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哲学・宗教質問箱

589mimemegene:2012/06/15(金) 15:08:45
kansya
竹下様

『ヨーロッパの死者の書』

不躾なお尋ねにご返事下さって,本当に有難うございます.

私の帰天ミサの手本・台本にしたいと願っている位です.
私のmimemegeneは「模倣の遺伝子」という意味で使っていて,少しずつ色々倣って,将来の前備にしたいです.
実現できるように,まずは祈っていきます.

Le livre des morts des occidentauxは,東京の大学図書館(東大,上智,聖心,その他私大6校)にはいずれも蔵書がありません.プリユール氏の他書は東大で8冊,上智で6冊とかありました.日本版のアマゾンでは,ISBN検索でもヒットせず,他のネット書店で1冊だけ(1981年版)見つかりましたが,価格が7千円弱位でした.
------------------

★それから,このボランティア掲示板には,心から感謝しています.

例えば,2月にお尋ねした「アウグスティヌスの祈り」について,竹下様から深く教えていただきました.
私はこれを味わって,「輪廻転生」してしまうかもしれないというなんとも言えない心のささくれがとれて,霧が晴れました.


「霊操」の230番に「愛は言葉よりも行いによって示すべきである」とあり,
竹下様は,まさに著述で愛を示されていると,私も皆様と同様に感じております.

私の場合は,「感じたいのは,キリストの心」です.
こういう内的理解を祈っていて,私の気づきの傾向が単調になってしまって,つらい時期がありました.
この時期に竹下様の著書を読んで,腑に落ちる光源を幾つも知り,気持ちも落ち着きました.

まさに著述のおかげです!

590ルチア:2012/06/15(金) 17:38:28
jean様
jean様の答えて下さった中で「さあ、これからミサの中心〜」というところを読み「ミサをそのように受け取る捉え方が有った」ということに遅まきながら気づきました。考えてみれば、ミサの中で流れの方向と起伏があるのは当前のことで、それに気づかず語句にとらわれていたのかもしれません。jean様の投稿を読んだ後で「キリストと我等のミサ」を読み直してしまいました。
有難うございます。

591ルチア:2012/06/15(金) 18:28:18
竹下様
フランスでのミサ模様の様々を生き生きと伝えて下さり有難うございました。
「はい、未信者の人は祝福に並んでください」に驚かれたというところを、興味深く感じました。(最近のイグナチオで個人的に驚いたことは、平日の12時のミサの司式の奉仕者がお二人とも女性になられたことです。)

私は時を経るごとに「カソリックの信者さんの信仰のあり方が、一人一人個性的」と強く感じております。信者さんの中で信仰の方向が違うのは問題となるでしょうが、信仰のあり方はとても個性的に感じます。こちらの掲示板でも、様々な角度から助けて頂いていますし。

mimemegene様も仰ってらっしゃいますが、私も本当にこの掲示板に感謝しております。
竹下様は「みなさんありがとう」と謙虚に仰ってらっしゃいますが、運営者の捌き方ひとつですから、竹下様のお力によるものと強く思います。
有難うございました。

いろいろと助けて頂いた流れで書いてしまいますが、mimemegene様・jean様、今私が勉強をするならどのような本をお勧めになられますでしょうか?

592sekko:2012/06/16(土) 00:22:45
mimemegene さま
リンクした通り、古い版ならこちらのamazonでは6ユーロから手に入ります。もしフランス語がOKでしたら、注文して次に日本に行く時に差し上げますよ。

そこまで言ってもらえる本って幸せですね。
もし、どうしても翻訳が必要なら、すぐには無理ですが、個人的に少しずつ翻訳してmimemegeneさまのところに配信しますよ。

私はまさにリジューのテレーズの死後への決意を読んで、死ぬ前に死んだ後にやることをきっちり考えておくのと考えないのでは差が出るなあ、と納得したんです。「だめもと」だし、一応、できるだけ多くの人の役に立つことを考えとこうと思います。

http://setukotakeshita.com/

593mimemegene:2012/06/16(土) 00:53:21
ルチア様
ルチア様

1日は1440分で,1%が15分です.ルチア様は,日々毎日,何%を神様に捧げたいですか?

私は「祈り」だけで育てられました.
神様と互いを照らし合い,あの深い感動や感謝を感じるのは祈りだけなので,
本よりも,おすすめするのは「祈り」ですと,書いてしまうのを,お許し下さい.
祈りでおすすめしたいのは,8日間の霊操です.ルチア様もいつか一度はなさってみてください.

■推奨本は,新約聖書だけです.更に絞ると,4福音書です.

・気に入った箇所や単語を小さなノートに書き写して携帯すると,とても深まります.
・大事な御言葉のリストをノートにでも記録して積み重ねると,一生涯使えます.
・聖書のその場面に自分が立ち会っていることをイメージするとか,
・登場人物の一人になりきってみたりして味わうと,
・御言葉が生きいきしてきますし,その時の心を書き留めてください.

■聖書を知る31の鍵 500円位
60頁程の聖書ガイドで優しくわかりやすい
内容を全部わかるようになれば,それだけでも知識量は十分.後は竹下様の本で,パーフェクト.

http://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8B31%E3%81%AE%E9%8D%B5-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF-%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC/dp/4886262279/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1339771525&sr=8-1


以下全ての本はイグナチオ教会内にある聖三木図書館蔵書です.


■ 1冊目なら,薄く読みやすいロングセラー
二人の自分―心の動きをみつめてイシドロ・リバス著(イエズス会士)

http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%8C%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%87%AA%E5%88%86%E2%80%95%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%8B%95%E3%81%8D%E3%82%92%E3%81%BF%E3%81%A4%E3%82%81%E3%81%A6-%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%90%E3%82%B9/dp/4789601463/ref=sr_1_4?s=books&ie=UTF8&qid=1339765996&sr=1-4

■2冊目なら,初心者向けで,とても心に入りやすい
祈りを深めるために その1〜その6 計6冊  イシドロ・リバス著(イエズス会士)

http://www.amazon.co.jp/%E7%A5%88%E3%82%8A%E3%82%92%E6%B7%B1%E3%82%81%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB-%E3%81%9D%E3%81%AE%EF%BC%91-%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%90%E3%82%B9/dp/4883820246/ref=sr_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1339766053&sr=1-3

■3冊目では,とても大事なロザリオを
ロザリオバリョヌェボ著(イエズス会士)(購入なら,絶版なので,アマゾンから)
私はこの本で毎日ロザリオしています.光の玄義がないので,創作してます.
ロザリオをぜひなさってください.マリア様が主イエスのことを優しく教えて下さいます.

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA%E2%80%95%E3%81%84%E3%81%A4%E3%82%82%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%A7%E3%82%82%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%81%99%E3%81%90%E3%81%AB%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%A7%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA-%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%A7%E3%83%8C%E3%82%A7%E3%83%9C/dp/4805696036/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1339765700&sr=1-1

ロザリオでもうひとつは,チマッティ神父によるロザリオの黙想です.
北浦和教会のサイトにあります.

http://members3.jcom.home.ne.jp/catholic_kitaurawa/inori/rozario1.html

■4冊目は,マリア様の事を
人びとと共に歩むマリアカルロ・マリア・マルティーニ著(枢機卿・イエズス会士)
聖書と向き合う著者の真摯な姿がわかります

http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E3%81%B3%E3%81%A8%E3%81%A8%E5%85%B1%E3%81%AB%E6%AD%A9%E3%82%80%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2-%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8B/dp/4789604136/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1339766418&sr=1-1

■全ての愛を行いに込めた姿を知りたいなら
イエスの渇き―小さきテレーズとマザー・テレサジャック・ゴティエ著

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%B8%87%E3%81%8D%E2%80%95%E5%B0%8F%E3%81%95%E3%81%8D%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%81%A8%E3%83%9E%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B5-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF-%E3%82%B4%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A8/dp/4789606414/ref=ntt_at_ep_dpt_1

■聖書の読み方や触れ合い方がとても深まります
ひとりきりのとき人は愛することができるアントニー・デ・メロ 著(イエズス会士)

http://www.amazon.co.jp/%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%8D%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%81%A8%E3%81%8D%E4%BA%BA%E3%81%AF%E6%84%9B%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B-%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC-%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%AD/dp/4789604187/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1339766195&sr=1-1


■自分の事がよくわからなくなった時に,私を照らしてくださった本! (まずは3冊)

キリスト教竹下節子著

http://www.amazon.co.jp/%E7%9F%A5%E3%81%AE%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8-%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E9%81%B8%E6%9B%B8%E3%83%A1%E3%83%81%E3%82%A8-%E7%AB%B9%E4%B8%8B-%E7%AF%80%E5%AD%90/dp/406258249X/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1339765805&sr=1-2

キリスト教の真実: 西洋近代をもたらした宗教思想 (ちくま新書)竹下節子著

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%9F%E5%AE%97%E6%95%99%E6%80%9D%E6%83%B3-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%AB%B9%E4%B8%8B-%E7%AF%80%E5%AD%90/dp/4480066594/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1339765805&sr=1-1

ヨーロッパの死者の書 (ちくま新書)竹下節子著

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%81%AE%E6%AD%BB%E8%80%85%E3%81%AE%E6%9B%B8-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%AB%B9%E4%B8%8B-%E7%AF%80%E5%AD%90/dp/4480056424/ref=ntt_at_ep_dpt_9

■私が一番好きな公教要理本
Golden Ruleを丁寧に書き,「信仰・希望・愛」の愛がLoveではなくCharityだという事も書いています.
Golden Rule(黄金律)「人にしてもらいたいと思うことは何でも,あなたがたも人にしなさい」
キリストへの新しい道 求道者のための教えと行いキリストバル・バリョヌェボ (著) (イエズス会士)

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E9%81%93-%E2%80%94%E6%B1%82%E9%81%93%E8%80%85%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88%E3%81%A8%E8%A1%8C%E3%81%84%E3%83%BC-%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%A7%E3%83%8C%E3%82%A7%E3%83%9C/dp/4805620811/ref=wl_it_dp_o_pC_S_nC?ie=UTF8&colid=2IK7PIOA4KL1&coliid=I35UXWCWEM80E0

■カトリック教会のカテキズム要約
読んでも楽しい内容です!

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%AD%E3%82%BA%E3%83%A0%E8%A6%81%E7%B4%84-%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%83%A0-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E5%8F%B8%E6%95%99%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A-%E5%B8%B8%E4%BB%BB%E5%8F%B8%E6%95%99%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A/dp/4877501533/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1339774455&sr=1-1

■私が常々参照する本
霊操(改訂版) 聖イグナチオ・デ・ロヨラ著(イエズス会士)

http://www.amazon.co.jp/%E9%9C%8A%E6%93%8D%EF%BC%88%E6%94%B9%E8%A8%82%E7%89%88%EF%BC%89-%E8%81%96%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%A8%E3%83%A9/dp/4915623483/ref=sr_1_12?ie=UTF8&qid=1339773561&sr=8-12

594sekko:2012/06/16(土) 01:07:35
ルチアさま
Jeanさまのお答えからルチアさまがミサの「流れと起伏」というのに注目なされたことはよかったです。

ミサの一番大事なところは一つのストーリーが毎回更新されるところで、それで各自がまた大きな流れに入っていけるところだと思います。

唐突ですが、私は最近、風姿花伝のおかげでベルグソンの Elan Vitalがすごくよく理解できました。

お能のテクニックやら型は、マチエールとしての水のようなもので、それは完全に習得しなくてはならないのですが、それを一つの流れとして動かすものは、言葉では表せない、というものです。でも、その流れの中にだけ能の本質があるので、マチエールとしての水がどんなに完璧でも能にはならないのです。

音符と音符の間、楽節と楽節の間に音楽があり、ステップとステップとの間にダンスがあるのと同じです。

ミサの典礼のひとつひとつのパーツはいわばマチエールの部分であって、それをどんなにチェックしたり変えたりしても、一番本質的なのは、そのマチエールを貫いて動かして、どんな流れとするのかということではないでしょうか。

Elan Vital をインスパイアしてもらって、各自の支流に戻ると、マチエールとしての水は、また濁り水になったり蛇行したり堰き止められたり汚染されたり、悪くすると涸れてしまったりするかもしれませんが、そんな時に、また、大きな流れとは何なのか、この流れをスタートさせた最初の息吹きとか何なのかを感じなおさせてくれるのが、各種の典礼とか霊操とか祈りなんだと思います。

私が前に、「ある」ではなく「なる」に向かいたいと言ったのもそういう意味なんです。

「ある」のは、この世のレベルでは私を構成するさまざまなマチエールに過ぎず、それをすり合わせたり統合したりしながら「なる」に向かう流れを大事にしたいということです。

「なる」に向かって人間が自由意思を行使できるかどうか、それが、人間に自由意思を与えた神の賭けなんだとユダヤ教の話で読んで感心しました。聖霊の風と自由意思の風が共振して流れに参入するように招かれているという感じでしょうか。その「神の賭け」に加えて、神が先に私たちを愛したので救い主をおくってくれたというのがキリスト教ですね。

で、「神」は、「ありてある者」「私はあるという者だ」というように、「ある」ものなんですが、もちろんマチエールではなく、無限なわけで、そのような「ある」に「なる」ための流れが創られた、その流れは私たちの中にもある、と思います。

音やステップをただ連ねても音楽やダンスにならないように、人生も、小さな幸不幸や成功や失敗や困難やアクシデントの集積ではなく、それらを運ぶ大きな流れなので、この人生が終わったとしても、その流れは続き、どこに向かうかべきなのかを知っているかどうかで、「なる」ための歩みは変わってくると思います。

http://setukotakeshita.com/

595mimemegene:2012/06/16(土) 14:20:06
竹下様
竹下様

ご返事に,深く感謝しております.

●あまりに嬉しくて,今朝1時間の黙想は,竹下様の書かれた
「私はまさにリジューのテレーズの死後への決意を読んで、死ぬ前に死んだ後にやることをきっちり考えておくのと考えないのでは差が出るなあ、と納得したんです。」をずっと祈りました.

これまで私の今への「神の望み」は沢山祈りました.
それが死んだ後にも続く「望み」であることに,気づきが深まりました.

22日から年の霊操に入るのですが,その準備のために,神様は竹下様を通って,メッセージを伝えていると,感じました.
竹下様に心から感謝します.

●プリユール氏の「死者の書」では,最初に書くべきことが抜けておりました.
全て竹下様のお陰で,心の霧が晴れたので,翻訳等をお尋ねしました.

経緯で申しますと,
私は実母葬儀で,「母が帰天しました.『別れは小さな死』だと感じています」と挨拶しましたら,司式神父が「神の元では,死は小さな別れです」と言い直して下さいました.この神父の言葉に,私も家族親族一同大変癒されました.

この経験を深める本を探してもなく,ようやく竹下様ご著書「ヨーロッパの死者の書」に出会いました.
通読して「死者の書」の著述意図に照らされました.

そして,ご著書には,

-人々は「良き死」のための実用的な智恵の貧困さに愕然とする時がいつか来ることを予感し始めた.そんな時代に,新しい「死者の書」の創造が目指されるとしたら,それはより完全な「生」を知るための模索でなくてはならない.172頁-

-要は,こういうテキストで編まれた「死者の書」が葬礼の書ではなくて「希望の書」となることである.「死者の書」は死者を送る時に読む「生きるガイド」であり,自分が死に直面した時に読む「死ぬガイド」であり,死後に近親者に思いを込めて読みあげてもらう時には「生き続ける」ガイドとならなければならない.174頁-

-死者と残された者とがともに生きた精神の風景の中に,時空を超越するような普遍的なメッセージがきっと隠されている.そんな確信を持って,ジャン・プリユールは「西洋人の死者の書」を著した.173頁-

と書かれています.
「これだ,これなんだ」とその時思いました.

第7章プリユール氏著書解説は沢山の教示がありました.でも,上記3センテンスがとても意味深く,私の求めを言い表して下さっています.
3センテンスがなければ,アウグスチヌスの祈りでのお尋ねで,私の求めは止まっていたと思います.

ご著書発刊の意図に促されて,私は動いていると感じております.
第7章の何処かに「なおこの「死者の書」は来春翻訳出版を予定している」等の予告を探したのは,私だけではないと思います.

●それで,ぜひ原著を手にしたいと願います.何卒よろしくお願い致します.
私はフランス語は初歩レベルです.まずは,在日フランス人や神父他数人で読んでみようと思います.
本当に有難うございます!!

596ルチア:2012/06/16(土) 15:43:11
mimemegene 様
mimemegene様

私の質問に丁寧に答えて下さり、感謝いたします。
mimemegene様が教えて下さった本を全部ネットで見てみました。
ご教示頂いたところをプリントして、これからの勉強の指針にしたいと思います、何冊か既に持っている本もありますが来週本屋さんへ行ってみます。(竹下様の御著書が、どんなに重要かという事も再理解できました)

そうですね、聖書の中で気に入った所をノートに書き写せば良いのですね。お祈りのカードはノートに挟んで折々に見るのですが、思いが及びませんでした。いつも神父様が「皆さん、私の話を聞きに来てくれるのも良いのですが、一日5分聖書を読んでくださいね」と仰っていることが、形を持って感じ取れてきました。
こうして、自分の勉強の仕方を見つけて行くのですね。お力添え有難うございます。

「祈り」難しいです…。これも個人的には大難問の一つです。理由は簡単で私が現実的すぎて、忙しい人間だからだと思っています。でも、聖堂の中に入ると心が落ち着きますので努力してみます。

ご親切、心より御礼申し上げます。

597ルチア:2012/06/16(土) 16:23:08
竹下
竹下様

伝えて下さった事、有難うございます。

「風姿花伝」も「ベルグソンの Elan Vital」も、ネットで調べてみました。(分かったふりをするのは良くありませんから、すみません「お能」とか古典の素養がないのです)私に理解できたのは「とても難しそう」という事と、神父様が恩師と仰っている「ガブリエル・マルセル」はベルグソンのお弟子さんという事だけです。そして、竹下様の「音楽」「ダンス(身体表現)」と、カソリックがやっと繋がって理解できました。

ミサの与り方の姿勢というものを教えて頂いた気がしております。そして、個人が孤立した点として存在しているのではないという事も。

竹下様は「私の書いた本を、しっかり読んでください」と仰らずに、初歩的な質問に答えて下さり、何とも御礼の言いようがありません。
有難うございました。

598jean:2012/06/16(土) 18:19:45
sekkoさま
>末っ子の役割の問題、これは面白いテーマで、いつかじっくり書いてみたいと思っています。

楽しみにしています。本が出たら、買います。

竹下さんの周りには各社の編集者がいて、原稿の相談に乗ってくれるでしょうが、私も2年ほど前まで某出版社(ビジネス・理工系)にいたので(編集です)、もし出版先とは関係のない編集者に頼んでみたい何かがあれば、協力しますよ。いまは早期定年退職し、時間はありますから。

599jean:2012/06/16(土) 23:16:50
ルチアさま
>今私が勉強をするならどのような本をお勧めに

勉強もいいですけど、時間があるなら聖堂に座っているのはもっといいかもしれません。

でも、それだけでは突き放したような冷たい言い方なので、一冊挙げておきます。人それぞれに好みや感性の違いがあるから、ルチアさんに向くかどうか分かりませんが、私はこの本、好きです。『カルメル会の会則とその精神』。ドン・ボスコから出ています。文庫本サイズの、青色の表紙の割と薄い本です。700円ぐらい。執筆者はフランス人の神父さんです。本文は取っ付きにくいかもしれません。序文が4、5ページあって、これは日本在住の神父さん(多分イタリア人)が書いています。この序文が良く出来ています。熟読玩味されたらいかがでしょう。四谷のサンパウロでも棚に置いてあります。入って右の奥、カルメル会の著作がある棚です。

600sekko:2012/06/17(日) 01:55:53
みなさまへ
ここでのやり取りはとても勉強になりました。

何が求められているのか、わかったような気がします。

書きたいことがたくさん出てきました。

元気で長生きしなくっちゃ。

(で、死んじゃったとしても、その時はまた別の形で同じ路線で行こうとは、まさにテレーズや多くの聖人や、それから先だった多くの方に教えていただいたんです。キリスト教とは限りません。死後、あえなくブラックアウトってことも当然考えられますが、どういう場合にどういうことができるのかって、ずっと考えてきたんです。それが、『自由人イエス』の解説で書いた「自由他在」なのです。「他在」の流れにいる限り、自分が死んでもあんまり関係ないんですよ。私の年代の日本人は戦争も飢饉もない国に生まれて60年も生きてきたという多分人類史で初めての幸運な世代に属していると思うんで、これをみんなで還元していかないとだめだなあと思います。)

http://setukotakeshita.com/

601mimemegene:2012/06/17(日) 13:03:31
ルチア様
祈りのこと

「ヨーロッパの死者の書」194頁に,
「子供を対象にした公教要理のクラスでも,自分の言葉で祈りの文句を作文させる.神は初めから『対話する相手』として教えられているのだ」とあります.

日本でよくある,もらうばかりの勉強よりも,このほうがステキですね.
私も祈りの作文をしてみました.良かった!
ルチア様も作文してみませんか?

さて,私の例ですみませんが,祈りが「生活そのもの」で,「難しいのは祈りではない」ことを分かち合います.

このサイトは竹下様の意図を大切にする場所なので,
個人的なほんとに一例に過ぎず,私的な濃いめなあり方だけなので,全て無視して下さっても,結構です.
「大問題で難しい」とおっしゃるので,そのお気持ちを受け留め,一度だけでも,分かち合えればと願いました.


●「霊操」114番
「観想における人物を見ること。すなわち、聖母マリア、ヨセフ、はしため、また、誕生直後のみどりごイエスを見る。さながらそこにいるかのように、出来る限りの畏敬と敬意を尽くし、自分を貧しき者、とるに足りぬ小さき下僕とみなし、この方々を見、観想し、入用な物の世話をする。」

と,とても堅苦しく,?な,表記です.(大問題で難しいかも)

でも,この最後にある「入用な物の世話をする」を,私は今でも実際にします.霊操の時も,日常でも.

どのようにするかというと,イメージします.(驚かないでください)

祈りの中で,イエス様のオシメを取り替えたり,抱っこして散歩に行ったり.
「イエス様,少しお爪が伸びましたね.」「イエス様,お体を拭きますよ.梅雨時だから,汗をよく拭きましょうね」.と声をかけ,奉仕します.

私の気づきで言うと,
ルチア様の目の前に,みどりごのイエス様がいらっしゃる.
イエス様は,ルチア様に,全てをゆだねて,保護と養育を求めていらっしゃいます.
ルチア様はそれに応えて,イエス様を抱き,奉仕します.

この幸せを一生涯味わって生きている人達も沢山います.

