそうでもなく、10年位前、米国大統領選でブッシュの対抗馬であったケリー候補はカトリックでしたけど、確か中絶容認派でしたし・・。
 こうしてみると人口問題とか少子化、多子化に宗教、信仰はあまり関係ないのかな?と思ったりもしますが。
 実際のところ、家族計画とか問題に宗教、信仰というのはどこまで関係があるものなのでしょうか?
 さらに、実際のカトリック信徒にとってヴァチカンの動向、方針というのはどれほどの影響力をもっているものなのでしょうか?個人的な見聞の範囲ではあまり関係なさそうな感じもしますが・・。

 それにしても、現教皇は私の知る限り(カトリック信徒には)不人気ですね〜。思想とか信仰面では前任者(ヨハネ・パウロ?)も現教皇も大して変わらない気がしますが、やはり空気を読むというか、人の気持ちをつかむ能力面が人気の差なんでしょうかね?

456迷える大羊:2010/04/10(土) 19:15:19
現世利益
連続投稿失礼します。

 >「困った時の神頼み」的に気軽にいってお賽銭を投げたりお札をもらったりできる神社仏閣は日本では事欠きませんしね。

 以前のご質問で御回答の中に、上のようなお言葉があり、ちょっと気になりました。教会なんかに行くと、確かに「キリスト教は現世利益を追求する宗教ではない」とよくいいますし(まあ、普遍宗教はみなそうだと思いますが)、それを誇りにしてますよね。
 そりゃ私だって、年がら年中「金儲けたい」とか「病気退散」みたいなことを露骨にいってる宗教って「胡散臭いな」とか「下品」で宗教としてレベル低いんじゃないの?思ったりします。
 でも、一方でそういった(現世利益)を全く気にしない、そんな「煩悩」とは100%無縁に信仰を得られる「立派な人」って一体どれくらいいるんだ?という疑問が・・。

 天国に行けるとか、(たとえ気休めであっても)安心が得られる、というのも立派な「御利益」じゃ?と思ったりもしますし、100%「御利益」というものを心の底から否定できる「立派な人」ならそもそも宗教とか信仰なんてはじめから必要ないんじゃないの?と思ったりします。
 つまり、よほど立派な、強い人間でない限り、ある程度は宗教とか信仰に「御利益」を期待してしまうのは人間の性みたいなもんで、それはそんなに悪いことなのかな?(もちろん、度を過ぎているのはバツですが)、という疑問がわきます。
 実際、聖書とかキリスト教が全くそういう現世的なことを軽んじているのか?というとそうでもないような・・。たとえば、ルカの福音書などカネの絡んだ話が結構多いし(無くした銀貨を見つける話とか、塔を立てるために費用を見積もる話とか、遺産を使い込んだ放蕩息子の話とか、借金をごまかした不正な管理人の話とか)、主の祈りでは「日毎の糧を私たちにお与えください」としっかり祈りますし。

 宗教改革、というかルターのカトリック告発のきっかけとなった有名な「免罪符の発行」も見方を変えれば「(罪からの解放、救いを手軽求める)一般大衆のニーズ」に応えていた、という面も無きにしもあらずかも?と思ったりします(いいのか?こんなこといって)

 話をまとめると、現実のクリスチャンの皆さんは本音部分で誰もが期待すること(御利益というか自分の個人的な幸せ、救い、安心の追求)と、なんていったらいいのか?キリスト教の理想の部分とをどのようにしてバランスをとってますか?
 また、本音の部分で「神様、仕事うまくいきますように、給料上がりますように」なんて祈るのは「悪いこと」ですかね?まあ、あまり露骨なのはキリスト教云々に関係なく、下品だ、とは思いますけど。

457Sekko:2010/04/11(日) 01:18:46
子沢山の問題
 子沢山の問題は、昔はともかく今は、貧困の問題が大きいでしょう。医療が発達して、平和で、生存チャンスの大きい国では、普通子供の数は減りますよ。そういう国ではむしろ有産階級が既得権を継承させるために子沢山のような。アフリカの一部なんかでは、今も、少女が12歳くらいから毎年のように子供を生み続け、その多くは破傷風やマラリアのために育たず、母親は30歳くらいで消耗して死んでしまうというケースはあります。エイズの蔓延ももちろん。

 そういう国を救うのは女子に教育と保護と現金収入を得る労働を与えることです。これで出生率は下がります。

 アフリカで活動していたカトリックのシスターは避妊具を配布していました。エイズの予防のために、バチカンが避妊具禁止を目立って唱えないという具体的な合意も前教皇との間にできていて、その後ではノーコメントが続きました。それなのに、B16は、「避妊具は解決法ではない」とコメントしたことに尾ひれをつけられて大騒ぎになっています。避妊具禁止といったわけではなかったのですが。脇が甘いのは確かです。彼がなぜメディア受けしないのかというのを分析した本も出てるほどです。

 フランスの司教会議(フランスカトリックの最高決議機関)なんかではエイズ予防の避妊具OKでしたし、それも、しょせん多数決の決定。ヴァティカンの見解も多数決ですよ。直接ドグマに関わることじゃなければ当然政治的力関係で決まったりします。いわゆる一般信者と言えば、カトリックがデフォルトの村とかで、子供の作り方を教会にきく人なんてもちろんいませんよ。

 でも、ほしくなかった子供が生まれて育てざるを得ない状況の人とか、社会の犠牲になる子供たちとかがいる場所で、「新しい命」は無条件に尊い、と言いきってくれる宗教の首長がいるのはいいことだと個人的には思います。

458Sekko:2010/04/11(日) 02:00:04
ご利益
 >「困った時の神頼み」的に気軽にいってお賽銭を投げたりお札をもらったりできる神社仏閣は日本では事欠きませんしね。

 と前に書いたのは、別にキリスト教系で拝みに行かなくても手近なところがたくさんあるのだから、という意味で、キリスト教がご利益を否定してるという意味じゃありません。まあ、その出発点においては呪術否定、偶像崇拝を否定してる宗教ですが、前ヨーロッパでキリスト教がデフォルトになった時点で、これはもう何でもありに向かうのは当然で、早い話がすべての巡礼って、「奇跡」という名の「ご利益」を期待してると思います。ご利益を得たお礼の巡礼もありますが。
 つらい時にそこから解放されたいのは自然ですし、イエスも治療者として崇められていましたし、それにあやかりたいのは必ずしも誤りじゃないと思います。福音書の中のカネテーマはまあ、例えだと思います。やはりそういう例えが一番人々の実感に訴えたんでしょう。免罪符の乱発は、確かに信者のニーズに応え、封建領主でもあった教会の財政対策だったんでしょう。今でも、どこそこに巡礼したら罪が軽減されるとかちゃんと書いてありますよ。今はそれで金もうけしてないし、詐欺にもなりかねない奇跡や成功の保証じゃなく、教会の守備範囲の「免罪」なんだから、無害な「ご利益」だと思います。

