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Web誌友会 板/2
1
:
トキ
:2013/01/20(日) 11:50:32 ID:UVsStHb2
「今の教え」と「本流復活」を考える・「web誌友会」 板 です。
*web誌友会についての話題は、このスレッドでお願いします。
このスレッドは、生長の家信徒の人達のweb誌友会のために作成したスレッドです。
上記に関連する話題なら、狭く解釈しないで、広く受け付けます。また
どの立場の人の投稿も歓迎しますが、基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教え
を支持、共鳴する人のためにサイトです。生長の家の信仰と谷口雅春先生へのご批判をされる内容
の投稿はご遠慮下さい。
投稿の削除はしない方針ですが、アダルトサイトや出合い系サイトの勧誘を含む内容など
明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。明らかな他団体や特定の霊能力者の宣伝となる投稿も削除の対象になります。
目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」の判断になります。
ご理解下さい。
投稿に当たっての注意点
*このサイトは、「生長の家“本流宣言”掲示板」等と違い、自分の発言を自分で削除できません。
削除御希望の場合は、管理人までご一報下さい。(削除要請は、削除希望の記事を投稿したのと同じ端末から投稿をして下さい。)
*必ず、スレッドのトップにある「掲示板の使い方」をご覧下さい。
*インターネットのサイトという性質上、不特定多数の人が閲覧します。プライバシーに触れる問題
や名誉毀損の可能性のある表現などは、控えて下さい。
*サイトの運営方針としては、削除は原則としてしない方針です。他者の投稿が問題のある投稿だと感じた場合は、
「削除要請」ではなく、ご自分の意見を投稿するという方向での解決をお願いします。
*生長の家の共鳴者を対象にしたスレッドです。下品な表現や特定の人物を侮辱する言葉はご遠慮下さい。
たとえ、自分と違う意見の人でも、敬称はつけましょう。相手に対する敬意と礼儀を忘れない様に
お願い申し上げます。
*谷口雅春先生への批判は、目的外ですので、投稿をしないで下さい。
*「したらば」は長文の書き込みをした場合、一部が表現されない場合があります。その場合は、「下部左
部分」にある「全部読む」を押して下さい。
このサイトについて
*宗教法人「生長の家」、「谷口雅春先生を学ぶ会」「ときみつる会」「生長の家社会事業団」「新教育者連盟」
などの諸団体とは関係はありません。
*「ポスティング ジョイ」や「生長の家“本流宣言”掲示板」などのサイトとは一切関係がありません。
管理人からのお願い
*投稿者の身元の詮索は止めましょう。ただし、最初に簡単な自己紹介をして下さると、後のトラブル防止になります。
*「工作員」も歓迎します。同時に、特定の人を「工作員」などと議論をする事はしないで下さい。
*教団援護派、本流復活派、中間派、分裂肯定派など、どなたも歓迎します。また、相手の存在そのものを否定するような内容
の反論はしないで下さい。
*議論が感情的になった場合は、管理人がストップをかけます。その時は、協力をお願いします。
*その他、ご不明の点は、管理人である「トキ」まだお尋ね下さい。
原則として、身元がわかるような内容の自己紹介は避けたほうが無難です。
身元をかくすため、多少の作為(年齢を少しごまかす、住まいを変える)は、悪意がない限り、問題とはしません。
どの立場でも、(教団援護派、学ぶ会など)歓迎しますから、それは明らかにしても大丈夫です。
削除について
投稿した文章を削除して欲しい場合は、削除希望の文章の番号を書いて、同じスレッドに、同じ端末
から「削除要請」と書いて、投稿して下さい。削除要請の文章も削除して欲しい場合は、其の旨も書いて
下さい。削除は、原則として、投稿者本人からの要請があるものに限ります。管理人が気がついたら、削除
しますが、深夜早朝や用事のある時は、気がつくのが遅れる場合があります。ご理解下さい。
出会い系サイト等のリンク、明らかに目的外の投稿、他団体の宣伝、犯罪を予告する書き込み等以外は、削除はしません。
それ以外で、問題となりうる投稿は、原則として、相談の上で、削除します。
その他、御不明の点は、お気軽にお尋ね下さい。
管理人「トキ」 敬白
626
:
SAKURA
:2013/03/16(土) 17:13:52 ID:L0R9jzpQ
トキ様 へ 観覧者の皆様 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
【 インフォメーション 】
此処!投稿者の皆様方も、多くの書籍本を拝読されていらっしゃいますよう〜〜〜ですかと。
ところで……
■□※谷口雅春先生著「 聖 道 へ 」……に関しましては?
今でも「アマゾン…」にて購入出来ますが?但し?現在でも『日本教文社』にも在りましたかと。
尚!先程…新品の書籍を「アマゾン」にて購入させて頂きました。此処での最後の一冊…“ゲット”
此処の掲示板にて紹介…頂きました事に、感謝申し上げます。
それから、余談ですが〜〜「アマゾン…」にて残り少ない様ですが【10冊の中古本】があります。
価格は〜〜〜色々で〜〜〜す。(微笑…)
※尚!!「常楽への道」吉田国太郎著になりますのです〜〜〜ネ!
この書籍本も「アマゾン」で購入出来ますようです〜〜〜ネ!そして「日本教文社」でも〜〜〜
【 増補新版 常楽への道 】として発行されています様です。
私は、存じませんせしたが〜〜〜この「吉田国太郎先生」というお方は?
【昭和10年、生長の家本部に奉職。同21年、本部理事に就任。死の巖頭に立ち続けながら
永遠の生命のみを観つめ、生長の家の布教活動に挺身。昭和32年6月逝去。】
このような“経歴のお方”なのです〜〜〜ネ!
■改めて「良書…との出会い」は、自分自身の「魂の向上」にもつながりますので…ご紹介頂き
ました皆様に…感謝申し上げます…。 再合掌
627
:
トキ
:2013/03/16(土) 20:54:22 ID:0vm.eILM
>>623
「聖道へ」は絶版になったのですか? 残念です。
628
:
さくら
:2013/03/16(土) 21:03:32 ID:gtAGHPqg
>>627
わたしは、元青年会員ですさまと訊けさまが「常楽への道」について語られていたので、「求道や信仰」に共感をしたかっただけです。
「聖道へ」のことは、当時は購入しましたが、いまは存じません。
「聖道へ」は、内容に関わらず、わたしにとっては、恩師との思い出もある、大切な、ご著書です。
雅春先生の真摯な求道の軌跡でもあると思います。
「一部の個人の求道」のはなしは、この掲示板の趣旨にあわないこともありますので、
今後も投稿は差し控えますので、ご安心下さい。
629
:
トキ
:2013/03/16(土) 21:23:07 ID:0vm.eILM
>>628
ご投稿、ありがとうございました。
>>「一部の個人の求道」のはなしは、この掲示板の趣旨にあわないこともありますので、
>>今後も投稿は差し控えますので、ご安心下さい。
他の方々の勉強になることもあると思うので、御時間のあるときでも、ご披露下されば幸いです。
合掌 ありがとうございます
630
:
SAKURA
:2013/03/16(土) 23:51:11 ID:NvcmVTKk
管理人 トキ様 へ 観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
■ 「管理 トキ様」へ その①
此処の「2チャンネル…ボ−ド」は、勝手に投稿ナンバ−・各ボ−ドが、動くのでしょうか〜〜?
以前から、不思議に思っていたのですが〜〜〜?変です〜〜〜ネ!
■あら???
>>627
「管理人…トキ様」に於かれましたは〜〜〜
私(ロ−マ字)の【SAKURA】が
>>624
>>626
現在!投稿しておりますが〜〜〜
この間に…【
>>625
の管理人トキ様】の番号が〜〜〜ありましたかと。この記憶が……
―――・【一部抜粋】―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・
627 :トキ:2013/03/16(土) 20:54:22 ID:0vm.eILM
>>623
「聖道へ」は絶版になったのですか? 残念です。
―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・――−・――
実は〜〜〜この削除されましたところの【
>>625
の管理人…トキ様】の削除された投稿文には???
私の記憶ですが〜〜〜下記のような内容でしたかと??
―――・【一部抜粋…記憶】―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・――
>>「聖道へ」は絶版になったのですか? 絶版ですか?
「初心者様から」頂いた…云々…… (アバウト的…です。…が?)
―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・――−・――
※私の記憶では、この様な内容かと??この様に私は、この文章を閲覧しまして…
今回
>>626
のインフォメ―ションをさせて頂きました次第です…。が?
■現在の“コメント投稿の流れ…”で閲覧していきますと、まるで私達の“嫌がらせ?”に、
なるような感じに、当方と致しましては、受け取れますでしょうか〜〜〜?
【
>>625
の管理人…トキ様 】の“幻のコメント!!!”が、すぐさま【削除…?】の様ですから
“流れ…”が、随分変わりますかと。そちら「管理人 トキ様」が消去されますのは、
いとも〜〜〜簡単でしょうが〜〜〜?
今回の私の“投稿文章”は❤【聖道へ…】は絶版?になったとの事すら?知らなかったといって過言では
ないのですが〜〜〜私は、前々から「絶版…?」になっているとの事を?記憶の中では【分派の皆様方達?】
が、おっしゃつておりましたから〜〜〜?又!そのように、信じておりました次第です。…が?“あるのかも?”
〜〜〜フト!インスプレーションにて“在る…”と、脳裏に…それにて「アマゾンを検索…」しますと、最後の
1冊(新書…)が…!しかしながら、後程入手可能な感じにも、文章から伺えました次第です。…が?
更に……
「吉田国太郎様…著書」の事も?【分派の皆様…】がよく紹介されていましたから〜〜〜❤【社会事業団の
出版関連…なのかと】と思いこんでいましたら、これも「日本教文社発行」でしたので〜〜〜“ビックリ”です。
戦前…からのご活躍の方…の様ですかと。それでしたら〜〜〜?
つづく
631
:
SAKURA
:2013/03/16(土) 23:54:04 ID:NvcmVTKk
管理人 トキ様 へ 観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
■ 「管理人 トキ様」へ その②
>>630
の【SAKURA投稿の…】続きです…。
正直な話ですが?皆様が「戦争…」に関連しました事を、よく投稿されていましたので…今回「がてん!!」
が行きましたでしょうか?今回!!1冊残った事を知り、そうそう“購入…”致しましたので、これは、まさに
【神様の導き】でしょうか〜〜〜??思いますに〜〜〜今回!【たった一言の管理人…トキ様】の文章
【
>>625
の管理人…トキ様】の幻のコメントが、“引き金…”になりましての【購入…更なる
真理探究】でした次第です。…が?これには感謝致します。改めまして“有難うございました…”
■さて!!これで、私はこのような“気持ち…”でのつまり新たなる【真理…探究!】閲覧の皆様
にも、良書を拝読します事は【人生へのプラス】になるものと“想い…”にて、私、同様に、拝読
されましたらとの“気持ち”が〜〜〜❤【蓋を開けます…】と、かなりの〜〜〜“イヤミ…!!”
なのでしょうかと。??
更に!この本の“感想…”も、特別待遇…「ひらがなのさくら様」への感想が求めていますので…
私も個人的に拝読しますが…「管理人 トキ様」のご要望の「ひらがなのさくら様」の感想を、
私も、拝読させて頂きます事を…楽しみに致しておきます。(こちらも読んでの感想〜は〜〜??)
是非とも「観覧者の皆様」にも…「雅春先生…」の初期の頃の著書と……思いますので如何かと?
❤〜やはり【管理人…トキ様】は、【分派…擁護派】ということが…益々と今回の件…及び
以前から「投稿…」しますと不思議な現象も…ありましたが?此処でも「管理人様は、中道では?」
そして「管理人側…」としては、当たり前の処置なのですかと?改めまして感じました次第です。
最後に…この【2チャンネル掲示板…】も【分派側…さくら様】推薦であります事が、今回、知らし
めくださいました事に…深く感謝いたします。『光明掲示板…含めまして』ですが〜〜〜
更に…「別板…」でも討論のようですので……!
■あくまでも…【現総裁…雅宣先生擁護派…】オンリ−の【SAKURA…(ロ−マ字“大”)】として、
投稿を引き続きさせて頂きます…。宜しくお願い申し上げます。
再合掌
632
:
SAKURA
:2013/03/17(日) 03:37:41 ID:NvcmVTKk
管理人 トキ様 へ 観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>624
>>626
>>630
>>631
のSAKURAの投稿の続きです…。
■「管理人…トキ様」 へ 【 追 伸 事 項 】
もう一度…よく閲覧してみますと〜〜〜殆ど「管理人…トキ様」は、
現総裁雅宣先生擁護派…としての!「オンリ−・ワン!SAKURA(ロ−マ字)」の投稿しております
投稿文章を、全く“拝読…”されていないのでは〜〜〜ないでしょうか??
こちらが
>>626
に投稿しておりました私の投稿の内容から、「 聖 道 へ 」に関して…
日本教文社から販売がされています。この事を、記載しています…が?
>>627
トキ様の返事の内容では、全くもっては「さくら様の投稿のみ」を、閲覧してのいつもの
“返事…”の様ですかと…ですから、この事から判断しますと、今までの全般に渡ります“投稿“
は〜〜〜閲覧がなされていない状況なのでしょう〜〜〜ネ!更に、今までの返事の内容から、冷静に
判断しますと【つじつまの合わない?“ふ…”に落ちない事もあり?…】今にして思いますと、
私の返事は【いやいやながらの返事……】でしたと判断しました。
■□ある時の事です。「神の子様」がおっしゃつていました事が思い出されます。それは〜〜〜
「管理人…トキ様」は、実に【嫌がっているので、返事を求めるな…】この様な事を…頂きました。
〜〜〜この時の私は【 生長の家の本部職員…】少なくとも?現時点での【奉職…】ですから、
多くの事を「2代目…清超先生時代からご指導を受けている方」ということは【魂ははるかに上…】
この様に思いました次第です。…が?ですから「神の子様…の言葉」が、そのように云われても?
当時としては、全く信じられませんでした。…が?【中立…派】かと〜〜
現実的に「神の子様…の言葉」は、本当と理解致しましたので、正直「意気消沈…」しております。
そして、時々【障害者である私に対しての…人道的な擁護の言葉…】これも、あくまでも【表面上】
ということが、今回の内容にて理解致しました。『管理人…トキ様』自身が【分派…擁護派】のよう
ですから……当然のことながら、「学ぶ会」「トキみつる会」「靖国見真会」…の皆様方の捉え方〜〜〜
【分派…障害者は?人間失格論…】とみなしているとの判断になりますでしょうかと〜〜〜!
この事は、ある面では【信仰とは…差 別 性 あ り】と捉える面も考慮ということでしょうか?
■結局は「本部職員のみ?元の仲間意識のみ?での事…この事が明確に判明致しましたでしょうかと。
信仰とは【信 者 と か 全 く 関 係 な い 事 で あ る】なのでしょうネ!!
では〜〜〜【奉 職 と は …】この事が?疑問点になりますでしょうか???
そして、いつも“不思議…”に思いましたが?こちらが“投稿…”しましても、いつもの事ながらと?
【全て…なしのつぶて!!】で、あくまでも【そちらの仲間同士…】とか?【お気に入りの方】は、
すばやくの対応にての“返事…”ですから、なるほど…今回も「ひらがなのさくら様」の方には、
【お気に入りの仲間】としての“お返事…”ですからと、考えなくても自然に思えます〜〜〜
投稿内容の流れでしたかと、今更ながら感じました次第です…。
■しかしながら、私は、本当に現在【生長の家…お家騒動】の事で…真剣に将来を考えての
“投稿…”しておりました次第なのです。…が?
もっと「生長の家…現総裁先生擁護派」としまして“真剣…”に投稿させて頂きます予定です。
…【お邪魔虫?】でしょうが〜〜〜その点は、ご了承くださいませ…。
最後に…「閲覧者…」の中で「賛同して頂けます皆様方々=現総裁雅宣先生擁護派…」の皆様が、
益々と…つたない【SAKURA投稿内容文章】を、閲覧して頂けますと…幸いに存じ申し上げます。
再合掌
633
:
神の子さん
:2013/03/17(日) 09:16:50 ID:???
トキさん、女難の相ありとみました。
634
:
トキ
:2013/03/17(日) 10:28:33 ID:NNa6VHMQ
>>632
いえいえ、いつも楽しく拝見させていただいております。本当に感謝申し上げます。
別にスルーしていてるのではなくて、SAKURA様の文章は続くので、完結してからご
感想を申しあげるつもりでいました。ご気分を害されたら、深くお詫びします。
今後とも、ご投稿のほど、お願い申し上げます。
合掌 ありがとうございます
635
:
SAKURA
:2013/03/17(日) 13:01:25 ID:1meWUCC2
「管理人 トキ様」 へ 「観覧者 の 皆様」 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>624
>>626
>>630
>>631
>>632
のSAKURAの投稿の続きです…。
■
>>632
についての“お返事…”と解釈して宜しいのでしょうか?早速の“お返事”頂きありが
とうございます…。そして【消去された
>>625
トキ様のコメント】が、存在していましたなら、
まだ私は、このような感情?はなかったはずだと思います。…が?「管理人…トキ様」?更に…
今回の私の意見は【つづき投稿…】では、ありませんのですが?(一つだけ?追伸事項は投稿かと)
事の発端としての流れを申しますと「>> 623 ひらがなのさくら様のコメント」から…その後ですが?
「管理人トキ様」が返答されましたのが、投稿ナンバ−が消去されました【
>>625
トキ様のコメント】
であります。そこの部分を、たまたま閲覧させて頂きまして、それについての私…
【
>>626
ロ−マ字のSAKURA】が、投稿コメント致しましたら〜〜私で事不在の後に、PCを開き
ますと後に【
>>625
管理人トキ様のコメント】が消去されていまして、閲覧しますと、更に…
【
>>626
ロ−マ字のSAKURA】がコメント後に【
>>627
管理人のトキ様のコメント】が投稿されて
おりました。…が?此処での【
>>627
トキ様の投稿の内容】にて、今回の返事が〜〜〜?疑問点と?
新たに感じましたでしょうか?しかも、私が投稿された“内容…”を、閲覧されて頂きましたなら、
【
>>627
管理人…トキ様のコメントの内容の返事】では〜〜〜無い筈です。…が?
❤〜此処が一番の私の「ポイント…」なのですが?これは?男性?女性ン?としての捉え方…かとも、
思いましたが〜〜〜やはり、私自身の全般にわたりましての「投稿内容…閲覧」は、ある面、殆ど
なれていないとの…管理人様は「分派…擁護派」ということなのでしょうかと。仲間意識?ただ〜〜
私が、投稿内容しましての伝えたかった主旨事は〜〜〜?更に、何故?この様に投稿する原因が生じ
ましたかの意図は、何度も申し上げました様に再度【
>>626
…書籍本のインフォメ−ション】それに、
これについては?この書本の廃版ではないのでは?まだ!まだ!日本教文社にて販売されています
事の「お知らせ…」なのですが、全くもって閲覧されていないのではないでしょうか???
更に【
>>630
>>631
SAKURAの投稿】は、上記の流れに到る内容を詳しくコメントしておりますが、
【現総裁先生…擁護派】としての文章は?…個人的に感情はあられますでしょうが?閲覧して頂き
ますと…幸いに思います。…が?「管理人であるトキ様」が「ひらがなのさくら様」に、返事の前に
こちらが、一応【書籍本についてのインフォメ―ション】はしておりますので【廃版…云々…】の
この様な内容の「管理人トキ様」の返事となるのでしょうか?これも【スル―…】という事なので
しょうか??これに到る経過を、何度も記載コメントしております次第なのですが…?
