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TK師との会話

1 TK :2013/07/06(土) 10:47:36
こんにちは。

君の次元は音は聞こえている、景色は見えている、言葉は発せられている、ただし、自分のもの
では無い、このようではないだろうか。

ここでは、「自分」と言う捉え方は消滅したが、視覚情報、聴覚情報、言葉との微妙な距離感が
発生しているのだが、あまりにもそれが微妙すぎるがゆえに中々気づけないものだ。

そして、微妙だが確実に存在して立ちはだかっているこの「距離感」が「現象」との壁だ。

もちろん今のままでも「自分」と言うものが無いのだから、一般的に言う「(エゴの)苦悩」と
言うものが発生することも無いし、ここはここで快適なところであり、それは決して間違いと言
うものでは無く、巷で賢者と呼ばれる人たちの言いまわす状態に君がいる事に間違いも無いがた
だしこの先もあるのだ。

君の所では「識別作用(対象)」が消滅し「楽」を実現したという事で間違いはないし、これも
既に稀な現象であると言える。

もし君の段階の人がさらに先に進もうと思うなら、この微妙に存在する「距離感」を手掛かりに
確実に存在するものとしてしっかり掴み取ることだ、しかし、今の君が今のままで「楽」
と言うのなら私はあえてさらに先に進んだ方が良いなどとは言わない。

これより先に進む人と言うのは、この微妙な壁すらが「違和感」に感じてくるのだ。

君の状態もしばらく留まっていると、だんだんとこの残り物の存在が確固たるものとして、浮上
して来たりする場合もあることだろう。

君も立派に賢者だ、君にできる事をすると良いだろう。

2 ラピ。 :2013/07/06(土) 10:48:23
T師匠!

ご訪問、ありがとうございます。

師匠の言葉は私の今の状況を完璧に表しています。

私はかつて がむしゃらに道を歩いていましたが
師匠に出会うちょっと前頃は実はその道からそれていました。

そして師匠と出会うことによって
再び道を歩き始め
至ることができました。

至ってる方、本物は
確実にその道を求めるものを導きます。

私はその頃は訳もわからぬまま導かれていたことを
至って初めて知りました。

だから、もし、
本気で至りたい方がいればその方に言いたい。

まだ至ってない時にはわからない、
知っているつもりでもわかってない世界があるのだと。

だから、それを想像したり考えたりするのではなく
やるしかないのだと。

私はそれをしました。

師匠は私の段階(彼岸)の更なる段階(涅槃)があると
教えてくださいました。
その先へ進むかどうかは流れに任せたいと思います。

そして師匠は自分の道を行け
と背中を押してくださいました。

これからも私なりに真理を表現し続けていきます。

ありがとうございます。

師匠に出会えたことに感謝します。

3 TK :2013/08/10(土) 09:51:58
なかなか新装オープンのこの掲示板も関心を引いているようなので、
この場を借りて私からも一言述べようと思います。

私はラピ。さんには縁があって悟りに至るための「激流」の教えを開きましたが、
実際は私にとって教える対象となる人の幅はもっと広いと思います。

その人から苦が少しでも減って、楽が増えればそれで良いと言う観点から、
それなりの教え方が主になるのだと思います。

精神世界とは一体なんでしょうか、人はなぜ今の時代に宗教を求める人がいるのでしょうか。

恐らく、苦しいからですよね。

苦しいから、苦しくて何が何だかわからないから求める。

楽になりたいからと言うはっきりした動機ではないかもしれない、
そこに行ったら楽になれると確信を持ててやっているわけではないのかもしれない。

ある意味では苦しみがあるのは仕方がないとあきらめている、あるいは、
根本動機は生きる事そのものが分からないから、と言うものではないかと思います。

実はこの物質世界とは思いが実現しにくいと言う特性を持っていますが、
その特性が手助けするような形で発生していると思います。

では、悟りとはどんなものかというと、
簡単に言うと今述べたようなことがその人にとってどうでもよくなってしまうということです。

答えを見つけたわけじゃない、疑問そのものがどうでもよくなってしまった。

単純に言えば、迷いがあり疑問があり生きている人がいる、それに対して、
何も考えないで気にならないで生きている人がいる、人間から迷い苦しむ機能が無くなってしまった、
悟りとは、つまり、そのようなものでした。

それは決して「知ったり」「分かったり」「理解」したりすることではありません。

もし、精神世界の心地よさがほしい人は、精神世界に行った方が良い、束の間ここちよく、
その後苦しさが襲ってくる繰り返し、束の間の娯楽ビデオの鑑賞を楽しむような気分で精神世界に酔う事を楽しんでいればいい。
ただその人たちの本心が求めていることはその状態ではないので、やがてそれ自身が苦しくなってくるのだろうと思います。

私が話しする事など、何ら変わったことではありません、
昔の人が当たり前に使いまわした言葉をそのまま同じに話しするだけですから。

苦しみ、努力、我慢、忍耐、厳しい、これらは昔から人間を作る上で必要なものとされてきたと思います。

私の話しするのもこれだけです。

全然変わってないですよね。

そして、何の事は無い、これを積み重ねる事が悟るための方法なのです。

(長いので続きます)

4 TK :2013/08/10(土) 09:53:59
(前の続きです)
釈迦のこの世を去る最後に私たちに残した言葉にも、その根幹の部分のみが適格に言葉短く述べられているように思います。


大般涅槃経 - Wikipedia(2013年8月8日 (木) 07:40  UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%AC%E6%B6%85%E6%A7%83%E7%B5%8C

>原始仏教経典の涅槃経

中 略

>「すべてのものはやがて滅びるものである。汝等は怠らず努めなさい」


釈迦のこの世界で最後に発した言葉が「怠らず努めなさい」なんですね。

それはけっして、「人々のために」とか、「善を為せ」とか、「世界の為に」とかの言葉ではなかった。

この世界で最後に発した言葉は「怠らず努めなさい」なのです。

もしかしたら多くの方々は、この点を勘違いしているのかもしれません。


むしろ、スポ根アニメとかの中の方が「怠らず努めなさい」の要素が強いですし、
現実にスポーツの優れた選手は悟った人に近いメンタルなのです。

私も高成績のスポーツチームの者と話したことがありますが、エゴ少ないですね、人間出来てます、
苦を減らし楽を凄く実現できている、おかしな精神世界の者と比べたら雲泥の差で彼らは達成できてます。
反対に成績の振るわない仲良しクラブ的な所の人と話しても、エゴ多いです、彼らは苦しみ多く生きていますね。


私がここで悟った状態と語りましたが、スポーツも存分に「怠らず努めなさい」のような
要素があるので悟りには身近な状態にありスポーツの世界ではこの意識状態を「フロー」若しくは「ゾーン」
と言うのです。宮本武蔵あるいは柳生宗矩に沢庵禅師が説いたと言われている「剣」「禅」一致はこの辺りの事を指しています。

フロー - Wikipedia(2013年6月11日 (火) 11:13  UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC

>この概念は西欧心理学の中ではチクセントミハイによってはじめて示したと言える。
>しかし、彼はこの心理現象に気づき、それに基づく技術を開発したのは、
>ほぼ間違いなく彼が最初ではないと、彼自身、躊躇なく認めている。
>
>2500年以上前、仏教や道教といった東洋の精神的な伝統の実践者は、
>この訓練を彼らの精神開発の非常に中心的な部分として磨いた。日本の実践者は、
>そのような禅の技術を、彼らの選んだ、剣道から生け花までを含む、
>芸術の形式(芸道など)を習得するために学んだ。

ちなみに私の知っている高成績なスポーツチームでは、厳しい訓練は当然ですが、寮で集団生活をし、
生活の全てがスポーツであるとして、日常の規律の厳守、奉仕の実践と挨拶の重視、
練習前の正座とか、私から見て十分にフローの達成に近づけるための実践要素が取り入れられていました。
強くなるチームは技能訓練以外にも強くなるためのメンタル面の的を得た要素をしっかり踏まえているという事ですね。


精神世界にそれを求める人たちに言いますが、
「心身を鍛えて、よりよく過ごすために私はスポーツ又は稽古事に打ち込みます」と言う人が世の中には多数いると思いますが、
これは悟った立場から見ても立派に理論にかなっています。
私は精神世界にそれを求めてうだうだ知ったかぶりのオタクをしているような人たちよりも、
時々これらの人の方が楽を達成できて人生を前向きに歩いているように思えて仕方がない部分を感じます。

何事につけても、だらだらといい加減にではない、真剣に何かに打ち込んでいる人の姿を目にするのは、それは素晴らしいものです。

悟ると、一般の人の視点から見たらそれは理想的で素晴らしいと言う状態になると思います。

苦が無くなって楽が実現するだけではありません、あえてたとえるなら遊びと同じ楽な感覚で仕事が出来てしまう、
しかもエゴの人と比べたら圧倒的に優位な効率でインスピレーションもどんどんと出てきますし、
楽していい仕事ができると言うのは、一般的には願ったり叶ったりと表現するのかもしれません。

(長いので続きます)

5 TK :2013/08/10(土) 09:58:33

(前の続きです)

私は釈迦の我々に残した最後の言葉の「怠らず努めなさい」を成就した者です。

努力に努力を重ねて努力し尽したのでもう逆立ちしても努力ができません、努力不要(不能)の者となりました、
そして、ラピ。さんも私の教えを受けてこれを成就しました。

もしかしたら、私たちのこの「私達は逆立ちしても努力などしません」の成就した後の表現を、
至る前の人が勝手に「努力」するのは駄目なんです不要ですと取った人もいるのかもしれません。

ですが、釈迦が最後に我々に残した言葉は「怠らず努めなさい」の言葉なのです。

本当にスピ系にかぶれて私と同じところまで来た人はいるのでしょうか、
当然スピ系の分からない私に導かれたラピ。さんは私の取り入れた方法で至りました。

それは、私が成就したと認めたとかではなくて本人が自分自身でこの状態に、
意識そのものが変容してなってしまったのです。

次は至った直後のラピ。さんの言葉です。

[師匠への報告 (復活版)] by 大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1652.html

>この私はだれですか?
>
>師匠、何もできなくなる、努力ができなくなるってこういうことですか?
>
>何もできないのですが
>この私はなんですか?
>
>師匠、これはなんですか?
>
>と送りました。

実は次の至った人と同じ状態を成就したのでした。

アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>私は無だ。
>
>何も持たず何も出来ない。だが、すべてはわたしから立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。

ただし、的を得た導師とは、ただ普通に暮らしていてこれらの努力や忍耐を要するような出来事をやり過ごさせるのではなく、
あえて、これらの事が過剰に実践者の前に起こる方法を作り出すのです。

それが、ラピ。さんの言っている「激流」と言うものの正体です。

じつはラピ。さんに関して言えば、私と出会った時には、
恐らく私と出会う前の様々な努力によってかなりメンタルは出来上がっていて、
すなわち「楽」と言うものを実現できていたように思います、あと「理解」したり「屁理屈」、
たとえば「この世界は私だ」とか、「実態が無いのだ」とか「私はあなた」とか、
ちょっと違ったかもしれませんが、この手の類の完璧に「屁理屈」ですね、
そのような屁理屈な低次元に縛られて超えられないで居た、
だから私が手を貸して理解(理屈)と言う低次元行為をすっかりと捨てさせて、
意識の状態が変容するレベルまで超えさせたのです。
もっともこの屁理屈も、ある段階の者には激流を渡るための筏(イカダ)として機能しますが、
同じ屁理屈でも使い回す者が悟ってないとこれが全く同じ言葉なのに筏(イカダ)の機能も果たせない
駄作の単なる屁理屈に大変わりしてしまいます。

達成した私達には内面(心)と言うものが無い、これがほんとうの無心です。
内面が無いから従って外面もないのです、よってヴィパッサナなどの内面観察系の実践は
逆立ちしても実践不可能(完了)です。


アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>質問者 この知識はあなたの内側からやってくるのでしょうか、それとも外
> 側から来るのでしょうか?
>
> マハラジ
> その表現は当てはまらない。
> 私の内側は外側であり、私の外側は内側なのだ。
> 必要な知識をあなたから得るかも知れない。
> だが、あなたは私から離れていないのだ。

私は以前これを、あなたの前には私がいる、だが、私の前にはあなたはいないと言う言語化で表していました。

至った私達の意識状態は精神の集中の次です、意識の拡散と言う状態になります。
至った私達には精神の集中と言う言葉はありません。

私がここで「努力」と言う表現を使いまわしていますが、それ自身も私は成就者なのでそうでない人とは違うのです、
人間のメンタルの構造の上でどのような作用が起きた時に、この「努力」と言う感覚が発生するのかまで、
熟知したうえでこの表現を使いまわしています。

(長いので続きます)

6 TK :2013/08/10(土) 10:03:39
(前の続きです)

「人の為」「世界の為」「人類の為」「神への奉仕の為」「愛と感謝の思いを込めて」大いにやってください、
私もラピ。さんもその実践をして成就したのですからこの件についても胸を張って述べる事が出来ますが、
最終的には実践不能の状態でこの実践は成就を迎えます。私もできるものならまだこれらの実践をするのですが、
逆立ちしても不可能なのです、つまり、意識の状態がこの実践の成就を迎え根幹から変容したと言う意味です。
「清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような〜」スッタニパータと言う
経典に出てくる表現ですが、この状態が完成形ですから。

「人の為」「世界の為」「人類の為」「神への奉仕の為」「愛と感謝の思いを込めて」が出来るうちは大いにやって下さい、
ただし、その実践が出来るうちは私の居る所まではまだまだ全然至っておりませんので、
そのような状態で人に何かを説くなどの行為はくれぐれもしないようにして下さい、
これは説かれた方も当然に至る事が出来ず害がありますが、説いた方にも害があるので、ご法度です。

まず、自分から先に成就をする、それをしないで、あるいはしたと誤認して、人に教えを説く者をイエスは偽善者と呼びました。


マタイの福音書 7章3-5
>また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
>兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。
>見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
>偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。
>そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

マタイの福音書 15章-14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

ラピ。さんの至った所は、もしも人から認められず否定されるようなことがあったとしても、
本人にとって揺るぐことのないものであるわけですが、私も今回ラピ。さんが成就していただけたおかげで、
ようやく次のような聖典も実績として説く事のできる身の上となりました。


ルカの福音書 6章-40
>弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。

マタイの福音書 7章16-18
>あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、
>いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
>同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
>良い木が悪い実をならせることはできませんし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。

(長いので続きます)

7 TK :2013/08/10(土) 10:04:55
(前の続きです)

私は今まで多くの超える手前で、超えたと自らの誤認により教えを説いたりしている人を何人も目にしてきました。

実は私に出会った時のラピ。さんもそのようだったのですが、私にはそのような経験がありませんので、
今までもそのような人たちを目にしても中々力添えが出来ずにおりましたが、ラピ。さんは
そのような人たちに暗闇の中で灯火をかかげる人となれると私は考えています。

言葉に表現するとあと一歩なのですが、この一歩が全く至ると至っていないのとでは違うのです。
その違いを一番よくわかっているのが今のラピ。さんですから。

至った後のラピ。さんのコメントです。

http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1674.html

>はじめの私は師匠に対してかなり偉そうで
>反抗的態度でした、、、。
>(;´▽`A‘‘
>
>だって、私、
>
>自分がすべてを知ってるのだ!
>
>なんて思ってたのですから、、、、。
>(あ〜あ(笑)


次は至る以前のラピ。さんのコメントですが、かなりの自信の持ち主でした。

http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1632.html
>「悟る」ということは「知る」
>ことだと思います。
>
>
>わかってしまえば
>「こんなことだったのかぁ」って思うし、
>当たり前すぎて
>今まで何を悩んでたのか忘れてしまいました。


このような自信満面な人物をどん底、すなわち、その者をこの世界の中で子供を含むどんな人物より一番至らない
愚かな者の立場まで落とさなければならないのです、これは奥義ですが、最後の一歩の入り口はどん底にあるのです。

彼女が聞く準備やその他の準備が整うまでに約4カ月の期間を費やしましたが、飛び越える時は僅か1日で飛び越えましたね。

彼女なら、私に出来なかったことをやれそうな気がします。


『相応部経典』1・4・1・5
>比丘たちよ。私は天界のものであれ、人間界のものであれ、一切の束縛から自由になった。そなたたちも同様に自由となった。
>諸人の利益と幸福のために、また世の人への共感を持って、(天に住む)神々と人間の利益、幸福のために、そなたたちは出かけるがいい。
>
>(なるべく多くの人に教えられるよう)二人して同じ道をゆくな。初めも善く、中ごろも善く、終わりも善く、道理と表現とが備わった教えを説きなさい。
>この上なく完全で清らかな行いを人に示しなさい。
>世間には心の目が(欲望の)塵垢にそれほど覆われていないのに、教えを聞くことがないところから堕落している人がいる。(教えられれば)かれらは真実を悟れるであろう。

8 ラピ。 :2013/08/10(土) 23:13:06
T師匠、ありがとうございます。

師匠は私を師匠のいるところまで完璧に導いてくださいました。

それまでももちろん、実践を頑張ってました。
でもスピリチュアルな教えによって停滞してしてました。

この停滞。
実はその頃、私にとっては実感のないものでした。
師からビンタをもらい、目が覚めたのですが
それまでは自分が停滞してることすらわかっていませんでした。

師の教えはそんな私を確実に導きました。

まだ、この世界で師の言葉が必要な人、たくさんいると思います。

めったにないチャンスです。

悟りを本気で目指してる方、本気であるのであれば
師は答えてくれると思います。

ただ、本気で、本当に本気で挑んでください。

私のお伝えすることが合わない方もいると思います。
なぜなら至る道は一つではないから。

その時こそ、師の言葉が導いてくれると思います。

師匠、ありがとうございます!!

(*・ω・*)ポッ

9 あーみん。 :2013/08/10(土) 23:55:40
ラピ。さんに巡り合えただけでもラッキーだと思っていたのですが、
ラぴ。さんのお師匠様のお言葉まで聞けるなんて、
なんてお得な・・(いや違う!)なんて貴重な掲示板なのでしょうか!!^^
(↑この空気で冗談を言おうとする自分が恐ろしいです)

レベルが高すぎて、私には何を質問してよいかも分かりませんが、
ひとつ、どうしても気になったことがあります。。

(現在、エゴに押し負け続けており、実践の方が遅々として進まない私が
お二人に質問する資格があるのかどうか分かりませんが^^;)

エピ。さんとお師匠様は全てメール(ネット上?)でのやりとりだけだったのでしょうか?
直接お会いになったりすることはなかったのですか?

私が過去に読んだ「悟り・覚醒」等に関する本では、マスターの存在無しで悟ることは
非常に困難であり、ある程度準備が出来たものはマスターの導きが必要になる。。とありました。
中でも、直接そのマスターの「在る」の意識に影響され、弟子が「悟りの一瞥」のようなものを体験し、
その体験により、一気に「目覚め」が深まることがあるとか。。
これもやはり余計な知識なのでしょうか。。?

あ、まあ、私の場合はまだその「準備」すら全く整っていない状態ですので、
もしそういったことが必要になるとしても、実践が順調に進んだ、先の先の話に
なるかとは思うのですが^^;

ふと、ラピ。さんとお師匠様の場合はどうだったのかな?と気になりました。
もし、差支えなければ教えて頂けますか。。?

10 ラピ。 :2013/08/11(日) 07:44:10
あーみん。たん、おはよう!

うん、このチャンスを逃すのはもったいないですよ。
これが最後の最高のチャンスです。
エゴが何を言おうが実践です。ここが分かれ道になります。

残念ながら私たちは 実践をしない人たちの力になることはできません。
自分自身が進むしかないのです。
私たちはきっかけをお伝えすることはできますが、ただそれだけです。

私と師匠のやり取りはメールだけです。
確かにマスターの存在なしで至るのは困難だと思います。

私は師匠に出会う前に ある実践をとことんやっていまして
激流を渡り彼岸に足を突っ込み、また戻ってきた経緯があります。

そして結局 相対的世界に落ち着いて スピリチュアルにはまってしまいました。
そこで長い間停滞していました。

激流の終りまで行きかけたのに、行きかけただけではまったくだめなのです。
確実にわたり終える必要があります。

いくら彼岸に足を突っ込んだと言っても、そこから戻ってしまったのでは
全然ダメで、一度からまたやり直しなのです。

>言葉に表現するとあと一歩なのですが、この一歩が全く至ると至っていないのとでは違うのです。

まさしくこのことです。渡り終えなければ全く駄目です。
彼岸に足を突っ込んだ、だからそれがどうした?それでは意味がない、です。

ちなみに実践をし続けて、光を見たり幸せな気分になって
それで至ったと思う人もいると思いますがこれも全くダメです。

この経験は無駄ではないと思いますが
「その経験、だからどうした?」です。
さらに実践し続けてください。実践ができなくなるまで。

師匠がこう書いてくださっていました。

>恐らく私と出会う前の様々な努力によってかなりメンタルは出来上がっていて、
すなわち「楽」と言うものを実現できていたように思います、あと「理解」したり「屁理屈」、
たとえば「この世界は私だ」とか、「実態が無いのだ」とか「私はあなた」とか、
ちょっと違ったかもしれませんが、この手の類の完璧に「屁理屈」ですね、
そのような屁理屈な低次元に縛られて超えられないで居た、
だから私が手を貸して理解(理屈)と言う低次元行為をすっかりと捨てさせて、
意識の状態が変容するレベルまで超えさせたのです。

まさしくあと一歩、あと一歩のところで停滞していました。
この停滞は私だけでは気付くことはできず
師がいなければ至れませんでした。

「楽」は実現できていましたが、まったくそれでもダメでなのです。
「楽」の実現、だからそれがどうした、まだまだだ!という感じです。
私は単なる低次元、相対次元の屁理屈の酔っ払いでした。

なので、本気で至りたい方に必要なのは
目を覚まさせるビンタだと思っています。
師は私の目を覚ましてくれました。

私が酔っぱらっていることを師は私の文面ですべてお見通しでした。
マスターからしたら至ってないものは 丸見えなのです。

続きます(*・ω・*)ポッ

11 ラピ。 :2013/08/11(日) 07:45:06
10の書き込みの続きです。

>直接そのマスターの「在る」の意識に影響され、弟子が「悟りの一瞥」のようなものを体験し、
その体験により、一気に「目覚め」が深まることがあるとか。。

これについてですが、少なくとも私にそれはありませんでした。

悟りの一瞥は実は私自身の実践で体験しており
確かにその一瞥があったからこそ師の言葉によって導かれ
至ることができたのかもしれません。
(ただ、この一瞥もまれなことらしいです。)

ちなみにこの相対的世界にいる時は
いろんな思考や思いに支配されているので
マスターの「在る状態」に気付ける人はいないでしょう。
悟りの一瞥を得ることは難しいでしょう。

だからマスターはその思考や思い、それらの幻想をぶった切るために
とことん下まで 至ってないものを落とします。まずはそこからです。

>このような自信満面な人物をどん底、すなわち、その者をこの世界の中で子供を含むどんな人物より一番至らない
愚かな者の立場まで落とさなければならないのです、これは奥義ですが、最後の一歩の入り口はどん底にあるのです。

まさしくそれです。最高の奥義です。
これがなければ私は至れませんでした。
この奥義がなければ至れませんでした。

だから私にとって師は必要でした。

大切なのは常に立つ位置を低くし、ひたすら実践です。

あーみん。たん。
厳しいことを言えば、エゴを言い訳にして
実践を怠けてる、私からしたらそうとしか言えませんよ?