 ご利益を求めるのは人情でも、「他人の不幸」を願うのはペケで、自分の幸せが他人の不幸と連動しているような「ご利益」を願うのは間違いで、それに応えるのも間違いだと思います。だから、病気平癒を願ったりするのはOKで、戦勝祈願とか優勝祈願とか、敗者を必要とするものは基本的におかしいし、入試なんかの合格祈願っていうのも微妙だなあと思います。
やっぱり平和を祈ったり、試合や入試の時期に風邪ひいたり故障のないことを願ったり、実力を発揮できますように願ったりすべきですよね。ジャンヌ・ダルクが一方的に「イギリス軍出て行け」って、神の名のもとに軍を率いたのも、歴史の文脈の話であって、キリスト教の本質的にはかなり「それでいいのか?」っていう気がします。

 私は個人的には「本音の部分」で自分の幸せを祈るってことはないです。本音をすなおに探ると、神さまが私のような中途半端な人間の願いとか気にとめるわけないだろ、と思うからです。絶望的な状況で必死に祈っている人々を有名教会で見かけると、ほんとに、私なんかはスル―していいから、この人たちをなんとかしてあげてって、気はします。その時に、「この人たち、本気で奇跡が起こると思っているのかなあ、単純すぎ」とかは思いませんね。ただ、本気で祈る人を見ていると、ますます、私のようなヌルさでは自分のことは祈るのも無駄、って思います。

 大羊さんの前途に聖霊のお恵みがあって、大泉さんにとっての世界がクリアに見えてくるようにとお祈りします。(これでも人のためにはすなおに祈れるんですよ、ま、私のフォローなんてそれこそご利益なさそうだけど)

 あと、私のためにいつも祈ってくださるという型が複数いらっしゃって、それを聞くたびに元気がでます。ありがとうございます。これが私にとってほんとうのご利益です。

459迷える大羊:2010/04/11(日) 22:32:01
人の為に祈る
 というのはいうまでもなく、キリスト教とか普遍宗教の良き部分ですよね。ええ、それは十分認めます、わかります。でも、議論を仕掛けたり、ケチをつけたりするつもりはもちろん、全くないのですが、「本当に心の底からそんな心境になるものなのですか?」という疑いが抜けない、というか信じられない感じですね。

 うーん、私などは自己中ですから、口では「〜さん、祈ってますよ」といっていても、本音部分では「自分の願望、都合」優先になってしまいそうです。というか、そんな「立派な人々」に囲まれていては、「罪深き私ごときが同席してよろしいのかしら?」ってことで却って落ち着かないことこの上ないような気も・・・。

 あと、私の知るクリスチャンってそんな立派な人ばかりだったかなぁ?つい先月まで、私の上司だった方もクリスチャンだったけど、責任回避が得意技でおよそ人の為に祈る、というタイプではなかったような・・(笑)。洗礼、といっても人格改造とか洗脳とは違うわけですし、水かぶったくらいで都合よく変われりゃ苦労しないよ、とシニカルなことを思ったりもします。

 現教皇は、独断と偏見でいえば、実際に現場で実務で信徒と触れ合ったり、向きあったりした経歴・経験が少ないのが、KYだったり脇が甘かったりする原因の一つかも?と思ったりしますね。学校で教えている方が向いているような感じも。意外と本人も「(教皇に)向いていない」と悩んでいるんじゃないかな〜、なんて思ったりします。

 あと、蛇足ですけど、このサイトでフランス事情についてもいろいろご質問させていただいたものですが、本日、教会で初めて「リアル」のフランス人と話しましたね。日本語はペラペラでした。バイトをしつつ日本とフランスを往復だそうで、なんか自由人してていいなぁ〜、若いっていいよねぇなんて思ったものでした。
 国籍を問わない知人のネットワークが広がる、というのもキリスト教はじめとする「普遍宗教」の「御利益」、ですかね。

460Sekko:2010/04/12(月) 05:50:52
人のため
 「情けは人のためならず」って言葉を間違って解釈する人が多いって話を聞きますが…なんていうか、「人のために祈る」方が「効く」ような気がするんですよ。きれいごとは別として、自分より大切な人のために必死で祈るというのは、見ていても感動しますし。
 大羊さんは時々、「立派な人たち」に対する違和感を表明なさいますが、そんな「ぼくたち立派な人」オーラを出している人たちが周りにいられるんですか? そんな清らかな自信に満ちているグループがあれば、私はすぐうさんくさく思ってしまいます。それだけでありがたみが消えますよ。

 でも、私のために祈ってくれるという人には、すなおに感謝です。ほんとに私が自分で祈るより「効く」気がします。毎日の幸せ度だって、何か自力で「立派なこと」や「満足のいくこと」をすることより、ひとからちょっと優しい声をかけてもらったり、気にかけてもらっていたり、ということの方がじーんときます。私には「神と私」みたいな関係性ではだめなんです。人を介在させないと、自己中というより自家中毒起こしそうで。立派でなくとも自分のできることで人とつながっていればいいんじゃないでしょうか。私がここでこれを書いているのもそのためです。少なくともこれを書いている瞬間は、私の中の優先順位は、仕事よりも家庭よりも大羊さんです。特に立派でなくとも、みんなが、だれかから声をかけられた時に少しでも、ちゃんと振り向いて時間を分け合う、っていうのが、多分、一番たいせつなことです。

461迷える大羊:2010/04/12(月) 22:59:13
なるほど
 いつもながら、お忙しい中、お相手すみません。

>立派でなくとも自分のできることで

 なるほど、これなら理解はできますね。いきなり、マザー・テレサだのコルベ神父並みの利他精神を発揮せよ、などといわれたらそりゃビビりますし、多分自分は死ぬまで無理だろうって思いますが。
 まあ、周囲に「ぼくたち立派な人オーラ」を発する人はいないけど、クリスチャンという立場をやたらと強調する、特別視する人は確かにおりますね。何かというと「クリスチャンとして〜」みたいな枕ことばがでてくるみたいな・・。