これに関しましての、「返答…」を、ご多忙とぞんじますが?頂けますと幸いに存じ申し上げます。
尚!【生長の家…公務】のと多忙中の時間の合間にて、お返事を頂けます事をお待ち申し上げます。
再合掌
PS: 最後に「ネット…文章投稿」に関しましては?やはり…“理解…?判断…?”改めて
難問題かと…思いました次第ですかと。
636
:
トキ
:2013/03/17(日) 14:10:26 ID:63q.dM7Q
>>635
ご投稿、ありがとうございました。
先のコメントは、あまり適切な内容ではなかったので、消しました。
その件はお詫びします。
聖道へ、については、昨日、私もゆっくりと拝見し、いい内容だなあ、と感激しました。
末尾には、50年後の谷口雅春先生のコメントが書かれているので、また勉強になります。
この聖道も、もですが、吉田國太郎先生のご本も今でも教化部で発売されています。
どうぞ、周囲の人にもどんどんと進めて下さい。
よろしくお願いします。
637
:
SAKURA
:2013/03/17(日) 22:46:07 ID:TuM1gF6c
管理人 トキ様 へ 観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>624
>>626
>>630
>>631
>>632
>>635
のSAKURAの投稿の続きです…。
>>636
「管理人 トキ様」早々の“お返事…”ありがとうございます。
「コメント投稿」後、私事になりますが、今日は「亡き母」の菩提寺にて…【納骨堂の落成式…】
に、参加しましたので…先程(10時頃)今、戻ったところです。…が?そして、久しぶりに、
【甘露の法雨のお経…】を、新しい納骨堂の場所で、唱えて来ました。…何となく背後に両親が?
ヘタな私の“お経の読誦”を聞いてくれているような〜〜〜感じでしたかと。
■さて、私も、いつも流れを考えながら(考慮不十分カモ?)の投稿なのです。…が?今回
閲覧しました時、何とな〜〜〜く【ロ−マ字のSAKURA】の投稿が?流れから浮羽状況ナノ?おか
しく感じましたので…そのように見えてくるのですョネ!何度も見直しますと、こちらも分けが分
からずの“感情…”が、吹き出してしまったのです。…が?後程、考えますと「トキ様…」は
“男性”ですし、私は“女性”です。従いまして「感情の捉え方」が、男女違う事に、後で思い
なおしました。…が?「トキ様…」よりの早々の“お返事”で、納得しました。…が?前回?記憶
が定かではありませんが〜〜〜「goro様」が、似た様な投稿がありまして、その時の私はどうして
?と…云った感じでした。…が?今回の私も、似たような“体験…”をしたわけなのです。…が?
■本当に「文章投稿伝達…の難しさ」とか?「感情の伝え方」とか?いろんな意味合いにて、私も
いい勉強になりました次第です。私も、最初の「トキ様…」の文章から【アマゾンで検索】して、
書籍「聖道…」を購入いたしましたが、“戦前の時代の背景”から何処まで“現代の若者”に伝える
事が?表現が?〜〜〜出来るかが課題に思いますし「トキ様…」の感想から、まだ!手元には届いて
おりませんが、拝読してみることへの楽しみが増えましたでしょうか〜〜〜と思います。
【 50年後の谷口雅春先生のコメントが書かれているので…】早く〜〜特急便にて手元に〜♫〜
❤さて今日は「菩提寺」で【甘露の法雨…】を唱えて来ました。帰りには〜〜〜
【落成の饅頭…】を頂きまして〜〜〜ウキ!ウキ!気分でした。…天気も【雨のち晴れ??】
きっと!!「亡き両親…」が、ニッコリ・スマイルと…思います。 再合掌
PS: お忙しい中での「トキ様」からの早々の“お返事”改めまして、感謝申し上げます…。
638
:
うのはな
:2013/03/21(木) 14:54:03 ID:feieQgHk
1065 :「訊け」管理人:2013/03/16(土) 09:43:26
>>1060
馬見て鹿だと言ってますが。
だれもあなたのこと、言ってませんけども・・・・ホープさんの投稿でも、御覧になれば?
あと、復興Gさまに謝罪、したら?あと、ついでに●ちゃんにもね・・・(不手際でバレましたとか)
とか、書くと大変なことになりますんであとは、トキさんよろしく。(ハァ・・・)
639
:
トキ
:2013/03/21(木) 15:39:18 ID:lXU7i4ic
>>633
本当にそうですね。痛感します。
640
:
うのはな
:2013/03/21(木) 15:46:21 ID:YCbLw2eM
トキさまへ
みんなの意見をききましょうと、あなたが丸投げした別版方針版では
訊け管理人氏が「落ち着く」の定義についてゴタゴタいったまま、他の人の
身元詮索や、バカ女について議論しましょうなどの話題に脱線していってます。
言い逃れもいいことあるのかなの川柳版などの話もどうなったのでしょうか?
641
:
うのはな
:2013/03/21(木) 15:47:37 ID:YCbLw2eM
トキ様へ
それと訊け管理人氏から、ウェブ誌友会版で復興Gさまに謝罪するべきだと
いわれましたが、トキ管理人さまの意見をお聞かせください。
642
:
うのはな
:2013/03/21(木) 15:51:40 ID:YCbLw2eM
960) 本部では今春から、倒れる職員や講師が続出。 投稿者:事情通
本部では今春から、倒れる職員や講師が続出。4月には宇治でも練成部から倒れた講師が2人出たという(1人は講話中に失神したと練成参加の方からお聴きした)。情けなや。「サラリーマン講師」の証ではないか。
どうなっているのか。
人を救う前に「自分たちを救ったほうがいいのではないか」とは、初めての練成参加者の言。
情けない。人類光明化の看板を下げて、「環境は心の影」なのに「環境問題」「環境問題」と騒ぐこと自体が、一番「問題なのではないか。」
谷口雅春先生の御教えではそうだが、これも「原理主義」なのだろうか。
643
:
復興G
:2013/03/30(土) 21:41:23 ID:AB6RqYXc
本掲示板の管理人 トキ様
ほか 皆々さま。
4月度の第13回WEB誌友会日程について、お伺いです。
第13回web誌友会は
4月12日(金)21:30より、14日(日)23:30まで
ということでご了承をいただいていましたが、私としては変更させて頂きたい都合が出てきました。
最終日の14日(日)、午前・午後とも、出かけなければならない行事予定が入りました。
1週間後の
≪19日(金)夜から21日(日)夜まで≫
に変更させて頂けないでしょうか。お伺いを申し上げます。
テキストは、『生命の實相』第3巻「はしがき」〜p.3の終わりまで です。(巻頭に掲げられた二つの神示について、重点的に学びます。)
ありがとうございます。 合掌 拝
644
:
a hope
:2013/03/31(日) 07:43:40 ID:TqpbsVIM
>>643
復興Gさま
第13回 WEB誌友会の開催日の変更、わたしは大丈夫です。
今回も、どうぞよろしくお願いいたします。
みなさま
先日テキストになっている部分を確認しましたら、復興Gさまがおっしゃる、
『巻頭に掲げられた二つの神示』は、わたしの持っている神示集では、
「声字即実相の神示」と、「万教帰一の神示」という名前がつけられています。
ところで『神示』って、具体的にはどういうことなんなんだろう?
と、今、ちょっと思いまして、webで辞書検索してみましたら、
―――――――
1.神示
⇒七つの燈臺の點燈者の神示
――――――
とでました。
あらためて、「生長の家の教え」の偉大さを思い知りました。
645
:
復興G
:2013/03/31(日) 09:45:13 ID:AB6RqYXc
>>644
:a hope様。
コメント、ありがとうございます。
私も、webで辞書検索してみましたら、次のように出ているのを見つけました。
* * * * * * * * * * *
Weblio 辞書
七つの燈臺の點燈者の神示の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2009/12/20 04:55 UTC 版)
大調和の神示では「汝ら天地一切のものと和解せよ」と天地一切のもの、特に親・先祖・子孫・上司・部下・皇恩・神に感謝する様に説く。特に親に感謝する事を重視し、親に感謝しない者は神を感謝しても神の心にかなわないと説く。神は天地一切のものと感謝し調和したところに顕れるとも説く。
梅の花の神示では日本を世界でただ一つの光でありそれ以外は全て偽りの光であるとし、それ故日本は「日(霊)の本」というのであると説いた。また日本は精神で世界を統一する運動であるがそれに対して当時のソ連を世界を物質で支配しようとする運動であるとも説いた。またスターリンや無中心主義を「無明(迷い)の塊」であるとしそれらを中心にして世界が幸福になれるなどというものは愚か者であると批判し、一種の唯心論的体裁を持っている。
終戦後に著された4つの神示では天皇・国家の大権・神聖性の喪失について、国民自身の神聖さの自覚の欠乏が原因であると説いた。新たに導入された民主主義については国民が「民主」で天皇は「客」であると説いた。
33の神示
1.大調和の神示(昭和6年9月27日夜)
2.完成の燈臺の神示(昭和6年1月15日)
3.萬教歸一の神示(昭和6年4月5日)
4.新天新地の神示(昭和6年5月6日)
5."心の法則"と"平和への道"の神示(昭和6年5月30日夜)
6.歸幽の神示(昭和6年6月26日)
7.生死の教(昭和6年9月5日)
8."最後の審判"に就いての神示(昭和6年9月28日朝)
9.信仰生活の神示(昭和6年12月5日)
10.聲字即實相の神示(昭和7年1月11日)
11.自他一體の神示(昭和7年2月4日)
12.上求菩提・下化衆生の神示(昭和7年2月9日)
13.『いのちのゆには』の神示(昭和7年3月14日)
14.使命邁進の神示(昭和7年3月15日執務中)
15.無相圓相一切相の神示昭和7年4月10日)
16.無限供給の神示(昭和7年5月5日)
17.久遠天上理想國實現の神示(昭和7年5月27日)
18.萬教包容の神示(昭和7年7月7日朝)
19.懺悔の神示(昭和7年8月12日)
20.實相金剛身の神示(昭和7年9月2日)
21.無病常樂の神示(昭和7年11月10日)
22.本來生、不滅の神示(昭和7年11月25日)
23.梅の花の神示(昭和8年1月6日)
24.自然流通の神示(昭和8年1月25日)
25.至上者の自覺の神示(昭和8年3月16日)
26.本當の信仰に就いての神示(昭和8年8月5日)
27.靈魂進化の神示(昭和8年9月15日)
28.兒童教育に関する神示(時期未詳)
29.生長の家の食事(昭和5年11月4日)
30.終戰後の神示(昭和20年11月27日未明)
31.日本の實相顕現の神示(昭和20年12月28日未明)
32.君民同治の神示(12月28日午後12時、年未詳)
33.大和の國の神示(昭和21年1月6日朝、啓示)
尚、「大和の国の神示」はGHQの検閲で没収されたものが後に生長の家側へ戻り検討の結果神示として採用されたものである。
* * * * * * * * * * *
646
:
復興G
:2013/03/31(日) 09:59:06 ID:AB6RqYXc
さて、私の提案と申しますか、お願いは、4月度の第13回web誌友会は、下記日程で開かせて頂きたいということです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『第13回web誌友会』
≪日時≫
4月19日(金)21:30から
4月21日(日)23:30まで
≪テキスト≫
『生命の實相』第3巻はしがき〜p.3まで
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ご意見があればおっしゃっていただきたく、お願い申し上げます。
647
:
トキ
:2013/03/31(日) 10:48:18 ID:ZOYJ1Hoc
>>646
復興G様
いつもご多忙の中、すばらしいご指導を賜り深く感謝申し上げます。
ご提案の件、私は賛成をさせていただきます。
よろしくお願い申し上げます。
合掌 ありがとうございます
管理人敬白
648
:
トキ
:2013/04/01(月) 10:08:47 ID:Esid1Gs2
天地一切の物に感謝せよ、で思い出した事がありました。
ずいぶん前に生長の家宇治別格本山の研修生だった方から聞いた話です。
その方は、榎本恵吾先生から指導を受けていたのですが、ご一緒に行動をする事が多かったみたいです。
宇治でも別格本山がある地域は田舎ですが、道路には自動車がよく通るので、犬や猫が自動車にひかれて
死んでいる光景をよく見たそうです。普通の人なら「気持ち悪い!」と目を背ける光景ですが、榎本先生は
自動車から降りて、死んでいる猫や犬を抱き上げ、抱きしめてから自動車に乗せて、適当な空き地まで運び
そこに穴を掘って埋葬し、懇ろに祈ってから、その場を立ち去られるそうです。そういう光景を何回も見た、と
その人は話していました。
なかなか、普通の人はそこまで出来ないですが、「自然との調和」とはそういう事かもしれないと
思います。
649
:
復興G
:2013/04/01(月) 19:58:49 ID:AB6RqYXc
>>647
トキ様。
4月のweb誌友会日程について、ご賛成、ありがとうございました。
他にご異論はないようですから、第13回web誌友会は
○
≪日時≫
4月19日(金)21:30から
4月21日(日)23:30まで
≪テキスト≫
『生命の實相』第3巻はしがき〜p.3まで
○
で開催の予定とさせて頂きます。よろしくお願い申し上げます。
>>648
「自然との調和」について、榎本先生の逸話ご紹介、ありがとうございました。
本当に、榎本先生は実行の人だったんですね。感心させられます。
ところで、最近ある方から、「4千万本の木を植えた植物生態学者 宮脇昭の映像記録 『未来を照らすいのちの森』」というDVDを頂き、今日、拝見しました。
宮脇先生は今84歳ですが、ものすごいバイタリティーで全世界にいのちの森づくり活動をひろめておられる方で、私は飛田給道場で先生のご講演を聴いたことがありますが、今回のDVD作品を見、そのメッセージにあらためて感銘を受けました。それをちょっと謹写させていただきましょう。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
≪宮脇昭先生、植樹活動でのメッセージより≫
生物社会は、競争しながら少し我慢して共に生きる。
これが健全な状態です。
好きな奴だけを集めない。
今日はたった47種類を植えますが…(中略)…
植物は命をかけて、根がスポットいっぱいになっています。ご覧のように、根が充満しています。これが本物なんですよ。
死んだ材料は定規が使えても、人の顔は定規では描けません。
それほど自然は多様性に富んでいます。
違うことが大事なのです。
違う人間を異質なものとして除(の)けないで――
生物多様性とは、嫌な奴とも我慢しながら一緒に生きて行く。
これが、40億年続いた生物社会の姿です。
人類はここまで、愚か者は破滅していますが、日本民族が生き延びてきたのは、この生物社会の掟に従ってきたからであって、我慢できない生き物は一時も生きていけない。
残念ながら戦後の日本の社会は、我慢を忘れているのではないか。
人間はひとりでは生きていけない。人類も同様に、ひとりでは生きていけません。
木を植えれば落ち葉の掃除がやっかいだし、日陰になるから伐れという。
これは、刹那的にはそれでよいかも知れないが、生物社会ではむしろ危険な状態です。
生物社会は、嫌な奴とも我慢して生きて行くこと。
人類が地球で生き延びるために、最低限の 生産―消費―分解―還元 の生態系のシステム維持ができる程度に、すべての生き物と、我慢し、助け合い、共生していきましょう。
<以上、宮脇昭先生のメッセージより>
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
私は上記を読んで、これは雅宣総裁も常に言っておられることに近いと思いましたが、同時に、
≪自然は多様性に富んでいます。
違うことが大事なのです。
違う人間を異質なものとして除(の)けないで――
生物多様性とは、嫌な奴とも我慢しながら一緒に生きて行くこと。≫
ということを、自然に対してだけでなく、同志である人間に対しても、嫌な奴を除(の)けないで、和解、感謝し調和して行かなくてはならないのではないか、と強く思いました。
650
:
トキ
:2013/04/01(月) 20:44:40 ID:Esid1Gs2
よろしくお願い申し上げます。
ご多忙の中、ご指導を賜ります事を深く感謝申し上げます。
合掌 ありがとうございます
653
:
a hope
:2013/04/16(火) 20:57:02 ID:6kIbHHgs
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『第13回web誌友会』
≪日時≫
4月19日(金)21:30から
4月21日(日)23:30まで
≪テキスト≫
『生命の實相』第3巻はしがき〜p.3まで
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
第13回web誌友会が近づいてきましたので、予告させていただきます。
わたしはここのところ、毎朝の神想観と「甘露の法雨」の読誦は欠かしませんでしたが、
聖典をゆっくりする拝読する時間がなかなか取れませんでした。
最近、少し仕事が落ち着いてきましたので、このweb誌友会に向けて、
「聖典」等の拝読をまた少しずつしていきたいです。
ところで谷口雅春先生は、神さまのお言葉を「生命の實相」、「神示」、「聖経」、
「『真理の吟唱』「神想観』等の祈りの言葉」、「智慧の言葉」などなどと、
様々なかたちで残してくださっています。
わたしは今、「生長の家の教え」=「真理」を様々な角度から、
飽きることなくお勉強できる幸せをしみじみと感じています。
復興Gさま、トキ様、みなさま、今回もどうぞよろしくお願いいたします。
654
:
復興G
:2013/04/18(木) 17:26:26 ID:AB6RqYXc
>>653
:a hopeさま。
ありがとうございます。
明晩からですね。第13回web誌友会。
私も、リアル世界での誌友会やいろいろな方面での活動をしながら、web誌友会に向けての勉強は始めています。
が、反応が遅くて、すみません。
『生命の實相』第3巻の最初の「はしがき」から、本文の3頁までを謹写。本文の最初には、「七つの燈台の点燈者の神示」が掲げられています。
それで、関連する神示講義『到彼岸の神示』の「声字即実相の神示」のご講義、それから『神ひとに語り給う』の「万教帰一の神示」ご講義も全文謹写しました。(まだ掲示板にアップはしていませんが)
そして今、生長の家本部が東京の原宿から山梨県の八ヶ岳南麓に移転することになって、原宿本部に鎮座されていた、七つの燈台の点燈者なる「御神像」も山梨へ移転されるということで、そのことについての総裁のブログ記事(唐松模様)を読んだり、いろいろな人の意見を聞いて学び、考えたりしています。「本流対策室」板にトンチンカン様が転載紹介された中村晃生さんの記事も読みました。
そうしたことについても、ご一緒に考えて行きたいと思っています。
皆々さま。
ある方が、昭和29年に原宿本部会館ができたときの谷口雅春先生・輝子先生の御文章を謹写して、次のようなアピールの文章を送ってくださいました。それを、次に転載させて頂きましょう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
≪本部会館を創建当時に復原、保存を!≫という、ある友人のアピール
いよいよ今年の10月には、生長の家本部が“森の中のオフィス”(山梨県北杜市)に移転されます。すると東京原宿の現本部会館はどうなるのか、いろいろな情報が飛びかっていますが、尊師・谷口雅春先生や、海外を含め全国の先輩信徒の思いがこもった、貴重な歴史的文化遺産でもあり、くれぐれも取り壊すこともなく、是非とも創建当時に復原し、永久保存をしていただきたいと思う。
昭和29年(1954)3月1日、立教25周年を迎えたよき日に、百三十万信徒の真心の結晶として、足かけ4年の歳月を費やして原宿の本部会館は落慶した。ここに雅春先生の当時の御文章と、当時を回想された輝子先生の御文章を掲載させていただきます。
<つづく>
655
:
復興G
:2013/04/18(木) 17:27:37 ID:AB6RqYXc
<つづき>