家事で言うと,マリア様,ヨゼフ様に仕えます.
ベッドメークをしたり,シーツを綺麗にして,洗濯をします.お部屋の掃除をします.
「マリア様,ヨゼフ様に言われて,ヨゼフ様のベッドよりも,藁を多く入れました」・・・
朝食時,パンにバターをぬる時「ヨセフ様,バターはこのくらいですね」
「マリア様,今日はお好きないちごジャムですよ」と言って,自分のパンをぬります.
「卵は上手く半熟にできて,嬉しいです.ヨセフ様,どうぞ召し上がって下さい」・・・

ポイントは,イエス様,マリア様,ヨセフ様,とお名前を呼んで,入用な物の世話をすることです.
普段している家事が,そのまま聖家族への奉仕になります.聖家族も,生活し,暮らしをしました.

ままごとのようですが,聖イグナチオ・デ・ロヨラは,大切な祈りとして,この「お世話」を取り上げています.

祈りの時間をとって,お世話をイメージしても良いですし,単に家事をしながらやってもいいんです.

福音書を読むときも,このような感じを思い起こすと,リアルに体感できて,うまくいくことが多いです.
これは私の傾きです.

●祈りの時間を取れないなら,無理をすると,誰でも疲れるだけで,心から捧げられなくなってしまいます.

では,どうするかというと,日常生活で,食事の時,お風呂や,トイレや,家事や,通勤他で祈ります.
私の場合,青信号で歩き出す時,「さあ,イエス様,一緒に渡りましょう」・・・
というように,動作をイエス様と一緒にします.主語をイエス様にして.それだけでも私には祈りです.

●ルチア様が聖堂の中で心の落ち着きを「感じ」るのは,とても素晴らしいです.

ですので,その落ち着きの「感じ」を,普段の忙しさの最中に,思い起こして,味わうのは,どうでしょうか.
できれば,五感夫々を感じながら.
私なら,これは神様を感じること=祈り になります.

●大問題で難しいと思っているものは何でも,大問題になります.

小さく,具体的な行いや動作でも,祈りです.
例えば,今,心臓のあたりに手をあててみてください.何かが変わりますか?
聖堂の中での心の落ち着きの「感じ」を心に感じてみませんか?

胸:
最後の晩餐で主イエスの胸に顔をうずめていた,羨ましいヨハネ.
死後に槍でつかれた胸.
百人隊長が拳で叩いた胸
放蕩息子が父親と重ね合った胸
どんな感じがしますか?
そのうち,その部位が,イエス様の部位と重なって感じられるようになってきます.

●祈った後,振り返った時にも分かります

「〜だと思った」と書いている時は,祈ったのではなく,考えていた.
「温かくなった」「嬉しかった」等と心の言葉がでてきた時は,祈っていた.
「何の理由もなく,幸せを感じた」時は,祈っていた.
「悲しくなった」ら,祈りが失敗しただけ.やり直す.

●御言葉を書き写す時に,イエス様を思い出して書く祈り.

書き写す時が祈りの時だと思えれば,それも祈りです.
祈り味わいながら,書いている自分を,どう感じますか?
私なら,「私って,なんて幸せなんだろ〜」と言います.

●私の変化 例

勉強しているという思い込みが弱点になるので捨てた
教えてもらって,その場で心が温かく豊かになったら,それは勉強ではなく,恵み.(このサイトのように)
恵みと知識,どちらを求めているかがわかってきた.
互いの,本当の気持を,イエスと語り合う
「どうしたら良いか示してほしい」と,神に強く言い続ける
「直観」だけが頼り
祈って,心が温かくならなかったら,祈りを失敗しているから,やり直せばよい.
祈りは対話
傾聴だけだと,イエス様は物足りないとお感じになるかも.イエスの聖心で,私はそう感じます.

●人さまざまで・・・

十字架の根本にひざまずき,死んでいくイエスを見上げ続け,歓びに溢れて,語り合い続ける.
この祈りだけを,毎日ずっとしている人がいます.
ルチア様も色々な祈り方をお聞きだと思います.

●「できない」と思うのは・・・

仕事でも,何でも,「無理だ,できない」と思う時,それは神様の働きかけではないようです.
その思い全部を,イエス様に丸投げしたら,受け取ってくれます.
私も知人から教えてもらって,スッキリしました.
いやな気持ちを数分味わって,楽になるまで,その気持を何度も手放してみて,渡してみて,綺麗サッパリ,なかったコトに.

先々の事で心配するくらいなら,それを全て渡してしまって,
今(過去でも未来でもなく)を幸せだと感じます.
私には大事な祈りです.

●知らなくて,恥ずかしくて,自己卑下してしまうとき・・・

未来の心配や問題を思い起こさせるのは,悪い手口からの影響です.
自己卑下や無関心は,愛の反対だから,
イエスを愛する心を消し去ろうとする策略です.
神様は,誰かとルチア様を比較して,どちらが良い等は,なさらないです.

●自分もゆるせない・・・
沢山の祈り方があります...

●私は,迷ったら,神が喜ぶ方を選び,選んでもできなかったら,できるようにと願います.

神が喜ぶ方の選び方は,恵みと暖かさを感じる2択を並べて,味わって,神様の望みはこちらでしょうか?と尋ねてみたとき,しっくり来る方です.

---

それで,ルチア様のご返事に感謝しています.
また私は,勉強の仕方を教える意図等なく,私の経験を分かち合っているだけなんです.
このサイトは竹下様の意図を大切にする場所なので,
私も,上記のように,「不器用だから,こんな事までしてるのか〜」という事も分かち合っています.

神様はルチア様を愛し,ルチア様用のプロセスを計画されています.
ルチア様が好まれる事だけ,なさって下さい.

ご紹介した本は,デーケン神父がイエズス会士なので,その傾向にしました.
カトリックの多様な宝石は,竹下様の著書から掘り出してください.ザクザクと.
全冊目の前に並べたら,「少しだけでもわかれば,そこから始めよう!」と謙虚に思う程の量ですね.

まず優しい1冊を複数回通読して,気に入った箇所を味わうようになさってみてはいかがでしょうか.
ルチア様の「心の中にある聖書」と比べてみると,楽しいです.

竹下様の3冊も,冒頭で書いたように,味わい深いですね!
「二人の自分」や「祈りを深めるために」だけでも,数ヶ月かかります.
楽しいから読みたいという気持ちの時に読めたら,もっと幸せですね.

福音書も,腑に落ちたり,気に入ったり,気づきがあったりしたところを深めると,それが心の扉になっていきます.

神様は無理強いをしませんから,締め切りもありません.
浅く広い知識よりも,神様とルチア様との対話で培われてきたお智恵を大事になさって下さい.

これまでの素敵な人生経験は全て神の御計画だと思います.

スペシャルプログラムをルチア様のために神は用意されています!

以上

602ルチア:2012/06/17(日) 16:41:22
jean 様
伝えて頂いたこと、有難うございます。

助言して下さった事を大事にしていきたいと思っています。『カルメル会の会則とその精神』、読んでみます。jean様の紹介文を読んだだけでも、魅力的な御本である事がわかりますので。

見知らぬ人間に親切にしてくださり、御礼申し上げます。

603ルチア:2012/06/17(日) 17:08:10
mimemegene 様・竹下様
mimemegene様

「無視」など、とんでもありません。何回も読んでしまいました。
有難うございます、こんなに丁寧な文で伝えて頂き、お時間も頂戴してしまったでしょうに、何と御礼を伝えたら良いのでしょうか…。

竹下様

「竹下様のサイト」で勝手にやりとりして申し訳ありませんでした。こんなに素晴らしい真心をお持ちの方が集うのは、運営なさる方の心の大きさかと考えます。竹下様、有難うございました。

前回の主日に「驚いて」から、また次の主日を迎えました。一週間前には予想もしなかった思いで、今日を過ごしております。

皆さん、お世話になりました。ご厚意、この先も忘れられないと思います。
有難うございました。

604sekko:2012/06/20(水) 19:56:49
mimemegene さま
ヨーロッパの死者の書、古い版ですが、注文したらもう着きました。古本ですが十分読めます。すぐ必要でなければ10月末に日本に行く時に持っていきます。10月最後の日曜のイグナチオなどはいかがですか。この下にあるサイトのアドレスをクリックして、その中のerrataという場所にあるアドレスに連絡ください。すぐ必要でなければ10月末に日本に行く時に持っていきます。10月最後の日曜のイグナチオなどはいかがですか。ルチアさまもよろしければどうぞ。

http://setukotakeshita.com/

605迷える大羊:2012/06/22(金) 00:26:11
家族の宗教
 広くいろいろな方のご意見、体験談がいただければ・・と思う話なのですが、夫婦、あるいは身内との間で信仰が違う、という方はいらっしゃいますか?信仰が違う、といっても無宗教とクリスチャン、あるいはその他というのではなく、例えば、カトリックとプロテスタント、など所属宗派、教会が異なる場合。あるいはキリスト教と仏教系新興宗教といった塩梅の実際に信仰を持つ者同士の「違い」です。

 具体的には・・・。
 ・信仰の違いによって、夫婦、または身内の仲に問題が生じた、といったことはないの  か?

 ・子供がいる場合、どちらの教会に連れて行く、などでもめたことはないのか?どう解決  しているのか?

 ・これが特に聞きたいことのですが、プロテスタント(あるいはプロテスタント同士でも 宗派が異なる場合)とカトリックは同じキリスト教ですが、変に「同じ」だけに、かえ って細かいメンタリティの違いがハナについて・・なんてことはないのか?

 いろいろワケあってキリスト教に関わることになり6年以上、本もいろいろ読み、こちらのサイトでしつこいくらいにいろいろ聞いて(先生には迷惑だったかな、失礼だったかなと思いつつ)、キリスト教世界の幅広さにいろいろと驚きました。特にカトリックに関してはステレオタイプなヴァチカン発の情報では知ることができない面がいろいろと。
 自分でいうのも何ですが、カトリックからプロテスタント福音派まで大抵の教会に足を踏み入れましたし、もしかすると、その辺のクリスチャンより教会によく行ってるかも・・な生活です。
 身内はムリは言わないけど、できればクリスチャンになってくれないかなぁ的な願いは今でも、端々に感じられます。

 別に無神論者ではありませんし、イエスも好きです。でも、実際のクリスチャンの人の信仰心をみると「そこまでは・・・」と思ってしまうし、教会で讃美歌を歌うことは何年経っても恥ずかしくてたまらない。悩みや困難にぶち当たると神様についていろいろ考えますが、そうでない時は神様のことなんざ全く考えてません。品行方正でもなく、慈愛に溢れているわけでもない、イエスの精神とは程遠い全くの俗人です。

 あと、いろいろ教会を巡ったり、講習なども受けた結果、正直いうと、カトリックの方が好きというか、合うような気も。これまで、ある意味失礼だったり、しつこいと思えるような質問をぶつけられた先生からすると「ほんとかよ?」と思われそうですが・・。
 いえ、別にカトリックにすごーくいい人がいたというわけではなく、また、プロテスタントにすごくイヤな人がいた、というわけではありません。教義的に納得した、ってわけでもありません。

 変なところに感心するなよ、あるいはそれは違うよと言われそうですが、いいなぁと思ったのはその「淡泊さ」でして。なんていうか、「キリスト教ですか?」「ええ、そうですよ、それが何か?」くらいのさりげない信仰ぶりが好ましい感じがして。
 「私はクリスチャン、クリスチャンたる者・・」みたいな力みがない、といいましょうか。あと、日本の神社仏閣、関連する行事に妙な壁を作る人も少ない、聖書を過剰に崇めすぎない、教会べったりでもない、というあたり。

 あと、現実的な問題として、教会によって、牧師によって、たとえ同じ教団であってもカラーやムード、教えすらガラッと変わってしまうプロテスタントに比べると、カトリックの場合、教会によってあまりにもいろいろ変わってしまう(少なくともプロテスタントほどには)なんてことがなく「安心」という点もありますね。実際、プロテスタントの身内は引っ越しの後、現在の教会に落ち着くまでに、周辺の教会をいろいろ彷徨いましたし。
 あとは文化的な重厚さ、歴史の厚さはなんだかんだいっても魅力的です。

 まあ、これまでいろいろ述べた通り、キリスト教とか教会自体にまだまだ疑問がありますし、知識は増えたものの、信仰心というやつにもまだわかったようなわからないような、ですし、クリスチャンになるとすれば・・という「仮定」の話ですが。

 ただ、仮に「その日」、つまり、クリスチャンになろう、という日がきた場合、プロテスタントの身内に向かって「いや、実は俺、カトリックの方がいいかなぁ〜と」なんて言ったらどんな反応があるんだろ?やはり、やめといた方がいいかな、面倒が多そうだし、といろいろ考えたもので、スレを立てさせていただいた次第です。
 

606安井 彰:2012/06/22(金) 23:40:03
アウグスティヌス
竹下さま、

ちくま新書版「キリスト教の真実」を楽しく読み始めさせていただいています。
ところが校正ミスでしょうか、85ページの教皇グレゴリウス1世によりイングランドに派遣されたベネディクト会士アウグスティヌスの生年−没年がアウレリウス・アウグスティヌスのものになっています。4世紀と6世紀の違いもあるし、アフリカとイングランドの違いもあるし、ちくまにクレームもんではないでしょうか?
akirayasui@kxe.biglobe.ne.jp

607sekko:2012/06/23(土) 00:22:51
訂正
ご連絡ありがとうございます。

p.85のアウグスティヌスについては、すぐに指摘してくれた人がいたのですが、重版には間に合わず、今度出る3刷りから訂正してもらいました。カンタベリーのアウグスティヌスと呼ばれるこの人は、生年が不詳で、没年はグレゴリウス一世と同じ604年です。文脈からどの時代の人か分かるので私は原稿に入れなかったのでチェックもしていませんでした。大きな誤解はないと思いますが申しわけありません。

後3刷りで訂正したのは、

1)p.83の7行目 「フン族」を削ること。
2)p.108の2行名 「東ローマ帝国」→「神聖ローマ帝国」
3)p.181の5行目 「神聖ローマ帝国」→「西ローマ帝国」

2)と3)は単純ミスですが、世界史を勉強している人などには迷惑だったと思います。

1)は、フン族ではなく七世紀には何度もアウストラシアによって破壊され、八世紀にはサラセン人に焼かれています。ここで関係ある修道院は二つあって、焼かれた年ももちろん分かりますが、このあたりは、もともと細かいことを書きこんでも煩雑になるばかりなのでたたみかけて書いたものなので、新版では

ブルゴーニュの修道院も何度も破壊され、

とだけしてもらいました。

丁寧に読んでくださる読者の方々に感謝します。

サイトのerrataのコーナーにもそのうちに載せてもらいます。

まだ他に単純ミスの間違いがあるかもしれません。お気づきの方はご一報ください。

http://setukotakeshita.com/

608KIMI:2012/06/23(土) 20:54:21
家族の宗教について
夫の家族が「・・バの証人」でした。私は幼児洗礼のカトリックで結婚はカトリック教会です。夫の両親も来てくれました。夫の兄も成人してから無宗教のようですが、夫は子供の時から神を信じていたので神なしではやっていけないそうです。夫の両親は今も信仰活動を続けているようですが、そのことは話題に出ません。昔は大反対で大騒ぎしていたのにあれはいったい何だったのだろうと思います。夫はまだカトリックの洗礼を受けていませんが、子供は洗礼を受けさせました。私の両親からは反対されたことはないです。両親はふたりともカトリックです。参考になるかどうか分かりませんが。

609迷える大羊:2012/06/26(火) 22:59:21
レスありがとうございます
>KIMIさん

 レスありがとうございます。お礼、遅れてすみません。そうですか、ご主人が「あの」教団で、ご自身のご家族はカトリック、と。私なんぞ比べものにならないくらい、いろいろ、おありになるんでしょうね。ただ、ご主人自身は信徒をやめてはいないものの、例の教団に対しての帰属心は、今現在さほどないのでしょう?

 聞いた話では、例の教団で一家で信者の場合、離脱したり、「信仰」を捨てようとすると家族と絶縁状態になる、と聞きますが、最近は違うんですかね? まあ、あの教団といえども人により様々ってことなのでしょうか?いずれにしても、家族の宗教とか信仰に関する問題に関しては「正解」がない・・んでしょうね。

 余談ですが、私のキリスト教とのファーストコンタクトは「・・バの証人」でした。高校時代の友人がそうでした。話も結構聞きました。人は神が自らに似せて作り給うたもの、進化論など邪悪などなど。ただ、知識はないにしても、子供心にどこかロジックが独善的で変だ・・と思ったのと、自宅に二人組で勧誘に現れるようになったため、心苦しいながらも縁切り・・となりましたが、その友人とは。
 その後、双方のご家族がうまくいきますように、お祈りいたします。

610迷える大羊:2012/07/11(水) 02:10:15
カトリック国と自殺
 今週(2012年7月4日号)のニュースウィーク誌日本版の「欧州に蔓延する自殺という疫病(EUROPE'S WHITE WIDOOWS)」(バービー・ラッツァ・ナドー記者)について(ウェブ版なし、紙媒体のみ)。

 簡単にいえば、財政危機、信用危機に端を発する不景気・失業、緊縮財政で追い詰められ、特に状況のひどいイタリア・スペイン、ギリシャなどで、中小企業主(家族や従業員を養えなくなったことを苦にして)や若者(スペインの25歳以下の失業率はなんと50%超)の自殺が著しく増えている・・という記事です。

 記事によればイタリアでは財政再建の為、徴税を厳しくする方向に動いていて、「エク・イタリア」なる徴税専門の公社ができ、その取り立てが例えば、経営難の中小企業の経営者などにとっては厳しいものらしくて。原題のEUROPE'S White WIDOWSというのはイタリアで自殺者の未亡人たちが人生への「降伏」の意を込めて白旗を振ってデモ行進したことからくる題だそうです。

 で、この記事を読んで痛ましさもさることながら、疑問に思ったのはイタリアにしても、スペインにしてもカトリック国で、特にイタリアでは実際の信仰の程度はともかく、名義上は9割方がカトリックなわけですよね?
 もちろん、皆が皆、教会に毎週通い、常に神様のことを考え・・ってわけではないでしょうし、昔みたいに、自殺者は葬儀しない、村八分、なんてことはないにしても、自殺というのはやはり、タブーなのではないのか?
 信仰心とか宗教が自殺への抑止力になってないの?との疑問がわきました。現代の現実のカトリック国の自殺への感覚は、非カトリック国と大して変わらなくなっているのでしょうか?

 まあ、カトリック国であるはずのフランスの離婚率はきわめて高いし、やはり、公式には避妊ダメ、であるはずのカトリック国のイタリアの出生率は世界最低レベルであることを考えると、自殺について同じことがあっても不思議ではありませんが・・。

611sekko:2012/07/02(月) 07:37:10
迷える大羊さま
この件について、あまり答えになりませんが、書きたいことがあったので、ブログの方にアップしておきました。ごらんください。

http://spinou.exblog.jp/18174878/

http://setukotakeshita.com/

612迷える大羊:2012/07/02(月) 11:44:54
なるほど
 ブログ拝見いたしました。良く言えば「寛容」、悪く言えば「適当」なカトリックの世界で、かつて、どうして自殺が殺人犯以上の厳しい扱いを受けていたのか?かねてから不思議だったんですが、その感覚、考え方がよくわかりました。

 キリスト教、少なくともカトリックの世界では神の救いを信じられなくなる、絶望すること、拒否することが何よりも罪、という考えなんですね。

 あと、私が今回のニュースウィーク誌の記事に興味を持ったのは、痛ましさもあるけれど、自殺もそうですが、他にもカトリック国とかラテン系へのステレオタイプが覆されるような話がいろいろ出てくるから、なんですよね。

 まず、カトリック系、ラテン系っていうと、借金や徴税なんて、少々汚い、ずるい手を使ってでも免れて、それこそ、今日本で問題となっている生活保護の不正受給なんかもやって、考えられるあの手この手を使って、経済危機などなんのそので、たくましく強かに生きていく・・というステレオタイプがあったのですが、そういうことができない人間だって大勢いる、という、考えてみれば当たり前の事実が改めてわかったってこと。

 あと、男は働いてナンボ、妻子を養ってナンボ、という昔ながらの価値観の男性がこれまた、大勢いたこと。ステレオタイプでいえば、こういう状況になれば、ヒモになってでも、とにかく頼れるものは何にでも頼って、プライドなど捨ててたくましく生きていく・・って思ったのですが、これまた、そういうことができない不器用な「男らしい」男性が大勢いること。
 記事中の徴税公社エクイタリアの前で焼身自殺した男性も、結局、自殺するまでに、経営難とか税金とか借金とかについて、奥さんには全然話をしてなかったみたいで・・。個人的には、さっさと話してしまえばいいのに・・、そっちの方が結局のところ誠実だし、楽なのにとも思いましたが、プライドというか、自分の不甲斐なさとか情けなさが先にたってそれができなかったみたいで・・・。

 詳細は実際の記事をご覧いただくとして、結局、国や宗教に関係なく、こういう経済苦、借金、徴税苦っていうのは真面目というか不器用で正直な人間ほど、まともに苦しんでしまうっていうのが、なんだかなぁ、と思わされます。

 問題の徴税公社エクイタリアの職員にしても、やはり精神的にストレスの多いイヤな仕事で顧問弁護士が辞めたようですね、記事によれば。そりゃそうだろうな、と思いましたけれども。


 

613jean:2012/07/02(月) 23:53:05
自殺が駄目なのはユダが自殺したから?
竹下さんがブログで書いておられたように、自殺は告解できない唯一の罪、自殺したら敗者復活のチャンスがないというのは、その通りですが、それは後付けの理由という感じがしなくもありません。その前に、普通の人々に自殺はよくないと思わせる何かがあったのではないでしょうか。あの裏切り者のユダは自殺した、自殺するとユダのようになる、それは嫌だ、という思いがベースにあったのでは? 何の根拠もない勝手な想像でしかありませんが。

614Takata Yoshitomi :2012/07/07(土) 12:27:33
「自由人イエス」を読みました。
先日「自由人イエス もう一つのキリスト論」をamazonで購入し、数日かけて一応読了しました。スクルス司祭の「すすめのことば」の通り、訳者の竹下さんに感謝します。私が高校時代に福音書を読んだ第一印象は、ここに本当に自由な人がいるということでした。この本はただ一度通読して終わるべきではなく、生活しながら、読み続けるべき著作だと思います。私はフランスの神父、学者としてGerard Bessiere, Joseph Moingt,Timothy Radcliffeといった人の著作を眼にしてその学殖と誠実なキリストへの信仰に尊敬を持っています。最近では訳書の出たミシエル・アンリの「キリストの言葉」を原書と照合しながら少しずつ読んでいます。信仰のキリストと歴史の中のナザレの人イエス、それを繋ぐ十字架と復活という出来事をなんとか理解したいという気持ちです。これからも優れた著作の紹介と現代日本への提言を期待します。

http://ytakata.apionet.or.jp

615sekko:2012/07/07(土) 20:31:01
まだ迷える大羊さんへ
あ、ラテン系のステレオタイプって、私の感覚では、そしてたとえば普通のフランス人の感覚では「マッチョ」ですよー。