 聖書にもありましたね、確かヨハネ福音書だったか「新しい戒律を与えよう、お互いを愛せというものだ」とありましたね。しかし、単純そうで、実はそれが実行が一番難しかったりすることを日々実感する毎日です、私にとっては。やっぱり、好き嫌い、ねたみ、ひがみ、嫉みといった煩悩とか罪からはなかなか自由にはなれないものですね。

462:2010/04/17(土) 08:51:52
悪魔祓いについて
竹下節子様
はじめまして。竹下さんの著書をいくつか拝読させていただいています。特に「聖女の条件」が面白かったです。今回お尋ねしたいことは、悪魔祓いについてです。といっても唐突なんですが、私の親友の日系ブラジル人女性は、日本で就労している日系ブラジル人たちの間で雨後のたけのこのように乱立している福音派教会に出入りしているのですが、どうもそうした教会では、牧師さんがひんぱんに悪魔祓いをするようなのです。先週その友人が、個人宅でおこなわれる祈祷会に参加しました。彼女自身は、いつも悪魔祓いについては私に詳しく語ってくれたことがありません。ただ、牧師さんが彼女の頭に手をのせて祈られると、その場に倒れてしまうと、私に語ったことがあります。で、その祈祷会には、彼女の息子と娘(21歳と19歳)も参加して、娘さんが私に、祈祷会でのできごとを語ってくれました。やっぱり悪魔祓いで、息子さんが牧師さんに祈ってもらうと、息子さんは人がかわったようになってうなり声をたてたりし始めて、最後には飛び跳ねたかと思うと床に倒れた、というのです。悪魔祓いはカトリック教会でも昔はおこなわれていたけれど、今では大部分の神父が無関心か無知かまったくその分野は廃れてしまったが、プロテスタント教会のある派では成功を収めていると、読みました。(ガブリエル アモース神父の、エクソシストは語るという本です。この本を読んでもまだ当惑しているのですが。)ブラジルはどうも、交霊術なんかがさかんな土地らしく、悪魔祓いにも違和感なく彼らは応じているようなのですが、日本人の私には一種のカルチャーショックで、いったいどうとらえていいのかわからないのです。悪というのは確かに私たちの心の中にある、原罪というか、自己中心性、嫉妬とか優越感とかいろいろあると私は思うのですが、友人のブラジル人は、悪霊とか悪魔という言葉を頻繁につかいます。実際には悪魔そのものを意味するdiaboとは言わず、敵を意味するinimigoを使うのですが。それは、例えば精神病とか貧困とか逆境とかの原因という意味のようです。私には、悪を、悪魔と悪霊につなげる思考回路が欠けているのか、彼らブラジル人の厳しい現実(失業、将来の見通しがたたないことなど)と悪魔祓いはセットにして考えるべきなのか、私の頭の中では整理できていないのです。カトリック教会でも聖霊刷新運動がありますが、悪魔祓いはその聖霊による癒しと同じレベルのことと考えればいいのでしょうか?

463Sekko:2010/04/17(土) 20:18:34
セニョーラさま
 衛星放送で、福音派のミサの度の悪魔祓いのシーンを延々と流している番組を見て驚いたことがあります。按手されるだけで、叫ぶ人もいるけれど、とにかくみなが、意識を失って(と私には見える)後ろにまっすぐ倒れるので、背中を支える人が必ずついていました。で、みんな一列に並んで、はい、次、はい、次、という感じでバタバタ倒れるので、なんだか師匠に受け身の稽古をつけられてるみたいな感じでした。

 キリスト教だけでなく、シャーマンの修行にも似たようなのはあるし、ヤマOシとかでも、他の宗教のイニシエーションでも、とにかく、いわゆる「変性意識状態」、トランス状態を作り出すノウハウやプロセスはいろいろあります。ある種の代替医療もそうですし、心身症には自己暗示が効くかもしれません。

 いいか悪いかは一概に言えないと思います。宗教ではそういうのと、浄不浄とか罪の意識とかを合わせられることが多いので、マインドコントロールにつながりやすく、リスクは大きいと思います。特に、子供や若い人は、近付かない方がいいと私は思いますが、ケースバイケースでしょう。カトリックの洗礼式でも悪魔祓いが込みですが、ドラマティックなことはおこらず、普通のお祈りといった感じです。カトリックの今のエクソシストは精神科医や心理学者とも連携してますし、演出によってショック療法をするというのはもうないでしょう。ただし、ブラジルなんかでは、福音派の派手なパフォーマンスで信者を失いはじめたカトリック側が、同じようにいろんな面で派手な演出をして人心を取り戻すという動きもあります。

 まあ、シエナのカタリナとか、やはり聖体を口にするだけで毎回失神していた聖女もいるので、どんな状況でも「入れ込んでしまう人」とか体質はあるんでしょう。それは必ずしも「聖女の条件」じゃないですけれどね。

 大人が、他に弱みを付け込まれて洗脳されるという状況ではなく、自分の意思で何か(セラピーとか儀式の参加)を選択するのは自由だと思います。でも、それによって家計が圧迫されたり、社会生活や家族関係に支障をきたすようなのは要注意だと思います。

 ブラジルのように、一定の文化やメンタリティのもとに、経済や政治の問題が加わって、多くの人が極端に流れるというのは、また別の大きな問題があって単純ではありません。悪を特定のだれかに託して、スケープゴートのように葬ったり、軍事攻撃をしかける、などというよりはまだ、抽象的な「悪魔」とか「敵」とかに託して「祓う」方が、害は少ないと思います。

 でも、とにかく、今現在、生き難さを感じている人に「それ、おかしいだろ、目を覚ませ」とかいうのは、それこそ代替案なしには無責任なことで、とりあえず「悪魔祓い」の必要を感じないで生きていける余裕のある人間が、彼らの状況の改善に向かってささやかでも連帯することしかないんじゃないかと私は考えます。

 そういうことを視野に入れながら、親友の方の生活上の困難に力を貸してあげ続けていれば、ほんとうの信頼関係は、少しずつ築かれると思います。悪を祓うより、善意の輪を育てる方が、最終的には、きっと強いですよ。