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
百萬信徒の「まごころ」の結集 谷口雅春
光明の塔部の最上層の室は、「栄光の間」と名付けられ、その下の塔部の室は「祈りの間」である。「栄光の間」は、維摩の居室が「空っぽ」であったと同じく「空」であって何の置き物もない。「空」にして無礙光であるのが神であるからである。栄光の間にて拍手して礼拝すれば、四壁にその拍手の響がこもって天地に感応するような感じがするのである。
教主(※)室、総持室、理事室はあるけれども、教祖の室はこしらえてないのである。これには深い意味があるのである。教祖は過ぎ行くが、教主も理事も永遠につづいて行くであろう、と云う意味はこの本部の建物は「私のもの」でないと云うことである。
私が本部の建物を建設するために、「特信」の手紙を書いたり、礼状やお願い状を書いたりしているのは、私の室をつくるためでもなければ、私の機関をつくるためでもないのである。この建物は神に捧げられたる建物である。建物はただの物質であるけれども、それは百萬信徒の「まごころ」の結集である。
「まごころ」と云うものは肉眼に見えないから、肉眼で見ると、ただの実業のビルディングでもこう云う聖堂でもただの「形」である。けれども「まごころ」が結集してこれだけの建物が建つと云うことは「容易ならぬこと」である。それは太陽の光を凸レンズで結集すると紙を焼くことが出来るように、「まごころ」が結集してこれだけのものが建つとき、人類の魂に一層容易に火をつけることが出来るのである。これから人類光明化の力が一層早くなるであろう。
(『明窓浄机』「近頃思うこと」 『生長の家』昭和29年4月号より)
※教主=当時、雅春先生を教祖先生、清超先生を教主先生と呼んでいた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
雅春先生、信徒たちの献身で 谷口輝子
――現在、東京の原宿に在る生長の家本部の建物は、昭和二十九年に落慶した。昭和二十年八月に終戦となったが、それから後、何年も何年も、日本中は貧しかった。生長の家本部も貧しかったが、教えの伝道のためには、どうしても教団の中心であり本拠となるべき建物が必要であった。
原宿の生長の家学生寮の焼跡に、隣地の東郷神社の敷地の一部を購入して、そこに教団の本部を建てることになった。
一流の建築会社である清水建設の当時の社長清水釘吉氏は、生長の家に非常に厚意をもって居られたので、建築費を一時払でなくとも建てて下さることになり、月賦払で何年もかかって支払ったことであった。その月賦の支払についての谷口総裁の苦労は非常なものであった。
一万円の教団債を発行して全国の信徒に協力を願ったところ、各地より続々と応募して下さったので、それで清水組への支払いを月々つづけたり、三千円以上を本部へ奉納した人に、半折の揮毫を送ったりもされた。また全国へ講習に出かけ、その受講奉納金は大部分清水組への支払に提供された。自らの身を、ローソクの火のように灯して、総裁は清水組へ支払い、そして信徒たちへの教団債を返すことに努力をつづけて居られた。
<つづく>
656
:
復興G
:2013/04/18(木) 17:28:29 ID:AB6RqYXc
<つづき>
半折に揮毫しつづけられる総裁のために、我が家の家族と本部員の二、三人は墨をすり、私は朱印を押して、指を痛くしていた。
総裁は地方巡講から帰京して、雨の日は原稿を書き、晴れた日は半折の画箋紙に大筆をふるって居られた。痩せ形の身を前屈みにして、大筆は長時間、画箋紙の上を走りつづけていた。その部屋も、次の部屋も、廊下にも、墨痕あざやかに墨の香りが満ちていた。六十歳を過ぎた人には重労働のように思えた。来る日も来る日も働きつづけて居られた。あの生長の家本部会館の建築費のために。私は夫の後姿を見て「御苦労さま、御苦労さま」と合掌した。
誰のために建てる本部会館であろうか。谷口雅春の住むための家ではない。信徒みんなの集る家なのであった。信徒みんなとの、いろいろのことを連絡する事務の家でもあった。みんなのための家であった。
建築中は、東郷神社境内の隅っこを借りて、清水組は飯場を建てていた。その飯場には百人ばかりの職人が出入りしていたと聞いた。百人の中に、生長の家の信徒が四、五人いた。赤見元二郎君はその一人であった。
赤見君は毎朝五時に起きて飯場を出てその四、五人の友と建築現場に立った。瞑目合掌したそれらの人たちは、ひたすらに、その建築がスムーズに進行し、一人の怪我人もなくて完成に到りますようにと祈りつづけて居られた。あれほどの大建築中に、一人の死者も怪我人もなかったことは珍らしいことだったと私は聞かされた。わずか四、五人の人の祈りでも、真心からの純真な祈りは諾かれるものだと信じた。
総裁の無欲恬淡な献身と信徒たちの純粋な献身とによって、生長の家の本部会館は、原宿の一角に美しく凛然と落成の日を迎えた。
落慶式の日は、全国各地より信徒の幹部が集ったばかりでなく、教団外の団体の代表者なども来会されて、温い祝辞を述べて下さった。誰も彼も、明るい喜び溢れる顔をして、新築の美しい建物の中を右往左往して動いていた。信徒たちは、私の顔を見ると「お芽出とうございます。有難うございます」の喜びの声を浴びせかけた。私はうれしくて浮々としていた。(以下、略)
(「人それぞれ」『理想世界』昭和56年6月号より)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
※ この本部会館は「落成式典」ではなく、生長の家の大神に対して、この会館を捧げるという「捧堂式典」として挙行されている。神様に捧げたものを勝手に壊すのはいかがなものか。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
――以上は、ある友人から送られて来たアピールの文章を転写させていただいたものです。
雅宣総裁の「唐松模様」も拝読して、皆さま、どうお考えになりますか。ご一緒に考えてみたいと思います。
657
:
復興G
:2013/04/18(木) 17:45:06 ID:AB6RqYXc
明晩からの第13回web誌友会テキスト
『生命の實相』第3巻の本文3頁までのところを謹写しましたので、以下にアップロードさせて頂きます。
------------------------------------------
一人の生命が全体の生命のために生命を投げ出したとき、その生命は、全体の生命と一つになる。ひとりの生命がはなれ離れに動き出そうとするときには、いろいろの衝突や摩擦が起こるが、全体の生命とひとつになって、宇宙といっしょに動き出すならどこにもわれわれの活動に無理はおこらない。
われわれが各個人(ひとりひとり)離ればなれに動き出すのは、たとえば、時計の針が針の力ばかりで動き出そうとするにもひとしい。そこには無理があり摩擦があり、ひょっとすればその時計の針が折れるかもしれないのである。
しかし時計が全体の力で動いているときは実に小さなバネの力で長時間なめらかにそれは運転をつづけるのである。全体といっしょに動く生活、全体の力で生きる生活、自分だけの力で生きない生活、「我」で生きない生活、捨てたときおのずから生きてくる生活、これならいつまでたっても行きつまる気づかいはない。これが「生長の家」の生活である。
------------------------------------------
七つの燈台の点燈者の神示
○
わが第一の神殿は既に成れり。名付けて「生命の実相」という。完成(ななつ)の年になりてわが第一の神殿が完成するのも生命の顕現には周期的波動があるからである。
七つが事物の顕現の周期律になっている。われに神殿は不要であると嘗て示したことがあろう。われは道(みち)であるから、わが道(ことば)を語るところに吾が神殿は築かれる。わが道(ことば)を載せた『生命の實相』こそわが神殿である。
『生命の實相』はわが本体であり、無形の「生命の実相」を形にあらわしたのが『生命の實相』の本である。「言葉」を載せた書物を「本」と云うのも、「言葉」こそ事物の本(もと)であり、本質であり、本体であり、本物であるからである。「言葉の宇宙」が先ず出来て、「形の宇宙」がその映像(かげ)としてあらわれるのである。
今迄の宇宙は、「言葉」が実相を語らず、不調和で濁っていたから、宇宙の万物の運行が乱れて生活苦や病気や、天災や戦争など色いろ不調和なことばかり起こったのである。『生命の實相』の本が出た以上は、言葉が実相を語り、善き円満な調和した言葉の「本」が調うたのであるから今後何事も急転直下する。
『生命の實相』を開くだけで病念は去り、煩悶は解決し、人々ただ自己の生命の実相を知り、歓喜踊躍して手の舞い足の踏む所を知らないに至る位はその三番叟(さんばそう)に過ぎない。その歓びの相(すがた)こそ人間の生命の実相である。
わが道(ことば)を「生命の実相」と呼ばしめ、それを本の形にして、披(ひら)いて読むものにさせたのも象徴的因縁あることである。『生命の實相』が展開(ひら)けば形の理想世界が成就するのである。
今は過渡時代であるから、仮相の自壊作用として色々の出来事が突発する。日支の戦いはその序幕である。神が戦いをさせているのではない。迷いと迷いと相搏(う)って自壊するのだ。まだまだ烈しいことが今後起こるであろうともそれは迷いのケミカライゼーションであるから生命の実相をしっかり握って神に委せているものは何も恐るる所はない。
(昭和七年一月十一日神示)
<つづく>
658
:
復興G
:2013/04/18(木) 17:45:53 ID:AB6RqYXc
<つづき>
○
われに姿かたちがあるように云うものあれどわれは姿なきものである。われは道(ことば)である。われは霊性である、知恵である、愛である、生命である、われは如来である、われは一つにして多である。信仰深き諸方の霊覚者にわが神姿を示したることあれども、そはわが真の姿に非ず、見えたる神姿は霊覚者の心識の所現にも非ず。そは、われ神通力によって、疑う者の蒙を啓(ひら)かんがために、異る場所と異る人とに同じき一定の神姿を示して、神の客観的存在を実証したに過ぎない。
されど、本来われに一定の神姿はない。如何なる姿も欲(おも)いのままに現ずることが自由である。されば、嘗てわれ汝に告げたのである「われに神殿は不要である」と。われは神殿がないとて身の入れ場所に困るような神ではない。供え物も要らぬ。わが姿を見んと欲(ねが)うものは『生長の家』を読め。われは言葉である。わが言葉を盛る雑誌こそわが神殿である。この雑誌がひろがるのこそわが神殿の大きくなることである。
われにすがた形はない。われは霊の海である。大海原である。すべての宗教(おしえ)流れ来りて吾れに入らん。吾れは完成する者である。われは「七つの燈台」に燈(ひかり)を点ずる者である。古道も、仏教も、キリスト教も、天理教も、金光教も、黒住教も、大本教も、すべての教え我に流れ入りて生命を得ん。
われは大(おおい)なるものなるかな。すべての教えを呑吐(どんと)してこれに生命を与え、すべての相争う教えをその神髄に於いて握手せしめる。吾れはすべてを包容し、すべてに光を与え、すべてに栄養を与え、すべてを生かす地下水である。他の如何なる宗教をも誹(そし)らず批(う)たず常に讃頌(たたえごと)と、善き言葉とを雨ふらして、それを浄めその神髄に燈(ともしび)を点ずる。
あらゆる宗教がその神髄を礼拝して手をつなぐようにならねば此の現実世界の改造は完成せぬ。精神界が先きで現実界はその影である。元乱れて影完(まっ)たからず、宗教家よ、宗派争いをしている時ではない。
(昭和六年四月五日神示)
659
:
トキ
:2013/04/18(木) 18:29:57 ID:gl5PbSBA
復興G様
貴重なご文章をご投稿下さり、ありがとうございます。
また、ご多忙の中、web誌友会でご指導を賜る事、深く感謝申し上げます。
皆様にもご参加を呼びかけたいと思います。
たいへん、勉強になる内容です。閲覧者様も、どんどん感想、疑問や質問などをお願いします。
よろしくお願い申し上げます。
合掌 ありがとうございます
660
:
a hope
:2013/04/19(金) 09:06:36 ID:6kIbHHgs
みなさま おはようございます。
いよいよ、今夜 21時半(9時半)より、第13回web誌友会が開会されます。
いつものように、わたしa hopeが、開会30分前くらいになりましたら、
「準備祈願」としての祈りの言葉と、「真理の吟唱」より、『人類全体を祝福する祈り』を謹写させていただきます。
今回は復興Gさまが、『原宿本部に鎮座されていた、七つの燈台の点燈者なる「御神像」も山梨へ移転される』件や、
『今年の10月に、生長の家本部が“森の中のオフィス”(山梨県北杜市)に移転された後の東京原宿の現本部会館はどうなるのか』について、
みなさまに一緒に考えてくださいと呼びかけられています。
わたしは偶然にも独身時代、原宿本部のすぐ近くのビルで仕事をしていたことがあります。
その威厳ある「御神像」の鎮座する建物の雰囲気に心が清まる思いがしいていたことを思い出ししました。
そのことに関しては、以下の復興Gさま紹介の雅春先生の御文章を拝読すると納得がいきました。
< 私が本部の建物を建設するために、「特信」の手紙を書いたり、礼状やお願い状を書いたりしているのは、私の室をつくるためでもなければ、私の機関をつくるためでもないのである。この建物は神に捧げられたる建物である。建物はただの物質であるけれども、それは百萬信徒の「まごころ」の結集である。
「まごころ」と云うものは肉眼に見えないから、肉眼で見ると、ただの実業のビルディングでもこう云う聖堂でもただの「形」である。けれども「まごころ」が結集してこれだけの建物が建つと云うことは「容易ならぬこと」である。それは太陽の光を凸レンズで結集すると紙を焼くことが出来るように、「まごころ」が結集してこれだけのものが建つとき、人類の魂に一層容易に火をつけることが出来るのである。これから人類光明化の力が一層早くなるであろう。>
原宿本部の建物は、〝百萬信徒の「まごころ」の結集〝であり、
また、輝子先生の御文章からもわかりますが〝谷口雅春先生の人類光明化運動〝への熱い思いのこめられた
「生長の家の教え」の伝道にとってはなくてはならないとても大切な建物だったのですね。
その建物が立ったからこそ、わたしはこうして、今、「生長の家の教え」をお勉強ができるのかもしれません。
そう考えると、心からの感謝の気持ちがわいてきます。
復興Gさま、本当に貴重な文章を紹介してくださりありがとうございます。
それではa hopeは、今夜みなさまとお会いするのを楽しみに、今日も元気に仕事に行ってきます。
661
:
復興G
:2013/04/19(金) 11:37:37 ID:AB6RqYXc
>>659
:トキ様。
>>660
:a hope様。
積極的なご協力、ありがとうございます。
皆々さま、心を空しくして、生長の家の神髄を、楽しく、深く学ばせて頂き、わがものとさせて頂きましょう。
前夜祭がすでに始まっているところです。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
さて、テキスト『生命の實相』第3巻は、最初に「七つの燈台の点燈者の神示」と題して8つの神示が掲示されています(生長の家の神示は全部で33ありますが、第3巻の巻頭に掲げられているのはそのうちの8つです)。
今回は、その8つのうち最初の2つを、重点的に学ばせていただきます。これらの神示は、第3巻では特定の名称は付けられていませんが、『神示講義』や『神示集』では、「声字(しょうじ)即実相の神示」・「万教帰一の神示」と名づけられている神示です。
生長の家の神示はすべて、「七つの燈台の点燈者の神示」とされています。その意味は――
頭注版『生命の實相』第3巻の頭注には、次のように記されています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「七つの燈台」
新約聖書の『ヨハネ黙示録」第一章にある文字で、その当時あった七つの教会の象徴として、使徒ヨハネが神からの啓示(黙示)を受けた時に霊視した、七つの燭台のこと。ここでは「世を照らすすべての宗教」の象徴として、それに灯をつけ、唯物論にくらまされて今や消えようとしている形式だけになってしまった宗教に光を与える使命を受けて出現した天使を「七つの燈台の点燈者」といっている。(『生命の實相』第3巻の頭注より)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
これは、詳しくは、神示講義『神ひとに語り給ふ』の44頁以下に、谷口雅春先生が次のようにお教え下さっています。
<つづく>
662
:
復興G
:2013/04/19(金) 11:40:34 ID:AB6RqYXc
<つづき>
神示講義『神ひとに語り給ふ』(44頁〜 )より
「七つの燈台」の意味するもの
さて、聖経の巻頭に「七つの燈台の点燈者の神示」という言葉が出ているのでありますが、爰(ここ)に生長の家は一宗一派ではないということが、ちゃんとこの神示に書かれているのであります。「我は七つの燈台に燈を点ずる者である」と生長の家の教えを創(はじ)められた神様がみずから言っておられるのであります。この「七つの燈台」という言葉は、キリスト教の新約聖書の一番終に『黙示録』というのがありますが、その第一章を披(ひら)いて御覧になりますと次のように書かれているのであります。
「われ振反(ふりかえ)りて我に語る声を見んとし、振反りて見れば七つの金の燈台あり。また燈台の間に人の子のごとき者ありて、足まで垂るる衣を着、胸に金の帯を束(つか)ね、その頭(かしら)と頭髪(かみのけ)とは白き毛のごとく雪のごとく白く、その目は焔の如く、その足は爐にて焼きたる輝ける真鍮(しんちゅう)のごとく、その声は衆(おお)くの水の声のごとし。その右の手に七つの星を持ち、その口より兩刀(もろは)の利(と)き剣(つるぎ)いで、その顔は烈しく照る日のごとし。……彼その右の手を我に按(お)きて言いたまう「懼(おそ)るな、我は最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、活ける者なり、我れ曾(かつ)て死にたりしが、視よ、世々限りなく生く。また死と陰府(よみ)との鍵を有(も)てり……」
此の「人の子」というのは、じつは「神の子」であって、イエス・キリスト自身が、常に自分を「人の子」と言っておられた。そして「我れ曾て死にたりしが」とあるのは一度は十字架にかけられて死んだように見えたがということであります。それで「人の子のごとき者」というのは、イエス・キリストのことであることがわかるのであります。肉体のイエス・キリストは三十三歳で磔けにかかりましたから、老人ではないのでありますが、それが復活して久遠の古(ふ)りたる無始の昔からの存在として白髪の老翁の姿を以ってこの七つの燈台の間を歩んでおられるのであります。
ヨハネから見たら、どうも人相が「人の子」即ちイエスに似ているけれども老人の姿でありますから、どうも、イエスでないかも知れない、それで「人の子そのもの」と書かないで「人の子のごとき者」と書かれているのであります。ところが、その人の子のごとき者は、「我は最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、世々限りなく生く。また生と死との鍵をもてり」と仰せられているのであります。
白髪というのは老人の老いぼれという意味ではなくて、また今漸く三十歳になったばかりのイエスであるという意味ではなしに、久遠の昔から永遠に続いている生き通しの生命を象徴した「白髪の老翁」というわけでありまして、決して老いぼれのお爺さんという意味ではないのであります。「久遠の生命」というのは百五十歳位の数えられる長寿ではなくて、無限の長寿というものを象徴した白髪の老翁の姿で示されたので、その「頭と頭髪とは白き毛の如く雪の如く」白衣(びゃくえ)を足先まで垂れた姿であらわれられたのであります。
これはヨハネというキリストの弟子の中で、一番霊感の秀れた弟子が、キリストが磔(はりつ)けになりましてから、ローマ帝国の迫害を受けて、パトモス島という小アジアの小島へ流されて居ったときに神に祈って居りましたら、霊感的に、眼は瞑(つぶ)っておっても眼の前に七つの燈台の有様が見えて、白髪の老翁の姿がその間に歩みたまうのが見えたというのであります。
その白髪の老翁は――我はα(アルファ)でありω(オメガ)であり――始めであり終りであり、生と死との鍵をもてり」と宣言したもうたことによって「宇宙の根元の神」であるということが明かであります。その神様が出て来られたので、ヨハネはその威厳にうたれて、そこに平伏(ひれふ)してしまった。そして「死したるものの如くなれり」と聖書には書かれています。
