Vladimir Soloviev
昨日エリカに話したんですが、私がクリマの中にヘシカスムを見るのは自由だが、クリマは自分が東方的な神秘主義とは違うことを強調していたそうなんです。Vladimir Soloviev を批判している膨大な論考をpdfで送りつけてきました。クリマは一切の関係性を拒否していたというのです。まあ確かにそうでないと、ソリプシストとはよべませんが・・・独我論と我神論の比較論考も残しています。エリカとの話をまたブログの方に備忘メモしておきます。パトチカは、クリマの論理学を評価した文を残してるそうです。でも、たいていのチェコ人は、クリマを文学者の枠に閉じ込めるか、黙殺しようとしているのです。クンデラとかも。自由世界でどう売り込みどう生き残るかが最大の関心みたいですね。
<自己が世界の現出Erscheinungの可能性の制約MoeglichkeitsBedingungであり、世界が自己の現出の制約であるが、自我的egologischなものは普遍的な現出構造ErscheinungsStrukturを組織化する中心点にすぎない>(新田義弘『現象学』から。 多分Patocka, La monde naturel comme probleme philosophique.1976から。ドイツ語は適当に入れた)
と云ふものであれば、意味と存在の次元の区別が不十分としても、(他者との)関係を拒否する訳はありませんね。04.07.09
日本に限って言えば、仏教やブッダはもちろんなじみがあるし、キリスト教も一応15世紀に入ってきて一時は流行ったわけだし、明治維新以降は、西洋キリスト教文明をいろいろ採用したのだから、これも、信者数が少ない割りになじみがあるのではないのでしょうか。お釈迦様の花祭りよりキリストのクリスマスの方が商業的に根付いてることもそうですね。その点やはりイスラム教とは、そのようなはっきりした接点がなかったのでなじみがないのは確かだと思います。
それにいわゆる一神教の中では、同根の創造神を戴いているはずですが、ユダヤ教の神とイスラムの神は、具象化する偶像崇拝の禁止が徹底しているのでアニメのキャラには使いようがなく、その点でキリスト教の神は三位一体の人格神ということでずっと図像化されていたので使いやすいんでしょう。イエスやブッダが「元人間」というか、一応「歴史的人物」であり、同時に人間の条件を超えたというのも、超能力者テイストでいろいろ転用しやすいんでしょう。
その点、歴史的人物のMさんの方は、神の言葉や意志を仲介する預言者であり(もっともM さんはイエスも one of 預言者だって言っているわけですが)、うまく他の二人の仲間キャラとしてアレンジできないのかも。
実際にはどの宗教の教祖にでも起こることですが、Mさんを神格化しちゃっている異端グループもあるわけで、まあ、今の国際情勢から言っても、それこそ「触らぬ神に祟りなし」っていうことでしょうか。
クリマは哲学者として認識されてましたよ。
クリマの小説には確かにSMやスカトロジーのシーンが出てきますが、彼のソリプシスムと明らかに連動してる哲学小説の面があります。社会主義政権が倒れた後すぐにプラハのある出版社がクリマの小説を他の匿名小説と共にキッチュな小説として出しました。それで誤解を招いているのかもしれません。
エリカのお勧めは1909年に彼が自分が神であるという啓示を得たときと並行して書かれた『チェコ物語』で彼の父親がモデルになっているようですが、その政治家のインセストシーンなど出てきます。でもその主人公は独我論にたどり着くのです。ストイシズムとマゾヒズムは同根で、神の創造の業はマゾヒズムの一種であり、クリマのソリプシズムも苦しみの中から生まれた、とエリカは言っています。『チェコ物語』は発見されている断片の半分くらいがチェコで出版されていますが、残りはエリカが持っているということです。
私は全集に入っている仏訳の Le Grand Roman を読みかけています。なかなか途方もないものです。
Jan Nepomucen Potocki
お蔭様でパトチカならぬポトツキ伯爵(1761− 1815)と云ふ奇人を知りました。
彼がフランス語で書いた『サラゴサ手稿Le Manuscrit trouve a Saragosse』は映画にもなつてるさうですね!
パスカル・キニャールを知つたのも最近です、マラン・マレとサント・コロンブの話も面白さうですね − DVDも千円程度なので機会があれば。