女性の権利を早くから認めて、男女平等共稼ぎ社会が出現した北欧系プロテスタント国とちがって、南欧系カトリック国って、男は外で稼いで、彼ら同士でつるんで、そのマッチョさを男兄弟間の絆の強さで担保するって感じの…まさにちょっとマフィア的な強がりの感じです。

ラテンの母さんは、家の中では絶大な力を持ってたくましそうですが、社会の中での「稼ぎ手」としての認知は低いような。

だから、家族を養えなくなった男のつらさっていうのは自己否定につながるくらい厳しいものもあるのではと想像します。少し前までの日本もそんな感じだったんじゃないでしょうか…

http://setukotakeshita.com/

616sekko:2012/07/07(土) 20:45:26
Jeanさま
私はむしろ、たとえイエスを裏切った後でも、赦しを信じてすがりさえすれば救ってもらえたはずのユダが、絶望して自殺したという話を伝えてきたことの方が後付けの感じがします。

イエスはユダの足もしっかり洗って、聖餐でも他の弟子と差別せず、復活の時にもユダはまだいたという説もあるほどです。そもそも、ほとんどの弟子がみな保身に汲々として四散していた十字架刑の後で、死刑の判決を聞いてすぐに後悔して自殺したなどというユダの消息に気をとめている余裕などだれにもなかったはずですから、ユダの自殺の話こそ、「勧善懲悪」的な教育的配慮で付け加えられたような…

もっとも、「裏切り者」と「自殺者」を結びつけるユダのエピソードが、その後のキリスト教世界に影響を与えたのは確かで、私は今そこのところを掘り下げる『ユダ論』を書き下ろしているところなので、またごらんください。

http://setukotakeshita.com/

617sekko:2012/07/07(土) 21:22:54
Takata Yoshitomi さま
『自由人イエス もう一つのキリスト論』を読んでいただいてありがとうございました。この本はほんとうにすごいですね。

偶像崇拝にとらわれている犠牲者は人間ばかりでなく神も同じことで、そこから自分を解放してしこうとする人は、同時に、神もいっしょに解放して連れて逃げなくてはいけない、という感じがしますね。

自分だけ自由になろうとしても、結局、偶像崇拝のシステムを維持している連中と同じく、エゴイズムの足枷に再びとらわれてしまいます。

ほんとうの自由というものがどれだけ、エゴイズムや時間や空間などを超えるものかということが分かりますね。

フランスで、偶像崇拝を否定するあまり無神論という新しい檻の中で発言する知識人たちに比べて、「それでもカトリック教会に残る」という自由な選択をした思想者たちの書くものには、いつも新鮮な解放感を味わわせてもらえます。

http://setukotakeshita.com/

618迷える大羊:2012/07/18(水) 22:24:29
クリスチャンと葬儀
 こちらに出入りするようにになって以来、何度となく繰り返している話で申し訳ないんですが・・。
 日本の一般的な仏式の葬儀の風習、とくに焼香については、人にもよりますが、日本のカトリック教徒は概ねこだわらず、普通に行う人がほとんど。プロテスタントでもリベラルというか、あまり保守的でないところは普通に行いますが、保守的な教会(非常にぶっちゃけて、なおかつはっきりいってしまうと、「新改訳」聖書を使用する教会)ですと「本当に信仰心があれば自然とそんなことはできなくなります」とか「(焼香しないのは)クリスチャンの証です」みたいなことを言われます。

 で、ご質問ですが、カトリック国、キリスト教国の一角であるフランスのカトリック教徒(なんちゃってカトリック信徒は除いて)はどうなのでしょう?
 つまり、例えば、キリスト教式以外の葬儀に参加する際、「これは異教崇拝だからできません」みたいなこだわりがあったり、日本の神社で「おみくじ」は占いであり、神の御計画を覗き見る不届千万な行為ってことで絶対やらない・・みたいな人が多いんでしょうか?
 それとも、日本の大多数のカトリック教徒同様、こだわらない人がほとんど?

 なぜ、この話を今頃また遡上にあげたか?というと、個人的に最近、また葬儀というものに関わり合いになりそうな状況だからですが・・。

619sekko:2012/07/19(木) 05:28:38
いろいろ大変ですね。
フランスでは、一般的なカトリック信者、なんちゃって信者も含めて(もちろん少数の教条主義的な人はどこにでもいるでしょうが)、つくづく思うんですが、たいていは意識していないと思いますが、もちろん他宗教一般に寛容で、でも、その本音は、前にブログでも書いたんですが、要するに、

「自分ちの伝統宗教だけが宗教だと思っていて、世界の他宗教は宗教じゃなく《文化》だと思っている」

ような気がします。もちろん、自分ちでいろんな原理主義的主張をするイスラムとか、歴史的罪悪感を持たざるを得ないユダヤ教とかについては、同じ「アブラハムの宗教」として葛藤だの警戒だの偏見だのがそれなりにありますが、それ以外の地域の多神教だの仏教だのは「エキゾティックな異文化」程度の認識です。

仏教が無神論で哲学で生き方マニュアルだという見方は根強いですし、仏教、ヒンズー教、神道など、ギリシャ・ローマ神話と同じくらい歴史的、文学的、民族学的、審美的な扱いだし、ヨーロッパに直接の影響関係がない分もっと単純に憧れたり反対にスル―したりするので、セレモニーに参加する機会があるとしても、「信仰の踏み絵」にならず「興味深い異文化体験」か、もしくは「他文化リスペクト原則」の体験という認識だと思います。

いろいろなセレモニーというのは、時代や環境とともに変化してきたもので、セレモニーが人のためにあるので人がセレモニーのためにあるわけではありませんし。

私なんか、母の一周忌のお経をお墓の前で浄土真宗(実家の宗旨)のお坊さんにあげてもらいましたが、その時参加したのはカトリックのシスターたちも含めて全員カトリックだったので、それでもいいですか、と聞くと、お坊さんから「私が行っても、よろしいんですか・・・」と言われてしまいました。でも、浄土真宗では亡くなれば南無阿弥陀仏で即成仏で極楽浄土にいるわけなので、お経も回向のためというより出席者が故人をしのぶためだとも言われたので、どちらもノープロブレムでした。「何教でも何宗でも宗教者が故人のために祈ってくれるのはありがたいことだ」というのは、伝統のメジャー宗教にいる人にはよくある感覚だとも思います。

故人の宗旨をリスペクトして、遺族感情もリスペクトして、自分の立場が周りにとって挑発的なものにならないように控えめにしている、というのが葬儀に臨んでの「普通の大人」のスタンスだという気がします。

http://setukotakeshita.com/

620迷える大羊:2012/07/22(日) 19:10:35
教会通い
 いつも、恐れ入ります。ところで、クリスチャン、キリスト教信者の教会通いについて、ですが・・。
 キリスト教徒にとって礼拝やミサは安らぎと大切なコミュニケーションの場であることは理解しているつもりですし、通常の週末に毎週通うのは、別に何らあれこれいうべきことでもないのは当然です。

 しかし、年に何回もない旅行やらお出かけやらの際にも、また、年に何回、どころか十何年に一回の葬儀だとか、親類の集まりの際にまで「教会があるから、早く帰る・・」みたいなのは一体どうなのか?と・・。イエス様って年に何回単位の行事の際すらも、ミサとか礼拝に参加しないと、忠義を認めない、救いを与えてくれない神(であり人間)であるお方なんですかねぇ?という疑問が・・。

 それ信心深いっていうより、「イエス依存症」だろ?って思うんですが、このような人に対してはどのように接したらいいんでしょうね?

 葬儀のお焼香にしたって、レスいただいたように「他宗教は宗教じゃなく《文化》だと思っている」でええやん、大体、踏絵と違って信仰を試しているわけでなし、遺族や故人がクリスチャンじゃないんだからしょうがないじゃん、としか言いようがない、と思うんですが・・。

 しかし、ことがことだけに言い方には注意せんと、と思いますが、一方ではこんなに人に気を遣わせる「信仰」って何やねん?と思ってしまいます。

621mimeme_gene:2012/07/23(月) 14:49:43
竹下様、 感謝!
竹下様

妻の友人の奥様が自死で帰天されました。
ご著書の「聖アウグスチヌスの祈り」をカードに転記して、その友人に妻が渡しました。
友人から、翌々日に電話が妻にきて、

「これからは、子供たちと3人で暮らすと思っていました。
この詩を読んで、
これからも家族4人で暮らしていくんだと納得して、とても慰められ、救われました」
と分かち合ってくださったそうです。(友人は未信者)

妻と二人で、とても良かったと話し合いました。

竹下様のおかげです。
妻と二人で、竹下様に感謝します。

622迷える大羊:2012/07/29(日) 20:52:18
イジメとキリスト教
 現在、日本では、滋賀県大津市で中2の少年がイジメを苦に自殺した事件が大体的に問題になってます。イジメそのものの酷さもさることながら、学校、教育委員会、警察の事なかれ主義、隠蔽が非難の嵐となっていまして・・。概要はこちら。

http://wiki.livedoor.jp/emiliano/d/%B9%C4%BB%D2%BB%B3%C3%E6%B3%D8%B9%BB%A4%A4%A4%B8%A4%E1%BC%AB%BB%A6%BB%F6%B7%EF#

 今回の確かに大津の事件は酷過ぎるとは思いますし、実態ののさらなる解明が望まれます、と思う一方で、私個人は加害者当人はともかく、それ以外の関係者をあまり高飛車に「裁く」気にもなれないのです。

 誤解を招きそうな話ですが、古今東西、少年少女の集まるところにイジメが100%ない、なんてことはあり得ない、と思うのです、単に程度の差の問題で。大人社会にだって酷いイジメはあるところにはありますし・・。
 はっきり言って、「私はイジメに関わったことありません」なんて言いきれる人なんてどれだけいるんでしょう?ひどいイジメを食らっていない、あるいは積極的にイジメに加担したことがなくても、面倒に関わるのがイヤ、自分自身がターゲットになるのがイヤ、で見て見ぬふりをしていた、くらいは誰にでもあるのではないのか?と。もし、そんなことない、と言い切れる人がいたら、イエスの「罪なき者からこの女に石を投げよ」とか、「偽善」の文字が思い浮かんできます。

 昔はこんなことなかった・・みたいなことをいう年配者の方もいますが、警察庁や法務省のデータを丹念に調べると、少年非行・犯罪は「昔」の方が圧倒的にひどく、荒れ果てていて(特に昭和30年代)、そんな中で、イジメだけは酷くなかった・・というのはちょっと信じ難い話です。単に記憶が美化されているだけ、単に問題にならなかっただけで、今以上に酷いイジメが横行していた、と考える方が自然・・だと個人的には思っています。

 私自身の少年時代を「正直に」振り返れば、いじめられっこだった時期もありましたが、逆にイジメてた(今にして思うと)、あるいはイジメに加担はしないまでも、面倒に関わるのがイヤ、自分自身がターゲットになるのがイヤ、で見て見ぬふりをしていたこともあります・・。
 関係者は何してた、ともいいますが、自分自身の少年時代を省みるに、自分がいじめられっこと認めるのは非常に屈辱的で、大人に訴え出るのは二の足を踏みます。現実的にも、大人に頼った・・という事実は子供社会での立場を一層悪くすることも多いですし・・。
 まあ、今回の大津市の場合の「関係者」は酷過ぎますけども。

 個人的に考え付く策としては、戦争や殺人、その他犯罪が世界から無くならないのと同様に、人間、特に子供の世界にイジメは付き物という前提、つまり性善説ではなく、性悪説で学校運営のスタイルを考える、例えば、特定のメンバーばかりで固定された閉鎖的な人間関係をつくらないようにする、逃げ道を用意する、イジメられっこであることを公の場に訴えることは決して恥ずかしいことでも何でもない、という啓蒙、教育を行うってことが必要な対策かな?と・・。
 少なくとも思いやりの心を育てるだの、道徳教育だのみたいな精神論、観念論は全然役に立たない、と個人的には思ってます。

 前置きが長くなりましたが、このイジメに関して、私は優等生的発言、現実からかけ離れた理想論はガラでない、嫌いな方なので、ずばり本音をいうと、イジメに関しては評論家・呉智英さんの2006年11月26日の産経新聞紙上での発言

 「被害者が自ら死を選ぶなんてバカなことがあるか。死ぬべきは加害者の方だ。いじめられている諸君、自殺するぐらいなら復讐せよ。死刑にはならないぞ、少年法が君たちを守ってくれるから」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E6%99%BA%E8%8B%B1

 に共感してるんですが、これ、クリスチャン的、キリスト教的にはマズい・・んでしょうか、やっぱり・・。でも、現実のキリスト教圏とかキリスト教国の人間、特にアメリカなんかみると、とても「敵を赦せ」とか「敵を愛しなさい」って感じはしませんが・・。むしろ、日本など目でないくらいにやられたらやり返せ、やられっぱなしで帰ってくるな、が徹底しているような気もしますが、偏見でしょうか?まあ、聖書でも旧約の方には 目には目を」という言葉もあったりしますけれども・・・。

 それにしても、子供時代の人間ってどうして残酷なんでしょうね?

623sekko:2012/08/01(水) 01:45:41
迷える大羊さまへ
しばらく留守にしていたのでお返事遅れてすみません。

まず、「教会通い」が親戚のイベントよりも優先したりする話について。

上智大学のサイトのキリスト教Q&Aでこんなのがあります。

54.洗礼を受けたいと望んでいるのですが、家で反対されます。家庭に不和を起こしても洗礼を受けるべきでしょうか。

家の人がキリスト教のことをまったく知らなかったり、伝統的な宗教に熱心であったりする場合には、反対されても当然でしょう。娘が洗礼を受けるとお嫁にやるときに障害になると考える人もいれば、主婦が家事を放りだして信心などにこりはじめると迷惑だ、と考える人もいるでしょう。家の墓はどうなる、と心配する人もいるかもしれません。いずれにせよ、あせって無理をしないようにしてください。
あなたがまだ自立して生計を立てておられないなら、やはりご両親の許しをいただいてください。若い人たちがいかがわしい新興宗教の勧誘にのって大変な被害 をこうむった例もありますから、心配されるのは当然です。指導してくださった司祭や先生に頼んで、ご両親と話していただくのもよいかもしれません。時機を 待てば、そのうちわかっていただけるでしょう。
もしあなたが一家の主婦で、ご主人がキリスト教のことをよくご存じないとしたら、やはりきちんと話しあって、了解を得ておかれることをお勧めします。主婦が教会にいりびたって家事をなげやりにする、というのであれば、それはキリスト教的に見て正しくありません。神への愛はもっとも近い隣人への愛として表れるはずですから。でも、もし教会に行くことが家事に支障をもたらさず、むしろ奥さん、お母さんが教会に行って、喜びをもって帰ってきて、家庭がもっと明るくなった、と喜ばれるようになれば、しめたものです。洗礼の望みも、自然に了解されることでしょう。
確かに福音書には、キリストに従うための厳しい心構えが言われます。「わたしよりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(マタイ10・37)。でも、このような言葉は、それが語られた文脈や状況を無視して理解すべきではありません。 それは確かに、人間が生きていく上でよりどころとする最終的な価値基準のことを言っています。そして神の前で、家族や血縁の愛は決して絶対的な基準とはなりません。でも、その神への愛に目覚めさせ、それをはぐくんでくれるのは、実は他ならない両親の愛であり、家族の愛であり、隣人の愛です。
隣人の愛を深く体験した者のみが、逆説的に、それを越える神への愛を知るようになるのですね。
洗礼は大きな恵みですが、でも、神の大きなみ心を信 じて、あまりあせらないようにしてください。神は一人ひとりを心にかけ、いちばんよいように導いてくださいます。もし神があなたに、洗礼への本当の望みを お与えになったのなら、きっとそのための道も準備してくださるでしょう。

引用終わり。

私はこの意見に全面的に賛成です。

でも、個々のケースで、どんな習慣でも大羊さんのおっしゃるように、「依存症」みたいになってしまうこともあると思います。

それは信仰とかキリスト教とか教会とかとはもう別の次元の問題だと思います。

でも、本人が信仰のため、と思い込んでいるなら、その共同体内のしかるべき人に相談してその依存症状態から脱却するのに協力してもらうことも可能かなあと思います。

その共同体自体が依存性を誘発しようとしているなら別ですが。あり得ない例えですが、もし誰かが私に夢中になって家族関係をおろそかにしているという訴えが家族からなされたら、私なら本人とよく話し合って、もっと柔軟で自由なスタンスでいてくださるように仕向けるでしょう。

もうひとつ、いじめの話。

いろんな言説がありますし、私も書いたことがありますが、

玉聞伸啓さんの「いじめと闘おう!」サイト

http://www.ijimetotatakaou.com/

が、対策と克服を具体的に提示していて今、一番共感しています。

昔のいじめはいわゆる「弱い者いじめ」が多くて、そこにははっきりと「弱い者いじめはダメ」という自主規制もそれなりに生まれていたと思うんですが、今はみんなが横並び的な部分で、何が基準でいじめられているのか分からない、権力関係にも似ていて、外部からの介入がより難しい部分もあるのかもしれません。

ネットを通してなどだとなおさら分からないし。

やられればやり返せ、と言うのも、大人ですら一度自力で負のスパイラルに落ち込んだら鬱から抜け出せないことも多いくらいですから、簡単なことではないし、ましてや赦すとか赦さない以前に、被害者の自死をふせぐためには、これはもう、大人が命をかけて関わるべきだと私は思っています。

大人の社会のハラスメントやDVも、絶対に他からの援助が必要な場合の方が多いと思います。

あとはやっぱり、子どもが幼児のうちから、理屈抜きで、理由なしに誰かをいじめたり攻撃してはいけない、他の子どもたちはたとえ好きになれなくとも絶対にリスペクトしなくてはならないことを徹底的に繰り返すのが必要だと思います。

http://setukotakeshita.com/

624迷える大羊:2012/08/07(火) 19:40:16
お忙しい中、恐れ入ります
 誤解されては困りますが、教会に通ったり、イエスとか神様に頼ること、信じることを貶めてるわけでもありません。
 私だってちょくちょく行きますし、聖書だって読みますし・・。

 この問題は善し悪しっていうより、私自身の性格というかメンタリティとの兼ね合いの問題もあるのかも?です。
 身内は食事の際も「イエス様の御名により」って毎回唱えてお祈りします。当人にとっては大事なアイデンティティ確認であるのはわかりますが、こちらとしては毎回連呼されると、ちょっと押し付けられてるような、プレッシャーを感じちゃうのですよ・・。
 私にイエス様への願いに付き合わせるくせに、焼香しない、他宗教の流儀には従わない、付き合わない・・っていうのはなんだか手前勝手にみえたこともありましたね。
 まあ、時々ふざけて「イエス様にも、仏陀様にもお願いして」って混ぜ返しますけど(^^;。

 自分で何がどう気に食わないのか、整理して考えると、どうも、その「自意識過剰」さがハナについてしょうがない、ってことですね。例の焼香の問題も、別に信仰を試す儀式であるわけでもなし、三位一体のキリスト教の神も異教の神も、誰も気にしとらんわい!って言いたくなってしまって・・。
 つまりクリスチャンであること、というアイデンティティを(私からみて)過剰に確認したがる部分がどうにも、個人的にイラっとするところがあって。「私の宗教ですか?キリスト教ですけど、それが何か?」ぐらいの信仰の方が個人的には好ましく映るんです。
 私としては、身内の信仰に関しては、もうちょっと「さりげない」ものになってくれないかな?と。
 でも、こればっかりは善し悪しでなく、人それぞれですからね、面と向かっては言えないところが、つらいところ。

 ここがカトリック関係者のサイトだから「ヨイショ」をしているわけではなく、カトリックとか正教会とか聖公会の方が個人的に、なんとなく良さ気に映ったのは「さりげない」人が多い印象があったもので。毎週のように教会に来てる人って意外と少なくて、あんた本当に洗礼受けた教会員なの?って人が結構いるし、「現法王が嫌いだからミサいかねぇ」なんて人がいたりしますし(笑)。
 本来は「誉める」ようなことでもないのかもしれませんが、私個人としてはなんとなくそっちの方が「安心」なんですよね。

 もっとも、カトリックとか正教会の場合、自発的に信仰の道を選んだっていうより、家代々の宗教という人が多く、それらの人々にとっては日本の葬式仏教における「檀家」に近い感覚になっているせいもあるかもしれないですが・・。
 あと、これらの教会は世界各地に教会があるグローバルな組織で、歴史も長く、異文化間の摩擦、コミュニケーションに関しても「経験豊富」で「老獪」である、って部分もあるんでしょうね。
 プロテスタントの場合、教会にもよりますが(というか差が激しい)、細かい教団組織にバラバラに分裂し、個々の教会は決してグローバルとか「経験豊富」とはいえず、少人数でこじんまりとまとまっていることが多い、この辺の孤立感とか「若さ」が「自意識過剰」な信仰になりやすい理由かな?と思ったりもしました。

 まあ、以上は私の体験と独断と偏見から、勝手に考えたことで、どこまで的を得ているかは不明ですし、もし不快感を覚える部分があったならば、ご容赦願います、悪意はございません。

625sekko:2012/08/09(木) 00:51:28
迷える大羊さま
この掲示板を昔から見ている人はご存知かもしれませんが、迷える大羊さんは、今の奥様とご結婚なさる前にすでに、奥様のキリスト教との熱心な関わりについて不安を抱いていらっしゃって、ここでご相談されていました。

私は大羊さんも奥様もリアルには存じ上げませんが、その頃、そのテーマをいっしょに考えてコメントしてくださったリアルの友人がいます。

実は、あの頃、その彼女と会った時、大羊さんの話題が出て、「後から難しくなることが見え見えだから、やめておいた方がいいのに」とか、「もし私の息子なら考え直しなさいとアドヴァイスするのに」とかいう話になりました。

あの時そういう「本音」を言わなかったのは、もちろん、大羊さんが宗教について誠実に考えていらっしゃること、当時フィアンセだった奥様を真剣に愛していることなどを理解したからですが、もう一つ、私の方針というか指針があって、それに従ったからです。