<つづく>
663
:
復興G
:2013/04/19(金) 11:56:29 ID:AB6RqYXc
<つづき>
神示講義『神ひとに語り給ふ』より
単に土下座したというくらいのものではないのであって、地面に平伏(ひれふ)してしまって、もう再び起き上る事は出来ないという様な状態になった。そのとき“吾はアルファなりオメガなり、最先なり最後なり、生と死との鍵をもてり”とこう言われた。この神様が、生長の家の神様であって「七つの燈台に燈を点ずる者」でありたまうのであります。キリスト教的に言えば「久遠のキリスト」であります。
肉体のキリストは三十三歳で死んだけれども、「本当のキリスト」は、久遠不滅であらせられるのです。『生命の實相』の中には真理と書いて、「キリスト」とフリ仮名をつけてある箇処が所々にあるのであります。「キリスト」というと、三十三歳でハリツケになったユダヤ人の男の事だと、こう思っている人もありますけれども、あれはキリストの応現身であって、肉体的に或る時代に適するように応じて現れた姿であって、「本当のキリスト」は「真理」そのものであり、始めなく終りなく宇宙に充ちている所の真理そのものである訳なのです。その真理そのものは久遠不滅であるから、初めであり終りであり、永遠に不滅である、というので白髪の老翁の長寿の姿をもって人格化して出て来られている――こういう事になっている訳であります。
内にやどるキリスト
さて、新たに生れる問題でありますが、キリストの弟子のパウロという人が言っておりますが、「も早われ生くるにあらず、キリスト我れにあって生くるなり」この自覚が「新たに生れる」生れ更りであります。肉体の自覚からキリストの自覚に新たに生れるのです。自分という肉体的な存在が生きているのではなくて、「キリストわれにあって生くるなり」という所の自覚を得ることが、新たに生れることであります。
「谷口先生はキリストの再来である」なんておっしゃる人もありますけれども、キリストは真理であり、普遍的な存在でありますから、私だけがキリストの再来じゃない、皆さんすべてにキリスト――即ち真理が宿っているから、パウロと同じように「キリストわれにあって生くるなり」という自覚を得るならば皆さんは「われキリスト」の自覚を得られたのであって、キリストの再来であるわけなんです。
諸君、「汝自らを知れ」というソクラテスの言葉を、深い意味に於て如実に知ってですね、「自分というものは神の生命なんだ。最早われ生くるに非ず、キリスト我にあって生くるなり」と自覚するんですね。これを忘れるから不可(いか)んのですよ。これが根本問題であって、戦争が起るのも、人類の一人一人がキリストだという事を忘れているからですよ。自分が「愛」そのものであるところのキリストだという事を忘れているところに、色々の争いが起り、奪い合いが起り、色々面白からざる事が起ってくるのであります。自分がキリストであるという事を忘れて、自分は「煩悩の猿(ましら)」であると、ダーウィンの進化論などから、人間は獣類の子孫だなどと思って、人間が神の子であり、キリストであるという事を忘れている――其処に一切の混乱の源があるんですよ。
仏教では「キリスト」と言わないで「仏性」と言うんです。つまり自分に宿っている処の仏性――仏なる本性がキリスト教では「内在のキリスト」であります。日本的に言えば「ミコト」なるものであります。何宗教にも偏らない用語を使えば「真理」と言うべきであります。神道でもキリスト教でも仏教でも同じ事です。生長の家は万教帰一であります。
だから此の講習会に集って居られる方々には、いろいろの宗教の方々がいられる。仏教各宗の人も居られるし、キリスト教の各派の人も居られる。或いは教派神道の方々も居られる。こうして色々の宗教の人が生長の家に来て教えに触れられる。すると、“自分の信じておった宗教の神髄は本当はこういう意味であったのであるか”という事が判って其の宗教が本当に有りがたくなるのが生長の家であります。それで、自分が燈台だと言わないで「七つの燈台に火を点ずる者」というのであります。
<つづく>
664
:
復興G
:2013/04/19(金) 11:57:08 ID:AB6RqYXc
<つづき>
神示講義『神ひとに語り給ふ』より
七つは完成の数でありまして一切を包容する意味であります。燈台というのは世を照らす光であって、世の光となる宗教の象徴であります。ところで、現在はまだあらゆる世を照らす光である筈の宗教が眠っていて其の法燈が消えているのであります。もう大分眼が覚めたらしい宗教もあるのですけれども、生長の家が二十七年前に出現した時分は、大抵の宗教は眠っておって燈がついていなかったのであります。
だからどの宗教でもみな教祖の時代には、いろいろの奇蹟が現れたり、魂を本当に目覚めさせて如実に人間を救う事ができたのでありますけれども、それが段々弟子から弟子へ伝わり、それが「又弟子」に伝わりしてゆく中(うち)に、教えが段々水増しをするように迷いで薄まって、到頭、レッテルだけが「キリスト教」と書いてあって中身は別物が入っていたり、或いはレッテルは「仏教」と書いてあって、中身は釈尊のお説きになった真理がない水だけが入っているというような宗派ができて来ました。
そして、そういう様な中身の異るものを「キリスト教」とか「仏教」とか言って売っているという様な事でありますから教祖が出現せられた時代にあらわれていた奇蹟があらわれなくなった。そしてその奇蹟があらわれないことを弁解する為に、奇蹟のあらわれる宗教を治病宗教とか新興宗教とか言って攻撃しておれば、自分の宗教が偉いように見えるだろうと思うような間違を犯して、テンとして恥じないようになって来たのであります。
イエスでも釈尊でもはじめて出現したときには、既成宗教にあきたらないで出発した新興宗教であって、奇蹟が続々あらわれていたのであります――ところがその法燈が途中で消えて居たのですから、人生という航路を行く舟が難破するというのは無理がないという訳であります。
其処で神様がそれに燈を点(つ)けなければいかん、という訳で、世を照らす光の燈台である各宗の教えに、生きた火を点ずる役目として出現せしめられたのが、生長の家であります。燈をつけるのであって、決して各宗の燈台を壊すのではないんですから安心せられたいのであります。だから私たちは決して生長の家へ改宗してやって来いとは言わないのであります。皆さんの信じていられる今迄の宗教のそのままでそれに本当に世を照す事のできる燈がついたらそれでいいんでありますから、生長の家にあらわれた神さまは『七つの燈台の点燈者』と呼んでも好いという風に「新天新地の神示」に示されているのであります。
(神示講義『神ひとに語り給ふ』より。原文は正漢字・歴史的仮名遣ひ)
665
:
トキ
:2013/04/19(金) 12:13:24 ID:4obc7AKc
スエーデンボルグについて研究をしている渋谷協さんという人が書いた
「スエーデンボルグに啓示された死後の世界」(神智と神愛社、昭和42年
12月10日)という本に、谷口雅春先生の「続 人間死んでも死なぬ」
について、谷口雅春先生が霊媒の言葉をありがたがる事の危険性を指摘され
た点について、霊媒の言葉だからと言って信用できないとは限らないと反論を
しています。渋谷さんは、日本スエーデンボルグ協会の創立者のようです
から、渋谷さんの立場からは、それは当然かもしれません。
確かにスエーデンボルグは詳細な著書を遺しており、それは貴重であると
は思います。
しかし、こういう霊的なレベルでの信仰で留まっているのが本当に人間
の向上につながるのか、という疑問はあります。
私の知り合いの霊能力者の方も、多くの人の相談にのっていましたが、その
相談の内容があまりにも物質的な利益を目的としたものであることに失望し、
相談をやめてしまった、という事がありました。
青年の書のはしがきにもありますように、霊的な部分の研究は限定的にされる
べきもので、やはり、本道は神様の事にあると知るべきかと思いました。
その観点から見て、神様について勉強ができる機会を提供して下さる復興G様
には深く感謝申し上げます。
666
:
復興G
:2013/04/19(金) 14:00:42 ID:AB6RqYXc
さて、『生命の實相』第3巻巻頭に掲げられた最初の二つの神示について、谷口雅春先生の「神示講義」にはどのように書かれているか、今夜からのweb誌友会のために資料として、謹写掲示させて頂きます。
まず、最初の「声字即実相の神示」です。
これは、『到彼岸の神示』125頁〜から。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
〔ご講義〕
「吾が第一の神殿は既に成れり。名付けて『生命の實相』と云う。完成(ななつ)の年になりて吾が第一の神殿が完成するのも生命の顕現には周期的波動があるからである。七つが事物の顕現の周期律になっている。吾れに神殿は不要であると嘗て示したことがあろう。吾れは道(みち)であるから、吾が道(ことば)を語るところに吾が神殿は築かれる。吾が道(ことば)を載せた『生命の實相』こそ吾が神殿である。『生命の實相』は吾が本体であり、無形の『生命の実相』を形にあらわしたのが『生命の實相』の本である。『言葉』を載せた書物を『本』と云うのも、『言葉』こそ事物の本(もと)であり、本質であり、本体であり、本物であるからである。『言葉の宇宙』が先ず出来て、『形の宇宙』がその映像(かげ)としてあらわれるのである。……」
新約聖書の『ヨハネ伝』第一章には「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言(ことば)は神なりき」とありますし、旧約聖書の『創世記』には「元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまえり。地は定形(かたち)なく曠空(むなし)くして黒暗(やみ)淵(わだ)の面(おもて)にあり。神の霊、水の面(おもて)を覆いたりき。神光あれと言いたまいければ光ありき」とあります。万物の最初の創造――光の創造は「言いたまいければ」即ち“言葉”によって行われているのであります。弘法大師も『声字即実相』と仰せられており、「声」即ちコトバ及び「字」即ちコトバが形象化したものは、事物の「実相」即ち「本質」であると説いていられるのであります。
それでは「言(ことば)」とは何であるかと言いますと、「太初(はじめ)に言(ことば)あり」でありまして、事物の生れる「太初(はじめ)」に言(ことば)がある。「太初」というのは根本原因のことであります。「第一原因」と言っても宜しい。第一にあるものがコトバであって、それが創造力をもっていて、第二、第三と、次々に現象が生れて来るのであります。そのことが「『言葉』を載せた書物を『本(ほん)』と言うのも、『言葉』こそ事物の本(もと)であり、本質であり、本体であり、本物であるからである」と爰(ここ)には示されているのであります。
生長の家はコトバの宗教でありまして、コトバの力によって人類の心を浄め、地上に起る事件を浄化し、この世から一切の不幸を除去し地上に天国浄土を建設しようという運動であります。
宇宙創造の本体にまします神はコトバであり、『ヨハネ伝』に「万(よろず)の物これ(註・コトバ)に由りて成り、成りたる物に一つとして之(これ)によらで成りたるはなし」とありますように、万物は悉くコトバの創化力によって出現したのであります。
だから事物の「成就」することを「成る」(鳴る)と言います。即ち「成る」と「鳴る」とは語源が一つでありまして、事物の第一原因はコトバであり、コトバは鳴り響くから「鳴る」即ち「成る」と言うのであります。すべての「事物」を「事」と言うのも、「事」の本質は「言」であり「事」と「言」とは同一語源であるからであります。
私たちは事物を確認するときに、「これは何々と言うものである」と申しますが、「言うもの」とは「言」にほかならないのであります。「これは陶器と言うものである」と言えば、陶器は「陶器と言うコトバ」であると、その本質がコトバであることを顕わしているのであります。
これを文語体で表現しますと、「これは陶器なり」と申しますが、「なり」(也)と言うのは「鳴り」であります。「これは陶器也(なり)」とは「これはコトバが鳴りひびいて陶器として顕れているのだ」という意味であります。そのようにコトバは事物の本質でありますから、コトバを載せた書物を「本」と言うのであり、コトバが世界を左右することにもなるのであります。
<つづく>
667
:
復興G
:2013/04/19(金) 14:01:26 ID:AB6RqYXc
<『到彼岸の神示』より 「声字即実相の神示」ご講義のつづき>
――(中略)――
神はコトバであり、コトバが実相であり、形は現象でありますから、そういう宇宙普遍の真理のコトバ――実相のコトバ――であるところの神のお住いとしては神殿や社殿よりも「真理の言葉」を載せ、それを披(ひら)いて、読む人々が自然に救われるような書物こそ、真に神の坐し給う「神殿」と称すべきでありましょう。だから、神様は、
「吾が第一の神殿は既に成れり。名附けて『生命の實相』と云う。」
と、『生命の實相』の初版の本が出たときに宣言せられたのであります。
いくら、そのような宣言が書かれてありましょうとも、それが唯の人間の作文であって、何等の効果もないような書物なら無価値でありますけれども、実際にその本を披いて読むことによって、医界不治の癌が治ったり、死刑囚さえも死刑から免除されて幸福な生活に入ることができるという――そういう事実があらわれて来るのだから、(拙著『私はこうして癌が治った』及び遠藤義雄氏著『真理は死刑の鎖も断つ』日本教文社刊参照)この『生命の實相』の本は、ただの人間たる「私」が書きおろした本ではなく、「私」を媒介として、或る神秘なる力が書いたればこそ、そのような神秘的力を発揮するのだと考えられるのであります。
――(中略)――
この神示にある「吾が第一の神殿は既に成れり。名付けて『生命の實相』と云う」とあるのは最初の革表紙三方金の『生命の實相』の本が、私がまだ兵庫県住吉村にいた頃にはじめて出た最初の版の『生命の實相』のことでありまして、それが昭和七年一月に製本が完成したことを、昭和七年の七に因んで、それが決して偶然のことではないと教えられている訳であります。
『言葉の宇宙』即ち「神の想念による宇宙」が先ず出来て、それが『形の宇宙』即ち「現象の宇宙」として時間的序列を通して出現するときには、“数霊”による周期率を以って展開して行くのであります。
大体、生命の発展周期は三と五と七との倍数で展開して行くのでありますが、爰には昭和七年に『生命の實相』の初版が出たことに連関して「七」についての因縁だけが説かれているのであります。男の大厄が四十二歳というのも、これは七の六倍で、人間の運命転換の数になっております。必ずしも悪い転機になるのではないのでありまして、私などは四十二歳の男の大厄の年、そして家内が三十九歳(三の倍敷)の女の大厄の年に上京移転して、生長の家の人類光明化運動が大発展を途げたのであります。
「今迄の宇宙は、『言葉』が実相を語らず、不調和で濁っていたから、宇宙の万物の運行が乱れて生活苦や、病気や、天災や戦争など色いろ不調和なことばかり起ったのである。『生命の實相』の本が出た以上は、言葉が実相を語り、善き円満な調和した言葉の『本(もと)』が調うたのであるから今後何事も急転直下する。
『生命の實相』を披(ひら)くだけで病念は去り、煩悶は解決し、人々ただ自己生命の実相を知り、歓喜踊躍して手の舞い足の踏む所を知らないに至る位はその三番叟(さんばそう)に過ぎない。その歓びの相(すがた)こそ人間の生命の実相である。吾が道(ことば)を『生命の實相』と呼ばしめ、それを本の形にして、披いて読むものにさせたのも象徴的因縁あることである。『生命の實相』を展開(ひら)けば形の理想世界が成就するのである。……」
「『言葉』が実相を語らず、不調和で濁っている」というのは、人間の想念及び言語が実相の円満さをそのまま讃美し感嘆するような言葉を内容とせず、対立感情で悪口を互いに言い合っているような言葉で濁っていることなのです。
実相の世界は、神の創造そのままでありますから、実相の世界には、生活苦や、病気や、天災や、戦争など色々の不調和なことはないのであります。それなのに現象世界にそのような不調和ばかり頻繁に起っているのは、「実相世界」の風光が現象世界に展開する過程に於て、人間の「心のレンズ」が曇っていて、実相と同調しない濁った想念(コトバ)を発しているからなのであります。
しかし、『生命の實相』の本が出た以上は、それに書かれている言葉は、言々これ実相の言葉でありますから、「言葉の本が正されることになったのだから何事も急転直下してよくなる」と示されているのであります。
(嘗て、鶴見の総持寺の管長で、一代の傑僧と言われた伊藤道海老師が『生命の實相』を『宇宙』誌上で評して「言々これ佛の語(ことば)」と書いたことがありました。)
<つづく>
668
:
復興G
:2013/04/19(金) 14:02:23 ID:AB6RqYXc
<『到彼岸の神示』より 「声字即実相の神示」ご講義のつづき>
兎も角、実際、『生命の實相』を披いて読むだけで病念が去り、病気の治った人もあれば、煩悶が解決した人もあり、人間の生命の実相は“神の子”であるという真理を語って歓喜踊躍した人は幾千幾万あるか数え切れないのであります。
これは何故かと言うと、すべて現象世界の善きものは、「実相世界」にあるものの展開でありますから、「実相」を心で観ずることによって展(ひら)いたら、現象界にも実相界の円満完全な有様が投影されて実現することになるのであります。その象徴として『生命の實相』の本を披くことによって、現象界にも家庭調和や病気の治癒や色々の功徳が実現するようになっているので、そのことを、神示には、
「吾が道(ことば)を『生命の實相』と呼ばしめ、それを本の形にして、披いて読むものにさせたのも象徴的因縁あることである」
とお示しになっているのであります。次に神示はこのように説いておられます。――
「今は過渡時代であるから、仮相の自壊作用として色々の出来事が突発する。日支の戦いはその序幕である。
神が戦いをさせているのではない。迷いと迷いと相搏って自壊するのだ。まだまだ烈しいことが今後起るであろうともそれは迷いのケミカライゼーションであるから生命の実相をしっかり握って神に委せているものは何も恐るる所はない。」
これは日支事変中に啓示された神示でありまして、「日支の戦いを序幕」として、「まだまだ烈しいことが今後起る」と書かれているのであります。
日支事変から大東亜戦争にかけて戦争中には“日本軍は皇軍であり、皇軍は神軍天兵である”とよく言われたものでありますが、この神示には、日支の戦いも、それを序幕として起る戦いも「神が戦いをさせているのではない。迷いと迷いと相搏って自壊するのだ」と書かれています。
実相の世界には「戦争」そのものが無いのでありますから、戦って敵を傷つける神軍というものは存在しないのであります。すべて戦って互いに相傷つく者は「迷い」と「迷い」との衝突であります。
過去の人類の迷いの念が具体化して戦争が起るのは、過去に蒸発した水蒸気が或る時期が来れば大雨となって降下し、一時大いに荒れるが、台風一過して空気が澄み切るように、一時戦争としてあらわれて人類の過去の「迷い」(憎みや民族的嫉妬、憎悪等)が消えるのをケミカライゼーションと言ったのであります。
こうして日支事変に継続して起るであろうと予告された大東亜戦争も「迷い」と「迷い」とが衝突して消えるための自壊作用であったのは論(い)うまでもありません。
併し私は、正直に言って、大東亜戦争中、日本軍が勝つように努力協力致しました。
“言葉の力”を知る私が、当時軍の指導によって、“必死”(必ず死ぬ)“決死”(きまって死ぬ)を掛声とし、「海征(ゆ)かば水漬(みづ)く屍(かばね)、山征かば草生(む)す屍……」の歌をうたって、国に報いるには「一死報国」のほかはないと、言葉の力をきわめて「死」を讃美している日本国の有様を見ましては、黙っておれませんでした。
そんな死を讃美し「草生す屍」を礼讃する言葉を使っていては日本海軍は「水漬く屍」になり、日本陸軍は「草生す屍」になり、結局は日本の敗載になるほかはないと思いまして、到る処の講習会場で、私は「必死、決死、水漬く屍」の掛声をやめよ。「皇軍必勝・必勝生還」の標語をつくり、その“言葉の力”を強力に日本全土にひろめなければならないと講演したのであります。
