したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

哲学・宗教質問箱

431Sekko:2009/12/16(水) 04:02:49
キリスト教の時間
 そうですね。典礼暦と「創造から終末に向う一回性の線的時間」の考えはキリスト教の中で上手くできていると思います。キリスト教無神論の歴史の中では、必ず、この創造に関する「初めと終わり」の概念が否定されて、物質世界は永遠であるという主張がされてきました。これはエネルギー普遍の法則とか、原子の不滅みたいな理論の形成とも連動しているんですが、そのうち、地球はもとより、宇宙にもビッグバンによる「始まり」があったとか、いつかはクラッシュして消滅するとか、見方のスケールを変えると、永遠性とか循環性とか終始のある線的時間は、互換性があったり、共存したりできると思います。もっとも普通の人間には、循環し再生する自然の営みに比べて、生まれ育ち老いて死んで消えていく自分や自分の近いところにいる同類のかかえる線的時間の一回性の意識というのは強烈で、不可逆的な死の恐怖をどう管理するかというところから宗教儀礼も生まれたのでしょう。仏教でも弥勒信仰などで釈迦の入滅後56億7千万年後の未来に姿を現わして多くの人々を救済するとか、一応線的な時間もありますが、基本はこの世の時間や空間などは幻であり、循環的な輪廻から脱することこそ救済ですよね。キリスト教も、終末の後に魂といっしょに肉体も復活するとかいうことで、肉体の一回性を相対化したり、線的時間を無意味にする各種聖人の時空を超越した「交信」などによって、歴史性を無化する工夫があります。
 イエスが十字架上で一度死んだけれど復活して、そのままずっと、生きているというのも、たんに聖なる人が死後も腐敗しないとか存在の仕方を変えたというより、また別の生き方へとすべての人をいざなってる感じはします。
 愛する人の誕生日や命日やらを毎年想起するというのは、自然な感情だし、それが権威的に押しつけられたら嫌ですが、繰り返して想起しないと人って忘れっぽいからなあ、という実感もあります。
 螺旋的に円環しながら上昇していくイメージはすてきだし、そこに神の国の建設とかいうポジティヴな目標が与えられるのはいいことですね。そうしないと、正直言って、毎年季節や暦や行事は巡るのに、人生の後半ではそのスピードが年々早くなって、体力も衰え、螺旋上昇どころかきりもみ的に落下するって実感さえありますから。それを救うのは、「この私の人生」の救済とか螺旋上昇でなく、やはり、自分が自分に立っているけれど他者と生きているのだという連帯の目線であり、個人の老いや死を超えた大きな全体に参加できるというイメージです。実際、自分の生も、すでにいない多くの人の共同作業の上で育まれたという感謝と感動がすでにあります。私一人では、家一軒建てられず、食糧も調達できず、病気も治せず、サヴァイヴァル力はゼロですから。今私より弱い立場にいる人とか次の世代の人などに私も微少でも何らかの形で役に立ちたいです。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板