それは、

イエスを不和の原因にしない、イエスの名において人と争わない、

ということです。

これは、イエスだけでなく、神さまでも仏さまでもアッラ―でも同じです。

多くの人の「救い主」として信仰の対象になっているシンボルを不和、争い、戦争などの原因にするのは常に人間の愚かさや弱さ、頑迷さや卑怯さからくることだと思います。救い主として崇められているような存在が、自分の名のもとで人々が不和になったり不幸になったりすることを望むとは思えません。

で、私は、大羊さんが今でも「迷える」大羊でありながら、その一線を守っていることを、頼もしく思います。

こういうことって、日常の小さな不満の積み重ねがいつしか、

「君はぼくとイエスとどっちが大切なんだ」とか

「ぼくをとるのかイエスをとるのか」というような短絡的なフレーズとなって口から滑りだし、

「もちろんイエスさまよ、最初から言ってるじゃない」とか

「そんな問題の立て方をする人なんて信じられない」とかいう応酬と共に、

愛だの絆だのがあえなく消えたり切れたりすることが往々にしてあるからです。

もちろんそのような問題の立て方は「イエスを不和の原因に巻き込む」ことであり、なすべきことではありません。たとえ、ある種の人が、自分でも気づかずに、神さま大事、教会第一で家庭の不和を招いているようなことがあったとしても、それに対して宗教の言葉で返すのは正しいやり方ではないと私は思っています。

大羊さんは、共同体の縛りの強い信者や信念を前にしていろいろフラストレーションもあると思いますが、一度、それらを宗教の地平から切り離して、どうすればお二人の生活で互いの力や思いやりをつなげていくことができるか工夫してみてください。大羊さんが奥様をリスペクトし抜く決意はどんな神さまだって肯定してくれますよ。

以上、なんだか、大羊さんの一連の質問の陰にもやもやしたものを勝手に感じたので書いてみました。的外れならスルーしてください。

http://setukotakeshita.com/

626迷える大羊:2012/08/10(金) 21:23:09
恐れ入ります。
??御心配をおかけします。まあ、細かい不満、不安はあるにせよ、不和というわけでもないです。宗教については最初からわかっていましたし、
 まあ、宗教というのは数ある家庭問題のバリエーションの一つで、そういう問題がなくても離婚してしまう夫婦は離婚しますし(友人が離婚しました。)、キリスト教とかイエスそのものが悪いわけでも、不満の原因でもないです。ただ、その信仰具合、形態が「予想外」だったということで・・・。
 私が身内の宗教についてあまり気にしなかったのは、実母がとある仏教系宗教団体の信者なのですが、そのことで家庭内に問題が起こったことなんてなかったからでして、キリスト教?プロテスタント?別に怪しい宗教でなけりゃいいんじゃない、くらいに考えていたのでした。
 実は身内の実家はクリスチャンではなく、ごく普通の無宗教の日本人です。子供時代に肉親を亡くしつらかったところ、日曜学校で通っていた教会の牧師先生にいろいろお世話になり、洗礼・・という、キリスト教に限らず、宗教に入るきっかけとしてはよくあるパターンです。

 ただ、私的に困ったもんだ・・と思ってしまうのは、その牧師先生というのが、話を聞く限り、私からすると非常に保守的というか、ちょっと教条主義的な信仰解釈をする方だったみたいで・・・。今は、その牧師先生もいませんし、身内も引っ越したこともあって、実質的な所属教会も変わってます(というか、正規に所属している教会はない)けども、影響はかなりあったみたいです。何しろ、自分を「導いて」くれた人ですし・・。

 私としては、ノンクリスチャンの私がいうのも変だし、おこがましい気もしますが、「君が知っているキリスト教ばかりがキリスト教の世界じゃないんだよ、キリスト教たっていろいろだよ」ってことをいいたくて、一時期、カトリックとか聖公会の教会やら、いろんな教会に引き回しましたけども。
 以前に比べれば、(私からみて)頑ななところは少なくなったかな・・と思ってますが。

 仮に私がクリスチャンになったとしても、別に洗脳を施されるわけではないですし、この辺の、なんていえばいいのか、神様とか信仰に対する姿勢とか感覚は変わりそうにないですし、万事万歳ってわけでもないと思いますね。

 おっしゃる通り、イエスとか宗教は不満の直接の原因ではありません。それに、身内と出会わなければ、キリスト教とか宗教について、ずっと無知、無理解のままでしたでしょう。 そういう意味では感謝すべき面もあります。

 しかし、かくいう自分も、ノンクリのくせにキリスト教サイトの常連のようになってしまい(なんだかかなり年数が経ったような)、聖書もよく読み(自慢してるわけじゃありません、本当にただ読んでるだけですし、神学的なこ難しい話の知識は未だゼロ、です。むしろ自虐です)、そこいらのクリスチャンより、いろんな教会を訪問した俺って奴も、もしかすると「イエス依存症」か?人のことは言えない・・と思わないでもないです(笑)。
 

627おばさん:2012/08/11(土) 11:53:23
迷える大羊様
竹下様
ホームページで勉強させて頂き有難うございます。運営されていらっしゃる事に感謝しております。

迷える大羊様
現在、この投稿を制作時点で、このサイトの3つの板が全て「迷える大羊様」からの投稿になっております。ご自分で仰られているような「イエス依存症」というよりも「掲示板依存症」のような印象を受けてしまいます。1か月程、投稿をお休みになられて、ご自分の様子をみられてはと考えてしまいますが。
出過ぎた投稿、お許しください。

628sekko:2012/08/12(日) 00:36:30
投稿について
私が迷惑だと思った時はそれなりに表明していますし、偏見のひどいものなどは削除もしていますから、ここで返事しているものについては、みなさまお気づかいなきようお願いします。

「迷える大羊」さまだって、その気になればハンドルネームを変えて続けることもできるのだし、私も普段考えていないことを考えさせてもらっている部分もあります。

一昔前、毎日のようにFAXで長々と質問を寄せられる読者(私より十歳位年上の方でした)がいました。しかも手書きで判読しにくく、大変でした。私はちゃんと返事を書いていましたが、せっかくいろいろ考えて返事を書いたのだから、それを他の人と共有できないのはもったいないなあと思っていました。

FAXでのやりとりは、今はもう限りなくゼロに近く、ネットのスキルのないその方とは、結局私の方から音信を途絶えさせた形になり、申しわけなかったと今でも罪悪感があります。私もデジタルスキルは低いですが、それでも、簡便な今のやり方を一度知ると、もうなかなか昔には戻れません。

ネットのおかげで外国にいても、昔日本にいた頃よりずっと日本のいろいろな人の状況がよく分かって、毎日拝見しているブログなども複数あって、私も依存症と言えば依存症です。まあ誰にも迷惑かけないなら、みなうまくつきあっていきましょう。

私もできる範囲でしかやっていませんので、どうかあまり気になさらないでください。

http://setukotakeshita.com/

629mimeme_gene:2012/08/19(日) 12:05:44
迷える大羊様へ
大羊様

私は毎日祈りますが,その中で幾度もあなた様が心に浮かびました.
だいぶ時間をかけて,少しだけでも,お伝えして良いことを書きます.


●私は,大羊様が御子イエスと出会いますようにと幾度も祈っています.

最初の使徒達は未受洗者です.
多くの方々と同様に,私も幾度も会っています.
全てが恵みで,奇跡ではなく,ともに生きている実感です.

まだでしたら,
イエスと出会いたいと,強く何度も願い,イエスに言い,

出会われているなら,
その出会いを悟り,深められますようにと,祈ります.


●悟りと対話を祈っています.

「心を満たし満足させるのは、広い知識ではなく、ものを悟り、それを内的に味わう事」(霊操2番)

ご自分との内的対話で,御子が全て答えてくれます.
何を聞いても返事があります.
様々な選びも御聖霊が導いてくださいます.

もう既に悟りが芽生えていらっしゃるのかもしれませんね.
三位一体の御交が望む大羊様へのご計画は,
大羊様にしかわかりません.

大羊様は多才な方とお見受けしますので,
一つの深まりや悟りが,全ての対話のきっかけとなりますようにと,祈ります.

630迷える大羊:2012/08/20(月) 19:51:27
投稿の件
 おばさん様がどのようなお立場の方であるか、存じ上げませんが、もし、こちらのホームページ、BBSの運営関係者で、私の投稿により何か不都合、不具合を与えたのであれば、お詫びする以外にありません。
 しかし、内容に関係なく、ただ、投稿が多すぎる、目障りだ、不愉快だ、というご批判でしたら、他のBBSでは受けたことのないご批判ですので、戸惑いを隠せない・・というのが正直なところです。
 掲示板依存症であるのは認めます。何しろ、リアル世界では相談相手が見つけづらいテーマでも簡単に質問出来たりするのですから、つい、いろいろと余計なことを語ってしまいます。実のところ、リアル世界では私、宗教やら政治やら、海外情勢やらって相手が話を振ってこない限り全然話しないのです。そういうことには関心のない人、と思われています。

 ただ、言い訳めいてしまいますが、かなり以前になってしまいますが、竹下先生にはレスについてはムリしないで下さい、忙しい、あるいは答えようのない投稿には無理にお答せずとも結構です、とお断りさせていただいたように思いましたし、実際、お答いただけないことがあっても、なんとも思ったことはありません(他のBBSでも)。

 内容が稚拙、あるいはタイミングが悪い、絡みようがない、などなどでレスがつかない、というのはネットではよくあることですし、ましてや先生はそれが仕事でも何でもないのですから。レスがつかなければ、あ、ちょっとこれは何かまずかったかな?ということで、それ以上話題を進めないようにするだけです。
 私自身もせっかく先生からレスいただいたのに、礼も感想も延べずにほおっておいてしまったこともありますから、お互い様です(忙しかったり、うまく文章が書けない、などで)。

 それより何より、ここは「BBS」ですから竹下先生「だけ」のご回答を求めているわけではありません。特に家族と宗教の問題については多種多様な方々の体験談が聞きたかったところなのですが、私の文章力の稚拙さ故か、内容故か、竹下先生にしかお相手していただけない場合が多く、結果として(特に第三者からみると)、私が竹下先生に怒涛のごとく「課題」を押し付けている・・みたいな形になってしまっているのは、我ながら困ったものだなぁ、悪いなぁとは思ってました。

 こちらのBBSでは、私の「発言中」は他の方は投稿できない、質問できない、とのルールがあるのでしょうか?それならば、申し訳ない、以後気を付けます。
 あるいはそのようなルールがなく、単に遠慮されているだけならば、どうぞ、お構いなく投稿願います、です。

 竹下先生やこちらの方々には感謝こそすれ、悪意など全くない、ましてや「掲示板荒らし、乗っ取り」の意図なんて全くありませんから。

631迷える大羊:2012/08/20(月) 20:18:20
ありがとございます
mimeme_gene様

 ありがとうございます。こちらのBBSでは、聖書のアラ探しみたいなこといったり、一丁前に教会批判みたいなことを言ったりしていたので、キリスト教が嫌い、バカにしている、なんて誤解されていないか?いつも気になっていました。
 全然、そんなことないです。イエスそのものは大好きです。ただ、ちょっと一般的なクリスチャンの方々の「信仰」とはズレているところがあるかもしれませんが・・。

 身内と宗教については、いろいろ気になる(墓やら子供やら・・・etc)ことがあったりしますが、でも、お話をいろいろ伺うと皆さん、いろいろな事情を抱えておられるみたいで・・。別に具体的なアドヴァイス(直接、面識がないのですから無理ですし)でなくとも、「わかっていただける」だけでも大きな励みです。

 そういえば、明日を思い煩うことなかれ・・って聖書にもありましたね。

632mimeme_gene:2012/08/21(火) 01:58:21
まよえる大羊さまへ
大羊様はイエスが「大好き」と書かれています.相思相愛ですね.私もそうです.

キリスト教ほどおめでたい宗教はないと思います.
「全ての人のあらゆる罪がゆるされる」からです.
「じゃあ,どんな悪事をしても,ゆされるの?」と聞かれます.
答えは「ゆるされる」です.公教要理等にも書かれています.

ですので,「その人の罪が私の罪とは違うものだからといって,その人を裁かないように」というのが,私のいつもの自省です.

更には,天国で,「なんでこの人がゆるされて天国にいるの?」と思いたくなってしまう人がいたりして...
私は天国に行く前に,その方からゆるされたいし,和解したいです.

でも,その前に,私にできることは,祈りです.

罪であっても,その人の命の一部だから,イエスは喜んで受け取って,イエスの命へと清めてくださり,私達に返してくださいます.

こう書きたくなる実感があります.
祈りの中で,十字架の下に行き,自分の罪を取り出し,掌にもって,五官の全てでそれを感じてみて,イエスに差し出します.
罪の手触り,味,匂い,色合,温度・・・と感じてみると,自分との対話になります.
そして,その後の喜びは,一度なさってみると,感じると思います.

「心を満たし満足させるのは、広い知識ではなく、ものを悟り、それを内的に味わう事」(霊操2番)
を私なりにやっています.

竹下様の著書を読んで,「この方は,三位一体のどなたかと,何か話されて,それを文章にしている」と直感しました.

正直に言いますが,私は,大羊様の文章を読んで,竹下様が答えられているようには,ピンときていません.
もちろん素養や知性が違います.そのストックは,計り知れないようです.

でも,それだけではなくて,大羊様がイエスに何を話されたかよりも,イエスが大羊様に何を話されているかの方に,私の関心があるからだとわかりました.相思相愛の豊かさや楽しさでしょうか.
大羊様の文に,もっと見つめられるように,なりたいです.

今日はこのへんで.

633Sekko:2012/08/22(水) 23:28:49
ゆるされること、など
mimeme_gene さん、いろいろフォローしてくださってありがとうございます。

>「その人の罪が私の罪とは違うものだからといって,その人を裁かないように」というのが,私のいつもの自省です

というのはほんとですね。

「他人の罪や欠点をあげつらう」というのは、想像力の欠如のせいもあるかなあと思います。自分に厳しい人が他人にも厳しいというのはよくありますがそれですら的外れのことがほとんどなのに、中には自分に厳しくなくて他人にだけ厳しいって人もいますよね。

私は他人に厳しくしないことで自分に厳しくしないことを正当化するタイプかもしれません。

罰せられるのは嫌だけど、あれやこれやの多少の罪悪感はいつも抱いているので謙虚になっていいだろう、ぐらいのいいかげんなスタンスなので自戒します。


キリスト教がおめでたい宗教、というのは私も感じます。いろいろ紆余曲折を経て、本来のおめでたさを回復しつつある、みたいな感じ。

すべての人のあらゆる罪が赦される、ということについて、前にもユダのことで少し触れましたが、今ユダ論でちょうどオリゲネスのアポカタスタシスなどについて書いていたので、あらためて考えさせられます。

「罪が赦される」とは、単にこの世で「罰せられない」ということなのか、あの世で地獄だの煉獄で責められないということなのかと考えると、この世で社会的に罰せられない罪しか犯していず、死後の世界も信じていなければどうでもよくなりますよね。それでも「因果応報」とか「悪業のたたり」みたいな言葉がどの文化にもあるということは、たとえばあまりにも利己的な行為に対して自然に「後ろめたさ」を感じるような心性があった方が、全体として種の存続に有利だからこそ受け継がれてきたとも考えられます。

で、「罰せられない」ということが即「救い」なのかどうかということも気になります。

古来、富や権力を掌中にした支配者などは、人間からは「罰せられない」立場にあるわけですが、満足して生きているかと言えば、最後は「不老不死」の秘法を求めるとか、結局、実存的な不安からの救いを求めてしまうのかもしれません。あるいは老いや死そのものを一種の「罰」だと感じるのかもしれません。だとしたら「原罪によって人が不死の存在でなくなった)という考え方もそれと表裏をなしているのでしょう。

キリスト教が、すべての人のすべての罪がゆるされるという時、その前提は、全ての人はイエスを通して永遠に生きるということがあるからだと思います。永遠に生きるという見方に立ったときには、もう罪とか罰とかいう限定的な枠組みは消えてしまう。「地獄で永遠の劫火に焼かれ続ける」などという表現は、それ自体が現世的な表現であって、神的な永遠や無限の中にはそういう「仕分け」はないという考え方も古来ありました。少なくとも「永遠に生きる」という視点なしには「救い」も「ゆるし」も成立しませんでした。

何年か前に、プロテスタントの教会に垂れ幕がかかっていて「イエスを信じる者は死なないで永遠に生きる」とあったのを見た時に、ものすごくカルト的な印象で愕然としたことがあります。ボーン・アゲインのような運動にも個人的にはすごく違和感があります。でも、確かにキリスト教のおめでたさは「永遠に生きる」「死んでも生きる」ところにあるので、そのことを、今生きている間に本気で視野に入れないとしたら、「救い」も「ゆるし」も言葉だけになってしまうかもしれないなあとも思います。

でも実際そういうことを視野に入れて生きて、死んで、その結果、その後もずっと人々を結びつけつつ生かし続けている人々は決して少なくありません。継承され分かち合われるメッセージ性はそれが思想的なものであれ芸術的なものであれ、永遠とか超越とかいうコンセプト抜きには生まれないのだというのが実感です。

実存的不安に対して儒教や仏教系の「安心立命」的な悟りの境地に至るのは、私には多分不老不死の薬を得るのと変わらないくらい難しいので、それに比べれば、とりあえず、死後も超越的な何かを通してみんないっしょに永遠に生きると想定して「立命」できたらなあと思います。(みなさまからのお祈りが効いてきたのかも…)

http://setukotakeshita.com/

634mimeme_gene:2012/08/26(日) 14:22:26
竹下様
私の感覚ですと、罪は何かを限定や特定してしまうと感じます。
その方にも私と同じ限界があると感じます。
罪に無限の広がりを感じることは、私にはありません。

竹下様のおっしゃるように、「想像力の欠如のせいもあるかなあとおもいます」というのは、とても暖かい感じがします。

御交が全てなさってくださるから、私は、他の人に罪を感じたら「罪という契機から、愛されている実感に私が気づいたように、その方も御交の無限の愛に気づかれますように」と沢山いのります。

御交が無限の愛だから、私たちも愛になるようにと、御交から愛されていると感じます。
聖イグナチオの愛を得るための観想を、「愛になるための観想」と読み替えて、私は日々祈っています。

私自身の大小様々な罪については、日々感じます。
罰という感覚はなくて、御交の愛を受け止めていないという事実を痛悔します。
特に霊操の罪の究明のやり方にならっています。

「キリスト教が、すべての人のすべての罪がゆるされるという時、その前提は、全ての人はイエスを通して永遠に生きるということがあるからだと思います。」と書かれていた文章を読んで、私は、「永遠」というイメージと、今の生活にこの「永遠」をもっと埋め込んでいきたいと強く願いました。

本当にありがとうございます。感謝です。

635phantom:2012/10/07(日) 15:51:24
教会博士
竹下先生、こんにちは。ブログを拝読致しました。
ビンゲンのヒルデガルト、今年は大出世ですね!
このまま、非公式な聖女のままなのだろうなぁ、と思っていたたけに、驚きました。
先生と同じように、私も彼女が大好きなので嬉しいニュースでした。

ヒルデガルトは邦訳がほとんどないのが残念です。日本語では関連書籍も極僅か…題材としてこんなにユニークな存在は他にないのに、もったいないですね。特に精神医学的なアプローチをしたら、面白そうです。

竹下先生の書いたヒルデガルトやアビラのテレサについての文章、いつか読んでみたいです。どうか、是非ご検討を!