そのため、私は各講習会場でその講話をし、且つ「皇軍・必勝」の四文字を講習会毎に五百枚ずつ短冊に揮毫して、講習会員に無代進呈し、その短冊を自宅の壁又は柱に掲げて家族全部がその文字を観ながら『皇軍必勝』の“言葉の力”を念ずるようにお願いしたのでありました。
私はその短冊を書くために毎夜午前二時頃まで労することもありましたが、終戦までにやっと五万枚を書くことができましたが、「海征かば水漬く屍…」の歌を念ずる人は、満洲国だけでも三千万人、日本人の軍需工場や軍隊でその歌を唱っている人が数千万人……私の五万枚の「皇軍必勝」の短冊のコトバの力は、数千万人の「水漬く屍」のコトバの力に対してはまことに衆寡敵せずでありました。
ついに日本海軍はレイテ沖の海戦で目ぼしい軍艦の殆ど全部があの「海征かば……」の歌の言葉の通りに海の藻屑と化してしまったのでありました。
<つづく>
669
:
復興G
:2013/04/19(金) 14:03:08 ID:AB6RqYXc
<『到彼岸の神示』より 「声字即実相の神示」ご講義のつづき>
実に「言葉の力」は恐ろしいものであります。こうして、「迷い」と「迷い」とは相搏って自壊いたしましたが、「生命の実相をしつかり握って神に委せているもの」はその恐るべき自壊作用の中に於ても、何等傷つくことなく、原子爆弾の放射を近距離に於て受けても、少しも傷つくことがなかったのであります。
その一例を申しますれば、終戦後、宮崎県北部の生長の家連合会長や青年会長をしておられた甲斐信佳(かい・のぶよし)君であります。
この人は満鉄につとめておられましたが、結核にかかったため、内地へ還って養生するよう社命を受けて日本へ帰って来たのでありました。
日本へ帰ると生長の家に触れ、『生命の實相』を読んで、「人間神の子、本来無病の真理」を知り、結核が癒やされて健康になりましたので、恰も大東亜戦争の末期に臨んで、召集令状を受けたのであります。
甲斐君が考えるには、
「僕は生長の家に触れて病気が治ったのであるから、応召して行く前に、一度でよいから、谷口先生の直接の講習会を実地に受けて、自信力をつけて戦場へ行きたい。」
そこで何処に講習会があるかと調べてみると当時、久留米に私の講習会があったので、宮崎県から態々(わざわざ)久留米へ来て講習をお受けになったのであります。その時、私は例の通り、死を讃美するような歌や、「水漬く屍」になるような歌を唱ってはならない。言葉はカリソメに言った言葉でも実現するから――と言って講義していたのであります。
すると甲斐信佳君が、戦場で腹巻にする布をもって来て「これに皇軍必勝、必勝生還と書いてくれ」と言って墨を摺ってもって来られたのであります。その通り書いてあげましたら、甲斐君は悦んで応召して行かれた。
任地は先ず九州長崎であったのであります。甲斐君は長崎に原子爆弾を落されたときには高射砲隊に属していて、測高機によって敵機の高度を測って、高射砲の射手にそれを伝える役目をしていたのであります。
昭和二十年八月九日は非常に暑い日だったので、隊員は上着もシャツも脱いで上半身は裸になっていました。甲斐君は裸の背を空に向けて前にかがみ込んで測高機の目盛を見詰めていました。彼の裸の背には何の遮蔽物もないのでした。そのとき可成り近い距離で原子爆弾が爆発した。
裸の背には明かに放射能に触れて一時薄赤く陽にやけたようになっていましたが、甲斐君はその後、何らの肉体的故障を経験することなく、元気で今も光明思想普及に活躍していられるのであります。
まことに、此の神示にありますように「生命の実相をしっかり握って神に委せているものは何も恐るる所はない」というのは事実でありまして、原子爆弾と雖も、甲斐君を傷つけることはできなかったのであります。
670
:
復興G
:2013/04/19(金) 14:21:24 ID:AB6RqYXc
>>665
:トキ様。
ありがとうございます。
「至上者の自覚の神示」に、次のようにありますね。
○
(前略) 人間の偉大な仕事を皆憑霊(ひょうれい)の仕事のように説いて、人間をただ憑霊の傀儡(かいらい)のように教える者があるが邪教である。人間の本性に憑霊の示唆よりも偉大なものがあることを教えるものこそ正しき教である。人間は肉体でもなければ傀儡でもない。人間は霊であり神であり自主である。若し憑霊が『霊』であるが故に、偉大なる教を説き、偉大なる仕事が出来るならば、人間自身も『霊』であるが故に偉大なる教を説き、偉大なる仕事が出来ることも当然でなければならぬ。ただその教や仕事に高下があるのは霊界の霊にも、人間にも、自己内在の無限性の掘りさげ方に差があるからである。
釈迦は決して憑霊の傀儡ではない、キリストも決して憑霊の傀儡ではない。いずれも自己内在の無限性を掘下げて、ついに仏性に達し、神性に達したから、霊界の諸霊来って此の二聖に事(つか)えたのである。釈耶の憑霊ばかりを観て釈迦が自覚したところの仏性、イエスが自覚したところの神性を見ない者は憐れである。憑霊が説くほどの教なら人間自身も霊であるから説き得べきであるのに、釈耶の教を釈耶自身の教ではなく憑霊の教であると説くスピリチュアリズムは自己撞着に陥っているのである。人間よ、人間自身の尊厳を自覚せよ、これを自覚することは人間自身の尊厳を奪還することである。『生長の家』は人間自身の尊厳を奪還せんがために出現した人生の燈台である。
(昭和八年三月十六日神示)
○
ありがとうございます。
671
:
トキ
:2013/04/19(金) 18:35:47 ID:4obc7AKc
>>670
復興G様
的確なご指導、ありがとうございました。確かにそうですね。
672
:
トキ
:2013/04/19(金) 19:45:42 ID:4obc7AKc
>>669
素晴らしい記事をご紹介下さり、ありがとうございました。
少し前まで、教区の先達には兵隊さんに行った経験のある人が多数おられました。
その中には、招集当時、既に生長の家に触れておられた人もおられましたが、そういう先達は
不思議に激戦地を避け、自分も負傷しないし、敵兵も殺さない、という体験をもった人ばかり
だったと記憶しております。
673
:
a hope
:2013/04/19(金) 20:58:26 ID:6kIbHHgs
第13回web誌友会開会の時刻 が近づいてまいりましたので、「準備祈願」としての祈りの言葉と掲載させていただきます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(準備祈願) 住吉大神様 住吉大神様 谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
住吉大神様、本日の 生長の家 本流復活について考える WEB誌友会板 に於ける
今夜の生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
今夜の参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます
世界平和の祈り
神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。
光明思念の歌
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
674
:
a hope
:2013/04/19(金) 21:01:54 ID:6kIbHHgs
続きまして、聖経「真理の吟唱」より『人類全体を祝福する祈り』を謹写させていただきます。
『人類全体を祝福する祈り』
神はすべての創造主(つくりぬし)であり給う。
神は全能であり給う。
神はコトバにて万物を造りたまうたのである。
その全能なる神のコトバわれにやどり給うてわが生命と成り給えり。
されば我がコトバにて宣言することは必ずそれが具体化して現象界に現われてくるのである。
われは大いなるコトバの力にて、豊かなる富が人類に実現することを宣言するのである。
それゆえに、時間空間面に於ける秩序を通して必ず豊かなる富は世界の人類に実現するほかはないのである。
われは今、神の大いなる〝言葉の力〝にて人類全体の幸福を宣言するのである。
それゆえに、人類全体は必ず幸福になるほかはないのである。
われは今、神の大いなる〝言葉の力〝にて人類全体の平和を宣言するのである。
それゆえに人類全体は必ず平和になるほかはないのである。
われは今、神の大いなる〝言葉の力〝にて人類全体の正しき方向への進歩を宣言するのである。
それゆえに人類は必ず正しき方向へ進歩するに相違ないのである。
われは今、神の大いなる〝言葉の力〝にて人類全体の健康を宣言するのである。
それゆえに人類全体は毎日層一層健康を実現して行くことに間違いはないのである。
かくてわれは神の大いなる〝言葉の力〝にて人類全体の富裕と、幸福と、平和と、健康との念を宇宙に放送するがゆえに、
それらは必ず実現するとともに、その反響として人類の富も幸福も平和も健康もことごとく自分に撥ね返ってきて、
私は全人類から祝福される人となるのである。
まことに私は神が人類を祝福せんがために遣わされたる天の使いとして全人類を祝福するがゆえに、
われに還り来る祝福もまた無限であって限りを知らないのである。
無限の進歩向上が自分には約束されているのである。
今日もまた自分は進歩するのである。
明日もまた自分は進歩するのである。
進歩し向上することはまことに悦ばしきかな。
神は無限の内容をもちたまうがゆえに、神の自己実現である自分は、
時間空間のスクリーンを通してその無限を展開して行くのである。
内容が無限であるから、どれだけ進歩向上しても、尚なお向上発展の余裕が残されているのである。
私は今日も生長し前進する。
私は明日も進歩する。
私はさらに明後日も向上するのである。
生長、進歩、向上は、〝神の子〝たる者、神の自己顕現である自分の使命であるのである。
自分は何物にもこの進歩向上を阻まれるということはないのである。
自分の前進を妨げる者は何処にも存在しないのである。
進歩は神の御心であり、生長は神の意志である。
私は常に善き方向に新しく進むのである。
私は神と偕(とも)に前進し、神と共に新しいアイディアを生み出(いだ)し、神と偕に常に新しき生活に進み行く。
われは幸いなる者なるかな。
神に深き感謝を捧げます。
合掌。
675
:
トキ
:2013/04/19(金) 21:02:27 ID:4obc7AKc
>>673
ありがとうございます。
676
:
復興G
:2013/04/19(金) 21:24:24 ID:AB6RqYXc
>>673
・
>>674
a hopeさま。
すばらしい開会「準備祈願」のお祈り・聖経「真理の吟唱」より『人類全体を祝福する祈りを、ありがとうございました。
力強いパワーが湧き出てきました。
感謝 合掌。
677
:
トキ
:2013/04/19(金) 21:33:44 ID:4obc7AKc
>>674
すばらしい一節です。今回の誌友会にふさわしい祈りだと思います。
678
:
復興G
:2013/04/19(金) 21:43:48 ID:AB6RqYXc
web誌友会開会の時刻になりました。
上記、a hope様が謹写して下さいました聖経「真理の吟唱」のお祈りの言葉は、まことに「声字即実相の神示」を生活に生かすお祈りであったと思います。
>>666
に謹写させて頂きましたように、「声字即実相の神示」のご講義に、次のように記されていました。
○
「言(ことば)」とは何であるかと言いますと、「太初(はじめ)に言(ことば)あり」でありまして、事物の生れる「太初(はじめ)」に言(ことば)がある。「太初」というのは根本原因のことであります。「第一原因」と言っても宜しい。第一にあるものがコトバであって、それが創造力をもっていて、第二、第三と、次々に現象が生れて来るのであります。そのことが「『言葉』を載せた書物を『本(ほん)』と言うのも、『言葉』こそ事物の本(もと)であり、本質であり、本体であり、本物であるからである」と爰(ここ)には示されているのであります。
生長の家はコトバの宗教でありまして、コトバの力によって人類の心を浄め、地上に起る事件を浄化し、この世から一切の不幸を除去し地上に天国浄土を建設しようという運動であります。
宇宙創造の本体にまします神はコトバであり、『ヨハネ伝』に「万(よろず)の物これ(註・コトバ)に由りて成り、成りたる物に一つとして之(これ)によらで成りたるはなし」とありますように、万物は悉くコトバの創化力によって出現したのであります。
だから事物の「成就」することを「成る」(鳴る)と言います。即ち「成る」と「鳴る」とは語源が一つでありまして、事物の第一原因はコトバであり、コトバは鳴り響くから「鳴る」即ち「成る」と言うのであります。すべての「事物」を「事」と言うのも、「事」の本質は「言」であり「事」と「言」とは同一語源であるからであります。
○
ですから、私たちは、現象にいかなる混乱や困難な情況が現れていようとも、
「今は過渡時代であるから、仮相の自壊作用として色々の出来事が突発する。日支の戦いはその序幕である。神が戦いをさせているのではない。迷いと迷いと相搏(う)って自壊するのだ。まだまだ烈しいことが今後起こるであろうともそれは迷いのケミカライゼーションであるから生命の実相をしっかり握って神に委せているものは何も恐るる所はない。」
と神示にあるとおり、安心して、使命感のままに前進させて頂きましょう。
皆さま、どんどん思うところをお書き込みください。
679
:
a hope
:2013/04/19(金) 21:45:12 ID:6kIbHHgs
復興Gさま トキさま みなさま
ありがとうございます。
今回の『人類全体を祝福する祈り』は今朝の神想観のあとに選び謹写しました。
わたしは、毎朝の神想観の後に「真理の吟唱」を唱えるのですが、毎日どの祈りを唱えても心から感動して、
神への感謝の気持ちでいっぱいになります。
みなさま、今回も、どうぞよろしくお願いいたします。
680
:
トキ
:2013/04/19(金) 21:48:33 ID:4obc7AKc
今回もよろしくお願いいたします。皆様のご参加を心からお待ちしております。
合掌 ありがとうございます
681
:
復興G
:2013/04/19(金) 21:55:30 ID:AB6RqYXc
>>667
○
「今迄の宇宙は、『言葉』が実相を語らず、不調和で濁っていたから、宇宙の万物の運行が乱れて生活苦や、病気や、天災や戦争など色いろ不調和なことばかり起ったのである。『生命の實相』の本が出た以上は、言葉が実相を語り、善き円満な調和した言葉の『本(もと)』が調うたのであるから今後何事も急転直下する。
『生命の實相』を披(ひら)くだけで病念は去り、煩悶は解決し、人々ただ自己生命の実相を知り、歓喜踊躍して手の舞い足の踏む所を知らないに至る位はその三番叟(さんばそう)に過ぎない。その歓びの相(すがた)こそ人間の生命の実相である。吾が道(ことば)を『生命の實相』と呼ばしめ、それを本の形にして、披いて読むものにさせたのも象徴的因縁あることである。『生命の實相』を展開(ひら)けば形の理想世界が成就するのである。……」
「『言葉』が実相を語らず、不調和で濁っている」というのは、人間の想念及び言語が実相の円満さをそのまま讃美し感嘆するような言葉を内容とせず、対立感情で悪口を互いに言い合っているような言葉で濁っていることなのです。
実相の世界は、神の創造そのままでありますから、実相の世界には、生活苦や、病気や、天災や、戦争など色々の不調和なことはないのであります。それなのに現象世界にそのような不調和ばかり頻繁に起っているのは、「実相世界」の風光が現象世界に展開する過程に於て、人間の「心のレンズ」が曇っていて、実相と同調しない濁った想念(コトバ)を発しているからなのであります。
しかし、『生命の實相』の本が出た以上は、それに書かれている言葉は、言々これ実相の言葉でありますから、「言葉の本が正されることになったのだから何事も急転直下してよくなる」と示されているのであります。
○
上記ご講義(『到彼岸の神示』)を拝読して、皆さま、何をお感じになるでしょうか。
682
:
トキ
:2013/04/19(金) 22:22:44 ID:4obc7AKc
>>681
今、テレビを見ますと、米国で爆弾事件があり、また、それに関連していろいろな事件が起こっているみたいです。
報道によれば、犯人はチェチェン人とのことです。このチェチェン人は、旧ソ連の少数民族です。共産党時代に、
弾圧を受け、住んでいる土地を取り上げられたなどの迫害を受けました。当然、彼らは、こういう不当な迫害には
抵抗し、そのために、また、弾圧を受けるという繰り返しになりました。ソ連崩壊後は、今までの民族主義の高まり
から、とうとうソ連と戦争になりました。この戦争になった経過も不透明なものがありますが、今も争いは続いて
おります。
もちろん、チェチェン人から見たら、ソ連に酷い弾圧を受けたので、その動機は必ずしも間違いではないのですが、
その争いが長年続いたために、ついにはマラソンの会場で無関係の市民を標的とした爆弾事件を起こすまでになった
のです。憎しみの言葉が悪い結果を生んだ事例だと思いました。
つぎに逆の事例です。
中国から弾圧を受けたダライラマは、アメリカで講演をしたときに、出席者のアメリカ人の学生から
「あなたは不幸ではないか? だって、王様として生まれたのに、中国に国を奪われ、王座も失い、外国で生活を
しているではないか?」と質問を受けました。その時に、ダライラマは
「確かに、中国の武力弾圧は激しく非難されるべきだった。が、そうなったのは、チベットにも問題があったから
だ。私達は過去、あまりにも閉鎖的だった。が、今、私達は世界に向かって開かれた態度をとり、理解を得ている。
そして、大切なのは、よい言葉を使い、みんなをハッピーにする努力をしている。みんなをハッピーにしているから、その結果は、
必ず未来にはよい実を結ぶと信じている。そういう努力を今、しているから、私達は幸せなんだ。」
と答えたそうです。
ダライラマは、ノーベル平和賞を受賞し、世界から尊敬を集めていますが、「良い言葉をつかう」という事は
谷口雅春先生がご指導をされた事であります。その意味では、谷口雅春先生も、ノーベル平和賞に相当する
と、勝手に想っています。
683
:
復興G
:2013/04/19(金) 22:27:43 ID:AB6RqYXc
現生長の家教団は、
≪『生命の實相』の本が出た以上は、それに書かれている言葉は、言々これ実相の言葉でありますから、「言葉の本が正されることになったのだから何事も急転直下してよくなる」と示されているのであります。≫
と谷口雅春先生が「神示講義」でおっしゃっている『生命の實相』を失っているのです。
それは、何を意味しているのでしょう。
「『言葉』が実相を語らず、不調和で濁っている」というのは、人間の想念及び言語が実相の円満さをそのまま讃美し感嘆するような言葉を内容とせず、対立感情で悪口を互いに言い合っているような言葉で濁っていることなのです。」
と、同「神示講義」には書かれています。
684
:
a hope
:2013/04/19(金) 22:34:56 ID:6kIbHHgs
今回のweb誌友会用に、わたしは『到彼岸の神示』を購入しました。
ですから、「声字(しょうじ)即実相の神示」の講義のところは、すでにすべて拝読してあります。
>>681
で復興Gさまが、紹介してくださった箇所は、わたしも赤線を引いたところでした。
≪ 『生命の實相』を披(ひら)くだけで病念は去り、煩悶は解決し、人々ただ自己生命の実相を知り、歓喜踊躍して手の舞い足の踏む所を知らないに至る位はその三番叟(さんばそう)に過ぎない。その歓びの相(すがた)こそ人間の生命の実相である。吾が道(ことば)を『生命の實相』と呼ばしめ、それを本の形にして、披いて読むものにさせたのも象徴的因縁あることである。『生命の實相』を展開(ひら)けば形の理想世界が成就するのである。……≫
昔は、(谷口雅春先生ご存命のころ)はただ、『生命の實相』を読むだけでも、このような奇蹟といわれるようなことが当たり前のように次々に起きていたのですよね。
それが、今は、昔のような奇蹟が起きなくなってしまった。
そのことを
≪ 実相の世界は、神の創造そのままでありますから、実相の世界には、生活苦や、病気や、天災や、戦争など色々の不調和なことはないのであります。それなのに現象世界にそのような不調和ばかり頻繁に起っているのは、「実相世界」の風光が現象世界に展開する過程に於て、人間の「心のレンズ」が曇っていて、実相と同調しない濁った想念(コトバ)を発しているからなのであります。≫
この文章から考えると、今現在、「生長の家」に不調和ばかり起こっているのは、わたしたち信徒の「心のレンズ」が曇っていて、
實相と同調しない濁った想念(コトバ)を発しているからということになるのでしょうか?