 セニョーラさんのような方たちが、日系ブラジル人のコミュニティと連帯して問題解決のための何かをやっていくようなNPOも、ひょっとしてもうあるかもしれませんね。

464セニョーラ:2010/04/19(月) 08:08:33
Sekkoさま
お忙しい中、お返事ありがとうございました。お返事いただいて、少し頭の中が落ち着きを取り戻したように思います。親友の日系ブラジル人k子の出入りする福音派教会は、「カルトか宗教か」で教えていただいたような、カルトに値するようなところは今のところは見受けられません。悪魔祓いを別にしてひとつ気になることは、心療内科に通うk子は双極障害と診断されて服薬を続けていたのが、教会に行きだしてから「私はもうイエスに癒されたの。だからもう薬なんて必要ない」と勝手に服薬をやめてしまって、お医者さんが困惑されていることでしょうか。病気が病気なので、いつ彼女の症状が元にもどってしまうか、私も正直はらはらしているのですが。ただ彼ら福音派教会の、同胞に対する連帯意識は本当に見ていて感心させられることも多いのです。おととしからの経済危機で、困窮しながらも滞日を希望する人たちに対して、物心両面での貢献には目を見張るものがあります。もちろんそれは、彼らの教会のもつ豊富な資金力のなせるわざだと言えばそれまでなのですが。悪魔祓いに関しては、竹下さんが言われた、他国を悪とみなして攻撃するようなメンタリティに比べれば、はるかに害が少ないということを忘れずにいたいと思います。そして、ブラジルの宗教事情を理解することは容易でないということも。このことを忘れずにいれば、私も彼らの悪魔祓いに対してうろたえずに一定の距離をもって見つめることができるような気がします。日系人向けのNPOは少しずつですがいろいろ生まれているようです。私はそんな大したことはできていませんが、個人的には微力ながら格安でのちょっとした書類の翻訳とか医療通訳をしています。でも日本の社会ではその存在が忘れられがちな彼らへの援助だけでなく、連帯をこれからも模索していきたいです。ありがとうございました。

465:2010/05/08(土) 18:31:46
宗教という機関について
Sekkoさん(は竹下節子さんでいいんですよね…?)の著書は、色々と読ませていただいています。最近は2ターン目を読んでいます。
この掲示板もみなさん、すごく深いことを色々と知ってるんだなぁって驚いてます。

どの箇所かは正確にはわからないですけれど、Sekkoさんが書いておられた「宗教とは人を神(真理)へといざなうサービス業、旅行代理店の様なもの…」という部分に、うーん…そうだなぁ… とすごく納得させられています。宗教が真理そのものではなくて、そこへ人を向けてくれて同行してくれるってイメージでしょうか?
そう思うと色んな宗教サービスがあっても(深いところでは)矛盾はしないんだと思います。
山頂は一つでも、その道順はいくつもある、っていう言い方はよくされますよね。

今日、バスに乗っていて、ふとバスの中を見渡すと、高校生や中学生くらいの人たちがいたんですけど、楽しそうにおしゃべりをしたり、ケータイいじってたり、音楽聴いたりで
なんか、そういう雰囲気と接していると、宗教ってとくに絶対必要ってわけじゃなさそうにも見えたりしてきました。

その後、バスを降りて帰りながら考えたことは、その人の居場所(この場合学校とか)の中で、マジョリティーでいられる時は、散文的な日常生活が宗教無しにも送れるのかなぁということです。公園で遊んでる小学生なんかを見るともっとそんな気分です。

でも、だんだん、それぞれにその人の興味や特性なんかが育っていって、それぞれの道を歩く時、いつもいつも、安心なマジョリティーの中にいるってことは、できなくなる事があるかもしれません。そして、それが深刻な事の場合だってあると思います。
宗教ってそういう時に、人の悩み生き方の指針として、寄り添ってくれるものなのかなぁと思いました。 独りになった時なんて特に…

だから、「いざという時のために宗教と馴染んでおいたり、親しくなっておいた方がいい」、こういう事もたしかSekkoさんが言っておられたと思います。
ぼくも最近、この事をしみじみ、そうだなぁって感じています。
こういう頭のひらめきが光るようなことが、Sekkoさんの著書などを読んでいると時にあります。
Sekkoさんには、その貴重な知識と理性と体験を、手に取って読める本やネットなどで分かち合って下さってることに本当に感謝しています。

長くなりましたけれど、最後に、
実は今、自転車で15分くらいの所にあるカトリック教会に、行ってみようかなぁ…どうしようかなぁ…って、迷ってる自分がいて、それの整理のためにもここに書かせてもらいました。(すいません)
その教会のHPに載っていた主任神父さんは、大学教授でもあるみたいで、ちょっとこわもてなカンジがして、それにもちょっと勇気がいります…(笑)

いつも、夕方6時には、その教会から鐘の音が遠く聞こえくるんです。山をバックにしたそんな夕方の風景がぼくは好きです。

466:2010/05/08(土) 19:59:10
(無題)
憧れのせっこ先生
洗礼を受けたくてまっしぐらに教会にいき
そこにいたのが ブルカルト アンデレ  しんぷ
わかいとき純真会をたばね  管区長もなさっていたり  スクルス神父 ともに純真会で
らてらん  バチカンの父  ともいわれてるきょうかいでも はたらかれ

そして もうすぐ神父になる  オノレブラザー  3人にまもられ
千里ですくすく  これたわたしは
ベルギー  のごえんがあり  フランス語が ただただ大好きであっただけなのに
フランコフォン 聖職者  に人生でであえたよろこびは  本当に大きいです。

しかし 7年目のして
なぜか  教会離れのあり
重い空気 がきょうかいにながれ まだ わかめの私と同年代の方が少なく
友達  ができにくいとか  あまり  合う ひと 話せる人がいないと思ってしまっているのか  少しとうのいてきています。
神父様に  共同で祈るということで ま、ま  お友達さがしは う〜ん
と言われ  つきひがながれ
ただ  宗教も出会い のひとつで  いきたいときに行けばいいのでないかと思う私目は
不謹慎ですか? 静かに家で祈る方が集中できるのです。お祈りが趣味です
とうしょう詩篇 を謡わせていただける お年寄りの方が喜んでくり
歌ことが好きになり  声楽まで  習いに行くようになって

これもおおきな めぐみ 幸せをもつけました、いきがいになりそうです。人生の
わたしはとっても  この宗教に出会えてよかったです。
ただ
ずばらで
ひとりでマリア様の前で ひざまずき お祈りを日に何度も するのがだいすきです

こんあんでもよいですか?