まだまだですね。スタートラインにも立ってないです。

だから兎にも角にも実践です。
とことんエゴの声を無視して実践してからですね。

私は師からの「悟りの一瞥」はなかったし、
師のそばにいてあったとしても、至る前の私であればそれを勝手に解釈し、誤解し
受け取れてなかったでしょう。
その一瞥はあってもないことと同じです。

だからマスターのそばにいて同じ時間を過ごしても
次元が全く違うのでマスターのその状態を知ることはできないでしょう。

ひたすら実践をしてある瞬間、空っぽになる時があります。
(エゴの声が静まる時)
これだけではまだ静まってるだけでエゴはいますので至れてないのですが
この空っぽの状態なら、一瞥を味わうことはできるかもしれません。

ただその一瞥は師がいなければできない、ということではないと思います。
ひたすら実践をしていれば勝手に一瞥を経験しているでしょう。

だからまずはとことん実践してその状態まで進んでください。

そして、実践中、何かありましたら掲示板の「悟りを目指している方」に書き込んでね。
その都度、対応できると思います。

私が今回書いたこと、師の書き込みにすべて書かれてますので
じっくり読んでね。
(*・ω・*)ポッ

12 TK :2013/08/11(日) 09:44:52
一言述べますが、書店に行けば、あるいはネット上で、スピ系の本、又はサイト、セッション、
死ぬまで酔わせてもらえるような手段は沢山ありますので、
そのような方には今の時代は願望が手ごろに叶ってとてもラッキーな時代だと思いますよ。

ただし、これはこのサイトを見ている人の中にいないかもしれませんが、
本当に切羽詰まったような人、このような人たちにはかなり厄介な時代です。

何かの高次元の手掛かりがなければアセンションは無理です。

ただし、私自身は僅かながらの聖典を師にしましたので、生きている師はおりませんから、
一般的には無師独悟に分類される事になると思います。

メールと言う手段であろうとも、生きた師なら聖典よりなおいいわけです。

ただし、はっきりと言いますが、生きた人間を師として求めた場合、今は失敗するケースが多いです。

ラピ。さんが運がよかったのだとお考えいただいた方が良いと思います。

今は仏教でいう所の「末法の世」と言う時代です。


まっぽう(‥ポフ)【末法】
仏語。三時の一つ。釈迦の入滅後、正法・像法に次ぐ時期で、仏の教えがすたれ教法だけが残る最後の時期とされ、
一万年の間とする。日本では正法・像法各千年の後、永承七年に末法にはいったとする。末法時。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


つまり確実なものとして教法だけが残っているとされています。

これもとらえ方で、教法だけは確実な手掛かりとなるものがあるのだと捉える事も出来ます。

「私は至りました、本物です」と複数の者が口をそろえてこのように述べても、本当かどうか判断が着きませんね、
忠告しておきますが、実際にはほとんど全てと言っていいほど、期待にかなうものではないと考えて下さい。
もっとも始末に負えないのは、ほとんどの本物宣言は悪気とかそういうものでは無くて、
本人自らの誤認によるものだと思います。

私自身は人を師として求めたら、今の所までは至れなかったと思っています。

その場合、今のラピ。さんの悟りは無かったわけです。

私もネット上で本職の僧の方や様々な方と話をしましたが、未だかって私がまともに対話を交わした人の中で
私の所に至っている人など誰もいませんでした。

適当な事を言われて、成就の印可を授けられたような人も何人もいるようです。

そして、そのでたらめな成就認定をされた人が、また、さらに他を成就認定していく、
この辺りは、「末法」の予言の通りです。

大パリニッバーナスッタンタ 2.26
>それ故に、この世で自らを島として、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、
>法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。


釈迦の遺言は、今の我々に対して末法を予言していたようなものでした。

>レベルが高すぎて、私には何を質問してよいかも分かりませんが、

ここもポイントです、分かりやすいものほど次元の低さの証であり受け入れやすく、
だからこそ外れなのですが人が飛びつきます。

ラピ。さんは実に運が良かった、ただ、それだけだと思います。

13 ラピ。 :2013/08/11(日) 22:31:36
☆ TK師匠  あーみん。たん

はい!
あーみん。たんにお返事した内容は
師が本物であること前提で書いてしまいました。

今のこの世界、本物はほとんどいないみたいです。
偽物に師事してしまうと逆効果ですね。

私が運がいいというのは
TK師という本物に出会えたからです。

もし、偽物に師事したのなら、まったく至ることはできなかったと思います。

でも実は私は師を求めてはいませんでした。

でも縁があって師匠とメールのやり取りをしているうちに、
「ん?これは??」というなにか直感的なものがありました。

私はTK師だからこそ師匠と呼ばせていただきました。

TK師に出会わなければ、私には師はいなかったと思います。

(*・ω・*)ポッ

14 あーみん。 :2013/08/13(火) 01:02:04
ラピ。さん、たくさんのお返事ありがとうございます。
ラピ。さんが辿って来られた道がよく分かりました。。
きっと壮絶な体験も色々あったんでしょうね。。
でも実践が始まったきっかけが、特に出来事があったわけではなく、
ふと自分のわがまま気づいた、それだけです、というところに少し驚きました。
そして、ラピ。さんが実践されて来た長い年月を思うと、
これからの自分の行く道を考えて、つい気が遠くなってしまいますが^^;
もう多分、嫌でもこの道しか残されていないというか、失敗しながらでも進むしかないですね。
実践方法は、皆さんがされているように、そのうち私も私のオリジナルを見つけたいなと思います。
それまで、ラピ。さんのおすすめ「自分を捨てて、喜んで何でもしよう」を
私なりに努力して行こうと思います。

本当にありがとうございます。

あ、もうひとつだけ・・
ラピさんのお返事の最初の部分なんですが、
私は自分の考えが正しいと思って、その正しさを主張したかったわけではないんです。。
ただ、まずは出来るだけ自分の考え方、感じ方を、ありのままに
さらけ出して、ラピ。さんにお伝えすることが必要だと思いました。
私なりの、よかれと思ったやり方でした。
でも、そうですね。。自分の正しさを主張しているような文章になってしまっていたのかもしれませんね。
でも決して自分が正しい、なんて思って文章を書いているわけではないんです。
どうあがいたって「自我」は何が正しいかを判断することは出来ないんだってこと、
本当に身に染みて分かっているつもりです。(ときどき忘れてるかもしれませんが)
でも誤解を生むような書き方になってしまってすみませんでした。

私は少し、悟った方のことを、まるで超能力者のように思っていたようで、
多少文章が変でも、こちらの気持ちを汲み取ってくれるだろう。。なんて、
勝手なイメージを持っていたようです。とんだ勘違いですね^^;すみません。。

あと、私にとっては悟りの道も「スピリチュアル」だと思ってましたので、
解釈の違いという誤解もあるのかもしれませんね。

「誤解」はほんとうにやっかいですね^^;
世の中、この「誤解」さえなくなれば、どんなに生きやすくなるか。。と思います。
まるで罰ゲームのルールを無理やり課せられているように感じます^^
でもやっぱり必要だからあるんでしょうね。いや、意味なんてないんでしたね。
だから人は自分の好きなように意味を付けて生きていこうとするんですね。。
(↑あ、これも「これが正しい」ってことじゃないです。単なる私の考えです。)+

15 あーみん。 :2013/08/13(火) 01:04:54
↑ごめんなさい!板を間違えて投稿しました!
「悟りを目指している方」への投稿のつもりでした!

16 ラピ。 :2013/08/13(火) 03:29:32
あーみん。たん、了解です。

この書き込みを移動させますね!
(*・ω・*)ポッ

17 TK :2013/08/14(水) 11:13:34
さて、この掲示板にもスピ系にかぶれている人がいますが、私もラピ。さんも
ぶっちゃけスピ系をけちょんけちょんにコケにする者の立場をとっているわけですが、
ぜひスピ系で至りましたと言う自称覚者さんがもしいたらここに出てきてもらいたいものだと
思いませんか。

我々にとって悟りとは、何かを理解したり知ったりする事ではなく、
メンタルそのものの機能が変わってしまう事だったわけですが、
当然我は本物ですと言う方が居れば、その方がもし偽物か自らの誤認によるものであれば、
我々と対話を少しすると本当に意識の機能が変容していない方は見事にそれが明らかになってしまう事になります。

我等はスピ系では無い方法で至りましたと言う立場ですから、そのスピ系で至ったと言う自称覚者さんたち、
色々な人のために我等と少しここで話をしてみようではありませんか。

私もそのような自称覚者さんたちと実際に対話してみたいと思います。

どちらにしても、至っていない人たちの大いに力になれる対話になると思いますが、ただし、
いられたらの話しですが。(笑)

ま、いないでしょうけど、このように私がここで呼びかけるだけでも、誰もいないイコール、
スピ系がダメだという事のあかしに繋がって、途中の人の参考になりますね。

私は実際スピ系と言うのは学んでないので良くわかりませんが、
スピ系だったという至る前のラピ。さんを知っているので、
間接的に駄目な教えと位置づけているわけです。

私と至る前のスピ系ラピ。さんとの間では確か、
ラピ。さんはある程度悟りを達成できていると言う認識だったと思いますが、
私にしてみたら、ただの堕落して酔っぱらっている人でしかありませんでした。

酔っぱらって幸せな気分に浸っているというのと、酔いからさめて至った状態とは当たり前ですが違いますね。

精神世界知識を大量に詰め込んで、理解力でカバーできる範囲をうんと広げて、
我々の本当に至った者の変容したメンタルの状態を理解力と知識量で受け答えをして、
例えば自分と言うのは幻です、この世界には実態が無いんです、あなたは私ですとか、
自分は悟った者だとして言っている人、いますよね、これはもちろん本人の悟った至ったの誤認の典型例です。

至った我々は、「理解力」と表現できるようなマインドの次元のものなどないのです。
「理解力」をすっかり捨て去って、バカを極めると我々のようになるのです。
つまり、アプローチの位置づけとしても「理解力を増やすと言うのとは真逆」です。


中部経典 無畏王子経より

>「世尊よ、寸分違わない、鋭い答えでした。
>このような答えは、前から用意するのですか。
>どこまで用意すれば、こんな答えを出せるのか。」
>
> 「王子よ、本質を悟る者は、細部が分かる。
>すべてを用意しなくとも、真実を悟れば良い。
> 真実から辿れない、現実など無いと知りなさい。」

(続きます)

18 TK :2013/08/14(水) 11:14:30
(前の続きです)

ただ言える事は、マインドだエゴだといかにも駄目なもののように言いますが、現実には、
正しい方向でマインドにエゴに、これらを強める事でかなりの幸せを作り出すことが可能なのですから、
むしろ真逆に位置する悟りにはこだわらず、正しい方向でマインド、エゴを大いに強めて、
まず、幸せになれます、これをやってみて下さい。
強める限界まで来たら次に進めばいいわけで、まずは、マインド、エゴを正しい方向で強める事、
私はこれが、スピ系で出てくる「ワクワク」と言う教えに値するものだろうとして、
その「ワクワク」と言う教えを詳しく調べたわけではありませんが、
評価出来るものではないかとの位置づけをしています。

ただ、「ワクワク」で気を付けるのは「正しいと判断できる行為でワクワク」ここがポイントだと思います。
「正しくないと判断できる行為でのワクワク」は駄目です。
ただし、言っておきますが悟りに至る方法は「ワクワク」ではありません、
どちらかというと「ワクワク」とは反対の気分を味わってもらう事となります。


中部経典 無畏王子経より
>真実であって、かつ至福に役立つならば、相手が喜んで聞きたがらないような言葉でも如来は口にする。


「ワクワク」する事をやっていると言う意味では、「理解力」と「精神世間知識量」にものを言わせる、
誤認による自称覚者さん等も、こちらから見たら酔っ払いの集団にしか見えませんが、
それはそれでもまともなのかもしれませんね。
ただし、イエスからは怒られそうです。

マタイの福音書 7章3-5
>また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
>兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。
>見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
>偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。
>そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

マタイの福音書 15章-14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」


スピ系というのは例えば、次のようなものの事を言うのでしょうか。

ニューエイジ - Wikipedia (2013年4月13日 (土) 03:03 UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B8

>すべてでひとつである。
>偶然というものはない。
>弟子の準備が整ったとき、師匠は現れる。
>しなければならないことというものはない。
>善悪というものはない。
>信じる必要はない。
>努力はしなくてもよい。
>与えたものが返ってくる。
>すべてのものは聖なるものである。
>人には無限の潜在能力が備わっており、自分で自分の現実を作る。
>どんな現象も、自分がそれに与える以外の意味を持たない。(現実は中立である)
>アファーメーション(確認する)


かなり、うさんくさい教えですね。
賢者とされる人とかぶるような言葉を巧みに取り入れながら、でたらめな編集をして、
結論として全く使い物にならない酔っぱらうには都合のいい内容です。

こんなものを良く広めるなと、感心します。

魔王サタン、天使の体裁をした悪魔の教えとでも言えばいいのか。

ご都合主義の、理論も何もわかりもしない者が、
賢者の吐き捨てた言葉の種々の階向けの内容をごちゃ混ぜに都合のいい部分のみを寄せ集め、
酔っぱらうための材料に使っていると言う内容です。これでは絶対に悟れません、断言します。

こんなものをベースとして構築された教えは、使い物にはなりません。

ただし、「ワクワク」は用い方を工夫すれば、良いですね。
スピ系でも良いものは良い、私はスピ系を全面否定したくて言っているわけではありません。

19 ラピ。 :2013/08/14(水) 12:55:26
師匠、書き込みありがとうございます。

私もスピ系を全否定してるわけではありません。
スピ系もとことんすれば得るものがあると思います。
(ちなみに私はとことんして、幻想に気づきました)

ただ、スピ系の知識(それが真実であるかは別として)があるだけで
すべてを知っていると思い、
その読んだだけの言葉をまるで自分の真実のように語る人に
違和感を感じています。

私もかつてスピ系どっぷりだったんですけどね、、、。

私もスピ系で覚醒したという人と対話してみたいものです。

あと、スピ系でなくても「悟っている」という人とも対話してみたいですね。

「悟りに至った方たちとの対話」というスレッドを作りました。

ぜひ、「悟った」という方、書き込みよろしくお願いします。

本物の対話をしましょう!
(*・ω・*)ポッ

20 TK :2013/08/17(土) 11:08:29
ニューエイジ - Wikipedia (2013年4月13日 (土) 03:03 UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B8

>すべてでひとつである。
>偶然というものはない。
>弟子の準備が整ったとき、師匠は現れる。
>しなければならないことというものはない。
>善悪というものはない。
>信じる必要はない。
>努力はしなくてもよい。
>与えたものが返ってくる。
>すべてのものは聖なるものである。
>人には無限の潜在能力が備わっており、自分で自分の現実を作る。
>どんな現象も、自分がそれに与える以外の意味を持たない。(現実は中立である)
>アファーメーション(確認する)

この教えの主だった使い物にならない個所を説明しますが、恐らく理論も何もわからない者の手による、
(エゴにとって)都合のいい部分のみのごちゃ混ぜの寄せ集めなのです。

聖典でも、賢者と言う人の言葉の中にも、
実践方法と達成した後の変化した楽な状態と両方の記述が出てくると思いますが、
この編集をした者たちは実践方法ではなく、賢者の言葉の達成した後の楽な状態の記述を拾っています。
例えば次のあたりです。

>すべてでひとつである。
>しなければならないことというものはない。
>善悪というものはない。
>信じる必要はない。
>努力はしなくてもよい。


>すべてでひとつである。

このような言葉を「自分」が消えていないスピ系と思われる方が、
酔って良い気分になって振り回しているのを見たことがありました。
しかし、これは達成した者にとっては「自分」が消えているので、一つなのであり、
聖典や賢者はこれは実践方法としてではなく、達成した後の状態として語っているはずです。

達成する前の者が、自分の遭遇する「現象」と「自分」を対等な位置においていたら、
いつまでも「自分」は無くなりませんので、実践方法としては「現象」にたいして「自分」の立ち位置は下なのです。
「すべてでひとつである。」この言葉は実践方法としての方便ではありません。


>しなければならないことというものはない。

これも達成した後の者はこのようになると言う事であって、達成前の者は、
戒律など守らなければならない実践方法を「自分のしなければならない事として」決めて
確実に実践しなければ辿りつけません。

(つづきます)

21 TK :2013/08/17(土) 11:09:04
(つづきです)

>善悪というものはない。

これも、以前、達成もしていない者が、酔っぱらって良い気分で、「善悪と言うものはない」と
この言葉を振り回しているのを見たことがあります。

しかし、これは厳密にいうと仏罰レベルの行為です、
釈迦の説いた善悪の相対を利用した実践法を無効にしてしまう、悪魔的な内容です。

ダンマパダ183
>すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、──これが諸の仏の教えである。

達成した後の状態として、同じ聖典の次の「善悪のはからいを捨てて、目ざめている人」の説明なのですが、
エゴに憑りつかれている者から、この達成した後の言葉だけが抜き取られたのです。

ダンマパダ39
>心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、目ざめている人には、何も恐れることが無い。


>信じる必要はない。

これも至った後の人の状態であり、これが至る前のスピ系かぶれらしき方の口から
自分が信じないための言い分けとして振り回せれていたように思います。
ちなみにラピ。さんは、「内面にある僅かな疑いも捨てさせて、私を信じる方向性で導いた」ので至れたのです。
至った後は「信じる」対象が無くなるので、「信じる」と言う行為そのものが無くなります。

参考までに次は聖典の至る前の人向けの実践方法の記述。

スッタニパータ184
>「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみをを超え、知慧によって全く清らかとなる。」


次は同じ聖典の信仰を激流を渡るための筏(イカダ)に譬えて、激流を渡ったから信仰(筏)を捨て去れと説いているのです。

スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」


スピ系と思しき至ってもいない此の岸の者が「信じる必要はない」などと口にする事そのものが、
絶対に私は至れませんと言う証明のようなものであり、こちらからすると理論も何もわかっていない
彼らの態度は見るに忍びない。

>努力はしなくてもよい。

「無努力の境地」も、至った後の者の状態です。

スッタニパータ79
>努力がわが(軛をかけた牛)であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば憂えることがない。


聖典並び賢者の言葉をでたらめに拾い集めた結果、中には使えるものもあったとしても、
混ざりこんだ不純な部分が結果として、全体を全く何も使い物にならない内容にしてしまっているのです。
特に私が目にしたスピ系と思しき人たちは、私のここで取り上げた汚れた部分を教えとして
振り回す人を多く見たように思います。

このような言葉に振り回され続けた酔っ払いの方々、ご苦労様でした。
いつまでも寄り道して暇人そうに遊んでいないで、次に進んだ方が良いのかもしれませんよ。
真剣に求める人にとっては、この方々の取っている行為は迷惑千万なのです。

今は科学の時代ですから、昔に宗教と言う形で説かれていたものを、
同じ形ではなく「理論」で説かなければならない時代です。
これが言葉どおりの「ニューエイジ」「新しい時代」です。

>私が話しする事など、何ら変わったことではありません、
>昔の人が当たり前に使いまわした言葉をそのまま同じに話しするだけですから。
>
>苦しみ、努力、我慢、忍耐、厳しい、これらは昔から人間を作る上で必要なものとされてきたと思います。
>
>私の話しするのもこれだけです。
>
>全然変わってないですよね。
>
>そして、何の事は無い、これを積み重ねる事が悟るための方法なのです。

22 ラピ。 :2013/08/17(土) 13:32:44
☆TK師

師匠のこの20、21の書き込みをブログにも転記させていただきました!
ありがとうございます!

http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1716.html


ブログからコピペです。↓


☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆


>ちなみにラピ。さんは、
「内面にある僅かな疑いも捨てさせて、私を信じる方向性で導いた」
ので至れたのです。

>至った後は「信じる」対象が無くなるので、
「信じる」と言う行為そのものが無くなります。


との師の言葉ですが全くその通りです。

私が最後、激流を渡る決心をして
(実はこれは勝手に決心しました)
5月12日の夜から激流に一人で飛び込みました。

そして13日のお昼に師あてにメールで
激流に飛び込んだことを報告し、
そのまま続けて激流へ。(=ひたすら実践)

その13日の晩に至ることができました。



まさしく師を信じて、覚悟の上でした。

未知の世界に渡るのだから
何も予想ができないのです。
保証もありません。

でも師を信じて行く決心をしました。

=ひたすら実践です。


その実践ができなくなるまで
なにがなんでも永遠にし続ける、という
最後の決心でした。


そして至ると、その激流を渡っている「自分」が消えるので
至ったことが師匠に言われなくてもわかりました。

そしてその実践は
本当に最後の実践となりました。


師匠を信じて渡り終えた後は
もう、「信じる」ものがなくなります。

これも師匠の言われている通りです。


私はすべてをなし終えて
至りました。

(*・ω・*)ポッ

23 TK :2013/08/19(月) 12:01:01
真実を教えてスピ系の人たちの少し頭を冷やしてもらいます。

ダンマパダ39
>心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、
>目ざめている人には、何も恐れることが無い。

このような至った人の記述の部分的なものだけを見て、エゴが喜んで「善悪というものはない。」
などの言葉を掴んだものと思いますが、いかに愚行だったかを教えます。

至った後の人の状態の記述は、実践法としては全く何も参考になりません。
なぜなら、「世の中で駄目な人」と位置づけられる人たちと全く同じ表現となります。

例えば次が至った人の状態ですが、世の中で怠惰な人と言われている状態ですねと言われれば、
誰も疑う余地もなくその通りなのです。

「私は頑張る事は無いんです。」

「努力なんてしません。」

「勤め励む事などいたしません。」

「一生懸命に仕事なんてしません。」

「物事に対する集中力なんてからっきしありません。」

「誠心誠意の心を込めた行為なんてしません。」

「善いことなんかしません。」

「人の為になど、何一つしません。」

「思いやりもこれっぽっちもありません。」

「車の運転の時は前をよく見て運転しません。」

「人から注意を受けても反省はこれっぽっちもしません。」

「人を敬う事などいたしません。」

 等々

世の中で悪い見本とされているそのままの表現ですね。
これが至った人の真実です。

しかし、良く見て下さい。
次の「何もできない」と言う表現にすべて一括りにされることを、
今ここで一例として具体的に列挙しただけですと言われて、改めて見ると初めてその通りだなって思うでしょ。


[師匠への報告 (復活版)] by 大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1652.html

>この私はだれですか?
>
>師匠、何もできなくなる、努力ができなくなるってこういうことですか?
>
>何もできないのですが
>この私はなんですか?
>
>師匠、これはなんですか?
>
>と送りました。


アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より

>私は無だ。
>
>何も持たず何も出来ない。だが、すべてはわたしから立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。

(続きます)

24 TK :2013/08/19(月) 12:01:37
(続きです)

為すべきことを為し終えた人の状態です。再び何かを為すという事はできません。
実際には表現にすると、至った人は怠惰な人と同じ表現になります。

でも、至る前の人があの人がそうなら私もそうしようと、真似してやったらバカですよ。
至った人は、実際は周りからは凄く働き者と評価されている行為をしていたり、
何かやれば職人芸ですねと評価されたり、思いやりがある方ですねと言われたり、これが現実です。

このパラドックスが、至った人は怠けている人と同じリラックス状態で、
自分のものでは無い行為のみが現れる、楽していい仕事ができる事の仕組みです。

だから、至った後の人のありさまの記述は、至る前の人には害にしかならない。
次のような言葉を拾い集め流布する事に加担した人たちは、バカなことしたと気づいて下さい。


ニューエイジ - Wikipedia (2013年4月13日 (土) 03:03 UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B8

>しなければならないことというものはない。
>善悪というものはない。
>信じる必要はない。
>努力はしなくてもよい。


怠けている人間の言葉そのものですね、こんな言葉拾ってスピ系とかニューエイジとか流布している人たち、
その人たちは世間に害(酔うための酒)をばら撒いているのです。
至ってもいない人たちがうかつに賢者の言葉に手を出しては間違った教相判釈を積み重ねている、それがスピ系と違いますか。


マタイの福音書 15章-14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

25 名無しさん :2013/08/19(月) 17:55:20
イエスの言う通り放っておこうと思います。

26 ラピ。 :2013/08/19(月) 19:50:54
☆名無しさん

書き込みありがとうございます!