685
:
復興G
:2013/04/19(金) 22:45:22 ID:AB6RqYXc
>>664
には
○
神示講義『神ひとに語り給ふ』より
七つは完成の数でありまして一切を包容する意味であります。燈台というのは世を照らす光であって、世の光となる宗教の象徴であります。ところで、現在はまだあらゆる世を照らす光である筈の宗教が眠っていて其の法燈が消えているのであります。もう大分眼が覚めたらしい宗教もあるのですけれども、生長の家が二十七年前に出現した時分は、大抵の宗教は眠っておって燈がついていなかったのであります。
だからどの宗教でもみな教祖の時代には、いろいろの奇蹟が現れたり、魂を本当に目覚めさせて如実に人間を救う事ができたのでありますけれども、それが段々弟子から弟子へ伝わり、それが「又弟子」に伝わりしてゆく中(うち)に、教えが段々水増しをするように迷いで薄まって、到頭、レッテルだけが「キリスト教」と書いてあって中身は別物が入っていたり、或いはレッテルは「仏教」と書いてあって、中身は釈尊のお説きになった真理がない水だけが入っているというような宗派ができて来ました。
そして、そういう様な中身の異るものを「キリスト教」とか「仏教」とか言って売っているという様な事でありますから教祖が出現せられた時代にあらわれていた奇蹟があらわれなくなった。そしてその奇蹟があらわれないことを弁解する為に、奇蹟のあらわれる宗教を治病宗教とか新興宗教とか言って攻撃しておれば、自分の宗教が偉いように見えるだろうと思うような間違を犯して、テンとして恥じないようになって来たのであります。
イエスでも釈尊でもはじめて出現したときには、既成宗教にあきたらないで出発した新興宗教であって、奇蹟が続々あらわれていたのであります――ところがその法燈が途中で消えて居たのですから、人生という航路を行く舟が難破するというのは無理がないという訳であります。
其処で神様がそれに燈を点(つ)けなければいかん、という訳で、世を照らす光の燈台である各宗の教えに、生きた火を点ずる役目として出現せしめられたのが、生長の家であります。燈をつけるのであって、決して各宗の燈台を壊すのではないんですから安心せられたいのであります。だから私たちは決して生長の家へ改宗してやって来いとは言わないのであります。皆さんの信じていられる今迄の宗教のそのままでそれに本当に世を照す事のできる燈がついたらそれでいいんでありますから、生長の家にあらわれた神さまは『七つの燈台の点燈者』と呼んでも好いという風に「新天新地の神示」に示されているのであります。
(神示講義『神ひとに語り給ふ』より。原文は正漢字・歴史的仮名遣ひ)
○
とありました。
その「七つの燈台に燈をつける」べき、世を照らす光の燈台であるはずの生長の家が、みずからが燈がついていない状態になっているのでは、お話にならないのであります。
686
:
トキ
:2013/04/19(金) 22:45:49 ID:4obc7AKc
>>683
これは、私ではなくて、私の縁者の「一白鳩会員」が話していた事で、本題とは少しずれるのですが、
「確かに総裁の指導は全くおかしいし、また生長の家社会事業団が裁判をした点も賛成できないと思います。
この生命の実相は、普通の本ではなくて、神様の本なのだから、双方が”ワシのものだ”と頑張っているのは
見苦しい話です。
が、信徒も今まで、聖典を軽く見ていたと感じる。生長の家宇治別格本山の先祖供養の行事でも、お焼香の
ときに、聖経を畳の上にじかに平気で置く人がおおいし、白鳩会の行事でも、生命の実相を粗末に扱う人はよく
見る。今回、こういう事が起こって、はじめて聖典や聖経のありがたみが分かったのではないか。
その意味では、よい勉強になったと思います。」
という意見を述べていました。
とはいえ、争いは悲しいとは思います。
みなさまも、どんどん、ご投稿をお願いいたします。
合掌 ありがとうございます
687
:
復興G
:2013/04/19(金) 22:58:01 ID:AB6RqYXc
>>684
:a hopeさま。
そうですね。
>>今現在、「生長の家」に不調和ばかり起こっているのは、わたしたち信徒の「心のレンズ」が曇っていて、實相と同調しない濁った想念(コトバ)を発しているからということになるのでしょうか? <<
そういうことになりますね。
しかし、です。
榎本恵吾先生の『研修のヒント』に、こうありました。
○
三 今そのままで完全な實相を、讃え喜ぶことが「大懺悔」である
懺悔には大懺悔と小懺悔のあることを、研修生の諸君はお聴きになったか、あるいは『生命の實相』等の聖典をお読みになってご存じのことと思います。
小懺悔というのは要するに、心のあり方、行いのあり方、つまり過去のそれらについて、一つ一つ思い出して反省をすることに当ります。これはいわば煙草の煙を、火のついた煙草を持った手で消そうとするようなもので、ますます煙がつのるばかりであります。いくら努力しても混乱が深まるばかりなのであります。また小懺悔は、暗い部屋を明るくするのに、暗さをみがいて消して行って、光りが来てもいいように明るくしてから電燈をつけようとしているようなものでありまして、これでは永遠に部屋は明るくならないのであります。
これに反して、大懺悔というのは、暗さを放っておいて電燈をつけるようなものであります。電燈をつけさえすればいいのであります。電燈をつけるのに当るのが、「實相を讃え喜ぶ」ことであります。「すばらしい、有難い」と喜ぶことであります。それ一つだけですべての不完全は消えるのであります。なぜならば、神は不完全をつくり給うていないからであります。
神の創造し給うた世界には、不完全はない――實相の自分を素直に喜ぶことであります。暗ければ暗いほど、その暗さを忘れてしまって、明るさを持ってくることだけをやればよいのであります。たまには實相をみて自分をほめ、たまには現象をみてそれを無くそうと厳しく反省をする、というように、前を向いたり後ろを向いたり、していてはエネルギーの無駄使いとなります。それどころか心が前後に分裂してしまって、ノイローゼになってしまうのであります。ただただ神の子はまっしぐらに、光を喜んで前進するだけでよいのであります。
あるとき練成を受けに来られた男のご老人がありました。「神の子である私は、すべてよくなる、ますますよくなる」ということを毎日毎日となえて、喜びの生活がはじまったのであります。
ある日、田んぼに出られて畔(あぜ)の草かりをしていたのであります。「ますますよくなる。ますますよくなる。ありがたい。ありがたい」と喜びながらやっていると、チカッと何かが手にかみついたので、手をあげてみるとマムシがかみついていたというのであります。その人はそのままで、「これでよくなる。ますますよくなる」と言ったというのであります。マムシはバタッと落ちると逃げて行きました。
それからその人は、マムシの毒のために意識不明になり、高い熱が出て、身体はゴム風船のようにはれ上り、一週間そのままの状態がつづいたのであります。それでもうわごとで「これでよくなる。ますますよくなる」と言っていたそうであります。だいたい、マムシにかまれてここまで生きておられるのがもう奇跡的なことなのでありますが、一週間たちますとハレがいっぺんに引くと同時に、実はその人は全身の関節リュウマチで、冬になると関節に布団針をさしこまれるような激痛に悩まされていたのでありましたが、そのハレが引くと同時にそれっ切り、その関節リュウマチが消えてしまったというのであります。
<つづく>
688
:
復興G
:2013/04/19(金) 22:58:56 ID:AB6RqYXc
<榎本恵吾先生の『研修のヒント』 つづき>
この話には、実にさまざまなものを教えてくれるものがあります。実に素直なこの人の心境が伝わってくるのを憶(おぼ)えるのであります。
ひとつの体験というものが生まれますと、それを聴く人によってさまざまなものが受けとられるのでありますが、この人がまむしにかまれているのを見たとたん、「自分はここまで練成を受けて来たのに、自分の心の中にはまだ他人(ひと)にかみつきたい心があるから、こんなことになったんだ。自分は駄目だ」という反省の方に心を持っていかず、「これでよくなる。ますますよくなる」と前へ前へとつき進んで行って、決して反省という後ろ向きになっていないところが実にすばらしいと思われるのであります。
心のあり方に捉われて反省していたのでは、助からなかったのではないかと思われるのであります。ここに、宗教のとりあつかう生命というものが、反省をとび超えて喜ばしいものを実現するものだということを、教えてくれているように思われるのであります。暗さを消すには電燈をつければよい、ということを生きておられる話だと思われます。
「現象は無い」ということ。生長の家のみ教えの根本の真理は「現象なし」ということにあります。現象をみれば、たしかに、この方は人にかみつきたい心があって、その心の現われとしてマムシにかまれるということが出て来ている、ということは間違いのないことなのであります。この心の法則というものは、絶対にくるわせることは出来ないのであります。
イエス・キリストも「汝もし右の頬をうたれなば、左の頬をもめぐらしてこれに打たせよ」といっているのでありますが、大体イエス・キリストともあろうものが、なぜ人に右の頬をなぐられることになるのかということが問題であります。これはやはりイエス・キリストが人をたたきたい心があるからであります。その結果なぐられることになったということは間違いのないことであります。
この心の法則というものは絶対に間違いのないことなのでありますが、ただしこれは現象の法則でありまして、現象は無いのでありますから、この法則そのものが「無い」法則なのであります。心の影が現象であるというのですが、心そのものも現象であって、實相、實在ではないのであります。だからこそ、どんなに現象が現われていても實相は傷つくことなく輝きっぱなしであります。
そして「現象は雲のようなもので、形に現われると心の業も消える」という法則によりまして、たちまち消えて、しみひとつついていない青空ばかりが残るのでありますから、形に現われましたことは放っておいて、實相の方を喜んで行けばよいのであります。
實相を喜ぶ心は實相の心であります。その心がここに生きており、その心が神でありまして、「これでよくなる。ますますよくなる」という宣言によって、ますます喜ばしいものをその人の周囲に実現して行くのであります。それで「これでよくなる。ますますよくなる」ということにより、このようなすばらしいことが現実化したのであります。
私たちにとっては、ただただ光りの前進があるばかりであります。
西洋の物語で、ある山の上にすばらしいものがあって、それをとりに行くのに山頂に近づくと、後ろから美しい声が聴こえてくるのです。そしてその声の方をみようとふりかえると、たちまちその人は石にされてしまう――という物語は、お読みになったことがあると思いますが、この後ろをふりむくというのが、われわれにとりましては過去をふり向いて反省するということにあたるのであります。すると現象の悪に心がひっかかりまして、その悪に自分でつかまって自縄自縛されてしまうのであります。つまり石のように動けなくなってしまうのであります。
ところが、勇敢にも、どんな美しい声が聴こえて来ても後ろをふり向かず、山頂に登った人があったのです。そして、その宝ものを手にしたとき、今まで石にされていた人々が全部生きかえったという物語であります。
このように、まっしぐらに光の前進のみをつづけていますと、過去のいまわしいと思われていたことも、「あれがあったればこそ現在がある」とか「あれは自分がつまらないからああなっていたと思っていたが、そうではなく、自分がすばらしかったからこそであったのか」というようなことになって、そのとき、周囲にいられた人々も自分を生かして下さる観世音菩薩様だった、神さまだったと、生き生きと輝く姿で心に甦ってくるのであります。もうこの時、私たちはその人への感謝が出来ているのであります。感謝が出来ているということは、もうそこに神さまが現われてい給うということであります。そしてますます感謝の思いがひろがって行く、ということになるのであります。
689
:
復興G
:2013/04/19(金) 23:31:00 ID:AB6RqYXc
ということで、今夜はもうおやすみにさせて頂きましょう。
また明日、明るく楽しい誌友会を続けさせて頂きましょう。
皆さま、安らかにおやすみください。
690
:
あさひ
:2013/04/19(金) 23:44:38 ID:/3nxKE2Q
656に
>※ この本部会館は「落成式典」ではなく、生長の家の大神に対して、この会館を捧げるという「捧堂式典」として挙行されている。
神様に捧げたものを勝手に壊すのはいかがなものか。<と書かれていますが、私もそう思います。
691
:
a hope
:2013/04/20(土) 00:42:30 ID:6kIbHHgs
あさひさま、こんばんは!
ご参加、うれしいです。
今回もよろしくお願いいたします。
復興Gさま
>>687
わたしは、今までこの掲示板でずいぶん勉強させていただいてきたので、
小懺悔と大懺悔については、自分なりに理解しているつもりなのですが…、
少し、わからないことがあるので教えてください。
復興Gさまが紹介してくださった、榎本恵吾先生の御文章を拝読すると、
恵吾先生が徹底的に実相独在を貫き通されていたのがわかります。
恵吾先生は、心の法則すら現象の法則なのだから「無い」法則だと、言い切ってくださっているので、
わたしはそのような恵吾先生の御文章を拝読すると、どんどん心が軽くなっていき喜びで満たされます。
ところで、この榎本恵吾先生の実相を喜んで、何か悪い(と思われること)が起きても
「これでよくなる。ますますよくなる」と心に念じて生活していくことと、
現教団のいわゆる「日時計主義」とは違いますよね?
「現象の暗い面を見ずに、明るい面ばかりを見て日記を書きましょう」という、
「日時計日記」を以前はつけていましたが、わたしの心は満たされませんでした。
そして、東日本大震災を境につけるのをやめました。
わたしは最近になって、『現象に起きている問題はすべて自分の心の影であるから、相手を責めずまずは自分の心を反省してみよう!』
と考えるようになってからのほうが、家庭生活も、仕事も、友人関係もすべてうまくいくようになりましたが…。
でも、これはまだ小懺悔の段階ということなのでしょうか?
わたしも、今夜はこれでおやすみさせていただきます。
また、明日参加させていただきます。
それでは「生長の家」のみなさま、おやすみなさい。
692
:
復興G
:2013/04/20(土) 06:37:20 ID:AB6RqYXc
神の子の皆さま、おはようございます。
今日も、すばらしい神の子の皆さまと、神様との対話、うれしいすばらしい誌友会ができますことを、心より感謝申し上げます。ありがとうございます。
昨夜は少し早くにやすませて頂き、たいへん失礼いたしました。
トキ様、あさひ様、a hope様のご投稿にしっかり向き合って考え、お答えしてまいります。
>>686
:トキ様。
>> これは、私ではなくて、私の縁者の「一白鳩会員」が話していた事で、本題とは少しずれるのですが、
「確かに総裁の指導は全くおかしいし、また生長の家社会事業団が裁判をした点も賛成できないと思います。
この生命の実相は、普通の本ではなくて、神様の本なのだから、双方が”ワシのものだ”と頑張っているのは見苦しい話です。
が、信徒も今まで、聖典を軽く見ていたと感じる。生長の家宇治別格本山の先祖供養の行事でも、お焼香のときに、聖経を畳の上にじかに平気で置く人がおおいし、白鳩会の行事でも、生命の実相を粗末に扱う人はよく見る。今回、こういう事が起こって、はじめて聖典や聖経のありがたみが分かったのではないか。
その意味では、よい勉強になったと思います。」
という意見を述べていました。
とはいえ、争いは悲しいとは思います。<<
おこたえが遅くなって申し訳ありませんでした。
全く、「一白鳩会員」様のおっしゃるとおりだと思います。すべて、同感しております。
今、このように『生命の實相』を大切に学ぶweb誌友会ができるのも、今まで聖典を軽く見て真剣に学んでいなかったために、著作権をめぐる裁判などの混乱がが起きてきたことにより、はじめて聖典や聖経のありがたみが分かってきたからだと言えるでしょう。
その意味で、現在の状況は、私たち生長の家の神縁に触れたすべての神の子たちに、真剣な勉強、学びを促されている絶好の機会なのだと思われます。
そう考えると、総裁をはじめ教団の方々、また社会事業団や「学ぶ会」など、“本流”(教団側から言えば“別派”)の方々、共に理由があって現在の状況をつくりだしておられるのだと思えてきました。
「今」に感謝いたしましょう。そして、「今」としっかり向き合い、「今」の意味をかみしめながら、生命の実相哲学、神様の真理を、しっかり学び、実践させて頂きましょう。ありがとうございます。
693
:
復興G
:2013/04/20(土) 07:22:12 ID:AB6RqYXc
>>690
:あさひ様。
ご投稿ありがとうございます。
>>656
に
>>>※ この本部会館は「落成式典」ではなく、生長の家の大神に対して、この会館を捧げるという「捧堂式典」として挙行されている。神様に捧げたものを勝手に壊すのはいかがなものか。<と書かれていますが、私もそう思います。 <<
私も、そう思っております。
当時の谷口雅春先生の御文章に
≪光明の塔部の最上層の室は、「栄光の間」と名付けられ、その下の塔部の室は「祈りの間」である。「栄光の間」は、維摩の居室が「空っぽ」であったと同じく「空」であって何の置き物もない。「空」にして無礙光であるのが神であるからである。栄光の間にて拍手して礼拝すれば、四壁にその拍手の響がこもって天地に感応するような感じがするのである。≫
とあること。また
≪建物はただの物質であるけれども、それは百萬信徒の「まごころ」の結集である。「まごころ」と云うものは肉眼に見えないから、肉眼で見ると、ただの実業のビルディングでもこう云う聖堂でもただの「形」である。けれども「まごころ」が結集してこれだけの建物が建つと云うことは「容易ならぬこと」である。≫
とあることに、深い感銘を受けました。
「まごころ」は、「神の心」であると思います。
聖経『続真理の吟唱』の中の「われら“誠”を生きるための祈り」には、次のようにあります。
○
われら“誠”を生きるための祈り (聖経『続真理の吟唱』161頁より)