467Sekko:2010/05/10(月) 03:57:12
くうさんへ
 ご愛読ありがとうございます。励みになります。

 そう、マジョリティに落ち着いている時って、一見救いとか必要ないような感じなんですが、そのこと自体でマイノリティの人とか、自分の部分の弱い部分にも目をつぶってしまうことがあると思うんです。今無心に遊んでいる子供や若者でも、やはり自分や他人の弱い部分に対してのやさしさみたいな感覚をちゃんと養っていかないと、自分だけじゃなく家族や友人などのちょっとした事故とか病気とか人間関係の齟齬や失望や失敗とかに出会ったときに、自分にも人にもやさしくなれないかもしれません。こういうのって心配性でネガティヴかもしれませんが、私自身も、そういうやさしさに救われ続けました。まあ、自分に関しては甘やかしかもしれないんですが・・・
 小学生だって、小動物を飼って世話するとか、自分を必要とするなにかとの関係が必要だと思います。
 教会でいい出会いがあるといいですね。神父様とか大学教授って、お山の大将になりやすいポジションだから、ひょっとしてエラそうに見えるってこともあるかもしれませんが、これはもう人柄の問題かもしれません。教会がサービス機関だとしても、そこに行く人はクレーマー消費者の心は持たない方がいいと思います。そういうところとは反対の無償の世界につながっているということを感じられるといいですね。

468Sekko:2010/05/10(月) 05:35:00
marie josephine さん
 声楽をなさったり、お年寄りに喜んでもらえたり、すてきですね。

 スクルス神父さまたちと出会われたのもよかったですね。私が最初に会ったfrancophone
の神父さまは1970年代、アテネフランセのアヌーイさんでした。フランス語がうまくないのにフランス語で卒論を書かなくちゃいけなくて、だれも見てくれるあてがなかったので、突然アヌーイさんにタイプ原稿を持っていったんです。教会はもちろん個人的な関係はまったくなかったのに。私がよほどおどおどしていたらしく、サンタクロースのような風貌のアヌーイさんは、原稿を受け取ると、にっこり笑って、「もう大丈夫、僕がいるからもう大丈夫」と言ってくれました。忘れられません。

 あと、楽器演奏なんかそうなんですが、いくら練習しても、あるところまでいってどうしても壁に突き当たる曲とかがあります。そんなとき、無理強いしないでちょっと休んで他の曲とか弾いていて、しばらくぶりに前の曲を弾くと、練習していないのに、壁を超えていることがよくあります。私たちはこれを「熟した」と表現するんですが、多分かってに熟したんじゃなくて、練習してなかった期間にも、頭の中でその曲を反芻していて、それが「聞こえてくる」のをキャッチしようと自然に耳をすませていたのかもしれません。

 信仰の形とか共同体との付き合い方とかにもそういう面があるのではないでしょうか。今の形にこだわらなくとも、耳をすませていれば、また「熟した」形で自然に共同体と連帯できる日も来るかと思います。

 神父さまたちはきっと祈っててくださってますよ。

469:2010/05/10(月) 19:04:55
(無題)
大好きなせっこ先生

ヨセフのひにうまれ
クリスチャン である  神の道、、、   ブルカルト神父  がだいすきで
みんな しんぷさまがたがすきです。
守られてて あい  を感じます。清らかな   あい
祈っていただいてること感謝でいっぱいです。
引きつずき
お歌  でお人に喜んでもらえるよう  生きがいとして邁進します。
スクルス神父様は せっこ先生の大ファン
父であるヨセフ
の御本  すばらしいでした。
才女 のせっこ先生が  そんなときがあったんですね。
また
素晴らしいアドバイス よろしくお願いたします。

神に感謝

470:2010/06/03(木) 22:43:01
純粋理性批判 序論
純粋理性批判を、光文社の中山元訳で読み始めたところです。

「005アプリオリな認識と純粋な認識」の項に以下の記述(A)があります。
『そして、アプリオリな認識のうちでも、経験的なものがまったく混ざっていない認識を、純粋な認識と呼ぶことにしよう。だから、たとえば、「すべての変化にはその原因がある」という命題はアプリオリな命題であるが、純粋な命題ではない。変化という概念は、経験からしか引き出せないものだからである。』

また、
「007アプリオリな純粋判断の実例」の項には次のような記述(B)があります。
『人間の経験のうちには、このように必然的で、厳密な意味で普遍的である判断、すなわち純粋でアプリオリな判断が実際に存在することを示すのは、たやすいことだ。【自然科学からその実例を引き出すとすれば、数学のすべての命題がその好例となる。】日常的な知性の利用のうちに、こうした実例を探すとすれば、「すべての変化には原因がある」という命題を示すことができよう。この命題で使われている原因という概念には、原因が結果と結びつく必然性という概念と、この[因果律という]規則が厳密に普遍的なものであるという概念が明らかに含まれているのである。』

素人目には、ひとつの命題に対して「A-純粋命題ではない」「B-純粋命題である」と、異なる記述がなされているような印象を受ける、つまり、上の2つの記述は矛盾しているように感じるのですが、納得させていただけないでしょうか。

471あがるま:2010/06/06(日) 14:25:31
因果律が
アプリオに演繹可能(つまり原因から誤謬なしに結果を導出)な純粋命題であるか、それてとも経験則(結果から原因に遡る)てあるのか?と云ふことですが、如何にして純粋思考の形式(純粋悟性形式=カテゴリ)を経験の対象に適用できるのかにはカントも苦労し法律家の論理を適用するしかなかつた。
ヒュームにより経験則としての因果律が否定され、しかし外界の存在を肯定するのは経験・感性しかないのですから、カテゴリーとしての因果律は慥かに成立し、しかしその対象の実在は感覚・経験が証明するといふ二重構造になるのでは。

472あがるま:2010/06/10(木) 12:09:31
セッコさんがクリマの
『ル・グラン・ロマン』を読み始めたと聞いて『細かい活字で大判600ページもあるあんな長い小説を良く読む気になる』と呆れましたが、4月にパリに寄つた時にrue des ecolesの私が必ず行くGalerieDeLaSorbonneなどで半値で新しいものを手に入れました。
改訳全集が出るので20年ほど前の本が安く手に這入るのだと納得。
気になるのは1904年の哲学上の主著と見られる『意識と無としての世界』ですが200頁ほどのこの本はネットで見ても20ユーロと結構高い。
一年前の1903年には同じオーストリ・ハンガリー帝国ではO.ワイニンガー『性と性格』も出版され著者のピストル自殺にもより600頁もある大著なのに世界的大ベストセラーとなりました。
ウィーンに行つてフロイトの診療所とワイニンガーが自殺したベートヴェンの部屋は同じ大通りに面し距離も2ブロックほどだつたので驚きました。
新宮一成『夢分析』と言ふ新書本を見てゐたら『我々は実際に夢を見るから万能感と世界創造感を得られる』とありました。
11.01.10