(*・ω・*)ポッ

27 ラピ。 :2013/08/20(火) 23:08:42
☆TK師

私が至った時、はじめは「?」でした。
何が起こったのかわかりませんでした。

実践し続けてある時 すべてが止まったのです。
そしてまとわりつく何かが消えました。

実践していた私は実は本当の私ではなく
その偽の私が消えて、静寂が訪れました。

この静寂の空間と「私」が溶け合ってどれがどれだかで
訳が分かりませんでした。

かと言って混乱することはなく、
ただただその状態でいることしかできませんでした。

実践をしていた私は消えてしまいました。

実践し続けて気が付くと至ってました。

一生懸命実践していると思っていた私。
その幻の私が消えてしまった。

「私」は本当は何もしていなかった。

ただただ在るのみであった。

この静寂、この「私」についてうまく表現ができません。

それはなににも乱されることなく
ただただしずかです。

この真実の「私」はなにもすることなく、
ただ存在するのみ。

集中する対象がないから、集中できず、
でも集中を超えた効果をあげることができる。

良いとか悪いという相反するものを超えているので
その判断なく、適切な判断ができる。

この私は何もしていないけど勝手にできてしまう。

意図なく、勝手にできてしまう。

そんな感じですかね。

(*・ω・*)ポッ

28 TK :2013/08/21(水) 18:39:06
>私が至った時、はじめは「?」でした。

私もその時は「えっ?」てなりましたね。

それは予測もせずにやってくる、それまでは実践時の物凄い「意志力」で、
その調子で行こうとするのに「えっ?」「?」「んっ?」。
「思いが無い」「思おうとしているのに・・・」「できない」こんな感じでしたね。

それからは、ただ生きる事になった。
誰のためとか人のためとかそういうのは一切関係なく。
為すべきことは無し終えた、もはや再びこのような事は、無そうにも為すこともできなくなった、
という事が誰かから印可を受けるとか関係なく必然的に確定したんだ。

再び善行とか人のためとかやれと言われても逆立ちしてもできないのだから、
これが本当の「人のための行為の終了」と言う事なのです。

29 ラピ。 :2013/08/28(水) 14:19:38
☆TK師匠

はい!
私もまさしくそんな感じです。

師匠から 私が至る前にその状態の話は聞いてましたが
まだ至ってないときは単なる想像でしかなかった。

それを理解するためには
師と同じ次元に行かなくてはならない、と思いました。

そして今、まさしく師と同じところにいます!!

TK師匠、師匠の道がどんなもであったのか
可能なところまででいいですので
よかったら教えていただけますか?

いつもありがとうございます!
@(*・ω・*)ポッ

30 TK :2013/08/31(土) 11:52:32
私はたまに思う事があります。

何で科学者と言うそれで収入を得て職業にしている人たちがいるのに、
私が人類の最先端のメンタルのこのような話しをしているのだろうかと。

しかし、私が苦悩しているその時に科学者と言う人たちの言葉の中にも、
当然義務教育とか学校教育の中にも、その苦悩の解決の答えはありませんでした。

これは一般には広がり難い点を含んでいるからなのです。

もし、この内容を話しするための資格制度を設けるとしたら、
これは達した者しか話す事が出来ない内容なのです。

ルカの福音書 6章39-42
>イエスはまた一つのたとえを話された。「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。
>ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。
>
>弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。
>
>あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。
>
>自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、
>『兄弟、あなたの目のちりを取らせてください』と言えますか。偽善者たち。
>まず自分の目から梁を採りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、
>取りのけることができるのです。


立場、職業関係なく、今この物質文明の行き止まりの問題点が、
感受性が鋭そうな人間に先にそれは到来するという事です。

私が苦悩した部分は、物質文明の中で「思いっきり」生きる事さえすれば、
当然に出てくる疑問の数々でした。

快を喜び不快を嫌う、その延長線上で幸せを追い求めたら、
やがて崖っぷちに立たされる。

その先を進む方法が快を喜ばず不快を喜ぶ、物質文明からその先に進む方法、
それがアセンションであり今は過渡期です。

私たちは低次元の固定観念に、そうとは知らずにはまっています。

例えば、皆さんが知らずに使っている、あの人に楽をさせてあげたい、とか、
これは表現を変えると「あの人に楽をさせてあげたい」は「あの人にエゴのままに生きさせてあげたい」
と言う言葉になるのです。我々に翻訳させるとその言葉の正体として生々しい言葉に早変わりしてしまいます。

「あの人を苦しませたくない」は「あの人にエゴのままに生きさせてあげたい」なのです。

快を喜び不快を嫌う、その延長線上で幸せを追い求めるこれが物質文明の正体でした。

(続きます)

31 TK :2013/08/31(土) 11:53:27
(続きです)

よくエゴは悪いものだと、固定観念があるかもしれませんが実際はそういう捉え方は的確ではありません。

実はエゴを正しい方向で強めて幸せを掴む事はある程度可能なのです。

悟りに到達した時の「何じゃこりゃ?何もできない」と言う現象は、
ある地点までは物凄く強固な意志力で激流を進んできて、
その地点に至るとそれまで唯一の頼りとしていた意志力がすっかりと消失してしまう事によります。

それで、意志を働かせようとしても空振りに終わってしまう、
それが悟りに到達した時の「何じゃこりゃ? 何もできない」と言う現象です。

よく悟った人はありのままに見えると言いますが、
これは悟った人の場合は意識の変容による、意志の力が消失することにより、
目の前の光景が開ける状態になる事を指します。

悟ってない人と悟った人では視覚情報が変わるのです。

悟った人の場合、意志の作用が働かないので、目の前の情報がそのままなのです。

悟ってない人の場合は視覚情報を取得する手段として、意志の力が作用しますから、
目の中に飛び込んできている視覚情報の中の見ようとして
意志を働かせているその一部分だけを認識として掴む形になります。

このようにそもそも視界の広さが違うのです。

これが剣禅一致の説明でよく取り上げられる、葉一枚に心を捉えられたら木全体は見えない、
という事の真の意味です。

これは視覚情報だけではなく、物事の捉え方そのものがそのように変容します、
これを意識の焦点機能の消滅と呼びます。

ただし、ある程度まではエゴを強化する事によって悟った人の視界の広さをエゴの人がカバーできます。

つまり、素早くあっちこっちキョロキョロと視点を変えてくまなく見る行為を続ける事によって、
ある程度視界の広さはカバーできます。

ただし、エゴを強化してカバーできる範囲には当然限界があります。

これは、ほんの一例ですがエゴを強める事によりある程度幸せを掴む事は可能なのです。

何も考えないで次から次へと行動のみが現れるゾーン、これも、
エゴを強化して次から次へと思考を速く回転させて行動すればそこそこ満足できる結果を得られます。

私はこれで過去とても幸せな時期を過ごしました。

私は幼いころはいじめられたりする事が多かったので、
私はいつも弱い者の見方だと言う思いが強かったのですが、
弱そうな立場の人を見ると手を差し伸べ、声をかけ、時には派閥を組んで一致団結し、
強そうな立場の者たちを引っ張って、
エゴの強さで困難を難なくクリアーして人から頼りにされながら、
思いっきり理想を実現しておりました。

私は正に弱きを助ける正義の味方で、
このようにエゴを強める事である程度まで凄く幸せな気分に浸る事が出来たのですが、
ただし、これをとことん精一杯やっていると、
やがてエゴを強める事ではどうしても進む事の出来ないとても困難な障害に突き当たり、
進める事の限界が来るのです。

その時に、色々右往左往苦悩と混乱が起き、
エゴを強て進める事のそれしか問題解決の手段を知らないその限界の中、
七転八倒の袋小路で、何かが自分には足りない事に気が付くがそれが何かわからないまま、
やがてもがく中で知らない内に運よくエゴを捨てる道を歩き始めていて、そして悟りに到達する。

それを境に、剣禅一致でいう所の禅の部分、すなわちメンタルが修得されたことにより、
あるがままの視界の広さや、それまで身に着けていた技術力、
人間の能力の出力もゾーンにより今までよりも数段上昇し、
エゴが無い(意志の働き消失)のでストレスや苦悩もなくなることになります。

新人類、これがアセンションです。

これは私が辿ってきた進み方ですが、ラピ。さんもおおよそそのような進み方をしてきているのです。

ラピ。さんと私の違いは、ラピ。さんは此の岸から彼岸にちらっと片足を突っ込んで、
そのまま直ぐに退転してしまいスピ系にはまって酔っぱらって寄り道をしたと言う点でした。

(続きます)

32 TK :2013/08/31(土) 11:54:11
(続きです)

悟りに向かうためには、「強固な意志の力」が不可欠の要素ですので、
意志の力とはエゴなのです、つまりエゴは正しい方向で強めておく必要があると思います。

弱い意志力では状況に流されてしまいます。つまり、カルマのままという事です。

このようなことから、エゴは強まり、どうにも進めなくなった天辺まできて、
それより先に進む事の出来ない苦悩と大混乱の末に、もがき苦しんで悟りが起きる。

ダンテス・ダイジと言う人が言ってましたが、社会もまったく同じにこの過程をたどる事になりますね。

アメジスト・タブレット・プロローグ ダンテス・ダイジより

>あらゆる人間性内部のやりくりが、必然的限界に至らざるを得ないように、
>科学文明も明らかに限界に達している。


快を求めて不快を除き、自由と言う名でエゴを強めるこの物質文明も、
発展期において実に快適な天国的な様相を示した時期もあった事でしょう、
しかし、一人の人間の中でエゴの強まりにも限界があるように、
この社会もエゴを強めて解決できる限界に来ています。

社会の混乱は今後ますます強まって行く事でしょう、今起こっている経済、
国際紛争など様々な諸問題を、それをエゴを強める事によってエゴの力で解決しようと、
例えば武力行使などの力(エゴ)を手段にあの手この手、
迷路の中を人類は右往左往しながら、
エゴを強めてその力で解決できる限界の袋小路まで突き進み、
時には戦争や核兵器などをも駆使しながら、さらなる限界にまで突入していく、
それは正に悟った水準を上げた人たちの登場と言う以外に解決がないところまで追いつめられて、
もうお終いだと言う中から悟ったアセンションした人類が多数出現してくる、
このような筋書きで進むのが自然の進み方だと思います。

アセンションした人たちは、能力から視点から何から何まで、それまでの人より上ですから、
多数になれば、諸問題は解決されていくことでしょう。

これは不幸な世の中と捉えるより、
最初から仕組まれていると言ってもいいような当然の道筋だと私は思います。

(続きます)

33 TK :2013/08/31(土) 11:57:45
(続きです)

悟りは、快を喜ばず不快を喜ぶ、
物質文明の追ってきたそれとはまるで正反対の理論の中から出現します。

実はイエスは、このような社会の中のエゴの強まりの流れをつかんでいて話をしています。

イエス本人はユダヤ教のエッセネ派の人と言われていますが、旧約聖書には、
ノアやソドムとゴモラ等の繁栄と滅亡の社会を通したエゴの増大と滅亡の動きの話が出てきます。


>ノア
>(Noah)旧約聖書創世記の洪水伝説に出てくる人物の名。
>神が堕落した人類を滅ぼすために大洪水を起こしたとき、
>ノアだけは神の命令で箱(方)舟をつくり、家族や諸種の動物とともに難を免れた。

>ソドム
>(Sodom)「旧約聖書」の「創世記」に記されている地名。住民の不信仰、
>風紀の乱れがはなはだしかったために、
>ゴモラとともに神に滅ぼされて死海に没したという。

>ゴモラ
>(Gomorrah)「旧約聖書」の「創世記」にみえる地名。ヨルダンの低地、
>死海の南端付近にあったが、現在は湖中に没している。
>住民の不道徳な行為のため、ソドムとともに天の火によって焼き滅ぼされたと伝えられる。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


ダンテス・ダイジ氏はアトランティスの繁栄と滅亡の話しをしてましたが、
だいたい現代の社会と同じ流れ、
すなわち文明のエゴは増大しやがて滅亡する流れを辿るのがこの地上の方程式であり定めです。

(続きです)

34 TK :2013/08/31(土) 11:58:30
(続きます)

マタイの福音書 5章21-22
>昔の人々に、『人を殺してはならない。
>人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、
>だれでもさばきを受けなければなりません。
>兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。
>また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。


これは過去の物質(物理的)時代からメンタル時代へ変遷したことの説明の一つです。


マタイの福音書 5章38-39
>『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
>あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。

『目には目で、歯には歯で』実はこれ、今で言えばアメリカなんです、
今はアメリカの時代ですから、やられたらやり返す、正義の名のもとに、
世界はこの方向で今に至っていますが、これがエゴ増殖の原理なのです。

「正義の名のもとに」、この方程式でエゴを強めて今に至っています。

社会の中の規制を外して一人一人の競争を強め、
これも「目には目」物質時代の発展期では功を奏でた手段だったことでしょう、
しかし、いまは天辺の限界近くまで行ったので行き詰まりました。

>しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
>あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。

これが、イエスの教え、つまり物質文明の天辺まで来たその先の進み方、
エゴを削る次元上昇するための原理なのです。


マタイの福音書 5章43-44
>『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』物質文明のエゴ増殖の発展の仕方は「正義の名のもとに」です。

このあたりはアメリカを想像して下さい。得意な言葉は「報復(正義の名のもとに)」です。

ただし、力(エゴ)を強める手段は途中は良くてやがて天辺まで行ったら袋小路に追い込まれる、
この地上世界の昔から定まっている決まり事なのです。

>しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

イエスの話したこの方法が、物質文明のエゴ増殖の発展の末に天辺に至ったその先の進み方、
エゴを削るため原理、次元上昇のための手段です。

時勢(エゴ増殖)は煮詰まりつつあります、
この先の時代を進む方法はこれまでのエゴ増強ではだめです、アセンションなのです。

マタイの福音書 5章17
>わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。
>廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

私も他の方々も今このエゴ(物質)文明の記念すべき過渡期に縁があったという事です。

私やラピ。さんは一足お先にアセンションを果たしましたが、皆さん、
この時代に生を受け生きている事に喜んでアセンションしましょう。

35 ラピ。 :2013/09/01(日) 00:20:52
☆TK師

大変貴重なお話、ありがとうございました。

過去の酔っ払いの経験、活かしていきたいと思います。

もう、ブログでも何度かは表現していますが
過去の私のような人がいたら
何かを伝えることができるのではないかと思っています。

そしてその言葉はまさしく
過去の私に対して発する言葉でもあります。

@(*・ω・*)ポッ

36 TK :2013/09/01(日) 18:15:13
私は以前は今のアメリカのような生き方をしていました。

力こそ正義だ、力さえあれば弱い人たちでも強い者たちと同様に、
集団の中でも自分の理想を実現できるに違いない。このような理想の元に、
私は力の無いと思われる人たちに力添えしてこれを実現しておりました。

これも「人の為」と言う生き方の理論は入っているのです、
ですがなぜこれが私がここで説く「人のため」と言うものと違ってエゴが増強するかと言うと、
弱い立場と強い立場と言う相対の関係の中の、
強い者に挑んでいくと言う姿勢があるのです。つまり、戦いの世界、阿修羅の世界です。

「正義の名のもとに」戦う、聖戦、これも正に阿修羅の世界です。

今、社会はアメリカを初めこのような次元にありますね。

もちろん文明の発展段階としてこの戦い(競争)阿修羅の段階は必要なものであると私は思います。

これを充分にやったら次に進む、
その意味で「正義の名のもとに戦い」聖戦は決して文明の発展段階の途上としては間違っていない。

ひたすら「聖戦」を否定する人もいますが、
私は自分自身の今に至るまでの発展段階に照らし合わせると、
エゴを正しい方向で強めるために必要な過程であったと思いますので、
私は今の世の中のありさまを否定しません。

ただし、やがて行き詰る、社会も行き詰り、もがき苦しむ、そうしたら次が開く。

実は、ラピ。さんの「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」これは、
教えとしては完璧なのですが、
これが実践当初は劣った精度と低次元理解に基づく実践だった事により、
メンタル面の作用としては、理想的な生き方の要素が強くなり、
エゴを正しい方向で強める手段として作用した訳ですね。

したがって、やがて行き詰り、追い詰められて混乱に突入した。

悟りに至るためには、この過程の全てが絵に描いたようにヒットしていましたね。

実践方法については、ここでお話したように、ちょつとした僅かな実践上の違いで、
効果の仕方が変わったりする精密機械のような要素があるのです。

ですので、先にお話ししましたスピ系で賢者の吐き捨てた言葉をごちゃまぜに拾い集めた結果、
例えば9個の賢者の使える言葉があったとしても、
1個の不適切内容が混ざってしまう事により全体として全く使い物にならない、
ただの酔っ払いを多数製造する結果に至ります。

したがって、何度も話しますが、盲人が盲人の手引きはできない世界なのです。

(続きます)

37 TK :2013/09/01(日) 18:15:58
(続きです)

よくスピ系では、ただ内面を見守ってとか、そういう手段が多いですね、
しかし、釈迦、イエスは他者への率先した働きかけの教えが含まれています。

「隣人を愛せよ」とか「人の為」とか「善を為せ」など、これは道徳論ではないのですよ。
さらに「努力、我慢、忍耐」このようなことはスピ系にはあまり出てきません。

釈迦やイエスより優れた指導者がスピ系にいた結果、
スピ系では内容が変わったのでしょうか、しかしこれは否です。

「自分と他者」「善と悪」などの相対の原理と言うメンタル理論の上で
スピ系の教えが至るための方法論的に釈迦やイエスの教えに及んでいないのです。

「努力、我慢、忍耐」、このあたりも、どのような時にこのような感覚が発生して、
メンタルに対してどのような効果があるか、
スピ系はメンタルに及ぼす効果を理論的に何もわかっていないのです。

しかし、優秀なスポーツ選手が容易にゾーンに入れるメンタルの修得にあたっては、
大部分がこの辺りの影響です。


ラマナ・マハルシ - Wikipedia(2013年6月6日 (木) 08:33 UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B7

>マハルシは、真我を悟るために、
>大部分の人は継続的に努力して修練する必要があると説いている。
>マハルシのように今世で修練なくして悟る魂は稀で、
>今世で悟ったものは肉体を去るまではプララーブダからくる、
>残りのヴァーサナが除去されない限りは完全にならないといわれている。


マハルシは修練なく至れた「今世の稀」と言う表現に属する人なのであって、
スピ系はマハルシが大部分の人に必要だとしている、
「継続的な努力と修練」のメンタルに及ぼすメカニズムを理論的に何もわかっていない遅れた教えです。

つまり、一言でいうと、スピ系はレベルとしては幼稚です。

真実をはっきり言いますが、
スピ系のあのような教えでは酔っ払いになるのが関の山で悟れはしない、
そんなに甘いものでは無い。

一方向だけからではなく、
様々な角度からアプローチをかける合理的な手段を取らなければ、
スピ系のような遅れた方法で至れるほどエゴはそんなにたやすく料理できるものではありません。

たまに至った賢者らしき人の教えを目にすることもありますが、
この辺りの方法論は釈迦やイエスの教えには及ばない部分を感じます。

現代のどんな賢者であろうと、釈迦やイエスと比較する自身、恐れ多いことですけどね。

アメリカの自由の女神も今のままのエゴ増強のシンボルとしての機能のままか、
それとも彼岸に至った「自由」のシンボルに昇格するか、過渡期ですね。

エゴは相対次元であり、エゴの自由は「不自由」と一対である、ですから、
「自由を排除」して「不自由を利用」する事でエゴを滅ぼした時には本当の「自由」が手に入るのです。

高いレベルの絶対的な自由を手に入れるためには、
低次元の「自由」は滅ぼさなければならないものの一つ、
これが滅ぼされなければ次は出てきません、
喜んでしがみついて追い求めてはならないものの一つなのです、
「不自由こそが」低次元の自由を滅ぼす「手段なのです」。

これからの進み方は今までの物質文明の時代とは違います、
これより先を進むためのアセンションのための理論ですから良く覚えておいてください。

38 ラピ。 :2013/09/01(日) 22:38:12
☆TK師匠

師匠、いつもありがとうございます。

それでは私の道についても少し詳しく書こうと思います。
今までも軽くは何度か書いてるとは思いますが。

内容は独特なので、読んでて「嫌だな」と思ったら読むのをやめてくださいね。

私の最初の「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」の実践は
それまで我がままに生きていた自分を反省し、
「そういう私はどう生きたらいいか?」と問うた時に得た答えでした。

実はこの実践が「自分」を守ってくれる実践であることも気づいてました。
だからとことん実践できました。素直に自分を捨てることができました。
あとはひたすら実践でした。

この実践は「自分を信じて実践」とも言えました。
自分を信じて実践し続けました。
だから実践を続けることは「自分を信じ続ける」ことになりました。

「自分を信じ続ける」ことによって「自分」というエゴが増強されていきます。

この実践の意味も知らず
ひたすら「そうするべきだ。それ以外の生き方はできない」と実践しました。

そう生きていると、「ぼー」っとした生き方はできません。
そしてもう前の行き方には戻れませんでした。

それまで無意識に好き放題に生きてたことが
どんな風だったのか、わからなくなったからです。

その実践をする前の生き方にはもう戻れませんでした。

なので、もう進むしかありませんでした。
かといって辛いわけではなかったです。

ただ、人となじめない感じはあったかもしれません。
そんな生き方をしている人は少ない。
普通の人は嫌なものは嫌だと顔に出したり、嫌ならしなかったり。
でも そういうある意味自分の感情に正直な生き方が私にはできなくなりました。

というか、自分のその時の感情がどうなのかもわからなくなっていたかも。
感情すら捨てての実践ですから。

ここがメンタルの鍛錬につながっていたのかもしれません。
勝手にそういう道を歩いていたようです。

私が高校のときに言われた最高のほめ言葉があります。
「いいなぁ。悩みなさそうで。」これです。

そう言われてみれば意思をほとんど実践に使っていたので
悩む時間(意思)はあまりなかったですね。
かといって悩んでいなかったとは言えないかもだけど
そう友達に見えたということは、私の実践はある程度成功していたのだと思います。

そして大学生になっても変わらず実践。

そしてこの実践をしていて ついに師匠のいわれているとおり
行き詰まってしまい、どうしようもなくなります。

その生き方を否定される出来事が起こったのでした。

自分そのものが否定された感じでした。

私はその生き方で生きていたので
その生き方を否定されたら、どう生きていけばいいのでしょう?

大げさかもしれませんが私はそれほど自分を信じてとことんやっていました。

とことんやっていたからこそ その否定された出来事は
私の人生そのものを否定することなり、
私はどう生きていけばいいかわからなくなりました。

その実践が自分の生きている証のようなものだったのですから
もう生きてはいけないでしょう?