636Sekko:2012/10/07(日) 19:05:50
中村 千尋 さま
中村千尋さま、前に書きこんでいただいていたのですが、何か続きがあるのだろうとそのままになっていました。もし、続きがあるなら加筆ください。

http://setukotakeshita.com/

637Sekko:2012/10/07(日) 19:39:56
phantomさま
ブログを読んでくださってありがとうございます。

ディープな聖女もので書きたいテーマはいくつもあるのですが、そのうちにと思っているうちに持ち時間が少なくなっていくような…

私はかなり昔からヒルデガルトが好きでしたが、オリバー・サックスの『偏頭痛』でヒルデガルトの幻視が網膜に映るスコリーだという解説を読んでその図を見た時に、それが私が昔から目を閉じた時に見ているのと同じなので驚きました。目を閉じた時に見える形がいろいろ変化するのは誰にでもあることだと思っていたからです。今でも寝床に入っても眠れないときはその画像をいろいろ操作しながらずっとながめています。

ヒルデガルトが本当に見ていたのは何か分かりませんが、不思議なのは、そういうものを見て、神から与えられたビジョンだと思える心のメカニズムです。

ただの偏頭痛の症状や幻聴をビジョンやお告げだと信じ込む人もいれば、ひょっとして、本当にビジョンやお告げが来ているのに、全くスルーするするタイプの人もいるのかもしれません。

信じ込むためには何かどこかが壊れなくてはだめなのか、たとえ壊れても真実に導かれる人がいるのか、そんなことも気にせずに境界領域をぼんやり生きていける人もいるのか、謎です。

米国大統領候補のロムニーのような人が本気にモルモン教を信じているのか(代回頃フランスに布教活動で滞在していた)というのも私には謎です。

アニミズムとか、お天道様やご先祖さまを拝んだり、各種の神々だとか遠い昔の預言者を崇めたりするのはなんとなく分かります。距離の取り方によっては人生の潤滑油になるかもしれません。

でも、近代以降とか現代になって新たに自分がキリストの再来だとか最終預言者だとか最終解脱者だとか突然新たなお告げを発掘して訳したとか、各種聖人の霊言をキャッチするとかいう生身の人間を教祖として、巨大な金が動く教団になっているような新宗教の場合、現役の社会人に、その「教祖」の言うことを本気で信じるための一線を越えさせるものとは、一体何なのだろうと思ってしまいます。

もちろん育った家庭や地域の影響がある場合は理解できますが、それでも、ロムニーのような人が、単に「信仰を持っている」というアメリカ的モラルの担保として以上にモルモン教に軸足を置いているのは不思議です。

ヒルデガルトの場合は、自分の周りにいる教会の権威たちには全然屈していませんから別ですが、あの時代にあの環境で、自分の言葉で語るには、やはり神のひと押しがあったのか、神の言葉とセットにしてでないと表現できなかったのか、探ってみたいところです。

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638リジュー:2013/02/06(水) 23:03:24
ヴィジョン
竹下様初めまして。以前「聖女伝」を読ませて頂きいろいろ考えました。興味深かったのは、フランソワ・ド・サルとジャンヌ・ド・シャンタルの出会いです。二人のヴィジョン(召命)が素敵です。私自身は聖人洗礼ですが幼稚園、高校がカトリックで影響うけています。私は神父様に心がいってしまう傾向があり、フランソワとジャンヌのような関係に憧れます。竹下様はこういう二人のヴィジョン(召命)をどう思われますか?神の摂理をどうお考えでしょうか?また神父様にイエス様や世の理想的な男性を求める私は人間的にちょっとかもしれませが、神様に対するいろんな方の考えに興味を持っています。竹下様はカトリックの洗礼は受けられていらっしゃるのかと思っておりますが、(すみませんよく存知あげておらず)以前パリの友人宅に訪問し、教会などいろいろ行きましたが、フランス人のカトリック観は日本人と違いますし、私は宣教師の方の特に深い関心と尊敬のような物を持ってしまいます。どうか竹下様のアドバイスをいただきたいです。

639Sekko:2013/02/07(木) 09:15:50
リジューさまへ
リジューさま、こんにちは。

そうですね。「霊的カップル」っていうのに私もちょっと憧れます。

フランソワ・ド・サルとシャンタルの場合はなんだかんだといっても名士同士、エリート同士かなあ、とも思いますが、それでも、いわゆる「相性」を超えた大きな何かを介在させていたのだなあと思います。

上流家庭で妻母嫁と人生のフルコースを味わってその後またフランソワ・ド・サルのような突出したキャラクターと出あい、共に新しい修道会を創り上げたシャンタルの人生はなかなか羨ましいです。

私の身近でよく知っているのはカトリック関係者とチベット仏教関係者なんですが、どちらも独身の誓願を立てている人たちで、「神仏に帰依して人々を救う」という決意と、自分の「個人としての家庭の団欒や子孫を残すことはしない」という決意とがペアになっているのを見ると、自然とリスペクトの念がわきます。

もちろん家庭を持たれていても宗教的使命を遂行する人もいれば、独身でも俗な欲望にまみれている人もいるわけですが、何につけ、禁欲的に専念しているタイプの人には惹きつけられます(自分がそうじゃないからかもしれませんが)。

カトリックの宣教会のヨーロッパ系の神父さんなどで、若い時からずっと日本に来て、カトリックの少ない日本に骨をうずめたいという方たちにも感心します。

昨年お亡くなりになったネラン神父さまのようにリタイアしてから新宿にバーを開いてサラリーマンに寄り添った人もいるくらい(ネランさんについてブログで書いたことがあります。http://spinou.exblog.jp/15666988/ )で、みなユニークで、それなのになんだか波長が日本人っぽくなっていて親しみやすいですね。

ただ、出会いというもの、人柄というものはすごく大事なので、チベット仏教では一人のラマ(指導僧)につくのですが、10年間は、自分に合わなければ替えていいそうです。

いいかえると、10年くらいのスパンで見ていかないと、本当に自分にとって霊的な指導者になってもらえるかという大切なことの見極めはつかないかもしれないということです。

まあ結婚などでも、一目ぼれで何十年も幸せに添い遂げる人もいるのですから、これは運命かもしれません。

シャンタルだって、運命の人フランソワ・ド・サルに惹かれながら、別に告解僧もいたし、なかなか特別な関係に入れなかったですよね。試練があった方が本物の気持ちを確かめられるかもしれません。

ある程度の年配になるとずっと何かの仮面をかぶってきたり何者かの振りをしてきたりしたような人たちにはそれなりの不透明さが出てくるように思います。

そうでない人は年を重ねるごとに生まれるある種のシンプルさによって信頼感をそそってくれます。

「この人の信じている神さまなら信じてもいいな」と思えることもあるでしょう。

ただ、「理想的な男性を求める」的な惹かれ方は、あまり深入りすると失望したり、相手を困らせたりするかもしれませんから、気をつけた方がいいかもです。

あまりアドバイスになってませんが、ケースバイケースだということで、ひとまずこの辺で。

http://setukotakeshita.com/

640リジュー:2013/02/09(土) 22:41:06
(無題)
竹下様

お返事ありがとうございます。ネラン神父様のこと少しネットでみました。とてもいろんなご経験をされた方で、素晴らしい方ですね。宣教師として活動され、引退後は生き方も選択できるのは理想的でもあり、でもそれは神様がその方それぞれに与えたものであり、自分で決めることでもあり、その辺の判断が私は難しいと感じてしまいます。仮に聖職者が聖職者を辞める場合もあるのでしょうけど、それは世間的にみてどうでしょう。仮に結婚したとしてもそれは素敵なことだと思いますが、批判の目でみられたりもするんでしょうか?
「聖女伝」の中のテレーズのことも普通の女の子は聖人になれるか?という所にも考えさせられました。聖人、カトリックは奇跡がが好きとか、いろいろありますが、何というかいわゆる召命もその時々で変わることもあるし、カトリックの世界で自分を大切にしてしまい、世間での付き合いが好きでなくなったり、聖書も自分視点で解釈したり、自分で解釈するのが好きなのは、良くないことなのか、やはり神父様のご指導の下が一番でしょうが。神様の思い方は人それぞれですが、よく違うと言われることもあります。それで少し落ち込んだり、人々と分かちあうことも大切ですが、私の中の神様は自分の中で大切にしたいですし。
霊的指導者は10年位かけてのお付き合いが大切なのだと、10年位自分の近くにいて下さる神父様がいたら本当に理想的ですね。神父様にイエス様を重ねてしまうことはどうでしょうか?自分がそんな気がしてますが。ゆるしの秘跡にしても良く知ってる神父様だと人間的な目で見られてしまったらと思うこともあったり、やはり友人と一緒で人柄が重要なのでしょうんね。確かに偽った生き方や人間的な優しさがあるかどうかは年を経た方は自然とでてしまいますね、そう思います。

641今紫:2013/02/23(土) 07:39:05
ローマ教皇の退位と聖マラキの預言の的中?
竹下様、お久しぶりです。

ローマ教皇ベネディクト16世の退位のニュースは驚きました。高齢の理由でそうなるのは致し方がありません。3月末の次期ローマ教皇が決まる選挙、コンクラーヴェ(根競べに似ていますね)でどんな方になるのでしょうか。

さて、巷(特にネット)ではアイルランドに実在した聖マラキ(マラキアス)の預言が再び浮上しています。偽書の疑いがあるとはいえ、歴代ローマ教皇のことをほぼ、的中しています。たとえば、前教皇ヨハネ・パウロ2世は「労働の太陽」、現教皇は「オリーヴの栄光」といったいかにも彼らの特徴や象徴を現しているようです。12世紀の人がこんな明確な預言を残すことができるのでしょうか。まあ、私は預言と信仰は区別して考えて行動しています。こういう「預言」良くも悪くも「的中」してほしくはありません。

くだらない内容になり申し訳ありません。教皇退位でこんなことを思い出しました。
四旬節は2月13日の水曜日から始まりました。2月13日はファティマのルチア修道女の命日(将来は記念日なる可能性がある)にあたり、これも何かの因縁があるのでしょうか。

花粉症には十分気をつけてくださいますように。先生のご活躍を心よりお祈り申し上げます。

642sekko:2013/02/24(日) 09:16:50
聖マラキですか。
今紫さん、こんにちは。

聖マラキですか。

教皇の引退宣言以来、数々の記事を読んでいますが、さすがに聖マラキを持ち出すようなタイプのものは読んでませんでした。

聖マラキの預言書については『ノストラダムスの生涯』のp171-176で解説してコメントしたことがあります。

その時はまだ前教皇の時代でしたけれど、なるほど、今の教皇の辞任が「時の終わり」で、では、次の教皇は「ローマ人ペトロ」でどんな苦難が待っていることやら…。

ローマ人っていうのはヴァティカンに常駐する枢機卿ってことかしら。

つい先日は、イタリアの左派系新聞が、ヴァティカン内の同性愛ロビーの存在を知ったことが教皇を辞任に追いやったなどと書いてこちらでは多少話題になりましたが、検証記事を読むと何の根拠もない話でした。

それにしても、教皇の変わり目というのはいろんな人がいろんなことを言いだすものだなあと思います。

今の教皇は、次の教皇について、統治能力があり、ルーティーンに陥ることなく、キリスト教諸派の統合を目指し、非キリスト教世界に向けて発信できる人を、などと言っていましたから、適任者が現れるといいのですが。

643Phantom:2013/02/26(火) 12:37:40
(無題)
竹下先生こんにちは!
2月25日のブログ記事、まるで短編小説のようでとっても素敵でした。
「教皇のリタイアが希望を感じさせてくれた」なんて、96歳のシスターがこんなにものびのびとした自由な心をお持ちなのかと、驚くような、嬉しくなるようなエピソードでした。
キリスト教国では、教皇辞職について「裏切られた」とショックを受けた信徒が多い、などとニュースで見ておりましたので尚更です。

時流を諦観でなく、こんな風にポジティブに捉えられるのは、もちろん元来の個人の性質に由来するのでしょうが、一般信徒に比べて何かと制約の多い修道者が(ましてやこの世代の受けた宗教教育は現代よりも厳しかったはず)、その上で自由に開かれた心を持っているというのは、何とも言えずすがすがしく感じられました。

以前カトリックサプリの記事で、パレモニアルで召命を確信し、バチカンで毎日を生き生きと過ごす司祭のエピソードがありましたが、この記事を読んだ時も同じく爽やかな風が吹き抜けるような感動を受けました。

胸のつまるような事件の多い中、このようにある意味で純粋に、自由な心で生きる方々がいるという事を知るだけで、希望が湧いてきます。真似はできないかもしれないけれど、そんな風に視点を変える事で、世界をよりよく生きられるんだと、こちらまでワクワクしてきます。

いつも素敵な記事を書いて下さってありがとうございます。まとまりのない感想で恐縮ですが、どうしてもお礼を伝えたくなってしまいました。

またコンクラーべ関連の記事も楽しみにしております!ネットがある事で海外ニュースは簡単に読めますが、やはりその国の空気感まではどうしてもわかりませんから、竹下先生のブログは本当に興味深く拝見させていただいております。
いつも日本から応援しています!

644sekko:2013/02/27(水) 00:16:25
phantomさま、ありがとうございます。
愛徳姉妹会はもともと活動修道会ですから元気なシスターが多いです。

私たちのトリオが最初に日本で公演した時、愛徳姉妹会の養護施設にも行って、その時には最初に日本に来られたという最年長の日仏混血のシスターも来てくれました。すごくかわいい人でした。その方が100歳になった時、敬老の日に市から祝いの品を持ってきた職員がいて、シスターは何で祝ってもらえるのかピンとこないまま、その人が帰る時に「お大事にね」といたわったそうです。

シスター・クレールは自分たちはいわゆる老後の心配がないのだから、生きている間は他の人のために役に立ち続けたい、と言っています。

確かに普通の人は老後の暮らし、介護、葬式から遺品の整理までいろんなことを考えますが、彼女らは先のことを考えず生涯現役、とも言えるのでうらやましいです。

春には彼女のいる特養のサロンで慰問コンサートをします。

「年寄りやシスターたちがわらわらいるのを見ないようにすればなかなか素敵なところよ」

と言っていました。

私はむやみにポジティヴな人を見るとひいてしまうタイプなのですが、96歳であのポジティヴさを見ると、神さまっているのかも・・と嬉しくなります。

そんなシスターなので、ひょっとして教皇の引退のことを「まだまだ若いくせにがんばりが足らない」とか言うかもしれないと思っていたのですが、人はその時々に自分に合ったがんばりをする見極めが必要だということなのでしょうね。

http://setukotakeshita.com/

645Phantom:2013/02/27(水) 20:57:37
なるほど!
竹下先生、お忙しい中お返事ありがとうございます。

確かに、修道者は生活の心配はありませんね。
知識としては理解していても、その点はうっかり失念していました。一般社会と違って「引退」という概念がないからこその生涯現役なのかもしれませんね。

私自身もいわゆるポジティブは苦手ですが、このシスター方のような自然なあり方は素敵ですね。なかなかシニカルだったりするのもいい感じです。キリスト教ワールドも色々あるけれど、意外と捨てたモノじゃないかも、と感じさせられます。

春の慰問コンサート、きっとシスター方も楽しみにされている事でしょう。感想などブログで様子をアップして下さると嬉しいです。

竹下先生の演奏、いつか拝聴してみたいです。バロック音楽は普段接する機会がありませんでしたが、最近のブログ記事でとても興味を惹かれました。いつも先生のブログから知的好奇心を刺激されます。

646今紫:2013/02/27(水) 21:41:47
次期教皇は統括力のある人を
竹下先生
多忙の中でのお返事ありがとうございます。

次期ローマ教皇はどんな世相や思想に対して寛容かつ統括力のある方が選出されるとよろしいですね。同性愛もどのように受け入れられるのでしょうか。
変わり目というのは何か騒ぎ出す要素が存在するのでしょうか。そのせいで大変な不幸に遭遇しないことを願います。

できれば、よい方向へと進んでほしいのです。

647Sekko:2013/03/30(土) 07:59:21
教皇と陰謀論?
無視しようと思ったのですが、書きたくなったのでブログに思うところを書きました。興味ある方はどうぞ。

http://spinou.exblog.jp/19538718/

陰謀論系のコメントに対応する気はないので次からは削除しますのであしからず。

http://setukotakeshita.com/

648愚者:2013/04/05(金) 23:58:43
(無題)
人権侵害の禁止を骨抜きにし立憲主義を否定する改憲案を、憲法及び学説を学んだこともない無知な人が主張しています。赤ちゃんから高齢者まで全国民に番号を付けて住所氏名生年月日性別、所得資産負債、職歴、婚姻歴、病歴等を国に管理される国民番号法案を国会が審議中。大部分の国民が忌避する原発に固執。福祉の財源に充てるための増税と言ったくせに50兆円も外債購入(売却出来ない米国債)に支出。関税権立法権、食糧自給を放棄し、国内法に優越する国際秘密条約TPPに国民を騙して駆け込む。一票の格差違憲判決を根拠なく議員定数削減に結びつける政府与党。議員を減らして首相が人選するナントカ会議を乱立させ政策を仲間内で勝手に決める無法。マスコミはアベノミクス万歳のごますり嘘つき報道一色。止まらない司法の不正行為・冤罪。アメリカは天使、中韓は悪魔という恣意的な報道。なんだかカルト政党に制圧されたようで大変不吉です。宇沢弘文、鈴木宣弘、孫崎享他の識者やアカデミズムの人々の発言はマスコミが報じない上、度々事実に反する中傷を受けています。竹下先生のテーマと違う相談で恐縮ですが不吉な空気を訴えずにはいられません。どのような抵抗が考えられるでしょうか?

649Sekko:2013/04/07(日) 23:37:30
愚者さま
このご質問は、私がブログ記事http://spinou.exblog.jp/19734282/で、アメリカに対するフランスと日本の対応を比較したことをお読みになってのことでしょうか。

そのブログにも書きましたように、10年前のイラク派兵の時の日本政府の支持の基準がひたすら「英米の便宜を図る」ことであったことを知り、あらためて、あの頃の日本での反対運動はいったいなんだったのだろうかと愕然としました。

原発再稼働反対や、TPP反対にしても全く同じです。

いくら、現実を突きつけても、信頼できるデータや予測を並べて、正論を語り、道理を説き、真の利益を訴えても、政府の方針は国民の声の総意ではなく、「連合国」の声の総意で決まるという現実があるようです。

そして、今や、その「連合国の声」も、実は一部の多国籍大企業のパトロンたちの利益によって決まっているという現実があります。

それにもともと、日本には、国民の意思が国家の意思に変換されるという伝統はありません。

「仁者による徳政」に期待するような伝統がありましたから。

東浩紀さんなどが、国民の声を政府の独断への有効な抑止力とするために情報ツールを駆使して集合知を可視化するというタイプの提言をされているのを読んだことがあります。
でも、いくら集合知が可視化しても、日本の「戦後」は、「政策決定はアメリカの意向に沿う」という合意から出発しているようなので、それを変えない限りは、だれがどんなに正論を唱えても多分「多数で説得」とか「理屈で説得」ということにはならないと思います。

では、どうしたらいいか。

ひとつは、そうやって押しつけられてきた憲法だの政策だのを日本の国益にかなうように巧妙にすり替えて利用する。
今の世の中で国際的な合意である普遍主義や平和主義や環境保全主義などの流れをうまく使ってロビー活動をする。FTAも対EUとか中韓とのものを平行して進めて、アメリカを牽制する。

もう一つは、拝金主義の資本家たちではなくアメリカの一般国民に的を絞って、啓蒙活動をすることが考えられます。アメリカ人は子供の頃から「アメリカ一番」を刷り込まれているのでものの見方が単純ですが、いざ「知らなかった過ち」を突きつけられると本気でショックを受けて懺悔したりします。

私は第二次大戦時の日系人の収容所のことを初めて知ったアメリカ人に面と向かって涙を浮かべて詫びを入れられたこともあります。

アメリカ人は平均的に、ひとりひとりは日本人やヨーロッパ人ほど偽善的でなく、正義感の強いいい人たちだと思います。
だから、ステファン・エッセルの呼びかけにもすぐ反応してオキュパイ・ウォールストリートの運動を始めるし、TPPにですら、http://democracynow.jp/video/20120614-2
で日本人にも明らかにされたように、

「これは貿易協定ではない、企業による世界支配の道具です」「1%の富裕層が私たちの生存権を破壊する道具です」

と糾弾の声を上げたりしているわけです。

従軍慰安婦の話でも多分そうだったのでしょうが、「犠牲者」側がうまく働きかけて利用すればアメリカ人は義憤に駆られてすぐ話がまとまり、それが政府の方にまで届きます。つまり、アメリカは、一応、国民の声が上に達するとそれを反映しないではおけない基本線はあるわけです。

だから、日本人も、アジア政策におけるアメリカの傲慢さを今の情報ツールを使ってうまくアメリカの一般市民に伝えることができたら、「そりゃひどい」ということになるかもしれません。

戦勝国と敗戦国の関係で政府の側にはもうどうしようもない負の前提があるようですから、もうそちらには期待しないで、アメリカ一般市民の「草の根義憤」につながるような正論啓蒙活動を戦略的にやっていく方が流れを変える可能性があるような気がします。

「日本がアメリカに蹂躙されている」というのではなく、あくまでも、日本もアメリカ一般国民も、企業による世界支配の犠牲になっているのだというスタンスで。

国民番号法案も完全にマーケティングのベースデータのような気がしますね。

アメリカ人のピューリタン的メンタリティを刺激すれば、できることもあるような気がするんですけれどね。日本の政治家を変えることよりはまだ可能性があると思います。

最近、北朝鮮の好戦的な挑発なんかについては、ローマ法王に手紙を書いてもらえばどうかとも思いました。

キューバ危機の時に、当時の教皇ヨハネ23世がソ連のフルシチョフに平和を訴える手紙を書き、なんと、共産党機関紙の『プラウダ』に掲載されました。

当時のケネディ大統領がアイルランド系カトリックだったので思いついたのかもしれません。

北朝鮮は表向きは信教の自由があるのでカトリック教会も一応はあり、韓国からのキリスト教NPOもたくさん入っています。金日成の家族にも確かカトリックがいました。

何かそういう超国家的、あるいは、超ビジネス的なネットワークを利用して、小さな危機、ひいては大きな危機を回避できるのではないかと期待します。

3.11の後で、それまで原発のことを問題にしていなかった多くの人が自主的に情報を集めて啓蒙し合い、原発廃止のコンセンサスができた(けれど国家の政策や企業の方針にはもちろん反映しないわけですが)ように、弱者連帯の潜在的な力は普遍的にあると思うのでそれをどうつなげていくかということですよね。

私もずっと考えていきます。

http://setukotakeshita.com/

650愚者:2013/04/13(土) 12:58:23
コメントありがとうございます。
私の環境からforum3に投稿する方法が解らないのでこちらに書かせていただきます。『フランスの不思議』の記事を読み直しました。ヴィルパン外相のイラク戦争反対の国連演説でフランスはいざという時に指導者が理性的な判断ができる国という強烈な印象を受けたので、その後の政治家達の姿勢がそんなものだったとは興醒めです。
伝統宗教のゾンビに匹敵するものが日本にはないのでしょうか?日本人の拠り所というか偶像はいまや市場、自由主義経済、アメリカのようです。
竹下先生やNPOの方々のご指摘のとおり、敵を間違えずに99%がグローバルに連帯して1%に抵抗するべきですが、具体的な方策はあまりにも微力です。
郵政民営化を境に日本の行政機関は金融業者か詐欺屋?みたいになり、産官学の連携も行き過ぎになりました。東大総長がM総研のトップに就任して新聞各紙に広告が出たり。国会や内閣はテレビのワイドショーとなり、芸人が活躍しまっとうな政治家は排除されています。「自由な競争」や「規制緩和」の信者たちが政官財界を仕切っていて、テーマパークのアトラクションみたいなプランをどんどん出しています。

651愚者:2013/04/13(土) 13:11:26
連投2
(続き1)会議や社内のコミュニケーションを英語にする規則とか、秋入学にすれば世界中から優秀な留学生を集められるとか。大震災の美談は飽きられてきて、原発、基地、TPP、改憲、増税の致命的な国内問題を忘れさせるためマスコミは近隣諸国への反感を煽る報道一色です。
夏の選挙で逆転しないと、国民番号法案、秘密保持法案、国家総合安全保障法案(憲法改正)があっというまに成立して、政府に不都合な者をいくらでも取り締まれる全体主義軍事国家への決定的な一歩を踏み出すということです。護憲の運動は存在しますが、驚いたことにカトリックのピース9は猛烈に信者達に叩かれているらしいです。日本が99%が犠牲になる国になりつつあるというのに。B16教皇は何度か市場至上主義と相対主義を公式に非難しましたよね。JP2教皇の死の文化への非難を具体化したものと思います。宗派的な主張ではなく普遍的な、99%が共有する考えです。
竹下先生の『アメリカにNOといえる国』が、本澤二郎氏という評論家のブログの今読むべき本のリストに挙げられていました。

652愚者:2013/04/13(土) 13:26:29
連投3
(続き2)
知識人達はレジスタンスを既に実践してきたとも言えますが、今やメディアと言論の戦場で本気で戦っていただく時です。特にいわゆる保守良識層が、仁者の徳政を信頼する気風につけこまれたのか、政府与党のイデオロギー(市場主義、アメリカと組めば間違いないという信仰)に気づいていない点が難しいのです。与党と、野党を装う市場教政党の八百長が繰り広げられマスコミの政治報道を独占しています。
99%と9条に象徴される立憲主義を殺さないために、知識人やアーティスト達が緩く連携して、石ノ森章太郎氏の999のキャラクターを活用したりして1%を叩きのめし正気にしてあげて下さい。お願いします。
連投失礼しました。

653Sekko:2013/04/15(月) 08:23:37
愚者さま
イラク戦争の頃のことを今思うと、2002年の時点でたとえばドイツではシュレーダー首相がフランスと共に不参加を表明した時、「戦後ドイツの政治家たちがずっとアメリカのいいなりになってきた中ではじめてアメリカの要求を拒絶した」とドイツ国内で絶賛された話を思い出しました。その時にブッシュの政策をヒトラーになぞらえた女性閣僚がいてアメリカが激怒したという話もありました。