473:2010/06/17(木) 17:04:41
あがるまさん、ありがとうございました。
お陰さまで腑に落ちたように思います。
また質問させていただくと思いますが、その際にはよろしくお願いいたします。

474Sekko:2010/06/17(木) 19:13:05
留守にしていてすみません。
 huyuharuさん、あがるまさん、留守にしていて失礼しました。

 気にしていたんですが、コンサートと、日本に行く前に片付ける仕事とで、手いっぱいでした。その上にネコの介護をしているんです。末っ子が、乳癌の手術をして、うまくいったんですが、目が見えなくなりました。ストレスなのか、脳転移なのか分らず・・

 この質問には、あがるまさんが回答してくれるだろうなあって、ちょっと期待してたんで、助かりました。ありがとうございます。

 この質問箱は、別に哲学の問題について教科書的な解説やオールラウンドな質問を受けているわけではなく、なんていうか、私の経験や知識とかで役に立つことがあればお返事しますということなので、特に信仰とか死生観についての話なら役に立てます。

 それに、カントと比べるわけじゃないですが、私の自分の本でも、同じ本の中でも別の本でも、同じことなのに一見して矛盾している記述があり、それは、文脈によるもの、自分の意見が進化したもの、逆説的なもの、など、いろいろな場合があります。カントのこの部分も、考えていくといろいろ厄介で、簡単に答えられないんです。最近講談社の広報誌『本』5月号で、野矢茂樹さんの『自由という相貌』という記事を読み、そこでも、因果律について、自由と決定論は両立するカという、非常に面白い話が展開していました。論理だけでなく、そこに相貌や物語という考えを導入するのはすごく納得がいきます。

 あがるまさん、クリマに引き続き興味を持ってくださってありがとうございます。必要なら、エリカに直接コンタクトされた方が早いです。私が転送しますよ。英独仏語(もちろんチェコ語も)OKです。

475あがるま:2010/06/20(日) 02:41:16
Jan Nepomucen Potocki
お蔭様でパトチカならぬポトツキ伯爵(1761− 1815)と云ふ奇人を知りました。
彼がフランス語で書いた『サラゴサ手稿Le Manuscrit trouve a Saragosse』は映画にもなつてるさうですね!
パスカル・キニャールを知つたのも最近です、マラン・マレとサント・コロンブの話も面白さうですね − DVDも千円程度なので機会があれば。

476:2010/06/23(水) 16:51:23
人間の感性について
初めてメールします。東京で宗教や哲学など素人の立場で学んできた者です。多くの課題がありますが、じょじょにお尋ねできればと思います。先生の「無神論」の著書は、未だ深読みしていませんが、私は有神論の立場です。そこで、先生は歴史的に無神論の系譜をたどっておられるのですが、人間は根本的に何故目に見えない存在に対して、2つの系譜が出てきたと思われますか?聖書的に考えれば人間は堕落して、神との関係が切れたからと言えるかも知れませんが、それではまだまだ抽象的かと思います。世の中には、霊感性に優れた人がいますが、何故そんな人やそうでない人がいるのでしょうか?私もそうした霊的感性が開かれなければ、霊界の存在も分からないし、益して神の存在ははるか遠くの課題かと思います。尤も、最近はご存知のようにID理論が出てきて、有神論に力を加えているかと思います。竹下先生は、中立的立場かと思いますが、本の最後に、神が人間を信頼できる場所を人間の心の片隅に開けておく時代になっても良いのでは・・・と書かれています。そう思います。そうした態度に加えて、やはり人間の感性的無知や霊感性が問われるべきかと思いますが如何がお考えでしょうか?

477Sekko:2010/06/25(金) 01:59:32
中島さま
 ご愛読ありがとうございます。

 私は人間のあり方は、どんな人でも、自分を超えた世界、つまり自分の以前にあったものとか自分の後に来るものとか、あるいは同時代的でも会ったことのない人や見たことのない場所とつながっていると思います。それがはっきり感じられるとか、亡くなった人や別の世界とチャネリングできるようなこととは別に。

 見ないで信じるものは幸いである、というように、見たり聞えたり感知できなくても信じられることはあるし、逆に、見たり聞えたつもりでも錯覚や勘違いや自分の願望の反映や病気ということもあるし、また、信じられなくても期待はしたい、ということもあると思うんですよ。

 特に、見えない世界に善意とか肯定的なもの(信じれば救われる、とか、誰かに愛されているとか・・)を期待できれば「だめもと」で信じようかってことになるし、反対に、見えない世界に悪意とか否定的なもの(信じなければ罰が当たる、とか、誰かに呪われてるとか)を見て怖れれば、危機管理的に信じようかってことになるかもです。

 私は甘言も警戒しますが、脅しの言説がさらに嫌いなので、「信じなければ大変なことになりますよ」とか言われるのは、私にとっての「神」のイメージではないですね。人生で自分で対応できない出来事の前で「怖れなくなる」というのは、信仰の一番のポイントだと私には思えます。
 それに比べたら、霊感があるかどうかなんて、体質みたいなもんです。いや、この世を生きてるうちは、そういう感性は、普通、ある程度封印しているようにできているんだと思いますよ。そういう感性をちゃんと管理できて人のために役立てられるような能力はまた別で、普通の人は、堅実に、別の具体的な形で大きな善意とつながった方がいいと思います。

 霊感は多くの場合一種のアクシデントみたいなもので、それがある人はいい方向に養い、ない人は「ある」と公言する人の言説にあまり惑わされない方がいいと思います。これは私が『カルトか宗教か』以来追求してきたテーマでもあり、7月8日には、その系列で、ベスト新書で『陰謀論にダマされるな!』という本を出しますので、ご一読下さい。私の中では『無神論』とセットになっているんですよ。でも新書だし読みやすいです。またご感想をお聞かせ下さい。