自分を信じての実践=エゴを信じての実践。
そのエゴを否定される出来事が起こってしまった。

、、大げさですね。でもそのときの私にとってはそうだったのです。

自分が信じられなくなり、普通の生活ができなくなってしまった。

どう笑っていたかも、どう動いてたかもわからなくなってしまった。

何を元に私は生きたらいいのかわからなかった。
(エゴの次元では 生きるために生きる理由が必要だったりします。)

続きます。

39 ラピ。 :2013/09/01(日) 22:39:24
38の続きです。


そこで第二の実践に出会います。
もう何もなかったので 次にこの実践が次の私の生き方そのものとなります。

ちなみにこの実践中もそれまで普通に考えなくてもできていたことが
できなくなっていました。
常に意図的にやっていくしかなかった。

今まで(習慣のように)当たり前にしていたことを
すべて自分の意思でしていくしかなかった。

とことん意思を振り絞っての毎日でした。

ちなみにこの実践は「能力開発」の目的で始めました。

自分の生きている意味がほしかったのでしょう。

それまでの「喜んで」の実践は自分を信じての実践でした。
第2の実践の頃は自分を信じることがほとんどできなくなってました。
でも、でも、今思い出すとやっぱり自分を信じていたからこそできた。

ほんの一ミリの自分を信じる気持ち。
どんなに否定されても残っているそのひとかけら。
ひとかけら、それだけでいい。
「私がやらなくて、誰がやる。私は私からは逃げられないのだ」
というもう逃げ場がない状態で
そのひとかけらの信念がなにがあっても実践を続けさせてくれた。

このひとかけらのエゴが私を助けてくれた。

そしてどんなときも実践でした。まさしく寝てるとき以外は何が何でも実践。

実践を忘れそうになったらすぐに意識を切り替えて実践。

息をすることと同じくらい、ひたすら実践でした。
息をするのをやめたら死んでしまうでしょう?
私にとってこの実践をやめることは「生きていけないこと=死んでしまうこと」と同じでした。

生きるために実践したのです。

(ちなみにこの実践の内容は私からはお伝えすることはできません。
かといってこの実践の情報は巷でも普通に手に入れられるものです。
普通の能力開発の実践だと思ってください。

ただ何が違うのかというと、それを中途半端に実践するか、とことん実践するか、それだけです。

ポイントはどんな実践も「とことん」することです。
そうすれば必ず得るものがあります。
中途半端では空振りで何も得るものはないでしょう。

どんなすばらしい教えも、実践しないと意味がない。
そしてどんな勘違いした実践でも自分が正しいと思ったらとことんしてみることです。
とりあえず実践です。)

私はもう、ある意味、命がかかっていたので進むしかなかった。
(ここで言ってる「命」もある意味エゴのことです。
それがなければ生きていけないなんて、至ってしまえばそういうことはありません)

だからその実践ができたのだと思います。

私はかなり、厳しい道を歩いてきました。

でも嫌々、仕方なく通ってきたのではなくて私にとっては
「その道しかなかった」のでした。

それ以外の道はないので何があってもいくしかなかったのでした。

そしてさらにこの第2の実践も行き詰まりをむかえます。

ある意味、ここで第2の実践もできなくなりました。
したくてもできない状態です。
もうできなくなってしまったんです。

実際、第4の実践のときにこの第2の実践の経験を生かしてはいますが
まったく同じには実践できていません。
でも工夫してポイントをずらして実践しました。

でも、このときは自我がなくなることはありませんでした。

実はさらにそのまま行けば消えてたのかも知れない。

でも、私をこの世界に踏みとどまらせたものがありました。


続きます。

40 ラピ。 :2013/09/01(日) 22:40:23
39の続きです。


それがこの世界での普通の幸せです。

今まで実践し続けたことは終えて
「もういいやろ。十分」という自分がいました。

だからもう、後はこの世界でみんなと一緒に普通に笑ったり泣いたり
普通に幸せになりたい、という気持ちでした。

だから必死に此岸に戻ってきました。

人間らしく生きたい。

悩みがあっても泣いてもそんな人生もいいじゃないか。
普通の人間になりたい。そう思って帰ってきました。

「神様、もう許して。もういいじゃない。」

そして今度は「絶対的幸せを求めることになります」
第3の実践です。

ここで矛盾を感じる方もいるかもしれません。

でも私は大真面目でした。

人並みの幸せでいいと思いながら絶対的幸せを求める道を歩き始めます。
人並みの幸せこそが最高の幸せではないのかと思っていました。

ちなみに私にとってこのころの憧れの幸せは
みんなと冗談言って笑ったり、カフェでお茶したり、
おでかけしたり、おしゃれを楽しんだり
という普通の女性の生き方でした。

女性の読む雑誌などもまともに読んだことがなかった。
(占いの本は好きでしたが)

おしゃれな雑誌、きらきら輝いている女性、
私、そういう風にいきたいと思い、そう生きていくことにしました。
そしてもちろんそうであるよう生活していました。

でも実は無理やりそういうことに興味を持つようにしてました。
みんなが普通に経験してることに憧れていたのですね。
そしてみんな普通に幸せに生きていると思ってました。
私にはその普通の幸せがない、と思ってたので
そういう一般的に「楽しい」と言われていることを片っ端からやっていきました。
実は無理やりそうしていました。
一般的に「楽しい」と言われていること、それを経験するように日々をすごしました。

「これが楽しいことなんだ!」と自分に言い聞かせながらしていたかもしれません。

それと同時に、「絶対的幸せ」への思いも強くなります。
やっぱり私の根本的課題なのでしょうね。

この人間らしい幸せに絶対的幸せが必ずあると思ってました。
まさしく自分がいるこの世界に「絶対的幸せがある」と思ってました。

ここでの「人間らしい幸せ」も「絶対的幸せ」も此岸のレベルでの話です。
此岸の人が表現することは此岸レベルです、どうやっても。

今の私の状況は、
かつての私が思い描いていた幸せとはまったく違ってます。

だからまだ至ってないときに想像する幸せはどう考えても
その次元どまりでしか思い描けないのです。

更なる次元の幸せは、そこに至ってない人には想像できないのです。

だからまだ至ってない人が至っている状態をどんなに想像しても
まったく真実とは異なったものになるでしょう。

この至った状態を知りたいのなら至るしかありません。

次元上昇しかありません。

至ってない人が至った状態を想像しても
それはまったく間違ったものになってしまいます。残念ですが。無駄です。

私が両方を経験してますので断言できます。

そしてその想像を伝えることは
間違いを伝えてしまうことになります。

ちなみに こういう想像をある程度有名な人がもっともらしく言うと、
多くの人に間違った影響を与えてしまうのでやめてほしいです。

私はかつては「絶対的幸せならこういう感じだろう」というのを
ブログに書いてましたが
これもまったく見当違いのものでしかなかった。

その次元どまりのたんなる妄想でしかなかった。
真実ではなかった。

真実を語りたいのなら真実になるしかない。

真実になってない人が真実は語れません。

そして師匠に出会います。
師の元に行く決心をし、第4の実践へ。

これは第2の実践の経験が役に立っています。
第2の状態を思い起こし、さらに実践しました。

彼岸へあと少し。

そのあと少しが次元が違うので、だからまったく違う。
距離としては短くても目の前に大きな激流があるので
大きな大きな大きな隔たりがあります。

そこをわたらなければ目の前の彼岸に渡ることはできません。

私は彼岸を知りながらも至れないでいました。

知っていてもそのものになっていないからまったく問題外なのです。
だから「かつては彼岸に渡りかけたんだ!彼岸を知っているんだ!」
と言ったとしても 渡り終えてなければ
「だからそれがどうした?」ということになってしまいます。

彼岸を少し経験していても
まだ此岸にいるのなら彼岸を語ることは間違いを語ることになります。

@(*・ω・*)ポッ

41 TK :2013/09/14(土) 12:52:39
ワクワクの教えについては、私自身はあの教えより上の存在ですので、
一応お話だけしておきますが、
我々から見たらバシャール星人はワクワクするしないに縛られた不自由極まりない世界の生き物なのです、
私はそういうものを超えた自由を得ている、その次元より上の次元にいます。

皆さんのあこがれのバシャール星人を見下すようで悪いのですが事実です。

ただ、ワクワクの教えはスピ系の中では良い教えだと思います。

スピ系には珍しい積極性の教えですし、
エゴのままに思いっきり生きる事は人間として必要なプロセスだと思います。

それをしないで、スピ系だの悟りだのと言っても、その人たちはやはり駄目ですね、
最後まで酔っ払いのままで一生を終えるのだと思います。

ただ、ワクワクをやるのなら、正しく実践、つまり、
他のスピ系の教えと一緒には食べ合わせをしないという事です。

ごちゃ混ぜで食べるとその人は死ぬ最後まで酔っ払いのままで生涯を終える可能性が高いのです。

色々なもののごちゃまぜではなくて、ちゃんとした教相判釈(順序立て)をして下さい、
手を抜けばいいと言うものではありません、怠惰になるのもいい加減になさいと言う所です。

以前の私が今で言うワクワクの実践をそのままやってましたから、
この実践の重要性は良くわかります。

ただし、思いっきりやればこの物質世界ではやがて行き止まります。

私が思うに、バシャール星人の世界は、私たちの世界と根本的な部分で相違があります。

ですから、バシャール星人が言う事がそのまま私達には当てはまらな部分があると思えます。

我々の環境よりワクワク(思い)を通せるバシャール星人の方が良い環境に見えますか、
ところがどっこい、
実はバシャール星人よりこの我々の環境の方が高次元にアセンションするための
要素がそろっているアセンションするためには遥かに優れた環境なのです。

だから私もワクワクするしないの不自由な世界より上の次元にアセンションして、
バシャール星人を超えてしまいましたよね。

私の方がワクワク星人より上なのですから、
反対にワクワク星人に教えを説ける立場なのですが、実は説ける教えは、
どうぞ、ワクワク星で天寿を迎えたら次は我々の環境に転生してきて下さい、
ここにはあなたたちバシャール星人の環境では得られない、
さらに高次元に行く事が出来る優れた環境が整っているのですと言う教えになると思います。

(続きます)

42 TK :2013/09/14(土) 12:53:19
(続きです)

私が思う所に間違いが無ければ、恐らくバシャール星人の環境では、
私の所までアセンションすることは不可能です。

つまり、ずっとワクワクするしないに縛られたままの環境と言うわけです。

我々の住む物質世界の顕著な特性は、
「思いが実現しにくい」と言う点に尽きるのですが、
例えばこの物質世界の人間も死んで肉体を離れてアストラルに入ってしまうと、
思いは即実現のような思いの実現率の高い世界に入ってしまうのです。

これと同じ事で、
恐らくバシャール星人の住む環境は我々の住む物質世界より思いの実現率が高い世界のように思われます。

例えば我々の物質世界であれば、思いを伝える主な手段として、
まず話そうと思い、物質的な声帯を動かして空気を振動させ、
更に離れている人であれば電話機などの機械を利用してようやく対話して相手に思いを伝える事が出来る、
これが我々の住む思いが実現しにくい物質世界なのですが、
例えば我々も死後多くの人はアストラルへ行きますが、
ワクワク星も同様に思いが実現しやすい世界では、
思っただけでテレパシーのように相手に思いが伝わってしまうような状況になるのです。

思いが実現しにくいと言う特性を持つこの物質世界に対して、
恐らくワクワク星の環境はアストラルの世界のように、
思いの実現率が高い環境だと思われます。

ですから、ひとたびワクワクしたことをし始めれば、ほとんど障害無く、
そのワクワクのままでずっと進んでいけるのではないのでしょうか。

あるいは、今の我々の世界を物質文明の末期とすれば、
物質文明の発展期のようなワクワクをそのままずっとしていけるような環境か。

アセンションのための重要な環境は、
この物質世界の「思いが実現しにくい」と言う特性の部分にあるのです。

この物質世界の実践では「思いが実現しにくい」と言う物質世界の特性を有効に利用する事によって、
「思い」から離れる事で達成できるのです。

例えばアストラルのような思っただけで相手に思いが伝わってしまったり即実現する世界、
あるいはバシャール星人の環境のような思いの実現率の高い環境では、
「思い」から離れるための実践は不可能なのです。

このような環境ではさらなる高次元へのアセンションは逆立ちしても不可能です。

ですから、昔から、人間はより高次元にアセンションする事が良しとされるが、
反対に天の神々は、
さらなる高次元にアセンションを果たすためにこの物質世界に転生して思いが
実現しにくいと言う特性を充分に生かして「思い」からの解脱を果たし、
より高次元へのアプローチを試みるのだと言われていますね。


如是語経
> このように聞いて、ある比丘は世尊に次のように申し上げた。
> 「尊き師よ、諸天神にとってよい境涯へ往く、と言われるのは、一体いかなることでしょうか。
>また、尊き師よ、諸天神にとって善い所得を得る、と言われるのはいかなることなのでしょうか。
>さらに、尊き師よ、諸天神にとって、きちんと安定した、と言われるのは、どのようなことでしょうか」
>
> 「比丘たちよ、人間の状態こそが、諸天神にとって善い境涯へ行く、と言われるものである。
>また、人間となって、
>真理の体現者が説いた教えと僧団の規定とに信仰を得るならば、これが、
>比丘たちよ、諸天神にとって善い所得を得る、と言われるものである。

(続きます)

43 TK :2013/09/14(土) 12:53:58
(続きです)

この我々の住む物質世界はバシャール星人とは比較にならないほど、
高次元にアセンション出来るための環境が整っているのです。

実は私はチャネリングの事を、イタコと呼んでましたが、
この行為は低次元に人間を縛り付けるクソくだらないものの一つという事を知ってましたので、
ラピ。さんにはそれを魔境だから無視しなさいと教えました。

低次元の教えはチャネリングで手に入れられると思いますし、
実は私自身がワクワクの実践に入る時にはチャネリングに近い手段(私は霊視、霊聴と呼んでおりました)で
教えを取得いたしまして、当時はとても高貴な教えに思えておりましたが、
それがほとんどワクワクに近い教えで、生きがいも感じてうまく行っていたのですが、
やがてものの見事にぶつかりました。

本当のアセンションするための高次元の教えは聖典から手に入れたのです。

自分がいて高次元の意識体がいてパイプ繋げて、これやっているうちはその人は低次元のままです、
これ偶像崇拝の一種です、そのパイプを有難がってすがっている人間は駄目です、それまでです、
釈迦やイエスの教えはこの手の類の全てのパイプを捨て去りなさいと言う教えなのです。

自分の外にはそれは無いのです、自分の外とパイプ繋げて、自惚れて、
世間に害をたれまくって、その人たちはいい加減に目を覚ましたらどうでしょう。


ルカの福音書17・21
>『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。
>いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

最終的には釈迦もイエスも捨てて行かなければならない、そしてそれがその人たちの教えなのです。

優れた教えがあるのは、人間の覚者の説いた教えの中にあるのです。

正しい教相判釈の元に順序だって進む事には価値がありますが、
ごちゃ混ぜは駄目です、死ぬまで酔っ払いのままで行きたいですか。

(続きます)

44 TK :2013/09/14(土) 12:54:34
(続きです)

なぜ物質世界は素晴らしいのかと言うと、
我々が実践できる環境が整っているだけじゃない、
高次元にアセンションするための賢者の教えが手に入れられやすい。

賢者は死後物質的な肉体を離れたら、別次元に行くのですよ、ところが、
賢者も物質的な肉体を持つ上では、
どんな低次元の者とも容易に接触し言葉や文字などの物質的な伝達手段を通して交流が容易ですよね。

例えば我々も釈迦やイエスから直接の言葉では無くて、
その賢者たちが物質的な肉体をまとって生きていた時に残した言葉、
即ち聖典を通してその人たちの言葉に触れる事が容易に可能です。

私も肉体がある上では、
たとえ地獄に落ちる定めの人とも同じ環境で過ごしていますし、
この物質世界と言う所は異次元の者どおしの交流が容易なのです。


アメジスト・タブレット・プロローグ ダンテス・ダイジより

>人間の側から見れば、
>覚者と凡人の差異は、
>海の大波と小波程度のものにすぎない。
>霊の側から見れば、
>覚者と凡人との差異は
>月とスッポン以上のものではあるが、
>覚者の側から見れば、
>覚者と凡人の差異なぞ
>あったためしがない。


高次元の手掛かりが無ければ、
低次元の者がアセンションすることは不可能なのです。

ルカの福音書 6章-40
>弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。

マタイの福音書 7章16-18
>あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、
>いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
>同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
>良い木が悪い実をならせることはできませんし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。


その意味で我々の住む物質世界は、
バシャール星人よりより高次元にアセンションするには遥かに特化した環境なのです。

とにかくまずは、思いっきりワクワクを実行してく見て下さい、
バシャール星人のアセンションの為には劣った環境とは違って、
直ぐにワクワク(思い)通りにはいかない、
この物質世界特有の特性にぶつかる事が出来ますから。

そこまできてようやく、
この物質世界の賢者である釈迦やイエスの教えの扉を開く位置に立てるのです。

この相対次元の物質世界では、ワクワクする事を選択するという事は、
同時にワクワクしない事から逃げることを指しています。

ですから、この物質世界ではワクワク(思い)は直ぐに袋小路に追い込まれ、
その後の教え、
ワクワクしない事に対して「意識的に無理やり」ワクワクして(喜んで)実行する、
釈迦やイエスの教えが出てくるのです。

バシャール星人と釈迦やイエスの教えの違いは、
バシャール星人がワクワクすることをしなさい、と言う事に対して、
釈迦やイエスの教えはワクワクする事を実行する事は誰にでも出来る事なので、
ワクワクしない出来事に対して「意識的に無理やり」ワクワクして(喜んで)実行しなさいと言う教えになります。

つまり、釈迦やイエスはバシャール星人の次元を超えるための教えなのです。

次の聖典のあたりがそれを表現をやや変えて現わしているものになります。

マタイの福音書 5章43-47
>『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
>
>それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。
>天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、
>正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
>
>自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。
>取税人でも、同じことをしているではありませんか。
>
>また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、
>どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。

思いっきり生きない人には、何一つ起きる事はありません。

今この世界こそが、バシャール星人が背伸びをしても手に入れられない、
この物質世界特有のアセンションするための特化した優れた環境なのです。

みなさんでバシャール星人を超えましょう、
せっかく思い(ワクワク)の実現しにくい物質世界に生を受けたのですから。

45 ラピ。 :2013/09/15(日) 06:07:51
☆T師

いつもありがとうございます!

みなさん、この師の書き込みに質問などがあったら
ぜひ書き込みください!

歓迎します!

@(*・ω・*)ポッ

46 TK :2013/09/16(月) 18:04:40
バーナーデット・ロバーツの著書で「神はいずこに」と言う書籍があります。

この人はカトリックの家庭に育った人ですね。

実はこの人の話は、
今私がこの書き込みをしている意識状態より先の段階の事まで書かれています。

真剣に真剣に神を信じ、実践をし、
やがて私が「神の国(彼岸)」とよんでいる段階にたどり着きます。

実は、この段階では自分の前から神が消えるのです。

私も誰にも負けない神の信仰の実践をしておりましたが、
ある段階で私の前から神が消えました。

私は神の実践を止めたのではありません、
神が消えたので実践が不可能となったのです。

まだ、やれるのならやるのですが、
逆立ちしてお願いされても私の意識状態では不可能なのです。

これが本来の実践の意図している成就としての成果なのです。

この「信仰の対象を含むあらゆる対象の消滅」という意識変容の状況を、
私がまっとうに受け入れられたのは、
釈迦の教えを併用していたことによるものです。

実は、あの有名なマザーテレサもこの状態にあったと言われています。

マザーテレサほどになれば、当然に当たり前の事なのです。

この方も釈迦の知識があれば、もっと気分的には救われてました。

実はイエスの教えはこの状態にたどり着く為のものだったのですから。

マザー・テレサ、神の存在への疑念を手紙に記す 写真5枚 国際ニュース AFPBB Newsより
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2272720/2044213

>数ある手紙の中の一通は、
>1979年に親友のMichael Van Der Peet牧師にあてたもので、文中には、
>「あなたはイエスの愛を受けている。わたしはといえば、
>むなしさと沈黙にさいなまれている。見ようとしても何も見えず、
>聞こうとしても何も聞こえない」と書かれている。

中 略

>「わたしの信仰はどこへ消えたのか。心の奥底には何もなく、
>むなしさと闇しか見あたらない。神よ、
>このえたいの知れない痛みがどれだけつらいことか」と問いかけている。

中 略

>「貧民街の聖女」としても知られるマザー・テレサは、
>若年期にはイエス・キリストの啓示を受けていたとされるが、
>公の場での表情に反し、新たに明らかになった手紙の内容からは、
>彼女が亡くなるまでの50年以上を、
>神の存在を確信できないまま過ごしていたことがわかる。

(続きます)

47 TK :2013/09/16(月) 18:05:14
(続きです)

バーナーデット・ロバーツは著書の中で、次のように説明しています。

>キリスト教では、このプロセス全体は「変容的合一」と呼ばれています。

中 略

>そこでは、神と自己との区別がない、ただひとつの「在る」と言う感覚があるだけです。


真剣な信仰を実践すればするほど、自分の前から神が消える段階に入ります。

それが、実践の本当の意図している成果だからです。

私の言葉で書くより、バーナーデット・ロバーツの言葉をそのまま引用します。

なぜなら、私だけがこのように話しをしているのではない事が、
まだ至っていない人の誰が言っている事が本当なのかの判断基準になったりすると思われるからです。

人間の寿命など短い、どうせ一刻一刻、寿命を削りながら生きているのなら、
正師のもとで正しい実践を少しでも多くやった方が得策と言う物ですね、
そのためにあえて、この人の文章を引用します。


>ここで注意すべきなのは、自我が脱落するまでは、
>私たちが知っている最も深い、
>最も神聖な自己は「自我-自己(自我という自己)ego-self」である、
>ということです。私たちは、自我がなくなった後になって初めて、
>自我が本当は何であったかを知ります。
>
>それまで「自己の中心」であった自我は、虚偽でも悪でも、また、
>必ずしも利己的というわけでもありません。それどころか、神を体験し、
>神と聖なる生への探求に全力を注がせたのは、この自我でした。
>
>自我が偽りのものになるのは、神を拒絶し、自我にのみ執着するときです。
>
>私の場合、旅の初期には、後に「自我」だったとわかるものを、
>「本当の自己」あるいは「真の自己」(表面的な自己に対するものとしての)と呼んでいました。
>
>脱落以前には、これが私の知っている最も深い自己であったからです。
>
>この「最も深い自己」が脱落する事があるとは、
>一瞬たりとも考えたことがありませんでした。けれども、魂の暗夜の中では、
>この自我という中枢が脱落すると─それが神に結びついていたものですから
>─神の体験もすべてなくなってしまいます。すると、
>まるで神がいなくなったように思われ、まず、
>なんとかして神を見つけようとします。
>
>私たちは神においてしか真の自己を見出せないことを知っているからです。
>
>「霊魂の受動的な暗夜」すなわち「自我中枢の脱落」は、
>自分自身の中に空虚と空洞を見る恐ろしい体験です。神もなく、
>深奥の自己もなく、
>あたかも自分の存在の中心が突然消え失せてしまったかのように、
>まったくの暗闇の中に、取り残されるのです。

(続きます)