で、その後、米独関係がどれだけ壊れたかというと、大して壊れていない。

2002年や2003年の時点での日本なら、日本がもしNOと言っていても、失うものはなかったようにも思います。

フランスに暮らしていてもそうなのですが、一般的に言って、いわゆる欧米人って日本人が思うほどいろいろなことを根にもたないというか、単純というか、すぐ忘れるというか、割と関係を修復しやすい人たちなんです。

拒絶したい時にはバシッと拒絶しても、別の機会に友好的にふるまえばまたうまくいくというような。日本人は自分で前のことを気にして気まずくなったり、あるいは関係が悪くなるのをおそれて嫌なことでも譲歩したりしても、そんなことも分かってもらえないし、譲歩し損ということが往々にしてあります。

こういうメンタリティの問題は、それでも、国際関係をじっくりと観察していれば分かると思うんですけれどね。

それでも難しい問題はたくさんありますね。

たとえばフランスは痩せても枯れても普遍主義の国なので、そして、社会民主主義の国なので、福利厚生の各種手当が、収入の多寡や国籍に関係なく、合法的にフランスに住んでいるというだけで支払われます。

そういう政策のせいで新自由主義経済に後れをとっていて、そのおかげで自分たちは得をしているとドイツやイギリスは公言しています。

理念に殉ずること自体は私はいいことだと思うので、その結果の不都合は受け入れるのにやぶさかではないのですが、問題は、そうやって、「稼ぐ以上にばらまく」うちに、財政赤字が膨大なものになってしまっていることです。

もっとも、CAC40のトップが税金逃れのために国外に投資している金だけで財政赤字の3分の1に達するそうで、噴飯ものという気はするのですが、それでも、カユザックを擁護するわけではないですが、そういうことも知り尽くしている人が政治に目覚めるというのは悪いことだけではないとも思います。少なくとも、政治家になることで金儲けをしようと思っているのではなく、最初から金がある人がようやく政治的使命に目覚めたのかもしれませんし。

清貧だけで生きてきた人ばかりで国を動かすのは別のリスクがあるかもしれませんし、フランス革命などもほどなく恐怖時代に突入したわけだし、「1%をたたきのめして…」などという目線では語れないかもしれません。

個人的にはもっと社会学者にがんばってほしいです。日本の社会学って、なんだか、「ガラパゴス化した日本に特有の社会現象」みたいなものを分析したり解説したりしているようなのが目だって、本質的なものはあまり語られていないような気がします。

多くの人が多様性を活かしながらおっしゃるように緩い連携をして、立憲主義、平和主義を守っていければいいですね。

でも、最近、ドイツに占領された時のフランスのヴィシィ政権について、これまでは親ナチのコラボの極悪政権みたいに言われていたんですが、あの時点では、「平和主義」、つまり戦闘を回避する道だったという評価も出てきています。まあナチに過剰に迎合して自主的にユダヤ人狩りをするなど結果的に道を誤ったわけですが、親独政権なしでみながそろってレジスタンスに向かえっていえば、ずっと多くの血が流されていたかもしれないのも事実でしょう。

どちらにしても、何を譲れない線とするかをまず明確にして、それを歴史の文脈とすり合わせながら個々の場面に対応していくのが大切かと思います。

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654グラ(愛犬の名称):2013/06/21(金) 05:05:41
トラウマについて
竹下先生
先生がご指摘になった「トラウマ」について、補足的な説明をさせていただきます。
なお、このメールへの返信は、気になさらないでいただければと思います。
しかし、なぜ、竹下先生に、宗教相談のメールをするかというと、竹下先生の著作やブログを読んでいて、キリスト教を平易に表現することを通して、若い人たちにも理解してもらおうという姿勢に貫かれているように思えるからです。この「平易に」という意味は、日常の生活感覚を通してということです。

私は、プロテスタントの福音的な教会に身を置く者です。謂わば、キリスト教原理主義者であるかもしれません(笑)
ただ、この日本のプロテスタントも超高齢化社会の到来とともに、絶滅危惧種にリストアップされそうな勢いにあるということです。
そして、その原因のひとつに、敗戦後のプロテスタントのキリスト教が、マッカーサーの占領政策の一環としてアメリカから直輸入されてきたことにあります。負け犬が虎の威を借る、です。(マッカーサーは本気で、キリスト教による日本人の洗脳を考えていたことは事実のようです。)

問題は、敗戦後のプロテスタントのキリスト教の受容が、こうした卑屈な屈折した気分の中で展開したことですが、さらに問題を複雑にしたのが、無教会主義の台頭でありました。
戦時下、非戦を貫いたということで、共産党と無教会は戦後一大ブームとなります。戦後の初代東大総長は南原繁、続いて矢内原忠雄と、無教会出身者を就任させて、新生「東京帝大」は戦前からの権威付けに成功します。(岩波文化も後押しします。)

無教会主義、特に、塚本虎二を中心としたグループは、「教会の外に救いあり」として、カトリック・プロテスタントを問わず、総ての教会に挑戦します。

以上が、敗戦後のプロテスタントの歴史を、私なりの理解で略述しましたが、問題は、無教会主義は「メイド・イン・ジャパン」なキリスト教であり、「かなり異端臭い」のではないかという疑問です。
内村鑑三が主張した無教会(行くべき教会が無い)と塚本虎二の無教会主義は似て非なるものと思います。
しかし、一世を風靡した無教会主義が今や「風前の灯」であることを対岸の火事とは思えません。カトリック・プロテスタントを問わず、日本においては、遠藤周作が指摘した通り、キリスト教受容の根っこが腐るようになっているのかもしれない、これがトラウマです。

竹下先生の著作やブログを読んでいて、こうした不自由さを感じませんから、この「ご相談」は先生にとっては理解不能のような気もします。

しかし、日本の戦後のプロテスタントは、無教会主義と向き合い、清算すべきものを清算しないのであれば、いずれ絶滅危惧種に確実にリストアップされることになると思います。

私も「天の風」に吹かれてみたいものです。

655sekko:2013/06/21(金) 08:15:40
グラさま
興味深いお話をありがとうございました。

>日本においては、遠藤周作が指摘した通り、キリスト教受容の根っこが腐るようになっているのかもしれない、これがトラウマです。

そんな指摘があるのですか…

でも、第二次大戦後の伝統宗教の崩壊ぶりはフランスのような国でも同じで、資本主義の肥大が人々を即物的にしたのは「先進国」の共通した傾向だと思います。

そんな時代に無教会主義の果たした役割もあると思います。

結局、マイノリティ宗教に属するとどこでも共同体主義に陥りやすいということかもしれません。私はフランス人の仏教徒コミュニティと親しいのでよけいにそう思います。

私は、昨年出た中公文庫の矢内原忠雄さんの『キリスト教入門』に解説を書きました。グループとして、あるいは運動としては「風前の灯」なのかもしれませんが、また、教会の本当の意味から逸脱している点もありますが、矢内原さんたちが誠実にキリスト教を説明しようとした姿勢は今も充分通用する重さと深さをもっていると思いました。

日本に限らず、今の世界のキリスト者は、非キリスト者に何かを促したり納得させたりするというのではなく、自分の生き方によって、「人となった神を通して、人は人を愛することができる」というあかしをしていくのがいいのではないでしょうか。

その意味で、

>竹下先生の著作やブログを読んでいて、こうした不自由さを感じませんから

という印象をもっていただいているのは嬉しいです。

「キリスト教信者っていろいろ不自由なんだ」などという印象などもちたくないしもたせたくもないですから。

トラウマのないところでキリスト教にかかわった私はその立場を生かしていきたいと思っています。

ゲラさまもどうか時々は視点をずらせてリラックスしてください。

「天の風」って、吹いてますよ。

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656グラ(愛犬の名称):2013/06/23(日) 08:26:08
矢内原忠雄
矢内原忠雄の「キリスト教入門」を手に取らせていただきました。先日の竹下先生へのメールは釈迦に説法どころではなく、『無知の恥!』も度を超しておりました。大変、失礼いたしました。

私事ではありますが、私が矢内原忠雄を知ったのは、私に同じ教会内の女性を紹介し、結婚へと導き、結婚式の際には仲人までしてくれた、教会の長老格の役員を通してでした。その意味では、彼は今の私たち家族の土台を作ってくれた方であります。その彼は、1937年(昭和12年)12月2日の東大を辞する矢内原忠雄の最終講義に出席しており、その時の様子を語ってくれております。特に、矢内原の最後の言葉、「身体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑する」との言葉は脳裏に焼きついたと語りました。この彼は、その後、学徒出陣します。彼は学生時代、全日本での剣道での優勝やら、ヒトラーとの謁見、賀川豊彦との出会いがあったようです。彼は仏印に従軍し、傷病兵を置き去りに撤退しようとする上官たちを縛り上げたため、叛乱罪、要凶器上官殺害未遂で軍法会議で死刑の宣告を受けましたが、敗戦により9月に釈放されたという波乱万丈の持ち主です。彼は1984年に召天しますが、葬儀は彼の遺言で「凱旋式」として執り行いました。敗軍の将校が天に凱旋するというのが、彼の信仰でした。
彼にとって矢内原忠雄は福音の証人、人生の教師、信仰の導師であったと思います。彼の死後、彼の蔵書から矢内原の畏友で、矢内原が編集した藤井武全集10巻は、今、私の本箱にあります。
私たちのグループは、その彼を記念して、「凱旋」という私家本を発刊いたしました。

竹下先生が解説でお書きになっている通り、「だからこそ、敗戦の後で、『民主主義』を採用しても実は昔から何一つ変わらず(原文は代わらず)、経済の繁栄に目をくらまされて実存的な弱さの手当てを怠ってきた結果、希望や目標を失って漂流するに至った二十一世紀の日本において、矢内原の言葉が貴重な証言であり続けるのだ。」は、私にとっても「クレドー」となり得ております。

657sekko:2013/06/23(日) 23:50:33
グラさま
とんでもありません、お話はとても参考になりました。

仲人の方がヒトラーと謁見してどういう感想を抱いたのか、何をヒトラーと話したのか、興味津々です。

藤井武さんというのもすごい方ですね。

日本のような国で何につけてマジョリティの側にいる人は空気にのまれて思考停止に陥りがちですから、「日本のクリスチャン」の体験する葛藤は精神を強靭にして貴重ですね。

しかもその中で共同体主義への誘惑を斥けて真の「普遍性」に到達した人々はすばらしいと思います。

矢内原本の解説、短いものなのに変換ミス(「変わらず」を「代わらず」)があったのに気づきませんでした。ご訂正ありがとうございました。

お話からグラさまが男性だと知りました。なんとなく同世代の女性をイメージして書いてました。グラって、犬の名にしても珍しいのでは? 奥さまや愛犬グラちゃんによろしく。(グラちゃんのイメージは柴犬。これも違っているかもですが)

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658ウラヌス:2013/06/24(月) 07:44:38
最近のポストモダン
昨日は詳しい回答をありがとうございました。また質問してよろしいでしょうか?フランスではフーコーやドゥルーズ、ガタリ、デリダ、リオタールといった思想家が20世紀後半に現れて、日本にも影響を与えましたが、彼ら以降フランスではポストモダンの思想はどうなったのでしょうか?私が知る範囲ではバディウとかナンシーが今も現役のようですけど、特にどういう人がポストモダンの今現在の中心なのでしょうか?それと日本では80年代から90年代にかけて、ポストモダンがもてはやされましたが、最近はロールズのような英米系のリベラリズムも影響が強まっているように思われます。フランスではポストモダンの思想はどの程度評価されているのでしょうか?かつて日本でよく読まれたサルトルやフランクフルト学派のアドルノは本国では極左とされ、批判も多かったと聞きました。ポストモダンもフランスでは案外批判が多かったりするのでしょうか?特にソーカル事件以降はどうなったのでしょうか?

659sekko:2013/06/24(月) 16:08:24
これは自分で調べてください
ウラヌスさん、申しわけないですがこういうことはまず自分で調べてください。上のタイトルに説明を加えたように、一般的情報をレジュメして答える場所ではありません。よほど時間があってちょうどそのこと考えていた、というような場合は答えます。お書きになったようなことのキイワードをフランス語でフランスのgooglなどに打ち込めばいくらでも情報は出てきます。フランス語がおできになるのですから今はやり方次第で良質の情報もいくらでも手に入ります。その上で、「ここではこれについてこう言われてあそこではこう言われているがじぶんはこう思うのだが…」というようなピンポイントの疑問が出てきたらまた寄ってみてください。(この掲示板の過去にもポストモダンについての話題はあったように記憶しています。暇があれば検索してください。)

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660ウラヌス:2013/06/24(月) 16:59:01
わかりました
承知しました。では今後は一般的なことは避けます。

661グラ(愛犬の名称):2013/06/25(火) 21:55:36
西洋近代理念
グラはトイプードルで、娘が連れてきましたが、その娘も結婚のため、グラを置いて引っ越して行きました。
十日ほど前のことです。別れる時は、グラを抱き締めて、娘は大泣きしました。私とってグラは、娘が置いて行った「コ・コ・ロ」と思い、<ネコっ可愛がり>しますので、家内から「バ〜カ」と言われている今日この頃です。

竹下先生の「キリスト教の真実」を再読しました。
矢内原忠雄の本で、キリスト教の入門書が文庫サイズというのは、私の中では「想定外」でありましたので、敷居の高いキリスト教も、それも無教会関係の本も、「ここまで来たか」という驚きでありました。
それで、改めて、「キリスト教の真実」を再読しました。
佐藤優氏の「はじめての宗教論 右巻・左巻」あたりから、「ふしぎなキリスト教」橋爪大三郎氏・大澤真幸氏共著と、キリスト教界以外からの積極的なアプローチを、それこそ不思議なモノを見るような感覚で眺めておりました。その線上で「キリスト教の真実」を読みましたが読みやすかったですし、「腑に落ちました!」その感覚がなぜだろうと思い、再読しました。

竹下先生は、ISOをご存知ですか。国際標準化機構のことです。私は、ISO9001の品質管理システムの統括管理責任者(社長の代行)の経験があります。非上場企業でしたが、資本金約5億円、社員はアルバイトまで入れると約1千名の規模で、新規導入の責任を持たされました。
戦後のQC(品質管理)運動はアメリカから持ち込まれますが、中途半端に終わります。ISO9001はこのQC運動をまさに普遍化したものです。
企業がISO導入に積極的になるのは公共事業の入札条件になったからです。
ISOの原理的なことの説明は省きますが、導入時は、文書化が面倒臭いとか、作業手順は気合だとか、それはそれはすごい抵抗に遭いました。しかし、標準化がされると、「言った言わない」の責任の曖昧さがなくなったばかりか、利益も大幅な改善をみて、期末賞与まで支給されることになりました。
ISOは、P(計画)D(実行)C(評価)A(改善)のサイクルを通して、継続的な改善を実施する「運動」です。

竹下先生があとがきでお書きになっている、「『近代理念』とは、『受容』して『順応』し、『停止』や『惰性』に至れるような着地点ではない。それは、たえず『自己定義の統合』に向かって前進し続けることを課された『運動』なのである。」(P275)に符号しております。
ちなみに、神学をまじめに学んでいる牧師は、このISOの原理は理解できるようです。
ISOは、中小企業を中心とした草の根運動として定着しました。
普遍化の意味を生活レベルで理解できる初めてのツールになったと思います。
その意味でも、「キリスト教の真実」は、他のキリスト教界以外からの積極的なアプローチ「本」とは、一線を画していると思います。

662sekko:2013/06/26(水) 06:07:05
トイプードルでしたか
グラさまの思い入れのようなものからなんとなく健気な柴犬を想像したのですが、健気なのはグラさんの方だったのですね。

子供の置いていった犬や猫を世話し続ける親ってすごく多いですね。子供たちってひょっとして、親元から羽ばたくために、ほんとに「こころ」の一部を残してあげようとして、無意識にペットを持ち込むのかもしれません。ペットって、永遠のかわいい二−トですよね。

ISOはもちろん知っていますよ。日本での受容がそういう具合になっていったということは知りませんでしたが、なるほど普遍主義が文化を超えてこういう風に機能していったといういい例の一つですね。有意義なお仕事をなさいましたね。

先ほど別の読者の方にForum3でお答えしたのですが、『キリスト教の真実』と『戦士ジャンヌ・ダルク…』は私の中では実は一続きの本なのです。

以前『バロック音楽はなぜ癒すのか』(音楽之友社)、『聖女の条件』(中央公論新社)、『アメリカにnoと言える国』(文春新書)という3冊で、ユニヴァーサリズムの擁護の路線をはっきり意識して始めました。

何を書いても、形を変えてはいますが、どうすれば、弱者を排除することのない世界に近づけるかという模索を続けていることには変わりはありません。

これからの予定はユダ論とフリーメイスン論とナポレオン論ですが、いつも同じ風を感じ続けて航行していくはずです。お祈りください。

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663グラ(愛犬の名称):2013/06/29(土) 06:08:07
「聖母マリア」
聖書での表記も、イエスの母については、マリアとマリヤに分かれといるように、振り返ってみますと、プロテスタントの、それも福音派と呼ばれるキリスト教原理主義では、マリアの生涯、例えば、15歳でイエスを生み、多分、72歳頃に「被昇天」したなどということは、聖書研究でもその対象にすらなりません。

しかし、イエスの十字架は、神学的にも、天と地を決定的に隔てる出来事であると同時に、天と地を結び合わせ、救済する真理となります。そのイエスの生涯に寄り添い、様々な出来事を「心に納めて、思いを巡らし、(ルカ2:19)、心に留めて(ルカ2:51)」、と記すことで、マリアがイエスの生涯を、その真実の姿を十分に理解できないながらも、心に刻むことを、福音記者ルカは強調します。

竹下先生の「聖母マリア」を読むことで、マリアの生涯とその後の民間信仰の展開を通して、私自身の信仰の在り方にリアリティーを齎しました。
ヨハネの福音書によりますと、マリアは、十字架の足元に留まっております。マリアは、自分が産んだ子を罪人として死刑に処せられる場面に立ち会っているということです。母マリアは、母である自分よりも先に死ぬ「親不孝」の場面に無力な姿を晒しています。さらに、十字架上のイエスからは、「女の方」と呼ばれます。

実は、私は教会の礼拝で、時々、信徒説教者として、牧師たちの「検閲」を受けた説教原稿をもとに礼拝説教をします。「検閲」が通れば、7月21日の礼拝で、先ほどの聖書箇所も含め、イエスが、なぜ「女の方」と呼んだのか、これは同じヨハネの福音書のカナの婚礼での奇跡でも、「女の方」と母マリアが呼ばれることと関連付けて、説教をする予定でおります。

とにかく、竹下先生の「聖母マリア」からも大きな刺激を受けて、聖書の読み方が変わったことをお伝えしたかったのです。
わたし的には、依然として、思弁的であり、敬虔主義的でありますが、日本のプロテスタントの教会が絶滅危惧種もしくはガラパゴス化から抜け出す努力をしたいと考えております。

これと関連して、竹下先生にお尋ねしたいことがあったのですが、躊躇しております。
カール・バルトの神学の出発点となった出来事に、「ブルームハルトの体験」があります。この体験については、わたし的には、結局、思弁的、敬虔主義的な理解に留まっているのではないかという疑問が、最近、湧いてきております。これも、竹下先生の本を読むことで、ヨーロッパのキリスト教文化の伝統を踏まえて、「ブルームハルトの体験」を理解しないと、表面的な理解に終わっていたのではないかという反省を持ち始めているからです
この「ブルームハルトの体験」は、
「神の国の証人 ブルームハルト父子 待ちつつ急ぎつつ」 井上良雄著 1982年3月 第一版第一刷発行 新教出版社
に、詳しく記載されておりますが、いずれにしましても、躊躇しております。

664sekko:2013/06/30(日) 05:11:23
ブルームハルトの体験
ブルームハルトの体験って、息子の方の1896年10月の出来事ですか、それともおとうさんの方の悪魔祓いの話ですか?