478Sekko:2010/07/06(火) 08:49:08
おしらせ
 ようやく新しいサイトができました。まだ工事中の部分もありますが、このサイトの記録はほとんど残します。新刊のお知らせもあります。
この掲示板にはForum2というところからいままでどおりリンクできますので引き続きお使いください。 新しいアドレスは

http://setukotakeshita.com/ です。

479T.M:2010/07/30(金) 10:19:10
(無題)
ニーチェの言う権力は結局人間的なものとうけとれるのですが、
フーコーの言う権力とは何ですか。簡略に示していただけないでしょうか。

480sekko:2010/08/02(月) 11:23:41
申し訳ありませんが、
このような形のご質問にはお答えできません。他の質疑応答サイトをご利用ください。教科書的なもの、哲学のレポートなどの参考になるような答えはネット上で検索すればいろいろ出てくると思います。ここでは、いろいろ当たった末でどうしても自分はこう思うけれど私の意見も聞きたい、一緒に考えてほしいというタイプの質問のみ受け付けます。タイトルの下の説明文を参考にしてください。

481:2010/08/03(火) 15:20:21
竹下節子さんについて
竹下節子さんについて質問します。
marie josephineさんの書き込むを見ましたら、
竹下節子さんは、カトリック千里ニュータウン教会の信者らしいですが、
本当ですか?

482Sekko:2010/08/03(火) 15:30:11
ここは
そういうプライヴェートな事実関係の質問の場所ではありません。
ご理解ください。

カトリック千里ニュータウン教会には行ったことがありません。

どこそこの所属とかの枠で縛られる人間関係はできるだけ避けているのでよろしくお願いします。

483グドウシャ:2010/09/06(月) 20:47:56
信仰するとは
宗教を、あるいはある特定の宗派を信仰するとはどういうことでしょうか。
たとえば、キリスト教を信仰するとはどういうことでしょうか。「キリストを善美な人間の理想と掲げ、この理想に沿うこと、あるいはそのキリストに倣う生き方をするために、それまでの自己を否定することを求めること」という人がいます。そのほかにも、イエスを救い主と信じることとか、神と信じるとか、三位一体を信じるとか、復活を信じることとか種々聞きますが、sekkoさんが説明してくれるとしたら、どのようにしていただけますか。
自分はキリスト教に関心がわき、近づきたいと思っていますが、どうも信仰するということがわかりません。また、キリスト教には東方正教・カトリック・プロテスタントなどあり、なにかそれぞれから見ると、それぞれが異端ではないのかといっているような感じがあります。
宗教を信仰するとはどういうことか、キリスト教を信じるとはどういうことか、なぜカトリックを信仰するのか、なぜプロテスタントを信仰するのかなどわかるような書物はありますか。

484グドウシャ:2010/09/06(月) 21:06:40
信仰するとは02
自分としては、「この世が苦しく、来世というものがあり、そこでは苦しみなく平安に暮らせる」とか、楽観的にある宗教に没入することで現在でも「すでに救われている」状態になることかと思ったこともあります。
また、聖書はどの訳を読んでいけばいいでしょうか。よほど詳細な注釈とかがなければそうそう簡単には読み進めないと思われるのですが。日本の古典文学で、文庫本でも詳細な註がついているのですから、日本聖書協会訳ではまず無理ではないでしょうか。

485Sekko:2010/09/07(火) 01:50:04
グドウシャさま
 まず、宗教としてのキリスト教を信じるとはどういうことかについて。

 私が合意する見解は次のようなものです。

 唯一創造神が万物を造った。
 ナザレのイエスが生きて十字架上で殺され、復活した。
 ナザレのイエスが救世主である。

 このみっつを信じて受け入れることでしょう。これが宗教としてのキリスト教の必要最低限の根幹だと思います。
 後は、教義(とそこから派生する典礼)の違いによって宗派の違いがあります。それは歴史的、時代的、文化的、民族的、地政的ないろいろな要因によって形成されてきたり分かれてきたものなので、どれが正しいとか異端とか言えるものではないと思います。

 三位一体の教義は、わりと本質に迫ると私は感じます。神が人となったとか、復活による永遠の命とかいうニュアンスを理解するためにはなかなかすぐれものだと思います。

 後は、いわゆる信仰共同体というものの問題があり、普通の人は多かれ少なかれ「家の宗教」や「地域の宗教」の土壌や習慣の中で生まれ育つわけで、それは特定の宗派や人間関係や、多分権力関係とか、支配従属関係と無縁ではないでしょう。そういうものとどう折り合って、ほんとうに納得のいく「救い」を求めるのか、別の共同体を探して模索するのか・・・あるいは宗教書や人生読本を読んで自分の安心立命を得るのか、どの宗教でも尊敬できる師のような人と出会って私淑するのか、いろいろな場合があると思います。

 私がキリスト教が好きなのは、創造主とか復活がどうしたというところは、まあ、判断できないというか考えてもしょうがないのでスルーなのですが、自力本願や修行とか悟りとか解脱とか、自助努力、刻苦精励、進歩向上系が個人的に苦手なので、「えっ、偉いはずの神さまが辱められて抵抗されずに殺されたんだって???そんなんでいいのか・・・」というナザレのイエスのラディカルな悲惨さに惹かれるからかもしれません。だから、復活というミステリーが光ります。いったい何が起こったんでしょう・・・卑怯だった弟子たちがそれで一転して「福音」を述べはじめたのですから。

 偉い神さまや仏さまがいても、それは弱い衆生とは所詮別世界、その偉い神仏の助けを得るにはそれなりのプロの仲介者を経て、規則を守って精進しなくちゃいけない、というシステムは、ある程度自信があって元気でないときついものがあるような気がします。

 救われる条件らしきものをイエスが言ったのは、とりあえず自分より困っている人や弱い人の役にたつようにしなさい、ということなので、それを心がけるくらいならなんとかできるかなあ、という感じです。

 で、この、弱い者の側に常に立ってればいいことや、自分は弟子たちからも一度は見捨てられてしまったイエスが救世主だという逆説的な教えのおかげで、キリスト教は本質なところで弱さの中での「神人一如」の部分があって、親しみが持てます。すごーく立派なリーダーやカリスマを崇め奉らなきゃいけないというのも苦手なもので。

 あ、もちろん、キリスト教の中にも禁欲苦行する人とか自分に厳しい人たちもたくさんいるわけで、人のタイプや文化や時代によってどの宗教でも似たようなヴァリエーションがあるのも事実です。