48 TK :2013/09/16(月) 18:06:01
(続きです)


やがてこの状況に順応してくると、これが神との合一状態であることが見えてくるのです。


「神はいずこに」バーナーデット・ロバーツ
>そこでは、神と自己との区別がない、ただひとつの「在る」と言う感覚があるだけです。



そして、自分の内側が滅びて無くなりますので、やがて信仰の生活から信仰の無い生活に戻るのです。


「神はいずこに」バーナーデット・ロバーツ
>そこで、今度は世俗の現実世界へと戻る旅になります。最初は内へ向かう旅でしたが、一転して、外へ向かう旅が始まるのです。




この辺りは実は釈迦も話をしています。

釈迦は「信仰」をイカダに譬えて激流を渡り終えたら手放しなさい、
捨て去りなさいと教えているのです。

ただし私は言います、それが的を得た本当の教えなら、
マザーテレサやバーナーデット・ロバーツのように神への信仰不能と言う意識変容(対象の消滅)で
終了を迎えるので、信仰の実践を捨てるな手放すなと教えます。

私も実践できるのなら実践するのですが、
このような信仰が持とうにも持てない意識変容(信仰対象を含むすべての対象の消滅)
の状態になるなど実践中は夢にも思いませんでした。

私の前から、信仰の対象である「神」が消え去ることなど夢にも思いませんでした。


スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、
>「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」

スッタニパータ1082
>師(ブッダ)は答えた、
> 「ナンダよ。わたしは『すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆われている』と説くのではない。
>この世において見解や伝承の学問や戒律や誓いをすっかり捨て、
>また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、
>心に汚れのない人々──かれらは実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』と、わたしは説くのである。」


相応部経典9-10-4〜5
>「修行僧よ。そなたは、修行僧たちとともに住んでいるのに、なぜ真理のことばをとなえないのか?
> 真理のことばがとなえられるのを聞いたならば、心が清らかな喜びにみち、現世で人々の賞讃を博する。」
> 〔修行僧いわく、―〕
> 「昔は、わたしは離欲を達成するまでは真理のことばを学びたいという願望がありました。
>いまやわたしは、離欲を達成したからには、見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも、
>すべて知った上では捨て去らねばならぬ、ということを、立派な人々は説かれました。」



なお、私もイエスから次の承認を受けた者ですので、
エゴが異論を唱えたくてうずうずする者がいるとしてもこの件に関しての反論は許されないことなのでお断りだけしておきます。
(それとも偽キリストになりたいですか。)

ヨハネの福音書14・21
>わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
>わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自信を彼に現わします。

(続きます)

49 TK :2013/09/16(月) 18:10:49
(続きです)

「神はいずこに」バーナーデット・ロバーツ
>その自己は、見返りを求めずに、絶えず与え続けることができます。それは自己満足のない生活です。
>
>しかし、ひとたび自己を超えたなら、もはや聖なるものはあり得ません。
>
>なぜなら、そこにはもはや与えるものも与える主体も存在しないからです。
>
> 合一生活の成就はめったに起こらないと言われてきました。
>
>しかし、恩寵を信頼する人とって、合一生活は予期されるべき当然の目標であり、
>献身が十分であればかなりすみやかに達成されるものです。


スッタニパータ
>「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。
>もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。
>そうしてサビヤ長老は聖者の一人となった。


なすべきことをなす実践の成就した先の段階として、
なすべきことをなしおえたという段階があるのですから、
なすべきことをなす、いわゆる途上の段階の人は、
素直にまだ至っていないその事実を認めた方が得策であると私は思います。

なすべきことをなす段階の人は、行為の全てが神への奉仕の実践であったとしても、
これが成就出来て、なすべきことをなしおえた段階に進むと、
信仰対象である神が目の前から消えるのですから、
神への奉仕の実践はなすべきことをなしおえた、
すなわち成就なのです、もはや再びこのような神を想定した実践を行う事は出来ません。

これで嘆いたのがマザーテレサだったのでしょうか、釈迦が生きていれば、
嘆かなくてすみましたね。マザーテレサほどの信仰のあつい人なら、
当然にたどり着ける「合一」の境地だったのです。

スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、
>「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」

50 ラピ。 :2013/09/16(月) 21:53:15
☆TK師

師匠、「神」についてのお話、ありがとうございます。

マザーテレサの話やバーナーデット・ロバーツの具体的な話(言葉)、
知りませんでした。

なるほど、、、、。

私も今の状態で「神」という言葉は使えません。
信仰する、信じるもの(対象)がありません。
なにもありません。

それそのものです。
行動を伴わずそれそのものなんです。

私の経験を思い出すと、至ったとわかったのは
行動している自分が消えたことによるものでした。
いなくなってしまった。

思いっきり実践をしていて、ふと実践ができなくなる。
なんていうのかな。
すべてが止まったような感じかな。
「なんじゃこりゃ?」という状況になりました。

はじめは何がなんだかわかりませんでした。

でも考えようとしてもできません。
ただただそうあるのみ。
「これは何?」

そしてその後、その状況がそうであることがわかりました。

師匠、ありがとうございます!

@(*・ω・*)ポッ

51 TK :2013/09/19(木) 00:23:00
自らの誤認による覚者について話しましたが、
実は実践者と名乗るエセ実践者と言うのも多いのです。

ネット上はエセ実践者は多くいました。

ちなみに、私は元実践者ではありましたが「現実践者ではありません」。

実践修了者ではありますが、「現実践者ではありません」。

正確には、実践者になりたくても、もう、なれないのです。

なすべきことをなしおえた、という事は、変容してしまったこの意識状態の元では、
実践はしたくてもできない、終わってしまったのです。

それは、「対象の消滅」と言う形で実践の終了を迎えました。

釈迦にしてもイエスにしても実践とは「対象」に向かって取り組むと言う仕組みに作られているので、
「意識の変容による対象の消滅」が起きてしまうと、
私は一般の人と同じ意識状態ではありませんが、
この意識状態では「対象」に取り組むと言う原理で構成されている実践は逆立ちしてもできません。

もちろん、生きているうちは、見かけ上そうでない人と何ら変わりないのですが、
死んで肉体を去った後は全く違うのです。

私は実践者ではありませんので、他者に向かってあいつは私より遥かに劣っている、
あいつは低次元だとか、あいつはバカ者だとか何でも言えます。

エセではない本当の実践者はこのような事は言ってはならないのですが、
何度も繰り返しますが私は実践者ではありません。

ですから、エセ実践者と呼ばれることもありません。

本物の「実践者ではない者」です。

他所の掲示板でも私がここまで宣言しているにもかかわらず、
あなたは囚われているとか、それは実践者としては間違っているとか、だから、
私は実践者ではないと初めから何度も言っているでしょと何度も断っているのですが、
それでもこのような頓珍漢な言葉をぶつけてくるエセ実践者がネット上には多くいました。

なぜ、この者たちを私がエセ実践者と呼ぶかと言うと、
私が実践者であろうがなかろうが、
その者が実践者であることと何ら関係の無いことですよね。

にもかかわらず、お前は変だと言う、
これは充分に目の前の私の事をそのエセの自称実践者は裁いてますよ、
だから私はその者たちをエセ実践者と呼ぶのです。

ちなみに、私は最初から実践者ではないと宣言していますので、
エセ実践者と呼ばれる筋合いの者ではありません。

(続きます)

52 TK :2013/09/19(木) 00:23:36
(続きです)

もし私が近くの者にあいつは愚か者だ、と叫んだところで、
実践者でなければどうってことないですよね。

詳しく解説をしておくと、
実は私はその者を愚か者と思わずに愚か者と言葉で言っているだけなのです。

実際は、愚か者と言っているだけで、愚か者だと思っていないのですよ。

お断りしておきますが、愚か者でないとも思っていないのです、さらに言えば、
言葉すらが私のものでは無いのです。

ですので、あの者の態度は実践者としてはおかしいではないか、
このようなピント外れの頓珍漢な事を言わないように。

もし、それを言った者が自称実践者なら、その言葉を発した瞬間に、
その者は私の事を裁いた事となり、私からエセ実践者と呼ばれることになります。

実践者に対する実践者でない者とは、実に気楽でいいものです。

私もこのようになりたくて実践したわけではありませんが、結果として、
実践者に再びなれない身の上に意識変容が起きてしまいましたので、
実践の本質とはそういうものでした。

ですから、私のようになりたくない者は、
釈迦やイエスの教えの実践は即刻やめることです。

もちろん、気分だけ実践者で酔っぱらいたい人は、
巷には多数うようよいる自らの誤認による自称覚者に従えば、
死ぬまで酔っぱらいのままで生きて行くことができます。
(実は死んでからもなのですが。)

それも一つの生き方としてはありなのでは無いでしょうか。

それか、全く実践者じゃありませんをやって生きて行く、
一般的にはそういう人が多いですね。

色々な生き方があるのだと思いますが、
実際に私が認める本当の実践者は私が見かけた中では極めて稀でした。

私は気持ちよく酔わせるような酒はふるまいませんから、
どん底に落とされても構いませんと言う者しか、私を必要とはしないでしょう、
本当の実践とはそのようなものだからです。

そして、釈迦はそれを「激流」と呼んだ、決して「緩流」とは呼ばなかった。

それとも釈迦は激流と呼んだが、緩流で達成できる教えを私は説くなどと言う人が、
釈迦より遥かに優れた人とかいるのでしょうか。(笑)

それはそれでまた、滑稽な話ですね。


スッタニパータ174
>「常に戒を身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、
>よく気をつけている人こそが、渡りがたい激流を渡り得る。

(続きます)

53 TK :2013/09/19(木) 00:24:26
(続きです)

もちろん、実践者と言うのは名ばかりで、
その名の元にたむろする事が楽しくて目的なんですと言う人も多くいたように見受けます。

もちろん偽実践者なので自分で止めようと意志を働かせない限りはその人は死ぬまでそれを続けることができますが、
実践の成就と言うものも当然ですが迎えることもできません、
その人は文字通り死ぬまで酔っ払いの人生ですが、
それも夢があるかもしれませんね。

私は翻訳抜きには日常生活もままなりません、なぜなら、そのままを言ったら、
一般的にはわけわかりませんの世界になりますから。

例えば、お前はバカ者だと私が言葉を発したとして、
私は全然何にも言ってないですよ、の世界ですから。

「対機」という言葉がありますが、
我々の状態のそのままの言葉は接する人にとって何にも意味の無い言葉になりますから、
聞く人の次元に合わせた翻訳と言う意味なのです。

ですので、我々はすべからくこの翻訳(対機)と言う手段を通して話しますから、
我々の発した言葉から我々の事を推し量る事は不可能です、
発している言葉、行為が真実(私)ではないのです。


アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>私は無だ。
>
>何も持たず何も出来ない。だが、すべてはわたしから立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。

私は無だと言っても、現実にあなたそこで言葉発しているのに何が無なんですか、
あなたちゃんとそこにいるじゃないですか?

現実に生きて言葉を発しているのに、何もできないって、あなたそれ変ですよ?

まともに言ったら頓珍漢ですよね。


スッタニパータ837
師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。


お釈迦さん、でもあなた立派そうにそこで説法を説いて、縁起だ、
八正道だと後世に伝えられているのに、
「このことを説く、ということがわたくしにはない」っておとぼけになるのもいい加減になさい、
まともならこうなっても不思議ではありませんね。

つまり、まともに言わないで便宜上「説く」と言った方が通じたりする場合もあるのです。


スッタニパータ222
> ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、
>空中のものでも、すべて歓喜せよ。そうしてこころを留めてわが説くところを聞け。

スッタニパータ458
> 「この世の中では、仙人や王族やバラモンというような人々は、
>何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか?」
>  (師が答えた)、
>「究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば、
>その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、とわたくしは説く。」


このように、
聞く人の次元に通じるように「対機(翻訳)」で発せられている言葉でしかありませんから、
この言葉、行為から「なすべきことをなしおえた」人の真実を辿る事は出来ません。

(続きます)

54 TK :2013/09/19(木) 00:25:19
(続きです)

最近巷の色々な視点に合わせると、負け犬の遠吠えと言う言葉が、私から出てきます。

いえ、私は決して勝ちも負けもしませんよ、ただし便宜上では勝つことがありますが。


ミラレパ - Wikipedia(2013年5月23日 (木) 01:01 UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%AC%E3%83%91

>またマルパは、激怒して公衆の面前でミラレパを罵倒、殴打し、蹴り上げるなど、
>過酷な仕打ちを繰り返した。


殴る蹴る、これは私が隣人に対して「バカ者」と罵倒したなどのレベルではありません。

これが悟った人と言うのなら私は悟りなどいらないと言う人もいるのかもしれません。


アヒンサー - Wikipedia(2013年4月25日 (木) 17:18 UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%92%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC

>アヒンサー(デーヴァナーガリー: अहिंसा; IAST ahiṃsā)は
>非暴力(文字通り:暴力(ヒンサー)の忌避)を意味するサンスクリット の用語で、
>古代インドに起源を発した宗教(ヒンドゥー教、仏教、特にジャイナ教)の重要な教義である。


しかし、もし非暴力(アヒンサ)の戒律を犯している者がいると述べる実践者と称する者がいたなら、私はその者のことをエセ実践者と呼ぶ。

やってる者がマルパだからではありません、そのように言葉に表した時点で、その者は裁いているのです。

それが嫌なら、その者は釈迦もイエスの教えも即刻やめなさい。

そもそも実践とはそういうものなのです、例外はありません。

だから私に酔っ払いと呼ばれるのです。


ダンマパダ50
>他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。
>ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。


言いたい者は、私は実践者ではありませんと堂々と宣言してから言いなさい。

私は実践者ではありません、なすべきことをなしおえた者、実践修了者です。


スッタニパータ
>「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。
>もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。
>そうしてサビヤ長老は聖者の一人となった。

55 ラピ。 :2013/09/20(金) 07:43:17
☆TK師

いつもありがとうございます!

そうですね。

私たちが発する言葉は単なる言葉なのですが
エゴがある人は言葉を勝手に判断してしまい、
その判断に影響されてしまいます。

私たちは言葉をツールとして使えますが
「私」がまだある人は言葉に振り回されます。

言葉に影響される「私=エゴ」がまだ存在しているからです。

ちなみにまだ至られていな人が自称覚者として教えを説くことは
よくありません。
弟子たちにももちろんよくありませんが
自称覚者自身にも影響を及ぼします。

例えば、自称覚者が「これはよくない」と言えば
そう言った人自身に「よくない」と言ってることになります。
その人は言えば言うほど善悪という相対的世界に縛られることになります。

私たちは善悪を超えているので
縛られようがありません。

だからこの善悪という教えを説くのは、
善悪を超えてから初めてできます。

超える前は言葉を発するその人自身に影響を与えてしまうので
気を付けなければなりません。

まだ、善悪の影響下にいる人が
それを説くことはできるでしょうか?

まだ至られていない人が善悪を説くことはできません。

善悪を超えて初めて教えを説くべきですね。

そうでないと、善悪について
間違った教えを説いてしまうことになりますし、
その教えを説く本人によくない影響を与えてしまいます。

ちなみに余談ですが悟りとは思いが消滅することであり、
思うようにできるようになることではありません。

「思う様に」という言葉を使うなんて
「まだ思いがありますよ。」
と宣言しているようなものです。

56 TK :2013/09/20(金) 18:38:05
ラピ。さん

>ちなみにまだ至られていな人が自称覚者として教えを説くことは
>よくありません。
>弟子たちにももちろんよくありませんが
>自称覚者自身にも影響を及ぼします。

実は、そうばかりとは言えない部分がある。

この状況は君のある時期と一致している所がある。

不完全な悟り、不完全な実践、このキーワードで何か気が付かないかね。

君にとっての第1次実践時の状態に似ている。


>実は、ラピ。さんの「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」これは、
>教えとしては完璧なのですが、
>これが実践当初は劣った精度と低次元理解に基づく実践だった事により、
>メンタル面の作用としては、理想的な生き方の要素が強くなり、
>エゴを正しい方向で強める手段として作用した訳ですね。


この時期は、君にとっても無駄ではなかったんだ。

人にはそれぞれの段階と言うものがある。


>第1次実践は思い(ワクワク)を拠り所にする実践、
>第2次実践は強い意志の力のみを頼りに進む実践、
>この第2次実践の際は第1次実践の拠り所の思い(ワクワク)を完全否定する実践になります。


ただし、もし、まずい部分があるとしたら、
賢者の言葉のでたらめな取り合わせをし過ぎると、
このいわゆるワクワクの段階を延々と長引かせる事に繋がりかねない事になる。

理由は、賢者の言葉が、元々この段階に向けて説かれたものでは無いものであるからだ。

>ただ、ワクワクをやるのなら、正しく実践、つまり、
>他のスピ系の教えと一緒には食べ合わせをしないという事です。

そのまずい取り合わせによって、いたずらにこの時期が長引く可能性がある。

自称賢者は「裁くのが得意」だが、これは段階的にはまずくない、それで良い、
我らの段階に運よく上がれるためには必要なプロセスの一つという事になる。

問題になるものは、賢者の言葉の不一致な段階向けの教えの取り合わせにあるんだ、
この中途半端さが良くない。

それと、中には、これより先の段階が必要となった者が、
間違ってこの中に入り込んでしまう事があるかもしれない点だ。

しかし、精一杯ささえあれば、直に気づけて抜け出せるはずだ。

君の場合は、私が必要な段階にあったんだ、だから教えの内容がヒットした。

57 ラピ。 :2013/09/20(金) 21:36:54
☆TK師匠

そうですね。確かに。

私にとって、すべては必要な道でした。
無駄なことなんてひとつもなかった。

私はかつて、決めたひとつのことを精一杯実践しました。

なんでも精一杯すれば道は開けるのですね。

最後の扉はTK師から頂きました。
その扉は無事、開かれました。

TK師、いつもありがとうございます!
@(*・ω・*)ポッ

58 TK :2013/09/21(土) 05:19:00
私も誤認覚者と同じことをしていたことがあります。

確かにその時には、
それはとても理想にかなったこれより先は無いと思えるような素晴らしいものだと思っていました。

この時期には理屈(理想)が全ての原動力になります。

出来るだけ、高い理屈(理想)を持つことです。

多くの者たちをこの高い理屈(理想)の元に先導し、
これから幸せな世界、社会を作っていくのだと言う大志がありました。

良いですね。

出来るだけ高い理屈(理想)が良い、それがこの段階の人の正しい進み方です。

ラピ。さんにもこのような時期があったと思います。

もちろん進む先には、障害が多数出てくる事でしょう。

しかし、精一杯頑張れば、やりとおせる、みんなで力を合わせればやりとおせる、
そう思います。

そして、幸せな社会を作って下さい。

もちろん、これより上の次元から見たら、これはエセ実践者の世界ですが、
気にすることはありません、障害に立ち向かい進んでいきましょう。

きっと立派な社会が出来上がる、そのように思います。

賛同する人も多数出てくる事でしょう。

正しい社会を作る、方向性は良いです、頑張って下さい。

今のはかなり低い人の次元向けの教えですが、
私やラピ。さんが多く多くここで語っていたのはこの上の次元の人向けの話しでした。

次元によって説く内容が変わるのです。

私もこのような色々な人の次元向けの内容をごちゃまぜに語ってますが、
聞く人は混乱するかもしれませんね。

59 ラピ。 :2013/09/21(土) 07:14:15
☆TK師

いつもありがとうございます!

そうですね。確かに人それぞれに段階がありますね。
私もいろんな段階を経て至りました。

ちなみに参考になるかもしれないので
私のことについて書いてみます。(何度もかいてますが、、、)

まず、第一の実践のきっかけは
わがままな自分を反省して
(自分としてはめちゃくちゃわがままだった。
でも今思えば、そんなわがままな人、反省もせずにいくらでもいます。)
「こんな私はどう生きていけばいいか?」との問いから
得た答えでした。

この時の自分は
「こんな私ではダメだ。ダメだ!」という感じで
実は「下から」ができていたように思います。

とことんしました。
なぜなら私はダメな人間だから
努力するしかなかったからです。

そして第2の実践。
この実践のきっかけは
それまでの実践を否定される出来事が起こったからであり、
私はこれまたどう生きていけばいいか、との問いから得た
いわゆる「能力開発」のための実践でした。

自分の存在の価値が欲しかったのもあるかも。
なんてったって、私を否定する出来事があったから。
(この否定された私こそ、幻なんだけどね)

そして人の限界はどこまでなのか、
この世界の人々の限界を私が証明しよう!
なんて偉そうに思い(笑)でも、だからこそ、しつこく実践できました。

なぜなら人類代表としての実践だったからです。やめるわけにはいかない。
(めちゃくちゃ 妄想入ってます。)
でもこれが大きな原動力でした。

ちなみに私は一人っきりの実践でした。
孤独に実践です。

その実践から彼岸に渡りかけてその実践も終了しました。
それがある意味限界だ、と思っていました。
(至るとはどういうことなのか、わかっていなかったので)

そして第3の実践。
このきっかけは思い出すと、
「なぜ、私は覚醒を求めていたのだろう。
(よく、「覚醒するんだ!」って言ってました)
そうか、幸せになりたいから求めているんだ。
それなら直接幸せになればいいじゃない?
覚醒なんて目指さなくていい」
これでした。

だからここから「私は幸せ!!!」と言い続ける道を歩き始めます。
絶対的幸せがいいのだから
そしてどんな瞬間も幸せ!がいいのだから
今からそうであるよう、存在するのだ!