私にとってブルームハウトというのはキリスト教社会主義が行き過ぎて社会党から議員になってしまった人、バルトが評価したように「宗教」という言葉のかわりに「神の国」を語っていた終末論的な人というものなのですが、グラさまにとって問題となっているのはどういうことなのでしょう。(彼についての日本語の本は読んだことがありません)

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665グラ(愛犬の名称):2013/07/02(火) 18:35:27
「父ブルームハルトのこと」
竹下先生
所謂、「悪魔祓い」のことです。
場所は、シュトゥットガルトから鉄道で2時間、ヘルマン・ヘッセの故郷カルフの町から東北に向かって8キロほどのメットリンゲン村。恐らく、ヒルデガルトのビンゲンとも約々二百キロ圏内かと思われます。

この「悪魔祓い」は、映画エクソシストのような内容で、ゴットリービン・ディトゥス(1815年生まれ)という娘の二年以上続いていた憑依状態のなか、1843年12月のクリスマスの期間に決定的な出来事が起きます。ブルームハルトのヴィテンベルクの宗務局への「報告書」によりますと、「娘は頭と上半身を、椅子の背にのけぞらせていたが、人間の喉から出るとは思えない声で、『イエスは勝利者だ。イエスは勝利者だ。』と、吼えるように叫んだ。この言葉は、それを聞いた限りの人々に理解され、忘れることのできない印象を与えた。」と記されております。

ブルームハルトにとって、この「悪魔祓い」についての理解は、キリスト教教義のいう「恵みの勝利」などではなく、さらに、一つの原理とそれに対立する別の原理の戦いというものではなく、活きた人格的な神とそれに逆らうやはり人格的な暗黒の力とのつばぜり合いの戦いであったということです。この戦いは、「模擬戦」などではなく、事実粗野なまでに「肉薄戦」であったということです。

バルトは、教会教義学で、「イエスは勝利者だ」という節を設け、「この言葉は、当時においても新しい言葉であり、そのような言葉として、当時もそしてその後長い間、孤独な言葉であり続けた。」と記します。

私は、ここでバルト神学を説明する能力もありませんが、しかし、この「悪魔祓い」事件は、ヨーロッパの歴史おいては、竹下先生の「聖者の宇宙」=「聖者システムの歴史と実態と意味」(P12)の一齣であるようにも思えます。
ブルームハルト父子・バルトは、信仰覚醒・教会覚醒に進みますが、カトリック的な理解、ビンゲンのヒルデガルトをブルームハルトも知っていたかも?などと想像しております。

竹下先生にどのように説明しようか、右顧左眄してましたら、
井上良雄著 「神の国の証人 ブルームハルト父子 待ちつつ急ぎつつ」の一節に、
ブルームハルトが東方教会的だということを言うのは、バルトだけではない。エルンスト・ガウグラ-は、そのブルームハルト論の中に、「あるロシアの神学者」が、ブルームハルトの書いたものを読んで、「父ブルームハルトは、私にはプロテスタントの『長老』のように思える」と言ったというエピソードを伝えている。
と記しておりました。
この長老の注釈として、
「ロシア語で『スターレッツ』は、年老いた人の意。ロシア正教会における宗教的指導者、修道士であるが、「長老」というのが、教会内の階層的な職位として位置付けられているわけではない。霊的な賜物によって、権威を持ち、若い修道士たちの訓練に当たった。「長老」は、東方教会の歴史において古くからあったが、十八世紀の後半から、ロシアの修道生活の中で大きな役割を持つようになった。平信徒たちは、その苦悩を癒してもらうために、その周囲に集まった。われわれには、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に描かれたゾシマ長老の姿によって親しい。」
とありました。

竹下先生には、プロテスタントの視点での、この「ブルームハルト的なもの」を、聖者の宇宙的な視点から意見をいただこうかなと思っておりました。といいますのは、ブルームハルトが「肉薄戦」を闘った人間の現実は、キリスト教会全体の歴史での戦いでもあったと思います。
少なくとも、ブルームハルトの戦いは、聖者の宇宙の一齣として、理解される必要があると思われます。

とりとめのない内容になってしまいましたの、無視してください。

竹下先生の本は、プロテスタント側からもアプローチしなくてはならない本だということを伝えたかったのですが…。

666グラ(愛犬の名称):2014/04/17(木) 11:54:08
「ユダ」を読ませていただきました
竹下先生

早速、「ユダ」を読ませていただきました。
時機に適った出版であったと、個人的には感じております。
私は、プロテスタントの所謂福音派に身を置く者ですが、「福音とは何か」という根本的な理解にゆらぎが生じた中に生きている者でもあります。

福音は、救いの歴史だけでは捉えきれないという反省が、教会を変え始めております。
私は、この教会の反省は、正しいものと理解しております。福音は救いだけではなく、救いを包含する、神の歴史全体を理解する必要があります。

ユダの両義性もまたそのように理解する必要があるように思われます。
森有正先生が、「アブラハムの生涯」という講演集で触れておりましたが、創世記15章12節、「深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。」(新改訳聖書の訳ですが)アブラムへの祝福に先立つところの「暗黒の恐怖」は、何であったのでしょう。

ユダという表現では、日本での作品は、大下英治の「十三人のユダ」しか、私は知りません。三越百貨店を私物化した、岡田茂と竹久みちを題材にした作品です。この作品でも、「一人目のユダ」とか、「ユダは誰だ」という章もあります。ユダを裏切りの象徴として使用しておりますが、結局、公器である企業を私物化するという視点も「ユダ」かもしれません。

ユダを、歴史的に、文化的に俯瞰し、調理する、竹下先生の凄みには、相変わらず脱帽です。
大切にしたい、ご本であります。ありがとうございました。

667sekko:2014/04/18(金) 00:42:43
グラさま、ありがとうございます。
ご感想をいただいて嬉しいです。直接の知り合い以外からの最初の感想でした。

サイトの著作紹介のコメントもお読みください。

『十三人のユダ』のことは知りませんでした。

このタイトルの選び方とインパクトにはいろいろなものを感じさせられます。

今日、進化生物学者の書いた『「先送り」は生物学的に正しい』(宮竹貴久)という本を読んだのですが、とにかく生き残るためには生物は死んだふり、擬態、パラサイト、なんでも実践するというのを見て、「裏切り」も含めて、「十三人のユダ」のとった行動は、きっとそれぞれの生存戦略だったということなのだろう、と想像します。

アブラムの「暗黒の恐怖」についても考えさせられます。

ありがとうございました。

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668エトワール:2014/04/26(土) 07:08:29
天使
745年に第91代ローマ教皇ザカリアスは教会会議においてウリエル、ラグエルなどの天使を堕天使と認定し、ラグエルを「聖人の名を騙る悪魔」と非難したといわれています。民間において過熱していた天使信仰を危険視した教会がそれを沈静化するために行った政治的処分で、知名度の高かったウリエル、ラグエルなどの天使がその見せしめとなったというものですが、この年に公会議が開催された記録はなく、その真相は、邦訳されている文献では、あまりよく分かりません。ウリエル、ラグエルらの堕天使事件について、どのようにお考えでしょうか。

669sekko:2014/04/26(土) 23:49:19
エトワールさま
ミカエル、ガブリエル、ラファエルの3人以外の大天使は基本的には名前が啓示されていないということですね。ウリエルら4人はエノク書など旧約外典に出てくるわけで最初から要注意ではありました。

Adelbertという人がこれら外典の天使たちについて詳細に書き出したので、聖ボニファチウスが教皇ザカリアスに進言して745年にこの人を異端として破門しました。Uriel, Raguel, Tubuel, Inéas, Tubuas, Saloac, Simielへの祈りを勝手に作ったということで、これらの天使の集まりは悪魔の集まりだと言われたようです。

(Françoise Bouchard, "Les grands miracles de la dévotion", Ed. Résiac, 1996.)

"Dictionnaire portatif des Conciles" (Paris, Veuve Didot, 1767)によれば 745年10
月25日にローマで、7人の司教、17人Romeの司祭と聖職者が教皇のもとに集まって、Adelbert と Clement du Sacerdoceを異端として前者の著作を焚書したそうです。 正典に出てこない名前を勝手につけてはいけないということです。このことは789年のアーヘンの公会議でも確認されました。

でもその前に787年の第2ニカイア公会議で絵画や彫刻で天使を表現することが許可されたので、天使の図像そのものは多くなりました。その時に参考にされたのは、翼を備えたギリシャの勝利の女神ニケの姿だったりしています。

もっとも、アウグスティヌスが言ったように、天使とは神に仕える「機能」のことであり、その実態は「霊」であり、名前をつけて偶像化するのはまずいということです。

でもその後も、連祷に出てきたり棺に名が彫られたり、7人の大天使をまとめて守護を祈るのが流行ったり、イエズス会士がフィリピンにまで7人の名を広めて女子修道院の名になったり、4人の大天使の名も結局、復活継承されてきました。

人はきっと天使に祈ったり頼ったりするときに「名前」を呼ぶ必要があるのかもしれません。そしてその名前にはちゃんと仕様書や取扱説明書もついていてほしいのが人情なのかもしれませんね。

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670kei:2014/05/08(木) 02:12:04
「キリスト教の真実」について
竹下様
最近になり、ファンになった者です。
遅まきながらではありますが、「キリスト教の真実」という著書につき感想を述べたく存じます。
まず、大きな問題意識に満ちた、とても新書には収まらない労作と存じます。
第1章だけでさえも、一般の日本人にとっては、なかなか常識とはかけ離れたことかと。
拙は大筋において貴方の考え方に同意します。
本書は、いわゆる西側先進国と言われる諸国が、キリスト教の考え方を、これまでの歴史において、「普遍主義」に一般化、脱宗教化してきた過程であり、果たしてそれを非キリスト教世界にまで包摂したグローバル世界化できるのかが問われている、という趣旨、あるいは問題意識かと存じます。
今拙が考えているのは、なかなか困難なことかと。
さらに言えば、非キリスト教世界との接合の中で、キリスト教的な考え方までネグレクトされ、旧約的、あるいはローマ的な考え方が復活してきているのではないか、とも思われます。
貴方は第7章で、「十字架上のイエス」の形象が心の中に刻まれていることを述べておられます。
拙は、シリアという地域が非常に好きなので、シリア戦争に心を痛めてウォッチングしていましたが、政府、反政府、あるいはそれをとりまくイスラム諸国さえ、駆け引き的で、暴力に対しての絶対的嫌悪という言説はなかなか見られませんでした。
また悪いことに、さらにそれをとりまくアメリカ、フランス、イギリスについても、実に形式主義的であり、言葉とはうらはらに、国家主義的でとうてい和平を実現するとは思えぬものだと思っています。
さらに現在進行中のウクライナでもそのようなことが見られると思います。
貴方の他の著作を拝読いたしますと、十字架上のキリストは、権力者の側ではなく、民衆、フォークロアの中にこそ、よりビビッドに映しこまれていたように感じております。
権力者の側ではなく、民衆の中から十字架上のキリストを権威として、その理想を叫ぶ者がでてきたのではないのでしょうか。
双方の側にそのような共通の苦難の形象がないところではなかなか歯止めがかかりにくいことを感じております。
救いとしては、現在カトリックが生命力を取り返してきつつあり、平和主義の立場から強く働きかけているところだと思われます。
なかなか思ったように書けませんが、まずはここまで。
乱文深謝。

671sekko:2014/05/09(金) 07:39:00
keiさま、ありがとうございます
keiさま、

確かに新書としては重過ぎることを詰め込んだあの本を的確に読んでくださってありがとうございます。

日本にいた3週間は韓国の沈没事故のニュースばかり表に出ていましたが、フランスに帰ると、ウクライナはもとより、中東やアフリカでの深刻な内戦や暴力行為(ナイジェリアで200 人の女子高生がイスラミストに拉致されて売られたことなど)のニュースがいっぱいで、平和主義の残滓も見えないように思えます。

それでも、最悪の恥辱や苦痛を与えられて無抵抗で死に至った人を神のペルソナのひとつとして掲げているキリスト教は、根本的なところで「上から目線」を成り立たせない宗教であると思っています。だからこそ、全知全能の神の代理人として君臨した教会だとか王権神授と言って独裁した絶対君主たちとか、異教の討伐や排斥をした人たちなどが席巻した歴史の中でも、いつもそれはキリスト教ではあり得ないといって清貧や弱者救済に乗り出したアッシジのフランチェスコなどの改革者がいつも存在してきたのです。

今のローマ法王フランシスコもそうですが、長く続いたヴァティカンの利権構造をおびやかしてかなりラディカルに弱者の側に立っているわけですが、「上から目線」を封印するというのがキリスト教の根本にある限り、だれも面と向かっては文句を言えないわけです。

他の、「偉い神様の神託を受ける人」とか、「教えや真理を体現している人」とかを崇める宗教よりは、ある意味で自浄力があるのかもしれません。ローマ・カトリックも、宗教戦争や近代革命や二度の大戦など、何度もいつ消滅してもおかしくない危機があったのに、いまだ存続していて一定の存在感を保持しているということ自体が奇跡のように思われます。

「上から目線」を否定すること、弱者や少数者の排除を許さないことを磔刑像が分かりやすく示し続けていることが、キリスト教文化の人たちを通して平和主義への潜在的な力となっていくことを期待したいと思います。

絶望する方がずっと簡単に思えるような世の中ではありますが、最新作『ユダ』についてのコメントにも書いたように、真の平和を標榜するのは結局のところ私たち一人ひとりの心の持ち方にあるのかもしれません。

http://setukotakeshita.com/page1.html

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672kei:2014/05/17(土) 14:38:35
ジャンヌ・ダルク炎上と復活
竹下様、「戦士ジャンヌ・ダルクの炎上と復活」拝読いたしました。
ジャンヌ・ダルクにつきましては、実は講談社新書で貴著書に初めて接したのです。
ふとリュック・ベッソンの「ジャンヌ・ダルク」を観たところ、裁判の理路整然としたジャンヌの論理に触れて、不思議に思い、いくつか読みすすんだものです。
これまでに貴著他、岩波新書、ペヌルー「ジャンヌ・ダルク」、集英社新書「英仏百年戦争」また物語としては映画バーグマン主演「ジャンヌ・ダーク」「火刑台のジャンヌダルク」劇「ひばり」を見ております。
本書は、3つのテーマで、ジャンヌ・ダルクをめぐる歴史的事象について詳らかに述べられています。それは終章に向かう巡礼のようでもありました。
終章において、ジャンヌ・ダルクと聖母マリアが比較されております。
お告げの2つのタイプと書かれていますが、ある意味同じことのように思えます。
ジャンヌ・ダルクの場合も受容であったでしょうし、彼女は自分を声の器と考えていたでしょう。そしてその受容は聖母マリアを心に留めたことでしょう。
また聖母マリアの場合も、拙は「Mary of Nazareth」の影響を受けておりますが、老シメオンに「剣で貫かれる」と予言されたように、その道は苦難であったでしょうし、最後までその言葉の通り自分で歩みぬかれたと今考えております。
「Mary of Nazareth」では、エジプトからの帰還、主イエスに親族と共におしかけたとき、受難のときにおいて、その言葉が試され、聖母ご自分でその都度足を踏み出したように描かれておりますが、拙は聖母マリアのこれまでの違和感がそれで解消されたと感じました。
ジャンヌ・ダルクの生涯を考える場合、受難も通して考えねばならないと思われます。
「フランスを救え」という声はランスではなく、ルーアンまでも含めて貫徹されていたのではないでしょうか?
ペヌルーの著書、「英仏百年戦争」共にジャンヌの処刑以降にノルマンディーでの反乱が起きていることが述べられています。「英仏百年戦争」などは、ジャンヌの戦闘の意義はあまり軍事的に評価されていませんが、死後にこそナショナリズムの「否定できない潮流をつくる」と面白いことが述べられています。
さらに帰天されてからは、今に至るまでフランスを救い続けていると考えることもできると存じます。
考えてみれば、ジャンヌは、諸勢力すべてに裏切られましたが、そのことでかえってどの勢力にも属さない「民衆の聖女」となり、どの勢力にとっても負い目を持ち、掲げねばならない存在になってしまったのかもしれないと思えます。
リュック・ベッソンの映画は「聖戦」という新たな薪を投げ込むこととなりました。
イラクからウクライナに至るまで、現代の「聖戦」は双方の側に双方の側のための殉教者を出しており、それは交わることがありません。
ジャンヌのようにすべての側に負い目をつくる殉教者がない限り終わることがないのでしょうか、イエス・キリストのように?
ともあれ、日本の中世内戦の天下統一は武将の上からの英雄は居ますが、ジャンヌのような下からの英雄はいません。西欧他国でもここまでの存在はないように思えます。それは単にプロパガンダを超えたものがあるのではないでしょうか?

673sekko:2014/05/18(日) 07:45:21
ジャンヌ・ダルクと聖母マリア
興味深いコメントをありがとうございます。

ジャンヌ・ダルクが圧倒的に意味があると思うのは、あの本にも書きましたように、異端審問と復権裁判によって徹底的にその肉声から生い立ちその他に至るまでの記録が残されて発掘されているところです。

それに比べて、大きな声では言いませんが、聖母がイエスを神殿に連れて行った時にシメオンが言った言葉など、誰が聞いていたのか、書き留めたのか、マリアが自分で言ったのか、「記録」の実証性からいうと、ジャンヌ・ダルクとは全く別の次元のことだと思ってしまいます。もちろんルカに出てくる聖母にまつわるいろいろな情景がその後のキリスト教の信仰や文化において大きな役割を果たしたことは確かなことだし看過できないことですが。

ジャンヌに対してすべての人が一種の「負い目」を持っているという見方はおもしろいですね。確かにその負い目はナザレのイエスへの負い目みたいなものと共通しているのでしょう。

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674kei:2014/05/22(木) 00:20:24
EUとジャンヌ
CNNでEU議会選挙のニュースがありましたが、ル・ペンさんがジャンヌの看板の前で演説していました。
ジャンヌは今反EUの旗のもとに居るのでしょうか?反論はどうなっているのでしょうか。ナショナリズムが曲がり角の時期にはジャンヌももっと普遍的な読み方をしていく必要があるのかもしれないと思います。
詳細な記録が明らかになり、ジャンヌの明晰で敬虔な人物像が明らかになったと思います。
ジャンヌは決して狂信的ではなかったと存じます(そして今度は傀儡論が出てきたようですが)
デリダが正義論の中で「あらゆる決断という出来事は、自らのうちに、決断不可能なものを少なくともファントムとして、しかしながら自らの本質をなすファントムとして受け入れ、住まわせ続ける」と、まるでジャンヌのようなことを述べています。(法政大学出版局「法の力」)
ジャンヌは、まだ自分にもファントムとしてしか見えない正義を、自分の十字架を背負い、畏れおののきて、つくっていったのだと思えます。
そこが狂信的殉教戦士や現代の十字軍と決定的に違うところだと思います。
ジャンヌの名を借りる者は、ジャンヌの孤独な祈りと戦いを欺かないようにしてほしいものだと思います。
復活されたイエスは、信じないトマスに、傷の中に手を入れさせました。我々はどこまで詳細な記録が欲しいのでしょうか。イエスは「どんと来い」と言っているようですが。
ユダを書かれて、まだ読むに至っておりませんが、トマスも書いてほしいような気持ちです。

675sekko:2014/05/24(土) 23:00:30
Keiさま
もともと5月はジャンヌ・ダルクの祝日があり、聖母マリア月でもあり(だから母の日があります)、ル・ペンに取り込まれやすい時期なのですが、娘の代に変わってからもっと利用している感じがします。

ジャンヌが自分でも決断不可能なものをそれでも本質的なものとして抱えていたというのは興味深い視点ですね。

信念に基づいて意志や希望や観測、予測をいくら掲げても、根本なところにある「不可知」を不可知として容認しなくては人は道を見失うのかもしれません。

聖トマスについては『聖者の宇宙』(中公文庫)の第5章で触れたことがあります。どの絵を見てもどきどきするシーンです。

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676グラ(愛犬の名称):2014/07/31(木) 10:42:02
B16の著作から
竹下先生

ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガーの「ナザレのイエス」を読みました。
「チェルノブイリ」が引用されており、それは福島と重なります。
福島原発事故は人災という評価を政府事故調もしております。
まるで、日本にはキリストの教会がないとB16から指摘されたようで、ショックですが、受け止めなくてはならないようです。
ヨーロッパのキリスト「教界」は、日本の教会(新旧ともですが)に対して厳しい視線なのでしょうか。

参考までに、B16の本からその箇所を一部引用させていただきます。
「ナザレのイエス」 (春秋社 2008年)  P52  里野泰昭訳
誘惑の場面の短い記述(マルコ1:13)において、マルコ福音書はアダムとの対比を強調します。それは、人間の苦難のドラマを苦しみ抜くことにあります。イエスは『野獣とともにおられ、天使が仕えていた』。荒野は楽園の対極ですが、和解と救いの地となります。創造に対する反抗と死の力であり、人間存在に対する脅威の具体的な姿である野獣は、楽園におけるように人間の友となります。イザヤがメシアの時として告知したあの平和の状態が現実となるのです。『狼は子羊とともに宿り、豹は子山羊とともに伏す』(イザヤ11:6)。罪が超克されたところ、人間の神との調和が実現されたところでは、創造は和解の状態に戻り、引き裂かれた世界は再び平和の場所となるのです。パウロは被造物のうめきについて語り、『被造物は、神の子たちの現われるのを切に待ち望んでいます』(ローマ8:19)と言っています。西ヨーロッパのベネディクト会修道院の周りに生まれた平和な村落は創造のオアシスであり、神の子たちによる和解の世界を先取りするものの一つの例といえるのではないでしょうか。それとは逆に、チェルノブイリは神の不在の暗闇に閉じ込められた創造の衝撃的な表現ということができましょう。(下線・強調文字は原文にはありません。)


「ナザレのイエス」は2008年に出版されましたから、福島原発事故を知りません。
創造のオアシスに対比されるチェルノブイリは、政治体制をも含めた皮肉も含んでいるかもしれませんが、チェルノブイリは福島のことです。
そこには、キリスト者もキリストにある教会もないと言われているのも同然のような気がします。

私たち、日本のクリスチャンはそのような時代と場所で生きていることになります。

「ナザレのイエス」三巻本は、B16がドイツ人でもあるせいか、プロテスタントの私にとっても良書でありました。B16がチェルノブイリに触れていることを、竹下先生に、ご紹介しておこうと思ったことと、信仰の世界から日本を見て、暗澹としている一人の信徒がいることをお伝えしただけです。

677sekko:2014/07/31(木) 20:33:20
グラさまへ
ありがとうございます。

そう、B16(ベネディクト16世)は教皇庁のエコロジー路線を前面に押し出した画期的な人です。

彼が選ばれた時? Habemus papam ecologistum ! ≫というべきだったという人もいるくらいです。

今回フランシスコ教皇が登場したことで先進国保守派の中でのカトリックの位置が鮮明になってきました。

カトリックもプロテスタント福音派も、先進国では保守ブルジョワジーが力を持っていて、そこでは「キリスト教=倫理(特に結婚、性、同性愛、避妊、中絶、安楽死)」という枠にはめようとしてきました。

カトリックの社会活動、キリスト教本来の持つ拝金主義の否定などは、多くの保守的な人にとって「不都合」だからです。「キリスト教=ピューリタン的で性道徳にうるさいやつ」という矮小化は非キリスト教徒ばかりか、社会の上層にいる多くのキリスト者にとっても都合のいい落としどころでした。

だからこそ、先進国ではない南米出身で底辺の悲惨さと社会の矛盾をよく知っているフランシスコが教皇になって現代世界の格差構造を糾弾し、棄民状態になっているさまざまな人の救済というキリスト教本来の正論を唱え始めると、保守陣営は激しく動揺しているのです。

レーガンらと組んで共産圏と戦ったヨハネ=パウロ2世はまあ都合よかった部分もあるとして、後は同性愛結婚反対とか中絶反対とか言っていればいいので、それは時代遅れだとか、司祭の小児性愛はどうする、など黙殺したり批判したりしやすい部分です。

保守派の人間もそういう道徳だけを言っていれば「倫理的でキリスト教的」だという満足感や優越感を得られるというわけです。

そういう困難な状況の中で、B16は、左派から揶揄される倫理路線、右派から嫌悪される社会活動路線の両方を迂回した「エコロジー」路線を前面に出したのです。

これはすばらしいことでした。左派にも右派にも受け入れられたからです。

地球の環境問題をここまで悪化させたのはエネルギーをはじめとした大資本の利権構造ですから、エコロジーを訴えることは社会の貧困の根本問題をたたくことで左派的にもOK。

そして持続可能エネルギーの開発などの新事業は新しい利権の獲得や事業拡大の可能性もあるので右派にもOK。
政治家たちのイメージ戦略的にもクリーンでポイントが上がります。

フランスの貴族のカトリック保守派で、B16の呼びかけに応えて急進的なエコロジー活動家になった人も少なくありません。無視できない影の影響力やネットワークを持つ彼らにとって、中絶や避妊がどうとかという問題以外の大きな使命感とそれを発揮する場を与えた効果は絶大です。

B16は必ずしも、キリスト教のないところでより大きい罪が繰り広げられているとは言っていません。

彼が、2011/6/9、駐ヴァティカン新任大使にあいさつしたメッセージをお読みください。

これは「フクシマ3ヶ月後」であり、当然フクシマが念頭にあります。大使たちは別にカトリック国から来たわけではありません。日本語の訳を一つ見つけたのでぜひ読んでください。

http://www.paparatzinger.org/Soc.Culture/9.6.2011.Udienza_nv.ambasciatori.pdf

残念ながらあまりこなれていない訳なので分かりにくいかもしれませんが、

「神から自然のよき管理を任された人間がテクノロジーに支配されその奴隷になることはできない」と言い、

神の似姿である個々の人間よりも金やテクノロジーや権力が上に置かれている状況が人の実存的迷いと生の意味の喪失を招いたこと、

超越的なものとの関係を欠いた人と物のヴィジョンは人から大地のルーツを奪い、深いところでアイデンティティも失わせること、

などを語っています。

そして、人間の尊厳は、信教の違いによって変わるものではないこと、正義や平和の希求をリスペクトすべきであると言っています。

さらに、どこの国でも、教皇のこの指針のもとで働くものは各国の諸問題を傾聴するはずであるからどうぞ活用してください、みたいなことも言っています。

つまり、無責任な原発事故を起こす国は神が不在の国と言っているのではなく、神なき闇に閉じ込められたテクノロジーを神の光に照らして考え直さなくてはいけない、どこの国でもキリスト者はそれを自覚して協力しなければならないと言っているわけです。

ですから、「チェルノブイリ‐フクシマ‐神なき闇」のような悲観的な見方をする必要はないですよ。

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678モトカー:2014/07/31(木) 21:46:46
カトリック反宗教改革とユダヤ思想の関わり
栗本慎一郎先生の『ユダヤがイスラムを生んだ』(光文社カッパブックス)の中で、カトリックの反宗教改革時代に、ユダヤ教の思想がカトリックの教義に流入した可能性があると触れられています。
この点につき、竹下先生のお考えをお聞かせ願いたいと思います。

以下、その第三章からの引用です。
「サンタ・テレサは、十六世紀にルターの宗教改革に対抗して起こったスペインの反宗教改革、つまりカトリックを内側から新しいものに変えていこうとする動きの中心人物であると考えられてきました。そういう人物の父親が、じつはマラーノ、隠れユダヤ教徒であったことが、スペインの歴史家によって一九四〇年代に明らかにされたんです。ということは、カトリックのなかの新しい考え方がユダヤ神秘主義と非常に強く結びついているということになります。」

途中略

「サンタ・テレサの特異性は、女性であるということ、しかもユダヤ人の改宗者というバックグラウンドをもっているということにあります。そういう二重のマージナリティをかいくぐりながら、けっしてユダヤ教に帰ることをせず、キリスト教の枠組みを使って、どうやって神との対話を実現していけるのか。」

さらに...

