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哲学・宗教質問箱
458
:
Sekko
:2010/04/11(日) 02:00:04
ご利益
>「困った時の神頼み」的に気軽にいってお賽銭を投げたりお札をもらったりできる神社仏閣は日本では事欠きませんしね。
と前に書いたのは、別にキリスト教系で拝みに行かなくても手近なところがたくさんあるのだから、という意味で、キリスト教がご利益を否定してるという意味じゃありません。まあ、その出発点においては呪術否定、偶像崇拝を否定してる宗教ですが、前ヨーロッパでキリスト教がデフォルトになった時点で、これはもう何でもありに向かうのは当然で、早い話がすべての巡礼って、「奇跡」という名の「ご利益」を期待してると思います。ご利益を得たお礼の巡礼もありますが。
つらい時にそこから解放されたいのは自然ですし、イエスも治療者として崇められていましたし、それにあやかりたいのは必ずしも誤りじゃないと思います。福音書の中のカネテーマはまあ、例えだと思います。やはりそういう例えが一番人々の実感に訴えたんでしょう。免罪符の乱発は、確かに信者のニーズに応え、封建領主でもあった教会の財政対策だったんでしょう。今でも、どこそこに巡礼したら罪が軽減されるとかちゃんと書いてありますよ。今はそれで金もうけしてないし、詐欺にもなりかねない奇跡や成功の保証じゃなく、教会の守備範囲の「免罪」なんだから、無害な「ご利益」だと思います。
ご利益を求めるのは人情でも、「他人の不幸」を願うのはペケで、自分の幸せが他人の不幸と連動しているような「ご利益」を願うのは間違いで、それに応えるのも間違いだと思います。だから、病気平癒を願ったりするのはOKで、戦勝祈願とか優勝祈願とか、敗者を必要とするものは基本的におかしいし、入試なんかの合格祈願っていうのも微妙だなあと思います。
やっぱり平和を祈ったり、試合や入試の時期に風邪ひいたり故障のないことを願ったり、実力を発揮できますように願ったりすべきですよね。ジャンヌ・ダルクが一方的に「イギリス軍出て行け」って、神の名のもとに軍を率いたのも、歴史の文脈の話であって、キリスト教の本質的にはかなり「それでいいのか?」っていう気がします。
私は個人的には「本音の部分」で自分の幸せを祈るってことはないです。本音をすなおに探ると、神さまが私のような中途半端な人間の願いとか気にとめるわけないだろ、と思うからです。絶望的な状況で必死に祈っている人々を有名教会で見かけると、ほんとに、私なんかはスル―していいから、この人たちをなんとかしてあげてって、気はします。その時に、「この人たち、本気で奇跡が起こると思っているのかなあ、単純すぎ」とかは思いませんね。ただ、本気で祈る人を見ていると、ますます、私のようなヌルさでは自分のことは祈るのも無駄、って思います。
大羊さんの前途に聖霊のお恵みがあって、大泉さんにとっての世界がクリアに見えてくるようにとお祈りします。(これでも人のためにはすなおに祈れるんですよ、ま、私のフォローなんてそれこそご利益なさそうだけど)
あと、私のためにいつも祈ってくださるという型が複数いらっしゃって、それを聞くたびに元気がでます。ありがとうございます。これが私にとってほんとうのご利益です。
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