だから常に「幸せ〜!」なんて言ってました。
かつてのブログにもそう書き続けてましたね。

そして割と幸せな状態が保てていたので
(気持ちを切り替えるのが上手になっていました)
なかなかいい場所(覚醒に近い場所)にいるのではないか
なんて思ってました。

そこで師との出会い。

私のこの妄想が打ち砕かれました。
一からのやり直し。

第1の実践を一からやり直し、ということになりました。
私はまだまだで、まったくだめで もっとも下から実践しなければならない
という姿勢です。

ここでさらに師から厳しいことを言われました。
その時の私の正直な気持ちは
「それするの?嫌だなぁ、、、。でもすると決めたんだからやるのだ!」
というものでした。

かなりの葛藤が起こりました。

そしてこの葛藤から逃げず、葛藤する方向へ進みました。
葛藤できなくなるまで葛藤し続ける、という感じですかね。

そして葛藤の限界が来たとき、
ふとそれは訪れました。

@(*・ω・*)ポッ

60 TK :2013/09/21(土) 11:11:15
この低い次元の第一次実践はそれより先の次元に進むためには必要なプロセスです。

特徴は、エゴを精一杯自分の良いと思う方向で利用すると言う実践なのです。

もちろん、これは今我らの次元からの目で見た解説ですから、
実際はこの低い次元の実践が必要な段階の人は、
我らと違ってエゴの動きが見えません。

これをイエスは「盲人」と言う表現を使っていましたが。


マタイの福音書 15章14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

今になって考えてみたら放っておくことには意味がありました。

穴に落ち込んでから次が始まるのですから。

私ももがく以外に身動きのできない、真っ暗な穴に落ちた経験者です。

その後にイエスの教えに出会いました。


>まず、第一の実践のきっかけは
>わがままな自分を反省して
>(自分としてはめちゃくちゃわがままだった。
>でも今思えば、そんなわがままな人、反省もせずにいくらでもいます。)
>「こんな私はどう生きていけばいいか?」との問いから
>得た答えでした。



第1次実践時のラピ。さんもそうでしたが、それまでの散漫なエゴの在り方に、
一定の正しい方向性(目的)を持たせることが特徴です。

主な特徴はエゴの中の人間でエゴの動きが見えていないので、
エゴを利用して正しさを実現しようとする点ですね。

最初はやはりここからです。

「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」、ラピ。さんの話しを聞いて、
この言葉を私が最初に目にした時には完璧過ぎてうまくないだろうと思いました。

なぜなら、最初からエゴ殺しの完璧な内容になっていたからです。

ただ、当然ながらエゴの動きが見えてない上での実践なので、
実践の不完全実行になっていましたから、結局同じ事だったのです。

ただ、精一杯があったから、
やがて盲人が落ちる真っ暗闇の穴に落ちることが出来ました。

穴に落ちる事も出来ない「盲人」は同じ盲人でもダメ「盲人」です、
箸にも棒にも落ちる穴にさえも見放されています。

我々の教えの次元は、ほとんど、「穴」に落ちた段階の者にしか用が無いものです。

ラピ。さんにもう一度私がこの実践を踏ませた時には、
エゴの動きを見抜ける私の悟った目を使いましたから、
エゴ殺しの手段であるこの実践内容の完全実行が行われました。

しかし、この完全実行をさせるかどうかのために、
約4カ月の期間を費やしましたが。

(続きます)

61 TK :2013/09/21(土) 11:12:01
(続きです)

私自身のエゴ殺し、すなわち第2次実践段階は、
私は私の特殊性で実践段階で悟った者と同精度に近い自分のエゴを見抜ける目があった事によります。

私に自分を見抜く高い精度の目が無かったら、
今の所に至るのは無理だったと思います。

スピ。系で言えばワクワクと言う実践が、
「ワクワク(思い)」を拠り所に散漫になっているエゴに方向性づけると言う点で、
この第1次実践にあたります。

まず、第1次実践段階を要約すれば、
物質として正しい方向で生きると言う表現が近いものですね。

第2次実践は、物質である自分を捨てて、
自分の精神だけにターゲットを合わせて進む実践で、
第1次実践では思いを拠り所に正しさの追求ですから、
楽しいことも多くありますし、生きがいも付随しますが、
第2次実践ではそれはありません、一言でいえば地獄(激流)です。

第2次実践ではワクワクしない時に意識的にワクワクさせ行動したり、
喜べないような出来事に喜んで行動したり、このレベルの実践になりますから、
自然に心から喜べるような生き方はありません。

「意識的に」心をワクワクさせたり喜ばせたり、
自然な状態の悲しんだり喜んだりワクワクしたりの心の動きを「意志」の制御下で、
はっきり言えば撲滅する為の実践なのです。

人間の多くはそれを楽しみにし、生きる支え拠り所として生きていますので、
つまり、あなたは生きる支えを一切放棄して、
死んだものと思って生きて下さいと同じレベルの事をやらなければだめなのです。

ですから、
ラピ。さんにそれをやって良いものかどうか見極めるために4カ月かかりました。

今までエゴを使って精一杯生きてみて、
さらにその先に進みたいと言う強い思いがある者にしか開けるものでは無いでしょう。

釈迦の言葉の中の「激流」と言う表現を甘く見てはなりません、
「緩流」とは釈迦は言っていませんよね。

生き地獄のことを指すのです。

そして、釈迦とイエスの教えがそれにあたるのですが、
まともな実践をできている人など見たことがありません。

はっきり言ってみんな「緩流」です。

即ちほとんど全てエセ実践者です。

釈迦は「緩流」で水浴をしながら彼岸に渡れ等と言ってないのに、
ちょっとは自分のやってることに疑問を持ったらどうですか。

あえて渡りがたい「激流」と言う表現を使っているのですから、
仲良しクラブで渡れたら、釈迦より天才ですよその人は。

スッタニパータ174
>「常に戒を身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、
>よく気をつけている人こそが、渡りがたい激流を渡り得る。


ラピ。さんの成就に関わる中で私が学べた点は、
現代社会の中に至るための正しい教えはある、しかし、
いくら正しい教えだけが有ったとしても、後他に、
悟った者に近い高精度な自分を見抜く目が必要であると言う点です。

そして、実際に会わずともネットを介した接し方でそれは事足りました。

62 ラピ。 :2013/09/21(土) 15:45:39
☆TK師

私が初めて師にメールしたのは今年の1月14日でした。

そして彼岸に渡ったのが5月13日でした。
ほぼ、4か月ぴったりです!

そうですね。
激流について師が書かれていますが
私の渡った激流もそういう感じです。

彼岸への道でここは避けて通れません。

>今までエゴを使って精一杯生きてみて、
さらにその先に進みたいと言う強い思いがある者にしか開けるものでは無いでしょう。

まさしく私はそうでした。
もう精一杯頑張って いろいろ経験したので何も怖いものがなく
ただ「師のいるところへ行くんだ!」
それしかなかった。

だからみなさん、今を思いっきり生きるといいです。
精一杯がんばって生きることは素晴らしく、
そうすることで勝手に道が開けてきます。

どうぞ、自分の人生を精一杯、限界まで思いっ切り
がんばって生きてください。そこからです。

この相対的世界だからこそ、頑張れるんです。
頑張れるからこそ、チャンスなんです。

ちなみに至ってしまえば、頑張る私はいなくなります。

あと、
「本物から教えをいただくチャンスなんてめったにない。
これを逃したらもうないかもしれない。これが最後だ。」

という思いもあり決心したのもあります。

師匠、いつもありがとうございます!

@(*・ω・*)ポッ

63 TK :2013/09/28(土) 17:16:05
あなたの前に私はいる。しかし私の前にはあなたはいない。

世界の人々の前に私はいる。しかし私の前に世界は無い。

私の前に神はいない、神とは人知ではかり知ることが出来るものでは無い、
これがすなわち「それそのもの」なのだ。

マタイの福音書 15章14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」


しかし、放っておきなさい、とはうまく表現したものです。

これは悪い意味ではありません、しかし、
実際に穴に落ちる事が出来るのは手引きをした方だけです。

結局は茶番ですね、
手引きをされた方は手引きをする者が穴に落ちるための材料にしかなれないのです。

結局は手引きをした方だけが何とかなるための、他は全て材料でしかありません。

だから、みんな頑張って手引きをする方の側になって下さい。


マザー・テレサ
>「導いてくれる人を待っていてはいけません あなたが人々を導いていくのです」


手引きをされる方は結局穴にも落ちることが出来ず、
手引きをする者のダシに使われるだけなのですから。

結局は手引きをする側の盲人にならなければ、次の扉は開かれません。

みんな頑張って手引きをする側の盲人になりなさい。

すなわちそれは、
人を頼らず他人から頼りにされる側の人間(盲人)になれという事です。

今の「盲人しかいない末法の世」においては、
アセンションするためには、それしか手がありません。

釈迦の教え通りです。

大パリニッバーナスッタンタ 2.26
>それ故に、この世で自らを島として、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、
>法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。


人の理想を教えてもらっているようではだめです。

自分自身の命がけの理想として下さい。

多くの中途半端な姿勢の者の、その姿勢にこそ、問題があります。

理想のために命もかけず、その者は一体何のために生きているのでしょう、
あなたはただ欲望を満たす事を目的に生きているのですか、ただ無駄に飯を食い、
ただ無駄に命を長らえ、
そんな無駄な事の為に折角の寿命を費やし生きているのなら、
その者は生きている価値などこれっぽっちもありません、
死んだ方がましだと言われないような生き方をして下さい、
折角方向性を持ち生きて行くことの重要性を掴もうとしているのなら。

同じ盲人でも命がけで走っている盲人は、
「稀にしか空いていない真っ暗闇の穴」に落ちることが出来ます。

その「稀にしか空いていない真っ暗闇の穴」が、上の次元への入り口です。

命がけで走らなければ、
そこの「稀にしか空いていない真っ暗闇の穴」には辿り着く事も出来はしません。

手引きをする盲人のダシのままでだらだら生きて行くのか、
自らの命を懸けた生き方にするのか、
その姿勢こそが見えない先を進ませるための地図なのです。

私がラピ。さんに接して分かった事は、私やらラピ。さんに有った特殊性は、
挫けない意志、その部分でした。

そもそも挫けない意志、と表現できるような生き方もしていない者など、
最初からどんな道であったとしても歩む資格すらありません。

家でずっと死ぬまで昼寝していた方がましですよ。

私が無師だった理由は、人のペースになど合わせられないほどの、
エゴを理想の方向性に絞った上で突き進んだ結果です。

どんな団体も組織も、およそ生きている人間から教えを受けるなど、
全て手ぬるそうに見えて、
理想の実現に向けてエゴを精一杯生きて限界にぶち当たった私の求めているそれには見えなかった事によります。

そのようなものより私にはいつかは開けなければならないだろう扉がありました。

私は以前その扉を開けようとしましたが、まだその時ではありませんでした、
私が扉の向こうに逃避しようとしていたからです、しかし、
この時には再びその扉を開けてみるより他には残されていませんでした。

扉を開けて一歩踏み出したそこは文字通りの地獄でしたが、
一歩踏み出してしまった私に、もはや後戻りしようにも扉は閉じられていました。

地獄、地獄、地獄、気が狂おうが何をしようが、自殺をしたところで、
そこは脱出不可能な地獄でした。

その地獄の正体は我々の「心(内側)」の事でした。

豊かな心とか、心を美化した表現は数あったとしても、
そもそもにその心(内側)が地獄の別表現だったのです。

(続きます)

64 TK :2013/09/28(土) 17:19:33
(続きです)

綺麗な心(内側)があるのではなく、そもそも心(内側)というものそのものが、
不浄なものだったのです。


マルコの福音書 7章16-18
>イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。
>
>口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。
>
>しかし、口から出るものは、心から出てきます。それは人を汚します。


私は地獄(心)を滅ぼすことに成功しました。

しかし、これは結果論で、内側を滅ぼすつもりなど最初からありませんでしたし、
清い内側が出来るものとばかり思っていました、しかし、
現実には内側は無くなったのです。

慣れた今となっては、全く当たり前のどうという事の無いものなのですが、
至った当初は結構珍しかったです。

きっと至った間もないラピ。さんは現在さぞ珍しいものと感じている事でしょう。



「自己喪失の体験」バーナーデット・ロバーツより
>この第二の変化の本質は外にあるすべてのものの脱落で、その結果、
>あの素晴らしい「一なること」も、
>個々の物に焦点を当てられる立体鏡も無くなり、
>「見ること」は突然盲目にされてしまいました。
>こうして私は内にも外にも何も無いという耐えがたい状況で生きる事になったのです。
>これについて、言葉で表すのは難しいのですが、もう少し書いてみましょう。
>
> 最初はどこを見ても何もないということで当惑しただけでしたが、
>「一なること」に溶け込もうともしない全般的な空虚のために、
>特定の物や観念に心を留めることができないのです。しかし時がたつにつれて、
>償いとなるものが何もないので、この状態が次第につらくなって来ました。
>内にも外にも絶えず虚無だけを見ることは何とも言えない徒労で、
>耐えがたいことなのです。


>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。
>ただし言葉が何も考えずにその場で出てくる場合だけで、
>はじめは実際的な事柄に限られて、しかもごく短いものでしたが、
>そのうちにこういう心の外での会話が楽にできるようになりました。


>この旅について特に強調したいことは、
>最後に存在全般にわたる虚無に出会わなければならなかったことです。
>これは私にとっては神なしで生きることを意味していました。
>こうして希望と信頼を奪われ、究極の実在なしに生きることに十分に慣れ、
>ついにこの状況を受け入れるほかなくなった時にはじめて、
>突然「それ」が真理でありすべてであることが分かったのです。


バーナーデッド・ロバーツの記述の中で一点欠落している点を私が語るなら、
実は「祈り」も我々の意識状態では逆立ちしてもできない行為です。


「エックハルト説教集」 マイスター・エックハルト
>離脱した純粋性には祈りというものはありえない。


なお、私がここで語るのは、一つには自らの誤認による覚者に対してです。

まだ、その者の居る所より先があります。

もちろん、他者に教えを説くと称して、
たんたんと自らの理想論を展開していくのは構いませんが、
それをしながら先に進めるものならそれも手です。

ところが、その教えの本質は、
やがて精一杯に動けば、真っ暗闇の穴が待っている次元なのです。

なにより、その程度の教えで人を先導する行為をやめなければ、
その者がそれより先に進めないことを意味しています。

正しい教えであろうが無かろうが、そもそもに教える行為そのものが、
道に反しているのですから。

教えを聞くことは良いです、しかし、
教えを説く行為自身はエゴを増強する行為なのです。

マルコの福音書 7章16-18
>イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。
>
>口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。
>
>しかし、口から出るものは、心から出てきます。それは人を汚します。

(続きです)

65 TK :2013/09/28(土) 17:25:41
(続きます)

教えの内容も全く低次元ですが、教えを説けるようになるためには、
教えと言う行為そのものから受けるその悪影響を、
さらに上の次元に上昇し次のようになるのでなければ駄目なのです。

私はこの上の次元の者の教えの説き方を疑似エゴイズムと呼んでいます。


「自己喪失の体験」バーナーデット・ロバーツより
>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。
>ただし言葉が何も考えずにその場で出てくる場合だけで、
>はじめは実際的な事柄に限られて、しかもごく短いものでしたが、
>そのうちにこういう心の外での会話が楽にできるようになりました。


もちろん今は何を言っても駄目でしょう。

誤認覚者の特徴の一つに、人には自分の事を聞かせようとするが、
人の言う事は聞きたくありません、何を言いたいかと言うと、
典型的なエゴの強い人間の特徴そのものだからです。

もっとも、だからこそ、
怠惰でさえなければその者には穴に落ちるチャンスがあるとも言えます。

よって私が語るのは、その者が精一杯さが実り、めでたくこの先穴に落ちたとして、
それは大変な真っ暗闇の穴なのですが、
そこで少しでも私の話している事がその者の中で気に留まっていて、
灯明として花開くように今は種をまいているようなものなのです。

ラピ。さんも色々とやっていたようですが、
確かに我々がつまずきのための石になれるのならそれは幸いなことなのですが、
それが本物の理想主義者ならそんなに生易しいものではありません。

だからこそそれ自身が進めるチャンスであるともいえます。


それより、マザー・テレサの公開された書簡を見て、これこそ問題だと思います。

釈迦は実践を激流を渡るイカダに譬えて、激流を渡り終わったらイカダ(実践)を手放せと説きましたが。


スッタニパータ21
>師は答えた、
> 「わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、
>すでに渡りおわり、彼岸に到着している。もはや筏の必要はない。


ところが、キリスト教に伝承されている教えの中にはそれが無くて、
渡り終わってそれでも無理やりイカダ(実践)にしがみ付こうとしてマザー・テレサがもがいているのです、
いや、真実はもがこうとしてももがけない訳なんです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/sp_newsletter/spnl_backnumber/spnl-50/spnl-50-1.htm


紛れもなく、ラピ。さんが大喜びしている我々の意識状態なのですが、
このマザー・テレサに起こっている意識状態が、
我々が説明している意識変容の真実です。

もしも師がいる者なら、このマザー・テレサの状態を尋ねてみると良いでしょう、
これが至った者の状態であると理論的な解説ができる者は本物ですから、
このような著名人の件でもあるので、
自分の師を本物か偽物か判断するための良い材料となりますから、
真剣に求めるものは騙されたと思ってお尋ねになってみて下さい。

マザー・テレサは本物です。

教えの内容も次元が高いですし、愛の反対は無関心であると説いていました。

しかし、
これはかっての至る前のマザー・テレサの実践方法を思い出して人に説いているのであって、
これを説いているマザー・テレサ自身は、
無関心の状況に至っているのが真実のはずです。

このギャップをマザーは自らの心の闇と呼び、
何とかしようにも出来ないと嘆こうとしていますが、
書簡の上だけは嘆いていますが、
実際は嘆くこともできないと言う事であったと思います。

嘆こうとしても言葉の上でしか嘆くことが出来ないので、
なおさら表現だけしか嘆けないから、
精一杯の物凄い深刻そうな表現になっているのではないでしょうか。

これこそあまりにも変過ぎますよ。

さすがに至った人に対して可哀そう等と身の程知らずの大それたことを言うバカもいないと思いますが、
しかし実際には多くいたようですが、無理もありませんね、
書簡を読んだ人にとっては深刻になります。

これ、絶対に言葉の通りではないと思います、嘆くことを初め何もできないので、
もがいている分だけ過剰表現になっているだけだと思います。

折角素晴らしい実践方法があり、
マザー・テレサのような素晴らしい実践者がいて、
当たり前が如くに成就に至ったとしてもこれではね。

それともなに、マザー・テレサは日ごろの行いが悪く実践がなってないから、
罰が当たってこのように嘆いているのだと、
妄想を膨らませる身の程知らずの大それた人もいるのでしょうか。

(続きです)

66 TK :2013/09/28(土) 17:35:42
(続きます)

スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、
>「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」

スッタニパータ1082
>師(ブッダ)は答えた、
> 「ナンダよ。わたしは『すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆われている』と説くのではない。
>この世において見解や伝承の学問や戒律や誓いをすっかり捨て、
>また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、
>心に汚れのない人々──かれらは実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』と、わたしは説くのである。」


相応部経典9-10-4〜5
>「修行僧よ。そなたは、修行僧たちとともに住んでいるのに、なぜ真理のことばをとなえないのか?
> 真理のことばがとなえられるのを聞いたならば、心が清らかな喜びにみち、現世で人々の賞讃を博する。」
> 〔修行僧いわく、―〕
> 「昔は、わたしは離欲を達成するまでは真理のことばを学びたいという願望がありました。
>いまやわたしは、離欲を達成したからには、見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも、
>すべて知った上では捨て去らねばならぬ、ということを、立派な人々は説かれました。」


マザー・テレサは紛れもなく優秀な実践者でありイエスの教えの優れた成就者で
あったことがこの書簡から全てわかりますが、本人も中身が闇だと話していますが、
表現だけで中身(内面)の無い本人なので、
実際は表現しているほどの深刻さはどこか普通の人の捉えているものとは違うと思います。

ただ、深刻さを現そうとする言葉だけの過剰表現になったのではないでしょうか。

実は、このような真実と表現が食い違うちぐはぐな状況は、
バーナーデット・ロバーツの記述の中にも見られます。

今までの自分ならすごく怖がりたい状況ではあるが、
肝心の怖がる心が無いと言うような。

「私のほほえみは仮面である」 とマザー・テレサの書簡にあったと言われていますが、
こんなのも我々にとって全然珍しくないですよ、
私は自分の事をよく「私は張りぼてだ」と言ってました、
なぜなら中身が無いのですから。

よく心にもないことを言うなと、悪い事の一つとして語られたりしますが、
至った者の通常がそれですから。

だから、
私が至った者の状態など至る前の者には害にこそなれ何の役にも立たないと良く言うのです。


ラピ。さんならよく知っていると思いますが、
至った者の意識状態では、逆立ちしても隣人を愛する事も出来なければ、
神に祈りをささげる事も出来なければ、信仰を持つこともできないという事を、
しかし、現在のキリスト教の組織の中でこのような事を語ったらどうなります、
これは大変な事ですね、異端者にされますよ、確実に。

しかも、この問題を解決できるのは至った者以外にはいないと言うのも真実です。

この件についても地球は丸いのに平らであると信じられています。

マザー・テレサのような著名人であるから、
この件にいつて公になった事にも価値があるのかもしれません。


これはキリスト教の伝承されてきている教えの中に、
至った者に対する「激流を渡り終わったら信仰を捨てろ」などの教えが欠けている事によるものです。

ただし、イエスの教えそのものは現されている内容だけを捉えて言うなら、
釈迦の教えより遥かに現代に適合する形にカスタマイズされている、
優れた内容です。

しかし、アンバランスにも、至った後の者に対する教えが無い。

だから、イエスの教えで至った者は、
ラピ。さんのように両手ばなしで喜ぶわけにもいかない、
マザー・テレサの書簡のように組織から成就を印可される事も無い複雑な状況が出てくることになります。


これはひとえに、
イエスの教えは釈迦に比べて遥かに短い期間しか説く事が出来なかったことに起因するものと思われます。


ナザレのイエス - Wikipedia (2013年9月11日 (水) 17:17 UTC)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B6%E3%83%AC%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9

>いずれにしても、没年や福音書に記録されている祭典の回数などを信用すれば、
>イエスが宣教を行った期間は、1年か2年、
>長くても3年ほどという非常に短い期間だったことになる。

(続きます)

67 TK :2013/09/28(土) 17:37:44
(続きです)

あと、最後に、変すぎるのは、キリスト教と言う組織にあります。

マザー・テレサからこの書簡を受け取ったマザー・テレサに対しての指導的な者たちの間抜けな対応にも、
何じゃこりゃと思うのは私だけでしょうか。

私には、どうみても指導的という名前の盲人にしか見えません。

神が何たらかんたら、イエスが何たらかんたら、
これ典型的な盲人の特徴なのですが。

バーナーデッド・ロバーツの記述の中に出てくる神父の存在も、
はっきり言ってしまえば盲人ですよね、なぜこんな者たちが、
教え導く立場にいるのか、変すぎですよ、なぜなら、イエスの教えとは、
そもそも盲人であるうちは手引きをしてはならないと言うものなのですから。

キリスト教組織はイエスの教えに反逆していますね。

マザー・テレサ自身にしても、修道生活が18の時からとなれば、
私の経験に照らせば、40よりもっと前に闇が出ても良かったのではないでしょうか。

組織的なキリスト教と言われる者たちの所にはイエスの教えではないものが
入り込んでいるような気がしてなりません。

盲人が人を手引きしている、そもそもここがおかしいのです。

マザー・テレサも言ってますので、
私もマザー・テレサに賛同する形で改めて言いますが、
聖書に従って実践する者ならイエスと1対1の関係位になれなければエセ実践者という事になります。


マザー・テレサが言うように、
本当に聖書のイエスの教えに従って実践が行われれば、
イエスはその者の前に現れます。

この奇瑞は本当です。

ヨハネの福音書14・21
>わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
>わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自信を彼に現わします。


霊能力とか関係ありません、こちらが全く意図していない状況下で向こうから、
その力でアクセスしてくるのですから。

何もわかりもしない盲人が、
分かったふりして有ることない事べらべら言うものではないですよね、
実はこういう行為は非常に迷惑です。


さらに、これはイエスだけに限ったものではありません。

それが本物の実践なら、神仏が皆で示し合わせたように、
例えば釈迦の教えの実践者なら仏が前に姿を現したりしますから。

そのかわり、命がけの実践でなければなりません。

ただ、頑張ってます位の実践では駄目です。

失礼ですが、私はその者たちをエセ実践者と呼ぶ。

このような奇瑞が現れない者は、
自らの実践がエセであることをもう一度振り返ってみなさい。

誤認覚者にしてもそうです、その者が至るまでに大変したと言う、
こちらにしてみればその程度で、へ、みたいなものなのですから、
大仰すぎると思います。

なぜ、そこまで言えるのかですが、
その者のメンタルの状態があるがままの目を持つ我らには全て丸裸に見えてます、
さらけ出しです隠せませんから。

その思い高ぶった状態を一旦すっかり捨てて白紙に戻して下さい。

(続きます)

68 TK :2013/09/28(土) 17:39:00
(続きです)

神仏が感動するレベルの実践をすれば、必ずや、
拠り所としている信仰の対象の方から姿を現してくる事でしょう、
心当たりの人たちはマザー・テレサもそう勧めています、
もう一度焼き直しをして下さい。

アストラルの特性は私は良く知っているのですが、
明らかにこの奇瑞については、
こちらはまるっきり意図していない向こうからのアプローチなのです。

私は新約聖書と原始仏典をテキストにしましたので、
時を分けて両方からありました、
私の実践法はどちらからも承認されているものなのです。


イエスともう一方は確かに釈迦なのですよ。

イエスは声が光になって飛ぶ世界からアクセスしてきましたし、
釈迦は身を起こすことが出来ない凄い圧力のある普通ではありえない金色の光を放っていました。

私の場合は生きている師はいませんでしたが、
この奇瑞のおかげで死ぬ覚悟が出来ました。

生命に危険な実践内容もいくつか取り入れてましたし、
私はこの実践で死ぬかもしれないが、死ぬのなら死ぬのでいい、
この命は神仏に預けます、実践とはこのレベルのものでなければ駄目なのです。