“誠”とは「成る言(ことば)」と書くのである。自己に宿る神の至上命令たる“言(ことば)」”を生きることを“誠を尽くす”というのである。その“言(ことば)」”とは、『ヨハネ伝』福音書には「はじめに言(ことば)」あり、言は神とともにあり、コトバは神なりき。よろずのもの是に由りて成り、成りたるものにひとつとして是に由らで成りたるはなし。これに生命あり」と示されていて、更につづいて「この生命は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る。而して暗黒は之を悟らざりき」と示されているのである。
ここに「暗黒(くらき)」とあるのは肉体を指していうのである。神の生命が肉体に宿って、肉体に生命を与え給い、見る力、聴く力、知る力、味わう力、創造する力等を与え給うて、肉体を生かして居たまうのである。それなのに、肉体はその内部にある聖なる生命の光に気がつかずして、肉体それみずからの力によって生きているかの如く錯覚していて、内なる光を見ることができないのである。それゆえに“誠”が生活にあらわれないのである。聖書はこれを「暗黒(くらき)」と名づけているのである。しかし肉体が生きているのは、内に輝いている神の生命の光に照らされ導かれ生理作用を営んでいるのである。そしてその光はイエス・キリストだけに宿っているのではない。だから「もろもろの人を照らす真の光ありて、世にきたれり」と聖書は録しているのである。
「世」とは「世界」のことであるが、「肉体」も一つの世界であるのである。ところが暗黒なる此の物質の世界は、もろもろの人を照らす真の光ありて「世」に来り、その光は「世」に在り、「世」はその光に由りて成りたるに、「世」はこれを知らなかった。それゆえに聖書はこれを歎いて「かれは己の国にきたりしに、己の民は之を受けざり」と書いているのである。
けれどもこの光を素直に受けて、自分を生かしているのは物質ではない、肉体ではない、自分を生かしている光は神の生命であると悟った者は――という意味で「されど之を受けし者、即ちその名を信ぜし者には“神の子”となる権を与え給えり」と『ヨハネ伝』は書いているのである。「名」というのは「はじめに言あり」のコトバであって、万物及び人間生命の由って来る本質又は実相である。自分の生命の本質は“神のいのち”である。其の実相を知ったとき、人は“神の子”たる権を与えられているのである。
<つづく>
696
:
復興G
:2013/04/20(土) 07:41:46 ID:AB6RqYXc
>>691
:a hope様。
>>わたしは最近になって、『現象に起きている問題はすべて自分の心の影であるから、相手を責めずまずは自分の心を反省してみよう!』と考えるようになってからのほうが、家庭生活も、仕事も、友人関係もすべてうまくいくようになりましたが…。
でも、これはまだ小懺悔の段階ということなのでしょうか?<<
a hope様は、すばらしい「一切者の自覚」に立たれて、『現象に起きている問題はすべて自分の心の影であるから、相手を責めずまずは自分の心を反省してみよう!』と考えられたから、すべてうまくいくようになられたのでしょうね。
そして、いつまでも自分を責めているのではなく、「感謝」の気持になっておられるので、必ずしも「小懺悔」にとどまっておられない。「感謝」して「喜ぶこと」こそ「大懺悔」だと、私は思います。
「一切者の自覚」、そして「感謝」はすばらしいですね。
私も、そうありたいと思います。
ありがとうございました。
697
:
復興G
:2013/04/20(土) 08:41:19 ID:AB6RqYXc
>>696
のつづきです。
『幸福を招く365章』の117頁以下に、次のような御文章がありました。
○
既に天国の饗宴に招かれている
吾々が宗教的立場に立つ限りにおいて、現象界のことは別に思い煩う必要はないのである。それぞれの役目の人がそれぞれの立場に配置してあってそれぞれの役目を果していてくれているのである。地上に天国浄土が実現するには色々の役者が要るのであって、シテもワキも、二枚目も三枚目も馬の脚も要る訳である。吾々は此等の舞台上の役者と議論を戦わす必要はないのである。唯、各々がその役目を最も完全に実現してくれるように祈っていれば好いのである。尤(もっと)も自分自身も局外者と云う役ではなく何らかの役目を割当てられているのだけれども。吾々は神様が主催される天国の婚筵(こんえん)に招かれる客のようなものである。すでに御料理は出来ているのである。ただ、ハイとその招待をお受けすれば好いのである。
○
上記
≪それぞれの役目の人がそれぞれの立場に配置してあってそれぞれの役目を果していてくれているのである。≫
――「お役目ご苦労様です」と、それぞれの立場の方たちに感謝しながら、「自分自身も局外者と云う役ではなく何らかの役目を割当てられているのだ」と自覚して、内なる神のみ声を聴き、使命感のままに行動して行く。
そうありたいと思います。
698
:
復興G
:2013/04/20(土) 08:54:59 ID:AB6RqYXc
>>694
の続きで、思うことすが・・・
>>御神像が山梨県の「森のオフィス」に移されることに決まったそうですから、御神像のない本部の「光明の塔」を遺してもあまり意味はなくなるので、取り壊されることになるのではないかと思われます。<<
と書きましたが、御神像は、制作当時の状態に復元した新しいレプリカを造ることも可能でしょう。
レプリカを造ったとしたら、原宿と山梨と、どちらをレプリカにするか。
原宿の「光明の塔」から現在の像を外して山梨へ移送するのは、破損のおそれもあり大変なことですから、私は現在のものを原宿に遺し、山梨の方に、新しく復元したレプリカを置くのが適当だと考えます。
皆さまはどう思われますか。
699
:
復興G
:2013/04/20(土) 09:13:16 ID:AB6RqYXc
web誌友会の本題からはずれてしまって、申し訳ありませんが、はずれついでに、
>>694
の続きでもう少し思ったこと――。
昔の日本女性は、各自で裁縫をして、使命を終え使えなくなった縫い針は、「針供養」をして感謝の祈りを捧げてからお返ししたものです。
仮にもし原宿の本部会館を取り壊さざるをえなくなった場合は――「針供養」どころではない、総裁をはじめとして本部職員、信徒一同、「まごころ」からの感謝を捧げ、盛大な感謝供養祭を行うべきだと思いました。
しかし、そうではなく、「本部会館を(耐震補強をして)創建当時に復原、保存を!」ということが、最もよいことであろうと、私は思います。
700
:
トキ
:2013/04/20(土) 09:57:37 ID:DWumjrqI
おはようございます。
教区の人間から見ますと、本部というのは滅多に行かない場所です。教区五者の場合は、それでも1年に数回は用事で行きますが、
それ以外の信徒さんから見ると、ほとんど行く機会がありません。中には、一生に一度という人もいると思います。そういう人にとって
直接の影響はすぐにはないのは事実です。
ただ、遠方の教区の人間でも、生長の家以外の用事で東京に行く事はあります。昔は、そういう場合に気軽に寄って、知り合いの本部員
と食事をしたり、本部の早朝行事に出席したり、という事が可能でした。その意味で、地方の信徒にとっては、ある意味では心のよりどこ
ろ、という場面があった感じます。
ところが、山梨県北杜市というのは、これは山梨県北杜市の皆様には御詫びしますが、あまり他府県の人は行かない場所です。私個人と
しては何か、地理的にも、精神的にも、本部が信徒さんから離れた場所になったような気がします。
私も、今回の本部移転の話が出てから調べたのですが、今の本部に設立には多くの方の善意の寄付が集まったようです。今と違って、当時
の日本は貧しく、みんな苦労してお金を拠出したと思います。そういう事情を考えると、今回の本部移転は勿論、決定に至る経過も残念に
思う点はあります。あと、山梨県北杜市の市議会で、出席者が生長の家を激しく批判されていた点も、素直に受け取る必要はあると感じます。
既に山梨県北杜市に本部の建物が着工され、今年の7月7日に移転するので、今更中止にはできないとは思います。が、何らかの形で、
建物の一部やご神像は残せないのか、と考えてしまいます。例えば、東京第一教区は本部の建物の裏にありました。東京第一教区は東京に
残るのですから、地方から出て来た信徒さんの受け皿になるような建物や体制になって欲しいとは思います。その意味では、ご神像も、
復興G様の言われるように、東京にあって欲しいと願います。
701
:
復興G
:2013/04/20(土) 10:11:56 ID:AB6RqYXc
トキ様、ありがとうございました。
>>693
のつづき、694を修正して再投稿します。
順序が前後しますが、皆さま、693につづくものとしてご覧ください。
(友人の個人情報を削除したものです)
<われら“誠”を生きるための祈り(聖経『続真理の吟唱』より)のつづき>
「言は肉体となりて我らの中に宿り給えり」われら即ちすべての人間に言は宿っていて、それが仮に肉体の姿をあらわしているのである。この実相を知っても知らないでも本来人間は“神の子”であるけれども、それを知らない間は“神の子”たる権を行使することはできない、一種の放浪者であり、迷い児であるのである。彼は虚仮不実(こけふじつ)の仮存在であって「誠あることなし」である。
人が誠実に生きるとは“単に真剣に生きる”ということではなく、人間の本質であるところの実相すなわち“神の子”の自覚に基づいて生きることなのである。われらこの真理を悟り得たるは神の導きにほかならず、神に感謝し奉る。ありがとうございます。
○
原宿の本部会館が建設された頃の日本は、敗戦占領下から独立回復後まもなくで、唯物主義の左翼革命運動に国家が転覆しそうな危機的状況にありました。そのとき、ここで青年大会が開催され、ここから「日の丸行進」が行われたりして、世界平和の礎となるべき日本の国を護る運動の拠点ともなりました。
前記「本部会館を創建当時に復原、保存を!」という友人のアピールの結びに、
≪この本部会館は「落成式典」ではなく、生長の家の大神に対して、この会館を捧げるという「捧堂式典」として挙行されている。神様に捧げたものを勝手に壊すのはいかがなものか。≫
とある言葉に、私も魂が震えました。
上記のアピールが届いてまもなく、4月8日の日本経済新聞夕刊に載った次の記事が目にとまりました。
○
SL「デゴイチ」引き取り先求む
静岡市、解体中止し公募
35年にわたって静岡市内で展示された蒸気機関車(SL)D51形の引き取り先を市が探している。老朽化を理由にいったん解体を決めたが、鉄道ファンから反対の声が相次いだため方針を転換し、保存の道を探ることになった。
このD51形は1938年に製造され、75年まで北海道で運行。引退にあわせて市がJRから借り受け、葵区の駿府城公園にあった児童会館や、城北公園で展示してきた。
ここ数年はさびや腐食が目立つように。「無人の公園で展示を続けるのは危険」と判断した市とJRが、いったんは解体撤去を決定した。その後、「壊さないで」という電話やメールが30件以上、寄せられた。市は直前に解体工事を中止。4月中にも引き取り先の公募を始める。
(2013.4.8 日本経済新聞夕刊)
○
――SL「デゴイチ」だって、上記のように、いったん解体を決めたものでも、「壊さないで」という電話やメールが30件ばかり届いたら、解体工事を中止したのです。
原宿の本部会館は、生長の家人類光明化運動の記念建築物として遺されるとも聞いていましたが、御神像が山梨県の「森のオフィス」に移されることに決まったそうですから、御神像のない本部の「光明の塔」を遺してもあまり意味はなくなるので、取り壊されることになるのではないかと思われます。それは、取り返しのつかない、残念なことになるのではないでしょうか。
「天地は過ぎゆかん。されどわが言(ことば)は過ぎゆくことなし」
とイエスが言われた、「わが言(ことば)」すなわち神の言(ことば)である「まごころ」のあらわれとして歴史的建物を保存することであり、そのために費用がかかるならば、信徒の「まごころ」による献資を募っても、保存活動をしたら――と思いますが、皆さまはどう思われますか。
702
:
復興G
:2013/04/20(土) 10:36:24 ID:AB6RqYXc
>>700
:トキ様。
>>山梨県北杜市の市議会で、出席者が生長の家を激しく批判されていた点も、素直に受け取る必要はあると感じます。<<
――そんなことがあったのですか。存じませんでした。
具体的に、ご存じでしたら教えて頂けませんか?
703
:
トキ
:2013/04/20(土) 11:01:02 ID:DWumjrqI
>>702
失礼をしました。北杜市土地利用審議会の間違いでした。御詫びして、訂正させていただきます。
申し訳ありませんでした。
北杜市土地利用審議会では布教活動をしない施設と宣言 (6980)
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1310
http://www.city.hokuto.yamanashi.jp/biz/machi/machi/pdf/20120614.pdf
-----------------------------------------------------------------------------
自分達のことしか考えていない (7016)
日時:2013年03月10日 (日) 09時20分
名前:童子
議事録の末尾に、生長の家関係者が退出した後の委員の発言があります
・・・私も我慢をしていましたが、一言言わせていただきます。
今の宗教法人の方々のお話には決定的な欠陥があります。
あの人たちは宗教家ですが、分っていません。
よく話し合いをしろ、ということの意味がわかっていません。
この人たちは自分達のことしか考えていません。
自分達のことのみで、物事を進めています・・・・。
704
:
トキ
:2013/04/20(土) 11:28:39 ID:DWumjrqI
>>703
追伸すると、総本山の建立のときには、地元の議会が生長の家招致委員会を作った、という話を聞いています。
審議会の委員の話を拝見すると、生長の家というよりも、宗教法人への警戒心があるみたいです。しかし、それを
考慮に入れても、地元の方々から歓迎されない姿勢は残念だと思います。
・・・・すみません、話がずれてしましました。
705
:
復興G
:2013/04/20(土) 13:38:30 ID:AB6RqYXc
>>703
・
>>704
:トキ様。
上記、北杜市土地利用審議会の会議録は、前に私もプリントアウトしてよく読みました。(それはもう捨ててしまったようで、今手許にはありませんが)光明掲示板の「童子」様の投稿文には、少し誤伝達があると思いました。
議事録の末尾に、生長の家関係者が退出した後の委員の発言として、
>>今の宗教法人の方々のお話には決定的な欠陥があります。あの人たちは宗教家ですが、分っていません。よく話し合いをしろ、ということの意味がわかっていません。この人たちは自分達のことしか考えていません。<<
という
「あの人たちは宗教家です[が]、分っていません。」
のところは、会議録原文では
「あの人たちは宗教家です[から]、分っていません。」
となっていました。
で、「宗教家です[から]」というのは何を意味するのだろうかと考えて、その前後を見ますと、他の営利会社などがこの地に進出してきたときにはこういう(経済的?)利益、便宜を地元に与えた。生長の家もそういうことを考慮してほしいが、「宗教家だから」そういうことは分からないだろう、という意味にとれました。
自分たちの物欲的利益がほしいということなので、生長の家関係者がいる前ではあからさまに言えなかったのだろうと、私は思いました。
で、議長は「分かった。そういうことにも努力するから」という意味のことを言って、結局満場一致で承認された、というのが会議録であったと記憶しています。
物事は偏見や誤解をなくして正確に事情を把握することが必要だと思います。
706
:
トキ
:2013/04/20(土) 14:16:10 ID:DWumjrqI
>>705
復興G様
貴重なご指摘、ありがとうございました。この点について、少し個人的な感想を申しあげます。
例えば、長崎の総本山の団体参拝練成会では、最後に地元の土産物屋さんを集めて
参加者にお土産を買う時間をもうけています。生長の家宇治別格本山では、盂蘭盆供養大祭
のときに、地元の商工会の協力で盆踊りを開催しています。宗教法人はあくまでも地元から
見たら余所者ですから、地元の溶け込もうとしたら、その点の配慮は必要かと思います。
聞く所では、今回の「森のオフィス」の建設にあたっては、清水建設だけが担当し、
地元の業者は関与していないみたいです。これは、技術的な理由によるものでしょうが、
地元の人達にしたら、東京の宗教法人が、東京のゼネコンだけで大きな建築をするのは、
理屈はともかく感情的に考えて、面白くないだろう、というのは想像できます。
大きな工事になると、地元に有形無形の迷惑はかけるでしょうから、どこかで地元の
人にも還元する手法をとれば、と思いました。
ただ、私の書き方は誤解をうむ表現でしたので、その点は反省し、お詫びしたいと思います。
今後ともご指導の程、お願いを申しあげます。
合掌 ありがとうございます
707
:
復興G
:2013/04/20(土) 15:17:58 ID:AB6RqYXc
トキ様
ありがとうございます。
「一切の人に、物に、事に行き届くべし」ですね。
ご意見、ありがとうございました。
708
:
トキ
:2013/04/20(土) 15:39:15 ID:DWumjrqI
>>707
はい、その通りですね。今後きをつけます。
709
:
a hope
:2013/04/20(土) 15:48:29 ID:6kIbHHgs
みなさま こんにちは
誌友会での話題が原宿本部や森のオフィスのお話のようです。
それは、すでに教団を退会したわたしが積極的に発言するような内容ではないので発言を控えさせていただいています。
ですが、以前goroさまが『山梨に移転後の原宿本部を取り壊さずに、記念館のような形で信徒の交流の場として提供してくださる』、
というような情報をこの掲示板にお知らせくださったことを思い出したのですが、わたしの記憶違いでしょうか?
goroさまは最近書き込みされていないようですが、ご覧になっているようでしたらその件に関する情報をもう一度いただけるとありがたいです。
原宿本部や御神像の行方はたくさんの信徒の方々にとって、関心度はとても高いのではないでしょうか?