「アンルブラードスとサンタ・テレサは、当時の反宗教改革的なスペインのカトリックの流れのなかで、非常に特異な位置を占めています。そこには改宗ユダヤという状況が流れ込んでいたからです。しかし、こうした系譜は、のちにはイエズス会やカルメル派というかたちで、スペインのカトリック布教活動のひとつの中心を築いていく流れにも影響を及ぼしてゆきます。実際サンタ・テレサは、カルメル修道会を改革して跣足カルメル会を興した中心人物でもありました。」

とあります。

これが真実であるならば、カトリックは最低3度は変質しているような気がします。

1.キリストの教えから、パウロの教え等のギリシャ哲学の影響
2.アウグスチヌス(=元マニ教徒)による古典的なカトリックの教義の定立
3.反宗教改革による、ユダヤ神秘主義の流入

1については、栗本先生の上に挙げた著作のほか、『イエスの王朝』(ジェイムズ・D・テイバー著、ソフトバンク・クリエイティブ株式会社)というアメリカ人の書いた研究書、その他から、そう考えております。

いかがでしょうか?

679sekko:2014/07/31(木) 23:57:35
モトカーさまへ
まず、私のブログ記事からここへ来てくださった方に。

ブログに書いた当該記事はこの記事より二つ前のグラさんへの返事です。

以下モトカーさまへの返事です。

このような言説はあまり意味がないと思うのでスルーしてください。

陰謀論の一種のように、カトリックの有名聖女が実はユダヤ教の影響を受けていた、みたいな「面白いお話し」になっているのかもしれませんが、キリスト教はもともと旧約聖書を聖典にすることで「ユダヤ教」の影響を受けていますし、というより、もともとユダヤの聖典が成就したという形でキリスト教が成立しています。イスラムはその両者の影響を受けています。


アヴィラのテレサは私の好きな聖女で彼女について本格的な論考を書こうとアヴィラやトレドにも取材して準備していたのですが、クリスティ―ヴァに大作を書かれてしまったので仕切りなおそうと思ってそのままです。

テレサの父親は確かに改宗ユダヤ人の家庭に生まれて洗礼を受けた人で、その後ユダヤ教に戻って、さらに1500年(テレサの生まれる12年前)にカトリックに改宗しなおした人です。で、聖人伝や殉教者物語が好きで、幼い子供たちに読み聞かせていたらしく、テレサは大いに影響を受けてイスラムの地で殉教したがっていました。まだイベリア半島にイスラムの足跡が濃い時代です。

しかしそれよりずっと前、改宗しなかったユダヤ人がコンキスタドールで1492年にスペインから完全に追われた前後に、イベリア半島のユダヤ人コミュニティはルネサンスのカトリック世界に広がり、15世紀のルネサンス全盛期には、ユダヤのカバラに影響を受けたキリスト教カバラが生まれたり、プラトン主義、ヘルメス文書のグノーシス主義、魔術、錬金術などがハイブリッドな文化を形成していました。

まあそのような頽廃ぶりが16世紀の宗教改革の原因の一つになるわけです。

この辺の事情は『レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実』(中央公論新社)で少し触れました。

ですから、聖女テレサの神秘主義はもとよりハイブリッドなものではありますが、それを知性でねじ伏せる「知的腕力」みたいなものに私は惹かれます。

来年キリスト教の解説みたいなものを新書で出す予定なので、モトカーさんの質問も念頭に置いて書いていきます。ありがとうございました。

http://setukotakeshita.com/

680モトカー:2014/08/01(金) 21:05:38
ユダヤ
竹下先生...
ご丁寧にお返事をいただき、誠にありがとうございます。

わたくしは、キリスト教とユダヤ教の関連につきましては個人的に昔から興味があり、
いろいろと研究書を読んだり、欧米人の著作にも触れて参りました。
私は、キリスト教はユダヤ教をその起源としつつも、内容は正反対だと考えます。
それは、ひとことでいうと、
旧約聖書の神は、”正義の神”であるのに対し、新約の神は、”愛の神”という点です。

”正義”と”愛”とは人類の二大行動原理だと思いますが、
この2つはまったくの正反対の考え方・価値観であります。

したがって、キリスト教はユダヤ教をその淵源としながらも、
内容は180度違うものであると言えるのではないでしょうか?

旧約中心にユダヤの思想が、今年の5月のNHK教育番組の「100分de名著」で取り上げられていましたが、
その内容もふまえ、自分の考えを加味して申し上げますと、
旧約時代、ユダヤ人は迫害の中で、”正義”を追い求めました。
そして、ユダヤ人は自分たちが正義に反することをしているから(=堕落)、
神は救ってくれないんだ、と考えるのが主流でした。

しかし、イエスは、そうではないんだと主張したのです。
「神に対するまことの信仰があるならば、すでに救われているんだ」と。

律法のために人があるのではなく、人のために律法があるのです。
というのがまさにそれを示す典型的な言葉です。律法=正義だと思うので。

もちろん、旧約にも”神の愛”は語られていますが、正義の傾向の方が強いです。
そして、”正義”の傾向が強いのには、ユダヤ人が古代エジプトにいたことと関係があるのではないか、
と思っています。

古代エジプトの神である「マアト」の思想です。
人は死後、マアトに心臓をはかりにかけられ、重さを調べられて裁かれるのだという...

一般論的にはユダヤ教の中におけるゾロアスター教思想に言及される場合も多いですが、
古代エジプトの、このマアトの思想と、イクナートンによる一神教を目指した宗教改革とに、
ユダヤ教の思想の核があり、それが長い時間をかけて徐々に形成されていったのがユダヤ教であり...

そのユダヤ教にコペルニクス的転回を加えたのがイエスだったのではないか。

これが私の考えです。

いかがでしょうか?

681sekko:2014/08/02(土) 00:37:23
モトカーさま
ユダヤ教とキリスト教の関係については私も別のところで書いたことがありますし、いろいろな本も出ていますから、ここで掘り下げることはしません。ユダヤの神が怒れる父的で、キリスト教の神が慈しみの母的な神だという言い方はよくされますし、明らかに二つは別だと言い切って異端の烙印を押された人もいました。

まあ、素人目には、この二つを結びつけるのは無理があるよなあとつっこみたくなりがちですが、キリスト教の成立におけるそれなりの神学的必然性があったわけで…。最近では中央公論新社の『ユダ』でユダ像の作り方を通してユダヤ教とキリスト教の関係を書きましたので興味があればお読みください。

でも、旧約を読んでるとつい「ユダヤの神様ってどんだけ怒りっぽいんだよ、
万物創造した後の品質管理が歴史なのかよ」と思いたくなりますが、
私たちの基準で見るとなんだかハチャメチャなユダヤ人の行動や意識にも、よく読むと普遍的真実だと頭を下げたくなる部分があります。

たとえば創世記の終わりのほうのヨセフの話ですが、兄たちに奴隷に売られた後、エジプトで出世して家族を呼び寄せるのですが、父の死後さすがに兄たちがいよいよ報復されるのではないかとあせった時に、ヨセフはこういいます。

「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。
あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」

この部分は、ケセン語訳新約聖書で有名な山浦玄嗣さんがお孫さんを対象にして書かれた「ヨセフさんの手紙」ではこうなっています。

「そんなこと、もういいんです。どうかそんなに怖がらないでください。
わたしは兄さんたちの弟なのです。
確かに、あれは辛く苦しい日々でしたけれども、そのお陰で今日があるのです。
神さまのなさることは誰にもはかり知ることなどできません。
でも神さまは悪いことも善いことに変えるお方です。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
何にも心配しないで、これからずっと仲良く暮しましょう。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。
どんなことがあっても、わたしは力の限り兄さんたちをお守りします。
兄さんたちの子供たちもしっかりとお守りします。
ね、兄さん。兄弟が仲良くするって、こんなにすばらしいことなんですよ。
許しあうことって、こんなにすばらしいことなんですよ。
だから兄さん、生意気だったわたしのことも許してください。
そしていつまでも、いつまでも、このエジプトの国でみんなで仲良く暮しましょう!」

これを読んで私は感動しました。

前半はいわゆる「摂理」思想であり、わかります。
ところが「手紙」ヴァージョンでは聖書にない言葉が補われています。

「ね、兄さん。兄弟が仲良くするって、こんなにすばらしいことなんですよ。
許しあうことって、こんなにすばらしいことなんですよ。
だから兄さん、生意気だったわたしのことも許してください。
そしていつまでも、いつまでも、このエジプトの国でみんなで仲良く暮しましょう!」

の部分です。

今の世界でいくら強調しても強調しすぎることはない言葉だと思いました。
私は今のパレスティナ内戦を頭においています。

イスラエルはハマスというテロリストに対する自衛だとか、植民者を守るとか、イスラエル兵士が殺されたとか言って猛攻撃をやめません。

ヨセフの言葉を聞いてほしい。ヨセフと兄弟たちがイスラエルの12部族の先祖です。

兄たちに奴隷に売られ、七年も牢獄に入れられるという一方的な不運にあいながら、みんなきょうだいであることには変わらない、生意気で兄たちの反感をかうことになった自分のことも許してほしい、と言います。兄たちの一方的な罪を自分が一方的に許すのではなく、ゆるし「合おう」と言っているのです。

互いにゆるし「合う」ことだけが「子どもの代まで仲良く暮らしていく」ための唯一の方法だということです。どちらがより悪いとか、責任の追及、弾劾、制裁、などからは決して「いつまでも」「みんなで」の平和は生まれません。

ユダヤのラビたちがこの言葉をネタニヤウ首相らに喚起してくれればいいのにと思います。

今のエジプトが和平を呼びかけることも、エジプトでの共生を試みたヨセフのことを思うと感慨深いです。幼子イエスもエジプトに避難しました。長じても暴力にあって殺されました。そして復活することで、救いとは報復や制裁によって得られるものではないことを示したわけです。

聖書のヨセフの物語をよく読めば、ヨセフの最後の言葉に、山浦先生の補足がまるまる込められていることが分かるはずです。

考えたら、ここまでの仕打ちを受けながら仲良くするなんて私たちの生活感覚の基準からいえばほぼ奇跡であり、何がその奇跡を可能にしたのかということをじっくり考えさせてくれる最後の言葉でした。

裁きの論理ではなく「ゆるしあい」による歩み寄りだけが、人が共に生きることを可能にしてくれるのだというのが神のメッセージだとしたら、ユダヤの神からキリスト教が生まれたのも納得できる気がします。変わっていくのは「神と人間との関係性」なのですね。

http://setukotakeshita.com/

682モトカー:2014/08/02(土) 09:15:38
旧約聖書
再度のご丁寧なご返答をたまわり、誠にありがとうございます。

「旧約聖書」ですが、私は、加藤隆氏の著作「旧約聖書の誕生」の説が的を得ているのではないかと思っております。

氏はヨーロッパにも留学し、ヨーロッパ人に混じって議論も行った経験もある、ということですが、
みずからの知識とヨーロッパ人とのディスカッションの中から生れたこの考えが真相に近いのではないかと思います。

氏の言説は、「旧約聖書」とは、アケメネス朝ペルシャ帝国が、ユダヤ人に自治を許す代わりに命じて作らせた、
一種の「自治法典」である、というものです。

古代にしては寛容だった同帝国は各民族に自治を許したが、統治上の要請から(=秩序の維持)、
そして、自分たちで規律させるために、ルールブックを作らせた、という仮定です。

その際、ルールだけでなく、民族の自己紹介も記載させたのだそうです。

そしてユダヤ人たちは、帝国の支配者からの命を受け、様々な不文律や慣行、そして語り継がれてきた民族の伝説などを
急いで文書にとりまとめて提出しただろう、というのだそうです。

この仮定の下では、旧約聖書の中にあるさまざまな矛盾も説明できます。

また、アブラハムやヨセフにまつわる物語は、民族の神話であり、「古事記」的なものだと思います。

なので、アブラハムやヨセフ、モーゼのあたりは、信仰的な要素と民話的な要素とが入り混じっており、
未分化で未完成的な説話的なものではないだろうか?、と思うわけです。

”宗教”としてユダヤ教が発達しはじめたのは、北王朝がアッシリアに滅ぼされ、南王朝にも危機が迫ってきて、
預言者たちが活動し始めてからではないでしょうか?

それ以前は、宗教と呼べるほどのものではなかったと考えます。

モーゼ五書と預言者たちの書では、明らかに、傾向が違うと思うのです。

ただ、ユダヤ人たちは、比較的安定したエジプトの富裕で強大な諸王朝と、
変転きわまりないメソポタミアの諸帝国とのはざまで苦労して生きながらえ、
その中から、”民族の処世術”ともいうべきものを学び取っていたのは間違いなく、
それが、アブラハムの流浪の物語から、ヨセフの人生の物語のあたりに結実している、
ということは言えるようには思えます。

いかがでしょうか?

683sekko:2014/08/02(土) 16:37:34
モトカーさま
ありがとうございます。

ここは諸説に関する私の感想を書く場所ではないのでこれで打ち切らせてください。

もっと適切な掲示板が他にあると思います。

あるいは、すでになさっているかもしれませんが、モトカーさんが諸説をまとめたりご意見を発表なさったりするサイトやブログを作られたほうが、有益なコメントも得られるのではないでしょうか。

個人的には、「真相は…ではないか」系言説は、陰謀論も含めて、テーマによっては読むのはいいですが、参入したくはないのでよろしくお願いします。

http://setukotakeshita.com/

684kei:2014/08/31(日) 03:46:12
弱い父ヨセフ
父ヨセフと初めて出会ったといえるのは、ジョルジュ・ラトゥールの「大工ヨセフ」を見たときのことでした。
幼いイエスの蝋燭の灯火で大工仕事に励む父。しかしその目はイエスに向けられず、悲しみをさえ湛えている。
息子の厳しい運命を知りながらも、黙々と自分の出来ることで支えるしかない父。
何か普遍的な父の姿を見た思いでした。

現代日本において、父と家族の姿は悲惨なものです。
子供を養うには特に教育費に大金がかかります。さらに教育環境を整えるためにもまた金がかかります。
父は競争に勝たざるを得ず、また息子にこの厳しい世の中で生きるための(競争を生き抜くための)修行を早期に課せざるを得なくなります。
そしてそこから多くの罪が生まれます。

社会を見渡しましても、族長たる父は、旧約の族長の如く、自分の民を守るために、他の国と張り合っていかねばならない。自国の利益、論理を主張しあい、いっこうに和解が訪れません。

2000年も前に父ヨセフの姿が記されたことは驚くべきことのように思えます。
ケイシャ・キャッスル=ヒューズ主演映画「マリア」も、どちらかというとヨセフの苦労が印象的な映画でしたが、やはりアメリカらしく家長としての父の姿でした。それよりも「Mary of Nazareth」のヨセフのほうが好ましく思えます。
崩壊しつつある悲劇的な家族の姿は毎日のようにTVのドラマネタとなっています。しかし最後を感動的に終わらせようとも、それは感情的に肯定された姿でしかありません。
世界一有名な不思議な聖家族の姿、父ヨセフの姿をもっと描いてほしいものだと思うものです。

現実は、子殺しをしようとするようなノアが描かれているようですが。

685グラ(愛犬の名称):2014/08/07(木) 21:52:37
安全と安心
エコロジーとキリスト教という枠組みについては、新たな可能性を感じます。

福島原発事故を含む、「災後」の混乱は、多岐にわたってしまいました。生活の基本にある、食べることでも食品表示偽装があり、教育の分野でも陰惨な事件が佐世保で起きてしまい、理化学研究所という大組織も30歳の女性の自爆テロの状態です(小保方さんには頑張ってもらいたいですが、笹井氏の自殺によってスキャンダルになってしまいました)。

「災後」の混乱の要因は、安全と安心の枠組みの喪失にあります。そもそも、福島原発事故を防ぐことが出来なかったのは、科学的な知見による実証がなかったことでした。原子力の平和利用というイデオロギーを支えたのは「安全神話」でしたが、しかし実はこれは「安心」神話でしかありませんでした。安全と安心の混同がありました。

エコロジ−は、科学的な知見に基づく、安全でなくてはなりません。
竹下先生に教えていただいた、「神なき闇に閉じ込められたテクノロジーを神の光に照らして考え直さなくてはいけない」は、安心の基準になります。安心の形は多様です。

下記の文書は、2012年4月から、食品衛生法において、一般食品の基準値が、従来の暫定基準値500ベクレル/?から100ベクレル/?に引き下げられた時、この安全と安心の基準を明確に区別して、私が報道機関向けに準備したものです。安全と安心をどう区分けしたか参考にしてください。NHKをはじめテレビ各局の取材に対応する基本的な考え方が明示されております。

「弊社としましては、お客様の水産物に対する安全性、特に放射能汚染の関心の高さとデータの信頼性の確保の観点から、基準値以下であることを挙証できる水産物を取り扱うことを基本原則としまして、取り組ませていただきました。
従いまして、放射性セシウムが基準値以下であることを挙証できるシステムの構築を通して、お客さまに安全な水産物を提供させていただくことで、生産地と消費者を繋がせていただこうと努力してまいりました。
この間、大学の教授および食品分析の専門機関、放射能測定機の製造メーカーの方々と、水産物の安全を挙証できる仕組み作りの話し合いを重ねてまいりました。
この結果、水産物の安全性を、お客さまが納得される安心に結び付けるシステムを構築することで、生産地と消費者を繋がせていただくことといたしました。
大学をはじめとする関係機関と、新たに準備いたします、お客さまが納得される安心システムにつきましては、お客さまの信頼を確保するとともに、生産地の復興の一助を図る目的を持っております。この安心システムは、製品認証スキームに準拠しております。」

固有名詞を普通名詞に変更しており、また差し障りがある表現は一部修正しておりますが、安全と安心の基準と運用を理解していただけると思います。

686sekko:2014/08/11(月) 07:29:53
グラさまへ
なるほど、安全性をみなが納得できる安心に結びつけるシステムに構築する、というのはよい表現ですね。

「安全なき安心」は神話になりかねないわけで、安心はいわゆる「備えあれば憂いなし」というベースに立つべきですね。逆にいくら安全を確保しても、それを安心に結びつけなければ「不安」が安全を脅かすことになるかもしれません。

いろいろ応用して考えられそうです。ありがとうございました。

http://setukotakeshita.com/

687sekko:2014/08/11(月) 07:37:08
keiさまへ
私もラトゥールのヨセフは好きです。ヨセフには何となく夜なべ仕事が似合うなあと思います。でも確かに映像化は難しいですね。

私が最近家族について書いた記事の一部を引用します。

>>>他のすべての人間の営みと同じように、家族は固定された状態ではない。「家族愛」という言葉はしばしば家族のメンバーをそれぞれ決まった役割に縛り付ける圧力として使われることもある。また共通の敵に対して無条件で結束するようなナショナリズムのひな型のエネルギー源として使われることもある。理性や意思を封印するために「愛」が情動で包み込まれることもあるのだ。聖家族の「両親」は単純な生物的家族愛でごまかせることができない複雑な関係を乗り切った。彼らが自分たちのエゴの外から来る声にいつも耳を傾けたからだ。


やはり個々の人間だけで運営していくには限界があり、視界を広げる必要がありそうです。

http://setukotakeshita.com/

688kei:2014/08/11(月) 10:59:11
スポーツとキリスト教
最近ふとしたことから下記記事を目にしました
(小生サッカードイツ代表ファンです)

教会とスポーツ、ちょっと意外な関係
http://toyokeizai.net/articles/-/44522

スポーツには教育的役割があるが、ドイツでは「公正」「寛容」など、より普遍的な価値観をつかってスポーツを意義付けている。そのため、われわれにはピンとこないが、キリスト教がかかわってくるような一面もある。日本の「体育会系」と比較しながら、ドイツのスポーツを見てみよう。

これは「キリスト教の真実」の具体的事例といえそうです

シリーズ
「ドイツのスポーツはなぜいじめ・体罰がないか」
http://toyokeizai.net/category/deutschland_sport


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