私は覚者になりたかったとかではありませんが、後戻りが出来なかった、しかし、
覚者と名乗りたければこれくらいは必要だと思います、
神仏が感動して自ら動き出すくらいの実践内容とは、このレベルです。


私はこの現象に対しての説明されている文章を、第1次実践の際に、
阿含宗の教祖の本の中に見た覚えがありました。

言っておきますが、私は何の信者でもありません。

生きている人間の師はいませんと何度も言っている通りです。

書籍が残っていましたので、引用だけしておきます。

ただし、この人にしても学者と同様で豊富に仕入れた知識は有難いですが、
イカダ(法)を手放す段階の話が出てこないというのがね。


「1999年カルマと霊障からの脱出」桐山靖雄
>まずなによりもその法が正しいという事です。法が正しくて、さらに、
>仏さまが感動されるなにかがなければならない。いうまでもないことであるが、
>仏が感動されるなんてめったにあることではない。
>めったにあることではないどころか、古今を通じて稀である。
>奇蹟といってもいい。その奇蹟を起こすだけのなにかがなければならない。
>それがあると、仏さまが感応してくださる。

中 略

>仏が感応されますと、かならず「現形」という現象(または現証)があらわれます。
>
>これは、元来、神道の方から出たことばです。神霊が感応されますと、そこに、
>はっきりと、なんの神であるとわかるお姿を顕現される。



ヨハネの福音書14・21
>わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
>わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自信を彼に現わします。


マザー・テレサもそう言っているので、今回は私もこの件について話をしてみました。

(続きます)

69 TK :2013/09/28(土) 17:39:33
(続きです)

ただし、
マザー・テレサにしてもバーナーデット・ロバーツにしてもイエスの教えの
肝心な点に気が付いていないみたいでしたね。

イエスの教えも、釈迦の教えもさらに上の表現が度々出てくるのですが、
お気づきでないのですかね、
釈迦の教えでは「ニルヴァーナ」イエスの教えの中には「父」と言うイエスから見て上の表現が必ず頻出しているのですよ。

釈迦は我々から見たらニルヴァーナではなくて、
イカダなのです。

イエスも然りです。

マザー・テレサはイエスが消えて虚無が出てきたと、
これこそイエスの教えの実践でアセンションしイエスの表現する「父」の近くにいるという事です。

マザー・テレサの修道歴に照らしたら、それが起こるのは遅いと思います、
つまり、イエスが現れ指示の通りに行動し始めたことが、
本当のイエスの教え通りの実践だったのであり、それまでは、やはり、
どこかが違っていたという事ですから、
イエスが出てきて実践内容が説かれるまでそれが起きなかったと私は思います。

http://sharejapan.org/sinews/magazines/33116k/vep55f/ln5rds

ですから、マザー・テレサの教えは本物です、
そのへんのキリスト教組織の中で神父と言う名前の盲人とは違うのです。

ちなみに、私はイエスから実践内容など説かれていません、ですが至りました、
私にとってイエスは、実践内容が間違いないことを承認する意味でした。

マザー・テレサのように説かれる必要が無かったのです。

マザー・テレサと私の違いは、私は釈迦にも実践内容を承認されたと言う点が違います。

イエスの教えと釈迦の教え、
この2つは一緒に食べ合わせをしても問題はありません、補完し合う関係です、
しかし、出家至上主義時代に説かれた釈迦の教えより、
イエスの教えの方が遥かに現代の社会に合うようにカスタマイズされていて優れている、
しかし、双方同一線上にある教えではあるが、釈迦の方が視点的に上まで説いています。

これは、イエスの教えの説ける期間の短さに主な原因があり、
渡る方法を説く事が最重要だったことが主な原因だったと思います。

自分がいてイエスがいて、話を聞いて、
イエスの教えは元々自分がいて他者がいてと言う、
このような相対の低次元から相対を超えた次元に上昇するための教えなのです。

ただ、私の場合は釈迦の教えを取り入れていましたので、
それから間もなくして、イエスも釈迦も遥かに超えた究極の「それ」まで行ったのです。

私に今師がいるとしたら、イエスでも釈迦でもなく究極の「それ」です。

そこは、イエスも釈迦も一切を捨てて、さらに先にあります。

善悪の彼岸がアダムとイブが禁断の実を食べる前に戻る事であるとすると、
究極の「それ」は光と闇が分かれる前です、
つまり光でさえも捨てて行かなければなりません。


原罪 - Wikipedia(2013年7月16日 (火) 00:32 UTC)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%BD%AA
>神は楽園に人を置き、あらゆるものを食べて良いと命じたが(創世記2章15節 - 17節)、
>善悪を知る知識の木の実のみは「取って食べると死ぬであろう」として食べることを禁じた。
>しかし蛇にそそのかされた女が善悪の知識の木の実を食べ、
>女に勧められたアダムも食べた(創世記3章1節 - 7節)。


天地創造 - Wikipedia_A0(2013年4月17日 (水) 14:48 UTC)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E5%89%B5%E9%80%A0#.E5.89.B5.E4.B8.96.E8.A8.98.E3.81.AE.E5.A4.A9.E5.9C.B0.E5.89.B5.E9.80.A0
>1日目 暗闇がある中、神は光を作り、昼と夜が出来た。

そこに至ったなら、イエスも釈迦もどんな神も、
この宇宙でさえ全て「妄想の産物」だったのだという事になってしまうのです。


スッタニパータ9
>走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、
>「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、
>この世とかの世とをともに捨て去る。
>──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

70 ラピ。 :2013/09/29(日) 08:57:11
☆TK師

貴重なお話 いつもありがとうございます!

私は釈迦やイエスの教えについては
有名な言葉は知っていましたがほとんど知りませんでした。

でも自分の不屈の(ある意味しつこい(笑)精神で
教えがなくてもある程度までは進んでいました。

でも、最終的に私を彼岸に導いたのは
師から教えてもらった「激流」でした。

その時の私にとって必要な教えでした。

まさか、激流の中に彼岸の道があるとは、、、。

師から教えてもらった「激流」

直感的に「これだ!」というものがありました。

だから最終的に激流が起こった時に
それに向かって進む決心をし、
無事渡り終えました。

ちなみに私の第2の実践は、
師も「地獄」だと言われているのと同じように
まさしく大変な状況でした。

でもあきらめなかった。
どんな状況でもそれを極めるために
(そしてその実践の限界を知るために)
なにがあっても続けました。

実践している自分が何度も消えそうになったけど
(何度もその瞬間を体験しました)
それでもやめなかった。

、、、しつこいのです。(笑)

実践をとことんやってると
もう引き返そうにも引き返せないのですけどね、、、。

(それまでの自分がどんなものであったか忘れてしまったのです。)

だからもう進むしかなく 何が起こっても
さらに実践をしてました。

そしてある瞬間、最終的に闇に放り出されました。

そこから必死に帰ってきたのです。
(「必死」という言葉はまさしくこの状況にぴったりでした)

自分が消えてしまったらどうなってしまうのか
怖かったです。

闇に放り出されたときは怖さに関係なく
勝手に放り出されてしまったのですが。

この放り出された時は「怖い」というよりは
時間が止まった感じで、なにもありませんでした。
あるとしたら闇?
時間にすると一瞬です。

そしてまだまだ至る時ではなかったからか、
彼岸に少し触れたけど 至ることはできませんでした。

でも、私は一歩足を踏み込んだ彼岸から
あるものを得て帰ってきました。

あるものとは
その闇の時に体得したもので
うまく表現できない「それの一部」です。

その経験のおかげで「からっぽ」でいることができるようになりました。
でもこの「からっぽ」はまだ意図が必要でした。
=まだ至れていない、ということです。

その時は「からっぽ」そのものではなかった。

でもそれのおかげか
最終の激流を1日で渡り終えることができました。

どんな経験も無駄ではありません。

どうぞ、不屈の精神で日々をがんばってください。

するなら「徹底的に」です。

私は実践に自分の人生をかけました。

もう生まれ変わらない、と決心していたので
「今世でしかもうがんばることはできない。
今世できなかったから来世でがんばる、という選択肢はない。
今しかない。」

まさしく、今世をかけていました。


>「自己喪失の体験」バーナーデット・ロバーツより
>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。

ほんと、そうなんですよね。

「何も起こってないけど話せる。」

そんな感じですかね。

この状態で初めて何にも影響されず
純粋に表現できると思います。


まだまだ至りたてほやほやなので
この状況にもっと慣れていきたいと思います。

「ほやほや」の様子について、
またいつか書けるかもしれません!
@(*・ω・*)ポッ

71 滝沢 :2013/09/29(日) 22:36:09

TKさま、ラピさま

はじめまして
お忙しい所、失礼します。

一昨日に非常に似た経験をしたので、
書き込まさせていただきます。

色々な体験を通して、それである無、空、愛は、知っています。
いつもは、愛というよりは、無そのものになる事をワークをしていました。

一昨日、瞑想中に無、空と一体でいると、
かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)、
それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、
恐怖を感じましたが動こうにも動けなく、自分を消しゴムで消すように自分がどんどん消えていき、
ど真っ暗な虚無をそのものになり、そこから記憶はありませんが気づいて、
身動きができるようになってから何とか抜け出しました。
ここで感じられた虚無感というのは、
普段感じられる、愛である無であるといった存在意識至福といったものではなく、
圧倒的に無味乾燥で、いかなるものも肯定しない全否定でありました。
それは、死神がいそうな闇そのものでした。

前兆は、3日前の無を感じる瞑想で、普段は意識そのものになるのですが、
その時は意識が粉々になって無に散らばってしまい、
何もかも終わってしまったという何とも言えない悲しいマインドが出てきていました。

ただ、悟ったかと言われると、そうであるかないか分からないです。笑
私の場合は、悟りたいというよりは、探求のゴールが何かに興味があります。
あの闇を考えると精神探求自体何もない可能性高いですが、
まだあの闇の世界は何かあるのではと恐いもの見たさの興味が出てきています。
なのでマインドも無くなってないです。直したいのですが、人嫌いな所は変わらないですし。。

72 滝沢 :2013/09/29(日) 22:38:09
すいません。
3:悟りを目指している方(143) : に書くべきでした。
間違えてしまい、ごめんなさい。。

73 TK :2013/09/29(日) 23:53:20
滝沢さん

>一昨日、瞑想中に無、空と一体でいると、
>かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)、
>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、
>恐怖を感じましたが動こうにも動けなく、自分を消しゴムで消すように自分がどんどん消えて
>いき、
>ど真っ暗な虚無をそのものになり、そこから記憶はありませんが気づいて、
>身動きができるようになってから何とか抜け出しました。


良い経験が出来たのではないでしょうか。

ここはなかなか興味深い物を感じます。

最初に光があった事を考えるなら、何かを体験させられたと言う感じに思えます。

ラピ。さんも、達した際は、以前の体験で得た感覚が手掛かりになったのです、
この時に得た感覚は、
これから先進むための手掛かりとして役に立つものになるかもしれません。


>何もかも終わってしまったという何とも言えない悲しいマインドが出てきていました。
>
>ただ、悟ったかと言われると、そうであるかないか分からないです。笑

悲しいマインドが出てきた所は、悟りではないですね。

>私の場合は、悟りたいというよりは、探求のゴールが何かに興味があります。

この捉え方の方向性では永遠に至る事は出来ません。

探求を初め「求める」と言う行為は悟るためにはご法度なのです。

探して見えてくるものは、全てまやかしです。

74 ラピ。 :2013/09/30(月) 00:29:58
☆滝沢たん

書き込みありがとうございます!

滝沢たん、「それである無、空、愛を知っている」とは
それを体験したことがある、ということでしょうか?

「無、空と一体であると経験できる瞑想」
みたいなのがあるのかな?

瞑想はほとんどしていないので
なんといも言えないところもあるのですが
私の場合、消えるときは一瞬(っていうのかな)で
徐々に消えていく感じではなかったです。
(第2次実践の時も第4次の時も)

滝沢たんは闇を経験したかもしれないけど
それそのものではないかもですね。

なぜならまだ興味があるからです。
そのものになってしまえば興味を持つ必要もないし、
そもそも興味も出ません。

そして至ると、それまで自分だと思っていた自分が消滅してしまうので
必ず、至ったとわかります。

もしかしたら今回の経験は
私の第2次の探求の時に経験したものと同じ感じなのかな?
どうなんだろう、、。

私の場合 かつての2次の探究の時は
確かに闇を経験したけど
その時はそれがどういうことなのかわかっていませんでした。

>圧倒的に無味乾燥で、いかなるものも肯定しない全否定でありました。
それは、死神がいそうな闇そのものでした。

その時の状況を言葉に表わせるって、すごいですね。
これは思考とかではなくて、確かにその体験そのものですか?
ここが気になります。

滝沢たんは目指すもののために日々瞑想をしている、
という感じでいいのかな?

@(*・ω・*)ポッ

75 滝沢 :2013/09/30(月) 07:18:01
TKさん、ラピさん

お返事ありがとうございます。
以下、マインドを使って書かさせていただきます。
ただ、、言い回し上、ぶっきらぼうな所があるかもしれません。
マインドを使おうとすると意識が飛び散っている状態で、
細かい事に注意が向けないため、気にしないでいただけると助かります。

>ラピ。さんも、達した際は、以前の体験で得た感覚が手掛かりになったのです、
>この時に得た感覚は、
>これから先進むための手掛かりとして役に立つものになるかもしれません。

はい、そう思います。
闇の体験後は、
意識が周りに飛び散った状態で、自分をつかもうにもつかめない状態です。
自分が何なのか分かりません。ただの石ころでもあるし、全てでもあります。
何かの思考は出てきますが、それも無に混ざるチリのようです。

> 悲しいマインドが出てきた所は、悟りではないですね。

はい、闇の体験の前の日は、マインドが出てきました。
ただ、それも今となっては、過ぎ去った他人事のようです。

>私の場合は、悟りたいというよりは、探求のゴールが何かに興味があります。

>この捉え方の方向性では永遠に至る事は出来ません。
>探求を初め「求める」と言う行為は悟るためにはご法度なのです。
>探して見えてくるものは、全てまやかしです。

マインドは他人事のように闇は凄いぞ。存在意識至福よりすごいぞって言ってきています。
今思えば、闇は存在そのもので、存在の無限性を表現していただけにすぎないという理解です。
マインドの観点ではなく、それの観点では
闇でも愛でも至福でもなく、私は、ただのそれで、ただの物です。
石ころと同じ何の意味もなさないただの物です。

ラピさん

>滝沢たん、「それである無、空、愛を知っている」とは
>それを体験したことがある、ということでしょうか?

体験というとより、
存在意識至福がそれの性質で、
闇の体験前は、時系列?でそれが起こっていたのですが、
体験後は、それが無限ループで3つ同時に起こっている感じです。

>私の場合、消えるときは一瞬(っていうのかな)で
>徐々に消えていく感じではなかったです。
>(第2次実践の時も第4次の時も)
>もしかしたら今回の経験は
>私の第2次の探求の時に経験したものと同じ感じなのかな?
>どうなんだろう、、。

第2次、第4次の記事あったりましますでしょうか?
ブログ探してみたのですが、見つかりませんでした。

>そして至ると、それまで自分だと思っていた自分が消滅してしまうので
>必ず、至ったとわかります。

1。自分は一切なくなりますでしょうか?
2。自分は起きるけどチリのようでしょうか?
私の状態としては、2の方が近いと思います。
自分は、ただ起きて過ぎていっている状況です。

>圧倒的に無味乾燥で、いかなるものも肯定しない全否定でありました。
それは、死神がいそうな闇そのものでした。
>その時の状況を言葉に表わせるって、すごいですね。
>これは思考とかではなくて、確かにその体験そのものですか?
>ここが気になります。

はい、体験そのものです。
それを後付けの思考で言葉で表現しただけで、
無味乾燥、闇の中に死神はいるというのは、思考です。

76 TK :2013/09/30(月) 17:38:46
滝沢さん

至ったかどうか、私もあなた本人ではないので、
この表現を通して計り知る限りではかなりいい線で進んでいると思います。

しかし、私も前にも言いましたが、
本当に至ったのならマザー・テレサのようにそれまで続けてきた祈り等の実践をしようにも実践できない、
実践不能と言う状況がやってきますから、まず、その方向で進まれることをお勧めします。

ちなみに、
ラピ。さんは至った時には、私が印可して至った事を認めたとかよりも先に自身で至ったことが分かったのです。

どんなに逆立ちしても、
今まで必死にやっていた実践が出来ない実践不能と言う状況がやってきます、
それを成就か否かの判定にして下さい。

それが一番の判定法なのです。

>次は至った直後のラピ。さんの言葉です。
>
>[師匠への報告 (復活版)] by 大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1652.html
>
>>この私はだれですか?
>>
>>師匠、何もできなくなる、努力ができなくなるってこういうことですか?
>>
>>何もできないのですが
>>この私はなんですか?
>>
>>師匠、これはなんですか?
>>
>>と送りました。
>
>実は次の至った人と同じ状態を成就したのでした。
>
>アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>>私は無だ。
>>
>>何も持たず何も出来ない。だが、すべてはわたしから立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。

77 滝沢 :2013/09/30(月) 19:01:29
TKさま

これ以上ない愛ありがとうございます
ただ沈黙せざる得ません

仰られますように行為自体が何の意味もなさず、為される事が完璧です
全ての行為は起こっては消えて行きます

行為者がチリとして残っていることも事実です

頂いた示唆を胸に
自然に進もうと思います

失礼いたします

78 TK :2013/09/30(月) 19:07:11
滝沢さん

>マインドは他人事のように闇は凄いぞ。
>存在意識至福よりすごいぞって言ってきています。

これもかなり、曲者ですね。

闇は求めないで下さい、あきらかに無色貪(精神的欲望)です。

これだと、真実とは別物の妄想による闇を作り上げてしまいますね。

マザー・テレサやバーナーデット・ロバーツ等クリスチャンの闇と表現している、
神が消えた、現象について解説すると、マザー・テレサの言葉の中にありましたが、
実践においては横たわっている具合の悪い病人を主イエスが横たわっているのだと言うつもりで接しなさい、
私たちは看病ではなく修道の実践をしているのです的な表現が出てきてましたね。

これが、マザー・テレサの言う主イエスとの一対一の関係性の構築です。

このように修道では自分の取り組む対象に対して、信仰しているイエスや神を、
妄想を駆使したオーバーラップと言う手段を使います。

所が、至ってしまうと、目の前から「対象」となるものが一切消えてしまいます。

よって、何も無いとしか言いようが無くなる、
妄想を駆使した対象物に対しての神のイメージのオーバーラップと言う実践手法も不可能となる、
これが神が消える現象、この人たちにとって神を光に譬えているので、
神が消えたのですから実践者にとってはつまり闇そのものと表現するような状況なのです。

79 TK :2013/09/30(月) 19:47:08
色々な話が出てくると良いですね。

それにまつわるような部分の、今まで明らかにできていなかった所の、より、
明確な表現が出せますね。

ラピ。の原点│大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1727.html

>まずは私を使っていろいろ実験して
>みんなが使える方法を開発するのだ!


これ実はここにはあらわされていない、一つ重要なポイントがあります。

>まずは私を使っていろいろ実験して
>みんなが使える方法を開発するのだ!

この為に、「私は、まずは私を使っていろいろ実験して、
みんなが使える方法を開発するのだ!」と言う思いを捨てて実践するのだ、
と言うのが真実の実践法です。

実践とは私は死ぬまで、この実践を続けて行くのだ、これが至るための方法です。

結果を僅かにでも想定して実践したら、至れません。

命ある限り死ぬまで永遠に実践する、これがポイントです。

色々と至るための必須のポイントがあるのです、
これらが分からないといつまでも迷路の中で終いには世に沢山うようよいる酔っ払いの一員になる訳です。

例えば世界の人たちのためにと思ったら、
世界の人たちのためにと言うその思いを捨てて、実践する、
複雑ですが必要な事なのです。

善であろうと悪であろうと、とにかく「一切の願望」を捨てる、これが至るためのポイントです。

そうすると、しばらくして一人でに至って、自由に色々な事が出来るようになります。

80 滝沢 :2013/09/30(月) 20:28:24
TKさま

闇を求めたというよりは、自然に起きました。
それは、私の底深くにあった想念であり過去生なのかもしれません。
ただレットゴーを極限まで行った結果がゾンビ状態で闇でした。

あの感じた闇は、精神的な想念かもしれないのですが、
ダンテスダイジやEOがいっている絶対無であり虚無である気がしてなりません。

闇を解明したいという事よりも本当に大切な事は、
何ももとめないで、起きる事をただ受け入れる事が大切な事だなと思います。

失礼いたします。

81 ラピ。 :2013/09/30(月) 23:26:07
☆滝沢たん

私の言葉もぶっきらぼうに見える時があるかもですが
単なる言葉ですのでよろしくです。

第2、第4の実践についての記事はいろんなところに書いてて
まとまってないかもですが
このスレッドでは38番から書き込んでます。

また「悟りを目指している方」のスレッドでは
111から書き込んでます。

あとブログでは第2の実践の状況をちょこっと表している記事があります。

「至る」
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1722.html


>1。自分は一切なくなりますでしょうか?
>2。自分は起きるけどチリのようでしょうか?

えっと、私が書いたのは
「今まで自分だと思っていた自分」が消滅した
ということです。

そして付け加えると、その更なる自分がいた、ということです。

その更なる自分をどう表現していいか、、、。
いまだにできません、、、。

表現しようとすると、ただただ無心になってしまう
という感じです。

ちなみに至る前まで「本当の私」だと思ってた自分は
一般的に言われている「エゴ」と言われているものだったのだ
とわかりました。

それまで「エゴ」というものが
(いろんなところでその言葉をよく聞いてましたが)
どういうものかよくわかっていませんでした。

「それまで自分だと思ってた自分」が消えて初めて
「あ、これがエゴというものだったんだ。エゴが消えたんだ。」
とわかりました。

ちなみに第2次実践の時の私の言う「闇」も
いまだにどう表現していいかわかりません。
表現しようがないので「闇」と言ってます。

だから滝沢たんがその闇に対して表現できていることに
「ん?」と思いました。

>私の状態としては、2の方が近いと思います。
>自分は、ただ起きて過ぎていっている状況です。

そのただ起きて過ぎていっている自分を見ている「自分」
が存在していますか?

そしてもうひとつ。

もし至ってるとしたら。
そしてそれがつい最近のことだとしたら
ここまで その状況をすぐに明確に言葉には表せないと思います。

至ればそれまでと全く違う次元ですので、
私の場合その状況がどういうことなのか、
初めはただただ味わうことしかできなかったから。

本などで読んだ情報と照らし合わせて
「そんな感じなんだろう」という感じで表現されている感じがしました。

もし至ってしばらく経っていて
その状況に慣れていらっしゃっる方の表現だとすると
それもありなのかなと思いますが。

@(*・ω・*)ポッ

82 ラピ。 :2013/09/30(月) 23:35:21
☆TK師

ありがとうございます!