それなのに、この時期になっても、本部から信徒の方々に正確な情報が入らないというのは、
世間一般的に考えるととても不思議なことのような気がしますが…。
みなさんのご意見、ご感想をお待ちしています。
710
:
復興G
:2013/04/20(土) 17:03:42 ID:AB6RqYXc
>>709
:a hopeさま。
今日はお仕事でお出かけかと思っていました。
>>誌友会での話題が原宿本部や森のオフィスのお話のようです。<<
これは、web誌友会の本題ではありませんね。
本題は、『生命の實相』をテキストとして学び、「一人ひとりの法燈継承」を考えることでしたね。
本題に戻しましょう。
どうぞ、ご意見、ご質問など、何でもどしどし投稿をお願いいたします。
711
:
a hope
:2013/04/20(土) 17:28:50 ID:6kIbHHgs
>>710
復興Gさま
今日は、久しぶりにお仕事がお休みの土曜日なのです。
にお天気も悪いので家で子供たちとゆっくり過ごしていました。
原宿本部会館や森のオフィスのお話も、これからの「生長の家」にとってとても大切なお話だと感じています。
本題からはずれているかもしれませんが、お話する価値のある内容だと思います。
復興Gさま、みなさま、どうぞお話を続けてください。
わたしも、思う事があれば発言させていただきます。
712
:
トキ
:2013/04/20(土) 19:13:21 ID:DWumjrqI
先日、たまたま借りた本に、医学博士の堀田忠弘先生の「身体はなんでも知っている」という
のがありました。内容は、従来の西洋医学だけの限界を説明すると同時に、「病気の原因は心
の不調和である」というもので、生長の家の信徒には珍しくない内容でした。ただ、この方の
場合、長年、西洋医学で患者さんの健康を維持しようとしていて、その限界を知ったという話
でした。
こういう具合に、過去、谷口雅春先生が説かれて来た事が、一般の人の間でも受け入れられる
ようになってきています。逆に言えば、心の法則などは、生長の家以外でも勉強できる時代にな
ってきています。更には、戦後の時代には、愛国心が軽視されてきましたが、その中を谷口雅春先生
は断固、愛国運動を展開されました。現代では、憲法改正が現実の議題にあるまでに世論は変化して
います。
しかし、谷口雅春先生の唯神実相論は、生長の家でしか勉強できない事であります。
皮肉にも、それが現代の教団で軽視されているのは、寂しい事だと思います。
とはいえ、嘆いてばかりでは何もすすみません。戦争中、英語の授業が廃止されると、向学心の
ある人は、英語の教師の家へ通って勉強をしたとききます。一人一人の信徒が、生長の家の真理を
勉強するのは、誰も邪魔は出来ませんから、一人一人が真理を勉強する時期だとは思います。
713
:
トキ
:2013/04/20(土) 19:47:02 ID:DWumjrqI
実は、生命の実相の第3巻を読んでいたのですが、p152にこういう事が書いてありました。
「病気などはなんでもありませんが、病気の治ることなどよりも大切な家庭のなかの和解が
そこに成立した。神の教えいうものは愛の教えの和合の教えであるべきですから、家族の一人が
何教を信じたがために、父子互いに相争うようなことになる教えは、その教えそのものが本来
いかによくても、その教えを信じる人おのおのの理解に片寄りがあるからである、この片寄りが
とれて、本当の神がわかり、自分の生命の本当の相というものが解ってくると、人間はその生命
の実相において一体であるから、ひとりでに和合せねばならなくなる。」
と谷口雅春先生はご指導をされています。これを拝読すると、谷口雅春先生は、宗教を奉じた
ために争いになるのは、間違っている、と言われていると私は解釈をしております。
それで感じるのですが、私は教団に会員ですが、教団内の雰囲気がたいへん不調和になったと
感じています。しかし、個人としては、そういう不調和な世界とは波長を会わさない事には
どうしたら良いか、思案中であります。
さらに、読み進めますと、p154には、
A- ある宗教では、宗教を信じたがために家族仲たがいをさせたりすることがありますが、
生長の家の教えは家族を互いに和合さす働きをするのが尊いことだと拝ませていただいて
おります。「生命の実相」という合本聖典の書名も実に内容にふさわしい名前でございま
すねえ。
谷口ー合本の書名は誌友から公募し、応募されたなかから神示に従って定めたものですが、
あれは北海道の青木応倫氏の命名です。
とあります。聖典の書名でも、信徒の意見を聞かれたぐらいですから、よく信徒の意見を
聞かれたと私は考えています。その聖典をめぐって争いが起こった事は、谷口雅春先生
に本当に申し訳ないと感じます。また、命名者が自分ではない、と正直に言われる
谷口雅春先生の雅量の大きさにも感嘆します。
どうも、とりとめもない事を書きまして、すみません。
714
:
復興G
:2013/04/20(土) 20:57:30 ID:AB6RqYXc
さて、テキストに帰りましょう。
テキスト『生命の實相』第3巻で、2番目に掲載されているのは、「万教帰一の神示」と称されている神示です。
この神示の冒頭に、次のように記されています。
≪ われに姿かたちがあるように云うものあれどわれは姿なきものである。われは道(ことば)である。われは霊性である、知恵である、愛である、生命である、われは如来である、われは一つにして多である。
信仰深き諸方の霊覚者にわが神姿を示したることあれども、そはわが真の姿に非ず、見えたる神姿は霊覚者の心識の所現にも非ず。そは、われ神通力によって、疑う者の蒙を啓(ひら)かんがために、異る場所と異る人とに同じき一定の神姿を示して、神の客観的存在を実証したに過ぎない。
されど、本来われに一定の神姿はない。如何なる姿も欲(おも)いのままに現ずることが自由である。されば、嘗てわれ汝に告げたのである「われに神殿は不要である」と。われは神殿がないとて身の入れ場所に困るような神ではない。供え物も要らぬ。わが姿を見んと欲(ねが)うものは『生長の家』を読め。われは言葉である。わが言葉を盛る雑誌こそわが神殿である。この雑誌がひろがるのこそわが神殿の大きくなることである。≫
と書かれており、『神ひとに語り給ふ』の中のご講義では、
≪「われに姿かたちあるように言うものあれどわれは姿なきものである」と、神示にありますが、これは神様とは如何なるものであるかということを示しているのであります。「われ」というのは神様御自身を指されたのであります。時々神の姿を見たと言う方がありますが、本源の神様には姿がないのであります。それを無相と謂(い)います。無相だからどんな相(すがた)もないのかと思うと、無相であるからどんな相でも現ずることが自由であるのであります。だから、神は無相にして無限相であるというのであります。
現象界の相(すがた)のあるものはそういうように自由に姿を変ずるわけにはゆかんのであります。姿がないからこそ何にもさわりになるものはない、姿が限定されません。姿が限定されませんからどんな姿にも現れられるのであります。≫
と書かれていますから、今原宿の本部会館に鎮座されていて、まもなく山梨の方へ移転することになっている御神像は、「これこそが生長の家大神のお姿」というわけではない。「その一つの現れ」であるということですね。
ですから、御神像が生長の家の本尊というわけではない。もしそうだったら、偶像崇拝になってしまいます。生長の家の本尊は人間の内に宿る、目には見えない宇宙大生命であるわけです。
ならば、「御神像」にあまりこだわる必要はないわけですが――やはり一つの象徴として、造られたものはその心を大切に保存したい、ということでしょうね。
715
:
復興G
:2013/04/20(土) 21:06:36 ID:AB6RqYXc
「万教帰一の神示」には、つづいて
≪ われにすがた形はない。われは霊の海である。大海原である。すべての宗教(おしえ)流れ来りて吾れに入らん。吾れは完成する者である。われは「七つの燈台」に燈(ひかり)を点ずる者である。古道も、仏教も、キリスト教も、天理教も、金光教も、黒住教も、大本教も、すべての教え我に流れ入りて生命を得ん。
われは大(おおい)なるものなるかな。すべての教えを呑吐(どんと)してこれに生命を与え、すべての相争う教えをその神髄に於いて握手せしめる。吾れはすべてを包容し、すべてに光を与え、すべてに栄養を与え、すべてを生かす地下水である。他の如何なる宗教をも誹(そし)らず批(う)たず常に讃頌(たたえごと)と、善き言葉とを雨ふらして、それを浄めその神髄に燈(ともしび)を点ずる。
あらゆる宗教がその神髄を礼拝して手をつなぐようにならねば此の現実世界の改造は完成せぬ。精神界が先きで現実界はその影である。元乱れて影完(まっ)たからず、宗教家よ、宗派争いをしている時ではない。
(昭和六年四月五日神示) ≫
とあります。そしてそのご講義(『神ひとに語り給ふ』)には
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
〔万教帰一の神示 ご講義〕
・・・・・・現象界のものは時間空間に限定されて形が各々異って独特の姿をしている。ところが、神様は姿かたちがないから無限の姿を持っておられるのである。また姿がないから一定の形の宮や神殿の中におらねばならぬことはないのです。それで「吾れに神殿は不要である」と書かれていて、神様のお宮や神殿みたいなものは宇宙の本体神たる生長の家の神様には要らぬことを示されたのであります。
既に古くからの誌友の人は御存じの方が多いと思いますが、生長の家の「生」というのは縦に生(の)びるという意味の文字であります。「長」というのは横に「長く」延びる、即ち延長するということで横広がりの世界――「空間」を象徴しているのであります。
縦につづいているのが「時間」である。時間は縦に心の世界で象徴されるのであります。吾々のいのちを、お父さん、お祖父(じい)さん、曾祖父(ひいじい)さんと縦に遡(さかのぼ)って行く。この遡って行くのは時間的にさかのぼってゆくのですね。吾々の現象的にあらわれている生命の本質は「時間」の持続で出来ています。その時間を象徴するのに、何の某(なにがし)家の系図とか何とかいう場合には、上から下へと縦に線を引いて、「時間」又は「いのち」の持続または継続をあらわすのであります。子孫から先祖に遡るという場合には下から上へと縦の線を引いて示します。こういうように、「時間」という観念は、吾々の心の世界で縦の連想を有(も)っているので、それで縦の線を以って仮りに時間を象徴的に表すのであります。
さて十字を描きますと、此の縦に生(の)びる線が「時間」にあたるので、これが生長の家の「生」であります。「生」という字は、樹木が無限に生びるという意味が表されているのであります。楠でも杉の木でも老衰することなく無限にのびます。それで時間の無限持続を象徴して十字の縦の線があります。これは時間の無限持続――即ちつづきであります。
それから「長」の方は空間的ひろがりであります。こうして十字は持続と広袤(こうぼう)――「つづき」と「ひろがり」――「時間」の続きと「空間」的広がりをあらわします。
この「時間」と「空間」とが十字にまとまって、天球(あま)となり「家」を成します。その「家」即ち宇宙を形成しているのが生長の家であります。ですから、大宇宙全体のことを生長の家と言うのであります。そして「生長の家の神」というのは大宇宙の神という意味であります。別に「生長の家」という一宗一派の本尊の神というような他宗と対立するような神ではないのであります。
宇宙の中に神様が生れたのではなく、神様の生命そのものの広がりが宇宙であります。
「吾れは智慧である、生命である、宇宙である」と「新天新地の神示」 中に書かれてありますが、宇宙そのものが神様であるわけです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
とあります。
ここは、とても大切なところであると思います。
716
:
復興G
:2013/04/20(土) 21:34:11 ID:AB6RqYXc
現象界のすべてのものは、時間と空間というスクリーン上に映し出された映像(かげ)であって、本来無である。
地上のすべての宗教というのも、現れたすがたは映像(かげ)であって、無でありますね。
しかしながら、
「宇宙の中に神様が生れたのではなく、神様の生命そのものの広がりが宇宙であります。」(神示ご講義)
という、時間・空間をも生み出された本源の神は、映像(かげ)ではない。影を映し出している第一原因者であって、現象界の一切の対立を超えている。それを「絶対者」という。
すべての宗教は、この「絶対者」なる神(仏)において本来「一」であるから、「万教帰一」となる。
映像(かげ)にすぎない現象のコトバを比較して共通点を見出し「万教帰一」を見出そうとしても、それは不可能であって、「時間・空間がまだ現れない、その元のところ」すなわち「久遠の今」に立ち、「久遠の今」にこそ「アブラハムの生まれぬ前(さき)より吾はあるなり」と言い、黙示録では「我は最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、活ける者なり、我れ曾(かつ)て死にたりしが、視よ、世々限りなく生く」と言った「永遠のキリスト」の命があり、「天上天下唯我独尊」と言った釈尊の命があり、「自分もまた、明治二十六年十一月二十二日に母の肉体より誕生したのではなかった。そして、現在の今はじめて悟ったのでもなかったのである。ここのままで、久遠の昔、そして久遠の今、はじめなき始めから仏であった自分であったのだ」(自伝篇)とおっしゃっている谷口雅春先生の御命があり、自分もまたその永遠の生命がわが本体であると知るとき、はじめて「万教帰一」が成り立つのだと思います。
717
:
復興G
:2013/04/20(土) 22:59:36 ID:AB6RqYXc
では、皆さま、また明日がありますから、今夜は少し早いですが、私は寝ませて頂くことにします。
おやすみなさい。
718
:
トキ
:2013/04/20(土) 23:29:22 ID:DWumjrqI
>.717
復興G様、ご指導、ありがとうございます。皆様、ご投稿をお願いいたします。
719
:
トキ
:2013/04/20(土) 23:33:40 ID:DWumjrqI
>>714
復興G様
>.ですから、御神像が生長の家の本尊というわけではない。もしそうだったら、偶像崇拝になってしまいます。生長の家の本尊は人間の内に宿る、目には見えない宇宙大生命であるわけです。
>>ならば、「御神像」にあまりこだわる必要はないわけですが――やはり一つの象徴として、造られたものはその心を大切に保存したい、ということでしょうね。
どのテープだったか失念をしたのですが、谷口雅春先生が、ご講話のテープで、「実相直視は大切だが、人間の世界で生きる以上、ある程度の人間味というのも大事だ」と
言及され、
「母親が死んだときに、笑い乍ら、”あれは死んだんじゃないのだ、御月さんが欠けたのと同じだ”(場内、爆笑)と言ったら、おかしいでしょう。」
と言われた事があったと記憶しています。(最近、記憶力が落ちて、もし、間違いだったら、ごめんなさいです。)
もちろん、ご神像は本尊ではないのですが、人間の気持ちとして、ご神像にこめられた誠意を大事にするのは人間として、当然だと思います。
720
:
復興G
:2013/04/21(日) 08:57:16 ID:AB6RqYXc
おはようございます。
>>719
:トキ様
ありがとうございます。
皆さま、ありがとうございます。
私は、只今『[類纂]神の真義とその理解 住吉大神顕斎の意義』(谷口雅春先生著・生長の家本部編)などの資料を丁寧に読み返し、
「生長の家とは」
「生長の家の本尊・主斎神とは」
「七つの燈台の点燈者」とは
「生長の家大神」・「住吉大神」とは
「人間とは」・「自分とは」
といったことについて、簡潔に的確に叙述してみたいと思い、勉強中であります。しばらくお待ち願いたいと思います。よろしくお願い申し上げます。
合掌
721
:
a hope
:2013/04/21(日) 10:26:56 ID:6kIbHHgs
復興Gさま トキさま みなさま
おはようございます。
昨晩、復興Gさまが「万教帰一の神示」とそのご講義(『神ひとに語り給ふ』より)をUPしてくださったので、
それに関して何か投稿しようと思ったのですが、この「万教帰一」は「生長の家」の教えの神髄であって、
とても高度な内容だと感じているので、なかなか、どのようにコメントしていいのか考えあぐねていました。
ところで、『神ひとに語り給ふ』は確か絶版になっている聖典で、購入することはできませんでしたが、
ありがたいことに、光明掲示板でコスモスさまが内容をすべて謹写してくださっています。
それを、伝統さまが『神示』集というスレッドに紹介され、さらにポイントをまとめてくださっています。
お二人のご愛念に心から感謝して、こちらでも紹介させていただきます。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1177
『神示』集
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=416
『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 「万教帰一の神示」
わたしは昨晩、こちらを拝読させていただいたり、また、以前のweb誌友会で「七つの燈台の点燈者」と「生長の家大神」「住吉大神」との関係を、
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)さまや復興Gさまや他の投稿者のみなさまが話合われていたのを思い出し、それを探して拝読しなおしたりしていました。
そちらの方は、トーキングステックボードの>>1376あたりから、みなさんのお話が始まっています。
>>1393 >>1398〜 で復興Gさまが、お答えくださっていました。
ちょうど1年前になりますが、その当時、わたしにはそのお話はほとんど理解できませんでしたので、
まったくコメントしていませんが、今拝読しなおすと以前よりずっとよく理解できますし、とてもお勉強になる内容だと感じています。
「生命の實相」には、たくさんの神さまが登場されているので、きちんと「教え」を理解していないと混乱してしまいます。
>>720
で、復興Gさまが『簡潔に的確に叙述』してくださるとおっしゃっています。
本当にありがたいです。
復興Gさま、どうぞよろしくお願いいたします。
722
:
トキ
:2013/04/21(日) 13:17:16 ID:aGc6KgHM
>>720
早速のお返事、恐縮しております。暖かいご愛念に深く感謝申し上げます。
合掌 ありがとうございます
723
:
復興G
:2013/04/21(日) 14:27:51 ID:AB6RqYXc
>>721
:a hope様。
反応が遅くなって、すみません。
>>『神ひとに語り給ふ』は確か絶版になっている聖典で、購入することはできませんでしたが、ありがたいことに、光明掲示板でコスモスさまが内容をすべて謹写してくださっています。<<
それは、ありがたいことですね。
私も全文アップできるように用意はしていましたが、その一部ずつしか掲示はしていませんでした。
>>以前のweb誌友会で「七つの燈台の点燈者」と「生長の家大神」「住吉大神」との関係を、ユタカ(なせば成る我ハ神の子)さまや復興Gさまや他の投稿者のみなさまが話合われていたのを思い出し、・・・<<
ありがとうございます。
私も、その「トーキングスティック板」と、第1回WEB誌友会が開催された当時の「部室板」を読み返してみて、よく書かれているなと、感心しています(笑)。
ユタカ様が、『生命の實相』第1巻巻頭になぜキリスト教の「黙示録」が出てくるのか? またその「七つの燈台の点燈者」は住吉大神であると言われるわけは? といった質問を出され、それにお答えしたものでした。
私は、「光明掲示板」に書かれている中村晃生氏の「マサノブ教批判」シリーズに、「ご神像」のことも出てきましたので、最初から全文をダウンロード、プリントアウトして読み、それに対し同意できるところと反論すべきところを書いてみようとしていました。
そのことにも関連しますので、まずは、前記の<七つの燈台の点燈者 即 住吉大神>ということについての投稿文を、再録させて頂きましょう。
まず、ユタカ様のご質問です。
○
[質問]:『生命の實相』第1巻巻頭に
<我振り反(かえ)りて我に語る声を見んとし、振り反り見れば七つの金の燈台あり。また燈台の間に人の子のごときものありて足まで垂るる衣を着、胸に金の帯を束ね、その頭(かしら)と頭髪(かみのけ)とは白き毛のごとく雪のごとく白く、その目は炎の如く、その足は炉にて焼きたる輝ける真鍮のごとく、その声は衆(おお)くの水のごとし。その右の手に七つの星を持ちその口より両刃(もろは)の利(と)き剣(つるぎ)いで、その顔は烈(はげ)しく照る日のごとし。我これを見しとき其の足下に倒れて死にたる者の如くなれり。
彼その右の手を我におきて言い給う。「懼(おそ)るな、我は最先(いやさき)なり最後(いやはて)なり活けるものなり。われかつて死にたりしが、視よ世々限りなく生く。また死と陰府(よみ)との鍵をもてり。されば汝が見しことと今あること、後に成らんとする事を録(しる)せ。すなわち汝が見しところの我が右の手のある七つの星と七つの金の燈台との奥義なり。七つの星は七つの教会の使いにして、七つの燈台は七つの教会なり。(黙示録第1章、12節―20節)>
とありますが、生長の家は神道なのに、なぜ聖書が一番先に書かれているのでしょうか? これを質問したいです。
○
というご質問でした。
724
:
復興G
:2013/04/21(日) 14:46:02 ID:AB6RqYXc
>>723
のつづきです。
[回答]
『生命の實相』第1巻の冒頭に『黙示録』が引用されているのは、生長の家の大神は「七つの燈台の点燈者」すなわち『(ヨハネの)黙示録』に記されいる、永遠のキリストであるからであります。それは、次のページに「『七つの燈台の点燈者』の神示」として「大調和の神示」が掲げられておりますが、その「七つの燈台の点燈者」とは何者であるかを明らかにするため、その前に掲載されているのであります。
「大調和の神示」に、
「われ嘗て神の祭壇の前に供物を献ぐるとき、先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である」
という言葉がありますが、これは新約聖書「マタイ伝」第5章23節〜26節にある、イエス・キリストの言葉を指しています。すなわち――
●「汝もし供物を祭壇にささぐる時、そこにて兄弟に怨まるる事あるを思い出さば、供物を祭壇の前に遺しおき、先ず往きて、その兄弟と和睦し、然るのち来りて、供物をささげよ。汝を訴うる者とともに途(みち)に在るうちに、早く和解せよ。恐らくは、訴うる者なんじを審判人(さばきびと)にわたし、遂になんじは獄に入れられん。誠に、なんじに告ぐ、一厘も残りなく償わずば、其処をいづること能わじ」
と、イエスは言っているのであります。
ですから、「大調和の神示」の「われ」とは、嘗てイエス・キリストとしてあらわれ教えを説いた者であるわけです。その「久遠のキリスト」が、生長の家大神であるということであります。
このことは、『神ひとに語り給う』(神示講義「教」の巻)の中の「新天新地の神示」ご講義(p.39〜98)および「完成(ななつ)の燈台の神示」ご講義(p.232〜242)に書かれております。
(それは、この板の
>>662
・
>>663
・
>>664
に謹写掲示されています)
黙示録の「われ」というのはヨハネ伝及び黙示録の筆者であり、イエスキリストの弟子の使徒ヨハネのことであります。ところで、ヨハネに現れて黙示(啓示)を授けた永遠のキリストなる七つの燈台の点燈者が、なぜ住吉大神であるのか、ということであります。それは――
現象界のすべてのものは、四次元時空間の中に、相対的に展開されたものであります。四次元時空間と申しますのは、タテ・ヨコ・厚みの三方向のひろがりをもつ場が三次元空間であり、それにもう一つ時間という別次元のひろがりを加えた、生命表現の舞台が四次元時空間であります。ここに表現展開されたものはすべて相対的に現れており、そして、始めがあり終わりがあります。誕生した時・場所があって、死滅する時・場所があります。個別人間には皆誕生日があって、死ぬ時が来ます。
しかし、実は、この現象界は、四次元時空間というスクリーンに映し出された映画のようなものであります。その中に肉体をもってこの世に誕生したわれわれは、その四次元時空間というスクリーンに映し出された映画なる現象という世界で、その映画を見るための、五官という感覚器官を備えておりまして、その映画は仮のすがた、映像(かげ)であるにもかかわらず、影とは思わず、本物だと信じております。したがって生命は時空間の中に誕生しやがて死滅するものだと思っております。
しかし、あにはからんや、実は、映画を映しているスクリーンなる四次元時空間そのものをも創り出したのが、生命なのであります。すなわち生命は時空間の中に誕生したのではなく、時空間というスクリーンを作り肉体という表現身をもその中に現しだした主人公なのであります。それが、現象以前の、現象を超えた真理なのであります。
そのことを「永遠の真理」と申すことにいたしましょう。
この「永遠の真理」を自覚し、自由自在な生命(たましい)の解放を得たのが、釈迦でありキリストであり、天才的な哲人、宗教家、高僧などであったのであります。
また、わが日本人の祖先は、直感的にこの真理を自覚し、それを神話物語の形で伝承してきたのであります。それを、奈良時代天武天皇の命で、語り部の稗田阿礼という天才的な記憶力の持ち主が口述し太安萬侶が書き記して、712年(和銅5年)推古天皇に献上したとされているのが、日本古典の「古事記」であります。
<つづく>
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