 そんなわけで今のところ私自身は精神的にはあまり悩んでないので、その余裕の部分でどなたかのお役に立てることがあればいいと思ってこのコーナーを存続させています。

 聖書の読み方ですが、私の体験では、気にいっている著者や研究者や宗教者や雑誌などが、その都度、トピックを解説してくれるようなものが好きです。自分で読んでいるだけでは全然見えないことが見えてくるし、語句もそうですが、前後の文脈によって納得のいくこともあるし、文字通り「目から鱗」の説教や解説にもたくさん出会えました。

 聖書の中で好きなところや気になるところについて、解説書を読み比べて見て、いちばん共感の持てるものを選んで他の部分も読んでいかれたらどうでしょう。翻訳の問題の深みにはまってあれこれ考えるより、魅力的な先人が幸いたくさんいるのでいろいろ参考にしたほうが楽しいと思います。聖書だけいきなり一人で読んでも見方によっては突っ込みどころが多すぎると感じるだけになりかねませんから・・・

 自分の言葉でちゃんと語ってくれる解説がいいですね。また、それこそ「神も仏もあるものか」って状況(十字架上のイエスもそうだったかもしれません)にある人が聖書を生きるよりどころにしている場合の文章には心を打たれます。

 無料で敷居の低い「聖書勉強会」などでもすばらしいものもあるようです。私は若い頃に日本にいた時は「聖書研究会」なんて言われると即カルトの勧誘かと警戒しましたが、あるいはジョークの通じない悩める人たちの集まりかと敬遠しましたが、いい場所でいい人に出会えれば、一人で本を読むよりも豊かな経験ができると今は思います。

 グドウシャさんが「道」を見つけられることをお祈りします。

486:2010/09/07(火) 05:02:08
キリスト教の受難と復活は捏造?
「2000年の歴史があるキリスト教ですが、
イエス・キリストは実在していましたが、
受難と復活の出来事は、
古代エジプトなどの太陽神を真似て作られたそうです。」


キリスト教は捏造? から引用しました。
http://nowsmartsoft.blog121.fc2.com/blog-entry-48.html

イエスと同時代に流行っていた「ミトラ教」とキリスト教には非常に多くの類似点がある事は最近知ったばかりなのですが、この動画内でも述べられています。さらに、エジプトの「ホルス神」との類似性についても述べられています。類似性があるというより、その「複製(コピー)」だとか?

処女受胎した聖母から生まれ、12月25日の三日前(?)に死んで、その三日後に復活するというような話は、キリスト教以前の他の多くの宗教と共通しているそうです。そしてなぜそのような共通点があるのかという事に関しては、天文学的に12月22日に太陽が出ている時間が最も短くなった後、22日,23日,24日は、「停滞し」、25日以後、一度づつ太陽の位置が回復していくとか、そんな感じのことが言われています(一度見た記憶だけに頼って書いており、曖昧です)。この時の 22,23,24 の三日が復活前の三日間に相当するのだとか。

オリオン座の腰の三つ星とシリウスとが載っている直線と地平線が交差する位置に太陽が昇る日が丁度12月25日で、シリウスが新約聖書のイエス生誕の日に出てくる有名な星で、オリオン座の三つ星が、「三博士」、太陽がイエスを表している。つまり、キリスト教は太陽信仰に他ならないとか。ちなみに、ホルス神も太陽神なので、キリスト教がホルス信仰の複製なのだとすれば当然なのですが。

ほかにもイエスが行ったとされる奇跡と同じ奇跡が、やはり、キリスト教以前の宗教の伝説にも存在していたとの事。

キリスト教のシンボルの十字架は「南十字星」から来ているとのこと。これに関しては、イエスが処刑されたとき、イエスが張り付けにされたのは単なる一本の棒であり、二本の棒(複数本)であるところの十字架ではあり得ないという説を聞いたことがあります。


ツァイトガイスト パート1(動画を見て下さい)
http://video.google.com/videoplay?docid=1431037135738418803&amp;ei=2t3KSvWhDI3-wQPj-MmYAw&amp;q=%E3%83%84%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%88+%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%881#

487グドウシャ:2010/09/08(水) 05:27:06
Sekkoさま
Sekkoさま、親切なご回答をありがとうございました。とくに、ご回答の中にもありました地縁の影響を再考し、見聞など他者との出会いの中で自分の関心をさらに推し進めていくかを考えていきたいと思います。

聖書の読み方についてもたいへん参考になります。ありがとうございます。

このサイトが続いていくことを願っています。

488Sekko:2010/09/10(金) 01:44:08
神話や宗教
 スルーしようと思いましたが匿名希望様にひと言。

 私が「復活が不思議、何が起こったんでしょう・・・」と書いたのは、復活についてのその後の言説や教義のいろいろな面における他の宗教との影響などとは何の関係もありません。

 キリスト教はユダヤ教と同じくエジプトやバビロンの宗教の神話や典礼の影響を受けていますし、キリスト教が成立するにあたって、別の宗教との置き換えを意識して典礼暦を整えていったのもよく知られた事実です。
 キリストの誕生日を冬至に合わせることに決めた時には、太陽暦の修正法が確立していなくてすでにずれていて、それを修正したにもかかわらず、冬至が21日になっている現在との日付の差は残ったし、夏至も確か同じ理由で聖ヨハネの祝日などがずれたと思います。比較宗教史学はいろいろな興味深い研究がありますから、ネットで拾った安易な「真実」みたいなものは、一人で楽しむだけにしてください。

 歴史研究とか比較研究とか、考古学とか文献考証学とか、何世紀も何世紀も、碩学の先人が積み上げていますが、ある特定の宗教への帰依とか信仰の真実というものは、それらとは別の地平にあるものだと思います。

 キリスト教について言えば、「唯一神がすべてを造り、人は復活して永遠に生きるキリストの体として一体である」というぎりぎりのところを押し詰めれば、キリスト者の使命とはすべての人の兄弟となることだ、と理解できるようになったという神父がいます。こういうシンプルさは大好きです。ここでいう兄弟とは、互いに相手の必要に応じて助け合う存在、という意味でしょう。

誰でも、どこか痛い時には、疾患や療法についての知識の披露を聞くより、痛いところにそっと手を当ててもらうとか優しい言葉をかけてもらうことを望んでいると思います。ここはどちらかというとそういう場所にしたいです。


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