確かに実践の動機は
「まずは私を使っていろいろ実験して
みんなが使える方法を開発するのだ!」
でしたが
実践してる時はそんなことも忘れてひたすら実践でした。

その動機により、決めた実践をひたすらやってました。

決心したら ひたすら実践です@(*・ω・*)ポッ

83 TK :2013/09/30(月) 23:47:52
滝沢さん

>あの感じた闇は、精神的な想念かもしれないのですが、
>ダンテスダイジやEOがいっている絶対無であり虚無である気がしてなりません。

可能性は強いですよ。


>かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)、
>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、
>恐怖を感じましたが動こうにも動けなく、
>自分を消しゴムで消すように自分がどんどん消えていき、
>ど真っ暗な虚無をそのものになり、そこから記憶はありませんが気づいて、
>身動きができるようになってから何とか抜け出しました。


ただ、ここで曲者なのが次の部分。

>かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)
>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、

ただ、光の存在に体験させられただけみたいにとれるのです。

なぜかと言うと、

>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、

光をあなたの意志で消し、さらに真っ暗な虚無に突入したと言うのであれば、
あなたの取ったプロセスがヒットしたと言えるのでしょうが、
そのように思えないのですね。

でも、貴重な体験であるとは思います。

これからの、あなたの進むための手掛かりになるのではないでしょうか。

また、同じような経験が踏めると良いですね。

84 滝沢 :2013/10/01(火) 06:43:29
おはようございます。
TKさま

私の一過性なる体験談に付き合っていただき、
色々なご意見ありがとうございます。

それそのものであり、それから意識と思考、世界が、ただ起きていき消えていく無限ループ三昧で、
今自分の状況を説明できる状態にはなくなっています。

また機会があればお邪魔させていただければと思います。

失礼します。

85 TK :2013/10/03(木) 07:06:46
エゴにはエゴを増強する作用の悪玉エゴと、
エゴを減らす(殺す)作用の善玉エゴの2種類があるのです。

方向的にヒットしているのではないでしょうか。

ちなみに私は自然が良いなどとどこかの間抜けみたいな事は言いません、
無理やりこそが鍵なのだと説く者ですから。

釈迦も「激流」だと説いてましたが、
「緩流」に対する「激流」とはそう言う事ですよ。

>あの感じた闇は、精神的な想念かもしれないのですが、
>ダンテスダイジやEOがいっている絶対無であり虚無である気がしてなりません。


>一昨日、瞑想中に無、空と一体でいると、
>かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)、
>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、

読解力を駆使してみましたが、これが恐らく次元上昇のプロセスですね。

光はあなたが確認しているので自他がある、
つまり恐らく一般的にコーザルと呼ばれている次元なのでしょう。

>瞑想中に無、空と一体でいる

つまり、この段階ではまだ、無、空では無く残り物(形態)があるのです。

光が出た後に光が消える、これも次元上昇のプロセスです、
実際はこの光が消えた後が「形」を突破した「一体(合一)」と表現できるプロセスになると思います。

その後は、プロセス的には空間が滅び去る段階へと続きます。

経験できたプロセスを手掛かりとして、
繰り返しトレースできるように心がけると良いと思います。

やがて、自我が消滅します。

肉体はメンタルが物質化したものと考えるとちょうどいいようなものですから、
実際はメンタルの変化に応じた肉体の変化が出てこないと、
メンタルもしっくりしたものにならないと思いますが、
肉体は物質なのでメンタルと違って変化に時間がかかり、
その間メンタルは低次元に縛られますから、繰り返しの鍛錬が必要です。

86 滝沢 :2013/10/03(木) 12:35:03
TK様

ご教示ありがとうございます

長い時間、頭を使おうとすると、締め付けられてしまうため、からっぽのまま書きます。

今は、自我の思考も含めた体験が起こり、消えていく。
生活していて楽になったという思いが出てはそれも消えていく。
というような無限ループです。
そのループがあたりまえになってきて、大分余裕になったという思いが出て消えていく。。
こうして書く事、表現する事自体に無意味さを感じ、TVを見るようにただ見ている聞いている方が楽に感じます。

ここ数日で気づいたら何かがシフトしており、自我が主人公となる事は無くなっており何かやろうという意味込みを作る事も難しくなってきています 頑張ればできるのですが
起こった事をただこなすのが楽で良いです。
今までの生活習慣は残っているので、頂いた教示を意識の片隅において、ただ座ろうと思います。

また何かの激流が起こりましたら、書き込みさせていただこうと思います。

失礼いたします。

87 TK :2013/10/04(金) 23:25:15
>行為者がチリとして残っていることも事実です

エゴがあるという事ですが、しかし、
そのエゴが究極に向かうためには推進力として使えます。

>長い時間、頭を使おうとすると、
>締め付けられてしまうため、からっぽのまま書きます。

そのスタンスが良いです。

ここまでくれば、いい線です。

ラピ。さんにした指導と同じに言えますから、常時、
頭の中を空っぽで居るようにして下さい。

憶えておかなければならない事とかは、紙とペンを使って、筆記して、
度々見るようにして、頭の中はそう言う事も含めて常に一切空っぽにするのです。

あなたの前には先人が二人、私もラピ。さんも歩いた道です。

ここは、受け売り知識ではない自分の経験の話しをする場ですから。

ここでは「理解は低次元な行為」なのです、「理解を捨てて下さい」、
誤認覚者は「理解したことで悟ったと勘違い」している人たちですがあなたにはこの事が通じそうですね。

ラピ。さんはあなたと違って、
瞑想ではなく公開はできませんがあるヨーガの技法を利用したのです。

これが本当の空っぽ状態なら、体の動きもままならなくなってくるはずです。

感情の無い力のこもらない、まるでロボットのような動き方や話し方、
全体として意志の無い生きる屍のようなと表現するとちょうどいいような動き方になります。

感情の無いロボットのようなシンプルな行為です。


これは、至る前の人は思いに基づき行動をし思いに基づき対話をし、
このように全て「思い」に基づいて行為をしている、
その行為の元である「思い」を捨てる事により全ての動きが出来なくなることに起因しますが、
やがて、至った後には、
「思い」に基づくどのような行為より優れた瞬間的な行為がそれにとって代わって出現します。


>今までの生活習慣は残っているので、頂いた教示を意識の片隅において、
>ただ座ろうと思います。

ちなみに、ヴィパッサナ等の日常生活を利用した実践はしてないのですか。

釈迦も教えてますが、こちらにも重要な価値があるのです。

>また何かの激流が起こりましたら、書き込みさせていただこうと思います。

>何もかも終わってしまったという何とも言えない悲しいマインドが出てきていました。

悲しいマインド程度で良かったですね、
私は瞑想時には開けてはならないパンドラの箱を開けたがごとく、
幼いころに負った罪悪感のトラウマが巨大な怪物の形となって来る日も来る日も私に襲いかかり、
感受性は極めて鋭敏になった危険な状態で、
ポルターガイスト現象なども発生し、逃げ場の無い地獄の日々を耐え抜きました。

頑張って下さい。

日常実践は至る方法としては重要なウエイトのものです。

やるかやらないか選択肢の問題ですが、
私はそれをやらないわけにはいきませんでした。

なぜなら、
その時の私は肉体としての自分では無く精神体としての自分を生きていたからです。

修行のステージを上げて行くと言うのはこういう事を言うのです。

88 ラピ。 :2013/10/05(土) 04:36:25
☆TK師

師匠、いろいろありがとうございます。
補足させていただきます。

私のそのヨーガの技法は第2の実践なのですが
これは起きている間中ずっとしていました。

もちろん、普通に生活してましたので
(山に籠ったりはしてません(笑)
ご飯を食べてる時も、仕事をしてる時も
何かをしてる時もずっとです。
それが実践です。例外なしの日常での実践です。

この実践により、私は闇に放り出され
自分が消えそうになりました。

実際、消えた瞬間がありました。

でも完璧に消えることができませんでした。

ただ、この時に得たものが「からっぽ」でした。

でもこのからっぽも簡単に得た物ではありません。

闇から帰ってた時に、精神と体が分離した状態になっていて
今までどうやって体を動かしていたかわからなくなってました。

ちなみに闇に突入する前にも分離した状態であり、
(第1の実践で自分が否定さる出来事があり、どん底状態でした。
そこから第2の実践が始まりましたので)
日常の生活をするのが常に意識的でしかできなくて
(そうでないと、腕一本、あげることすらできなかった)
常に実践せざる得ない状況でありました。

ただ究極の消える体験をしてからは、その実践ができなくなりましたので
ただただ、相対的世界(此岸)に一生懸命帰ってきました。

ちなみに究極の消える体験の前も
何度も消えそうになる体験はしています。
それでも実践はやめなかったので究極の消える体験までいきました。

究極の消える体験をしてからは
赤ちゃんに戻って全ての行動を一からやり直していく感じでした。
そうやって帰ってきました。
ある意味、一度死んで、生まれ変わった感じですかね。
「私」をもったまま それを体験した、という感じです。

この一からのやり直しのおかげで
「私」はまだいましたが純粋に行動することができるようになりました。

(普通、赤ちゃんから成長してすべてできるようになるのは
いつの間にか だと思いますが
この時の新たなる私の誕生の時は
「私」があるままで全てを始めました。

ひとつひとつの行動を「私」が存在しているままできるようになっていった
という感じですかね。
無意識ではなく、意識的に、という感じです。

赤ちゃんの頃は「私=エゴ」はある意味いなくて
いつのまにかできるようになる感じ、
気付いたらできていた、という感じですよね。

私の場合、「私」という意識を持ったまま生まれ変わった経験ができた、
という感じですかね。

1つの行動があたり前にできるって、
ほんと実はすごいことなんですよね。
それがどうやってできるようになったのか、
考えてもわかりませんよね。)

今できる当たり前の行動を
ひとつひとつ、意図的にするようにしたらわかるのですが

私たちは実は何もしていなかった。

無意識に思考のまま生きていたのです。

そして赤ちゃんの状態から「私」をもったまま歩き始めて
思いに頼らない動き=純粋なる動きができるようになりました。
=からっぽです。

ただし、まだ「私」はおりました。

そのからっぽは「私」が意図しなければ空っぽではなかった。
その意図する私がまだいた。

私は「からっぽ」そのものではなかった。
その「からっぽ」そのものになることが悟りであるのだろう、
と直感的に思いました。

それになるために、最後の激流を渡る決心をし
それを達成しました。

からっぽなる私を超えて
からっぽそのものになりました。

@(*・ω・*)ポッ

89 滝沢 :2013/10/05(土) 16:19:50
TKさま、ラピさま

愛のこもったメッセージありがとうございます。
色々とありがとうございます。
メッセージからくる波動に、ただただ、感謝です。

ご返信しようと色々書いてみたものの、
どんな発言も空を切ってしまうので、消してしまいました。

すいません。表現できず。。

失礼します。

90 TK :2013/10/06(日) 08:48:47
滝沢さん

>ご返信しようと色々書いてみたものの、
>どんな発言も空を切ってしまうので、消してしまいました。

まともな実践とはそういうものです。

質問すら出てこない。

なぜなら、質問も疑問も捨てられてしまうのですから。

私は今まで対話のピンポン遊びをやってる、
自称実践者といういかがわしい事をして遊んでいるエセ実践者を多くみました。

あの者たちは、
低次元のアストラルと言う次元での住人として楽しんでいるのですが、
絶対にあの者たちがそれより上の次元に上がれることはありません、断言します。

生きているうちよりあの者たちが死んだ後にその違いは明らかとなります。

あなたには分かるでしょうが、あの者たちの善も悪も無いと言っているのと、
私が善と悪が無いと言っているのは、表現だけは同じでまるっきり別物です。

それを知っている我々は、釈迦もそうでしたが、あえて善も悪もあると言うのです。

ただ、似非賢者の特徴は善も悪も無いと説きますから、
この辺が判断基準になるところです。

我々は善と悪はあると説きます、似非賢者は善と悪は無いと説きます、
なぜこのような違いが出るかと言うと、
我々は善と悪を無くするための善と悪の利用の仕方を知っているからです。

似非賢者はこれを知りません、ですから、
本からの受け売り知識しかないので善と悪は無いと理屈をこねまわして説いているのです。

しかし、真実は理屈が無いから善も悪も無いのですが。

私は実践時に幽体離脱と言うツールが使えましたので、
どんな実践をすると肉体を抜けた後はどうなるか、
繰り返し繰り返し確認する術がありましたが、
肉体と言う異次元交流のための便利ツールをまとっていると、
違いがはっきりしませんが、死んだ後には大違いです、しかし、
その時には後の祭りです。

あなたは、確実に次元上昇のプロセスを上がっている、
アセンションを果たすべく本物の実践者です。

次元上昇による行動方式が変更される過渡期はあなたのようになります。

これが本当の次元上昇です。

マタイの福音書 5章37
>だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、
>『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

あなたのような本物の実践者のために我々がいるのですから。

エセ実践者は、
目的が違いますから自らの誤認による覚者と戯れているとちょうどいい、
その二つがバランス的に釣り合うものですから、
両者ともそれで楽しい時期なのです。

堂々巡りを回っていても自分たちもそれで楽しいのですから、れはそれ。

「理解」と言うキーワードで結びつくのが、誤認やエセの結びつきですが、
本物は「理解と言う低次元行為をすっかり捨てて」合一に向かうのです

「理解を捨てて」、
この一言はあの酔っ払い(恐らく死ぬまで)の人たちには通じないキーワードなのです。

私は激流の実践時は「理屈」はすべて捨てました。

我々本当に次元上昇した者は「理屈」がありません。

今ここで述べているものも、
聞く者にとって理屈でも我々にとっては「理屈」ではなく、ただの言葉なのです。

これが次元の違いなのですが、エセ実践者も自らの誤認による覚者も、
本当にこれが分からない。

好きで酔っぱらっているのですから、
それはそのまま構わないでおくことが賢明なのでしょう。

エセ実践者ばかりを目にしてましたので、
あなたのような本物の実践者を見るとこちらもうれしくなります。

91 TK :2013/10/06(日) 09:16:06
地獄と言う表現について、なるべくわかりやすい言葉で説明するならば、
一例で言えば悪いことをして刑務所に入るのにかなり似ていますね。

実際は恐らく刑務所などと言うそんな生易しいレベルのものでは無いと思いますが、
しかし、規則正しい生活を送らされてお勤めをさせられる、
禅寺などの修行環境と、刑務所はどこか似ている点があると思います。

そもそも刑務所も、人間を修養するための施設の一つと言う意味では、
似ていても不思議ではありません。

私が激流や地獄と表現するものは、
これらの機能をさらに倍増させたようなものなのです。

よく、囚人生活の映画とか見たことがありますが、
実際は刑務所と言えども懲役で働かせられているだけではなくて自由時間もある事でしょう、
しかし、これに対して私が激流や地獄と言うものに対しては、
就寝時以外の意識のある限りは、マインドに自由を一切与えない、
このような実践になります。

標準的な人間の感覚なら、
マインドのままに自由にできる時間を自由時間とか休憩時間とか表現していますが、
それを一切自分の生きている生活の中から排除するという事を指します。

マザー・テレサは愛の反対は無関心であると言いましたが、
この意味をさらに詳しく解説するなら、
自分のマインドの動きに無関心で居てはならないという事なのです。

至る前の人間は必ず、遭遇する出来事に対してマインドが動きます。

無視してもマインドは動いているのです、なぜなら、その「無視」そのものが、
既にマインドが動いているという事なのですから。

本当に至った者の辿り着いた状態としての無関心は、無視すらしないのです、
一般の人には逆立ちしてもこのような事は出来ません。

善と言う判断が僅かにでも起きたなら「必ず」無視しないで実行に移しなさい、
悪と言う判断が僅かにでも起きたなら必ず無視せずに絶対にそれをしてはいけません。

就寝時以外の意識のある限りにおいて常にこれを実行しなさい。

これ本当に口で言うのは簡単ですが、実行に移すと偉く困難性の高いものなのです。

肉体上の行動の自由を規制するのが刑務所なり禅寺などの修養機関であるとすると、
更に突き進んで、
メンタルの自由を就寝時以外の意識ある限り規制するのが激流の実践なのです。

更に激流の実践では善とマインドに僅かにでも浮かんだら、
100パーセントの行動を起こさなければなりません。

つまり、マインドも、行動も生きている生において一切の自由が無い、
これが実践の真実です。

刑務所は生易しいと思いますよ、
いくら行動を規制されても大元のマインドまでは規制されませんから。

所が、大元のマインドを自らで100パーセント規制したら、
行動の自由も一切ありません。

つまり、行動、メンタルともに牢獄の中という事です。

この実践で重要なのは例外無しの100パーセントと言う言葉にあるのです。

生きている意味が無いと感じますよ、でも、
それが至ると生きている事の最も重要な意味だったのだと言う事が分かります。

至った我々には生きている意味はありません、
この状態で楽々生きているのです。

至る前の者は変な所は真似せずに、
このような所こそ至った者の真似をしなければならないのです。

一般の人には意味なく生きる事はこの上なく苦痛です、
至った我々はそのような状況に常に楽々生きていますが、
これが次元の違いからくる苦痛なのです。

この、「意味なく生きる」事こそ真似して、
そのことから受ける苦しみを充分に味わって下さい、
それこそが真実の「激流」の実践なのです。

92 ラピ。 :2013/10/06(日) 11:40:42
TK師 滝沢さん
貴重なお話、いつもありがとうございます!

私がかつて実践していたときは
はじめは何も疑わず、自分を信じての実践でした。

そのあと、信じていた自分が信じられなくなる出来事がありましたが
それでもあきらめずに実践を行いました。
(ちなみに至ると 信じてた「自分」は消えます)

実は「師」はいらないと思ってました。

、、、本物の師なんて いない って思ってました。

だから自分だけで長年歩いてました。

TK師に初めてメールをしたのも
師匠を探していたのではなく
私が今どの位置にいるのかを知りたくてコンタクトしました。

でも最終的にTK師は「本物」であると確信しましたので
師を信じ、激流に飛び込みました。

実践中にいろんな疑いが出てくるかもしれませんが
それはすべて「エゴ」の声で
もし、その声に従って疑問をもって実践がおろそかになってしまったなら
それこそ、「エゴ」の思うつぼです。

だからひとつのことを決めたならどんなことがあっても
最後までやり通す、できなくなるまで続ける
くらいの決心が必要です。

ひたすら清き道を進んでください。
疑う時間を持つ暇もないほどに。

大丈夫です。

清き道を歩かれているすべての皆様。

@(*・ω・*)ポッ

93 滝沢 :2013/10/06(日) 18:46:40
TKさま、ラピさま

精妙なニュアンスに共感いたします。
何も言えないです。
ただ、受け取らさせていただきました。

失礼いたします。

ラピ様、こんなコメントで掲示板汚してしまってごめんなさい。
以後、何か自分で表現、もしくは体験がない場合は、
そのままコメントしないでおこうと思います。
掲示板は毎日チェックさせていただいておりますので。。

94 TK :2013/10/06(日) 19:30:11
滝沢さん

>以後、何か自分で表現、もしくは体験がない場合は、
>そのままコメントしないでおこうと思います。

もし、
あなたに対してのコメントであるとあなたの中に判断が起きた時にはコメントは返してください。

理由は分かるでしょうか。

あなたの徹底できていない部分の実践が、
ここで明らかになったのです。

あなたは、あなた独自の意思表示について、
非常に甘い感覚を持っていると言うことが分かりました。

あなた独自の意志表示をしてもらっては実践上は駄目なのです。

この場合はコメントを返さない事があなた独自の意思表示となってしまうのです。

至った我々には意志と言うものがありません。

しかし、そうなるために自分の独自の意志はあえて潰す実践をしました。

「緩流」では無く「激流」であると言う意味は、
細かい部分に至ってまで神経質なほどに見逃してはならないという事です。

95 TK :2013/10/06(日) 20:08:54
滝沢さん

>至った我々には意志と言うものがありません。
>
>しかし、そうなるために自分の独自の意志はあえて潰す実践をしました。

この件について少し。

マタイの福音書 5章39-42

>しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
>あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
>
>あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
>
>あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。
>
>求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。

イエスの教えのこの実践内容の本質は何だかわかりますか。

紛れもなく自分独自の意思表示を「従順」を利用して封じるための教えなのです。

>ラピ様、こんなコメントで掲示板汚してしまってごめんなさい。
>以後、何か自分で表現、もしくは体験がない場合は、
>そのままコメントしないでおこうと思います。

マインドを働かせすぎです。

ラピ。さんから掲示板が汚れて迷惑とでも言われましたか。

これは紛れもなく、あなたの保身混ざりの妄想(マインド)です。

丸見えですよ。

96 滝沢 :2013/10/06(日) 23:57:50
tkさん
愛をありがとうございます

そうですね。状況書いてみようと思います。
さらなる激流現れてきません。
自分を意図的にいじめられなくなっています。なので生活を淡々としていく感じです。
頭はからで意識は頭上遠くに拡散されております。
完全にぽっかりサハスラーラ大きく空いている感じです。
体も虚無の真っ黒な空間に感じられます。実際に視界に入れば肌色です。
自分の思考が来てもどんどん高速に過ぎ去って行くように感じられます。
道の真ん中に立って車が200キロぐらいで頭の中をヒュンヒュンと通り抜ける感じです
自然の素晴らしさに関しては全身で愛や慈悲を感じ、散歩中に自然をじっと見ているとサマディ起こります。

97 滝沢 :2013/10/07(月) 06:33:06
tkさま

あのメッセージを書き込んだ後、
体に震えがおきまして、
一晩中意識がどこにあるかも分からず、
体は死んで思考も死んで、あの虚無空間の中ただいる中、
虚無空間そのもので、赤ん坊のように丸まって過ごしました。
まさに赤ん坊のように丸まるのが一番落ち着き、必然的にそうなりました。

いくつか意識がある時の感覚を思い出せます。
虚無空間に対する恐れ
お腹の中が洗濯機でグルグルかきまわされて気持ち悪さ。
頭の中は光の高速な点滅、もうろうとする意識。

2、3時間は、眠りについていたようです。
幸いな事に眠くありません。

虚無空間にこれほど長くいたのは初めてです。
理解を超えた体験でした。

98 滝沢 :2013/10/07(月) 06:52:03
tkさま

私にメッセージを出すよう促していただいた事、感謝いたします。
メッセージを読んだ時に一つのリミッタが外れ、震えの後、虚無が一気に吹き出したたように感じました。

99 TK :2013/10/07(月) 07:15:47
滝沢さん

私の言葉に反応が起きるのは、あなたにはまだ確実に、自我があるという事です。

この残った自我こそが、
激流を渡るイカダの正体ですからうまく利用しないと駄目なんです。

私に出会う前のラピ。さんの段階に似てますね。

自我が少なくなってかなりの楽が実現できているのです。

ラピ。さんは私に会う前にその段階で、悟ったと誤認してました。

とにかくまずは空っぽを確実なものにして下さい。

それと、実践できる限りは実践するという事です。

本当に激流を渡り終えたら、実践はいくらやりたくても不可能になるので、
ラピ。さんのように

おのずとわかります。

今のあなたの段階でも充分に楽は実現できている、
その先に進むかはあなたの問題です。

ラピ。さんは進みたいと言う強い意志がありましたから。

100 ラピ。 :2013/10/07(月) 07:40:20
みなさまおはようございます!

☆滝沢たん

掲示板に書き込むことで気付くこともあると思いますので
どうぞ、思うものがあれば書き込んでね。

ちなみに彼岸の前には必ず激流があります。


☆TK師

そうですね。
ということは滝沢たんは今まさしく
チャンスの時、ということですね。

@(*・ω・*)ポッ

101 滝沢 :2013/10/07(月) 09:18:56
自我をイカダに激流を乗り越え至るですね
了解いたしました


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